僕だけのヒロイン
僕だけのヒロイン
『空から少女は降ってこなかった』
僕は今日も一人で夕飯をつまむ。テレビでは作られた物語が淡々と綴られた。頭に靄がかかったように思考がはっきりとしない。きっと授業で扱ったジエチルエーテルのせいだ。
夕飯を終えたら、明日が期限のレポートを仕上げる。お湯を沸かして珈琲を淹れる。なるたけ激しい音楽をヘッドホンから頭に流し込む。ノートと教科書を手元にレポートを完成させる。求められているだろう考察を書き込む。メールに添付して提出。深夜二時過ぎ。少しでも寝ないと。
珈琲を飲み干して歯を磨く。ふと見渡すといつのまにか部屋が汚れていた。最後に掃除したのはいつだろう。年末に試験が集まっていて、休日がまともに取れない。放課後も課題を片すのに忙しくて、バイトも出来ないし遊びにもいけない。慣れてしまえば苦ではないのだけど、ふとした拍子に、今みたいに色々なものに閉じ込められているような気になる。それ以上考えないようにして電気を消す。
※
一限が行われる教室で授業の開始を待つ。隣にサークルの友人が座ってきた。名前は思い出せない。
「週末の試合は?」
「ごめん、行けない」
僕はひたすらに謝った。本音を言えば彼の試合を見に行くためだけに休日は潰せない。休日を潰せば、平日の睡眠がなくなる。一年の時の気まぐれで入った、レギュラーになれるはずもないテニスサークル。抜けるのもめんどうで毎年無駄な会費を払っている。
彼は肩をすくめて来週末の忘年会の話をし始めた。遮るように訪ねてみる。
「そういえば彼女は?」
「沢田?別れたよ」
事も無げに言って、彼は出会いがないんだよね出会いがと笑った。
「サークルの子はやっぱダメなの」
「当たり前じゃん、一女ならともかく。もう数年一緒にいて付き合わないってことは恋愛対象外ってことでしょ。そもそもこじれたらめんどくさいし」
彼に悪気はないのだろうけど、
「そういうお前は?」
問い返されて僕は困った。
「僕?」
彼は期待していないような顔だったけど実際、僕はそういう話を期待されるような容姿でもない。言ってしまえば、タイプが違う。僕はそういう人種じゃない。
「気になってる女の子とかいないの?」
「いないね」
「何で?」
やけに突っかかってくる。早く授業が始まって欲しい。教員は遅れているらしい。
「紹介しようか?好みとか?」
苦笑いで誤魔化そうとした僕の視界の隅に、『彼女』が写った。
「ん?」
僕の視線の先を追って彼が振り向く。彼女は気付いた様子もなく、文庫本の栞紐をいじっている。
「もしかしてあれが良いのか?」
彼の指摘は正しかった。僕は少し前から彼女が気になっていた。たぶん同じ学年の、別の学部の子。この授業だけ被ってるらしくて、他の授業で見たことはない。
初めて見た時から彼女は柳美里を読んでいる。女性的で自分の感性に深く踏み込まれるような文章を描く作家だ。毎週彼女は違う文庫を読んでいて、今日はゴールドラッシュだった。
「あれはやめとけよ」
「え?」
彼は半笑いのまま肩をすくめる。教授が教室に入ってきた。
「川口って言うらしいんだけど、ダンスサーで男と拗れたって」
「あぁ、そう」
授業が始まってしまったのでそれ以上のことは尋ねられなかった。
でも彼はどうしてそんな彼女の過去が、僕が彼女への興味を失う理由になると思ったんだろう。彼女がどんな人でも関係ない。誰と寝ようと関係ない。ただ気になるだけなんだ。
それだけなんだ、と言い聞かせるようにして。
※
帰り道。電車が来た。乗り込み、自宅へと動き出す列車の中で彼女を見かける。同じ方向に住んでいたらしい。朝の彼の言葉を思い出す。
『だけど彼女はゴールドラッシュを読んでいた』
