せめて微糖の缶コーヒー
「お前の姉さん、どうしてるかな」
サトルは、わたしに缶コーヒーを渡しながら尋ねた。わたしはそれを無視して
「ちゃんと微糖のやつ買ってきた?」
もち! とサトルは缶コーヒーをわたしに渡す。ブラックコーヒーの苦さを想像するだけで、今日は特に堪えてしまう。飲んだら吐いてしまいそうだ。
じゃんけんをして負けたサトルが自動販売機のある社宅の正門付近まで走って、二人分の缶コーヒーを買ってきた。もちろんサトルのおごり。
この社宅のA棟、七〇一号室と七〇二号室。わたしの家とサトルの家とは昔から隣同士だ。こうしてベランダに出て『非常時の時にはここを破って避難してください』の白く薄い壁を挟んで話すことがある。
今日はやけに天気がいい。
灰色の心もとない雲が、まんまるになりきれていない瑠璃の星の前を通り過ぎて行く。両手で小さく暖かなコーヒー缶を包みながらコーヒーを口に含む。缶コーヒーはあの星の、四季というものがある小さな島国で生まれたという。春という季節がくれば、暖かくなって仄かに桃色の花が夢のように咲き誇る。冬という季節は、頬を切る程寒くなり、白く一瞬で溶けてしまう雪というものが降るのだそうだ。どんなに美しく、残酷だろう。姉はどう生きているだろう。想像もつかない。微糖の、やわらかく丸い味のコーヒーを飲みながら、そんな四季のある国の生き物はなにを考えてこんな缶コーヒーを作ったのだろうと、ぼんやり思う。案外、わたしたちと大差ないのかもしれない。
「なんか欲しいもんある? 誕生日近いだろ」
わたしと同じようにコーヒーを持ち、啜るサトルは言う。
「別に。誕生日なんてもっと先だし、いっつも変なガラクタしかくれないじゃん」
その辺の石を何百年前の隕石だとか嘘ばっかりついてわたしに押し付けたり、星を集めてきたと砂糖の塊をくれたり。うれしくなかったわけじゃない。サトルのこじつけがわたしだって嫌いじゃない。でもまっすぐにそう思うことを、わたしの心は素直に受け入れられない。
心なしか眉が歪な形になったサトルを見て、反省した。思った以上にそっけない言い方になってしまった。でもたった一瞬だけだ。罪悪感にも似た気持を払拭するかのように
「サトル、口を開けて見せて」
ベランダの手すりに飛び乗り、強請る。
「えー、それ別に欲しいもんじゃないじゃん」
「いいから、見せて欲しいの」
えー、と面倒くさそうにサトルは缶コーヒーを床に置き、あー、と白く薄い壁の脇から首だけにょきっと出す。わたしも缶コーヒーを床に置き、かすかにコーヒーの匂いがするくらいまで顔を近づけてサトルの口を覗きこむ。暗すぎてわからない。
「……暗くてわかんない」
しぼむようにわたしがいうと、「当たり前だろ」とサトルはジーンズの後ろポケットに入れていたスマホをとりだし
「このライトでみなよ」
そうわたしに手渡す。あの星と同じ色のイヤホンが刺さったスマホ。わたしはそれを受け取って、本体にたったひとつしかついていないボタンを押し、サトルの口の中を照らす。なんとなく奥の奥に白いものが確認できた。
「な? あるだろ」
サトルの顔は瑠璃の星の、仄かな光に照らされて、寂しそうにも清々しくも見えた。
「待って。なんかほら、日曜大工道具とかでほじくり返しちゃえば」
「他人事だと思って物騒なこと言うなって。”検診”にもう引っかかってるんだ。去年、お前の姉さんのことでわかってるはずだろ」
へらっと弱々しく笑ってみせたサトルの顔から、わたしの目は逃げてしまう。
「今週末には行かないと。もう知ってるだろ? だから真面目に、誕生日何が欲しい?」
わたしはそんなサトルを笑って送り出してあげることができそうにない。こうしているうちに、顔の筋肉がわたしの意志に反してどんどんいうこときかなくなっている。目頭が焼けつくように熱い、熱い。胸からなにかが蒸気する。
恋を知ってしまった子どもにはオヤシラズという歯が生え、この星から追放される。
去年はわたしの姉がこうして夜空に浮かぶ星、地球という星に追放された。浅い瑠璃紺のうつくしい星だがわたし達と同じ格好をした人間が身勝手に振る舞う星なんだと、学校の授業で習った。
わたしの星では地球から輸入された漫画に影響され、恋を覚えた子どもにオヤシラズという歯が生えることが問題になっている。頼りない、恋なんてものに夢中になり、大人の言うことをきかなくなるのだ。子どもは、年長者の導くままに生きなければならないという、わたしたちの星の掟が破られるということは、この星の進化を止めてしまうと偉い大人達が言っている。
この星は、恋を失くすことに必死だ。ここで生きれば、なんの迷いもなく楽に生きられる。システマチックなとても進んだ星なのだと先生が言っていた。
身勝手な青い星についてそう教えてくれた先生に姉は恋をし、オヤシラズが生えて追放された。この星で生きるよりも、ずっと大変な目に遭う星らしい。姉は「行って、くるね」と背筋をピンとし、柔らかな笑顔でこの星から離れていった。
先生も、姉をそそのかしたと罪を科せられ別の”廃棄物”という意味の星にとばされた。「俺は悪くない! 悪いのはあいつだ!」とみっともない最期だったらしい。ここに、姉がいなくてよかった、と思った。
わたしは何日も何日も、目溢れ落ちてしまいそうなほど泣いた。なんであんな服もださい、ぼさぼさ頭の先生なんて好きになったの。わたしのほうが姉のことをずっともっと、大事に考えていた。必要としていた。サトルのことだって相談したかった。この気持ちは恋というものなのか、ただの十条なのか。わたしには判別がつかない。
「俺の貯金叩いて、お前の欲しい指輪とやらを買ってやろうか? あの青い星の恋愛漫画読んで憧れてたじゃん」
まだこの星に生まれて十三年のサトルは、自分自身の気持やわたしの気持を茶化すようにして笑う。
「……そんなもの」
「俺、お前にだったら再現してやってもいいかなーって思って」
ふと真顔になり、サトルはわたしの顔を『非常時の時にはここを破って避難してください』とある白い薄い壁の向こうから乗り出し、わたしを攻撃するように見る。今が非常時だが、そこを破ってしまうとサトルしかいない。サトルにうっかり触れてしまうほうが非常時だ。目を泳がせるわたしに、サトルは元々糸のような目をより細め、表情を緩めて見せた。
わ、わたしは。
続きは声にならない。わたしとサトルを、ただ静かに瑠璃の星が見下ろし、微糖の缶コーヒーがただそばにある。わたしの口の右上奥あたりが静かに疼いたような気がした。
せめて微糖の缶コーヒー