堕天紙

自殺表現・同性愛表現があります

堕天紙

 神山先生の顔からは血の気が引いていた。海みたいに青かった。先生のただれた表情筋はもう潮に飲まれてしまって、動く様子を見せなかった。
「赤木先生、きてください」
干上がった声で先生は言う。先生のしわ一つ一つが渓谷のように深く、痛々しくなった。教壇でナトリウムを水に入れて見せていた赤木先生は、神木先生のあまりの表情におびえて、実験なんて放ってしまって、足早に神木先生のほうに向かった。私も、正直言えば、まるで漫画のように恐怖一色な先生の表情をみて、生命的な危機を感じた。死の臭いが彼から発せられていた。ナトリウムからは白く輝く煙が昇っていた。
腹痛。
突然、声が漏れるほどの痛みが下腹部を襲った。これは珍しいことではない。それでも、なんだってこんな最悪なタイミングなのだろうか。海水に触れた傷口みたいに、アンドンクラゲに刺されたみたいに、体が一気に水になる。力が抜ける。鳥肌が立つ。思わず前傾姿勢になって、引くことのない痛みをどうにか押さえつける。息が荒くなる。もう迷っている暇はない。私は静寂と緊張の張り詰める教室で一人、倒れこむように立ち上がって、転ぶように歩いた。私の後ろで先生が私を呼ぶ声がする。でも今はトイレが私を呼んでいるんだ。ごめんなさい。

 赤いドアを弱弱しく開ける。白く飛んだ視界に人の影がある。横たわる人の影。揺れ動く視界に天井から吊り下がる物体が映り込む。なんだろう。排水関係の工事でもしているのだろうか。無視して用を足す。少なくとも、そうするつもりだった。その人影の顔を見るまでは。人影に近づくにつれて、明瞭になっていく顔の造形。黒い眉毛、つややかな長髪、首にまとわりついている。閉ざられた瞼からは、長いまつげが生えている。とがった鼻。さわやかな唇。息をのんだ。
「か、かな…?」
幼馴染が、個室のドアに向かって横たわっている。ふと、痛みが消える。天井から垂れ下がっていた物、先っちょが乱暴に切られたロープが視界を遮った。情報がニューロンを介して駆け巡った。焼ききれそうな脳みそを必死に持ち上げる。
「かな?かな?」
ああ、私はこれをよく知っている。夢で何度も、何度も見た光景だ。親友が自殺する。私が取り残される。悪夢として脳にこびりついて離れない光景だ。ああそうだ、これも夢なんだ。叫び声なんて上げず、一気に脳が処理してしまう。それの整合性なんて、この際どうでもいいのである。もしこれが現実なのであれば、かなが本当に死んでいるのであれば、この世だって整合性が取れていないのだ。だから、現実であっても夢と大差がない。夢であれば、いつもこうすれば覚めてくれる。波打つ思考回路の中、とにかく悪夢から覚めるようにと一つの解決策を浮かべる。かがみこんで、かなに顔を近づける。氷に包まれた彼女を見つめる。唇と唇、鼻と鼻とが触れ合いそうになった。冷たさが産毛をたどって私にまでたどり着く。計算上では、今この瞬間、目が覚めるはずだ。毎回毎回、私たちは溶け合えず引き裂かれるのだ。でも違った。一風変わった夢だった。扉が開く。神山先生と赤城先生と、保健室の、名前も覚えていない先生を連れて。加奈の青い唇が光を跳ね返す。私の視界はまた光で真っ白になって、神山先生の永遠に黒い瞳の奥底だけが見える。黒い一点が私を飲み込んでしまう。そうか、ブラックホールとはこういうものなのか。私は今スパゲッティ状に伸びている。大人たちが話している。その言葉は遅く、遅くなって、ついには聞き取れなくなる。神山先生に吸い込まれる私は、一歩、また一歩、つめたいかなを置き去りにして、トイレから離れた。赤木先生が私を追いかけている。私は、私は。

