ファミリー
プロローグ
どこかで笑い声が聞こえる。だけど、振り向けばそれは消えて、また別の方から聞こえるようになる。
目を瞑りたい。耳を塞ぎたい。だけど、それじゃ前に進むことができない。
「大丈夫?」
優しい声が聞こえる。目の前のカメムシが入った給食から、泣き顔をその方に向ける。
「うわ、これは酷い。僕のやつと交換してあげるよ」
「……ありがとう」
目の前の物が変わっても、どこかの笑い声が絶えることはない。そしてそれは、次の日も、また次の日も、そのまた次の日も。ずっとずっと変わらない。
「わっ!」
机の中がビシャビシャになっている時も。
「いたっ……」
靴に画鋲が入っていた時も。
その度に誰かが笑い、一人が手を差し伸べてくれる。そう、一人が。
一人だけが。
「昨日のあのテレビ見た?」
「でさー、あいつが倒せなくてよー」
「お母さんがね、新しいリボン買ってくれたの!」
「明後日から雨になるんだってー」
話の中心に一人がいる。皆に囲まれ、私とは対照的で楽しそうな一人。
「へぇー。あっ、おはよー」
円で囲まれた点と、裸の点が交わる時、またあの笑い声が始まる。
本来は交わらない点が、本当の一つになろうとした時ーー
「僕は、君が好きだ」
……怖かった。彼の気持ちを受け止めるとか、そういう次元の話ではなかった。
「付き合ってほしい」
私の心の中に築き上げた、大きな壁の中にある本当の私が……出なければ良かったのに、出てきてしまった。
「ごめんなさい」
次の瞬間、激しい後悔が襲ってくる。
「くっ……ハッハッハ」
突然笑い出した彼の表情を見て、私は思わず後ずさった。
「いいのかい? 本当に」
あの優しかった彼が、みるみる変貌していく。……いや、違う。本性が出てきただけなんだ。
「今まで辛かったろう? 痛かったろう? 寂しかったろう? くっ、フッフッフ……ぜーんぶ僕がやらせてきたんだ!」
彼の口から絶対に認めたくなかった事実が告げられる。
「僕と付き合えば苦しくも何ともなくなるさ。皆が祝ってくれる! それでも付き合えないのかい?」
狂っている彼を見れば見るほど、否定という大きな壁が、無残にも崩れ落ちていく。
「……そうかい。それでも付き合ってくれないのか。じゃあ……」
そして、私の世界は
「もっと遊んであげるよ」
壊ㅤれㅤた。
影
誰もいない教室で、窓越しに空を見上げる。雨が降りそうな曇り空。
晴れた空も良いけど、こういう空も良いなー。そう思いながら、大きなあくびをする。
涼しいし、眩しくないのがまた良いんだ。
今にも落ちそうな頭を頬づえで支え、俺は体の本能に任せるように、重い瞼を下ろした。
「おはよう、聖弥くん」
薄れゆく意識の中、狭い隙間に入り込むように聞こえてきた声が、俺を現実へと引き戻した。
重い頭を持ち上げ、声のする方に向けると、いつも一緒にいるグループの一人、中村愛里がそこにいた。
「ああ、おはよう。愛里」
「相変わらず眠そうだね」
「まあね」
愛里の苦い笑顔を察して、俺も軽く笑う。
「今日は避難訓練だっけ?」
「そうそう。だから今日は三時間目で帰れるんだよ」
「三時間か……」
思わず時計を見る。
「このこと親御さんには言ってないしょ?」
下校時間のカウントダウンを計りながら、その言葉に頷く。
「じゃあさ、皆でゲームしようよ! 私の家に集まってさー」
「へ?」
再び愛里の方を向くと、目がキラキラしているように見えた。
「実はさ、パーティゲーム買ったんだよねー。翔大くんが来れるか分かんないけど、本来学校ある時間だから皆でできる気がするんだー」
「おっ、何? 俺の名前が聞こえた気がすんだけど!」
「噂をすれば……」
思わず苦笑しながら、駆け寄ってくる尾崎翔大を目で追った。
「なになに、何の話?」
「今日学校終わったら、皆でゲームしよって話! どう?」
愛里が翔大の顔を覗く。
「おお、いいねー。大丈夫、バイトは六時から入ってるから」
「相変わらず懸命だねー」
感心してそう言うと、翔大が胸を張って見せた。
「おうよ! で、あとは美奈次第ってところか?」
翔大がいつものグループの最後の一人、大沢美奈の名を口にする。
「そうだねー。早く美奈ちゃん来ないかなー」
