名前のない路地にて
名前の付いていない路地しか存在しなかったとしたら、郵便配達の人はどうやって物を届ければいいのだろう? ゴミ収集のエリア担当は、どう決めれば良いのだろう? 私の通う高校にある部活は、何地区の大会に出ればいいのだろう? ※拙作、『paradiso』の前日譚になります。
高校生活は、短い。
Y高校に入学して2週間が経った。
これは到底信じがたい事だが、高校生になったからと言って自動的に自分のステータスが一新されたり、突然新しいアビリティやフィールド効果が開放されたりする訳ではない。せいぜい通う校舎とカリキュラムと、従うべきルールが変わっただけに過ぎないのだ。
自分を変えるきっかけが出来たり、新しい事が出来るようになったりするのはほとんど自分のおかげでしかない。何も変わらないのであればそれは自分のせいだという事になる。
少なくとも私達が住んでいる世界ではそういう事になっている。それが良い事か悪い事か、正しい事か正しくない事かについては良く分からないし、今の所は興味が無いので触れずにおく。
そんな事を考えていたら帰りのホームルームが終わった。教室内の雰囲気は入学当初に比べて幾分落ち着いて見えた。クラスメイトのほぼ100%が、ふわっとした雰囲気の中でお互いがある種の“探り合い”に興じる期間が終わり、いくつかのグループが作られつつある。
一番分かりやすいのは、れいちゃんを筆頭にしたいわゆる人気者とその愉快な仲間たちの集団。彼女の周りには常に4、5人の人だかりが出来ていて、その中心であるれいちゃんの社会的立場がひと目で分かる状態になっている。実際、こうしている合間にも人が集いつつある。入学早々にしてクラスのヒエラルキーは決したのかもしれない。
あるいは部活仲間のグループ。早々に野球部に入った坂崎クンと他2人は登校や昼休みの時間に一緒にいることが多い。他にも似たような集まりがちらほらある。
入学したての頃に仲が良さそうにしていた人達の中には、その頃とは違う人物と行動している人も見受けられた。多分席が近いとか同じ中学だったといった、薄いつながりでしか無かったのだろう。震え上がった小動物が身を寄せ合って外敵の襲来に備える、みたいな感じ。
その場合は不思議なことに、新しく出来た友達同士でしかほとんど会話もしなくなる。けれどもこれは“軽薄”とか“残酷”とかそういう類のマイナスイメージで語るべき話ではない気がした。必然的にそうなった――ただ、それだけなのだろう。
私の後ろの席からため息が聞こえた。小さな、しかし確実に私には聞こえる程度の音量で。私が振り返えると、いかにも“気分悪いです、自分”みたいな顔と目が合った。
「大丈夫?」
私が訊くと、青ざめた顔面の持ち主である月宮さんが重々しく口を開いた。
「もう終わりよ」
「……はい?」
「今日部活が決まらなかったらおしまいよ……」
月宮さんは両手で頭を抱えながらうつむく。
「“何者にもなれない者”のレッテルと共に、長く虚しい高校生活を送るはめになるのよ……」
何かぶつぶつ呟きながら落ち込む彼女を見た私の胸中に、大げさだなあという気持ちと可哀想だなと本気で憐れむ気持ちとが同時にやってきた。
あれ? その言葉は最近どこかで聞いたな――私は一瞬考え込んだ。すぐに答えが出た。昨日だ。思い当たった私の胸中は、大げさだなあという気持ちが100%になった。
「まあまあ、まだ部活なんて選びきれてない人たくさんいるよ」
私が言うと、彼女は顔をあげて私を見る。
「それに体験入部だって始まったばかりだよ。私も入りたい部活探したいし、今日も一緒に見て回ろうよ」
彼女の血色が見る見る良くなっていく。月宮さんは勢いよく立ち上がり、私の手をとって上下に激しく振り回した。仰々しく私に感謝の言葉を並び立てながら。
「ありがとう! じゃあ、早速今日も見に行きましょう!」
私は目の前で好き勝手されている右手を割と早く返して欲しかったが、上手く言い出せずにいた。その要求の代わりに私は訊いた。
「昨日はソフトボール部だったよね? その前は美術部で、更にその前は確か剣道部に吹奏楽部――今日はどこにいく?」
「テニス部!」
私はテニスに対して憧れに近い感情を持っていた。フォアハンドで繰り出される強烈な一撃、切れ味鋭いサーブ、息を呑むネット際の攻防を制する鮮やかなボレーショット……その全てがカッコいい。自分で打てたらさぞ気持ちいいだろうなと思った。
私の思いとは裏腹に、体験入部中に私に渡ってきたボールがラケットに接することは一切無かった。完璧に、誇張なしに、見事にただの一度もボールを打つことが出来なかった。
私は恥ずかしいというより、無性に悲しくなった。こうしてまた道がひとつ閉ざされ、私の人生における選択肢が狭まったのだ。
逆に月宮さんは凄かった。未経験だという話だったが、フォアでもバックでも|安々とラケットのスイート・スポットを捕らえて打てていたし、少し練習しただけでほとんど100%サーブが入るようになった。
テニス部側としてもその才能の持ち主を見過ごせず、長い間、月宮さんに自分たちの部活の魅力をアピールしていた。「部員その1」「その2」「その3」と次々にプレゼンターが現れ、各々が方向性を微妙に変えながら代わる代わる彼女を説得する。最終的に副部長、部長とやってきたが、結局月宮さんは頭を下げ辞退した。
彼女は運動神経が良い。運動部の体験入部はいつもこんな感じで終わる。なんだこいつ、と思わないこともない。
「ごめんなさい。付き合ってもらったのに今日も決められなくて」
下校途中、私に向かって月宮さんは謝った。私はバツが悪くなる。
「気にしないでいいよ。決まらなかったのは私も同じだしね」
私がフォローすると彼女はありがとう、と言って笑った。
「でも、もったいないと思うけどなあ。初めてであれだけ打てるんだし」
「う~ん……楽しかったのは事実だったけど決め手に欠けるというか、しっくり来ないというか……とにかく、3年間これで行こう、って思えなかったのよ」
「そんなものなんだねぇ」
「そんなものなのよ」
私達がそんな会話をしながら長い横断歩道の前で信号待ちをしていると、少し離れた位置に小柄な生徒が見えた。見覚えのある横顔だった。あれは確か――と、思った矢先に信号が青に変わり、同時に月宮さんが話しかけてくる。
「今までの体験入部で気になった部活はあった?」
「え、そうだなぁ」
私は歩きながら答えた。
「運動部は今日と同じような結果だったからどれも入りたくないなぁ。文化部もこれといって気になる部活、無かったなあ。唯一、吹奏楽部は面白そうだったけど……ああ見えて体育会系のタチみたいだし、向いてなさそう」
「それじゃあ、お互い明日に期待ね!」
月宮さんはそう言って目を輝かせる。このやり取りはもう6回目くらいだった。私はそうだね、と相づちを打ちながら、さっき見かけた生徒の姿を探した。彼女はもういなかった。月宮さんが言った。
「そう言えば、さっき信号待ちの時に横にいた子、あの子も色々な所で体験入部してるわよね? 美術部と吹奏楽部と剣道部の時に見かけたわ」
「同じクラスの子だよ」と私が答えた。
「名前、なんていったかしら?」
「|永良さんだよ、|永良景子さん。私は一緒のクラスになった事なかったけど、私と同じ中学の子」
私がそう答えると一瞬、妙に眩しくなった。駅前にある雑居ビルに反射した夕日が、どうやらそうさせているようだった。
雨が毎日、降るからさ。
「今日は演劇部に行くわよ!」
放課後、月宮さんが威勢よく私の肩に手を置きながら堂々と宣言した。今日は昨日みたいな落ち込み方をしていないようだ。そういえば今日一日テンションも高めだった気がする。彼女とは席が近いという理由だけで仲良くなった間柄だったが、彼女のコンディションくらいはひと目で把握出来る程度の付き合いの長さだ。私は同意して、演劇部の部室に向かう事にした。
演劇部の体験入部ではまず初めに演劇とはどういうものか、鑑賞してもらいたいとの事だった。私たち含めて合計7人の体験入部希望者は、部室内に均等に並べられた椅子に案内された。希望者の中にはまた|永良さんの姿が見えた。
私はやや緊張しながら一番右端の椅子に座った。全員が一斉に座ると、なんだかドラマで見た集団面接のシーンのようで、むしろ見られているのはこちら側のような気分にさせられる。
|演目はオリジナルの脚本だった。いわく、シェイクスピアの“|十二夜”に現代風アレンジを加えて、あと色々“あーだこーだ”したものらしい。