 目が覚めた。やはり夢だったのだ。希望に満ちた視界。明るい蛍光灯。緑色のカーテン。薄いピンク色のシーツが手とこすれる。保健室である。腹痛で倒れたのだろうか。きっとそうだ。きっとそうだ。
でもそれじゃあ、なんで神山先生は顔面蒼白だったのか。かなから伝う殺意に満ちた冷たさまで、夢だったのか。燃え上がる氷みたいな唇が跳ね返した光が、まだ私の目にこびりついている気がするのはなぜなのか。
これはきっとそう。現実。数年間見続けてきた予知夢が、とうとう力を持ってしまって、現実になった。退行した脳みそ。混ぜられて吐き気のする思考回路。すべての点と点を、現実という事実が結ぶ。その時に初めて感じた、本当にこの世界に生きているという感覚。今までの夢心地ではない。ふんわりとせず、しっかりと輪郭を持った世界の端に、保健室の先生が入り込む。
「ひどいものを、みましたね」
余白の置き方が気持ち悪い先生だった。茶色い髪の毛を下のほうで結んでいる。
「なんですか」
鼻の先にかすかに残る、彼女の氷。思わず鼻の先を触る。嘘みたいに冷たかった。膝のあたりがずきりと痛む。低体温症のような痛み。骨の髄まで死んでしまったような痛み。
「前島加奈さんのことです」
前島加奈。輝く蛍光灯。私はもう何が何だかわからない。助けて。嗚咽のように漏れる言葉は、先生にはひろわれず、タイルの溝を伝って流れていく。
「かなは、しんだんですか」
「わかりません」
「かなは、しにそうですか」
「わかりません」
冷めた先生の瞳がどうも気に入らない。
「倒れたんですよ、あなたは」
「わかってます」
「加奈さんを見てから」
「そうなんですね」
突如再生される、夏の思い出。水着を着たかなは、満開に表情を咲かせて、私に笑いかけた。保健室で一人だけ、水着を着て、笑顔のかな。心臓が跳ねる。とたんに早まる心音。世界のテンポが急速に変わる。この心音はいったい何。かなはもういないのに。


 衝撃が、稲妻のように走った。爪先まで痙攣した。
「ネットの人だけど、悪くないし、それに、ほら、彼氏ほしいし」
あぶないよ、やめなよ、そんなことばは一切浮かばず、ただ、なんで。そうつぶやいた。私たちほぼ付き合ってるじゃん。こいびとつなぎして、お互いの爪を切ったりして。
「うーん、まあ、長続きはしなさそうだけど。短期的な幸福のためなんだよ。要するに。それくらい私もよくわかってるよ。」
何もわかっていないじゃないか。かなの黒い髪が途端に明瞭さをうしない、微笑でほそまった目は光すら逃さない。視線をしたにむけると、水着で包まれた胸、括れたウエスト。谷間がめにはいり、あわてて視線を上げた。
「よかったね」
感情が籠っていたかどうかなど、わからない。ただかたちだけの祝福を、私の気持ちに被せた。ティッシュみたいにうすっぺらくて小さくて、全く隠しきれていなかった。
「なにそれ、嫉妬?」
いたずらっぽくわらう彼女。核をつかれ吐血する心臓。
「いや、なんだろ。びっくり」
「なに?モテない女だとおもってた?」
「そうじゃない」
あなたがストレートなことにびっくりしてる。私のことを好きじゃないことに。なんていえるはずもなく、空白の時間が流れる。アイスクリームみたいに溶ける彼女の輪郭が、海のターコイズと混ざって真っ青になっていく。あるいは緑色に。あるいは黄色に。

