paradiso あるいは6日間の、すぐに忘れ去られてしまうような出来事 (連載中)

昨日16歳になったので、日誌みたいなものを書いてみた。
友達のサキちゃんのマイブームらしいし、案外続けたら面白いかもね。

9月24日

 私はふと風呂上がりに、帰宅した時分から付けっぱなしにしていたテレビから流れてきたあるニュースが、どういう訳かとても気になって注意を向けた。

地方ニュースだった。
内容はひどくシンプルだった。

『昨夜まで暴れていた大型台風の残した爪痕』という名目で、引っ剥がされた屋根や、割れて辺り一面に砕け散った窓ガラス、街路樹の倒木が道を塞ぎ続ける様子なんかを映像や写真なんかで紹介していくもので、何か寓話めいた教訓でも見つけたかのように、ニュースキャスターが程々に熱の入った声と、これまた劇的な(演劇のようなオーバーさで、という意味合いで)曇りきった表情を見せながらひとつひとつコメントしていくものだった。私の住んでいる街の映像も混じっていた。

 私がぼんやりと何気なく見ていると、最後はこの惨状についての街頭インタビューでコーナーを締めくくった。
「怖いですねぇ」……女性。
「退社する時に風で会社のガラスが割れちゃって、危ないところでしたよぉ」……恰幅のいい男性。
「修理にどのくらいかかるか不安です」……夫婦。
「今年はこれ以上来ないでほしいですね」……若い女の子。

 それが終わるとCMが始まったので、私は歯を磨くために洗面台に立った。歯を磨いて、化粧水を顔に叩き込んで、それから自分の部屋に向かって、すぐに眠りについた。眠りにつく前、暗闇の中で目を開けて少しの間考え事をした。それからすぐに眠気が来て、朝までぐっすりだった。
 その直前に考えていたことは、最後のインタビューを受けていた女の子が、昨年死んだはずの友達にそっくりだった事だった。

9月25日①

 お昼休みが終わると、現代文の授業だった。
私の机は入り口から数えて2列目、最後尾にある関係上、必然的に授業に集中すること以外のあらゆる暇つぶしが可能な位置だった。右隣の望月クンが肘を軸にして器用に上向けた手のひらを枕にしてうたた寝をしている傍らで、私はスマホを膝の上に乗せ、なるべく下を向きすぎないよう画面を眇めるようにして昨夜のニュースの公式切り抜き動画を何度も確認していた。
 無音ではあったものの、それこそミュート越しにも言葉が聞こえてきてしまいそうなくらい、繰り返し繰り返し見続けた。画面上のシークバーが、その最後を迎える数秒前にやってくる「あの瞬間」が来るたびに、疑問はおおむね確信へと変わっていった。

 彼女は茜色のカーディガンを羽織っていた。それはいつも休日に会う時に着ていたもののひとつだった。
それから彼女は、まるで数百回繰り返して来た「日常」の中で偶然出くわしたイベントであるかのような様子で、やや高揚したような仕草でインタビューに応える。
「今年はこれ以上来ないでほしいですね」

 この街に住む、どこにでも居る普通の一般人としての彼女の姿がそこにはあった。私は思った。本当にその通りだと。
そしてこのあと学校が終わったら、私は彼女がインタビューを受けていた場所に行こうと決めた。

 ついでに望月クンの居眠りが先生にバレた。

9月25日②

 放課後を告げるチャイムが校内に響く。ホームルームが終わった後の、生ぬるい束縛から解き放たれたような開放感が、教室中に広がる。あらゆる生徒たちの足取りを軽くし、各々が存分に個性を発揮したくなる瞬間。
 私はこの時間の皆の様子を見るのが少し好きだった。クラス内の人の流れはほとんどルーチンワークのように、ほとんど毎日画一的で誰が何をするかの順番までほとんど一緒だった。まず、一番前の左端に座る「れいちゃん」の周りに、ものの数秒で4、5人の人だかりが出来上がる。
 れいちゃんはクラス内で一番影響力のあるコミュニティを形成している人気者だった。それから堰を切ったように勢い良く雑談が始まり、かと思うと、いきなりその話題はピークに達し、色とりどりな大きな笑い声が教室中に響く――その間、わずか1分。そしてそのピークはおそらく15分以上続く。これが百回以上、ほとんど誤差なく継続していく。
 この間に起こる事は主に3つ。坂崎クン達、野球部の3人が笑い声の起こったおよそ1分後に教室を後にする。続いて美術部の木元さんと陸上部の幸田さんが、揃って何かくすくす笑い合いながら退室する。それから2ヶ月前まで不登校だった松下さんが、きびきびとした足取りで周りには目もくれずに立ち去り、望月クンと青木クンが周りにあいさつしながら後に続く。ここから先は細かくなってしまうので、省略。

 私はひとしきり室内を眺めた後、自分の荷物を整理して椅子から立ち上がった。そのタイミングで「ケイ」が「おぅ」と声をかけてきて、一緒に下校する事になった――百回以上続いている我らが1年3組の生態系のひとつ。

「この後どする?」
 正門を通り抜けたあたりで、聞き慣れた気怠げな口調でケイが尋ねる。
「サキんとこの喫茶店でも行く?」
 私は少し考えるふりをした後、「ごめん、今日はちょっと用事があるんだ」と謝った。
「今日は駅で解散、という事で」
「え~、つまんない」
「すまんね」と私はおどけて返事をする。
「今日はお母さんとヨガ教室の体験入学する日なんだ」
 私がそう言うと、ケイが目を細めてこっちを見る。
「え、絶対ウソじゃんねそれ」
「ホントダヨ」
「20年前の外国籍芸能人の言い方みたいになってんじゃんね。絶対ウソじゃん」
 ケイはそう言いながら、巨大なため息をついた。私はそれ以上弁明せず、小さく謝った。

 それから長い間沈黙が続き、駅前の大きな横断歩道までそれは続いた。ねぇ、と私は信号待ちをしている時に口を開いた。
「ゆうべのTVCのニュース見た?」
「うん? あのしゃれこうべみたいなキャスターのやってるやつ?」
「そそ。その、光属性攻撃が弱点そうなやつ」
「見てたよ~、台風の影響も気になったし。言っても、スマホで見てた『オモコロチャンネル』メインの、“ながら見”だったけどね」
「この辺の地域のインタビューみたいなのあったじゃん? 見た?」
 たぶんね、とケイは首を縦に振った。私は意を決して口を開いた。
「最後にさ、あの子に似た子、映ってたよね」
 信号が青に変わった。私達は横断歩道を渡り、駅に続く最後の一本道に差し掛かった。彼女は不思議そうに私を見た。
「誰?」
 私は笑って、「ごめん、やっぱ今のナシ!」とまた小さくおどけてみせた。
 また長い沈黙が続いた。駅にたどり着き、改札前で私が「上り」、ケイが「下り」で分かれる所で私は手を振った。
「じゃあね。また明日」
「おう。あんまり遅くなってしゃれこうべとエンカしないように」

 ――そうして私は電車に乗った。出入り口の近くに陣取って、電車にゆられながらぼんやり外の暮れなずむ景色を見ていると、別れた時のケイの怪訝そうな表情がフラッシュバックした。私は誰に言うでもなく、掠れるほど小さな声で「ごめんね」と、彼女に謝った。

9月25日③

 目的地についた頃には、ほとんど日が暮れていた。この日最後の薄明かりの中、遠くの家々は黒く浮かび上がり、駅前のひなびたロータリーは一層寂しく色を失いつつ見えた。私は駅前のコンビニでペットボトルのレモンティーを買って、それをちびちびやりながらロータリーの隅にあるベンチに腰掛けた。
 スマホで時間を見ると、ちょうど17時だった。LINEでお母さんに少し遅くなると告げ、スマホを鞄にしまって周囲を見渡してみる。学生や主婦、腰の曲がったおばあちゃんに、灰色の背広を着た男性――あちらこちらに人が往来する様子が見えた。
 あのインタビューが撮られたであろう場所はここから見える、およそ10m先にあるバス停の一画だった。画角としては、丁度私が座っている方向から、道路側に向かってカメラを回していたはずだった。私はその一点をじっと見つめながら、時々ふと我に返って自分の行いに呆れながらも、またすぐバス停へと視線を移してしまう……という流れを10回くらい繰り返していた。

 その間にバスが4本停車した。その度に、もしかして、という淡い期待を抱きながら――同時に、頭の中でそれを否定しながら――降車する人たちを一人ひとり入念に観察した。学生や主婦、腰の曲がったおばあちゃんに、灰色の背広を着た男性――どの人物も“彼女”とは似ても似つかない。最後の降車客がロータリーの地面に足をつけ、やがてバスのドアが締まり、“おっくう”そうなエンジン音で街路に戻っていくバスの後ろ姿を見る度、どういう訳か安堵にも似た小さなため息が私から聞こえてきた。
 時折ふと、今のこの状況全てが何か大きな力でセッティングされたものであって、私はその中の舞台装置のひとつに過ぎないのではないか、という気分にさせられた――気の利いた演出に一役買う無害なエキストラ、あるいは観衆をあっと驚かす仕掛けを動かす為に作られた、作り手のしたり顔が浮かぶスイッチ。私はきっとただの“きっかけ”あって、本筋ではないのだろう。そんな気分だ。

――教室の風景、駅前を歩く人たち、バスの後ろ姿。
――繰り返し、繰り返し、繰り返し。

 私は誕生日に買ってもらったAirPodsを耳に付けた。スマホを見ると、もう19時だった。気がつけば辺りは駅前と、それから申し訳程度に点々と存在する街灯に照らされている箇所以外、ほとんど暗闇だった。私はランダム再生を選択して音楽を流し、しばらく目の前の無機質な街灯の灯りに照らされた地面をしばらく見続け、また視線をバス停へと移した。それから、にじみ出るような弱い明かりで浮かび上がるバスの時刻表を、私はずっと眺めていた――空になったペットボトルを指先でとつとつと小さく鳴らしながら。

 既に存在しないはずのものを、人は果たしてどれくらい長く探し続けられるのだろうか。
 答え――4時間以下。
 なぜなら、私は少なくとも21時まではこんな調子でずっと座っていたから。

 耳元から18曲目の音楽である、パット・メセニーの『オーヴァー・オン・4th・ストリート』が流れ出した所で立ち上がり、駅の改札へと向かい、家路についた――降車駅でチャージ額が足りなくて、自動改札に警告を受けてしまいながら。家に帰ると、母と父に質問攻め(というより詰問攻め)にあった。5W1H--いつ、どこで、誰が(誰と)、何を、なぜ、どのように――その全てを嘘で返した事で、すこぶる気分が悪くなりながらも、気が付いた時にはもう自分のベッドで横になっていた。

 いつ消したかも分からない明かり、いつ入ったかも覚えていないお風呂――髪が微かに湿っていた。いつ掛けたかも分からない毛布。
 寝る前にもう一度あのニュース動画を再生してみた。何回目か分からなくなった3分30秒間が再び始まった。

「怖いですねぇ」……女性。
「退社する時に風で会社のガラスが割れちゃって、危ないところでしたよぉ」……恰幅のいい男性。
「修理にどのくらいかかるか不安です」……夫婦。
「明日以降も充分に気をつけて外出ください。それでは、また」
 最後にしゃれこうべがこう結んで動画は再生を終えた。もう一度頭から再生する。夫婦が不安がり、その後すぐにしゃれこうべが終わりを告げた。3度再生したが、全く同じだった。
 結局彼女のインタビューシーンは、一度も流れなかった。私はスマホのアラームをセットして、目を閉じた。

――教室の風景、駅前を歩く人たち、バスの後ろ姿、台風の被害に遭う人々。
――繰り返し、繰り返し、繰り返し。

9月26日①

 昨夜(ゆうべ)の事もあって、授業中は「授業を受けているフリ」をするので精一杯なくらい、半日呆然としていた。何をするにも、何を見るのも、何を聞くのも耳や目といった諸々の器官がボイコットを決め込んだように塞ぎ込んでいた――それらが捉えるべき情報のことごとくが上滑りしていく。
 ……そうは言っても、私はその状態をいつまでも長続きさせられるほど、とんでもないショックを受けていた訳でもないし、もっといったら、そもそもそこまで感受性豊かな人間でもなかった。昼休みが終わり、5限目の途中で、私はすでに平常運転を取り戻し、放課後には存外けろっとしていて、いつもの調子を取り戻していた。