私は本を一切読まないし、演劇にも興味がなかった。けれど|幼|馴|染|だ《・》|っ《・》|た《・》|友|達にそういった|類に明るい子がいて、知識のひけらかしにやたら付き合わされることも多かったので、その大まかなあらすじは知っていた。
しかし、目の前で展開された物語は記憶の中のそれと随分異なっていた。
家族旅行中に乗った旅客機が不幸にも墜落してしまった少女、|灰莉。彼女は墜落前に、この惨事を引き起こした張本人であるテロリストの顔を偶然見てしまっていた。同乗していた家族が全員死んだと思い込んだ彼女はテロリストから身を守るため、兄である|瀬谷十郎の名を名乗り、男として生きていくことを決める。|瀬谷十郎(|灰莉)は裕福な里親の元でしばらく過ごすが、里親の実子である|麻篠にあろうことか恋をしてしまう。しかし、当の|麻篠は親の取引先である大手企業の娘、|織姫に恋をしており、|瀬谷十郎(|灰莉)に仲を取り持つようお願いをする。ところが次第に|織姫はどうやら|瀬谷十郎(|灰莉)の事が好きらしい事が分かり――以下割愛。
何やかんやあって、|織姫にふさわしい相手を決めるため、|瀬谷十郎(|灰莉)と|麻篠が廃工場でMCバトルを行う。僅差で|瀬谷十郎(|灰莉)が勝つがそこにテロリストが乱入し、彼女の命を狙う。銃を乱射するテロリスト。逃げ惑う|瀬谷十郎(|灰莉)。
万事休すかと思われた時、一人の男が|颯爽と現れる。それは本物の|瀬谷十郎だった。彼は生きていたのだ。
|瀬谷十郎は何故所持しているのか一切説明の無い拳銃を取り出し、テロリストを一網打尽にする。こうして物語は大団円を迎えたのだった――こういう筋書きだった。
およそ1時間に渡る駆け足気味の劇を見た私は、ちゃんと胃もたれがした。月宮さんもそれは同じだったようで、二人して劇が終わるとすぐに退散することにした。
|永良さんは終始笑いっぱなし(どこに笑える要素があったのか私には分からなかったが、彼女は5分に一度のペースで、小さく“くつくつ”と笑っていた)で、この部に興味を持ったらしくこの後にある演技体験に参加するようだった。
「何だか凄い経験をした気がするわ」
昇降口で月宮さんが言った。
「少しも登場人物の名前が覚えられなかったわ……」
「私は目の前の登場人物が誰だかも分からなくなってたよ……」
二人とも放心状態だった。私たちは“何となく”靴を履き替え、“何となく”出口に向かって歩き出した。するとふいに月宮さんが呟いた。
「しまった。教室に忘れ物しちゃったわ」
「正門で待ってるよ」
私が正門でスマホをいじって時間を潰していると、門の脇に人がいる事に気がついた。女性だった。制服は着ていない。歳は分からないが私より年上だろう――そんな気がした。何やら困っているようで落ち着かない素振りを見せている。
普段なら目も合わせないであろう状況だった。でもあの劇に“当てられた”せいか、妙に浮ついた気分になっていた私は彼女に声をかけてみる事にした。
「あの、この高校にご用ですか?」
不意に話しかけられたからか、彼女は体を小さくすくませた。それから一息ついてから彼女はゆっくり口を開く。
「あの~、えっと……実はそうなんです」
女性は小さく笑って手をぽんと合わせた。何だか見かけよりずっと幼く見える挙動。彼女は間延びした声音で続けた。
「人を待っているんですよ~」
「へぇ、そうなんですね~」
思わず私の口調も|だ《・》|る《・》|ん《・》|だ《・》|る《・》|ん《・》になってしまう。
「でも、約束した時間になっても全然来てくれなくって。もう一時間も待ってるんですよ~」
「一時間もですか!? その人と連絡、取れないんですか?」
「何度か電話したんですが、出てくれなくって……それとも約束の時間、間違えたのかなあ」
「何時に待ち合わせしたんですか?」
「17時です。はっきり覚えてます! 4月19日の水曜日に17時、正門前の約束です!」
「え、今日は18日ですよ……」
「あれ?」
長い沈黙が続いた。私は何か言おうとしたが、彼女が先に動いた。
「しまったぁ。間違えた曜日で覚えてたぁ。19日は木曜日だぁ……」
「もしかして曜日で覚えてたんだけど、そもそも19日が水曜日と勘違いしてて?」
「そのまま思い込み過ぎた結果、こうなりました……」
「どこで間違えちゃったんでしょうね……」
「覚えてもいませんよう……すみません、何だかお手数をおかけしちゃって」
そう言ってその女性は、非常に残念そうに足を引きずるようにしてトボトボ歩き出した。
「ごめんなさい! ちょっと姉から電話がかかってきて、話ししてたら遅れちゃったわ」
月宮さんが正門前に着くなりそう言った。
「お姉ちゃんと明日ここで待ち合わせの予定だったんだけど、曜日を間違えちゃったみたいで……。“本当に明日だよね?”って何度も確認されちゃったのよ……」
なるほど、と私は思った。あの後お姉さん、月宮さんに電話したんだ。
月宮さんのお姉さんがこれ以上恥ずかしい思いをしてはいけない。私はこの件に関して口をつぐむ事にした。
次の日、月宮さんのテンションはどういう訳か最高潮に達していた。
彼女は四六時中笑顔を浮かべていた。
冗談でしょう? と思うくらいに。
そんな訳で月宮さんはこの日一日、私のすぐ背後で満面の笑みを浮かべながら授業を受ける|怪物と化していた。
放課後、彼女が今日は予定があるというので部活見学は無しになった。
「お姉さんと会うんでしょ?」と私が訊くと、「そうなの!」と元気よく月宮さんはうなずく。
「それじゃ、今日は私もこのまま帰るよ」
そう私が言うと、彼女は満面の笑みで「明日は一緒に部活見学しましょ!」と言い残して、勢いよく教室を後にした。
……今16時だけど、約束の時間って17時だったよね?
教室の窓から正門前を見下ろすと、案の定、姉と同じように一時間も待つ覚悟を決めている月宮さんの姿が確認された。
救われるべき、世界。
「今日は軽音楽部に行くわよ!」
一昨日とほぼ同一の口調で月宮さんはそう宣言した。それと同時に彼女は私の肩に手を置き、自分を鼓舞するように小さく片手でガッツポーズをする。
これもほとんど毎日見ている仕草。面白かった映画の二回目の鑑賞時のように、細部が微妙に記憶と違うというだけの変化しかなかった。
私はよっぽどタイムリープでもしてるのかなとも思った。いや、宣言内に出てくる部活名が違うから、多分大丈夫だ。
……いやいや待てよ。実は本当に|リ《・》|ー《・》|プ《・》|っ《・》|て《・》|て《・》、あるいはバタフライ効果的な“何か”が作用して目的地が微妙に変わっているのかもしれない。
なんてことに気がついてしまったんだろう。それが事実だとしたら大問題だ。一刻も早く、この繰り返しの中で月宮さんを何かしらの部活に入れなければ。さもないと色々な小難しい現象が連鎖発生して、なんだかんだあって最終的にこの世界が滅んでしまう。
このまま軽音楽部に行くのを食い止めて、フォークソング部に行ってみるというのはどうだろう? それで何かが変わって、この残酷な結末に至る|筋道を変える事が出来るかもしれない――
……私があらゆる現実的な条件を取り払って、限定された思考の一部という極めて狭い範囲だけで通用する、非常に高度な「|思|考|あ《・》|そ《・》|び《・》」をしていると、もう部室は目の前だった。くだらない遊びをやめた私は、月宮さんの後に続いておずおずと部室に入った。
体験入部のメニューは演劇部の時とほとんど同じだった。まずは実演――つまり、バンド演奏を聴いてほしいということだった。
体験入部生は私と月宮さんを含めて12人もいた。例によってまた|永良さんの姿もあった。部員の一人が言うには連日このくらいの人数がやって来るらしい。流石、軽音楽部。
私達は部屋の中央に横一列に並んだ。私は一番入り口に近い方の端っこだった。
バンドは5人構成――ボーカル兼ギター、ギター、ベース、キーボード、ドラムの5人。
部屋の|角にあるドラムセットに男子部員が座り、何やら色々叩く所を調整している。その前ではギターを持った男子とベースの女子、キーボードの男子がそれぞれ大きな機材に線を接続したり、音量調整したりしていた。
……どうやら準備が整ったらしい。ギターボーカルの男子が小さくギターをかき鳴らしながら、情緒たっぷりな調子でマイクに向かって言った。
「今日は軽音楽部に来てくれてありがとう……」
私がその生徒から受けた第一印象はシンプルだった。シンプルに、本当に現代の人物なのかという疑問。
もじゃもじゃパーマの長髪。多分、50年前くらいのいわゆる“アウトロー”の髪型と思われるやつ。|褪せたジーンズ、革ジャン、危ない薬、自由と平和。
