富士のない空(後半)
この作品はやや長いこともあって、前半しか公開していませんでしたが、思っていたよりも多くのアクセスを頂いたことから、後半もここに貼らせてもらうことに致しました。2022~3年頃書いたものですが、もしご興味がわくようであれば、併せて読んでみてください。
2025.3.30
(前半の最後)
電子メール
差出人:浜村 3月24日 21時
瀬川にも連絡が行っていると思うが、ついに会社から召集令状がきた。28日、こんどの月曜だ。お互いこの週末にはいわきに戻るわけだが、俺はかなり緊張している。職責上、会社では絶対に言えないと思うので、お前にこれだけは言っておく。
俺は、帰るのが怖い。
うちは家族も一緒に戻るけども、瀬川はどうするんだ? 奥さんが元々いわき市と縁がないんだから、無理に連れていくことはないと思うぞ。俺なら絶対子供を実家に残す。
唯一の楽しみは、お前と飲めることかな。話したいことはイヤなほどある。この週末は家で地震の片付けがたくさんありそうだから、来週末か、どこかの平日でもいい。
お前と、いわきで会おう。
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(後半)
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10 東京
以前は平気で渋谷を歩いていたものだが、久しぶりの雑踏は瀬川を困惑させた。放射能を気にして早々に帰宅する通勤者も多いが、それでも夕暮れの街にはまだ人が残っていた。行き交う人の波に揉まれながらスクランブル交差点を歩いていると、真ん中あたりで歩行者用の青信号が点滅し始め、なんとか渡り切ったときには赤に変わっていた。
道玄坂も人は多かった。ビルや店舗の入り口には人が溜まりやすく、歩道を狭くしていた。駅の方へ歩く人たちの流れに逆らって、互いの身体をこすらせながら進んだ。賑やかな歩道を左右にくねって行き、長い登り坂の中ほどにある商業ビルに滑り込むと、ようやく人ごみから解放されてほっとした。
瀬川は2階へ上がって、薄暗いアイリッシュパブの店内を覗いた。数組の客が談笑をしていたが、友人はまだ来ていなかった。瀬川は中のカウンターに行き、よく冷えたコロナビールを買った。アイリッシュのビールではないけれど、待ち時間にはちょうどいい軽さだ。小さな瓶を手にし、道玄坂を見下ろすバルコニー席へ出て、背の高い椅子に腰を落ち着かせた。テーブルや椅子が普通より高く、身長がある瀬川でも床から足が離れたが、椅子の足に付いた横棒に靴を乗せると案外楽に座ることができた。
小瓶の口に刺したカットライムを指で押し込み、液体から出る小さな泡を確かめてから、瓶を傾けてそれを口に含んだ。爽やかな香りが心地よく広がった。
【テツ】3月25日 17時56分
今日は東京に避難をしている友人らと会うため、渋谷に来ています。
私は明日、仕事でいわきに戻ることになりました。原発に対する心情はいろいろありますが、やはりみな一様に恐れています。まだ何かあるかも知れない危険な所へ、できることなら私も行きたくはありません。帰るのは怖いし、とても緊張しています。
瀬川は送信すると、やっと使い慣れたスマホをテーブルに置いた。
空は金曜の夕闇に包まれようとしていた。東京の街は原発事故による節電に協力して、いつもの賑やかな屋外照明や看板のライトアップがほとんどなく、店舗も18時で閉めるところが多かった。瀬川がいるパブは20時まで開けていたが、照明を減らしていつもよりも暗くしていた。
瀬川も放射能は気になり、屋外に長くいるのには抵抗があった。しかし今は、このバルコニーから道玄坂の様子をしばらく見ていたかった。目の前がT字の交差点になっていて、普通車や大型バン、高級車、トラックなどが混みあいながら走り過ぎ、信号が変わると長い列を作って止まった。するとこんどは歩道に溜まっていた人が、群をなして信号を渡って行った。いろんな年代の、いろんな髪型の人が、いろんな服装で、いろんな速さで歩いていた。みんな帰宅するのだろうか。どんな目的で、どこへ行くのだろうか、一人一人にどんな人生があるのだろうかと、瀬川はぼんやり想像したが、考えきれないほど多くの人が過ぎて行った。やがて信号が変わり、車が流れ出した。いつもより暗い渋谷を見ていたら、ここが東京ではないどこか別の国に自分がいて、その街を行き交う異国の人々や車を見ているような錯覚がしてきた。電力不足で計画停電をしている区域がいまもあるが、なぜか遠い夢のように思えてきた。地震や津波、原発事故から心が離れて安穏とした気持ちになり、やがて緊張や不安から解放されていった。このまま時間が流れてくれたら、どんなにいいだろうか。
そのとき地震でテーブルと椅子が揺れて、現実世界に引き戻された。地下の魔物が、心の奥でまたうごめいた。東京にいても毎日余震があり、そのたびに3月11日を思い出して、人知れず胸の鼓動が早くなった。いまのは震度2程度だろうか。たぶん震源は東北のどこかだろうと瀬川は思った。
2週間前の地震は全てを変えた。あの大きな地震がなければ、一昨日が出資者をいわきへ迎える会社のイベントだったのだ。それが終わって週末を迎え、今はほっとしている頃だっただろう。ところがこうして東京の街にいる。地震の前には想像もしないことだった。
こんどは、いわきへ帰らねばならない。明日の夕方には社宅に着いているだろう。仕事のため、家族の生活のためとはいえ、いわきへ戻るのは瀬川も怖かった。「私たちも一緒に帰る」と美和は言ったが、瀬川が止めた。「安全が確認できるまでは、子供と一緒に愛知にいてくれ」浜村に言われたからではない。そもそも、瀬川の妻と子供が愛知にいることをまだ話していないので、いまも横浜にいると浜村は思っているはずだ。「いつまで?」と美和がきいた。「いまは、わからない」
いわきでは水道や電気などのインフラが復旧しつつあった。しかし依然として通常よりも高い放射線量が報告されており、それが将来にわたって健康にどの程度影響するのか、誰にもはっきりとは分からなかった。原発もまだ安定な状態ではない。原子炉の中で何がどんな状態なのか確認できないから、3回目の爆発がいつ起きるとも分からなかった。食べ物等についても、政府が「ただちに影響はない」と言っているが、鵜呑みにしていいのかどうか誰もが迷うところだった。実績データがないので、本当に分かる人はいない。本当に分かるのは数十年後かも知れない。今の政治家はもういないだろう。そのとき生きているのは子供の世代なのだ。 ――自分はいい。自分はいいが、家族や子供だけは守ろう―― 瀬川は虚ろな目をバルコニーの外に向けたまま、何度も繰り返した同じ決意を、また頭の中で反芻していた。瓶に着いた水滴がいく筋か落ち、コースターが濡れた。
――テツ、遅くなってゴメン
ダニーの声が頭に入ってきた。振り向くと入り口の方から歩いてくるエレナとダニエルが目に入った。不思議なことに、ダニエルが英語で言ったのか日本語で言ったのか、もう思い出せなかった。
『やだ、こんなところで飲んでいるの! 中へ入りましょうよ』
エレナが叫ぶように言った。
『外は寒いしな』
『そういう問題じゃないでしょう。放射線よ放射線』
二人の英語のやり取りを聞きながら瀬川は椅子から降り、一緒に部屋の中のテーブルへ移った。
エレナはカウンターでビールをもらうと、太った身体を運んで、泡のこぼれそうなパイントグラスを慎重にテーブルに置いた。ダニエルと瀬川もじぶんのパイントグラスを前に置いた。
『今日はダンナは?』
「シメキリよ」
瀬川の質問に、短い日本語でエレナは答えた。翻訳業だと、どこにいてもパソコンで仕事ができるのが、瀬川には羨ましく思えた。
『忙しいのは、いいことだ』
瀬川が言うとエレナは厚い肉のついた肩をすくめた。それは日本人的な発想だ、と言いたいようだ。
三人はフィッシュ&チップス、オニオンリング、ムール貝の白ワイン蒸しをテーブルに並べた。
『東京に来て1週間が過ぎたけど』とダニエルが話し始めた『自分が福島から避難してきたと言っても、たいてい信じて貰えないんだよなあ』
『そうそう!』
エレナが激しく同意して、
『日本人は、外人がそんな田舎に結構いると思ってないよね。いたとしても、太平洋に捨てた小石を見つけ出すくらい希なことだと思っている。ましてや、たまたま福島から避難して来た外国人に会うなんて、考えられないことみたいだわ』
『たしかに』
瀬川も思わず話に加わった。
『思った以上にいろんな国の人が各地に住んでいることが、僕にもやっとわかってきた。国際化って言うけど、英会話やったり、ビジネス取引をしたり、海外旅行に行ったり、物を買ったりするのだけじゃなくて、もっと身近な在日の外国人に対してだって、正しい認識を持つ必要があるのかもしれないね』
『そう思うよ』ダニエルが瀬川に賛同した。『海外に頻繁に行ってる日本人ですら、心が国際化してない人はたくさんいると思う。テツみたいに考えられる人が、日本はまだまだ少ないんだ。この東京ですらね』
『ちょっと待ってよダニー』エレナがオニオンのフライをちょっとだけかじって言った。『アメリカだって言えたもんじゃないわよ。そういう意味だったら、人種差別の問題が解決されなくちゃ、本当に心が国際化されたって言えないんじゃないの?』
『全くだね』ダニーは真顔であっさり同意した。『アメリカも、まだまだだと思う』
『似たような問題は、どこの国でもあるのかも知れないね』
と瀬川がムール貝を小皿に移しながら言った。
『でもテツはよく分かってるわ』
エレナは瀬川を褒めた。
『俺はまだまだだよ。アケミさんやカオリさんなんかには、全然適わないな』
瀬川は本当にそう思っていた。
地震でわずかに揺れて、会話が一瞬だけ途切れた。揺れが無くなるのを待ってから、エレナが話題を変えた。
『テツは明日いわきに帰るのね』
『帰るよ』
『怖い?』
『正直怖いさ。仕事がなければ行きたくはない』
するとダニエルがパイントグラスを静かに置いた。
『僕も怖いけど、いわきに対する思いもあって、やっぱり戻りたい気持ちになっていたんだ』
『正気なの?』とエレナ。『でも本当に戻る気なんてないでしょう』
『実は、来週ユージが行くから、車に便乗させてもらおうと思って、連絡をしてあったんだ』
『戻るつもりなのか』
瀬川は少々驚いた。
『ところが、家族の事情でこんどは急遽、行けなくなってしまったんだ。とても残念に思っている』
『いったい何があったの?』
とエレナもパイントグラスを置いた。
『昨日連絡があって、4月上旬に父が手術をすることになった。助からないかもしれないし、運よく助かっても当分病院暮らしになるらしい。僕は来週アメリカに帰国して、しばらく日本には戻って来れなくなると思う』
あまりのことに、瀬川もエレナも少し沈黙した。震災から恋愛問題、父親の病気とダニーの周りに問題が集中し過ぎだ。
『急だな』
瀬川が口を開いた。
『そう、僕も驚いたけど、こればかりは、どうしようもない』
『気の毒だわ』とエレナ。
『ありがとう。でも、その前に行くところがあるんだ』
『宇都宮か』
瀬川がすぐに反応した。
『そう、宇都宮。明日行ってくることにした』
工場の再開で、カオリも土日にいわきへ帰るはずだ。宇都宮で会える最後のチャンスだろう。
『そうそう、それなんだけど、恋敵の件はいったいどうなってるの?』
エレナも飯山のことをすでに聞いているようだった。
『飯山とは一回会っているらしい。カオリはランチを食べただけだと言っているよ』
『ランチを食べただけ? そんなの信用するの!』
エレナが声を荒げた。さらに瀬川に向かって、
『ちょっと、テツ! 何とかしなさいよ。あなたの会社の人でしょう』
『何とかしてと言われても、俺は関係がないから、どうしようもないなあ』
『どうしようもないって、どういうことよ!』
エレナが興奮して早口でまくしたてた。
『カオリの恋人はダニーなのよ。そのイイヤマとかいうヤツに、ガツンと言ってやりなさいよ、ガツンと』
『いや・・・俺が口を出すことじゃないだろう』
『なんでよ。テツはいったい、どっちの味方なの!』
『・・・どっちでもないよ。カオリさんにも話を聞いてみないと、いまは何とも言えないしなあ』
何で自分が板挟みになっているのか、訳が分からなくなった。するとダニーが口を開いた。
『飯山のことは、もういいんだ』
落ち着いた口調だ。
『僕は明日、宇都宮でカオリにプロポーズをする』
エレナが目を丸くして、ダニーの顔を穴が開くほど見詰め返した。少しして、瀬川自身も同じ顔をしていることに気づいた。あまりにいろんな話が一度にあったのだ。沈黙のあと、こんどはエレナが先に口を開いた。
『そうね、応援するわ。カオリがあなたを選ぶかどうかのジャッジメントね』
『私も応援するよ。きっとうまくいく』
『ありがとう。でも、すぐに返事をもらうつもりはない。とにかく僕の気持ちを伝えるよ。僕はアメリカに長く住むことになるかも知れないし、もしかしたら父の農場を継ぐことになるかも知れない。カオリには大きな決断になるので、ゆっくり考えて欲しいんだ』
ダニーが言うように即答できる話ではないが、それでも瀬川は、カオリがダニーの元に行くような気がしていた。今ならいわきを離れる積極的な理由はあるし、何よりダニーの心の大きさと誠実さを信頼して、寄り添って行くにに違いないだろう。
それに、飯山との浮気が多少あったとしても、カオリが本当に飯山を好きになるとは思えなかった。飯山は少し子供っぽいところがあり、カオリには幼すぎるのだ。きっと今頃はカオリも気づいているに違いないと瀬川は思った。
11 暗雲
【ミワ】3月26日 13時
愛知には日常の時間が普通に流れていて、東日本で起きている混乱が嘘のようです。日本国内の遠い地域で大災害があったことは語られていますが、やや他人事のようにも感じます。
関東や東北にいる人に少し申し訳なく思ってしまいますが、お陰で子供たちは、にこやかに過ごしています。笑顔を絶やさず、穏やかな生活が少しでも長く続くことを心から願います。
――いいね44
首都高速を抜けて三郷料金所を通過すると、瀬川はいよいよ緊張した。周りには一般車両の他に、自衛隊の装甲車やジープ、被災地へ重機を運ぶ大型トラック、原発事故処理に使う機材を積んだ車両などが同じ方に向かって走っていたので、被災地へ行くのだということを嫌でも意識した。
常磐自動車道はすでに通行止めを解除していたが、修繕が完遂したわけではないので、みな様子を見ながらゆっくりと走っていた。ところどころ路面が大きくうねったり、継ぎ目に段差があったりした。
中でも高萩付近にある段差はかなり大きなもので、下り方向の車線では下から上へと登らなくてはならなかった。遠くからだとよく見えなくて、最初は何か横線のような模様が近づいてくると思ったが、それが大きな段差だと気づいたときには、もう驚く間もなく目の前に迫り、瀬川は反射的にアクセルから足を離して、ハンドルがぶれないよう握り締めるしかなかった。時速80キロ程度のスピードのまま惰性で乗り上げ、ドスンと鈍い音をたてた。高さ20センチ近くもあるだろうか。足回りが痛んでないか気になったが、車は異常なく走り続けた。
瀬川は実家を昼過ぎに出て、夕方前にはいわき中央インターに着いていた。2週間前、いわきから東京まで避難したときにかかった時間が嘘のようだった。
一般道へ下りると、40キロ余り先にある第一原発の方角の空を恐る恐る見上げた。この当時、原子炉内の状態が詳しく分かっておらず、政府や電力会社の対応にも不信と不安が高まっていた。状況が完全に収束しない限り、また新たな事故が発生するかも知れないという思いが、多くの人の心を支配していた。
2週間ぶりのいわきは、なんだか静かで不気味に思えた。この当時、晴れた日もあったはずだが、記憶の中ではどんよりした雲がいつも大気にのしかかり、張りつめた空気をさらに重くしていた。目には見えていないが、1号機と3号機がばら撒いた放射性物質がいたる所に付着しているはずだった。
どこにも寄らず、真っすぐに社宅へ車を走らせた。途中の家々では多くの瓦屋根が破損しており、青いビニールシートを張って雨風を凌いでいるのが目立った。自宅に着くと、駐車場の横で斜めになっていた電柱は、いつの間にか真直ぐに修復されていた。エンジンを切ると、静けさが寂しさを増した。
鍵を開けて冷たいドアノブを回した。部屋へ入ると、中はあの時のまま物が散乱していた。萎える気持ちを振り払って、持ってきた水や食料品、消耗品などを中に運び込んだ。クモの巣を払い、散らかった物を集め、割れた容器を拾ったが、キリがないのでいったんやめた。水道はしばらく止まっていたはずだが、社宅があった地域は運よく復旧を終えたばかりで、蛇口からすぐに水が出た。水をしばらく出しっぱなしにしながら、ガスが使えることを確かめた。電気もついた。ほっとしてテーブルの椅子に座り、ペットボトルのお茶を飲むと、小さな余震で家具が揺れた。自分の鼓動が早まるのを感じた。
揺れが落ち着いてから、片付いていない部屋を見てまた気持ちが萎えてきた。いつも居るはずの美和も広美も一毅もいなかった。壁も柱も窓ガラスもすっかり冷え切っていた。暖房を入れたのに、なかなか暖まらなかった。
余震は小さいものも含めて頻繁にあった。夜冷たい布団に入ると、たびたび小刻みな地震を背中で感じ、瀬川の心の中に潜む魔物がまた疼き始めた。眠っていても不安な気持ちに囚われ、震度2程度の揺れがあると、目を閉じたままで目が覚めた。震度4くらいになると、目をあけて壁の時計を見ながら布団の中で祈った。そいつは暗闇で、まだ次の機会を狙っているように思えた。
3月28日月曜日の朝、東亜ベアリングの数百人の従業員が既存工場西門付近に集まってきた。大地震の直後に全員が集合した同じ場所だ。瀬川は多くの社員の間を歩いて、自分の部署が集まる列を探した。一度浜村とすれ違って、「おう」「またあとで」という短い挨拶をした。親しげな表情はなく、職責を負った課長の顔をしていた。
瀬川が列を見つけて並ぶと、すぐ目の前に青木がいた。「瀬川さん、おはようございます。どうしてました?」「おはよう。横浜にいたよ」「僕も自主避難をしていました」「とうとう帰ってしまったな」「そう、帰ってきてしまいました。線量もまだ高いし怖いですよね。それにいつまた、ポンと爆発するか分からない」そこへ後ろから飯山が話に入ってきた。「その時はその時で逃げるしかないですね」「そうならないことを祈ろう」
本当に祈るしかないと瀬川は思った。
工場長が壇上に上がると、数百人の乾いたざわめきが徐々におさまって、視線が壇上の太った身体に集まった。
「おはようございます。今日みなさんの元気な姿を見ることができて、本当にうれしく思います」
スピーカーから耳障りなハウリングが響いた。工場長はいったん言葉を止め、総務スタッフがあわてて音量ツマミを調整するのを待ってから、また大きな声で続けた。
「17日前、私たちは類を見ない大災害に見舞われました。そのことをいま説明する必要はないでしょう。お住いによっては、半壊や全壊、津波被害などの大きな被害を受けた世帯も聞いています。私たちは共にこれを乗り越えて行かなければなりません。家族や自身の生活を守るため、ここに集まった我々が協力していくことも、職場を共にした仲間の責務だと私は思っています。お互いが助け合い協力していくことを、いまは第一に考えていきましょう。
