GIRL FRIEND
今勉強しないと一生後悔するよ。
大人はそう言っておどかすけれど、高校生のぼくたちには勉強より大切なことがある。
たとえば恋愛だ。
ぼくには恋人はおろか、好きな人さえいないから、こんなことを言っても信じてもらえないかもしれない。それでも恋愛が大切だってことは、ちょっとまわりを見てみればすぐにわかる。だってみんな、恋愛に悩んでいる。好きだの嫌いだの大騒ぎして、勉強なんて手につかないとため息をついている。
そう考えると、誘惑の多い高校時代に、人生で一番勉強しなきゃいけないこの設定は、よくできたゲームバランスだと思う。
みんな、このゲームに翻弄されている。
*
二月の終わり。学校の帰り。
アーケードにあるハンバーガーショップの二階からは、通りの様子がよく見てとれた。
いつもより制服姿を見かけるのは、定期試験前で部活動が禁止されているからだろう。みんな学校から追いだされて、そのままおとなしく帰るなり、塾に行くなり、向こう見ずに遊ぶなりしている。
じゃあぼくは?
ぼくはハンバーガーショップの四人用のテーブル席に座っていた。
もちろん、ひとりで四人席をつかうほど常識知らずなわけじゃない。
ぼくの正面の席では、クラスメイトのあけみが勉強をしていた。
あけみは片手で問題集を軽くおさえながら、シャープペンシルをルーズリーフに走らせていた。集中しているんだろう。ぼくが勉強するのをやめて、窓の外を眺めたり、携帯電話をさわったりしていることには気づいていない。
不意に、シャープペンシルの動きが止まる。
ぼくはいったんあけみから視線をはずしてから、今初めて気がついたみたいに、また視線を戻した。
あけみが顔を上げたのは、ちょうどそのときだった。
派手な化粧が必要ない、目鼻のはっきりとした大人びた顔だち。長いまつ毛が二度またたいて、黒い瞳が、照明を映してきらめいた。そのまぶしさに弾かれて、高い鼻筋をなぞっていくと、うすいピンク色をした口唇のふくらみにたどりつく。
その口唇と口唇の隙間を、同じ色した舌先がすっとすべっていった。
「どうかした?」
あけみが問う。
ぼくは首を横にふった。
「べつに、どうもしない」
「ふうん」
あけみは隣の椅子に置いていた鞄からリップスティックを取りだすと、顔をそむけて、口唇にあてがった。細められた二重のまぶた、高い鼻ととがらせた口唇が、これ以上ない完璧な輪郭を描いていた。
「順調?」
今度はぼくが問うた。
あけみはリップスティックをしまいながら、ルーズリーフに目をやる。
「うーん、順調、ではないかな」
そして体を左右にゆらして座りなおしてから、困ったような笑みを浮かべた。
「ちょっと、わかんなくなったかも」
ぼくはあけみが解いている問題に目をやり、それからルーズリーフに書かれている数式を見やった。筆圧の弱い、うすい文字で書かれたそれらをたどっていくと、彼女が何につまずいているのか、すぐにわかった。
「こういうのは、図にしたらわかるよ」
ぼくはまだつかっていないルーズリーフを取りだし、問題内容を図示していく。
指先にあけみの視線を感じた。
それはとても気分のいいことだった。
だけど、
「あー、わかった」
あけみはそうつぶやくと、消しゴムで今まで書いていた数式を消して、リセットされたスペースに、またシャープペンシルを走らせていった。
ぼくはあけみが正解へと向かい始めるのを見届けてから、用済みになった紙を脇に追いやり、テーブルの端に置いていたオレンジジュースを口に運んだ。
もう長いこと放置されたそれは、氷が全部とけてしまっていて、果汁百パーセントとは思えないうすさだった。
*
ぼくはあけみの先生だ。
元はただのクラスメイト。顔は知っている。ただ属しているグループが違うから話したことはない。どういうやつなのかもよく知らない。
少なくとも、あけみにとってぼくは、そういう存在だったに違いない。
だけど去年の秋、定期試験を一週間後にひかえた放課後、ぼくはあけみに話しかけられた。
「あのさ、頼みがあるんだけど」
日直を替わってほしいとか、そういう話だろう。
そんなぼくの予想はすぐにくつがえされた。
「勉強、教えてほしいんだ」
*
今日もぼくは、あけみの先生という役目をきっちりとこなしてみせた。
とは言うものの、あけみの飲みこみが早いせいで、教える回数は日に日に少なくなってきていた。はたしてぼくがこの場にいる意味はあるのだろうか。そんな疑問が浮かばないでもないが、あえて口にする気にはならなかった。
ハンバーガーショップを出たのは、午後七時を過ぎたころだった。
