雨の中の庭

2016年6月

 そのとき、わたしはまだ高校生だった。
 放課後、学校の図書室で本を読んでいた。
 今日は閲覧者が普段より多かったけれど、それでも十人にも満たなかった。
 窓の外では、雨が降っていた。
 それほど強い雨ではなかった。空全体がグレーがかった白い雲に覆われていた。
 梅雨にはまだ入ったばかりだった。

 少しして、クラスメイトの男子がやってきた。
 伊東だった。
 「前いいかな?」と伊東が尋ねた。
 「どうぞ」とわたしは答えた。
 「何を読んでいるの?」手前の席に座りながら彼が尋ねた。
 「ヒッチコックの『サイコ』はわかる?」とわたしは訊いた。
 「昔、テレビで見たことがあるね」と彼は言った。
 「その元ネタの話の本」とわたしは答えた。
 「そういう本をよく読むの?」と彼が尋ねた。何か、珍しい虫でも見るみたいに。
 「たまにね」とわたしは簡単に言って、再び本に目を落とした。
 手持ち無沙汰になった彼は、後ろを向いて、窓の外をぼんやりと見ていた。書棚から本を持ってきて、読むこともせずに。
 雨はまだ降り続いていた。一体、何しに来たんだ……

 次の日の放課後も、わたしは図書室で本を読んでいた。
 窓の外では、相変わらず雨が降っていた。やはり空は、グレーがかった白い雲に覆われていた。
 窓から入ってくる風は、気持ちがよかった。湿り気を帯びた、ひんやりとした風だった。
 わたしは昔から、雨が好きだった。軒からの雨垂れの音も、雨どいから流れ落ちる水の音も、部屋に満ちる雨の匂いと雰囲気も。それから——
 そのとき、名前を呼ばれた。
 顔を上げると、伊東が目の前に立っていた。「前いいかな?」

 「今日は何を読んでいるの?」と伊東が尋ねた。
 「サルトル」とわたしは答えた。「フランスの哲学者」
 「哲学書なんて読むの?」
 「これは小説」とわたし。「サルトルは最初は小説家だったから」
 「どんな内容?」と彼が尋ねた。
 「人間は自由だということ」とわたしは答えた。「たとえばナイフには、まず本質があって、あとから実存がついて来る。だけど人間の場合には、まず実存がある」
 「つまり、人間は何にだってなれるということ」とわたしは続けた。「たとえ、怪物にでも……」
 沈黙が流れた。
 「でも、自由には責任が伴うとも言うよ?」と彼は静かに答えた。
 わたしは黙っていた。
 そんなことは言われなくても知っている、と思った。
 人間が完成するのは、死んだときだけだ。そのときにやっと、その人間の本質が決まる。仮初めで、曖昧模糊だったそれが……。未来とはわからず、そこにはまだ可能性があるから。
 それまでは、あくまで過渡期に過ぎない。結論が出るその日まで、わたしたちはただ、仮説を積み重ねていくことしかできない。
 大江健三郎の『叫び声』のあの男は、罪を犯し、死刑になることで、自らを怪物として完成させようとしたのだ——

 伊東はたびたび放課後の図書室に現れ、わたしと一緒に本を読むようになってしまった。
 「あまり、わたしと一緒にいないほうがいいんじゃないかな?」わたしはそう提案してみた。
 「どうして?」と彼が本から顔を上げた。
 「仲間だと思われるよ? クラスのみんなから」
 「思われてもいいじゃないか?」彼はキョトンとした顔をした。
 演技をしているようには見えない。
 わたしはこめかみを押さえた。
 たぶん彼は、わたしの「それ」に勘付いたのだろう。意識のレベルでなのか、無意識のレベルでなのかまでは、わからないけれども……
 だけどそこには、どんなメリットがあるのだろう? 損得ではなく、それが彼の「正義」なのだろうか。

 わたしは彼のことが苦手だった。あるいは、怖れすらあった。
 それは彼が、人を愛せる人間だから。
 幼いころから泥水を飲んできた人が、とつぜん綺麗な水を差し出されても、それに抵抗を覚えるように——
 それは本当の「愛」であるように、わたしには思えた。ナルシシズムでも、依存心の変形でもなく……
 それがわたしには驚きだった。そんな人間が現実に本当にいるのか!と——。そんな人間は、フィクションの世界にしかいないものだとばかり思っていたからだ。
 世の中には、本当にいるのだ。