そして我々には生活もあります。生活を支えるために、我々は仕事をしにここへ来ているはずです。この会社を、この工場を立て直し、一日も早く生産活動を回復して、社会に寄与することが我々の勤めであり、それが震災に打ち勝つことでもあります。いま目の前にある事を一つひとつやり遂げて、みんなの力で前に進んでいきましょう。必ずできます。私たち一人ひとりの力があれば・・・」
このあと15分以上も話が続いた。「少し長いですね」うしろから飯山がささやくと「でも道理に適った話だ」と前から青木が小さな声で返した。最初は瀬川も集中して聞いていたが、だんだん頭が真っ白になってきた。「もうだめだ、集中できない」瀬川が小声で言うと「ぼくもです」後ろから飯山が返した。青木がくすくす笑った。途中、何度か地震で揺れた。
長い演説が結びの言葉を迎えて終わると急に意識が回復した。そのまま工場長からの連絡事項があったが、むしろこの方が瀬川の心を打った。
「・・・なお、会社はすでに水道が復旧しています。まだ水道が出ない方は、汲んで帰ってください。復旧するまでポリタンク等で持ち帰ってもらって構いません。
それから、各地の営業支部から食料などの支援物資が届いています。数に限りはありますが、必要な方はあとで取りに来てください。助け合い協力して、みんなでこの難局を乗り切りましょう」
水や食料、生活必需品の他に、ガソリンも重要だった。都心部と違って地方では車移動が中心だ。ガソリンが無ければ通勤もできないし、買い物に行くこともできず、まさに生命線と言ってもよかった。ガソリンを輸送するタンク車が、どこそこのスタンドに入った、という情報はネットやメールで飛び交い、職場にも出回った。「ガソリン足りないのいるか!」と秋山課長が言うと、一人二人手を挙げ、「すぐ行ってこい」と勤務中でも給油のための外出が許された。行くと大抵は道路にはみ出た車の行列に並ぶことになり、混み方によってはすぐに帰ってこれない人もいた。
全員に白いヘルメットが配られ、当面は製造現場での着用が義務付けられた。不安定になった構造物が落ちてきたり、強い余震で新たな損傷個所が生じ倒壊するリスクもあったためだ。震災前までは指定の布製作業帽だけかぶれば充分だった。小さい軸受部品の製造工程においては、何か上から落ちてきたり大きなものが倒れる恐れのある場所は限定されており、安全上問題にはなっていなかったからだ。
工場や事務所は、残っていた従業員ができる範囲で片付けてくれてはいたが、まだまだ散らかっていた。瀬川は初日に机回りや書棚のファイル類を整理すると、担当設備の状況を見に行った。設備や備品、仕掛品などの破損もあるが、既存工場の建屋のダメージが最も目を引いた。とくに床が沈下したため、場所によって傾いたり、うねっている床もあった。応急的に稼働するためには、全ての設備の水平状態を確認して、必要によって鉄板を噛ますなど大幅に調整する必要があった。
新工場にも行った。自分が震災にあった場所に立つと、あのときの恐怖が生々しく思い出され、めまいに似た感覚がした。3台の加工機はそれぞれの位置にあったが、どれもアンカーボルトが浮いて抜けかかっていた。あのとき取り付け作業をしていた治具も、途中のまま残っていた。床の痛みは見た目にはなさそうだったが、壁や天井の表面が剥がれ落ち、床や設備に破片が降りそそいだままだった。
そのとき余震で少し揺れた。瀬川の心拍数が上がり、呼吸が乱れた。その地震が収まった後も、足もとがまだ揺れているような錯覚がした。
2日目から瀬川は、飯山と一緒に担当設備の復旧に当たった。新工場の前に、既存工場の生産の再開を最優先とした。一台ずつ破片や埃を払い落とし、電源が起動するか確認し、破損個所や動作の確認、レベル出しなどをした。それらが終わってもまだ、破損の修復や機台ごとの加工の条件出しなど、やることはたくさんあり、夜遅くまで仕事をしていた。
疲れて真っ暗な家に帰ると、部屋の電気と暖房のスイッチを入れた。風呂のお湯を入れながらテレビをつけると、通常番組は自粛していたので、震災報道とACジャパンのCMばかりだった。横浜にいたときから数パターンの同じCMを繰り返し見ていたので、そのメロディと「エ~イシー」のサウンドロゴが頭の中をぐるぐると回るようになっていた。そして、いつかそれらは不安や切なさの感情と結びついた。これは瀬川だけではなく、当時多くの人が経験した共通の現象だった。昼間仕事をしている最中にもCMメロディが頭の中を回り出すことが頻繁にあり、気が変になりそうだった。
夕食は近くの定食屋かラーメン屋で済ませてきた。朝は作る元気もないので、早めに会社に行って、食堂で食べた。暖かいご飯と味噌汁、おかず一品に納豆もついた。それが瀬川にはとても美味しく、安価でまともな朝食をとれるのが真にありがたかった。
飯山には、カオリのことを一切聞かなかった。飯山からもそんな話はしてこないし、第一瀬川がその件を知っているとは思っていないはずだ。
現場作業員は設備が復旧するまで別の作業に駆り出されていたので、最初の週はカオリの姿をあまり見かけなかった。ただ一度だけ、外周路ですれ違い立ち話をする機会があった。
「テツさん」
向こうから歩いてきたカオリが瀬川の名を呼んだ。
「ああカオリさん、久しぶりに会えたね」瀬川は笑顔を向けた。「栃木に行ってたんだよね。無事で良かった」
「テツさんも無事で何よりです。横浜にいらしたんですね」
「ああ」
「ミワさんはいわきに戻って来てないんですか?」
「愛知の実家にいる。子供たちのことが不安だからね」
「そうですよね」
カオリの笑顔が少し陰ったように見えた。
「ミワさんに会いたいな」
「ミワもみんなと会いたがっていたよ」
するとカオリは何度も顔を横に振って、「居られる場所があるのなら、お子さんたちとそこに居た方がいいです」と言い直した。
その時――ごおと建物が揺れて、会話が中断した。カオリはヘルメットの下で不安な表情になり、喉と胸の間に左手を当てた。瀬川はカオリを促して、一緒に建物から離れた。地震の様子を見たが、どうやらそれ以上大きくはならないようだ。
「もう収まるみたいだ」
瀬川が言うと、カオリは震える息で呼吸を整えながら、小さく何度も頷いた。いつもの生き生きした表情はなかった。目を閉じてゆっくり深呼吸を繰り返し、ようやく平常に戻った。震災のトラウマのようなものだ。
瀬川も例外ではない。余震のたびに恐ろしくて身構え、心拍も呼吸も大きくなった。そんな事は以前なかったことで、この震災の異常さをつくづく感じさせられた。カオリも恐らく同様か、あるいはもっとひどいかも知れないと瀬川は思った。
「もう大丈夫です」
カオリは正気に戻って、少し恥ずかしそうに笑顔を作った。
「ところで、明日ユージさんが来るんだよね」
瀬川が話題を転じると、カオリは胸から手を離し、
「私、休みをとって豊間に手伝いにいきます。大したことできないと思うけど、他にも知り合いが何人か来るらしいから」
「私はいま仕事から手を離せないから、行けなくて残念だ。土曜の朝静岡に戻るっていう話だから、たぶん今回は会えないな。ユージさんによろしく言っておいてくれないか」
カオリはしっかりと頷いてから、
「ユージさん週末までいればいいのに。静岡の仕事、土日がとくに忙しいみたいだから、仕方がないですね」
「そう言えばダニーとエレナに東京で会ったよ。ダニーがカオリさんのことを、とても心配していた。たぶん前の土曜日に宇都宮に会いに行ったんじゃないのかな」
「そう、そのことで、」
カオリは何かを考えるように視線を少し落とした。
「テツさんに相談したいことあるんです。こんどの土曜日いいですか」
カオリは言いながら、大きな瞳を上げてもう一度瀬川を見た。
「もちろんいいよ」
きっとプロポーズの件に違いないと思った。普通ならアケミや美和に相談するところだろうが、今はいないので話す相手が瀬川ぐらいしかいなかったのだ。
「私、もう行かないと。あとでメールしますね」
カオリはもう一度笑顔を作って瀬川を見ると、しっかりとした足取りで去って行った。
12 相談
【ダニエル】3月31日 8時
(英語) 父の病気のため、故郷のバークレーに帰ってきました。日本のいわき市に心を残してきてしまい、とても辛い気持ちです。今後については家族とも相談し、悔いの無いよう考えていくつもりです。
――いいね32
土曜日の昼過ぎ、瀬川は小名浜港に行き、津波の痕跡と惨状を初めて目の当たりにした。倒壊した家や瓦礫はもちろん、漁船は陸地に乗り上げて横倒しになり、木の上には乗用車が1台引っ掛かっていて、信号機が曲がったまま沈黙していた。線路脇のフェンスが見える限り全て海に向かって傾き、引き波の強さを痛々しいほど物語っていた。また港内では、波に揉まれて海中に刺さった船が、その船尾を空中に突き上げていた。
車を降りて、防波堤のコンクリートに穏やかな波を打ち寄せている海面を見た。無性に怖かった。海沿いの全ての街に牙をむき、生活と命を奪って行った海が怖かった。たった3週間前にここを襲った海は、まるで何事もなかったように、冷たく知らん顔をしていた。その静けさが却って不気味だった。何かの拍子にすぐ水面が盛り上がり、ここまで襲って来るのではないかという発作的な恐怖に何度もかられた。
海沿いはどこも酷い状態だが、豊間周辺も壊滅的だった。もし誰かにそこの様子を一言で教えてくれと言われたら、街ごと全部海に持って行かれました、と言うのが適切かも知れないと思った。車を降りて、道路にはみ出した瓦礫をよけながら歩き、篠崎家のゲストハウスを探した。すぐには見つけ出すことができず、一度通り過ぎてから戻って、なんとかたどり着いた。周囲の住宅は全壊していたが、ゲストハウスは比較的新しい建物だったこともあり、聞いていた通り半壊状態だった。しかしもはや、そのまま住むことは難しかった。
ユージもアケミも、ここに戻って暮らすつもりはもうなかった。何日か前にユージさんはどんな思いでここに立ち、どんな思いであの冷たい海を見たのだろうと思った。
その日の夕方、瀬川はいわき駅近くの国道沿いにある、イタリア料理店の前にいた。パスタやピザが人気の洒落た店だが、その店に入って階段を上がると、胸下までの高さのスイングドアがあり、その奥に「イワキアン・バール」という別看板の店があった。木を張り詰めた広い床には、ビリヤードやダーツ、テーブルサッカーなどが配されており、外国人らも好んで集まった。いわき市の国際交流協会に派遣されている、若いオーストラリア人が主催するパーティがある日などは、とくに人が多く盛況だった。アケミやカオリも常連で、瀬川も何度か一緒に来たことがあり、若い店長の高橋さんにも顔をなんとなく覚えられていた。イタリア風のバールなのだそうだが、アイリッシュバーともよく似ていて、メニューがイタリア風であること以外に、瀬川は違いがよく分かっていなかった。
「やあテツさん、いらっしゃい」
瀬川が店に入ると、高橋さんがすぐに振り向いて言った。そして、
「可愛い女の子を待たせちゃいけないなあ」
と冗談ぽくにっこりと笑った。すでにカオリが来ていて、カウンターで高橋さんと話をしていた。他に客はいなかった。壁の陳列棚に並んでいたはずの洋酒のビンやグラスが消えていた。地震で割れ落ちたのか、どこかに仕舞ってあるようだ。
瀬川とカオリはカウンターでハートランドビールを頼んだ。震災で飲み物の在庫が少なかったので、限られた銘柄から選ぶしかなかった。ピザを2種類注文し、それから近くの丸テーブルに着いた。
「今日は静かだな、ここ」
瀬川が以前に来たときには、外人客や日本人で賑わっていたものだ。みんないい奴ばかりだった。この日は誰もいないので、自分の声が薄暗い店内によく響いた。
「みんなどこかへ行ってしまったんですね」
カオリが言って、
「賑やかな方がかえって相談しやすかったんですけど、何だかちょっと恥ずかしいな」
と両肩を縮めた。よく考えると、カオリと2人だけというのは初めてかも知れないと気づき、瀬川はなんだか照れくさくなった。カオリがもう一人を呼んでいたので、もうそろそろ来るころかと、入口のスイングドアに目をやった。
「ホアは遅いな」
瀬川が言ったとき、テーブルや天井の照明器具が少し揺れた。一瞬息や動きを止めて様子を見たが、震度2程度で、気にするほどの地震ではなさそうだった。カオリもホッとした表情をした。すると入り口の方から、階段をゆっくりと誰かが登ってくる音がした。スイングドアの向こうに現れたのはホアだった。ホアは細い手でドアを押しながら、
『いまの、地震?』
と、か細い声で高橋さんに言ってから、瀬川とカオリの顔を見て嬉しそうに表情を崩し、近寄ってきた。
「よぉかったー、やっと会えた。本当に寂しかったのよお」
片言ながら、日本語も上手だった。テーブルまで来ると、笑顔だったホアの、目だけが少し潤んでいるのが分かった。
『今日はお義母さんに子供を預けてきたから、ゆっくりできるの』
そう言うとカウンターに行き、高橋さんにジンジャーエールを注文した。
3人揃ってカンパイをすると、いつもは無口なホアが、おもむろに話し出した。声の調子は暗いものの、ゆっくりと途切れなく言葉が出てきた。こんなに話すホアを、瀬川は初めて見た。
『・・・それで主人が言うには、全部除染するにはかなり時間がかかるから、こういう生活が長く続かもしれないって、それは分かっているけれど、子供は外で遊ばせられないし、いつまでもこのままでいられないからって・・・・・・』
ホアはときどき涙を拭いた。カオリは相槌を打ちながら、同情したり励ましたりしていた。瀬川もカオリの相談話を後回しにして、真剣に聞き入った。家族がいない震災後の部屋へ帰ると、なんとも寂しい気持ちになるのは身をもって瀬川にも分かった。こうやって会っていると気がまぎれるが、誰もが心の中には冷たい風が吹いていた。その上友人までいなくなり、悲嘆に明け暮れていたに違いないホアの気持ちは、痛烈に伝わってきた。
『・・・被災者のためにって、主人もああいう性格だから、夜遅くまで身を削るように働くし、家はほったらかしで、私も寂しいしつらいのに、ベトナム人は真面目で我慢強いって思われているけど、いろんな人がいるのよ、それは確かに私も我慢強い方かも知れないけど・・・・・・』
この3週間の思いをすべて吐き出したいようだ。
『・・・そう、だからミワやアケミのようにしっかりした女性にならなきゃって思うの。テツもユージもいい奥さんを持ったわ。カオリだってきっと、』
そこまで話してホアは、何かを思い出したように一瞬止まった。
『そういえば、』
ホアがカオリの顔を見た。
『ダニーがアメリカに帰るって聞いたんだけど、それって本当なの?』
ようやく本題に入りそうだと瀬川は思った。
『もう今はアメリカにいるだろう。お父さんの病気が重いから、しばらく帰れないかも知れないって、言ってたよ』
瀬川が一週間前にダニーから聞いた話を言うと、カオリが新しい情報を追加した。
『昨日メールもらったんだけど、やっぱり家の農場を継ぐことになりそうなんだって。機を見て一度いわきには戻るけど、すぐまたアメリカに帰ってしまうの』
『それじゃあ、カオリ、遠距離で大変ね』
『それが、先週アメリカへ帰る前に、宇都宮に会いに来てくれて』
『まさか、別れ話なの?』
『そうじゃなくて』
カオリは言葉を慎重に選んで続けた。
『私に、アメリカに一緒に来ないかって』
『それってつまり、え、プロポーズよね?』
『うん』
『おめでとう、素晴らしいわ』
ホアの顔がぱっと明るくなった。
『いえ、まだ決めてないの』
『どうして? とってもいい2人だと思うわ』
ホアは少し考えてから続けた。嬉しいときでも、控えめでしとやかだ。
『アメリカに行きたくないのかしら』
『そんなことはないんだけど』
『それじゃあ、農場がいやなの?』
『それもないんだけど』
『もしかすると、国際結婚に抵抗があるとか?』
『それは、あまりないです』
カオリは煮え切らない感じだった。
『私も2人の結婚に大賛成だよ』
と瀬川も賛意を伝えて、
『でも、とても大事なことだから、少しゆっくり考えて決断したらいいんじゃないのかな』
『そうね、急なことだし、よく考えたらいいわ』ホアは面倒見のいい優しい表情に戻っていた。『ただ、反対する材料ってあまりないんじゃないかしら。何よりダニーが誠実で信頼できるし、きっとカオリさんを大切にしてくれると思うわ。それにカオリさん若いから、ここにいても健康被害が心配でしょう。結婚してアメリカに行くのは、とてもいい選択じゃないかしら』
『やっぱり、そう思いますよね』
カオリの顔に少し笑みが戻った。きっと背中を押してほしいのだと瀬川は思った。
『私もそう思うよ。他になにか心配とかあるの?』
瀬川の問いかけにカオリはまたうつむいて考えた。
『何か、少し引っかかっているんです』
ホアと瀬川が次の言葉を待った。
『何ていうか・・・』
『・・・』
『生まれ育ったいわきを離れることに、抵抗があるというか』
瀬川は少し驚いた。
『意外だな。カオリさんは積極的に外へ出る活動的な人だと思っていたけど』
『どう言ったらいいか、私の中では、それとこれとは少し違うんです』
カオリは少し考えてから続けた。
『あ、でも、すごく前向きに考えているんです。心の整理ができてないけれど・・・』
『それなら・・・』と瀬川は急に思い付いた案を口にした。『一度アメリカに行ってみたら? たしかダニーは、カリフォルニアのバークレーのあたりだったかな』
この提案に、ホアがすぐ賛成した。
『いい考えだと思うわ。イメージがつかないから不安なこともあるのよ。実家の農園や住んでいる街も見てきたらいいわ。案外それで決心がつくかも知れないし。私のときも、とても不安だったから分かるの』
『ダニーのガールフレンドとして、向こうのご家族にも会ってきたらいいよ。カオリさんを受け入れてくれる気持ちがあるのかどうかも、分かるかも知れない』
『行っても大丈夫かな』カオリの目が不安と期待で少し輝いたように見えた。『ダニーと相談してみます』
『行くとしたら日本のゴールデンウィークあたりね』ホアは自分のことのように嬉しそうだ。『それで、どっちになっても、私はあなたの選択を尊重するわ』
ホアの言う通り、やるだけやったらあとはカオリの意見を尊重すべきだと瀬川は思った。カオリの未来はカオリ自身が決めなくてはならない。
『ところで、カオリさんのご両親にはもう話したの?』
瀬川がきくと、カオリはうなずいた。
『父は外国人に大反対です』
『まあ、普通最初はそうだろうな』
『母と兄は少し違って、本当にその人と結婚したいのか、私の気持ちを疑って心配してくれています。きっと、私に迷いがあるからなんだと思います・・・』
カオリは姿勢よく座ったまま、テーブルに目を落としていた。
『だから、最後はたぶん、私次第です』
13 線量
【飯山】4月2日 11時
いわきに戻って、忙しい一週間が過ぎました。放射線量は徐々に下がっているらしいけど、目には見えないし、これって本当に大丈夫なのだろうか。誰に聞いたところで分からないのだけれども。
――いいね18