ぼくとあけみは、アーケードの下を言葉少なに歩いていく。冷たい風が吹いていた。ハンバーガーショップの暖房がききすぎていたせいで、最初は心地よく感じたけれど、すぐに耐えられなくなった。
だから、少し早足で人ごみをすり抜ける。
何よりあけみには、急がなければならない理由があった。
「うーん、どうしようかな」
さっきからあけみは、しきりに腕時計を気にしていた。
「そんなに心配なら、念のため連絡したらいいんじゃない?」
「でも、そういうふうに必死になるのも、なんだか癪でしょ?」
そう言って口をとがらせるあけみは、いつもの大人びた彼女とは違っていた。
アーケードを抜け、地下鉄へ通じる階段を早足で下りていく。待ち合わせの人たちがたたずむ広場を過ぎて、改札を抜ける。もたついたあけみの背中にぶつかりそうになるのを、ぎりぎりで踏みとどまる。鼻先をあけみの髪がかすめた。甘いにおいがした。
電光掲示板に表示された発車時刻に、隣のアナログ時計が追いついて、プラットフォームに通じる階段から、風のうねりと、電車のブレーキ音が聞こえてきた。
あけみが振りかえりながら、ぼくに手を振る。
「今日もありがとう! また明日!」
ぼくも手を振りかえすが、あけみはすでに背を向けていて、あっという間にプラットフォームへと消えてしまう。
そして入れ違いに、階段からたくさんの人があふれた。
急ぐ理由をなくしたぼくは、その場に立ち止まっていたけれど、人波に追われ、端に追いやられ、最後は壁にはめこまれたどこかの病院の看板にもたれかかった。
熱くなっていた体が、二月の空気に冷やされていくのがわかった。
*
ぼくはあけみの先生だ。
定期試験が近づくと、ぼくとあけみはハンバーガーショップで勉強をする。
それだけじゃない。
勉強に疲れたときにはいろいろな話をした。学校の友だちには話さないようなことまで、あけみには話すことができた。それはあけみも同じだったみたいだ。彼女は自分の話をしたあとで、口唇の前に人差し指を立ててから、いたずらっぽい笑みを浮かべてこう言った。
「これ、学校のみんなには秘密にしておいて」
それは、あけみに大学生の恋人がいることを聞いたときも同じだった。
*
家に帰って晩ごはんを食べたあと、ぼくはいつものようにテレビゲームに興じていた。十時になったら勉強する予定だったけれど、その日は気が乗らずにだらだらと遊びつづけてしまい、もう十一時近くになっていた。
姉が仕事から帰ってきたのはそのときだった。
「まーた、ゲームしてる」
姉は居間に入ってくるなり、あきれた口調で言った。
「もうやめるよ」
予定を繰り下げていることに罪悪感があったから、それ以上は口答えしなかった。
ゲームも行きづまっていた。
どうせ今のレベルじゃ、これ以上先には進めない。
自分の部屋に戻るべく、リビングを出ようとしたところで、視線を感じて振りかえると、冷蔵庫から缶ビールを取りだした姉が、不思議そうな顔でぼくを見ていた。
「どうかした?」
姉は大きな目をことさら丸くしてぼくを見た。
「いや、今日はやたら素直だなあって、思って」
「そういう日もあるよ。姉ちゃんも、ビール飲む前にコートぐらい脱ぎなよ」
ぼくは自分の部屋に戻ると、机に向かい、置きっぱなしにしていた鞄から勉強道具を取りだした。ノートを広げ、問題集を開き、シャープペンシルを手に取る。
だけどぼくが考えたのは、数学の問題のことじゃなくて、あけみのことだった。
あけみはあのあと、大学生の恋人に会ったに違いない。恋人に見せるあけみの表情は、学校にいるときとも、ハンバーガーショップにいるときとも違う、ぼくが知らないものなんだろう。
胸が痛んだりはしなかった。
ぼくはあけみに恋してるわけじゃない。
ただ、少し勉強に集中できない。
それだけだった。
*
定期試験が終わり、春休みも終わり、ぼくとあけみは進級して三年生になった。
高校三年といえばイベントはひとつしかない。
受験だ。
代わり映えのしないクラス替えを終え、落ちつかない気分のまま受けた進路面談の末、とりあえずの志望校が決まって、ぼくたちは否応なしに受験の流れに飲みこまれていった。
友だちはみんな憂鬱そうな顔をしていたけれど、少なくともぼくにとっては気が滅入ることだけではなかった。
*
「どうして勉強なんてしなきゃいけなんだろう」
ぼくとあけみはいつものようにハンバーガーショップで勉強をしていた。ひとつ違うのは、今は定期試験前じゃないということ。高校三年生になったぼくとあけみは、来年の大学受験のために今から勉強しないといけない。
勉強嫌いのあけみには悲劇だろう。
じゃあぼくは?
