終船

 置き去りの連絡船が、かつての埠頭に飾ってあった。その船は、無料で中に入れるが、人の気配は、あまり感じなかった。
 僕が船に乗り込み、甲板に上がると、涼し気な風が頬を撫でた。海には、向こう岸まで大きな橋がかかっており、自動車が行き交う音がする。
 船の操舵室までいくと、ノスタルジーに駆られた。その控えめな舵輪の前に、一人の男の気配を感じた。
 居るのではない。居たのだ。船を愛した、一人の男が、そこに居たのである。


 そう、僕がはじめておじちゃんに会ったのは、この船だった。おじちゃんは母の兄だった。
 母につれられて、停泊中の船に行ったとき、おじちゃんが出迎えてくれて、この船の操舵室まで、おじちゃんが案内してくれたのだ。
 おじちゃんに抱っこされて、操舵室からは、村が一望できた。
 僕の家も見えたし、おじちゃんの家も見えた。
 おじちゃんは、船乗りという職業について、色々と教えてくれた。
「船乗りはな、命をかけてでも、お客さんを守るんだ」
「おじちゃん、ヒーローなんだね」
「ヒーローかなあ、分からんけどなあ」


 それからのこと、おじちゃんは、僕を、我が子のようにかわいがってくれたのである。
 後で知ったのだが、おじちゃんにも子どもがいたそうだ。
 妻子を交通事故で失ってから、おじちゃんは、毎日連絡船に乗って、海峡を行き来していた。
 母はよく、おじちゃんは船が恋人なのよと教えてくれた。
 その時は、その意味が、よくわからなかった。でも、今なら分かるかもしれない。


 おじちゃんとの思い出は、他にもある。僕がおじちゃんと海水浴に行ったときのことである。
 おじちゃんは浜辺でのんびりしていて、僕は浮き輪に浮かんでぷかぷかしていた。
 僕は、浮き輪でただ同じ場所にとどまっているつもりだったが、気がついたら沖のほうまで来てしまっていたのである。
 泳いでも泳いでも岸には近づかず、怖い思いをしたのを覚えている。
 けれども、浜辺でのんびりしていたはずのおじちゃんが、すごいスピードで泳いできて、そのまま僕を浜まで運んでくれた。
 おじちゃんは海の男なんだと、このときはっきり分かったのである。
 おじちゃんは、岸に戻ったら、いつものニコニコしたおじちゃんに戻っていた。


 そんな僕も、成長して、村から離れることになった。
「おじちゃん、僕、村出るんだ」
「聞いとったよ。何して食べてくの」
「船乗りだよ。東京行って、川をお客さん乗せて往復するんだ」
 ずっと秘密にしていたのだ。おじちゃんの目が潤んだようだった。
「船乗りは、大変だぞ。男が、命かけて、乗るのが船なんだ」
「分かってるよおじちゃん、へへ」
 春の船着き場で、村の思い出や、都会についてなど、何気ない話を、夜遅くまで話していた。
「おじちゃんな、神奈川に住んでたんだ」
「そうだったの」
「そこで嫁に出会った。おじちゃんはな、護衛艦に乗ってたんだ」
「おじちゃん、自衛官だったの」
 知らなかった。
「任務で中東に行ってる間に、嫁と娘は轢かれて死んだ。葬式ができたのは、焼かれたあとだった」
 僕は何も言えなかった。
「それから、自衛官をやめ、村に戻ったんだ。この村にはお前の居場所がある。いつでも戻ってこいよ」