タイムスリップ――またしても時間関係の何かを疑った。
「それじゃ、楽しんでってくれ。一曲目は――」
その瞬間、部室の入り口が大きな音を立てて開いた。何事が起きたのかと私達は全員、音の出た方向を急いで振り返った。
果たして扉の前には、凄まじい表情で仁王立ちする男子生徒がいた。ギターボーカルの男子より更に長い髪の持ち主で、髪の先が肩にまで至っている。そして何故かアコースティックギターを抱えていた。
初めは予期せぬ乱入者にきょとんとしていた私達だったが、次第にそれは緊張感に変わっていく。激しく眉根を寄せ、目を|爛々とさせた彼の面持ち――何やらただ事ではないらしい事を私達に悟らせるには充分だった。私の隣にいる月宮さんがごくりと喉を鳴らした。この男子は今、溢れ出る怒りの体現者なのだ。
次に何が起こるのか、私達は息を呑んで見守っていた。長い沈黙が続いた。ついに乱入した男子は大きく叫んだ。
「ロックに魂を売った、裏切り者め!」
その一言だけだった。それから彼は私達に向けて、|糾弾者のように鋭く人差し指を突きつけた……いや、正確には私達の後ろにいるギターボーカルに向けて。
すると、背後から小さくギターをかき鳴らす音が聞こえた。私たち体験入部生は慌てて音の方を見やる。ギターボーカルの男子だった。彼はクリアトーンのまま、ひとつのコードを小さくゆっくりと鳴らし続けた。そして表情一つ変えないままに、こう言った。
「俺は、信じないね」
私達は反応を見ようと乱入者の方を振り返った。彼は何も言わなかった。その間もエレキギターの音色は鳴り止まない。
「おまえは、嘘つきだ」
再びギターボーカルが何か言い出したので、私達はまた振り返る。彼らは、体験入部生を挟んでイデオロギー的闘争を繰り広げているのだ。フォークソングとロックンロール――フォークを愛した男と、フォークを捨てた男との戦い。
やがてギターボーカルの男子は、ギターを鳴らしながら|翻ってバンドメンバーと対面する。にやりと口角を上げ、|頷き合う彼ら。ギターボーカルは大声でこう宣言した。
「|く《・》|そ《・》|や《・》|か《・》|ま《・》|し《・》|く《・》|や《・》|ろ《・》|う《・》!」
様々な意味のこもっているであろうその一声を皮切りに、演奏が始まる。文字通り、とてつもなく大きな音量で。曲はボブ・ディランの『ライク・ア・ローリング・ストーンズ』だった。
スローペースで、噛みしめるような演奏――隣の月宮さんは両の目を輝かせて、食い入るように彼らを見つめていた。
……これ、ボブ・ディランのドキュメンタリー番組で見た事ある流れそのものなんだけど。
本当に何なんだこれ。
部室近くの渡り廊下から中庭に出た私は、そこにある自販機で買ったカフェオレを飲んでいた――というのも、全体的にいよいよ勘弁して欲しくなったので、ライブが終わるまで外で待つことにしたのだ。
演奏は部室から少し離れたここまで聞こえてくる。「How does it feel(どんな|気|分だい?)」という歌詞が風に乗ってここまでやってくる。まるで歌に追いかけられているようで、私はなんだかなあという|気|分にさせられた。
私がぼんやり時間を潰していると、ふらふらとした足取りで小柄な女子生徒がやってくる。彼女は手荷物であるカバンとピンク色のプラスチックケースを自販機の横に置いて、コーラを買った。それから私から少し離れた位置に立ってそれを飲み始める。
永良さんだった。どうやら彼女も部室を抜け出してきたようだ。
私は彼女の事をあまり意識もせず、最近始めたソシャゲの簡単なデイリーを消化していた。何ともなしに時間が過ぎていく。その間にも相変わらずバンドの“やかましい”演奏が聞こえてくる。
「あいつ、一人にしていいの?」
抑揚の|希薄な、非常に|ダ《・》|ウ《・》|ナ《・》|ー《・》な声が私の耳に入ってきた。スマホの画面から目を離して、ゆっくりと音の発信源を見やる。私の視線は永良さんに辿り着いた。彼女の無気力そうなジト目が、私の目に留まる。
……あ、私に言ってるのかこれ。まさか彼女に話しかけられていると思わなかった私は、状況を把握するのに少し時間がかかった。私は「月宮さんなら大丈夫だよ」と応えた。
「あの曲6分くらいあるし、感情|籠もり過ぎてて、原曲よりゆっくり演奏してたから……あれだけで10分くらいかかるんじゃないかな。少し時間潰したらまた戻るよ」
「あっそ」
永良さんは興味があるのか無いのか良く分からない調子で言った。私はカフェオレの最後のひと口を飲み干して、ゴミ箱に捨てた。その時ふと、彼女の足元に置いてあるプラスチックケースに目が留まる。私はそれをどこかで見たことがあった。けれど、あと少しの所でそれが何だったか思い出せない。
「そのピンク色の――それ、何?」
私が興味本位で尋ねると、永良さんは自分の足元を見やった。
「……これ? ピアニカ」
あぁ、思い出した。懐かしいなあ。小学生の頃、持たされてたっけ。ん? でも、どうして――
「なんでピアニカ?」
「……体験入部用。前々から今日、軽音楽部行くって決めてたからさ。ちょっと気合いれて家からなんか楽器持ってこようかね、って思った訳」
そう言って彼女はコーラをひと口飲んだ。
「そしたら家に楽器、これしか無いじゃんね」
「で、一応持ってきたと?」
「念の為、ね」
……話はよく分からなかったが、これはきっと彼女なりの自分に対する決意表明なのだろう。永良さんも月宮さんのように、新しい生活で新しい自分を見つけようと考えたのかもしれない。私は彼女に少しだけ興味が出てきた。
「私と月宮さんも大分だけど、永良さんも色々部活見て回ってるよね?」
「そうだねえ」
「入ってみたい部活あった?」
「なんかねえ」
「何か好きな事とか、それに関係ありそうな部活、無かった?」
「どうかねえ」
……ナンダコイツ。あまりにも取っ掛かりが無いし正体が掴めない。まるで|煙とでも話しているような感覚だった。永良さんはニヤニヤしながら言った。
「今、|金|融|資|産か何かと会話してるみたいな気分になったでしょ?」
「……良く分かったね。|実|体は無いけど|実|態はある、みたいな」
私がそう言うと、二人ともしばらく無言になった。遠くから聞こえていた演奏が少しの間止まり、続けて別の曲を演奏しだした。
あと5分くらいしたら部室に戻ろうかな。そう考えて、私はまたスマホの画面に意識を戻した。ゲーム画面を開いて、ひと手間だけで終わりそうなソシャゲのデイリーを探す。
画面を指でタップしながら考えていたのは、月宮さんの事だった。
どうしてあんなに部活に入りたがるのか、私には良く分からなかった。たしか彼女は以前「何者にもなれない」事への嘆きを口にしていた。それが彼女を突き動かす原動力なのか、あるいは全然別の理由がそうさせているのか――いずれにせよ、少なくとも部活に入らない事が「何者にもならない」事につながる訳ではないように思えた。中学生ならともかく、高校生でバイトも部活もやっていない人なんていくらでもいるんだし。
そんな風に月宮さんの事を考えていると、ふいに懐かしい音が聞こえてきた。聞き慣れた、うんざりするような、そんな思い出深い音色。
ピアニカだった。スケールも何もあったものじゃない、雑多な音の羅列がひかえ目かつ断続的にやってくる。あたり前だが音の出どころはすぐに分かった。私は姿勢をそのままに顔を少しだけ動かして音の鳴る方を向いた。
やっぱり永良さんだった。彼女はしゃがみこんでピアニカを鳴らしていた。彼女が小柄なのもあって、その様子は本当に小学生が、下校途中にふざけ半分で演奏しているようだった。
しばらくするとピアニカの音色が、いつの間にやら規則正しく整列し、ひとつの楽曲を奏で始めている事に気がつく。
永良さんは単音でビリー・ジョエルの「ピアノマン」のイントロを演奏していた。音の繋がりが滑らかで、若干上手かった。何とも言えない気分になった私は、しばらくそのノスタルジックな音を聞きながら、デイリーをひとつ消化する。
私がスマホをしまって自分のカバンを手に持ったときには、もう彼女も帰り支度をしていた。
「私は軽音楽部の部室に戻るよ。永良さんは?」
「帰る」
「せっかくだし、一応最後まで見学していけば?」
私がそう打診すると、彼女は|頭を振った。
「いや、いい。もともと体験入部、暇つぶし目的だし。何なら部活、入る気無いし」
そう言って彼女は気だるげな足取りで私から離れていった。
……え、じゃあなんでピアニカなんて持ってきてたんだ? なんで今ちょっと演奏したんだ?