「おぅ」
 帰り支度をしている私に聞き慣れたダウナーな一声がかけられる。丁度望月クンと青木クンにあいさつを返した後だった。
「帰りましょうや」
 私は小さく頷き、ケイと一緒に教室を出ていき、昇降口まで向かった。
「そういやさ、昨日暇だったからTVCの切り抜き動画見たよ」
 ケイは言いながら、気だるそうな様子で靴箱から外履きを取り出す。
「昨日言ってたやつ」
 私は、ちょっと考えたフリをしてから、あぁ、とやや間の抜けた返事をする(まるで今、ようやく思い出しました、というような態度で)。
「あのしゃれこうべのやつ?」
「そそ。あの、倒したら確率で使い古しの弓ドロップしそうなやつ」
 覚えてたんだ、と思ったが、これは言葉にせず内に留めた。ケイは歩きながらぼやくように続ける。
「インタビューの部分だけどさ、最後ってあの夫婦の部分?」
 正門を通り過ぎ、私がどう返そうか迷っていると、彼女は私の方を見ながら、いつも半開き気味の瞼を一瞬、少し上に動かした……かと思えば、すぐにいつもの眠そうな表情で、「あの男の人の方って、確か中学生の頃二人で行ってた塾の先生じゃんね」と言った。
 私は覚えていなかった。思い出そうと記憶を辿っていると、ケイが続けた。
「森崎センセ」
 私はまた、あぁと間の抜けた返事をする。丁度良い情報だったので、その方向で話題を持っていくことにした。
「そうそう、うろ覚えで確かじゃなかったんだけどさ――あれ、やっぱり森崎先生だよね?」
「多分そだね。中学2,3年の頃だから……2年前くらい?」
「なんか見たことある顔だなーって。ちょっと懐かしいなぁ」
「ってか、災難だね。あのセンセ今35歳くらいでしょ。あの映像だと、最近家買ったっぽいのに。早速、屋根剥がれちゃってるじゃんね」
「課題出してた事を、当の本人が、次の塾の日に完全に忘れてた事あったし――ちょっと抜けた先生だったから、もしかしたら、騙されて買った物件だったりして」
 ケイはそれを聞いてにやりとした。
「あの一緒に映ってた奥さんにも騙されてたり?」
 それからしばらく、森崎先生の人生がいかに災難続きか、という妄想話が5分ほど続いた。結果的にあの奥さんには、先代の森崎家に土地と家を奪われて地元を追い出された挙げ句、一家は離散――離婚した両親に姉妹それぞれが連れられて生き別れ、その復讐として森崎先生に近づいた野心家、という取るに足らない設定が勝手に付け加えられた。
 ひとしきり無責任に人をいじった後、ケイが「この後どする?」と聞いてきたので、サキちゃんの所の喫茶店にお邪魔する事にした。

9月26日②

 その喫茶店は、駅チカだった。駅前にあるいくつかの雑居ビルのうち、ひときわ古い景観のビルの2階に店を構えている。サキちゃん曰く、おじいさんの代に、戦後すぐに彼が初めた、米軍払い下げの品を中心とした日用品事業で一山当てた後、晩年に店を構えたらしい。
 ビルの2階の窓を見上げると、喫茶paradiso――パラディーソと読むらしい――の看板が見えた。私たちはすれ違いが不可能なほど狭い階段を上がり、入り口のドアをゆっくり軋ませながら開けた。カウンター越しにサキちゃんのお父さんが笑顔を向けてくれる。こんにちは、と二人して挨拶した後、そのまま窓際の四人がけの席に腰を下ろし、一息ついた。
 Paradisoは個人経営の小さな店構えで、店内はカウンター席、テーブル席の全てをフル動員させてようやく10人入れるかどうか、という規模だった。

 店構えも(失礼ではあるけど)外観同様、古めかしい造りになっている。かつては丹念に磨かれていたであろう濃い木目調の板張りの床は、端々が剥がれて中がむき出しになっている箇所がいくつか散見されるし、天井に大胆に張り巡らせてある梁を模した大きな木材も、色あせが見受けられる。最近改装したカウンター席とテーブル席は妙に真新しいせいか既に“浮いて”見え、まるで創業100年以上の一族経営の老舗旅館に、なにかの手違いで入ってしまった新卒に注がれる目線のような、複雑な視線を向けざるを得なかった。
 店内では音楽が小さくかかっている。オスカー・ピーターソンの「酒と薔薇の日々」。流れるBGMの内容はいつも店主さん――サキちゃんのお父さん――の気まぐれで、時折ラジオが流れている時もある。
 ケイはアイスカフェオレを頼んだ。いつも同じだ。彼女はガムシロップを1リットルは入れてるんじゃないかと思うくらい追加してから飲み始める。もうそれは、コーヒーじゃなくても良さそうなものだと、常々私は思っている。
 私はアイスレモンティーを頼んだ。店主さんが頷く。無口な店主さんで、聞かれない限りはほとんど営業中は口を開かないらしい……でもサキちゃん曰く、『オフ』の時は家族の誰よりもしゃべるし、誰よりもうるさいらしい。
 飲み物が席に運ばれてくると同時に、入り口のきしむドアを開けてサキちゃんが帰ってきた。『ただいま』を言うまでもなく、窓辺でまったりする私たちを見て大きな声を出す。
「あ! また二人で下校して来てる!」
 サキちゃんは眉をしかめる。
「ここ来るんだったら、その時は学校で声かけてよって言ったのに!」
 目まぐるしく、色々な細かい動きを付け加えながら、彼女はそう続ける。ケイと二人で小さく謝った。それからケイが目を細めて、ストローでカフェオレを飲みながら言った。
「ごめんよ、サキ。下校途中で決めたら必然こうなった」
私も、続いて「ごめんね!」と言った。サキちゃんはまた色々な動きを取り出して、何か連続した実態の掴めない、およそ小言以下の小言を並べた後、ため息を付いてから、私達の席に――私のとなりに――どっかと腰を下ろした。
 時を同じくして、サキちゃんが飼っている看板猫がどこからともなくやってきて、ケイの隣に座った。黒猫だった。今年で8歳、オス。元野良猫で、肯定する時は短く「ニャッ」と鳴き、否定する時は「ニャァー」と長目の声で意思表示する。
 彼は割と大きな声で「ニャァー」と何かを否定しながら大きく伸びをした。それに目ざとく気がついた店主さんが店内BGMをラジオ『FMKブルー』に変更した。この地方の地域ラジオだ。黒猫はそれを受けて短く「ニャッ」と肯定し、その場で丸くなった。この一連の流れを何か一大イベントでも起こったように見届けていた私たちは、安堵の声を漏らした。サキちゃんが言う。
「こないだなんて、お父さんがアイドルの曲流したら、この子何故かめちゃめちゃ気が立っちゃってさぁ――店じゅうを1時間くらいバタバタ走り回って、お客さん大迷惑だったんだよね」
「何のこだわりなんだろね。いつもはおとなしいのに、時々、不敵に気難しいよねこいつ」
 ケイが猫の頭に手を置いて言った。
「普段はおとなしいのになぁ。ねーレヴ!」
 サキちゃんはそう言って、この猫の名前を何度か呼んだ。
 レヴ、正式名は『レヴナント』――この物々しい名を持つ四足獣は、サキちゃんが席の横に回り込んで抱きしめようとすると、すばやい反応で両手をピンと伸ばし、ふたつの肉球を彼女の両目に当て、断固拒否した。
 「そういやさ」と、サキちゃんがキョヒられた事を意にも介さず口を開く。
「最近こっちのクラスで流行ってるんだけど、あの動画見た? 『モンスタータクシー』のやつ!」
 私が「あのお笑いコンビの?」と聞くと、
「そうそう、あれめっちゃ面白いんだよ! えっとねえ――これ!」
 サキちゃんが自分のスマホで動画開き、大きめの音量で流しだす。他のお客さんがいない時、彼女は割と自由だ。
 それからずっと私たちはこのコンビの動画をひとしきり見て、ひとしきり笑った。それから他愛の無い話が続く。

 そんな事をしていたら早いもので、もう帰る時間だった(しかもこの時間まで、お客さんは一人も姿を見せなかった!)。
 ケイが先に会計をしていたので、私は店内に流れるラジオを何となしに聞いていた。この地方局では、地元の大型ディスカウントストアの閉店の話をしていた。
 私もそこには小さい頃からよく通っていた、惜しまれつつもその10年の店舗運営に幕を引き、後には違うショッピングセンターが立つとの事だった。
 地元ではかなりの人気店だっただけに、残念がる人は多い、とラジオが告げる。それから、その閉店を惜しむ投稿を最後にいくつか紹介していた。私はそれを聞きながら自分の会計を終わらせて(いつも割引してくれる。ありがとうございます)、サキちゃんと店主さんにあいさつをして店を後にした。

 帰りの電車の中でスマホをいじっていると、さっきのラジオで紹介された投書の事を思い出した。内容は確かこんな感じだった。
「ペンネーム、『だしぬけファンショー』さんから頂きました。私は今高校生ですが、あれがあるという事が、当たり前の風景だっただけにとても残念です。あそこには小さい頃からお世話になっていました。小学生の頃、友人と二人揃ってお年玉を握りしめながら、当時流行っていたゲームソフトを買いに行った記憶が思い出されます。そのゲームはバージョン違いで2種類同時に発売していて、かぶらないようにその場でじゃんけんで決めようという話になりました。けど、じゃんけんに負けた友人が泣き出しちゃって、しまいにはつられて私も泣いちゃって、周りの大人たちを困らせてしまった事を、今でも申し訳なく思っています。ちなみに私は彼女が欲しい方と逆のバージョンを選びました。今では良い思い出です――との事でした」

 私もそれは今でも覚えている。先に泣いたのは私の方だったし、『彼女』は一時期こういう投稿に凝っていて、その時使っていたペンネームは『だしぬけファンショー』。
 照れくさそうに、けれどどこか誇らしそうに、この恐るべきペンネームに決めた事を近所の公園で話してくれたことも、私は鮮明に覚えている。

9月27日①

 私たちが住む、ここY市は一言でいうと「いつのまにか時代に取り残された街」という印象だ。突然何を言い出すか、というと、何という訳でもなくただ“何となく”紹介してみたくなっただけだ。
 Y市は半島に位置していて、東と南側が海に面している。19世紀中頃には、国防上の地理的な要所として、20世紀には戦後、アメリカ軍駐屯地としてそれぞれ発展してきた。|今日(こんにち)のいわゆる「海の街」としての印象は、東側の発展と共に古くから培われてきたらしい。
 西側は標高100~200mほどの山々に覆われていて、大きな幹線道路が通っている以外にも小さな牧場やバーベキュー場やアスレチック施設といった、ちょっとしたアウトドアレジャーが楽しめる。
 人口は大体40万人ほど――その多くが沿岸部に住んでおり、自動車や輸送用機械製造が主な産業。
 ――以上、ネットで出てきた情報ななめ読み。

 私はこの日最後の授業である化学の授業の最中、その難解さがピークに達したであろう辺りから、このような情報をこそこそスマホで調べていた。一応弁明すると、最初は、昨日聴いた地方局『FMKブルー』の会社の所在地と問い合わせ先を、調べていたに過ぎなかったはずだった。いくつかのサイトを巡るうちにいつの間にか止まらなくなってしまっていた。ただそれだけ。

 今日の帰りは、サキちゃんも一緒だった。彼女はいつも朗らかで、その歩き方も、一種の憧れを抱くような軽やかな足取りを維持していた。サキちゃんが歩を進める度に、彼女の長い金髪が軽快に左右する。おまけに身長も高めでスタイルも大分良い。比較されると泣きたくなってくる。
 おまけにコミュ力も高い。誰とでも5分あれば、ある程度仲良くなれる。事実、隣のクラスでは超人気者だった。そして、明るい。私とケイの一番テンションが高い瞬間を切り取って足しても、まだ及ばないくらいのテンションを常に維持している--もっとも、二人のテンションの高さは“お察し”レベルであるという前提はあるけど。
 昨日の話題だって何気なく振って来たけれど、私たちに合わせた“笑い”を吟味して紹介してくれていたに違いない。私は流行りものに割と疎いし、特にケイは印象通りちゃんとひねくれているから、メジャー所のエンタメを持ってきても、そのねじりにねじれた心の琴線は微動だにしないだろう――かなしいかな、そして私もそれに近い感性を持っている。
 どうして私たちみたいな、地味一辺倒な人間と一緒にいたがるのか、初めのうちはさっぱり分からなかった。からかわれているのか、あるいは何かの罰ゲームだったのか、そんな類の淀んだ想像しか頭に浮かんでこなかった。それはお互い口にこそ出さなかったが、ケイもおよそ同じ意見だった。