 帰路で整理した情報はふたつある。
一つ、かなは死んだ。私が唇を合わせようとしたとき、彼女は既に死んでいた。鼻の頂点に残るのは、死の温度。
二つ、かなは私の知る誰にもこの計画を話していない。私にさえも。言ってくれれば心中していた。確実に。
現実感も、喪失感も、私の胃に重りをおくのに、実感できるのに、涙がどうしてもでない。もうひとりの自分が私を責める。
「非情だよねあなたって」
「悲劇のヒロインごっこ、やめなよ」
私が私を刺してくる。どろどろと流血する感情。家についてもそれは止まない。
「結局、あなたはかなを性の相手としか見ていなかった」
「かながしんで内心ほっとしているでしょう」
愚かで低俗、軽率な私。鏡にうつる私。昨日、かなへの告白を何度も練習した鏡に、意気揚々と映る私。渦をまく思考回路を俯瞰して見ている私がいる。私は、これを面白がっている。好きだった人の死。面白いイベントとして、バラエティ番組を見るように傍観している。

 バスの揺れが心地よい。頭がバスとともに揺れる。眠りを誘う微かな揺れ。まえのめりになって目を閉じる。
「瑞季、肩貸すよ」
かながそういう。それでは眠れないじゃないか。好きな人の肩に顔を乗せて眠れるはずがない。かなは分かってない。私は首をふった。
「じゃ、私が失礼します」
かなはそういうと、私の肩に顔をのせた。

 明日はきっと学校に行かないだろう。学校にはかなの影があちらこちらに張り付いている。ゆがんだ影が潜んでいる。私の足をつかもうとうずうずしている。はっと、私の前方に落ちていた影が動き出す。形が変形していく。かなの形。ひとりでに影が動き出し、ドアの隙間に、箪笥の間に、机の溝に広がっていく。かなはどこにでもいる。かなはどこからでも私を捕まえられる。加奈の美貌はどこにでも存在して、どれも嘘みたいに完璧で幻想的だ。私の影は加奈に取りつかれてしまって、加奈はそれをも使って広がり続ける。永遠に。

 人は数々の細胞の集合体に過ぎない。もっとミクロに見れば、原子、素粒子の集合体に過ぎない。そう考えてみれば、私と、足元に転がる石の間に、それほどの違いがないように思える。本質的には全く一緒なのだ。物理法則にしたがい、いつだって予想のできる範囲の行動しかしない。それでも、他人のことがこれほどまでに予測不可能なのはなぜだろう。なぜ加奈は私の肩に顔をのせているのだろう。加奈は、先ほどまでは全く眠い素振りなんて見せていなかったのに、私の肩に顔を預けてからさほど時間もたたないうちに、すっかり眠りついてしまった。あるいは、目を閉じているだけかもしれない。私だってそうするだろう。小恥ずかしくて、目を開けてなんていられないだろう。世界がすっかりまぶしくなって、目を焼かれないように、瞼をしっかり閉じるだろう。もしかしたら、加奈は私と何ら変わりないのかもしれない。同じことを考えて、思っているのかもしれない。ただ、行動に移すやり方が違うだけだ。勇気とやさしさの量が。耳元で加奈の寝息が聞こえた。私も、ゆっくりと目を閉じた。

 不気味なほど明るい自分の部屋が、突然自分のものではないように感じられた。加奈が見ている。ふと、レポートの課題があったのを思い出し、鞄を開けて、レポート用紙を。
「あっ」
ざらざらとした、そして歴史を感じる、風情のある紙きれが、鞄の中央に居座っている。口を開けた鞄の中で、ただ一枚、茶色くて古びていて、まるで虫歯みたいだ。確実に私のものではない。となると、その紙が何か、私は大方予想できてしまう。案の定、てっぺんに「瑞樹ちゃんへ」と書いてある。遺書。遺書だ。これ。

 最後まで、答えてくれませんでしたね。いろいろ、楽しかったです。私がネットの人と付き合ったとき、びっくりしていましたね。ずっと、私はたぶらかされたままでした。あなたはそれでいいと思ってたんでしょう?こうはいっても、付き合ったのはウソではありません。でも本心は前にあげた手紙の通りです。私はあなたに罪悪感を与えたいわけではないし、それにあなたが今から私が行う行動の理由なわけでもないんです。だから、どうか悲しまないで。
加奈

