詩評(『ビアズリー展』)

一部、誤字脱字及び加筆修正しました(2025年4月3日現在)。

道化を真面目に描く。
元より道化は存在自体が「道化」である。故に何をさせてもその姿は滑稽となり、その場に居合わせた人々に遠慮なく笑われる。
そんな道化を真面目に描く。
奇抜な衣装やメイクを模写し、劇的な場面として捉えた瞬間を本物以上に笑って貰えるよう工夫して、作り上げていく画面の上に現れるのはなぜか道化そのものではなく、道化を演じる彼又は彼女。滑稽な笑い自体が同じ人間同士の間で繰り広げられる以上、避けては通れない人間的なテーマのニュアンスとしてそれを強調するのか、あるいは消長させるのか。
真面目に描きたい。誰にでも楽しんでもらえるように。
そのために設えた図書館。彼は道化の姿のままだ。それ自体は完全に悪ふざけだとしても、脇に数冊の本を抱えて踏み台を慎重に下りる様子は非常に切実で、真剣。泣いているようなその顔も、決して笑われるだけの存在じゃないことをこちらに伝えてくる。
だからこそ、そう、だからこそ笑える。
真面目に生きる道化の姿として描かれ、道化を演じる者として描かれるものが真剣であればあるほどにその全てが人々を笑かすためのパフォーマンスと化し、その全てが嘘偽りなく行われるほどに、道化を演じる者として抱える悲哀が道化に施された化粧をより一層濃くする。濃くしてしまう。
彼はこうして「道化を真面目に描いた」。



オスカー・ワイルドの戯曲『サロメ』の挿絵を手掛けたことで時代の寵児となった後も、決して楽ではなかった生活を送っていた頃と同じようにカーテンを閉め、蝋燭に火を灯し、鼻息に揺れ動くその輝きの元で妖しい線を描き続けたという逸話から羽ばたく奇想の影。性的なタブーにも勢いよく踏み込み、飽きない刺激と装飾的な美しさをその短い一生の中で求め続けた。



彼が描く絵に例外なく覚えてしまう舞台感覚。
物言わぬ刺客のような気配を充満させる余白の取り方。
そのいずれも画面の全てを嘘にして、本物にして、嘘にする。時代の流行り廃りの荒波に流されることはあっても、彼の作品群が決して風化されずに残された理由を私はここに見出す。夭折の天才。オーブリー・ビアズリー。普通に語れないその異端をこよなく愛し続ける。

詩評(『ビアズリー展』)

詩評(『ビアズリー展』)

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2025-04-02

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