 けれども、僕は、しばらく村には戻らなかったし、おじちゃんと会うこともしばらくなかった。
 船乗りは、やりがいのある仕事だった。確かに、大変で、責任が重い仕事だが、僕の性に合っていた。
 最初は研修というかたちで、操船を見るだけだったが、操船を任されるまでになれた。
 そんなある日、僕は、再び村に戻る日が来たのだ。連絡船の、おじちゃんの、最後の航海を見届けるためである。
 おじちゃんは、僕を一番眺めがいい場所、つまり操舵室に乗せてくれた。
船が村から対岸へ向かう時は、そんな人もいなかったが、対岸から村へ戻る最後の航海には、とてもたくさんのお客さんが乗船したのである。
 それでも、おじちゃんは、船を降りるまで、愚痴一つこぼさなかった。
 船が村に戻ると、そこには、村の人々の姿があって、横断幕には「海峡連絡船 今までありがとう」と書かれていた。


ぼくとおじちゃんが最後に降りると、そこには僕の両親の姿もあった。
母は「お疲れ様」とだけ言ったが、すでに泣いた跡があった。
おじちゃんは、船から降りるなり、いつものおじちゃんになった。
「こんな人が毎日いたら、船も続いただろうに」
母は、おじちゃんの手をつかみながら言い返した。
「橋ができてからさ、二十年ももったじゃない。頑張ったよ。頑張った」
 皆泣きそうになって、それでもおじちゃんも泣きそうになりながら、愚痴を続けるのであった。
「船はさ、男の乗り物なんだ。男が、命をかけて、命を守るのが船乗りなんだ。それなのに、車って乗り物は、運転手ばかり守られて、女なんかもふらふら走らせてしまう」
 おじちゃんの、妻子を失った傷は、深かった。おじちゃんは、次は船までも失ってしまったのだ。
 母はうんうんと頷きながら、おじちゃんの手を握っていた。そして、おじちゃんは、決心ついたように僕を見て言った。
「お前はな、海の船乗りになれ」


 それから僕は、勉強し直して、貨物船の船乗りになった。
 貨物船は、海外から日本まで、長い航海をする。大変だが、航海は、良いものだ。おじちゃんが、海の船乗りになれと言った理由が分かった気がした。
 おじちゃんはというと、しばらく会っていないが、母からの連絡によると、ただの飲んだくれのおじいさんになっているそうだった。


 そんなある日の航海である。僕らは、フィリピンの付近を航海していた。
 ある時、船底からドーンといった音がして目が覚めた。このときは何が起きたか分からなかったが、後に浮遊機雷にぶつかったのだと分かった。
 急いで甲板に向かったが、途中で船長とすれ違った。
 船長は「早くいけ」と言ったので「船長は」と返すと「先にいけ」と言われた。
「分かりました」
 これが船長との最後の会話になった。
船上では、仲間が救命ボートに乗って僕を待っていたが、船体が傾いてきたので、僕を待ってでは間に合わないと察して、先にいけと合図した。
 何度も合図すると、救命ボートは海へと降りていった。
 救命ボートが降りるとすぐ、船はどんどん傾き、私は海へと飛び込んだ。
 船は横に倒れるように沈んでおり、何度も大きな波をたてた。
 ドーンと音がして、一番大きな波がきたとき、水に飲み込まれて上も下も分からなくなってしまったのである。
 そのとき、おじちゃんが泳いできて、僕を水面の方に案内してくれた。水面につくと、そこにおじちゃんはいなかったのである。
 船はどんどん見えなくなっていき、長く僕は海に漂っていたが、ヘリコプターが来て、無事救助された。


 入院を終えて日本に帰ると、おじちゃんは死んでいて、葬式まで終わっていた。
 おじちゃんは酔っ払って、海に落ちて、溺れて死んだそうだった。
 溺れるなんて、おじちゃんらしくないねと母は言っていたが、私は違うと思った。
 おじちゃんは、魂になってまで、フィリピンまで助けに来てくれたのだと思ったのだ。


 そんなことを思い出しながら、私は、連絡船の甲板で一服した。
 明日は、おじちゃんの四十九日なのだ。

終船

終船

おじちゃんは、船乗りだった。船が恋人だった。 こんな日には、おじちゃんとの思い出を、思い出すのである。

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2025-01-25

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