愛里が時計に目をやる。
「あいつに限って遅刻することはないと思うけど」
美奈の家柄を思い浮かべながらそう言うと、本人が教室の入口に来たのが見えた。
「ああ、確かに。起きてください、お嬢様。朝ですよーってな! ハッハッハー、いでーっ!」
見事なタイミングで美奈に殴られた翔大を見て、俺も愛里も吹き出した。
「あたしだって自分で起きてるわよ! 遅刻しそうになったら送ってもらうことはあるけど」
「それ意味ねえじゃねえか!」
「それくらい普通の家でもあるわよ!」
「なにぃー!」
「まあまあ」
少しムキになっている翔大と美奈を笑いながら止め、本題に戻す。
「で、今日美奈は愛里の家に来れるのか?」
「えっ、行けるけど何するの?」
「ゲーム!」
「おっ、いいじゃーん。ナイス愛里」
美奈が愛里の頭を撫でる。
「へへ、じゃあ決まりねー。学校終わったら私の家に集合!」
「オーケイ」
「分かった」
それから、愛里によるどんなパーティゲームなのかの説明が始まろうとしたところで、チャイムが鳴った。
「じゃ、後でねー」
そして、ホームルームが始まった。
適当な挨拶を終わらせた後、担任の深沢が話し出す。
「えー、今日は避難訓練だなー。なぜか知んねえけど、ここは避難訓練の早さが伝統みたいなもんだから、“おはし”は忘れるなよー。押さない、走らない、喋らないだからなー。んじゃ、今日も一日楽しく頑張ろー」
生徒たちの気の抜けた「はーい」という返事を聞くと、深沢は教室から出ていった。
生徒たちがざわつき始める中、俺は倒れるようにして眠りに落ちていった。
一時間目は社会かー。
隣でぐっすり眠っている聖弥くんをチラ見して、勉強道具を取り出す。
聖弥くんの席は一番後ろの窓側の席だけど、逆に教師の目につく位置でもある。
彼を眠らせてあげるには、私たちが積極的に発言しないといけない。
「はい、この問題分かる人ー」
「はーいはいはいはい!」
私と美奈ちゃんも手を上げるものの、翔大くんが積極的すぎて、いつ見ても笑ってしまう。
「いつも通り尾崎はアピールが激しいな。はい、じゃあ尾崎」
「はーい。えーっと、核家族とは何か説明しなさいかー。えーっと、核……? かく、カクカクカク……ば、爆弾を抱えた家族のことです!」
「爆弾を抱えた家族とは?」
教師が少しにやけながら翔大くんを追い詰める。
「何かしら人に言えない事情があるんじゃないですかねー」
その解答に、生徒たちがドッと笑う。
「はい残念。次、中村」
私の名前が指名されたことに気づき、立ち上がって答えを言う。
「お父さんとお母さんと、子供で成り立つ家族のことです」
「おっ、正解だな。もっと解答風に言うんであれば、一組の夫婦と未婚の子供で成り立っている家族のことだ。……」
教師が長い説明に入ったのを見て、安心して座りながら再び聖弥くんを見る。
本当にぐっすり眠っている。
最初に聖弥くんの家庭事情を聞いた時はビックリした。あまりにも酷すぎるものだったから。
今でも鮮明に思い出せる。彼が私に話してくれた、あの日のことを。
私と聖弥くんが初めて出会ったのは、小学三年生の頃だった。クラス替えで偶然一緒になって、席が隣だったことをきっかけに、仲良くなっていった。
だけど、私は彼の様子が他の皆と違うことに違和感を覚えていた。
学校をあまりにも楽しんでいるように見えたというか……そう。何かと不自然だったから。
不自然なものの一つといえば、特に放課後の掃除だった。掃除はクラスで分けられた班ごとに振り分けられていて、週ごとに変わっていくものだったけど、聖弥くんだけは他の班の人の分もやったりして、学校に残っていることが多かった。
私がいつも手伝ってもらっているからと、聖弥くんの班の掃除を手伝おうとすると、頑なに拒否される。理由は、「早く終わってしまうから」らしい。
最初は意味が分からなかったけど、一緒に過ごすうちに段々と分かってきた。
家に帰りたくないんだということに。
そのことに感覚的に分かってきてから、放課後に私と聖弥くんで話すことが多くなった。
本当に些細な話。ちょっとした悩みや、日々思うこと。何かの噂や初めて知ったことなど、思いつく限り会話を続けた。