本当に、訳が分からなかった。
部室に戻ると演奏はまだ続いていた。さっきとは違うバンドだった。今度はバンプ・オブ・チキンの「プラネタリウム」を演奏していた。
やたら前髪の長いギターボーカルだった。皆が、その繊細でどこか影のある歌声に|虜になっていた。
このしっとりとした空間の中では、涙を流すオーディエンスが多数だった。月宮さんはその中でも特に強く感化されていて、その様子はもはや号泣と言えるほどだった。
音楽が世界を救う日も、そう遠くないのかもしれない。
栄光と、いくつかの嘘。①
今日は球技大会だった。新入生レクリエーションと称した強制参加型プロジェクト。クラス対抗戦という|文言に一部の生徒たちは野心を燃やしテンションを上げ、また一部の生徒たちはその字面の“体育会系的な芯の強さ”に恐怖し、|慄いた。
そのイベントがもたらした影響は表面上に現れ|難かった。しかし不思議なことに、誰もがすぐに自分を取り巻く状況の変化と決断すべき事柄を理解していた。すなわち、“楽しむ者”と“やりすごす者”の二大|派閥の誕生。そしてそこから枝分かれしたあらゆる|分|派への暗黙の内への所属。
例えば、それは心から球技大会を楽しむ者。あるいは断固参加を拒否する者。あるいは楽しもうと思いこむ努力をする者。なすがままに状況が流れ終わるのを耐える者。脚光を浴びたがる者。他の派閥を批判する事こそ、一番の楽しみであると定義づける者――全部で100通りくらいの組織が生まれ、中には独立した|無頼派も多数生まれていた。
競技はバレーボール・バスケットボール・ミニサッカーの三種類で、その中から参加を希望する種目を各々が選択する。人数に偏りが出たらくじ引きで決め、公平に配置が決まる。その競技の経験者はチームに2人まで。ただし、経験者多数でどうしてもそのルールに抵触する場合、例外的に人数の超過が認められる。
私が選んだのはバレーボールだった。一番、運動量が少なそうでスポーツオンチの私でも何とかなりそうだと思ったからだ。でもそれは単なる偏見と、無知が生み出した誤解によって生み出された決断だった。普通に疲れるし、しんどい。
我らが1年3組のバレーボールチームは私、月宮さん、|幸田さん、飯島さん、星野さん、|永良さんの6人だった。月宮さんと私は事前に示し合わせて、同じ競技を希望していた。幸田さんは中学の頃から陸上部で、割とスポーツ万能。飯島さんはこのチーム唯一のバレーボール経験者で、中学三年間をバレーボールに捧げたツワモノとのことだ。星野さんは私同様、あまりスポーツが得意じゃないらしい。永良さんは……不明だった。
優勝したクラスには名誉と簡素なトロフィーが貰えるという話だった。私はどちらも欲しくなかった。これっぽっちも。でも求める気持ちは分かる。教室の隅に栄光の証が一年間飾られ続ける様子――まるで映画『トップ・ガン』の、偏見と誤解に|塗れたあのシーンのような想像をした一部の生徒は、躍起になって競技に参加するのだろう。
……もし相手チームが敵意剥き出しでガチ感を|晒してきたら嫌だなあ。それにメンバーが同じようなプレイ・スタイルだったら……
そうなったら私は“せいぜい、もって5分”だろう。私はこの見積りを参考に、いつでも体調不良を理由に|棄権出来るよう、心の準備をしておくことにしていた。
|蓋を開けてみたら結果は1年3組の優勝だった。一年生は全部で8クラス――私たちは7チーム合計42人の生徒をなぎ倒し、その頂点に君臨したのだ。
原因は明白だった。経験者の飯島さんが強すぎた。他のチームにも、もちろん経験者はいたが彼女は別格だった。飯島さんは相手のサーブやスパイクのほぼ100%をカットし続けた。またミスが起こらないように、誰にでも(私にも)返球が出来るように配慮された、優しく正確なトスを上げ続けた……それから時折、気まぐれのように彼女がスパイクを打つと、もうボールがこちらに返ってくることは二度と無かった。
その様子はほとんど|壊|れ《・》|て《・》いた。それもオンライン対戦ゲームだったら、次のシーズンを待たずにがっつりナーフされる類のえぐいタイプ。
原因はそれだけじゃない。月島さんも大活躍だった。彼女は可能な限りスパイクを担当した。その威力は鋭かった。素人だらけの大会でこれをレシーブしたりブロックしたり出来る者はそこまで多くない。飯島さんや他の経験者がナーフされたら、キャラ選択は彼女に集中するだろうと思われた。次なる|メ《・》|タ《・》だ。
意外だったのは永良さんの存在だった。彼女は常に浮遊でもしているのかと思うような、ふわふわとした|や《・》|る《・》|気|な《・》|さ《・》|げ《・》|な《・》足取りで、しかし的確な場所にいつの間にか位置していた。攻撃には一切参加しなかったが、トスをすれば正確な場所に向かって綺麗にボールを上げ、レシーブはいつも正しい放物線を描いてセッターの真上にボールを運んだ。尖った強みは無いが、それ故に愛好家の多いキャラ――それが永良さんだった。
ほとんどこの3人がゲームメイクをした。負けじと幸田さんも持ち前の運動神経で彼女たちについていく場面もあった。私と星野さんはほとんど見ているだけだった。それでも必然、自分にプレイを要求される場面はやってきた。私も星野さんもたくさんミスした。その度に飯島さんや幸田さん、月宮さんがフォローしてくれた。上手く切り抜けられた時は、皆まるで我が事のように喜んでくれた……永良さん以外。
要するに良い人しかいなかった。で、気がついたら優勝していた。ほとんど何の達成感も湧かなかったが、何かを成し遂げた充実感は胸に広がった。私は思った。組織が成功しただけなのに、まるで自分の成果のようにそれを誇る意地の汚い大人は、こうやって生まれるんだなあ、と。
栄光と、いくつかの嘘。②
球技大会の表彰が終わると、彼女たちに影響されて無意識の内に無理をしていた代償がやってきた。吐きそうなくらい疲れたのだ。白目を剥いて倒れなかったのは単なる偶然に過ぎない。
そんなだから私は、体育館端の通路にある小さな階段に腰掛けたまま、しばらくの間うずくまっていた。もう館内にはほとんど人は残っていなかった。先程までの熱や歓声が嘘のように静まり返っていた。
ようやく気が落ち着いてきた。すると、まだ体育館に残っていた月宮さんが足早にこちらにやってきて、座ったままの私の目の前に立った。見慣れた満面の笑みを|携えて。
「やったわね、私たち!」
「そうだね」
私はほとんど何もしてないけどね、とはあえて言わなかった。
「やっぱり運動部に入るべきだと思うな」
私はゆっくりと立ち上がってしみじみと言った。月宮さんの背後で何かが動いたが、私は気にせず続ける。
「その運動神経、もったいなくない?」
う~ん、と彼女は唸った後、「そうなのかもね」と呟いた。
「そうすべきなのかもしれないけど、やっぱり“やりたい”って思えるスポーツが無いのよ……やるからには本気でやって結果を残したいって思ってるし、何となくで選びたくないのよ」
「それだとモチベ、続かないもんね」
私がそうフォローすると、彼女は小さく肩をすくめた。
「……分かってるわ。こんなだから部活一つ決められないでいるのも……それからもちろん、あなたに迷惑をかけていることも」
「迷惑なんて思ったことないよ。もしそう思っているなら、それは間違ってるよ」と私は彼女の方を見て言った。
「ただ、どうしてそんなに部活に入ることとか、そこで何かを達成することにそこまで|拘ってるのかな、って思っただけだよ」
彼女は少し|俯いて、黙っていた。やがてこちらに真っ直ぐな視線を|寄越しながら彼女は言う。
「……何者にもなれずに高校生活を終えるのは、ごめんなのよ」
「なるほど」
「他の人は関係ないの。皆がこの3年間をどう過ごそうと、それを|蔑んだり、非難したりする気は全く無いわ。ただ、少なくとも|あ《・》|た《・》|し《・》|は《・》|そ《・》|う《・》|し《・》|た《・》|い《・》のよ」
彼女は最後に困ったように笑って「それだけよ」と結んだ。なんだか少し|淋しげに見えた。私は半分くらい嘘だと気がついたが、何も言わなかった。
「優勝、すごいじゃん」
いつの間にかやってきていた|永良さんが、だるそうな調子で言った。彼女は音もなくこちらに近づき、月宮さんの背後に立っていたのだ。突然話しかけられた月宮さんは、わひゃあという間抜けな声と共に振り返った。
「びっくりしたあ……」と彼女は胸に手を当てる。
「もう少し、存在を主張しながらやってきなさいよ。いつからいたの?」
「5秒前くらい」
これも嘘だった。彼女は月宮さんが私に話しかけてきた数秒後にはそこにいた。私は気がついていたが、その時、永良さんは口元に人差し指を当てるジェスチャーを私に向け、|秘|匿を要求していたのだ。秘密裏に交わされる契約。
そんな事もつゆ知らず、月宮さんはため息まじりに言った。
「もう……それで、何ですって?」
「優勝すごいじゃん。月宮|綾」
「……なんで他人事みたいなのよ。あなたも当事者でしょう」
指摘された永良さんは少しの間、考えるように首を傾げていた。いや、考え直すようなおかしな事言ってないでしょ。そう私が思っていると彼女が口を開いた。
「優勝すごいじゃん」
「言葉覚えたてのオウムがはしゃいでるみたいになってるし……」
