火星創世記 ・・・人類の地球外起源
Herbie Brennan 作
芝田康彦 訳
原著
Martian Genesis: The Extraterrestrial Origins Of The Human Race
by Herbie Brennan
01 火星の顔
一九七六年の六月、NASAの宇宙探査機、ヴァイキング一号機が、火星を廻る軌道に入った。その丁度二ヶ月後、二機目の、ヴァイキング二号機が、軌道に投入された。二機の探査機は、火星の表面の大量な写真撮影探査を行った。
軌道周回機から送り返された、六万枚もの写真の内、十八枚が北緯四十・九度、西経九・四五度の、シドニア・メンサイとして知られている地域が撮影されていた。この十八枚の内の五枚に、人間の顔のように見える奇妙な岩の構造を映していた。これらの写真の最も良いものが、広く報道関係に公表された。この岩の構造は、「火星上の顔」と呼ばれた。
写真が撮られてから、三年後、別々の専門家が、シドニア領域のNASAの画像の解析に、まじめに取り組み出していた。彼らは「顔」だけでなく、いくつかの近接している不自然な形状をしたものにも興味を持った。一九九三年に、合衆国とスウェーデンの著名な学術学派のグループが、スタンリ・V・マクダニエル教授による火星の異様なものについての一つの報告書を受理した。
その報告書は、その「顔」が人工物であるという証拠を提出した。
2 アイルランドの南西の海岸のはずれにあるブラスケット島の北端にある、イニス・トゥアイシャートは、恐怖のマルビ、死んだ男として言い伝えられている。この奇妙な名前の由来は、この島の岩の形が、埋葬されて横たわる死骸に似ているからである。たとえ、よく似ていて、それが人工的なものであるというなんらかの示唆を持っているとしても、この死んだ男は、自然の風化とエロージョンの結果以外のなにものでもない。
著名な天文学者で、地球外知性に関する専門家である、フランク・ドレイク教授は、「火星上の顔」は、そのようなもののなにかであると考えている。「月の男」のように、それは、「地形学と写真の事故のようなもの」である。画像が最初に公開された時に、NASAは同じビューを沢山提供した。公式の発表は、「顔」は自然の岩に当った光によってできた、光と影のトリックであると片づけた。しかし、マクダニエル教授は、そう確信はしなかった。彼は、ヴァイキングによる最もよい「顔」の画像の二枚が太陽の角度が異なって(十度と二七度)撮影されている事実を問題にしていた。その二枚は、また、異なったカメラアングル、衛星の高度と軌道の傾きが異なって撮影されていた。教授は、「顔」が光のトリックだったならば、光が変った時に、それは消えているべきで、少なくとも歪んでいるべきだと論じている。マクダニエル教授は、「顔」が光りのトリックだとは考えていない。彼は、それは顔であると考えており、人工のものであろうと信じている。彼に賛成するほかの専門家たちがいる。
3 写真傾斜計測は、月の地形の解析を助ける為に天文学者たちによって開発された技術である。それは、写真の中の光と影の相対角度から対象物の形、つまり影からの形を見積るものである。マサチュセッツ州ボストンのアナリティック・サイエンス・コーポレーションのデジタル画像処理の権威であるマーク・カロット博士は、そのヴアィキングの写真にその技術を応用した。彼は、その二枚から三次元解析を実施して、「顔」の主要イメージを画き出しただけでなく、他の解析によって、(異なった光の角度での)ここのイメージの様子を予見もした。彼は、以下のように結論付けている。
この特徴は傾斜地形での存在であり、広い範囲での照明条件と遠近法からも明らかに、それと判る顔の性質を映し出しているように見える。
言い換えると、写真のなかで顔のように見えるものは、実際に地上の顔であり、ドレイク教授の言うような、“月の男”のような幻影ではない。
4 これはイニス・トゥアイシャート、或いは山の老人、ニューハンプシャーの顔の形をした岩のような自然の造形物ではありえないことを意味している。
しかし、イニス・トゥアイシャートと山の老人の両方とも、輪郭では人間の顔をしている。輪郭が似ているというのは、ただ外形だけでいい。顔全体が似ているというのはもっと複雑である。顔全体の三次元的に似ているというのはー写真傾斜計測で明らかにされたようにー常に、もっとわざとらしい。仮にそれが“顔”だというのを無視したとしても、地球上で、月で、ましてや火星のどこかでそのような自然に造形されたものの例などただ一つもない。
火星の上に存在する人の顔の形象が如何に良いものかが写真の研究で裏付けられている。NASAのイメージの最初のもっとも広く公開されたものを最初に見た時に、見えるのは、眼窩であり、鼻の外観そして口の部分である。“顔”の左側(写真を手にとって見る時の右側)は影の中にある。全体がヘルメットのように見える幾つかの種類の足場で部分的に枠どりされている。
しかし、このイメージは、デジタル変換の結果である。軌道を廻る宇宙船のデジタル・カメラは、撮影主題からの受け取ったデータをコード変換して、この変換されたデータを基地に送り返すのである。最初のデータの解釈は写真に取られた主題の広い範囲の外観を与える。精密な詳細を抽出するのに、コンピュータによる強調が必要とされる。これは、いかなる形での修正や推定作業によっては行われるのではなく、オリジナルの個々のピクセルを創り出す為の使用されるデータを統計的に修復させるのである。この方法は、宇宙からの放送用の写真の解釈での標準的なアプローチである。
コンピュータでの強調処理で、“火星の顔”のヘルメットは、等間隔の直角のストライプで装飾されていることが示された。正確な対称軸で交差した線からできた、額の上に半月型のはちまきがある。口には歯がある。これらの特徴のすべては両方の主要なバイキングからのイメージに現われており、だから、無線干渉や何かによって創られたランダムな
人工物ではない。その眼は、コントラストの調整で、眉、瞼そして上にあげられ、等高線で縁取られた瞳孔があらわにされた。
“顔”の影の部分について、コンピュータによる強調処理は、頭を組み立てるために連続して取り巻いている兜を示した。口の線も続いている。二つ目の眼も期待される場所に存在している。コンピュータによって三次元の“顔”に再現したものは、三次元的に対象であることを示している。
詳細部のこのレペルは多かれ少なかれ、“顔”が風によるエロージョンでできたという可能性を除外している。自然によるものだとするには、その要素の個々のものが、完全に異なった地質学の論理的な根拠で説明されなければならないだろう。
5 ジェームス・L・エルヤベックは、地質学者であり、13年以上に渡る経験をもつコンピュータ/地質情報システムの解析者である。彼は、研究を続けるための、地質学的な基礎を確立するのを援助するために、火星のシドニア地域の拡大地形図を作成していた。エルヤベックは、ジトニアでの奇妙な特徴物が風のエロージョンの仕事だとは信じていなかった。一九九六年の発表で、彼はエロージョン説が火星の北部の低地の平野が一キロメートル以上のエロージョンを起しうる堆積物に覆われていたことがあるという前提に基づいていると指摘した。しかし、一九八九年、地質学者のG.E.マックジルはクレータの大きさの方程式を用いて、北部の低地の平野のほんの穏やかなエロージョンしか起きえなかったと結論づけた。もっとも良くても、物質の二百メートル以上が、平野から削りとられることはありえない。これは、単純に、このエロージョンでは、シドニアの構造物を創り出すのに十分ではないのである。
6 もし、読者が絵画の訓練を受けていたら、人の顔の古代の比例値を学んだことがあろう。-顎から鼻までの距離が眉毛と毛綱(そこには眼や耳が置かれるとか)の距離に何らか関係している。
画家で、人類学学者のジェームズ・シャノンは“火星の顔”を精査してそのプロポーションがクラシックな基準に合致していることを発見した。彼は、この構造物が“.....意識的に創られた、考古学上の代表的な記念碑で、.....われわれの祖先が残したもの...”と結論づけている。シャノンは、この”顔“は芸術作品だと考えている。
7 フラクタルというのは、自己-相似と呼ばれるものによって特徴付けられた地形形状である。このことは、形状のどの部分も、大きな部分の小さくしたコピーだということを意味している。
フラクタル地形学は比較的新しいものであるが-最近、一九七五年に導入された-しかし、既に、化学、生理学、流体機構など、さまざまな科学的な教科に影響を与えてきている。フラクタル解析は、自然の地帯がフラクタル数学の規則に従う傾向に有り、一方人工的なものはそうではないという発見に基づいている。もし、自然の対象物にフラクタル解析をしてグラフに画かせると、もっとも代表的な“特徴”は直線である。人工的なものでの“特徴”は曲線である。
この二つの事実は、人工的なものとして処理する可能性を見積ることを赦してくれるのです。曲線の特徴が多ければ多いほど、その対象物は、より人工的なものである。地球の表面の衛星からの写真を評価するのに利用すると、フラクタル解析が人の作った対象物を当てる正解率は八十パーセントである。
カールロット博士と共同研究者のミカエル・C・スティンが、“火星の顔”にフラクタル解析を適用した。すると、彼らはジープのフラクタル解析で得た同じ程度多くの曲線を得たのである。
8 シドニア・メンサエは多くのクレータをもつ南側の高地を北に向う低地の平野から分離している吐き口にそったブッツとメーサの地域である。そこには、“顔”から離れて、火星の他の場所にはみられない、多くの構造物がある。
カールロット博士が、その場所にフラクタル解析を実施したところ、それらの三つが人工物を代表する曲線の特徴をしめした。
9 一九九三年、建築家のロバート・フィールテックが、火星の構造物の位置関係を注意深く計測するのを含めた四年間に渡る研究を完了した。彼はそれらの建築上の対称性に印章を受けて、次のように結論している。
シドニアの個々の対象物が人工的であるか否かは、議論されうるが、
しかし、全体としての複雑性は何かしら人工的であるというのは非常に
疑わしい。
構造物のいくつかは、形状がピラミッドのように見える。それらの一つは、ヴィンセント・ディピトロとグレゴリ・モリナーによって、一九八〇年に発見され、今では、彼らの名誉のために、一般に、D&Mピラミッドとして参照されている。それは五角形で、対象で、その東側に衝撃による損壊が現われている所は対象が崩れている。一九八八年に、地図作成者で製図者のエロール・トロンがそのピラミッドの原形を幾何学的に再構築した。このプロジェクトの途中で、彼は構造物の観察された特徴の理由を明確にする自然なプロセスを発見しようと試みた。
そこには、五つの認識された可能性が存在する:流体の流れ、火山の活動、風によるエロージョン、重力、そして結晶の成長、これらの最後のものは、一般には、もっともありえないものと考えられるのだが。トロンの解析は、順番にこれらの一つ一つの可能性を排除していった。
彼が、D&Mピラミッドが人工物と信ずるのに気が進まなかったので、彼は“自然造形の知られていないメカニズムが、その対象物の観察される一般的な特徴の理由を満足に明確にするものだ”とだけ結論付けた。
トロンは、D&Mピラミッドの幾何学的なモデルを、仮装の損壊が起される前の、その特徴や固有性を探求するために創った。彼のモデルは、ユニークなものをはじきだした。それは数学的に豊富な特徴であり、二、三、五の二乗根、そしてπ、そして、一対一.六一八の黄金分割比の受容できる値を集めていた。
一方、数学者たちの印象は、どのように有りそうも無いものから、事故のようにそのような値がでてくるか、この発見は寝た子を混乱させる傾向があるか彼らは認識している。しかし、既に本当に奇妙なものがあるという文脈の中に、いくつかの奇妙なものの最初のヒントがあることを指摘することは価値がある。
二、三、五の二乗根の値は、幾何学図形に共通に発生し、vesica piscisとして知られて折り、古代の宗教のシンボルに広く使用されていた。黄金分割は、人の眼に固有の心地よい絵を画く時に、その比を使用するので、絵画の生徒たちには良く知られている。
10 恐らく、火星の異様なものを最も良く知っている、講義したり、書いたりしているのは、リチャード・C・ホーグランドである。彼の興味は火星へのミッション、独立した宇宙探査と政策グループをニューヨーク市郊外に設立するほど深いものである。一九九三年、彼は、その超次元物理学とその技術的な関わり合いに関する仕事で、科学における卓越に送られるオングストローム基金の最初の国際オングストロームメダルの受賞者である。
続く調査の途中で、ホーグランドは、シドニア領域での奇妙な構造のすべてを広範囲に測定し、複雑なものの多くが神聖幾何学の原理に従っていることを発見した。
神聖幾何学とは、古代エジプトと古代ギリシャの寺院建築に影響を与えた、ある複雑な伝統的な関係を使用する学問の名前である。この“火星の顔”は長さが一.五マイル、幅が一.二マイル、高さが〇.二五マイルである。南に八マイル行ったところにある、D&Mピラミッドは、長さが一.六マイル、幅が一マイル、高さが〇.三一マイルである。
もし、これら構造が人工だとしたら、それらは、エジプトのピラミッド群をおもちゃみたいにみせるだろう。
02 生命、我々の知る限りでは、無い
火星は太陽から四番目の惑星である。二十四時間三十七分で、その一日は、地球と殆ど同じである。傾いた自転軸をもち、大気と季節をもつ。しかし、そこでは地球への類似点は粉挽きの停止になる。
火星の一年-六八七地球日分である-は、我々の一年のほとんど二倍である。火星の気温は冷たい。海水面(もし、そこには無い海が有れば)では、平均で摂氏約マイナス二十三度である。不毛の表面で飛び跳ねてみれば、重力がかなり違うことに気付くだろう。この惑星は、六七九〇キロメートル(四二八四マイル)の直径をもち、地球の約半分であり、地球での体重の大体三分の一体重になるほど、密度が低い。大気は薄く炭酸ガス主体でいくらかの窒素とアルゴンがある組成である。
水の痕跡は検出されているが、しかし、多くはない。存在する水は両極の氷の冠に閉じ込められているようである。しかし、この極冠はすべてが水の氷で出来てはいない。実際はその多くは炭酸ガスの凍ったものである。この惑星の半球の間には、劇的な違いがある。NASAの探査機によって送られてきたイメージは南半球は古くてクレータだらけで、地球の月の表面に似ていることを示している。対照的に、北半球はどちらかというとより若い物質で覆われているようにみえるが、恐らく火山、しつこく-しばしば激しく-吹く火星の風によるのかもしれない。そこには非常に少しのクレータしか見当たらず、地形は広くて平らな平地である。両半球の間で何故ソンナに違うのか、不思議である。
この惑星の表面の容貌の多くは、地球の標準からいうと巨大である。火星の山、オリンポスMonsは、太陽系で知られている最大の火山である。直径が、五五〇キロメータ(三四七マイル)で、高さは約二七キロメータ(十七マイル)である。火星の赤道付近には、長さが四千キロメータ(二五二四マイル)の巨大な峡谷がある。南に行くと、一つのクレータで直径が一六〇〇キロメータ(千十マイル)のものがある。
地球をみた眼には、火星の表面の景観は極端に異様である。風によって出来た巨大な砂丘が普通である。広大な砂丘が北極の冠の周りを取り巻いている。風が吹いてできた岩窟の歪んだ、炎の形をした地形は、多くの顕著なものの風下に作られている。空には、二つの衛星があり、二つとも早くし動き、一つは特に早く動いている。
火星の内部についての知識は、限定されているが、しかし、その構造や化学組成を暗示する証拠は、地球と月のそれとは非常に異なっている。鉄-ニッケル成分が低いかもしれないのである。
火星の土の化学的な性質は、地球や月の岩には似ていない。言ってみれば、自然に存在するポタシューム、ウラニューム、トリュームなどの放射性同位元素を含んだとても風化した粘土のようなものである。
このどれもが、火星の生命の可能性を見積もるためのに、非常にでありそうに響かせない。しかしながら、生命の可能性が完全に除外されうるものではない。
科学者によって定義されている恒星の生態圏は惑星が液体の形で水をもてて、大気が空間に蒸発してしまわず、生命が生きるのに十分な暖か差をもつ範囲の距離である。
私達の太陽の、生態圏は火星を含んでいる。
2
昔、一八四四年に、フランスの天文学者、E.L.トュルベロが火星の表面の季節による明るさの変化を観察した。彼はそれを植生によるものと結論づけた。彼の解釈が間違いでないか、他の人々が彼の観察を確かめた。どの春にでも、火星の輝く部分と暗い部分の間のコントラストに明らかな増大が見られた。何人かの天文学者は、同様に色の変化をも見たと報告している。
3
トュルベロが火星の上の植物生命について最初の推測を出版した時、ジョバンニ・ビルギニオ・シャパレリは九歳であつた。彼らはシャパレリの経歴の選択に影響を与えた。一八五四年に天文学を学ぶためにベルリンに行き、二年後にロシアのプルコワ天文台で観測助手を約束された。一八六〇年、シャバレリはミランのベレラ天文台のスタップに参加した。一八六二年にはそこの管理者になった。
天文学者として、シャバレリは顕著な経歴をもっている。彼は、小惑星ヘスペリアを発見した。彼は隕石の群れが彗星の軌道に似た軌道を廻っていることを示した。彼はまた、連星を観察した非常に早い頃の天文学者の一人である。
一八七七年に火星を観察していた彼は、それによって一躍世界に有名になる観察をした。ベレラの望遠鏡を通して、シャバレリは火星表面の輝く地域を横切る薄くて動かないまっすぐな線群に気付いた。それらの線群の系統だった観察は、それらが数百マイルから数千マイルにも及ぶことを示した。それらの線群はまた、季節によって、正に、トュルベロによって観察された輝く地域と暗い地域のように、変化したのである。シャバレリが彼の発見を出版した時、彼はその線群が、火星表面の水路群である可能性が高いとの推測を示した。しかし、彼はイタリア語で出版し、彼のペーパーが英語に翻訳された時に、水路(canali)が、“canals(運河)”と不正確に翻訳された。この間違いがこの“運河”が知的生物によって掘られたというアイデァに導いた。
4
この危機に捉えられた者の中に、アメリカの天文学者、パーシバル・ローウェルがいた。著名なマサチュセッツファミリーのメンバーとして、ローウェルは火星の研究に素早くささげたかなりの個人的な財産をもっていた。一九八〇年代に、彼は個人の観測所をアリゾナ州のフラグスタッフに建設し、彼の望遠鏡を赤い惑星に向けていた。多くの他の人々と同様に、彼はシャパレリの”運河“を見ることができた; ローウェルは、文学的にその言葉と捉えた。彼はロマンティックで、不可思議好きで、気分の変る男だった。(彼の本の一つは”オカルト日本“というものである)彼はぼんやりした線群は耕作された植生の帯びたと理論付けた。彼は、この死の世界に知的な住人が、毎年溶け出した極冠の氷からの溶けた水を使う、惑星大の灌漑システムを構築したと信じていた。
しかし、ロウェルのアイデァは時の試験に合格するのに失敗した。そこには彼の理論への科学的な逆転はもとより、それらの線の真実があった。ある時期、工学的な幻影としてそれらをかたづける風潮があった。しかし、米国の宇宙船マリナー四号が一九六五年に火星に接近した時に、二つのことを明白にする写真を送信してきた。
一つは“運河”ではなく、水を保有した植生のロウェルの理論でもないことである。二つ目は、そのその途方も無い直線の形状が事実火星の上に存在することである。科学者はそれらについて、山脈、クレータのつながり、境界線の輪郭、断層線や隆起などと説明している。
5
一九七六年の六月二十日、火星の表面を撮影したヴァイキング一号宇宙船が、クリセ・プラニシア領域の北緯二十二度、西経四八度に着地したロボット着陸船を打ち出した。一月過ぎた頃に、ヴァイキング二号から打ち出された探査機が着陸した。その場所は、ユートピア・プラニシアであり、北緯四八度、西経二二六度であった。
着陸船は機械仕掛けの昆虫のようだった。それぞれがふ有機物質の存在(あるいは残存)の証拠を捜す為に設計された装置を搭載したミニチュア実験室を持っていた。シドニアからは遠く離れた所で、これらの小さな船は大気と土の分析を始めた。計測器は気温を計り、風速を読み取った。カメラは可視光線と赤外線の両方で近くの環境の写真をとるために回転した。
これらの作業のすべては、次の三つの質問に応えるのを目的としていた。
・ 火星の表面に、何らかの有機物質が有るか?
・ 生きている或いは化石化した有機体を示唆する表面上の何かが存在する?
・ バクテリアか植物生命のなんらかの証拠が、火星の土の中に有るか?
最初の実験は、直接の感度の高い化学分析を含んでおり、火星の表面にどんな有機物質の痕跡もないことを示した。結果は明瞭だった。第二の実験は同様に明瞭な結果だった。カメラは、化石、人工、或いは付近にどんな生命形態の証拠をも与えなかった。
第三の実験は、より複雑だった。最初、探査機は、植物の存在を示すであろう光合成の印を捜す、或いは、有機複合物の存在を示すであろう化学合成野印を捜す希望をもって土のサンプルを熱した。次に、湿った大気の中に晒した、或いは有機栄養分に溶液で洗った土のサンプルからでてくるガスを測定した。最後に、放射性化学養分に晒した土のサンプルからの放射性ガスの放出を捜した。
三つのすべてのアプローチは肯定的な結果を出した。一組の結果は、実験が地球でだした生物反応の疑いようのない証拠として受け入れられたものであった。このプロジェクトの責任をもつ科学者たちは、生命の印は存在しないと決定した。
この見解は、広くは、真偽を問題にされなかった。ただ、現実の論争は、実験がただ二つのサイトで行われたもので、実験の範囲も限定されているという事実に基づいていた。
6
一九八〇年に、一つの興味深い、しかし、あまり公開されていない実験がモスクワ大学宇宙生物実験室で行われた。ロシアの科学者は、ヴァイキング着陸船から送信されたデータに基づいてシミュレートした火星の環境を創り出した。それに色々な地球の生命形態を入れた。
予想どおり、鳥や哺乳動物は数秒で死んだ。しかし、爬虫類は数時間、ある種の昆虫は、数週間も生きていた。しかし、実際の驚きは、植物生命でだった。菌、藻類、地衣類、苔、そして豆やカラス麦やライ麦のような穀物は、生き延びただけでなく、順応期間の後に、実際に生育したのである。
7
一九八七年、NASAは何曲で発見された火星の”隕石“の写真を公開した。その写真の一枚は極めて異様だった。それは四つの石のプロックが石切り工によって切り出されて合わせられたとしたら、世界中どこででも見られるものに見えた。
8
一九九六年の八月六日、地球へのエイリアンの侵略を画いたハリウッドの封切り映画、“Independence Day”が世界第一位をマークした。視聴者が映画館に入った時、NASAの科学者が火星に生命の証拠を発見したというニュースが打ち明けられた。
しかし、現在の生命ではない。その打ち明け話は、一二〇〇〇から一三〇〇〇年昔に南極のアレンヒル地域に衝突した隕石(ALH84001)に関するものだった。其れは、一九八四年に科学者によって発見せれていた。NASAとロンドンの公開大学と国営歴史博物館による最初の解析は、その岩が火星の大気と同じ組成のガスで封じこめた気泡を含んでいたことを示した。このことは、この隕石が何らかの衝撃の力によって、火星表面から“叩きだされた”という結論を導いた。引き続き行われた解析は、更に大きな大当たりになった。隕石の内部が非常に原始的な顕微鏡的な生命形態の化石の印を含んだ白亜質構造だった。その隕石は、最後の氷河期の終わり頃に地球に着いたにもかかわらず、火星の岩は45億歳と推定されたが-以前に発見されていた隕石よりもかなり古いのである。専門家は、その隕石は惑星が最初に形成された時のオリジナルな外皮の一部だと考えた。
火星は今日では冷たく、乾燥していて、不毛の土地であるが、ロンドンの国営博物館のモニカ・グラディ博士の仕事は、かつていつもそうではなかったことを示した。その当時は、化石のバクテリアが生きており、火星の気候は、暑く、湿っており、その結果、生命の進化を導くものだった。
しかし、NASAの管理者、ダニエル・ゴルディンは、科学者が火星の生命について離した時に、“小さな緑の人々”について彼らが言及しなかったことを、強調した。ロンドンの国営化学博物館のダウ・ミラード博士が、火星にある時期にもっと進んだ生命があったという示唆が発見されたのか否かを尋ねた時に、彼(ゴルディン)は、どんな直接の関係をも否定した。
彼らのどちらにも“顔”について尋ねようとは考えなかった。
9
地球で発見された最も古い化石は34.6億年で、西部オーストラリアのの堆積岩の層から発見された。それらは、火星の岩に印を残していたものと酷似した顕微鏡的なバクテリアの残存だった。しかし、火星の生命形態は36億年であり、一方の地球のものよりも一億年も古いものである。このことは、火星の生命の進化が地球での、生命の進化の始まりよりも、一億年も早かったことを示唆している。
双方の惑星での進化の進み具合をラフに同じとしよう。もし、そうだとすると、血き憂で起こったよりも、一億年も早く、知性が火星に現われえたかもしれない。同様に、文明も地球で現われたよりも、一億年も早く、火星に現われえたかもしれない。私達の現在の技術レベルに、火星では一億年以上も昔に達してえたかもしれない。恐竜ディノザウルスが地球で吠えていた頃に、火星では宇宙飛行を計画できたかも知れない。
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もし、仮に自然というものを無視すれば、火星人か太陽系を越えてやってきた生物だけが“火星の顔”を創ることができたであろう。科学者たちは、この後者の可能性を受け入れていない。
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SETIはSearch for Extratrrestrial Intelligence(地球外知性探査)の頭文字をとったもので、このプロジェクトは一九八〇年代の遅くに、一億ドルのNASA交付金と個人的な援助を受けて設立された。このプロジェクトの代表、フランク・ドレィク教授は西暦二〇〇〇年以前に、地球外文明からのラジオ信号の発見を目撃できると期待した。ドレイクはまた、彼の科学者の仲間たちの九九.九パーセントが、地球外に知的生命体のが存在するということに心から賛成していると述べている。それらの文明の大半は、天の川銀河を越えて向うに存在しているかもしれない。
この信念の根拠は、統計的である。知られている宇宙には、多くの銀河が存在し、個々の銀河には、多くの星が存在し、知的生命を維持している惑星の存在確率は、確実にあるというものである。
一九五九年に、ウェストバーシニアのグリーンバンクにある国営ラジオ天文観測所での、オズマ計画プロジェクトを、最初にSETIの努力としてドレイクが設立しようとした時、彼は宇宙空間での発見可能な文明の数を計算するのに、
N=R.x fp x ne x fl x fi x fc x L
という公式を開発した。
この公式の色々な要素に代入される値が、年数で変わるとしても、最も悲観的な解でも、天の川銀河だけでも、千個の進んだ技術文明があると示唆していた。選り、楽観的に見た値は、一億の桁の数字になった。
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一九六八年、スイスの作家、エーンリッヒ・フォン・デニケンが進んだ知性が存在することはもとより、それは既に地球を訪れていると示唆した。フォン・デニケンの理論は、地球外からの訪問者が “神々”の宗教的な神話として実際に言及されていることと、彼らの“不思議な”力が進んだ技術によるものだというものである。
それは、大衆の想像を掴んだ一つのアイデアであった。フォン・デニケンの本は世界中で、二五〇〇万部以上売れた。しかし、彼の理論は、科学のコミュニティでどんな氷もきりだすことはなかった。彼は、誤まった解釈をしている、誇張している、果ては証拠を偽造していると問責された。興味ある命題として始まったことは、結果的に批判の重圧によって潰された。
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科学者たちは宇宙からの訪問者に依然懐疑的である。彼らは恒星の間の距離が大きすぎて恒星間旅行が可能にならないと議論している。距離を光年で測られるが、一光年は、5,865,696,000,000マイルである。
私達の銀河で最も近い恒星は、アルファ・ケンタウリであり、血き憂から、4.3光年の位置にある。天文学者たちは、この恒星系に何かがすんでいると信ずる理由をもっていない。一九九六年に、彼らは生命を維持するのに理論的に可能な一つの惑星を発見した。それは五〇光年先にある、70ヴイルギニスを廻っている。
一九六一年、米国のノーベル物理学賞受賞者、エドワード・パーセルは、相対論的ロケット-光の速さの何割かの即とで航行できる乗物-のエネルギ要求を計算した原子力エネルギ委員会(AEC)への特別報告書を書いた。その数字は巨大であり、恒星間旅行を可能にできる進んだ文明はないと、彼は結論していた。彼の述べたアイデアは穀物箱の後ろに属するものであった。
もし、仮に恒星間訪問者が地球に来るのに遠いというのなら、火星への訪問も彼らには遠い筈だ。ということは、”顔“が火星人によって創られたと云うことだ。
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しかし、”顔“は明らかに、人間に見える。
二つの同じ種が進化するチャンスが隣の惑星に同時に起こるのは、10の16,557,000乗であり、この数字を完全に書くのに、この本では千頁を越えるほどに巨大な数である。
人間の顔に親しくなるために、火星人は一度は地球を訪問しなければならない。証拠となる、一つの巻き込まれた痕跡は、彼らが人間人類を発見していたかもしれないことを示唆している。
03 祖先の接触
現在の考え方によれば、ホミニドとして知られる近代の人間、五から八百万年前のどこかで、猿から分岐したという。
ホミニドの遺骸はアフリカでのみ発見される。科学者の共通認識は、これらの創造物は熱帯の気候での生命に選ばれたのだと受け入れている。彼らは、原始的な猿に似た動物であった。それは進化して、偶然、人間になった。彼らの解剖学的特徴は近代の人とは違っている。古生物学の学者たちは、他からでた一連の化石から、いくつかの問題を拾い出した。しかし、彼らは一つの点で人間のようだった。彼らの立ち姿勢は、ものを持ち運ぶために、何かを操作するために、道具を使うために手を自由にしていた。
道具を使うことは、ホミニドに進化する水流を提供した。多くの専門家は、道具の創作と使用が、人間を低位の動物から極端に分離したのだと信じている。最も古い記録されている道具はエチオピアのハダーで発見された、削り出された小石であり、それらは、二百五十万年前のものである。
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専門家は、この初期の道具を使うプロト人間を“ホモ・ハビリス”と名付けた。この言葉は“手を使う人”と翻訳する。彼らの化石の骨が、東アフリカのタンザニアのオルデュバル・ゴルゲで一九六四年に、イギリスの古生物学者のルイス・リーキーによって最初に発見された。人間の進化における、ホモ・ハビリスの正確な位置は、確かには知られていない。何人かの科学者は、それが我々の種の最も古いメンバーだと信じている。他の科学者たちは、初期の猿のような生物、アストラロピテカス・アフリカヌスと種のより新しいメンバーの、ホモエレクタス、又は“立って歩く人”との間の進化の途中のものを代表しているものだと考えている。
約千八百万年前に、この種、ホモハビリスのメンバーは、既に彼ら自身の小屋を建ててオリ、その証拠はオルデュバル・ゴルゲに残っている。彼らはまた、衣類、小屋、衣服、道具を創ることを学んでいたに違いなく、徐々に大きくなる脳のサイズは、我々の祖先がアフリカから出て行くのを可能にした要素である。これらの最初の二つは、世界が一万五千年前の世界的な氷河期に気候が向いつつあり、冷えてきていたので、特に重要な事だった。
現時代の前、一万七千年まで、人はアジアにいて、火を用いている。現在の前、七十万年より以前のある時期に、ヨーロッパへと移動した。フランス、チェコスロバキア、ユーゴスラビアに最初の頃の生活の痕跡がある。現時代の七十万年前の後、その生活範囲が広がったが、最初の頃の場所は地中海の縁に群れていた。十二万年前頃に、ネアンデルタール人がユーラシアに出現した。彼らは、本当の人間ではなかったかもしれないが、我々の人種の“親戚”であることは確かである。彼らは、花と共に死骸を埋葬し、儀式習慣に従い、生まれ変りを信じていたように見える。
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近代人間、ホモ・サピエンス・サピエンスの最初の出現は、約十万年前に、南アフリカで起こった。これらの最初の人間はアフリカ中に広がり、そして3万五千年前頃にヨーロッパに現われた。ある説では、彼らがネアンデルタール人を滅亡に導いたという。農業革新が彼らを捉えるまで、彼らは、狩猟民族として生きていた。
考古学上の共通認識は、農業革新は最後の氷河期の終わりとしており、紀元前約八千年ごろである。氷河期は氷河を南に流す以上のことをしている。氷の板を創る時に、世界の水をどんどん閉じ込め、大気の湿気を減らし、結果として雨を降らせたのである。熱帯でのこの効果は、砂漠を広げ、一方で、海水レベルを下げ、大陸の外形線を変えていった。最後の氷河期の間、例えば、ブリテン島はヨーロッパ大陸と陸続きであった。ある時、氷の板がとけ、雨が増大し、ツンドラと砂漠は森と草地を取り戻された。狩猟動物は増え、状況はだんだんと、飼育場の開発に適していった。
考古学者は農業の出現は紀元前約八千年前としている。場所は、いわゆる近東(シリア砂漠の北端のペルシャ湾からパレスチナとエジフトの境界線までの地域)の肥沃な三日月部分である。他にも、農業は、紀元前六千年前に中国と、同時に、中米にも現われている。
文明化に導いたのは、農業の発達であった。紀元前四千年までに、農耕は古い世界のほとんどの生活の方法になっていた。最初の都市型共同体はここに出来た。文明は行進を開始した。
これが共通認識である。近代人はアフリカに始まり、原始的な狩猟民族としてアジアへと広がり、氷河期の終わり頃に農耕を始め、その数千年後に都市を建設し始める。
読者は、このどこにも火星からやってきた人間への言及が無いことにお気付きだろう。
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正にこれば、科学者たちが彼らが真実に到達したことを意図する必要がないという共通認識に到達したからである。
共通認識の科学は近代人類の歴史的な期間を、最新世からHoloceeneの期間、約二百万年前から現在までとしている。人間の活動のすべては、化石になった骨と、ほんの少しの加工物とでチャート化されている。最も重要な、加工物は、目的を持って修正された動物の骨であり-切り込みを入れ、割り、曲げ、削られ-そして、興味深い、原石器、旧石器、新石器と呼ばれる小間物である。
原石器(“夜明けの石”)は、使用する為に、石を割って、一つ或いはそれ以上の縁を意図的に加工したり磨いたりしたものである。それらは、最も早くから知られた道具だと考えられている。旧石器(“旧い石”)は、もう少し複雑である。目的を持って、認識された道具のタイプとして、割られた石である。新石器(“新しい石”)は、もつとも進んだ石の道具や日用品である。
科学者が共通認識している最も初期の解剖学的な近代人間の化石は、十万年前とされ、アフリカと限定されている。ホモハビリスやホモエレクタスのようなもっとも早い認識されているプロと人間でさえ、五百万年前の鮮新世より現われていないとされている。
しかし、十万年前に解剖学的な近代人間はいなかったとするアイデアは、多くの発見によって、否定されている。奇妙なことに、その発見はアフリカに限定されてはいない。
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ハンガリーのフェルテッツォロスで掘り出された人間の頭蓋骨の破片は、二十五万年から四十五万年の間のものとされた。フランスのテラ・アマタで発見された人間の足跡と一緒に発見された旧石器、骨製の道具、かまどそして小屋は三十万年から四十万年昔のものとされた。これらは、アフリカを去ったと家庭された、その十万年も前にヨーロッパに近代人類がいたことを示唆している。
この証拠は、他の発見によっても上手く支援されている。スペインのトラルバでの旧石器、クリティでの部分的な人の骨格、モウリン・キグノンでの水差しと旧石器、この二つはフランスで; そして、二つのイギリスでの骨格の発見物、一つは旧石器と共に、ロンドン近くのイプスビッヒとガリーヒルで発見されたものを含んでいる。すべて、少なくとも、三十万年前のものである。
イプスビッヒの骨格は六十万年くらいかもしれない。
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この発見を取り巻く論争がある。共通認識的な見解に反論するどんな発見にも其れを取り巻く論争があるものだからだ。クリティでの発見は、くわせものだといわれ、モウリン・キグノンの発見は偽造といわれてきた。ガリーヒルの骨格は本物だとして広く信じられている一方で、専門家は、それが最近古代の地層に埋ったものにちがいないと主張している。
ただ、アフリカの発見が人類の進化の理解にユニークな貢献をした、ルイス・リーキーの非常に高い名声が彼をくせものとか偽造とかいった非難から守ってくれた。それは、彼がケニアのカニラで骨格と旧石器を、タンザニアのオルデュバル・ゴルゲで進化した旧石器と近代人間の製造物の発見を報告した時である。後者は四十万年前、前者は四十万年から七十万年前の間のもとのされた。これらの発見物の明らかな意味する所は、しかしながら、一般的には無視されて続けている。
旧石器、骨の道具、刻まれた骨、イングランドのクローマー・フォレスト・ベッドで発見されたSAWN木の意味はある。ここで、再び、その日付は四十万年より最近ではなく、四倍も昔に溯る可能性があるようだ。中国の Geheで、完全な人間の才能を示すタイプの新石器は六十万年前とされた。いろり、炭、人間の大腿骨、折られた動物の骨、すべての近代人類を示すものが、ジャワのトリニルにあった。その日付は現在の時代の前、八十三万年である。
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共通意見を維持している科学者は、これらのいろいろな人工物や化石は解剖学的な近代人間の習性を与えられ得ないもので、従って、時代が間違っているにちがいないと議論している。どちらかと云うと、それらはホモサピエンスではなく、より旧いホモエレクタスの残存に違いない。この論理は、二重基準に基づいている。もし、その証拠が共通認識を支えるというのなら、それは既に受け入れなれている。もし、そうでなければ、それはい日常的に-時々わめいて-挑戦されるのだ。
共通認識のケースの亀裂は、百万年より前に近代人間の証拠にたどりついた時に広がる。この日は、最初のヒミニド、つまりホモ・エレクタスのアフリカからの移民の印とされてから、共通認識の観点にとっては、決定的なものである。このことは、アフリカの外で発見され、百万年以上前とされた、どんな骨のかけらや人工物ももはや、ホモ・エレクテスには帰することはできないことを意味している。
そのような発見は存在する。アルゼンチンのブエノスアイレスで発見された解剖学的に近代人間の頭蓋骨は、百万年から百五十万年前の間とされている。ジャワのトリニルでの人間の歯は百万年から百九十万年の間になった。アルゼンチンのモンテ・ヘルモスの原石器もまた、百万年から二百五十万年前の間と信じられている。
これらのすべてが境界線上にある。もし、読者がそれぞれにもっと最近の可能性のある日付をつけたとしても、彼らは、可能な限り、ホモ・エレクタスの時代の期間に握り閉めておくだろう-個々の発見がエレクタスのタイプではなく、ホモ・サピエンス・サピエンス、近代人間のタイプであるにもかかわらずである。
しかし、一度、読者が不思議な百万年前の印を越えて、最も最近の日付にある発見物を考えたとして、共通認識のケースに執着することは困難である。
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フランスのセントプレストで発見された原石器と削られた骨は、百二十万年前という最新の日付付けがされており、ホモ・エレクタスがアフリカを去ったと仮定されている日付より、二十万年も前である。彼らが現在の時代の前二百万年の昔である可能性が存在する。
現在の時代の前百二十万年から二百五十万年前の間とされる削られて骨が、イタリーのファルデアルノで発見された。シベリアのウラリンクラで発見された原石器は百五十万年から二百五十万年前の間とされている。中国のYuanmouからの旧石器は百七十万年前の愕然とする日付に帰した。この数字でさえ、中国のXihouduで発見された旧石器や切られて炭化された骨、シベリアのディアリング・ユアラクからの原石器の発見で書き換えられた。この二つは、現在の時代の前百八十万年とされている。
もし、解剖学的近代人類がその様には約アフリカの外に存在するとしたら、読者は同時に、アフリカの内部でも近代人類の存在の証拠があるときたいするかもしれない。そのような証拠は、ケニアのカナンで、ルイス・リーキーによって発見された人間の顎と原石器の形で現われている。それらは百七十万年前から、二百万年前の間とされている。
タンザニアのオルドュバルでのルイスとマリー・リーキーによる更なる発見物は、同じような時期とされている。それらは、磨かれた骨、原石器、旧石器、なげ縄用の玉(かなり進んだ石の加工技術を示すボールの一種)、小屋の基礎になったと信じられている石のサークル、骨から作った革の加工用の道具を含んでいる。共通認識科学は猿のようなホモ・ハビリスに、これらの発見物のすべてを結びつけている。
革製品の制作、玉、そして小屋はいつもホモ・ハビリスを越えた器用さに維持されていた。
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ホモ・バビリスは、共通認識科学によって道具を作れるものの尤も初期のものとして受け入れられている。二百万年前とされるホモ・ハビリスの化石は、厳密にアフリカに限定されている。この日付以前の人間のどんな印も、共通認識の科学の意見のきびしい改訂なしには、ホモ・バビリスに結びつけることは不可能だった。これらの印を越えるものは実際にあった....しかし、それは無視された。
アイダホ州のナンパで、粘土の小立像が現在の時代から二百万年前を示す地層から一九一二年に掘り出された。もし、これがホモ・バビリスによって創られたとするならば、“手を使う者”はアフリカでよりも(そこに、彼が全く存在するとは仮定されていなかった)アメリカでの非常に多い細工人であったことになる。同様に、現在の時代から二百万年前の原石器はホモ・ハビリスより遥かに進んだ何かが、同じ時期にパキスタンのソアン・バレーをさ迷っていたことを示している。
これらは分離された発見ではない。共通認識科学によって反駆され無視されようとも、発見は沢山続いている。それらは、インドでの原石器;イングランド、べるぎー、イタリーそしてアルゼンチンでの旧石器;イタリーでの火打ち石;アルゼンチンのいろり(そしてイングランドでの人間が作ったと思われる火の後);曲った貝殻、孔をあけた歯、孔をあけた骨、二つの人間の顎など...すべてがアフリカの外で発見されたもので、最低でも現在の時代から二百万年前といえるものを含んでいる。それらのいくつかは、実際に現在の時代から四百万年前のものであるかもしれない。
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後者の日付は、それが人類を正に、最新世から鮮新世、完全に前の時代へと押し出すので、共通認識にとつては疑いもなく、不快なものである。そこには、いくつかの基本的な石の道具が後半の鮮新世で存在したが、現在の時代の三百万年前より旧いものはなく、アフリカに限定されており、そこで、それらが我々のモットも遠い原始的なプロと人間の祖先の大変素晴らしくてベストなものたちによって創られたのだと推定されるという共通認識の容認が存在する。
ここで、再び、我々は、蓄積された証拠の重さのもとで、割ってしまう分離線もっている。骨の道具、鋸切断された骨、原石器、そしてイングランドで発見された新石器でさえも、すべてが後半鮮新世の道具はすべてはアフリカに限定されていないこと、彼らの創ったものにはまったく原始性がないことを示していた。これらの発見物は最低でも、現在の時代の二百五十万年前を示している。
使える証拠は共通認識がどうクレームしようとも、アフリカの内外両方に住んでいた解剖学的な近代人間はまさしく初期鮮新世に溯るものであった。彼らの骨、脊椎、そして六つの場合は、部分や全体の骨格が、イタリー、アルゼンチン、ケニアで発見されている。彼らの爪先の跡がベルギーで、足跡がケニアで発見されている。それらはアルゼンチンのいろりに残っていた。解をきったもの、刻んだ骨、旧石器がベルギーのアントワープに残っていた。最低の日付でも、現在の時代から三百万年から四百万年前の範囲である。最高のものは、(アントワープでの発見物で)現在の時代から七百万年前に溯ると考えられ、これは鮮新世の二百万年くらいも先にまで押しやるであろう。
言い換えれば、これらの発見物のもっとも遥かな日付は、遠い中新世まで人類を連れて行くだろう。
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中新世、ほとんど想像すらできない古代の地質期間は、二千五百万年前頃に始まった。共通認識科学は、その頃、この地球上をどんな人類も歩いていなかったと云う。
この結論は、カリフォルニアの四つの異なった場所での、人間の頭蓋骨、部分的な骸骨、そして新石器の収集を否定することによってのみ可能である。それらの全ては、五百万年を越えた日付を付与されている。フランスのミディで発見された骸骨、、ポルトガル、ビルマ、アルゼンチンで発見された旧石器、トルコからの曲げられた骨と火打ち石のかけら、全ては最低でも五百万年、最高では千二百万年から二千五百万年の間で変化している。
フランスのアウリラックで発見された旧石器は、現在の時代から七百万年から九百万年の間とされている。カリフォルニアのプレーサ・カウンティで発見された人間の骨は、八千七百万年前より古いとされている。インドからの原石器、、色々な新石器、石の玉、人間の顎と頭蓋骨のかけら、矢じり、ひしゃく、弓の取っ手-すべてカリフォルニアのもの-最低でも現在の時代の九百万年前とされている。
フアルゼンチンの旧石器と同じように、ランス、アルゼンチン、ケニアからの、割られた或いは削られた骨は、千二百万年前を手前に下ることはない。カリフォルニアとフランスは初期の中新世にもどるような日付の新石器や旧石器の発見物をが特に存在している。旧石器は少なくとも二千万年前のものである。興味深いことに、新石器が巣すねは進むほど、より古くなり、二千三百万年を越えてしまう。
より早い時期に、より複雑な道具があるという、この奇妙さは、読者が更に戻ってみれば、一つのパターンを形造り始める。ベルギーからの旧石器の三つの異なった発見物が少なくとも二千六百万年前とされている。それはつまり、それらを更に初期の地層時期である、漸新世に位置づけるのである。
カリフルニアのテーブル・マウンテンで発見された人間の骸骨、解剖学的にホモ・サピエンス・サピエンスに一致しており、同じ場所から、新石器や曲げられた骨と同様に、少なくとも、三千三百万年前とされた。ここでも、再び、加工物が古ければ古い程、より高く進歩している。ということは、殆どあたかも、人間の技能が非常に古い時代にピークを迎え、それから、徐々に退化していったかのようである。
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共通認識をぶち破る発見物は、続いて現れている。遠く離れた始新世地質からと思われる人間の骸骨がスイスで発見されている。その時代は、三千八百万年から四千五百万年の間と見積もられている。イングランドからの原石器、旧石器、曲げられた骨は、最低では同じ時代と見られるが、最高では、一千万年程、より古い可能性があるだろう。フランスは原石器、旧石器、切った木材、白亜質の玉を最低でも、四千五百万年から五千万年前としている。
明らかに、十万年前に、これらの色々な残存物を残した人間はアフリカでは進化していなかった。しかし、彼らが稼いで進化したと結論することを信じる大きな飛躍を要求する。
04 訪問者の印
科学者は地球の先史時代を三つの時代に分けている:古生代、中生代、新生代である。それぞれが地質時代期間、全部で十六期間に分けられている。(訳注:以下の時間はすべてBPE=現在の時代の前を示す)
古生代(六億年から二憶五千万年前まで)は、六つの期間に分けられている:カンブリア紀(五憶九千万年前)、オルドヴィシア紀(五憶五百万年前)、シルリア紀(四億三千八百万年前)、デボニア紀(四億八百万年前)、カルボニフェラス紀(三億六千万年前)、そして、パーミア紀(二億八千六百万年前)である。
中生代(二億五千万年から六千五百万年前まで)は、三つの大きなディノザウルスの期間をもつ:トリァシック紀(二億四千五百万年から二億八百万年前)、ジュラシック紀(二億八百万年から一億四千四百万年前)、そしてクリタシアス紀(一億四千四百万年から六千五百万年前)である。ディノザウルスは中生代の終わり近くで、地球から消えてしまった。
新生代(六千五百万年から現在まで)は、七つの期間に分けられている:暁新世(六千五百万年前)、始新世(五千五百万年前)、斬新世(三千八百万年前)、中新世(二千五百万年前)、鮮新世(五百万年前)、最新世(二百万年前)、ホロシン、これは最後の氷河期が終わりから、一万年前に始まっている。
もし火星人が地球の人間より一億年進化が進んでいるとしたら、彼らは地球のクリタシアス紀の間に、宇宙空間飛行をしてみようという気になったかもしれない。
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宇宙空間飛行は地球の人間に比べて、非常に容易であったであろう。
火星の質量が地球の十分の一だからである。赤道での表面重力は、地球での9.78に対して、3.72cm/sec2である。脱出速度-惑星から脱出する時に必要な速度-は地球では、11.2km/secである。其れが火星では、たったの5km/secである。このより低い脱出速度は、読者を宇宙に送り出すのに、より少ない燃料で、より低効率のエンジンでよいことを意味している。