「今勉強しないと後悔するって、うちの姉ちゃんも言ってたよ」
ぼくは口をとがらせるあけみをなだめた。
「そっか。あんたってお姉さんがいるんだっけ?」
「八つ上のね」
「ふーん、結構離れてるんだ」
あけみは頬杖をつくと、空いているほうの指先でシャープペンシルをもてあそびながら、重いため息をついた。
「後悔するって言われても、だからって毎日勉強ってのは」
「まあまあ。がんばろうよ」
言いながら、自分の声が明るくなりすぎないように注意した。定期試験前じゃなくてもあけみと過ごすことができるから、ぼくには受験勉強も悪くはないのだった。
かと言って、それをあけみに知られるのははばかられる。
話題を変えるべく、ぼくはあけみに問うた。
「そういえば、彼氏はどこの大学なんだっけ?」
あとから考えると、どうしてそんなことを聞けたのか不思議でならない。
案の定、あけみの指先からはシャープペンシルがすべり落ち、軽い音を立ててテーブルの上をはねた。あけみは頬杖をついたまま、目だけをちらりとぼくに向けると、またシャープペンシルに視線を戻し、眉根を寄せながらそれをまたもてあそび始めた。
「んーと、どこだったっけなあ」
と、最初ははぐらかしながらも、結局あけみはある大学の名前を挙げた。そこはぼくの住んでいる地方で一番偏差値の高い大学だった。全国的に見てもトップレベルで、ぼくの成績では手が届かないところにあった。
「すごいじゃん」
「すごくないわよ、あんなやつ」
あけみが鋭い口調で切り捨てる。そして身を起こすと、髪の毛を耳にかけ、体を左右にゆらして座りなおした。
「で、そういうあんたは、どこ狙ってるの?」
問われるがまま、ぼくはいくつかの大学の名前を挙げた。
「ふーん」
あけみはコーラのカップを手に取る。
「こっちの大学は受けないんだ?」
ぼくが受けようとしているのは、すべり止めもふくめて、地元の大学じゃなかった。余程のことがないかぎり、ぼくは来年上京することが決まっていた。
べつに上京したかったわけではなく、自分のレベルから狙えるそこそこの大学を選んでいったら、自然とそうなったというだけだった。
「うーん、たぶん受けない」
「そっか」
あけみはぼくの答えにまた気のない相槌を打つと、視線を窓の外へと逃がした。
「じゃあ、来年から寂しくなるね」
*
ぼくがいなくなっても、あけみは寂しくなんかないだろう。学校ではたくさんの友だちに囲まれて、楽しそうに話しているのをよく見かける。
何より、あけみには恋人がいる。あけみの第一志望は地元の大学で、この街から離れる予定はないみたいだから、これからも今の恋を育んでいくに違いない。
だから、あけみは寂しくなんかない。
ぼくはシャープペンシルを勉強机に放りだして、椅子の背もたれに体を預けた。椅子をきしませながら、電気スタンドの灯りに照らされた自分の部屋をぐるりと見わたす。壁掛け時計に目をやると、いつの間にか日付が変わっていた。
問題集を見やる。
全然進んでいない。
今日もやっぱり集中できなかった。
勢いよく問題集を閉じた手は、そのまま無意識に携帯電話に伸びていた。着信音なんて鳴ってないのに、さっきも確認したばかりなのに、なぜかその行為は止められなかった。
携帯電話のディスプレイには案の定、味も素っ気もないデジタル時計だけが表示されていた。
ため息がこぼれた。
馬鹿みたいだ。
あけみには、彼氏がいるってのに。
*
夏が近づいていた。
ぼくとあけみはまたいつものようにハンバーガーショップで勉強をしていた。
最近の模試の結果を見ると、あけみの成績はぐんぐん伸びてきていた。ぼくもうかうかしてられないと、勉強しようと努めているのだけど、集中できない病気は悪化するばかりで、偏差値は以前より落ちてしまっていた。
「みんなどこで勉強してるんだろうね」
休憩中の雑談で、あけみが言った。
「塾とか行ってんじゃないかな。あと、図書室とか」
「図書室か。私はダメだな。絶対に本読んじゃう」
あけみは笑いながらコーラを手に取り、口に運んだ。赤いストローが、うすいピンク色をした口唇に乗り、その表面をたわませる。口唇の向こうに覗いた白い前歯が、ストローを少しだけ噛んでいるのが見えた。
その様に目を奪われていると、あけみが脚を組みかえた拍子に、彼女の長い脚が、テーブルの下でぼくのすねに触れた。途端、短いスカートのすそから伸びたあけみの白い脚のイメージが、頭の中にひらめいた。
ぼくはイメージを追いはらうべく、無理やりに口を開いた。
「そういえば、最近は何を読んでるの?」
ぼくの問いかけに、待ってましたとばかりにあけみが笑みを浮かべる。
「海外のミステリなんだけどね、これが面白いんだって。あのね」