それは僕も読んだことがあった。救いのない父親殺しの物語。僕はそのタイトルが彼女の手元に収まる日をずっと待っていた。本の内容について話しかける口実になるから。電車の窓の外側。空の片隅にだけ微かに夕陽の欠片が息づいてる。街灯が尾を残して一方通行に過ぎ去る。彼女の手の内側で、その物語は今日が終わるのに合わせるように、終盤に近づいていた。
彼女が今、目の前でその本を読み終わったら。きっと僕は話しかける。柳美里、いつも読んでますよね。好きなんですか。彼女は驚くだろうし不審げに眉をひそめるかもしれない。でも、それでも。
そう、変わらないのだ。僕が話しかけない限り、彼女が僕と接することは一度もない。季節が移ったら時間割は変わって。名前と顔しか知らない彼女を僕は失ってしまう。変えるには、変わらないといけない。単純なことだ。それは単純なことだ。
緊張に喉をやられる。いくら唾液を送っても息苦しく空気が通らない。何気ない声が出せるか不安だ。彼女の文庫の残りページ数が減っていく。縦に往復する目線が滑らかに僕を追い詰める。されど彼女の僕に与える手の震えは、芯の部分に微かな希望を孕んでいて僕を惹きつけてやまない。
彼女は僕に話しかけられて不快に思うだろうか。僕がいくら傷付くよりも彼女を傷付けてしまうことが怖い。なるたけ上手くやらないといけない。当たり障りなく器用に、不意に何気なく話しかけてしまったかのように。
そして彼女は文庫を閉じて。
立ち上がった。
ガラス越しにページの中身を追っていたからわかる。確かにまだ彼女は読み終わっていなかった。読み終わるより先に、駅に着いてしまったらしい。僕の脇をすり抜けて電車を降りる。
こんなのってありだろうか。運命は残酷だなんて陳腐な事実が聞きたいわけでもなく、僕はただ悲しかった。振り向く気にもならなかった。彼女が降りた駅が何処であろうと。
扉が閉まる、アナウンスにはっとする。
繰り返される駅の名前は僕の降りるべき駅だった。
僕は慌てて人を押しのけ、閉じかけた扉から無理やり電車を抜ける。人混みの少し先を彼女は歩いていた。つまり、彼女の駅は僕の駅と同じだった。
信じられない思いで、彼女の跡をふらふらと。改札を抜ける。
どうして今まで気付かなかったんだろう。きっと僕の家とも近い場所に住んでいるに違いない。商店街を抜ける、話しかけることなんて頭から抜け落ちて、ただ着いて行く。何かの無料配布をしていた女性に不審げな視線を向ける。自分が他人から見ていかに奇妙なことをしているかに気付いて、少し先を歩く彼女からなるべく視線を外してさり気なく歩くようにした。彼女は手渡された除光液の試作品を鞄にしまった。
そして。そう、そして。
僕の住んでいる小さなアパートにたどり着く。
「え」
彼女はオートロックを外し、中へ。
郵便受けを見る。それぞれのポストと一緒に列ぶ八つの名前の中に川口の二文字があった。彼が今日教えてくれた彼女の名前。そしてその一階の部屋は僕の隣だった。
※
課題をこなす。見たことのない式を教科書から探して、その一文字一文字の意味を理解して、文章に直していく。
身が入らない。ふと振り返った先に壁。彼女が向こう側にいる。僕と彼女を絶望的に遮る。壁。それは実際の厚さよりも僕と彼女を隔てる。
どうして彼女が隣に住んでいたことに、昨日まで気付かなかったのだろう。それはそれだけ僕が彼女と無関係だから。隣に住んでいる彼女は、どうしようもなく、他人だ。例え壁一枚を隔てた、たった数メートル先で彼女が僕と似たような生活を送っていても、僕と彼女の生は交わらない。それはつまり、僕と彼女が同じ学校に通い、同じ教室で同じ授業を受け、同じ場所で生活をしていることにだって意味は無いということだと思う。もっと決定的な何かがない限り、僕は彼女と関わりを持つことはありえない。
