
百合の君(44)
ばあさんの着せた緑色の絹の着物に道中で摘んだ野の花の冠をかけて、みつは八津代に戻ってきた。上噛島城の門をくぐったとき、みつはぼんやりして、自分がどこにいるのかも分かっていないようだった。ばあさんは彼女が花を摘んでいるときに何かの薬草にでもあたったのではないかと心配したが、そうではないようだ。
彼女自身が語ったところによると、菜那子の屋敷に着いてから、半刻ほど待たされた。待っている間、最初のうちは頭を下げていたが、だんだん飽きてきて見まわすと、簾が上がっている。
みつは首を伸ばしてその奥を覗いた。菜那子の茵が見える。みつは菜那子が直接触れる物を見るのはそれが初めてだった。
みつはそこから目が離せなくなった。半刻はあっという間に過ぎた。
女房たちが入ってきたので頭を下げてーーみつが本当に息を飲んだのは、それからだった。
菜那子は簾を上げたまま、直にその姿を現した。みつはその姿に感動した。いや、感動という言葉では足りない。彼女自身が使った言葉によると、心に開いていた穴に乳のような優しい液体が流れ込み、それが一気に溢れ、心が膨らんでしまったのか溺れているのか、自分でも分からなくなってしまった。
弓を引くように胸が裂かれ、みつは自分が全然頭を下げてないことに気付いた。しかし、動けない。全く動けない。まるで菜那子の魔法にかかっているようだ。
「無礼な!」
叱りつける女房を、菜那子は優しく手を挙げて制した。みつが献上した着物が揺れた。髪には萩の花が飾られていて、まるで木の精が屋敷に迷いこんでしまったかのようだ。
吸い込まれるように奈那子の尻が茵に落ちた。
「聞けば出海殿の女や民まで別所と戦い、大きな成果を上げているとか」
菜那子が戦況について発言するのもこれが初めてだったが、みつはその薄く紅をさした唇に見とれていた。見ているとそこから漏れる吐息と香が混じり合い、いやむしろこの香は菜那子の吐息であるように思われ、その中で自分が息をしているということに身がとろけそうになるのだった。
「関白さまも大変お心強く思われているとおっしゃっておいででしたよ」
菜那子に微笑みかけられ、みつは現実に帰った。そしてその現実にまた跳び上がってしまう。現実とはド田舎の牛糞臭い城で泥団子を三つ四つ重ねたようなババアにこき使われることではなく、都でこのような方に話しかけられ微笑みかけられる事をいうのだ。
「恐れ多いことでございます」
菜那子は庭を眺めるのと同じ瞳で自分を見ている。子魔女のような恰好で腹を鳴らす自分を醜いとお考えなのか、少しはかわいいと思召してくださっているのか。
菜那子は自らの影をそのまま取り出すようにそっと、傍らの箱を差し出した。
「これは皇后さまからです。お前の主人もさぞ装飾品が増えたろうと」
みつが恭しく受け取ると、それは御紋の入った宝石箱だった。
もはや女子供まで攻撃対象とし始めた刈奈羅兵の評判は地に墜ち、正退元年秋、八津代に帰るみつを追いかけるように、帝から停戦の勅命が下った。
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百合の君(44)
みつの憧れが叶う事を心から願っています。