 それについてはある時、ケイが問いただしてみたことがあった。あれは6月の事だった。一日続いた雨が止んだ帰り道、曇り空の下でサキちゃんから話題を振られたケイが、珍しく少しイライラしながら言った。
「サキってさ、何で私たちと一緒にいるのさ?」
 サキちゃんは一瞬、何を言われたのか分からないようで、きょとんとした表情を浮かべた。それからようやく話が飲み込めたのか、完全な無表情になった。ケイが続ける。
「――いやさ、前から思ってた事の積み重ねだから、結構理不尽な事言ってるし、性格悪くない? ――なんて思ってもいるけど、あえてこの際聞くんだけど。普通さ、クラスのメインコンテンツみたいな人がこんなモブ全開の二人組に絡まなくね?」
 彼女は言いながらも、段々表情が曇っていく(最初から曇っているだろう、というのは置いといて)。『言ってしまった』、あるいは『言ってやったぞ』なのかどちらかは分からないが、申し訳無さそうな表情にも見えた。
「からかって遊んでるから!」
 サキちゃんは目を細めて、間髪入れずにそう応えた。
「からかって、色々話を引き出して、それから1年2組にそれを持ち帰って、また皆でからかって遊ぶの! 素人がドヤ顔で焼いた壺の品評会みたいに」
 私たちは彼女の方を見ながら、『曲者の正体見たり!』といった顔つきで続く言葉を待った。
「――っていう冗談でこのままいこうと思ったけど、あんまし面白くなさそうだからやめるね」
 私たちは二人揃って、空想上の鞘に手をかけながら話を聞いていた。
「楽しいから。二人といると楽しいし、クラスの皆の誰といるより、面白いから!」
 それだけ! と彼女は満面の笑みを浮かべた。
 それからすぐに同時に2つのことが起きた。まず降り止んでいた雨がまた降り出した。次に、正体不明の嗚咽を漏らしながら号泣するサキちゃんが現れた。正体見たり。
 ケイはあたふたと戸惑いながらも、すぐに自分の傘を広げてサキちゃんの上に持っていった。次第に強くなる雨足を見て私はあわててケイの上に傘をやる。傍目からだとよく分からない、状況不明な団子の構図が出来上がった。それから風が突然強くなり、横殴りの雨に変わった。

 サキちゃんは号泣を続けた。雨と風で良く分からないが、涙と鼻水と風と雨とで顔がぐちゃぐちゃになりながらも、律儀に足は家路を急いでいた。
 ケイは念仏のように終始謝り続けながら、何度もその小さな体を風に吹き飛ばされそうになりつつ、傘を差し続けた。
 私はというと、自分が思っていた事や起きてしまった事を、全て傍観者で終わらせてしまった後ろめたさから、それどころじゃないであろう二人に向かって、風に負けないよう怒鳴るように告解をし始めた。
「私! 私もケイと同じこと思ってて、嫌な奴なんだよ! いや、むしろ私のほうが性格悪いよ! だって、ちょっとおかしいなあって思うじゃん! 普通、ファッションとか恋愛とかそういう話を面白がるキャラじゃん! なのになんで私たちの言い回しとか趣味とか、ゲームとか30代が見るようなyoutubeの話とか聞きたがるんだろうって思うじゃん!」
 「だってそれあたしも好きだし~!」と、近くにいるのに遠くから聞こえるような声でサキちゃんが喚く。私はそれを聞きながらなお、自分のしゃべりたい事だけを喋り続けた。
「だから、もしかしたら隣のクラスでからかわれてるのかなー、なんて思うこともある訳よ! 根暗二人組の生態系調査報告みたいな感じで! そうだったら嫌だなぁって時々思ってたけど、普通にいつもサキちゃん楽しそうだし、よく分からないな、って! だからさっきのは私も同罪! いやむしろ、裁かれるべきなのは黙って罪を負わないようにしてた私の方だよ! 有史以来の、最も恥ずべき罪の一つだよ!」
 3人が団子状態で各々の傘を相手方に差しながら、そんな調子でしばらくparadisoまで風をかき分けて進み続けた。ちなみに私の傘は、早い段階から突風で折れて吹っ飛ばされたので、私だけは二人の背中に手を当てて押しながら進む、良く分からない役割の担当と化していた。

 3人とも次の日はしっかり風邪をひいてきっちり2日間寝込んだ。同じ期間だった。
 以上、私たち3人の生態系調査報告。

9月27日②

 ……と、言うようなほろ苦い回想を私が頭の中で押し広げている間に、私たち3人は喫茶paradisoに着いた。ほとんど嫌がらせのような急角度の階段を、3人揃って眉根を寄せながら上り、60kgはあるだろうと思われる程重い扉を開け、いつもの窓際の席に座る。
 店内ではビートルズの『ペニー・レイン』が流れていた。それを聞きながら、窓越しに見える駅の改札口を見ていると、私たちの高校の学生がひっきりなしにやってきて、改札へと吸い込まれていく様が観察できる。それから格子柄の薄手のセーターを着た主婦が、駅から出ようとして改札のゲートに弾かれる困り顔が見えたり、スマホで通話しながらせかせかと大股で歩く、裾丈が妙に短い紺色のスーツを身に着けたサラリーマンなんかが見えたりした。
 “ペニー・レイン(ペニー通り)を行き交う人々は、皆立ち止まってあいさつをするんだ”と、ポール・マッカートニーが唄った……なんだか気立ての良いおとぎ話みたいで、アニメやゲームみたいなイラストではなく、実際の人物がそうしている光景は、私には上手く想像出来なかった。
 そんな風に、午後のまどろみにも似た生暖かい空気感で、注文した飲み物を待っていたら、黒猫のレヴが優雅な足取りでゆっくりこちらにやってきて、ケイの膝の上で丸くなった。今日は機嫌が良いようで何よりだった。

「明日3人で買い物に行こうよ!」と、クリームソーダのクリームを口いっぱいに頬張りながらサキちゃんがだしぬけに言った。
「なんかね、この前、着れなくなっちゃった服とか整理してたら、春とか秋に着るいい感じの服、ほとんど無いことに気づいちゃってさ! 見に行きたいんだ」
 私は少し考えてから「いいよ」と言った。
「ただ、ちょっと午前中は用事があるんだ。多分そんなに時間かからないと思うから、その後だったら大丈夫だよ」
「オッケー! じゃあYC駅の前で1時に待ち合わせ! ……ケイは?」
 ケイは、カフェオレとシロップの割合がおよそ5対5になるよう慎重に分量を合わせている最中だった。それから、本当にそうしたんじゃないかと言わんばかりのシロップを流し込んだカフェオレを、満足そうな顔つきでかき混ぜながら、「パス」と言った。サキちゃんは大げさにため息をついた……この流れはもう50回くらい見ている。
「たまには外出ようよ! いつも休みの日、引きこもるじゃん」
 サキちゃんがそう言うと、ケイは「うるさい」とマドラーを彼女に向けて“訳知り顔”でゆらゆら上下させる。
「週5日も外、出てるじゃん――これ以上、私の本体である“私の部屋”から離れすぎると、生命活動にすら支障を来す」
 それでも君はかまわないというのかね、とケイは言葉を結んでマドラーをコップに鋭く戻した。私はそれを受けて”いつも通り”提案した。
「じゃあ、レヴさんに聞いてみよう」
 サキちゃんは二度うなずき、ケイは奇妙なうめき声と共にしぶしぶ同意した。ケイは緩慢な動作で、丸くなって動かなくなった黒猫の前足の脇下に手を入れる。彼は目を開け、あくびをひとつしてから、特に抵抗する様子もなく、されるがままになることを決心した。それから、だる~ん、といった擬音が良く似合うような様子で持ち上げられた彼の目を覗き込みながら、私は芝居がかった調子で言った。
「レヴさん、レヴさん、明日は休日です。決して激務に追われて、この世のあらゆるものにくしゃくしゃにされた営業さんが迎える、久しぶりの休日ではありません。私たちは高校生です。そんなこんなで相談があります。私たちは3人で買い物に行こうと思っています。でも一人乗り気じゃありません」
 私は一旦区切ってから、「私とサキちゃんの二人で行くべきでしょうか?」と尋ねる。レヴは瞬きをした後、「ニャァー」と長い返事を返した。
「それでは3人で行くべきでしょうか?」
 小さな顎がすぐさま開き、ニャッと肯定の意を表した。それから、猫の後ろから「分かったよう」、と諦めの言葉が日本語で聞こえた。
「分かったよ、1時ね……」
 ケイはレヴさんを元の位置に戻しながら、起きれるかなあとひとりごちた。
 ――そういう訳で、明日は3人で遊ぶことになった。

 帰り際、入り口のドアノブに手をかけながら、ふと店内を振り返ると、窓辺から広がる夕日に照らされて赤く煌めくparadisoが視界に広がった。目の前のカウンターにあるレジスター横に、ちょこんと座って見送りをしてくれているレヴナントと目があった。
「レヴさん、昨日のラジオの投書、本当に“彼女”なのかな?」
 私は幻想的な様子に当てられたのか、ふと、彼に向かってつい尋ねてしまった。彼はしばらくじっと私を静かに見つめながら、やがて目を細めて「ニャッ」と鳴いた。突然のことに私は、次に何を言ったら良いか分からなくなってしまった。やがて私は例えようのない、何か諦めにも似たような心持ちで、口を開いた。
「――“彼女”、生きてる?」
 夕闇に浮かび上がる彼は、何も応えなかった。その小さな輪郭を微動だにもせず、丸く真っ黒な瞳孔を、ただただ私に突きつけ続けるだけだった。

9月28日①

 出発の準備を済ませた私は、洗面台に立って長い時間、鏡を覗き込んでいた。反射した私が、口を固く結んでこちらを真っすぐ見つめ返してくる。時折、何か言いたそうな様子で、うつむきがちになったり、消極的な|双眸(そうぼう)を微妙に動かして、何かの合図でも送っているような仕草を見せた。
 こうやって“彼女”の仕草をひとつひとつじっくり観察していると、どこか奇妙な気分にさせられる。私は、それを上手く言葉で言い表してみようとする。最初に思い当たった単語は『罪悪感』だった。それから『|雁字搦(がんじがら)め』、『滑稽』――およそ月並みな言葉がいくつか胸中にやってきては、そのまま通り過ぎていく。それと同時に強い不快感が沸き起こり、うんざりした私は、鏡の前から足早に立ち去った。

 私は白のアディダスのスニーカーを履き、振り返って「行ってきます」を告げた。お母さんがリビングから顔を覗かせて、いってらっしゃいと返した。どこか浮かない顔をしている。その表情は、鏡の中の自分を連想させた。居心地が悪くなった私は、そそくさと玄関扉を開けた。

 宜しい。分かった。
 私は観念して、今まであえて断片的にしか思い出さなかった記憶を、頭の中で言葉にしてみる事にした。

 街頭インタビューを受ける“彼女”、それからラジオネーム“だしぬけファンショー”。どちらも私はその実態を良く知っていた。
 “彼女”の名前はナナミという。誕生日は9月29日――私の誕生日の6日後。
 父親は歯科医で、近所のどの歯医者より腕が良いと評判だった。私の両親も何度かお世話になっている。彼は誰よりも用心深くそして正確に虫歯を抜き、同時に、誰よりも的確に、患者の痛みを最小限に抑える手だてを熟知していた。一度受診したら最後、もう彼以外の誰にも歯を抜かれたくないと思うほど、その技術は洗練されていた。
 ナナミはそんな愛すべき町医者の一人娘だった。母親は彼女が生まれてすぐに、ナナミ曰く“込み入った病気”で既に亡くなっていて、親子二人で一軒家を借りて住んでいた。家があった場所は、私の家とほど近く、徒歩5分圏内の一画にあった。
 そんな訳で私たちは、幼稚園から一緒だった。もっと言うと幼稚園の3年間、小学校の6年間、中学校の3年間――合わせて約12年間、ナナミと私はほとんど常に行動を共にしていた。
 物心ついた頃にはもうそれが当たり前の光景だったので、どうやって仲良くなったのかは覚えていない。ただ、遠足や修学旅行、家族ぐるみの旅行に運動会、当時流行していた映画の鑑賞や好きなゲームの発売日など、およそ私が思い出せる限りの思い出の中に、ほとんど常に彼女の姿がある。
 何なら、お互いの乳歯が抜けた順番と場所まで覚えている。最初が右の前歯で、次がたしか右の奥歯から2つ隣――これは彼女が当時9歳だった頃、男の子の一人の挑発に乗って(あるいは調子に乗って)、学校の一番高い木に登った際、そこから落下した衝撃で抜けたもの。ちなみに自分の順番はこれっぽちも覚えていない。

