花見
花見
夕食の光景は大体一緒だった。湯豆腐の量が二人用じゃなくなっただけだ。何が変わったのかはいまだにわかっていない。僕は彼女を信じていたし、信じられていた。彼女は多くのことを語ったけど、僕はあまりしゃべらない人間だった。だから、二人の間にはよくおかしな間と君の悪い距離感があったのだと今になって思う。それを望む彼女だったのだろう。僕は今何を思ってこの文章を書いているのだろうか。大学の単位をあきらめた僕、慣れた手つきでアイロンをかける彼女、昼を回ってからシリアルを食べる僕、春になったら花見に行く君。こんな文章を書いていてもなにも残らないのが私のいいところだと常々感じる。残りの時間は一つしかのこされていない、大事に使わなくてはいけない。 ところで君は僕の話を聞いてくれさえすればいい。
京浜東北線にはあらゆる出会いが満ち溢れている。例えば大宮で乗った複数の女子高生が最後には一人静かになって赤羽で降りたり、蕨で外国人が電話をしながら乗車してきたりする。つまるところそれはどの路線にでもいえることであって何か特別なものはきっとなかったに違いない。ただあの列車は私の人生で欠かせないものだった、ただそれだけなのだ。たまたまその日は東京に用があったし、時間を急いでるわけでもなかったから三号車の前から二番目、向かって左側の席ブロック、その前端に有線イヤホンをつけながらゆったり座った。彼女は私の隣に座った。
「あの、火についてどうおもいますか?」
突然だった。二日酔いの真っただ中だったからかなりイラっとしたのを覚えている。私はあの時ほどアウラを感じることはこれからずっとないだろう。それほどまでに飲酒の後悔と彼女のヘルツの高い声は私の中枢神経を何度も深く触って一生懸命ピンと伸ばさせようとしていた。 その体験をするために私は生きながらえてきたようなものだった。
「多分人違いだと思いますよ、僕はあなたと話したことなんて一度もないですよ」
私はとっさにこんな風に返した。今思い返すと生命の根底を馬鹿にしたすべてを無に帰す最低な発言だったと深く反省する。どんなことがあったって男子大学生が同年代の女性の誘いを断るなんて言うことは、もちろん反社会的ともいえる行為なのだ。
「いいえ違うの。火ってね今のあなたの心にそっくりなのよ。あなたってばたくさんの悩み事があるでしょ?例えば漫画が日焼けしてしまったり、はちみつが売り切れていたりね。そりゃああなたにはちみつが売り切れていたってそれは全く関係のない話だけど、火っていうのはその人の心持によって決まるの。あなたが不安定で深い闇に飲み込まされそうになった時には、あなたは火の青い部分を探そうとするでしょ?でも反対にあなたが幸せに満ちているときって、きっと火の芯の部分を見るの。それは大昔の恐竜の時代から決まっていることなのよ。火って不安定だからゆらゆらしていて自由に思うかもしれないけど、けど彼らだってもっともっと大きくなってガールフレンドでも見つけたいんじゃないかって思うの。でも雨に打たれるとすぐに消えちゃう。ねえそんなことって私たちとよく似ていると思わない?」
私は彼女の話を赤羽で降りるまでずっと聞いていた。ミイラになるためにはこうしたらいいだとか、ドラキュラの子供が生まれたらどうしたらいいのかなんてことを話した。現代にかぼちゃの馬車を作るメリットもを教えてくれた。
それから彼女とは三年間同じ時を過ごした。彼女とはどこへだっていったし、朝食だって一緒に食べた。一晩中横になって何もしなかった日もあったし、一日を大事に過ごした時もあった。決して私は何もしない夜が悪いと言っているわけではなく、ただそこに存在したというだけの話だ。どこか彼女の気持ちが僕にないことはわかっていた。彼女も他の誰かに恋することはあるのかととても感心した。私は彼女を妻にしたいと思っていた。だがこの気持ちを吐露したところで彼女と会う機会が少なくなるだけだとわかっていたので言わないことにしていた。彼女の金魚に餌をあげるという一見いらないスケジュールを僕が所持しておくためだった。それ以外の時間はちょっとだけ寂しかった。
春になると毎年彼女と花見に行った。花見はそれほど好きではなかった。彼女がどうしても行くというので私は花見が好きな男子ということで全会一致だった、とても迷惑な話だ。私たちは毎回同じ、彼女の家の近くにあるそのあたりでは大きな公園で花見をした。希望に満ちた朝を迎えると僕はつまらない恋愛ソングを聴いて、マスターベーションをしたあとビートルズを三曲ほど聴いてから向かうというのが通例だった。 ポスターに身をのせたつまらない恋愛ソングを歌っているボーカルは、がんばれと言っていた。ならそんな歌を歌うのはよせと思った。