心理学者たちは、私達の自然の月が宇宙空間飛行に人間の興味を呼び起したといっている。その言葉どおり、我々は、月を見上げ、眺め、どうやったら行けるのか不思議だった。火星は二つの月をもっている。フォボスとダイモスである。二つとも火星の表面から見える。それらの月は地球とその月よりも、ずっと火星に近い。地球の月は三十八万四千四百キロかなたの軌道を周回している。ダイモスは火星から、たったの二万三千四百六十キロである。フォボスはもっと近くて、九千三百八十キロである。
どんな宇宙飛行計画でも、最初の論理的なステップは、最も近い天体に到達することである。我々の最も近い天体は月であり、一九六九年に到達した。その旅行に比べて、フォボスへの到達は古代の火星人には容易なことだった。
一度衛星に到着したら、自然に、次は最も近い惑星に向く。火星には、二つの近い惑星がある。地球と木星である。その最近接近時には、地球は火星から、五千六百万キロ以下の所にある。木星は最接近時でも、火星から四億九千百万キロ以上の位置にある。その上、気の確かな火星人が木星に着陸しようとするだろうか?彼らは、自分の惑星での六百倍もの重力で押し潰されるだろう。再び木星から脱出するには、殆ど十一倍もの脱出速度を必要とする。そして、彼らはなんの固体物のない惑星に沈んでしまうだろう。
木星は、ガスでできた巨大惑星である。もし、火星人がどこかに向ったとしたら、それは地球であったろう。
3
前の章で挙げた初期の人間についての発見物は、科学的な共通認識がはっきりと間違いであることを示すと解釈してろかろう。それらは、近代人類が十万年前にアフリカで発展し他のではなかったということを意味しているだろう。それはもっと早くどこが他の所に現れていた。
しかし、人類は現在の時代の前、六千五百万年前より以前には現れていなかった。この日付はディノザウルスの死滅を印した時である。デイノザウルスの残存物は、中トリアシック紀の地層になる、二億三千万年前から、クレタシアス紀の終わりまでの間の、水成岩層にすべてが発見されている。知られている、化石の存在確率が生きていたディノザウルスの0.0001%以下であるにもかかわらず、それらの多くがそこにあるということは、中生代の間に、トカゲ類がこの惑星を支配したことは誰も否定できない。
ディノザウルスはクレタシアス紀の期間の終わりまで、栄えつづけていた。そして、突然彼らは消えた。読者は青くなるまで最近の岩の層を捜してもいいが、ディノザウルスの無い痕跡を発見することはできないだろう。科学者はそれらが死んだ-突然に今から六千五百万年前に死んだ-理由を確かにはしらない。
大量消滅の一つの説明は、クレタシアス紀の期間の終わりの造山活動が、ディノザウルスの住んでいた低地を減少させ、気候を変えたことである。気候の変化は、惑星生命の変化を意味している。ディノザウルスは好物の食べ物を発見できなくなり、餓死した。
現在流行の他の理論は、隕石の地球への衝突で、チリが舞い上げられ、世界が暗い時代へと突入した。太陽光線なしで、食べ物の連鎖が破壊された。このことは、多かれ少なかれ大きさの順に死に絶え-最も沢山食べるものが最初にダウンした。
隕石アイデアにはつのる証拠があるが、しかし、決定的名なものはない。ほんのいくつかのディノザウルスの種がこの衝撃が起こったと想定される時から、百万年の間生きていた。
ポイントは、ディノザウルスがどのように死滅したかではなく、ただ単に、彼らが死滅したということである。埋るべき哺乳動物の進化のギャップを創り出したのは、この消滅である。
地球上にディノザウルスがいるいる間は、哺乳動物の進化の機会はなかった。ディノザウルスがいなくなった後でのみ、動物グループが現在の多様化へと進化したのである。人類は哺乳動物種であるので、いずれにしても、地球上では六千五百万年以前には進化できる方法はなかった。それ以前に戻る人間は、どこか他の場所からやってこなければならなかった。
4
一九三八年、ケンタッキー州のベレラ工科大の地学教室の長であつた、W.G.ブロー教授が、“足跡”の発見を報告した。その足跡は、O.フィンネル牧場の固い巨大な灰色の砂岩の水平な面に沈み込んでいた。
そこには三組の後であり、右と左の足跡を示していた。どの後も五つの指とはっきりした弧があった。指は、裸足で歩く時の人のものと同様に、離れて広がっていた。足は人の踵に現れるような、足の弧のようにカーブしていた。右と左の足が多かれ少なかれお互いにそばにある、一連の足跡があった。これらの間の距離は、人の足跡として期待するのとちょうど同じ位である。
この発見は、ケンタッキー州のロックキャスル・カウンテーで成されたが、ブロー教授はスミソニアンで脊椎動物の古生物学の責任者であった、C.W.ギルモア博士と共に、ケンタッキーの足跡をつけたような生物が、また、ペンシルバニア州とミズリー州にも住んでいた事を示すことができると述べた。
スミソニアンの人種学者、デービド・L.ブシュネルは、その足跡はインデアンによって彫刻されたものだという物分りのよい暗示をした。顕微鏡による調査で、それは弧の場合はありえないことがすぐに示された。足跡は、一度砂浜に有ったものの上につけられていた。砂野粒の組成は濡れた砂の上での足跡で構成されており、後者の固い岩の彫刻ではなかった。写真顕微鏡検査と赤外線写真では、どんな削り跡も示さなかった。
一九六〇年に、H.L.アームストロングが、名声の高い科学雑誌、Natureに、テキサス州のグレン・ローズ近くのパルクシー河の近辺で発見された人間の足跡の化石について書いた。同じ地層から、ディノザウルスの足跡も発見された。
一九六八年に、化石収集家、ウィリアム・J.メイスターがユタ州のアンテロープ・スプリングスの近くで、一ブロックの泥板岩を割って、人間の靴の足跡を発見した。かかとは足の裏よりも八分の一いんち長いのが確認され、右足として記録された履いている特徴がてでいた。同じ石には、三葉虫(古生代)の化石があった。メリーランド州タコマのコロンビア・ユニオン・カレッジのクリアランス・クーム博士とボールダーのコロラド大学の地質学者、モーリス・カールリスリは、その発見を素晴らしい化石だと確認した。科学記事作家のミカエル・A.クレモとリチャード・L.トンプソンは、その足跡にコンピュータ解析をして、近代の靴によって残される跡から違わないということを発見した。
一九八三年に、モスクワ・ニュース紙は当時ソビエト連邦の南西にあった、トルクメン共和国で、化石化した人間の足跡と続いて三本指のディノザウルスの足跡の化石の発見を報告した。
5
共通認識地質学者たちは、上に言及したすべてのそれらの化石化した足跡はごまかしであり、年代の間違いであり、素晴らしい化石は、突然に日本足で歩くようになった、近代人間に近い足を持つ、今まで知られていない両生類によって創られたと、信じている。
しかし、早い期間での不可能な人類の存在は、化石の足跡の証拠だけを頼りにしてはいない。The Geologist誌の一八六二年の十二月号での報告によれば、イリノイ州のマコーピンで石炭の割れ目の中に、地表から九十フィート下に、人間の骸骨が発見された。その骨は、固い、黒い、光沢のある物質でコーティングされていた。しかし、それを削ると白い下地が現れた。
すべてのこれらの発見は、ディノザウルスの進化の瀧を越えて昔のものであり-それらのいくつかは、全く遥か遠いものとされている。パルクシー河の足跡はクレタセウス紀に溯る。トルクメンの足跡はジュラシック紀に、メイスターの靴の跡は、トリウシック紀であり、ロックキャスル・カウンティの発見物は石炭紀まで溯る。それは、それらのを二億八千六百万年以上昔のものであるとする。骸骨が発見された石炭の割れ目は現代の時代から二億八千六百万年から三億二千万年前のものとされる。
それは、我々を訪問したものたちは、我々が期待しているより、少し早めに到着したように見える。
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火星から地球に、遥かな昔にやってきた、進化した種は、肌に着物は着ておらず、裸足で歩いていたようで、砂浜を好んでいたのは例外のようである。彼らは靴を履き、我々のいわゆる原始的な祖先に連想する、火打ち石や石の斧を遥かに越えた道具をしようしていたらしい。
地球が実際に訪問されいてたとしたら、我々のモットも古い発見物は、進んだ技術の印を示している筈である。
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ある十八世紀の報告はフランスのエイクセン地方にある、パレス・オブ・ジャスティス(正義の宮殿)で働いている石切り工たちがどうやつて、使い古しの柱、加工した石、コイン、ハンマヘの取っ手、道具のかけら、そして石切の板を含んだ不思議の宝庫を発見したのかを述べている。これらの発見物には正確な日付は出ておらず、四十フィート以上下の十一の異なった岩の層に眠っていた。
一八四四年、著名なスコットランドの物理学者、サー・デービッド・フリュースタが、北ブリテンのキングードル・クアリーから、砂岩ブロックに埋っていた鉄の爪の発見を報告した。爪の頭部其れが発見された、九インチ暑さのブロックに完全に覆われており、最近の時代にそこに取り込まれるという可能性は排除されいてた。そのブロック自体は、三億六千万年以上前のデボニア紀のものとされている。
一本の金の糸が同じ期間と日付された。一八四四年の六月二十二日のタイム紙によれば、ツイード河に近くで、八フィートの深さに埋っていたのを作業員によって発見された。
一八六九年に、ジェームズ・パーソンと彼の二人の息子たちがオハイオ州のハモンドビルで炭坑の中で、くっきりと浮かびあがって彫られた、“ヒエログリフの書”のいくつかの千をもつ粘板岩の壁を発見したと書かれた。地質学者、アルバート・G.インガルは、“模試、人間が、或いはその猿の祖先が、或いはまた去るの初期の哺乳動物祖先が、石炭紀に戻って発見されたとするならば、全地質学は完全に間違っており、すべての地質学者が仕事を辞めて、トラックの運転手になるだろう”と記している。
八カラットの金の鎖が、一八九一年に、米国のモリソンビルのS.W.カルプ女史によって、一片の石炭の中から発見された。その鎖は十インチくらいの長さで、彼女が小片に割った大きな石炭の塊の中に完全に閉じ込められていた。これが石炭の中で発見されたという事実は、制作された年代が、現在から、二億六千万年以上だということを示唆している。
石炭紀の地層に多くの異常な発見物があるということは、火星からの訪問者が地球にやってきて、その時期までにかなり広がっていたという結論に導くように誘惑してくるものだ。例えば、一八九七年に一人の老人のいくつかの顔を示した刻まれた石が、アイオワ州のウェブスター市近くの石炭鉱で、深さ百三十フィートの深さで発見された。その暗灰色の石は二フィートの長さがあり、幅一フィート、厚さは約四インチであつた。その表面は、刻み込んだダイヤモンド・グリッド・パターンの中に個々の面の中央に色々な顔で覆われていた。顔の二つは左向き、残りのものは右向きだった。
アーカンサス州のスルファ・スプリングスのフランク・J.ケンウッドが一九一二年に、一個の鉄のコップを掘り出したオクラホマの石炭鉱は、オクラホマのとーますにあった郊外発電所の炉に使用する大量の塊の石炭を割りつづけていた。彼はそこで働いていた。彼の話を確認してくれた仲間の従業員、ジム・スタールによって見つめられながら、一つの鉄のポットが落ちてきて、割れた石炭の中央に、その形の跡が残っていた。ケンウッドは、石炭の原籍をトレースして、それがオクラホマのウィルバートン鉱からきたものであることを突き止めた。その石炭は三億一千万年前頃のものであった。小麦のひげのような物で、かざりつけられた、樽のような形をした銀の塊がこの鉱脈で一九二八年に発見されていたというひ未確認の報告がある。
同じ年に、他のオクラホマの石炭坑で、作業員が、二マイル程の深さの所で、石炭の層の表面に一つのブロック壁を発見した。アトラス・アーモン・マチスは、オクラホマのヘーブナーのたて鉱で働いている時、いくつかの“コンクリートブロック”をどうやって掘り出したか述べている。個々のブロックは、十二インチの立方体で、外側は綺麗に磨かれており、砂利が入っていた。マチスはこの鉱区のこの場所で崩落に苦しめられながら働き、命を失わずに出れたのは幸運だった。彼が石炭の表面にもどった時に、彼は自分が発見したのと似ているプロックからできた壁の部分が露出している崩落を見つけた。他の鉱夫がそれに添って、更に百から百五十やーどの間先まで、その壁が続いているように見えたものを掘り当てた。
05 時間のミステリーの中で
火星での古代の顕微鏡的な生命の証拠がある。火星での知的技術の証拠がある。火星の人間の顔の存在は、火星人が地球人を訪問したに違いないことを示唆している。
現在の科学の共通認識によれば、火星人は現在の時代の前、十万年前には地球人の顔を見ることは出来ないのである。この日付は、近代の人間がアフリカで進化したと信じられている日である。哺乳動物生命がここで進化することが僅かに可能な遙に古い時代に、地球に人間の証拠がある。この生命は地球では進化できない。それはどこか他の所で進化したに違いない。
ここまで見てきた、化石の証拠は、火星上の生命は、地球の生命よりも早く-百万年単位で計られる期間早く-進化を開始していた。このことは、数百万年前の火星に進化していた、技術的に進んだ文明の必要条件を満たす。この必要条件はシドニア海の複合物の構造物によって支援されているるそれらは、地球の文明がかつて試みたものよりも遥かに複雑なエンジニアリングの偉業を想い浮かばせる。
火星の小さい重力、低い脱出速度、二つの火星の月の近さが理由となって、宇宙飛行は地球での場合に比べて、火星文明の初期のステージで開発されたかもしれない。
火星に最も近い惑星は地球である。石炭紀のようなばかばかしい早い時期での地球上の“人類”の印は近所の火星からの技術的に進んだ人間型エイリアンによる訪問という理論で説明されるかも知れない。
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読者は、初期の火星人による地球への訪問はロボットセンサーも含むと当然想像するかもしれない。それらは、火星からの一人や二人以上の勇敢な旅行者を運んだ宇宙船が後に続いたであろう。
今日の我々の宇宙飛行とは異なり、火星人が仮に地球にやってきたとすると、彼らは全てに生命を維持しつつあった惑星に着陸したであろう。この現象の研究は、磁石のように彼らを惹きつけたであろう。初期の地球は、火星人自身の進化のミステリーへの沢山の手がかりを含んでいただろう。
技術的に可能だとなったらすぐに、火星人は地球に観察する植民地を確率したであろう。
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アリゾナ州に、植物や動物、そして幾人かの人間が、自給自足環境で数年は生きられる、クローズした自己封じ込め式生命空間があった。このプロジェクトは、いつの日か他の惑星に作られるかもしれない、自給自足式の、ドーム型コロニーのタイプの原形として計画されたものである。
ドーム群だけが可能性ではない。もっと複雑なアプローチは、惑星的、遺伝的エンジニアリングも含んでいる。最初の例は、火星人は我々の大気と生態空間を変化させ、そして地球の表面で防護無で生きられるようにしただろう。これは、進んだ文明にとっては完全に可能なことであり、- 米国の“シンクタンク”会社は、他の惑星を地球化する計画を既に画いている。しかし、一つの重要な要素が、火星人の、このアプローチを成功の見込みのないものにする:火星人が、研究するためにやってきた環境を破壊してしまうだろう。
第二のオプションはもっと論理的である。宇宙服やドームによる最初の訪問の後、彼らは(遺伝子工学の技術を用いて)自分の種の亜種を産み出し、地球の空気を吸えるようにし、地球の物質を利用し、地球の表面で防護服なしに生きていけるようにするのは、判るだろう。永劫の植民プログラムの或る段階で、火星人は原始の、進化しつつある、猿に似た、生物の染色体を操作することによって、自分自身に似せた新しい人間型生命を創り出す、第二の遺伝子工学実験を行ったことさえあるだろう。
これは力強く訴えてくるファンタジーであり、幾つかの太古の災害が故郷の惑星を襲い、火星が今のように砂漠化した後に、地球に生きていた植民者を置き去りにしたというのが、その必然的な論理的な結果である。彼らは、火星の文化を複製するために、猛烈に働いたであろうし、或る時期成功したかもしれらい。しかし、派はなる文明への接触をなくして、ゆっくりと退化し、或いは可能性の或る、広範囲に広がった地質上のカタストロフィが人類の火星での創世の知識をすべて消し去っていったのであろう。
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世界中に広がっている、幾つかの神話のテーマがある。一つは古代の巨人の神話である。最も良く知られている表現は、聖書のものである。旧約聖書は古代の巨人について沢山言及している。それは創世記に始まる。
その頃、又その後にも、地に巨人(ネピリム)がいた。これは神の子たちが人の娘たちのところに入って、娘たちに産ませたものである。彼らは昔の勇者であり、有名な人々であった。
民数記は、主がモーゼに、カナンの地を探ぐる人々に伝えることをどのように命令下かを述べている。偵察隊が戻った時、彼らは:
その探った地のことを、イスラエルの子らに悪く言いふらしてい言った「私たちが行きめぐって探った地は、そこに住む者を滅ぼす地です。また、その所で私たちが見た民はみな背の高い人々です。私たちはまたそこで、巨人(ネピリム)から出たアナクの子孫の巨人(ネピリム)を見ました。私たちには、自分がイナゴのように想われ、又彼らにも、そう見えたに違い有りません。
申命記には、“むかし”モアブの地に住んでいた、“それが大いなる民であった”というエミ人について言及している。
アンモンの地は同じ歴史を共有していた。
“そこはまた、巨人(レパイム)の地とみなされた。レバイムが昔、ここに住んで居たからである。しかし、アンモン人は彼らをザムズミ人と読んだ。この民は大いなる民であって、数も多く、アナク人のように背も高かったが、主は、アンモン人の前から、彼らをこれを滅ぼされ、アンモン人が彼らを追い払い、彼らに代わってそこに住んだ。”
申命記の第三章に、バシャンの王、オグが古代巨人の最後の残りだと言及されている。彼は、長さ九キュピト、幅四キュピトの鉄の寝台に寝ていた。このキュピトという言葉は古代世界の他の場所では他のものを意味するが、ここでモーゼによって用いられたこの言葉はエジプトの聖職者の創始した、最も確実に、二十五インチの標準“ロイヤル・キュピト”を意味している。これは、オグの寝台を長さ十八フィート、幅八フィート以上だとするものである。バシャンそのものは、或る時期“巨人の国”と呼ばれていた。
ヨシュア記に、“巨人(アコル)の谷”(15:8と18:16)の二度の言及があり、そして再び、ヨシュア記(17:15)にぺリジ人と巨人(レパイム人)“について述べている。聖書的歴史の、この時期の後、巨人は記録から消えてしまう。
しかし、聖書は巨人の古代伝承のたった一つの源泉ではない。ギリシャの詩ヘシオドによれば、巨人(タイタン)の人種が地球と天国の間の合体の結果として現れた。ギリシャ神話は巨人たちとオリンポス山の神々との間の抗争について語っている。神々が飼って巨人は一掃された。
ノルウェーの英雄伝説にもまた、巨人がでてくる。彼らは、神々の前に存在した原始時代の存在で、ギリシャ神話と全く同様に、神々によって征服された。
民間伝承は、巨人を初期の時代に世界に住んでいた死ぬべきものたちとして述べている。イングランドのコーンウォールの伝説の英雄、コリネウスは崖から彼を投げつけて巨人ゴクマゴグを殺したと考えられている。しかし、ゴグマゴグはそんなに古い時代にコーンウォールに住んでいた唯一つの巨人とは信じられていなかった。同じ物語の他のバージョンでは、ブリテンの伝説の創設者のブルータスは二つのコーンの巨人、ゴクとマゴグとして捉えていた。
古代の巨人、ドュロン・アンティゴナスとガイアントは、ベルギーのアントワープで、そしてフランスのドュアイで、毎年の行進の間、人形にして運んでいる。イングランドの岡の姿が、ドルセーセルン・アバカスの巨人のようだと、広く信じられている。すべての古代の巨人は人間(少なくとも人間型)の形をしていた。
古代のヨーロッパ伝承は巨人が事実別個の人種ではなかったことを固守している。すべての人々が背が高く強かったが、しかし、黄金時代の後に退化したのだった。
火星の“人類”の進化は、地球の引力の三十八パーセントの惑星の上で起こった。それは巨人化を導いたであろう。
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巨人伝説と同様に、一度上手く処理したアイデアが、今有る以上に進んで、より素晴らしく広がっている。言い換えると、それは先史時代での黄金時代の神話である。
ギリシャの歴史家、ヘシオドは紀元前七百年頃に、クロヌスが神々と人類の王であり、苦しみとか、骨折りとか、老化の効果から自由に生きていたことを書いている。ペルシャの本は、上アウラ・マツダがイランの先史時代の四つの王国を象徴化したの解釈されている、四本枝の木についてのゾロアスターの幻想について述べている。この最初のものは、金の枝で代表されており、平和と豊かさの時代に確立されていた。
ローマ人は、ヴィルジルが紀元前20年頃に戻ると確信して予見した、先史時代の黄金時代の現実性を確信していた。彼は、その年、作物が骨折りもなく成長し、戦争や交渉事が消え失せ、ヘビはもはや噛むこともなく、密が柏の木から自由に流れ落ちる世界...かつて人類が生きた道のすべての証拠をみたと信じた。
仏教が採用しているヒンズーの神話は、四つの“時代”の繰り返しの歴史、あるいはヨガの永劫の時間の終わりのない繰り返しを根本原理にしている。最初の時代はクリタ・ヨガは既にインドの先史の神話の中に失われており、それは正義と敬神の時代であり、、この時人類は霊的な力(Spiritual Force)への心からの理解をもっていた。
十二世紀に略述されたボラスパという、ノルウェーの神話は、土のようにして、秩序が創造の瞬間に転覆され、賢い人類が平和な地上を歩いたのかを述べている。
中国の言い伝えは、伝説的な黄帝によって中世の王国が支配されていた神話時代の一部を含んで居る。この黄帝は、彼の目的が比類なき平和と豊かさを楽しむことだった一方で、種類の建築、針治療、そしてエロチックな悦楽の技を学んでいた。
これらの物語は、初期の火星人による植民地における先史文明の歪んだ記憶に基づいているのかも知れない。すべては同じ、神話は神話である。ゼウスやヘラの印をオリンポス山に掘り起しに行くものは誰も居ない。もし、これらの神話を支えている何か確固たる証拠がない限りはである。
06 失われた楽園
歴史的事実としての黄金時代もっとも古い記述は、紀元前四二八から三四八年に生きていた、ギリシャの哲学者プラトーの”Dialogues(対話)“の中にある。プラトーは、理想的な政治システムを開発していたと彼が信じていた、進んだ先史時代の文化について述べたエジブトの資料から引用していた。この文化の故郷は”ヘラクレスの柱の向う“であると彼は位置を特定し、そして紀元前九六〇〇年頃にその崩壊を特定していた。
この失われた文明の最盛期は氷河期の終わりであり、我々のほとんどが、その頃の地球が石器時代の穴居人に占領されていたと信じている時期である。
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今、我々は穴居人は穴には住んでいなかったと知っている。過去の世紀に、考古学者たちは、最新世の人類は小屋、テントや岩穴に住んでいたと確信していた。そこには穴の口の部分での居住はあったが、深い穴のなかでの永住の習慣の証拠はなかった。
洞穴に入っていた人々が仮に居たとしても、それは、ただ一時的なものだった。幾つかの場所、特にフランスのピレネーでの調査では、囲炉裏の証拠や人が住んでいた他の証拠が掘り出された。それらは特別な目的-芸術作品の作成をするために、洞穴にやってきた人々によって残されたものであった。
マルセリーノ・サンズ・デ・サウツーラが、一八七六年にスペインのアルタミラで氷河期の芸術ギャラリのようなものを最初に発見した時、詐欺師として攻撃された。専門家はその絵画が”無知な野蛮人“の作品にしては上手すぎるとクレームをつけた。彼らは、サウツーラがそれらを偽造する為に、近代の芸術家を雇ったのだと結論づけた。その攻撃は悪意の有るもので、彼の1888の早死の一因になった。しかし、サウツーラは正しく、専門家の方が間違っていたのだ。彼が発見した、その絵画は、紀元前1万3550年頃に住んでいた人々によって画かれていた。
この氷河期の芸術は、スペインにおけるこの場所に限定されはしなかった。芸寿活動のつづいての発見が、アラビア、オーストラリア、ブラジル、中国、フランス、インド、日本、韓国、クワズル、メキシコ、ナミビア、北米、ハタゴニア、ペルー、ポルトガル、シシリ、ザイールそしてジンバブエでなされた。その幾つかは、四万年前のものらしかった。その幾つかは、確かに三万年以上のものである。少なくとも、十二万五千年前に戻る絵の具をしようしている証拠もある。
絵画の制作は素養と感性を必要とする。また、落ち着いた作業をする環境も必要とする。氷河期にどうして、そのような環境が存在しえたのか、理解するのは困難である。暑い気候より、冷たい気候で生きるには、より多くのエネルギを消費しなければならない。氷河期には、原始人類の目覚めている瞬間は、生き残るために必要なこと- 燃やす木、避難所、食べ物、着るものを捜すこと-に捧げられるはずである。芸術にうつつを抜かす時間などはなかったはずである。しかしながら、残された時間がそこには存在し、骨格の残存物が、クル病やその他の栄養失調の印を何も示していない。苛酷な条件にもかかわらず、飢餓や障害の症状は殆どみられない。病気の症状も全くない。戦争-異種族間紛争の形でさえ-知られていないように見える。
証拠が示すものは、食べ物も沢山有り、丈夫で健康な人々がおり、彼らは暖かく過ごすのに何の苦労も要らず、絵画でその創造力を表現する十分なレジャーの為の時間を持っていたことである。全て同じてあるが、絵画は一つの町の地平線を正確に示していない。それらの絵画は、主としてバイソン、野牛、きつね、マンモス、ライオン、熊、魚、無は虫類、取、それに昆虫などを画いている。植物もまた画かれているが、非絵画的な設計であり、何人かの専門家は、トランス状態でみるようなパターンを画いている鴨しれないと信じている。言い換えると、それらは、火星の文明の幻想からの遠い叫びであった、種族の狩人の集まった共同体の幻影を示している。
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それにも係わらず、プラトーの先史時代の文明についての記述は、非常に多くの著者たちの興味を刺激した。或る見積もりでは、ぜんぶで二千件を越えるといい、他の見積もりでは、そり十倍もあるという。その中に何かが有るかもしれないと考えた学術権威のメンバの何人かがいた。
一九〇九年に、K.T.フロストが、プラトーのミノアクレタ文明の崩壊の物語に関連して、それをミノア仮説と呼ぶことにした。フロストには、プラトーの記述とミノアの先史時代の実際に三つの点の類似性があった。ミノアクレタ文明は古代にその源をもつ進んだ文明を呈示していた:それは島に存在し他者で、その文化の破壊は、巨大な地震によって起された惨禍によって起されたように思われた。彼の仮説は、一九六七年に、S.マルチナトス教授による考古学的な発見が追加の支援をしてくれるかに見えた時まで、大々的に無視された。
しかし、この失われた文明に対する氷河時代の古さを認めるのにはなんの抵抗もなかった。アテネ地震学会のA.G.ガラノポーラス教授は、プラトーの物語の数字はすべて十倍されていたという巧妙な理論を提出した。これが修正されると、大きな首都の都市の彼の記述が判り、しかもその文化の破壊は紀元前一五〇〇年頃であることになり、ミノアクレタを破壊したサントリー火山の噴火の時期と同じ時期に位置することになる。
フロストのように、ガラノポーラスはミノアクレタがヘラクレスの柱の外側ではなく、内側にある事実を無視していた。更に一九八〇年代の終わりに、放射性炭素による年代決定が、クレタを破壊したと想定される火山噴火は、ミノア文化ガそのピークに達して崩壊する前に起こっていたことを示すことによって、この巧妙な仮説にけりをつけた。
今でも、いくらかの学者が、プラトーの物語は古代クレタの記憶の反映であると主張しているのは、多分、ガラノポーラスの理論が文明の発達についてのオーソドックスな共通認識にそのまま残っているからであろう。
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一九世紀に、人類学者たちが、人間の進化を三つのステージ:野生、野蛮、文明に分ける文明進化の一つの理論を開発した。その時、文明は、古代エジプト、アッシリア、ギリシャとローマに限定された。過去の世紀に、考古学的な研究はこのリストの倍以上をもつことになった。今では最も早い文明はメソポタミアのシュメールであると信じられており、その時期は、紀元前五千年から紀元前四千年とされている。エーゲ海での古代ギリシャに先行した、ミノアとミケネ文明は紀元前三千年から紀元前一千年とされている。すべての古い世界の文明の最大の地理的な分布をしたインダス文明は、紀元前二千三百年から紀元前千七百年に最盛期があった。北中国のフアンフォ谷のShang文明は紀元前千六百年位に出現した。新世界(中米と南米のアンデス地域)の古代文明は、かなり新しくて、紀元前千二百年である。
実際の文明を構築するものが何であるかについては、専門家の間で時代とか差の度合いに弄くりまわす部分はあるものの、確立された見解は、紀元前五千年前には、世界中のすべてが野蛮と野生であったことに留まっている。
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先史時代の文明についてのプラトーの記述は、いまやその名前はどんな有名な学者にも認められているアトランティス島について述べている。巨大な大衆の興味にも係わらず、アトランティスは凝り屋の領域になってしまつている。それは常にそうであったのではなかった。
プラトーの初期の信奉者であった、クラントルは、この物語を歴史として受け取り、それを確かめたとさえ述べている。彼は、それをエジプトの神官へのインタビューで行った。その神官は、プラトーを確証し、しかも完全な説明を与えてくれたヒエログリフの円筒を彼に示してくれた。
紀元前最初の年に生きていた、地理学者マスセルスは彼の著書“エチオピアの歴史”の中で、アトランティスとその帝国の生き残りの人々が住んでいた、三つの大きな、そして七つの小さい、太平洋の島の存在を記録している。ストア哲学者のポセイドニオス(紀元前百三十五年から紀元前五十一年)、シセロの助言者の一人は、次の文で記録していた。
“アトランティス島についての物語は、作り話ではない可能性がある”と。アテネのプラトン学派の先導者として成功したシリア人の哲学者、プロクレスのようなネオプラトニストたちは、四世紀のネオプラトニズムの権威、ランブリカスがそうしたように、これを完全に受け入れた。
六世紀のエジプトの修道士コスマスが、彼の著書“クリスチャン地誌”で、アトランティスが沈んだのは、聖書の洪水の書き換えられた引用いがいのものではないが、それは歴史的に正確であると主張した。
失われた文明の片鱗は、千百年頃に、アウトンのホノリュウスによって編纂された、Wデ・イマジネ・ムンデに含められている。その後、興味は数世紀の間しぼんだ。
アメリカの発見に続いて、広く広がったリバイバルがあった。スペインの歴史家、フランシスコ・ロペス・デ・ゴマラが千五百五十三年に、プラトーは彼の物語を新世界の噂に基づいて書いたのだという最初の示唆をした。どのようにして、その噂がプラトーに伝わったのかについて、デ・ゴマラは説明しなかった。
このアイデアは、エリザベス一世の宮廷天文学者のジョン・デイ博士によって取上げられ(彼は自分の地図の上で、アメリカ大陸に“アトランティテス”とラベルをつけた)、後には、フランシス・ベーコンによって取上げられた。
この推測は、その事実の重さが遂にそれを殺してしまう、千八百五十五年末頃までつづいた。
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アトランティスの“実際”の位置の探索は、大衆的な興味を残している。この主題についての二百人の著者への非公式な調査では、七十八%がアトランティスを歴史的な事実と決めただけでなく、確信的にそれをアトランティス島に置いていた。次にも最もポピュラーな場所-クレタ島-は経った五人しか支持者が居なかった。その後、推量は中央アメリカとか北極の範囲まで広がっていた。
調べられた本の幾つかは、アメリカの有名な“眠れる予言者”エドガー・ケイスによるリーディングの説明に当てられていた。エドガー・ケイスはアトランティスに関する多くの情報を霊的に決定でき、そして太平洋海床から再び姿を現わすであろう日付(間違っていた)を予言していた。
千九百六十年代最後に、アトランティスは新しい一時的流行-地球は遠い過去に、宇宙を航海するものたちによって、訪問されていたという、エンリッヒ・フォン・デニケンの理論-に飲み込まれた。突然、この訪問者たちがアトランティスの建設者になった。プラトーの先史時代の文明の起源は、この惑星からまさしく離陸させられた。しかし、それは火星ではない。
07 不思議な地図
惑わし理論が増加するにつれて、先史時代の文明の可能性を真面目な研究者が熟考するのが困難になった。しかし、一人の研究者がそれをやった。彼の名は、チャールス・ハプグッド、アメリカ人の科学史の教授であった。
千九百六十年代のハプグッドを巻き込んだ一連の出来事は、千九百二十九年に始まった。それは、トルコのイスタンブールにあるトプカピ宮殿博物館で古代の地図か発見された年であった。イスラム暦九百十九年(因みに千五百十三年)付けの、その地図は、元々は、その名をピリー(“将軍”)レイスというトルコの海賊が所有していた。その複写がアメリカ国会図書館に保管され、更に他の複写がトルコ海軍の将校から合衆国海軍の水路学オフィスに贈呈されていた。
千九百五十六年、そのまた複写がM.I.ワルタースという名の、プロの海図作成者の注意を惹いた。彼は、それが驚くべき資料であることを発見した。その地図の作成者の想像の偉大な産物であった、その時代にしては、それは驚くほど正確であった。それは、中央太西洋の尾根を示しており、今日ではソナー(音波航行探査器)によってしか確認できないものであった。それは正確に南アメリカの輪郭線を示していた。モロッコからきたアフリカのアイボリー海岸までの国々の正しい経度を示していた。千八百十八年以前には発見されていなかったと信じられていた土地、南極が示されて居た。
ワルタース派、彼の友人のアリントン・H.マレリーにその地図を貸した。彼は古地図の研究に一生を捧げた退役水先案内人であった。マレリーは、南極大陸はそれが氷で被われる前に画かれたものであることを発見した。
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それは、ピリーレイスが自分でその地図を作ったのではなく、より以前の源泉資料を複写したのだということを漏らしていた。彼は、その一つがコロンムブスによって作られた地図であるが、彼の残りの一九の源泉資料は紀元六百四十年にアラブの進入者によって破壊されたアレキサンドリアの図書館から、不法に奪った地図であったと述べている。アレキサンドリアの図書館は、プトレマイオス一世(紀元前三百六十七年から紀元前二百八十三年)によって発見され、パピルス、粘土版、それに古代世界からの人工物のユニークなコレクションを含んでおり、アレキサンドリアが一番前のヘレニズム科学センタになった主要な理由の一つであった。
ハプグッドがマレリーの発見を聞いた時、彼は、ビリ―レイスのものも含めて、古代の地図の全コレクションの調査をするために、ニューハンプシャー州のキーネ州立大学に一つの学生グループを作った。彼らの研究から得られたものはこうである:
第一に、中世のPortolansは多くの場合で近代の地図と正確に一致していることを証明した。それらはしばしば、地図作成者たちが知らなかった筈の-キューバの島のような-様相を示していた。中国の古代の地図は、千百三十七年頃に石に刻まれたもので、そのPortolansと同じものから複写されていた証拠を含んでいた。このことは、ヨーロッパの地図のミステリーが世界に広がっていたことを示唆していた。
次に、ピリーレイスの地図自体が、20個のより以前の地図の不注意な組み合わせであることを証明した。海岸線の大きな直線群が消されたりしていた。しかも、レイスはアマゾン河を二度も画いている。しかしながら、ハプグッドは、もし、ギリシャの天文学者イラトスゼンスによってなされた、地球のサイズの計算で誤差を修正すれば、ピリーレイスの地図の正確度が相当に上がることを発見した。
次に、地図が作られた方法についてである。近代の地図はメルカトール投影法と呼ばれるものによっている。それは、経度と緯度のグリッドの上に地形を置いていくものである。古代の地図は、任意の中心から画かれていた。ピリーレイスの地図は古代の習慣に従っていた。しかし、それが書かれた実際の中心は地図そのものから外れていた。計算では、中心がエジブトにあり、特にナイル河のシェーネと呼ばれた所に有り、近代のアスワンと保母等しいことを示した。
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シェーネの重要性は、古代に特別な印として利用されたことにある。夏至の日の六月二十一日に、正午の太陽がその場所の、一つの井戸の中で反射された。シェーネが太陽と地球の中心を結ぶ直線であることを示していたので、この奇妙なことは地球のサイズを計算したイラトスゼンスによって利用された。
イラトスゼンスは、アレキサンドリア(彼が主任だった)で観測された太陽が全円の五十分の一程度垂直から南にあると決定した。彼は、地球の周長は二つの地域の南北の虚利の五十倍になるだろうと計算した。これは、地球のサイズの一つの良い見積もりであったが、しかし、最後の数値は誤差のマージンを含んでいた。
イラトスゼンスの誤差の発生とシェーネを地図の中心にしていたことは、ハプグッドには、ピリーレイスが古代の地図から複写したと語った時に、レイスが真実を語っていたことを明確に示していた。それらのオリジナルはギリシャに有るに違いない。
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しかし、この発見は簡単に時間がたつと問題を押し返してきた。歴史的な記述の中に、古代ギリシャ人が世界的な航海者であったという事が全く無かった。彼らの航海のほとんどは、地中海に限定されていた。仮に彼らが、正確な地図を持っていたとしても、それらは確実に直接の観察の結果では無かった。
これらの地図がまた、もっと古い源資料からの複写であった筈である。より古い源資料ばイラトスゼンスの誤差によって損なわれたりしなかった。それらは、ピリーレイスが観たギリシャ版よりもっと正確でさえあった。ハプグッドの解析はギリシャの地図オリジナルがそれ自身、複雑な近代の地図のように、何らかの緯度と経度の投影形式を使っていたに違いない証拠を掴んだ。
これらの全てが、ビリーレイスの地図の遠いオリジナルが、歴史に知られていない、ギリシャ人は夢想だにしなかった経度を測定する装置を所有していた、海洋国家によって創作されたものだったという結論へと彼を導いた。始めて、ここに失われた文明の証拠が存在した。
イラトスゼンスの誤差の含有が、ピリーレイスの地図のギリシャ版を紀元前三世紀頃のものとした-それは、イラトスゼンスが計算した時期である。しかし、これはオリジナル地図群の日を決める助けにはならなかった。ハプグッドは他の手がかりを調べた。彼は南極に氷が無かった時代に地図化されていたという、マレリーの結論を素早く確証した。オロンティウス・フィネウスのものとされ、千五百三十一年作とされた一つの二次の地図は、また、氷の無い南極大陸を示し、南極点の場所も記していた。
今日、我々は、千九百四十九年での深度測量した科学的な探査の発見で正確である、南極大陸の外形線を知っている。ハプグッドは、我々自身の技術文明、或いは、南極大陸の海岸線を氷の板が覆い隠す前の時期に海を航海した文明と同じ程複雑な古代文明の選択に直面した。南極の氷の最も最近の増加は紀元前四千年頃であり、先史時代の文明がその日よりも以前に花開いていたことを意味していた。ハプグッドを確信させたほかの証拠は、非常に昔のことであったに違いない。
研究された幾つかの地図は、スコットランドとスウェーデンの一部が、まだ、氷で覆われており、エーゲ海の水位が今日より遥かに低かったことを示唆していた。言い換えると、これらの地図群は氷河期がこの惑星を氷の中に閉じ込めていた時に、作られたオリジナルを基にして作成されたように見えた。しかし、それ以来、氷の板が紀元前八千年前頃に後退したから、失われた文明はそれ以前に花開いていたことを暗示している。
もう一つのトルコの地図、千五百五十年に画かれたハジ・アメドの地図は、北極点を示しており、ベーリング海峡を横切ってアラスカとシベリアを陸の橋を示しているように見えた。そのような陸の橋が存在していたと知られているが、それは紀元前一万二千年以前のことである。
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クリテアスの中で、プラトーは彼のいう失われた文明の起源の神話の概要を書き、神々が人類を創立するための割り当て地に地球を分けたと語っている。彼のアトランティス大陸とその習慣に着いての記述は、神話的な言葉使いが非常に少ない形で言い表されている。それは歴史のように読める。島の全長の中ほどまで走ると、肥沃な沿岸平地があった。数マイル先の、島の中心には、岡よりはやや高い程度の低い山が有り、その上に、島の古代年の大部分が開発されていた。この都市は、三つの掘りで囲まれ、伝説的の神ポセイドンと関係があった。この説明は豊富な植林、野菜や、象を含む動物生命の長ったらしい説明を含んでおり、それは気候が熱帯的な特性であったことを暗示していた。そこには、今は知られていない金属、“金以外の何ものよりももっと貴重なもの”と述べられているオリハルコンの鉱山があった。
岡の上の都市は国家の首都であった。一つの運河が海から、島の内側の港になっている最外層の掘りへと切り開かれていた。それらの掘自体は幾つかの場所で橋がかけられ、更にそれらの間に小さい運河が切られていた。それら運河の入り口と出口は砦で守られていた。壁がそれぞれの掘りを取り巻いており、その外層は真鍮で覆われていた。中間はスズ、内部はオリハルコンだった。そこには、大衆用と個人用の浴場があり、人工的な噴水、走り水-それらの幾つかは火山の温泉からひかれているように見えた-そして、競技場さえもあった。そこで切り出された黒、赤や白の石が殆どすべての建物の建築にしようされていた。
都市を越えての輸送や灌漑が運河のネットワークで用意され、プラトーが古代の報告を信ずるのに困難であったほど巨大であつた。個々の運河は六百フィートで一定であり、全体としてのネットワークは、一千マイル以上に広がっていた。
プラトーは兵舎の中の槍兵隊、港のガリー船のことを話している。そこには、内燃機関、コンピュータ、宇宙港或いは、火星に向けての帰還用のロケットの記述はない。
08 フェニックス
また、アトランティスの多くの信者たちは、アトランティス人が古代エジプト文明を築いたと信じている。プラトーはそうは思っていなかった。彼の地署、ティマイオスの中で、アトランティスの王たちの連邦がエジプトとギリシャの両方を侵略するために軍隊を集めたと、彼は書いていた。この計画は、アテネの都市国家からの戦士たちによって阻止された。アテネは侵略者を押し返しただけでなく、彼らが既に保持していたアフリカ、地中海、ヨーロッパの領土への自由をも獲得した。
アトランティスの力がその高さにあった時期に、エジプトはそこまで達していたことを、プラトーが受け入れたことを、このカメオ(浮き彫り)は示している。エジプトがアトランティスが沈むまで、その建国を待つ必要はなかったのだ。
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ナイル・デルタのサイスの神官たちが、ギリシャの政治家ソロン(プラトーが書いた物語の源泉)に、彼らの神聖な記録は、エジプトが当時から八千年前-紀元前9千年に建国されたと示していたと語った。
エジプトのプトレマイオス朝の、紀元前三百四十七年から二百八十五年に生きていた、エジプトの神官、マネトーは、エジプトの紀元をもっと遥か先に押し戻した。彼は、一万三千七百七十七年間に延びた、前王朝時代の王の系図を記録していた。彼はまた、半身半人の王朝による、それに先行した“ホーラス-王達”の更に古い系図についても述べていた。ホーラス-王たちと半神半人の期間を合わせると更に、一万五千百五十年先にもどる。この日付を受け入れる著名なエジプト学者で、現在生きている人はいない。マネトーの初期の注釈者ですらそれらを消化することはできなかった。
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紀元前千四百年と設定されたかきものであるツリンのパピルスと、最も信頼の置ける現存するエジプトの王のリストは、良く知られているエジプトの王朝時代に先立つ三つの識別できる歴史的な期間があったというマネトーの主張を支えている。
それらの最初の期間、前王朝時代の王の期間は、一万三千四百二十年持続したと与えられる。これは、マネトーの数字、一万三千七百七十七年にほどほどに近いものである。第二の期間、ホーラス-王達の期間は、マネトーが想像したよりも長く続いたと、ツリン・パピルスにリストされており-二万三千二百年である。一方、マネトーの数字は、ホーラス-王と半神半人時代を加算しても一万五千百五十年でしかない。このパピルスはまた、半神半人の時代を認識しているが、しかし、破損していて、それに相当する期間の記述が失われている。
マネトーの直接の前王朝時代のタイムスケールとツリン・パピルスのタイムスケールの間の密接な関係は、その各々が同じ源泉資料から引用されたことを示唆している。含まれている時間の広大な長さからすれば、残された数字の誤差などは驚くに値しないのかもしれない。
読者が資料に従って調べれば、エジプト人は紀元前九千年から紀元前三万七千年より以前の時期の間のどこかで、彼らの国家の基礎を置いていた。近代のエジプト学者はそれを信じてはいない。彼らにとっては、エジプト紀元前三千百年直後に、メネス王によって統合を達成されたのだった。この歴史は、三つの王国に分けられ-旧王国、中期王国、新王国であり-そして、三十一の土着の王朝があった。紀元前三千百年以前であり、ナイルの谷での居住の跡は、紀元前一万八千年にも戻るのであるが、そこには、進んだ文明のどんな跡もないのである。
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考古学者たちによれば、紀元前四千年までに、新石器時代の住人は灌漑のための水路やナイル河を制御するための運河を建設し始めていた。伝統的な知恵は、人工が増加したので、その仕事は多くの共同体を巻き込婿とになったので、中央集権が要求される事を知っていた。これは、二つの王国の出現を促した:メンフィスの北、広大なナイルデルタを含む下エジプト、そしてアスワンの最初のダムの位置から、十から二十マイル幅のせまい峡谷にそって南の方に広がる上エジプトである。(訳注:北の方が下エジプト)各々の王国は多くの部族の地域、以前から独立した首長によって支配されていた州などを含んでいた。千八百九十七年にその墓が発見されたメネス王は、上エジプトの支配者であった。彼は、二つの王国を戦争によって統合し、メンフィスに首都を置いた最初のファラオ王朝を築いた。
この共通認識を得た絵は、進歩する複雑化した野蛮から突然出現した文明でもって、ナイルの谷での徐々に進化するプロセスを示唆している。しかし、証拠に問題がある。
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ヒールアコノポリスの調査の企画をした先史学者で考古学者のミカエル・ホフマンは、書いている:
おおよそ一万五千年の王朝の墓が掘り出され、そして無数の原始王朝と古代の埋葬物が掘り出されたにも係わらず、残念なことに、有意義な人口統計として使えるものは殆ど無い...だあるから、相対的なサイズ、出生率の予想、地方的な後期先史、或いは初期の有史時代のエジプトの人口の間の死亡者数のパターンの比較が我々にはできない、と。
彼は続けて、“上エジプトでの掘りだされた墓場での残念な欠乏について言及している。そして、結果として、統一の時期に、ウジプトの部落部と都市部に起きた代表的な変化について”いくつかの知的な推量“を提出できているだけである。
これらの推量の一つは、後期の前王国の時期に、人口のシフトがあったことである。起こった理由については知られていない。この可能性の中には、気候の変化、宗教的衝突か、その両方がある。
それは恐らく、環境的な出来事に単を発した、一団の人々を十分永住させ、出現した政治的なエリートを組織化するためのサイズを用意した、祭式の中心の周りへの人口の集中であった。この人口の集中(実質の成長ではない)は文明の発生の決定的な役割を演じた。
読者は、この言葉をぼんやりしたものとして発見したのは、始めてではないだろう。
王朝エジプトの文明はナイル河の岸に完全に形作られ発展したすべての様相を与えている。ホフマンが暗黙の内に認めているように、徐々たる進化の強固な証拠は正に殆ど無かった。エジプトの文明の氷河期まで戻る広がりに着いての証拠もまさに殆ど無かったという問題もある。ジョン・アンソニー・ウエストの話を聞くまでは。
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ジョン・アンソニー・ウエストはエジプトのツアーガイドである。彼は数年間、ギザ大地の大スフィンクスは紀元前約1万年前に、アトランティスの生き残りによって建設されたと主張しつづけていた。プロのエジプト学者は賛成していない。彼らは、スフィンクスは紀元前二千五百年頃のファラオ、カフレによって建造されたと主張している。スフィンクスの顔については、彼らはカフレの顔だと言っている。この理論をテストすることは可能である。カフレはクフの息子であった。その名を冠したピラミッドが彼の父のグレート・ピラミッドとして広く知られている。カフレの谷の寺院は、土手道によって彼のピラミッドに繋がり、非常に硬く火成岩である、ヌビアンのディオライトを削り出して創った彼の彫像を含んでいる。この彫像はそのフラオが、正確にそのように見えたであろう、当時の年をとった顔を持ち応えてきている。で、質問は、彼がスフィンクスに似ているか?