 その日の夜。わたしは自宅近くの公民館にいた。
 そこの図書室で本を読んでいた。
 ここは閲覧者が少なくて、わたしの気に入っていた。
 その日もわたし以外には、誰もいなかった。
 目が疲れてきたので、本を閉じて椅子にもたれた。
 かけ時計に目をやると、短針は八時少しまえを指していた。
 頭に浮かぶのは、彼の姿だった。
 わたしはその像を振り払いたかった。だけどそれがどうしてもできない……
 どうして彼の姿が浮かぶのだろう? わたしはそう自問した。
 その答えを、わたしはとっくに知っているはずなのに——

 わたしは立ち上がり、窓のそばまで歩いていった。
 雨はすでに上がっていた。
 街路灯やマンション、自販機の灯りが、水たまりや水滴に反射してキラキラと光っていた。
 見慣れた町の風景が、その日はいやに綺麗だった。

 期末テストが終わり、そろそろ夏休みという時期だった。
 その日も、わたしたちは、学校の図書室で本を読んでいた。
 「夏休みの予定は?」と伊東が尋ねてきた。
 「べつに何も」とわたしは答えた。
 本当に何も予定がなかった。例年通り、近所の図書館や公民館に通うのだろう。
 「伊東は美術部だよね」今度はわたしが尋ねた。「夏休みも出るの?」
 「出るけど、週に一、二度だから、気ラクなもんさ」と彼は笑った。
 その時、わたしは村上春樹を読んでいて、伊東は人体学の本を読んでいた。「人間を描くには、骨や筋肉について勉強しないといけない」と彼が以前、話していたことを思い出した。
 「絵画展って興味ない?」と彼が不意に尋ねてきた。
 「絵画展?」私は本から顔を上げた。「どうして?」
 「上野の博物館の絵画展、チケットが一枚余ってるんだけど——」と彼は言った。「これはデートとか、その口実とかじゃなくて……」
 「いいよ」とわたしは答えた。
 「即答だね」彼はちょっと拍子抜けしたように微笑んだ。
 「だって、暇だもん」とわたしは答えた。

 夏休みが始まった。
 JR上野駅の前で、わたしと伊東は落ち合った。彼は五分だけ遅刻してきて、両手を合わせて平謝りしていた。
 わたしたちは、大通りの信号を渡り、上野公園の階段を上り、西郷像の前を通った。夏休みが始まったからか、普段よりも人出が多かった。
 直射日光が容赦なく、わたしたちの肌を焼いた。髪に熱が吸収されていくのがわかった。帽子を持ってくればよかった……
 アスファルトから立ち昇る熱気と気怠い空気、それからうっとおしいほどの蝉時雨——
 噴水広場を横切っていった。噴水の水飛沫が太陽の光を受け、キラキラと光り輝いていた。
 いつものように、その広場には、家族連れたちやカップルたちの姿が、多く見受けられた。
 わたしは隣を歩く伊東をチラッと見やった。嬉しそうだった。今にもスキップでもし出すんじゃないかというくらいに。
 そのときのわたしは、たぶん彼のなかに自分自身の姿を重ね合わせていたのだ。わたしはその自分自身の感情を認めたくはなかったから。

 博物館を私たちは回っていた。
 ここの博物館は、今まで通り過ぎるだけで、入ったことはなかった。明治期の洋館を思わせる建物だった。
 博物館の外壁には「黒田清輝特別展・生誕150年」と、大きな垂れ幕がかかっていた。
 わたしたちは画廊を歩いていった。
 そこにはわたしでも見たことのある有名な絵も何点かあった。たとえば、「湖畔」と「読書」。美術の教科書にも掲載されていた。色使いの対照的な絵だった。
 「読書」の絵を二人で並んで見ているとき、わたしは彼のほうをまたチラッと見やった。さきほどの楽しそうな彼とはうって変わり、真剣な目つきをしていた。それでいて、肩から力が抜けているというか——
 わたしの視線に気づいた彼は、こちらを見てまた微笑む。

 「良かったよ」とわたしは言った。「絵のことはよくわからないけどね」
 「良かった」と伊東が微笑んだ。胸を撫で下ろしたみたいに。
 博物館からの帰り、わたしたちは、近くの黒田記念館にあるカフェで、机を挟んでコーヒーとお茶を飲んでいた。
 「伊東は、あの人の絵が好きなんだ?」
 「うん、好きだ」と彼は頷いた。「格好いいんだ」
 「格好いいって……」わたしは半ば飽きれてそう言った。「もっと何かないの? 『繊細な筆使いが……』とか、『色使いが……』とか」
 「そんなこと言われてもなぁ」彼は困ったように答えた。「それが率直な感想なんだよ。僕は君のように、ボキャブラリーがあるわけでもないし……」
 「どの絵が好き?」とわたしは訊いた。
 「難しいなぁ」伊東は目を斜め上方に向けながら言った。「正直に挙げるなら、あの博物館にはない絵なんだ」
 「メジャーな絵じゃない?」
 「メジャーじゃないどころか、たぶん習作だ」と彼はコーヒーを飲んだ。「デッサンでね。あの『読書』の人がモデルなんだけど……。ネット検索にも引っかからないし、今度画集を持ってくるよ」

