
百合の君(50)
出海との同盟を断ったはずの喜林義郎は、ひそかに刈奈羅に侵入していた。国境の丘で馬をとめて、彼は背後の木怒山を振り返った。
「お前の言った通りだったな。もし同盟を受けていたら、その知らせは別所にも伝わって、ここには兵がうようよしていただろう。だが見ろ、今は城まで一直線だ」
義郎は湖畔にある大きな城を指した。それは、まるでこれから行われる侵略から湖を守ろうとしているかのように、高く、静かに、どっしりと建っている。湖面は朝日を受けて黄金色に輝き、舟が黒い影となって動いている。上手く魚がかかったのであろうか、胡麻粒のような人影がその上でせわしなく揺れる。
木怒山は馬を近づけ、相変わらず髭をもぞもぞさせながら話し始めた。
「もし我らに警戒していたとしても、別所はすでに国境で出海との戦を始めております。そちらに大軍を回したいから、ここまでは手が回りませぬ。臥人様が過去に一度断っておられるので、その方針を継いだという都合の良い判断をするでしょう。人は正しいことよりも信じたいものを信じるものですからな。そして将軍を害し奉った別所を滅ぼせば、殿は一気に天下人に近づく。出海も別所もはめてやりましょうぞ」
義郎は力強く頷いた。目の前の景色は狼が狩りの時に見る光景だと思った。目の前で大鹿が眠っている。波の揺れる湖面は、呼吸に合わせてふくらみ、しぼむお腹の毛並みそのものだ。義郎は馬を走らせ一気に丘を駆け下りた。
出海浪親が敵兵撤退の報に接したのと、喜林義郎の出陣を知ったのは、同時だった。
「して喜林殿は、我らに向かっているのではないのだな? 刈奈羅を攻めようとしているのだな?」
浪親は座っていられず、本陣を歩き回っていた。
「どうやらそのようです」立膝の伝令は微動だにせず答えた。
「喜林殿の軍は? どれくらいの規模なのだ?」
「おおよそ十万」
浪親は立ち止った。喜林にそれほどの兵が集められるはずがない。清道の絵の力だ。浪親は自分が撒いた種ながら、何か恐ろしいことが始まっているのではないかと思った。
「義父を殺した喜林のやりそうなことです」
盛継はやつれていた。もともと彫の深い顔だったので、落ちくぼんだ眼窩がより一層悲壮な印象を与えた。「もしこのまま喜林が刈奈羅を落とすようなことがあれば、我らは無駄に兵を失っただけ。得る物は何もございませぬ。別所沓塵の首は、我らの手で挙げねばなりませぬ」
焦燥した家臣の様子は、かえって主を落ち着かせた。
「喜林だからやるのではない。私が同じ立場だったらきっと同じことをするだろう」そして兵を眺めまわした。
「皆の者、これは戦を終わらせる戦だ! 勝って平らかな世を築こうぞ!」
叩き割った盃は浪親の目の高さまで跳ねた。その尖った断面を振り払って、浪親は出陣した。
百合の君(50)