 五回、読み直した。何度も何度も、上から下まで、紙の端から端まで。しかし、文字たちは凍り付いているみたいに、つるつる滑っていく。私の意識の外へ。やっと、文字一つ一つに縋り付いて、舌の上で文字を溶かして、消化する。しょっぱい味が、口内炎にしみる。最後まで、私は何に答えなかったのだろう。私は彼女をどうたぶらかしたのだろう。人をたぶらかしていたのは、どこからどう見ても彼女ではないか。私たちは、だれがどう見ても両想いだった。少なくとも、私はそう思っていたのだ。毎日毎日一緒にいて、毎日毎日長く話せるようにと帰路は遠回りをし、毎日毎日手をつないでいた。それを彼女が壊したのだ。そう思っても、前にあげた手紙、遺書に書いてあるそれが脳の溝にしみこんでいる。疑惑。私は彼女から一度だけ、手紙をもらっている。そして私は、もらったその日に手紙をなくしてしまっている。もし、その中に、何かとても大切なことが書いてあったとしたら。彼女に、手紙を読んだか聞かれるたび、嫌われぬようにと曖昧な返事を返していたすべてが、この悲劇的な惨状を生み出していたとしたら。サァッと、血が心臓にすべて集まって、心臓が破裂する。体中の穴という穴から血があふれ出して、シーツにしみる。もしこれが夢ならば、あの手紙を見つけられれば覚めるかもしれない。部屋が踊りだす。私が踊らせる。机の背中、箪笥の腹、ごみ箱の足の裏までもを探す。くまなく。それでも手紙はみつからない。それもそのはずだ。手紙をなくしたとき、すでに私は気が狂ったように部屋中を探し回ったのだから。
そう考えれば、あの時の狂い方を考慮すれば、私は手紙をもらったときに気づいていたのではないのだろうか。あの手紙はラブレターの類だったということ。あの手紙には、私がずっとほしかった感情があったこと。私がどこかに置いてきてしまったその感情は、二度と手に入らないこと。
彼女がネットの人と付き合ったという話を聞いた時の、あの時の痛みは本当に失恋由来だったのか。今、やっとあの日の彼女の輪郭がはっきりと、それどころかとがって見えてくる。あのときの、自分の心臓の輪郭。罪悪感に他ならなかったのではないのか。そうだった。私は記憶から追いやっていた。なくした加奈の感情を。そして、それをなくしたと知った時の、一瞬の安心も。

 地平線が燃え上がって、オレンジ色になる。中心に光の玉がある。町の中心地を抜けると、まず最初にそれが目に入る。それから、地面を埋め尽くす田んぼ、畑。そして、加奈。遠くの山々を潜り抜けてたどり着いた夕日が、隣を歩く彼女の白い肌を燃やそうとしている。しかし、加奈の顔はきっと、燃えてしまっても完璧な美をたもつだろう。彼女の鼻先と目が光り輝いている。美しい。ずっと見ていたい。見とれていたい。横から見ると、彼女の顔はより一層美しく見える。黒い絹のような髪が覆う頬骨、ニキビ一つない純白の肌。光が揺れ動く瞳。私の視界いっぱいに、加奈が映っている。彼女以外のものを見る余裕がないほど、神秘的で幻想的だ。加奈の視界には今何があるのだろう。少なくとも、私ではない。
「手紙読んだ?」
加奈に話しかけられて、ハッと、彼女から視界を外す。遠くののっぺりとした山々に目を向ける。手紙。手紙。
「まだ。期末終わったら読む」
嘘だ。読まない。手紙は闇に葬り去った。マントルまで続く深い深い渓谷に落としてきてしまった。なぜだろう。その時は、それが適切な気がしたのだ。毎日彼女の横顔に見とれるくらいの関係がちょうどいいと。
「えー。もったいぶらないでよ」
「いや、手紙はもったいぶってなんぼ」
「これはそういうのじゃないから、もう」
彼女がぷっくりと頬を膨らます。リスみたいだ。その頬袋は、きっと私の黒々しい感情で埋め尽くされている。彼女がむさぼった感情。もうきっと腐ってしまっている。私が腐らせたような気もする。私の体のどこかにも、私が腐らせた感情があるような気がする。私は、彼女の感情を頬袋に入れておかなかった。そこまで大切にしなかった。愛ではなく、恋をしていた。