ネットで放射線について調べていると、昔授業で教わったことが瀬川の記憶がよみがえってきた。それが大学の授業だったか、高校の物理だったかはっきり思い出せなかったが、とにかく放射性物質と、放射線は、異なる言葉だったのだ。
放射性物質は放射線を発する物質のことで、たとえば、セシウム・ヨウ素・ストロンチウム・ウラン・プルトニウム・・・などがそれだ。
放射性物質が不安定な状態から安定になるために放出するものが放射線で、種類としてはα線・β線・γ線などがある。何の放射性物質がどの放射線を出すかは、それぞれ決まっている。
α線(ヘリウム原子核)は放射線の中でも人体に与える作用が最も強いが、空中を数センチしか飛ばず、皮膚をほとんど透過しないので外部からの被曝はあまりない。ただし、その放射性物質を体内へ多量に取り込んでしまったら話は別だ。
β線(電子)はα線の次に強く、空中を数メートル程度飛ぶことができる。
γ線(電磁波)はこの中で作用が最も弱いが、空中を数十メートルも飛び、外部からでも人体深くまで影響を及ぼす。
これらの放射線は常に有害というわけではなく、微弱であれば健康に有益なこともある。例えばラジウムやラドンの放射能泉は種々の効能があるとされ、各地で入浴を楽しむ人も多いはずだ。また地球上にはもともと放射線が満ちていて、原発事故や原爆実験の周辺地域でなくても、我々は日常的に少量の被曝をしているのだが支障はない。要は「程度」の問題なのだ。
その「程度」は数値で表さなくてはならない。電球の明かりがどんなに強くても、遠くなるほど照らす光が弱まるのと同じ話で、放射性物質の量(ベクレル値)が一緒であっても、距離が遠くなるほど放射線強度(シーベルト値)は弱くなるのだ。
内部被曝は人体に取り込んだ放射性物質の種類や量が問題になるので、食品などに含まれるベクレル値が話題となる。一方、環境における外部被曝は空間の放射線強度が問題となるため、シーベルト値が用いられる。原発事故の被災地では主に外部被曝が取り沙汰されて、シーベルト値(μSv/h)が各種メディアで飛び交うことになった。
放射線強度は測定する位置が大事だ。放射性物質が付着する地面などからどのくらいの距離で放射線強度を測るべきなのか、瀬川は調べたのだが、この当時まだ指針がなかったようだ。いわき市では合同庁舎の駐車場で空間線量を測定していた。建物の壁から充分に離れた広い空間で、安定した測定ができる場所を選んだのだろうと瀬川は思った。ただ具体的な測定位置などは分からなかった。同じ方法、同じ条件で実施していることを前提に、定点観測の推移を見る他はない。
いわき市の線量は、第一原発3号機が爆発した翌朝、20μSv/h(マイクロシーベルト毎時)以上に跳ね上がった。通常の空間線量が0・05μSv/h程度なので、このとき4百倍以上になっていたことになる。また約11μSv/h(100 mSv/year)を越える放射線を長年浴び続けると発がんのリスクが高くなるとされており、一時的だがこの数値を大きく超えていたことになる。
しかし数時間後には2μSv/h台に落ち着き、日を追うごとに少しずつ下がっていって、瀬川らがいわきに戻った3月27日には1μSv/hに減っていた。減ったとは言っても通常の20倍はあり、見えない放射線を常時浴び続けている不安は心から拭えなかった。
「いわき市は今日4月3日で0・60μSv/hぐらいまで下がったらしい」いつもの居酒屋で浜村はそう言って、「平常時が0・24μSv/hだっていうから、そこまでもう少しだな」
と地酒又兵衛の熱燗をぐい呑みに注いだ。瀬川は魚の干物に箸を入れて口に運んでいた。
「浜村が言ってる0・24μSv/hは、内部被曝も含めた平常値なんだ。空間線量だけだと、平常時で0・05μSv/h程度らしい」
「そうなのか」
「発表されている0・60μSv/hは空間線量だけなんだから、平常値までは程遠いよ」
「空間線量より内部被曝の方が多いんだな」
浜村はぐい呑みの底を上げて飲み干してから、「まてよ・・・」と言って、
「外部被曝の線量ばかり気にしているが、内部被曝量だって平常よりも数値が上がっているかも知れないじゃないか。食品だけではなくて、いま環境から吸い込んでいる放射性物質がどのくらいあるものなのか、見当がつかないな」
「まあ、我々にはあまり測りようもないがね」
瀬川は言いながら、浜村がまたぐい呑みに満たした酒を半分ほど飲むのを見た。今日は飲むペースがだいぶ早いが、震災と管理職のダブルパンチでストレスが溜まっているようなので、瀬川は半ば寛容に見守っていた。
「そういえば、会社でも線量計を取り寄せて測り始めただろう。瀬川も聞いたか」
「工場内を、あちこち測って回っている総務のヤツをつかまえて、少し聞いたよ。場所によって線量も変わるらしい。アスファルトの上だと発表の数値とほぼ近いが、草木の近くや土の上だともっと高いそうだ」
「舗装路は雨や風で流れやすいけど、植物は放射性物質が簡単に取れないみたいだな」
浜村は酔いが回り始めたらしく、しゃべりが少しゆっくりになってきた。浜村の様子を見ながら、瀬川が続けた。
「舗装道路でも、道路脇の排水溝や水が集まるところは数値が高いから気を付けた方がいい」
「そうだ。爆発の直後はあれだけの線量があったのに、数値の減り方が放射能の半減期よりずっと早いからな。雨や風で流れて、どこかそういうとこに集中して溜まっているはずだ」
「ある程度下水に流れ去ったとしても、残留物があるだろうからな。あと、室内だとエアコンのフィルターなんかも高い」
「いわき市役所の測定は駐車場だから、放射性物質が少ない平らなアスファルトの上だ。線量が低めに出ても当然だよな。やはりあの発表数値だけでは安心できないということだ」
「だけど、楽観する向きもある」
瀬川は酒を少し口に含んで、話を続けた。
「空間線量で20や30μSv/hもあれば話は別だが、いまは放射線が強い場所を意識的に避けていれば、高々1μSv/h以下だろう。健康被害はないのかもしれない」
「そりゃあ、政府の言い分だろう」
「それだけではない」
と言いかけたが、浜村の顔を見た瀬川は話の続きをやめて、
「お前、少し目が据わってきたぞ。ちょっとだけ飲むの休んだらどうだ」
しかし、浜村は自分のぐい呑みを持ち上げ、残っていた酒を飲み干してしまった。飲み始めてからそんなに時間は経っていなのに、もう2合以上は飲んでいるはずだ。浜村がこんなに酔うのは初めて見た。
「だぁいじょうぶだって・・・」
浜村は瀬川のぐい呑みにも酒をつぎ足し、それから自分のにも注いだ。そのとき、地震で少し大きく揺れた。酔っていたせいか、予兆に気づかなかった。酒が揺れてぐい呑みから結構こぼれた。
「これは震度4ぐらいだな。まだ頭はしっかり働いてるぞぉ」浜村は言って、「お前、それで安心できると思ってるのかぁって、聞いてんだ」
「いや、今はまだ分からないと思っている」
「そうだ、どこにも大丈夫なデータぁないからな」
地震は収まったようだ。
「いや、全くないこともないんだ。海外の高自然放射線地域の調査はあるみたいで、その地域でも場所によって違うらしいが、平均でおおよそ1μSv/hくらいの環境で、健康に影響なく暮らし続けているらしい。ただ実際の個々の生活環境での線量調査は少ないようだし、我々と同じと考えていいかどうかも分からない」
「お前ぇ、ずいぶん調べたんだな」
「もしも福島で我々のデータを取り始めたとしても、結果が分かるのは何十年も先だろうな」
「待ってられん」
「そうだ遅すぎる。だけども、ここに身を置く以上、そうなれば協力してもいいだろうとも思う」
「それはいやだ」
浜村は声を荒げた。
「俺はモルモットにはならんぞぉ」
「もしもやったらの話だ。ていうか声でかいぞ」
瀬川は周りを気にした。
「いや、俺のデータぁは、誰にも渡さん」
浜村は声を上げてぐい呑みを傾け、また飲み干してしまった。
「絶対やらんぞぉ」
「飲み過ぎだって。もうやめとけ」
瀬川は浜村のぐい呑みを取り上げた。
瀬川にはもう一つ気になることがあった。
世の中の線量計は殆どがγ線測定だ。外部被曝の影響に限って言えばα線はほぼ問題に当たらないし、飛散した放射性物質はγ線とβ線を出すものがほとんどなので、γ線さえ分かれば、汚染状況はほぼ把握できると言ってよかった。それに、α線を出す放射性物質は重たいため、原発の近くだけで検出されており、遠くへはほとんど飛散していないとされていたのだ。
しかしそれは本当なのだろうか。放射性物質がもっと大きい塊ならまだしも、微粒となって飛散するのだから、それなりに広がっていてもおかしくないのではと、瀬川は心配していた。α線を放出する物質がもしこの辺にも飛散していて、内部被曝の恐れがあるとしたら、健康被害への心配はどれほどになるのであろうか。それを話題にする人は不思議といないし、報道番組でも耳にしなかった。
週末いわきで用事がない限り、瀬川は毎週のように横浜の実家に帰っていた。線量計の種類をじっくり調べるため、実家の2階の畳部屋にちゃぶ台を置き、あぐらをかいて壁にもたれながら、持ってきたノートパソコンを開いた。
調べると、どの線量計も製造が追いつかず、国産品も輸入品も在庫が全くない状態だった。東日本に住む多くの人が線量計を買い求め、需要がいっきに跳ね上がったのだ。値段がつり上がり、1台10数万から30万円近くするものまであった。瀬川はドイツ製の一台の線量計に目をつけた。α線・β線・γ線を測ることができる数少ない機種で、値段はやはり20万円以上した。製造元での在庫もなく、注文してから順次製造して輸出をするため、納期の予想も立っていなかった。それでも瀬川は、メールや電話で美和と相談しつつ、それを購入することに決めた。
14「4・11」
【アケミ】4月7日 22時
愛知にいるミワさんのところへ遊びに行ってきました。ミワさんといると、心がとても落ち着きます。積もる話で時間がいくらあっても足りませんでした。共に子供たちの幸せため、気持ちを新たに頑張って生きていきます。
――いいね105
夜ノ森の桜が開花した。瀬川がネットでそのニュース記事を見たとき、胸が詰まる思いだった。今年はアケミやユージ、カオリら友人仲間とあの公園に行く予定だったが、もう実現することはなかった。本当なら多くの人で賑わう場所なのに、パソコン画面に写るのは折り重なる桜の木々と、避難区域の無人の街だった。花は密かに開花し、咲き乱れ、そして派手に散るのであろう。そこに感じるのは強さであり、無垢であり、もの悲しさであり、なにか狂気でもあった。
それでもいわきには少しずつ人が帰ってきていた。瀬川の家族や篠崎家のように帰ってこない者も多いが、線量の減少に伴って自主避難から戻ってくる友人もそこそこにいた。4月の半ばには一度イワキアン・バールに集まって、互いの消息を確認し、ひと時の安らぎを得たのだった。
一方会社では、県外の自宅や実家に家族を避難させたままにする「隠れ単身」も相当数いた。表向きは単身赴任の形をとらず、会社にも周りにもあまり言わないので、誰が隠れ単身なのか全てを把握することはなかなかできなかった。多くの場合、金銭的、精神的な苦労が伴われた。瀬川もその隠れ単身として、密かな二重生活の大変さと寂しさを味わう者の一人となっていた。
地元の人と県外から来た人の間で、見えない浅い溝が出来ていた。決して険悪な溝ではないが、県外者同士や、地元同士だけの話になると、なんとなく声を潜めるのがエチケットのようになっていた。誰それが隠れ単身らしい、なんていう話はそういう部類だ。
あるとき瀬川が現場に行くと、そこにたまたま来ていた藁谷さんが山田さんに小声で話しかけるのを聞いた。
「田植えどうすっぺ?」
「植えるしがねぇ」
「けど売れねぇんでねが」
「そりゃぁ国が、全部買い取ってくれるっぺぇ」
二人とも地元に農地を持っていたが、放射能被害や、あるいはその風評被害はすでに大きな悩みになっていた。
金曜の夜車で横浜に行き、日曜の夕方いわきに戻った。瀬川はほぼ毎週それを繰り返した。常磐道高萩付近の段差で、東京方面へ車で向かうときはガタンと降り、いわきへ戻るときはドスンと乗り上げた。最初より慣れてきたが、まるで福島を出入りする儀式のように思えてきた。
実家にいる間は、仕事と放射能のストレスから解放された。横浜で水や必要なものを買い込み、ガソリンを満タンにして帰るので、個人的には物資に困ることはなかった。ただ、浜村以外にそのことを話さなかった。外から来た者はともかく、長年の地元民たちにとっては逃げ場のない閉塞した世界であり、瀬川は後ろめたさを感じていた。とくに津波で家を流され、家族を失った人たちもいる中で、自分は幸せな方だと思わなければならなかった。
それに、そもそもいわき市は原発の避難指示区域に入っておらず、むしろ避難してきた人たちの受け入れ場所になっていた。瀬川の住む近くにも仮設住宅があり、避難者を数多く受け入れていたが、瀬川はその場所を見に行ったことがなかった。立入禁止というわけではないが、そこは行き場所を失った人たちの生活の場であり、自分のような者が興味本位で見に行くのを、はばかられる気がした。
空間線量についても、避難区域はいわき市の比ではなかった。たとえば飯館村役場の線量はいわき市の10倍以上だし、原発に近い地域へ行けばさらに高かった。また福島市や郡山市など〈中通り〉と言われている地域は、いわきよりも原発から遠いにもかかわらず、数倍の線量があった。これは事故当時の風向きなどによる放射性物質の流れ方が影響したものだった。こうした状況から、いわき市の線量が周囲と比べて極めて高いとは言いにくかった。
それでもなお、やはり不安に変わりはなかった。通常よりも高い線量、不確かな内部被曝、何よりも完全にコントロールできていない原発の状況が、瀬川の心に不安を与え続けていた。
そんな不安に追い討ちをかけることが、いくつか起きた。
4月11日月曜日。工場では再開に向けた作業を始めて2週間が経ち、生産開始の目途が立っていた。明日にも主力製品の一部について生産を再開し、その他にも展開していく手はずだ。
「やれやれだな」
その日の夕方、設備の現場から戻ってきた瀬川と飯山は、事務所の机に座って残務の処理を始めた。青木は秋山課長の机の横に立ってなにか打ち合せをしていた。
――ずごん、ずごん、ずごん
といきなり大きく突き上げられたのはその時だった。そのまま激しく縦に揺れ続け、瀬川は驚く間もなく座ったまま両手で机に掴まっていた。いつもは緊急地震速報と地鳴りのような音がしてから揺れ始めるのだが、今回は何もなかった。揺れ方も全然違う。突き上げる動きに、憎しみに満ちた力を感じた。飯山も必死に机にしがみついた。青木は姿勢を低くし、秋山課長の机に掴まっていた。揺れている机に掴まることが本当に正解なのか分からないが、他にどう仕様もなかった。
地震が収まり静かになると、あちこちで携帯の緊急地震速報が鳴っていた。「鳴るの遅いよ」と何人かがうなり、そして担当設備を見に行くため、すぐにみんな出て行った。3・11よりも時間は短かったが、工場のダメージはかなりありそうだ。
瀬川と飯山もすぐに席を立っていた。
「今日はあの地震からちょうど一カ月ですね」
「なんか不気味だな」
瀬川は足早に歩きながら、何かがまだ地の底で不敵な笑みを浮かべているような気がした。
既存工場の建屋の外で山田さんとカオリが立ったまま話をしていたが、瀬川の顔を見てカオリが駆け寄ってきた。やや興奮気味だ。
「いきなりで怖かったです」
「どうやら津波の心配はないらしい」
「機械が縦に激しく揺すぶられて」とカオリは両腕を広げて大きく揺れる身振りをした「もうほんとに怖かったです」
カオリは工場内にいたようだ。
「私も先月の時、新工場の設備の前にいたから分かるよ。あれはいま思い出しても怖かった」
「機械大丈夫でしょうか」
「今からひと通り調べるよ。今日はもう上がる時間だよね」
「はい、帰ろうとしたところだったんです」
その横を山田さんが「じゃお先にぃ」とにこやかに言って、更衣室に向かって歩いて行った。
「私も、もう行きます」とカオリ。
「うん、お疲れ様。ゆっくり休んで」
瀬川の少し後ろにいた飯山も「お疲れぇ」と言ったが、それにカオリは軽く会釈だけして、去って行った。瀬川と飯山は工場の中へ入った。
発表された震度は6弱だった。この地震による家屋の被害はあまり多くなかったが、第一原発では1号機から3号機の外部電源が途絶、注水が一時的に中断されていた。その後すぐに回復して大事には至らなかったものの、今後も同程度の地震があったときに、不安定な第一原発では何が起きるか分からないと多くの人が感じた。
そして翌日の午後にまた同様の地震があり、激しい縦揺れが収まってから緊急地震速報があちこちで鳴り響いた。「またか」「いい加減にしてくれよ」と文句を言いながらみな現場へ向かった。
一連の「福島浜通り地震」と呼ばれたこの地震は、直下型で震源が浅いのが特徴で、余震がしばらく続いた。しかし復旧作業に慣れてきたことと、技術者たちの意地もあって、工場の生産は一週間後に一部の製品からなんとか開始することができた。
次の週末も、瀬川は横浜に帰っていた。土曜日の夕方、リビングで両親と話しながら、なんとなくテレビニュースをつけていると、
「福島県いわき市好間町で・・・」
というアナウンサーの声が耳にとび込んできた。自分が住んでいる町だ。驚いてテレビ画面に食い入ると「今日の昼12時45分ごろ、竜巻と見られる突風が発生し、屋根瓦や窓ガラスが壊されるなど、民家約10軒に被害が出ました」と言う。瀬川は耳を疑った。地震に津波、原発事故、そしてこんどは竜巻が起きたというのか。すぐに2階の畳部屋に行ってパソコンを開き、ネットでニュース記事を検索した。被害の場所は瀬川の住まいから2~300メートルしか離れていなかった。
翌日曜日いわきの社宅に戻ると、歩いて竜巻被害のあった場所へ行った。今まで壊れていなかったはずの住宅が半壊になり、屋根などがブルーシートで応急的に補修されていた。知らない人が見たら、周辺の地震被害の家と区別がつかないだろう。
瀬川は身震いした。ヤツは見えない地下で活動し、いつまで経っても自分を安心させてはくれないようだった。
そのときまた、突き上げるような振動を足元に感じた。
15 隠れ単身
【エレナ】4月21日 8時
(英語) 私もついに、いわきへ帰ってきてしまいました。猛反対したんだけど、うちは子供もいないし、自分たち以外に守る者はない。それにやっぱり、ダンナの故郷だから仕方がないわよね。
もちろん原発は一生許さないけど、縁があったこの地で、精いっぱい生きていくことになりました。
――いいね37
4月の終わりごろになると、いわきも暖かくなってきた。
夕暮れ時に瀬川と浜村は、郷ケ丘にある定食屋の駐車場にそれぞれの車を停めた。
「浜村がやきかつ食べたいって言うから来たんだよな」
「いや、お前がやきかつの話をしたから、俺も無性に食べたくなったんだ。先に話したのはそっちだぞ」
「そうだったか?」
店に入るとちょうど満席だったが、5分ほどで席が空いた。靴を脱いで畳敷きのテーブル席に着くと、浜村はすぐにメニューを手に取った。
「とにかくまず注文だ」
「ここは時間かかるからな」
すぐに決まった。店の人を呼んで、やきかつの上定食を二つ注文した。注文するとやっと落ち着いて、二人ともコップの冷たい水を飲んだ。