話しかけてみる。昨日は簡単に乗り越えられると思えたその一線が今ではあまりに遠い。
他人が他人でなくなるというのは、この時代のこの街ではとても怖いことだと思う。隣に誰が住んでいるのかだってわからない。友人を名乗る彼らが何を考えているかわからない。表面だけの付き合いばかりで、深入りすることは特別な相手にしかしない。当たり前に色々なものが遮断されて、見えなくなって、その見えない先でたった今どんな歪みが生まれていたとしても見えない。それが今僕らの生きる社会だ。
そして僕の容姿や話し方はお世辞にも好青年とは言いにくい。きっと彼女は警戒するだろう。そんな僕が同じ学校で同じ授業を受けていて、今まで隣に住んでいたことに、お互い気づかなかった。そんな偶然、気味が悪い。万が一にも僕のような人間に一緒に学校に行こうなんて誘われたら、と僕に玄関口で話しかけられた彼女は想像するかもしれない。そして困ってしまうかもしれない。柳美里を読むんですねなんて尋ねられたら。迷惑かもしれない。
もし仮にそうじゃないとしても、もう僕は自分のことをそう思っているから。思ってしまっているから。彼女に積極的に関わることができない。
だから、僕は彼女に話しかけたところで、きっとお隣さんという名前の、表面だけの付き合いにしかなれなくて、それに意味はないと思う。
言い訳かもしれない。けど、それでいい。僕は今までそうやって諦めてきた。僕はこれまでもこれからも何も持たない。そう言い聞かせるように。嗚咽を押し殺す。
※
僕は電気の消えた実験室で標本ビンの中のラットを見つめていた。その赤い目をした生き物は、しかしまだ標本ではなく、生きている。やがて、動きは鈍くなり、眠り。死んだ。その標本ビンの底にはエーテルが溜まっていた。麻酔としても使われたエーテルは、吸い過ぎると目の前のこの鼠のように安らかに死ぬ。実験動物の安楽死として一般的な方法。
教授に頼まれた、不要になった実験動物の処理作業だった。僕は手早く死体を片付ける。新聞紙に包み、冷凍保管庫に突っ込む。死体の廃棄は教授がやってくれることになっている。使った器具を洗浄し、元の場所に戻す。エーテルを戻そうとして、手を止める。その時、すでに何かの目的があったわけじゃない。だけど、僕は何となく。自分の鞄を引き寄せ、力任せに開ける。中に偶然入ってた空のペットボトルを取り出して蓋を外し机の上に。エーテルの大瓶から少し移して。蓋を戻して仕舞った。
誰も見ていない窃盗だった。
心臓が吐き出してしまいたくなるほど、胸の内側を渾身の力で叩く。頭が割れそうに心音で染まる。汗で滑る手でエーテルを戻し、実験室の鍵を閉め、研究室に寄って震える表情を力尽くで抑え、教授に何事もなかったかのように鍵を返し、誰の視線からも逃げるように、帰った。鞄を不自然に強く抱えたまま。
そしていつもの机の上に、昼間に飲んだ紅茶のペットボトルがある。底の方に十数センチの、褐色の液体。油のような比重の色具合。振れば、重たく揺れる。
僕はどうして持ち帰ってしまったのだろう。そんな。そう。他人の自由を奪う、薬を。どうして?尋ねるふりをするのもきっと欺瞞。わかっている。そのままの理由だ。僕は時計を見る。
二十三時二十五分。ペットボトルの中身をピタミン剤の空容器に少し移して上着のポケットに隠して、羽織る。靴を玄関から持ってきて、開け放した窓枠に腰掛けて履く。その窓は隣の事務所に面していて、誰からも見えない。そして、奥側には隣室の窓と、暖房の空気流入口。
震える足でコンクリートの塀に足をかけて、登る。手を伸ばして、彼女の部屋の空気流入口に手を伸ばす。触ってみると、確かに風の流れを感じた。音を立てて、僕の指をすり抜けるそれに。蓋を開けたエーテルの溜まる容器をかざす。くるくると手元で揺らす。石油のような、甘くない香水のような香りが口の中で溶ける。