 雨が降っている。思いきり、アスファルトをたたきつけている。私の罪を、アスファルトが肩代わりしている。そう思った。雑草たちは泣いている。私のせいで、雑草という何百もの命と、加奈の命が、燃え尽きる。アスファルトを蹴った。私も、ここでもたもたしていられない。罰の号哭が骨の髄にまでしみる。あの時、私は本当になくしただろうか。彼女の手紙を。それが確実に故意的ではなかったといえるだろうか。あの時、私は自ら後ずさったのではないのか。それで、部屋について初めて事の重大さに気づき、罪滅ぼしのように部屋をひっくり返した。そこに手紙がないと知っているから。忘れていた映像が深淵から浮かび上がってくる。その日も、ずいぶんと雨が豪快に降っており、加奈は過ぎ去っていく雨粒の影によって、より一層美しく、神聖に見えた。彼女が両手を添えてその手紙を渡したとき。私の気持ちの正体にどうしても気づかなければいけなかったとき。それは、ほぼ無意識によって引き起こされた動きだった。加奈が教室を出て行ったあと、教室の後ろにある棚と壁のある小さな隙間、奈落まで続く隙間に、私は手紙を落とした。その時一瞬だけ、感情の輪郭が見えた。私は加奈に恋なんかしていない。恋なんか誰にもできない。私は非情だから。私は自分をだまし続けることができないから。私は結局、恋のまねごとをやってみたかっただけだ。加奈を利用して。別に同性でもかまわなかった。かないそうな恋でよかった。恋する自分に、恋をしていたかった。

 まっすぐに歩くのは難しい。バランス感覚、集中力、筋力。すべてを兼ねそなえてやっと、まともにまっすぐに歩けるようになる。私はどれも足りていない。ふらふらしているというよりかは、ジグザグに歩いている。ヒマラヤ山脈みたいに。不均等に。
加奈は全てを兼ね備えている。それでも完璧にまっすぐではない。わざとかもしれない。彼女と隣り合って歩いていると、必然的に彼女の手に私の手がかすれる。そのたびに心臓が着火される。時限爆弾の時計の針が、少し進まる。
思い付きだった。握ってみようと思った。彼女はきっと気にしないだろう。それどころか、喜ぶかもしれない。私たちはきっと同じことを考え、同じことを思っている。感じる感情も一体だ。やってみれば簡単だった。かすれるリズムを分析してから、触った瞬間に手を動かして、握る。それだけ。やった後のほうが大変だった。時限爆弾がすごい速さで針を動かす。溶けてしまいそうな、雪のような手を握っているのだ。加奈の手を。加奈は嫌がるそぶりも見せず、それどころかまるで気づいていないかのようにふるまっていた。だからそれ以上は何も起こらない。恋する少女が手を握っただけ。そのはずだった。でも、加奈はいつも通りのふりをして、爆弾にガソリンをかけた。彼女は手を恋人つなぎにしたのだ。雪が自我を持って私の手を包み込む。突然手が焼ける氷みたいになって、そもそもそれが現実だということが認識できなくなった。どんどん早まる心音がうるさい。でも、正直な話加奈が積極的なのは予想外ではなかった。それよりも、心臓から広がっていく霧のようなもの。それは霧よりも黒くて有害で、ビクトリア時代のロンドンに浮かぶ、人の手によって作られた霧もどき。私の手の甲に触れる彼女の少し伸びた爪が、突然私に痛みをあたる。痛い。何が痛いのだろう。手の甲と平から入ってくる痛み、血液にすら混ざる黒い黒い痛み。ヘモグロビンにくっついて、私の体はもう酸素を運べない。一酸化炭素みたいだ。突然自分の死が目前にあるような気がして、手を乱暴に離した。同時に、すっと霧が晴れて、正常に酸素が運ばれるようになる。手はもういたくない。安心と同時に、どれほど罪深いことをしたかに気づいた。好きな人と手をつないでいたはずなのに。恋人つなぎをしたはずなのに。ああ、あの時の加奈の目には何が映っていただろう。私だっただろう。ひどく困惑した表情の私だっただろう。自分の恋にすら自信が持てなくなった私だっただろう。