もし読者がエジプト学者でないならば、これは応えるのに特に簡単な質問ではない。スフィンクスはカフレの彫像ほどよの保護されては稲井のである。例えば、その鼻の大部分は欠け、そして顔の残りの部分はひどく風化されている。それにもかかわらず、エジプト学者のほとんどは、直ちに似ていると見ている。しかし、フランク・ドミンゴは似ていないという。ドミンゴはニーヨークの警察部門のシニア法廷科学者である。彼は容疑者と対象写真画像マッチングを専門にしていた。このケースでは、容疑者が(彼のディオライト彫像に現れている)カフレであり、“対象写真”がスフィンクスである。ドミンゴはスフィンクスとカイロ博物館のカフレの彫像の両方を計測した。この測定を基に、彼は両方のプロファイルを創り挙げた。鼻が欠けているのを赦すとしても、それらのプロファイルは完全に違っていた。
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誰も素人には聞かないので、ジョン・アンソニー・ウエストは尊敬する科学者たちに自分の理論をまじめに取り上げてくれるように説得しようと試みた。彼の努力はアトランティスに関する無遠慮な意見によって妨げられたが、しかし、彼は幾つかの学園で友達をつくろうとした。その一人がボストン大学のロバート・エディ教授であった。
修辞学の教授として、エディはウェストの言い分を直接調べる立場にはいまかった。しかし、彼はそれが出来る一人の男を知っていた。彼はロバート・ショッチ教授にアプローチした。彼ショッチは、ボストン大学の一般研究学部で科学と数学の部門の常設の学部のメンバーだった。ショッチはヤーレで地学と地理物理学の博士号をとっていた。彼は、スフンクスの真実の時代を評価する為に、抜きんでていると評価された。
ショッチは巻き込まれるのに気が進まなかったが、エディの熱意にほだされた。彼がウエストに逢い、直接ウエストのアイデアを聞いた時に、彼はそれに説得はされなかった。スフィンクスは一世紀以上にも渡って調査され、再調査されてきた。ショッチは共通認識されている日付は正しくないことが事実ある見込みはほとんどないと考えた。しかしながら、彼はエジプトに飛美、自分の眼で古代の記念碑をみることに同意した。千九百九十一年に、彼は旅をし、スフィンクスの日付に関する自分の意見を変えたのであった。
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風化させるることが出来るのは、風と水の二つだけだ。風はその表面を擦って侵食する粒子を運んで風化させる。水は通常その表面からミクロな層を溶かす雨の形で風化させる。
この両者の場合の風化のパターンは、はっきりしており、完全に違うものである。
ロバート・ショッチが最初にスフィンクスの下に立った時、彼はすぐに風化のパターンが水によることを示しているのに気がついた。今日では、エジプトは世界で尤も乾燥した国の一つである。カイロでの年間の雨量は平均して年に一インチにも満たない。これに比べて、イングランドの幾つかの場所では、その四十倍である。簡単に言って、今日では、スフィンクスに降る雨は、水による眼に見える風化を起すには十分ではない。最言えば、ショッチがみたパターンを起すには、数千年のエジプトの雨量では十分ではなかった。この国での大雨量と洪水の最後の時期は、ナピアン・プルビアル(雨の多い)の時期であり、それは紀元前三千年頃に終わっており、それはスフィンクスが建設されたと推定される前五百年頃であった。
ショッチはスフィンクスの風化のパターンとと近くの第四王朝の墓の風化パターンを比較してみた。そのパターンは異なっており、違う時代の建造物であることを示していた。
その時までに、彼は検査を完了して、ショッチ教授はスフィンクスは段階的に建造されたと結論した。彼の意見では、芯の部分は紀元前7千年から5千年の間であった。ジョン・アンソニー・ウエストの期待していた紀元前1万年前ではなかった。しかし、共通認識であった日付から、二千五百から四千五百年は古いものであった。エジプト文明の仮定されている建設の日よりも、千五百から三千五百年も古いものだった。
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カリフォルニア大学のエジプト学者のカロル・レディモントが、ロスエンゼルス・タイムス誌に、ショッチの修正した日付は不可能であるといっているのを引用された。その意志、つまり政府機関は無かったし、その日付を示唆する彫像を創る技術もなかったのである。我々が古代エジプトについて知っている、すべてのものに、突然他のクレームがでた。ボストンのファインアート美術館のエジプト部のアシスタント館長の、ピーター・ラコバラがその修正日付はばかげていると語った。エジプト学者はたちは、実際の年表を極めてうまく計算していた。そこには貯えの中に大きな驚きは無かったのだ。エジプト学者のK.ラルガウリ博士は、時代を決定したときの、風化の証拠が間違いだと述べた。シカゴ大学のマーク・レナー博士は、ショッチ教授は誤魔化し科学を実行していたと語っていると、ニューヨークタイムズ誌に引用された。ギザ・プラテュ・アンド・サッカーラの遺物館の支配人、ザヒ・ハワス博士はショッチの仕事を“アメリカ人の幻覚”として片づけてしまった。非常に古いスフィンクスを知ることは誰も望んでいなかったのだ。
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千九百九十四年、フランスの著者、ロバート・バウバルと彼のイギリスでの共同研究者、アディラン・ギルバートが“オリオン・ミステリ”を出版した。この本はギザ台地の構造物に発見した天体的な直列について書いていた。
例えば、グレート・ピラミッドには、約八インチ四角の四つの縦孔があり、二つは王の間から導かれ、二つは女王の間からである。この縦孔の目的はほぼ一世紀の間エジプト学者たちには謎であった。その内二つはピラミッドの外表面まで達しておらず、その目的を果たし得ないにも係わらず、それらは時々排気孔として参照された。
千九百六十三年、アメリカの天文学者、バージニア・トリンブルが、王の間の南側の縦孔が天文学的にオリオン星座に直列になっていると決定した。王の間の北側の縦孔は、周極星を指し示していると長く知られていた。一方、女王の間の南側の縦孔は、シリウス星に直列していることを、バウバル自身が計算した。
この発見は、バウバルをグレート・ピラミッドだけの調査でなく、ギザの三つのピラミッドグループ全体を調べる方向に導いた。彼は、ギザの三つの大きなピラミッドの、配置と相対的な寸法比が、“オリオンのベルト”
として知られている、オリオンの三つ星の配置と相対的な寸法比と正確に一致していることを発見した。
更に、もし、銀河がナイル河に相当するとしたならば、ナイル河に対するピラミッドの角度が、銀河に対するオリオンのベルトの角度に、正確に一致していた。バウバルは、また、更にアブルワシとザウアット・アル・アリアンの二つのピラミッドがオリオンの星、サイフとベラトリックスと正確に一致していることを発見した。
これらの発見は、古代エジプトに相当な天文学的な知識ありと暗示している。
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千八百七十九年に、土地の作業員が、サックァラで、衰退しかかっていた第五王朝ウナスのピラミッド墓の孔に迷いこんだ。内部で、彼はヒエログリフによる碑文を発見した。この碑文として知られるようになったピラミッド文は、R.O.ホォルクナーによって、“現存する最も古い埋葬用の文である”と後に述べられた。
千九百五十二年に、トロント大学のセム語とエジプト学の教授、サムエル・B.マーサーが、その文の英語訳を作成した。その文は、実際に天文学的な観察をシンボルで表現したものを含んでいることを示唆していた。
そのピラミッド文は、第五王朝に確信を持って日付られるもの(それが第五王朝の墓群の中で発見されたから)であるが、しかし、その内容は、第四王朝時代、またそれ以上古い可能性の或る時代とに関係していることも示している。この意味は、最も新しくて、紀元前二千六百十三年までに、-第四王朝のの確立とファラオ、スメフィルによる最初のピラミッドの建設までに-天文学の複雑なシステムが古代エジプトにあったことを意味している。複雑な天文学のシステムは長い期間の観察を要求する。
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エジプトの司祭は彼らの天文上の記録を神話と宗教の言葉で表現した。バウバルとギルバートが天文上の内容を調べた一つの神話は、フェニックスの神話だった。彼らは、エジプトで不死鳥(bennu bird)として知られていたフェニックスは、時間の繰返えす性質を象徴していると結論した。非常に多くの古代の人々のように、エジプト人は歴史を通して無限に繰り返される時間の永劫とか周期を信じていた。しかし、これは正に宗教的な信念なんかではなく、それは天文上の観察に基づく確信であった。
エジプト人が観察を記録した方法の代表的な例は、エジプトの墓の碑文の集大成である“死者の書”の中に発見される。この仕事は、特に、フェニックスをオシリス神と同一視している。しかし、また順に、オシリスはオリオン座と同一視されている。オシリスと不死鳥をリンクすることで、司祭-天文学者たちは、この星座の周期的な相を記録している。近代の天文学は、おりおんの周期的な相が実際に存在するといっている。
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昼夜平分点の歳差運動と呼ばれてもいる、精密な運動は地球の回転での動揺の結果である。これは我々の惑星が、長い間の期間かがって非常にゆっくりと円を画く下下院になっている。丁度地球の一日の回転が(実際には添うではないのに)太陽が登ったり沈んだりするのを見せるように、その歳差運動は恒星たちの位置の変化となって見える原因になっている。
一つの完全な歳差(すべての星座が最初のスタート点に戻る)には、2万6千年かかる。そこに、古代エジプト人がそれをしっていたという大まかな証拠がある。これは
彼らがその期間の間それらの恒星を観測していたということを意味してはいないが、しかし、彼らの観察が2千年以上のスパンになっていたことは意味している。彼らは、十二の星座に分割し、個々の部分でそれを完結するための歳差効果に二千百六十年を必要とすることを観察していた。簡単な掛け算で、一サイクルの時間は二万五千九百二十年と計算された。
もし、エジプト人の開発した天文学が紀元前二千六百十三年までにできていて、その相が注意深い二千百六十年間の観測と記録の保持によっているとしたら、彼らが観測を開始した日の、最も遅い日付は紀元前四千七百七十三年であった。
これは天文観測にとって良い日ではなかった。ナピアン・プルビアル(雨の多い)がたけなわであった。エジプトの空はくもりだった。エジプト人が今日のように、容易に干しを観測できた最新の時期は、一万二千年以上前であった。
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エジプト人は、自分たちが完全に二万五千九百二十年として計算した星座の周回運動を観測していた。彼らはそれらの星座を自分たちの神々になぞらえていたので、それは神聖な行為の完全な一サイクルをし終わるのに、神々が最初に開始した点に戻って新しい彼らの仕事始める前に、必要とした二万五千九百二十年であったと決定した。
“天でのことは、地に起こる”という格言に従って、彼らは、人類の出来事もまた、より小さいドラマであるがしかし、重要で繰り返す下位のサイクルとしての二千百六十年と七十二年をもつ、二万五千九百二十年のサイクルに従うと結論した。
R.T.ルンデル・クラーク教授によれば、フェニックスは二つの特別な期間-千四百六十年と一万二千九百五十四年-にともなわれているいた。この期間の一つ目のものは、シリウス星に関係している。シリウスの夜明けに上る時間は四年に一日づつずれていき、歳差周期の一サイクルで、千四百六十年になる。二つ目のものは歳差周期の二万五千九百二十年の半分であり、星座の配置に最大の様相の変化がある点として記されているようである。
ここで、我々は危機に突入する。ギザのピラミッド複合体が夜の空あるオリオン星座を写し取っている。コンピュータによる計算は、グレート・ピラミッドが建設された時期、紀元前約二千四百五十年で完全であった配置をしめしていた。しかし、ピラミッドの碑文はオリオンの動きを、神話的な黄金時代、オシリスとイシスが人類に文明を教えるために最初に地球に派遣された時に結びつけていた。言い換えると、夜の空でのオリオンのある特別な位置が実際のエジプト文明の始まりをしるしていた。バウバルとギルバートはピラミッド複合体自体が、とりわけ、その日を記録するために設計されたと結論した。コンピュータによる計算は、その日が紀元前一万四百年以降ではありえないことを示していた。そうでないとしたら、それは、それより二万六千年前である筈だった。
09 女神信仰
十九世紀の終わり以来、考古学者は、我々の先史時代の祖先は神は女性であると信じていた、数々の証拠を掘り出してきた。そのような信仰は、彼らの多くが彼らの目でみた証拠を解釈するのが実に困難であるほど異様に見えた。彼らは、“女神信仰”を、あたかもなにか部分的に正道をはみ出したものであるかのように、推論し始めた。
この見解は聖書によって支持された。“女神”という言葉は、聖書にたつた五回だけ、二つの出来事、一つは旧約聖書で、もう一つは新約聖書に関係して現れる。
最初のもの(列王紀1.11-5)は、ソロモンが、自分の知恵にもかかわらず、シドン人の女神、アシタロテに“従い”、このように主の前に悪を行った様子を述べている。
二つ目は、銀細工師のデメテリオが寺院の模型を買ってはいけないと人々に言い聞かせていた十二使徒のパウロの行為を嘆いている。聖書間記述は、デメトリオの言葉で月のように続く:
「....これではお互いの仕事に悪評が立つおそれがあるばかりか、大女神ダイアナの宮も軽んじられ、ひいては全アジア、いや全世界が拝んでいる、この大女神のご威光すらも消えてしまいそうである。
これを聞くと、人々は怒りに燃え、大声で“大いなるかな、エペソ人のダイアナ”と叫びつづけた」
この“ひいては全アジア、いや全世界が拝んでいる”と言う言葉は手がかりを容易する筈だったが、そうではなかった。強調は“大いなるかな、エペソ人のダイアナ”と言う叫びに置かれており、この出来事はエペソの市民の間の、喧嘩レベルの扱いである。
2
初期の考古学者の心の傾向は近代まで広がった。ミノアクレタ文明の調査の時にさえ、そこにあった女神文化の証拠は殆ど沈んでおり、支配者たちはいつも王たち(一人の王の単独の表現は未だに発見されていないにも係わらず)であった。五十年以上<その島を発掘した跡で、考古学者のニコラス・プラトンはミノアの生活に女性の参画を受容せざるを得なかったが、彼はそれを“彼女たちの男たちが海に行った時”にのみ起こったことだと決めた。
しかし、もっと多くの証拠が明るみに出てきて、女神崇拝が地方の信仰ではなく、世界的な現象であることが明らかになった。自分自身とあまりにかけ離れた文化が想像できなくて、考古学者たちはよりひろい宗教的な絵の一部としてのみ、この女神を観ようとして、“地母”と“土着宗教”などと言う言葉を使い始めた。現在でも、教科書では、主要な先史時代の宗教をこの方法で言及している。今、ライアン・エイズラーによって主要なものが集大成されている。
...大いなる女神の宗教は、生活の単独の最も顕著で重要な特色だったように見える。
カタロニアのフュウクのアナトリア人の敷地では、女神信仰は生活のすべての面に浸透しているように見える。例としては、千九百六十一年と千九百六十三年の間に掘り出された百三十九の部屋から、その四十以上が神殿として使われていたことが現れている。
これと同じパターンが新石器時代と青銅器時代のヨーロッパにも現れている。加えて、神殿は、女神の色々な相に捧げられていた。家々はかまど、祭壇、供物場などと共に、神聖な場所を備えていた。
女神信仰に深く信心している人々の言うことは、ポイントを小さくいい、大きく間違わせるだろう。ここでは、世俗と神聖との間に境界が無いのである。宗教史の歴史家たちは、先史時代、歴史時代での広くよく広がった時にも、宗教が生活であり、生活が宗教であったと指摘している。
新石器時代の絵画についての解析で、エイスラーは次のように論評している:
新石器時代の絵画は前合理主義世界観としての不合理性を、そう多く反映してはいない。我々の世俗時代で、より高い価値が高い、より経験的な思考に比べて、幻想的、直感的、空想的意識によって性格づけられた心の産物であった。
しかし、“幻想的、直感的、空想的”は、“ぼんやりしたもの”として解釈されるべきではなかった。エイスラーが指摘したように、アベベリーやストーンヘンジの建築物のような、女神文化の業績の、最新のものは、末学、天文学、工学の進んだ理解という推定である。
最後の島に土着した女神に紀元を発した文化、ミノアクレタは、舗装された道をもち、室内配管、陸橋、建築技術、航海知識、そして繁栄した経済-今日の多くのはってんしている文化の業績を実際に越えるほどの物質的業績を達成していた。実際に何が異なっているのか強調していた。エイスラーは言う:
...この先史時代に...社会、技術的な発展は、支配や破壊に先立って、先ず始めに、生活をより悦ばしいものにする為に利用されていた。これ...は、この重要な点で、我々のより以前の社会は、現在世界の社会よりもより進化していた、つまり現在の世界は、膨大なお金を殺戮の為のより複雑な方法に注ぎ込む一方で、毎年何百万もの子供たち飢えで死んでいるのだ..と言う結論を指摘している。徐々に、近代の生態学者たちの仕事が、この初期の心の質は、我々の時代の幾つかのタイプの、東洋の精神に伴われているもので、今日の環境を破壊するイディオロギーを遥かに越えているものである。
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エジプトを-そして、アテネの都市国家を本当に-信じたプラトーは、大いなる女神への信仰が(天からきたとそこでは知られている)地中海と北アフリカに広がった時期にやってきたのだ。彼はソロンのエジプト神官の一人に、こう言って尋ねた:
私はあなたがその話、ソロンの話しをしないのはねたましい。それどころが、私はあなた自身の利益とあなたの町の、利益のために、その上さらに、あなたの土地と我々の土地の両方に自身を捧げられ、それらを養い教えている、女神の利益のために、それを言っているのです........
エイスラーは女神信仰についての彼女の詳細な結論を、最も古いものでは紀元前7千年頃に達する考古学的な発見物から、画いた。しかし、女神信仰はもっと早い時期からあった。千九百八年に、オーストラリアのウィレンドリで、曲った石灰石の小像が発見された。それは四インチの高さの、女性の像であり、まだ赤い顔料の後が残り、誇張された胸とお尻をしていた。女性像への重い重要性は、専門家を、その小像が大いなる女神をあらわしていると信ずるように導いた。この像は、紀元前三万年の御者座時代のものとされた。それはツリンのパピルスによれば、古代エジプトで、ホーラス-王たちが支配していた時である。
“ウィレンドリのビーナス”とこの小さな芸術品が呼ばれるようになってから、数多くの女神の小さい立像は光を浴びるようになった。それらの広い地理的な広がりは、女神宗教の広がりの一つの印である。ウィレンドリのビーナスより早く発見されていた、一つの女神の立像は考古学の正式な教科書では、ほとんど言及されていない。千八百八十九年に、アイダホ州のナンパでの井戸を掘っていて見つかった。その像は一インチ半以上はない、G.F.ライトに従えば、“芸術の古典センターいりの名誉を与えられてしかるべき”女性像であった。この小さい像は、鮮新世から最新性の時代に位置づけされたが、それが二百万年前のものだとするものである。古代エジプト人でさえ、彼らの文明がそんな時代まで溯るとは信じてはいなかった。
しかし、我々の文明の最も古いものが、惑星火星から地球に植民であったというアイデと極めてうまく一致しており、考察の魅惑的な部分をよみがえらせるのである。
今日までの、火星の顔の性別はなにかという議論の試みの多くは、それは男性であると結論している。顔を取り巻く“プラットホーム”はしばしば頭飾りか、あるいは軍隊のヘルメットと見られている。コンピュータ強調で出現している“飾り”ハ、それが王のポートレートであるのをしめしていると見られている。
しかしながら、この結論は、男性中心文化の投影以上のなにものでもないかもしれない。
もし、この顔が事実、女性で-その“ヘルメット”は実際には髪型であった-としたら、その時は、文字通り、地球の古代の女神信仰は天から下りてきたと言うことが可能になる。
10 天文学者の神官
ハプグッドの地図の証拠は、地球範囲での先史時代の文明の存在を指摘している。この文明は最新性に花開いたが、それがどのくらい前に確立されたものかを我々はしらない。プラトーは先史時代の絵が他の部分が野蛮な状態の惑星に、たった一つ文明化した国家があったのではなく、発展段階が多かれ少なかれ等しい段階の多くの文明が逢ったことを示唆している。こ例らの国家は、エジプトやギリシャを含み-或いは、少なくともアテネの古代都市国家を含んでいた。
洞穴芸術の証拠は、最新世の間に、考えられないほど多くのレジャと複雑な創造性をもち、自分たちの環境を制御できるような、広がった狩猟民族の集まった共同体があったにちがいないことを示している。そこには、ほとんどの文化の垣根を越えて広がり、原始的でしかも複雑な、統合された女神中心の宗教が存在していた。
統合された宗教から離れても、この先史時代の文化の絵は、今日の地球の文化のタイプに似ている。そこは、進んだ技術的な機能-宇宙航行まで含めて-のセンターが西側には有るにもかかわらず、世界の残りの部分は、色々なレベルの発展段階を呈している。ボツワナのクング・ブッシュマンと北オーストラリアのアボリジニ部族のような石器時代の社会から、電子的な文化で工業化された日本まで種々の状態がある。
しかし、いくつかの疑問のある考古学的な異常点からいくら離れても、先史時代の文明の頂点が我々自身と同じほど技術的に進んでいたと仮定する理由は存在しない。今までの証拠では、歴史学の学生に良く知られている古典的な文明のレベルにおよそ達しているように思える。
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スコットランドのサー・チャールス・リエル準男爵は十九世紀のモットも著名な地質学者であった。“人の遺物の地質学的な証拠”という論文で、彼は技術的に進んだ製紙時代の文明に反対する方がむしろよいとした。彼は書いている:
そのような文明が存在したとすると、最も野蛮な陶器や燧石などの替わりに、彫刻品とか、フェディアスやプラクシテレスらの傑作の美に優るようなものを;埋った線路や電線、今日のモットも良い技術が非常に貴重なヒントをうるようなものを;ヨーロッパで知られているものよりもより進んだ天文学用の記紀や望遠鏡、それに芸術や科学での完成度かの高さを示す物事を、今、発見している筈である。
サー・チャールスは千八百六十三年に、三十年前の、アルタミラでの素晴らしく高度な洞穴芸術の発見、二十六年前の、芸術の古典的な標準の名誉を得た、ナンパの小像、そして四十五年前の、ドナウ河の北の土手で掘り出されたウイレンドルフのヴィーナスについて書いていた。彼は石切り場や石炭の炭坑から現れた金属の爪と加工した金の鎖(4.参照)については知らず、影響もされていなかった。しかし、それは彼の指摘を否定する礼儀シラズであったかもしれない。
もし、本当に、先史時代の文明が、進んだ宇宙を飛ぶ文明によって確立されたものなら、考古学者は、ここからティンブクトュまでを掘って、証拠を掘り出していただろう。何かが、その証拠が発見できないほど深くに埋められていないとすればであるが。
3
明らかな候補は、氷河期の終わりにある。科学の共通認識によれば、氷河期の物語は、最新世時代、二千五百万年前に始まった。氷の板は北米とヨーロッパの高地に発生し、北米の北半分とユーラシア大陸の四分の一に広がった。すぐに、氷は北半球を支配した。
風が強くなり、西風の帯が赤道へと押し出した。加速された熱交換はより多くの雲を創り出し、より多くの雨と雪の両方を降らせた。地球の表面は摂氏1乃至2度冷たくなった。氷河はバトソン湾とバレンツ海の今浅い海床である所まで広がっていた。より昔の南極大陸とグリーンランドの氷の板はより大きく成長した。氷のマントは、南アラスカから、コロラドやカリフォルニアまでの広い範囲の山脈で、ヨーロッパ・アルプスで、ウラルとコーカサスの山脈で、そしてヒマラヤで発達した。
南半球(南アメリカのアンデス、ニュージランドのアルプス、西タスマニア)での山岳氷河は、平野に広がりだしていった。
今日、南極の氷の板は8千フィート以上の厚みである。中央グリーランドでは、氷は暑さ六千六百フィートになっている。最新世の氷の板は北米で一万フィート、ヨーロッパで八千二百フィートを越えていた。
この惑星の利用できる水は、だんだん氷に閉じ込められ、海水レベルは低下した。氷河期の海水は今のレベルより、三百三十から四百六十フィート低かった。しかし、気候が静穏からほど遠かったので、かなり変動した。最後の氷河期の間に、氷が年間に地を百六十から四百九拾フィートもはう一方で、海水レベルは、一世紀に三乃至七フィードも上がったり下がったりした。その氷河期が終わった時に、海水レベルは再び上がった。
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多くの人口集中センターを分けている地球の地図をみてみよう。いくつかの土地に縛られる例外を除いて、近代世界の大きな都市は海岸線にしがみついている。そのリストは、アディレイド、アデン、アレキサンドリア、アムステルダム、アテネ、ボンベイ、ブリスベン、ケープタウン、カサブランカ、ダルエスサラム、タブリン、ハバナ、ヘルシンキ、スイタンブル、カラチ、キングストン、リマ、ロンドン、ロンアンジェルス、マルセリス、メルボルン、モンテビデオ、ニーヨーク、パレモ、パース、ポルタウプリンス、ケベック、ラバト、レイキャビク、リオデジャネイロ、上海、ストックホルム、シドニー、テルアビブ、東京、バンクーバー、ウエリントン、そしてもっともっと沢山の都市を含んでいる。
これには明確な理由が存在する。防衛の容易さと国際間の船による航路へのアクセスが、海岸都市の成長を促している。チャールス・ハプグッドが信じていた氷河期の文明が真に存在したとしたら、それと同じ戦略的経済的な圧力に従った筈であろう。この地図は海洋文化と海洋文化が海の側にとの都市を持つことを示唆している。
氷の溶解に続く海水レベルの上昇は、多くの都市を水浸しにし、貿易の古いシステムを破壊して、そのような文化を荒廃させたであろう。特定の場所を調べてみれば、これは特に明白になる。この氷河期の終わりでの、海による陸地の平均侵食は、5百フィート以下であったにもかかわらず、浸水する範囲はかなり大きかった。紀元前1万6千年前の氷河期の最後での高さで、例えば、ギリシャは五マイルにもなる幅の海岸平野をもっていた。ユーゴスラビアはイタリアに陸続きで、エーゲ海では、北アナトリアからテッサリーまで西の方へ平野が延びていた。サモトラケとタソスは今日のように島ではなく、大きな陸地の一部であった。アッテイカとアルゴリドの間にも大きな平野があり、ユーボエアと大陸の間、ペロポネソスと大陸の間すら繋がっていた。この地の全て-この上にあったどんな居留地も-紀元前七千年前までに冠水した。
これは、“最高のケースのシナリオ”と呼ばれている。ということは、最後の氷河期の終わりに続く破壊は、現在の科学的な共通認識が認めているよりも大きかったと信じている人々かいるのである。
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プラトーの祖先、ソロン-アトランティスについて語った、エジプト人の一人-はアテネの政治家であり、プラトーの時代にはギリシャの七賢者の一人として知られていた。紀元前十七世紀初期の時代、アテネが改革の縁にあった時に、彼は、政治の改革と、国家を救ってくれるだろうと希望した法律の新しい法典を導入した。誰もそれを好きではなかった。ソロンは添う大衆的ではなくなり、-自分自身を説明する試みにうんざりして-彼は十年間外にでて、事を沈めようと国を去った。彼が旅にでている間に、エジプトをちょっと訪問した。政治から離れて、ソロンの二つの大きな興味が、詩と歴史であった。この後の方の興味が彼をエジプトへと導いた。北アフリカの文明は古代世界では匹敵するものがない記録を持っていて有名だった。文字、読者が人類の過去について発見したいという熱望をもっていたとしたら、エジプトこそ、それを捜すべき場所である。
歴史の記録を保持しているものは、エジプトの神官であった。近代の西側世界では、神官が彼の宗教の説明を学び、その教条に自分の生活を合わせていた聖職者であった。東洋では、神官は瞑想やヨガのような精神的な鍛練の実行も加えていたかもしれない。古代エジプトでは神官は、これらのモデルのどれからもかなり違っていた。
最も大きな違いの一つは、エジプトは一つの伝授型の、聖職者の職をもっていた。これは、それが、秘密にされた知識や実務をもつ、閉鎖されたエリートとしての機能を持つことを意味している。多くの方法で、エジプト人の聖職者の職は近代の聖職者というよりも、近代の科学者に遥かに近かった。神官は、第一流の天文学者であった。神官は数学が堪能で、今日でも、我々が羨ましく思う程、進んだ建築や工学の技術を自由にしていたことは、今では良くしられている。医薬品を創り治療を可能にする技能を開発した治療師でもあった。また、歴史家でもあり、その記録は寺院で公開された。
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それらの記録に、ソロンは多いに興味を持った。しかし、かつての外交官だった彼は、彼らに直接尋ねることに気が進まなかった。そこで替わりに、その主題についての関連するギリシャの言伝えによって古代の歴史について会話をしたのである。その中には、デウカリオンとピュラーの伝説があった。
デウカリオンはテッサリーのプチアの王であり、ピュラーの夫であった。神ゼウスが洪水で人類を滅ぼそうと決定した時、デウカリオンは箱船を創って、彼とピュラーはそれに乗って洪水を生き延びてパルナッソスの山に上陸した。この伝説と聖書のノアの物語の類似性は明らかである。多くのクリスチャンたちはノアの箱船の歴史的事実であったと受け入れている。ソロンはデウカリオンの伝説は実際に起こった出来事をできるだけ詩的に書いたものであると信じた。ソロンはその時期を特定する計算もしようとさえした。しかし、エジプトの神官の説明者はギリシャはもはや古代の伝説にアクセスできないとコメントして彼を遮った。この神官によれば、人類はデウカリオンの洪水の物語のように、一度ならず何回も、地上から殆ど拭き取られたのであった。それが起こった時は、個々の災害の前の生活の詳細な記録が失われ、記憶はすぐにぼんやりしたものになった。残されたものはすべて、神話に歪められた。神官はこの時、特に一つの神話に言及した。太陽神ヘリオスの子パエトンの物語である。
パエトンは私生児であることをなじられると、ヘリオスは彼に遅々であることの証拠の為に欲しいものを何でもやると約束した。パエトンは太陽の戦車に乗って、一日だけ天を走ってみたいと望んだ。ヘリオスは彼にそれを赦したが、それが地球に近づき過ぎて、地球を焼き焦がしても、パエトンは戦車を操縦できなかった。それ以上の被害を防ぐために、ゼウスはパエトンに落雷をあてて、エリダヌス河の河口に落した。エジプトの神官は“この物語はあたかも伝説の流行性をもつと言われているが、真実は地球の周りを廻る天体のシフトに由来するもので、荒々しい火で地球の上のものが破壊され、長時間かかってもとどおりになったのだと説明してくれた。
言い換えると、我々の惑星での大量破壊の引き金を引いた、実際の天体現象の歪められた記述であった。二千五百年後の、一人のロシア生まれの学者、インマヌエル・ヴリコフスキが同じものごとの多くを語ろうと試みた。
11 動く山々
ヴェリコフスキー博士は恐ろしいぼど学術的信用を得ていた。彼は、モスクワ、ベルリン、ウイーン、エシンバラの大学で学び、ヘブライ大学の基金をもらった“Scripta Universitatis atque Bibliothecae Hierosolymitarumkの編纂で、アルバート・アインシュタインと三年間と共同した。一九二一年に医学博士号をとり、パレスチナで医者をしていた。一九三〇年代に、彼はチューリッヒとウィーンで心理学を学んだ。
ヴェリコフスキーは人間の歴史のカタストロフィ・モデルに惹かれた。それは常に徐々に変化するのではなく、時には大きな自然災害によって直接起されることを示唆していた。サイスの老神官のように、彼もそのような災害の歪められた記憶が神話として記録されていると考えた。一九五〇年に、“衝突する世界”と題する著書で、その発見を出版した。彼は惑星金星が、つい最近、木星の本体から剥ぎ取られ、地球の重力と磁気荒らしによって太陽を廻る、現在の軌道に運ばれたと主張した。珍しく学術的な仕事として読まれた、この本は文字通りのセンセーションを引き起こし、国際的なベストセラーになった。
彼の理論は、彼に、結果的に証明された確かな予見をするように導いたにもかかわらず、批判者たちは述べられた天体の出来事もっともらしさとそれらを説明するために彼が提案したメカニズムに疑問を呈した。共通認識は、彼が彼の証拠を崖から突き落とし、彼の名声はどん底に落ちたというものだった。
科学の学会はヴェリコフスキーの金星に激しく反応した。彼の最初の出版社デアルマクミランによって製作された、科学の教科書の驚くほどのボイコットは、出版のたった二ヶ月後には、ダブルディに版権を移すことへと導いた。
2
氷河の漂石と呼ばれるものは、もとから石灰岩の上に残っていた巨大な花崗岩の玉石の形で、ユラ山で始めて発見された。十八世紀と十九世紀の間に、科学者たちはそれらの標石がどうやってそこに行ったのかを議論し始めた。当時、共通認識の立場は、ジェノバの学会の、ホーレス・ベネデクト・デサウスレという物理と哲学の教授によって代表されていた。それらの石は、聖書の洪水の結果として、水の急流によって現在の場所に押し流されたと、彼は結論した。
一八三七年、他の、スイスの動物学者で古生物学者のルイス・アガシズは、それらの玉石は水によって運ばれたのではなく、氷によって運ばれたのだという代案の説を発表した。しかし、彼が、アルプスの氷河が過去にはもっと広がっていたことを示した“氷河の研究”を出版した一八四〇年には、このアイデアはうまく受け入れられなかった。彼はスコットランド、北イングランド、アイルランド、そして北米へと、氷河時代の確かな証拠をあつめるために出かけた。アガシズは氷河時代の襲来は、突然で天変地異によるものだったと信じた。氷河の研究の中で、彼は、こう書いた:
それ以前には、熱帯の植物にが皿例、大きな象たちの群れ、大きなカバ、巨大な食肉類に満ちていたヨーロッパの表面は、突然に、平野を、湖を、海を、そして高原を覆う氷の広いマントの下に埋もれた。生活と元気のいい創造の動きは、死の沈黙へと落ちた...