 「あのモデルの人って誰なんだろうね?」とわたしはお茶を飲んだ。
 「黒田清輝の恋人だったフランス人らしい。パリでの修行時代のね」と伊東は答えた。
 「そうだ!」と彼は目を大きくして言った。そのあとしまったとばかりに、背後を振り向いた。
 「えっ?」とわたしは驚いて言った。
 「絵のモデルになってくれない?」伊東は周囲をはばかるように声を潜めて言った。それでも目を輝かせながら。
 「モデル?」とわたしは言った。「どうしてわたしを……」
 「細身でスタイルがいいから」と彼は答えた。「うってつけだ」
 「べつに裸になってくれと頼んでるわけじゃないよ」と伊東が冗談めかして笑った。
 「当たり前じゃない」とわたしは少し怒って言った。

 それから一週間後。その日わたしは、駅前のロータリーに立っていた。高校の最寄り駅だ。
 服装は白のワンピースに麦わら帽子。こんな機会でもなければ、こんな服は一生着る機会もないと思ったからだ。なにも口実なしには……
 駅前を行き交う人たちと、町の景色とが、陽炎でユラユラと揺れていた。
 「ごめん、ごめん」としばらくして声が聞こえた。
 振り返ると、伊東が立っていた。彼はその日、学生服を着ていた。部活動の一環だと捉えているのかもしれない。
 「また遅刻」とわたしは不機嫌な振りをして言った。
 「あとで何か奢るからさ。モデル代も兼ねて」と彼は取り繕うかのように微笑んだ。

 美術室に、わたしと伊東はいた。
 窓は開け放たれ、レースのカーテンが風になびいていた。
 窓の外からは、野球部員たちのかけ声が聞こえていた。
 やはり蝉たちが鳴いている。
 伊東は、イーゼルの上の用紙に向かって、絵を描いていた。
 わたしは、椅子に座ってジッとしていた。
 彼は真剣な面持ちだった。
 その顔はあの日、博物館で見せたそれだった。

 「上手いね」とわたしは彼の絵を見て言った。
 お世辞じゃなかった。本当にプロが描いたように見えた。
 「ありがとう」と伊東は綺麗に笑った。
 わたしたちは少しのあいだ、休憩をとっていた。
 気がついたら、野球部員たちの声は聞こえなくなっていた。
 その代わり、遠くの空から旅客機の音が小さく聞こえていた。
 「今日は調子がいい」と彼は続けた。「本当に、どういうわけか……。モデルのおかげかもしれないな」

 その帰りにわたしたちは、学校近くの喫茶店に寄った。
 川沿いにあるどこかシックな店だった。実は前から入ってみたかったのだ。
 約束通り、代金は彼が払うとのことだった。
 「いつから描いてるの?」わたしは机の向こう側に座る伊東に尋ねた。
 「小学生のころから」と彼は答えた。「本格的に描き始めたのは、高校生になってからだけどね」
 「そのわりには、サボりがちに見えるけど?」わたしは少しイジワルで言った。彼はここのところ、しょっちゅうわたしと図書室にいたからだ。
 「さいきんはね」彼は少し困ったように言った。
 「父親が都内で画廊を経営しているんだ」と伊東は続けた。「父親自身も描くし、きっとその影響だろうね」
 そのときウェイターがやってきて、コーヒーとお茶をわたしたちの前に置いた。
 「どうしてわたしなの?」そうわたしは尋ねた。
 「なにが?」伊東はコーヒー・カップから目を上げた。
 「モデル」とわたし。
 「君を描きたかった」と彼。
 「どうして……」
 「細身でスタイルがいいから」
 「スタイルなんて良くないし……」
 「それに綺麗だ」
 「わたしは綺麗じゃないし……」
 彼は、呆れたように吐息をついた。どこか怒っているようにも見えた。「君は自分自身のことを、もっとよく知ったほうがいいんじゃないかな?」
 そのとき注文したケーキが二皿やってきた。シフォン・ケーキだった。
 「ここのケーキは美味いよ」彼は取り繕うように笑った。
 わたしはケーキをフォークで口に運んだ。たしかに美味しかった。

 秋の連休に、わたしと伊東は海へとでかけた。
 「海を背景に君を描きたい」と彼が言ったからだ。
 場所は千倉だった。わたしたちは、人のいない海を好んだからだ。
 それに館山には、わたしの祖父母の家があって懐かしかったからだ。二人ともわたしが小さいころに亡くなってしまったけれども。
 北千住駅で彼と待ち合わせ、地下鉄で錦糸町まで行き、JRを乗り継いで千倉まで向かった。