 あの時、正しいと思っていた感情の輪郭は、幻覚だったのだろうか。もしも幻覚じゃないのなら、私はなぜいま、必死になって学校に走っているのか。街灯の明かりがつき始める時間に、空が色あせていくこの時間に。走ってはいても、永遠に目的地にはたどり着けないような感覚に陥る。道が毎秒伸縮し、曲がりくねり、ついには突き当りがうずを巻き始める。アスファルトの溝に潜む加奈。排水溝から私を見つめる加奈。街灯の形をした加奈。加奈が世界にいたずらをしている。それでも、私は体が覚えている方向に足を進める。走っているのか、歩いているのか。浮いているのか、沈んでいるのか。まちがっているのか、正しいのか。今の私にはどれもわからない。
「わすれものかい」
ハッとして顔を上げる。校門の隣に立つ増田先生が私にそう聞いている。
「はい」
私の返答した声は、叫んでいるようだったし、ささやいているようでもあった。走れ。走るんだ。走って、あの教室に住み着く加奈の巨大な亡霊を、感情にとらわれた化け物を開放するんだ。そして私はそれを咀嚼して、消化して、排出する。棚と壁の間の溝。二ミリにも満たないその溝に、すべてが詰まっている。棚の一つに足をかけ、棚によじのぼる。教室に人はいただろうか。もうこの際世間体なんてどうでもよくて、溝に視線を送る。額を棚につけて。
ある。あそこに。
一部だけ、とくに影が暗くなっているところがある。私は針金をポケットから取り出す。ずいぶんと長い針金だ。昔フィギュアを作るときに買ったらしい。溝に針金をさしこむ。五十センチほど差し込んだところで、左右に針金を振る。何かが針金に触れた。感情の核心に、冷たい針金が。針金を斜めにしたまま上に持ち上げる。しばらくして、白い封筒が、闇から姿を現した。

 ほこりまみれの封筒は、素敵な色をしている。灰色に包まれたあどけない白い封筒。私は、蝋で封じられた封筒口に指を差し込み、びりびりと封筒を破いていく。深紅のカードが姿を現した。血みたいだった。あるいは、それは本当に加奈の血だったのかもしれない。封筒との色合いが白血球と赤血球みたいだ。無地のカードをひっくり返す。

瑞樹へ
私は正確な手紙の書き方を知らないのでラフに行かせてもらいます。
私はあなたが好きです。
友情ではありません。恋愛的に。そういう意味で。
ですから、明日、お返事を下さい。
加奈

焼ける手紙。白い文字。予想通りの結末。私は知っていた。あの日深淵に送った手紙は、もう二度と、もらった時ほどきらめくことはない。今のように、どれだけあがいても。滲む世界を見つめ、手紙の赤が深まっていった。髪から滴る水滴のせいだったのか、目からあふれる感情のせいだったのか、私にはわからなかった。