あけみはこう見えて読書家なのだ。しかもミステリやサスペンスが好きで、それがぼくとの共通点でもあり、仲良くなれた理由のひとつでもあった。
あけみが読んでいる本は、近々公開される映画の原作小説で、もともと興味はなかったものの、いろいろなところで宣伝を目にするものだから、そこまで言うなら読んでみようと手に取ったらしい。そして、それが当たりだったというわけだ。
「映像にしても見栄えがいいと思うんだ。そう思わない?」
「たしかにね。ちょっと読みたくなってきた」
ぼくがそう言うと、あけみは満足そうに微笑んでから、カップをテーブルの端に置いた。そして参考書を手もとに引きよせ、パラパラとページをめくり始める。内容には目もくれず、ただ指先で紙の感触を確かめているだけ。視線は窓の外へと向けられていた。
ぼくはページをめくるあけみの指先を見つめていた。
細くなめらかな指。
もちろん触れたことはない。
不意に、試してみたくなった。
今ここであけみの手を取ったらどうなるのか。
きっと驚かれて、そのあとは。
笑われるのか、怒られるのか。
もう会えなくなるのか。
「塾も無理だな、私には」
あけみがぽつりとつぶやいた。
「どうして?」
我に返ったぼくが問うと、あけみの横顔が苦い表情を浮かべた。
「多少はばらけてるんだろうけどさ、学校のみんなもいるわけじゃん」
「そりゃ、まあね」
そんなに大きな街ではない。塾の数なんて知れている。そこはもうひとつの学校みたいになっているだろう。近くの大きな街に行くという選択肢もあるが、塾のためだけに移動するのは、余程メリットがないかぎり割に合わない。
「他の学校の人もいるわけでしょ? みんなはそういう子とも仲良くなっちゃってて、そしたらこっちも話さないわけにはいかないじゃない。絶対に面倒くさそう。お金だってかかるし、いいことないよ」
「でも、やっぱり受験専門の先生に教えてもらえるのは、いいと思うけどな。行ってるやつらの成績も上がってるみたいだし」
「無理なの」
あけみはぼくに向き直ると、いつもより鋭い口調で言った。
ぼくが驚いて言葉をなくしていると、あけみは言い方がきつくなってしまったことを気にしたのか、再び視線を窓の外へと逃がした。気づけば外は暗くなっていて、もうそろそろ帰る時間だった。
ぼくはあけみの横顔を見つめていた。
派手な化粧が必要ない、目鼻のはっきりとした顔だち。ぼくが知っているどの女の子よりも大人びているのに、どこか幼さを感じさせる、不思議な女の子。何を考えているのかわからない、猫みたいな目で見つめたかと思うと、子犬みたいに人懐っこく笑う。
あけみは視線をぼくに戻した。さっきのことをもうリセットできたのか、その表情に気まずさは欠片もなかった。むしろあけみは笑っていた。童話の中のお姫さまみたいな屈託のなさで。
あけみは笑顔のまま頬杖をつくと、少しだけ首を傾けた。
「それにさ」
つややかな髪がゆれて、表面を光が流れていく。だけどそれ以上に、そんなこともずっと遠くに感じられるほどに、ぼくは、ぼくを見つめる彼女の瞳に飲まれそうになった。
「私には、あんたがいるしね」
ぼくは心の中だけでつぶやいた。
上目遣いは反則だ、と。
*
その日もあけみは急いでいた。
ぼくとあけみは、アーケードの下を言葉少なに歩いていく。
さっきからあけみは、しきりに腕時計を気にしていた。
もし約束に間に合わなかったら、喧嘩になったりするんだろうか。
そうなればいいのに。
アーケードを抜け、地下鉄に通じる階段を早足で下りていく。待ち合わせの人たちがたたずむ広場を過ぎて、改札を抜ける。電光掲示板を見やると、あけみの乗る電車の発車時刻は二分先だった。
「よかった!」
あけみは速度を落とし、振りかえってぼくに笑いかけた。だけどぼくはその喜びを共有できなかったから、口もとを上げるに留めた。
あけみはぼくの様子がいつもと違うことに気づいたのか、笑みを引っこめてこちらを見た。身長はそれほど変わらない。水平な視線の先にあけみはいて、ぼくが何か言うのを待っていた。
「受験生なんだからさ」
ぼくは口もとを上げたままでいるように努めた。
「家に帰って、勉強したほうがいいんじゃない?」
あけみは腑に落ちたのか、肩をすくめると、同じように口もとだけで笑った。あけみの笑みは、どうしてそう感じたのかわからないけれど、どこか疲れているように見えた。
「そうだよね。わかってはいるんだけど」
「まあ、いいんだけど」
ぼくはあけみの真似をして肩をすくめる。
「あけみの問題だし、ぼくが口を出すことじゃない」
「ううん、心配してくれてるのは知ってるよ。ありがとう」
そう言って、今度はいつもどおり笑う。ぼくはそんなあけみに腕時計を指差してやった。ぼくの伝えんとしていることに気がついて、あけみははっとした表情を浮かべると、手を振りながら、プラットフォームへと駆けていった。