 ナナミが死んだのは去年の10月の事だった。
 彼女はある日、彼女の父親と共に、地元の劇場に演劇鑑賞をしに出かけた。その帰り道、夕食の為に立ち寄ったレストランで火災が起こり、そのまま彼女は帰らぬ人となった。
 放火だった。出火と、それに伴って運悪く生じたガス爆発による延焼――長い時間をかけ、ようやく全ての消火活動が終わると、ビルの内装はどの階もほとんど跡形もなく焼き尽くされていた。
 ナナミたちがいたレストランは4階建てのビルの3階に位置しており、避難に遅れた彼女達は多くの犠牲者同様、黒煙の魔の手にかかり、父親は意識不明の状態で病院に搬送された。11時間後に父親が意識を取り戻すと、既にナナミは事切れていた。一酸化炭素中毒と酸欠による窒息死だった。幸いな事に火の手からは逃れられたようで、遺体はほとんど損傷していなかったらしい。
 結局彼女を含めビル内にいた6人が死亡し、27人が重軽傷を負った。今でも犯人は見つかっていない。

 驚くべき回復力を見せた父親は、意識が戻ったその日の内に、自らの手でナナミの葬儀を手配した。そして私が知る限り、”彼女”を見送るその最後の瞬間まで、何一つ言葉を発しなかった。そんなだから、当日の喪主らしい働きは、ほとんど彼の弟が一人で執り行った。

 お通夜、葬儀、告別式――その全てに参列した私は、あらゆる事が一瞬のうちに、ほとんど同時に生じたかのように思われた。黒い服と黒いネクタイがいくつもやってきて、同じようなことをナナミの父親に告げ、終わり際には同じような表情でぽつぽつと帰っていく様子が、今でも鮮明に思い起こされる。
 それから、ナナミの友達や同級生も同じような調子で参列し、やはり同じように去っていった――当時ナナミと同じクラスだったケイも参列していた。私はその時、彼女たちとクラスが違った。多分、彼女を知ったのはこの時だったと思う。周囲と比べて一回り小柄なその喪服を見て、私はナナミの親戚の子供か何かと勘違いした事を覚えている――それからナナミに与えられた、彼女のペンネームより長い戒名を聞いて、まるで遠い異国からやってきた武器商人の名前のようだと思ったことも、はっきり覚えている。

 それから3ヶ月程して、父親はこの地を去った。今、彼がどこで何をしているか私は知らない。噂では東北にある実家の方で、ここにいた時と同じような建屋で開院して、ここにいた時と同じような様子で過ごしているらしい。

――同じような服装の人たち、同じような生活。
――繰り返し、繰り返し。

9月28日②

 一通りの回想を終えた私は、YC駅に向かう電車のただ中で目的地を確認していた。駅から西に真っ直ぐ行って、徒歩10分くらい――地図アプリを開いて、何度もその番地を|反芻(はんすう)する。
 どうして彼女が今更になって日常に紛れ込んで来るようになったのか、皆目見当もつかなかった。
 ……正直な話、はっきり言って“彼女”にもし再び会えたとして、一体何をすべきか全く頭に浮かんでこない。もっと言うと、私はこれ以上“彼女”の事を考えたくなかった。あの日から1年経って、高校に入学して、新しい友達も出来た。不器用ではあるが、それでも“これから”の事を考えたり、表現したり出来るようになったのだ。私はここまで考えて、ある事に気が付いた。

 私は何故この手がかりを追っていけば、やがて彼女と会えると、こんなにも信じて疑わないのだろう?

 インタビュー映像は他人の空似だし、そもそも現在、該当部分は消えて失くなっている。ラジオは私が無意識の内に、自分の都合の良いように聴いたつじつまが合っているに過ぎない空虚な幻想だ――普通は、そう思うだろう。あるいは面白がって“彼女”のペンネームを、無断で借用している無関係な誰かがいるだけかも知れない。あるいは――

 私は、自分が何か取り返しのつかない思惑を、自らの手で知らず知らずのうちに作り上げているのではないかと感じた。そしてもし自分が、その居心地の良い誘惑に取り憑かれただけの人間だとしたら、これほどの徒労は無い。

 ただ、ひとつだけ確かなことがある。もし、この先のラジオ局で運良く相談に乗ってもらえたとして、それでも何も手がかりが見つからなかったら、今日限りで、この取るに足らない探偵ごっこはお終いにしよう。
 私はYC駅から西に向かって歩き出した時点でそう心を決めた。

 ラジオ局には駅を出てから、およそ8分で到着した。

9月28日③

 ラジオ局はM通りにある。M通りは、複数の大型商業施設が林立するYC街の真っ只中で、唯一50年前からの景観と雰囲気を保っている地域だ。
 ……こう書くとYC街の規模感に誤解を生みそうなので付け加えるが、この地区はいわゆる“田舎の都会”といった趣が強い。一応、繁華街ではある。駅と施設が一体化した大型ショッピングモール、映画館、それから少し歩いた先にある、|う《・》|ろ《・》|ん《・》な飲み屋街――そういった諸々の全てが、ちょっと昔気質な雰囲気に包まれている。
 他所と明確に違う個性としては、アメリカ海軍の駐屯地としての“異国情緒の散りばめられた街”という側面。大きくて絶対にかぶりつけないであろうハンバーガーや、ホットドッグ、ブリトーといった軽食が楽しめるアメリカンな食堂、怪しげなネオンサインが壁一面に目立つバー、外国人向けの大きめのサイズを扱っている服屋等など――100mも歩けばいたる所でこういった“ご機嫌”なお店に出会う事が出来る。
 私は入れないけど、お父さんは近所の友人数人と一緒に1ヶ月に一度くらいの頻度で、ここにあるバンドライブの楽しめるバーに通っている。ジャズとボサノヴァ、それから勿論ロックン・ロール――学生時代に本気でプロを目指していたらしい彼は、時折、頼まれては飛び入りで演奏に参加し、昔取った杵柄でギターをかき鳴らす事もあるらしい。

 閑話休題。観光地としての新しさと、戦後から通底している古めかしさの入り乱れるこの街において、M通りはテナントの入れ替わりこそあれど、喫茶店や魚屋、ブティックといった“懐かしい面々”が常に営業している古強者だった。その商店街の一角にラジオ局はあった。入り口の全面がガラス張りで、その中でラジオパーソナリティがマイクに向かって語りかける様子が見える。入り口脇には、事務所に通じているであろう扉があった。私は一呼吸置いてから、扉脇のインターホンを使う。少しの|()の後、女性の声で「はい」と聞こえた。私は自分の身分を利用する、多少卑怯な手段を敢行した。
「突然お邪魔してすみません、私はY高校に通う者で――」
 “地域密着”のラジオ局ならこういった語り出しが有効だと思ったのだ。
「ひとつ、こちらとご相談したい事がありまして――少しだけお時間を頂く事は出来ますでしょうか?」
 少々お待ち下さい、とインターホン越しの会話が途切れ、ドアが開いた。スーツを着た女性が姿を表す。私は瞬きするのも忘れて、用意してきた学生証をせかせかと提示する。彼女はにっこり笑ってから、どうぞこちらへと二階の応接間に案内された。

 彼女は長椅子を勧めてくれたので、言われた通りにする。作り置きで申し訳ないのだけれど、と私にコーヒーを持ってきてくれる。それから彼女は自分の分を持ってきて対面に座った。私はしゃちほこばった手つきでカップを持ち、一口コーヒーを啜ってから改めて自己紹介をした。すると女性はにっこり笑って言う。
「はじめまして、私は望月、望月カンナと申します。ここの従業員の一人ですよ」
 落ち着いた声音。さすがラジオ局、働く人も良い声なんだなあ、と妙に間の抜けた感想が湧き出てくる。私はさっきから、自分の心臓が肋骨の間からはみ出すほど暴れている様子にうんざりしていた訳だが、彼女の声を聞いていると、少しずつ収まっていくようだった。
「何年生なんですか?」
 とカンナさんが尋ねる。
「1年です」
「へえー、それじゃあ私の弟と同じ学年ですね」と彼女は言って、コーヒーを飲んだ。
「彼もY高校なんですよ」
 流石、ジモト。往来歩けば、あちらこちらに知人の知人――思わず乾いた笑いが出てしまう。少し考えてから私は、もしかして、と思い当たった。
「同じクラスに望月リョウタ君っていう人がいますけど」
 その名前を聴いたカンナさんは、得心がいった顔で、そうそう! と頷く。
「すごい偶然ですね! 弟と同じ高校の同じクラスの子が尋ねてくるなんて!」
 私はというと、あまりぴんと来なかったが、そうですねえと間の抜けた声で同意した。
 あの器用な寝方で、授業をやり過ごそうとした望月クン。結局駄目だったけど、君の知らない所で君は成し遂げたんだよ、と今度伝えてあげよう。彼やカンナさんには少し申し訳なかったけれど、この偶然は良い方向に働きそうだと思った。私は、本題を切り出す。

「あの、今日伺ったのはすごく個人的なご相談になるんです」
 私が話を持ち出すと、彼女は一転、少し俯きながら真剣そうな顔つきに変わる。私は続けた。
「単刀直入になっちゃうんですけど……。9月26日の夕方――多分18時くらいですかね?――その時間に、こちらのラジオ内で投書の紹介があったんですけど――」
 それから私は、早口にならないよう慎重に気を配りながら、“非常な早口”でもって事情をカンナさんに説明した。当然、ナナミの事も正直に話した。
 私がまくし立てるように言葉を並べる間、カンナさんは時折小さく頷きながら聴いてくれた。話が終わった後、彼女はコーヒーカップに視線を据えながら、しばらく何も言わないでいた。私は何気なく壁掛けの時計を見やる――12時32分。
「亡くなったお友達と同じラジオネームを使う投書が気にかかる、という事ですね」
 カンナさんがカップを見つめながら言った。私は俯いたまま頷く。彼女はまた数秒押し黙った後、私に微笑を向けた。
「結論から言うと、ごめんなさい。分かっていると思いますが、投書をあなたに見せることは――そうですねえ、“プライバシーやら、煩雑ななんやかんや”があって、お見せする事はできません」
 ごめんなさいね、と彼女は結ぶ。それからすぐに、「ただ――」と彼女は続ける。
「私が調べて、何か関係がありそうかどうかを、それとな~く教えることは出来ますよ」
 私がはっとして顔を上げると、ウィンクしながら微笑む彼女が見えた。それを見た私はとっさに、掛け値なしの心からの感謝の念と、“ウィンク下手だなー”という少々困った感想とが同時に湧き出てくる。閉じた右目の方にめちゃめちゃに力が入りすぎて、“可愛らしい感じ”より、“おや、無事かな?” という心配が勝ってしまう表情。
 とにかく私は、ありがとうございます!! と若干無理やりにして、強めに言葉を伝えた。