私はつい我慢できなくなって言った。
「|餌ちょうだいよ」と永良さんは言う。
「チョコレートがいい。このオウムは本来危険なはずのカカオ成分に完全耐性を持った、すごいオウムなんだ」
「やけに具体性のある提案をするオウムね……」
月宮さんが呆れ半分に言った。
「……まあ、なんであれ優勝できたのは永良さんの活躍あってこそだったわ」
「そうだよ」と私も同意すると月宮さんが頷いた。
「永良さんって、見かけによらず運動出来るのね!」
月宮さんは時々、多少失礼な物言いをする。私は永良さんの顔色を|伺った。心配とは裏腹に、彼女は無表情を保ったままサムズアップしていた。
「能あるオウムは爪を隠すってね」
そろそろ帰りのHRが始まる頃合いだ。教室に帰らなくちゃ。私たちは誰が言い出したわけでも無く、体育館を後にする。
教室のある棟に行くための渡り廊下に差し掛かった時だった。突然新種のオウム……じゃなかった、永良さんが私たちの前に躍り出る。彼女の謎の行動にたじろいだ私と月宮さんは、思わず歩みを止める。何が始まるのか、見当も付かなかった。そんな私の困惑をまるで気にしない様子で永良さんはただ「月宮綾」と一言、名前を呼ぶ。それから持ち前のジト目を月宮さんに向けながら、彼女は言った。
「――雨を|避ける場所は見つかった?」
唐突に、最高に意味不明な質問で呼びかけられた月宮さんは、目が点になっていた。かまわず永良さんは続けた。
「月宮|沙也加」
一方的に告げられる、ここにはいない誰かの名前。同じ姓を持つ別人。月宮さんの表情が一瞬、こわばったのが見えた。永良さんは超然的な態度を崩さなかった。二人は無言でお互いを見つめ合っていた。その時間が数秒、数十秒、数分と続いた……かのように思えた。周囲一帯の時の流れがあやふやに感じる。とてつもなく長く、とてつもなく一瞬の沈黙。静寂を破ったのはやはり永良さんだった。
「名前の無い路地にて待つ」
……やりたい放題だった。不気味でさえあった。どういう事なのか、真意を聞き出す気にもなれなかった。
こうして、やるだけやった彼女は満足したのか、私たちに背を向けて駆け出した。大した速度でもなく、例の脱力しきった走り方でパタパタと。
私たちが状況を理解出来ず、|呆然とその場で立ち尽くしていると、少し遠くの方から永良さんの脱力したような、間の抜けた「フハハハハ」という高笑いが聞こえた。
「何なんだ、あいつ」
私は隣に月宮さんがいることも忘れて、独り言のつもりでぼやいた。そう言ってからはたと思い至った私は、取り繕うように付け足した。
「せっかく球技大会で優勝出来たのに、なんだかモヤモヤした終わり方になっちゃったね」
「……そうね」と、力ない返事を月宮さんが返す。
私は自分が嘘をついた事に気がついた。なぜなら普通、|せ《・》|っ《・》|か《・》|く《・》という言葉は残念がる時に使うものだったからだ。
それはまた、別のお話。①
それは私と月宮さんが、書道部に体験入部をした帰り道での事だった。月宮さんは相変わらず書道部も|し《・》|っ《・》|く《・》|り《・》|こ《・》|な《・》|か《・》|っ《・》|た《・》らしく、がっかりして肩を落としながら辛うじて歩いていた。
見るからに危なっかしい足取りだ。彼女が右にふらり、左にふらりと|彷徨する度、私は彼女の手を取って元の正しい位置に戻す。集中力のいる仕事だった。ある種のやりがいもあった。例え10年後になっても、決してAIに奪われたりしない独創的な仕事。しっかりしてくれ月宮さん。こんな仕事10年後もしたくない。
15分ほどそうやって|お《・》|っ《・》|か《・》|な《・》|び《・》|っ《・》|く《・》|り《・》歩き、やがて駅前の交差点に差し掛かった。信号が赤だったので、私たちは立ち止まった。私と月宮さんは降りる駅が違う。電車に乗ってしまいさえすれば、ようやくこの仕事も終わりだ。流石に、降りた先の駅まで月宮さんのこの状態異常が続くことはないよね? 少し不安になったが、きっと大丈夫だと信じる事にした。
そうやって自分を納得させながら、何気なく周囲を見渡す。ふと、右手にあるお弁当屋さんの前で話をする、ひと組の男女が目に留まった。
男の方は制服を着ている。うちの高校の男子だ。話の内容までは聞こえなかったが、女の人は何やら困ったように苦笑いしている。彼女は白のブラウスとカーキ色のパンツという|出で|立ちだった。彼女には見覚えがある……数日前に正門前で出会ったあの人だ。あのおっとり系女子。私の隣でしおれきった朝顔みたいな感じで信号待ちをしている月宮さんのお姉さん。
偶然だなあ。何やってるんだろう? ……ナンパ?
私は機能不全の月宮さんを放って――彼女一人でも生きていけるだろう、と判断した――数メートル先の彼女に向かい、声をかけようとした。その時、男子高校生が突然泣きながら彼女の手を掴み、叫んだ。
「この際何でも良いから、とにかく何か困っている事を教えて下さいよおおおお!!」
私は困惑した。どういう事なのかよく分からなかった。月宮さんのお姉さんは「ひええ」と小さく叫びながら、体を仰け反らせて手を引っ込めようとしたが、強く握られた彼の手を振り払えないでいる。
私がどうしようか考えていると、ふいに私の左肩を一陣の風が通り過ぎていった。力強く、とても自然のものとは思えない|疾風。それもそのはずだった。それを生み出したのは月宮さんだった。私のすぐ隣りにいたはずの彼女は、恐ろしいほどの勢いで地面を蹴り出し、つむじ風のごとき激しさでその男子生徒に接近していた。そして月宮さんは右手でボディブローを放つ。声にならない声で喘ぎながら膝をつく男子生徒。彼女は間髪入れずにたやすく身体をひねり、背中で彼を突き上げた。
|鉄山靠だった。そのコンボをまともに喰らった男子生徒は、数メートル先まで吹っ飛ばされる。彼は往来に大の字に倒れたまま、ピクリとも動かなかった。
騒ぎを聞きつけたのか、どこからともなく彼の周りに3人の生徒が駆け寄ってくる。男子一人、女子二人。駆け寄った|無造作ヘアの男子が、大げさに叫びながら彼の無事を確認する。
「大丈夫か!? 何があった!?」
辛うじて意識があったらしく、吹き飛ばされた男子は「あぁ、聞き込みしてたら突然……」と、か細く返事をする。すると、同じく駆け寄ってきた生徒の一人である青髪の女子が倒れる彼に向かって言った。
「名誉の負傷……と言いたいところですが、我がSCP部には現在、予算が|雀|の《・》|涙|ほ《・》|ど《・》|も《・》無いです。よってこれは自費で治療してもらいます!」
それを聞いた無造作ヘアは「言わんこっちゃない!」と嘆いて、その青髪の女子に指を突きつけた。
「だからこんな部活動は止めにしようって言ったんだ! 大体なんだそのSCP部って!?」
「Solve Community Problem部の略ですよ。“地域問題解決の為の部”――頭文字を取ってSCP部!」
青髪の生徒が得意げにドヤ顔でそう宣言すると、もう一人の女子生徒がうっとりした面持ちで手を合わせて力強く頷いた。そして、「素敵な名前です、先輩!」と彼女を支持する。
……私は何だか別の物語が展開しそうな予感がしたので、月宮さんと月宮さんのお姉さんの背中を押しながら、急ぎ足で交差点を後にした。お姉さんが歩きづらそうに右足を引きずりがちにしているので、あまりスピードは出せなかった。幸い、あのSCP部とやらは|内輪揉めに必死で、私たちのことは完全に忘れ去られているみたいだった。
それはまた、別のお話。②
私たちが改札前まで逃げてくると、「助かったぁ……」と、月宮さんのお姉さんは胸を|撫で下ろした。
「ありがとうねえ、|綾ちゃん」と彼女は月宮さんに礼を言う。
「それと、ええっと……」
言葉に詰まる月宮(姉)。私は彼女と会ったことが無い、という|体にしたかったので「良いんですよ!」と強引にその先を|遮った。ついでに月宮さんがやたらにお姉さんの事を心配しているので、この点はうやむやに出来た。月宮さんは鼻息を荒くしながら言った。
「姉さん大丈夫!? ケガなかった!?」
「大丈夫だよ~」と、月宮さんのお姉さんが答える。
「それよりあの子無事かなあ」
「あんな奴、心配しなくていいのよ!」
「でも困ってそうだったし、ちょっと申し訳ないかも。なんでも、“誰か悩みを抱えてる人を探せなかったら殺します”って脅されてるって言ってたし……」
なるほど、それであんな鬼気迫る勢いだったのか。私はナンパされていた方が遥かに話がシンプルだったな、と思った。
「だ、か、ら! あんな気味悪い連中の事なんてどうでもいいのよ。まだ完全に身体の調子、戻ってないんでしょ?」
「そうだねえ、心配かけてごめんね。ほら見て! 本当に大丈夫だから!」
そう言ってお姉さんは力強く両手でガッツポーズを取る。
「ならいいけど……無理しないでよね」と月宮さんが言うと、「どっちがお姉さんかこれじゃ分からないね」と、お姉さんははにかんだ。
「それにしても姉さん、こんな所で何をやっていたの?」
「えっとねえ、友達と待ち合わせの約束をしてたんだあ」
「高校の頃のお友だちかしら?」
月宮さんがそう聞くと、ううんとお姉さんは首を横に振る。
「中学の頃に出来た友達だよ~。会うの久しぶりなんだ~」
彼女は嬉しそうにそう話した。