 
 太平洋はどこまでも広かった。
 低い石段に腰かけて海を眺めている人と、砂浜で犬の散歩をしている人がいた。
 遠くでは、小さくサーファーたちの姿が見えた。
 風が少しだけ強かった。
 「気持ちがいいね」と伊東が綺麗に笑った。
 「本当に」わたしも麦わら帽子を押さえながら、微笑んだ。
 伊東は、リュックサックからスケッチブックを取り出し、わたしを低い石段に座らせて、絵を描き始めた。
 彼は、ひたすら紙に鉛筆を走らせ、わたしはずっと、遠い海原を眺めていた。

 海岸沿いにある旅館に、わたしたちは泊まった。
 まだ未成年だったので、わたしたちは大学生だと嘘をついた。
 風呂に入ったあとで、わたしは部屋で本を読み、伊東は窓際の椅子から外を眺めていた。
 「散歩に行こうよ」と彼が不意に言った。
 わたしは顔を上げ、彼のほうを見やった。
 「月がすごく明るいんだ」と彼は微笑んだ。
 わたしは小さく吐息をついた。

 月は、たしかに明るかった。
 蒼白く光るそれが、流れの早い雲を照らしていた。
 やがて巨大な雲が月明かりを遮った。
 わたしたちは海岸を歩いていた。
 「伊東は、画家になりたいの?」わたしはそう尋ねた。
 「そのつもりだ」と彼は答えた。「美大を目指そうと思ってる」
 「伊東はなりたいものがあっていいね」わたしはそう言った。
 皮肉ではなかった。わたしには、なりたいものなんて何もなかった……
 「君は、何かを書けばいいじゃないか」伊東が不意に言った。
 「何か?」とわたしは答えた。
 「本を読むのが好きなんだから」と彼は続けた。
 雲間から月が顔を覗かせ、ふたたび地表と海原を淡い光で照らし始めた。
 暗い沖合いが月の光を受け、キラキラと輝いていた。
 安直過ぎる、と思った。
 だけど……
 「考えたこともなかった」わたしは笑った。
 「君ならいいものが書けるんじゃないかな?」と伊東が言った。
 「どうして?」
 「わかるんだよ」と彼は綺麗に微笑んだ。「君の書くものは、きっと『いいもの』だってね」
 仮に世間の人たちに、受け入れられなくても、と彼は続けた。
 「ゴッホみたいに?」わたしは冗談めかしてまた微笑んだ。
 「そう、ゴッホみたいに」と彼もまた笑った。「あるいは、アンリ・ルソーみたいに」

 11月。
 その日は冷たい雨が降っていた。
 わたしは傘を忘れて、学校の昇降口で雨宿りをしていた。
 少しして、伊東がやってきた。
 「奇遇だね」と彼は微笑んだ。「僕も傘を忘れたんだ」
 わたしも微笑んだ。
 わたしたちは並んで、昇降口に立っていた。
 わたしは黙って、雨を眺めていた。
 雨は校庭に静かに降り注いでいた。さぁ……と、とても静かに。
 沈黙を破ったのは、伊東の言葉だった。
 「僕は、君が好きだ」彼はそう言った。
 わたしはなにも言えなかった。
 「君は——」
 「ごめん」とわたしは答えた。
 「どうして……」
 わたしはなにも言えなかった。
 わたしは、昇降口から出ようとした。
 そのとき、伊東がわたしの手を掴んだ。
 「濡れるよ」と彼は言った。
 ごめん、とわたしは彼の手を振り解いた。
 わたしは雨のなか、校庭を横切っていった。背中に彼の視線を感じながら。

 わたしは彼のことを受け入れることができなかった。
 わたしは愛されることが怖かったのだ。どうしようもなく。
 幼いころから泥水を飲んできた人が、とつぜん綺麗な水を差し出されても、それに抵抗を覚えるみたいに——
 だけど、それだけじゃなかった。
 わたしは彼に、「父」を求めていたのだ。
 彼に父の影を垣間見ていた。
 わたしにはどうしても、それが間違ったことのように思えたのだ。