 カンナさんが早速デスクのPCで調べだす。
「ラジオネーム、なんて言いましたっけ?」
 私はちょっと躊躇いながら「だしぬけファンショー」と言った。
「なるほど、だ・し・ぬ・け、っと――ファンショーって、人の名前かな?」
「“鍵のかかった部屋”、です」
 私は言った。
「ポール・オースターっていう、アメリカの作家が書いた作品に出てくるキャラクターなんです」
 へえー、とカンナさんが息を吐くような調子で感嘆する。
「読書家さんだったんですね、ナナミさん。それから、あなたも」
「いえ、私は読んだことないんです。私は、ゲームとか漫画とかのジャンクフード好きです」
「好きなゲームって何ですか?」と、何やら画面をマウス・ホイールでしきりにスクロールしながら彼女が言う。私はちょっと考えて、「世界樹の迷宮」と答えると、カンナさんが突然ニヤける。
「それ、ちょっとシブいチョイスですねぇ、良いですねえ。今一番新しいのはX(クロス)だったかな。」
「それしかやったことないですけど……というか、ご存知なんですね」
「初代からやってますよ」
 歴戦の冒険者を前に、私は畏怖と尊敬の念を覚える。……こんなような雑談をしながら時を過ごしていると、しばらくして、画面とにらめっこしているカンナさんが首を傾げる。続けて「おかしいですね」と独り言のように呟いた。
「番組内容や紹介した投書は全部このデータベースに入っているはずなのですが――何度調べても該当するものはありませんね」
 私は黙っていた。少なくなったコーヒーの表面に出来た波模様を見ながら、彼女が次の言葉を発するのを待っていた。
「申し訳ありません。日付や検索文字を変えて色々やってみたんですが、ダメでした」
 私は観念して立ち上がった。
「いえ、もしかしたら私の聞き違いだったのかもしれません。お手数をおかけしてしまい、すみませんでした」
 カンナさんは諦めきれないのか、少し意地になっている様子でまだ調査を続けている。
「そこに無いということは、多分そういうことなんじゃないかなって思います。勘違いでお仕事の邪魔をしてしまい、本当にごめんなさい」
 私が帰ろうとすると、肩越しに「待ってください」と聞こえた。私が振り返ると、困り顔で何か言いたげに、そわそわしているカンナさんが見える。私が何も言わず頭を下げると、何か諦めたような様子で彼女も同じようにした。
 ごめんなさい、と私は何度か心のなかで彼女に謝った。それは何も、ひとつの事柄に対してではなかった。

 物事には色々な見方がある。見る角度を変えれば形を変えるし、同じ方向からでも見る人が変われば、形や色でさえ先程とは同様ではない。ようするに私たちはそうやって生きている。好むと好まざるとにかかわらず。

 例えば、虚言癖の高校生。カンナさんがどこまで私を信用したかは置いておいて、そもそも彼女が私を“どう見たのか”、それを確認する術は私には無かった。
 例えば、調べるふりをして、私に偽の情報を手渡したラジオ局勤務の女性。たった一人の、突然訪ねてきた信用ならない子供の為に、業務上、何か問題になるような事に手を染める訳にはいかないのかもしれない。しかし私にはそもそも、彼女の言葉を信じたり疑ったりする術は無かった。
 様々な見方がある。あるいはどちらも間違っているのかもしれない。私が謝ったのは恐らく彼女は、私の力になりたいという気はあったのだろう、と思ったからだ。それから何度か謝ったのは、私が彼女の見せた誠意に、充分に応えられる態度を見せられなかったからだ。

 私は呆然としながら、スマホで時計を見た。12時40分。
 待ち合わせ場所に向かおう。そしていつもの日常に戻ろう。明日の日曜日は、私が見たかった映画でも見に行こう。今日たっぷり遊んで、キリの良い所で、皆で映画を見る約束を取り付けるんだ。そう思った。
 私はそうしても良いし、しなくても良い――駅前でぼんやり時間を潰していると、『世界樹の迷宮』の有名な言い回しが頭に浮かんできて、私にそう告げた。

9月28日④

 買い物を終えた私たちがparadisoに着いた頃には、時間は17時を回っていた。入口の扉を半分開けた所で、店内に(信じられないことに)、結構な数のお客さんが寛いでいる姿が見受けられた。そこから店内の様子をひっそり伺い見たサキちゃんは、両手いっぱいにぶら下げた紙袋をあちらこちらに振り回しながら、申し訳無さそうに笑う。それから、ささやき声で「ごめんね!」とウィンクした。
「お客さん沢山いるみたい! あたしはお店手伝うから、後は二人でゆっくりしていって! また明日ね!」
 そう言って彼女は、紙袋を無闇やたらに左右の壁に擦りながら、3階に消えていった。

 私とケイはいつもの窓際の席が辛うじて空いていた事に安堵しながら、席につく。日が沈んで肌寒い日だったので、私はホット・ミルクティを頼んだ。
 注文が済み、一息つく。ゆっくりと店内を見渡すと、|斜向(はすむか)いのテーブル席で談笑する制服の4人組が目に留まった。そのうちの一人は同じクラスの幸田さん。
 部活の練習の帰りだろうか、などと考えていると彼女と目が合った。すると、そのくりっとした両目を輝かせながら、猫みたいな口の形でこちらに元気よく手を振ってくるので、私も小さく返した。一緒にいた3人も、|や《・》|お《・》|ら《・》手を振る幸田さんを見てこちらを振り返り、軽く会釈する。挨拶が済むと、4人はまた自分たちの会話に戻っていった。その間、ケイは私や彼女たちの事をほとんどガン無視して、ソシャゲのガチャを回していた。
「お待たせしました! ミルクティとカフェオレで~す」
 それから少しして、黒いシャツの制服を着た店員さんが飲み物を持ってきてくれた。その店員さんの眩しい笑顔に向けて、私とケイは「ありがとうございます」と、100%完璧な他人行儀で、感謝の言葉を告げた。
 ……相変わらず、制服を着たサキちゃんはカッコいい。他のお客さんの席を飛び回る彼女を見ていると、自然とそんな感想が頭に浮かぶ。
 店内ではジョン・メイヤーのアルバム、『ザ・サーチ・フォー・エブリシング』を流していた。2曲目の『絵文字・オブ・ア・ウェーブ』を何となしに聞きながら、ふとレヴの姿が見えない事に気がついた。きっと店の奥で寝てるのだろう。
 私が黒猫の姿が見えないのを残念がっていると、幸田さん達が席を立って、ぞろぞろと店を後にした。帰り際に、彼女はまたこちらに手を振ったので、私はさっきとほぼ同じ仕草で返す。

 扉が閉まり彼女たちの姿が見えなくなると、突然ケイが机に身を乗り出して、小声で私に聞く。
「幸田たちの話、聞いた?」
「何の話?」と、私もつられてひそひそ声。
「Y高校の七不思議、だそうだ」
 突然聞こえてきた、|古色蒼然(こしょくそうぜん)な奥ゆかしい単語に私は少し怯んでしまう。
「へぇ、うちにもそんなのあったんだね。初めて聞いたよ」
 私がそう言うと、ケイがしぶい顔で「いやいや」と首を振った。
「うちの高校、今年で創立3周年ですぜ。不思議が7つも定着する余地無いじゃんね」
 私は確かに、と思った。
「--じゃなくて“七不思議を作ろう”って話、してたみたい」
「お、にわかに面白そうだね。ベタな悪ふざけだ?」
 自分の顔が“にやり”と歪んでいくのを感じる……というかケイ、しっかり聞き耳立ててたんだね、と思ったが何も言わなかった。
「そそ、前もって学校に何か仕込んでおいて――んで、それを見つけた誰かが騒ぎ出して、噂になる様を観察しよう、ってさ」
「社会実験だね」
「最悪、無反応だったら自分たちで騒ぎ出せばOKだしね」
「っていう事はあの子達、何かやろうと計画してるのかな?」
「何個か候補、上げてた。んと――例えば、3階の視聴覚室の前の消火栓、ホースの入ってる扉内にセフィロスのアミーボを入れておくらしい」
 私は一瞬“ん? ”と思った。
「片翼の?」
「片翼の奴」
 私は少し考えてから、特に何も考えないで「なるほど」と唸った。ケイは話を続けた。
「で、そのアミーボを右手の甲の上に乗せて、左手でシャーペンを3回ノックして、伸びた芯を小指で折る――これを3回繰り返した後、シャーペンを床に落として、“自分から見て12時の方向”にペン先が向くように足で調節して7秒待つ。すると、視聴覚室の鍵が開くから、5秒以内に中に入る。中に入ったら、天井に備えてあるプロジェクターに、セロテープでアミーボを頭が下になるように固定して12秒待つと、翌日に想い人にその想いが伝わる、そうだ」
 ケイの説明が終わった時、私の頭の中はほとんど空虚だった。私は自分の頭の処理能力が、とっくに追いついていない事を理解した。胸中に去来した「全部盗み聞きするじゃん」という感想は一旦、捨て置くことにして、私はシンプルに、最初に思ったことを尋ねた。
「……バグ?」
「あるいは」と、うなずくケイ。
 なんだか夢心地の状態だった。というより――
「それじゃ、誰も方法なんて知らないし、噂になりようが無い気が――」
「知らないし。あいつらのプランだし」
 でも、と彼女は真剣な眼差しを私に向ける。
「発見後、RTA業界で注目されてチャートにこのバグを組み込んだ所、クリアタイムが2分も縮んだっていう、画期的なものだったらしい」

 ……私が得も言われぬ顔で帰宅した後、よっぽど今日聞いた事をワザップに投稿しようと思ったが、|(すんで)の所で食い止めた。
 ベッドで横になっていると、頭の中をparadisoで聞いた『テーマ・フロム・ザ・サーチ・フォー・エブリシング』がリピート再生されて、それが妙に眠りに誘ってくれたので、無事、眠ることが出来た。

9月29日①

 YC駅前にある大型歩道橋の広場で待っていると、サキちゃんがやたらめったらに手を振りながらこちらにやって来るのが見えた。わずかに他人のフリをしたくなったが、諦めて私は小さく手を振る。
 待ち合わせの時間ピッタリ、9時半だった。私とサキちゃんはケイが一向に姿を見せない事に大した疑問を持たず、他愛の無い話に花を咲かせる。
 10分ほどして、ケイが改札からやってくるのが見えた。彼女はやや|項垂(うなだ)れながら、妙に粘着質な歩き方でこちらに向かってくるので、また他人のフリをしたくなったが、諦めておはようと声を掛けた。

「昨日は何時?」と、サキちゃんが歩きながらケイに聞いた。
「――3時にはちゃんと寝た」
 地獄の底から長い年月をかけてついに蘇った“何か”の恨み節のような声が、ケイの喉からゆっくり吐き出される。
「ヨク、起キレタネ」
 私が無感情に言葉をかけると、やけに得意げな表情で「おう」と返すケイ。
「ただおかげで、寿命はちゃんと半日縮まってる」
 “能力”の代償として、かけがえのないものを支払ったであろうケイは、親指を立てた。私は口では「ありがとうケイ!」と感謝を伝え、内心では、心の底からどうでもいいと思いながら歩を進めた。

 10分ほど歩いて映画館に着いた私たちは、飲み物を買い、三人揃って予約しておいた席に着いた。上映まであと5分ほどある。一番右の席だったサキちゃんはトイレに行った。真ん中に座ったケイは、一番大きなサイズのコーラをちびちび飲んでいる。
「映画館なんて久しぶりだよ」
 ケイが言った。
「最後に劇場で見た映画って“ドラえもん”ですぜ?」
「ってことは、最後に来たのって小学生くらいの頃?」
 私が尋ねると、「たぶんね~」とサキが目を細めて言った。
「時代は配信ですよ、配信。サブスクなら何でも揃ってるかんね~」
「良いじゃん映画館。画面大きいし、音響も迫力満載だよ」
「……それから、自分の前の席にやたら背の高い人が座ってしまうスリルも味わえる」
 私は「あぁ……」と間の抜けたため息をついてしまう。
「……それからそいつが、|そ《・》|れ《・》|は《・》|そ《・》|れ《・》|は《・》良く音の響く、ポテチ的なお菓子をつまみ出す理不尽感もお楽しみ頂けます」
「……トラウマなんだね、それ」
「あれからさ、二度と行くまいと誓ったのは」
 そんな話をしているとサキちゃんが帰ってきた。それから間もなく長い開演ブザーが鳴り響いた。
「――もう、大丈夫?」
 ブザー音が鳴る数秒前、ケイは唐突に私を見つめながらそう言った。へ? と私が聞き返すと同時に、けたたましくブザーが鳴り出したので、ケイは“何でも無い”という風に自分の顔の前でゆっくり手を振った。