 彼女はすらっとしていた。名前すら知らない彼女を、私は一日中目で追っていた。肌がとても白かった。目は真っ黒だったが、深みがあった。感情に埋まった瞳ではなかった。彼女の瞳の奥をとらえたかった。彼女の深層にある感情はいったい何なんだろう。言い換えれば、目で追っていたのは純粋な好奇心由来だった。クラス替えで、今年こそは友達を作ろうと意気込んでいた私は、好奇心と世間体の両方を取ろうとした。端的に言えば、私はありったけの社交力を使い果たして彼女に話しかけた。
「こんにちは」
突然、教室の反対側に座っている根暗な女に話しかけられたとき、彼女は何を思っただろう。今思い出しても、奇行以外の何物でもない。しかし彼女は優しいから。私はきっとそれを見抜いていて、それに甘えるときめていたから。彼女はふんわりと笑って挨拶を返してくれた。彼女の笑みは、春そのものだった。彼女の顔を構成する雪が少し溶けて、その奥から新緑のように純粋な表情が生えてくる。彼女は春のいいとこどりだった。花粉症もなくて、蜂もいなかった。完璧な理想像だった。
「お名前は」
私が最初に名乗るべきなのに、彼女はそんなことまったく気にしない様子で答えてくれる。完璧だ。完璧。すべてが。
「加奈っていうの。前島加奈」
「なるほど。か、前島さん」
突然彼女と初対面なことを忘れてしまいそうになった。昔からの幼馴染なような気がした。加奈ちゃん、と言いかけて前島さんに言い直した。背景が私を残酷な現実に連れ戻すから。
「あはは。加奈でいいよ」
そんな、私にとってはそれなりに心の深い部分で起こった葛藤を加奈さんは見透かすみたいにそういう。
「加奈さん」
「そうそう。そっちは?」
「後陸瑞樹です。後ろに陸ってかいて、ごりく」
「苗字、正反対じゃん」
加奈さんは笑う。新緑が深さを増していく。頭に雪解け水を載せた新緑が。それから、私たちは他愛もない話をした。全く中身のない話だった。どうやら、加奈さんは私と同じく暗いほうの人らしい。加奈さんは小学校高学年の時にこの田舎に越してきたらしい。その前は東京にいたらしい。加奈さんはここが好きらしい。完璧だ。彼女も私もお互いの過去を知らない。お互いの真髄が組み立てられていく光景を見たことがない。この組み立てる工程というのは、基本的に最悪な見た目をして、最悪な音を発し、最悪な形をしている。だから、それを見てしまうと、お互いを理想化することができなくなる。私は、理想像を彼女に当てはめている。彼女にかぶさった理想という布は、彼女のいやな部分を全部隠しておいてくれる。友達になれそうだと思った。友達以上になれそうだと思った。今までずっと、非情に、無関心にを貫いてきた。どちらかを欠くと傷つくからだ。ハリネズミのジレンマと同じだが、私にとって、皆の針は尋常じゃないくらい長い。私のだってそうだろう。だから、皆よりもいつだって一歩引いて、近づきすぎないで。近づけばいつかは遠のかなければいけないから。でも、その時の加奈さんの針だけは短く見えた。確かに針はあるが、相当近づかないと刺されない程度だ。それじゃあ私もそれに倣おうと思った。その晩は自分で自分の針を削った。加奈さんのために。加奈さんを傷つけないために。

 もう一度だけ、彼女に会いたい。彼女に謝りたい。手紙を持ったまま、黒い窓枠で切り取られた世界の片りんを見る。オレンジ色は地中に沈み、赤紫色が遠くの山々を輝かせている。太陽は消えた。加奈が消してしまった。太陽にも謝らなければいけない。地球は間もなく今の軌道から抜けて、寒くなったり熱くなったりして、暗くなったり明るくなったりして、ちょっとずつ死んでいくのだ。最後に、加奈に会いたい。謝りたい。許されざることをした。できる贖罪は全く思いつかない。トイレで横たわっていた彼女が、私に残る彼女の最後の姿なのは嫌だった。彼女に会って、食べてしまいたい。死に絶えた細胞たちも、私の一部にしたい。

