
焦爛の芍薬
本来、日記や手紙は他人の目には触れないものである。
ある少女の名を唐突に知った彼女は、祖父が書いた日記帳に秘密を解く鍵があると考えた。
しかし、その日記帳は一体どこにあるのだろうか。
そして日記には何が書かれているのだろうか。
少女と祖父の関係とは。
第1話 帰郷
~~ 帰郷 ~~
真希が神奈川県の北鎌倉にある祖母の家に向かった理由は、いくつかあった。
その内のひとつは、久しぶりに祖母の顔が見たかったから。
真希の両親は、彼女が幼い頃に揃って事故で他界しており、そう記憶にも残っていない様な遠い存在になっていた。
身寄りが無くなった真希は、北鎌倉にある父方の祖父母の家に引き取られて、二十二歳の大学卒業まで育てられたのだった。
大学を卒業してから東京の企業へ就職し、現在は独り身の彼女にとって、母親同然の祖母の手料理、いわゆる「母の味」のような食卓に飢えていた。
東京に越してから一年後に祖父が病気で他界し、その後、祖母の美由紀は大きな屋敷で孤独に暮らしていた。
となり街に住んでいる「大船のおば」こと多江は、美由紀の八歳年下の妹で、週に数回ほど姉の様子を見に行ってくれている。
真希にしてみれば特別に祖母を心配せずにいられることが何よりも有難く、多江様様といったところだった。
秋の紅葉の季節だからか、平日だと言うのに列車内は混み合っていた。
これから鎌倉見物に行くのだろうか、語学に疎い真希でも、そこにいる旅行客のカップルがフランスから来たことくらいは分かった。
肌寒くなった時期にも関わらず、今日は天気が良く、列車内へ強い日差しが差し込んでいたからか、二人とも白いタンクトップに大きなリュックを背負って、楽しげに列車の隅で大柄な身を寄せ合って談笑をしている。
栗色混じりの、まだらな口髭をたくわえた男性の方は、真希から見るといやに年配に思えたが、それに対して相方の長いブロンドヘアの美しい女性は、また妙に若々しく感じた。
真希はじわりと考えた。
この年の離れているであろう二人は、果たして遠い祖国フランスの地では正当な「夫婦」と認められているのだろうかと。この男性には実は妻子がいるのではないだろうか。この女性はそれを知っているのか、そのことを知ったうえで付き合っているのだろうか。
真希はそんな余計なお節介にも思える、押しつけがましい不審を感じてならなかったのである。
北鎌倉駅は人気の鎌倉駅の一つ手前なことで、曜日や時間帯にもよりけりだが、真っ昼間はさほど下車する人数は多くない。
駅の混雑というものが大嫌いな真希は、そのフランス人カップルが下車しない素振りに少し安堵感を抱きつつ、その女性が放つ香水と体臭が混じり合った、ある種の独特な香りに鼻奥をすぼめながら北鎌倉駅のホームに降り立った。
さっきの不快な香りのせいもあってか、ホームに漂う太陽と秋の少し湿った空気の香りが、何とも気持ち良くて清々しく感じた。
真希の祖母の家は北鎌倉女子学園の少し先にある。
もちろん彼女もこの学校の卒業生だ。
自動車がすれ違うのがやっとなくらいの道幅に、それをさらに狭く見せるように緑翠の木々が映えるトンネルが続く。
その空間にこだまする賑やかな年頃の女子生徒たちの声を聴いた真希は、自身の高校時代を思い出して、簡潔にノスタルジックを感じずにはいられなかった。
あの頃は純粋に楽しかったなと、まだ世界が美しく見えていた時代が懐かしかった。
家の近くの目印である二又にたたずむお地蔵様は、彼女の幼かった頃と何も変わらず、菅を編んで作られた真新しい笠をかぶって、今もそのまま昔のまんまに微笑んでいる。
「あ、まただ・・・」
真希の左耳を襲う強烈な耳鳴り。
そう、彼女が祖母の家に向かう理由の、もうひとつがこれだった。
半年ほど前から始まったこの現象だが、原因は思い当たる節が真希にはないでもなかった。
左耳の耳鳴りと同時に、右目だけが白くかすんでくる。そうなると決まって見覚えのない女の子がかすみの中から姿を現すのだ。
顔はハッキリとは見えないが、古風な着物を着ていることは分かった。
この現象が起きると、その月の生理が早まったり、偏頭痛を起こしたりと体調面に不安が生じてくる。
「この子は一体誰なの?」
この現象は一ヶ月から二ヶ月に一辺の頻度で起こるので、これで四回目だった。
かすみの中の少女が古風な着物を着ているという理由だけで、何か祖母と関係があるのではないかと、半分こじつけな考えになっているが、病院へ行ったってろくな診断をされなかった真希からすると、同じ女性として祖母から何か助言でももらえるかもという淡い期待があった。
左耳の耳鳴りと右目のかすみの現象が治まる頃には、真希は祖母の屋敷に着いてしまった。
思いがけず、大船のおばの多江が屋敷の門前でほうきで掃いていた。
「多江さん、ただいまです!」
「あら真希ちゃん!もう着いたの?夕方に来るからってお姉さんが言うものだから驚いちゃった」
「私も多江さんが来ているとは思ってなかったからビックリしちゃった」
「久しぶりだもんね。お姉さんも真希ちゃんが来るから落ち着かなくって、そしたら私までも落ち着かなくなっちゃったから表を掃除してたの。真希ちゃん、今日は私も泊めてもらうのよ。一緒に飲もうね」
多江は昔から瘦せ型だったが、その身体の線の細さを感じさせないバイタリティ溢れる気概の様なものを今も相変わらず放っていた。
真希は祖母の美由紀と二人っきりよりも多江が一緒に居てくれた方が、会話が不得意な彼女からしても要らない気遣いもせずに済むし、何よりも三人の方が明るい雰囲気になるので、多江の存在は大いに助かるのだった。
真希は密かに多江が来てくれているのでは?と期待していたので、さっきの「思いがけず」と言うのは、つまり嬉しさ余っての、そのときの気分の高揚からついて出た言葉である。
江戸時代からあるという古い門に大きなナナフシが張り付いていた。
その時、真希は後ろから誰かが追ってきているのではないかと急に不安な気持ちになり、今来た道を振り返ってみたが、どこにも人影はなく杞憂に終わった。
「真希ちゃん、どうしたの?」
「う、ううん、なんでも」
門をくぐり、手入れの行き届いている庭園を一分弱歩くと、ようやく玄関に辿り着ける。
美由紀のような年寄りが独りで過ごすには何とも広すぎる邸宅であったが、当時両親を亡くした幼い真希にとって、これほど面白い家は他になかった。
つまり単純に言えば、祖母の豪邸において真希は「両親からの愛情の欠如」を除けば、何の不自由もなく彼女が生活を送るのに申し分ない環境であった、と言うことである。
上から見ると口の字型をしている邸宅の真ん中には中庭があった。
その中庭がよく見える十六畳ほどある祖父の書斎。
十六畳もありながら、この屋敷内ではさほど広い方に入る部類の部屋ではないが、暗紅色のビロードで出来た絨毯が広がっているその書斎に祖母は大抵居るのだった。
「おばあちゃん、ただいま」
「おかえり真希ちゃん、疲れていない?今日は良い天気で良かったわね」
美由紀は真希の顔は見ずに中庭に向かって返事をしたが、この部屋に美由紀がいる場合は、今のように返事をするのが習慣なのであった。
祖母の美由紀は白髪頭になっていても、一針の乱れもなくピシリと髪を結い上げ、レッドライラック色にコーティングされた鼈甲の眼鏡をかけた表情からは、昔から今現在も気品の衰えは感じさせないでいた。
その時、真希の鼓膜を小さく震わせていたのは、遠くにある大広間の古びた大きな柱時計の正午の鐘であった。
「多江ちゃんがお昼の支度を済ませているから、さぁ行きましょうか」
そもそも真希は当初夕方に到着する予定であったのに、なぜ美由紀はそこに触れずに当たり前のようにことを運んでいるのだろうか。
真希はいささか違和感を感じながらも、そんな予定外も想定内なのかと、歳を重ねるとはこういうことなのかと腑に落としていた。
彼女がそう納得できたのは、多江が食堂で真希の昼食までしっかりと準備をしていたのを目の当たりにした時であった。
祖母の料理は夜の楽しみに残しておこうと彼女は思った。
真希は祖母が作ったクリームシチューが大好物なのだ。
何か特別な高級食材を使っている訳でもない、ごくありふれたシチューなのだが、あのホクホクとして溶けかかったジャガイモのやわらかさと、鼻口に抜けるバターコーンの甘い香りは、祖母の美由紀のシチューでないと味わえない。
どうしても真希はこのシチューを食べておきたい理由が他にもあったのだ。
シチューの禁断症状が現れ始めた真希は、多江が作った海鮮たっぷりのナポリタンを必要以上にフォークで巻き続けながら、食堂の奥にある調理場の入り口に視線をやった。
桔梗の花の刺繍が施された大きな生成り布の暖簾の先に、真希の意識はシチューへの期待感に完全に捕縛されたのであった。
真希は祖母のシチューをすでにリクエスト済みであり、これもまた真希が帰郷する理由のひとつになっていた。
~~ 帰郷した本当の理由 ~~
「そうだ、おばあちゃん、おじいちゃんのことで聞きたいことがあるんだけど」
「なにかしら、改まって」
「この前の修平さんのお葬式の時なんだけどね、修平さんの叔父さんの・・・」
「澄夫さんだね、おしゃべりで有名な」と多江が勢いをつけて口をはさんできた。
「そうそう。その叔父さんが私に変なことを聞いてきてさ」
ここまで話すと、美由紀の額が後ろ側にピクリと少し動いたのが真希は見逃さなかった。
修平とは、真希の死んだ父の義弟であり、この夏に癌で亡くなった叔父のことである。
澄夫は真希たちの遠い親戚にあたる人で、美由紀よりも少し年齢は上をいっている。
「で、澄夫さんがなんて?」
「おじいちゃんのことでね、おばあちゃんから何か聞いていないのか?って。私は、何も聞いてませんよって答えると、ふふんとちょっと含み笑いして・・・」
するとまたしても真希の話に割り込むように多江が口を開いた。
「また余計なことを・・・今さら何の話を持ち出そうとしてるんだか!」
真希の祖父、西条誠司は不動産業を複数社経営していた実業家であった。
誠司が亡くなってからは遺産分与で親戚に会社を分散させ、誠司の兄弟、その子供たちが引き継いで、今でも世間では名が通る企業として手広く会社経営をしている。
彼女はそんなところまでは知っていた。
「で、おじいちゃんがどうかしたの?」と真希が祖母の美由紀に聞く。
「知らなくていいのよ」とまたすぐさま多江が口を挟んだ。
パスタに絡んだケチャップソースが少し固くなっていた。
多江の作ったナポリタンは、秋の空気で少し冷め始めてきていた。
「おじいちゃんのことってなに?なんで私にそんなこと聞いてきたのかな。修平さんの叔父さんの・・・その澄夫さんとなんの関係があるわけ?それとも私がなんか関係していたの?」
再度の真希から祖母への質問を、またもや多江が邪魔するように答えた。
「見ての通り、お義兄さんは一代でこの西条家の財産をここまで築かれたのよ。色々な人に妬まれたり羨ましがられて当然。つまらない噂話を流すのが好きな人がいるのね。真に受けなくて良いのよ、真希ちゃん」
こう話す多江の表情とその言葉使いは、明らかに真希の気持ちをはぐらかしているに違いなかった。もちろん多江もその腹積もりで話をしていた。
そこで真希はこう切り返した。
「澄夫さんは笑って最後にね『君のおばあさんはおじいさんに、もっともっと感謝するべきなんだよ』って言ってたけど、私は別に嫌な言葉に聞こえなかったの。でも多江さんにそう言われると、何か隠したくなるようなことでもあるかなって余計に勘ぐっちゃうんだけど」
美由紀と多江はさすが姉妹である。
二人そろって両目を天井へ向けたのだった。
まるで何かに失敗したかのような表情で。
~~ 真希がついた嘘 ~~
修平の葬式のときにそんな言葉をかけられた真希は、ふと疑問が浮かんでしまった。
真希は祖父母に育てられてきたが、金銭面で困ったりした記憶もなく、両親を失った彼女を本当に優しく接して成長させてくれた。
真希から見ても祖父母との関係性は良好で、祖母はお手伝いさんや多江に家事の全てを任せていた訳もなく、ことに食事に関しては、徹底的に祖父の誠司や孫の真希の栄養管理を重要視して食卓の用意をしてくれていた。
修平の叔父、つまり澄夫はどうして祖母美由紀が亡くなった祖父誠司に「もっともっと感謝すべきなんだ」と真希に言ってきたのか。
人は自分に一切の非が無いと、あからさまに他人事の不祥事に関しては絶対的に強気というか、勝ち誇ったかのような嫌味な言い方をするものだ。
真希は澄夫の言い方から、そんな嫌味を感じ取れたのだった。
祖父と祖母は昔に何かあったのだろうか?