「また明日!」
ぼくは手を振りかえしながら、あけみの後ろ姿を見送った。
*
「これなーんだ?」
その日の夜、リビングのソファでくつろいでいたぼくの視界を、二枚の映画のチケットがふさいだ。ぼくはしばらくうーんと唸ってから答えた。
「お姉ちゃん」
「それは『だーれだ?』っていう質問だったら正解だったんだけどね。まさかそう来るとは思わなかったわ。ちょっと焦っちゃった。十回クイズと同じような間違え方ね」
「十回クイズ?」
「ピザって十回言わせたあとに『ここは?』って指差して聞いて、勘違いを誘発するやつよ」
「そこ、膝であってるよ?」
「あれ? 膝じゃなかったっけ? あれ?」
「それで映画のチケットがどうしたの? くれるの?」
「いみじくもね!」
ぼくは姉から映画のチケットを受けとる。
ポスターのデザインを踏襲した、血の色がふんだんにつかわれたそのチケットを見て、どうして姉がこのチケットをくれたのかを理解した。
「そっか。姉ちゃん、痛いのだめだもんね」
「感受性豊かだからね。まあいらないってんなら他の人をあたるけど。ちなみに行きたいけど行く相手がいないってんなら、しかたないから私がいっしょに行ってあげてもいいわ。行った先でずっと目をつむっててもよいんならね」
「いや、誘う相手ならいるから大丈夫。ありがとう」
「えっ」
そのまま固まってしまった姉を置いて、ぼくは部屋に戻った。ノートが開かれたままの勉強机の前に座り、映画のチケットを見やる。
それは、あけみが話していた小説が原作の映画だった。
封切は今週の土曜日。模試の予定がなかったことを確認してから、携帯電話を取りだして、メッセージを作成する。
宛先はあけみ。
文面はこうだった。
「今週の土曜空いてる? 映画のタダ券が手に入ったんだけど行かない?」
すぐに返信があった。
「行く」
何時の回にするか、待ち合わせはどこにするか、決めなければいけないことはたくさんあったけれど、よく考えたら明日も勉強をする約束をしていたから、そのとき決めればいいということに気がついた。
だから「じゃあ、詳細は明日」と返すだけに留めた。
しばらくして着信音が鳴ったけれど、携帯電話を手に取ることはなかった。だいたい内容が予想できたからだ。「了解。また明日。おやすみ」きっとそんなところだろう。だから放置。
だって、今は忙しい。
今夜はいつもと違って、勉強に集中できたのだ。
*
その日はすぐにやってきた。
いつもは別れる駅の、改札前の広場。円い柱にもたれかかりながら、ぼくはあけみが現れるのを待っていた。ふと視線を上げると、地上へとつづく吹き抜けから光が射していた。昨日も一昨日もぐずついた天気で、明日も明後日も雨の予報だったのに、今日だけはどういうわけか、晴れた。気温も三十度を超えるらしい。もうほとんど夏だった。
あけみは約束の時間の少し前に現れた。私服姿を見るのは初めてだったから、どんなだろうといろいろ想像したけれど、答えはそれ以上のものだった。
あけみは上品な白色をした、オフショルダーのトップスを着ていた。制服のときにはわからない鎖骨、華奢な肩までがあらわになっている。顔や首筋から想像はしていたけれど、いつもは目にすることのない白い肌が妙に意識されて、真っ直ぐ見ることが躊躇われた。
トップスはゆとりがある型らしく、広がったすそからはデニムのショートパンツが覗いていた。足元は茶色い革のサンダルで、つまり太腿から爪先まで、おおよそ脚と呼ばれる部分をすべてさらしていた。そのさらされた脚は歪みなく、雑誌で見かける女の子みたいだった。
とまどうぼくの表情を読み違えたらしい。
「あれ? ちょうどだよね? 待った?」
と、あけみは腕時計を確認しようとする。
ぼくは我に返り、それを手で制した。
「いや、間に合ってるから大丈夫だよ。それに、ぼくも今来たところだし」
あわてて言ってから驚いた。まさかドラマでしか聞いたことがないような台詞を、自分が口にすることになるなんて。
「よかった。じゃあ行こう」
あけみが笑いかける。ぼくはどうにかうなずいて、あけみと並んで歩きだした。歩きながら、Tシャツにジーンズという自分の姿、特に、つまさきがうっすら汚れたスニーカーを見下ろして、あけみの隣にいることが恥ずかしくなった。
「どうかした?」
あけみが首を傾げる。
ぼくは目を伏せて、頭をふった。
「なんでもないよ。で、まずはどこに行くかだけど」
誘ったのは映画だったが、受験勉強の息抜きがてら遊びにいこうという話になっていた。かといって何をして遊ぶのが正解なんだろう。
カラオケ? ボウリング? ゲームセンター?