桜の樹の下

2024年6月

 その日、わたしは会社から出ると、傘を差し、幹線道路沿いに北へと向かって歩き出した。
 夕方の六時ごろだった。街は藍色に染まっていて、街全体が雨で濡れていた。両側二車線の道路の一方は、車で鮨詰めのようになっていた。
 ランドセルを背負った男の子二人が、傘を差しながら、私の横を走り抜けていった。わけもなく楽しそうに。
 ランドセルに下げたキー・ホルダーが、大きく左右に揺れていた。
 わたしはいつものように少しだけ遠回りをして、駅へと向かった。アーケード街の歩道は狭く、その上通行人が多かったからだ。おまけに今日は皆、傘まで差していた。
 わたしは河原の堤防の上を歩いていった。河の水位が異様なほどに上がっていた。流れが恐怖を催すくらいに速くなっていた。
 河の向こう岸にある高速道路の高架からは、車の走行音やエンジン音が、遠い海鳴りのように街に響き渡っていた。ゴォ……と。
 線路の高架下沿いを歩いていき、駅前のデパートの裏にあるT字路を横切ろうとしたときだった。やってきた原付に撥ねられた。
 その原付は、横向けでスライディングするかのように、こちらに向かってきた。急ブレーキをかけたのだろう。
 それでわたしは、雨で濡れたアスファルトの上に投げ出された。
 わたしは一瞬、気を失ったあとで目を覚ますと、目の前に誰かが立っていることに気がついた。
 その「誰か」は、その背後のヘッドライトでシルエットのようになっていた。
 わたしは路上に横たわっていた。アスファルトはやはり雨で濡れていて、ひんやりと冷たかった。
 辺りはすでに真っ暗になっていた。
 「だいじょうぶですか?」と声が降ってきた。その声の持ち主は、わたしの目の前のシルエットからのようだった。
 低い声だった。どこか間の抜けたような……
 目が慣れてきて、そのシルエットの人物像が、薄ぼんやりと浮かんできた。暗闇のなかで。
 若い男だった。二十歳前後ほどの。
 髪は茶色に染まっていた。中性的な雰囲気で、背がひょろりと高い。
 そのとき、わたしと彼は目が合った。
 小雨だったそれが、不意に本降りとなった。ザァッ……と。タライの水をひっくり返したみたいに。
 雨脚はさらに強くなっていった。
 遠くのほうから、救急車とパトカーのサイレンの音が聞こえてきた。そのあたりで、わたしの記憶はまた途切れた——
 
2

 そこは白い壁に囲まれた部屋だった。
 窓の外ではやはり雨が降っている。
 わたしはぼんやりと窓の外を眺めていた。
 空全体が、少しグレーがかった白い雲で覆われていた。
 そして町に、細やかな柔らかい雨が降り注いでいた。病院の周囲には緑が多いが、その向こう側には、ビルやマンションばかりが目立った。
 僅かに開かれた窓からは、湿った冷たい空気が、室内に入り込んできた。部屋の澱んだ空気のおかげで、それはより澄んだものに感じられる。
 わたしは吐息をついて、ベッドの傍にある小机の上から一冊の本を手に取り、それを読み始めた。『百年の孤独』だった。ガブリエル・ガルシア=マルケスの。こんな缶詰みたいな状況でなければ、とても読み通せる自信がなかったのだ。プルーストの『失われた時を求めて』を持ってきてもよかったかもしれない——
 コンコンと、不意にノックの音が、部屋に響いた。
 はい、とわたしはドアのほうを向いて答えた。「どうぞ——」
 ガチャリとドアが開くと、そこには彼が立っていた。
 わたしの加害者だった。例の事故の——

3
 
 「こんにちは」と彼は微笑んだ。
 一方の手には傘 (ビニール袋に入れられている) が、もう一方の手には小ぶりな白い箱 (有名な洋菓子店の) が提げられていた。
 「こんにちは」とわたしも無感情に答えた。正確にはそれを装って——。それから持っていた本を閉じた。
 「何を読んでいたんですか?」と彼が尋ねた。どことなく寂しげな声で。そして、いくぶん低い声で (それが彼の地の声だった) 。
 「『百年の孤独』」とわたしは答えて、その本を小机の上に置いた。「さいきん文庫本が出たから買ったの」
 「名前だけは知ってます」と彼は言った。「座っても?」
 「どうぞ」とわたしは答えた。やはり無感情を装って。
 「さっきまで、警察署にいたんですよ」と彼は言って、ベッド横の丸イスに腰を下ろした。「事情聴取をされてたんです。朝からさっきまで……。もうヘトヘトですよ」
 「君が悪い」とわたしは、器具で吊るされた自身の片足を眺めながら言った。その足にはギプスがはめられていた。
 「責める意図はないんですよ」と彼は言った。「ただ、出来事を報告しているだけです」
 沈黙が流れた。
 「これ……」と彼がわたしのまえに、例の白い箱を小さく掲げた。「ケーキです。モンブランとミルフィーユ……。良かったらどうぞ」
 「ありがとう」とわたしは答えて、それを受け取った。それからベッド横の小机の上にそれを置いた。
 「学校には行かなくていいの?」とわたしは窓の外に目を向けてそう訊いた。しょっちゅう、ここに顔を出しているみたいだけど?」
 「休んでます」と彼は答えた。「いまは、休学中です」
 「今回の事故が原因?」と彼の顔を見て尋ねた。
 「きっかけは」と彼は答えた。「それ以前にも、色々あったんですよ。それらが積もり積もっているときに、今回の事故を起こしてしまって。それでやめるって言ったら、母親に止められて……。とりあえず休学という形をとったんです」
 彼の母親のことを、わたしは思い返した。
 彼が初めてわたしの病室 (運良く、わたしは個室をあてがわれた) にやってきたとき、彼女も隣にいたのだった。まだ若い、綺麗な人だった。ほっそりとした身体つきで、それでいてどこか品のある——
 しばらく会話を交わしたあとで、彼は帰っていった。「また来ます」と最後に微笑んだ。どこか儚げに。
 パタン……と、ドアの閉まる音が部屋に鳴り響き、それから静寂が部屋を覆っていった。
 彼の名前は「桜」といった。