「ここ絶対一人で作ってるよな」
瀬川が言った。厨房の様子は見えないが、出て来るスピードが驚くほど遅いのだ。
「たぶんそうだ。いつも混んでいるから、まず30分以内には来ないよな」
「50分以上もザラだ」
「だけどウマいから、待つ価値があるね」
浜村は言って、
「今日はお互い車だし、アルコールは無しだ」
「ちょうどいい。浜村は最近飲むと手がつけられないからな」
「この前のことは忘れろ」
浜村は少しばつが悪そうに笑った。
「それより、5月の連休は、奥さんの実家に行くのか」
「愛知に行ってくる。震災後から2ヶ月近く妻にも子供にも会ってないからな」
「お前も隠れ単身だったな。何人かそういう人は聞いているが、俺から言わせれば羨ましいよ。うちは奥さんが小名浜人だし、子供は心配でも、避難させるところがない」
「羨ましいようなことではない。二重生活なんて、しないに越したことはないよ」
「そりゃ説得力ないな。大変な面もあるだろうが、避難するに越したことはないさ」
「連休はどこも行かないのか」
「新潟の俺の実家に行く」
「奥さんと子供も?」
「一緒だ。気休めだが、そんな時しかここを離れられないからな」
浜村はコップの水を全部飲み、ピッチャーの水をもう一度注いでから話を続けた。
「だけど、いつまでのつもりだ?」
「何が?」
「二重生活だよ」
瀬川にとって悩ましい質問だった。
「わからない。安心して帰れる時までだろう」
「安心できる時なんて、来ないかもしれないぞ。ずっと別居を続ける覚悟か?」
「いつまでも実家に預けるわけにいかないな。かと言って住むところを借りると、金がかかり過ぎる」
「やはり・・・たぶん、どこかで妥協して帰ってくるしかないんじゃないか。何をもって安心とするのかだな」
「そうかもしれないな」
「それか、もう一つの選択は、お前がここを出て行くかだな」
「おいおい」
「可能性の話をしているんだ。家族がここに帰るか、自分がここを出て家族と暮らすか、ザックリそのどちらかしかないだろう」
「まあ、単純に考えて、隠れ単身の結末はそのどっちかだな。あとは別居を続けるか、別れるか」
「別れない前提だ」
「浜村が言うように、どこかで安心を妥協するしかないのかも知れないな」
「妥協点を探す旅・・・か」
「急に詩的なこと言うなよ」
「そう考えて楽しまないと、お前もやってられないだろう」
確かにそうだった。家族をいわきに戻すか、自分がここを離れるか、すでに瀬川自身も思案していたことだ。そして浜村にはまだ打ち明けていなかったが、自分が出て行く選択肢も少し考え始めていた。しかしそれには職も考えなければならないし、瀬川にとっては気の重いことで、まだ具体的な行動へ移すには至っていなかった。
「それで、例のα線の話、本当なのか?」
浜村が話題を変えた。
「ああ、線量計買った話な」
「そう、本当にそのデータ、信用できるのか?」
「信用するしかない」
「だけど測定の手順が普通と違うんだろう?」
瀬川の購入した線量計は、何分間か設定して放射線量を測定するものだ。例えば10分間の測定結果が0・05μSvだったとすれば、10分の値を1時間に換算して、0・30μSv/hということになる。
「とにかく一定時間測定して、その結果を1時間に直すんだ。自分でいろいろやったが、3分以上測れば安定した結果が得られることが分かった」
「3分以上も? 俺が購入したやつはそんな時間かからいぞ。スイッチを入れればリアルタイムで1時間当たりの数値が表示される。他のもそうだし、テレビの報道で見る線量計も俺のと同じだ」
それを言われると瀬川も苦しかった。届いた線量計を見て、自分も驚いたのだ。
「確かにそうだが、一定時間測る方が本格的なんじゃないかな。常にリアルタイムで表示されるやつは、なにか簡易的な方法か、または一定時間前の移動平均とかじゃないの?」
「でも、お前の線量値は発表値と合わないんだろう? 俺のはいわき市の値とだいたい同じだ」
「そうなんだ、どうしても合わない」瀬川は言って「それで、昨日の会社帰りにいわき合同庁舎の駐車場へ行って、同じ場所で測ってみた」
「それで?」
「20時のいわき市発表値が0・30μSv/hだった。同じ時間に俺もいたんだが、周りにそれらしい機器を持った市の職員は見当たらなかったし、どこかに測定器を固定してあるのかも知れないが、探しても全然分からなかった。なるべく市と同じ場所で測ろうと考えたんだが、とりあえず車を降りて広いところで測ることにした」
「なるほど。で、お前のデータは?」
「俺が測ったのが、0・39から0・42μSv/hくらいだった。発表値の0・30より大きい」
「ほらな、やっぱりおかしい」
「だいたいいつも0・10くらい高く出るんだ。だけど場所による線量の差はちゃんと出るし、恐らく機器の校正か何かの問題だろう。取説を詳しく見たけども、結局よくは分からなかった」
「で、α線はどうやって測っているんだ」
「α線だけを単独で測ることはできないんだ。まずはα線、β線、γ線を全部一緒に測る。次にα線を遮蔽して、β線とγ線だけを測る」
「なるほど、その差があれば、α線を検出したことになるんだな」
「そういうことだ。さらに、α線とβ線の両方を遮蔽すれば、γ線だけを測れる。つまり俺のには、α線、β線を物理的に遮蔽できる仕掛けが付いているんだ」
「絶対値が正しくないとしても、相対的に有意な差があれば、α線を見つけ出すことはできる、と考えているんだな」
「そうだ」
「結果は?」
「最初いろんなところで試したが、全然差がなかった」
「なんだよ話が違うな」
「だけど、重大なことに気づいたんだ。俺はいつも胸の下で測っている。だいたい一定して、地面から120センチになるよう、意識していたからだ。ところがだ、α線が空気中でどのくらいの距離を飛ぶのか知ってるか?」
「覚えてないが、あまり飛ばないはずだな」
「そう、あまり飛ばない。長くて数センチだ。だから胸の下では地面から遠すぎたんだ」
「飛散した放射性物質は地面に落ちてるからな」
「それで、自宅の前の路上で、1センチのところを測ってみた」
「差があったのか」
「あった」
瀬川はメモ帳を開いて浜村に見せた。
αβγ 0・79 0・81
βγ 0・55 0・53 0・55
γ 0・39
「こんなに違うのか」
「それが、場所によるんだ。あまり差が出ない場所もある」
「確かに、他のデータは微妙なのもあるな」
浜村が瀬川のメモをめくりながら言った。
「一番差が大きいやつは、アスファルトが少し割れて窪んだところなんだ。そういうところに吹き溜まりとなって、偏在しているのかも知れない」
「確かに、あるとも言えるし、ないとも言える」
「あるよ、確かにある」
「いや、わからんな」
「データを信じないのか、どうも技術者らしからぬ態度だな」
「そうじゃない。計測器自体の信頼性の問題だよ」
「まだそれを言うのか」
「いいか、これはまだひとに言わない方がいい。騒ぎになって、後で違いましたでは格好がつかないからな」
「もちろん慎重にはするが、でも確実にあるよ。自分がやったから、測定データに間違いはない」
「慎重になれ。ここには土地から離れられない人だって大勢いる。ここにきてまた新たな波風を立たせても、何の利益にもならない。不確かなデータで不安をあおるようなことはやめておけ」
不確かではない―― と言いかけて、突然瀬川は言葉を呑み、頑固に立ちはだかる浜村の顔を見た。土地から離れられないのは、浜村自身ではないのか。技術者である以前に、ここに家庭を持つ身として、なにも信じようとしないし波風を立てて欲しくないのだ。だからこれ以上言うのは、ただ浜村を追い詰めるだけかも知れなかった。
それに、瀬川が見つけたα線の痕跡は極めて局所的だ。その放射性物質が周囲にあったとして、その量が過剰なのか大したことないのか、それによる内部被曝がどの程度の影響を健康に及ぼすのか、瀬川には見当がつかなかった。いまは外出が減っているし、子供にも外遊びさせない親が多い。もしかするとγ線と比べて大きな影響はないのかも知れない、とも思う。
浜村はコップの水を片手で回し、それを飲むでもなく、揺れる水面に目を当てていた。
「お前の言うことも、一理あるかもしれないな」瀬川は浜村にそれだけ言った。
定食が二人の前に運ばれてきた。
「今日は思ったより早かった」
「食うぞ」
メインの皿の上には、衣を揚げずに焼いたカツがずっしりと乗り、ケチャップをしっかり絡ませたスパゲッティと山盛りキャベツ、その端にカットオレンジが添えられていた。やきかつにはケチャップも少しかかっているが、瀬川と浜村はテーブルに備え付けのニンニク醤油をたっぷりと掛けた。
それから無言で食った。カツにがっつき、メシを頬張って、味噌汁をすすった。
「んまいな」
「んっ」
一度だけお互い短い言葉を発したが、あとは夢中で食った。二人は5分足らずできれいに平らげた。
「ああ食ったぁ」
浜村がやっと顔を上げて言うと、瀬川も顔を上げた。
「やっぱこいつは間違いないよなぁ」
「うん、満足満足」
それから浜村は何杯目かのコップの水を飲み干した。
「ニンニク醤油が絶妙だな」
「たまに食いに来よう」
「月一でもいいな」
二人は食い物の余韻に浸りながら、おしぼりで口を拭った。
「あそうだ、忘れるところだった」
と浜村が何かを思い出して、おしぼりをたたみながら置いた。
「瀬川がよく行ってる、あの外人が集まるバー、なんだっけ」
「なんだ、イワキアン・バールのことか?」
「そうそう、そのイワキアン・バーだが、」
「バールな」
「そう、バールだ、だからその、イワキアン・バール、日本人も多いんだろう?」
「多いさ」
「英語ペラペラか?」
「まあ、みんな英語話せるな。あそこへ行くと、俺が一番下手くそだ」
「通訳とか翻訳ができるの、いないか?」
「なんだ? 英語ならお前もある程度できるじゃないか」
「いや、俺の部署じゃなくて、総務だ」
「総務?」
「あそこに通訳の女の子が一人いるだろう」
「ああ、うちの部署もときどき翻訳とか頼んでるよ」
「辞めて東京に行くらしい」
「そうなのか」
「募集をかけているが、なかなか人が来ないから、お前にも聞いてくれないかって、総務部長に頼まれているんだ」
「そう言われてもな、みんな仕事持ってるし。今度行ったとき、何人か聞いてみてもいいけども」
そのとき瀬川の頭にカオリが浮かんだ。
「そう言えば、うちの工場現場に、女の子だけど、英語がよくできるのいるぞ」
「現場に?」
「その子もイワキアン・バール関係だ」
アケミの友人関係だが、説明が面倒なので、全てイワキアン・バール関係、ということにした。
「そんなのがいるのか? バールに?」
「カオリさんだ。苗字は、森村だったかな」
「どこの現場だ?」
「今は俺が担当してる加工設備のところだ」
「ああ分かった。あの金髪ギャル娘だな」
「だったらしいな。俺はその頃を知らないんだけど、いまはギャルもやめてるし、髪も黒髪だ。以前は製品検査にいて、その前は知らないが、工場の製品や製造工程のことは多分素人よりは知ってるだろう」
「その点はありがたいな。外から雇った通訳が一番苦労するところだからな」
「いや、待て」
急にダニエルのことを思い出した。なぜ最初から思い出さなかったのだろう。
「やっぱり駄目だ」
「何がだめなんだ」
「そう、実は、結婚してアメリカに行くかも知れないんだった」
「アメリカに? 相手の男が赴任するのか」
「いや、相手がアメリカ人なんだ」
「アメリカ人か」
「だから駄目だ。ごめん、そのことすっかり忘れてた」
浜村は驚いた顔をしていたが、少し考えて、
「もう決まったのか?」
「決まったわけではないが、もう多分決まると思う。こんどの連休に向こうへ行ってくるしな」
「決まってないんだな」
「そうだけど、多分決まるよ」
「そんなの、本人が考えることだろう」
「そうだが、やっぱり他を検討した方がいい」
「分からないじゃないか。それに、その子を検討するかどうかは、これはこれで総務が考えることだ。一応そういうのが工場にいることは伝えておくよ」
「そりゃ、まあ、好きにしてくれ」
瀬川も水を飲んだ。
「あと、バールでも声を掛けてくれる件、たのんだ」
「そんなの、今度いつになるか分からないぞ」
「いつでもいい」
浜村は言って、ピッチャーをまたコップに傾けた。
16 白昼夢
【カオリ】5月3日 20時
カリフォルニアの暖かい日差しの中、農場のお手伝いをさせてもらってます。汗を流し、家族と一緒にランチを食べ、素敵な夕日を見ながら一日を終えます。
本当に来て良かった。普通の旅行では味わえないアメリカ農家の暮らしが、ここにはあります。
――いいね81
愛知県まで車で行くとき、いつもは横浜の実家から東名高速道路で西へ向かうのだが、この5月の連休、瀬川は初めて都心を通らずに、いわきから直接愛知へ行った。常磐道を友部ジャンクションで離れて、北関東自動車道を西へ向い、栃木、群馬から長野へ抜け、中央自動車道で愛知に入るルートだ。一見遠回りに思えたが、横浜へ寄らない場合はこの方が渋滞もなく快適だった。
一人なら特急と新幹線を乗り継いだ方が楽だが、車で移動したのには理由があった。愛知にいる美和が、いつも乗っていた軽自動車を持って来てほしいと言うのだ。子供と出掛けるとき実家の車を借りていたのだが、それだとあまり自由が利かなくて不便をしていたからだ。
普通車のコンパクトカー並みに大きいが、やはり軽は軽だ。高速道路で長距離を引っ張って来るのは大変だった。お昼前に出発したが、途中何度か休憩して、安城市の実家に着いたのは夕食どきだった。
家の前に車を着けると、美和と広美が迎えに出た。美和が門を開けると、
「パパ―、」
と広美が車に駆け寄ってきた。小さな顔では足りないくらい笑顔が溢れていた。新横浜で別れて以来だった。
「長距離お疲れさま。広美、車あぶないから離れようね」
美和は優しく言って、運転席に向き直ると、
「ここのガレージに入れていいよ」
と指をさした。2台入る広さに普通車が1台停めてあり、残りの空いているところへバックで軽を入れた。瀬川がエンジンを止めるのを見て、美和はすぐにガレージのシャッターを閉めた。
原発の影響はこんなところにも及んでいた。連休が明けたら、美和はナンバープレートを換えに運輸支局へ行く予定だ。
――石を投げられるかも知れないから、福島県のナンバーを換えたいの
連休の前、電話口で美和が言った。
――そういうのテレビで言っているけど、滅多にないと思うよ。
――滅多になくても、一度でもあれば嫌な思いをするし
――・・・
――それに万一子供がいじめられたら可哀想。子供たちには、笑顔で明るく育ってほしいの
幸い実家のガレージが一台分空いていたので、車庫証明もそこで取らせてもらうことになった。いわきナンバーから、三河ナンバーになるのだ。
「遠かったで、えらいだらぁ(疲れたでしょう)」
玄関に入ると、お義母さんが笑顔で迎えてくれた。お義父さんも居間から出てきた。
「お疲れ様、道はすいとったかい」
「渋滞もなく、すんなり来ました。軽なので大変でしたが」
「ほうか。中でゆっくりして、みなで夕飯でも食べまい」
広美がさっきからずっと離れず足にしがみついていた。子供の熱い体温を感じながら、瀬川は小さな頭を優しくなでた。
居間にちゃぶ台を出して、すでに夕食の準備が並べられていた。30センチ近くある大きなエビフライに、カツ、サラダ、それに自家製のドテも盛られていた。三河のドテは八丁味噌や砂糖、みりんなどでモツを煮詰めたもので、瀬川も好物だ。お土産売り場で買うものは酷い味で、匂いも嗅ぎたくないくらい嫌いだったが、美和の実家で家庭の味を知ってから、それが初めて美味しいものだと知った。酒のつまみにもいいし、ご飯にのせても実にいいのだ。
「ご飯つける? それとも先にビール?」
台所から持って来た小皿を2つ置きながら、美和がきいた。持って来た小皿の中はカツにつける味噌ダレだった。
すると後ろからお義父さんが冷えたビールのロング缶を二本持ってきて、「これ飲もう」と言い、ほい、と一つ瀬川に渡した。「いただきます」瀬川が受け取った。美和がビール用のグラスを3つ持ってきて、一緒に食卓に着いた。広美が美和と瀬川の間にくっつくように入ってきて座った。一毅は奥の部屋で静かに寝ていた。テレビにはバラエティ番組が流れ、お義父さんは大きなエビにかじりつき、瀬川も味噌カツを食べた。平和なひと時に思えた。急に余震で揺れるようなこともなかった。
「テレビ番組もCMも、ここではもう普通なの。震災や原発は、ニュースではやるけど、遠い国の話みたいで、日常の話題にはあまり上らないわ。なんだか同じ国とは思えないでしょう」
美和に言われて気づいたが、さっきから雰囲気が違うと感じていたのは、余震がないこと以外に、テレビ番組の違いが大きかったのだ。
「この前、福島の友達が来とったね」
お義母さんがみんなのご飯と味噌汁を運びながらテーブルに着いた。
「そう言えばアケミさんと会ったんだね」
瀬川も言った。
「この前静岡から来てくれて、お店でランチしながら夕方まで長話しちゃった。ジュリちゃんもとっても元気だったわよ」
「それはよかった」
「篠崎家は、もういわきには帰らないって」
「でもユージさんの実家、いわきだよね」
「たまに帰ることはあっても、もう住むことはないらしいわ。それに、昔の仕事の知り合いが沖縄のリゾートホテルで働いていて、誘われているんだって」
「沖縄に行くのか?」
「まだ決めてないけど、行くかもしれない感じだった」
「そうか」
「この前も言ったけど、私ももう、いわきに帰るつもりはない。子供たちを明るく伸び伸びと育てたいの」
瀬川は頷いたが、それ以上この問題について話を続けなかった。
お義母さんと美和は、食事が終わると余った食器を持って台所へ行った。瀬川はお義父さんとビールを飲んでいた。広美はご飯を食べたあと瀬川の膝にごろんとしていたが、起き上がると奥の部屋に駆けて行き、小さな一毅の寝顔を見に行った。
「美和はああ言ってるが、」とお義父さんが口を開いた。「いつまでもここに居るわけにいかんだろう。うちは全然構わないが、噂になるといかんし」
瀬川ははっとした。近所から美和が出戻りみたいに思われているのかも知れなかった。
「やはり家族は一緒におらんとな。広美もパパがいなくて寂しいだよ。原発はもう落ち着いたみたいだし、もういわきに戻った方がいい頃合だら」
美和が言うように、原発に対する温度差は、かなりあるのかも知れなかった。
「原発は依然として何も解決していなくて、今は一時的に凌いでいますが、とても不安定な状態が続いています。いつまた何があるか分からないので、もう少し待ってください」
「ほうか、うちはいつまで居てくれても構わんけどもな」
「すみません」
「すまんことはないけど、家族は一緒にいるのが一番、早く戻らんといかんな」
尤もなだけに、瀬川は何も言えなかった。とにかく身の振り方を早く決めなければならないと思った。
そこへ、広美が向こうの部屋からパパー、と言ってまた駆け戻ってきた。膝の上に乗り、抱きつかれて、その小さな体重と温度を直接感じた。そして広美の柔らかい背中をそっと撫でた。瀬川はいままで2ヶ月間、心の外に追いやってきた考えと向き合わされた。守るべきもののため、やるべき事を始めなければならなかった。何をすべきかは、もうとっくに解っていた。