どれも違う気がしたし、どれもぼくは好きじゃなかった。
そして、それはきっと、あけみも同じだろう。
もうそこそこ長い付き合いだ。ぼくもある程度、あけみの好みがわかるようになっていた。
「とりあえず、本屋にでも行って涼もうか?」
「賛成!」
ぼくの提案にあけみが子供のように手を挙げる。
その姿に、ぼくは思わず笑顔になっていた。
地下鉄の階段を抜けると、夏の陽射しがぼくとあけみを迎えた。
映画まであと三時間。本屋だけでは埋められないだろう。じゃあ本屋の次はどこに行くのか考えておかないと。そういうことを考えるのは、不安もあるけれど、思っていた以上に楽しいものだった。
気を抜けば、勘違いしそうなほど。
*
それからはあっという間だった。
本屋に着いて、互いに好きな小説や作家について話しながら、誰もいない本棚のあいだを歩いた。話は尽きなかった。それは歩き疲れて、本屋に併設した喫茶店に入ってからも変わらなかった。
喫茶店でふたりして喉をうるおしていると、今日のあけみの服装に合う帽子はなんだろうという話になった。帽子といえば以前、姉につれていかれた帽子屋を知っていたから、案内することにした。
案内した帽子屋は、ぼくの目から見ても洒落ていて、品ぞろえも豊富だったから、あけみはとても喜んだ。ふたりで互いに帽子を選び、かぶって見せたりして、それだけで楽しかった。ぼくもいつになくはしゃいでしまった。あとから思うと恥ずかしいけれど、そうしているあいだはそんなこと、ひとつも気にならなかった。
あけみはぼくが選んだつばのせまいストローハットを気にいってくれたみたいで、結局そのままレジに持っていった。あけみはその場でタグを切ってもらうと、かぶって振りかえってみせた。帽子の下のあけみは、今日一番の笑顔だった。
ぼくとあけみは、蒸し暑いアーケードの下をはしゃぎながら歩いていく。気づけば映画の上映時間が迫っていた。だから少し早足で人ごみをすり抜ける。サンダルを履いたあけみは歩きづらそうで、何度か離れそうになったけれど、そのたびにぼくは立ち止まって、あけみが追いつくのを待った。
映画館に着いたときにはもう上映開始時間を過ぎてしまっていた。ぼくとあけみは人気のない廊下を抜け、扉の前の係員にチケットを見せて、暗い劇場の中へと入っていった。幸いにしてまだ本編は始まっておらず、スクリーンにはもうすぐ公開される映画の予告編が流れていた。
すでに席についている人に小声で謝りながら進んで、ようやく自分たちの席へとたどりつく。柔らかい椅子に腰をおろしてから、スクリーンに浮かぶシルエットの中で、ぼくとあけみは思わず顔を見合わせて笑った。
*
映画は期待どおりの出来だった。
エンドロールが流れ終わり、劇場の中が明るくなってから、ぼくとあけみはふたりそろって伸びをした。そしてまた、顔を見合わせて笑った。面白かったねなんて、わざわざ口に出して言うのも抵抗があるから、互いにうなずきあうだけ。だけどそのほうが特別なことのように思えた。
映画が終わって間もない廊下は、帰りの客で混雑していた。視界に入る客のほとんどは、恋人同士と思われる二人組で、ぼくの心はこの期におよんでざわついた。
「あれ、どうしたんだろう?」
映画館の出口のほうを指差して、あけみが言った。見ると、出口に人だかりができていた。ロビーもやけに騒がしい。近づくにつれて、その答えは明らかになった。雨だった。梅雨のそれとは違う、夏の夕立ちのような激しい雨が降っていた。
ぼくとあけみはロビーから外の様子をうかがってみた。空を覆う雲は分厚く、ちょっとやそっとじゃ動かせないような質量を感じさせた。客のほとんどが出るに出られず、ロビーや外の軒先で雨のゆくえを見守っていた。ある勇敢な人たちは、覚悟を決めて駆けだしていった。
その後ろ姿を見送りながら、ぼくは言った。
「ちょっと待ってみよう」
言いながら、こんな平凡なことしか言えない自分にひどく腹が立った。
「止まなかったら、しょうがない」
あけみはそうだねとつぶやいてから、今日買ったばかりの帽子のつばにふれた。