9月29日②

 この映画は、制作が決定した時から楽しみに待っていた。いわゆる実写化映画という物で、元々は“|青梅 小木(おうみ おぎ)”という小説家を原作として、漫画家の“石山 |清是(きよこれ)”が作画を担当した漫画だった。連載開始は8年以上前。形態は月間連載で、いつかの“このマンガがすごい! ”でも8位に入っていた事もある。
 ――そう。ご多分に漏れず、私は当初“実写化かぁ”と身構えていた。原作の単行本は現在8巻まで出ていて、未完結だった。未完の、しかも8巻も出ている漫画を2時間に収める--その上、結末は原作者が関与しているとはいえ映画オリジナル……黄色信号である。
 ただ、そういった|猜疑心(さいぎしん)は早々に氷解する事となった。理由はひどく単純なものだった。制作決定後に公開されたPVが原作の雰囲気を見事に描き出していた事や、メガホンを握る監督が、私が子供の頃に大好きだった映画の監督だったという事を知った私は、早速楽しみで仕方なくなってしまったのだ。

 タイトルは『色の無い虹』。映画化するにあたって細部は変更になっているが、あらすじは|(おおむ)ねこうだ。
 主人公は、殺人事件の冤罪で25年もの歳月を刑務所で過ごした元囚人。彼の出所から物語が始まる。満期釈放を迎えた彼は支援団体にお世話になりながら、自然豊かな北海道のニセコ町に移り住む。それから3ヶ月が経ち、個人契約の郵便配達員をしながら生活する彼は偶然、児童養護施設から脱走してきた男の子と出会う。で、色々あって一緒に住むことになった彼らと、地元住人との交流を描くハートフルストーリー。
 以上の大筋とは別に男の子の|出奔(しゅっぽん)の真相、主人公の冤罪と真犯人の思惑といった、ちょっとしたクライム・サスペンス要素も織り交ぜつつ、牧歌的な街のエピソードとの“静と動”を見事に描いた多層的な味わいのある物語だ。無論、映画ではいくつかの要素は尺の都合上カットされている。

 サキちゃんもケイも、既に私の手によって“布教済み”の身だ。ケイは私以上に、実写映画化に際して警戒していた。上映開始から30分、今の所、間違いは無さそうだった。台詞回しやカットは、原作の雰囲気を損なわない程度のアレンジがされている。カメラワークも、“ありがちな”演者にピントを合わせすぎたショットを多用せず、登場人物が広大な北海道の自然や町並みと上手く調和するよう、充分な配慮がされている。映像として描き出されている雰囲気そのものが、確固たる解釈の元に演出されていて、カットのひとつひとつが違和感なく、丁寧に繋ぎ合わされていた。俳優も良好。自分がちゃんと役の中に没入し、脚本とキャラクター性を第一にしたその演技には、感嘆さえ覚えた。

 おかげで、安心して話に集中することが出来た。どうしても原作がある映画を見ると、警戒や、ある種の|()|()|し《・》の目線無しに鑑賞するのが難しくなる。ファンならなおさら。
 私は起承転結の“転”にあたる、男の子がどうして施設から脱走を図ったのか、その理由が判明して主人公と喧嘩別れするシーンまで夢中になって見ていた。いよいよ大詰め。ここまで映画内に散りばめてきた何気ない伏線や謎がひとつずつむくりと起き上がり、やがてそれらが観客を驚かすべく、次々に正体を明かしていく。この部分は映画オリジナルの設定が多く、原作信者の私もしてやられた、という展開が繰り広げられていた。何なら原作ファンに仕掛けられたミスリードさえいくつかあった。次は何が起こるんだろう? 私は目の前で展開するお話に目を奪われ、虜になっていった。

――確かに、そこまでは覚えている。映画のラスト30分前、男の子が家出し、途方に暮れた主人公が、上の空になりながら郵便配達の仕事をこなす静かなシーン。最後の盛り上がりを強く印象づけるために挿入された、淡白な日常の一幕。一軒家に荷物を配達する主人公。インターホンを押して、それを取りに来る家主の娘。彼女は判子を押して一言「ありがとうございます。お疲れ様です」と主人公に笑いかけた。私はその女の子の姿に釘付けになった。すぐにヒロインの女性が背後から走ってきて、男の子の所在が分かったと主人公に告げ、二人して車に乗り込んでその場を離れてしまったので、その娘は5秒ほどしかフレームインしなかった。
 “無害なエキストラ”。茜色のカーディガンを羽織ったその女の子は、ナナミだった。あのインタビュー映像と同じく、確信を持って言えた――何せ12年以上、ほとんど毎日見続けていた顔なのだから。
 そのシーンから先は、記憶に残らなかった。

 映画を見終えた私は、起き抜けの呆けたような顔つきで、映画館前に立っていた。背後でケイとサキちゃんが、楽しそうに何かしゃべっている。
 目の前の往来では、たくさんの人が歩いている様子が見える。雑踏の音が私の神経を逆なでした。
 対面にあるパチンコ屋の自動ドアが開いた。けたたましい音が店外へ漏れ出す。
 右手にある交差点の信号が青に変わった。鳥の鳴き声を模した効果音と共に、歩行者が一斉に動き出した。
 私の近くで路上駐車してあった原付きに、中華料理の“岡持ち”を持った青白い男が跨る。|(かす)かにオイスター・ソースの匂いがした。彼がエンジンを吹かすと、焦げ臭い匂いに変わった。
 私は冷や汗をかいていた。
 街路樹の|根本(ねもと)からハトが1羽飛び出して、私の頭上を掠めていった。
 心臓の脈動が少しずつ早くなっていく。|し《・》|っ《・》|か《・》|り《・》|し《・》|な《・》|さ《・》|い《・》、と私は言い聞かせた。

 目の前の往来では、たくさんの人が歩いている様子が見える。背後からサキちゃんが私の肩に手を乗せて何かしゃべっている。耳鳴りがして良く聞こえなかった。仕方ないので、振り返ってとりあえず笑顔で頷くことにした。
 何か硬いものが折れる、乾いた音が小さく聞こえた。自分の左手を見ると、シャープペンシルを握っていた。何故握っているのか分からなかった。音の発信源はこれだった。シャーペンの芯が折れる音。
 また目の前の往来に視線を戻した。たくさんの人が立ち止まって、私をじっと見つめていた。無音だった。パチン、と芯の折れる音がした。すぐに皆、また歩き出した。
 膝ががくんと悲鳴をあげて崩れ落ちそうになった。ケイとサキちゃんが支えてくれた。ケイが何か喋っている。
 パチンコ屋の自動ドアがまた開いた。けたたましい音は扉が閉まった後も続いた。
 目の前の往来では、たくさんの人が歩いている様子が見える。
 目の前の往来には、|た《・》|だ《・》|の《・》|()|()|も《・》|()|い《・》|て《・》|な《・》|か《・》|っ《・》|た《・》。

 パチン--私は心を決めた。冷や汗は止まっていた。

「ほんっとにごめん! ちょっと緊急の用事、思い出しちゃった! すぐに帰らないと!」
 私は大げさに手を合わせてお辞儀した。それから急いでその場を離れて、電車に乗った。別れ際、すれ違いざまにケイが小さく何か言ったが、聞き取れなかった。

9月29日③

 スマホの画面を見るとサキちゃんからのLINEが数件入っていたが、内容も確認せず全部無視した。画面左上の時計は12時17分を示している。私は学校の昇降口前で、校舎をしばらく見上げていた。頬を撫でるそよ風に乗って、吹奏楽部の演奏が聞こえてくる。
 愉快な旋律を奏でるクラリネットやマリンバ。一糸乱れぬ足並みで唸る、サキソフォンにチューバ。演奏曲は『アンダー・ザ・シー』だった。
 彼らは多分、来週末の“定期演奏会”に向けた練習をしているのだろう。年に一度、近所のホールを貸し切って一般向けに開催する、50人編成の演奏会。その本番を目前に控えた吹奏楽部は、最後の追い込みとして(日曜日だと言うのに!)、決死の練習を敢行しているのだ。そしてそれが故に、休日でも夕方まで正門は開けっ放しだった。
 私は吹奏楽部に感謝しながら堂々と正面から校舎に入り、靴を履き替え、三階を目指した。自分が私服だった事に思い至って急に怖くなってきたのは、上階に向かう為、階段に右足をかけた時だった。
 ……まあ大丈夫だよね、学生証も持ってるし。大丈夫……だよね?
 私は確信を持てないまま、一旦その件については極力触れないようにしながら、目当ての部屋の前に辿り着く。再び曲の頭から吹奏楽部が音楽を奏で始め、その分厚い音色が無人の廊下を駆け巡った。

 視聴覚室の扉は開かなかった。ふたつある入り口はいずれもきちんと施錠され、中にある高価な備品が破損したり盗まれたりしないよう厳重に管理されている。
 至極当然の結果を目の当たりにした私は満足した。鍵のかかった視聴覚室。条件は整っていた。
 振り返った私は、背後にある壁に備えられた消火栓に向き合った。使用方法が丁寧に書かれた大きなシールが剥がれかけている。私は真新しく、どこか他人行儀な消火栓をじっと見つめ、恐る恐るその扉に手をかけた。冷たい金属の触感が返ってくる。いよいよという瞬間にふと我に返って、手に力を込めるのを躊躇った。
 私は、自分が何をしようとしているのか分からなかった。何を期待してここに来たのか、説明が出来なかった。限定された思考と空間に閉じこもった、不届きな異常者。私はいっそこのまま消火栓の非常警報を鳴らして、辺り一面を水浸しにしてしまった方が“分かりやすい”かな、とも思った。
 それでも私は、自分がどこまでも冷静だと確信していた。そして当然、だからこそ異常であるという事も理解していた。あるいは――

 私は答えが出せないまま、ゆっくりと消火栓の扉を開いた。真っ先に目に入ってきたのは、バームクーヘンみたいにぐるぐると円状に折りたたまれたホースだった。扉の中を見るのは初めてだった。私はその想像以上に“ヘビー”な質感のホースに若干怯んでしまう……それから、ちょっと持ってみたい誘惑に駆られた。しかし、|(たた)まれたホースの留め具の上部を見た私は、すぐにそのだらしない欲を忘れてしまった。
 そこにはセフィロスがいた。アミーボのやつ。
 ……信じられなかった。私は廊下の窓に目を向けて、一息ついてからもう一度ゆっくりそれを見やった。
 やはりセフィロスがいた。片翼のやつ。愛刀の正宗を逆手に持ち、クールなポーズを決めた“それ”は、整った顔つきでやや俯きながら、|ニ《・》|ヒ《・》|ル《・》な微笑みを私に向けていた。
 悪夢だった。私は無言のまま両目を手で覆い、助けを求めるように天を仰いだ。しばらく経っても誰も助けに来なかったので、大きなため息をついた。それからすぐに着ていたパーカーの左ポケットから、シャープペンシルを取り出した。|逡巡(しゅんじゅん)するように、消火栓の中で暇そうに|(たたず)むセフィロスとシャーペンを交互に見やっていたが、ついに諦めた私はおずおずとした手つきで彼を握りしめ、右手の甲の上に乗せた。
 左手にシャーペンを持って親指で3回ノックすると小気味良い音が連続し、中の芯が顔を覗かせる。胸の高さまで持ってきた右手の上から、この片翼の天使が飛び立ってしまわないよう充分気をつけながら慎重に小指で芯を折る。

 パチン――あと二回。
 パチン、もう一回。
 パチン――。

 よっぽどニブルヘイムが恋しくなってきた頃、まだ全てが終わっていない事に思い至った私はじわじわと膝を曲げてシャーペンを足元に転がす。
 かがんだ状態から姿勢を|や《・》|お《・》|ら《・》戻し、足でシャーペンの先を“自分から見て12時の方向”に合わせた。それから頭の中で七秒間のカウントを始めた。

 1、2、3……永遠と思えるくらい長く感じる。
 4、5……吹奏楽部の奏でる『ホール・ニュー・ワールド』が聞こえる。
 6、7……ハーゲンダッツが食べたい。ブラウニーのやつ。

 一見何も起こっていないようだった。私は見られたらまずいと思い、我に返ったが如くあわててシャーペンをポケットにしまって消火栓の扉を閉めた――背後に視線を感じる。急いで振り返るとそこには誰もいなかった。
 その拍子に、右手の甲の上からソルジャークラス1stが落ちて、床に頭を打ち付ける音が廊下に響く。足元を見るとちょうどセフィロスと目が合った。“彼”を拾い上げて視聴覚室の扉に手をかけた。