遠くでサイレンの音が聞こえ始めた頃。僕はエーテルの蓋を閉めた。そして窓から自室に戻り、靴を玄関で履き直し廊下へ。それは確信に近い何かだった。僕は彼女の部屋のドアノブを押し下げる。
開いた。
きっと偶然。このアパートは玄関がオートロックだから、部屋ごとの玄関の鍵をよくかけ忘れる。だけど、僕には彼女に受け入れられた証のように感じられた。僕の部屋と同じ間取りの、家具が違う空間。色合いが柔らかい。その中央で。
彼女は死んだように眠っていた。
コタツに寄りかかって、腕を組んだ上に頭をもたれかけて寝息を立てている。僕は部屋を見渡す。本棚。机、ベッド。アロマキャンドル。微かなエーテルの匂い。換気がてらに窓を少しだけ開ける。
彼女の隣に腰を下ろして、彼女の寝顔を眺める。美人ではないけれど整っていて見飽きない。微かに呼吸に合わせてまつげが揺れる。恐る恐るコタツに入ると彼女の足が僕の足に触れた。
まるで友人のような距離感。
「この前のゴールドラッシュは読み終わったのかな」
返事はない。僕は続ける。
「いいよね、あれ。追い詰められるような、初めから終わってしまっているような悲しさが」
それは言ってみたかった言葉だ。話しかけてみたかったセリフだ。もう産まれるはずのなかったその声を、僕は彼女に届ける。彼女は眠りながら聞いてくれる。
いくらでも語りかけたいことはあった。
「ずっと気になってたんだ」
「そういえばどの学部なんだろうね、こんなに近くに住んでて気付かなかったって、もしかして学年も違うのかもね」
「他の人と違うよね、君はさ。なんていうか、浮いてる。もちろんいい意味で」
他人とこれだけ話したいと思ったことはなかった。口は滑らかに淀みなく、溢れる思いはそのまま言葉に変えられた。
でも、すぐに時間が来てしまった。
「じゃあ、またね」
僕は彼女に別れを告げる。そろそろ彼女が目覚める。夢から、覚める時間だ。僕がいた痕跡をできるだけ消す。僕が座った箇所のカーペットの皺を伸ばす。窓を閉める。靴を履いて、出て、ドアを閉める。
そして僕は自室に戻る。微かな緊張と大きな充足感が胸から零れ落ちそうだった。頭が焼けるように幸福だ。僕は彼女の側にいた。誰よりも彼女の本質に触れたとすら思えた。今頃彼女は目を覚まして、居眠りしてしまったかとばつが悪い思いをするだろう。そしてふいに夢の中で誰かと話したような気がするに違いない。そして少しだけはにかむように微笑んで、今度こそ本当に眠る。幸福な夢に戻ろうとするように。きっとそうに違いない。きっと。彼女に寄り添うような気持ちで僕も一人でベッドに潜り込む。
おやすみ。
※
授業に出席する。彼女のいる教室へ。今週も名前の思い出せない彼が隣に座った。
「そういえばお前、川口のこと知りたがってたよな」
彼女は教室の反対側で家族シネマを読んでいた。柳美里の代表作だ。戯画のような、されど本質を噛み締めようとする家族の話。
彼は尋ねてもないのに話し始める。彼女がサークルで先輩のひとりに執着して、別の女と付き合っていたその先輩を別れさせようとしたこと。合鍵を勝手に作って、週に一回先輩のいない部屋で夕飯を作っていたこと。終いには弁護士を雇う事態になりかけて、彼女の両親が先輩に謝罪して彼女にはサークルもやめて先輩に近づかないと誓約書を書かせて。それで何とか収まったこと。
彼は本当に嬉しそうに語る。たぶん僕の彼女への憧れのようなものが崩れる様を想像しているのだろう。でも、僕は彼の話になんとも思うことはなかった。だってそうだろう?僕はすでに彼女を手に入れた。今晩も僕は彼女の隣にいられる。僕は彼女と繋がれる。それは僕だけの彼女であって、彼女そのものがどんな人間であろうと僕だけの彼女とは関係ない。彼女と彼の話す彼女はまったくの別物だ。僕はもう言い聞かせなくても、そう思うことができた。だから、笑顔で彼の話を受け流す。彼は少し気味悪そうに眉をしかめた。授業が始まる。彼女が家族シネマを閉じる。