それからぼくとあけみは何も話さず、黙ったままでいた。黙っているあいだはなぜか、他の客の話し声も遠ざかって、雨の音だけがやけに大きく聞こえた。
*
結局、ぼくとあけみは濡れるのを覚悟して、映画館を飛びだした。
しばらく走ってから、アーケードの下に逃げこむ。時間にして十数秒のことだったけれど、それだけで服はずぶ濡れになっていて、体に張りついたTシャツが気持ち悪かった。あけみも同じような有様で、特に、買ったばかりの帽子は、濡れて色が変わってしまっていた。
ぼくとあけみは、アーケードの下を言葉少なに歩いていく。
制服を着ていないこと以外はいつもと同じだった。もう少し歩けば、地下鉄がぼくとあけみを待っている。
今日のあけみはこのあとどこかに行くのだろうか。
ぼくは隣を見やる。
あけみが腕時計を気にしている様子はない。
ぼくは今日の約束をしたときに考えていたことを思い出していた。気晴らしに遊んで映画を観る。表向きの予定はそれだけで、そのすべてを無事にこなしたけれど、ぼくの予定表にはまだ一行、残っていた。
いつもどおり地下鉄へつづく階段を下りて、いつもどおり改札へ向かっていく。改札前の広場には誰もいなかった。この時間、この場所に人がいないことは、長い通学生活でよく知っていた。
ぼくは歩く速度を落とそうとする。
だけどそれより早く、隣を歩くあけみが唐突に立ち止まった。
予想外の展開に内心動揺しながら、ぼくはあけみに合わせて足を止めた。
「今日はありがとね」
あけみはぼくを見て、にこりと笑った。
いつもと変わらないその台詞に、ぼくは少しだけ冷静さを取りもどした。
「気晴らしになった?」
「うん」
「よかった」
それは本心だった。
あけみは眉をしかめて伸びをした。
「あーあ、明日からまた勉強漬けだね」
このまま家に帰ったならばそうなるだろう。ぼくとあけみはハンバーガーショップで勉強をする。合間に、好きな作家や最近読んだ小説の話をする。あけみは楽しそうに笑い、ぼくはそれに相槌を打つだろう。
時間になれば、さっきみたいにアーケードの下を急いで歩いて、ぼくはあけみの後ろ姿を見送る。そして家に帰り、また勉強に集中できないまま夜を過ごす。それはぼくとあけみが受験を終えるまで変わらない。このまま家に帰ったならばそうなる。
ぼくは全部わかっていた。
このままだと何も変わらないこと。
ぼくは全部わかっていた。
「あのさ」
勇気が必要だったのは、その一言だけだった。
あけみは伸びをしていた腕をぱたんと下ろしてからぼくを見た。何も知らない子供みたいに首を傾げて、ぼくが何か言いだすのを待っていた。
「こんなところで言うことでもないんだけど」
ぼくはあけみを正面から見すえる。
「言わなきゃいけないことがあるんだ」
あれから何度も振りかえってみたけれど、ぼくが何を言おうとしたのか、あけみにはわかったと思う。こういうことにうといぼくにもそれは明らかだった。ましてやあけみはぼくより経験があるんだから、わからないはずがなかった。
だからだろう。
あけみの表情はどんどんこわばっていった。
「ごめん」
何かにおびえているように、必死に耐えているように見えた。
「実は、このあと用事があって、急いでるんだ」
*
ぼくとあけみは改札を抜けた。
あけみがプラットフォームへと消えていく後ろ姿を、ぼくは見送った。
それから携帯電話を取りだして、メッセージを作成した。
宛先はあけみ。
文面はこうだった。
「あけみのこと、ずっと好きだったんだ」
少し迷ってから、改行を二回。
「だから、これで終わり」
送信してから、携帯電話をしまう。
あけみがこれを読むのはいつだろう。ひょっとしたら、彼氏と連絡を取るときかもしれない。彼氏と連絡を取ろうとして、あのメッセージに気がついて、中身を読み終えたあと、あけみはどんな顔して彼氏と会うんだろう。
そんなことを考えながら、ぼくは自分のプラットフォームへとつづく階段を下りていった。
*
あけみからの返信はなかった。
*