彼のアイデアを支援しようとする試みで、アガシズはスコットランドのウェストミンスターの学部長職を得た。当時の学部長はウィリアム・バックランドで、彼は世界での最も速いディノザウルスの発見者の一人であった。バックランドも先史時代の天変地異-著名な聖書の洪水-を信じ立てた。そしてスコットランドの氷河の運搬した堆積の証拠によってアガシズの理論を素早く確信していた。
替わりに、バックランドは先史時代の文明についての説得で議論した、同じ地質学者のサー・チャールス・リエルと交代するために出発した。リエルは、彼の支援は実質上どんな説の受け入れも保証するかのように高いという評判だった。
アガシズのように、バックランドは現場歩きを決めて、彼の父の家から二マイル以内の一団の堆積物をリエルに示した。リエルは直ちに氷河時代の理論は非常に多くの地質学の問題を解くことを理解した。一八四〇年の十月に、バックランド博士はアガシズに“リエルはあなたの理論をトートーの中に採用したよ”と書くことが出来た。
しかし、リエルはそうしかった。彼は一八四〇年十一月五日に、ロンドンの地質学会でアガシズの仮説を支援する論文を読んでも、一つの厳しい留保点をもった。彼は天変地異のアイデアが好きになれなかった。十年前に、リエルは彼の三冊の“地質学の原理”を出版し始めていた。その中で、彼は、地質の変化は小さい、徐々に起こることの積み重ねの結果であると議論していた。均等主義として知られる、この原理は、他のスコットランド人の、ジェームス・ハットンによって、十八世紀の終わりに、最初に出されたものである。ハットンの見解は、地質学的な現象は、非常に長い期間を欠けての同じ穏やかさのレベルで操作される、観察できるプロセスによって、すべてが説明できると云うものであった。
アガシズの氷河理論に戻って、リエルは天変地異の局面を静かに否決した。彼の大きな信望は、偶然に、一般的で徐々に起こる、特に天変地異などない氷河時代の、均等主義という共通認識を確立した。この共通認識は現在まで、岩の硬さを維持してきた。問題だったのは、それについての莫大な証拠である。
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ヒマラヤは世界で最も高い山脈からなっており、エベレスト山の頂上で五マイルを越えている。西側の古生物学者たちがその場所を最初に調査(十九世紀)した時に、ヒマラヤの頂上部での地層-エベレストそのものも含んで-が海洋生物の骨の残骸を含んでいるという驚句べきことを発見した。その推論は避けられないものである。この大きな山々がかって水の下に在った。ヒマラヤは、ちょうど一万年前に終わった最新世の時代に、地球で最も高い山脈になった。山々が結晶質の岩の“激しい隆起”に遭ったのだ。
もし、読者がパリの郊外を掘ってみれば、(あなたの前の地質学者のように)八百以上の海洋生物の残骸を含んだ石膏の堆積物を発見するだろう。更に掘りつづけると粘土層に達し、そこには爬虫類の骨や淡水の貝殻が保持されている。パリが経っているこの場所は、かつて海の中だったのである。そして、その前は今のように渇いた土地だったのである。フランスの大部分はそうである。地質学者によって掘られた水成岩は、海と陸の間の六回以上の一連の変化わ示していた。他のヨーロッパの国々を掘ると、本質的に同じパターンである。大陸のほとんどは、かつて水の下にあった。北米の色々な部分もそうである。二つのクジラの骨格がミシガンの沼地で発見された。他の骨が、今では海抜4百フィートである、カナダのオンタリオ湖のやや北で掘り出された。もっと多くのグジラの骨がベルモント、ケベック州のモントリオール地区で発見された。両方とも、海抜5百フィート以上の高さにある。合衆国の最初の入植の頃に、農夫たちが家のフェンスを創ろうとした、アラバマの土の中に、数多くのクジラの骨を発見した。これらのグジラは均等主義の科学的な共通認識に問題を提起した。
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学校の子供たちは、地球の表面に五つの大洋があると学んでいる。我々のほとんどは、それらがある種の地理的な実体を持っていると信じて成長した。しかし、大陸は、実体を持ってはいない。一つの海洋と別の海洋との間の分割ラインは、多くのアフリカの国々、或いは、パナマ運河が掘られるまでは同じ大陸の二つの部分であったのに、北と南のアメリカを分けて二つの大陸として分ける習慣と同様に、政治的な境界を任意に決めている。事実、地球の三分の二を覆う水の繋がった単体、世界の大洋として海洋学者に知られているものが存在する。かつて七つの海と呼ばれたもののいくつかを含んでいる。
クジラは大洋を駆け巡る哺乳動物で世界の大洋で発見された。時々クジラは海岸にやってくるが、しかし、読者がクジラの残骸を海抜五百フィートの高さで発見したら、読者はどうやってそこに行ったのか疑問に思うだろう。それにはたった三つの可能性しかないようである。
1. 潮の波によって高い所に打ち上げられ、その後死んだ
2. 海床が突然上昇(例えば火山の噴火等で)し、それと共にクジラを運び新しくできた地の上に生物を座礁させた
3. クジラは平和裏に死に、その骨は海床に沈み、後に、その海床が数百万年かけて隆起し、乾燥した土地になった
均等主義者の共通認識はこの三つの選択の最後のものを支持している。しかし、地質学者はまた、北米の最も最近形成された場所は、少なくとも五億三千万年以上水よりも上にあったと主張している。それは、そのクジラたちが発生する、四億五千万年以上昔のことである。
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クジラだけが問題ではない。何かといえば、マンモスはより大きな困難で困らせる。マンモスは象の一種で、最新世時代の間どこにでも、百万年以上も繁栄していた。しかし、氷河期の終わりとともに絶滅した。均等主義の学説によれば、この絶滅はより高い気温が生息環境を変化させたことに起因して起こり、これらの大きな生物はそれに適合できなかったという。
この絵をなだめるものは、より高い気温が生息環境をより良い方向に変化させたというものである。すでに、氷河の溶解が降雨量を増し、森や草原を広げていった様子を見てきた。象は草食動物であり、マンモスもそれと違いはなかった。一見したところ、氷河期の終わりは、繁殖を助長し絶滅などありえないようだ。もちろん、氷河期が、均等主義者の信じるようにおとなしく終わらなかったとすればの話だが。
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タナナ・バレーはアラスカのマッキンレー山の北にある。そこは、アラスカの他の場所と同様に、そこは深さ百四十フィートにも達し、数マイルの長さで掘り起こされ、均等主義者を吹き飛ばそうと待っている時限爆弾が時を刻んでいるような、骨や樹木の沼地をあらわにしている。この掘り起こしは地質学者によるものではなく、金を含有した鉱床をその下に探していた、高度に機械化された鉱山業者によるものであった。しかしながら、それらは地質学者にとっては、大きな興味と重要なものである。この永久的に凍らされたアラスカの土は、マンモス、マストドン、スーパーバイソンの無数の残骸が、絶滅してはいない馬などの動物と共に、含んでいた。
凍った骨と混じって、無数の根を上に上げたり、裂かれたりした樹木があった。ニューメキシコ大学のF.C.ヒボンは、何が起こったに思い違いはしていない:
そこには、少なくともこれらの物質の何割かが天変地異条件で埋められたというおびただしい証拠がある。哺乳類動物の死骸ほとんどの場所で手足を引き千切られ、関節が外されており...捻られ裂かれた樹木は木っ端微塵の状態で積み重なっている。
これらの動物の死は最後の氷河期の終わり、約一万年前と日付けられている。これは地域的な災害ではなかった。同じような埋蔵は、コユククとクスコキウム河の上流のユコンや北極の海岸に沿っての、より低い入り江に発見されている。北極海のリアコフ島は、凍った砂によって閉じ込められたマンモスの骨だけでできているように見えた。ニューシベリア島、ストルボーボル島、それとベルコフ島はマンモスとサイの骨ですし詰め状態である。 マンモスの牙が北極海のそこから大量に浚渫された。一七九七年に最初にそれが発見されて以来、多くのマンモスがシベリアの氷の中に完全な形で保持されているのが発見された。
その絵について意味するものは非常に少ない。先ず最初に、マンモスは北極には生きている筈が無かった。アフリカ象は一日に草を2百キロも消費するだろう。それより大きいマンモスがそれより多く食べると期待していいだろう。単純に彼らを支える草は、北極には存在していない-少なくとも今はない。骨と混じっていた大量の裂かれた樹木は広がった森を示唆している。しかし、氷河期についての現在の絵は、氷の一つが、既に凍っていた北の方から、徐々に広がっていったというものである。
もし、北が凍っていたら、数百万のマンモス、サイや他の動物は、すべての森の木々とともに、どこか他の場所からそこに運ばれてきたに違いない。それも同時に、すべてがごっちゃ混ぜに、想像すら役にたないような天変地異の中で、運ばれたに違いない。しかし、何か信じられないほどの潮の波か、惑星規模の台風でも示唆しているような、この絵はどうやら、そのどちらでもない。埋っているマンモスの幾つかは傷ついておらず、彼らの胃の中の草が消化していない。彼らは潮の波や台風の風で運ばれてはいなかった。彼らは立ったままで素早く冷凍されたのだ。
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シベリアは今日地球上で最も冷たい場所である。そこが実は氷河時代にはそうではなかったということは、科学的なサークルの外側では一般的に理解されていない。初期の発見者たちは、森全体の石化した樹木が炭化した樹幹をもっているのに気づいた。氷河は本質的には氷の河である。その氷の河がそれらの樹木を壊滅させたのだろう。シベリアの岩の層のどれにも、氷の板が動いた跡はない。これは、北の大陸でのたった一つの特別なことである。
木蓮と無花果の化石がグリーンランドの北で発見されている。これらの植物は、熱だけでなく光りも要求する。北グリーンランドは六ケ月間の北極の夜を持つ。アーキペラゴのスピッツバーゲンでは石炭の薄層がある。石炭は、古代の森や植物への地層の圧力の結果であり、先ず泥炭にし最後に石炭層にするのである。スピッツバーゲンでは、それらの古代の森が北極から緯度八度十五分の間だけに成長した。熱帯的な珊瑚がかなだ、グリーンランド、アラスカ近くの、冷たい北極海で発見されている。そこには、どこか他の所で、似たような極端な気候の変化の印がある。アガシズは自分で、ブラジルに氷の引っ掻き傷を発見した。アルゼンチンは、英領ギアナ、インド、マダガスカル、そして熱帯アフリカがそうだったように、その氷河期を持っていた。インドとアフリカの氷の板は、悪い方向に動いた。すべての地質的な証拠は赤道に紀元を発して北に動いた。インドでは、動きは、北へだけでなく、岡を上り、より下のヒマラヤの裾にまで行っていた。これは簡単に説明できないので、専門家たちは、この印は、最後の氷河期には関係が無く、ずっと古いもので、数百万年前の二畳紀にあたるものだと決定した。しかし、彼らは、その時に、赤道付近の氷の方が、後者よりも、より起こり得ないのかの理由を説明していない。
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ブリテン島の一部で、化石植物相は温暖な気候を締め指定るが、逆に動物の骨は冷たい天候での種と熱帯の種の、全くの不可能なごちゃ混ぜ状態を示していた。象、トラ、カバがトナカイ、オオシカ、狼、熊と一緒になっていた。同じようなごちゃ混ぜがフランスでも発見され、もうすこし限定されたものは、スペインでも発見されている。
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一九五三年に、ハプグッド教授-古代の海の王の地図を研究したと同じ人-は多層になったミステリーへの包括的な回答を提出した。彼は、それを地球外皮の移動説と呼んだ。
その当時、今日と同様に、科学の共通認識は、気象学のアルフレッド・ウェグナーの大陸移動説を支持していた。一九一〇年に溯って、ウェグナーは色々な大陸の外形が爆発したジグソーパズルのようにお互いに合わさりそうだと気がつき、そして、それらはある時。彼がパンゲアと呼んだ単一の巨大な大陸であったに違いないと結論した。彼はそうなる引っ張り力をまったく描出できなかったにもかかわらず、彼はゆっくりと離れていって現在のそれぞれの位置になったと理論づけた。
ヨーロッパの地質学者たちは、このアイデアを好み、イングランドで、アーサー・ヘルメスはマントル-地球の内部の一部で、外皮の下に或る-の対流が移動する為の引き剥がし力を与えているのだろうと、提案した。みんなは、またまたこれが好きになった。
ハプグッド教授ハ、大陸移動の事実を認めたが、その大陸群ではなく、地球全体での外皮が動き、...そして大きく動いたことで、広く分離した時期があったと提唱した。惑星の軸や回転には影響はなかったが、この突然の移動は、前に温帯或いは熱帯の地域が北極や南極圏に運ばれ、突然の気候の変化、暖かい天候で生きていた植物や動物の全部の系列を一掃する原因になったかもしれないことを意味している。
同時に、温帯地方は冷たくなり、凍った地域にかわり凍っていた場所は暖かい場所に移動した。直接の結果として、氷の多くの部分が素早く解けて、地球全体での海水レベルの劇的な上昇の原因になった。
ハプグッドの理論での外皮の移動は、徐々にではなく、また連続したものではなかった。
それは激しい地震と巨大な潮の波を伴い、大規模破壊と大規模死滅の原因になった。外皮移動の最後の期間は、氷河期の終わりを印したと、彼は想像した。
ハプグッドは彼のアイデアを愛していた、アルバート・アインシュタインと彼のアイデアについて議論した。アインシュタインはハプグッドに、地学に共通する徐々な変化概念は心の習慣でしかなく、観察できるデータによって正当化される必要はないと語った。アインシュタインは、この主題に関するハプグッドの本に前書きを書くことによって、この理論に彼の名を貸すほど、心を打たれていた。
この裏書保証にも係わらず、この理論は科学学会によって、概ね無視された。変化は、それが素敵でゆっくりなほど長ければ、受容されたのである。全て同じように、ハプグッドとアインシュタインを確信させた証拠は、一万一千年以上前に、この惑星に技術的に進化した文明があったことを示唆するのに十分なものである。その痕跡の殆どは、氷河時代が終わった大規模な変化によって抹殺されたのだろう。しかし、読者は、何かのハイテクの痕跡が残っているのではと想像するだろう。
12 星々に向けた神殿
サイスの老神官は、他の国家はしなかったのに、エジプトが古代の時代に戻って日付を記録をどのようにして残したのかを、ソロンに説明するのに苦労していた。神官は、そこに二つのタイプの地球規模の災害があったと主張した。一つは隕石による爆撃のような、“火の”天体現象によるものだった。もう一つは、広い範囲での洪水の形で、水によるものだった。
空からの火の災害の時には、神官は、“山に、高地に、乾燥地に住んでいたものたちのすべてが、海の近くに住んでいたものたちよりも、ひどい破壊に苦しんだ”と語った。一方、洪水の時には、“山にいた牧夫や羊飼いたちは救われたが、平地の町にいたものたちは流れによって海へと流された”と述べた。
しかし、エジプトはその特別な地形のために、どのタイプの災害でも上手く生き延びてきた。火の時には、他の面での我々の救い主、ナイル河がそのような時にも、水位が上がって我々を救ってくれた“。大雨がはじまると、逆に、”その時も、他の時も、水が高いところから平野に流れ注ぐことはなく、逆に、すべてが自然に低いところからわき上がる。ここに保存されているものは、最も古代にあるはずのものであると思われる野は、この理由からだ“。
このアイデアは自然なものに聞こえるが、しかし、神官が述べ、エジプト文明が、我々の現在のオーソドックスな共通認識が認めているより非常に古いとされる主張が支持しているような、最新世の文明の今や強固な証拠があるという事実は残っている。ここに、古代エジプトで開発された天文科学の豊富な証拠がある。それは、事実、それを創りあげるための長い期間の意識的に記録された観測を要求したであろう。記録の保持は、結果的に王朝以前の時代に、そこになければならないはずの、“書くこと”を要求するのである。
ナイルの谷での、徹底的な考古学的な調査は紀元前三千百年以上前のエジプト文明の証拠を何も見出せなかった。このことは、多くのエジプト学者をより古いエジプトの文明の可能性を否定し、それを支援する証拠を無視するように導いた。実際の化け物は、リエルの、単純から複雑へ、原始から高度への徐々の変化と線形的な進化プロセスのみを許可するという、均等主義のしつこい説に在るようだ。しかし、もしも、氷河期の終わりが、何らかの先史時代の文化を突然の崩壊を起した地球規模の災害に引き落としたとするならば、完全にまったく違う絵が想像できる。これは、ナイルかどこかのにあった、古代のエジプトと同じくらい、或いはそれより遥かに進んでいた可能性がある原エジプトの絵である。
そのような文明がすべて氷河期の終わりに破壊されたのかもしれない。しかし、神官が暗示したように、特別な地理的な条件がナイルの谷での集中した生き残りを可能にし、何らかの技能と記録を保持することを可能にしたのかもしれない。野蛮な時代の後に、彼らの生き残りの子孫が、紀元前三千百年頃の彼らの記録の保存されていた連続性を引き継いで、ついに彼らの文明を再構築したのだろう。
中世でのヨーロッパの経験は、地球規模の災害がなくても、文化が長い時間かけての衰退に陥ることを示している。幾つかの古い記録のように長く保存されると、そこには常にルネッサンス(古典復興)の可能性が存在する。ルネッサンスのようなものは、直前にある文化と極端に異なった、しかし、より遠くてより進んだ時代からの影響の、隠そうとしても現れる印を持つ、文化を創り出すものである。そのような、隠そうとしても現れる印は古代エジプトの歴史的な文明の中に存在している。
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グローリア・エレクトロニック・エンサイクロペディアに兵器の歴史が次のように記録されている:
....アッシリア人(紀元前二千-六百十二)...は弓と矢、剣、槌矛(突っつき棒)戦闘斧、槍、盾、それに、うろこ型のよろい。アッシリア人はまた、横柄な篭城を行い、築城技術に長けていた。他の文化、カルデア人は紀元前一千年頃までに騎兵隊を使用した。
ギリシャ人、ローマ人、中国人、ゴート人、そして、海賊たちのすべてが、主要な破壊道具の開発に身を入れていた。エジプト人は、ちょっとした言及する程度にも、やっていない。
しかし、もしも兵器で遅れたとしても、エジプト人は他の分野では、殆ど想像もできない程進んでいた。すべての場合において、彼らは自分たちの王国国家のオーソドックスな業績よりも、遥かに古い伝統からのインスピレーションを引き出していたことを暗示している。
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リビオ・カトロ・ステッチーニ教授がまだ学生の頃、彼は何か極端に心をかき乱すものにであった。
私は、古代史の研究者は古代の書物や研究報告書を多く呼んではいけないという事実を、徐々に受け入れるように強制された。私は特別な分野の専門家によって判定してもらう為に論文を提出した時、その人がそれについてどのくらい多くのものを見ていたかを示す頁を急いでめくってみて、幾度と無く気がついた。見かけは違えど、“数値は古代の研究の証拠を構成しない”と言われた。
この姿勢が実際の暗示だった。ステッチーニが彼の“ギリシャにおけるお金の起源”という論題を提出した時に、多くの価値を含んでいると受け入れられたが、それを出版する前に、“それらのすべての数値をカットすべきである”と強く忠告された。
彼の、数値の検証へのいらいらするほどの固執にもかかわらず、ステッチーニはハーバード大学での古代史の博士号をもらうために、結果的にカットした。彼は古代の度量法の論題で博士号を得た。それ以来、古代エジプトでの数学の、地理学の、幾何学の、測地学の知識のレベルを調査するために、数値に対する彼の技能は適用されたのである。どの場合でも、彼は驚くほどに進化したものを発見した。
ステッチーニは他のエジプト学者と同様に、同じヒエログリフの研究をした。しかし、数値をスキップすることはしなかった。このアプローチは配当を支払ってくれた。例えば、彼らの国の統一と同じ位に極めて古い時代に、エジプト人は地球の周の長さを知っていたことを示してくれた。彼らは、経度も緯度も数百フィートの誤差で測量することができた。彼らは自分の国の長さを、最新のキュービット(腕尺)で計って知っていた。彼らはまた、彼らの地中海から赤道までの彼らの土地の地理的な座標を知っていた。
ドイツのエジプト学者、ルードヴッヒ・ボーチャートによって出版された本は、ナイルの第一カタラクト(最初の洪水)から地中海のベデイまでの長さを百六アタールとしている。一アタールは一万五千ロイヤルキュービットであり、これは現代の測量に直すと、八十三万千二百四十メートルになる。このことから、エジプト人が緯度に与えた数値を計算でき-十一万八百三十二メートルである。現代科学は実際の数値を十一万八百と信じており、3.2パーセントの微少な誤差でしかない。赤道と極の間の、緯度の平均値の計算は、111,136.7メートルとされている。現在の見積もりは、111,134.1メートルである。
ステッチーニによれば、初期の子午線はエジプトの地理学者たちによって、二つの経度で国を正確に分割するために確立された。地理を単純化するために、この初期の子午線や、計算された北回帰線から計って、都市や神殿を概数であらわせる距離に、悪くとも簡単な割合で現わせる位置に配置していた。新しい首都メンフィスがそうであったように、前王朝時代の首都、ベディは初期の子午線の上に正確に建てられていた。異端のファラオ、アキナトンは最も古い測量に戻して、彼の新しい首都を北回帰線の上に或るシェーネとベディの正確な中間点に建設した。境界線の石が一万分一の精度で置かれていた。オムファロス(中心点)として知られる石の印が、子午線と経度線の交わりを示し、他の中心点との距離を示す、特別な測地のセンター点に置かれていた。エジプトでの天文学、地理学、測地学は、神々への崇拝と切っても切れない関係にあった。テーベのオムファロスは、子午線と経度線が交差する正確な地点である、アモンの神殿に置かれた。
エジプトの地理学者たちは、彼らの国は実際に世界の測地学のセンターになるほどに進んでいた。多くの国々の首都は、-中国の古代都市、アンヤンも含めて-エジプト人の子午線を参照していた。ギリシャのデルファイ、イスラムのメッカ、ギリジム山のユダヤ教の元の、宗教センタのすべてが、エジプト人の最初の仕事に彼らの敬意を表している。
地図無しでおぼえられるほど、無邪気な単純さで様式化した地理学に結びつけられたシステムは、エジプト人が彼らの国の中では、迷子にならずに旅行ができることを意味していた。宗教的な場所にはすべて行けるようになり、商取引も盛んになった。しかし、ステッチーニの発見のもう一つの重要な意味がある。前王国時代に遥かに戻ったエジプトがこの偉大な測地システムに従って建設されていた-と言うことは、そのシステム自体はそれ以前の時代に、完全に完成されていたことを意味している。ここで我々が観ているものは、自然の至言、防衛、商取引などの理由からできた都市を持つ、後のヨーロッパ国家の組織的な流行で成長した一つの国ではない。それは、予め計画された国であった。その計画をしたものたちは、それより前の時代から、その技術を学んだに違いない。
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もし、古代エジプト人の天文学と地理学の知識が感銘を与えるものであったならば、建築や技術の能力は恐ろしいほどのものであったであろう。
英国の天文学者でエジプト研究家の、サー・ノーマン・ロッキアが、最初にカルナックでアモン・ラーの神殿を見た時、彼はそれについて“文句無しに、世界での最も荘厳な没落”と言うように突き動かされた。旅行者の同時代の人々は、彼と同じ感傷をおぼえたであろう。その場所はスフィンクス通り、立ち並ぶ柱、巨大な像を特徴としていた。大きな広間の柱は、二十メートルの高さまで立ち上がり、直径も三メートルを越えていた。パピルスの書物によれば、その全盛期には、六十五の都市、八十三艘の船、四百三の庭庭園、二万平方メートルの耕作地、そして五十万頭の家畜を管理する二千百人の人々が雇われていた。このような規模は珍しくはなかった。
一つのヘリオポリス・オリベスクとして実際にあった、チチモス三世の統治時代のものとされる、クレオパトラの尖塔は、二十一メートルを越える高さの、ロンドンのテムズ・エンバークメントの上を行っている。紀元前千五百年頃に、ハシェブス女王によって建設されたオリベスクは三十メートルの高さがあった。テーベの近くのメンノンの巨像、アメンホテップ三世のイメージシタ、実に巨大な彫像は、古代世界中で、敬愛されるほど大きかった。テーベの共同墓地ハシェプの、埋葬神殿は文字通り、周りの山々の露頭を統合していた。
一八五〇年十月に、大エジプト学者、アウグスト・マリエッテがサックァーラで半分埋もれたスフィンクスを発見した。それはストラボによって数世紀前に記録されていたメンフィスのセラピウムに導く、失われた道の多くの筋の一つであると証明した。アピスの雄牛のミイラ化したものを含んでいた、この地中の迷路は考古学の最も劇的な発見の一つであった。後の訪問者の一人の書いている:
この広い地下の通路によって創られる印象を創造することは不可能である...ギャラリーをでると、巨大なアピスの雄牛の装飾をした石棺のある側室がある...どの道へ曲がっても、その印象は、まさに、魔法の如し。
その石棺は高さ三メートル、幅二メートル、長さ四メートルで、どの面も一枚岩のみかげ石から切り出されており、その表面は鏡面に磨かれていた。フランス人研究者で、一八二二年に最初にヒエログリフの碑文の解読者になった、ジーン・フランシス・チャンポリオンは、“古代と現代の両方で、誰もそのような巨大な建築技術を、かつて想い付いたことはなかった”と言うコメントを記録した。それがどれほど大きいかに、一九五六年に始まった一連のイベントで強調され、その年に、エジプト政府はアスワンで新しいダムを築くことを決定した。
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国の農業的な発展のための信じられた必要性とは言え、第二のアスワンダムの建設計画は、文化的な災害と見られた。その場所が古代の最も劇的な記念碑の幾つかを含んでいた。
一九六〇年に起きたユネスコアピールによってせがまれて、法律を無視した世界共同体が救済プロジェクトに金を出した。ダムの建設前八年間で四十の考古学的な遠征隊がその場所に訪問し、アブシンベル神殿の岩を切り出した神殿も含めて、十二以上の記念物が救われた。
これらの神殿は紀元前千二百六十年に、ラムセス二世の命令で建設された。二つのうちの小さいようはファラオの妻、ネフェリタリを記念して、女神ハトールの神殿として設計され、そして十メートルの高さ、または現代建築の三階建ビルに相当する高さもある、幾つかの彫像で飾られていた。
しかし、これは、大神殿と今言われているものと比較でいえば、人形の館であった。高さ二十メートルもある、ラムセスの四つの巨大な彫像は、岩の塊からその正面を切り出されていた。それらの頭部は幅が四メートル以上あった。耳はその中に人が坐れるほどの大きさであった。二.六四メートルの大きな手が、膝の上に置かれていた。眼のサイズは、〇.八四メートル、花は〇.九八メートルの長さがあった。神殿の内部の部屋と礼拝堂は山の中へと六十メートル以上も広がっていた。
これらの二つの神殿を救う為に設計された計画は、文字どおり、それらを切り出して、より高い所に運び上げ、ダムの水につからない場所で再度組み立てるものであった。作業員のチームは、記念碑を二十乃至三十トンの重さをもつ、千四十七個のブロックに切り刻んだ。更に七千七百個の同じような重さのブロックが、それらの近辺のものを動かすことも必要だった。
これらの像が神殿の大きさを示している一方で - これは決してエジプトでの最も大きい構造物ではない - それらの建設に至った複雑なものへのヒントは与えてくれない。最初に、彼らは、人々の生命とファラオの軍事的な成功をしめす玄武岩の浮彫りで入念に飾り、色を塗った。女王とその子供たちの等身大の彫像が巨像の近くや建物の中に刻まれていた。しかし、もっとも印象的だったのは、大神殿の方位であった。
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古代の建築家と司祭天文学者は、年に二回、二月と十月に、上がる太陽の光が列柱のホールを通って、その内にある聖所に射し込むようにする方法で、構造物を設計していた。一年の他の日々はその聖所には光りはなかった。そこで、彼らはアムン、ラー・ハラキ、そしてラムセス自身の彫像、一方地下世界の主、プター(Ptah)を描写した、暗闇に残っている四番目の彫像に照明をしたのだろう。この微妙な位置関係は珍しいものではなかった。
アモン・ラーの神殿に魅せられた、サー・ノーマン・ロッキアが、その軸が夏至の日に正確に東に向くことを発見した。それは多くの発見の一つでしかなかった。ナイル河の長さ方向に添って、太陽(多分恒星)の並びで、ロッキアは神殿の次に又神殿を発見した。与えられた神殿の軸が長ければ長いほど、光のビームは狭くなるだろう。ロッキアは、そのアイデアは、至を正確に測ることだったと結論した。ロッキアの言葉を借りれば、エジプトの建築家と技術者は<カルナックや他のものを創造できた、“非常に高い精度をもつ、一年の長さをそれでもって最大限に可能な精度で決定できた、ある科学的な測定器”を持っていた。
神殿が太陽と直線関係を持つ時には、それは六千年に渡って微々たる精度のロスで機能するだろう。恒星との直線関係は永久の先まで遥かに誤差はすくない。昼夜平分時(春分、秋分)の歳差は、恒星型神殿の有用な機能を、二乃至三世紀で終わらせる原因になるだろう。しかし、これは古代の技術者にいくつかの問題を提供した。彼らは簡単に軸を再配置するかまたは神殿を再構築した。ルクソールの神殿は少なくとも四回の以上の、良く定義された軸の変更をしている。ロッキアの測定は、いくつかのカルナック神殿は、それぞれの恒星との軸の歳さ変化に合わせて変更されていたことを示した。ほとんどのファラオ用及びすべてのプトレマイオス朝の、神殿は一度に或いは別の時に、再建設されることが広まっていた。
ロッキアは大熊座、カペラ、アンタレス、ファクト、アルファ・ケンタウリ、それにオリオンとシリウスに軸を合わせて配置された神殿を発見した。二つのプトレマイオス朝の神殿についての仕事は、ロツキアに、それらの神殿が、恐らく一度ならず、紀元前七百年より昔で、古い王朝の第四王朝にまで達する可能性もある時期に、再建設されたことを確信させてくれた。
天文学的なデータを基に、ロッキアは第四王朝を紀元前三千七百三十三年に修正した。これはエジプト国家の始まりのオーソドックスな見積もりよりも六百年早いものである。
両方の神殿は女神-イシスとハトール-を祭っていた。エジプト文明を紀元前三千百年に日付た、オーソドックスに邪魔されることなく、彼は、イシス神殿が紀元前四千年には、ドゥーベに、それより千年前には、ガンマ・ドラコニスに向けられていたと決定した。彼は、古代の建築家は紀元前六千四百年以上前には、カノパスに向けた神殿を建設していたと信じた。彼は、そこにエジプトでの天文学や技術能力が上手い具合に、前王朝時代にはいる大雑把な証拠が合ったと考えた。しかし、彼は“大ピラミット゛は、新しく侵略してきた人種によって建設された”という意見を持つ、学術爆弾を落した。彼が言った、この人種は、明らかに、天文学的な考え方において進んだものを持っていた。
13 ピラミッド・ミステリー
古代神殿の建設で、どんな高さが達成されようとも、エジプトのピラミッドに行き着く技術の驚異的な巧みさによって凌がれた。
ほとんどの人々にとっては、エジプトのピラミッドは、現代のカイロに近い、ギザの台地にある三つの巨大化構造物を意味している。しかし、エジプトには、少なくとも百以上の後が在り、多くは朽ちているが、その内八十基位が今でも見られる。殆どは、旧王朝からのもの(紀元前二千六百八十六から二千百八十一年)で、ナイル河の西岸の百キロメートルの細長い地帯の、ハワラとアブ・ルエシの間に位置している。
最も古いと知られているピラミッドは、サッカーラにあるゾーサー王の階段ピラミッドてある。紀元前二千六百五十年に建てられたと見積もられている。この計画は、エジプト人に神だと、そしてエジプト学者には神話と思われていたほど、高名な建築家イムホテップによって、画かれた。彼の彫像は、不釣り合いなほど大きな頭と繊細な容貌をもつ、やせていて、ほとんど壊れそうに小さな男を現わしていた。
ゾーサーのピラミッドは、核として大きな墳墓を持ち、重ねる毎にサイズを小さくした、六段のテラスで構成されていた。建物の精巧な複合体で取り囲まれ、今は部分的にし裕福されている。開発の次のステージは、メイダムの九十三メートルのピラミッドで、第四王朝の創設者スネフルの命令で、紀元前二千六百十三年頃に建設された。それは階段型ピラミッドとして設計されたが、後に傾斜面を創るように、階段が滑らかに石で覆われたように見える。ダシュールの興味深いピラミッドもスネフルによって建設された。その底部と頂上の中間で、その傾斜が変えられており、その為に曲がって見える。第四王朝の間に建設された、最も大きいピラミッドは、ギザで発見された。クフ(ケオプス)のピラミッドは、紀元前二千五百年頃に建設されたと信じられており、すべての中で最も大きなものである。
最も古典的なエジプトのピラミッド群の特徴は、ピラミッドの近くに在り、低い、或いは谷の神殿を含めての神殿複合体であり、ピラミッドは第二の神殿への土手道によって次のピラミッドと結ばれていた。カフレ(ケフレン)の良く磨かれた御影石の谷神殿の例外として、ギザで、神殿が消えた。
旧王国の最後の主要なピラミッドは第六王朝(紀元前二千三百四十五年から二千百八十一年)のペピ二世のものである。ファラオ、メンホテップ二世が紀元前二千六十年に権力の座に就いた第十一王朝まで、ほとんどピラミッドは創られなかった。第十一と第十二王朝の間の、紀元前千七百八十六年まで、ピラミッドは、タジュールとアル・ファユームの間に建設されつづけたが、しかし、その後、その習慣は完全にすたれた。エジプトのピラミッドで最も興味深いことは、新らしくなればなるほど、最も貧弱に創られていることである。
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何人かの専門家は、ゾサー王の時代から、建設技術の改良は絶え間なく前進していると論じていたが、ギサのピラミッドで上手さがピークに達すると、そ個から先は下り坂だった。その後、一世紀たらずを経て創られた第五王朝のピラミッド(その中で、ピラミッド碑文が発見された)は、それより前のものが依然、世界の不思議として立っているのに、いまや荒石の山以上の、なにものでもないのである。
短時間に何故こんなに極端な退化が起こるのかを理解するのは困難である。一つの可能性はある。古代エジプトでは、宗教的な知識から離れたものではなかった科学知識と、それに付随した技術が、一人の選り抜きの、伝授する聖職者の独占的な特権であった。証拠のすべてが、この知識の一部(恐らく主要な部分)は、観測や経験の結果ではなく、それ以前の文化から受け継いだものであると言う事実を指摘している。
引き継がれた知識は、或る種の欠点を持っている。その一つは、それを受け継ぐものたちによって、それが理解されているとは限らないと言うことである。もう一つは、蓄積された知識の本体は、結果的に小さな伝授するグループの調査能力を超えていると言うことである。それが何に伝わるかと言えば、もし、伝授者の多数が天文学に興味を持つものならば、天文学が古代の、実際に使われ発展する知識の枝流となるだろう。しかし、天文学への集中は、それに応じて、他の修養に費やされる時間がすくなくなることを意味している。
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何か似たようなことが、現代でも起こっている。着物の流行での“輪郭をはっきり”が科学の流行でもある。流行のプロジェクトはほとんどの資金を引き付け、結果として、ブレークスルーは他の分野よりも、これらの分野に遥かに多く起こり易くなる。情報の流れと、科学者の数の両方が遥かに制限される伝授科学では、不均衡が大きく誇張されたに違いない。
この背景に対して、読者は、建築と技術に興味を持った小さな体格の伝授者の出現によって、旧王朝時代の初期の時代に大きな飛躍をした、建築や技術の分野での停止した期間を想像したかもしれない。エジプトの碑文が示唆しているように、この飛躍はたったひとりの天才的の伝授者、イムホテップによって引き起こされたと言うことすら可能である。イムホテップは、失われた先史時代の文明から取り降ろした進んだ技術を理解するのに必要な専門的な知識を有していた。彼のゾサーのピラミッド建設の経験は、彼の理解をテストし修正するのを可能にしただろう。
もし、オーソドックスな時期設定が正しいとしたならば、彼はギザのピラミッドの件説に個人的に係われるほど長く生きていなかったであろう。それらのピラミッドが彼の計画で建設されたという、伝統的な主張は可能ではある。オーソドックスな日付が、ゾサーのピラミッドとギザにあるクフのピラミッドとの間に、百五十年以上はないことを認めているのだから、イムホテップがその当時にその両方に係わった可能性を赦すことは、誤差が相対的に小さいことを要求する。
これと関連して、初期のブリテンのエジプト学者の古参者、サー・フリンダー・ペトリが、大ピラミッドの王の間の控えの間の構造に、精度の高い部分とぶざまな部分とのパズルについて注目した。大多数の花崗岩のブロックは磨かれておらず、幾つかのものは明らかに不完全なものであった。ペトリはこの建築物の原作者は彼の仕事を監督するのを辞めたのだと言う意見を述べた。
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エジプトのピラミッド群は殆ど気を遠くする、素晴らしい技術の成果を代表している。三千万トンの資材がその建設に使われ、その四分の三は第四王朝の短い歴史の中に収集している。ゾサーの階段ピラミッドは八十五万トンを使用している。ダッシュールのファラオ、スネフルの二つのピラミッドは合わせて9百万トンの重さである。
しかし、それらの数字も巨大であるが、クフの時代にその建設の時期があるとされている、大ピラミッドの数字と比べると、それらは、まったくつまらないものになってしまう。この信じられない構造物の基礎は、十三エーカーの床岩を覆っている。約二百五十万個の石灰岩と花崗岩のブロックが建設に使われていた。ブロックの重さは二トンから七十トンの間である。現代の四十階だてのビルデングに匹敵する、二百一層以上に詰まれている。原形では、外側は磨いた石灰岩(大理石に似ず、年数で色が褪せたりしないもの)の十五トンの板で覆われていた。それの全重量が六百三十万トンあった。この種のもので、このような数字になるのは、過去二千年で、イングランドに建設された大聖堂と教会のすべてのものを合計しても、このピラミッド一つの石の方が多いのである。ある時、ナポレオンが、ピラミッドをばらすと、高さ三メートル、暑さ一メートルの壁を創ってフランス全土にめぐらせる材料を十分に提供すると計算した。
大ピラミッドが印象的なのは、大きさの故ばかりではない。建設されている、床岩の基盤は最初に、人工的に一インチ以下の精度に水平に加工されている。この基盤は一キロメートルに周長をもっており、精度〇.〇八パーセントの誤差しかない真四角である。各辺は、東西南北の基本方位に対して、〇.〇六パーセントの誤差以内で一致している。重さ数トンの外皮石は、ナイフの刃が隙間に入らないほどにぴったりと合わせられている。構造物の中には、二つの部屋が存在している。上の方のものが、王の間と名づけられ、花崗岩ブロックの縁が光学的な精度で切り出されていた。モルタルの薄皮が、三五平方フィートの表面積で、一インチの五十分の一より小さい平面誤差で、平らに施工されていた。
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考古学者たちは古代エジプトには車輪も滑車も存在しなかったといっている。家畜の馬ですらなかった。ピラミッドは、ブロックを切り出し、掘り出し、時には長い距離をローラーを使って運び、斜道を使って持ち上げる、汗をかく人間の筋肉によって建設された。
現代の建築家、ピーター・ホッジは第二次世界大戦の間、王立技術院で得た経験から、斜道理論はばかげていると結論した。問題の一部は、斜道になる部分を埋めるのに必要であった膨大な材料であった。十分の一の傾斜が妥当だとして、クフのピラミッドに必要な斜道は、ギザの台地を超えて、周囲の岡までまっすぐに伸びていただろう。それは、8百万立方メートルの体積になり、ピラミッドそのものの体積より大きい。七分の一の急な傾斜-実際的ではないが-でも、体積は五百二十万立方メートルになる。
この資材は建設が終わった時に、どこに持っていったのか?今でも見える、近くの石切り場ではないことは確実だ。そこだとしたら、完全に埋っているだろうからだ。仮に、十メートルの厚さで一面に広げたとして、百四十エーカーも覆うであろう。厚さを減らして、人間の背の高さ程度にしても、七百エーカーを覆うことになる。ギザの近くに、このような量の物質の印は見当たらない。考古学者によって発見された荒石積は、石を仕上げる時にでる自然の損耗分でしかなかった。
二つ目の問題は、ブロックの流れの疑問である。一つの斜道を使って-或いは四つの斜道を創ったとして-ピラミッドの大量の石のブロックは、二十年間、一つの失敗も無く、一分に二個の割合で、作業面に到着しなければならないだろう。ホッジの見解では、斜道に関連して他の問題があったが、しかし、彼が計算した斜道体積の値とブロックの流れは、共通認識の理論を片づけるのに十分だった。
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ホッジの、ピラミッド建設についてのミステリーは、既に、ギリシャの歴史家ヘロドトスによって、エジプトの資料を引用して解決されていた:
使われた方法は、一段づつ、彼らが呼んでいた、段とかテラス毎に、建設するというものである。基礎が完成した時に、短い木材を組んだ考案物によって地上部から、最初の段のブロックがその上に持ち上げられた:この段の上で、ブロックを一つ上にあけで、他の段が創られ、同様にして上へと挙げていった。個々の段、或いは階は、梃子の設備を持っていた。或いは、運ぶのを容易にし、荷物が場所に置かれたらすぐに階から階に持ち上げのにも、同じような物を使っていたかも知れない。二つの方法が述べられているが、私は二つとも、そこに在ったと想う。ピラミッドの仕上げは上から始まり、下へと続き、地上に最も近い最下段で終わる。
この説明は、ビル建設の経験がない、一人の男の為に、それを忘れてしまった、エジプト学者たちの世代には受け入れられた。それは、建築家ホッジには、何が起こっていのかの、正確で合理的な説明を与えてくれた。ホッジは言う:
問題の本質は、的確に理解されているようには思えない......一つの石は、人々が直接上に持ち上げる効果を手にいれられる筈が無いほどの密度があるのだ...運搬用の手がついた受台の使用は、平均的な芯の石用としてさえ、割り引かれるべきだ.....何故なら、それらは、七十人以上の人が必要とされるからである。
何らかの荷重を持ち上げるのには、二つの異なった方法がある。上から引き上げるか、下から持ち上げるかである。この違いは重要である。何故なら、車輪も滑車もクレーンも持たなかった、第四王朝のエジプト人は、本能的に彼らの重い荷物に、それをしたから上に持ち上げることで取り組んだ....
