帰らぬ日と
三題噺(ロシア、遊園地、キノコ狩りの男)
父が亡くなってから二年が経過した秋。今更ながら遺品の整理をしようと決意したのは、単なる気紛れか。それとも、愛する家族の死をようやく受け入れられたことの表れか。理由は自分でもよく分からない。
母は私が幼い頃に亡くなっている。写真を見れば母の顔は思い出せるのだが、悲しいことにその声の記憶は曖昧である。母の病室へと何度もお見舞いに行ったはずで、たくさん会話をしたにも関わらず、だ。
私の実家は現在では兄夫婦が暮らしている。訪れるのは父の一周忌以来だが、そこはもう私が幼少を過ごした日々の面影を一切残してはいなかった。視線から察するに、兄も義姉も私の訪問を快く思っていないらしい。実家に帰る、というよりも他人の家に勝手にお邪魔する感覚だった。義姉の嫌みを背中で聞きながら、今は物置と半分化している父の部屋に私はそそくさと向かった。
大方予想はしていたことだが、父の遺品はそのほとんどが勝手に処分されていた。部屋に残っていたのは、父が趣味で集めていた西洋絵画と本棚にある古い本ぐらいだ。父は、ロシア出身の画家、シャガールの絵を特に好んでいた。シャガールの絵はまるで遊園地のようだと父が嬉しそうに話していたことを思い出す。曰く、色鮮やかで楽しげに描かれた画面から言い知れぬ悲しさや寂しさをふと感じるのだそうだ。幼い私はその寂寥感を感じ取ることが出来なかった。今思えば、母を亡くした父は同じような状況の中でも絵を描き続けたシャガールに自分を重ねていたのかもしれない。
アルバムでも無いだろうかと思って本棚を漁っていると、一冊の革張りのノートが出てきた。ぱらぱらとページを繰ると、数十年前の日付が書いてある。ちょうど母が入院していた頃に書かれた日記なのだと気付くのに、さほど時間はかからなかった。しかし、その字は父の角張ったそれとは違う。丁寧で柔らかみのある文字、「私」という一人称、そして私の名前が所々に登場しているそれは、母の日記であった。しおりが挟まっているページの日記を読むと、そこには私と兄がお見舞いに来たこと、いつものように創作話を聞かせるようせがまれたことが記されている。そういえば、母はお話を自分で作って私や兄に聞かせるのが得意だった。私たち兄妹が特に好きだったのは「キノコ狩りに来た男」という話で、よく二人してこの話をするよう母にせがんでいた。すると、母は困ったように笑いながらも、幼い子供たちのわがままにきちんと応えてくれたのだ。
母は亡くなる前日まで日記を記録していた。
母の日記は、これ一冊のみだった。
結局私は、その日記一冊と絵画二点だけを持ち帰ることに決めた。両親との思い出の切れ端は、想像していたよりももっと軽かった。けれども、それ以上に、思い出なんてこれだけあれば十分だとも思う。幼き日の曖昧な記憶を僅かに補充してくれる。それくらいでちょうどいいのだ。
不確かな母の記憶は、鍵をかけて、私の中へこの日記と一緒にそっと仕舞っておこう。母が寂しがるといけないから、父の記憶も併せておこう。私は、遠く過ぎ去った日を心に描きながら、もう法事以外では訪れないであろう兄の家を静かに後にした。
帰らぬ日と