命題論議-小王
旅の支度をしたり、散らかした部屋を片付けたりするとき、どうしても手が止まってしまうことがある。読みかけの本とか、よく遊んでいたおもちゃとかが見つかったときだ。
今の僕もそんな調子で、旅支度の途中で本のページをぱらぱらとめくっては手を止めていた。タイトルは『小さな星の王』。僕が魔術師として生まれた時に授かった本だ。物心ついた時から肌身離さずそばにあるから、もう、手垢がつくほどに何度も読み返している。地球上での国籍の言葉で書かれた内容をそのまま暗誦することができるくらいだ。
丘の上に一つだけ、星が淡いタッチで描かれている挿絵のページまで読み終えて、最後の紙をめくる。本文が書かれている紙とは違う材質の、裏表紙の裏紙には、さらさらとサインを連ねたような達筆で、そしてまた、僕の地球国籍の言葉で、こう書かれている。
『命題;小さな星の王に出会うこと』
僕は首を傾げた。僕にはまだ、この双子の兄弟のような存在の本の、最後に記された言葉の意味がわからないでいる。
まず、「命題」というものはなんとなく知っている。僕ら魔術師には、生まれつき本が与えられる。その本の最後に書かれた「命題」――つまりお題をクリアすれば、僕ら魔術師の「魂の故郷」に還ることができるという。この故郷というものが何なのか、どこにあるのかは今は置いておいて、問題は命題の内容だ。「小さな星の王」とは、誰のことを指すのだろう。
そもそもこの物語は、砂漠に不時着した飛行士が可愛らしくて不思議な少年と出会うところから始まる。この飛行士が僕だとしたら、この本は命題達成の一種の預言書であり、ヒントをくれる本であると言える。しかし、問題なのはこの少年の表記がroiではなく、princeであることだ。どうもこれが気にかかる。では王子が成長して王さまになる物語か、というとそれも違う。王子は王子のまま、星間を旅して、キツネや飛行士に出会い、大好きな花がいる小さな惑星、B612へと帰る。
天体観測をしてわかったことだが、この惑星は実際に存在していた。それを知ったときの嬉しさたるや、しかしこの小惑星には生命が存在しない。根をめきめきと張るパオバブも、赤いバラ一本も生きてゆけない。果たして、王子さまは実在するのだろうか。
そもそも、出会いの機会自体が少ない。星くんが現れたときには彼が王子さまかもしれないと思ったが、僕には何も起きなかったし、そもそも容姿が違いすぎる。王子さまは淡い色の金髪で、丸い目をしているのだ。そのことを父さんに話すと、
「サン。命題なんて気にしなくていいんだ。君たちは魔術師だけれど、本も、命題もおまけみたいなものだから」
と、軽くあしらわれてしまうのはいつものことだ。地球での任務の時など、つい本を持っていくのを忘れてしまった。でも、地球の過去を辿る旅から抜け出せなくなってしまったとき、迎えにきてくれた星くんはこう言ってくれた。
「魔術師にとって本は命と同等らしい。肌身離さず持っておくんだ」
そうして手渡された本も、口数の少ない君からの言葉も、僕にとっては同じくらい重く、暖かい。このときから、僕は星くんの言葉と本の命題を信じていくことに決めた。
「命題が気になるのか?」
頭上から声がして、本が手元から滑り落ちそうになった。いつの間にか星くんが覗き込んでいたのだ。彼の言葉を思い浮かべていたから、鼓動がより跳ね上がった。星くんはいたって冷静な顔で、また散らかして、と辺りを見回している。
「う、うん。また本を読み返したら、やっぱり色々考えてしまって。星くんはどうしたの?」
「おれか?おれもおまえの命題が気になってな」
背筋が勝手に伸びた。星くんの方から話しかけてくるのも滅多にないのに、今日は僕のことを気にかけてくれるなんて。顔が熱くなって、口元が無意識に綻ぶ。星くんは不思議そうに首を傾げて、僕から差し出された本を受け取った。
「おまえの命題は、確か……」
「そう。『小さな星の王に出会うこと』」
「王の目星はついているのか?」
僕は首を横に振った。すると星くんは微笑みを浮かべ――いや、気のせいだったか、それは瞬きの隙間に消えてしまったけれど――分厚い一冊の本を僕に差し出した。
「おれも、星人のことを研究しようと思ってな。アストライオスの蔵書を漁っていたら、ある記述を見つけたんだ」
その本は『星の名付け』というタイトルのみで、夜空のような装丁には筆者名がどこにも書かれていない。綺麗な表紙を裏返しながら眺めていると、星くんにひょいと取り上げられてしまった。彼はぱらぱらと紙の束をめくり、次に差し出されたページにはこう書かれていた。
「しし座α星――レグルス
意味:羅甸の語で『小王。小さな王様』」
「この記述を見て、おまえの命題を思い出した」
星くんの言葉が耳に入らないほど、僕はそのページを食い入るように見つめていた。堰を切ったように、思考がどんどん流れて巡ってゆく。
「そうか……そういうことだったんだ。僕、『小さな星の』――B612という小惑星にいる王さまだと思っていたのだけれど。petitはroiにかかるんだ。『小さな王さま』」
「やはり命題の王はレグルスだと?」
「des étoiles……『星の』。……うん、間違いないよ。星人の、小さな王さま。つまりレグルスだ」
胸に湧き上がってくるものがついに抑えきれなくなって、僕は星くんに抱きついた。されるがままの星くんの、いつも通り冷えている頬を両手で包むようにして、僕は彼の瞳にまっすぐ、ありがとう、と言った。
「次の旅、星のひかり集めのとき、レグルスに会えるかもしれない。どんな子なんだろう。はやく支度しなくちゃ」
「……命題を達成したら、魂の故郷とやらに還ることになる。それは許されない。任務が終わるまでは」
「だいじょうぶ。故郷に還るのは、任務が終わってからにするよ」
また忙しなく動き出した手をはたと止めて、僕は星くんを見た。互い違いの色の瞳に今度はまっすぐ見つめられる。その真意を僕はまだうまく読み取れない。まだまだだな、と思いつつ、満面の笑みを返してみる。
「もちろん、星くんも一緒だよ。一緒に命題を達成して、一緒に故郷へ還ろう」
「いや、それは無理な話だ」
顔色ひとつ変えないままの、淡々とした口ぶりに、微笑んでいた口元がこわばってしまったのが自分でもわかる。
「ど、どうしてさ」
「おれの命題は難解だ。おまえの以上に」
「それじゃあ、星くんの命題も教えて?きっと二人で解決すれば――」
「まず、おれの命題は千を超える」
命題論議-小王