考古学者が大きな石を数百フィートも持ち上げると言う言葉で考えたのに対して、ホッジは、これが成されうる前に、最初の数インチを持ち上げるのが本当の問題なのだと指摘した。どうやってこれが成されたかが判れば、読者は、プロセスの残りの部分を理解できる。ホツジにとっては、それはいうまでもなく、梃子が使用されたと言うものだった:
古代エジプト人は、ラチェット(つめ車装置)も持っていなかったようであるが、しかし、彼らは、梃子のハンドルが地に着いた時に、石の下にパッキングを容易に差し込んでいた。そのようにして、梃子が除かれる前に、持ち上げ力の最大の利得を確実にしている。
重い物が動かされる時に、人力の使用は決して常に機械力に劣るもではない。チームで仕事をする経験のある人々は、彼らの力を制御でき、一瞬の必要に合わせて素早く反応する柔軟性を持っている。
人のちーむはピラミッドの段から段へと素早く石を挙げることができたたろう。木材のバッキングが段の下に入る者によって、個々の”釣り上げ“毎に挿入されたであろう。中心部の石は重さ約二.五トンもあり、各チームはまもなく彼らの仕事に素晴らしいリズムを作り上げ、一日でピラミッドの中間まで石を持ちあげるようになった。
ホッジは、エジプト人が“梃子の使用についての素晴らしい制御を発展させたのだと確信して、彼の理論をテストする決断をした。それは行われた。
梃子の使用、それは二.五トンの質量を持ち上げるのに、丁度二人を要した。ホッジは各々梃子を持つ四人が、標準的な石をピラミッドの一段あげるのに、大体十回の押しでよいと計算した。より大きい石は、もっと多くの梃子と最多くの押し回数が要求されたであろうが、まさに同じ方法で動かされたであろう。
古代エジプト人はこの方法で、光学的な精度で大きな石を置いた。筋肉と工夫程度の彼らの技術は、現代の機械ベースの建築業界ができるものよりも、より正確で、より効率的で、遥かに経済的であった。
シドニアでの構築物から判断すると、古代火星人は途方もない技術能力を開発していた。その能力は、遥か先の先史時代に、彼らが地球に確立した植民地で授けられたであろう。
エジプト人が彼らの技術を引き継いだのかもしれない。もし、そうだとしたら、それらはたったの一つではなかった。
14 空への港
ヘルナン・カーティスとフランシスコ・ピザロがアズテックとインカ文明の肝を潰した都市群にであった時に、彼らは、失われたアトランティスに出くわしたと想った。しかし、アスティカ人とインカ人の両方とも、中央、及び南アメリカでは比較的新しくやってきたものたちだった。
それら自身の伝説によれば、アスティカ人はアステランと呼ばれる場所から発していた。アステランの正確な場所は、分っていないが、アスティク人自身はメキシコの北か北西のどこかに位置していた。当時、彼らは小さな遊牧種族で、文明化した中央アメリカの境界に住んでいた。一一〇〇年頃に、彼らは中央メキシコの谷に住み着く前の、百年間の遊牧を始めた。宗教戦争が、遂にテクスココ湖の小島に、彼らを追い込み、一三四五年頃に、テノチテランの町を築いた。(この場所は今メキシコシティが占めている)アズテック人の第二グループは、十三年後、トラテロルコの島の近くに定住した。両方の場所とも、葦で葺いた小屋の小さな集団であったが、後に都市に発展していった。それらは複合されて、広い主要都市を創りあげていった。
当時、彼らは、テノチテランを樹立して、アスティカ人は、谷の中の最も大きな都市国家アズカポタザルコによって支配された。しかし、一四二八年に彼らはアズカポタザルコを打ち負かして、その地域での支配力を確立した。スペイン人がやってきた、一五一九年までに、テノチテランとトラテロルコの連合都市の人口は十五万人以上になっていた。それは、網目上にレイアウトされ、十二平方キルメートル(四.六平方マイル)以上になっていた。
テノチテランの中心には、主な神殿、学校、祈りの場所、儀式としてのボールゲームのコート、捧げもの餌食の頭をのせる木製の棚、多くの記念の彫刻などを含んだ、大きくて壁に囲まれた区画が在った。区画の壁の外側には、王の宮殿であった。十六キロメートル(十マイル)の堤が湖の一部を封鎖して、水位を制御していた。このようにテノチテラン人工的な入り江の中の、島の上に建っていた。土手道が島を湖の岸につなき、運河がその都市のどの部分にも達していた。
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インカの起源は、更に更にボンヤリしている。スペイン人の侵入者たちは、公式のインカの歴史を聴いて、記録したが、しかし、歴史的な出来事を神話から分離する地位にはいなかった。学者たちは、今、インカ帝国が十四世紀の間に小さい王国として始まったと信じている。ペルーの、今のアヤクコのある所に中心を置いた、強大な国家が数世紀前からその場所を支配していたらしいが、しかし、十二世紀までは小さな反目し合う王国群がその場を支配していた。
歴史家たちは、インカはそのような小さな王国の一つから構成され、徐々に周辺の国々への支配を引き受けていったと考えている。マンコーカパクがインカ帝国を最後に支配した王朝の伝説的な建設者であった。言い伝えでは、彼はクスコの南からやってきて、突然そこを創りあげて、首都に決定したのである。伝説では、彼は像にさせられ、インカでの最も敬愛された宗教的な対象として保存されたという。
一二五〇年頃にクスコに建設されたインカは、十五世紀により広く征服することを始めた。一四六〇年代にチムを征服し、スペインがやってくるまで、北への膨張が続いていた。当時、インカ帝国は南中部チリのマウル河から、現在のエクアドルの、北の国境まで、アンデスの背にそって広がっていた。段丘づくりと灌漑を苦心して創ることによって、インカは山岳地帯を耕作し、驚異的な山岳城塞を築いた。
しかし、もし、インカとアスティカが比較的最近矢って来たものであったとしたら、彼らのルーツは深い。
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科学の共通認識は、シベリアとアラスカが陸続きだった時に、最初の人間がアジアからアメリカにやってきたと言うことを受容している。承認されている、考古学的な発見物は、人間の居住は3万年まえに戻ることを示している。論争の的なっている発見物は遥かに先の時期を指摘している。
放牧や狩猟が食べ物をうる最も重要な至言であったにもかかわらず、中央アメリカでは少なくとも紀元前7千年前頃に植物が栽培されていた。小さな狩猟者の集団によって、グアテマラ市の北西の山岳の高い所に残された一時的なキャンプの跡は、紀元前3千年前に、その場所のどこかを人間が専有していた確たる証拠がある。居住者は、紀元前二五〇〇年頃までに、素晴らしい網目透かしのある綿の生地を製造していた。この居住者はマヤ人であり、ユカタン半島の低地と南の火山高地領域を含む、メキシコ、グアテマラ、ベリジ(旧英領ホンジュラス)、ホンジュラス、そしてエルサルバドルをまで広がった、硬い塊の領土を占領した、一つのインデアン民族である。
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この低地での人間による活動の、最初の確かな証拠はベリズの北にあるクエロからである。恒久的な木材骨組みで屋根を葺いた住居の村は、明らかに紀元前二五〇〇年までに建設されており、前一五〇〇年から前九〇〇年迄に、農業経済が完全に開発されていた。クエロは、マヤの世界のどこかで共同体を定めたと知られている最も古いものである。そして、そこでの陶器の製造は、中部アメリカで発見された最も古いものである。クエロの経済は皇后が他であった:狩猟と植物収集が最も重要で、農耕は日常の食べ物の主要な供給源だった。比較にしうる農耕村は、紀元前一〇〇〇年までにマヤ世界全体に確立された。貿易はマヤの色々な領域との間の硬い結合を増大させた。この背景に対して、始めての現実の地域文化が起こった-南ベラクルズ湾岸の、オルメック文化である。この文化の重要性は、後の中部アメリカの文明が彼らの系統をその中に写していると言う事実である。
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現在マヤ文明と呼ばれるものは、本質的には、オルメックである。紀元前、一二〇〇年までに、オルメック文化はサンロレンツォで完全に開発された。しかし、前九〇〇年までに、ラベンタに力が移った。両方の都市共、印象的である。巨大な工学プロジェクトは粘土製のプラットフォーム、石を敷いた歩道それに複雑な下水道システムを含んでいた。
オルメックの代表的な芸術は人間の頭部の巨大な玄武岩の彫刻と持ち運べる翡翠の彫刻である。両方とも、創るのに恐ろしく困難であった。無数の人々が希にしかない必要な石を捜して、それを彼らの首都に運ぶのに組織されたに違いない。そして、それらを他価値にして、仕上げるのに膨大な時間が費やされた。翡翠も玄武岩もオルメックの中心があった所では入手できなかった。前者(翡翠)は、北西に遥か離れたグウェレロから、そして、南東に遥か離れたグアテマラとコスタリカから運ばれた。玄武岩のプロックは、どれも数トンの重さであり、オルメックの場所から遥か北に位置していたテクストラ火山地帯からやってきた。それらのブロックは部分的には筏で運べれたが、しかしまた、地上を何マイルも曳いて運ばれた。硬くて、密度のある石は慣れた彫刻家たちによって、苦労して、重さが二十四トン位の巨大で自然な人物の頭部か、または記念碑的な、力強い筋肉質の座像に彫刻された。それらの頭部の顔のの特徴は、オルメックがアフリカの人々を知っているかのように、黒人のものであった。
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更にアフリカ-特に古代エジプト-とのリンクを示すヒントがあった。エジプトでの、ほとんどすべての力は、伝授する聖職者の手の中に集められており、彼らが大きな儀式のセンタを決定していた。中央アメリカでは、どの印象的なマヤ人の集まった場所は儀式センタであった。
オルメックは、ナイルの谷にあったエジプト人の文明が突然中央アメリカに現れたのだ。その出発点を-紀元前一二〇〇年-として、その前に普通に存在したものは、ファラオの文明として完全に完成し進んでいた文明を代表していた。オルメック人は文字システムと高いレベルの数学によるカレンダを含めて、偉大な知的業績も成し遂げていた。後台エジプト人もそうであった。マヤの記念碑的な建築、大きな彫刻された石碑や刻まれた粘土版は、多くの点でエジプトのものと似ている。エジプト人がしたように、マヤ人も凝った墓を作り、死者をミイラにした。マヤ人はピラミッドを建設した。
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マヤのピラミッドは、二つの特別な形をしている。最初のはツインのピラミッド複合体であり、同じように頂上が平らで、階段状であり、平らな石柱と背の低い祭壇石にによって囲まれた広場を横切って相対していた。一方の側の屋根の無い囲いは持ち送りのアーチの道から入るようになっていて、支配者に奉納された、刻んだ彫刻がなされていた。
次の特徴は、九段の埋葬用のピラミッドで、地下世界の九つのレベルを象徴している。ピラミッドの下の、支配者の墓は、陶磁器、火打ち石、翡翠の供え物を含んでいた。
前コロンビアのすべてのピラミッドは、頂上の平たい、階段状のピラミッドで、神殿の基礎として使われたものであった。最大のものは、エジプトのピラミッドより傾斜は緩やかになっているが、小さいものは傾斜がきつくなっていた。ピラミッドの一つか一つ以上の刻まれた階段が神殿に導いていた。
ピラミッドはマヤによって創られただけでなく、トルティカ、アスティカによっても建設されていた。それらは、メキシコ、ホンジュラス、グァテマラ、エルサルバドルで発見されている。ベラクルツの北、エルタジンのピラミッドはその階段状テラスに、一連のくぼみがつけられていた。パレンケでの碑文の神殿のピラミッドの中に、神殿の床の下の道がピラミッドの中深くにある、豪華に造作をした地下墓所つながっていた。中央アメリカの最も大きいピラミッドの一つはティオテワカンにある太陽のピラミッドである。それは、六十六メートル(二百十六フィート)の高さがある。
モーチェの沿岸地方にある、上に述べた、これら二つのピラミッドは、伝説的に太陽神と月神とに捧げられたものだといわれている。ピラミッドの階段状のテラスは、アンデスの自然の地形を繁栄しており、しばしば周りの建物の壁は、神話からとった光景が画かれていた。
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ラベンタのオルメックの遺跡での発掘は、この島が建設作業が始まる前に人工的に形作られたことを示していた。遺跡の構造は、当時の新しい世界では、聞かれなかったような建築的、石切り工的な技術が使われていたことを意味していた。
石そのものは、加工し難い玄武岩を含んでおり、非常に遠いところから、敷地まで運ばれていた。ラベンタの一つの特徴-円錐形の塚-は百万立方フィートもの土を輸入を要求した。しかし、この場所の最も重要な様相は、その配置にある。最初の一目では、それが南北の軸に乗って建てられたと見えるが、もっと注意して計ってみると、軸は、真北から八度西に向って走っていることが示した。
それが暴いた、この“誤り”は故意であった:この配置は、円錐形の塚からの特別な天文学的な目撃を導くものだった。
オルメックの発展した天文学について、多くの情報が姿を現す時には、同じ推論がエジプトに関して成されなければならない。進化した天文学は観察のために長い期間を要求する。一人の専門家、M.ポペノーハッチ博士は、彼らの天文学的な記録の内部の証拠から、オルメックは、少なくとも紀元前二〇〇〇年位を背景に存在していなければならないと見積もった。彼らの実際の出現はもっと早いかもしれない。彼らのカレンダーは、メネス王が上エジプトと下エジプトとを統一しようとしていた頃の、紀元前三一一三年に始まっている。
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オルメックは、彼らのエジプトでの相対するものとして、技術の記念碑的な偉業に捧げた。サンロレンツォで彼らは一平方マイルの広さの、地上から高さ百八十五フィートの人工の壇を作り上げた。ラベンタでの、一つのざんごうで、数多くの豪奢な技巧を施して、磨かれた、ヘマタイトとマグネタイトの凹面鏡が掘り出された。この場所からの石碑はそれらの鏡の一つを使用していることを示した浮彫りを説明していた。それは工夫のヘルメットに着いていた。
オルメックの深い採鉱がありそうもないことから(考古学者は中央アメリカで使用されていた唯一つの金属は金であると信じいる時代)、始めての場所でヘルメットになぜそのような鏡が取り付けられたのかというパズルから、専門家の注意を逸らせてしまった。トレザポテスからのオルメック彫刻に一つの手がかりがあるかもしれない。それは地下の通路か洞窟で三つの姿を示していた。それらの一つは、電気の源のように見えるものを運んでいた。これは、遠い過去の高い技術へのヒントであり、オルメック彫刻だけのものではない。オークサカ谷の遺跡では、火炎銃で石を刻んでいるように見える職人のレリーフが発掘されている。チャルカチンゴからの石碑は工業用の機械を操作している(奇妙にヨーロッパ的な顔つきをした)女性を描写している。
古代の彫刻の実際の内容は、解釈の問題である。しかし、“南アメリカの最強の廃虚”-ティアワナコの不思議と言われている、この場所、トール・ヘールダールに広がっていた技術的な能力については疑う余地がない。
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ティアワナコはボリビアのアルチプラノの、チチカカ湖の東端しの近くに位置している。この場所は多くの土地の伝説の焦点になっている。例えば、インカの首都クスコは、チチカカを創り、教育したという半神話的な、太陽の子によって創られたと想定されていた。インカ王の系列の伝説的な創始者、マンコーカパックは、太陽の息子と信じられていた。彼は、魔法の杖を与えられ、それで道を見つけ、地下の通路から彼が出た所でチチカカ湖を発見した。また、その湖は、ティアワナコに住んでいた、すべてのものを創造する者、ヴラコーチャの住処であると信じられていた。
この廃虚に、最初に出くわしたスペインの征服者たちのグループは、直立した石の壁で囲まれた大きな空間に直面した。それらの壁の幾つかは、鋭く直角を持つ、大きな一枚ものとして切り出されていた。一つの高いピラミッドのような塚が、半分地下に埋った、微妙な模様を刻み込んだ石でできた一体ものの四角いプロックの中に切り出された、立っている人間の姿で強調された空間に向って建っていた。
そこには幾つかの孤立した門があった。一つの大きくて低い囲いのついた壇がそれらの中では最も素晴らしいもので、太陽の門である。その上には、段々の山の上に建ち、ヘビのような杖を持つ正面の像を刻んだレリーフがある。その像は太陽の旭日のような頭のかぶりものを着けて、彼の周りには、翼のついた人間と、取の頭を持つ姿のものが彼の足元に跪いている。彼の下には、十二の使えているものの頭があり、それらも丸い頭飾りを着け、幾つもの頭を持つ天空のヘビに結びついていた。地下の神殿の中央には、片手に大きなコップを持ち、もう一方の手にはストロンバスの殻を持ち、頭飾りをした像を示す、二十二フィートの彫像が建っていた。
考古学者の多くの最近の訪問は、すべてが宗教的な儀式に使用された六つの建築物の複合体を明らかにした。最も重要な構造物、太陽の門が建っているカラササヤ壇は、その遺跡の中心近くにある。地下神殿がその東にあり、プトニの囲い、ラカコル、トクェリカラはその西にある。
更に西に行くと、湖の近くには、大きな共同墓地がある。細菌の証拠はその遺跡が今日見えて残っている部分よりもずっと大きくて、居住人口も[かきこ]なりのものだったかもしれないと暗示している。
専門家は、テイアワナコハ西暦一〇〇年から一〇〇〇年頃まで居住されていたと、我々に自信たっぷりに行っているが、それがいつ建設されたを言う段になると突然話すのを止めるのである。
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一九七〇年代初頭にここを訪れた、アラン・ランドバーグは、彼が見たことを次のように書いている。
壁は巨石を組み合わされて創られた-多面体に削られた巨石は、正確にカットされ、平らに磨かれており、結合するのにモルタルがいらないほどぴったりと合わさっていた。壁には割れ目が一つもない。私は岩の間にタガネを入れて割ることもできなかった。
私は中ぐらいのサイズのブロックを測定した。二十x十x三フィートであつた。それは約十五トンと計算され......それは、ブロックのほとんどと同様に、硬いアンデスの花崗岩であった......壁の個々のブロックは、それの下にある石、両側の石共、確りと相互にロックされるように、切り込みがされていた。
ランドバーグが指摘した様に、一つの問題は、それらがどうやって組み立てられたかであった。ティアワナコは海抜一万三千百二十五フィートの一に建っている。使用されている石の幾つかは、その地方の砂岩であるが、それらの大部分は安山岩で、その地域で取れる最も硬い材料である。安山岩の石切り場は、五十マイル(カラスが飛んで)先のカヤッピアという死火山の傾斜地にあった。五十トンとランドバーグの見積は、合ったとしても、控えめのものである。切り出された石の中には、六十五トンにも及ぶものが発見された。彼らがどうやって加工したのか説明するのは困難である。現代の鋼の道具は、この種の岩を切るとすぐに鈍ってしまう。銅は古代の中央アメリカでは使われていたことがはっきりしているが、銅の刃物はこの仕事には軟らかすぎただろう。
幾人かの解説者は青銅を使用したことを示唆しているが、しかし、これには原鉱石から錫を抽出できるのに十分なほど進んだ技術が要求されるだろう。テイアワナコから九十マイルの所にある、コーデルラスに、先史時代の錫の加工場の証拠がある。これは正確な日付が判らないが、ティアワナコの最も早い定められた日付よりも古い様に見える。それらは、一九四〇年代にやっと後退した氷河の下に何千年もの間隠されていた。
もし、青銅の道具が使用されたとしたら、彼らはもはや我々は知っているが、硬化した青銅で造られなければならなかった筈である。この硬化は、インカ人とオルメック人の残存している人工物からの判断では、その両者とも知らなかったものである。これらの石にタガネの跡が無いので、ティアワナコの建設者たちは、まったく違う方法を使用したのかも知れない。もし、そうだとしたら、その技術は我々から失われてしまったものだ。
ブロックの輸送は別のミステリーを提供する。スペイン人がやってきて、南アメリカに馬がやっと導入された。車輪は、知られていないことはなかったが、おもちゃ程度に使われた。だから、これらの重いブロックは、人力によって、五十マイル以上の距離を、一万三千フィート以上の高さまで引っ張ったとしか思えない。地域の砂岩でさえ、すべてが地域のものではない。それは遺跡から十マイルはなれた湖の西岸で切り出され、百トンにも及ぶ巨大なブロックに割られたのである。元の割られないブロックは四百トン以上の重さがあったと推定される。これらは主遺跡の一マイル南西の場所まで、明らかに人間の手で運ばれたのであった。
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仮にブロックの加工と輸送が現在でも知られていない技術、道具、装置を伴っていたとしたら、都市の件説は考古学者にとってはもっと厳しい問題を提起する。ランドバーグが述べたブロックの切り込みは、レゴレンガのように、上、下、脇とインターロックするユニットで三次元のジグソウパズルにはめ込むことができる。その結果は異例の安定性を創り出し、多分地震に対して設計されたものである。
しかし、レゴレンガは子供の遊び道具であるが、レゴレンガが五十トンから四百トンの重さがあったら、現在の重機をつかっても、技術的な問題が存在する。ティアワナコの建設者はどんな解決策を発見したのだろうか?この現場で、作業者のチームがどんな技術を使っていたとしても、それを想像することは不可能である。薄い山岳の大気は働くのを困難にし、そして、全体の地域が不毛の土地であり、人は彼らがどうやって食べていたのか、不思議に思う。
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ティアワナコは港である。その設計者たちは、港、岸壁、ドックをその建設に組み込んでいた。この港は、海抜一万三千フィートにあり、一番近い水から、何マイルも離れていた。
15 石の加工
ティアワナコの上に建設された、ボリビアのアルチプランノは、世界での最も高い湖水のある盆地である。平均の海抜高さは、一万二千三百フィートである。既に見てきたように、ティアワナコは壱千フィートに近い高さに建っているアルチプラノの一つの場所に建てられている。
アルチプラノには三つの湖が存在しており-チチカカ(一一〇 x 三五マイル)、プーポ(五〇 x 二〇マイル)、そしてコイパーサ(二〇 x 一〇マイル)である。三つとも塩水である。その場所はまた、その塩を含んだ沼地でも知られており、渇いた塩床が広がり、それは塩の砂漠として分別されている。湖は繋がっており、部分的に九百フィートにも達する深さの広いチチカカからの水がプーポに注ぐまで、百八十マイル程もゆったりとデサグアデロ河を流れていく。この湖から、ゆったり流れるラカハフリア河に添って六十五マイル西の方の浅いコイパーサに注ぐ季節的な漏出がある。コイパーサ湖には出口がない。ここの三連湖システムの水は地に染み込むか蒸発するかのどちらかである。つまり、それは、降雨によって供給され、バランス状態を保つ閉鎖系である。
降雨によってもたらされた完全な淡水が、どのようにして塩を残すのかが、問題である。
塩で平らにしていく問題がある。五十 x 三十五マイルの塩の砂漠がコイパサ湖の南に存在している。これは、完全に干上がってしまった、この湖の広い範囲を現わしている。更に南に行くと、八十 x 七十マイルのの広さの、ユーニの塩の平原に行き着く。この南西には、百マイルの長さの峡谷が走っているが、そこには、多くの小さな塩、硝石、ホウ砂の湖や池の連なっているものを含んでいる。チチカカ湖に注ぐ地下水は、塩を産み出したりはしない、結晶質や火山岩構造を通過している。では、どこからそんな量の塩がやってくるのか?一つの答は、それが海からやってきた、であるように思える。
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アンデスの最も古い地質学的に奇妙なものは、一万千五百フィート以上の高さの、三百マイルの長さの白い物質の層である。科学的な検査では、この層は海洋植物のカルシューム残存物成分で構成されている沿岸であることを示した。遥か遠い時代に、この大きな山脈は、海洋から押し上げられたのだ。
この期待していなかった発見物を確認した最初の科学者たちの一人が、フレデリッヒ・フォン・フンボルト男爵だった。彼はドイツの植物学者、地質学者で、地理学、地形学、気象学、天文学、植物学を含めての、多くの分野で科学的な知識に、基礎的な貢献をした人である。一七九九年に、フォン・フンボルトとフランスの植物学者、アイミー・ボンプランが南アメリカのスペインの植民地に航海した。一八〇四年に終わった、彼らのこの遠征の間に、現在のコロンビア、エクアドル、メキシコ、ペルーの、いろいろな地域を旅行した。彼らは、植物、動物、気象、天文、地理、地球の地磁気の場のデータを非常に沢山集めた。調査された地域のなかに、いわゆる、ボゴタ近くのジャイアント・フィールドがあった。これは海抜六千五百フィートの岩の台地で、そこから、多くの巨大な化石の骨が発見されたことからその名がついている。フォン・フンボルトはすぐにそれらの多くがマストドンのものだということを発見した。それは最後の氷河期の終わりに生きていた象に似た生物である。
象に似たマストドンは、非常に大量の草をたべものとしており、高い不毛の台地などでは生きることはできなかった。彼らの自然な生息地は沿岸の湿地である。ジャイアント・フィールドでのマストドンの発見は、紀元前八〇〇〇年より前の(そして二千六百万年もどりうる、その時期にマストドンが滅亡させられた)時期、ここは海岸であったことを示唆していた。
アンデスの石灰化した海洋植物の沿岸線は、チチカカ湖地域で二つの異なった海水レベルを示している。それらの二つは湖そのもののレベルの上にあった。高い方はアルチプラノの全体がある時期、四百五十マイル以上延び、陸地に入り込んだ海によって水の下にあったことを示していた。下の方の編み込まれた線は、地質学者のJ.B.ミンチンが最初に、この石灰質の堆積物に気付いた後で、ミンチン湖と地質学者に呼ばれものの境界線群を示していた。今はもはや失われている、この湖は、現在のものよりも大きかったが、アルチプラノの全体を水で満たしてはいなかった。
この発見から出て来たことは、遠い古代に海床から浮き上がって徐々に水を吐き出して現在の、水路学的に相対的に落ち着いたというアルチプラノの絵である。
テイアワナコの建設が、今日やるよりも、アルチプラノが海水レベルか、それよりほんの少し高い程度の時だったというのなら、ずっと判り易い。その都市は港として機能することが許される。石を運ぶこともできるし、組み立てる仕事も遥かに容易である。また、それは沿岸地に続く後背地をもち、肥沃を導く気候もあり、作業をする人々の食料の問題も解決できたであろう。
しかし、もし、ティアワナコがこの中間の期間に本当に建設されたとすると、ジャイアント・フィールドの証拠は、私達が、マストドンの存在以前の時期にそれを捜さなければならないことを示している。そしてその順で、この進んだ都市を鮮新世の奥深くまで押し込むことになるだろう。
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一体、テイアワナコは何歳なのか?この答を懸命にさがしてきた一人の専門家は、アーサー・ポスナンスキである。彼の三十年間(一九一四から一九四四年)での発見物は、ボリビア政府によって承認され、確認されている。彼は、その著書の中で、最初のフェーズが、チチカカ湖が現在の位置より百フィート高い時期に成されたという、ティアワナコの段階的な建設について議論している。
この現地で調査した他の人々のように、ポスナンスキも太陽の門の飾り装飾が古代のカレンダーであると結論した。太陽、月、惑星群、彗星をも代表する抽象的なシンポルがヴィラコッカ神のイメージを造り挙げるために、創造的に結びつけられていた。ティアワナコの建設者たちは、古代のエジプト人のように、惑星の動きが神々の動きへの洞察を与えてくれると信じていたようである。
古代の建設者たちは、天文学の本質的な知識を持っていたことは全く疑いがない。太陽の門の真東で、ポスナンスキはカラササヤとして知られている広大な構造物を調べた。この言葉は、“立柱群”を意味し、かつてはもっと広大な建築物であったものの、今残存しているすべてである。カラササヤの東西の軸にそった石は、天文観測を可能にするために特別に切り出されたことを、ポスナンスキが発見するのに、それで十分だった。
現地での注意深い測定に基づく、カラササヤの建築的な再構築は、元の構造が、中空の階段状ピラミッドで-つまり、階段状のピラミッド形状の壁で取り囲んだ方庭である。これは、西側のテラスで二組の観察地点を提供するだろう。
ポスナンスキが二つの至(夏至冬至)点の間を測定する石のマーカーを使用した時、彼は、黄道の傾斜の値として、二十三度八分四十八秒の値を発見した。これは、現在の傾斜の値から、僅かだが、しかし、有意義な量(三分八秒)だけ、ずれていた。それは、ポスナンスキをして、カラササヤ紀元前一万五千年前頃の観測から、配置を決められていると結論させた。
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ポスナンスキのカラササヤが本当に観測所だという信念が、現在広く受け入れられている。彼の年代設定の方が遥かに受け入れが困難だった。しかしながら、ドイツの天文委員会は一九二六年にそれを調べるために、ペルーとボリビアに調査団を送るほど十分に好奇心をそそられた。
調査団は、当時の最も著名なドイツの天文学者たちの数名で構成した。ほとんど二年に渡った、彼らの仕事は、カラササヤが観測所として使われたという、ポスナンスキの気付きを確認した。彼らの初期の結論はまた、その証拠がまた、紀元前九千三百年前を指摘するかもしれないという重要な予告と共に、起源についてのポスナンスキの紀元前一万五千年前をも支持した。
調査団の天文学者の一人、ロルフ・ミュラー博士は、黄道の傾斜の、他の数値をしたしていた、ポスナンスキと共に更に続けて仕事をし、紀元前一万年前と四千年前とを出した。ポスナンスキ自身は、ミュラーの数値を僅かに修正して受け入れることを記録している。それは、紀元前一万百五十年前と紀元前四千五十年前のどちらかの選択は残っている。
いろいろな可能な代替案の最も最近の数字は、まさに、地質と化石の証拠が示唆している通りに、氷河期の奥底にティアワナコの建設時期を置いている。
ティアワナコが紀元前一万五千年前か紀元八〇〇年(幾人かの地質学者が、陶器のかけらから推論した通り)に建設されたとしても、どうやって建設したかという問題は依然残っている。一つのインデアンの伝説が、植物のジュースが石をぴったり合わすのに十分柔らかくされたと伝えている。それは、なんであれ、一つのよい理論ではある。何故なら、我々には、石がどうやって加工されたのか、それを下からどうやって持ち上げたのか、まったくアイデアがないのだから。それらは、古代の技術が今や失われている別の例を提供している。
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同じ技術の現われが、テイアワナコより、南アメリカに遠く離れた所に見られる。石を敷いた道が田舎に膨大な跡を残し、広い段丘と灌漑のシステムが開発され、巨大で、厚い壁がピッタリ合わせられた石で作られていた。その技術は一般にインカのものとされているが、しかし、その貢献は幾つかの例でのみ正しいという強い証拠が出ている。ほとんどの最も印象的な構造物は確かに、一つのより古い文化の仕事であった。これはインカの主要都市クスコに、よく保存されている。
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南ペルーのクスコは十四世紀のからスペインが占領するまでのインカ帝国の首都であった。それは、地震のある、広いアンデスの渓谷の、海抜三千四百十六メートル(一万千二百七フィート)に位置している。インカ種族は、その都市が、最初のインカの支配者だった、伝説のマンコカパックによって建設されたと想像されている十一世紀頃に、チチカカ湖からクスコにやってきたと信じられている。
クスコの名前の意味は、“へそ”である。この都市はインカ世界の中心と考えられた。それは確かにインカの放射状の道路の中心であった。クスコはヨーロッパの都市の有機的な成長を示していない。それは、建設の前に注意深く計画された。網目状に配置されがちな、現代の事前計画をした北米の都市とは似ず、クスコは様式化されたピューマの形に設計された。フアタナイとトゥルマヨ河はそのしっぽの形をつくるために真っ直ぐ延ばされている。
この都市は、積むのにモルタルも必要とされない程ぴったりとおかれた、巨大な切り出した石を用いた構築物の例として、特に知られている。首都の北西の丘からクスコを一望するサクサフアマンの要塞は、この種の構造物の際立った例である。これは、一連のジグザグ拘束された、重さ数トンの巨大な石でできた壁を構成している。この壁は三段テラスの城壁を作っている。岡の上からそれらを見ると、小さな部分に仕切られた遠景の構造になっており、水が一度で流れる複雑なダクト水路を持っている。伝統的な知恵は、それが十五世紀にインカ人によって建設されたということを支持している。建設は、支配者パカクチに帰せられ、一四四〇年から一四七〇年の間とされている。しかし、ほとんどの専門家は、一つの治世で完成するには大き過ぎることに賛成している。幾人かはインカは既に存在して場所に入ったもので、クスコの太陽の神殿に似た、サクサフアマンの巨大な構造物はそれより古い時代の仕事であったと信じている。彼らは、クスコでのように、サクサフアマンでも、二つの識別できる建築の様式の例があるとしてきしている。それは、愕然とするほど大きい構造物と、小さい石とモルタルを使って作られていた、ほとんど印象のないインカの建築物である。
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同じパターンが、クスコの北西八十キロメートル(五十マイル)に位置し、ウルバンバ峡谷を一望する、名声の高いマチュピチュの“失われた都市”に見られる。険しい山の峰の間にある、海抜七千八百七十五フィートの高い断崖絶壁の上に建つ光景は、それを世界中で最も有名な、考古学的な記念碑にしている。
マチュピチュの発見は、事故によってもたらされた。一五三六年、負けたインカの支配者は、スペイン人が発見して、一つの秘密都市をビルカバンバとめいめいする前に、クスコを離れた。ビルカバンバでは、王朝は更に三六年間生き延びた。
一九一一年、アメリカの探検家、歴史家のヒラム・ビンガムが、国家地理学会協賛のヤーレ大学ペルー調査団の最初の団長だった。彼の主要な興味の一つは、失われたビルカバンバを特定することであった。一人の農夫が、マチュピチュ(“古い峰”)と呼ばれた山の頂上にある、興味深い遺跡に彼を案内することを申し出た。ビンガムの一行は深いジャングルを切り開いて進み、奮闘して危険な崖を登った。彼らは、ビンガムに生きを飲ませた神殿の残骸による、膨大な石の壁に到達した。“ぼんやりとだが、私はこの壁が、それにくっついた半球型の穴蔵を覆う神殿と共に、世界の最も素晴らしい石づくりと同じほど素晴らしいものだと理解し始めていた”と、彼は後にこの発見物について書いた。
ビンガムは、自分がビルカバンバを発見したのだと確信したが、スペイン人の記録は彼が間違ったことを、後に明らかにした。ビルカバンバがインカによって建設されたことは明確にされ、一方マチュピチュを建設したものに関しては、かなり疑わしいということは、重要な指摘である。まさに、マチュピチュの実際の機能は事実、理解されていない。それはスペイン人には知られておらず、その建築が宗教について強い強調を示唆しているものの、彼らの記録は何の助けにもならない。
その建築は、素晴らしい石の建物群を、文字どうり、山肌を切り刻んむ階段の様相を見せている、広がった段々の居留地と複合している。確かめられる部分を除くと、それは居留地としては決して使われなかった。むしろ、それは神聖な場であり、神殿、宮殿、天文観測所の複合であった。数人の祭司と高貴な人々がここに住んでいたかもしれないが、大半の一般の人々は都市の外側にある小さな部落に家を持っていた。
インカ帝国の他の場所、マチュピチュには、建築スタイルの混合状態を示している。幾つかの建物は、モルタルを使った小さい石から造られており、他のものは磨かれた石の水路を分んでいる。一方で、最も印象的な構造物は、テイアワナコで発見された大きな切りかきをもったタイプの石を特徴としている。それらはナイフの刃を間に入れられないほど精密に加工して組まれているのである。結局、インカがこのサイズの石を動かす技術持っていたという証拠も、そして彼らがそれを成し遂げたという証拠もまったくないのである。
インカ人はサクサフアマンの岬でスペイン人に最後の抵抗をした。スペイン人の年代記作家ガルシラソ・デラベガはインカの石切り職人が元の石を自分の築城学にどのように使うかを決定したかを述べている。厄介石として知られていた、選択された石は採石されたが、要塞からある距離で放棄された。石切り工の監督の下で、石にロープが駆けられ、二十万人の苦役のインカ人がそれを新しい要塞までそれを曳くことを心見た。これは荒れた地面をゆっくりと行くことを証明し、坂にさしかかると、彼らは石の制御ができなくなる。丘から転げ落ちて多くのインデアンを殺した。
たった一度の事故でも、この大きな石を何マイルも引っ張り、現在ですらマッチングは困難とされる精度でピッタリ合わせて置いたのがインカ人ダ、という説を疑うに十分である。
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ティアワナコでポスナンスキと一緒に働いた、天文学者ロルフ・ミュラーはクスコとマチュピチュの構造物に、彼の専門知識を上手く適用した。彼は二つの結論に達した。一つ目は、クスコの太陽の神殿についての、彼の調査に基づくもので、古代の壁と円形のホーリーオブホーリズの構造は、古代エジプトの夏至の日の、日の出に一致させるのと同じ方法を機能していた。
二つ目はさらに先に達すると予測され、黄道の傾斜に基づくものであった。クスコとマチュピチュの磨かれた石の構造物の、ミューラーによる計測は、二十四度の傾きに一致しており、それは少なくとも、四千年前に設定されたことを意味していた。
この日付がインカ文明の権威ある日付をはみ出すものだとしても、中間期間の、磨かれた石の配置から引き出されたことを記録するすることは重要である。ミューラーはティアワナコでの彼の経験の基礎に立って、この偉大な巨石は本質的にもっと古いものだと信じた。
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クスコの六十マイル北西に、オランタイタンブ村の上の支嶺上にある他の構造物残存物がある。数百の荒い石の階段が、いまや彼らの村と名づけられている城壁の遺跡に導く、一連のインカ段々構造に繋がっている。そこには、モルタルを使い粗い石を使うインカの建物の印があるが、しかし、それらを超えて、ずっと以前の、より印象的な構造物と共に区別を印している、大きな石の壁がある。この早い建築物は、最上階の段に建つ定いる六つの巨大な一本石の碑を含んでいる。壁の全長さを形作る、この巨大なものは、十一から十四フィートの間で高さが変化しており、三から六フィートの厚みがあり、平均六ふぃーとの幅を持っている。それの、テイアワナコとの連携は両方の場所での共通のシンボルで確立されている。
これらの巨大なブロック-オランカイカンブで発見された発見のブロック-は峡谷の別の部分からも切り出された。二つの流れが山の斜面を引き上げられて、建てられる前に交叉させられていた。ここで、再び、どのようにしてそれが遂行されたのかを誰も知らない。
これらのすべてから出てくる絵は、それが、先史時代の歴史の中ですっかり退化してい締まった、中央アメリカの技術標準であったと言うことである。これとならんで、火に頼らないで光に源を発する古代の技術とそれを使った石きりの道具のヒントがある。
主テイアワナコの遺跡の、一マイル南西の切り出し穴には、切り出されていない幾つかの正確にカットされた石がある。それらは金属機械部品の鋳物の型のように見える。もし、これらのものが、植民してきた火星人によってエジプトに運ばれた古代の技術の断片であるとしたら、それだけが断片ではないはずだ。
16 古代世界の科学
エジプト人がピラミッドを建設するのに梃子の技術を使っていたということの理解には、少さな感動的な衝撃がある。効率的か否か?経済的か否か?我々は現代の機械的な方法と比較してそのようなシステムが何か未熟で原始的だと、常に確信しようとしている。しかし、彼らは電気の技術もまたもっていた。
電気の現代での利用は、十九世紀より以前には戻らない。“動物電気”についてのルイギ・ガルバーニの実験が一七九一年に出版された時、イタリアの物理学者、アレッサンドロ・ボルタが、動物組織が電気を通すために必要ではないという理論に彼を導いた、実験を始めた。この理論の証明は、一八〇〇年の、いわゆるボルタ電池の発明であった。その時、これは世界で最初の電池であると信じられた。しかしながら、もっと遥か昔での電気の知識の証拠がある。
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紀元前六百年ほど前に、ギリシャ人は琥珀の特別な特性を知っていた。毛皮で擦った時に、それが小さい物質や羽を曳きつける能力-電気の効果(静電気)を創り出した。ローマ人は同じ効果を知っていたが、その面では遥かに進んでいて、彼らの重要な建物を“ジュピタ・ボルト”(雷)から、金属の導電体を使用して守っていた。
この種の知識は、本当の理解の必要条件ではないが、しかし、一九三六年に始まった一連のイベントが、古代での電気技術の開発を示唆していた。
イラク博物研究所のドイツ人の役員、ウェルヘルム・ケニッヒが、次のような言葉で新しい発見物について述べた:
くびの取れた、明るい黄色の粘土で作られた、つぼの様な容器は、アスファルトで堅く固められた銅のシリンダを内臓していた。そのつぼは高さ一五センチ、底のついた板状の銅のシリンダは、直径が二六ミリデ、長さが九センチである。その中に、アスファルトのストッパー用のもので止められた、完全な酸化鉄の棒があり、その上部は、ストッパーの上に一センチ突き出ており、黄色がかった灰色の、完全に酸化した鉛のように見える金属の薄いコーティングされたものでカバーされていた。鉄の棒の下端は、三ミリ深さのアスファルトの層があるので、シリンダの底まで達してはいなかった。
いろいろな部品が組み立てられ、調べられると、ケーニッヒは、その装置に酸かアルカリの溶液を加えるだけで、電気的な要素に変えられることを理解した。言い換えれば、それは電池であった。しかし、それはパルティア人の村で発見された電池であった。と言うことは、それが紀元二二六年以降に作成されたではないこと意味していた...そして、紀元前二四八年頃の古い時代に造られたに違いない。アルネ・エッゲブレヒトは博士、この人工物を複製してグレープジュースで作ったアルカリ溶液を加えた。それは〇.五ボルトの電気を起した。
紀元前二四八年から紀元二二六年の、パルテイアの電池は古代エジプトから遠い道であるが、しかし、それを近づける発見があった。
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古代世界の偉大なミステリーの一つが、どうやって金のメッキがなされたかである。幾つかの場合では、金の薄片が単に打ち込まれていたのが明らかであった。他の場合では、結合が強固でメッキが薄くて滑らかであり、電気メッキの方法でしか現在も複製ができない程のものであった。エッグブレヒトの所有する、そのようなものの一つに、金メッキした銀製の、オシリスの彫像がある。それは、ケーニッヒの電池を用いれば、三時間以内にメッキができたであろう。この彫像は紀元前四〇〇年のものとされている。
旧王朝の遥か昔に戻ってみると、この種の物の証拠が消えてしまうが、電気の技術の推論は驚くほど強く残っている。一つの否定的な推論はエジプトの墓の最も初期のもの、ピラミッドのようなほかの構造物に、煙の汚れが無いことである。これらの建造物の件説に、建設者は灯りとか、トーチとか煙をだすものが必要だった。そのような汚れがないということは、煙がでない光源を示唆している。そのような光源は、ゴマ油のランプの形で存在すると、現代のエジプト学者によって、お決まりの説明が成されている。しかし、電気を用いるとする代替案の可能性が、大ピラミッドに付随した幾つかの奇妙な現象によって示唆されている。
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アラブの伝説はピラミッドは幽霊がでると数世紀の間伝えていた。吸血鬼のような影がその内部の回廊を飛び廻り、不思議な光が、時々その頂上に現れた。科学者は吸血鬼を年頭からはずしたとしても、不思議な光は実際にありうる。それらの光は、ある種の気象条件によっては、オーロラのように現れる、静電気が原因になる。
サー・ウィリアム・シーメンスの奇妙な経験はピラミッドがオーロラが存在しなくても静電気を発生していることを示している。技術者で、発明家で、産業経営者のシーメンス一家は電気の分野でのパイオニアであった。一八四七年に、ウェルナー・フォン・シーメンスはドイツ電信製造と修理のビジネスを起業した。それはヨーロッパで最も大きな電気の製造会社になった。彼の弟のカール・ウィルヘルム・シーメンスは一八四三年にイングランドに渡り、シーメンスの英国支社の支社長になった。彼は一八五〇年代に水メータを発明し、改良し、多くのウェルナーのプロジェクトを推進した。彼は名前をウィリアムと英語化して、ナイトの爵位を授けられた。
エジプトに旅した時、サー・ウィリアムは大ピラミッドを訪れ、アラブのガイドと共に、その頂上に登った。頂上付近に立って時に、ガイドは、自分の指を広げた手を挙げた時に、強烈に鳴り響く騒音を起したのを気付いた。シーメンスは人差し指でやってみて、刺すような感覚を感じた。少し後に、ワインを飲もうとすると、別のショックを受けた。この時点で、彼の専門が、いろいろな電気現象を扱っていた彼に確信させ、彼は間に合わせのライデン瓶を造ることを決心した。それは、静電気を溜める装置である。
初期のライデン瓶は一部に水を入れたガラスの小瓶であった。瓶の栓は水に浸かったワイヤや爪で貫通されていた。静電気はワイヤを伝わって降りていく。そのワイヤに触ると、ショックを受け、電気が溜まったことを証明する。現代のものは、金属のフォイルを被せられている。一本の真鍮の棒が内部のカバーに接触しており、ゴムの栓を通して瓶の上か出ている。
シーメンスはワインの瓶を濡れた新聞紙で巻いて改造した。それは、粗末な装置だったが、ピラミッドの頂上での静電電荷は、スパークが瓶から流れ出すほど高いものだった。ガイドはパニックになり、彼を魔法使いだと告発し、彼の仲間を捕まえようと試みた。シーメンスは瓶からの電気的な衝撃で、無意識にガイドを叩いていた。
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ピラミッドと付随した静電は偶然の効果であるかも知れないが、これを絶対的な仮定とするのは賢いとは言えないだろう。それらでもってなんで可能なほどの、ピラミッドに造り込まれた高いレベルの科学知識の多くの証拠がある。例えば、大ピラミットは頂点を通る子午線がナイルの三角州を正確に二分し、直角に絵かがれた対角線はきちんとそれを含んでいる所に設置されている。ギザの三つのピラミッドからの影のパターンが正確な羅針盤になっている。大ピラミッドは、測量の経緯儀として機能する;そこの緯度が判れば、垂直線以上複雑なものを使わずに測量線を印すことができる。太陽に向って、その上に見つけることが簡単にできる。そのピラミッドの高さと底部の周長の関係は、πの値を組み込んでいる。(πは幾つかのエジプトの神殿の門にも組み込まれている)基底部の建設には、太陽の、恒星の、そして軌道年の値も組み込まれている。
このようなリストは真面目に取上げるのが困難なほどになっている。多分、多くの考古学者が“ピラミッディオト”としてそのようなものを研究した者たちに言及したからであろう。しかし、多くの学術的な侮辱が積み重ねられ、事実は、値はそこに残っているが、それらのすべてが一致しているのではないという事実が残っている。
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大ピラミッドは、学者たちによって馬鹿にされてしまっている、高いレベルの科学知識の証拠を更に含んでいる-王の間の石棺である。
この奇妙な容器は、長石、水晶、マイカの粒で重々しく斑点をつけられた、チョコレート色した花崗岩の単体物から切り出されていた。それは、ドリルでくり貫かれたものだとして知られているが、しかし、当惑したサー・フィンダース・ペトリはドリルの圧力は二トン程度と計算したが、これは現代の機械式のリグをなかなり超えている。
古代エジプト人がこのようなもの(彼らが使って居たという僅かな証拠すらないのだが)を使っていなかったとしたら、彼らは現在は知られていない技術を開発し、引き継いでいたに違いない。その技術は、彼らに紙のように薄い石の鉢を作るのを可能にし、最も近代的な刃物を鈍らせるほど堅いディオライトにヒエログリフを彫り付けるのを可能にした。
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もしも、本当にエジプト人が静電場現象の識見を持っていたら、それは彼らの知識に制限はなかったろう。サイコトロニクスを理解していた証拠がある。
サイコトロニクスは、一九六〇年代終わりに、一つの驚くべきチェコのドキュメンタリ映画の公開で、西側の科学者の注目を引いたのが最初である。モスクワでの異常心理学会議でそのフィルムを見た、シェイラ・オストランダとリン・シュレーダによって述べられている:
一本の科学フィルムで、内容は...眼が眩んだ。次々と、カメラは近代彫刻のように見えるもの-ブランクジによっ造られたのかもしれない、或いはダリのものをもっと複雑にしたものの、きらめく形のもの-を映し出した。他の対象物は、かつて発明されたことがない、2001からのスペア部品のような、機械の部品を精密にカットしたように見えた。他の小さい金属や木の彫刻が、ロンドンの英国美術館から、トルコや南エジプトの小さくて埃っぽい美術館等、世界中の美術館から集められた“儀式用のなにか”を思い出させるものだった。しかし、それらは彫刻ではなかった。それらのものは美術館にあるものではなかった。これはチェコスロバキアの小さな町にある普通のアパートである。テーブルの上にある、これらの装置は、恐らく、生きているものによって与えられる、サイコトロニックなエネルギを集めるのである。
この“生きたものによって与えられるエネルギ”についての議論は、現在では、一九六〇年代の議論に比べて、少なくなっている。それ以後、ヤーレ大学の医学校の神経解剖学の四三歳の教授、ハロルド・サクソン・ブルアが人間の肉体-他の生物体-で発生した電場現象を高精度の真空管電圧計ヲ使用して、測定できた。女性では、この場は排卵時にポテンシャルが変ることが発見されている。その変動は、ある種の病気や著しいガンなどの初期の発見に使えることも示している。
注意深いブルアは一九七二年に自分の発見を公開するまでに、五十年以上の間、この場について実験した。一九三九年以来、ソビエト連邦で極めて極秘に成された大変驚異的な仕事を、彼らは確認した。その年に、セミヨン・ダビトビッチ・キルリアンというロシアの科学者が高周波電場発生器での実験を最初に行った。
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キルリアンは、高周波電極と病院で治療をしている患者の皮膚の間でのスパークを写真にとる問題で当惑していた。彼はスパークそのものをトレースしようとしていた。電極と皮膚の間に写真乾板を置く光学式カメラのアイデアをあきらめた。彼は、彼の乾板へのカブリを恐れて、ガラスでできた、より安全な病院の電極を使用できなかった。それで、金属を使うことになり、そのプロセスで手をひどくやけどした。
しかし、一枚の写真を撮れた。その写真は、期待したものとは異なっていた。彼は、電気のスパークの跡の替わりに、冷光を発して輝く光に包まれた自分の手のイメージを撮ったことを発見した。
キルリアン写真として知られるようになったものは、一般に広がり、キルリアン掌プリントが一般に展示されている。金属板の上に手を置き、穏やかなヒリヒリを感じるが、五分後には現像した写真がプレゼントされる。秘教的な団体では、キルリアン写真がオーラの写真を撮ったものだと言いたがるが、そのプロセスは、実際にはもっと巧妙なものである。キルリアンの“カメラ”は一秒間に七万五千から二十万回の範囲の振動をする高周波電場を発生させる。写真に取られる物は、ブルアが確認したように、生体から発せられているバイオプラズマのエネルギーと、この電場の間の“干渉”である。
サイコトロニック発生器はこのエネルギを蓄積して仕事に変える。オストランダーとシュレーダーによってみられたフィルムは、マッチ、小さなガラス片、パン等の小さな物を、あたかも時下されたかのように、発生器に吸い付けているのを示していた。この効果は通常の静電場現象では妨げられてしまう、水中でも働いていた。別の発生器では電気で動くロータの上に置かれた針のスピンを停止させる能力も証明していた。さらに他の発生器はものは、小さな刃を動かすこともできた。
これらのすべては、例証としての効果であるが、サイコトロニック発生器の商業化の可能性はそう遠くはないだろう。ツデネク・レイダック博士は小さな電気モータを動かすことができる発生器について述べている。最初の三十分の充電で、毎日数分で満タン充電をすると、そのモータを五十時間動かすことができた。
サイコトロニクスは機械的な効果に制限されてはいない。サイコトロニック・エネルギを照射した種子は、制御された束から成長したものの二倍のサイズのものに進化した。このエネルギは水の中に溶け込んだ汚染染料を分離する能力も証明した。
サイコトロニック発生器は、この効果のそうラジカルな説明をほとんど発見できないと結論づけた科学者の猛攻撃に反抗しました。続くテストがチェコ共和国のハラディク・クラロブ大学で実施さり、代表者が“実験は、どんな考えられる物理的な仲介物-熱も-半所されていた”とコメントした。
物理学者で数学者の、ユリウス・クルメスキーは“ この複写はガラス、水、木、ボール紙、どんなタイプの物質でも....透過し、その強度はまったく減少しない。更に、心がこのエネルギーを制御できるようだ”と言うのを書き留めている。
しかし、仮に、サイコトロニック・エネルギが存在することが、科学者にとって幸せであるとしても、その効果の幾つかは、それを飲み込むのは困難である。サイコトロニクスが論争の的になる超心理学の領域にまで広がるからである。チェコの技術者はESP(超感覚的知覚)カードテストで百点をとる発生器を造りあげた。
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多くのメディアを惹きつけるには、ぼんやりしすぎていたのに、ソビエト連邦の解体の後にも、サイコトロニクスの研究は生き残り、今日でも、東ヨーロッパで続いている。
最初の段階で現れたものの一つは、サイコトロニクス発生器の本質的な秘密がその形にあることである。特殊な形をした金属の適当な混合の組み合わせが、サイコトロニック・エネルギーを蓄積する条件を創り出す。
現代のサイコトロニック技術の全体は、一九六〇年代のチェコの大きな織物会社の設計管理者であった、ロバート・パブリタの発見に基づいている。彼は、銅、鉄、鋼、真鍮、金や木等をも、自分の機械を造るのに使って居た。鋼を除いた、これらのすべての材料は古代エジプトで使われていた。この一致だけではない。子供の頃からエネルギーの別の形に技術的に天才的な興味を持っていたパブリタは、”古代のテキスト“の勉強から彼のインスピレーションを引き出すことを知らされている。これらのテキストが何であるかと言うことを彼は用意されていなかったが、しかし、チェコの当局が公開した映画が彼の仕事を、エジプトのシーンの中に、芸術的な表現で含んで表現していた。そして、彼の発生器の一つが、エジプト人の生命のシンボルデアッタ、輪になった十字(ankh)の形に基づかれているように見えた。彼の機械の中に利用された網一つの基本型は、ピラミッドであった。
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同時に、他のチェコ人-プラハのラジオ技術者、カレル・ドルバルが、ピラミッドの形状について、当惑してしまう奇妙さを発見していた。ボール紙(後には発泡スチロール)で造られた大ピラミッドの小さいモデルが、ピラミッドの下に置かれたカミソリの刃を鋭くする能力を持つ、不思議なエネルギーを発生した。このエネルギーがサイコトロニックかどうか-つまり、生体源から引き出されたのかどうか-ドルバルは熟考はしなかった。しかし、彼はチェコの当局に、そのエネルギーが実際に存在したと確信させることができたのである。当局は、彼のケオプス・ピラミッド・カミソリ刃研ぎ器の特許を彼に与えたのである。
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ドルバルの元のモデルはきれいに剃られて残っている古代エジプトを確証する仕事の方には向けられなかった。むしろ、それは、死んだファラオの霊魂(soul)が、この天の星々の本体に参加するために、正確に安全に、旅するように、オリオン座に結びつけられた。しかしながら、この“霊魂”という言葉は誤解させるものである。エジプト人は人間は三つの霊魂を持つと実際に信じていた。それらは、ブア(ba)、イブ(ib)、そしてクア(ka)である。
ブアは鳥-霊魂である。それは個人の墓に残っており、いわば、彼や彼女のミイラ化シタ身体を守護していると想像された。しばしば、一つの小さな止まり木(時には木のイメージ)がこの目的のために、墓の中に用意された。イブは個人の心の内的な本質であり、ジャッカルの首を持つ神、アヌビスによって地下世界に連れていかれ、そこで、判決の法廷で一本の羽に相当する重りを付けられる。エジプトの文献でのクアについての説明は、この霊魂はまったく、宗教信心の結果ではないと推測に導いている。それは、対であると知られ、物理的な肉体のミラー・イメージであるが、より微細な物質で構成されていると考えられていた。このような記述は、それと、精神的な生命の奇妙な事実-肉体離脱経験とを結びつけている。
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肉体からの離脱経験の現象は、良く証明されている。一八八六年に、物理研究界発足の三人の父たち、フランシス・ガーネイ、フレデリック・ミアーズ、そしてフランク・ポドモアは、“生きている人々の幻”と題した、三百五十ケースを詳述した、包括的な大作を出版した。一九五一年に、シルバン・ムルドーンとヘルワード・カリントンが“アストラル投影の現象”という本で他の百例を追加した。三年後、アメリカ心霊研究学会の機関誌で、二百八十八例を調査している。他の心霊研究者、ロバート・クロッカルは一九六一年にリスト化を提起し、その年から一九七八までの間に、九冊を下らないのケース履歴の本を出版した。科学者、セリア・グリーンは一九六〇年代終わりに、この主題に関する情報を提供を訴えて、三百二十六件の回答が、個人的な経験を持つ人々から寄せられた。一九七八年に、ジョン・ポイントンは更に百二十二件を付け加えた。
シルバン・ムルドーンは、肉体からの離脱経験で何を感ずるのかを印刷物で述べた最初の一人であった:
私は浮いていた!空気の中で浮き、堅く水平になり、ベッドの上数フィート....ゆっくりと、頭の後ろに働く強い圧力で、ジグザグではあるが、天井に向って動いていったが、依然水平でしかも、力はなく...