あの日以来、あけみとは話していない。連絡も取っていない。ぼくの生活からあけみとハンバーガーショップで勉強する数時間が抜け落ちただけ。教室で顔を合わせることももちろんあったけれど、もともと学校では話さないようにしていたから、変わりはなかった。夏休みに入ると顔を合わせる機会もなくなったし、新学期になってからは、あけみにはぼくが見えなくなったみたいだった。
ぼくもあけみのことばかり気にしているわけにもいかなかった。毎日の勉強をこなすだけで精一杯。だけどそれが功を奏したのか、模試での順位はどんどん上がっていった。それが面白くて、ぼく自身、受験勉強にのめりこんでいった。
空調の効いた部屋で日々を過ごし、窓の向こうで、季節は静かに変わっていった。
夏が過ぎ、秋はつかの間で、冬が訪れ、その日はすぐそこまで近づいていた。
*
結局、ぼくは第一志望に合格することができた。
そこからはまたあわただしい日々で、入学手続きをしたり、一人暮らしをするべく部屋を探しに上京したり、もう少ししたら離ればなれになってしまう友だちと遊んだりして過ごした。
そんな中、人づてにあけみのその後を耳にした。
夏休みを過ぎたころから、あけみの成績はどんどん下がっていき、最初に掲げていた第一志望はおろか、その他のすべり止めにも手が届かなくなったらしい。結局、満足のいく結果は得られず、浪人することを選んだそうだ。
やっぱり、あけみはひとりだと勉強できなかったみたいだ。
かといって塾に行くのも、前に言っていたとおり、嫌だったんだろう。
だったら大学生の彼氏に教えてもらえばいいと思うところだが、昔、本人から話を聞いたかぎり、そういうことで頼れる雰囲気ではなかったそうだ。そしてそれは、最後まで変わらなかったんだろう。
全部、予想どおりだった。
*
三月の終わり。
ぼくは、地下鉄の駅のプラットフォームに立っていた。
上京するのだ。
電車を待つあいだ、ぼくはそこから見える景色を見わたしていた。この駅ともお別れだ。実感が湧かないのが正直なところだけれど、よく見ておこうと思った。きっとこの景色を懐かしむ日が来る。
そのとき、線路をはさんだ向かいのプラットフォームに、あけみの姿を見つけた。
地下鉄特有の風に吹かれて、前を開けた黒いスプリングコートのすそがゆれていた。コートの隙間から覗いている、丈の短いグレーのワンピースから伸びた白い脚はあいかわらず歪みなく、目に鮮やかな赤いスニーカーのつまさきが、静かにリズムを刻んでいた。
あけみの髪の毛は暗くなっていた。
卒業式のときは変わってなかったから、そのあと染めたんだろう。どうして暗くしたのか。何か思うところがあったのかもしれないし、髪の色にこだわりがあるという話は聞いたことがなかったから、ただの気まぐれなのかもしれない。
どちらにしたって、ぼくがその理由を知ることはない。
これからどこに向かうのかは知らないが、あけみはつまらなそうな表情を浮かべていた。うつむいて、黒いヘッドフォンに耳を預けていた。そういえばあけみと音楽の話をしたことはなかった。もし好きな音楽について尋ねたなら、小説のときと同じように、楽しそうに話をしてくれたのかもしれない。
もちろんそんな機会が今後、ぼくに訪れることはない。
あけみはぼくに気づいていない。もしあけみがボストンバックを提げたぼくの姿を見つけたならば、どんな顔をするだろう。
きっと驚かれて、そのあとは。
「じゃあ、来年から寂しくなるね」
いつかあけみがそう言ってくれたことを思い出した。そう言ってくれたときの横顔も思い出した。次から次へと、あけみと過ごしたいろいろな場面が浮かんだ。だけど、大切だったはずの思い出はすべて、ぼくの抱えた後ろめたさに縁どられて、呼びもどすほどに胸が苦しくなった。
そしてぼくはようやく気づいた。
ぼくの大切なものは永久に損なわれたのだ。
*
あけみは電車に乗って、どこかへと消えていった。
残されたぼくはその場からあとずさると、壁際に並んだベンチのひとつにすとんと腰をおろした。自分の空洞に気がついた途端、線路の向こうから吹きつける風をやけに冷たく感じた。春なのに、春じゃないみたいに。
ぼくは時計を確認してから、深いため息をついた。
もうすぐ電車がやって来る。
「しまったな」
新しい日々が始まる。
GIRL FRIEND