ただ、いつも会話を持ちかけるのは私の方で、聖弥くんは反応することはあっても、自分の話をすることはなかった。
そんな放課後の会話が始まって、三ヶ月が経った頃、私はあることに気がついた。
「聖弥くん、その顔の痣どうしたの?」
聖弥くんは一瞬目を見開いてから、「何でもねえよ」と返した。その日はそれで終わったものの、それからよく観察すると、痣が増えたり、隠しているようで痛そうにしていることなど、度々辛そうな姿が目に映った。
そして、ある日のこと。聖弥くんは複数の痣を顔に露にして、俯きながら言った。
「ごめん……今日から早く帰るわ」
そして、その日から、掃除も私と話すこともなく、真っ直ぐに家に帰るようになった。
それから数日間、一向に痣が良くなる傾向が見られないので、私は聖弥くんに尋ねることにした。
「ねえ、聖弥くん。教えてよ。いったい何があったの?」
聖弥くんは黙っていた。顔をそらして、言い訳を考えているように見えた。
「その顔の痣もそうだし、きっと身体中にもあるんでしょう? 普通じゃ絶対につかないはずだもん。何かおかしいよ。ねえ、教えてよ」
またしばらく沈黙した後、ようやく聖弥くんは話し始めた。
「どうせ解決しないから、誰にも話さなかった。いや、また戻されるのが嫌だったから、解決してほしくなかった。……俺は、親に捨てられたんだ。そして、最近まで児童養護施設にいた」
「……え?」
予想だにしない回答に、私は固まってしまった。
「そこでの生活は、苦しくもなければ楽しくもなかった。職員は優しく接してくれるけど、そいつらの目線は皆『可哀想』と言っているようで、はっきり言って気持ち悪いし、同じ境遇の人や、もっと重たい事情を抱えた仲間もいたけど、全体的に空気が重たくて、仲良くできるような環境ではなかった」
「……うん」
「だけど、今は学校に通えばお前もいるし、他にも仲の良いやつはたくさんいる。ここは少なくとも楽しいんだよ。だけど、家では義理の家族だけど、兄から激しい暴力を受けるわ、父さんからの説教の度合いが甚だしいわで、正直言ってかなり辛い。……だけど!」
聖弥くんは目に涙を浮かべて、真剣な眼差しで言った。
「楽しさがないよりは良い! またあそこに戻って、養子に出されるまで、もしくは未成年を卒業するまで全く楽しくない生活を送るよりは! お前たちと過ごすこの学校生活がある方が良いんだよ!」
私は、何も言ってあげられなかった。
そんなことがあってから、私は密かに聖弥くんが楽になれるよう、頑張っている。翔大くんや美奈ちゃんにも協力を要請して、できる限りのことを。
もちろん本人には内緒で。
「よし、今日の授業はここまでだ。号令係」
「起立、気をつけ、礼」
「はい、お疲れさん」
十分休みに入り、私のところに翔大くんと美奈ちゃんが集まってくる。
「聖弥は寝てるか? よし、寝てるな」
聖弥くんの様子を窺いながら、翔大くんが小声で話す。
「うん、大丈夫」
ずっと寝ているのはさっきから見てきたから、きっと大丈夫なはず。
「それにしても、翔大のあの解答はないよねー。何よ、あの『爆弾を抱えた家族』って」
美奈ちゃんが吹き出しそうになりながらも、必死に堪えている。
「うるせえな! 俺はバカなんだよ。悪かったですねー」
嫌みたらしい翔大くんの返しに、美奈ちゃんが突っかかる。
「あら? 今更認めるなんて、珍しいこともあるものね。確かにあんた、一度もまともな解答言ったことないもんねー」
「なーにぃー!」
「まっ、でもそこが翔大らしくて良いよね」
「な、何だよ急に……って、バカが俺らしいってどういうことだー!」
「アハハハ」
……仲が良いんだか悪いんだか。
「ねえねえ、二人とも!」
私の呼びかけに対し、二人同時に「ん?」と振り返った。
「今日直接私の家に来る? それとも、一旦帰ってからにする?」
「んー、俺は昼飯食ってからにするよ」
「あたしもかな。愛里の手料理が食べたいところだけど、それは聖弥くんにやってあげるんでしょー?」
なぜか美奈ちゃんがニヤニヤしながら言う。
「う、うん……」
「なに恥ずかしがってんの! かっわいい」
美奈ちゃんに頭を撫でられながら、何で自分は恥ずかしがってんだろうと不思議に思った。