 5秒以内に入室――私が考え事をまとめるには短すぎる時間だった。
 扉は簡単に開いた。

9月29日④

 視聴覚室は真っ暗だった。私は後ろ手で扉を注意深く閉め、部屋全体を見渡して息を呑んだ。ほとんど何も見えなかったので、私は数十秒間その場でじっと静止した。次第に目が慣れてくると部屋内の備品の輪郭が闇の中にじんわりと浮かび上がり、私はそれらとの距離感を理解しつつあった。

 締め切った|遮光(しゃこう)カーテンが、窓際一面に重苦しい漆黒の膜を広げている。部屋いっぱいにずらりと並んだ無個性な長机や正面の巨大なスクリーンは、まるで匿名の群衆のような冷めた目つきで私を見つめているようだった。おまけに何故かは分からないが、室内は廊下より肌寒かった。
 私は小さく身震いして、左手に握りしめたセフィロスのアミーボを握る力をぎゅっと強めた。電気を付けたかったが侵入がバレるかもと考え、万一に備えてそのまま続行することにした。

 私は教卓の上にあったテープカッターを手に取り、部屋の中央に移動した。天井を見上げると、プロジェクターが丈夫そうな足を突き出して|へ《・》|ば《・》|り《・》ついている。長机がちょうどその真下に位置していたので、私はセロハンテープをアミーボの台座に数枚貼り付けてから、おっかなびっくり卓上に乗って手を伸ばした。
 おぼつかない手つきでようやくプロジェクターに固定されるセフィロス。宙吊りに高く掲げられたそれは、誰に見せるでもなく、虚空に向かって不敵な笑みを浮かべ続けている。
 |シ《・》|ュ《・》|ー《・》|ル《・》だった。超現実的、超自然的な光景。非日常や違和感の象徴。決まり事や習慣をあざ笑う偶像。あるいは街頭に吊るされた死体。あるいは、今の私。
 私は教室の真ん中の椅子に座って、スマホを取り出した。暗闇に鋭い明かりが広がった。その容赦の無さに少したじろぎながら|細目(ほそめ)で通知を確認すると、ケイからも連絡が来ていた――サキちゃんのと同じく、内容も見ずにスライドして消した。
 時計を見ると、12時40分だった。先程から吹奏楽の音色が聞こえなかった。多分、お昼休み。私は例の七不思議の手順にしたがって、頭の中で12秒数えた。
 ――12秒待ったが何も起こらなかった。そういえば最後に何が起こるか聞いてなかった。この“バグ技”が成功しても、それを知らせる合図みたいなものは存在しない。急にプロジェクターが起動するとか効果音が鳴るとか、そういう成功の証みたいのは無いのかな。


……まあいいや。これで私は――急ごしらえの七不思議のルールに従えば――念願叶って、私の想い人と両思いになれるのだ。明日になれば、きっとなんか良い感じの人が颯爽と現れて、|め《・》|く《・》|る《・》|め《・》|く《・》恋物語に私を連れて行ってくれるのだろう。明日が楽しみで仕方がない。
……何の達成感もわかなかった。その上、こうやって皮肉を考えるのも疲れてきた。私は机に突っ伏して大きく息を吸い込んで、ゆっくり吐き出した。ため息とは少し違う、徒労に対する自分へのねぎらいのあいさつ。これで本当に終わり、お疲れ様。そんな気分がした。
 考えてみれば当たり前のことだった。既に何もかもは終わったのだ。もっと正確に言えば“終わっていた”のだ。それを無理やり叩き起こして、気まぐれに蘇らせてみせたに過ぎない。今までの事は全て私の記憶に、執念深く|姑息(こそく)な空想が入り込んで実体を得ようと画策した、その計画の過程で起こった副産物だった。
 私は自分の思い出が、得体のしれない“何か”に覆い尽くされていく様子を想像した。上手く出来なかったが、それでも続けてみる。楽しかったことや苦しかったこと、私が持っているあらゆる過去が黒く濁っていく光景。記憶の中で微笑みかける両親や友達たち、柔らかい陽光の中に広がる町並み、意地の悪い同級生や先生。それらがひとつひとつ黒く塗りつぶされ、やがて最後には自分しか残らなかった。

 とても悲しかった。そしてその諸悪の根源を呪った……仮にそんなものが存在するとしたら。
 私は、いもしない|()|()に思いを馳せる。どうしてそんなひどい事をするのだろう。深く考えてはみたが答えは出なかった。そのかわりに、もうひとつの感情を抱く自分がいる事に気がついた。
 それは喜びにも似た感情だった。形あるものが“何か”に壊されていく快感。自分と自分の生きてきた道筋をいともたやすく引きちぎり、ねじ曲げ、歪ませ、誤って繋げようとする“何か”。その“何か”は無防備な彼らを簡単に|(だま)し、もっともらしい事を言って説得する。そうして懐に潜り込んだ“何か”は、理不尽な力で破壊の限りを尽くす。
 自分の内側が、自らの招いた無知によって壊される様子をどうしてか私は容易に想像できた。圧倒的な暴力だった。それが終わればあとには無秩序が広がる。
 そしてそれはしばしば起こりうる。それを引き起こす正体が何であれ――

 私は机に突っ伏して、1時間ばかりこうしていた。スマホで時間を見ると、13時50分だった。吹奏楽部のお昼休みはとっくに終わり、10分ほど前から各楽器がそれぞれのパート練習をする、雑多な音が聞こえていた。私は上体を起こして正面のスクリーンをじっと見つめた。それから、午前中に見た映画の結末を上手く思い出せない事にやきもきした。やっぱり男の子が戻ってきてハッピーエンドだよね? と思ったがあまり確信は持てなかった。
 部屋内が相変わらず肌寒い。私はパーカーのフードをかぶってジッパーを一番上まで上げた。その時、窓を開けていないのにカーテンが少しだけふわりと動いた。吹奏楽部の音色が先程から聞こえなくなった。
 そういえば、あの二人にはなんて説明しよう。悪いことをした。この埋め合わせは後日きちんとしようと思った。何が良いだろうか少し考える。しばらく考えてparadisoのケーキセットが頭に浮かんできたので、ぴったりだと思った。それで許してくれるかは分からなかった。『用事』という事で離脱してきたけど、明らかに二人には“心配”されていた。私は心のなかで謝って、明日言うべき言葉を、心のなかで何度か繰り返した。

 そんな事を考えていると、背後に気配を感じた。私は振り返らなかった。
 現れたのは、ナナミだった。

9月29日⑤

 無音がしばらく続いた。完全な沈黙。
 ――ひどく寒かった。体が小刻みに震えている。
 私は正面のスクリーンの一点を見つめながら、次に何が起こるのか待っていた。
 長い間、何も起こらなかった。しかし私の心は不思議と穏やかだった。ふいに懐かしい匂いがして、自然と少しだけ口角が上がる。私はこれの正体を知っていた。

「久しぶりね」
 先に静寂を破ったのはナナミだった。
「元気だった?」
 私はスクリーンを見ながら、無言で頷いた。一年ぶりに聞いた彼女の声は、記憶の中のそれと|寸分(すんぶん)変わらなかった。聞き慣れすぎて|う《・》|ん《・》|ざ《・》|り《・》さえしてしまう口調。誰一人いない|(なぎ)の海を連想させる、どこか物寂しさを感じる声。
「ナナミ?」と私は白々しく聞いた。
「そうよ」
 ふーん、と私が興味なさげに相槌を打つと、ナナミは笑った。
「……左上の奥歯。中々抜けなくて炎症気味だったから、私のお父さんが施術したじゃない?」
 それは私の最初の乳歯が抜けた時の話だった。
「――そうだったっけ」
「覚えてない?」
「ナナミのは覚えてるよ。右上の奥歯。生意気なタキグチくんに|()き付けられて木登りして落ちた時、さ」
 う~ん、と彼女は大げさに考え込んでから、言った。
「そうだったかしら?」
「覚えてない?」
 私はスクリーンに向かってにやりと笑った。背後にいるナナミは遠慮がちな声で笑った。紛れもなく本人だった。
「どうして現れたの?」
「色々あって、ああするしかなかったのよ。魔法みたいでしょ?」
「ちょっと趣味悪かったけどね。死んだはずの人が街頭インタビュー受けたり、挙句の果てには映画出演したり――あれは本当に現実に起こった事?」
「さあ、どうでしょう」
「あ、そこはぐらかすんだ」
「本当に悪いことをしたなって思ってるわ。ホントにごめんね!」
 私は大げさにため息をついてみせた。
「ここ数日ひどい気分だったんだからね。とうとう頭がおかしくなっちゃった~、なんてね。まあ、まだ本当のことは分からないけどさ」
「まだ半信半疑なの? 気持ちは分かるけど……」
 いや、と私は否定した。
「そんな事は重要じゃないよ」
「――その通りね」
「おかげで明日、友達に埋め合わせしなきゃけなくなった」
「本当よ! ちゃんと次会ったらしっかり謝りなよ?」
 私たちは笑いあった。こんなに心から笑えたのは久しぶりだった。しばらくして私は言った。
「劇は面白かった?」
「う~ん、面白かったけどちょっと長かったかしら。やっぱり|し《・》|ゃ《・》|ち《・》|ほ《・》|こ《・》|ば《・》|っ《・》|た《・》オペラなんて、私みたいな無教養な人間にはハードルが高いわね」
「そういえば、何を見に行ったんだっけ?」
「“ファウスト”よ」
「……ナニソレ」
「ゲーテの“ファウスト”。4時間もあるオペラ。途中休憩有り。一応、文庫本で読んだことあって内容はある程度把握してたけど……結局、今どの部分を演じているのか途中から訳が分からなくなっちゃった」
「お父さんのチョイス?」
「そう」
 そうなんだ、と私は心の底から興味のない事がはっきり伝わるような調子で言った。ナナミはまた笑って言った。
「で、その夜にレストランで食べたステーキが“最後の晩餐”になったという訳なの」
「あんまり笑えないなぁ。それが最後の記憶?」
「覚えている最後の記憶はお葬式ね。もう、うろ覚えなんだけど……皆来てくれて嬉しかったなぁ。お父さんには申し訳なかったけど――そういえばケイちゃんなんかも来てくれてたよね?」
「確か」
「……ケイちゃんにはバレてるっぽいわね」
「何が?」
「……ううん、何でもないわ。気にしないで」
 そう、と私は言った。

「高校はどう?」
 ナナミが言った。私はどう言うべきか少し迷った。
「……それって、“すごく楽しいよ!”って答えたら呪われるやつ?」
「私も、もっと生きたかったのに~! みたいな?」
「そうそれ。そのパターンのやつ」
「最初はそう思ったわ。どうして私がとか、何で? とか考えたけど――けど、もういいの。少しずつだけど受け入れられたの。偶然そういう事になっただけなんだから、って」
「強いんだね」
「一度死んでみると、よく分かるかもね?」
「うわ、やっぱり呪い殺されるじゃん」
「やり方分からないから安心して」
「教わるものなんだね」
「そうなの。選択式で私は“すぐ出来る! 現世に現れる為の毎日トレーニング”を選んだわ。そして割と努力したら出来るようになったの」
「頑張ったんだね」
「一緒に火事で死んだ男の人は“簡単! 死なばもろとも呪い殺しのA to Z”コースを選んだわ。そして会社の上司に試すって言ってた」
「上手くいくと良いね」
「そうね」と、今度はナナミが心の底から興味のない事がはっきり伝わるような調子で言った。私は笑った。