 叔父は、学校から二十分くらい離れたところに、倉庫のような見た目の火葬所を構えている。そこに加奈がいるような気がしてならない。一度でいい。一度でいいんだ。一口で。魔法の解けた学校から抜け出すと、また世界が加奈によって踊らされている。時間すらが伸び縮みし、あたりは突然暗くなったり明るくなったりしている。豪雨が、街灯によって可視化される。贖罪はもうできない。償えない罪を犯した。走った。私は。かすかな日光の残り香で生まれる影によって形どられる火葬所が視界に入るまで。持久走は苦手だったが、走った。

 あれだ。私が目指した場所。すべてにけりをつけられる場所。普通の施設のような面持ちをしたそれは、実際は肉体のラストリゾートだ。加奈のラストリゾートでもあるかもしれない。しかし、それはもろく非現実的な希望。最初から分かっている。あなたが死んでいた時、あなたが横たわっていた時。神山先生の気が動転していた時。あの時、私はあなたを置いて逃げた。神山先生の作り上げたブラックホールに落ちていった。違う。あれはブラックホールではない。私の想像が、私の脳が、すべての絶望をもっとわかりやすい言葉に翻訳した。そして、勝手にブラックホールを作り出し、勝手に私は無限の重力を感じた。重力のせいにしようとした。全部自業自得なのに。自分の思考に耐えられなくなった。最後の最後まで身勝手にふるまうと決断し、あなたに罪を償う最後のチャンスからも逃げ出した。あの時が最後だった。もう、この悪夢から逃げることはできない。あなたしか知らない新緑も、あなたしか知らない溶けない雪も、あなたしか知らない深淵も、全部全部あの時に終わった。もう、だれも知らない。あるいは、全員が知っている。あなたはどこにでもいるから。アスファルトの間の隙間にも、レンガの隙間にも。
火葬場の門は締まっている。深い緑の門だ。前見たときは黒だった気がする。加奈の新緑を食べてしまったのだろうか。門は開かない。開くはずもない。そんな簡単に罪を償えるはずがない。そもそも、ここにきて私はどうやって償おうと思っているのだろう。彼女にキスをして、彼女を食べて。それでどうするのだろう。私はそれでどこに行けるのだろう。彼女はもういないのだから、謝れるはずもないのに。自分口の中で溶かされていく彼女の細胞に謝るつもりだったのだろうか。死んだ細胞に。
後を追ってしまおうか。彼女が血でひいた道を歩いてしまおうか。赤い海でできた道。奥に行けば奥に行くほど黒くなっていく。その道が、今はあまりに輝いて見える。私はまた逃げることができる。また、無限の重力に乗せられて、ふらふらと。ふらふらと。
最後のチャンスだと、私は思った。
ここで逃げなければ、もう逃げられなくなる。
もう鮮明な道は見えなくなる。
加奈が私のために残してくれた道。
ああ、でも、きっと違う。
加奈はいつだって、気持ちが悪いほど私に献身的だった。彼女は私に何を見たのだろう。どうしてそんなに尽くしてくれたのだろう。私だってある程度は尽くしている自覚があった。それでも、彼女の無条件の愛には到底追いつけなかった。彼女は私を愛していて、私は、私は。
そんな彼女が、感情の波に乗せられ、死の瀬戸際に立ってはじめて、自分自身のために何かをした。この道は、彼女のため。私のためではない。血が私を拒絶している。私を逃がしてくれないのだ。最後のチャンスなんかじゃなかった。チャンスはもうずっと前になくなっていた。
それに、私はまだ死にたくないとも思う。加奈を忘れたくない。罪を、無限に広がり続ける宇宙みたいな罪を、少しずつ食べたい。もう、彼女のことは食べられないから。
これが愛だと思った。
あの時、自分にしか与えられなかった愛を、もうすべてが手遅れになってから、彼女に与えることにした。
あの時の輪郭がぼやけて、今が本物になる。
月が、今日も綺麗だった。

堕天紙

堕天紙

もう償えない罪についてです

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 青年向け
更新日
登録日
2025-03-31

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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