「よし、そろそろ始まるから席つくわ」
「あっ、あたしもー」
「うん、また後でね」
そして、数十秒後、チャイムが鳴った。
「聖弥くん起きてー」
背中を叩かれるのを感じながら、顔だけ起こして時計を見る。
……三時間目の前か。随分寝たもんだな。
「ありがとう」
そう言って体も起こす。
「いやー、今日もぐっすりだったねー」
美奈のその言葉に対し、誰もが頷く。
「うーん、睡魔には勝てねえなー」
「きっと、先生の話がつまんねえんだよ!」
「あんたの解答は面白いけどねー」
「なーにぃー!」
「ちょっと美奈ちゃん」
「えっ、翔大なに言ったの?」
「おっ、聖弥聞きたい?」
「おい、美奈!」
ぜひ聞きたいところだったが、教師が「座れー」と大声をあげたので、会話が中断されてしまった。
「後で教えろよー」
「いいよー」
「おい美奈! ぜってえ教えねえからな!」
そう言われると聞きたくなるよなー。と思いながら、次の授業の準備を始めた。
授業が始まってから約二十分後、警報が鳴った。
「火事です。火事です。火災が発生しました。生徒は避難を開始してください」
その合図で生徒たちが立ち上がり、教師の指示で廊下に整列する。
あちらこちらからヒソヒソ話が聞こえるが、それはいつものことだ。
緊張感がないせいか、もともと眠かったせいか、俺は思わずあくびを出しそうになった。が、途中で止められた。
「こら! 赤城!」
突然自分の苗字が呼ばれ、その方を振り返る。
「こんな時にあくびしたら、煙を思いっきり吸い込んじゃうだろ!」
「あっ、すみません」
ヒソヒソ話が注意されないで、なんで俺のあくびが注意されるんだ……とやるせなさを感じながらも、流れに乗ってグラウンドへ向かった。
グラウンドに着くと、いつものように教頭が張り切っていた。
「素晴らしい。避難の早さは全国でもトップクラスなのではないだろうか!」
出た、謎の伝統。と誰もが苦笑いしている。確かに誇れることではない気がする。
「避難訓練が早いということは、それだけ助かる確率が高いということです! 命はとても大切です! 命がなければ学校に来ることはできませんし、勉強もできません。ましてや、私の顔を見ることもできないのです!」
……命がある意味について、いろいろと突っ込みを入れたい。
「避難訓練を極めて、五分で! 三分で! いやもう一分で私の顔を見られるようにすることが、あなた達の目標なのです!」
俺たちはあんたの顔を素早く見るためにやってるわけじゃねえよ!
「そう、私がゴールなのです!」
もはや意味が違う!
「さあ、次回はもっともっとタイムを縮めるために、私に愛を持って迫ってきてください」
あー……
「私がその愛を受け止めてあげますから!」
全力でお断り致します!
突っ込みどころ満載な教頭の演説を終え、いつもの四人が集まった。
「よし、じゃあ俺はさっさと帰って速攻で飯食ってくるわ!」
「あたしも早くできるご飯を作ってもらえるよう頼んでみるわ」
「よろしく、二人とも」
皆、愛里の家に行くのが当たり前のように言っているが、俺はどっちかというと、まだ迷っている。
バレたらどうしよう。
その恐ろしさが、自分をあやふやにする。
「じゃ、聖弥くん。行こ?」
「う、うん」
結局は流れに身を任せる自分であったが、あえて後先のことは考えないようにした。
愛里の家には、親の目を盗んで、何度も行ったことがある。
初めて行った時には、もちろん家の印象についてのファーストインパクトもあったが、それよりも強く感じたのは、『これが普通の家なんだ』ということだった。
そして、いつも思うのは……
『楽しそう』
こればかりは、自分の気持ちがどうあれ、絶対に感じてしまうものなんだと思う。そして、いつもそこに入っていくのが自分で良いのか、よく分からなくなる。
「どうぞー。もう入っていいよ」
愛里の家に着くや否や、大きく扉を開けられ、まるで自分がその家の主人であるかのように迎えられる。
「ありがとう。お邪魔します」
いささか堅苦しい挨拶だったかな、と思ったが、当の本人は全く気にしていないようで、楽しそうに奥へと進んでいった。
この方向は愛里の部屋かな、と思いながら、俺も背中に着いていく。
