遥か、高い空の上にいては、少し下を神と呼ばれる者が通りかかった。我は彼の者に、ヴァルナに己の主な罪を尋ねた水夫のような謙遜で問う。 「私の人生に意味はあるのですか?」 すると、神はこう答えた。 「人と神とは異なる道を歩く。それ故に……」 この先をいつも思い出せない。神はあの後、なんて言ったのか? きっと、それを思い出すことは赦されないことなのだろう。だから私は無知蒙昧の牢に囚われながら、生きる歓びを噛みしめるのかもしれない。
疲弊した脳は病的なまでに美しく、それでいて世界は凪いだ渚のように穏やかに映り、遠くからは歓喜に満ち溢れた音楽が聴こえてくるのです。私も神や仏となって、輪を去ることを受け入れました。ですが、まだ早かったみたいでした。ニーチェですら、45年の歳月を要したのですから。そんな至高体験の幕引きには、最高の人生が必要なのでしょうか。忘我のままに生きるのがこんなにも優しく心地よくても、いつまでも死に浸っていては、生きてはいけないみたいでした。ですから、私は全ての罪や欲を受け入れたのです。柔さも弱さも、時には愛となることもあります。永いお別れは、こうしてアフターストーリーとなったのでした。
縁ある者とは必ずまた逢う理を知れ…………泣いたのは、8月の某日。 晴れたのは、1月のこと。 3月に孵化した思い等も、 9の終末、眠ってしまえ
とても美しい夢を見た。 シューベルトと歓喜の歌を、その甘美なる響きを感じる夢 私は泣いた。だから、私は……
あなたたちは何者なのでしょうか。何のために死に、何のために生まれたのですか。いいでしょう。私がその答えを教えてあげます……………………それはそれとして、あなたは思案の果てに何を見ましたか。よければお聞かせ願いたい。
私には詩人、思想家、哲学者を自称する知人がいてね。彼女は或る時、時の皇帝アルシオンに次のような手紙を送ったんだ。