私はうつ伏せになった。そこに二つ目の私があった。私は自分が発狂したと信じ始めた。ベッドの上に静かに横たわる、他の“私”があった。これが現実で娃ると自分に確信されるのは困難だったが、しかし、意識は見たことを私が疑うことは許さなかった。
超常現象の主要な懐疑論者、ジェームス・ランディは、彼が後に幻覚として片づけた、肉体からの理脱経験をしていた。
しかし、この点は、それが起こったという事実ほど大きい、この経験の特徴ではない。ムルドーンやランティの幻覚か否かというような報告に似た報告で、どのように古代エジプト人が不朽のクアに彼らの信仰を置いていたかを見るのは容易である。
彼らはこの現象に感動した唯一の文明ではなかった。調査では、現在、世界中で五十七を下らない民族-そのリストは確定的なものではない-が、ある種の第二の身体に、堅い信仰を置いていることを示している。
このことは、何故クフ王がピラミッドの形に造り込んだオリオンへの発射台を持つことを選択したのかについての、新しい観点を与えてくれる。
クフのピラミッドが、サイコトロニック発生器の昨日をを決定する形状であり、そのヒントが古代エジプトからのインスピレーションを導き出した、ロバート・パブリタの発見の観点では、人はそこに、肉体からの理脱経験をシミュレートするために設計された、大ピラミッドに関する何かがあるのではないかと思うに違いない。そうに違いない証拠が存在している。
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ポール・ブルントン博士は、旅行好きのイギリス人の作家で、一九八一年に他界した。一九三〇年代初頭に、ブルントンはエジプトに旅行し、一人で、大ピラミッドの王の間に一夜を過ごすことをやってのけた。真っ暗な中で、床に横になって、彼は発見した:
......全身の筋肉が張りつめてきて、その後、麻痺するような気抜け状態が手足に起こり始めた。全身が重くそしてしびれてきた...足はどんどん冷たくなった。触覚は、足をほとんど動かせない、一種の氷のような状態になった...足の下部のすべての感覚は痺れ......
....冷たさが私の胸部を離れた時、....身体の残りの部分は、完全に麻痺し....遂に私の集中した意識は頭部にしかなかった....熱帯の竜巻にでも捉えられたような気持ちを感じ、狭い穴を通って上に向っていくようだった...私は、幽霊のように、きれいに私の地球的な肉体をから去った...
....最初に、石の床ブロックの上に浮いて、抜けた私の肉体と同じに水平で、仰向けに寝ている自分を発見した...脱ぎ捨てた肉と骨の身体を眺めおろした...その表情のない顔は上を向き、眼は僅かに開き、まだ瞳は十分に光っており、まぶたは実際に閉じられてはいなかった...
....ブロックの上に横たわる、カタレプシー的な被造物へ、私、つまり、新しい私から下に発せらせれている弱い銀色の光の後に気付いた。
ブルントンは、自分が死の状態に達したと信じた。しかし、最初の麻痺の発生から、物理的肉体を見下ろしている、浮いた感覚までの、彼の記述は、肉体からの離脱経験に遭遇した他の人々によって与えられたものと同じである。
17 絶え間なく活動する地球
歴史的なエジプトの考古学的な資料は、最後の氷河期の終わりでの、大きな災害を、ちょっと映し出している、一つの発達に向ってはいない、古代のハイテク文明への遥かな結びつきを掘り起こす可能性がある。
ナイル河の国の経済に対する極端な重要性から、エジプト人は、昔からナイロメータとして知られているマーカーで、河の水深を測っていた。セムネでの、ナイロメータは、中期王朝時代の終わりでは、一年で、水深が二十二フィートだけ下がったことを示していた。この効果の原因には、二つが考えられる:川水の量が減ったか、川の流れで、川底が一律に下がったかである。
十月のナイルの洪水は、その前の四月と五月に、エチオピアの高地に降ったモンスーンの雨によって起される。エチオピアでの日照りつづきは、ナイルの水位に明らかな影響を及ぼすだろうが、しかし、例え、雨が全然降らかったとしても、これだけ離れて、二十二フィートに達するほど、低くはならないだろう。まだ、考えられないほど激しい地震活動を想定した、川底が急に下がるという余地を残している。インマヌエル・ヴェリコフスキーは、聖書に書かれた、イスラエルの子らのエジプトからの脱出とこれを結びつけている。
均一性主義の説に反して、自然災害が歴史の流れに影響-ポンペイとヘラクレニゥムの破壊が際立った例である-を及ぼす証拠がある。それにもかかわらず、科学者の大半は、カタストロフィ・モデル(激変モデル)を、他の違った静かで、波乱の無いプロセスにおいての、重要ではない異常にのみ当てはまるものとして、無視し続けている。
しかし、ヴェリコフスキーにとっては、自然が静かではなかった歴史的な期間が存在していた。古代の記録ついての彼の研究は、主要なカタストロフィのシリーズが、紀元前第二ミレニアムに起こり、次のものが紀元前十八世紀に続いていることを彼に納得させた。
地球上での、いろいろな災害の原因についての、ヴェリコフスキーの理論を通常の科学がどう考えようと、彼の歴史的な研究は、決して非難されるものではない。多くの文明での古代の記録の比較は、主として地殻運動や火山活動に関係した、それも紀元前第二ミレニアムの比較的短い期間での、広く広がった自然の激変を示していた。エジプトでは、その期間は、中間王朝の崩壊と一致していた。
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一人の人間の見通しによる出来事の記録が、レイデン・パピルスの三百四十四に含まれている。その仕事は、それらの出来事を通して生きる不運を持って生まれた、著者イプウェルによって書かれている。目撃証人は、“騒音の年月”について述べ、その間に、町々は崩壊し、家々は一瞬の間に潰され、ナイルは事実、上えじぷとの乾いた地を走った。イプウェルは、“すべてが台無しになり、土地は陶工のロクロにかけたように回転した”と書いた。
これは、大きな長い時間の地殻運動とそれによる荒廃の、活き活きとした描写である。イプウェルは、船がどのように波に投げ出され、地下での地球の動きによる渦巻き沈んだかについて、話を続けている。河は汚染し、水は飲めなくなり、異常気象は作物を破壊し、火山の火は裂けた地球から噴出し、門や柱や壁を焼き尽くした。文化の物理的な基礎を粉々にすると共に、ペストが発生した。“血があちらこちらに”とイプウェルは嘆き悲しんだ。
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このパピルスと他の二つの資料に画かれたものから、ヴェリコフスキーは、出エジプト記の環境条件の、旧約聖書での記述に似ているもの(一部は同じ言葉)に類似したものを含んでいる、その時代の一つの絵を画いた。この類似性は、結果的に、古代ヘブライ人とエジプト人の記録が同じ出来事を述べていることを、彼に確信させた。
この理論には重大な問題があった。研究者の意見は、長いこと、ラムセス二世を圧政のファラオとして鑑定していた。その圧政は後継者、メルンプタに引き継がれ、彼は、出エジプトのファラオとしての最もありそうな候補である。しかし、これらは第十九王朝の王たちであり、そうすると出エジプトを紀元前一二二〇年頃に置くことになり、およそ六百年は古い中期王国の終わりではなくなる。
同時に、メルンプタを出エジプトの時のフアラオとすると、歴史的な問題があつた。つまり、王の石柱が、その王の治世では、イスラエルがパレスチナにしっかりと住居を持って居ることに言及しており、約束の地を求めてさすらってはいないのである。
この難題を解決するために、ヴェリコフスキーは、イスラエルとエジプトの歴史の間の拡大した比較を遥か長い期間に広げた。そうしたことが、伝統的な日付が六百年ほど終始ずれていることを彼に明らかにした。この驚くべき発見の証拠は、一九五三年に、「カオスの時代」というタイトルで出版され、「衝突する宇宙」とは違って、これも決して受け入れられはしなかったが、決して、研究者たちから重大な問題提起はされなかった。
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ヴェリコフスキーが歴史的な日付の改訂で、訂正されなかったとして、イプウェルによって記述された出来事が事実、旧約聖書の出エジプトの出来事であったとしたら、ヘブライとエジプトの資料の両方を結びつけることによって起こった出来事を完全に再構成することが可能になる。
当時、紀元前一七八六年頃、第十二王朝の女王、ソベクネフェルレは、エジプトの最高位についた。その国は、メントュホテップによって、半世紀少々前に再統一されていた。ピラミッド建設すたれる一方で、豊かで、危険のない、隆盛な文化への多くのひんとがあった。ハワラ・ラビリンスは相対的に新しいもので、カルナックのセヌスレ寺院と同じ程度である。大きな要塞都市はヌビアでの第一と第二の洪水の間に創設された。
地震の大変動が始まったことが、この背景に対立した。ヴェリコフスキーは大洪水の説明に才能を持っていた。ここでは、私は彼に尋ねる以上のことをできそうにない。彼は、シナイ山が活火山であった可能性を考えることから始めて、続けた:
火山活動が深く広くなり、シナイ山は大きな平たい灰皿のような炉であった。
地球、海と空は、大変動に関係した。海は、陸地に溢れ、溶岩は裂けた地から流れ出し、...大きな地質的な大変動で、海の底が沈み、海水がその空虚部分に突進した。地球は震え、火山は地球の内部から煙りと火を吐き出し、崖は更に裂け、鎔けた岩が谷に添って走り、渇いた土地は生みになり、山の内部がうなり、空には絶え間なく雷鳴が轟いた...
碑文によれば、この経験は壮大で、恐ろしいものだったので、子々孫々の長い年月の間、これを忘れることは無かった。
この地殻変動の最も直接の結果は、河の汚染だった。レイデン・パピルスと出エジプト記の両方が、赤い粘土の逆流を示唆しているように、河が“血になった”と断定的にの述べている。魚は大量に死に、その腐敗が河の汚染に輪をかけた。水はまもなく飲めなくなり:エジプト人は、河の近くに新鮮な水の供給を期待して井戸を掘った。それは成功しなかったようだ。レイデン・パピルスの中で、イプウェルは嘆いている。
それは、私達の水だ!それは私達の幸せだ!そのため由仁は、私達はなにをrれば良いのか?すべてが滅びる!
定常的につづいた地震が起こって、建物を素早く倒した。エジプトの資料は、エジプトのすべての、より堅く意志で創られた神殿より、多くの泥レンガの家が破壊された。雨あられを降らすような異常気象条件が地震活動を伴った。これらは、成長しつつあった穀物を打ち倒し、果実を破壊し、多くの例では、木々を根こそぎした。
時には、嵐は同時に火山活動を伴い、火の破壊要素を、風やひょうなどによる破壊に加えた。ヘブライの宗教の観点から見てみると:
....主は雷と雹を送り、そして、火が地の上を這って走った;そして主はエジプトの地に雹の雨を降らせた。
そこには雹があり、火が雹と混じり、エジプトが国家になって以来、エジプトの地に無かったような、非常に酷いものだった。
この条件は明らかに国の生活必需品の貯蔵に影響を与えた。レイデン・パピルスは言う:
見よ!家畜は迷い出し、もはやそれらを集めものは居ない。人は、自分の名を刻印されるものを自分自身のために行ってつれてきて.....すべての動物はそれらの心は嘆く。牛はうなる.....
彼等の穀物と破壊された家、秩序だった彼等の家畜農業とで、エジプト人は素早く飢餓と病気のために祈りを捧げた。しかし、もっと悪いことがやってきた。旧約聖書とレイデン・パピルスの両方がエジプトを席捲した止むことのない暗闇について言及している。推測するに、それは、長引いた地震活動によって投げ上げられた塵の雲と煙りによって起されたものである。
これが時として、成長して密度があがり、目撃証言によれば、数フィート先を見ることができない程になる。言うまでも無いが、多くの死が続いた。ヴェリコフスキーはアルタパヌスや他の古代の資料をしらべた
雹と地震がよるまで続き、地震から逃れたもの達は雹で殺され、雹を裂ける為に隠れ家を探したものたちは地震で破壊された.....
財産の無い人たち-エジプトの奴隷や貧しい人たち-は砂漠地帯に逃げた。そこは、恐らく地震活動がそう苛酷ではなかった。彼等の破壊された国は、荒れ果て、不毛で無力になり、数週間の間に、今ではヒクソスとして通常知られているアマレクの、悪意に満ちた群集の手に落ちた。歴史はこの侵入者はたった一度の戦いすらする必要はなかったと記録している。
破壊的な地震活動による、特定の期間についてのヴェリコフスキーの理論を受け入れようが、受け入れまいが、文化と建築の頂点は、中期王国の間では決して回復されることが敵無かったことを、歴史的な事実は残している。
アジアのヒクソスが丁度一世紀程度エジプトを支配し、紀元前一五六七年頃に、新い王朝の確立後も、エジプトは以前の栄光を決して取り戻すことはなかった。古代の科学と技術は先史時代の深い所から相続したが、全ては崩壊した。しかし、少なくとも、その一つの面は、貧者と奴隷と共に惨禍を逃れた聖職者によって保持されていた。彼の名はモーゼであった。
18 エジプトのイスラエル
旧約聖書のでエジプト記、レビ記、民数記、申命記だけがモーゼの人生の資料である。同時代のエジプトの図書で彼のことを書いたものは皆無であり、アレマサンドリアのフィロ、ヨセフス、そしていろいろなラビの書物によって記録された、後の口伝は、新しい情報源というよりも、聖書の物語の詳細化したものである。
聖書の物語自体、いろいろな資料から画かれたもので、もっとも早いものはモーゼに送れること二百年以上である。基礎的な事実は神話の人物を創るために入念に書き込まれた印が存在する。
赤子のモーゼがナイル河に捨てられ、葦の中で発見された物語は良く知られている。同じ物語がアッカドの王、サルゴンについて語られているのは、広くは知られていない。サルゴンは、紀元前二三五〇年頃に生きていたもので、モーゼの時代より千年以上早く、エジプト神話の神、ホーラスの頃のことである。
にもかかわらず、モーゼの物語の広い外観はかなり似ている。聖書の記述によれば、彼はファラオの宮殿で精緻要した。旧約聖書は、彼が、自分で彼を育てると決心したファラオの娘の子として発見されたと書いている。学者達はかなり似た説明が、セム族の諸侯から人質を取り、エジプト人の教育をして、エジプト的な観点を染み込ませてから、人質を送り返すという、エジプトのやり方の中に発見されると示唆している。
理由はどうあれ、モーゼの宮殿での立場は初歩の聖職者の職に入ることを保証していた。新約聖書の記述は、彼が“エジプトの知恵のすべてを学び、そして、言葉と行為に力があった”と示唆している。アレキサンドリアのフィロは、これを相当に拡大した。
モーゼは数学、地理学、和声学、詩、哲学、エジプト文字とアッシリア文字、そして天文学を学んだと、フィロは述べている。これらのどれ一つをとっても、彼が聖職者の閉鎖したイリートに参加したことを示すのに十分である。ブリテッシュ博物館のエジプト古物の前管理者の、サー・バリス・バッジは、モーゼが高い聖職者のランクに上っていたかもしれらいと示唆した。もし、これが正しいとすると、神殿の所有権があった専門家の歴史的、宗教的、科学的な知識のいろいろなものにアクセスすることが彼にはできたであろう。
もし、この訓練が本当にモーゼになんらかのエジプト人の同情を与えることを意味していたのなら、遠征は無かった筈だ。旧約聖書に拠れば、彼はヘブル人を打ったエジプト人を殺した後、ミデアンに逃げるのを強制された。追放の身で、彼はミデアンの祭司の娘と結婚した-彼の立場の二つ目の印である。追放の間に、彼は幻の経験と称されたことを体験した。神は燃えるしばの中で彼に語り、ヘブル人捕虜をエジプトから導き出すように指図した。この点で、宗教的な含みを持つ聖書の記述が、ヴェリコフスキーの非宗教的な研究と、突然ぴったり適合する。
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ヘブル人とエジプト人の両方の記録から、(ヴェリコフスキーが訂正した日付が正しかったと仮定して)一連の劇的な災害がエジプト国家に生じたことは明らかである。へぶる人-そして、エジプト人そのものも-この災害は、神聖なものの介在の結果だと信じた。これは、モーゼがそれを信じていたかどうかという疑問を引き起こす。
最初は、科学知識が、彼の洞察を地震活動による自然な原因に導いたかもしれない。しかし、これは決して確かではない。エジプトの歴史での、比較的新しい時代では、先史時代の原-文明から引き継いだ知識の多くは、失われていたかもしれない。仮にそうではないとしても、依然、見地の疑問がある。にもかかわらず、良く観察され、そして理解された星の動きが、彼等の神々の肉体的な活動だと、エジプト人によって、考えられていた。同様に良く知られていた、地殻活動が神の怒りと見られていた可能性がある。
まだ、三つ目の可能性が残っているに違いない-モーゼが自然現象を政治的な地位を支援するものと把握する、皮肉なご都合主義者であったというものである。この三つ目の可能性には、一つの陰謀的な推論がある。地震についてのモーゼの理解は、エジプトの聖職での訓練からのみ引き出されるものであろう。しかし、彼の知識は他の司祭にもあったであろう。モーゼが、彼の“主”がペストや地震を引き起こしたと言った時、彼に続くもの達はそれを受け入れたかもしれない。
しかし、忠誠心のある聖職者はファラオに、主はそのようなことを何もしないと助言しただろう。地震にもかかわらず、その時、ファラオはイスラエルの奴隷達を解放せよと言うモーゼの要求を拒否したであろう。興味深いことに、これは、旧約聖書が言うことが正確に起こったのである。時が来て再び、“主はファラオの心を堅くした”まさにその時、モーゼが彼の道を得たように思えた。
しかし、もし主が実際に巻き込まれたとしても、何故主は、モーゼがファラオをいじめるのを助けるのか、その時、主の決定に抵抗するファラオを支援するのかの理由を理解するのは困難である。それは”不思議“が超自然的なものからは遠いのだとファラオに確信させることによって、ファラオの決心を固めさせた司祭であつたように思える。
しかし、ファラオは偶発的にイスラエル人の解放をやった。恐らく、単に彼の地位が維持できなくなったからである。もし、彼の国を没落させた災害が、当時の記述の悪さの半分だったとしたら、彼は差し迫る叛乱ついての心配もなく、彼の地位に留まっていた。
条件が文化崩壊にまで悪化したので、彼は屈するという方策で彼の問題の一つを解決しようと決定したかもしれない。しかし、彼は屈しながら、再び心を変え、逃亡者を追った。モーゼは人々を渡らせるために、紅海を割ったが、フアラオの軍隊が続いて行こうと試みた時、“水は戻り、彼等に続いて生みに入った戦車、御者、すべてのファラオの大軍を覆い被さり:そこには、何一つ残らなかった。
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ヴェリコフスキーは紅海の水の割れたことについては文字どおりととっており、水の上での、強烈な嵐のせいであると説明している。以来。近代では、竜巻やハリケーンによってさえも、そのような現象は目撃されていないので、それに添って何かが歩けるほど、海水を割る程の強い風を直視することは困難である。
事実、この旧約聖書の物語の記述は、単に司祭とのモーゼのつながりを補強する、一つの神話の凝縮として申し分ないかもしれない。非常に良く似た不思議が、第四王朝の司祭、チャチャ・エン・アンクにも与えられていた。私はここで、最後のエジプトのファラオ、ネクタネブス二世についての出版されていない資料の中で、原本の物語を集めたウァリス・バッジによって引用された資料から長々と書くことにする。
ここに、ファラオ、すねるふが修めていた、古代に話された物語がある。ギリシャ人がケオプスと呼ぶ、クフの父であった、この王はフーガに心酔していたようだ。夏のある日、ふさぎこんで、心が明るくなるようなことを求めて庭に出ていった。
歌やおしゃべりなどの、もっとも普通の療法に不足すると、高貴な人々は、当時のエジプトでは賢い人の助けを呼んだ。司祭や本を書く人などて、チャチャ・エン・アンクもその一人である。司祭は、王に次のようにアドバイスした:
“陛下、宮殿の近くの湖に行かれ、そこで私が用意したボートに載られますよう“
その王が大きな外見の美しい湖に行くと、そこにはイビス(トキの一種)が浅瀬に入り、他とは似ても似つかない船があった。その船は、寓話に出てくる獣の形に彫刻され、うち伸ばした金で覆われていた。
この船の櫂は、黒檀材で金を埋め込み、男のこぎ手の替わりに、エジプト全土で尤も戦災で美しい二十人の処女たちが乗っていた。チャチャ・エン・アンクは、この若い女性達が海の漁師達の着るものと似た、編んだものを着ていたので、彼女らの肉体の最も女らしい外観は覆われで隠されていた。
王がボートに乗ると、これらの年頃の女性達が櫂を漕ぎ、彼のために優しく歌いながら、一方で、彼のために、あちらこちらへと船を漕ぎました。そして、セネフェルは編んだ着物の下にある、彼女たちの肉体の流れるような動きを見つめながら、目を覚まされ:そして覚めて、彼の心臓はまた、高鳴りました.....
漕ぐのに慣れていない、年頃のグループのリーダーが髪の中の縺れさせ、解き放そうとして、新しいトルコ石の髪飾りを水に落して沈ませて失った。彼女は艪を漕ぐのを止め、他のものも彼女に従って同じように、艪を漕ぐのを止めた。
心の乱れにもかかわらず、セネフェルは船が止まったのに気付いて理由を聞いた。その少女が自分の飾りをなくしたことを彼に話すと、それが直ちに彼女に戻してやると約束して、賢者チャチャ・エン・アンクを呼びにやった。ご存知の通り、彼はこの気晴らしの発案者である。
チャチャ・エン・アンクは......司祭であり、もの書きであり、その両方とも、彼が魔法使いかと想う程の上手さを示していた:この場合にはそう見えた。問題を聞くと、彼は、あるヒコウ(力の呪文を)唱えた。すると、大きな奇跡が起こった。
チャチャ・エン・アンクの命令で、湖の水の一部が、まるで石が積まれるように、他の部分の水の上に乗り、湖の渇いた底を残した。
処女達はこの水の二十四キュピトのもなった壁に恐れをなし、ファラオですらも、神経質にそれを見つめた。しかし、チャチャ・エン・アンクは渇いた靴で湖の底を歩き、瀬戸物のかけらの上に乗っていた飾りを発見した。彼がそれを娘に戻してから、水の壁を崩すようにすると、湖は元の状態に戻った。
この古代の魔法の物語と聖書の不思議との類似性は、明らかである。
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エジプト脱出の後、モーゼは再び、いけにえを実施した義理の父とあい、彼に改良された裁判システムに関して忠告をした。
これらの言い伝えは、モーゼの宗教的、また立法的な改革のある相、そりに神の新しい名前、ヤーウェも、ミデアンの信仰から導かれたものであることを示唆している。しかしながら、旧約聖書は、モーゼは彼の人々を、ある資料ではシナイ、他の資料ではホレブと呼んだ神聖な山に連れて行った。そこで、神は雷と稲妻の脅しのディスプレイの中で現れた。モーゼは山に登り、十戒の形での神の指図を持って戻った。
ここで、また、モーゼのエジプト的な背景を明確にしておくべきである。一般の信仰とは反対に、この十戒はユダヤ教に突然起こったユニークなものではなく、神トートへの魂の正しい告白であった、エジプトの「死者の書」の中に、遥かに昔の節に繰り替えされていた。男性であるにもかかわらず、トートは、ずっと古い、女神中心の文化を示唆している、月の神であった。
トートはまた、魔法、科学、工芸、技術の神-エジプト人の心には、この四つは区別されない-でもあった。グラハム・ハンコックが、彼の著書“The Sign and the Seal(しるしと封印)”の脚注で指摘していたように、エジプト人のトートとヘブル人のヤーウェの間の相似は、無視できない程広範囲に渡っている。
モーゼが燃えるしばの中にいる“主”に遭遇した時に、彼の受けた訓練から、神の名を聞くように促したのだろう。残っている宗教魔術の本は、これが、霊との接触の標準的なやり方だということを明確にしている。しかし、燃えるしばの中の実体は、名をいうのを拒否した。JHVHというのは、通常、ヤーウェとかエホバと翻訳されているが、これは名前ではなく、名前を与えるのを拒否するものである。それは、“私は、有って有るもの”を意味し-モーゼに自分の仕事に注意させるのを短く済ませるだけの、そっけない答であった。
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これを理解するのに、宗教的な観念を受け入れる必要はない。モーゼが神と、霊と、或いは自分自身の心の中の幻影と話をしたのかどうかは無関係である。モーゼが、一つの的な実体と接触している自分自身を信じたことで十分である。何故なら、彼の続く行為を条件付けた信念だったからである。
これは、背景としておかれるべき点である。燃えるしばの中で、モーゼは、彼が後になったような、一神論者ではなかった。彼はエジプトで教育された。ということは、一つの神を信仰するのではなく、汎神論を意味ていた。
主が彼に名を言うのを拒否した時、モーゼは、彼がよく知っているエジプトの神々、例えば、オシリス、ホラス、セトなどの一つと接触しているのだと仮定するのが、もっともらしい。恐らく彼は、心の中に十分な情報が作りあげられるまで、神の特定の最終決定を保留したのだろう。暫くして、それがどれかは、彼には確かには判らなかったが、ある高い権威からやってきたのだとの、彼の仮定から、彼は指令に従うように動かされた。
四十日四十夜、モーゼは山に残り、主は石板の上に戒律を書き、イスラエル人が彼のためになすべき供え物についての広い訓令を与えた:
あなたがたが彼等から受け取るべきささげ物はこれである;金と銀と青銅、青糸、紫糸、緋糸、亜麻の撚り糸、山羊の毛糸、あかね染めの雄羊の皮、じゅごんの皮、アカシヤ材、ともし油、注ぎ油と香ばしい薫香のための香料、縞めのう、エボデと胸当てにはめる宝石、また、彼等にわたしのために祭壇を作らせなさい。私が彼等のうちに住むためである。
祭壇の製作については異常に細かい説明がなされていた。十枚の青糸、紫糸そして緋糸の幕をつくり、各々の端には正確に五十の輪を付け、それらを金の糸で縫いあわせて、一つの幕屋にしなければならなかった。この幕屋は、更に十一枚のやぎの毛糸の幕を青銅の留め金で結びつけてたもので覆われた。これらの天幕は、その上を、あかね染めの雄羊の皮の幕とジュゴンの皮の幕とで覆われた。
他の工芸品、契約の箱にも詳細な説明がなされた:
彼等はアカシヤ材で箱を造らなければならない。長さは二キュピト半、幅は一キュピト半、高さは一キュピト半。
あなたは純金でこれをおおわねばならない、すなわち、内外ともにこれをおおい、その周囲に金の飾り縁を造らねばならない。
また、金の輪を四つを鋳て、その四隅に取り付けなければならない。すなわち、二つの輪をこちら側に、二つの輪をあちら側にとりつけなければならない。
また、アカシヤ材のさおを造り、金でこれをおおわねばならない。
そして、そのさおを箱の側面の輪に通し、これで箱を担がなければならない。
さおは箱の輪に通して置き、それを抜き放してはならない。
そして、その箱に、私があなたに与えるあかしの板を収めなければならない。
また、純金の贖罪所をつくらなければならない。長さは二キュピト半、幅は一キュピト半。
また、二つの金のケルビムを造らなければならない。これを打物造りとし、贖罪所の両端に置かなければならない。
一つのケルプをこの端に、一つのケルプを別の端に造り、ケルビムを贖罪所の一部として、その両端に造らなければならない。
ケルビムは翼を高く伸べ、その翼をもって贖罪所をおおい、顔は互いにけ向かい合い、ケルビムの顔は贖罪所に向かわなければならない。
あなたは贖罪所を箱の上に置き、はこの中には、私が授けるあかしの板を納めなければならない。
その所で、私はあなたに会い、贖罪所の上から、あかしの箱の上にある二つのケルビムの間から、イスラエルの人々のために、私が命じようとするもろもろのことを、あなたに語るであろう。
モーゼが後に何と言おうと、イスラエル人がどう思おうと、この造りは、ヘブル人に専有のものではなかった。
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ルクソールの大神殿の柱廊の壁にある、一連の褪せた浮彫りが、古代エジプトの生活での重要な宗教的行事-アペテの祭り-の物語を語っている。この浮彫りを命じた、少年ファラオ、ツタンカーメンの治世に、この祭りは、この国の農業生活が頼っていた、ナイルの氾濫を高い位置に置いていた。
この浮彫りは、大衆が、祭司たちによって肩の上に担がれた多くの容器を中心としたグループ礼拝による歓喜の行為に取り込まれていくのを現わす、大きな行列を示していた。
作家でジャーナリストの、グラハム・ハンコックは、エジプトのお祭りとエチオピアで目撃した行列との間の類似性に気付いた。キリスト教のお祭りなのに、その行列は明らかに古代エチオピアのユダヤ人の伝統を受け継いでいた。ハンコックにとって、次のことは明らかだった:
両方のイベント(エチオピアの祭りとアペテの祭り)は、...一団の司祭たちによって担ぎ上げられ、ヒステリックに興奮した群集に崇拝される箱と共に、一種の“箱への礼拝”に焦点を当てたものであった。
エジプトの“箱”と旧約聖書の“契約の箱”の間の類似性は一致ではない。ホォワード・カーターがツタンカーメンの墓を一九二二年に開いた時に、他の人工物の中に混じって、数多くの小箱を発見した。ロシア人形のように、それらは箱の中に箱を次々と入れたものだった。エジプト学の教授、ケネス・キッチンは、それらは-同様の他のものも-契約のはこの原形的な設計かも知れないと認めた。
この記述のすべては、契約の箱が非常に精巧な宗教的な人工物であったことを示唆している。この示唆は何世代もの神学者や学者に受け入れられていた。グローリア・エレクトロニック・エンサイクロペデイアのアークの項は、“古代イスラエルの歴史と祭儀において、それは、神の存在のシンボルとしての役を果たした。...“
しかし、それがその種のものではなかったという、旧約聖書の中での指摘がある。
19 危険な人工物
現れたイスラエルの国家は、何年間かモーゼの指導の下に、クァディシュや他のオアシスにキャンプしながら、砂漠に留まった。その時もその後も、出来事に次ぐ出来事が、契約の箱が神の存在を象徴化する一つの礼拝対象物ではなく、本質的な破壊能力を持つ兵器であるという事実を指摘している。それは、使えば危険な兵器であった。
天文学の発達を偽装するのに役立った、星座に神の名をつけるというエジプト人のやり方と同じように、古代ヘブルの記述での宗教言葉は、そこに述べられていることの真実を偽装するのに役立っている。この光景は、その宗教的な言葉が、究極的にヘブル人自身の誤解から湧いてきたことがかなり確からしいことによって、更に複雑になる。この誤解はモーゼによって意識的に助成されたのかもしれない。
背景にある物語を評価するために、捕らわれの人々を突然解放し、砂漠環境の厳しくも驚くべき条件に導くとしよう。彼等は心理的な慰めのために、必死になり、彼等のイアリングを溶かして金の子牛を造り、彼等の脱出を助けてくれる神々の代理とし、それに祈ろうした。この段階で、古代世界でヘブル人の国家を造るはずだった堅い一神教は、聞かれたことも無ければ、文字どうり、考えられないものだった。
原始的で、訓練されていない、迷信を信じていた烏合の衆の長としての自分を発見した、創始者モーゼは、多少複雑な宗教的な衝撃を導入することで、彼等に文化的な凝集力をもたらそうとしたのかもしれない。この目的で、モーゼは電気的な性質をもつ戦いの道具を創り、力強い神の生命力が内包されていると、ヘブル人を信じさせたのである。
神はエジプトのトート(いずれにせよ、モーゼはこの性質の装置を、この神に与えた)に広く手本にされたが、ヤーウェの名で変装された。この神のエジプト名、ディホーティでさえ、ヘブライ語に微かな言語学上の類似性をもっている。
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このすべてが、ユダヤ教を出現についての伝統的な情景と反目する推測である。しかし、これを支える証拠-契約の箱の本当の性質を確立する時にでてくる証拠-がある。ルイス・ジンツバーグの記念碑的研究“ユダヤの伝説“は、この箱(以下アークと書く)に関する多くの口頭での言い伝えを収録している。この言伝えは”放電スパーク“あるいは”火のジェット“について語り、それらは、ひとりでにケルビムから飛び出し、時として地殻に在るものを燃やし、破壊したと語った。
ユダヤの伝説は、また、ケルビムとの間で、場の現象(“雲”と言及されている)が間欠的に現れたことを示唆している。それが起こった時に、アークはモーゼでさえもそれに近づくのは危険だろうと考えられた。イスラエル人はこの時、彼等の最も神聖な人工物が悪魔の手に落ちたと考えた。モーゼが聞いた時-聞いたと述べている時-アークから出てきた神の声-目撃者は“火のチューブ”と記録した-は評価できない存在であり、時には天高くまで達した。
アークに付随した、これらの電気的な特性が表すものは、この人工物から発せられたスパークが、時として、それを運んでいる者たちを殺したという、一つのしつこい言い伝えによって支持されている。恐らくもっと言えば、アークは、人々を地面に叩きつけたり、時にはアークそのものを持ち上げさえしたエネルギーを発生した。
高電圧電線での経験を持つ人は、誰でも、この伝説をよくあることと見るだろう。読者が、この電線に触ったら、典型的には空気を通して、スパークのシャワーを浴びるだろう。幾つかの場合では、そのショックで死に至るだろう。
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ユダヤの伝説に画かれた絵は、最も特定の立場の伝統固執者よりも他の者に、代表的な宗教的な人工物とは非常に異なった何かを述べている、聖書の記述によって支援されている。例えばレビ記では、詳細な-そして壮観な-モーゼがどのようにして、動物をいけにえにするために、仮小屋の扉に従者を集めたかの記述がある:
主の前から火がでて、祭壇の上の供物と脂肪とを焼き尽くした。民はみなこれを見て喜び呼ばわり、そしてひれ伏した。
この火は、イスラエル人が神が住むと信じた契約の箱から発せられたのは明白である。“主の栄光”として聖書が述べている輝きが、その前にやってきているようだ。また、モーゼ自身の甥たち、ナダブトアビブに何が起こったかの目撃者には、それは制御するのが困難であったようだ。
さて、アロンの息子、ナダブとアビブとは各々その香炉をとって火をこれに入れ、薫香をその上に盛って、異火を主の前に捧げた。それは主の命令に反することなので、主の前から火がでて、彼等を焼き滅ぼし、彼等は主の前に死んだ。
これは特に興味深い文である。二つのタイプの火-主によって発せられた“火”と祭司の家族の二人によって創られた“異火”の二つ-に違いがあるからである。しかし、ナダブとアビブによって造られた火は、燃える香料を使った、良く知られた種類のものに思え、我々が違うと想うのは主の“火”であった。何故、その火は二人の男たちを焼いてしまうほど延びたのか?この事件は宗教的にまったく意味をなさないが、科学的な言葉では完全に意味をなす。もし、彼等が運んだ香炉が充電した電気を引きつける、銅などの導電体で造られていたとしたらである。
仮に、このすべてがこじ付けであるにしても、アークの聖書的な歴史を追求するのと、何が起こったのかを偏見なしに調べるのに有用かもしれない。
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暫くシナイ山のふもとにキャンプした後、イスラエル人たちは、祭司のレビ族の人の肩に担がれたアークによって導かれて新しい場所へと去った。ユダヤの伝説によれば、それは危険な仕事だった。何故なら、アークは時に、それを運んでいる者立ちを持ち上げつつ、空中に持ち上がったからである。ある時には、祭司たちを激しく地面に叩きつけ、彼等を殺してしまうほどのスパークを発した。
旅の休んでいる間は、この人工物は数人の祭司以上の者のしの原因になった。民数記によれば:
さて、民がつぶやいた....主の火が彼等のうちに燃え上がって、宿営の端を焼いた。
そこで民はモーゼに向って叫んだ。モーゼが主に祈ったので、その火は鎮まった。
主の火が彼等のうちに燃えあがったことによって、その所の名はタベラと呼ばれた。
この怪物マシンのスイッチを切れたのは、モーゼだけだった様である。
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何故、そのように危険なものを持ち運んだのだろうか?その答は、それが危険だったが故に有用だったということである。シナイの荒野で放浪の四十年間を通して、イスラエル人は、彼等が戦争にアークを持込んだら、勝利は保証されたということを発見した。敬虔なものたちは、宇宙の創造が彼等の砂漠でのくだらない争いに、無名のセム族の味方をするのが幸せだったのだと見ている。もっと複雑なレベルでは、彼等の神への信仰がイスラエル人に彼等の戦いに勝つ、十分な精神的な後押しを与えたのだとみるかもしれない。しかし、ユダヤの伝説は、もっと遥かに特別なものを述べている:
そのような戦争の説明は、アークが最初に“唸り音”を発し、地から跳ね上がり、敵に向って突進し-敵は驚く間もなく混乱に陥れられ、その場で虐殺されたことをのべている。
聖書の説明は、イスラエルが戦争に行った時は、この種のことが典型だったと確信している。確かに言外の意味、イスラエル人が戦争にアークを運んだのは当然だというのは、明らかである。
契約のはこの進むときモーゼは、「主よ、立ち上がってください。あなたの敵は打ち散らされ、あなたを憎むものどもは、あなたの前から逃げ去りますように。」と言った。
また、そのとどまるとき、「主よ、帰ってきてください。イスラエルのちよろずの人に。」とモーゼは言った。
結果は、その世界での、彼等の不毛の地で、イスラエル人は隣接の種族を犠牲にして徐々に力を増大していった。彼等は特別善意の征服者でもなかった。ミデアン人を征服した後、モーゼは彼のつかさたちにすべての男の子と成熟した女性を殺すように命じたが、しかし、処女たちは“自分達のにために残して”おくように命じた。
約束の地の見える所でモーゼが死ぬと、イスラエル人の指導者の立場と、多分、アークの秘密もヨシユアに引き継がれた。この人工物は依然として高い状態にチャージされていて、ヨシュア記からの次の言葉で示されているような効果を創り出す能力があった:
こうして民はヨルダンを渡ろうとして天幕をいで立ち、祭司たちは契約の箱をかつぎ、民の先に行ったが、
箱を担ぐものがヨルダンにきて、箱を担ぐ祭司の足が水ぎわに浸ると同時に-ヨルダンは刈り入れの間中、岸一面に溢れるのであるが-
上から流れ下る水はとどまつて、遥か遠くのザレタンのかたわらにある町アダムのあたりで、うず高くたち、アラハの海すなわち塩の海の方に流れくだる水はまったく塞き止められたので、民はエリコに向って渡った。
すべてのイスラエルが,渇いた地を渡って行く間、主の契約の箱を担ぐ祭司たちは、ヨルダンの中の渇いた地に立っていた。そして、ついに民はみなヨルダンを渡り終わった。
モーゼによる紅海割りを想い起させる、この奇跡は水でできた本質体を押し戻す場の技術能力を示唆している。前の記述でもみたように、その場がアークによって発生されたとしたら、以前に想像したよりも、もっと複雑な機械の部品を調べることになる。それは、ヨシュアがかなり注意して扱った機械の一部であった。このヨルダン川横断の奇跡の直前に、(彼の有名なエリコの戦いに行く時である)、彼とイスラエル人は川の土手でキャンプしていた:
三日の後、つかさ達は宿営の中を行き巡り、
民に命じて、「レビ人である祭司たちが、あなたがたの神、主の契約の箱を担ぎ上げるのをみるならば、あなたがたは、そこを出立して、そのあとに従わなければならない。
そうすれば、あなたがたは行くべき道を知ることができるであろう。あなたがたは前にこの道を通ったことがないからである。しかし、あなたがたと箱との間には、およそ二千キュピトの距離をおかなければならない。それに近づいてはならない。」
二千キュピトはかなりの距離-千三百八十八ヤードで一マイルに近い-であるが、ヨシュアは、アークが水を押し戻すのに十分な力を発生させる時には、これだけの安全マージンガ必要だと確信していた。
彼のエリコを奪取する試みに成功すると、ヨシュアは近隣の田舎に対しての恐怖で支配する何かを確立した。これで、彼は“主によって”確かに援助された:
主は彼等をイスラエルの前に、恐れあわてさせられたので、イスラエルはギベオンで彼等をおびただしく撃ち殺し、ベテホロンの登り坂をとおって逃げる彼等を、アゼカとマッケダまで追撃した。
そして、一万二千人の市民を虐殺し、王を絞首刑にした、アイの都市を破壊したのに続いて、再び:
そして、ヨシュアはエバル山にイスラエルの神、主のために一つの祭壇を築いた。
これは主のしもべ、モーゼがイスラエルの人々に命じたことに基づき、モーゼの律法の書にしるされているように、鉄の道具を当てない自然のままの石の祭壇であって、人々はその上で、主に幡祭をささげ、酬恩祭を備えた。
その所で、ヨシュアはまた、モーゼの書きしるした律法を、イスラエルの人々の前で、石の書き記した。
こうして、すべてのイスラエル人は、本国人も、寄留の他国人も、長老、つかさびと、裁きびとと共に、主の契約の箱を担ぐレビ人である祭司たちの前で、箱のこなたとかなたに分かれて.......