連休から帰ると、瀬川はその重い腰をようやく上げた。
有楽町からほど近い場所に、目的のビルはあった。スーツ姿の瀬川はエレベーターを少し待ってから上のフロアへ行き、その会社の受付で名前を告げた。「8番の面談室でお待ちください」予約してあったのですぐに案内された。面談室のある長い廊下へ進むと、右側の壁にドアが20枚ほど等間隔に並んでいた。反対の左側は白い壁だけで、真っ直ぐ突き当たりまで窓一つなかったが、真ん中あたりに小さい額がひとつ掛けられていた。手前の面談室から1番、2番・・・と中を覗きながら進んだ。使っていない部屋はドアを開け放してあって、どれも3畳か4畳くらいの空間にテーブルと椅子があり、パソコンと大きなディスプレイが設置されていた。小ぎれいで明るく、機能的で無駄がない印象だ。8番の部屋へ着くまで3つのドアが閉まっていた。声が少しだけ漏れ聞こえていて、その中では面談や打合せが行われていると思われた。さらに向こうの方でも2つか3つが閉まっているのが見えた。廊下の中ほどの額の前まで歩き、そこにはめ込められたパステル画を覗きこんだ。緑の草原の遥か地平に赤い屋根の小屋が一つだけあり、青く透き通るような空に白い小さな雲が流れていた。
8番のドアは閉まっていたけれど、中には誰もいなくて、他の部屋と同じようにテーブルと椅子が配置されていた。瀬川は中に入ってドアを閉め、椅子に座ってカバンを隣に置き、名刺入れを出して準備をした。パソコンのディスプレイがテーブルの横に置かれ、担当者がマウスを操作しながら一緒に画面を見られるようになっていた。
5分ほど待っていると、足音が近づいてきた。ドアをノックして入ってきたのは、スーツを着た40代の女性だった。清潔感があり、すっきりした顔立ちだ。瀬川は立ち上がって挨拶をし、名刺交換をした。
「担当の鈴本です」
とその女性は挨拶をした。笑顔は見せたものの事務的な感じで、最初は瀬川を値踏みするような感じで見ていた。テーブルを挟んで座ると、鈴本は瀬川が予め送った履歴書と職務経歴書を取り出し、ざっくばらんに質疑を始めた。
瀬川が転職エージェントと面談するのはこれが3件目だ。いちばん最初のは大失敗だった。震災の体験を赤裸々に語り過ぎたのがいけなかったようで、ネガティブな印象を与えてしまったのだ。「あなたに合う求人があればご連絡します」と言われたきり、その後連絡はなかった。震災を語るのがいけないのではなく、それを切っ掛けにどう転職に向き合うのかを話す必要があったのだ。登録さえすれば求人情報がもらえると思っていたが、そうではないことがやっと分かった。担当者が自分を買ってくれないと全く話にならないのだ。
2件目は電話面談で、担当の男性は誠実そうな声の持ち主だった。最初の失敗を生かして、これはうまくいった。もちろん震災や原発事故がきっかけであること、家族が避難していることも話した上で、転職の意気込みを率直に伝えた。担当者は瀬川の事を、震災がなければ転職市場に動き出ることが無かった人材と捉えた。面談が終わってすぐに求人案件を3件メールで送ってきて、2日後には追加で2件送ってきている。どれも直接表には出てこない情報ばかりだった。
転職エージェントとのコネクションは、1つに絞らない方がいいので、もう1件申し込んだ。今回は電話ではなく直接会って面談することになった。鈴本は真直ぐに瀬川を見ながら、書類の内容について質問を重ねた。前回とほぼ同様の話を用意して臨んだところ、質疑を重ねるうちに、鈴本の表情がだんだん和らいでいくのが分かった。どうやら信頼を勝ち得たようで、最後にはお互いにこやかに談話していた。彼女の場合、瀬川の職歴や人柄の他、家族と別々に暮らしているところにも同情的な関心を露わにした。「瀬川さんなら、きっと希望するいい職が見つけられると思います。私にぜひお手伝いさせてください」と瀬川よりもテンションが上がっていた。
瀬川は必要書類に記入し、サインした。
「希望する地域ですが、東海地方から西、というのは広すぎるので、もう少し限定しましょうか」
鈴本が提案した。
「あまり限定しない方がいいのでは」
「選択が多くなり過ぎて、かえって見つけにくくなるんです」
「それじゃあ、東海から関西地方までならどうでしょう」
「わかりました。今いくつか探してみましょう」
鈴本はノートパソコンをたたいて条件を入力し、実際に10数件の求人票をディスプレイ上で見せてくれた。求人票には企業情報、仕事内容や必要な能力・資格、勤務条件、具体的な配属先の情報、選考内容などが詳細に記載されていた。瀬川はじっくり読み、気になった5件を選ぶと、鈴本がそれぞれの印刷ボタンをクリックして、自分の事務所でそれを取るために出て行った。しばらくすると、印刷した求人票を6枚持って帰ってきた。
「さっきの5件の他に、今日入ってきたばかりのがあったので、持ってきました。こういうのもどうでしょう」
瀬川はその求人票を手に取って見入った。
「確かにこれもいいですね」
「いくつか書類選考に出してみますか?」
「同時に進めてもいいんですか?」
「面接が並行しても構いません。でも、当社を通して内定をもらうのは一社になります。一社に決めたら、他の選考は途中でも辞退することになります」
「内定があっても他の選考を優先したい場合は?」
「それは難しいですが、先に来た内定の方を辞退するしかないです。辞退する理由を伝える必要がありますけれど、それは私どもの方を介してお伝えすることになります」
瀬川は少し考えた。やみくもに多く応募していいわけでもなさそうだ。
「いますぐではなくても、持ち帰ってよく読んでみてください。インターネットで会社を詳しく調べたりして、じっくりと考えた方がいいですよ」
鈴本は笑顔で言った。
「そうします。2、3日中にどれに応募するかご連絡します」
「他にもご希望に近いものがあれば、今後も随時メールでお送りいたします」
エレベーターまで鈴本に見送られて、そこを辞した。
時間は午後4時を回っていた。土曜日に面談を設定してもらったので、今日は横浜の実家に戻る予定だ。いわきへ帰るのは明日だし、夕飯は済ませて帰ると実家にも伝えてあるので、とくに急ぐ必要はなかった。瀬川は駅へ向かわず、日比谷公園の方へ足を向けた。
外へ出ると、急に殺伐とした都会に放たれた感じがした。道行く人も車も、全てが瀬川とは関係がなかった。面談の緊張からは解放されたはずなのに、さっきまで鈴本と対面していた安心感が懐かしく思われた。歩いていると孤独でいられた。心が周りから切り離されて、いろいろなことが頭に浮かんでは消えた。離れた家族のこと、いわきの友人たち、会社の同僚のこと。なにか頭の中を整理しなくてはならない気がしていた。
日比谷公園と皇居の堀に面する大きな交差点の信号で足を止めた。行き交う車の乾いた音を聞きながら、瀬川は自分が穏やかに興奮していることに気づき始めた。その興奮を何とかしたくて、自分は歩いているのだ。それは転職して新しい世界へ踏み出すことの奮えとも少し違っていた。自責の念なのだろうか。逃げ出すことの苦しみだろうか。自分はいったい、なにか間違ってはいないのだろうか。何度も考えたはずのことが、また頭を巡ってきた。
そうだ、線量計のことが浮かんだ。横浜の実家付近でα線はほとんど検出されず、連休中に行った愛知の安城市では皆無と言ってよかった。やはり、いわきにはあり、横浜やもっと西の方にはないのだ。瀬川が東海から西を選んだのも一つにはそれがあった。
広美の悲痛な泣き顔を思い出された。連休の最後に、新幹線で帰る瀬川を見送るため、美和が広美と一毅を連れて三河安城の改札まで来た。パパがそこで去ってしまうと知り、「シンカンセンやだぁ、パパがいないのやだぁ」と広美が泣きわめいた。思えば3月に新横浜駅の改札で別れ、そしてこの5月にはまた三河安城駅で離れることになった。広美にとってシンカンセンと「パパがいなくなる」が重なってしまったのだ。こんな思いを、もう繰り返してはいけない。
だから、前へ向いていくのだ。自分は逃げ出すのではない。そう、間違ってなんかいないんだ。
カオリのSNS。カリフォルニアの明るい日差しの中、ダニーや家族に囲まれた笑顔の写真や、農園で手伝いをしている姿の写真もあった。ダニーの家族にも受け入れられ、幸せそうなカオリの様子は、文面にも写真にも見て取れた。カオリも大事な一歩を踏み出そうとしているではないか。そう、これでいい、みんな間違ってないんだ・・・
ビールを注ぎながら「家族は一緒におらんとな」と言うお義父さん「いったい、いついわきに帰るんだ?」 すると美和が「子供たちを明るく伸び伸びと育てたいの。私もう、いわきに帰るつもりはないわ」美和の隣に笑顔のアケミが寄り添うように立っていた。「アケミさんもいわきには戻らないって」美和は屈託のない笑顔をアケミに向けてから、またこちらを振り向いた。すると目の前にいるのが鈴本に変わっていた「瀬川さんなら大丈夫です。私にぜひお手伝いさせてください」
浜村がしゃべり出した。「家族がここに帰るか、お前がここを出ていくか、ザックリそのどちらかしかないだろう?」「それは分かっているさ。だからこうして頑張っている」「だからって本当に出て行くのか? いわきに縁があってここにいるんだ、お前もどこかで妥協しないとだめだな」「それはもうできないんだ」「できないことはないだろう。他にも大勢の人が、家族とここに暮らしてるじゃないか」「でももう、そういう訳にはいかないんだ」「強情なやつだな。いったいこれから、俺の愚痴は誰が聞いてくれるって言うんだ?」「お前ならもう大丈夫だろう」「勝手を言うなよ。そうやってお前だけ逃げ出そうとしている」「逃げるんじゃない。前を向いて進んでいくんだ」「それは言い訳だな」「違うさ」「違わないよ。家族や友人の言葉を借りて、言い訳を考えているだけじゃないか」
そのときアイツが来た。地の底から大きく手を伸ばし、胸の中をギュッと締めつけた。辛かった。助けを求めようと前を見たが、浜村はそこにいなかった。
はっと立ち止まって辺りを見ると、夕闇が迫っていた。息が荒く、喉が乾燥してひりひりした。いつの間にか公園の中をぐるぐる歩いていたようだ。人はちらほらいたが、瀬川の存在には無関心だ。瀬川はネクタイを少し緩めて、そのまま佇んでいた。耳鳴りがして、まるで頭の中を何かの残響が回っているようだ。悪い夢から覚めた時のように、頭の痺れが引いていくのを待った。
やがて公園が暗くなり街灯が点き始めた。
17 翻心
SNSは、楽しいひと時や見映えのいい物、場面、景色が切り取られて、その生活すべてが幸せに包まれているかのように見えてしまうことがある。だが心の内までは、それを書いて表現しない限り伝わらないことを、森村香織は痛感していた。確かにカリフォルニアでは夢のようだった。ダニーと彼の家族に暖かく迎えられ、その家で楽しく数日間を過ごすことができた。ダニーの父親は入院していたが、母親と妹が一緒に住んでいて、妹のボーイフレンドが時々顔を出した。下の弟はまだ大学生だが、休みの日に時々帰って来て農場を手伝っていた。
香織が農場の手伝いを申し出ると、家族は喜んでやらせてくれた。朝からダニーや妹弟、母親と一緒に起きて仕事に出た。大変だったが、香織はここの生活が自分に合っていると思った。
一方で、いわきに心を残してきたように感じていたのも事実だ。その問題はあとでゆっくり考えることにして、今はここの生活を存分に体感し、ここの幸せに集中することにした。そうすることが、ここへ来た目的だったし、結婚するかどうかは、その上で考えるのがフェアだと思った。母親も妹弟も、ダニーとの結婚について今は一言も触れないでいてくれた。
バークレーで過ごした素晴らしい日々を、SNSに綴った。写真も上げた。すべて事実だったし、否定的な事をいまここで書く理由はなかった。結婚のことはまだ決めていないのだから。しかしみんなの反応は香織の気持ちとだいぶ違った。結婚に前向きと受け取って、アケミやミワ、ホアとエレナなどからも「幸せそうでよかった」「いつか遊びに行かせて」「素敵な未来が待っていますね!」「やっぱり行ってみて良かった」「結婚式はどこで挙げるの!」などとコメントが返って来た。
テツも工場で会ったとき、同様の反応だった。「SNSで見たよ。優しそうな家族で、本当に良かったね」とテツは笑顔を向けてくれた。「みんな素敵な方たちでした」「農場の生活はどうだったの?」「それは本当に、私に合っていると思います。ただ・・・」「ただ?」「結婚については、まだ考えています」「どうして?」「気持がまだ決まっていなくて」「何かまだ問題があるの?」「問題と言うよりも、私の生き方というか、気持ちの整理がついていなくて・・・」「それは時間をかけて考えなくちゃいけないことかも知れないね。気持ちの整理をつけてから、きちんと決断をしないとね」テツにもまだ心情を伝え切れていなかった。そして結論はもう決まっていると思い込まれていた。
誰もが結婚すると思っていた。言葉には出さないけれど、放射線のリスクから離れてアメリカに行くことが、香織にとって当然の選択のようだった。もちろんそれも考えた。ダニーの事は心から好きだし、バークレーへ行けば幸せに暮らせるだろうことは、今度の滞在で実感するものとなっていた。だけど・・・と香織は思う。
香織の曾祖父は群馬から福島の浜通りに移住し、炭鉱関係の会社で働いたと祖父から聞かされていた。そう言う祖父もやはり同様の会社に従事し、日本のエネルギーを影で支えてきたと自負していたのを覚えている。その祖父は香織が中学生のころに他界した。
父はいわき市の北にある広野町の火力発電の仕事をしていた。あまり友人に話していなかったが、東京電力の関係会社だ。炭鉱とは異なるが、やはりエネルギーに関わっていた。この原発事故による電力不足をカバーするため、被災した広野火力発電所の復旧が現在急ピッチで進められていて、父親もそこで忙しく働いていた。難しいことは分からなかったが、テツが東亜ベアリングでやっているような仕事を、発電所でやっていると、香織はなんとなくイメージしていた。
祖父や父の仕事を今は素晴らしいと思えるが、思春期の頃は片田舎の街に住み続けることに嫌気がさしていた。県内の大学へ進んだ兄と違って、香織は高校を出るとすぐ工場勤めを始めた。お金を溜めながら友達と国内外を旅行した。あまり贅沢はできないので、格安のツアーを探した。海外は年一回行けるか行けないかだった。高校の頃から始めたギャルファッションにも磨きをかけた。髪色や髪型を大きく変えたのもこの頃だ。地元のいわきには全く興味がなく、気持ちは外へ向いていた。いつの日か東京や、どこか海外で暮らすのだと思っていた。
海外旅行をするために英語を勉強し、外人と話ができるイワキアン・バールに出入りするようになった。高校のとき英語の成績だけは悪くなかったので、その自信もあって積極的に会話を実践し、どんどん上達した。
この時期の香織は、自分でも意外なほどモテた。イワキアン・バールでもどこでも、いろんな男に声を掛けられた。日本人もいたし、外国人もいた。男女を問わず、たくさんの人と会話をし、友達を増やした。しかし口説かれそうになると軽く受け流した。特定の男と付き合って友達を失ったり、傷ついたりするのは嫌だった。いろんな人に賑やかに囲まれているのがよかった。
それでも、内緒で付き合ってみたこともあった。自分なりに慎重に選んだつもりだったが、あまり長くは続かなかった。働き始めてから最初に付き合った日本人は、3ヶ月しか続かなかった。仕事で来ていたドイツ人とは半年で別れてしまった。それからダニエルに出会うまでは、誰とも付き合わなくなっていた。
そのあとアケミがイワキアン・バールに現れたのは、香織が23歳のころだった。なにか明るくてきらびやかなものが、やってきた気がした。社交的で快活なアケミは、香織より7つ年上の大人な女性だった。
アケミに招かれて、豊間に新築したゲストハウスに遊びに行くようになった。アケミのダンナのユージともすっかり打ち解けた。アケミが招く友達はどんどん増えて、外国人も交えたパーティやバーベキューを時々やるようになった。そんなとき、アケミと一緒に香織が友達を誘ったり、それを企画するようになっていた。アケミに頼りにされ、良きパートナー的存在でいることは、香織の大きな喜びになっていった。
ゲストハウスには、サーファーやツーリング客が頻繁に集まり、そうした客はみんなこの地を満喫して帰って行った。浜通りは海が暖かくきれいで、サーファーが集まり、豊富な海の幸もあるとアケミは言う。小名浜出身のユージも、静岡から来たアケミも、香織と違っていわきに誇りを持っていたように感じられた。彼らの前では、ここがまるでリゾートのようだった。そうしたことを通して、香織はこの地を今までとは違った目で見始めるようになっていった。友達とどこかへ旅に行っても、青い海の向こうに繋がっている、いわきの海岸を思い浮かべて、人知れず遠い空を見入っている自分を見つけることが増えた。
やがてブリーチをやめて黒髪に戻した。つけまつ毛やカラコンを外し、化粧も服の趣味も少しずつ変えた。ギャルファッションが嫌になったわけではないが、アケミに近づくことで、自分もキラキラした大人になれる気がした。アケミと連絡を密にし、週末の多くの時間は一緒にいた。生理がアケミと同期してくると嬉しく思った。ダニエルと付き合い始めてからファッションを変えたと勘違いする人もいたが、実際そうではなかった。アケミの存在が香織を大きく変えていたのだった。
香織がイワキアン・バールで初めてダニエルを見たとき、目を離すことができなかった。アケミが現れた時とは違うときめきだ。清潔で誠実な何かがやってきた。話をするとき、自分でも驚くほど緊張した。男性に対してこんな気持ちになることは、長いことなかった。話をするほどに、さらに素敵に思えてきた。ダニエルの言動は、どこまでも香織を裏切らなかった。香織は生まれて初めて自分から告白しようと決意した。3度目にイワキアン・バールで会ったとき、緊張して言い出せなかった。4度目は半ばあきらめていたが、家に帰ってから強く思い直した。それから5度目に会うことができ、テーブルで二人きりになったとき、ついに意を決して告白をした。ダニエルは驚いて、緊張で泣き出しそうな香織を見つめ、香織から言わせてしまったことを詫び、『僕もカオリに同じことを言おうと思っていた』と言った。香織は涙目のまま喜んだ。宙に浮くような、幸せな気持ちだった。そのとき、二人の密かな会話に気づく者はなく、店にはいつもの賑やかな時間が流れていた。
しかし二人の交際の話はすぐに広まった。そこには多くの羨望と賛意と喜びの感情があった。アケミも友人たちも、今まで以上に優しく接してくれた。かつて心配していたように、友達を失ったり、誰も傷ついたりはしなかった。香織は自分が強くなっていることに気づいた。ゲストハウスに行くときも、大勢で遊びにいくときも、ダニエルと一緒だった。
ある年の春、三崎公園のピクニック広場に集まってバーベキューをしたとき、アケミが新しい友達のミワを連れてきた。ミワはアケミと歳が近く、もうすぐ1歳になる娘のヒロミをベビーカーに乗せていた。「ヒロミちゃん、うちのジュリちゃんと友達になってね」と言ってアケミは、生まれて数ヶ月になるジュリのベビーカーを、ヒロミの隣に並べていた。