真希も最初はその程度の軽い疑問であったが、突然降って湧いたような話であったため、彼女は知る、もしくは知っておかなければならない出来事でもあったのだろうかという好奇心がムクムクとふくらんできていた。
真希はさっき『私は別に嫌な言葉に聞こえなかったの』と祖母らに話したが、本来は逆に感じた印象を、敢えて噓をついて言ったのだった。
「真希ちゃん、これはくだらない話なのよ。気になるだろうけれど、もう関係のないことだから気にしないでもらえるかしら?」
そう言った祖母は、完全に冷め切ってしまったナポリタンを久しぶりにフォークで巻き取り始めた。
「そうですよ、せっかく真希ちゃんの里帰りなのに、もっと楽しいお話をしましょうよ。あ、お姉さん今晩は真希ちゃんの大好きなシチューの材料、全部揃えてありますから」
「そう、ありがとう多江ちゃん」
またもはぐらかされた真希だが、彼女の知りたいという欲求はますますふくらむ一方になったのは記すまでもないだろう。
それに、真希はもうひとつ嘘をついていた。
真希が言った『修平さんの叔父さんは笑って最後に』は、実はこの言葉は本当ではないのだ。
澄夫が真希に言った本当の言葉とはこうだった。
「初恵ちゃんの話は知っているかい?・・・知らない?そうか・・・君のおばあさんは、おじいさんにもっともっと感謝するべきなんだよ」
冒頭に「初恵ちゃんの話は知っているかい?」と言った、これが含まれたものが正しい澄夫の言葉だったのである。
真希はさっき直感的に「初恵ちゃん」というキーワードは、軽率に使うべきではないと察知して封じたのだった。
恐らく「初恵ちゃん」という言葉を使った瞬間、真希は美由紀や多江の良からぬ何かしらの感情を逆撫でしてしまうのではないかと、そんな先天的に持ち合わせているであろう防衛本能が働いた気がしたのだ。
真希が知りたいのは、祖母が祖父に感謝しなければならない理由もそうなのだが、この「初恵ちゃん」という人物が一体何者なのかということもあった。
真希という人生に、突然現れたこの初恵という登場人物の謎を知りたいと率直に思ったのである。
偶然なのか、耳鳴りで現れる少女との関係を結び付けようという意識も彼女の中で働いていた。
真希はその謎を解く鍵はきっとこの屋敷にあるはずだと確信していた。
そんな好奇心に似た妙な興味に後押しされ、彼女が職場で有給休暇を取ってまで祖母に会いに来た理由の内のひとつはこれだった。
祖父の誠司は筆まめだった。
真希が思春期だった頃、仕事で多忙であった祖父から度々手紙をもらっていた。
この手紙は道徳的な話から、シャレた話も含まれていた。
両親の居ない当時の彼女にとって、心の隙間を埋めてくれる短編小説のような存在だったのだ。
真希の記憶が確かならば、祖父は毎日の日記を書いていた。
久しぶりに祖父の活字が恋しくなった真希は・・・
「ねぇおばあちゃん、おじいちゃんが書いていた日記を見せてもらいたいのだけれど・・・」
真希のこの一言で、数十年間止まり続けていた古い歯車が、たった今ギシリと重い音を立てて回り始めたのだった。
第2話 疑惑の火種
~~ 月夜の土蔵 ~~
「日記?おじいちゃんの日記はもうとっくに処分してしまったのよ。あの人からの遺言でね。処分するようにそう書かれていたのよ」
祖母は砂糖もミルクも入っていない食後のエスプレッソを味わいながら、真希に対してあっさりと平然にこう答えた。
「えっ、そうなの?」
「それに考えてもごらんなさいな。どこの誰が自分の書いた日記を他人に読まれたいと思うのよ?」
「それはそうだけれど・・・」
「私でさえ、あの人が書いた日記を読みたいと思ったこともないんてないもの」
「そうだったんだ。それは残念だなぁ」
真希は落胆してしまった。
何も収穫を得られないことに、つまらない気分になってしまった。
修平の葬式で澄夫から知らされた祖父母の秘密めいた告げ口。
一気に宙ぶらりんになってしまった「初恵ちゃん」とは一体誰だったのだろうか。
「まぁまぁ真希ちゃん、せっかくの里帰りな訳だし、ゆっくり過ごしていけば良いでしょ」
そう多江が声色軽く、ひょいと立って食器の片付けを始めた。
真希も(そうだよね)と半分思いつつ、もう半分は諦めの入った自分の気持ちを落ち着かせるために、未だに屋敷に残されている二階の自分の部屋に荷物を運び入れたのだった。
その日の晩はみんな愉快であった。
祖母の美由紀と叔母の多江と真希の三人であったが、昔話を懐かしみ、祖母の大好きな赤のビンテージワインと、真希の大好物である祖母の作ったシチューをそれぞれが堪能し、東京で独り暮らしの真希にとっては、とても賑やかで幸福な時間を過ごすことができたのだった。
途中真希は、高齢になった祖母が見せる笑いじわを眺めながらこう思った。
いつしかこの目の前にいる祖母と多江も亡くなってしまう時が来るのだろうかと。
今この眼前の賑わいや談笑、ここから得られる安心感は永遠ではないのだと、そう自分に言い聞かせていたのだった。
「ところで真希ちゃん、前に来た時に話していた年上の彼氏とはまだ続いてるの?」
浮いた話が好きな多江が急に真希に振ってきた。
「え、あ、う、うん、一応まだ続いているけど」
「あら一応って?何か意味ありげな返事の仕方だけど?」
「いいじゃない、今はその話」
「色々とあるんでしょ?多江ちゃんも分かるでしょう?」
と美由紀が真希のフォローに入ったところで真希の彼氏の話題は終わった。
久しぶりに飲み過ぎてしまった真希は、酔いを覚ましに玄関を出た。
この目の前に広がる月明かりに照らされた庭園も、少し湿気をおびた草の香しさでさえ、幼少期の純粋な自分を思い起こさせずにいられなかった。
ここへ向かって来た時に感じたノスタルジックを、再び真希は思い返していた。
あの頃に戻れたら、今の私はもう少しマシな人生だったのだろうか。
そんな無意味な問いかけを真希は自身に向けていた。
風のまったく無い秋の夜の空気は、ワインとシチューとその幸福感で火照った彼女の身体には、とても心地良かった。
確かこの庭の奥に立派な土蔵があって、真希はちょっとした隠れ家に使っていた時期があったのを思い出した。
そんな懐かしさに導かれて、酔った彼女はフラフラと真っ暗な土蔵の前に、気がつけば立っていたのだった。
土蔵の入り口付近の壁に、五寸釘を打ちつけて引っかけてある懐中電灯は、すっかり砂埃をかぶっていたのだが、スイッチを入れると未だに乾電池が生き残っていたのか、パッと彼女を驚かせるように、眩いオレンジ色を輝かせてくれた。
真希は土蔵の扉に手をかけた。
不用心にも扉に鍵はかかっていなかったが、重い扉を開けてみると、昼間に暖められたのか、土蔵に充満されていた空気がふんわりとゆるい風となって、開いた扉から溢れ出てきた。
その風は、少し冷えた真希の身体に温もりと、古くさい木材の香りを同時に感じさせるものだった。
~~ 疑惑の火種 ~~
夜の土蔵は不気味であったが、真希は酔っていたのもあり、恐怖心よりも好奇心の方が先に出ており、迷うことなく土蔵の床に足を踏み込んでいた。
土蔵の内部は二階構造になっていて、彼女の隠れ家は二階へ上がった部屋の片隅にあったのを思い出した。
そこでは小さな懐中電灯を置き、祖父母に禁止されていたスナック菓子や炭酸飲料を飲食したたり、中学生の当時では大人に否定されていた漫画雑誌などを読んでいた。
急に照れくさくなって後頭部がむず痒くなり髪をかいたが、瞬間、彼女の手が止まった。
明らかに見慣れない、テラテラと煌めく漆黒の、そう、真希の肩幅くらいの京葛籠があったのだ。
辺りに置いてある物とは比較的にその京葛籠は新しく見えたが、真希は迷うことなくその蓋を外した。
その中には大量に、数十冊に及ぶ祖父の黒革製の日記帳が無造作に折り重なるように放り込んであった。
俄然、彼女は違和感と矛盾を感じた。
祖母が『遺言によって処分した』と言っていた祖父の日記帳がなぜ、彼女の目の前の京葛籠の中にあるのだと。
何かある、と真希はこう直感したのと同時に、誤魔化した祖母たちは何かを隠しているだと脳内に確信の電気が走った。
真希は自分が噓をついて誘導尋問したように、祖母と多江も噓をついたという、いわば双方の罪悪感の衝突と、突如復活した好奇心によって胸の奥が痛いほどギュッと詰まって、下腹部が少しだけ疼いた。
しかし、今この場でこれだけの膨大な量の日記帳を読むことは不可能であった。
それに未だ屋敷の食堂にいる祖母と多江に怪しまれるという一種の脅迫感を得て、手に取れる分の日記帳数冊を、まるで本屋で万引きするかのように、肌着の内側に詰め込んで(実際に万引きしたことはない)足早に屋敷へ戻った。
玄関に入った真希の目の前に、何というタイミングなのか多江が立っていた。
必要以上にビックリしてしまった真希に、多江がまた更に彼女を上回るほどの驚き方をしたのがお互いに滑稽に写ったが、まるでホラー映画の中のような緊張感が、玄関を開けた真希には備わっていた。
「あぁびっくり、真希ちゃんがなかなか戻らないからお姉さんも心配したのよ。どこ行ってたの?」
「すみません、少し飲み過ぎちゃったみたいで。庭で酔いを冷ましていたんだけど・・・ちょっと部屋で休んできますね」
「大丈夫?気分が良くなったら、ゆっくりお風呂でも入ってね」
多江とそんなぎこちない会話を終えて真希は自室に戻った。