「私とは3つくらい年下なのかなあ? あんまり年齢の話したこと無いし、その子凄い“ちっこい”から、詳しくはわたしも分からないんだけどね」
「どこで待ち合わせなの?」
「えっとねえ、駅チカの喫茶店。知らないお店なんだ」と、お姉さんが言う。
「paradisoっていうらしいんだけど、知ってる?」
私は知らなかった。月宮さんは知っているらしく、「ああ、それなら」と駅前交差点の方を指差した。
「それなら、ちょうどあの気味の悪い集団に絡まれてた通りの反対側の歩道ね――あそこから少し奥に行った所よ。私は行ったことはないけど、看板が出てるから分かると思うわ」
私と月宮さんは「色々ありがとうね~」と、ふわふわした調子でお姉さんが目的地に向かう様子を後ろからしばらく眺めていた。やはり彼女は時々、右足をぎこちなく引きずりながら歩いている。彼女が再び駅前の交差点を渡り、ここから見えなくなるまで私たちはその場に留まり続けた。ふいに月宮さんが言った。
「事故の後遺症なの、あの右足」
「そうなんだ」と私は言った。それから「お気の毒に」と加える。
「しばらくはあの調子かもってお医者さんも言ってたわ。あなたも覚えているでしょ?」
そう尋ねられた私は、彼女の方を見やる。彼女は続けた。
「去年の10月の放火事件」
私は何も言わなかった。
「……YC駅前のビル火災よ。当時は姉さん高校3年生で、あのビルに入ってたレストランで短期のアルバイトをしてたの。それで事件があった日、逃げ遅れたせいで煙にひどくやられちゃって……」
それから先は何もなかった。ただ目を細めてうつむく彼女――私も月宮さんも、お互い何も喋らなかった。私は彼女から視線を外して、しばらくの間お姉さんが消えていった交差点の方を見つめていた。月宮さんも同じだった。改札前は慌ただしく、無数の電子音や大小様々な|靴音でいっぱいだった。時おり、行き交う人々の間を|縫うようにして、誰かの話し声や呼びかける声が響いた。ふいに、「|沙也加」と月宮さんが口を開いた。
「……沙也加っていうの、姉さんの名前。今は一人暮らしで、東京の大学に通ってるわ」
――月宮|沙也加。その名前には聞き覚えがあった。|永良さんが球技大会の日に私たちに告げた名前。
「……あとはお好きに、ね」
月宮さんはそう言って微笑み、去っていった。
ここで私は何と書けば良いのだろうか。月宮さんとそのお姉さん、二人とも笑い方がとてもよく似ていた、とでも書けばそれっぽいだろうか。
……月宮さんの笑顔はお姉さんのそれとは違う。沙也加さんのあけすけで、朗らかな笑い顔とは。
――私はただの一度も月宮さんの笑顔に、あのような肯定的な印象を受けたことがない。二人とも、顔の作りはそっくりだった。似ているからこそ、ふたつの笑顔を比べるほどにその違和感はより際立っていた。
月宮さんが腹に|一物抱えているとか、私を嫌っているとかそういう話ではない。私には違和感の正体は分かっていた。
彼女が|し《・》|っ《・》|く《・》|り《・》|こ《・》|な《・》|い《・》のも無理もない。なにせ他の誰でもなく、彼女自身が彼女にしっくりきていないのだから。
一つの解釈、三つの当て推量。
その日の夜、私はやや後ろめたさを感じながら――もしくは、|仮初めの義務感から――スマホで“月宮|沙也加”というワードでネット検索をかけた。
心のどこかで私は、何も結果が出てこない事を祈った。あるいは最悪、同姓同名の市議会議員か何かが出てくるだけであってくれと思った。が、残酷にも期待とは裏腹に、月宮さんのお姉さんであろう人物について書かれたページがいくつもヒットする。一番上に動画リンクがあった。このY市にある地元ラジオの切り抜き動画だ(よくこんなローカルなものがアップされてるな、とちょっと感心した)。タイトルは“インターハイ出場の快挙! M学院3年生月宮沙也加さんに直撃インタビュー”。
……私はこの時、短パンにTシャツという部屋着で、ベッドに横になりながら|だ《・》|ら《・》|し《・》|な《・》|く《・》スマホをいじっていたのだが、どういう訳か無性に正座したくなった。しなかったけど。
それにしても、そんな凄い人だったのか――なにはともあれ動画を見てみることにする。放送の日付は去年の7月。こんなだった。
(ゴキゲンなBGM)(ラジオ・パーソナリティの女性と沙也加さんとの対談形式)
「……はい、という訳で! 先月行われた地区大会にて、陸上女子1500mの種目でなんと堂々の1位! すごい! こうして見事インターハイ出場を決めたM学院の3年生、月宮|沙也加さんにお越しいただきました!」
「どうも~。よ、よろしくおねがいします~」
(中略。走っている時に考えていること、インターハイ出場が決まった時の気持ち、プレッシャーとの付き合い方etc… およそ他愛のないやり取りで数分)
「――それにしても、なんだかのんびりしてるっていうか、おっとりしてるっていうか――色々お話を|伺っていて思ったんですけど、月宮さん。こう言っては失礼かもなんですけど、勝負の世界に向き合い続けた人っていうか……そういう雰囲気じゃあんまりないですよね?」
「よく言われます~」
「あら、素敵な笑顔。陸上競技は長いことやっていらっしゃる?」
「中学1年生の時に陸上部に入ってからなので、6年間くらいですねえ」
「やっぱり入部したのは、身体を動かすのが好きだったから~とか?」
「実は正反対なんですよ~。その時のわたしは、それはもう驚くほどのスポーツオンチでして……」
「へえ! 意外!」
「運動も勉強も人並みか人並み以下だし、性格も今よりずっと内気だったんです。頑張って取り組んだことなんてひとつもない、からっぽな子だったんですよ~」
「いやいや、そんな子、世の中たくさんいますって。私なんて未だにそうなんですから、参っちゃうよ、からっぽで全く(笑)」
(やや沈黙があった|後)
「――それで、どうして陸上部に入ろうと思ったんです?」
「うちの中学って、皆が強制的にどこかの部活に入れさせられるシステムだったんです。それで入学早々、悩んでたんです。わたし|鈍臭くて友達もいなかったから、誰にも相談できなくてすごく苦しかったなあ。でも一人だけ仲が良かったお友達がいて――年下の女の子だったんですけど――その子に話を聞いてもらったんです。無口な子だったんですけど、頼りになる優しい子で――そしたらその子がですねえ、そんなわたしを見て一言だけ不思議な事を言ったんです」
「ほう」
「“名前の無い路地の住人になりたい?”って」
「それはそれは――子供のする例えにしては、込み入ってますねえ」
「そうなんです~。その子、当時小学4年生とかだったと思うんですけど……それで、わたしが“どういう意味?”って聞いても“自分で考えて”って。結局、教えてくれなかったんです」
「禅問答的な?」
「ゼンモンドウ?」
「あ、いえ、すみません。えっと、意味深な質問といいますか、真意が分からない話――みたいな感じです」
「そうそう、そうなんですよ! で、あの頃のわたしなりに一生懸命その意味を考えまして。ようするに、こういう事なんじゃないかなって思ったんです」
「なるほど」
「名前の無い路地は“どこでも無い場所”のことで、そこの住人は“何者でもない人”。つまり、ええっと……あの子は“誰か”になりたい? “誰か”になれないのは嫌? ってわたしに訊いてたんだと思ったんです」
「なんだか、JRPGの|謳い文句みたいな話ですねえ」
「JRPG……ですか?」
「あ、いえ、すみません。えっと、それはなんともキャッチーな寓話ですねえ」
「はあ」
「それで、その後月宮さんは何を?」
「なんだか無性に“なにをぅ!”って気分になったんです~。“こなくそぅ!”だったかなあ? とにかく、それで勢いに任せて自分に一番|似|合|わ《・》|な《・》|さ《・》|そ《・》|う《・》|な《・》|部|活を選んだんです――そして気がついたら、こうなってました」
「それは、ある意味ではそのお友達に感謝ですねえ」
「そうですねえ。でもその子とは、もう何年も会えてないんですよ~。わたしの部活が忙しくなって、なかなか会えなくなっちゃって……」
(以下省略)
この動画を聞き終えた私は、続けて“月宮沙也加 インターハイ 結果”でネット検索をかけた。いくつかの、似たようなページがずらずら出てくる。私はそのうちの一番|オ《・》|フ《・》|ィ《・》|シ《・》|ャ《・》|ル《・》|そ《・》|う《・》なサイトをタップして流し読む。“陸上女子1500m。月宮沙也加、インターハイ決勝3位入賞”と書いてあった。
地区大会が6月。ラジオ収録が7月。インターハイが8月。それから10月に――
――私はすぐにスマホの画面をオフにして、枕元に軽く|放った。
私は仰向けになって天井を見つめていた。それから意味もなく、|天|井について考えてみることにした。暗闇にぼんやりにじみ、実体や距離感が曖昧になった天井が見える。実感はないけど、きっと沢山のものを支えているはずだ。そこにある事自体に意味があり、|家屋において欠かせないもののはずなのに、普段は決して意識されることのない存在。それは形こそ違えど、どこにでもある。どの国にも。どの時代にも。どのご家庭にも。
――良い天井だ、と思った。
……良いって何が? 色? 素材? 質感? 耐久性? 大きさ?