ミワは機転が利き、どの友達とも分け隔てなく接する優しい女性だ。英語は得意でないと言うものの、外国人とも臆せず話していた。香織がちょっとだけ嫉妬したのは、アケミがミワをとても気に入り、信頼しているようだったからだ。それはアケミの中にいる自分の存在を脅かしそうに思えた。ところが、そんな気持ちを察したのか、ミワはいつも控えめにしていた。香織はそんなミワにも次第に尊敬の念をいだき、心酔するようになっていった。アケミと同様に、ミワとも長く友人でいたいと思った。
ミワとの最初のバーベキューのとき、ミワのダンナにも会っていた。
「テツと呼んでください。よろしくお願いします」
ダニエルと同じくらい長身のテツに挨拶されて、香織は「あ」と小さい声をあげた。
「瀬川さんですよね」
テツは驚いて香織の顔をまじまじと見た。香織のことを全然思い出せないようだった。
「あの・・・生産技術の瀬川さんですよね、私、工場で働いているんですけど、最近ときどきお見かけします」
「あ」テツがやっと気づいて「驚いたな、偶然だね」
それからテツはダニエルにも挨拶した。英語は粗雑だが、臆せず積極的に話す感じがミワと同じだ。ダニエルはすぐにテツとの会話に興じた。互いに気が合いそうだった。それからテツとダニエルは火の周りへ行き、他の男性たちに混ざって話しながら、缶ビールを片手に肉を焼き始めた。その様子がなんだか良くて、香織は少し離れたところで眺めていた。談笑が続き、途切れて、また始まった。会話の切れ間に、テツが少し目を遠くへ向けた。そして会話に戻り、また目の前の肉を焼き始めた。そういえば、さっき紹介される前にも、テツが一人で空を見上げているのを香織は見かけていた。自分も旅先で、テツと同じような目で空を見ているような気がした。いつかテツさんに、なにを思って見上げているのか聞いてみようと、香織はそんなことを考えた。
「だめよ、カオリさん」
アケミが少し悪戯っぽい目をして話しかけてきた。
「いまテツさん見てたんでしょう。テツさんには素敵な奥さんがいるんだから」
「やだ、そんなんじゃないですよ」
香織は思いがけず顔を赤くしていた。
それから2年がたち、地震と津波、原発事故が全てを変えた。幸せだった日々を、恐怖に変えた。豊間のゲストハウスも無くなった。アケミやミワは西へ逃れ、もう帰ってこないと言う。去った人、残った人の理由は様々だ。テツは仕事で残っているが、思い詰めたように、疲れた顔で歩いているのを工場で見かけた。もしかすると、奥さんや子供と一緒にここを去るかも知れないと思ったが、怖くて聞くことができなかった。
震災直後は自主避難もした。あのときの恐怖は忘れられない。そしてダニエルからのプロポーズ。誰もが結婚してアメリカにいくべきだと勧めてくれた。福島から離れて、子供を産んで、農園で働きながら幸せに暮らす。それは香織が長い間望んできたことに違いなかった。
しかし改めていわきに帰って来て、それは違うと香織は気づき始めた。カリフォルニアの美しい陽射しの中にいたことを思い出すと、いつも遠い空を見上げて、いわきの海を探し続けていたように思うのだ。いや実際には見上げていなかったかも知れないが、心がそこにいたのは確かだった。浜通りに対する誇りが、いつの間にか香織を変えていた。やはりいわきにいて、自分にしかできないことをやりたい。それがどんなことか、まだ具体的に分からないが、アケミやミワが離れても、いまここに残って自分を試したい、そう強く思うようになっていた。
――あの二人のようにキラキラした大人になれたなら、またみんな帰って来てくれるかも知れない。その時のためにできることを精一杯やりたい。ここを去ってしまったら、遠い海を探しながら一生後悔をするだろう。ただ、相談に乗ってくれたみんなにそれを説明できるだろうか。テツさんにもうまく言えなかったことを。
ダニエルが6月か7月にいわきへ来て、1週間ほど滞在する予定になっていた。震災で東京に避難したあと、一度もいわきに戻っていなかったのだ。ダニエルの住んでいた部屋はすでに香織が整理して、荷物をアメリカへ送ったり、あるいは処分したりしていた。しかし、ダニエルは多くの友人にまだ挨拶をしていなかったし、いわきに対する気持ちも整理をつけに来なければならなかった。
香織もまた、ダニエルが来たときに自分の気持ちを話し、別れを告げなければならないだろうと思った。
18 岐路
【チサ】6月24日 23時
今勤めている病院は今月いっぱいで辞めることになりました。新しい職場はいわき市内に決まっていて、来月引っ越す予定です。いわきは郡山より線量が低いし、北茨城に住む両親もとりあえず安心してくれています。
――いいね54
いわき駅には、すでに特急スーパーひたちが停車していた。まだ朝早いこともあって、ホームにあまり人はいなかった。瀬川は知っている人が回りにいないことを素早く確認し、スーパーひたちの乗降口へ入った。会社の誰かが東京方面に出張で行く場合、1時間に1本しかないこの特急電車を利用する可能性が高いのだ。ここには誰か知り合いが居るかも知れない。休みをとった瀬川がスーツ姿で電車に乗るところを見たら怪しまれるのは必然だ。見つかってしまえば仕方がないことだが、できれば余計な詮索をされたくなかった。
車両に入ると、知らない乗客が一人だけ座っていた。その人の横を通り過ぎて、瀬川は一番後ろの座席の、ホーム側の窓際を陣取った。座るとすぐにカーテンを閉め、背もたれを後ろに倒した。これで外からも見えないし、万一知り合いが入って来ても、容易に身を隠すことができた。あとから同じ車両に入って来る人もチェックし、その人がどこへ座るのかを後ろから確認した。結局、知らない人がもう一人前の方に座っただけで、知り合いと顔を合わすことはなく、スーパーひたちは定刻通りにゆったりと出発した。とりあえず上野までの2時間半はこれで安心だ。
企業の面接試験に車で行けばこういう心配をしなくていいが、関西までだと時間がかかり過ぎて、その日の面接には間に合わないのだ。今回は金曜の朝に特急と新幹線を乗り継いで行き、午後2次面接を受けたら、向こうでビジネスホテルに一泊して、土曜に帰る計画だ。交通費は向こうの会社が出してくれるので、宿泊費だけが自腹だった。
遠距離のため、1次面接は電話で行われていた。そのあと鈴本から連絡があり、2次面接の日取りが今日に決まったのだ。「1次面接は好感触だったようです。2次面接は1次で話した内容の再確認や、瀬川さんの人柄を見たいらしいので、頑張ってください」と鈴本が電話口で激励した。1次面接にいくつか落ちた後だったので、とりあえず嬉しかった。
特急電車が県境を越えて北茨城に入ると、しばらく海沿いを走った。地震と津波の被害を受けた家屋が、窓の外を痛々しく過ぎ去って行った。いわき駅でがらがらだった車内が、日立駅で乗客が少し増えた。水戸駅ではさらに大勢乗って来て、ほぼ満席になった。
上野に着く時、瀬川は早めに出口へ並んだ。車両の出口が開くとすぐに足早な集団に紛れ、ホームの雑踏の中を目立たないように進んだ。中2階の中央乗換通路を抜けて山手線と京浜東北線が発着する3・4番線ホームに降り立つと、ちょうど入ってきた電車に急いで乗った。駅でもたもたしていると、スーパーひたちの他の車両に乗っていたかもしれない同僚に、見つかる可能性があるからだ。
飛び乗った京浜東北線は混雑していたが、瀬川はむしろゆったりとした気持ちになった。ここまで来て人ごみに混ざってしまえば、もはや知り合いの目に触れる心配もなかった。スーツ姿の瀬川は、人が溢れる東京の風景の一部になっていた。
東京駅で京浜東北線を降りると、そこから新幹線に3時間余り乗り、姫路駅に着いたときにはお昼を回っていた。瀬川は駅構内の飲食店で簡単に昼食を済ませると、ローカル線のディーゼル車両に乗り換えて、隣のたつの市に向かった。姫路の市街地を抜けると、周囲には森林や山が美しく輝いていた。この先人の住むところがあるのか心配になったが、やがて住宅がある地域に入った。
目的地の駅に着くと、そこは姫路と違って、駅前に人通りはほとんど無かった。一台だけ停まっていたタクシーに乗って、その会社へ向かった。窓から見える揖保川の川面が瑠璃色に輝いて見えた。自然が豊かなことと、「たつの市」の表記が平仮名なのが、いわき市と同じだと思った。
食品メーカの門をくぐると、三木という人事担当の女性が部屋まで案内してくれた。電話で想像したよりも若く、20代の半ばくらいと思われた。三木は小さめの会議室のような場所に瀬川を通すと、いったん部屋を出て行った。一人になると瀬川は軽い緊張を覚え、深く息を吸って、ゆっくりとそれを吐いた。見知らぬ土地の、見知らぬ部屋だ。これから会う面接官の課長さんも、1次面接で声だけ聞いたとはいえ、今日初めて会うのだ。声の感じは気さくで話しやすい印象だが、今回も全く同じ態度で接してくれるとは限らない。
しばらく待っていると、作業服姿の男性を連れて三木が帰ってきた。40過ぎぐらいのその男は「やっと会えましたなあ」と上機嫌で瀬川に近づき、名刺を差し出した。声ですぐに、電話で面接をしてくれた生産技術の春名課長だと分かった。印象通り明るくさっぱりした人当たりだが、眼鏡の奥に精力的で大きな目を輝かせていた。
瀬川が春名の名刺を受け取っているとドアが開き、いかつい顔をした恰幅のよい男が入ってきた。瀬川が一瞬ぎょっとするほど怖い人相だ。春名が「こちらは生産本部長の見満(けんま)です」と笑顔で紹介すると、その男は顔を急にほころばせ、驚くほど柔和な表情になり「瀬川さん、春名から聞いとります。今日はよろしくお願いします」と言って名刺を渡してきた。声も優しそうだ。人は見かけでは分からないというが、これほど極端な人は見たことがないと瀬川は思った。あとで分かってきたのだが、この地方はそういう面構えで優しい人が結構いた。
二人とも瀬川を気づかって標準語ぽく話しているけれど、言葉にところどころ関西のアクセントが感じられ、そのことが遠く西へ来たことを強く感じさせた。そのまま面接質疑が始まったが、不思議とあっという間に終わったように感じられた。順調に進むときは、そんなものかも知れないと瀬川は思った。面接の後、工場を見たいと申し出ると、「あまり多くは見せられないけど」と言ってから、春名は見満の方に首を回して「一般向けの見学コースでよかったら少し案内しましょかあ」と自分の上司に提案してくれた。語尾が関西のイントネーションだった。見満が「ええやろ」と快く頷くと、三木がにこやかに「ほな着替えとか準備しますね」とすぐに部屋を出て行った。
2次面接と見学を終えて姫路駅まで戻ってくると、すっかり夕方になっていた。予約しておいたビジネスホテルにチェックインし、部屋の中でネクタイを外して上だけ楽な服装に着替えると、夕食を兼ねて周辺の探索に出た。もし今回の会社に入ることになったら、姫路の繁華街に来ることも度々あるだろう。
瀬川はビジネスホテルがある駅南側から、中央改札がある広い通路を歩いて北側へ抜けた。金曜日ということもあって、改札周辺は人がごった返していた。姫路駅北側は再開発の最中らしく、白い幕や仕切りで覆われていた。仕切りと仕切りの間にできた細い通路を人がせわしなく行き来していたが、瀬川は全体の大きさや形が分からないし、そもそも元の駅ビルも知らなかった。完成図が貼り出されているのを見つけたが、範囲が広いので、自分が居る場所からどこをどう見ればいいのか分からなかった。とにかくかなりセンスのいい、きれいな駅前になりそうな絵だった。
駅北の大手前通りからは、世界遺産の姫路城が真正面に見えるはずなのだが、その大天守もまた、白い囲いで覆われていた。この時ちょうど『平成の大修理』の真っ最中だったのだ。駅前も城も、みんな覆われていて、この先どうなるのか見えない――まるで今の自分を象徴しているかのようだと瀬川は思った。
大手前通りを姫路城に向かって真っすぐ歩いてみたが、すぐ正面にあるのに、思いのほか距離があった。やっとお堀のところまで着いたが、そこから桜門橋を渡って、重厚なつくりの大手門をくぐると、中にある三の丸広場を挟んで、まだ3百メートル以上も先に城の大天守を囲う巨大な白い箱が見えた。遠くからだと分からなかったが、ここまで来ると四角い囲いには大天守の形の絵が描かれているのが見えた。本物を直接目にすることはできないが、威風堂々とした美しい城に違いなかった。三の丸広場の芝生に立って、瀬川はしばらく夕闇にそびえる囲いを見上げていた。
ここも富士のない空だ――瀬川は思った――そして、姫路城がある街だ。
冷たく重かった心の中に、暗い雲の隙間から暖かい陽が細く射し込んできた気がした。いつの日か囲いの取れたこの城の雄姿を、この場に立って、目にしたいと思った。
鈴本を通して内々定の連絡があったのは、それから10日ほど経った7月の初めだった。「瀬川さんに入社の意思があれば、先方から内定の通知書が送られてきます。いま進めている他の会社は辞退しなくてはなりませんので、よく考えてご返答くださいね」内容は事務的だが、鈴本の声は嬉しさで弾むようだった。瀬川にとって、断る理由はなかった。
後日、内定通知を郵便で受け取ったあと、退職願を書いて会社に持って行った。秋山課長は
「本当なのか」と驚き、「考え直せないか」
と聞いてきたが、瀬川が理由を説明すると、
「そういうことなら無理は言えないな。次の仕事はちゃんと決まってるんだな」
と言い、瀬川の退職願を預かった。
夕方になって、秋山課長と一緒に瀬川が工場長に呼ばれた。工場長は机の上に瀬川の退職願を置き、座ったまま二人を見上げた。
「出資者が秋に来訪することが決まった」
3月に来る予定が震災で無くなり、再度計画を立て直すとは聞いていたが、どうやらそれが決まったということらしい。工場長が話を続けた。
「こんどの来訪計画は3月のとは意味が違う。大々的なイベントに仕立て上げて、我が社の工場が再興し、軌道に乗ったことを内外にアピールして、さらには採用の活性化にもつなげたい。瀬川君、どうか手伝ってはくれんか」
「でも、もう行くことに決めましたので」
「秋山さんがいなくなったら、瀬川君に期待しようと思っていたんだが」
「秋山課長が・・・?」
「なんだ、瀬川君はまだ聞いてないのか?」
それまで口を閉じていた秋山課長が、困った表情で工場長を見て、それから瀬川の方に顔を向けた。
「先日私も退職願を出したんだ」
「え」
「家族が長野の実家でずっと自主避難をしていてね、むこうで転職先を決めたので行くことにしたんだ」
瀬川は驚いて口を閉じるのを忘れてしまった。自分と同じではないかと思った。隠れ単身者がこんな目の前に、もう一人いたとは。
「そういうわけだ瀬川君、どうか残ってくれないか」
と工場長が話を戻した。
「すみません・・・」瀬川が言葉に詰まった。
「まったく二人とも、仕様がないやつらだな」
「すみません」こんどは秋山課長が言った。
少し間があった。
「まあいい。本当はぜひ残ってほしい気持ちでいっぱいだ。急に二人もいなくなるのは、工場としては大きな損害だ。しかしながら」
とそこで息を入れた。
「一人の人間としては、二人の選択を尊重したいとも思う。きっとつらい思いもあっただろう。どうか次の場所へ行っても頑張くれ」
「ありがとうございます」と瀬川。
「もちろんです」と秋山。
「ただし」と即座に工場長が付け加えた。「最後の日まで、この工場のために尽力をしてほしい」
翌々日、新工場の外周路を、瀬川と青木と飯山が歩いていた。
「驚きっすよ、辞めちゃうんですか」と飯山。
「二人にいろいろ引き継がなくちゃならないが、すまんな」
「それはいいですけど、転職活動してたなんて、知りませんでしたよ」
「たしかに分からなかったよな。転職かあ。僕も転職しようかなあ」
青木がのんきな感じで言った。瀬川の後ろめたいような、申し訳ない気持ちがちょっと救われる思いだった。退職していわきを離れることに対する周りの反応は、瀬川が想像していたものと違い、とても寛容なものだった。災害が人の心を優しくしているように思えた。
この日、瀬川は加工設備の概略を青木に説明した。入社してずっと設備に携わってきた青木は、瀬川よりも飲み込みが早く、彼なりにいくつかの改良点も思いついたようだ。
「ねえ、瀬川さんて、モテるじゃないですか」
仕事終わりの雑談で、飯山が急に言いだした。
「俺がモテる?」
瀬川は驚いた。飯山がなぜそう思ったのかよく分からないし、自分自身モテると思ったこともなかった。
「なにを言い出すんだ、モテてないよ」
「モテますって、ねえ青木さんもそう思いますよね」
「そうだな、瀬川さんはモテるな」
「おいおい、いい加減なことを言うなよ」
瀬川は笑い出した。
「急に二人でからかっているのか」
「だけど、あの現場の女の子とも仲いいでしょう?」
青木が言ったのはカオリさんのことだなと瀬川は思った。
「あとは人事総務の草野さんなんかも瀬川が好みだって言ってるし、他にもいたよな、飯山」
「輸出管理の野口さんもタイプだって言ってますよ」
「そうなのか」
草野が公言しているのは知っているが、野口がそんなことを言っているとは知らなかった。
「なんでモテるのか、知りたいんすよ。瀬川さんの秘訣、最後に教えてください」
「なんだよそりゃ」
「あそこあそこ、イワキアン・バールっていうところの集まり、こんど僕も連れて行ってください。普段の瀬川さんを見てみたいんですよ」
「それは構わないけど、ほら、カオリさんも来るんだぞ」
「それは大丈夫です。何をご存知なのか知りませんが、べつに何もなかったんですよ、あの人とは。ただ思いっきりフラれただけです」
「いやだから、それが問題だろう、お前、それで大丈夫なのか」
と瀬川が言うと、青木が吹き出した。
「はあ、そんな事件があったのか」
「そうらしいんだ」瀬川は青木に言ってから、「それに飯山、こんどはカオリさんの彼氏も来るんだぞ」
「アメリカ人ですよね。構わないすよ」
飯山は平然と言った。
「へえー、アメリカ人と付き合ってるの? あの子が?」
青木が違うことで感心した。
「ねえ青木さんも一緒に行きましょうよ」
「俺はいいよ、あまりそういうとこ興味ないし。飯山はそれで平気なら行ったらいいんじゃないか」青木はニヤニヤ笑いながら「修羅場かもしれないがな」
そう言ってから、
「瀬川さん、飯山がそこまで言うなら連れて行ってやってもいいんじゃないですか」
「一緒に行きたいなら行ってもいいが、俺は責任とらないぞ。それに参考になることなんて何もないからな」
「やった」飯山が大喜びした。「こんどいつっすか」
「あとで連絡するよ。そろそろ戻ろうか、人事総務に寄る用事があるから」
「草野さんすか、やっぱりモテる男はツラいですねえ」
「ばか言え、退職手続きの件で用事があるだけだ」
瀬川は事務所で帰り支度をしてから、総務の建屋に向かった。途中、工場建屋から藁谷さんと山田さんが出て来て、目の前にいた瀬川に声をかけてきた。
「瀬川さん、聞いたよ。まさか瀬川さんも辞めてしまうとはね。やっぱり原発なのかい」
「藁谷さん、すみません。家族と一緒に別の所へ行くことにしました。来月末が最終出社日になります」
「いや、行けるところがあれば、行った方がいいよ」