戦利品は年代別々の五冊の日記帳、つまりランダムな五年分の日記であった。
しかし土蔵の京葛籠にあった日記帳は、パッと見で換算すると数十年分あることになる。
その時点で不覚にもウンザリしてしまった真希であったが、やはり土蔵に隠されていたことに、自分は私立探偵にでもなったかのような妙な使命感に似た、彼女の完全な錯覚と呼べる探究心が沸き出していた。
なぜか彼女は祖父の日記帳を読む前に禊を済ませるかのように風呂に入り身を清め、歯を磨いて清潔になってから、祖母と多江に「おやすみなさい」の挨拶を済ませ、まるで寝る前の読書をするかのように、ベッドへ入りブックライトのスイッチを入れた。
真希が最初に開いた日記帳は、今から四十五年も前の物だった。
書かれている内容は基本的に仕事上のことが多かったが、世間で起きた出来事であったり、稀に趣味であった釣りのことが多かった。
当時の祖父の生活や時代背景、祖父はこんなことを思っていたのか、こんなことを考えていた人だったのかと改めて知ることが出来た。
しかしこれ以上、何か特別な内容は見て取れなかった。
ざっと流し読みではあったが、ランダムな五年分の日記帳を読み終えたときは、もう午前三時を過ぎていた。
彼女の酔いは醒めかかっていたが、急に疲れが出たのか瞼が重くなって、そのまま真希は眠りについてしまった。
~~ 夜明け頃の地震 ~~
朝、目が覚めて、真希は寝間着のまま一階の居間へ降りた。
すると祖父の誠司がテーブルの、いつもの決まった席で新聞を読んでいた。
「おじいちゃん!?久しぶり、元気でしたか?」
真希がこう声をかけると誠司はこう言った。
「真希、君もずいぶんと大人になったんだな。おばあさんのこと、頼んだぞ」
祖父は相変わらず紳士的で、キリリとした男らしさを感じさせていた。
「ところで真希。きみの調べていることだがな・・・」
真希は自分の身体がグラグラと揺れていることに気付いた。
同時にピシリピシリと、部屋の至る所がキシんでいる音がする。
そこまで強くはないようだが、地震だったようだ。
地震の揺れで目を覚ました真希は、祖父の夢をみていたことを思い出した。
寝ぼけている彼女には容赦なく、眩しい朝日がカーテンの隙間からキラリキラリと入り込み、真希は邪魔くさいとばかりに側臥位になって、掛け布団で顔を覆った。
掛け布団からお日様の香りがしていたことに、昨晩には気が付かなった。恐らく美由紀か多江が彼女の帰省に合わせて布団干しをしてくれたのだろう。
何とも言えないが、ありがたかった。
寝落ちは一瞬だったのか数十分経ったのか分からなかったが、頭がハッキリとしてきた真希は、先ほど見た夢の中の祖父の言葉である「きみの調べていることだがな・・・」の続きが何だったのか、それを聞きそびれたことに不謹慎ながら先程の地震を恨んだ。
それと同時に、昨晩収穫した五冊とはまた別の、まだ土蔵の京葛籠に入ったままの他の日記帳を読みたくなっている自身の嫌らしい欲求が沸き起こったことに気がついた。
そのあとキチンとした普段着に着替えてから、同フロアの二階にある洗面所で顔を洗い、身なりを整えたあとに一階の居間へ降りたが、そこには当然だが祖父の姿はなく、ただ祖父が決まって座っていた席に、窓から一直線に朝日が差し込んで祖父誠司の席を照らしていたのが、真希は妙に印象的に感じていた。
居間を抜けて食堂へ入ると、すでに多江が働いていた。
「あら、真希ちゃん、おはよう。よく眠れた?」
「おはようございます。うん。もうご飯の支度をしてくれていたの?ありがとうございます」
「さっきの地震、少し揺れたわね。でも栃木で震度三程度だったみたいだから酷くなくて良かったわ」
そんな話に誘われたかのように、祖母の美由紀も真希のあとに食堂へと入ってきた。
祖母とも朝の挨拶を済ませたが、とっさに先ほど見た祖父の夢の話をしたくなった。
が、しかし無意識に真希は口を紡いでしまった。
昨晩の会話の流れからして、今の祖母と多江に「祖父」とか「初恵」というキーワードは封印した方が都合が良い。
直感的にそう思ったからだった。
~~ 隠された日記帳 ~~
真希は思った。さて、今日は更に別の祖父の日記帳を調べてみることにしようかと。
北鎌倉に里帰り中なのだが、同級生に会うとか何かしたいことも特別に行きたい所も無かったし、あまり外を出歩くという行為は慎みたかった。
多江は午前中に大船の自宅へ帰っていった。また夕方には来てくれるようだが、忍んで祖父の日記帳を読みたい真希にとって、多江の帰宅は都合が良い出来事であり、更に好都合だったのが祖母も用事が出来て外出するとのことだった。
おかげでこの日は本格的に祖父の日記帳を調べることが出来る。
そんな悪知恵に近い企みと共に、真希は人の目を盗むことに快感を覚えてしまっていた。
「おかしいなぁ」
真希は早速、土蔵の二階にて祖父の日記帳を調べ始めた冒頭で、いきなり大きな疑問にぶち当たったのであった。
まず数十年分ある日記帳を年代別に並べて、時系列で読んで追っていこうと思っていた。
ところが、ある年から二年分の、つまり二冊分の日記帳が見当たらないのだ。
それは今から五十年も前に書かれた古い物であった。
その前後の日記帳を開いてみたのだが、当時の事件や事故に対しての祖父の見解だったり、やはり内容は特別変わった点はない。
今日も天気が良く土蔵の二階は少し蒸し暑いからか、真希の額には薄らと汗がにじんでいた。
その汗は暑さから出た汗なのか冷や汗なのかどちらか分からなかった。
真希の言いようのない不穏な心持ちが発汗させたのかも知れない。
一体この日記群から欠落した二冊はどこに行ってしまったのだろう。
この二冊が、ひょっとしたら「祖父」と「初恵」の関係性の謎を解く鍵が隠されているのかもと、ぼんやりとだけ想像がついただけに、口惜しい気持ちが抑えられなかった。
しかしその二冊の日記帳の在処は、真希は何となく察しがついていたのである。
彼女は土蔵を出てから誰も居ない屋敷へと戻った。
無意識に近い歩き方をして、考え事をしながら祖父の書斎へと向かったのである。
真希は常々疑問に思っていたことがあった。
亡くなった祖父を感じられるからだろうと思っていたのだが、真希は祖母がいつも祖父の書斎に居ることを不思議に思っていた節があったのだ。
この部屋には何かあるのであろうか。
そんな毒気が彼女の心の奥底に数年前から浸透しているのは自分で大いに自覚していた。
祖父の書斎には鍵がかかっていなかった。
これは当たり前なのだろう、祖母が居る時でさえも鍵など一度もかかっていたことは無かったから。
書斎にはいつもの通り暗紅色の絨毯が広がっている。
電灯を点けていないせいか書斎がやけにどんよりと暗く見えたのは、今の真希の心理状態の表れのようだった。
日記帳があるとしたらこの部屋だと、彼女には根拠のない自信があった。
真希は今度は本物の泥棒にでもなったかのように書斎の机や引き出し、本棚などを日記帳を求めてあさり始めた。
数十分間探しまくったが、日記帳は見当たらなかった。
血眼になって視覚を酷使し過ぎたのだろうか、急に窓の向こうの緑色の景色を欲した真希は、ふと中庭へ視線を逃したときハッとした。
祖母がいつも腰掛けているウォールナット材の安楽椅子が視界に飛び込んで来たのである。
椅子には大きめな黒のビロードに金色の鳳凰のような刺繍が施されたクッションが置かれていたのだが、彼女は何の迷いもなくそのクッションを宙へ放った。
本革張りで胡桃色の分厚い座面が出てきたが、彼女はこの座面を当たり前のように、乱暴かつ強引に引き剥がした。
「あった!」
真希はこの安楽椅子に隠されている欠落していた二冊の日記帳を発見したのであった。
根拠のない自信があったクセに、真希は実際には心底から驚いてしまっていた。
第3話 祖父の日記
~~ 初恵の登場 ~~
一九XX年五月二十五日
『宗佑さん一家が我が家にやってきた。会うのは何年ぶりであったろうか。宗祐さんは老けたが元気そのものだった。小さかった初恵ちゃんはもう十六才になっていた。初恵ちゃんは俺と同じ五月二十日生まれで、俺が二十才の時に誕生した娘だった。この夏、横須賀から我が家の隣に越して来るらしい。妻は何やら複雑そうな表情だったが、俺は生活が賑やかになる分は歓迎だった』
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
祖父誠司の日記に「初恵」という言葉が出てきたのはこの日が初めてだった。
「宗佑」とは「初恵の祖父」のことである。この人物もかなりの財力を持つ実業家だった。
真希の祖父はこの頃から北鎌倉に住んでいたが、今の屋敷がある場所ではなく、当時の住所はもう少し鎌倉寄りの、亀ヶ谷の切り通しの入り口付近にあったらしい。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
一九XX年七月十五日
『宗佑さん一家が越してきた。これで俺の仕事も拍車が掛かるであろう。宗佑さんは忙しかったのだろうか。桐絵さんと初恵ちゃんの二人だけが夕方に挨拶に来た』
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「桐絵」とは宗佑の娘で「初恵の母親」のことである。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