※
僕はそれから週に数回、彼女の元を訪ねた。幸せだった。彼女は相変わらず眠ったまま僕を迎えてくれたし、部屋の鍵はいつも開け放してあった。毎回、ただ隣に座って少し話をするだけだったけれど、それが彼女と僕の関係で、僕はそれで満足だった。
ある日のこと。
僕はその夜も彼女の部屋にお邪魔した。そして違和感を覚えた。少し寒い。見ると、僕が毎回エーテルを換気するために開ける窓が、僕が開ける前から少し開いていた。驚いて彼女を見る、しかし確かに眠っている。部屋の中は微かにエーテルの、化粧品のような匂いがした。大丈夫。窓は開いていたようだけど換気はうまくいかなくて、彼女はちゃんとエーテルで眠っている。
僕はほっとして彼女の隣に座る。向こうの化粧台に蓋の開いた除光剤が見えた。僕はいつも通りに語りかけた。返事のない彼女に。この部屋にはマグカップが二つある。僕はそれらを借りて、ココアを二つ作って、僕と彼女の前に置いた。これも寒くなってきた最近ではいつものこと。彼女は飲まないし、僕だけが啜る。そして帰るときにはマグカップも洗って、ぜんぶ元通りにして、彼女が気付かないようにする。でもその日は妙な味がした。エーテルの香りがやけに強く残っているせいかもしれない。
話の途中でお腹が痛くなった。僕は彼女に断ってトイレを借りた。初めてのことだったけれど、急だったので彼女も許してくれるだろうと思った。トイレは清潔に保たれていて、微かに人工的な甘い香りがした。僕は少し緊張しながら腰を下ろす。トイレから出たら彼女に何を話そう、と考える。考えている。
その時、目の前のドアが鈍い音を立てた。
ドアノブが壊れそうな衝撃で揺れた。僕は息が止まるほど驚いて、震えさえする鳥肌の立った手で着衣や用を足すのもそこそこに立ち上がる。
そして、躊躇う。
今の音は何だったのだろう。まともな理由が何一つ思いつかない。この部屋には彼女と僕しかいないはずなのに。そして彼女は眠っている。はず。
ありえないことばかりが想像を駆動させ、僕はそして静寂に包まれていることを自覚する。あの大きな衝撃は一度きりだった。続く音はなく、再び換気扇が頭上で回る音だけがする。ドアに耳を当ててみた。空気の通る音。それ以外聞こえない。ゆっくりとドアノブに手をかける。回らない。いや、重い。
僕は訝しく思いながら押し開けようとして、ドアが向こうから誰かに押さえつけられていることを知る。押しても、ほとんど動かない。
「誰か、いるんですか?」
僕は震える声で尋ねた。あるいは彼女が目覚めたのだろうか。別の誰かがあの部屋にはいたのだろうか。終わりだ。僕はきっと警察に捕まる。僕は二度と彼女に会うことはできなくなる。怖い。たまらなく怖い。
「ごめんなさい、あの、理由を。そうだ、理由を聞いてください」
しかし返事はない。今頃、ドアの向こうで押さえている誰かは携帯で警察に連絡をしているのかもしれない。僕は観念した。座り込む。僕は待つ。ドアが開かれて、裁かれるその瞬間を。
※
だけど。ドアは開かれなかった。小一時間経つ。ドアの向こうの誰かはずっと立ち続けているようだった。押してみても、ドアはすぐに元の閉まった状態に戻る。
いや。
ずるずると音がして、向こうの何かが押された。ドアは閉まらない。
ようやく理解する。ドアの向こうにいたのは人じゃなくて何か重い物だったのだと。きっと僕を閉じ込めた人間が、何かを置いて自分で押さえる代わりにしたのだと。だけどそれにしてはあまりに軽い。僕が体重をかけて押し開くだけで、僕は出られてしまう。