山田さんは優しい顔で言い、藁谷さんも笑顔で頷いた。心に沁みるようだった。地元の人たちにまで優しい言葉をかけられるとは思っていなかったのだ。
そのあと総務に行き、退職までの手続きの流れを草野がざっと説明してくれた。草野は地味な印象だが感じのいい30代後半の女性で、会社仲間と一緒に何回か飲んだこともあった。
用件は20分ほどで終わって、少し雑談をしていたとき、草野が気になる話を口にした。
「森村さんの件、ありがとうございます。あんないい人がうちにいたんですね」
「え?」
「森村さん、通訳の仕事が決まったんですよ。瀬川さんが紹介してくれたんですよね」
「それ誰? 何の話だろう」
「あら、うちの部長が浜村さんに頼んで、瀬川さんから聞いたって言ってましたけど」草野は顔を少し横に向けて首をかしげた。「違ったのかな」
「あ、それ、カオリさんのことか」
「そう、森村香織さんです。しっかりとした、素敵な人ですよね」
「しかしそんなはずは・・・」
そんなはずはないと瀬川は思った。結婚してアメリカに行くはずなのに、それとも、短い期間だけその仕事を引き受けたのだろうか。
「ずっとやる予定? それとも他の人が見つかるまでの繋ぎかな」
「え・・・」
草野が不思議そうに瀬川を見つめた。それはつまり、そういうことではないことを意味していた。何が起きているのか全く分からなかったが、とにかくカオリに聞いてみる必要があると瀬川は思った。
瀬川は急いでそこを後にした。
19 集散
7月半ばの金曜日、イワキアン・バールに友人が集まった。みんなを呼んだ当のカオリが、まだ来ていない。
「ダニーと大事な話があるから、少し遅れて来ると言ってたよ」
瀬川が伝言を頼まれていたので、すでに来ていた10数人にそう伝えた。
『久しぶりにダニエルと会うんだもんね』
とエレナは豊かな頬を緩めた。
『ダニーと大事な話って、きっとプロポーズの返事かしら』
ホアが上品な笑顔で自分の推察を披露すると、エレナも嬉しそうに同調し
『いよいよ婚約発表かもね』
と憶測を広げた。聞いていられなくなった瀬川が、ついに口を開いた。
『そうではないらしい』
エレナとホアが、同時に瀬川を見つめた。何か知っているの? と顔に書いてある。
『結婚は断ることにしたって、カオリさん言ってたから』
『何ですって?』とエレナが目を大きく開いた。
『それ、本当にカオリが言ったの?』ホアが肩の力を抜いた。
初めて知ったとき瀬川も驚いた。カオリの思いは瀬川が到底入り込めない深いところにあるようで、容易には理解できなかったが、外からやって来た自分と違って、いわきに対する思いが強いことは確かだった。カオリが遠く大きい存在に思え、そして何故か寂しい気持ちになった。自分はカオリのことを知っていたつもりで、少しも解っていなかったのだ。
ダニエルには電話で伝えてあるが、今度来る時に改めて話し合うのだと言う。友人にはカオリから説明するけれども、集まった時にもし聞かれたら先に話してもいいと、瀬川に託していた。それとなくみんなに伝えておいた方が、カオリも打ち明けやすいのかも知れなかった。
エレナとホアにしつこく聞かれて、瀬川はカオリの話をかいつまんで説明したが、自分自身が理解できない思いを伝え切れるものではなかった。話を聞いて、エレナもホアもやはり呆然としていた。
しかし、穏やかにホアが言った。
『そういうことなら、私はカオリの考えを尊重するわ』
それを聞いてエレナも口を開いた。
『そうね、私もカオリを応援する。これからも私たちがついているわ』
『いわきに残っている私たちで、カオリを支えていきましょう』
ホアはそう言ってから、瀬川のことを思い出し、
『あ、テツごめんなさい、そういう意味じゃないの』
するとエレナが瀬川に言葉を向けた。
『テツも向こうへ行ったら頑張るのよ。ミワと子供たちを大事にしてね』
『ありがとう』
『私からもミワによろしく言ってね』
『伝えるよ』
瀬川自身のことも、すでに話してあった。拍子抜けをするほど、それを責める者はいなくて、むしろみんなから激励の言葉をもらっていた。この震災は、人々の気持ちを優しく、寛容なものにしていた。それは、大きな困難を乗り越えるための人間の性(さが)のようなものかも知れない。なんだか心苦しくて、切ない感じがした。いわきで出会った人たちを、決して忘れてはいけないと瀬川は思った。
『それにしても、イイヤマってどんなワルかと思ったら、結構いいヤツじゃない』
飯山の方を見てエレナが言った。すでに瀬川をそっちのけで、いろんな人と打ち解けて談笑をしていた。最初だけ飯山を何人かに紹介したのだが、その後は一人で勝手に突き進んで行った。英語もなんとか話しているようだ。瀬川は心の中で可笑しく思った。いったい何がモテないんだ、普段の瀬川を見たいとか言っておきながら、もうすっかり自分一人で楽しんでいるではないか。
スイングドアが開いて視線を集めた。入り口はフロアより少し高くなっており、誰が入って来たのか全員から見えるお立ち台みたいな造りになっていた。そこへ、ダニエルとカオリが姿を現した。二人が注目を浴びながらステップを降りると、ホアやエレナなど数人が駆け寄った。
『ダニー、いわきへお帰りなさい』
『カオリ、いま話を聞いたわよ』
ダニエルとカオリはその場で取り囲まれた。瀬川はその2歩くらい後ろで見守っていたが、ダニエルが瀬川の顔を見て輪を離れたので、一緒に丸テーブルへ移動した。
『何を飲む?』
『今は何も飲みたくない』
『そうか』
『もうカオリから聞いてるよね』
『ああ』
『僕は・・・、僕は大好きないわきに残って、カオリと生きる道を何度も考えた。でもやはり、自分の家も捨てることはできない。病気の父を支えながら、農園を育てていくことにした』
『ダニーの考えを尊重するよ。そしてカオリの考えも同じように尊重する』
『僕もだ。そしてテツ、君の選んだ道も尊重するよ。新しい土地で家族と幸せになって欲しいと心から思う』
『ありがとう』
店の高橋さんがテーブルに来て、ビールの小瓶をダニエルの前にそっと置いた。
『僕は頼んでないよ』
『これは私のおごりです』
『ありがとう』
ダニーは嬉しそうに瓶を手にした。
そこへスマホを耳に当てながらカオリが近づいてきた。
『ちょっと千紗を迎えに下までいくね。――そう、その奥の階段を登るの』
前半はダニエルとテツに言い、後半はスマホに向かって話していた。
『チサ?』
ダニエルと瀬川が同時にカオリの顔を見た。聞いたことがない名前だった。
『そう千紗っていう友達が、すぐ下まで来ているの。紹介するわ』
カオリはそう言うと、ステップを上がってスイングドアの向こうに消えていった。しばらくすると足音が二人になって近づいて来た。木の床をたたく軽い靴音が、心地よく仲のいい響きに聞こえた。スイングドアがもう一度開くと、瀬川はなぜか、アケミとミワの二人が入ってきたように錯覚した。お立ち台の上には、カオリともう一人の女性が立っていた。
「素敵、いわきにこんなお店があるのね」
千紗はカオリと同年代だった。近くで見ると小柄で引き締まった身体をしており、少し日焼けした健康そうな肌を持っていた。
『千紗さんとは、震災後に豊間のゲストハウスを片付けに行ったとき、手伝いに来てて知り合ったの』
『あのときか。仕事で行けなかったときだ』
『そう、あのとき、ユージさんが紹介してくれて、連絡を取るようになったの。千紗さんは豊間によくサーフィンに来てた、常連さんなんですって』
『わたし平日しか来なかったから、みなさんとはお会いしてなかったけど』
『郡山で交代勤務の看護師さんをしていて、平日休みになるとサーフボードを車に積んで、一人で遊びに来てたんですって。カッコよくないですか』
『実は震災のときも豊間にいたんです。アケミさんと避難をして一夜を明かしました。あの津波は、とても怖かったわ』
千紗の笑顔が少し陰った。
『アケミさんが一緒に避難した友人て、千紗さんだったんだね』
瀬川はSNSのタイムラインにアケミ関連で入って来る千紗の投稿や返信を思い出した。あれがこの人だったのか。いろんな話が繋がって、瀬川はなんとなく親近感が湧いてきた。
『あら、急に眼の色が変わって』カオリは瀬川にわざと怒った顔をして見せた。『男の人って看護師さん好きですよねえ』
『そうじゃないよ、震災の体験を聞いて、親近感が湧いたというか・・・』
カオリは子リスのように千紗に顔を寄せて『男の人って言い訳下手よね』とささやいた。千紗は初対面の瀬川に失礼かと、ちょっと戸惑ったが、ついに二人でクスクス笑い出した。こうなると瀬川には苦手だ。そこへダニエルが、話を戻して助けてくれた。
『テツと僕は近々いわきを去るけど、友人としてチサを歓迎するよ』
『ありがとう』
千紗が首を僅かに傾けながら上品に会釈した。
そのときスイングドアが開いて浜村が姿を現し、お立ち台の上から店の中を見回した。
『うそだろ』瀬川が驚いた。
『こんどは誰?』ダニエルが瀬川を見た。
『浜村さん、いらっしゃい』カオリが笑顔で浜村に声を掛けた。
「やあ」と浜村がこっちを見つけ、悠然と歩いてきた。
『千紗を他のみんなにも紹介してきますね。どうぞ、ごゆっくり』
カオリと千紗が瀬川たちのテーブルを離れた。華やかなものが去って行った感じだ。入れかわりに浜村が来た。
「カオリさんが浜村を誘ったのか」
「いや、おれが無理を言って招待してもらったんだ。お前がいるうちに、ここに一度来てみたかったからな」
「お前とここで会うのは変な感じだな」
「まったくだ」と浜村は大声で笑った。「しかし森村香織さんというのは、しっかりした女だな。昔ギャルだった頃は、ただのあばずれだと思ってたよ」
『こちら、テツの友達?』
『会社の同僚のハマムラだ』
『私はタカオ・ハマムラです。タカオでいい』
『こちらはカオリさんの彼氏のダニエルだ』
『ダニーでいいです。タカオ、会えて嬉しい』
『ダニー、そうか、あなたが森村カオリさんの・・・』
と言って浜村はちらっと瀬川を見た。浜村にしてみれば、カオリの彼氏に会うのは多少複雑な気持ちかもしれないと瀬川は思った。会社で通訳の仕事を仲介した浜村だが、カオリがプロポーズを断ったから、成立した話だ。そんなことは知らないダニエルだが、
『そろそろ他のみんなとも話してくるよ』
と言い笑顔で席を立った。
浜村がカウンターでビールを買い、テーブルに戻ってきた。
「いわきにもこんな海外みたいな店があったとはな。バルだっけ?」
「バール」
「そうバールだった。外の世界と雰囲気がまるで違うから、普段の陰鬱な気持ちから解放される気がするな」
「たまには遊びに来てやってくれ。きっとみんな喜ぶよ」
「そうだな、お前の代わりに来るか」
「皮肉を言うなよ」
二人とも声を抑えて笑った。
「この前会社で、俺が退職することを言ったけど、あまり驚いていなかったな」
「あのときは時間がなかったしな。それにこうなることは、もう分かっていた」
「ほんとかよ」
「それぐらいお前を見ていれば分かるさ。何年付き合っていると思ってるんだ」
「すまないと思っている」
「何を?」
「俺がいわきを去ることになってしまった」
「まあいいさ。俺が愚痴を言う相手がいなくなるのは残念だが、たまに兵庫に遊びに行くよ。兵庫のどこだったかな」
「そう、兵庫県たつの市というところだ。姫路のすぐ近く」
「瀬戸内だな・・・あそこもいい魚が獲れるぞ」
「牡蠣の養殖も盛んらしい」
「いいねえ。あの辺、酒もいろいろありそうだし」
「どうもお前と話していると、酒と食い物の話になる」
「お前が言うか。だけど仕方がないだろう、お互い、食いながら飲むタイプだからな」
「ぜひ遊びに来てくれ。歓迎する」
「ああ、絶対行く。お前にだけいいもん食わせるわけにいかないからな」
『何ごちゃごちゃ言ってるの?』エレナがテーブルに乱入してきた。さっきよりも酔っている。
『お友達?』とうしろからホア。
『こちらタカオ。タカオ、エレナとホアだ』
『会えて光栄です』浜村が差し出された手を取って彼女らと握手をした。
『ここにいる外国人の方たちは、どういうご縁でいわきに来たのかな』と浜村が話を向けた。
『私は結婚してベトナムから日本に来たの』
『私は仕事で東京にいたんだけど、ダンナと知り合って結婚して、それでいわきに来たのよ。だからホアと私はダンナが日本人。他の人たちは・・・、結婚で来た人もいれば、英語教師とか、仕事で来ている人が多いかしらね』
『そう言えばエレナ』と瀬川が思い出した。『そろそろダンナ来るんじゃないの?』
『さっきメールで、やっぱ仕事終わらないから行けないって。信じられないわ』
エレナは最後の語気を荒げた。
『また会いたかったけど残念だな。よろしく言っておいてくれ』
『ええ伝えるわ。うちのダンナったら、あれだけ強く言ったのに・・・』
目の前にダンナがいるかのように声を大きくした。すると、ダーツの方を眺めていたホアが静かな声で言った。
『キズナって、面白い漢字よね』
『唐突ね』エレナがかぶり気味に反応した。
『ほらアレ、Tシャツに書いてあるの』
ホアがその細い指で差した先を見ると、友人に混ざってダーツをしている飯山がいた。そのTシャツの胸には、たしかに「絆」という漢字が書かれていた。
『あれ飯山じゃないのか、飯山も来ているのか』と浜村がちょっと驚いた。
『何だかキズナって漢字を見ていたら、だんだん変な字に思えてきたの』
『ホアったら、たまに変なこと言うのね』
『俺はああいうの好きじゃないな』
と浜村が言い、瀬川があわてて聞き返した。
『飯山が?』
『違うよ「絆」だよ』
『そっちかよ』
テーブルに笑いが起こった。
『でもなんで嫌なの?』とエレナ。
『それは俺も分かる気がする』瀬川が続けて『絆って言葉は、震災後から濫用されているけども、本当はもっと崇高なものじゃないかな』
『そうだ』と浜村が話を引き継いだ『絆は家族だったり、大切な人との間にある切っても切れない強い繋がりで、言葉で言わなくてもそこにあるべきものだ。それを絆、絆と大声で言って、むやみに強要している感じがとても嫌だ』浜村は一度ビールを口に含んだ『本当に表現したいのは「協力しましょう」とか「助け合いましょう」ということなのだろう。それを誰かがカッコよく「絆」とか言い出して、それが広まったんだろうけど、そんなのを見たり聞いたりすると虫唾が走る。もっとストレートに、カッコ悪く表現した方がいいんじゃないのか。カッコ悪い方が伝わることだってある。例えば「がんばっぺいわき」これは励まし合う言葉を方言にしたフレーズだけど、この方が数段素晴らしいじゃないか。絆の安売りなんて、もうやめた方がいい』
『絆の安売りとはいいな』
瀬川が感心しながら横を見ると、ホアが真剣に聞いていたが、エレナは明らかにつまらなそうな顔をしていた。
『ねえテツとタカオって、いつもそんな難しい話してるの?』
『は?』浜村が珍しくたじろいだ。エレナのようなずけずけ言うタイプが苦手なのかも知れない。困った浜村を見てホアと瀬川がクスクス笑った。
『楽しんでる?』とカオリが入って来た。『千紗って、ダーツうまいのよ、びっくり』
見ると千紗が飯山の手を取って投げ方を教えているところだった。「ちがうの、ここはこの角度で」飯山が投げると、ダーツボードを外れてあらぬ方向へ飛んで行った。瀬川のテーブルで笑いが起こったが、当の二人はいたって真剣だ。自分たちが注目されているとは気づいていなかった。「だから、肘は動かさないでって言ってるでしょう」「むずかしいな」飯山はそう言いながらももう一度構えた。「そう、それで投げてみて」こんどはボードの端へ向かって飛んで、ギリギリに当たった。
『ここから見てると、あの二人ってなんだか似合いそうね』カオリは笑顔のまま真剣に二人を見ていた。
『そうだ、私たちも何かゲームしましょうよ』エレナがテーブルの4人を見回した。
『テーブルサッカーが空いてるわ、やりましょうか』カオリが提案した。
『やろうやろう』エレナとホアが楽しそうに言って、浜村の腕をつかんだ。
『俺はいいよ、ルール知らないし』
『何言ってるのよ、遊びに来たんでしょう』
エレナが浜村の腕をぐいぐい引っ張り、ホアが背中から浜村を押した。『やろうやろう』『やろうやろう』
しぶしぶと浜村が動く。
「テツさんも、やりましょう」
「人数多いから、ここで見てるよ」
するとカオリも瀬川の腕をつかんだ。『やろうやろう』カオリもエレナの真似をして、面白半分に瀬川を引っ張った。
「仕方ないなあ」
ついに瀬川もテーブルから連れ出された。
テーブルサッカーというのは一見すると地味だが、やり始めると白熱するものだ。
『これは見るよりやった方が面白いな』
結局、浜村が一番興奮していた。
カオリが意外と上手だ。ボールを止め、丁寧に味方にパスをして繋ぎ、瀬川がゴールを決めた。敵方の浜村とエレナが――わあ――と叫んで床に転げた。いつの間にか数人のギャラリーが囲んで歓声を上げていた。
瀬川が見回すと、フロアの他の場所にいる友人たちも笑顔に包まれていた。浜村が言うように、震災後の暗い心を癒してくれる何かを求めてここに来ていた。ここを出れば、震災後の日常の中にみんな帰って行くのだ。
楽しそうに会話をしているダニエルが目に入った。彼もそうだ。今は大丈夫だが――と瀬川は思う――空港に向かう列車で、あるいはサンフランシスコへ飛ぶ国際便の中で、ダニエルはきっとむせび泣くに違いないだろう。いわきで過ごす最後のひと時を、今日ここで静かに楽しんでいるのだ。
『まだ負けんぞ』
声の方を見ると、浜村が息巻いてロッドのハンドルを握りなおしていた。それを見て瀬川やみんなも、テーブルサッカーの周りに構えなおした。ゲームが再開すると、ボールとロッドの動きに前のめりで集中した。そしてギャラリーの歓声が上がった。
20 忘却
瀬川が兵庫県たつの市に移り住んだのは、その年の初秋だった。出歩くのが好きな方なので、土地勘をつかむのにそう長くはかからなかった。会社まではアパートから車で15分ほどだ。近くにスーパーやホームセンターなどあるが、いわきと同様でずいぶん寂しい場所だった。
美和は新しい土地でも塞がずに明るく、すぐに友達もつくった。奔放な広美と、野放図な一毅と、いつも前向きな美和が心の支えだった。震災と原発事故で蝕まれた心が癒えるのには時間がかかり、もし一人だったらやりきれなかったかもしれない。
気候は温暖だ。冬はもちろん寒いのだが、いわきに比べれば大したことはなかった。ただ、日が長いのには驚いた。よく考えたら太陽の進みが東日本よりも30分近く遅いのだから、日没までの時間が長くなるのは当然と言えば当然だが、体感的には1時間くらいは長く感じられた。一方で、日の出がその分遅くなっているはずなのに、不思議と朝の暗さは感じられなかった。
最初は方言に戸惑った。テレビなどで関西弁は聞き慣れていると思い込んでいたが、実際に住んでみるとだいぶ違った。大阪に出張した際、お昼を早く済ませようとカフェテリア式の食堂に立ち寄った。オフィスが多い界隈だったので、サラリーマンなどでずいぶん賑わっていた。建物は古いが中は清潔な感じで、美味しそうな料理がところ狭しと陳列されていた。列に並んで横の陳列棚から食べたいものをトレイに取り、レジの方に進んで行くと、最後に恰幅のいいおばちゃんが、蓋をした2つの大鍋を前にして、瀬川に向かって何かを問いかけてきた。
「味噌汁、飛んじる?嗅いじる?」
「え?」