 それからも彼——桜は、度々わたしの病室へとやってきた。
 特になにをするというわけでもなく。わたしと適当に雑談をしたり、持ってきた本を丸イスの上で黙って読んでいたりしていた。
 大学にも行かず、アルバイトもしていないようなので暇だったのだろう。
 それから——
 「なにを読んでいるの?」わたしは彼にそう尋ねた。少し会話が欲しいと思ったのだ。
 「『アミ』です」と桜は言った。「『アミ 小さな宇宙人』」
 知ってます?と彼は本を閉じて、その表紙をこちらに向けた。
 そこには見覚えのあるイラストが書かれていた。国民的作家の——
 「知らない」とわたしは答えた。「だれが書いたの?」
 「エンリケ・バリオスって人です」と彼。「チリの作家です」
 わたしは彼から『アミ』の話を、かいつまんで聞かせてもらった。
 「『進歩度』って概念が出てくるんです。」と彼は言った。
 「なにそれ」わたしは笑って言った。
 「天使か獣に近いかを表す度数です」
 「天使に近いとどうなるの?」
 「救われるらしいですよ」と彼。「この世が滅びるときに——」
 救われるねぇ、とわたしは吐息をついた。一種の選民思想だと思った。
 むかし、興味本位で読んだ『ヨハネの黙示録』を思い出させた。右手か額に獣の刻印を押された人々と、額に子羊の名と子羊の父の名が記された14万4千人の人々——。14万4千人の人々は救われる……
 わたしは、桜の顔をジッと眺めた。
 「なんですか」と彼は怪訝そうに言った。
 「いや——」とわたしは小さく答えた。
 彼は救われるのかな?と思った。
 ところで、わたしはどうだろう?

5
 
 わたしは退院し、仕事にようやく復帰した。
 職場の人たちが、ねぎらいの言葉をかけてくれた。大半は、本心からの言葉であったように見えた。
 「まだ、大丈夫」とどこからか声が聞こえてきたような気がした。「まだ、ここにいられるよ」と。
 ただ、それも時間の問題だろう。どうせいずれ、わたしはボロを出す。本性が露呈されてしまう。「こいつは違う」と……。わかっているのだ。
 そして、そのコミュニティから追放される。あるいは、それを維持するための、スケープゴートとして使われる。

 デスクトップのまえに座り、キーボードを叩き、タスクをこなしていった。
 お昼休みのとき、何気なくスマートフォンを覗いてみたら、メッセージが一件入っていた。
 わたしは目を見張った。
 「彼」からだったのだ。