一九XX年七月二十日
『初恵ちゃんがビスケットというお菓子を持って来た。私が焼きましたので宜しければお食べになって下さい、との事であるが、食べてみると御当地銘菓のサブレーの様な、とても香ばしくて美味いお菓子であった。あの小さかった子がお菓子を作れる年齢になったのかと、懐かしくもあり感慨深い気分になった』
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
真希の推測だが、恐らく宗佑と誠司は同業の不動産業で提携し、事業を拡大していったようであった。
宗佑が越してきたことで、誠司の事業にも更に勢いが付いてきていると読み取れる文面が多々見受けられたからだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
一九XX年八月十日
『今日は仕事が早く片付いた。もう少しで自宅という時に激しい夕立ちが。駅付近の小店の軒先で初恵ちゃんが雨宿りして居たので車に乗せて送ってあげた。しきりにお礼を言って来たのだが、お隣さん同士だ。にしても本当に礼儀正しい娘になったものだ』
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
この当時から車に乗っていたとは!と感心している場合ではなかったが、誠司と初恵の距離がこれから近くなってくるのだろうことは確かだと真希は感じた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
一九XX年八月十一日
『初恵ちゃんが昨日のお礼にと、またビスケットを焼いてくれた様だ。俺が留守の時に妻が受け取ったらしい。妻は無愛想であったに違いない。初恵ちゃんが嫌な気持ちになってはいないか心配になったが、やはりビスケットは香ばしく美味かった』
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
一九XX年八月二十二日
『今日は朝からやけに蝉がやかましい。宗佑さんの家で仕事の打ち合わせであったが、お隣へ行くのも勇気が要るような、そんな炎天下であった。打ち合わせの途中わざわざ初恵ちゃんが冷やしカフエを出してくれた。俺は自分が使っていた団扇で、悪戯っぽく彼女をあおりながら茶化した後、この間のビスケットの礼を言った。初恵ちゃんは頭のてっぺんから結いこぼれた数本の長い髪を揺らせながら、とても照れくさそうに目を細めて笑った。真珠色をしていて右側だけがやけに目立っている糸切り歯を俺に覘かせていた。額は少し汗ばんでいた。暑さとはまた別に丸い頬を桃色に染めている様だった。彼女はとても可憐な娘になっていた』
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
真希はここまで読み、誠司と初恵の間に、何やら特別な感情が湧き起こっていると察しがついた。
しかし、この二人は遠いながらも血縁関係にあるのだ。
誠司の祖母と、初恵の祖父の宗佑は姉弟である。
「まさか・・・まさかだよね」
真希は日記帳を読み込んでいく度に、ドクンドクンと心臓がおかしな動悸を弾き出していることに気付いた。
~~ 揺れ動く想い ~~
一九XX年九月二日
『朝、起きて外の景色を眺めていた。初恵ちゃんが学校へ向かう所だった。侍女と二人で俺の家の前を横切っていた。彼女は二階の窓辺に居る俺に気が付いた様だった。ニコリと斜めに会釈をしてくれた。俺がどんな面をして手を挙げて応じていたのだろうかは知らない。しかし俺は今日一日をあの笑顔で乗り越える事が出来たと今思った』
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
一九XX年九月五日
『外側に切れ上がった幼猫の様な大きな瞳。絹の様に艶やかで純白な肌。潤いに満ち満ちしている玉結いの青黒い髪。今にも折れそうな枯れ木の様な痩躯。俺は彼女の事が頭から離れなくなっている。日頃の仕事を漫然と処理してしまうのだ。何故、自分の家族よりも彼女の事を思ってしまうのだろうか』
一九XX年九月六日
『もはや病なのだろうか。いいや俺は大人である。そんな幼稚でもあるまいし、今さらこの様な恋心など生まれるはずも無い。落ち着け、落ち着くのだ。毎日毎日俺は自分にこう言い聞かせ続けている』
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
一九XX年九月十日
『朝、普段の時間に目が覚めたが、何かを感じて直ぐにカーテンを開けた。外に初恵ちゃんが立って居た。明らかに俺と目が合っていた。まるで一晩中泣き明かしたかの様に、その大きな瞳は真っ赤に腫れていた。彼女は明らかに俺に何かを訴えようとした様だ。慌てた侍女が彼女を連れ戻しに来た。あれは一体何だったのだろうか。そしてこの動悸は、俺の動悸は何を意味しているのだろうか。今日は一日中仕事が手に付かなかった』
一九XX年九月十一日
『彼女は昨日、何故あんな目をしていたのか。思い起こせば、宗佑さん宅に住み込みで居る年頃の奉公人、姓は確か森下といったか。俺は突然、その男に初恵ちゃんの純朴を汚されたのではと憤った。この筆を持つ俺の手が震えている。例えようのない脅迫と不安を感じていた。これはただの俺の妄想に過ぎないのに。今日はウヰスキーでも飲んで早く眠る事にする』
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
この連日の文面から、誠司の初恵に対しての感情が恋愛に到達していたことに真希は何の疑いもなくなっていた。
それにしても、初恵の感情が今ひとつ理解できないことに真希は少々苛立ちを覚えていた。
初恵の心が誠司に惹き込まれてしまうような、彼との接点はそこまで多くはなかったはず。
なのにどうして初恵が誠司に惹かれていったのか、真希は甚だ納得ができていなかった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
一九XX年九月十三日
『野良犬が死んでいた。朝の散歩中、屋敷裏の林道での出来事だ。だが野良犬の死骸など俺にはどうでも良かった。何故ならその野良犬の傍らに初恵が座り込んで居たからだ。羽織から伸びる彼女の襟首は、簡単に折れてしまいそうな程にか細く、俺に強い悲壮感を感じさせた。はっと振り返った初恵は立ち上がって、薄く笑って「おはようございます」と小声で言った。羽毛の様な睫を伏せ、前の様に片側に軽く首を傾げる会釈をしてその場から小走りで去って行った。どうして彼女が野良犬の死体を眺めていたのか、俺は最後まで解らなかった』
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
一九XX年九月十五日
『出張で静岡に来た。旅館の風呂も料理も良い。女将に酒を追加させたのは良いが、既に俺は酔っている。先程、ロビイで初恵に似た仲居を見た。勿論、初恵がこんな場所に居る筈も無い。現に似ても似つかぬ女だった。そうだ、土産に安倍川餅でも買って帰ろう。早く初恵に逢いたいものだ』
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「初恵ちゃん」から「初恵」へ呼称が変わった。
そこから誠司の感情の変化も読み取れた。
日記からは、もう妻や子供といった家族への言葉が消えていた。
真希は、誠司の妻である祖母の美由紀、そして誠司の子であって真希の父親のことを全く意識しなくなった誠司のことが、無性に憎たらしくなってきた。
真希はそれと同時に、祖父がここまでも惹き付けられてしまった初恵という少女が、一体どんな人間なのかをどうしても知りたいという非常な興味が湧いてきた。
初恵は写真も残っていない、目にも見えない存在なのだが、真希も初恵に対して言いようのない関心を抱いてしまったのだった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
一九XX年九月十九日
『今朝ラヂオで臨時ニユースが流れた。関東軍が中国の満州で軍事行動を発したらしい。これから日本は戦争に入るのだろうか。俺の事業は軌道に乗り始めている。鬼が出るか蛇が出るか。そんな話を持ち込んで宗佑さん宅へ出向いた。さりげなく初恵に静岡の土産を渡した。大層喜んでくれたのが何よりだったが、帰り際に玄関にて、そっと手紙を渡された。手紙を渡した時の初恵の表情は、まるで桃色の芍薬の花の様だった。俺はまだ、その手紙を開封していない』
~~ 時の欠落 ~~
日記をめくる真希の手にずっと前から違和感があったが、その違和感の正解がようやく解った。
九月十九日以降のページがごっそりと切り取られていたのだ。
その先のページが全て無くなっていた。
つまり一九XX年の日記は九月十九日を最後に終わっていた。
異様な感覚に襲われた彼女は、すぐさま翌年の一九XX年の日記を手に開いたが、見返しをめくった時点で同じ違和感を感じ、ことを予見することができた。
そう、その年の日記の一月十五日までが切り取られていたのである。
前と同様にナイフかハサミのような鋭利な物で綺麗に切り取られていた。
どうして切り取られているのか?
誰が切り取ってしまったのか?