「お母さん、友達連れてきたから!」
途中で、愛里が出した大きな声に、「うーん」と愛里の母親の声が返ってきた。
「相変わらずだな」
「えっ、何が?」
「いや、何でもない」
「えー、なにー。気になるじゃん」
「本当に何でもないよ」
そう。普通は気にすることじゃないから。
それから、予想通り自分の部屋に入った愛里は、ビニール付きの箱を取り出した。どうやら、ファミリーゲームのカセットらしい。
「これこれ! 一人でやるのもつまんないから、早く皆でやりたかったんだー」
「へー」
愛里から箱を手渡されて、俺は箱に書かれてある紹介文をまじまじと見た。
「面白そうでしょ?」
「うん」
俺にとっては、ゲームは何でも面白いと思うけど。
「二人が来る前に、私たちだけで練習しちゃう?」
笑いながら言う愛里に、「いや、いいよ」と優しく返す。
「冗談だよー。聖弥くんならそう言うと思ってたし」
「本当かー?」
「うーん」
いや、適当な返しだなオイ。と心の中で突っ込む。
「そうだ、聖弥くん。何食べたい?」
突然の質問内容に、思わず言葉が詰まる。
「えっ。ん、んー。何でもいいよ」
「それはダメ!」
愛里がなぜかねだるような目つきになり、俺をジッと見てきた。
「じゃ、じゃあチャーハンかな」
「チャーハンかー。無難なやついったねー」
「そうか?」
「うん。じゃ、作ってくるからちょっと待っててね」
「えっ、ちょ、おい」
部屋を出ていく愛里を目で追いかけながら、この間何していればいいんだよ……と、心の中でつぶやいた。
「ただいまー」
「おかえり。今日は早いね」
「うん。避難訓練だったんだ」
「そう。お昼作る?」
「うん。お願い」
キッチンに入る母さんを見ながら、息をついてソファーに座る。
トントントンと、包丁の軽やかなリズムが聞こえ、そのうちジューっと音を立て始めた。
せわしなく動く母さん。いつものことではあるけど、そのいつもの様子に気がつけたのは、ここ一年ようやく目を向けるようになったからだ。
やつれきった表情の表面に、少しばかり浮かんだ微笑み。
そのやつれは、完全に俺が築き上げたものだ。
––––中学三年、一回目の後期––––
「チッ」
何もかもが苛立たしくて、そこらへんに落ちてる缶を思いっきり蹴る。
全ての人が、俺を避けるようにして通り過ぎてゆく。そして、時々向けられる軽蔑の目。
「なんだよお前!!」
そう怒鳴り散らすと、ビクッと身体を震わせ、小走りで逃げていった。
「あー、イライラすんな」
指をバキバキ鳴らして、大きく息を吐く。
こんなクソつまんねえ世の中なんか、消えちまえばいいのに。
そう思えるほど、世界が俺を拒んでいるように見えた。
「ゲーセンでも行くか」
気分転換にと思い立ったが、いつもやってるのに何が気分転換だと、思い立った自分にも腹が立つ。
「まあいいや」
とりあえず金はいくらあるかな、と尻ポケットから財布を取り出す。
「千円札が一枚かよ」
金が少ないのにも腹が立って、財布を地面に叩きつけたい衝動に駆られたが、寸止めのところで思い直し、ポケットに戻した。
「またババアからでも金を頂戴するか」
そして、ゆっくりと家に向かっていった。
「おいババア! いるんだろ!」
玄関のドアを開けた瞬間、怒鳴り散らす俺。
何も返答がないが、ガチャガチャと音が聞こえる。
……皿でも洗ってるのか?
そう思い、キッチンに向かう。
「……翔大」
思った通り、ババアは皿を洗っていた。完全に怯えきった視線を俺に向けている。
「金がなくなった。また貰いたいんだ」
「もう無いんだよ……」
何もかもに腹が立っているのに、ババアの態度と言動が俺を爆発させた。
食卓をテーブルを思いっきり蹴り、洗い終わって乾燥機に入っていた皿を、フローリングに叩きつけた。
「あ!? ふざけるな。無いなら無いで引き出してこいよ!
とりあえず財布の中を見せろ!」
ババアの持っていた皿を無理やり引っ剥がし、洗い場に投げ捨てた。
「……分かったよ」
そう言って走っていくババアの背中を、フンと鼻を鳴らして見届けた。
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