この言葉は、アークをヨシュアの勝利と結びつけるだけでなく、この人工物に金属を近づけることを禁止している-ナダブとアビブの死と共に、以前の数年間での学んだと推定される教訓に結びついている。ヨシュアがアイに対するキャンペーンを始める時に、災いを及ぼす最も強力な兵器、契約の箱を使うのを止めている:
アイの人々は彼等のうち、およそ三十六人を殺し、更に彼等を門の前からシバリムなで追って、下り坂で彼等を殺したので、民の心は消えて水のようになった。
しかしながら、ヨシュアの死の後一世紀半以内に、アークはもはや通常で戦争には使われなくなり、特別な聖域の中に残された。アークの巨大な力を制御する秘密-当時でも容易ではなかった-は、この後、失われてしまった可能性がある。
エベネツアルの戦いで、ペリシテ人がイスラエル-彼等の究極の兵器を運んでいなかった-を打ち負かした時、部族の長老達が次ぎの戦いではアークが使用されるように命じた。これは、ペリシテ人の肝を潰したが、しかし、ペリシテ人はヘブル人の奴隷になるよりは、戦って死ぬ方がましだと決めた。戦いは行われ、三万人程度のイスラエル人の徒歩兵が殺された。この時、ペリシテ人がアークを分捕った。
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こんなことになるとは、モーゼの、またヨシュアの時代でさえも考えられなかった。それはまた、アークが本当に遥か昔の神の座であったと主張する、伝統固執主義者に困難を創り出す。つまり、どうして全能の神が、不名誉にも、自分の座を奪われるのを許せるのか?という疑問である。
しかし、宗教的な人工物、或いは電気的な機械、アークの中には依然として残っているエネルギが存在した。ペリシテ人はアシドドに彼等の戦利品を運び、彼等の神殿のダゴンの彫像の側に置いた。次の朝、彼等は彫像がうつ伏せにひっくりかえっているのを発見した。彼等はそれを再び起したが、次の日、またひっくりかえり、頭と手が胴体から切れて離れていた。
ペリシテ人はアークをガテに移したら安全になるだろうと決めたが、この人工物がこの町についてすぐに、市民は腫れ物の発生で苦しむ。これは、放射線それも厳しい放射線の結果のように見える。技術の行為か、神の行為かは別として、パニックになって、アークはガテから取り除かれねばならなかった。
ペリシテの当局はそれをエクロンに送るように指令した。この町にも直ちに腫れ物が発生し、市民の不安が起こり、ペリシテ人の長たちがはっきりとアークを送り出すと言われた。
行き暮れての結論は、イスラエル人にそれを戻すことを決めた。平和のお供えとしての大量の金と宝石と共に、アークを雄牛の引く車に乗せ、イスラエル人の住む土地、ベテシメシという所に送った。
ペリシテ人の長たちは、国境まで、同伴ではなく続くのを許されて、安全な距離をとって続いた。幸いなことに、車は大きな石の側に在る農夫の畑の近くに止まった。その農夫は、皮肉にヨシュアを呼び、アークを知っており、石の側に供物をそなえて多くの人々を集めた。レビ人の司祭たちは、アークと、宝を納めた箱とを車から降ろした。車は割られて、それを引いてきた雄牛を焼いて供物にするための薪として使用された。
不幸なことに、すべての安全の注意で最も基本的なものが、忘れられて折り、アークそのものが開けられた。非常に多くの人々が中を見ようとして群がり、七十人が打たれて死んだ。
サムエル記上の6:20この最新の災害についてのベテシメシの人々の反応をきろくしている。キング・ジェームズ版は、伝えている:
ベテシメシの人々は言った、誰が、この聖なる神、主の前に立つことができようか?主は我々を離れて誰の所に上っていかれたら良いのか?
しかし、新しい英語版では、遥かにわかりにくくなくなっている:
この神聖なる神、主の存在の前では誰も安全ではない。この神からのがれるために、それを誰に送れようか?
この宗教的な背景では、これは驚くべき一節であるが、しかし、もしも読者が、このアークが恐ろしく危険な機械で、イスラエル人が神聖な力であると信じた電場フォースを発生するものだと知っていてればこそ、理解できるものである。
アークは事実キリアテ・ヤリムの人々に送られ、丘の上のアビナダムの家に持ってきて保管し、その子のエレアザルを聖別して主の箱を守らせた。それは二十年以上そこに在った。
7
ダビデがイスラエルの王になった時、彼はアークをペリシテ人に対する最新の勝利を祝うために、エルサレムに移そうと決めた。しかし、まもなく、アークはその間にも危険は減ってはいなかったことが明らかになった:
彼等は神の箱を新しい車に載せて、ギビア山の上に在るアビナダブの家から運び出した。
アビナダムの子たち、ウザとアヒオが神の箱を載せた新しい車を指揮し、ウザは神のはこの傍らに沿い、アヒオは箱の前に進んだ。
ダビデとイスラエルの全家は琴と立琴と手鼓と鈴とシンバルとをもって歌を唄い、力を極めて主を前に踊った。
彼等がナコンの打ち場にきた時、ウザは神の箱に手を伸べてそれを押さえた。牛が躓いたからである。
すると主はウザに向って怒りを発し、彼が手を箱に伸べたので彼をその場で打たれた。彼は神のはこのかたわらに死んだ。
主がウザを打たれたので、ダビデは怒った。その所は、今日まで、パレツウザと呼ばれている。
その日、ダビデは主を恐れていった:どうして主の箱が私の町にくることができようか。
その時、ダビデは主の箱をダビデの町に入れるのを好まず、これを移してガテ人オベデェドムの家に運ばせた。
神-旧約聖書によって描写された血に飢えた神-が、神聖な聖遺物を安定させようとした男の逸脱行為だけで、その男を死刑に処するというのは、なんとも信じがたい。再び、我々は、アークは神聖な聖遺物などではまったくなく、十年ごとに理解が薄らいできた、非常に危険な人工物であるという理論に強制的に戻されねばならない。
確かに、ダビデ王はそれについて心配になる。それが再びガテと彼の家族を災害が打つことなく、三ヶ月が過ぎるまで、オバデェドムの家にそれを置いたままにした。その時、モーゼによって与えられた安全の注意事項に従い、彼は意気ようようとこの人工物をエルサレムに運んだ。エルサレムは砂漠での伝統的な家々と似たテント張の小屋に置かれた。
ダビデの息子、ソロモンはアークのために新しい家の建設に取り掛かった。“神殿”とのべられているが、それは、要塞或いは防護用丸天井としてのすべての品質を持っていた...。町の東側にあった、先見の山、モリア山が場所に選ばれた。その頂きが平らにされ、側面の断崖はほぞ穴をあけられた巨大な石の壁と向かい合わされ、岩にはめ込まれた。
方形の中庭の全体を取り巻いて、なり高くて強力な一体ものの壁が造られた。第二の壁が他の中庭を取り巻いていた。この壁の内側にはポルチコが走っており、その上に、いろいろな部屋が造られていた。他の低い壁は二つの夫々異なったレベルでの中庭に分割していた。
建築の基礎計画が、上エジプトの最も古代の神殿の幾つかと正しく一致する特別な尺度でのエジプトモデルに基づいていたことを記録しているのは興味深い。何故、人は不思議に思うように、イスラエルは古くからの敵、長く国の人々を奴隷化してきた国家、の建築に戻ったのか?
自分の知恵で名声を上げたソロモンが、彼の最も神聖な人工物の本当の起源に疑いをもち、エジプト人だけがそれを制御する知識をもつ唯一つの人々と結論したらしいと推測したくなってくる。
確かに、努力と費用が、アークを安全や保管を用意するのに惜しみなく使われた。壁は切り出された石で床や天井と同じに金で覆われた。最も素晴らしく純粋なものがアークを入れる内陣のためにとっておかれた。
使われた容器のすべて、十個の燭台、五百個の鉢、そしてすべての供物用の道具は無垢の金であった。青銅鋳物の十七フィートの直径のタンクが在り、それは十二個の青銅の雄牛の上に乗っており、その目的は特定できないままである。
全体の構造は建設に十年以上を要した。完成の日に、ソロモンは自分の座を青銅の持ち上げられた王座の上にとった。彼の臣民である大勢の群集が広大な庭を埋め尽くした。祝典は、イスラエルの宗教の古代の伝統に則って、幡祭を燃やすことから始まった。
その時、レビ人によって担がれて、行列が着いて、契約の箱のとりつけになった。行列が真っ暗な中に建っている至聖所に着いた時、幕が引かれて、アークはセティーヤ或いは基礎として知られる、大きな石の板の上に置かれた。この時点で、幕屋は祭司たちが彼等の神を持ち出すのを防止するために、“雲”で満たされた。
以前にしばしば起ったように、“火”がアークから噴出した。この折りに、大量のエネルギーのチャージが生きたものは要求せず、ただ、動物の供物を消費した。祝典は二週間続き、二万二千頭の牛と十二万頭の羊が殺された。それが終わると、扉は閉じられ、アークはすべての者から隠され、紀元前十世紀と六世紀の間でのある時に祭司がそれをみているが、その時いらい、歴史的な記録から消え失せた。
20 中国の判じ物
科学の共通認識は、私達の現在の技術が旧石器時代の旧石器から二十世紀のパーソナル・コンピュータまで、ゆっくりと、直線的に進んで進化してきたと主張している。この絵には何か間違いがあるというのは、今では明らかに違いない。
この進化における裂け目が最も明らかなのは、中国をおいて他にはない。オーソドックスな共通認識は、中国の文明の発達が、原始的で野蛮な前王朝時代からの直線的な進化の結果である、商(Shang)王朝の成立した、紀元前十六世紀ごろ以前にはもどらないとしている。この時代の簡単なスケッチは以下の通りである。
Yuanmou人として知られている、最も古い(hominid)化石は南西中国で発見され、百七十万年前のものとされた。それらは、原-人間に分類され、近代人間に関係付けられた。道具を創りだした北京原人は五十万年前に北中国に生きていた。そして、紀元前二万五千年頃までに、自動的に近代人間になった。後期穴居人は、北京(Beijin)の近辺で、貝殻と骨の人工物を造っていた。
黄河の氾濫した肥沃な土地は、一般に、中国の文化の発祥地になった。ここで、狩猟経済から農耕の生活スタイルへの切替えが、最初に、紀元前五〇〇〇年以上前に起こった。オーソドックスな絵は、新石器時代の最初の段階(紀元前五〇〇〇から二五〇〇年)の間に、農民が原始的な農耕技術を使い、疲弊した土地を彼等の部落に転じ、半地下式の家に住んだ。
次の段階(紀元前二五〇〇から一〇〇〇年)では、農業は更に進歩し、農民は恒久的な定住した。商王朝が紀元前一六〇〇年から一〇二七年まで、北中国で湖南(Funan)地域で、定住グループの緩やかな連邦制を敷いたのは、この時期である。青銅に刻印した書かれたような、商の漢字の要素の多くは、近東あるいは他の場所からもってこられたと信じられている。そこには、どんな進んだ先史時代の分明に対しての、オーソドックスな共通認識における印はなにもない。
2
Yuanmou人は、オーソドックスな報告から想像されるような、よちよち歩きの猿人ではない。彼は道具を使う人であった。削り道具、石の芯、雲母それに、石英の矢じりなどが、彼の遺骸と共に発見された。彼は立って歩き、火も使用していた可能性がある。
ホモエレクタスとしてのYuanmou人の公式な分類はオーソドックスな科学に一つの興味深い問題を提起する。ホモエレクタスは、ホモバビリスから進化した。ホモハビリスはまた、オーストラロピテカスから進化した。しかし、ホモハビリスもオーストラロピテカスも問題にしている時期にはアフリカから外にはでていないと想定されている。
この問題は、西ホードゥ(Xihoudu)での、旧石器と、Yuanmouの発見物より古く、数十万年前とされた切断され炭化された骨の発見によって複合された。この証拠だけでも、科学的な共通認識よりも、人間が中国で長い歴史を持つことを表している。これは別に驚くことではない。Yale大学の人類学者、チャン・クワン・チーは、“マ-パ、チャン-ヤンそしてリュ-チャンの発見での、動物相のリストは、どんな精密な日付の積極的な証拠を提供はしない”と言えると記録している。
他の専門家、ジーン・ S.アイグナーは“南中国では、動物相は、中期最新世の細分を困難にするほど、明らかに安定している”と述べている。
3
最近、考古学者が、最も早い新石器時代の農耕部落部、仰韶(Yang Shao文化)が、紀元前四五〇〇頃に、黄河の谷に現れた。今、新しく発見された一連の遺跡では、紀元前六五〇〇年まで時代を押し戻している。更に、新しい証拠は、ぎびを耕作し、ブタを家畜にした、中国の新石器文化が、外からの影響なしに発生したことを示している。
これと前後して、最後の新石器時代の人々、隴山(Lung Shan)、壁で囲われた町に住んで、ロクロによる陶器を製造していたという発見があった。そこには考古学的な証拠としてはっきりしたものはなかったが、それらの発見物はあるレベルの文明を示唆していた。ルン・シャン文化は確かに北中国に広がり、長い間、純伝説の国、夏(Hsia/Xia)王朝と考えられてきたものと提携していたようである。
文明が中国に興ったのが商(Shang)王朝支配の確立の時だとするアイディアは、王朝エジプトがナイルの谷で、原始的な新石器文化から発展したとするアイディアと同様の困難を創り出す。エジプトでと同様に、商王朝文化が単純に進化したというのは、問題である。例えば、商王朝の人々は、世界の歴史でこれに優るものがない、技術的に完成した青銅冶金学をもっていた。青銅は精巧な器や平気の鋳込みに使われ、それらのすべてが、彫り込みと高い浮彫りの設計の両方で複雑な装飾がされていた。
彼等は一つの独特の文字システムを持ち、5千個近い漢字を使っており、その幾つかは現在でも使用されている。商王朝の貴族は壮大な建物に住み、ホメロスのギリシャでのものに似た、馬が引く馬車に乗って戦争にいった。贅沢な墓に埋葬された。陰陽(Yin
Yang)の補足力に基づく複雑な哲学が既に起こっていた。この哲学は“I Chingまたは運命の書”で最も高度な表現を達成した。これは、今日も、極東地域で敬愛されている。
この運命の書は、西側でその発明した名誉を与えられている、ゴットフリード・ウィルヘルム・フォン・ライプニッツが生まれた一六四六年よりも数千年前に開発された、二進法のシステムを含んでいた。
このことは、商王朝が結局、原始的な新石器共同体からの進化プロセスの最高点を表現しているのではなかったことを示唆している。すべての指標は、中国文明はオーソドックスな絵が許容しているより遥かに長い歴史をもつことを示している。
4
中央の中国の創造神話の最も普通のバージョンは、創造主、P’an-kuが、天と地が生まれる前に、混沌の卵からどのようにして生まれたかを述べている。彼の誕生の瞬間に、その卵は、地球となる陰(重い)要素と天の構成物にあがる陽(軽い)要素に割れた。
科学研究は人間の身体を作っている原子は、私達の太陽系が生まれるずっと前に星の爆発で核融合のプロセスによって造られたことを示している。これらの原子が、生命の創造の中で利用される良く知られた元素(重い)を形作る。そこには、本質的に、軽いものと重いものの分離が存在した。
1万8千年の期間の間、天と地の間の距離は日に十フィートの割合で増大した。創造主、P’an-kuはその隙間をうめるために膨張した。彼が死んだ時に、彼の目が太陽と月になった。彼の頭は神聖な山々になり、胴体は川と生みになった。髪の毛は惑星の木と植物になった。この神話は、P’an-kuの身体についた蚤として人間を現わすと述べている。より賛成を得ているバージョンでは、神Nu-kuaが粘土で人類を作ったと示唆している。これは、最初の人、アダムが実際に“赤い粘土”を意味している、ヘブル人の伝説を想い出させる。
主なる神は土の塵で人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで、人は生きたものとなった。
しかし、旧約聖書の神は完全で攻撃的な男神であるのに反して、Nu-kuaは女神である。ここで、古代のエジプトの伝説でと同様に、先史時代の普遍的な女神宗教の民族的な記憶を包含しているようだ。
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中国の伝説は、Nu-kuaを中国の最初の支配者、そして三皇の最初の君主であった、弟の伏義(Fu-hsi)と関連付けている。その後に彼等は共に、後に怪物Kung Kungによって破壊される宇宙に秩序をもたらした。
最も古い中国人は、中国北西部の陜西(Shensi)省の遊牧民族であったと仮定されている。彼等は女神信仰の最初の信者である。秩序を創り出すと、女神は結婚を思い付くと、人々に狩猟や漁業や家畜を飼うことを人々に教えていた弟と結びついた。
伏義はカレンダ、楽器、古代の中国の哲学と運命の書の元になる八卦を発明した。この発明は、伏義が人々に養蚕を教えて、文明化された経済の基盤を確立したという、文明の発達に向わせたのである。
伏義の後は、三皇の二人目、鋤きを発明してとうもろこしを育てるのを人々に教えた神農(Shen-nung)が継いだ。神農は国全土にマーケットを確立し、ハーブの癒し乞うかも調査した。文字(か、その一種)を発明し、記録することができる結び目を造る紐の発明で有名である。彼は最後に八卦を六十四の六角星型に拡張し、現在知られている運命学の中心部分を完成した。
神農の伝説の中に、彼が完全に伝説上の人物ではないかもしれないことを示唆している小さな証拠がある。彼はハーブの性質を調査していて毒性の植物を舐めて死んだと信じられている。
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三皇の最後は黄帝(Huang-ti)である。彼の物語では、神話要素は少なくなっている。
神農の死に次いで、彼の首席の大臣だった、Ch’ih Yuによってそそのかされて、南の部族の中で、反乱が起こった。黄帝は反乱を鎮圧しに乗り出し、結果的に最初の真の中国人の帝国を建国した。
黄帝はボート、二輪馬車、陶器、よろいを発明した。彼はまた、農業カレンダーを計画した。いろいろな方面で、彼は初期の科学者として述べられている。彼はすべての自然現象について学び、化学や薬学上の発明にも密接に関与していたと信じられている。
伝説的な展開に、なんらかの日付を仮に置くことは可能である。中国の年代記は哲学者、孔子が生まれた、紀元前五五一年の2百万年前に創造の日付を置いている。その年代記は過去を十個のエポックで別けているが、しかし、このうち、八つまでは信頼できる歴史ではない。伏義は紀元前二八六二年に割り当てられている。彼の後継者たちの一人、尭(Yao)は紀元前二三五六年に割り当てられ、舜(Shun)と呼ばれた、信心深い農夫のために退位するまで九八年間支配する。舜は五十年支配したと信じられている。
変って、舜は禹(Yu)と言う名の技術者のために退位した。禹は黄帝から多くの不思議な土類をうるために天に旅をすることで知られている。家に戻ると、彼は不思議な土類を、中国に氾濫する洪水を押さえる堤防を作るのに使った。彼は夏(Hsia)王朝を建国し、四百三十九年間支配した。
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最近まで、夏王朝は中国先史時代の純然たる神話的な表現と考えられていたが、しかし、一九七〇年代の考古学的な発見は、それが実際のものであることを示した。ケンブリッジの中国百科事典によれば、夏王朝の首都は河南(Honan/H’ena’n)省のEhri-li-t’ouに在った。夏王朝の日付は今は仮に、紀元前二二〇五年から一七六六年の間とされている。この時期からの書かれた記録は発見されていないから、その起源は不確かなままである。夏王朝の期間とそれに続く、商王朝と周王朝は三王朝として知られている。
この時期、国は数多くの共存する氏族で構成されていた。氏族は夏と商のものが最も有名である。その力の絶頂期には、夏王朝は銅とすずが豊富な、南の山西(Shansi)省-中国の青銅時代の巨大な経済的に重要な地域-での広大な土地を支配していた。
もし、禹(Yu)と夏王朝とが実際に存在していたとしたら、かなり古い”神話的“な人物の幾人かが同様に実在することが可能になる。中国の学者達は確かにそう信じている。有名な黄帝は、ありそうもないものとされているが、紀元前二六九七年から二五九七年の間の百年間を支配するのは不可能ではない。他の資料はこれを九十年に縮めている。
興味深い事に、中国の資料は、大女神主権の時代を見る共通のやり方として、母方の系図をたどって彼の祖先を追跡している。彼の母、伏?(Fu Pao) は斎(?Chi)河の堤で彼を生んだ。それから、彼の異名が付けられた。彼は自分の個人名を、彼の親譲りの小国と育った村から、Yu-hsiungと名乗った。
禹のように、黄帝が実在の人物だとすると、彼が最初の科学者だったという、学者の言い分を、如何にまじめに取り上げることができるのか?
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マルコ・ポーロのような初期の旅人を別として、中国との主たる西側の接触は、十九世紀の前半になされた。荒野をさ迷う点で、ほとんど圧倒するような尊大さと、イキゾチックな文化、文明の黄金時代にもかかわらず、中国は西側に印象的な顔を示さなかった。
前の世紀の終わりに、王朝衰退の兆候が現れていた。帝国の国境での軍事的なキャンペーンが強大な費用を必要とし、腐敗は政府のすべてのレベルで蔓延った。中国帝国は地理的に非常に広大なのに、極めて弱い心臓部をもっていた。
西側との接触で、貿易についての意見の違いによって引き起こされた混乱が起きた。清(Ch’ing)王朝はヨーロッパの力を封臣として処理することを得ようと努めた。外交的な、そして経済的な関係は古代の貢ぎ物の枠内のように見えた。交易は広東(Canton)を唯一の港として厳密に定めた。このことは、ヨーロッパ貿易のほとんどをしていた、イギリスを喜ばせなかった。
イギリスは中国の物資を譲りうけるのと、中国のモラルを低下させる対の目的を持って、阿片を密輸入するという半公式な政策で仕返しをし-阿片が受け取られるたった一つの確かな通貨になった。帝国当局が広東ですべての外国の阿片を破棄するのを命じた時、イギリスは戦争-一八三九年から四二年にかけての、第一次阿片戦争を宣言して反抗した。イギリスは簡単に勝利した。
戦争が終わった時、中国人は香港を譲渡すること、無制限な貿易につかう幾つかの港を開港すること、基本的に対等な外国との関係を導入することを約束することを強制された。中国人はまた、外国人が自分の国の領事館の裁判権にのみ従う、智勇語句での西側の人々の治外法権の原則を認めることを強いられた。
更なる譲歩が、一八五六年から六〇年の、第二次阿片戦争の後に中国からもぎ取られ、それは北京の外国の占領と略奪となり、結果として、西側代表国への中国全土の解放となった。清にとっての第二の屈辱は、中央の権威の衰退によって発した一連の国内の反乱である。
これらすべてが、西側と接触するまえの本当の文明をほとんど知らない、誇大妄想をもつ連邦王国とする、広がる西側的な認識へと中国を導いた。幾つかの修正はあるが、この認識は現在まで残されている。我々がそれについて考え、結局当惑してしまうのだが、中国の技術は、西側から輸入されたものと仮定されている。事実には、真実から更に遠いものは何もありえない。
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一九四二年、ヨセフ・ニーダム博士が王室の使節として中国を訪問することを要請された。彼は重慶(Chungking/Ch’ongqing)にあったイギリス大使館で、科学顧問として、第二次世界大戦の間中残っていた。彼のこの国での経験は、直接、彼の名著、“中国での科学と文明”に着手させ、最初の一巻は一九五四年に出版された。更に、十四巻が続き、全体の仕事は、全巻で二五巻になっている。
ニーダムの研究は、結論的に、後進国とはほど遠く、中国人の器用さへの西側の科学と技術の歴史的な負い目はほとんど想像できない位のものである。
ニーダムの作品を最初の普及版を出版した、ロバート・K.G.テンプルは、“近代世界に残っている、基礎的な発明と発見の半分以上”が中国で起こったものだと見積もっている。これらの発明の調査は大きな驚きへと導く。
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現代科学の数学の基礎である、十進法は、紀元前一六〇〇年からとされている、商王朝の間に存在していた。これは、十進法が商王朝の間に発明されたとはいっていない。それは、それがもっと古い時代から受け継がれた証拠である。
中国人は負の数字、ゼロの印、小数を、キリストが生まれるずっと前から、利用していた。彼等は高次の根を求め、ヨーロッパでは一五世紀に入るまで悩まされていた、高次の数の方程式の解を発見することができた。“数学的芸術の九章”という古い中国の古典は186万867の立方根をもとめる方法について述べている。もっと新しい作品では、
ax6 + bx5 + cx4 + dx3 + ex2 + e = 0
のような複雑な式も含んでいた。
本質的に、エジプトの天文学についてなされたような、同じ点がここでもなされる必要がある。科学は満開にはならず-それは進化する。もし、中国人が、商王朝よりも前に-言わば、先史時代に-十進法を利用していたら、それはそれ以前の数学の発達を仮定している。
しかし、初期の中国人の数学は、驚きの単なる始まりでしかなかった。紀元前十三世紀頃に、中国人が世界に先駆けてプラスチック技術を開発した印がある。
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漆は幾つかの顕著な特徴を持つ、一つのプラスチックワニスである。水や他の液体がこれを侵食することはできない。それは強い酸やアルカリにも大丈夫である。四百度Fまでの加熱にも耐え、電気にも絶縁体であり、バクテリアの攻撃にも抵抗力がある。ジョン・ウエズリ・ハイアットがセルロイドを発見する、一八六九年以前の西側の技術にそれに似たものは何も存在していない。
一九七六年の発掘で、女王 伏?(Fu Hao)が紀元前十三世紀に漆を塗った棺に埋葬されいていたことが明らかにされた。再び、これは、我々が知っている最もはやい時期を提供するだけで、実際に発明された日付ではないのである。
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ばかばかしいほど早い時期の中国の高度な技術の例中の例がある。鉄の鋤きが紀元前七世紀に、作物の耕作に用途に、使用されている。同じ時期に、血液の循環が知られた。活性化された酵素を使用する進んだ醸造技術が、紀元前十一世紀より前に開発されていた。
世界で最初に知られた磁気羅針盤が、毒ガス、催涙ガス、煙爆弾など同様に、紀元前四世紀に使用されていた。“ニュートンによる”運動の第一法則は、中国ではこの時期に知られていた。彼等は、タコを利用して飛ぶことすらやっていた。
一九八六年に、ロバート・テンプルは次のように書いている:
近代農業、近代海運、近代油工業、近代天文観測、近代音楽、十進法数学、紙の通貨、傘、釣りリール、一輪手押し車、多段ロケット、銃、水中採鉱、毒ガス、落下傘、熱気球、有人飛行、ブランデー、ウィスキー、チェス競技、印刷そして蒸気機関の基本設計まで、すべてが中国に発したことを知ることは、西側の人と同様に、中国人にも驚きである。
テンプルのリストですら、最終的なものにはほど遠い。鋳物は、ヨーロッパでは一三八〇年以前には広がってはいなかったが、紀元前四世紀の中国で製造されていた。そして、鉄のポット、くわ、おの、たがね、ナイフ、のこぎり、きり、小立像を鋳造した。
また、“無数の地域をもつ、大周王朝の徳を記念するお祝いの軸”を鋳造した。この記念の構造物は、周長百七十フィート、高さ二十フィートの基底部の上に造られていた。この基底部から、直径十二フィートの円筒が空中、百五フィートの高さで建っていた。この上には、高さ十フィート、周長三十フィートの屋根が載っており、更にその頂きに、金色の玉を支える四つの、十二フィート高さの青銅の龍が載っていた。
龍と玉を除いた全体は、鋳鉄-重さ千三百二十五トン-でできていた。これは、鋳鉄についての中国の技術の、唯一の印象的な例ではない。河北(Hopei/H’ebei)省の“滄州(Tsang-chou)の大ライオン”が、世界での最大の鋳鉄鋳物の一つとして、現在も残っている。それは、重さが四十トン、二十フィートの高さで立ち上がっている。
中国の天文学は、古代エジプトの場合と焦点は違うが、まさに印象的であった。中国人は紀元前四世紀以前に、太陽黒点があったことを認識していた。その当時までに、最初の大星カタログが既に画かれて居た。(星々は神と女神の物理的な身体であると重いついていたエジプト人を除いて)中国の太陽黒点の記録は、世界中でのどこよりも、古くて長くい連続したものを提供している。
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中国人の技術の絶対的な器用さは、今日でも驚きの凝視を引き出す、三つの発明に反映されている。
最初のものは、南方を指す車である。これは二つ輪の乗物で、一つの腕を伸ばした立像を乗せている。この車が回転しても、立像は南を指す。これは、磁石コンパス(中国人は磁石についても良く知っていた)を使ってできているものではなく、人工頭脳フィードバックの原理を取り入れた、一連の差動歯車によって実現している。
この驚くべき乞うかい道具の例は、紀元三世紀とされており、長さ十一フィート、高さ十一フィート、幅九.五フィートの大きな車が造られた。指示立像はひすいから彫刻され、宗教的な“不死”を現わしていた。中国の歴史家たちが、その設計が“運命の書(I Ching)”の彼の記述で有名な、周の君主(Duke of Chou)によって発明されたと記録している。公式な歴史によると:
南を指す車は、国境を超えて大きな距離をやってきた、ある使節団を故郷に導くために、周の君主によって最初に造られたものである。この国が境界のない平原であったために、人々は西と東の見分けを失ったので、領事がきたと南を識別できるようにするために、周の君主は、この乗物を造ることにした。
もし、この記録が正しいとしたら、この南を指す車は、紀元三世紀ではなく、紀元前の第二の千年のある日にまで戻ってしまうことを意味している。
三つの発明の第二は、近代に再度造られたものとして、ロンドンの科学博物館で見られる。外観上は、基本方位(東西南北)と半基本方位に、龍の頭をもつ、大きな青銅のつぼである。個々の龍はその口に青銅の玉をくわえている。そのつぼは、円形の台座に載っており、その上には八つの青銅の点を眺めて、口を開いた蛙がうずくまっている。
その装置は、飾りの芸術品にしか見えないが、実際には、古代の地震計である。下の蛙の開いた口に、龍から青銅の玉が落されることによって、地震発生の信号をだした。玉が落ちたのを調べて、中国人は、地震の震源地の方向を決定できた。再び、公式な歴史がその効果を述べている:
ある時、感覚では感知されないのに、龍の一つのその口から玉を落した。首都のすべての学者はそれに影響を与えた自信のなんの証拠も無いのに起こった奇妙な項かに驚いた。しかし、数日後、Lung-Hisでの地震の知らせをもった使者がやってきた。
隴西(Lung-Hsi/Xi)、現代の甘粛(Kansu/Gansu)は北西に四百マイル位は慣れていた。誰も中国人の地震計がどうして働くのか絶対確実には知らないが、現代の技術者は上手く推量できる。しかし、一九三〇年代までには、西側の科学は古代中国の“光を通す鏡”の謎を解けなかった。
これらは、青銅でできた手鏡である。反射する側輪は凹面であり、きれいに磨かれていた。裏側は、大体、絵のモチーフが、一連の中国の表意文字が鋳込まれていた。鏡が輝く太陽の光に向って差し出されると、あたかも、この鏡が透明になったかのように、後ろ側にある絵を、暗い壁などに映し出す。
これには、トリックが仕組まれていたが、一九三二年まで、回答を待たなければならないほど上手い代物だった。その年、イギリスの結晶学者、サー・ウイリアム・ブラグが遂に、それがどのように成されたのかを解を突き止めた。
水銀アマルガムを含んだ苦心の処理によって、古代中国人は、彼等の鏡の反射面に、裏面の青銅に彫られたのと同じ絵を複製していた。この複製は肉眼で見てはほとんど見分けがつかないほどのスケールで成されていた。反射によって強められた時だけ、その絵は表れた。このタイプの鏡は、紀元十五世紀に存在を確認されたが、再び、中国の歴史家は彼等の発明を先史時代の古代期間に位置づけている。
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中国の発明の幅の広さには、思わず息をのむ。次のリストは、この古代文化によって“最初”に開発された、まさに、幾つかのもの記録である。
ベルト駆動、生物学的ペスト予防、爆弾、大砲、チェーン駆動、チェーンポンプ、
化学兵器、クランクハンドル、石弓、太陽風の発見、二重工程ピストンベローズ、
内分泌学、釣り糸リール、火焔放射器、照明弾、野菜のリスト、手榴弾、
火薬、銃、ヘリコプター・ロータとプロペラ、密閉シール研究所、雪の結晶の六角構造、
馬の用具、熱気球、免疫、たこ、地雷、LandSailingマジックランタン、
磁気remanenceと誘導、有人飛行、マストと帆、マッチ、機械式時計、
“メルカトル”式投影法、近代種蒔機、しっくい、外輪付ボート、紙、紙幣、落下傘、
燐光ペイント、遊戯用カード、磁器、印刷、起伏地図、連射銃、多段式を含むロケット、
回転式穀物篩機、方向舵、海水雷、ノギス、糸車、自然発火、鋼の生産、あぶみがね、
つり橋、傘、水中引揚げ、天然ガスの利用、甲状腺ホルモンの利用、πの値、水密船室、
手押し車
これらの発見や発明のすべては、ヨーロッパでの出現の何世紀も前であるにもかかわらず、ヨーロッパ当局によって、比較的新しいものだと信じられているものが少しはある。例えば、地雷は紀元一二七七年とされている。
これらの開発は半数にも満たない。千年以内のものはこのリストには入っていない。ほとんどが二千年以上前のものである。幾つは、三千年以上前のものである。しかし、どの場合も、西側の科学者による日付であり、その日付における、発明或いは実行の、確かな物理的かまたは書物での証拠に基づいている。
言い換えると、我々が見ているのは、今知りうる最も古い日付である。ほとんどの場合、古代中国の文献は実際の発明は古代-中国の先史時代-において成されたと示唆している。
15
中国人の発明と発見の広い体系は、説明を要求する。西側の専門家たちは、中国人が、創造性、発明の才、科学的発見と技術能力に向う、あの種の遺伝的性向を持っていると示唆している。しかし、この意見は、西側との最初の接触以来、そのような遺伝的な性向がはっきり目立ってなくなっていることを無視している。
ロバート・テンプルは、中国人がイエズス会の使節によって機械式の時計が示された時に、彼等は畏敬の念に打たれたことを指摘している。最初に機械式の時計を発明したのが彼等であることを忘れてしまったのだ。
この初期の接触以来、中国は西側の技術を大量に輸入した。中国の近代化は西側の方法と機械の採用を意味している。勿論、これは、中国自体での新しい技術の発明が無かったということを示唆してはいないが、確かに、中国の遥かな昔の特徴と見られた、爆発的な技術の創造性の証拠がないのである。
しかし、もし、遺伝的な気まぐれではないとしたら、何がその時に?
我々は、“現代世界に残っている基礎的な発明と発見の半分以上”が、同一の場所で純粋に単一の文化から起こったことをまじめに信じていいのか?ヨセフ・ニーダムは神殿の本の緒言にかいた:
次から次と、特異な発明と発見が明確に中国の文献、考古学的な証拠、絵入りの証拠、時には、本当に一般的によーろっぱの発明と発見と並行したり、採用したりするずっと前に現れていた。それが二項系数列、或いは回転運動の直線運動への転換の標準的な方法、或いは、すべての時計の逃がし止め、或いは、可鍛鋳鉄製の鋤きの刃、或いは土壌化学と野菜の始まり、或いは、皮膚の-内臓の反射、或いは、天然痘の予防接種の発見であれ、-どこをみても、人は“一番”次もまた“一番”をみる。
中国人自身には、何の不思議もない。彼等にとって、それらの発明の根は、古代の時の中に、つまり黄帝や彼を指導した神話の女神の半伝説的な行為の中に深く沈んでいるのである。
21 古代の飛行機
ヒンズー教の最も聖なる書は、またインドの文学の最も古い体系である。それらは、ヴェーダと呼ばれ、これはサンスクリットで“知識”を意味する言葉であり、神話、歴史、そして宗教的な思想の奇妙な混合をかたち造っている。紀元前一五〇〇年から五〇〇年の間に書かれたものであるのに、多くのより古い口頭での伝説を含んでいる。
ヴェーダはリグ・ヴェーダ、サマ・ヴェーダ、ヤユル・ヴェーダ、アタルバ・ヴェーダという、異なった王朝に当てた、四つの賛歌で構成されている。他の資料は、四つの部分の四つの本を構成するために、それらに付帯している。それらは、ただの賛歌ではなく、宗教上の儀式、不思議な呪文、実体(Reality)の性質に関するウパニシャッドという論評の書を含んでいる。ヴェーダには二つの重要な半世俗的な仕事が付随している。マハーバーラタとラーマヤーナで、ヴェーダと共に、ヒンズー社会と宗教教義の主要な資料である。
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マハーバーラタは、サンスクリットで書かれた叙事詩であり、9万以上の二行連句からなっている。学者達は、それが紀元前十五世紀から紀元四世紀の間に、いろいろな詩人や祭司によって編集されたと信じているが、もっと古い口伝は伝説的な賢人、ヴィアーサによるものだとしている。
信心深いヒンズー人にとってのマハーバーラタの重要性は、その六巻目がインドで最も広く読まれるようになった神聖な書の一つになった、バガバド・ギータ或いは“神の歌”を含んでいることである。このギータは、善と悪への自分の責任に関して、悩める王子、アルジュナによって出された質問に、クリシュナが答えるものである。
アルジュナの御者として肉体を与えられたクリシュナは、物質の世界と個々の人の意識ば、同じ実体に基礎を置いていること、直観が究極の実存を把握できること、人間という存在は物質存在の中に一つの神聖な自己を所有していること、そして人生の目的は、神聖と一体になるように人を導くことであるということをアルジュナに教えた。
この観念は自身の中に興味をもっている。物質と意識が同じ実体に基礎を置くということは、観察行為が実験の結果に影響を与えるとする二十世紀の量子理論の発見と同一概念である。しかし、それらがインド人の心にとっての魅惑は、マハーバーラタが神の歌以上のものであることを不明瞭にしがちである。全体しては、それは、クルクシェトラと呼ばれたインドの先史時代の王国の騒然とした歴史を物語ることを趣旨としているのである。
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もう一つののサンスクリットでのインドの叙事詩、ラーマヤーナは一般に一人の人間-
賢人バルミキと言い、紀元前三世紀にこれを編纂した-仕事として同意されている。これは、二万四千の韻を踏んだ、十六音節の二行詩で、七冊に編纂され、一部ヴェーダからの陰陽も含めて、多くの古代の伝説をも編入している。
マハーバーラタのように、これもインドの古代での出来事、特に王室の英雄、王座を奪い返し、自分の妻をランカの悪魔の王から救い出す、ラーマの努力を述べるのを趣旨としている。
マハーバーラタとラーマヤーナの両方とも、その国が空飛ぶ機械と爆発する兵器を持っていたという、先史時代の文化と進んだ技術について述べている。
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ラーマヤーナからの次の引用は、驚くべき“空を走る戦車”プシパカを紹介している。猿の王、ハヌマンがタイタンの指導者の宮殿を探査した、その時:
猿はプシパカの名づけられた巨大な空を走る戦車を目撃した。それは、真珠のようにちらちら光り、もっとも高い建物の上を浮き上がり、驚いた猿の目には、驚くべき生き物と見えた。
その乗物は次のように記述されている:
..イメラルドと真珠のいすがついていて、太陽のように光かがやいた。内部は広く、すべて銀張り、白い旗印と旗竿があり、そして沢山の鈴をつけた金色の蓮で飾った金色の部屋だつた。
この文が文字どうりに取られれば、プシパカはジャンボジェットに近いもの、或いは同サイズの飛行船の可能性がある。そこには、この乗物についての多くの記述がある:
想ったより敏捷な、破壊できない乗物、戦車プシパカを準備すると、ビビシャーマは、ラーマと人の意志でどこにでも行ける空駆ける車との前に立ち、それを自由にしたので、雅量のあるラーマが驚いた......
これが飛行機であることはまったく疑う余地がない。
ラーマの命令で、その空駆ける乗物は大きな騒音と共に空を飛んだ...
この叙事詩は、長い飛行、着陸、ラーマによるインドからスリランカまでの地形の変化を空中からの観点で語るらーまをのせての二回目の離陸の詳細である。ランカの都市の上に彼等が到着した時に、もっとよい景色を見るために、旅客は自分のシートから立ち上がった。
これは、ラーマヤーナでの航空機、飛行、空中戦についての記述の幾つかでしかない。乗物の幾つかは、自動操縦の現代の飛行機のように、コースを維持することができた。
地上での旅行と空中での旅行との間で、明らかな違いが書かれている:
“ククラは、空を飛んでそして、海を超えて行けたのに、...足でミリタに赴いた。”空の乗物と馬が引く地上の乗物の同様な区別がされていた:
“白馬に引かれて戦場にいった時、その戦車は、空を運ばれる天空の乗物のように、極めてまばゆく見えた。”
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ラーマヤーナの飛行機の記述は、こことマハーバーラタの両方で述べられている沢山の兵器を無意味なものにしている。先史時代の奥深い所でのものであるにもかかわらず、マハーバーラタは、遥かに中世のヨーロッパを思わせる光景について述べている:
その都市は自然の理の通りに難攻不落であり、厚い壁、監視塔、底無しね魚屋ワニのいる掘りがあり:通過できないように大釘で補強した七つの掘りで、カタパルト、戦争用の塔、岩などの嵐にも耐える...