切り取られたページはどこへ行ってしまったのだろうか。
初恵の手紙の内容とは一体何だったのだろうか。
真希は仕方なく、一九XX年一月十六日からの日記を読み進めてみた。
が、それ以降は初恵の名どころか、宗佑の名前すら登場すること無く、その年の日記は終わっていたのである。
真希の顔には無情にも、古びた日記帳のカビた匂いだけが無駄に押し寄せていた。
ただひとつ言えたのが、一月十六日以降の日記の内容は、戦争のこと、事業のこと、それ以外の事柄は一切書かれておらず、家庭のこと、趣味のことなど、プライベートな内容は皆無であり、無機質に感じるほど淡泊な内容になっていた。
同様に、祖父の筆跡は以前よりも明らかに弱々しいものになっていたのである。
謎は深まるばかりなのに、完全に頓挫してしまった。
彼女は、もうこれ以上の追跡は不可能なのかな、と声にもなっていない空気を吐いた。
その刹那だった。
「真希ちゃん、そこで何をしているの?」
真希の全身の毛穴が一気に開き、一瞬呼吸が止まった。
真希は自分が祖父の書斎にいることをすっかり忘れて日記を読みふけってしまっていたのである。
「わ!おばあちゃん、帰っていたの?」
「ええ・・・それを読んでいたのね、よく分ったわね、そこにあったの」
鼈甲の眼鏡の後ろにある祖母の冷め切った軽蔑の眼差しは、明らかに真希に向けられていた。
彼女が今まで味わったことのない、感じたことのない、不気味なまでに獣がかっていた祖母の眼光はかなり厳しいものだった。
~~ 交錯 ~~
が、しかし、祖母の憤る感情と同等に、真希の心にもそれはあったのだ。
それもそうだろう。
真希当人からしたら、処分したと聞いた祖父の日記の山が土蔵から発見されるし、抜けた日記帳はいつも祖母が座っていた安楽椅子に隠されていた。
極めつけは日記の内容である。
祖父の誠司が、こともあろうに親戚の少女に恋心を抱いてしまうという文面は、真希をいらだたせるには充分な内容だった。
「おばあちゃん、どうしてこの日記をこんな場所に隠していたの?それに、おじいちゃんのこの日記の内容って・・・」
祖母の美由紀は、さっきまでの敵意剝き出しと違って、急に我に帰ったように落ち着きを取り戻し、ぽつりと言った。
「仕方がないのよ。好きになってしまったものは、もう誰も止められないものなのよ」
真希は胸がギクッとした。
美由紀は、真希が日記を読んで内容をどう解釈しているのか悟っていた。
さっきは真希が封印したが、真希に初恵という存在を知られてしまったことも認識した。
それを踏まえ、続けて祖母はこう言った。
「おじいちゃんとあの娘は、どうもしようがなかった・・・今となってはそれだけのことよ」
「え、やっぱりそうだったの?おばあちゃん、初恵と、いや・・・初恵さんとおじいちゃんってその・・・」
真希は、これまで生きてきた二十五年間に抱いた、祖父誠司のイメージをバラバラにする過程にいた。完成されていたジグソーパズルを爪を立てて搔きむしるように。
そしてそこから先は、言葉が出てこなかった。
「もう全部読んじゃったの?」と美由紀。
「うん、あらかた」
「そ」
「あの・・・初恵さんって、今もまだ生きているの?」
真希の興味は誠司と初恵の関係性と、どうしてこの日記だけを安楽椅子に隠したことかにあったが、初恵の名を封印したさっきと同じように、これも祖母にとってはジョーカー的のような存在だと危惧したため、初恵の存命確認だけに転換した。
「とおっくに死んだわよ。自宅で火事が起こってね、巻き込まれて死んだの・・・そう、一九XX年にね」
「えっ?一九XX年に火事で?・・・そ、そうだったんだ」
その年は、真希がいま手に持っている途中まで切り取られた日記帳の年代だった。
真希は一瞬、足がすくんだ感覚を覚えた。
「おじいちゃんのことはね、ほんの一時の出来事だったと、私はそう納得したの。だって会社を、この西条家をここまで大きくして下さったのは、おじいちゃんですからね。そのくらいのこと私が目をつぶらないと罰が当たっちゃうでしょ」
その言葉が本気ではないことくらい、真希には容易に想像ができていた。
「ところでさ、この日記の切り取られた部分ってどこへ行ってしまったの?」
真希は手元の日記帳の切り取られた部分をパカパカして美由紀に見せた。
「え?切り取られてたの?・・・さぁ、それは知らなかったわ」
「え、じゃあ誰が・・・おじいちゃんが自分で切り取ったのかな」
真希は日記帳の表紙をさすっていた。
祖母の美由紀は中庭の方を眺めながら、ため息混じりにこう言った。
「やっぱり本当に全て捨てておけば良かったわね。孫にこんな恥ずかしいことを晒すことになってしまって、おじいちゃんに怒られちゃうわね」
美由紀は真希の手から日記帳をそっと取り上げた。そしてその二冊の日記を祖父の机の引き出しの奥の方にしまった。それから床に転がった安楽椅子のクッションを元に戻して、お茶を入れるからおいで、と真希の肩にそっと優しく手を置き、先に書斎から出ていった。
書斎に残された真希は、コソコソと土蔵や書斎にあった日記帳を読みあさっていたことに強い罪悪感を感じていたが、美由紀が優しく手を添えてくれたことで、少し安心したのが正直な心持ちだった。
初恵が誠司に手渡した手紙。
切り取られてしまった祖父の日記の一部。
これらの内容は、永遠に私は知ることができないのか、とそう落胆していた真希であったが、それは意外にも簡単な場所に隠されていたのであった。
第4話 初恵の手紙
~~ 黄昏と巻き鍵 ~~
真希は二階の自室から、夕暮れ時の庭をボンヤリと眺めていた。
今にも庭木の隙間から初恵がひょっこりと現れるのではないかなどと、幻覚めいた感傷に浸っていた。
気が付けば、すっかりと辺りは薄暗くなっている。
身体が少し冷えを感じて口が渇いてきた真希は、なにか温かい物でも飲もうと食堂へ向かう階段を降りていた。
途中、懐かしく彼女の鼓膜を震わせていたのは、またしても撥条仕掛けの柱時計の鐘であった。
真希は幼いころ撥条時計のネジを巻くことに憧れを感じていた。
子供だった彼女には一切触れさせてもらえなかったが、屋敷の使用人の老人が踏み台に乗ってギーコギーコと、何とも心地良い音を立ててネジを巻いていたのである。
真希が特に興味深かったのは、ネジ巻きに使う巻き鍵そのものにあった。
指を入れる部分のカギ羽根には蔦の細工が施されており、十センチほどのカギ軸がトンボの胴のように伸びていた。
ある日また使用人がネジ巻きをする様子を食い入るように見ていた彼女に、祖父の誠司が一つの小箱を差し出した。
彼女はその箱を開けてみると、中に巻き鍵が入っていた。
そう、誠司は鍵付きの小箱を真希にプレゼントしてくれたのである。
「あっ!」
真希はその箱に祖父からの手紙を大切に保管していたのだが、この屋敷を出て行くときの祖父との会話と、その小箱を置いて出たのを思い出した。
「真希、これからきみも独り立ちして立派な大人になるんだな。たまには手紙でも書いて送るよ」
「ありがとう。あ、そうだ。あの箱をいつもの場所に置いていくから、その中に入れておいてくれない?帰った時に読むことを楽しみにしておきたいからさ」
「あぁ、分かった、入れておくよ」
一年後に誠司が亡くなったとき、真希はその箱に鍵をかけて、それ以来開いていない。
その箱は彼女にとってとても大切な祖父との思い出の品であるが、箱の巻き鍵は革製のキーケースに入れて自分の家の鍵と共に常に持ち歩いている。
そして、あの小箱の在処は祖母の美由紀でも知らない場所に置いてある。
祖父と真希しか分からない特別な場所に隠してあるのだ。
このことは本当に彼女と祖父の二人だけの秘密であるゆえ、ここに記すことはできないことを予めご了承していただきたい。
~~ 発見 ~~
真希は秘密の場所から小箱を持ち出し、再び自室へ戻った。
祖父からもらったままの変わらない小箱が真希の目の前にある。
久しぶりに巻き鍵を鍵穴に差し込んで、ガチャリと金属的な気持ちの良い感触が手に伝わってきた。
真希が帰省の度に読んでいた懐かしい誠司からの手紙がたくさん入っていた。
一、二通久しぶりに読み返してみたが、手紙には祖父の活字がまだそこに生きていた。
真希は少しだけ涙が出た。
「あれ?」
重なっている手紙の奥の方に、とても古びている封筒が角だけを見せていた。
真希は不思議に思って引き出してみると、時を経てだいぶ黄ばんではいるが、何とも可愛らしい動物の紙細工が付いた封筒があった。
真希は一瞬で、これは初恵からの手紙だと直感した。
(なぜこんな所に、どうして祖父は初恵の手紙を私の箱にかくまったのだろう)
まず心の中心にはそんな疑問もあったが、真希は手紙の内容の方が気になって封筒の中から逸る気持ちで折り込まれていた数枚の便箋を引き抜いた。
その便箋には、とっても小さな文字が丁寧に書き連ねてあった。
便箋は少々の傷みはあったものの、読むのには大丈夫そうであったが、何せ祖父の日記と同様に昔の人の書いた字は解読が難しい。
しかしそんなことよりも、真希は初恵の肉筆に出会えたことに心が激しく躍っていたのであった。
~~ 初恵の手紙 ~~
謹啓
白露の候。
暑さも和らぎ過ごし易くなって参りました。
貴方様は憶えておられないと思いますが、あれは私が四歳の頃であったと思われます。
貴方様は私の家に遊びに参られました。
私がひとり、お庭で遊んでいた時に、一本の大蛇が姿を見せたのです。
大声で驚いている私に、貴方様が一目散に飛んでやって参り、私を抱き上げて大蛇を追い払って下さったのです。
幼き頃に父を亡くしている私にとって、貴方様に父親の逞しさの残像を感じ得ていた、そんな気が致します。
貴方様は憶えておられないと思いますが、あれは私が六歳の頃であったと思われます。
貴方様が大変お美しい許嫁を私の家へお連れになられた時、私は格別に胸痛が酷くなったのを記憶してございます。
その日の事でございました。
貴方様は屋敷の裏庭で死んでいた一匹の老猫の遺骸の前で、立ち尽くしてございました。
私が、悲しいのですか、と尋ねますと、貴方様は、いいやコイツは天寿を全う出来たのだから幸せであったろう、さあ行こう、と言ってから私を抱き上げて下さいました。
私は訳も解らず貴方様の首根っこへ夢中になってしがみついた記憶がございます。
何とも形容しがたい頼もしい香りが、未だに私の額あたりに残っております。
その後の人生、街で見かけた野垂れ死にの犬猫の遺骸ですら、私にとって大切な思い出の欠片と変わっていったのです。
毎年元旦に来る年賀状を、郵便配達員から受け取るのが私の務めでございます。
貴方様の直筆を、毎年毎年どれだけ心待ちにしていた事でしょう。
御多忙中でも貴方様は毎年、御自身でお書きになられてましたね。
御爺様の名前、私の母の名前、そうして私の名前。
貴方様が書いた私の名前の筆跡を、私は指でなぞり、貴方様との一体を感じるのです。
私の事を、貴方様がお忘れになっていない事が確認出来る。
これは非常に喜ばしい機会ではございましたが、それと同時に、貴方様の御家族の銘々を拝見する度、申し様の無い程の胸痛にも苦しめられる時間でもございました。
運命の悪戯とは残酷なものでございます。
まさか、貴方様の御屋敷の隣に住まう事になろうとは、思ってもみませんでした。
貴方様の傍に寄れる歓喜と、貴方様の御家族との生活を羨まなければならない絶望。
貴方様に愛されてございます奥様と、その愛の結晶である御子息は、そこらの野垂れ死にの犬猫の遺骸と同様、私に鬱を予感させ、愛情を渇望させるのでした。
