バッターボックス
バッティングセンターのマウンドで液晶パネルのピッチャーが振りかぶる。恭一郎はバットのグリップを軽めに握り、左足をわずかに上げる。仮想のピッチャーは腕を振る。白球は放たれた。
時速百二十キロメートルのボールがストライクゾーンへと投げ込まれる。恭一郎は左足を踏み込み、そこに壁をつくり、腰の回転運動でバットを出した。キンという金属製の音がしてボールは弾かれる。
「ナイスバッティング」
恭一郎の背後、ネットの裏から軽めの声がした。恭一郎は振り返らない。ゆったりともとの体勢にもどりバットを構える。仮想のピッチャーは、ふたたびピッチングモーションに入る。二球目。
キンという音とともにボールは弾かれる。先ほどより強い当たり。
「左中間」
その声を無視して恭一郎はバットを構える。
「おじさん、何歳っスか」
ネット裏からの声は少し力が抜けていて、若い。
「おじさんと呼ばれる年齢だ」
恭一郎はバットを振る。ボールは弾かれる。
「レフトライナーかな。しゃべってもいいっスか」
恭一郎は返さない。四球目がくる。バットを振る。キンという音。
「おじさん、毎週金曜日のこの時間に、ここに来るっしょ。俺、となりのバッターボックスでバット振ったことあるけど、たぶん気付いてない。で、なんでこの人、こんなに一生懸命なんだろうって思ったんスよ」
五球目はサード線にきれるファール。
「俺、野球やってたんスけど、練習キツイじゃないですか。それで辞めちゃったんスけど、おじさん見てたら、もうちょっと頑張ればよかったかな、なんて思えてきて」
六球目はセンター方向へ少しつまった当たり。
「目的がなければ続かんよ」
恭一郎はバットを構える。
「やらされてると思うと続かない。やることのなかに意味を見出さなければ、何だって作業にしかならない」
七球目が投じられる。恭一郎はバットを振る。ボールは左中間へと弾かれる。
「おじさんは、なんでバッティングセンターに来るんスか」
若者の声は少し熱が入っていた。恭一郎はバットを構える。
「おじさんだからさ」
八球目。ボールは左中間へと弾かれる。
「ランニング、筋トレ。体型を維持するためにやってるけどね、左中間にボールを打ち返すのが私のなかの指標さ」
「指標って?」
「自分が衰えていないかどうか、それで確認してるってこと」
言いながらバットを振る。ボールはサード線にきれてゆく。
「私はね、年齢に抗っているんだよ」
「えー、それは分かんない。そんなことのために頑張れるもんなんスか?」
「普通はね、違うだろうね」
ボールは左中間に飛ぶ。
「人間、自分のためには、そうそう頑張れない。つらかったら辞めてしまう」
「ですよね」
「辞めるのは、自分が苦しいからさ。きみが野球を辞めたのと同じ。苦しいことは、やりたくないものなんだ」
バットを振る。ボールは左中間へと弾かれる。
「おじさんは誰かのためにバットを振ってるってこと?」
声がはじける。
「誰?誰っスか?キレイな人?」
「サラサラのストレートな黒髪」
ボールがくる。ボールを打ち返す。ボールは左中間に飛ぶ。
「笑ったときの目のかたち。声。緑色が好きなところ。金属アレルギー」
「奥さんっスか」
「くたびれた中年男なんて、見せたくないだろう」
「愛っスね。すげー。奥さん、何て言ってるんスか」
「言わないよ」
恭一郎はバットを振る。ボールが左中間へ飛ぶ。
「妻は眠っているんだ。今年で十二年になる。コールドスリープでね。それしか道はなかった」
恭一郎はバットを構える。
「妻がいつ目覚めることになるのかは分からない。でも、医療は日々進化している」
ボールを打ち返す。キンという金属製の音。
「妻が目覚めたとき、がっかりさせたくない。だから私はバットを振る。それが理由さ」
液晶パネルのピッチャーが振りかぶる。恭一郎はバットを構える。時速百二十キロメートルのボールを左中間へと打ち返す。若者は何も返さない。まあ、こんな話を聞かされたら、そうだろう。
と、恭一郎のとなりのバッターボックスに誰かが入ってきた。その誰かは悠然とバットを構える。
「俺も付き合いますよ」
若者はバットを構える。
「奥さん、はやく目覚めるといいっスね」
もう一台の液晶パネルが振りかぶり、ボールを投げる。若者はバットを振る。するどい当たりが左中間へと飛ぶ。
恭一郎のバッターボックスで、見送ったボールがネットにからまり、転がる。恭一郎は少し笑った。
「若いのには負けるよ」
仮想のピッチャーが腕を振る。恭一郎はバットを振る。若者もバットを振る。ふたつの音は、それぞれに左中間へとボールを打ち返した。
バッターボックス