駅を抜けるとロータリーがあらわれる。駅前のパン屋は有名らしく毎朝それなりの人がパンを求めて並んでいた。私は断然ご飯派だったし、彼女もパンは全然食べない人だった。パン屋が田んぼだったら嬉しかったかもしれないな、と思った。タクシーはちょうど三台止まって、暇を持て余していた。客でも探しに行けばいいのになと思ったが一歩も動く気配はなかった。おそらくビートルズを聴いているからだろう。この街の全てを知っている猫は私に向いてひょいととび乗り、暖かい空気に黒い毛をなびかせた。猫は私の背よりも少し高い所から私を見下ろしながら、失格とでも言っていそうな風貌だった。去年もこの猫を見たような気がした。線路を柵が飲み込んでいる道路を一歩一歩、何もない街だと安心する。cdレコーダーを売っていた店はケーキ屋に変貌していた。それだけが変わった点だった。花見を見に行く風景、こといいその公園は世界で1番美しい光景だった。チョコレートパフェが3つ並んでいるくらい美しい光景だった。少年たちはお決まりの形をした白黒の六角形の形で作られたサッカーボールを目掛けて走っており、少女たちは桜の木によりかかってうさんくさい手品師の曲芸を見ていた。カップルはお互いの手を繋ぎ合わせながら目を見つめあい、今にでも弾けてとんでいき、世界で1番深い谷に落ちる寸前に見えた。つまり自ら危険に寄り添うことで幸せを獲得していた。とにかく僕にはそう見えた。駅で見た猫も公園にいた。他にも三匹くらいいた。彼らは家族のように見えた。多分家族みんなでビートルズを聴いているはずだ。 猫は、映画のように自動販売機に飛び乗り、私の腰くらいの高さで珍しい私という存在に抵抗していた。まるでそれは、自分がこの村の長であり、象徴であり、自分がこの村を守るという虚勢を張っているようにみえたのだ。この村はついに猫に市民権を与えるようになったのかとおもった。だけどそれでもいいなと思った。猫が選挙に行く日も近いかもしれない。
彼女はその公園に十分も遅れてやってきた。彼女が遅れることは後にも先にもその時だけだった。だが特段変わった様子はなかった、ただ今まで一度も見たことのない服を着ていた。
「きれいだね、本当に」
彼女のこの言葉を聞くだけで本当に行く価値があった。僕も毎回「きれいだね」っていった。
「ここの桜は毎年変わらないよね、ずっと綺麗」
「僕はまだ三回目だけどね、確かに綺麗だ。」
「毎年ここに来る?」
「もちろん、僕の春の仕事は目覚めることと花見をすること、それしかないからね」
「それはよかった、安心したわ。花見に行けるのとても楽しみにしてるんだから。」
レジャーシートを広げて、彼女が作ってきてくれたサンドイッチを食べた。彼女の料理はとてもおいしかった。ただ難点だったのはサンドイッチにハチミツをかけてもってくるということだった。
それから少しして私は桜の木がこちらに訴えかけているのを感じた。彼らは自分のいる場所から走って逃げだして自由になりたがっているように、その助けを求めるために、花を咲かせているような気がした。並木道として呼ばれるための自分たちの存在に嫌気がさしていた。自分が枯れたところで代わりの桜が埋められてまた枯れるのを待つだけだ。そんな一列に並べられた自分たちから脱するために桜の花をさかせるといった大きな矛盾を抱えていた。もちろんそんなことは無理だった。木が走って海水浴に行けないなんてことは恐竜の時代から決まっていたことなのだ。
日が落ちるまで私は彼女の会話相手になっていた。結局その日は彼女の家に泊まることにした。
夏には蝉の抜け殻が僕の部屋にいくつも転がっていた。蝉はずっと鳴き続けていた。その年の夏は彼女に一度も会わなかた。正確に言えば花見をした日から一度も話すことができなかった。私の抜け殻も転がっていた。
彼女の死を知ったのはその夏で1番涼しい日だった。はたしてミイラにはなれるのかなと思った。彼女はあの公園で自殺をしたらしかった。らしいというのは、彼女の通夜だって葬式にだって参加していなものだからわからない。ただ確かだったのは彼女はもういないってことだった。それに彼女は私に手紙を残していた、遺書というもののようだった。
まだ彼女の幸せを願えている限りは私は無事でいられるだろう。だが、私に新しい人生を歩ませてくれなどしないのだ。もう彼女は離れていても私は彼女に離れられないのだ。夢の中で熊は一度私を見つけると、自分が危険になる前に一目散に私をめがけてやってくる。人間は恐ろしいとわかっていながらなぜこちらに来るのだろう。その時私はいつも鈴を鳴らす。しかしやつは足を止めずに私に向かってくる。いつの間にか私がクマになっていたのかもしれないなとおもった。何もわからずただ自分が危険なところから逃れるめに危険に向かっていくようなものなのだ。ときどきはちみつも集めるのだろう。きっとスーパーにはいかないはずだ。
花見