よく解ってございます。貴方様には奥様と御家族、それに地位もございます。
何と申しても私と貴方様には血の繋がりもある間柄にもございます故、これが叶う事の無い非常で有る事も、ようく解ってございます。
ですが如何でしょう。
此処に来てからと申すもの、その非常が、抑えきれない激情に姿を変え、私めを飲み込み尽くす事が多くなって参りました。
何故これ程まで苦しまなければならないのでしょうか。
私にとり、掛け布団は貴方様の様でございます。
夜な夜な私は貴方様に暖かく包まれている事を空想させ、容赦ない激情が、掛け布団の中の私を窒息させる程、気を狂わせるのでございます。
大きな掛け布団に、私は幾度も抱かれておりました。
失敬。この手紙でお伝えする事は本来これではございませんでした。
御爺様より、或る方との縁談話が持ち上がりました。
私より十ばかり年が上の大阪の豪商の御子息で、その方は地位もある立派な方と聞いてございます。
私は泣きに大泣きをして、御爺様に無礼も承知に反抗致しました。
ですが、私が想いを寄せる貴方様の事を口に出せる筈もございません。
私は、来春にも大阪へ発つ事になりました。
私はどんな形であっても、貴方様の傍を離れたくはございません。
例え毎晩、掛け布団との激情に苦しんでいても、貴方様のお傍を離れるよりは増しでございましょう。
何故、私はもう少し早くに生まれて来られなかったのでしょうか。
大袈裟に言ってしまえば、死んでしまった方が楽でございましょうが、生憎私にはその様な勇気も無く、ただ川を流れる落ち葉の様に、時の最果てへ流々と運ばれる迄でございます。
我が儘でございましょうが、どうかお笑いにならないで下さい。
ほんの小娘の初恋話でございますから。
謹白
~~ 牛鍋 ~~
まるで真希は、自身が初恵から受け取った手紙を読んでいるかのように、自分に向けられている愛情だと思い違いをしてしまうほど動揺し、ドキドキと動く心臓の鼓動が鼓膜に響き渡って、パンパンになった後頭部の血管が脳みそを締め付けて頭痛を生みだしていた。
この手紙の内容から察するとすると、つまり初恵は幼少期から祖父のことを想っていた訳で、いわば彼女も誠司への禁断の愛に苦しんでいたとみれる。
しかし、初恵は祖父の誠司にこの手紙を手渡したあと、火事で亡くなってしまった。
「?」
初恵の便箋が入っていた封筒の中に、明らかに真新しい紙切れが入っている。
真希はその紙切れを、人差し指と中指をピンセットのようにしてつまみ出した。
「真希、土蔵の古箪笥の床板を剥がせ」
その字は紛れもなく、真希が読み慣れていた誠司の文字であった。
ゾッとした寒気が彼女の背中を伝った。
祖父は死する前に、真希が初恵の存在を知り、彼女がこの小箱まで辿り着くことを予見していたのだろうかと動揺した。
誠司は自身の死を意識したのち、真希に内緒で初恵の手紙とこのメモ書きを小箱に入れたに違いない。まるで祖父に導かれているようだと、真希はこの時そう思うしかなかった。
真希が残している謎は、一九XX年の九月十九日から一九XX年の一月十五日までの切り取られた祖父の日記のありか、それとそこに書かれているであろう出来事だった。
祖母の美由紀は知らないと言ってはいたが、真希はその言葉をまるで信じられなかった。
あの日記を切り取ったのは、祖父本人であると仮説を立てると答えは簡単だっただからだ。
初恵と誠司との間柄を疎んでいた美由紀がもし切り取って処分するのであったならば、祖父の日記帳に初恵のことが書かれている部分の、その全てを切り取るはずだからだ。
それにわざわざ一部の日記帳を安楽椅子に隠したりせず、それこそ祖母が言っていたように全てを焼き捨てていたはずだと、真希はずっと考えていたからである。
誠司も美由紀もあえて日記帳を全部残しているのには、それなりの理由があったはずだ。
それをなぜ真希に知らせたがっているのか、そこはいくら考えても謎だった。
真希は、もう外は暗くなっていたが、土蔵に向かうために玄関へ降りた。
「あら真希ちゃん!ちょうど呼びに行くところだったのよ、夕ご飯の支度ができましたよ」
「あれ、多江さんいつの間に戻っていたんですか?あ、ちょうど私も食堂に行こうと思っていたところだったの」
またしても多江と玄関でバッタリと会ってしまった真希だったが、ひとまず怪しまれるのも不本意なので、軽くごまかして素直に食堂へ向かうふりをした。
先ほどの祖父の書斎での出来事もあって、祖母と顔を会わせるのには気まずい感じであった真希だが、この屋敷にいる以上は決して避けては通れない道であるからして、グッと唾を飲み込んだ。
真希が見る限り、明らかに祖母はいささか気落ちしているようではあったが、そんな時はやはり多江の存在は大きく、三人での食卓は特別落ち込んだものにならずに済んだ。
今晩は多江の大好物であるすき焼きで、昨晩と同様に三人共々お酒がすすんだのだが、真希は祖父が残したメモ書きに書かれていたことが気になって頭から離れずにいた。
その影響なのか、この日はなかなか酔うことはできなかった。
気が付けば夜十時の鐘を、遠くの撥条時計が普段通りに鳴らしていた。
「あら、もうこんな時間。お姉さん、お先にお風呂にしてくださいな」
「そうね、でも今晩は少し飲み過ぎたかしら。もう少し休んでから入るから、多江ちゃんお先にどう?」
姉がこう返すと妹は「私は鍋やらの片付けをしてからにしますから、そうよ、真希ちゃんが先に済ませちゃってくれない?」
結局、真希が先に風呂に入る流れとなってしまったが、彼女としてはむしろこの方が都合が良かった。
さっさと風呂を済ませた真希は、先ほど風呂に入った祖母の美由紀、食堂で片付けをしている多江に怪しまれることなく、こっそりと土蔵に向かえたのだった。
~~ 三たび土蔵へ ~~
真っ暗闇の中に重々しくたたずむ土蔵の前まで行った真希は、昨晩には感じ得なかった少し不気味な雰囲気を拭えなかった。
酔い方が昨晩よりも浅かったのもあると思うが、何やら、ことの真相に近づいている緊張感が彼女にそう思わせていたのか。昨晩のような、酔った勢い的な開き直った感じは少しもなかった。
気が付けば真希は、土蔵の中の祖父が示した古箪笥の前に居たが、真希の背丈の半分程度の高さのこの古箪笥を眼前に、何となく昔からここにこの古箪笥が有ったことを記憶していた。
古箪笥の中身は空っぽなのだろう、彼女ひとりで動かすには造作なかった。
祖父のメモには「古箪笥の床板を剥がせ」と書いてあったが、それも簡単なことだった。
土蔵の床は、縦一メートル、横二十センチほどのケヤキ材が敷き詰められている作りであるため、そう難しいことはなかったのである。
よほど古くから置いてあったからか、古箪笥があった場所だけが若々しいケヤキの無垢が顔をのぞかせていた。
案の定であった。
床板をめくり上げると、そこには大きめな茶封筒があった。
その中には、切り取られた祖父の日記が白い和紙に包まれた状態で眠っていたのである。
一体これには何が記されているのか。
祖父は何を真希に伝えようとしているのか。
真希は懐中電灯を古箪笥の上に置き、その灯りを頼りに、切り取られた誠司の日記の切れ端が入っているであろう、白い和紙の包みを開いた。
第5話 聖夜の過ち
~~ 切り取られていた祖父の日記 ~~
一九XX年九月二十日
『初恵からの手紙は未だに開封はしていない。これからの日本の先行きに、世間でも専ら戦争の話題で持ちきりなのもあるが、俺に開封させる勇気がないからだ。しかし、そんな戦争の話よりも、初恵の手紙の内容が気になって仕方がなくなっている俺も居る。やはり、今日も仕事が手に付かない』
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
一九XX年十月十五日
『毎日の仕事が烈火の如く忙しい。気が付けば初恵の手紙を開封せずにひと月も経とうとしている。初恵も最近は姿を見せていない。だが隣の様子を見るからに、元気にやっている事は想像出来た』
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
一九XX年十月十七日
『俺の心の中から初恵の事を遠のかせる程、毎日の日々は忙しかった。それは俺にとって背徳感を和らげてくれた。つまり多忙が特効薬となって感情を中和させてくれていた訳だ』
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
当時の誠司の日記からは、仕事の忙しさと殺気立つ戦争の動乱の風に、初恵に対しての情愛が霞み始めていたことが読み取れた。
しかし初恵からの手紙を既に読んでいる真希にとって、初恵の誠司に対する感情は、当時の誠司とは逆に狂気をはらんでいることから、のちに控えている初恵の死の不気味さが、より一層彼女の双肩に重くのしかかり気持ちを暗くするのだった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
一九XX年十月二十日
『久しぶりに初恵を見た。昼に一旦、北鎌倉に戻った時だった。以前、車に乗せた店の前である。まるで影の様な羽織でも着ているのかと間違えてしまうくらい、彼女は暗く、重苦しい何かを背負って、ぽつりぽつりと道端を歩いていた。それよりも俺は、初恵が真っ赤な紅を塗っているのを見るのが初めてであった事とと、そんな初恵に強烈な色気を感じてしまった事が今も両眼から離れず、俺に複雑な欲求を突き起こしてならなかった。その日は車には乗せず、彼女の横を追い抜いていった』
~~ 雨 ~~
一九XX年十月二十九日
『夕刻、大雨の中を家に戻ると、全身濡れ果てた初恵が門前脇に立っていた。俺がどう何を聞いても初恵は何も答える様子は無く、じっとうつむいたままだった。宗佑さんの屋敷へ連れようにも彼女はびくとも動く気配は無く、俺は石仏でも相手にしているのだろうかと錯覚してしまう程、初恵の意志は重く感じた。気が付けば、俺は初恵を抱きしめていた。この冷たい雨である。初恵は小刻みに震えていた。抱き寄せたと同時に庭先の灯籠の影に彼女を引き込んだのは、いくら暗がりであっても周りからの人目を恐れていたからだろう。自分の雨外套を開いて初恵を懐に隠し入れ、しばらくその場に居た。黙っている初恵から少し温もりを感じたのは、俺の胸元に彼女が出す吐息の温かさだった。人の吐息がここまでの暖を与える物だとは俺はこの時に初めて知った。初恵の額には艶やかな髪が雨で張り付いていて、濡れ浸っているその髪の隙間から、秋の名月の様に眩しく、愛らしい額が見えていた。気が付けば俺はその額に接吻をしていた』
一九XX年十月三十日
『俺は子供の頃に一人の少女に恋をしていた。彼女が持つハンカチイフからは、清潔感が溢れる薔薇露の香りが常にした。あの優しい香りは忘れもしない。昨晩帰宅した後、外套を脱いだ時の初恵の残り香がそれであった。あの後、初恵を屋敷へ戻した。既に屋敷では侍女や使用人達が騒ぎ始めていた。あの時、初恵は接吻の後、二三度呼吸を乱しながら少し震えていた。そして、あの時と同じ様に微笑して、まるで憑き物が取れたかの様に身軽な風になって、俺に連れられ屋敷へ戻ったのである。驚いた様子の侍女の一人が初恵を抱き抱える様に奥へと連れ行く時、玄関に立っている俺に向かって初恵が振り返り、恐らくだが「お手紙はお読みになりましたか?」と唇を動かしてから奥へ消えた。濡れた髪が邪魔をして初恵の表情の全容は分からなかったが、醸し出した雰囲気は、幼猫ではなく明らかに女性になっていた。この後、手紙を開封してみようと思う』