「おかげでよく分かったよ」
 私は寒さに震えながら言った。
「結局のところ、私はナナミがいなくなってから何かが変わった。はっきりとは分からないけど、自分の中にある大事な部品が抜け落ちて――そうと気が付かないまま一年間、動き続けてたんだ」
 所々、言葉に詰まりながら私は続ける。
「生まれてはじめての経験だったよ。ほとんど四六時中一緒にいた友達が、ある日を堺に突然いなくなるのは、ね」
「でも、近しい人を亡くした大体の人は同じだと思うわ。悲しい思いをすれば、誰だって変わる。好むと好まざるとに関わらず」
「まさか幽霊に常識の話をされるとはね……まあいいや。とにかく、私の中に流れてた時間が止まって、それからは心のどこかで、目に映る楽しい事とか、悲しい事とかに対する|()|()を、ちゃんと把握出来てなかったんだ」
 私は正確に言葉を選ぼうと努力した。
「上手く出来そう?」
 ナナミは言った。私は分からないと言った。
「でも、少なくともそうしようと努力したよ。実際、悪くなかったと思う。でも、この部品は二度と元に戻らない」
「保証書も代替品も存在しない」
「その通りだよ。どんな友達が何人出来ようと、深い繋がりで誰かと結ばれようと、お金稼ぎに成功しようと、どんな成功体験をしようと、きっとそれはずっとそのまんま」
「そうね」
 ナナミが同意すると、遠くで管楽器の鈍い音が聞こえた気がした。私は続けた。
「ある意味じゃ“分かりやすい喪失”で良かったと思ってるんだ。自分でも把握しやすいし。もちろん、ナナミには申し訳ないけど……きっとこれから先は誰にも伝わらないし伝えられないような、そんな微妙な形で何かを失い続けるんだろうな、って考えるきっかけになったよ」
「大なり小なり皆失うわ。それと同じだけ得るのと同じように」
「う~ん、“常識を説く幽霊”」
「映画化決定ね」
「2時間も尺、|()たないでしょ」
 ナナミは笑った。秋雨に濡れた|木立(こだち)の|葉擦(はず)れのような、寂しげな声。それを聞いた私は無性に悲しくなって、くつくつと笑い続けた。
 そしてようやく、ナナミがどうして私の前に姿を現したのか理解した。私もナナミも次に言うべきことが決まっていたが、止まらない笑いと、最後の躊躇いで言い出せずにいた。

 視聴覚室にふたつの笑い声が響いた。それは決して混ざり合うこと無く、お互いが独立し、尊重し合いながら奏でられるふたつの楽章となり、心地よい余韻を残しながら次第に小さくなっていった。やがてそれすら無くなった後、ナナミは口を開いた。
「ハッピー・バースデイ。16歳おめでとう」
 私は相変わらず誰もいないスクリーンに向かって言った。
「ハッピー・バースデイ、ナナミ」
 彼女は音もなく消えた。

 9月29日、今日をもってナナミは16歳になった。9月23日が誕生日だった私に遅れること6日後。良く晴れた、降霊術にはうってつけの日の出来事だった。

9月29日⑥

 全てが終わると、ずっと続いていた悪寒が嘘のように収まり、吹奏楽部の練習する音が聞こえてきた。
 重い足取りで視聴覚室を出た私は階段を下り、昇降口で靴を履き替えた。正門を通過してしばらくした所で振り返ると、練習を終えた吹奏楽部の生徒たちが帰宅する様子が見えた。私はパーカーのフードを脱いで、学校の裏手にある海岸に向かって歩き始めた。
 海岸には誰もいなかった。私は300m程の長さの砂浜の中央に体育座りで腰を下ろし、右手に見えるC県行きのフェリーが出港する姿を眺めていた。巨大な船体がゆっくりと動き出し、徐々にそのスピードを上げていく。20分ばかり見ていると、もうフェリーは豆粒ほどの大きさとなっていた。すれ違うようにあちら側から別のフェリーがやってきて、徐々にその姿を大きく、明確にさせていく。
 数時間後にはまたこちらのフェリーとあちらのフェリーが、同じようにすれ違うのだろう。それが一日続き、一ヶ月続き、一年続く。

繰り返し、繰り返し、繰り返し――

 私は自分の涙を抑えることが出来なかった。声もあげず、ただただ両目からひたすらに涙が止めどなく流れ落ちる。帰ろうと思っても中々終わってくれないので、立ち上がる訳にはいかなかった。
 結局一時間ばかり泣いた。袖口と胸元がぐっしょり濡れてしまった。海に五体投地して、一旦ずぶ濡れになる選択肢が浮かんできたが、バカっぽいからやめた。
 ようやく立ち上がって砂を振り払うと、ふとスマホに友達からの連絡が溜まっていた事を思い出した。気乗りしなかったが、ひとつずつ確認する。
 サキちゃんからは数件、ほとんど同じ内容で私を心配するメッセージが届いていた。全て既読にしてから、今度はケイからの連絡を確認する。
 彼女からは二件来ていた。どちらも短く、簡素なものだった。

 一件目、「泣かないで」
 私は分かったような、分からないような心持ちになった。
 二件目「paradisoで待ってる」

9月29日⑦

 喫茶Paradisoの扉を開けるとすぐに、窓際のテーブル席で待ち受けるケイとサキちゃんと目が合った。夕方のオレンジ色に暮れなずむテーブル席。お客さんは彼女たち以外ゼロ。二人とも何やら合点がいったような“にやつき”を浮かべて私を見ていた。店内ではSPECIAL OTHERSの“グッド・モーニング”が流れていた。
 私はゆっくりとその席に近づき、二人の正面に立つ。それから何も言わずに私は深々と頭を下げた。すると二人はまるで最初から段取りを決めていたように、順番にこう言った。
「カフェオレとチーズタルト」
「あたしはカプチーノとショートケーキ!」
 私はその突然の宣言にきょとんとした顔をしながら、しばらく立ったまま二人を交互に見つめていた。ニヤケ顔|そ《・》|の《・》|1《・》と|そ《・》|の《・》|2《・》を私の目線が三往復した所で、私はようやく状況を飲み込めた。私は目をぎゅっと瞑って天を仰ぎ、頭上の色あせた大きな|(はり)に向かって声を震わせて言った。
「喜んで、奢らせていただきます!」
……私はコーヒーとモンブランにした。
 サキちゃんが三人分の注文を用意する為に席を立つ。私は|項垂(うなだ)れながら、彼女と入れ替わるようにケイの対面に座った。
 あれだけ泣いたのにまた涙が出そうだった。そして私は、大人がクレジットカードを持つ理由を痛いほどよく理解した。
 これで良いんだ。元々こうするつもりだったし、これで許されるなら――あとで店の入り口にあるフリーペーパーの求人雑誌を持って帰ろう。どうか良いバイトがありますように。
「ケイは分かってたんだね」
 財布事情から目をそらす事で心の平穏を取り戻すことに成功した私は、ふと何気ない気持ちでケイにそう訊ねていた。本当に自然に。ポロッと。
 ケイは黙って私を見ていた。持ち前のジト目をわずかに見開きながら。それから視線を窓の外に移して、いつもの気だるそうな声で言った。
「何のことか分からないねェ」
 ……戸愚呂(弟)みたいに言うじゃん。と、思ったけど話が脱線するのが明白だったので言葉にはしなかった。私は質問を続けた。
「いつから?」
「……“しゃれこうべ”のニュースの話された時」
 私の脳裏に、あの時の|()|れ《・》|し《・》|な《・》に浮かべた彼女の表情がフラッシュバックした。
 ……あれか。あれは確か9月25日――4日前の下校中だった。何となく納得。
「どこまで分かってた?」
 続けてそう私が聞くと、私の顔を見ながら彼女はゆっくり首を横に振った。
 こいつ、だんまりで行く気だ。
 ……まあいいでしょう、許します。私はため息をついてみせた。するとケイが言った。
「そっちで何が起こったかは詳しく分からないし、どうせ話す気も無いんじゃん? だから|こ《・》|う《・》とだけ言っておきますわ」
 一呼吸置いてからケイが言う。
「おかえり」
 私は吹き出してしまった。理由は分からなかった。ただ、私は心の底から“愉快だ”と思った。店内ではSPECIAL OTHERSの「グッド・モーニング」がリピート再生されていた。ケイはやれやれとため息をついた。
「そっちでいろんな事、あったって事は分かるからさ。サキもきっと同じ気持ちだよ。あいつも分からないなりに――まあいいや。とにかく今はこれでおしまい」
 私は息を整えてから、そうだねと言った。
「いつか話してくれる?」
「そんな大したものじゃないし。期待はずれだよきっと」
「それでも」
「どうだろうねェ」
「戸愚呂(弟)じゃん」
「3分でこの喫茶店を平らにしてみせようか?」

「もうほとんど平らで、しかも|()|き《・》|か《・》|け《・》なんだから止めてよね!」
 サキちゃんが話の途中で注文品を持ってきてくれた。ケイと私の分。テーブルの上に勢いよくそれらを並べると、一度カウンターに戻ってから自分の分も持ってきてケイの隣りに座った。
 それからいかに自分が私を心配していたか、映画俳優も舌を巻くような大げさな身振り手振りを交えながら“非常にわかりやすく”教えてくれた。最後の方は八つ当たりに近い怒り方をされた。始めは申し訳無さで一杯だった私も、流石にこの勢いには耐えられそうになかった。しかし私は“中間管理職の平謝り”のスキルツリーにポイントを振っていたので、それを発動してぺこぺこしてたら、なんか無事終わってくれた。

「そういえばさ! クラスの吹奏楽部の子にさ、来週やる定期演奏会に誘われたんだよね! 皆で行かない?」
 すべてが終わって、存外けろっとした感じでサキちゃんが言った。
「パス」
 サキちゃんが応戦する。
「パスは一週間に一回までで~す! 一昨日使ったからもう使えませ~ん」
「そんなレギュレーション無いし。そもそも一昨日のパス、無効にさせられてるし」
「昨日決めました。そして、新レギュレーションでは“パスの宣言”自体が週イチになります」
「決まったの最近過ぎじゃんね。猶予期間も無いし、そもそも合意してないし」
 ケイが異議を唱えると、サキちゃんは大げさにこほんと咳払いをひとつ。それからわざとらしい低い声を作り、また大げさな身振り手振りを|(まじ)えて言った。
「この問題は、我々の間で最も頻繁に論じられてきた問題のひとつでした。私たちは今まで長い時間をかけ、この無視できない議題に対して慎重に意見を重ねてきました。今回のこの変更は私たちにとって大きな決断でした。私たちに対する、より多くの誤解や偏見にまみれた否定的な意見が飛び交うかもしれません。こういった事はしばしば起こり|()ます。しかし私たちは私たちのプレイ体験に前向きな変化をもたらし、より刺激的な新しい価値を提供出来るものだと確信しています」
「うわ、海外オンゲーの開発スタジオが大型アプデでエゴ丸出しの雑なナーフとバフした時に出てくる声明のやつじゃん」
「違うよ。ちゃんと一人のプレイヤーとして、プレイしてる側の人間として言ってるもん。あの人たちはそのゲーム一度もやってないのに、そのゲームの運営してる良く分からない人たちだし」
「信用出来ないなぁ」
 ケイが抗議を続ける。サキちゃんは大げさにため息をついた。私はと言うと、また吹き出していた。
 黒猫のレヴナントがいつの間にかサキちゃんの足元にやってきていて、彼女の膝の上にぴょんと乗った。華麗だった。サキちゃんが両手で彼を持ち上げて、私の方に向ける。このあと、私はいつものように芝居がかった調子でレヴさんに「定期演奏会に行くべきか否か」を質問するのだろう。「ニャッ」が肯定で「ニャァー」が否定。いつも同じ。決まったやり取り。 私たちはどんな回答が返ってくるか、既に分かりきっていた。51回目になった“お馴染み”の流れ。50回目もそうだったし、52回目もそうだ。60回目も70回目もきっと。

Paradisoに集う私たち、雑なアプデ、猫占い。
繰り返し、繰り返し、繰り返し――



END

paradiso あるいは6日間の、すぐに忘れ去られてしまうような出来事 (連載中)

paradiso あるいは6日間の、すぐに忘れ去られてしまうような出来事 (連載中)

それは9月の事だった。入学して半年、高校生活にも慣れてきた。友達も出来たし、居場所らしきものもあった。 彼女の生活は凡庸だった。起伏の薄い、昨日と今日が繋がっているに過ぎない日々。おおむね満足だった。 そんな訳でその日、死んだはずの彼女の友達がテレビに映ったのを見た時も、大げさに騒ぎ立てる程の事ではなかった。

  • 小説
  • 中編
  • 青春
  • 冒険
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2025-03-28

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 9月24日
  2. 9月25日①
  3. 9月25日②
  4. 9月25日③
  5. 9月26日①
  6. 9月26日②
  7. 9月27日①
  8. 9月27日②
  9. 9月28日①
  10. 9月28日②
  11. 9月28日③
  12. 9月28日④
  13. 9月29日①
  14. 9月29日②
  15. 9月29日③
  16. 9月29日④
  17. 9月29日⑤
  18. 9月29日⑥
  19. 9月29日⑦