同じ資料に、より進んだ技術のヒントがある。ラーマが脅す:
私は策略で海を攻撃し、それを押し戻す...彼が道を標佐奈買ったら、火と風でとを荒々しく吹き付ける、強くて抵抗できないミサイルで、それを燃やすぞ。
これはマハーバーラタが、特に“その昔、使用された”という暗示的な言葉で、天空兵器に関して記述した唯一の例である。これらの兵器は、次のように操作を説明されている、アグネヤ・ミサイルを含んでいる:
パンダバは怒って、ガンダルバに向ってアグネヤ・ミサイルを発射し、彼の戦車を焼き落した。ガンダルバは戦車を奪われ、よろめき、顔を伏せて、ミサイルの輝きによって気絶した。そして、ダーナミャーナはガンダルバを彼の花輪のついた髪留めで彼を掴み、ミサイルの衝撃で意識がない彼を、兄弟の所に引きずっていった。
この叙事詩の至る所に、クルスナに与えられた奇妙な兵器-“中心部に雷鳴を持つ円盤“-についての記述がある。それは、人間に対するだけでなく、神に対して勝利することを彼に約束する意味での、爆発的兵器のように思える。ラーマヤーナは、その兵器の使用について生き生きと述べている:
眼が怒りで赤くなった、ラバナは、大きく輝く円盤に乗った彼の太陽兵器を発射し、...落ちながら、それはすべての方向の空を照らし出し、四半分四つが、あたかも太陽、月、星と星のように、燃えるミサイルの落下により焼き尽くされた。
ここには、化学、生物、原子力などの戦争用具を疑わせるもののヒントがある:
パカシャーナは百リーグに及ぶ遠くに雨や塵でもって、その卑劣漢の地域を破壊するだろう。ダンダの王国では、七日の間に、すべての生命の在るものも無いものも、完全に朽ち果て、成長しているもののすべては灰の雨の下に消え去るだろう。
マウサラ・パルバでの一説は、二つの全種族を灰にした鉄の雷電の形をした兵器について語った。当時の王はこの兵器に悩まされ、その一つの例が与えられた時に、彼はこなごなに打ち砕いて海に投げ込んだ。
インドラの投げ槍が、サンスクリット文献に述べられている。それは、ブラーマ兵器とも呼ばれている。これは、円形の反射メカニズムで、最初に輝き、それが的に向って発射される柱状の光を創り出すものである。
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一九〇三年、ライト兄弟が、ノースキャロライナのキティホークで、世界最初の動力飛行をした。その十年後、君様な出版物がデリーの王立バローダ図書館に預けられた。それは、ヴィマーニカ・シャーストラという表題のサンスクリットで書かれた書の、学者G.R.ヨシャーによって英語への翻訳であった。それは、古代インドでの飛行機の製作と操縦士の訓練を述べるのが趣旨であった。
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一九五二年のトラスト・オブ・インデイア紙によって書かれた報告によれば、ヨシャー氏-八十歳までミソレの国際サンスクリット研究アカデミーの役員-は、食料品の加工、高い建築物、合成宝石、飛行機の製造のような高度な技術を扱った、数千年前の写本を紹介した。
ヨシャーは飛行機についての写本の原本はマハリシ・バーラダワヤによって書き下ろされていたと述べている。これは、インドの賢者の一人で、彼は最も古い太古の口伝に画かれていた人である。
これと他の写本は十九世紀の、知識人、パンディット・サバラヤ・サストリの所有になった。多分、パンデットの息子の、ヴェンカトラーマ・サストリによって偶然ヨシャーに示された。ヨシャーの翻訳はレーダー、飛行機間のラジオ通信、敵の飛行機についてスパイ盗聴に類似した原理を述べていた。
一九五二年、ヨシャーは古代文献の詳細記述に基づいて、一九二三年に権利を得ていた幾つかの絵をジャーナリストに示した。これは、ヘリコプター式の積み荷用の飛行機、五百人乗りの巨大な旅客機、それに、三階建ての飛行機を示していた。
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西側の学会は、一般にこのインドの叙事詩を歴史というよりは神話-初期の“科学フィクション”だと仮定している。ヒンズー学者はそうだとは思っていない。彼等は一方の神話や宗教的な寓意物語ともう一方の歴史的な実際の作品の間を識別する書かれた伝説を、西側での対応する人たちよりも深く知っている。古代インドでの飛行機や進んだ兵器について述べている、この叙事詩は歴史的なものに分類されている。
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一九八八年、クンバルラル・ジャイン・ヴィアス博士がデリーの歴史会議で代表団に、ラーマヤーナの叙事詩のラーマは実際に存在し紀元前五〇〇〇年頃に支配したと語った。その会議で読まれたほかの報告は、インドの文明の元が3万1千昔に戻り、先史時代のエジプトのデミ神/ホーラス王のマネトーの日付まで戻ることをまじめに提案した。
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神話か歴史かは別として、ラーマヤーナの行動の多くは、ランカ、ラーマの大敵ラバーナノ家が在ったと仮定されている、現在のスリランカの島に起こっている。スリランカのオーソドックスな歴史はヴィアーヤという北東インドの王子の力による侵略で、紀元前六世紀に始まった。この侵入者はヤッカ人とナガ人として知られている、太古からの住人たちをほとんど困難なしに征服した。
この両方の国家の民族の子孫は、現在もこの島の離れた場所に生きている。彼等は、遊牧の、狩猟社会をツクリアゲ、洞穴や、荒地に搬送式のテントを張って暮らしていた。別に驚くことはないが、長く維持されてきた仮説は、ヴィアーヤの以前には、スリランカは、石器時代の文化以上のものを何ももっていなかったというものである。しかし、この証拠は、この仮説を支持しない。
十九世紀のイギリスによる発掘は、アヌラダプラの古代都市が極端に素晴らしい灌漑と下水のシステムを持っていたことを示した。この設備は、紀元前四世紀のものとされ、侵略後二百年のものである。スリランカの考古学者、A.D.フェルナナド博士によれば、この日付は間違っているという。実際の技術者は多分、原始ヤッカ人であった。
一九八二年の、王立アジアソサイエティ誌の記事で、フェルナナド博士は、アヌラダプラは元々ヤッカ人によって現在認められている日付よりも遥か以前に造られたものであると主張した。彼等はランカの、この都市の首都で進んだ文明を開発した。その場所は今は知られていない。侵入者が攻撃した時は、彼等の王の娘の結婚を祝っていた。
偉大な仏教徒の歴史の一つ、マハーバムサはアヌラダプラの建設業績をヴィアーヤの王子に与えているが、それにもかかわらず、ヤッカ人が冶金技術-遊牧の狩猟部族にはiwmにつかないもの-をもっていたとしている。
原始的な部族民がアリスタの先史時代の要塞したのも似つかわしくないことである。その要塞には、長さ十八フィート、幅六フィートで厚みが二フィートの大きな加工した石のブロックが使われて居た。現在もまだ発掘されていない、ヴィータプラの都市を建設したのも似つかわしくない。空からの調査は、この都市が二百五十エーカー以上の広さを持っていることを示している。
先史時代のスリランカでの、素晴らしい技術能力の更なる証拠は、カル・オヤダムのプロジェクトの途中、一九五〇年代に見つかった。仕事が始まると、掘削機械がすぐに、まさに同じ場所で、古代のダムの遺跡にぶち当たった。
著名な作家で旅行家のトル・ヘールダルは、その構造を調べた、スカンジナビア考古学者の一員だった。彼は後に、それは“ファラオを思い出させるものだった”と報告している。掘ってみると、先史時代のダムは一連の人工の池を通して、膨大な水の分配を規定するものだった。十五トンの石のブロックで造られた、三十三フイートの深さの溝と暗渠が長さ六マイル以上もあった。
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インドの中心部では、考古学的な証拠がインダス文明を示唆している。それは、紀元前二七〇〇年から一七五〇年にかけて存在し、最も広く知られている一つである。それは、ヒンズークシの北からインダス全土を超えて、インド半島にまで及んでいた。西の方は現在のイランとバキスタンの国境付近まで広がっていた。
この文明は、文字を発明して、きれいな石の押印を掘るところまで十分発展していたが、しかし、書かれたものは不可解もなく残り、我々がもっている唯一の堅い証拠は、考古学的である。
ある時期、この文明はメソポタミアとイラン高原のより進んだ文明からの拡散によって発達したと信じられていたが、しかし、ボランパスのメールガルでの最近の発掘は、その大部分が紀元前七〇〇〇年より前のものと示していた。学者たちは、これらの早い部分はインダス文明の都市共同体で直接発展したのだろうというのには、同意していないが、しかし、これは興味深い説である。
紀元前三二〇〇年頃までに、大きな村村が河の全長に渡って形づくられたことはあきらかである。インダスの最初の都市群は、十九世紀の半ばの鉄道建設時に、偶然発見されたが、しかし、発掘が始まったのは一九二〇年代である。発掘は、古代エジプトとほぼ匹敵する文明を明らかにした。
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最も重要な場所では、モヘンジョダロとハラッパの双子の都市がある。これらは、一九四四年に、インドの考古学の代表者になった、サー・モーチマー・ホィーラーによって発掘された。モヘンジョダロは、今はパキスタンになっている、カラチの北、三百二十キロ(二百マイル)に位置している。ハラッパはモヘンジダロから北東に六百四十キロ(四百マイル)の、インドのパンジャブ地方に位置している。
それらは、驚くほど高レベルの建築、行政、技術能力を示す都市である。これは、中央アメリカで見られた信じられないほど巨大なエンジニアリングノ一種を現わしてはいない-これらの都市は、ほとんど全体が窯で焼いたレンガで造られており-しかし、明らかに予め計画されたものであった。
モヘンジョダロは十二の主要交通路で網の目状にレイアウトされ、それらの路は三十から四十五フィート幅があり、その都市を十二ブロックに分けていた。それらのブロックの一つは、二十フィート位の高さの人工的に盛り上げた土塁に載った、西側に向いた、高い城塞からなっていた。その土塁には三つの構造物が在った。それらの機能がなにか確かではなかったが、現在では一般に、穀倉、集会場、大浴場と呼ばれている。
この最後の大水浴場は、深さ八フィート、長さ四十フィート、幅二十三フィートの水泳プールの一種を含んでおり、支持台の中に沈んでいた。両端に入る木製の階段があり、木製の部屋(着替え室かもしれない)が、その周囲に在った。そのプールは石膏で水漏れ防止が施されていた。
城壁は都市の残りの十一を一望できた。都市は、標準化されたぎっしり詰まったレンガの家、店と仕事場でできていた。総合的に見て、現代の都市の多くの住居よりもむしろよく設計されていた。代表的なレイアウトは主要道路をみる窓を持たない中心の庭の周りに、幾つかの部屋を配置していた。建物の多くは、二階建てで、中には三階建てもあった。
この大都市を建設した文化は、先史時代の大女神-小さい立像が沢山発見されている-信仰が中心に在った。中心の計画の明確な証拠にもかかわらず、考古学者たちは中央での制御の証拠を未だにほとんど発見していない。支配者クラスや司祭さえ一つもそこには見えない様である。
古代エジプトでと同様、兵器技術は制限され、質は落ちた。しかしながら、他の分野では標準が意外に高い。インダスの人々は、灌漑農業で生活を支えていた。彼らは自家栽培の米、麦、大麦を育て、なつめやしと綿を栽培していた。鶏を飼った世界で始めての人々でもある。家畜としての犬、水牛、牛も飼って居たのは確実である。ぶた、馬、らくだ、象なんかも可能だったかも知れない。
考古学者は、その文明の均一性と標準化を長く主張してきた。最も遠い植民地を除き、その都市群はすべて、長さ四:幅二:厚み一の比率の焼いたレンガのブロックで建設されていた。陶器の形とデザインは、広い範囲であきらかに似ていた。今でなら、これらの発見物は大量生産を示唆しているでしょう。
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都市設備に驚くほど複雑なものがあった。モヘンジョダロで、それは、主要道路の全長を走り、各家に接続された暗渠の広大な下水システムによって用意されていた。そこには、一定間隔でマンホールがあり、明らかに都市の下水の保全がなされていた。各家の排水は粘土の配管で囲われ、幾つかの家は、便座のついた、造りつけの便所を持っていた。
これらのすべては、十八世紀以前のヨーロッパに見られたものより遥かに進んだ-十九世紀前のヨーロッパで確立された-衛生学の知識を示唆している。そのような知識は、住人の一般的な健康にも派生効果をもたらしたであろう。
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室内便所から、ヒンズーの叙事詩に言及された原子爆弾に至るまでの長い道が見える。我々の文化では、その期間は高高二百年である、と書き留めることは有用なことかもしれない。現代の水洗便所はろんどんの時計メーカーの、アレキサンダー・カミングによって、一七七五年に造られた。最初の原子爆弾は、ニューメキシコのアラモゴールドで、一九四五年に実験に成功した。
現代の物理学ほどではないにしても、原子核或いは核を構成する要素の物理学を理解していた古代インドでの、個々の証拠がある。このことを最初に指摘したのは、一人の物理学者だった。フリティオフ・カプラ博士は、ヨーロッパとアメリカの大学で高エネルギ物理学の研究ポストにつく前に、ウィーン大学で資格を得た。
個人的な確認を用意した経験に飛び込まされた時に、彼は量子物理学の発見と東洋の神話の教えとの間に並行する存在に、既にうすうす感づいていた。
私は晩夏の日の午後、海に坐って、打ち寄せる波を見つめつつ、自分の呼吸のリズムを感じていた。と、その時、私は突然、巨大な宇宙のダンスに参加している、すべての私の周囲のものに気付き始めました。物理学者として私は、砂、岩、水、そして私を取り巻く空気は、振動する分子、原子でできていること、そして、それらがお互いに他の粒子を創造し破壊する粒子で構成されていることを知りました。
また、地球の大気が空気を貫通する時に多くの崩壊をする高いエネルギの“宇宙線”粒子のシャワーを連続的に浴びていることも知りました。これらのすべては、高エネルギ物理学の研究から私が良く知っていることでしたが、その時までは、私はまだ、グラフ、図表、数学理論によってのみ、それを経験していただけでした
私が砂浜に坐っていた時、私の以前の経験が生きはじめました:私は要素の原子を、そして、宇宙のエネルギのダンスに参加している私の肉体の原子たち“見ました”:私はそのダンスのリズムを感じ、そしてその音を“聞きました”。そして、その瞬間、それが、ヒンズー人によって崇拝された、シバのダンスであり、ダンサーたちの神だったことを知りました。
カプラ博士の直観は、古代の核を構成する要素への古代の理解のしかたを指摘した居る。幾人かの考古学的な発見は、可能な実際の応用例を示している。
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モヘンジョダロは“死の土塁”と、モルチマー・ホィーラーの考古学者チームが、より深いレベルに達した時に、この恐ろしい名名前で蘇った都市を意味している。そこで、チームは文字通り、古代の街路にそって撒き散らされた、膨大な人骨を発見した。その幾つかは、手を握って死んでいた。同じような奇妙なものがハラッパの相当するレベルでも発見された。明らかに、何か広い範囲の災害が一瞬にして、この都市を襲ったのだ。疫病の可能性も排除しきれない-黒死病の時の多くの中世のヨーロッパの都市でも、死骸は街路に埋められずに放置された。
しかし、そこには、もっと不気味な証拠がある...それが、遥かに幻想的な、宿命であるとしても。彼らの数千年での“黒い石群”がモヘンジョダロで発見された。
解析によれば、それらは強烈な熱による作用で溶着された粘土の陶器のかけらであることが判った。
22 火星の種
シドニア・メンサイの構造物が古代の火星人によって建設されたとか、そのことについて他の知性を信じなかった、カール・セイガンは、ある時、“異例な申し立ては異例な証拠を要求する”と言った。
人類が惑星火星で始まり、科学にも我々自身にも知られていないが、我々が植民したものの子孫である、というよりも異例の申し立てはほとんどありえない。
もし、一つの段階の最後で、読者が個人的な書込みを許してくれるなら、私がそのアイデアを押し出す当惑を、白状しなければならない。数年間、天文学者は私に、火星は死んだ惑星だよと-それも、火星はまだ生きているとことを最近の細切れの証拠が示唆するまで-語っていた。オーソン・ウェルズが、火星人がニュージャージー州を襲ったと放送でアナウンスした、彼の有名な“War of the Worlds”を製作した一九三八年に私は生まれたので、そのパニックに巻き込まれる筈はなかった。
私は火星人された、あのようなものは存在しないといつも知っている。そこにかつていたと信じることは困難だと分っている。火星人が読者や私のように見えると信ずるもことも、もっと困難だとわかっている。もし、SFにこのアイデアが現われたら、その本を投げ出すほど私の味覚には非常にナイーブである。火星人が、スター・トレックに侵入したとしても、私は彼らに少なくとも、隆起した眉、緑の皮膚、バルカン耳のクリンゴンのようにふざけて欲しい。しかし、このすべては一人の著者の熱望でしかない。証拠は他にある。
火星の上に古代の生命の証拠がある。それは顕微鏡的なせ生命であったが、しかし、その時代-数百万年間-に地球の上を這っていたものより、遥かに多かった。シドニアに、その“顔”とその他の構造物が存在している。
この本の前の各章で、私は、この複合体が人工物であるかもしれないことを示唆する証拠を提供した。失望させるという理由で、反対する証拠を提供しなかった。私は、スタンリー・マクダニエル教授、リチャード・ホーグランド、マーク・カレット博士、その他の人々の非常に多くの評論を読んできた。彼らの誰もが、これらのものは“人工ではありえない”、だから“人工的でない”という立場以上には至っていない。これは科学的な方法の適用ではない。それは、信仰の言葉である。この信仰は、違った見方をするものの方法論(時には知力)の攻撃によって守られている。
その奇妙な実験は強烈に興味をもつロシア人によって実行された。その実験は、火星と地球の生体環境との間の全く予想もしなかった適合性を示していた。地球の植物が両方の環境で(再現されていないが)生き延びれた。昆虫や爬虫類でさえ、人が考えたより遥かに長く生き延びた。純粋に、機会さえあれば、それは起こりうることを受け入れるのは、そう困難ではない。
壁のように見える火星の“隕石”も、それ自身の興味のレベルを持っている。すべての膨大な発見物の、恐らくほんの少ししか公開されていないので、多くの点で、最も興味をそそるものである。一番最初に、それは地球に届いたどんな隕石ともまったく似ていない。
隕石は大きさは違うが、それらの共通の分母は、蜜柑やフットボールのボールのように丸いということである。南極に落ちてきた隕石は立方体の石のブロックである。専門家たちは、火星からやってきたことに、極めて満足しているが、ティアワナコの粉砕された建物から投げだされたかのように見える。どんな種類の自然な行為が、四つの石のレンガをくっつけたように見える岩を造ったのか、信じうるコメントをしたものは誰もいない。
これはすべて、骨折りがいのある証拠であるが、しかし、確かに、証拠を公正しては織らず、カール・セーガンが要求した“異例な証拠”を放任している。この点は、マクダニエル教授によって繰り替えされてきた。証拠は、示唆しても、決定ではない。
彼はNASAに、火星に戻って行って、別の方向から撮ってくれと要求している。どの方向か、それが問題だ。私が火星のエンジニアリングの可能性を信じるより、それを見つけ出す方がよっぽど困難であることを、科学者たちは判っている。しかし、もし、古代の火星の文明の証拠がそれだけ遠くにあるからだと言うのならば、地球の先史時代の文明の証拠には、同じことは言われえない。
2
一五〇八年、ヨーロッパの旅行家、マーチン・バームガルテンは、レバノンの山の中に、イタリーのどんな古代ローマの建物にも優る基礎の規模で立てられた一つのローマ的な神殿の廃虚を発見した。レバノンでのこの神殿と他の建物の複合体は、海抜4千フィートの位置に造られた。インドでそのような優れた仕事をした、イギリスの考古学者サー・モーチマー・ホィーラは、その場所を訪問し、次のように報告した:”その神殿は....世界で知られた最も大きな石の上にどっしりと立っていた。“
そのローマ人たちは、リバノンを占領したすぐ後の紀元前六十三年頃にその現場で仕事を始めた。しかし、彼らの到着前に、古代の霧の中にまっすぐに伸びた建物の歴史が存在した。考古学者たちは、少なくとも、六つの他の神殿が、その場所に立てられ居たことを受け入れた。ローマ人の直接の先輩はギリシャ人であり、彼らは、その場所を聖なる所と信じ、そこに再び建設した。ギリシャ人とローマ人の両方共が、知らない、古代の文化の時代の巨大な石で舗装したプラットフォームを彼ら建物の基礎にした。数百万平方フィート以上の広さを持ち、一九二〇年代のフランスの考古学使節によれば、記念の丸天井、洞窟、地下に掘ったトンネルのインフラ設備の一部として建設された。
この地下迷路はまだ完全に探査されていないが、十九世紀に、ドイツの考古学者が四百六十フィートの天井の着いた水路の存在を報告した。これは現代の鉄路のトンネルに匹敵する規模と複雑さである。
プラットフォーム自体は、五百トンにも及ぶ、切り出された石のブロックの幾つかのコースから造られていた。これは、大ピラミッドで発見された最大の大きさのブロックの重さの二倍以上もある。この複合物のある所で、三つの花崗岩の板が非常に精密にくっつけられている。各々は長さ六十フィート以上で、重さは千トンもある。
これらの石はその場所から、四分の三マイルの所で切り出されていた。切り出し場では、岩盤から完全には切り離されていない加工されたブロックがそのままにされている。それは、千二百トンを超えると見られる。このサイズのブロックは、現在でも切り出さすことはできるが、現在の重機では動かすことができない。
先史時代のレバノンでの誰かが、それらの三つを山にまで持ち上げ、現在の石切り職人が誇りに想うほどの精度でそれらを配置している。レバノンの巨大な石は、エジプトや南米での古代の構造物の調査から得られたことを絶対的に確かなものにする。遥か昔のエンジニアリング能力ハ、実際に、現在の我々のエンジニアリング能力撚りも偉大なものだった。
3
一九三六年に、エジプトのサックァラでサブ王子の五千百年前の墓を調査した考古学者たちは、片岩として知られる特に輝くタイプの岩から微妙に刻ざまれた、当惑する物を発見した。この物は、あたかも軸に嵌められていたことを意味するように、中心に穴を持つ、車輪のようなものであった。この石の車輪そのようには使用されず、考古学者たちは、それが最初は金属から造られた何かの彫像をみたいだとの推測があった。金属で、その人工物は、輸送機械としてアメリカで一九七八年に開発された、軽いリム付きの空飛ぶ車輪の機能的に似た容貌を持っている。
一九六〇年代の初期に発見され、紀元前一〇〇〇年以上前のものとされた、オルメクの断片は地磁気羅針盤の一部と判った。
二十世紀への変わり目に、アンテキテラの島で、ギリシャのダイバーが沈没船から、紀元前最初の世紀野茂のとされた、複雑な機械式の計算機を引き上げた。
一八九八年、考古学者たちは、サックァラの墓の中から紀元前二〇〇年頃のものとされた、飛行機の木製のモデルを発見した。それは、コンコルドと同じような形と比例した寸法の翼を持っていた。
4
自身の地での騒動の時について書いた、詩人ヘシオドは“実りに満ちし地球は彼女の果実を、限りのない豊饒さで、求められずして、与え給う”という穏やかな時代へと尋ね戻った。
この田園詩は、“平和に満ちた気楽さの中で、....彼らの地を物で溢れ、家畜に富み、不死に親しむ”“金の人種”によって楽しまれた。
ヘシオドにとって、この純粋な精神は、灰の一条の灰から湧き出た“銀の人種”それから“青銅の人種”によってとって代われた。彼らは穀物など食べず、無情な心を持っていた。彼らの大部分の関心は、戦争の神、アレスにあった。
青銅の人種は銀の人種を征服し、彼らの子孫は人類の第四の人種を構成した。それは以前の人種とは異なっており、ヘシオドによれば、むしろ、より高貴だった。しかし、そこに邪悪な第五の人種があらわれた。彼らの性格は“正義は力に依存し、敬虔は終わった”という言葉で表現される性格をもっていた。
これらのすべては、つくった神話のように響くが、歴史家、ジョン・マンスリー・ろびんそんは、ヘシオドによる、最後の三つの人種は少なくとも、実際の歴史の人々であることを受け入れると断言している。
それらの最初は、青銅の人種で、紀元前二〇〇〇年頃に暴れまわった、北からの侵入者であり、青銅の武器をもっていたことから,この名が出ている。現在、彼らは、アカイア人として知られている。彼らは、大陸を植民地化し、要塞を作り上げ、クレタに向って南下し、アジアミノアの海岸へと東に広がった。そして、そこで紀元前一二〇〇年にトロイを略奪した。
ヘシオドの第四の人種は、侵入者と彼らが征服した人々の古代ヨーロッパの農業基盤の文化との、文化衝突の直接の結果である。アカイア人の野蛮さは植民地化した先住者のより文明化した週間によって修正され、その結果、アカイア人よりもよりおとなしい、混成種であった。
第五の人種は、それが出現する前に死にたかったと願ったほど、ヘシオドが大変軽蔑していた、ドリア人である。彼らは、古代のイリリア、イピルス、北東マケドニアの路で、紀元前一二〇〇年の後のある時期に、ギリシャに入りこんだ人々である。彼らの鉄の剣の使用は、自分達の文化を遥かに凌駕していたミケナイ人の文明を終わらせるのを助けた。
ヘシオドの五つの人種の三つがこの方法で、積極的に鑑定されうるとしたら、最初の二つの人種もまた、先史時代の霧の中に紀元がある、実際の人々の詩的記述であることも、まったく可能である。この方法で見れば、ヘシオドの書物だけでなく、他の神話や民族の伝承に、新しい光があたる。
5
黄金時代神話の、一つの共通の分母は単に豊富さではなく、農業的な豊富さを強調している。伝統的な知恵は、狩猟共同体が、二百五十万年前から存在しているが、紀元前一万一千年頃に、石の付いた木製の鎌が野生の穀物を集めて穴に保管するのに使われ始める変化が始まった。
メソポタミアでは、紀元前九番目の1千年に耕作が始まった。輪が発明され、滑車が人工の運河から水をくみ上げるのに使われ、複雑な灌漑システムが造られた。メソポタミアの人たちは小麦や他の穀物を栽培した。彼らは、庭を造ったり、ラクダ、ロバ、馬を飼育する技量をもっていた。
紀元前八三〇〇年から六五〇〇年頃に、他のグループが種を蒔き、収穫の日を待つことによる、自然の植物の農業を実施し始めた。これは、紀元前六五〇〇年から三五〇〇年頃に近東とヨーロッパで、紀元前六八〇〇年から四〇〇〇年頃に東南アジアで、紀元前二五〇〇年頃に中央アメリカで確立された植物栽培の実現に導いた。メソポタミアの粘土板は、人々が農業の初期の発展に寄与していないことを示していた。彼らは植物栽培や収穫の技術は彼らに“教えられた”ものだと主張していた。
言語学的解析は、シュメールの文献の“鋤”、“鋤きの跡”、“農夫”の語すら、シュメール人の言葉ではないことを示している。それらの言葉は、それ以前の、農業を専門にしていた文化から引き継がれたものである。また“陶工、石工、鍛冶屋、織工、皮革工、籠造り”などの言葉もシュメール固有のものではない。ここで、再び、テキストに書かれた言葉は、あるそれ以前の文化によって書かれたもののように見える。
我々の最も古いと知られている文明に固有の、神話のひと刈りは、建築と都市計画の技術が、古代から手渡されたのだと主張している。そして、テムモ、宗教の実際も、天文学も、航海技術も、ドラマも、文章も、経済も同様であることを示している。
6
一九三一年、二人のフランス人の人類学者がドゴンと呼ばれる、原始的なスーダンの部族と共に移動した。多くの原始手間とな部族民と同様に、ドゴンは二つの宗教構造を持っており、それは、一般の人々によって信仰されるものと、特別な伝授で教えられる教義の秘密の部分である。部族の生活に加入した後、十五年して、人類学者のうちの一人、マーセル・グリアウレが伝授者になった。
彼に開かされた、その秘密は、極めて通常と異なることを証明した。、何故なら、人が確信して期待するかもしれない、その種の部族の創造神話ほとんど扱っていなかったからである。その代わりに、それらはほとんど天文学に関するものに専念していた。
グリアウレは部族の歴史での無数の先祖代々を溯った時代での、ドゴンの伝授する教えが、地球と他の惑星が太陽を廻っていることを教えているのを発見した。それは、一五四三年に、コペルニクスの “De Revolutionibus orbium Caelestiumが出版されるまで、ヨーロッパでは知られていなかったことである。ドゴンの伝授は、肉眼では見えない木星の月たちを知っていた。ガリレオによって望遠鏡が発明されたのは、一六〇九年である。
ドゴンは、また土星の輪についても知っていた。それは、一六五九年に出版された、”Systema Saturnium”で、クリスチャン・ハギンスによって始めて解明されたのである。ドゴンは月は死んだものであり、乾燥しており、空気のない天体であることを知っており、金星の動きを記録し、ヨーロッパでは、ガリレオを待つしかなかった、観測の分野に付いて記録していた。
しかし、ドゴンがフランス人の伝授者に持たせた本当の驚きは、恒星シリウスが暗くて、高密度で、とてもとても重い、小さな伴星を持っていたという古代の物語だった。その重さの理由は、地球で見られるものよりも重い物質で公正されているからであった。それは楕円軌道で周回し、完全に五十年の周期を持っていた。
ドゴンが、シリウスを認知することは期待できないことではない。つまり、それは満月の明るさの、八分の一程度で現れる、夜の空に最も輝く星であるから。しかし、眼に見えない、その伴星のアイデアには別のものがある。
ドイツの天文学者、フリードリッヒ・ベッセルがシリウスの特別な動きが曲がりくねり、見えない伴星の影響をうけていると気付いたのは、一八三四年である。ディアボーン観測所の反射望遠鏡で一八六二年、アルビン・クラークがその伴星を発見し、今ではシリウスBと呼ばれている。
一九二八年(人類学者たちがドゴンを訪問する丁度三年前)に、サー・アーサー・エデングトンが、最初に白色矮星-寿命に近くなった星で、内部の水素とヘリュウムを放出した星-についての、彼の天文学理論を始めて発表した。それらは、星の最後の進化段階でその質量は我々の太陽の1.4分の一であると教えられている。それらの未来は、黒色の矮星であり、どんなエネルギも放出しなくなるまで、ゆっくりと冷えていく。
数百の白色矮星が現在知られている。それらの半径は、我々の太陽の半径の百分の一であり、絶対視差での大きさは+10から+14の等級範囲であり、表面温度は、四〇〇〇から二五〇〇〇度Kで、平均密度は高く、水の約百万倍である。それらの一つがシリウスBである。それは、地球程度の大きさであり、重さは太陽と同じくらいである。それは、楕円軌道をとり、周期は50年である。
どうやって、この部族の伝承がこの正確さと詳細な情報をにたどり着いたのかを説明するものは、ドゴンの文化の中には何も無い。彼らは天文学を実施してもいない。仮に実施していたとしても、強力な望遠鏡/進んだ天文学の知識が無しには、星達がどのように動いているのか見るのは困難である。ドゴンは、その知識が天国から地球にやってきた一人の神によって彼らに与えられたのだと主張している。
7
古代での、地球への神のような訪問者の神話は黄金時代の神話と同様に広がっている。四万年の間、生き生きと変らずに遊牧生活の文化を残している、オーストラリアのアボリジニーにとっては、それらの神は、ワンジニアとか空の人である。岩に画かれた肖像では、空の人たちは宇宙服を着た宇宙飛行士に見える。
エジプト、ギリシャ、シュメール、アステカ、すべての他の古代の文明にとっては、“空の人”は神であった。しかし、それらは、彼らの力という言葉での神々であった。個性と品性では、彼らもまた、すべて人間だった。どんな物語にも現れてくるオリンポスの物語は、セックス、悲しみ、嫉妬、暴力に満ちている。それらは人間の物語のように読める。
ヒッタイトの物語は、王、アラルシが、期待されない大成功で、彼を裏切った彼の従者アヌシによって九年間、どのように奉仕されるかを物語っている。アラルシは打ち負かされ、飛ばされる。アヌシは王座を掴み取った。しかし、王座は天の王座であり、アラルシは他の国に飛んだのではなく、他の惑星に飛んだのである:
アラルシは打ち負かされ
アヌシの前で飛んだ
彼が暗くなった地球に降りてみると
アヌシは王座の上に坐っていた
エンリッヒ・フォン・デニケンは神を宇宙飛行士とするアイデアをずっと推進してきた。
彼の科学的な名声に価値を与える考古学者の誰も、現在ではそのアイデアをまじめに熟考しようとするものは居ない。しかし、フォン・デニケンの最初の英訳が出た頃に、有名なイギリスの考古学者、トム・C.レスブリッジは、自分自身の著書“神々の子供たち”に最後の仕上げに書き添えた。独立に仕事をしながら、レスブリッジは、他の惑星から生き物が我々の惑星を訪問したことがあることを示唆する十分以上の証拠があると決定していた。
フォン・デニケンのように、レスブリッジもその理論に、二つの大きな問題を無視した。最初の一つは、“神々”がどこから来たかである。
一九六〇年代に、フォン・デニケンの名声が高まった時に、我々は太陽系に唯一であり、ずっとそうであったことに問題がないように思えた。これは、訪問者の故郷の惑星が離れた星の軌道になければならないことを意味した。その間に存在する距離を良く知っている天文学者たちは、光の速度が絶対である時に、度のようにしてそんな旅行がなせるのか質問した。また、天文学者は、多分言い易いのだか、何故離れた異性人が面倒みてくれるのか質問した。一八九七年以来、我々がラジオで、最近ではテレビで、自分の存在を宇宙に放送してきた。古代の宇宙飛行士が訪問しようとした時、地球は沈黙の惑星だった。
第二の問題は、もし、あれば、もっと困難である。フォン・デニケンとレスブリッジが引用した神話は、神のような訪問者が単なる人間型ではなく、人間であることを明確にしている。彼らは地球人類と近いもので、二つの人種は実際に相互交配できたのである:
....これは神の子たちが人の娘たちのところにはいって、娘たちに生ませたものである。彼らは昔の勇士であり、有名な人々であった。
他の惑星の進化の過程に対して、私たちのものと同じ遺伝子構造を持つ生物を創り出す機会は、文字どおり、天文学的な確率になる。
この奇妙さに直面して、読者がとれる選択肢は二つしかない。一つは、地球の彼方から来た人間の訪問者のアイデアを放棄する。もう一つは、地球の人類自身が種蒔きの結果であるという可能性をさぐることである。
8
一九九五年、二つのまったく新しいタイプのバクテリアが発見された。一つはフランスのパリの地下のオイル貯蔵タンクの中で発見され、もう一つはワシントン州のコロンビア川の近くの深いaquiferの中で発見された。
そのバクテリアは太陽の光や熱にさえ頼らなかった生態系の部分である。彼らは、水と玄武岩の化学反応によって後押しされた。特徴的な性質で、科学者たちは今、ミニ生態系のこのタイプを、下層リソオートトロピック・微生物生態系システム(SLME)と呼んでいる。
ワシントン州リッチモンドのパシフィックノースウエスト研究所の二人の科学者、ジェームス・マッキンレーとトッド・ステーブンスは、この新しく発見されたシステムを研究していて、銅の様のタイプの生命が昔火星に発達していたかもしれないと信じた。彼らは、この生態系システム(SLME)が光合成を利用する生命システムよりも、極端な火星の状態のもとで生きるのにはよりよいものだという事実を指摘した。
一九六二年から、火星の隕石の差遺書の積極的な確認が、ナイジェリアで成された時、科学者たちは、火星の物質が約5百トンが毎年地球に落ちていることを発見した。火星表面からの化石を含んだ、アレン・ヒルズを襲った、強烈な隕石爆撃の期間のような、この数値がもっと大きかった時が過去の時代にあった。
潜在的に、その時期からのどんな火星の欠けらも、生きたバクテリアを運んで出発したかも知れない。この問題は、何時も、地球の大気を通過する時ヤ地上への衝撃で、そのような顕微鏡的な生命が生き延びれるかどうかである。SLMEの発見までは、ほとんどの答は否であつた。しかし、科学者が以前に考えていたバクテリアよりも、SLMEは遥かに極端な条件で適用可能である。
二十億年前の衝撃から生まれた、カナダのくれーたの最近の研究は小さい炭素ベースのガス-それは赤色巨星のスペクトル特徴持つ-を含んだ球体を発掘した。これは、衝撃で造られた球体ではなく、衝撃にも耐えたことを示していた。衝撃自身は、五千℃程度の温度を発生させ、炭素分子は一千℃で分解し、炭素ベースの生命体(地球のすべての生命体の基盤である)が宇宙から安全に到着できることを明確に証明している。この存在、幾人かの科学者は今、我々の惑星上に生命が、火星からジャンプしてやってくる可能性を受け入れている。より進化した火星人による種蒔きは、有りそうも無いが、しかし、全く不可能ではない。
9
均一変化主義のビクトリア時代の迷信は、一人の著名な地質学者の名声によって、その盛んな時代に主に支援されていた。それが幾つかのやっかいな発見を説明するのに惨めに失敗したとしても。
彼は生物のゆっくりした進化についての自分の理論を下支えするために、均等変化主義を死にもの狂いで必要としたチャールス・ダーウインは、シベリアのマンモスは、彼が簡単には説明できない不思議であると認めた。説明が無いのに、彼はこの不思議を無視することを選択し、自分の元のままの、無修正の理論を固持した。数世代の科学者たちはかれの例の後に続いた。彼らがもっと長くそれを続けられるかは疑問である。
地質学の均等変化主義と進化論の対をなす砦は、ゆっくりとした、徐々な、線形の成長を要求する。我々の現在の文明は、電気の広範囲な利用、地球大の空輸、コンピュータ制御、条件付きの宇宙飛行と共に、ホモ・ハビリスのいくつかのものが石を持ってクルミを割った日に始まった、技術のピラミッドの頂点にあるように思える。そこには、原始的な暗闇から現代科学の光の中へとゆっくりでだらだらの上昇があった。新石器時代は旧石器時代より、もっと輝かしく、もっと素晴らしかった。古代ローマの文明は古代シュメールの文明よりも技術的に進んでいた。何故なら、時代が新しいからだ。十八世紀のイギリスは、更に進んでいた。発展は常に徐々にであり、右肩上がりの一方向である。そこには戻りはありえない。
完全に記録された暗黒時代の歴史的教訓でさえ、均等変化主義の迷信をへこませるものを何ももっていない。そこには、ローマ帝国の崩壊後の数世紀の間、進化の行進が止まっただけでなく、事実逆行したという事実についての議論も何も無い。学びの光は、ヨーロッパの全土から出て行き、古典的な文化と比較して、世界は新しい野蛮へと沈んだ。
証拠の重さが増大しているので、均等変化主義論が捨て去られるのは時間の問題である。それが起こった時、伝統的な共通認識は証拠が指摘する所を、やっとのことで冷静に見ることができるだろう。その説に捕らわれていない人にとっては、シュメールが最初の人間の文明では無いことは明らかである。一つの発展した文明が紀元前一〇〇〇〇年までに発生しており、それよりもっと早い時機に確立されていたように見える。
どんな決定的な証拠も現れることがなかろうと、多くの環境証拠は先史時代の文明が我々自身の文明に匹敵する科学と技術のレベルに到達したことを示唆している。少なくとも一つの分野-エンジニアリング-で、古代の文明は我々を超えていた。
もし、“火星上の顔”が人工物だと証明すれば、そこにはたつた二つの真実の可能性がある。一つは、我々の先史時代の文明は宇宙旅行を開発し、そしたて火星に飛んだ。世界中の神話伝説で支持され、少なくとも堅い考古学的な証拠ある、もう一つは、反対の方向へ動くプロセスである。この理論は、遠い過去の或る時点での、進んだ火星人の文明の進化を呼び求める。
シドニアの構造物を建設し、アブシンベルの巨大な岩の神殿に、その容貌を記念することをラムセス二世を説得したハブリスの場合と同じ目的から、“顔”を造り上げたのは、この文明である。
我々の異常な発見物の最も古いものが本物を証明するとしたら、火星の文明を代表達が、土着の生命がまったく原始的だった、遥か昔の時代に、地球への路を発見した。植民はその後にやってきた。
火星は現在死んだ惑星である。ある段階で、火星の生命に共通の古代文明が死に絶えた。しかし、植民団は生き延びた。その職民が、我々の火星創世記であった。
23 エピローグ
一九九二年九月、NASAは火星の表面の地図造りの新しいミッションに乗り出した。その日は、“火星観測機(Mars Observer)”の打ち上げをしるした。この宇宙船は沢山の科学計測器を装備し、軌道上から火星の写真をとれるように設計されていた。一九九三年の八月二十一日、火星からほんの数日の距離を残して、観測機は突然通信を停止した。
疑い深い理論家たちは、NASAは、シドニアの“顔”再撮影をするのを避けるために、意図的に観測機を不能にしたのだとクレームする論評をインターネットに載せた。他のものたちは、観測機は、異星人によって打ち落とされたと示唆した。
NASAはこの損失の調査に数ヶ月をかけた調査委員会を設置した。彼らは、結果的に推進装置システムに致命的な損傷があった筈だと結論した。彼らは、観測機が火星を通過して飛んでいって、今や太陽を周回する軌道のどこかにいると信じている。
2
一九九六年の年末近くに、NASAは再び試みた。ディスカバリ・プログラムと呼ばれたものの一部であり、宇宙船、“グローバル・サーベイヤー”その年の十一月に火星に向って打ち上げられた。一ヶ月後、二台目の宇宙船、“マース・パスファインダ”が発射台を離れた。
一九九七年七月四日、金曜日、“マース・パスファインダ”は、火星表面のアレス・バリス領域の、北緯十九度三十三分、西経三十三度五十五分の位置に着陸した。
それは、威厳のない着陸だった。内部の高価な計測器を守る為に、NASAの研究者たちは着陸機をエアバッグに包んでいた。それは火星の地上から、或る距離で自動的に膨張するものだった。“マース・パスファインダ”は、時速四十マイルで着陸し、五十フィート跳ね上がり、落下し、ビーチボールのように十五回もバウンドした。結果的にそれは停止した。エアバッグはガスが抜けた。“マース・パスファインダ”は“逗留者”を送る花のように開いた。その逗留者は、小さい六個の車輪を持つ、ロボット操縦の乗物で、火星の岩や他の興味のあるもののクローズアップ写真を撮るためのかめらを積んでいた。“逗留者”が仕事を始めた、その時、それは停止した。その軌道部が萎んだエアバックの一つに絡まっていた。
二日経って、地球にいるNASAの科学者たちがそれをはずすのを期待して、ロボットに信号を送った。七月六日、彼らは成功した。“逗留者”はそれを破って自由になり、それから抜け出した。その点から、九月の二十七日で日中の接触ができなくなるまで、“マース・パスファインダ”は一万六千五百五十枚の写真を含めて、二十六億ビットの情報を送信してきた。この“逗留者”ローバーはそれらの写真の五百枚以上を撮り、岩の十五個の化学分析を遂行し、風や天候のデータも集めた。着陸船は着陸地点の三六〇どのパノラマイメージの八十三パーセントを撮影した。
NASAはこのミッションは極めてうまくいったと明言した。“マース・パスファインダ”の着陸船はその設計寿命の三倍近く操作でき、”逗留者“もっと良くて、設計仕様を十二倍にもなった。”マース・パスファインダ”と”逗留者“の送信した大量の情報は、火星の生命についての、更なる証拠は何一つ含んでいなかった。
3
一億五千四百万ドルの“グローバル・サーベイヤー”は、一枚の太陽電池パネルに問題あったが、NASAによって、サボタージュされたり、異星人に打ち落とされたりしなかった。逸れは、一九九七年、九月十二日に火星の周回軌道にはいった。写真撮影ミッションの最も良い場所で、複雑なシリーズの巧妙な手段を実行し始めた。一九九八年三月二十二日、“グローバル・サーベイヤー”は二百二回の周回を完了し、地球の科学者たちは載せている、幾つかの科学的な計測器を作動させた。この宇宙船がその後の各周回で近火星点を見つけながら、火星の大気や重力場のデータが集められ、カメラは火星の表面に向けられていた。
一九九八年四月八日、NASAは、二十年前以上経って始めての、シドニア領域の新しいイメージを公開した。解像度は、旧バイキングの写真のおよそ十倍であった。それらのイメージの中に、“火星上の顔”形の写真もあった。それは、元のものと反対側からの朝日の中でのものだった。
その新しい写真は、人間の顔にちっとも似ていないように見えた。“私に向って何かが飛出してきて、「これは、知性あるものによって造られたに違いない」と絶叫するものはなにもなかった”と、“グローバル・サーベイヤー”のカメラ操作担当者はそっけなくコメントした。リチャード・ホーグランドは判定を留保した。彼は最新のイメージの品質がどんな結論を出すにしても、低すぎると考えたのである。彼は正しかった。コンピュータ・エンハンスメント技術が適用され-特別に、元のバイキングの角度にシミュレートするために、コントラストの範囲を逆転していった-時に、人間の容貌が現れ始めた。
興味深いことに、エンハンスされたサーベイヤーの写真は、縮小している時よりも、引き伸ばすと顔に似ていなように見える。これは、数百万年を経た、一マイルもある彫刻は、それに近づくほど実際に顔に見えなくなることを議論する立場を支援している。同じ現象はエジプトのギザの大スフィンクスのかなり風化され、損傷を受けた容貌で、明らかである。それが顔を持つことを疑うものは居ないが、近づけば、実際に顔の明らかさは減少していく。
また、火星の知性は“顔”だけに頼ってはいないと言う事実があった。シドニアでの他の構造物とそれらの間の関係が存在していた。
シドニア領域を含んだ、火星表面の全体のマッピングが一九九九年の三月に始めることが計画されている。それは、二〇〇〇年の一月三十一日に終わるだろう。この日の間のいつか、我々は”火星上の顔“についての真実を学んでいるかもしれない。
(完)
火星創世記 ・・・人類の地球外起源
著者について
ハービー・ブレナン氏は、六十冊以上のノンフクション、フィクションの著者であり、合わせ
て七百万部超の発売部数になっている。もの書きとして、彼は論争的な主題に控えめな著者で
はない。彼の扱う主題は肉体離脱経験やタイムトラベルをも含んでいる。ハービー・ブレナン
氏は、合衆国とヨーロッパで放送や講演をしている。アイルランド在住。