意味が分からなかった。もしかすると味噌汁が飛び散るので、それを嗅いでみろとでも言うのか? なんて酷いことを言うんだと瀬川は思ったが、そんなことを言うはずがないこともまた、分かっていた。答えに窮していると、もう一度同じことをきいてきた。
「飛んじる?嗅いじる?」
「は?」
「飛んじる?嗅いじる?」
おばちゃんはさらに語気を強めるが、一向に分からない。後ろの列が長く詰まってきて、瀬川は焦り始めた。困ったと思う一方、だんだん腹が立ってきた。なんで分かるように説明してくれないんだろう。ところが、腹が立つのはおばちゃんの方も一緒だったようだ。ついに半ギレ気味になって、1つ目の大鍋の蓋を開けながら大声を上げた。
「みそしる、とんじる?かいじる?」
開けた大鍋の中に、豚汁が入っているのが見えた。瀬川はやっと気づいた。目の前の2つの鍋に豚汁と貝汁が入っていたのだ。ちょっとした語調の違いだけで、全然分からなかった。
それに貝汁とは何の貝だろう。アサリ汁とかシジミ汁なら分かるが。ここはとりあえず豚汁にしておこう。
「ええと、・・・とんじるで」
やっと会計を済ませることができた。
関西弁でも住んでいる地域で方言の種類が分かれているのも分かってきた。瀬川が住んでいるたつの市周辺は「播州弁」と呼ばれ、誰が言い出したのか、日本一荒っぽく汚い方言とされていた。瀬川はそれほど汚いと感じていないのだが、播州人自身がそれを自覚し卑下しているところが面白かった。「播州弁汚いやろ」とか「どぎついやんか?」などと瀬川に言うのだが、その割には堂々と話し、恥ずかしがったりしないのが不思議だ。そう言えば、東北の人はなぜ自分の方言を恥ずかしがるのだろう。関西のようにもっと堂々と話せばいいのにと思った。
もうひとつ、瀬川が驚いたのはハチの多さだ。ちょっとした繁みの中や、公園の東屋の屋根裏にもハチが巣を作っていることがあり、油断できなかった。瀬川はハチ用のスプレーを買い、住まいのベランダの巣を初めて駆除した。おもしろいことに、たつのの人にそれを話してもあまり反応しない。きっと普通のことなのだろう。自分の住んでいる地域が他と比べてハチが多いとは考えてもいないし、容易には信じられないようだ。
ここでは地面が揺れなかった。希に小さな地震があることはあるが、日常的に揺れないということが、こんなに心穏やかに過ごせるものだったのかと瀬川は改めて驚いた。魔物は身をひそめ、かつての平静さを取り戻した。
しかしながら、何かの拍子に心の傷は顔を出した。新しい職場や周りの人は全く気づいていなかったが、3月が近づいて各種メディアが震災特集を始めると、毎年のように体調を崩し、何日か休んだ。大型トラックが低速で走って来たり、新幹線が近づいてきたりする音で地震の地鳴りを思い出し、ただならぬ恐怖を感じることが度々あった。また、土壌が露出しているところや繁みを避け、アスファルトの端から離れて歩く癖はなかなか抜けなかった。そういった症状がだいぶ緩和するまでには、おおよそ5年はかかった。さらにそれを過ぎても、車のガソリンが半分近くになると、もしいま大地震が起きたらと考えてしまい、不安になって満タン給油をしに行った。心の完治はないのかも知れないと、瀬川は密かに思っていた。
その一方で、当時被災地で誰もが心に誓ったはずであろう「この震災と津波を、この原発事故を決して忘れない」という胸が痛むほどの強い思いが、年とともに小さくなり消えて行く気がしていた。自分はこんなにも薄情な人間だったのかと瀬川は思い、そして自分があの地を去ったという後ろめたい気持ちだけが、心の奥に細々と残っていった。
21 風と島と
たつのにはまた、美しい山と海がある。瀬川はとりわけ島の多い海の景色が気に入った。いままでの海は、遥か水平線を越えて空まで続くように広々と水を湛え、その隅々まで明るい太陽が降りそそいでいたが、瀬戸内海の場合それとは違って、島影に独特の趣があった。見た目にも美しい自然の造形だが、それだけではない気が瀬川はしていた。向こうに島がある、土地があるというのは、一種のときめきというか、言葉にできない気持ちの高ぶりがあった。きっとそこには自分の知らない人生や、木々や動物たちの物語があり、そこからは、こちらと違う景色が見えるに違いなかった。
その日瀬川は美和と子供を車に乗せて、JR竜野駅に向かった。車を小さなロータリーに停めると、駅の待合室からキャリーケースを元気よく転がしながらカオリが現れた。「カオリさんに会えて嬉しいわ」「本当にお久し振りですね」美和もカオリも喜びを隠せなかった。瀬川は車の後部ドアを開けて、カオリの荷物を入れた。美和は助手席のドアを開けて「カオリさんは前に座ってね」と促し、「私は子供たちと後ろに乗るから」と言った。カオリはシートに座りながら、後ろの子供たちを振り返った。「まあ、大きくなったのね」「広美が12歳、一毅が10歳よ。それに亜美が7歳になるの。亜美は初めてよね」緊張して口を閉ざしている子供たちに代わって、美和が答えた。「そうか、あれから10年だもの、私のこと覚えてないわね」カオリが静かに言った。
あれから10年が過ぎたこの秋、新型コロナの感染対策のために、誰もがマスクをしていた。原発事故のときには、マスクをする人としない人がいたもので、その当時瀬川やカオリはあまりマスクをしない方だった。
世界的なウィルス感染拡大による生活の変化は酷いものだった。余計な外出を一切控え、人との接触を最小限にし、友人とも疎遠になってしまったほどだ。原発事故の後にも似たような事はあったが、もっと極端かも知れなかった。そんな中、この秋になって国内の感染が急に減り、人出が増えてほっとした一時期があった。カオリが久し振りに会おうと言い出して、兵庫県までやってきたのはそんな折だった。
カオリを乗せて竜野駅を出ると、瀬川はしばらく車を南に走らせた。澄み渡る秋晴れの空の下、山の合間に広がる田園地帯は黄金色に輝いていた。田園の先に広がるコスモス畑も満開だ。そこには車が何台か停まっていて、コスモスの中を散歩したり、写真を撮ったりする人がちらほら見えた。
ふいに真っ白い鳥がしなやかに舞い降りた。その鳥は羽を収めると、コスモス畑の中を貴公子のように凛として歩いていた。
「白鳥かしら」
「あれは、白鷺だよ。この辺りにとても多いんだ」
車を走らせたまま、瀬川がカオリに教えた。カオリはその優雅さに見とれていたようで、窓に顔を近づけ目で追っていた。
しかし、カオリに一番見せたい風景はこの先にあった。瀬川はそのまま小高い丘を登る急な道を進んだ。登り坂が終わって峠を越えると、こんどは真っ直ぐに下る切通しだ。正面に目をやると、左右の木々の間に碧い海と家島諸島の白い岩肌の一部を垣間見ることができた。カオリが声にならない感嘆の息を漏らした。
「島のある景色も悪くないだろう」瀬川は少し得意げだ。「この坂から見える海がとくにいい」
「風景を切り取った絵のようね」
左右全体が見えないことで、かえって厳かな海と島を、鮮明に際立たせていた。瀬川は何度も見ているはずなのに、また心が洗われる思いがした。
坂を下り切ったところで国道250号にぶつかると、そこを右に曲がった。この辺りは山が海にせり出してほとんど平地がなく、国道が海の際を右へ左へとうねりながら走っている場所だ。国道の下には小さな漁港が見えた。海上には牡蠣養殖のいかだが無数に浮かび、その向こうに家島諸島が全容を見せていた。
「この辺りは冬になると牡蠣がたくさん獲れるの」
いかだを見ながら、美和がカオリに説明した。
瀬川はふと、数年前に浜村が来て牡蠣をたらふく食って帰ったのを思い出した。ここの牡蠣はエグ味が少なくて旨味がしっかりあり、身もふっくらとしている。殻付きで一キロ数百円という安さもあって、どこの家庭でも気軽にたくさん味わうことができた。浜村はこれを非常に気に入ったらしく、牡蠣を買った室津漁港の店を調べて、翌年ネットで取り寄せたと言った。瀬川はなんだか可笑しかった。購入する量によっては送料の方が高くつくかもしれないのに、それでもかなり安く手に入るのだ。
間もなく、海に面した「道の駅」に着き、広い駐車場に車を停めた。瀬川たちはここではもう一組の旧友と落ち合うことになっていた。
斜面を利用して作られた道の駅の施設には、潮風が吹き抜けていた。海辺に下りられる広い階段のところまで行き、吹き上がるやわらかい風を正面に受けると、広美と美和が手を斜め下に広げて目を閉じ、髪を風にまかせた。カオリもそれを見て同じようにした。「気持いいわ」カオリはマスクを取り、幸せを胸いっぱいに吸うかのように、もう一度手を広げた。
「ミワさん、カオリさーん」
張りのある元気な声で呼ばれて、みんな振り向いた。そこへ日に焼けたアケミが笑顔で駆け寄って来た。
「アケミさん」美和の顔がほころんだ。「それにユージさんも」
「よかった、みんな元気そうで」
とアケミがマスクをしたみんなの顔を順番に見た。
「アケミさんたちも」とカオリが嬉しそうだ。
「まあ、ジュリちゃんなの? 大きくなったのね」美和が目を大きく開けて言った。「それに、こちらは賢斗くんね」
賢斗は亜美と同じ年に生まれた、アケミとユージの新しい子供だ。
「ヒロミちゃんとカズちゃんも、成長したのね」とアケミも驚いた顔をしていた。「震災の頃で記憶が止まってるから、なんだかびっくりだわ」
「レンタカーで来てくれたんだね」
瀬川がそう聞くとユージが楽しそうに、
「休みをとって、九州から車で旅して来たんだ。大阪でこれを乗り捨てて、空港から沖縄に帰るのさ」
するとこっちでは、アケミがカオリに訊ねた。
「新しい仕事はどうなの?」
「来月からなの、いまは楽しみで仕方ないわ」
いまや拡散しつつある会話の波紋を、いったん中断したのは美和だった。
「みなさん、積もる話はあるけど」と声を大きくして視線を集め「まずは座って、お昼食べましょう。手ぶらバーベキューを予約してあるから」
「やったー」
カオリがぐーにした左手を子供のように大きく上げ、身体いっぱいに伸ばした。
震災や原発の話は不思議なほど出なかった。申し合わせたわけでもなく、みんな出る話は今の事、未来の事ばかりだ。振り返っても仕方がないのは誰もが分かっていたのだ。
篠崎家は沖縄に移住し、大きなリゾートホテルに従事していた。新型コロナのまん延で観光業が傾き、今後に不安はあるが何とか持ちこたえているようだった。豊間にあったゲストハウスは建て直して、原発関連の復興業者に宿泊所として貸していた。
「いわきでは、みんな元気なの?」
アケミがカオリに話を向けた。
「時々イワキアン・バールに集まっているわ。みんな元気よ。新しい仲間も何人か増えたし。エレナやホアも相変わらずだわ」
「そう言えば浜村もたまに行ってるらしいな」
と瀬川が聞いた。愚痴を言う相手がいなくなったので、ストレス解消にイワキアン・バールに顔を出すようになったようなのだ。
「よく来ていますよ。みんなと仲良くやってます。それにチサさんとアキノリさんも加わって、とっても賑やかだわ」
「千紗さん、3年前に沖縄に遊びに来てくれたわ。いわきでカオリさんたちと元気にやっているって、楽しそうに話してくれたのよ」
とアケミが懐かしそうだ。
「そうそう、そう言えば、まさか飯山が、あのチサさんと結婚するとはな」
と瀬川も感慨深かった。飯山の年上好きは何となく分かっていたが、本当に姉さん女房をもらってしまった。
「アキノリさんもチサさんと一緒にみんなを盛り上げてくれているわ」
「さっきから、アキノリって言うのは、そうか飯山明徳のことだったのか」
瀬川は改めて驚いた。飯山が「アキノリさん」と呼ばれているのは、瀬川にはどうも変な感じがしてならない。ファーストネームで呼び合うほど、あの集まりに馴染んでいるのだ。
「ところで、カオリさん、最近仕事をやめたんだよね」
アケミがカオリに、その話を切り出した。
「来月から、市内のゲストハウスで働くことにしたの」
カオリは明るい表情だが、美和が不安そうに口を出した。
「コロナ禍で観光業が落ち込んでいて、大変な時期がまだまだ続くと思うけど、大丈夫なのかしら。それに、そもそも原発事故があった福島に、また人が来るかどうかも心配だわ」
「いわきは変わりつつあるの。線量も落ち着いているし、人はこれからどんどん集まってくるようになると思うわ。コロナの影響についても心配だけど、これも時間の問題だと思うの」
「そうかしら」
「だって、原発事故だって、県外の人は遠い過去の事のように忘れつつあるでしょう。コロナも落ち着いたら、きっと時間とともに忘れられていくわ」
新型コロナ感染が小康状態にあるいまは楽観的な見方もあるが、まだ終わったわけではなかった。それに原発事故も、確かに世間は忘れかけた一面はあるが、完全に忘れたとも言い切れなかった。気にしない人は増えても、不安に思う人はまだまだいるだろう。美和が言うように、福島の浜通りを訪れる人がどのくらい増えるか未知数だった。
「海行ってきていい?」
広美が小さい声で美和に聞いてきた。すでに食べ終わっていたので、大人たちの間にいて退屈だったのだ。
「行っておいで」
「ジュリも行く?」
アケミが自分の娘にも聞いた。するとジュリは嬉しそうに頷いて席を立ち、ヒロミとジュリとアミ、そしてカズとケントも連れ立って海辺に走って行った。
瀬戸内は湖のように波が小さく穏やかだ。海辺には他の子どもたちが2、3人いて、小石を拾い集めたり、海に投げたりして遊んでいた。ヒロミやジュリたちもそこで色のついたきれいな石を拾い始めた。
子供たちを眺めながら、アケミが口を開いた。
「いまは落ち着いているけど、コロナ禍が終わるのかどうか、まだ分からないわ」
「それは終わると思うな」
みんなが同時にユージを見た。あまりに断定的だったので驚いたのだ。この当時はコロナの収束が見えず、非常事態が永遠に続くようにしか思えない状況の真っただ中だったのだ。
「永遠に続くと思えても、必ず終わりは来ると思う。どんな形であれ」
ユージが言った後、瀬川は永遠と思えた大きな地震を思い出し、息が少し震えた。あの時も本当に終わらないと思ったが、終わりはあったのだ。
少しだけ沈黙があった。共通体験が、みんなの心を過去に押し戻したのかも知れない。
「いずれ、自分でゲストハウスを持ちたいの」
カオリが沈黙を破って静かに続けた。
「そのために、こんどの新しい仕事で経験を積んでいくわ」
「それで転職をしたのね」
美和が言うと、カオリは頷いて話を続けた。
「あの豊間の海に、いつか人が集まる場所を作りたいの。そして、みんなが帰って来れる場所を」
「それで2年後に、うちの建物を貸して欲しいって言うのよ」
アケミが美和の方に言った。
すでにその話は聞いていた。業者の宿泊所としての契約が2年後にいったん切れるので、そのタイミングでカオリが自分に貸して欲しいと提案していたのだ。
アケミは厳しい眼差しでカオリに接した。
「もし駄目だって言ったら?」
「できることなら貸して欲しいです。もしどうしても駄目なら、不動産業者に相談して他を当たることになります」
実際にはそれは厳しいだろうと瀬川は思った。目的に見合った物件がそれほどあると思えないし、空いた土地の所有者を見つけても、採算性を説得して建物をつくらせるのは容易ではないだろう。
「うまくいく保証がないわ」
アケミが反対するのも無理はなかった。ただでさえまだ経験のないカオリが、原発やコロナの問題もある中で、まともに経営していけるものかどうかは誰もが危惧するところだ。
「私だって遊びだと思っていないの。それなりの覚悟を持って準備しているわ。新しい仕事は来月からだけど、数年前からそのゲストハウスで少しずつ手伝いながら、いろいろ教わっているのよ。それに他に協力者もいる。私なりに新しいアイデアもあるわ。いろんな面から考えて、少しずつ準備を始めているの」
アケミもユージもやや困った顔をしていた。瀬川の推察では、反対する理由は他にもあった。
そもそもアケミとユージは瀬川と同様、いわきから逃げ出したのだ。彼らの土地を使って、そのいわきに人を集める場所を作るというのは、どうにも道理が合わない。復興や原発処理のための業者ならよかった。いやむしろ、そうやって浜通りに役立つことに利用し、いわきを去ってしまった過去の後ろめたさを、埋め合わせしているのかも知れなかった。もちろん、そういうことは口にしないから、誰にも本当のところは分からなかったが。
「お願い!」
カオリがユージとアケミに頭を下げた。
思えば10年前にダニエルの求婚を断って、いわきに残る決断をしたとき、瀬川には理解できなかった。それは今でもあまり変わらない。しかしそれは、カオリ自身が何をすべきか、まだ答えを見つけていなかったためもあっただろう。
瀬川は海のむこうの島に目をやった。カオリが見ている景色とはどんなものだろうか。瀬川にはまだ分からなかったし、いつかそれを見てみたいとも思った。そして、カオリに味方してあげたい気持ちが芽生えていた。それは瀬川にとって、後ろめたさを埋め合わせる方法でもあったのかも知れない。
「いいんじゃないのかな」
瀬川は自分が言ったような気がして、はっとした。だが自分はなにも言っていないはずだ。すると美和が言葉を続けた。
「カオリさん、きっと答えを見つけたのよね」
また沈黙があった。過去へ思考を巡らし、そして戻って来るのに少し時間が必要だ。多くの言葉や情景がそれぞれ心に飛び交い、そして実を結んだ。そして驚いたことに、カオリの気持ちに抗う選択は、だれの心にも残らなかった。
カオリの目が潤んでいた。
最初に口を開いたのは、ユージだった。
「まだ少し時間はあるから、前向きに考えようか」
アケミは黙って目を閉じたまま、小さく何度か頷いた。そしてカオリを見たとき、アケミの目には涙が溜まっていた。
「こんどの仕事、しっかりやってね」
もしかすると、アケミは背中を押して欲しかったのかも知れない、と瀬川は思った。そして美和がそれを押したのだった。
それからみんなで海辺に降り立って景色を見た。
アケミと美和、そしてカオリが寄り添って話をしていた。子供たちは飽きることなく、石を拾ったり海へ遠く投げたりして遊んでいた。
ユージはしばらく足元を物色し、手ごろな石を集めると、海に向かって素早く投げ始めた。回転した小石は水面で軽快に跳ね上がり、10回近く跳んで消えた。次々に投げ、次々に跳んだ。うまいものだった。一毅と賢斗が真似をして投げたが全然跳ねなかった。ユージが投げ方を教えると、二人の少年はそれを真剣に聞き始めた。
こんな穏やかな日が続いてくれたらと、瀬川は思った。思えばあんなに怖かった海が、それほどではなくなっていた。人は過去を抱えて生き、過去を忘れることで生きていけた。
瀬川は遠くの雲を見上げ、そう言えばこの地に来て以来、長いこと富士を探していないことに気づいた。富士のない空を見上げる時は、わりと高い位置にある雲を見入ったものだ。瀬川はなんとなく探す感じを思い出すように、遠くの空を見上げた。
もちろん、そこにはなかった。
「何を見ているんですか」
カオリがいつの間にか、悪戯っぽい笑顔で下から覗き込んでいた。
「あ、いや」瀬川は慌てて、「雲を見ていただけだ」
と言って急に足元に目をやり、手ごろな石を拾い上げると、島の方へ勢いよく投げた。石は回転しながら水面を切った。
カオリは瀬川のそばに立って、穏やかな海を眺めていた。
(了)
富士のない空(後半)