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ところがその翌日以降の数日間、日記には初恵のことは一切書かれていなかった。
それからしばらくして、ようやく初恵が登場したのは、ずいぶんと後のことであった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
一九XX年十一月十五日
『やはり誰かに見られてしまっていた様だ。先日の雨の日の出来事である。妻に朝っぱらから問い詰められたが、いやはや致し方あるまい。俺は初恵を好いている事に違いが無い。来月に東京の浅草で榎本健一が旗揚げ公演を行うらしく、初恵が見たい見たいと言っていた。そんな事を初恵が好んでいたとは意外ではあったが、何とかして都合を工面しなくてはならないところである』
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
初恵の手紙を読んだであろう誠司の気持ちは、明らかに彼女への恋心が再燃したようだった。
日記には初恵のことが書かれていなかったが、初恵と誠司は継続的に内密に会って縁を深めていることが察せられた。
だがそれが祖母の美由紀に悟られていたようだが、ある意味で開き直っているような、そんな祖父の居直った言葉使いが読み取れて、真希にとっては実に不快だった。
~~ 初恵の変化 ~~
一九XX年十一月二十日
『もし俺に妻や子が居なかったとしても、俺は初恵の事を愛する事が出来たのだろうか。遠い血縁者同士だったり、父と娘程の年齢の離れた物同士が婚姻する事なぞ、広い世間で何も珍しい話では無いはずだ。自分勝手は承知している。妻子だけでなく宗佑さんや桐絵さんにも罪悪感はある。しかしどうして俺は初恵の事で頭が一杯になっているのか。それよりも、初恵は大阪の某と結納をしたらしい。それを俺に伝えた時の彼女の横顔は少し誇らしげにも感じられ、俺は不覚にも強い嫉妬心を猛火させてしまった。一歩間違えれば、俺は初恵の純朴さえ汚し兼ねないと、同時に自らに恐怖した。やはり、初恵とは距離を置こう。置かねばならないだろう』
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
一九XX年十二月三日
『この寒さは身体にこたえる。師走に入って忙しさの真っ只中だったが、今日は昼過ぎで仕事を切り上げられた。早々に帰宅して、温かい風呂場に長く居た。夕食には温かい鍋を食した。疲れが取れ、鋭気を養えた。今日は早く床に就く事にしよう。初恵、俺も最近はこの掛け布団がお前なのである』
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
一九XX年十二月十四日
『明後日は初恵と東京浅草へ行く約束であったが、随分と顔を合わせておらず、彼女もこの事をもう忘れているのかも知れない。忘れてくれた方が俺にとっては悔しいが、迷いのある本心からすれば、その方が都合が良いに決まっている。だが初恵の縁談話も気になっている。直接会って話を聞きたかった。彼女はまた誇らしげに大阪行きを俺に話すのだろうか。考えただけでも胃の辺りがムカついてくる。俺の初恵への独占欲がそうさせているのか。妻子の居る身で随分とわがままな男である』
一九XX年十二月十五日
『初恵は浅草行きを憶えていた様だ。帰宅の時に門前の脇に彼女は立って居た。周りの目もあるので俺はそのまま車で通り過ぎてしまった。暗がりの中に初恵は立って居た。厚手の袷羽織に身を包み、藍色の御高祖頭巾をかぶっていた。頭巾の隙間からは見開いた大きな目が見えていた。少し逢わなかっただけであったが、更に痩せた様子に彼女が見えたのは、闇に浮かんでいる様に見えていたからでは無い。思い詰めた女の強い意志をその眼差しから俺は怖い位に感じ取っていた。明日俺はどうすれば良いのか。仕事の予定で東京に、と妻には虚語を伝えている。実際は仕事の予定など入っていないのだが』
~~ デート ~~
一九XX年十二月十六日
『朝、森の入り口へ。約束の待ち合わせ場所に初恵は立って居た。侍女を欺き、また少し誇らしげに、いつもの学校へ行く時の品の有る着物姿であった。やはり少し痩せた彼女が、眩い朝霧に包み込まれていた姿は、一旦遠くで車を停め、進む事を躊躇させる程に神々しかった。しかし近付くに連れて、昨晩の様な異様に強い眼力は彼女に無く、少しだけ大人っぽく化粧をした少女に、先に感じた神々しさよりも、生々しい女性を感じさせていた。後部座席に座った初恵は「何処か眺めの良い所に連れて行って下さりませんか」と言った。「浅草の榎本健一の舞台は良いのか」と何度も聞いたが、初恵は「はい」の一点張りであった。眺めが良い場所だとすれば、泡垂山になった。道すがら、特別に会話をする事も無かったが、車内に充満する彼女の薔薇露の香りが、俺の恋欲を更に駆り立てていた。昼前には二人で山頂から相模湾を眺めていた。冷えた潮風が頬を縮ませる。ふと初恵の方に目をやると、遠く江ノ島でも見ているのだろうか、両手を口に当て、寒さに耐え、ただただ黙って遠くを眺めていた。だが彼女のその瞳の輝きは、この冬空の如く、一片の曇りも見当たらなかった」
一九XX年十二月十七日
『宗佑さんが早朝に我が家に怒鳴り込んで来た。もう理由は分かっていた。昨日初恵を連れて出掛けた事が、やはり誰かに見られていた様だ。俺は初恵に対する愛情を隠し、ただただ誤魔化したてきたが、宗佑さんと側に居た私の妻の表情は、まるで山颪の様に冷たく乾ききった冷淡な目付きで俺を睨みつけ、俺の内心に巣くっていた欺心を切り裂いた。初恵は予定を繰り上げ、年末には大阪に発つ事になったらしい。宗佑さんは吐き捨てる様にその事を告げて我が家を後にした。妻は当然、今日も口を一言も聞いてはくれなかった」
一九XX年十二月十八日
『初恵の顔を思い出そうと必死に考えても一向に思い出せないのは何故だろう。俺達の仲を暴かれた、そんな罪の意識がそうさせているのか。俺は初恵の顔を思い出す事さえ許されないのか。街の喫茶で、長野から来た客と仕事の打ち合わせを進めていた。俺と膝を突き合わせている彼はその間、まさか俺が初恵の、彼女の顔を思い出そうと必死だった等と思ってもいなかったであろう。ただ俺が気になって仕方なかったのは、彼が昼飯に蕎麦でも食べたのか、笑う度に見える左の前歯にべったりとへばりついた海苔がどうにも不快で気持ちが悪かった』
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
一九XX年十二月二十二日
『初恵の家に立派な車が数台乗り付けていた。俺は自分の部屋からそれらを眺めていたが、初恵の許嫁がやって来た様子なのは簡単に理解する事が出来た。もう時期初恵は大阪に行ってしまうのだろう。何日に発つのか。俺が知る術はもう無い』
~~ 聖夜の過ち ~~
一九XX年十二月二十五日
『最近までの今日はクリスマス色で彩られる事が多かったが、戦争の影響なのか今年は静かなものである。クリスマスとは聖夜とも言われている。長風呂でのぼせた俺が屋敷の庭へ出て、納屋の近くで星空を眺めた。北の空に北極星が瞬いていた。ああ、あれは。もう手の届かない初恵の様に、当たり前だがやけに遠く感じた。そんな寂しさについ視線を逸らすと、十字架を連想させる北十字星。今日はクリスマス。あれを見て、イエスキリストに想いを馳せる人は今の日本にどれだけ居るのだろうか。そんな時に突然、俺は後ろから誰かに抱きつかれた。もう誰かを間違える筈も無い。俺の初恋の香りを纏う、そんな存在は唯一、もう初恵以外居ないのだから。細身の女とは思えない程の力強さだった。何とか身体を反転させた直後、あの雨の晩と同様に、初恵の顔は俺の胸の中にあった。視線を落とすと、初恵を抱きしめる俺の腕から初恵の張り出した腰へ、更にその先を見下ろすと、初恵は庭に出て来た俺を見るや否や、家から飛び出して来たのだろう。素足のままの踵が見えた。俺は無性に泣きたくなり更に力強く彼女を抱きしめた。しかしそれを上回る信じられない力で、初恵は俺を納屋の中に押し込んだ。聖母マリアは処女懐胎し、馬小屋でイエスキリストを産んだらしい。真っ暗で埃臭い納屋の中の俺達は、そんな聖なる夜に大きな罪を犯したのだった』
一九XX年十二月二十六日
『真っ暗な納屋の小窓から、青い月明かりが初恵を照らしていた。青白く透き通った初恵の薄い皮膚には、緩やかなあばら骨が水面の波紋の様に浮いていた。体温によっていつもより強く胸から漂う薔薇露の香りの中に俺は埋もれていた。冷え切った納屋の空気の中でも、初恵の芯部は情熱的な体温で温かく、それらの全てが俺を、いや俺達を狂わせて、欲望のままに溺れ沈んだ。どれ程の時が経ったのか、お互いの汗ばんだ身体が少し乾きかかった時、初恵は着物を無造作に羽織り、横座りになって、またいつもの様に微笑した。その姿は、聖母マリアと言うより、やはり観音菩薩を見ている様で、たとえ乱れた髪であっても、その姿は荘厳と言っても過言ではなかった』
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
祖父と初恵は結ばれた、という表現方法が正しいのか、この時の真希には分からなかった。
しかし、このとき二人が幸せであったことは間違いないだろうと、真希は思わざるを得なかった。
一度でも燃え上がってしまった愛炎は、簡単に消し去ることはできないのだろうと真希も同感してしまっていた。
そう、全てが燃え尽きてしまわぬ限り。
第6話 金切り声
~~ 純粋 ~~
十九XX年十二月二十七日
『あの聖夜に初恵がつぶやく様に言った。「二十八日には私は大阪へ発つ事になりました」と。その時の表情は果たして誇らしげであったのか暗がりで分からなかった。ただ俺の胸に、ぽたりとひとつ、生暖かい感触があった。それが直ぐに冷やされて、障子紙の様な薄っぺらな俺の心に丸く小さな穴を空けた。その穴から蜘蛛の様な格好をした「許されざる異形な虫」がカサカサと這い出して来た。するとその虫は、俺の胸元から甲高い声でこう語った。「おいお前、この娘と駆け落ちすれば良いではないか。お前ならば簡単な事だろう。遠くへ、この娘と駆け落ちすれば済む話じゃないか」と俺に問い掛けて来た。しかし、先程に気をやったばかりで物解りの良い少年の様な心になってしまった俺には、そんな言葉を真に受ける筈も無く、その虫を簡単に握り潰してしまった。初恵とは今生の別れとなる。もう平常心で居られる訳も無く、俺は今、浴びる様に酒を飲み続けている」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
この日の日記の筆跡は、誠司の心が乱れているが如く荒々しく書き殴ってあり、無気力を感じさせる程の、まるで敗者の弁のようであった。
この時、誠司は初恵を愛していたに違いない。そして初恵も同じように誠司を愛していたのだろう。
世間から見ればお互いに呆れるほど不純である。が、二人にとっては、これほどの純粋は無かったのだろう。
美由紀が言った「仕方がないのよ。お互い好きになってしまったものは、もう誰も止められないものなのよ」