慎重に少しだけ開けて、様子を伺う。トイレの前には誰もいないようだった。しばらく耳を澄ませても、誰の声も聞こえない。ドアの向こう側、僕がトイレから出るのを拒んでいた物を見る。
そして僕は首を吊っている彼女を見つける。
彼女はトイレのドアノブに首を吊って死んでいた。理解できない。現実を疑い目を疑い。頭がパンクしてただ恐怖だけがじりじりと顔の表面を這い登ってくる。つまり、僕がドア越しに押していたのは彼女の死体だった。
悲鳴を上げながら僕はリビングに転げ込む。彼女がいたはずのコタツ。手の付けられていないココア。そのカップの下に何かあった。
手紙だ。
僕の頭は勝手に現実を整理してしまう。僕は侵入者だ。でも彼女は死んだ。ここで今、僕が自室に逃げ帰ったとしたら、彼女の死体は見つかって、証拠を残している僕はすぐに捕まってしまうに違いない。彼女が死んでしまったことで色んなもののバランスは崩れた。僕は今とてつもない危険の中にいる。頭が白く歪む。
僕は彼女の死体のほかにこの部屋に誰もいないことを知って、手紙を開かざるを得ないことに気付く。僕は逸る心音をやけに遠くに感じながら、手紙をもどかしく開いた。
※
初めまして。というのも変ですよね。ずっとお会いしてきたのですから。でも私からすれば、言葉を交わすのは初めてなので。だから。
初めまして。
きっと驚いてらっしゃるだろうなと思います。
この手紙が読まれる頃には、すでにあなたは死んだ私を目の当たりにしているに違いないのですから。
でも安心して下さい。泣いたり怒ったりしないで下さい。私があなたのいるこの部屋で自殺したのは、決してあなたを窮地に追いやろうだなんてためではありません。決して、私があなたのいるこの部屋で首を吊ることで、あなたの手から逃れようと、あなたの行動を世間に告発しようと、そういったことを考えたのではありません。むしろあなたへの贈り物として、あなたのためを思って、私は首を吊りました。
おそらくご混乱を招くことになってしまったのではないでしょうか。詳しく説明します。
あなたと出会う少し前の話です。あなたがいらっしゃる少し前。私はある人に恋をして、でもその人にはその気がなくて、その結果、色々なものが上手くいかなくなりました。細々と書くことは控えますが、恐らくぜんぶ私が悪かったのだと思います。好きになりすぎたのだと。
それ以来私は居場所をなくして、授業の他に外へ出ることもなくなって、自室に篭っていました。驚きました。本当に私には何もなかったんだなって。色んな物を、居場所をなくしただけで、私はもうどうしたらいいのか、何をしたらいいのかわからなくて、途方に暮れるのです。そんな女に誰かが興味を持つはずもない。そんな私が必要とされることはない。そんな思いが喉の奥に少しずつ溜まっていきました。
そんな頃、あなたが来てくれたのです。
最初はもちろん気付きませんでしたよ?あなたはまるで煙のように跡を残さなかったから。けれど、私は少しおかしいから。私はあらゆるものにあらゆる約束を持っています。こだわりと言ったほうがいいかもしれませんね。例えば、水道の蛇口を締めるとき、いつも少しだけ緩めておくし、カーテンは絶対に隙間なく閉めます。玄関のドアノブは、そのままにしてると少し下がってしまうので、閉めたあと持ち上げて直すようにしています。
そんな小さな約束がいくつも破られていました。たぶんあなたが初めて私の部屋に来た日です。そんな細かな不自然に気付いた私は、今考えても恥ずかしいのですが、彼が来たのだと思いました。そう。少し前に失恋した相手です。彼には私の部屋の合鍵を渡していました。送り返されたけど、こっそり複製して持っていたのかもしれない。それで私を心配して見に来てくれたのかもしれない。そんなことあるはずないと思いつつも、期待が捨てられなくて、どうしても確かめたくなりました。