やがて少しずつ目が慣れてきて、天井がそこに存在することがはっきりと認識出来るようになる。これにて意味を持たない自問自答もおしまい。眠気が私の意識の上に覆いかぶさって、私を夢の世界へ連れていく準備はついに整わなかった。仕方がないので、結局、私は月宮姉妹の事を考えざるをえなかった。
今日、分かった事はふたつ。ひとつは月宮さんのお姉さんが、割ととんでもないレベルの陸上選手だったという事。そしてもうひとつは――月宮さんの言った事が真実だとして――彼女の選手生命は、およそ半年前の火災事故で絶たれてしまった可能性が高いという事。
そのふたつの事実に比べたら、いま私が頭の片隅で考えている事など、取るに足らないものだった。
あるいは月宮さんはお姉さんに代わって、何かを成し遂げたいと思っているのかもしれない。
あるいは彼女は何らかの負い目をお姉さんに感じていて、そのわだかまりの終着点があの|著しい|姉|ラ《・》|ブ《・》っぷりなのかもしれない。
あるいはひょっとして、かつて沙也加さんにいたというお友達というのは、|永良さんの事なのかもしれない。
――そう、本当に取るに足らない考えだ。こんな考えは、寝て起きたら忘れるに限る。
私は私の記憶力に期待しながら、少しずつ形を変えてやってくる|ま《・》|ど《・》|ろ《・》|み《・》のぼんやりとした|輪郭を楽しむようにして、やがて深い眠りの中へゆっくりと浸っていった。
横切る、予感。
翌日の昼休み。私がその始まりと同時にトイレに立ち、教室に帰ってくると、月宮さんの姿がどこにも見当たらなかった。
私たちは大抵の場合、二人でお昼ご飯を食べていた。今日もそのはずだった。どうしたんだろう、用事でもあったのかな? でも、そんな話聞いてなかったしなあ。
私は昼食を食べながら、月宮さんを待つことにした。自分の椅子を反対側に向けて、後ろにある彼女の机でお弁当を広げる――なんとなく手持ち無沙汰だったので、5月に行われるという生徒総会のプリントを何気なく眺めながら。
教室内の雰囲気は、月宮さんの部活見学に付き合い始めた頃とは異なっていた。見ず知らずの他人同士の交流期間は終わり、ある種のパートナーシップがいくつか提携されている。非営利を第一としたその集まりはお互いを尊重し、充分な相互理解で歓迎しあう段階に差し掛かっていた……つまり、皆シンプルに仲が良くなったという事。
当たり前だが、ここにいる全員が全員、|し《・》|っ《・》|く《・》|り《・》|く《・》|る《・》役割や居場所を見つけたという訳では無さそうだった。こうやって時が過ぎ、人と人との結び目がはっきり見えてくると、そろそろ不定形のわだかまりやお|誂え向きの確執といった“いかにもな懸念”が顔を覗かせる頃合いでもある。理由はどうあれ独りで過ごす人もいるし、集団同士の駆け引きや牽制もあった。クラスメイトの一人である松下さんという女子に至っては、最初の登校日以来、一度も学校に来ていない。
でも私はこの空間が好きだった。全国どこででも見つけられる、ありふれた高校1年生の教室。あやふやな人生における、一つの発着地点。何かが始まり、何かが終わるプラットホーム。色々な人がいて、私もその“色々”に含まれているというのは、楽しい――清々しいとすら、形容出来るほどに。
……ところで、月宮さんが全然帰ってこない。もう昼休憩も終わる時間だった。私はもう何度読んだか分からなくなった生徒総会のプリントを机にしまい、ついでにとっくに食べ終わって空になった弁当箱を片付けた。近くを望月クンが通りかかったので、月宮さんがどこに行ったか訊いてみる。
「あぁ月宮さんなら、昼休みの始めの方で誰かに連行されてたよ。二人組の女子に担ぎ上げられて、強制的に」
――誘拐されていた。
教えてくれてありがとう望月クン。君は成し遂げた。
それから午後の授業を|凌ぎきり、ホームルームが終わると、月宮さんが勢いよく私に話しかけてきた。
「ごめんなさい! ちょっと行かなきゃいけない所があるの! 今日は先に帰ってて!」
うん、分かった。また明日ね――と、私が言う間もなく、彼女は|白煙を上げて教室から走り去っていった。
……月宮さん何かあったのかな? 午後中ずっと、一人でなんか顔赤くしたり青くしたり多忙そうだったけど。
心配になった私は急いで彼女の後を追う事にした。だが遅かったらしい。私の出来る範囲での高速の帰り支度と身支度程度では、彼女に追いつけなかった。慌てて教室を飛び出して廊下に|躍り出た時には、既に彼女の姿はどこにもなかった。やはり、私程度では彼女に匹敵しないという事か。
仕方がないので、私は当てもなく様々な所に足を運んだ。ローラー作戦。視聴覚室、理科室――鍵がかかっていて開かなかった。調理室、美術室――どちらも外から覗き込んだ程度だが、部員しかいなかった。体育館、グラウンド――いなかった。
……もうやめた。意志薄弱。何とでも言うがいい。あわれこのロードローラーは耐用年数ギリギリだった。おまけに細かい所の部品が既に生産終了してたり、互換性に乏しかったりで、交換もままならないまま駆動し続けた後期高齢者なのだ。期待すべきではない。私は一人でふてくされて、中庭にある自販機に向かった。それからカルピス・ウォーターを買って、その場で一気飲みした(嘘。むせた。半分しかいけなかった。畜生)。
残りを|や《・》|っ《・》|つ《・》|け《・》たら帰ろう。私が自販機前でまったりしていると、左手側から妙な集団が走ってくるのが見えた。見覚えのある顔ぶれだった。SCP部(だっけ?)だ。彼らはもれなく奇妙な出で立ちだった。
無造作ヘアの男子は、制服にサンタクロースの帽子と白く豊かな付け髭という格好。右手にペットボトルロケット、左手にカイトシールドを装備していて、第一印象は”盾受け前提の軽装”だった。もう一人の男子――昨日、月宮さんに|鉄山靠でくしゃくしゃにされた奴――は、上半身にバーテンみたいなベストと真っ赤なネクタイ、下半身は緑ベースのチェック柄スカート。さながらスコットランドのキルトの成り損ないみたいな身なりだった。こやつも所持品として、「小田原」と書いてある|腰丈くらいある|提灯を両手で抱え込みながら必死に走っている。部長らしき青髪の女子は|浅葱色のチーパオを着て、その頭部はルカリオの着ぐるみ帽子で覆われていた。もう一人の女子に至っては、キングダムハーツの13機関の|あ《・》|の《・》|ア《・》|レ《・》を着ていた。それから――
まるで一瞬の出来事だった。私はこの現象を理解しようと懸命に努力したが、私の理解が追いつく間もなく、この奇妙な団体はそのまま|何処へか駆け抜けてしまった。
目の前を横切った非現実的な案件に、私は頭が空っぽになった。情報量が多くて整理が追いつかない。何なら自分が何を見たのか、その大部分をもう忘れかけていた。たった10秒前の出来事なのに、早くも“思い出”になりかけている。落ち着いて、彼らの様子を思い出そうとした。自分の脳が、今の光景を想起するのを拒否するのを感じた。絶対に違うはずなのに、私の記憶からはバグパイプの音色とモンスターボールと、ミッキーマウスを|象ったキーチェーンという漠然とした、記号的な何かしか思い出せない。
それから少しして、スーツ姿の先生の一人が、息も絶え絶えで、SCP部がやってきたのと同じ方向からやって来る。彼は汗だくになりながら私の目の前で膝に手をついて呼吸を整え、やがて追跡を諦めたのか、そのまま|俯きながら無言でトボトボと帰っていった。
時間が経って平静を取り戻してくると、ようやく記憶がはっきりしてきた。どれもこれも馬鹿馬鹿しかった。ただ私が一番信じられなかったのは、その記憶の中に、あきれ顔で一団の|殿を務める月宮さんの姿があった事だった。
「月宮ならあの部活に入ったみたいだよ」と、いつの間にか背後でコーラを飲んでいた永良さんがぼそっと言った。
「多分、無理やり。さっき|帰|り《・》|し《・》|な《・》に見たけど――うちの担任にあの青い髪の女子が、月宮名義の入部届け出してた。んで、ちょっと尾行したら階段の踊り場で、そいつと部員の女子とがなんか密談してた。文書偽装がどうとか筆跡模倣がどうとかって、さ」
……マジかよ。これでこの物語はおしまい。あまりにもあっけなさ過ぎる。私は自販機にもたれ掛かった。しなしなに|萎れて、ついに自分の存在を保てなくなりそうだったが、なんとか無事、体育座りになるくらいで留まった。
そして「あ、でも月宮さんは普通に制服着てたな。良かった」と思った。
名前のない、路地。
私はしばらくの間、体育座りでうずくまったままでいた。遠くから吹奏楽の楽器の音や運動部の掛け声なんかが聞こえ、雑多に混じり合ったそれらはしかし、親しみ深い活気に満ちた合奏となって私の耳を心地よく震わせた。私はその音色に耳を傾けながら、あの愉快な人たちがどんな部活動をしているのか、想像してみる事にした。