 日曜日、わたしは桜と、わたしの住む町の駅前で会った。彼は髪が少しだけ伸びていた。
 「なにか食べに行こう」とわたしは提案した。「わたし朝、なにも食べてなかったんだ」
 「カレーがいいですね」と彼は笑った。
 わたしたちは、駅近くにあるインド料理店に入った。まだ昼前だからか、そんなにお客はいなかった。
 わたしたちは一番奥の席に、向かい合って座った。二人とも、もちろんカレーを注文した。
 「退院したんですね」と彼は言った。
 「見ての通り」とわたし。
 「お祝いなので、僕が奢りますよ」
 「ありがとう」
 沈黙が流れた。外からの喧騒が微かに聞こえてくるだけだった。
 窓の外からは遠くに、イトーヨーカドーが見えた。
 手持ち無沙汰になった彼は、店内の様子をただ眺めていた。綺麗な顔だな、とわたしはあらためて思った。
 どことなく儚げな美しさだった。そんなに美形なら、さぞ人生も楽しいだろう——。そんな皮肉が口を突いて出そうにもなる。
 「何のお仕事をされているんですか?」と不意に声が聞こえてきた。
 わたしはハッとして、桜のほうを見た。彼はこちらをジッと見ていた。やはり美しい。
 「翻訳」とわたしは、グラスの氷水に口をつけた。
 「翻訳?」
 「翻訳事務所に勤めているの」とわたしは答えた。「小さな個人経営のね。従業員もアルバイトも含めて10人もいない」
 「なんの翻訳を?」と彼。
 「『どの言語を』ってことだよね?」
 「ええ」
 「ロシア語」わたしは少し声をひそめて言った。ウクライナでの戦争で、ロシアやロシア的なものがタブーのようになってから久しい——。「忙しいときは、英語のも回されるけどね」
 「第二外国語で、ロシア語を?」
 「そう」とわたしは答えた。「大学はやめたんだけど、基礎は学んでいたから、自室に引きこもってコツコツとね。学びグセみたいなのが残ってて……。そのあと知人のつてで、その職場を紹介してもらったの」
 「ロシア語ってどんな言語ですか?」と桜が尋ねた。「難しいイメージがありますけど——」
 「文法はけっこうシンプルだよ」とわたしは言った。「あのキリル文字のせいで、とっつきにくいイメージがあるけれど……。たとえば、英語でいうbe動詞は使わないし、日本語でいう助詞もない。主語と述語が直接結びつく。『これ、ペン』みたいな……。それは現在形だけに限られるんだけど」
 「へぇ」と桜はちょっと目を丸くした。少しだけ興味をもったみたいだ。
 「時制も、現在形・過去形・未来形の三つしかない。動詞のアスペクトで、微妙な時制のニュアンスを表現できるけど。あと、英語で面倒な冠詞もない。つまり、theとかaとかが」
 「それはラクですね」と彼が笑った。
 「ただロシア語は、語尾変化がうんざりするほどやっかいだけどね。一つの単語——名詞、代名詞、動詞、それから形容詞までもが、5〜30通りくらいに変化する」
 日本語学習者の外国人から見れば、日本語の活用というのは、きっとこんな感じなのかな……と、わたしは常々思っている。わたしたちは普段、何気なく使いこなしているけれど。
 「はぁ——」彼は呆けたように、口を小さく開けていた。
 「こんな話でいいなら、いつでもしてあげるよ」とわたしは言った。
 「いや、もう語学の話はけっこうです」彼は苦笑して、グラスの氷水を飲んだ。「頭が痛くなってくるんで……」
 「いつでも?」とわたしは不意に思った。何かそう、口を突いて出てしまったのだ……
 注文したカレーがやってきた。カレーの横には大きなナンが横たわっていた。わたしたちはそれを黙って食べた。
 カレーはあっさりとした味で、とても美味しかった。リピーターになろうと思った。

 わたしたちは、駅前のドトール・コーヒーへと移った。
 「大学にはまだ行ってないの?」とわたしは尋ねた。
 「ええ」と桜は答えた。
 わたしたちはテラス席で向かい合っていた。わたしはコーヒーを、彼はお茶を飲んでいた。
 駅前は、大勢の人たちで行き交っていた。家族連れたちや若いカップルたちが目立った。みんなどこか嬉しそうに見えた。
 「もう、戻るつもりはないんです」と彼はティー・カップを口許に持っていった。
 沈黙が流れた。
 駅前の広場では、アイドル・グループの子たちが、ステージ台の上で、歌をうたったり踊ったりしていた。大勢の人たちがその周りを取り囲み、人山を築いていた。
 リーダーの子の名前は、たしか「伊藤」といった。
 「やめてどうするの?」とわたしは尋ねた。
 「働きますよ。どうせ家にはいられなくなるでしょうし……」あるいは主夫にでもなりますよ、と彼は付け足した。
 「主夫?」わたしは噴き出しそうになった。「ヒモじゃないんだ?」
 「僕にそんな才能はありませんよ」と彼は言った。
 「ヒモに才能とかあるの?」わたしはまた笑った。
 久しぶりに笑った気がした。最後に笑ったのはいつだったっけ?
 「なにもしないことに耐えられないんですよ」と彼は言った。「なにもしないのに受け入れられることが、自分にはどうしても信じられない——」
 「家族のなかでも?」とわたしは質問した。
 「まあ、そうですね……」と彼。「形の上ではそうじゃないように振る舞ってはいるけれど——」
 「それは一度、経験しておくべきことなのかもね」とわたしは言った。「大人になっちゃうと、それを得ることが難しくなるから……」
 つまり、社会に出てしまうと、それがほとんど (全くとは言い切れないだろう) 不可能になる。なぜなら、言うまでもなく、大人は大人を甘やかさないからだ。
 なにより、大人は他者を疑うものだから。
 なにもしなくても受け入れられる——、つまり無条件の愛情は、子ども時代に受け取っておくべきなのだろう。そして、人を疑わない子どものころに。いわゆるマズローの欲求五段階のうちの「愛と所属の欲求」だ。
 それが、その人の依存心を解消させていく。愛情が、その依存心を相対化させていく。
 そして、人を愛せる人間にする。なぜ彼彼女が人を愛するのかといえば、愛されたことが嬉しかったからだ。
 そして、その愛情は本物の愛情でなくてはならない。「愛のための愛」でなくては——。「愛されるための愛」ではきっとダメなのだ。