先に謝っておきます、実はそれからしばらくして、私はこの部屋にカメラを仕掛けました。毎日ドキドキしながらその中身を確認しました。毎日が興奮で彩られた日々でした。そしてとうとう、私のカメラは部屋に誰かが侵入する姿を写しました。それは彼ではなく、あなたでした。
私は唖然としました。だって、そこに映るあなたは見たこともない、誰でもない男の人だったから。それでも唖然としながら、あなたの所作を一部始終見守りました。あなたは私に乱暴をするでも、不快なことをするでもなく、ただ話しかけて帰って行きました。ただそれだけでした。きっと本当ならここで警察にでも連絡するところなのでしょうけれど、私はあんまりといえばあんまりな展開にどうすることも思いつきませんでした。というより、正直に言いましょう。
あなたがどうしてそんなことをするのか気になって仕方なくなりました。だから、そのまま私はカメラを置き続け、あなたを盗撮し続けました。ごめんなさい。
それでもわかってほしいのは、私があなたのことを知っていると教えなかったのも、ただあなたが二度と私の部屋に来なくなるのを怖がったためで、あなたを騙そうと思ったわけではないということです。
だからこそ、初めは不気味だと思っていたカメラ越しのあなたに、私は親しみを覚え始めました。自分が誰かに必要とされているということが何よりも嬉しかったのです。たとえその方法が普通でないとしても、あなたにはきっとあなたなりの理由があったのでしょう?だから。だから。
私はあなたの語りかけてくれる言葉を聞いていました。あなたはたぶん私が聞いているとは知らずに語りかけたのでしょうけど、でも、ぜんぶきちんと録画して、一言も漏らさずに聞いていました。受け止めていました。そして私は勝手にあなたを支えているつもりになって。
でもごめんなさい。
私はこれ以上生き続けることができそうにありません。もちろんあなたのせいじゃありません。きっと誰のせいでもないんです。ただ私が弱かっただけで。私が誰にもなれなかっただけで。
でももし迷惑じゃなかったら。
私をもらってくれませんか?
そのために今度あなたが来た時は薬で眠ったふりをして、あなたが隣に座ってもそれをやめないで、あなたが席を立った隙に(ココアの粉に薬を混ぜました。ごめんなさい。あとココアの粉は処分していただけるとありがたいです)自殺をしようと思います。私は死んでしまうけど、これからも隣に置いて語りかけてくれますか。必要としてくれませんか。それだけできっと私は救われる。
でも仮にあなたにとって私が邪魔なら、この手紙と一緒に遺書も用意しています。あなたのことについて一切触れていない遺書です。この手紙を処分して、遺書だけ私と一緒に残してくれれば、きっと誰もあなたのことを疑う人はいなくて、私はただの自殺として片付けられると思います。
でもやっぱり私はあなたのそばに置いてほしい。あなたに必要とされたい。勝手なことを言っているし勝手なことをしたのはわかっていますけれど、どうか私のお願いを叶えて下さい。
最後に。もしあなたが私を捨てるとしても、これだけは言わせて。
今までありがとう。
嬉しかった。
※
僕は手紙を閉じ、彼女を見る。眠るように死んでいた。あふれるような幸せに堪え切れないかのように口元が緩む。捨てる?とんでもない。そう思った。
彼女の隣に肩を寄せて、座る。
「ありがとう」
僕はそうつぶやいて、目を閉じて、彼女の手を握った。初めて握る小さな冷たい手。きっとずっとこれからも僕のそばにあり続ける手。
微かに彼女が握り返してくれた気がした。
そんなはずもないのに。
『それでも空から少女は降ってこなかった』
僕だけのヒロイン