あの無造作ヘアの男子は、きっと主人公に抜擢されるようなタイプだ。「やれやれ」とか「全く、こいつらは」とか悪態を付きながら、語り部を任されるような人物。語り口はもちろん、一人称。彼は次から次へとやってくる、ヒロインや周りの人たちのとんでもない要求や提案に、まんざらでもないため息をつきながら振り回され続け、やがていつかは本当の問題に立ち向かわなくてはならなくなるのだ。
次に私が思ったのは、小田原提灯を大事そうに抱えていた男子の事だった。何となく私は、彼にお調子者キャラっぽい印象を受けた。きっと無造作ヘアの悪友ポジションなのだろう。そして物語の中盤なんかに、彼の不注意な言動や行動が原因で、話の筋が|捩れがち。けれど、いよいよ最終盤。難問にぶち当たり、手詰まりになるSCP部。しかし彼の独創的な視点や、一見して無意味に見えた過去の余計な行動なんかが思わぬ解決策として立ち上がり、あっと驚く展開を見せる――そんな役割の、愛すべきお調子者。
それから、青い髪の女子――言動から予想するに、彼女が部長だろう。このいじらしい部活を立ち上げた張本人にして、最大のキーパーソン。常に問題を持ち込みたがり、周囲を巻き込んでいくタイプのトラブルメーカーだ。やがて無造作ヘアとは並々ならぬ因縁が出来あがり、初めこそお互いを認めていなかったものの、何かのきっかけで急接近。やがてかけがえのない、切っても切れない腐れ縁となっていく。そんな話を想像した。
最後に後輩らしき女子。彼女は――何か妖しげな雰囲気を放っていた。色々な意味で只者ではなさそうだった。なんかこう……あれだよ。青髪の女子に惚れ込んで、憧れでも抱いてる、的な。
……なんだか適当になってしまったが、私の中に彼女の情報があまり蓄積されていないことに気がついたのだ。まあ、13機関のコート着てたし、きっと|元闇の住人とか名前が無い人とか、そういった類の中二キャラなんじゃないかな? 分からないけど。
そして見事、彼らの一員となった月宮さんの事も考えた。遭遇した昨日の今日ですぐさま勧誘(脅迫? 真相は分からない)を受けたということは――用心棒? あの大武辺者っぷりを買われて、腕力枠として目を付けられたのかもしれない。
そもそもの話「地域問題解決の為の部」は普段、どんな事をしているのだろうか。|字面通りなら、近隣住民のお悩み解決とか、住宅需要の減少に伴う空き家問題とか、路線の間引き運転問題とか、雇用問題とかそういった地域問題に首を突っ込んでソリューションでも提案するのだろうか。それともこれはあくまで“かこつけた”だけであって、本当は街を|脅かす、未確認のクリーチャーとでも闘ったりするのだろうか。それなら月宮さんはピッタリだった。火力担当、あの4人だけだと足りてなさそうだし――
私はこの街の行く末に、一抹の不安と少しばかりの希望を感じながら、ゆっくり立ち上がった。|永良さんは、まだそこにいた。ちっこいから私が立ち上がると一瞬、視界から外れそうになる。
「おかえり」と、彼女はニヤリとしながら肩を|竦める。
「それにしても、ずいぶん飛躍したねえ」
「……え、な、何が?」
私は少したじろいで後退りした。
「月宮だよ」
私はちょっと考えてから、「あぁ、そっちか」と胸を撫で下ろす。永良さんが私の反応を見て首を傾げているが、私は「いや、こっちの話だよ」と取り繕った。
私は自分の事――さっきまでの妄想の事――を言われているのかと思った。どうやら違うらしい。彼女のジト目を見ていると、何か見透かされているような、自分の頭の中の世界がひどく幼稚である事を、見透かされているような気分になる。なんだか無性に恥ずかしかった。
「めっちゃ顔赤いじゃんね。どしたの?」
永良さんがそう言って、せっかく|背けた私の顔を覗きに来る。私はごにょごにょしながら「うるさいなあ」と伝えたが、無事誰にも伝わらずに、それは意味を持たない不定形の空気の塊となり、やがて空の彼方へ散っていった。私は話題の軌道修正を図る。
「――それで、月宮さんがどうしたの?」
「あいつもフツーじゃない人になってしまったよ」
彼女は小さくため息をつく。
「慰めで言ったつもりだったんだけどね」
「名前のない路地にて待つ」
「それそれ」
私は「それはどっちの月宮さん?」とよっぽど聞きたかったが、黙っていることにした。それから「あいつ“も”」という部分に引っかかりを感じもしたが、これも言わないでおいた。代わりに私はこう言った。
「どうしてそんな、もったいぶって雰囲気だけの、出来損なった格言みたいな事、言ったの?」
「もったいぶって雰囲気だけの、出来損なった格言みたいな事、言いたい気分だったから」
即答だった。それに全く物怖じしない。おまけに悪びれもしない。別に悪い事ではないから良いんだけど。
――私は“慰め”という単語を聞いて妙に納得した。かつての彼女は多分、|沙也加さんに「そんなにフツーの人になりたい?」と言いたかったのだろう。「今だって充分、フツーの人なんだから、くよくよするなよ」と。
名前のない路地なんて、どこにでも、いくらでもある。そこかしこに。あらゆる所に。あの時の沙也加さんには、友達がいなかった。やりたい事も取り柄もなかった。だから友達がほどほどにいて、やりたい部活も何となく決まって、当たり障りのない影響力を振りまく凡人に――要するにどこにでもいる、ちゃんとした、パーフェクトにフツーの人間にせめてなりたいと思っていたのかもしれない。少なくとも、唯一の友達だった永良さんの目にはそう写ったのかもしれない。永良さんの誤算は、沙也加さんの内なるバイタリティに気づけなかった事だ。発言の意図とは違い、沙也加さんはいわゆる特別な人になった。そして再び永良さんは、その意図はどうであれ、“普通人“の代表として彼女の妹である月宮さんにも同じ手招きをした――のかもしれない。
結局のところ、本当の事は分からなかった。大体、本当に永良さんと沙也加さんが友達だったのかも怪しい。何もかもが分からなかったが、でも私は例え自分の事だったとしても、割とどうでも良かった。そして多分、永良さんも私がそう思っている事に気がついていそうだった。月宮さんは――
――ここで私は、はたと気がついて少し微笑んだ。目の前の永良さんにさえ気づかれないような、静かなものだった。私は何となく、こう思った。
――さっきの月宮さんのあきれ顔、なんだか|し《・》|っ《・》|く《・》|り《・》きてたなあ、と。
「さっきから、どしたのさ? 赤くなったり笑ったり――イマジナリーフレンドにからかわれた? 私にも紹介してよ」
――簡単にバレていた。私は反撃することにした。
「さっきのは誤解じゃないかな」
「……何がさ?」
「|月|宮|さ《・》|ん《・》の事」
私は名前の部分を、嫌味を込めて強調してやった。
「月宮さんは月宮さんだよ。それに永良さんは永良さん。単なる|永良景子さん。例え、誰も知らない所で大きく変わったとしても、例え孤独に、夜な夜なこの街の平和を守るダークヒーローだったとしても」
私は手に持っていた空のペットボトルを、自販機横のゴミ箱に放り投げた。
「我々は|皆、誰もが名前のない路地で生まれ育ち、そこで死ぬ謙虚な市民! そうでしょ、|ケ《・》|イ《・》|ち《・》|ゃ《・》|ん《・》?」
私が大げさにそう言うと、ケイは一瞬、大きく両目を見開いた。いつも眠そうなジト目だったから、私は少し驚いた。が、老後の道楽でやっている個人商店の午後15時くらいの装いのように、彼女はすぐにシャッターを半分下ろして、いつも通りに客足を遠ざけようとした。そして突然、ケイは奇妙な笑い声を上げた。例えるなら、鳥の鳴き声の中でもかなり邪悪に聞こえるタイプの、そんな笑い声。私は多少引きながら、彼女の鳴き声が収まるのを待った。
しばらく経ってようやくそれが収まると、ケイは異様に平坦な|声音でこう言った。
「コンプレックスなんだ、自分のマジの笑い声」
「……本当だったら気を遣いたいけど、そんな|う《・》|ろ《・》|ん《・》|な《・》言い方だと、こっちとしてはどうしていいか分からないよ」
「どっちだと思う? どっちであってほしい?」
「どちらでも」
――そう、どちらでも構わない。だって分からないんだから。
遠くで、軽音楽部のドラムの音が響いた。時を同じくして、集団でランニングする時の、ゴキゲンな水夫みたいな掛け声が風に乗ってやって来る。耳を澄ますと、誰かが誰かを呼ぶ声がうっすら聞こえた。
「帰りましょうや」と、ケイがぽつりと言った。遠くで聞こえる雑多な音よりも、やや小さい音量。それでも|私の耳にはどうやら届いたようで、私は軽く頷いた。
中庭を去り際に、私が月宮さん達が走っていった方向を見ると、一瞬、妙に眩しくなった。校舎の窓ガラスに反射した暮れなずむ日の光が、どうやらそうさせているようだった。
END
名前のない路地にて