 夜の七時ごろ、わたしは駅の改札のまえで、桜を見送った。
 彼の細い背中が小さくなっていき、やがてエスカレーターの陰へと消えた。
 「わたしは彼の母親にでもなろうとしているのか?」そう、わたしは心のなかで自分自身に問いかけた。
 バカバカしいと考えつつ、わたしは夜の住宅街を歩いていた。
 それは本当に馬鹿げていた。わたしにそんな資格などなかったからだ。
 なぜなら、わたしは……

 その後もわたしは桜と会うことになった。
 ただいっしょに食事をして、そのあと近くのカフェでコーヒーとお茶を飲むだけだったが……
 ときどき少し遠出もした。「遠出」といっても、都内に限られていたが——。上野公園や神保町の古書店街を歩いて回った。
 街中で彼は目立っていた。ルックスが良かったからだ。おまけに背もヒョロリと高い。女性はもちろん、男性までこちらを一瞥していた。
 わたしは自分自身を醜いと思っているので、彼と一緒にいることで、わたしのなかの欠けたなにかが補完されたような心持ちがしたものだ。
 「楽しいだろうな」とわたしは彼を見ながら常々思っていた。ルックスが良いというのは——。そこにいるだけで周囲を幸福にもする。おまけに、そのフィードバックまで受け取ることができる。
 存在自体が、ある種の恩寵を招くのだ。存在自体で、神から——世界から祝福されている。
 ルックスが良ければ嫉妬も受けるだろうし、ストーキングみたいなこともされるのだろう (わたしでさえ「それっぽいこと」をされたことが一度だけあった) 。ただ、それを差し引いても、やはり羨ましいなと思う。
 なぜわたしは、美しく生まれることができなかったのだろう?
 「なにを考えているんですか?」と声が聞こえ、わたしは我に返った。
 前を向くと、桜がテーブル越しにわたしをジッと見ていた。
 そこは大型書店のなかにあるカフェだった。
 「いや——」とわたしはコーヒー・カップに口をつけた。コーヒーはすでに冷たくなっていた。「べつになんでも……」
 ただ——とわたしは思った。
 ただその一方で、彼らは彼らなりの地獄を抱えているのだろう。それは、わたし自身を慰めるために、そう考えているわけではないのだが……
 たとえば、ルックスが良ければ良いほど、他者の愛情を信用できなくなるのではないか? お金持ちが、他者のそれを信用できなくなるように——
 往々にして、美しい人のなかには、独特な影が見受けられることがある。それは、そうではない人にはけっして見られない、独特なそれだ。
 そして、彼のなかにも、その影がときどき垣間見えることがあった。
 美形でもお金持ちでもない人のほうが、案外……とわたしは思うことがある。そこにはまだ——と。
 本当に人生とは、ままならないものなのだろう。

 上野公園にあるスターバックスから出たあとで、噴水のある広場を桜と横切っていった。
 カップルたちや家族連れたちが多かった。噴水の水しぶきが陽の光を受けて、キラキラと輝いていた。
 前方には、博物館が見えた。
 わたしの脳裏に、あの日の光景が甦ってきた。
 「彼」と、黒田清輝の絵を、あの博物館で見た記憶だった。
 そのあとでわたしたちは、博物館の近くのカフェで、その絵について話したのだった。
 《メジャーな絵じゃない?》とわたしは言った。
 《メジャーじゃないどころか、たぶん習作だ》と「彼」はコーヒーを飲んだ。《デッサンでね。あの『読書』の人がモデルなんだけど……。ネット検索にも引っかからないし、今度画集を持ってくるよ》

女子高生の「わたし」は、クラスのある男子生徒に徐々に惹かれていく。ある日、「わたし」は、彼から絵のモデルを依頼されるのだが――

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更新日
登録日
2025-01-26

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  1. 雨の中の庭
  2. 桜の樹の下