真希にはその言葉の意味がよく分かっていた。
そして二人に永遠の別れが訪れる。
~~ 火事 ~~
十九XX年十二月二十八日
『今日は仕事納め。夕刻の頃、宗佑さんの屋敷で火事があったらしい。全焼は免れたものの、初恵の部屋を含む屋敷の半分は焼け落ちたようだ。出火の原因は暖炉か火鉢による物だとか。今の俺にはもうそんな事はどうでも良かった。現に初恵は大阪へ発っているのだから、彼女が何に困るというのだ。しかしこの年末に宗佑さんらにとっては災難だったとしか言えないが。もしまだ初恵が居たのならば、我が家にしばらく居候なんて出来たかも知れない』
十九XX年十二月二十九日
『昨晩は夜遅くになっても隣で消防団員が騒ぎ立てていた。初恵が居ない屋敷なんぞ俺は何の興味も湧かない。そんな真夜中の騒然を子守唄にし、掛け布団を抱きしめながら俺は寝床で泥酔していた。今日の昼過ぎには女性が叫ぶ金切り声が聞こえたが、あれは桐絵さんの声か。何か大切な物でも焼けてしまったのだろうか。今日は純愛小説なぞを読みふけっていた』
十九XX年十二月三十日
『消防団員の騒ぎの原因が分かった。どうして桐絵さんは金切り声をあげたのかも分かった。初恵、どうして』
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
十二月三十日の日記の祖父の文字は正直文字になっておらず、震える手で何とかして書いたのであろう感じだった。
三十一日からあくる年の十九XX年一月七日までの日記は記載されていなかった。
記載されていなかったのではなく、書けなかったのだろうと真希は察しがついた。
八日から再開された日記の文字は、年末と同様に何の力も入っていない、か細い筆圧から始まっていた。
~~ 動揺 ~~
十九XX年一月八日
『昨晩、初恵の夢を見た。夢の中の初恵は真っ白な霧が立ち籠める中で、真っ白な着物を着て立っており、いつもの様に微笑みを浮かべ、ただ黙って俺を見つめていた。風が囁き、初恵の長く美しい髪がそよぐ。顔に掛かった絹糸の様な髪を、初恵は白く細い指先で耳へ掛けた。俺は何より、動く初恵が見られた事に喜びと安堵を得て感動していたのだった。初恵は何かを話していた。薄く艶やかな唇が動いていた。だが風の音が強く、俺に何と語りかけていたのか、分かりそうで分からなかった。俺に何と言ってくれても良い。俺は君の声が聞きたい。あの透き通った、鼻にかかったあの幼声を、もう一度で良いから聞きたいのだ』
十九XX年一月九日
『新年の挨拶に来た取引先の野瀬さんから気になる話を聞いた。彼が言うにはこうだった。
「ええ、年末にお宅へご挨拶に伺ったのですよ。ええ、二十八日の夕刻前でございます。あの時は既にお隣のお屋敷から火の手が上がり始めてございました。ええ、屋敷の家人達が大慌てで屋敷から出て庭で右往左往しておりました。ああっと言う間に火が広がって、何とまあ若い娘さんが巻き込まれてしまったそうで。お気の毒な事でございました。私はただただ狼狽えて居るだけで精一杯でございまして、ええ、情けない話でございます。ええ、その場に奥様も居てらしてございましたが、あのお方は常に冷静でございますねえ。ええ、何も動じる構えも無く、流石でいらっしゃいましたよ」
あの日、出火直後に美由紀が居たと言うのか。甚だ理解し難いが、俺はあの日、火事の事を妻に聞いた時、妻は「私は街に出ておりましたが、街で宗祐さん宅の騒ぎを聞いて、急いで戻りました」と言っていたのだが。俺は野瀬さんの話を聞いてから、頭が重たくなった』
十九XX年一月十日
『消防の話では、宗祐さん宅の火事の原因は失火では無くて放火の可能性もあると見て捜査をしている様子だった。当時の事を妻に聞いてみた。屋敷の火事の時の終始は一体どんな様子だったのかと。美由紀が言うにはこうだった。
「私が戻った時には屋敷は半分ほど燃えておりました。もう消火を始めている者もおりましたが・・・・
「それって日記の切れ端じゃない?どこにあったのよ」
いきなりのこの声に、真希は心臓が破裂するほど驚いて背中をビクッとさせた。
「わっ!びっくりした!」
「私もずっと探していたのよそれ。ちょっと見せてもらってもいいかしら?」
まだ心臓の動悸が治まっていない真希は、なんとか呼吸を整えようと大きく息を吸って吐き出した。
「ちょ、ちょっとごめんなさい。私もまだ読んでいる途中だし・・・何でおじいちゃんがこの部分を切り取って隠そうとしたのか、全部読まないと分からないから」
「嫌だわ、女との浮気事が書かれているだけでしょう。それはさっさと処分しないといけない物だから。さぁ、早く渡して真希ちゃん」
「いやもう少し待ってもらえません?もう少しで全部を読み終わるので」
「全部読む必要なんかないでしょ!いいからそれを早く渡してくれる?」
あまりにもしつこいので、真希はあえて意地悪にこう言ってみた。
「ちょっと待って。私が読んではいけない内容でも書かれているんですか?」
「じゃあ逆に教えてくれる?それには何が書かれているの?あの女との浮気事の意外に、何か書かれていたのかしら?」
「それを今から確認したいんですけど、私が読んではダメなんですか?多江さん」
そう、土蔵に来たのは祖母の美由紀ではなく、多江の方であった。
多江がなぜこの日記の切れ端にここまでの執着心を滾らせているのか。
懐中電灯の光を微かに浴びた多江の痩せた顔には、刻み込まれているシワ以外に表情が無かった。
まるで千年の恨みでも抱えているのかの如く、厳しい眼差しを真希の手元に向けて差し込んでいた。
真希はいつか行った高幡不動尊で見た不動明王像の目のような、破魔なる力を得た多江の眼力はとても尋常ではないと驚異を感じていた。
がしかし、多江が火事のことで何かしらの情報を知っていることは容易に想像ができた。
「とにかく続きを読ませてくれないかな?おじいちゃんが私に何を伝えたかったのかを知っておきたいから」
こう言った真希から、多江は彼女の手元の日記を強引に奪ってしまった。
その素早さは真希の油断もあったのか、彼女が反応できないほどの早さで一瞬の出来事だった。
そして多江は、日記の束を雑巾を絞るように捻り潰した。
「これはね、私とお姉さんにとってこの世にあってはならない物なの。こんな物は処分させてもらうわね。お姉さんもどうして土蔵に日記帳を残したままなのか、私には理解できないわ」
「多江さん。おじいちゃんもおばあちゃんは私に知ってもらいたいこととか、訴えたいことがあったんじゃないかな。もちろんおじいちゃんとおばあちゃんではお互いに私に知ってもらいたいことは違うのかも知れないけど、その日記の切れ端に二人にとって大切な何かが記されている可能性だってあるでしょ?」
「そんなもん、あるはずないでしょ」
多江はまるで答える気がないよう即刻に真希の発言を切り捨てたが、真希は反撃の一手に出た。
「多江さん、宗祐さんって人の家の火事。これって本当に暖炉か火鉢からの失火が原因の火事だったの?」
その言葉をかけたとき、明らかに多江の表情がガラリと変わったのが真希は嫌でも分かった。
「最後まで読ませてもらって良いですか?その日記を返してもらっても良いですか?」
そう言って右手を差し出した真希であったが、多江は両目を見開いたまま微動だにせず、彼女を敵意剥き出しで睨み返していた。
あの世話好きで人当たりの良い多江は一体どこに消えてしまったのか。
それよりも、何が彼女をここまでそうさせているのか。
真希はそれも知りたくてたまらなくなっていた。
真希は空手の有段者で身長は多江よりも十センチ以上も高い。
その気になれば力ずくで日記を奪い返すこともできたし、多江が攻撃的になっても応戦することができた。
だが、そうはさせない強い何かを多江が発しており、あっさりと日記を奪われてしまった真希は、まさに蛇に睨まれた蛙状態にまで成り下がっていた。
多江はこう言う。
「お姉さんが本当にどれだけ辛く苦しい思いをしたか想像してごらんなさい。私はお姉さんから何度も相談を受けたのよ。あの娘は私たち家族や親戚との仲までバラバラにしかねない大変なことをしてくれたの。天罰が下ったの。自業自得であの娘は火事で死んだのよ」
多江が自分自身に言い聞かせているように聞こえたのは、真希は自分の思い違いだったのだろうと、このときだけはそう思っていた。
~~ 駆け引き ~~
「多江さん、とにかくそれは返してもらって良いですか?私はそれを読まない限りここから帰られませんから」
真希の問いかけにも当然のように多江は応じようとしなかった。
「ならば仕方がないわね。強引にでも返してもらいますよ」
彼女はもちろん本気ではなかったが、指を鳴らして威嚇をした。
一瞬、ひるんだように見えた多江だったが、何としても日記を返す素振りは見せなかった。
真希は思いきってこう切り出してみた。
「嫉妬に狂ったおばあちゃんが火を付けたんじゃないですか?その日記には書かれていたわ。火の手があがったばかりの屋敷から、おばあちゃんが出て来る姿を目撃したと言う人の証言が。知っているんですよね。そのことを多江さんは」
こうなったら揺さぶるしか無いと思った真希は、疑念を多江に真っ直ぐに投げつけた。
「それと私はずっと引っ掛かっていたの。澄夫さんが言っていた言葉だけど。『初恵さんの話は知っているかい?知らない?そうか。君のおばあさんは、おじいさんに、もっともっと感謝するべきなんだよ』って言葉。本来ならば逆でしょう?どうしておばあちゃんを裏切ったおじいちゃんのことを、おばあちゃんがもっともっと感謝しなければならないのよ」
そしてこうも続けた。
「初恵さんに対して報復としておばあちゃんは何かを行動した。それをおじいちゃんは黙って見過ごすことにした。おじいちゃんは家族への罪悪感もあっただろうし、事実が明らかになれば、おじいちゃん自身の社会的立場も失う可能性がある。でもその事実をおじいちゃんは日記にしたため未来へ葬った。いつかそんな噂話を聞いた私がおじいちゃんの日記を探りにくると予感していたのか、そこまでは分からないけれど」
真希の言葉に対して、多江は表情を一切変えることなく反論もしなかった。
「初恵さんがどうして死ななければならなかったのか。ことはどうあれ、人が一人亡くなっているんだから。お願いだからその日記を返してくれませんか」
「こんなところで二人揃って、しかもこんな時間に何をしているの?」
さすが姉妹である。
声も似ていれば登場するセリフまでも似ている。
ギラリと光る鼈甲の眼鏡に、冷気を感じるほどの不気味さで身を覆って、祖母の美由紀までも土蔵にやって来たのだった。
真実を知ることは本当の幸せに繋がることなのか。
人が生きて行く人生のうえで、知らなくても良いことはこの世の中には多数ある。
このときの真希は、痛いくらいにそれを実感していた。
第7話 永遠の離別
~~ 祖母の観念 ~~
庭の脇にある深夜の土蔵に三人が集まった。
「多江ちゃん、そんなに怖い顔をして一体どうしたのよ。真希ちゃんまでここで何をしていたの?」
圧倒的な不気味さを放っていたのは、多江より、むしろあとからやって来た祖母の美由紀の方だった。
初恵の命を奪ったのはあなたではないのか。
そんな真希の先入観が、そう感じさせていたのだろう。
また祖母に対する疑惑というフィルターを通して見ている彼女の好奇心が、祖母を見る目を明らかに変えてしまっていたのである。
「お義兄さんの日記の残り、真希ちゃんがここで見つけたの。これなのよ」
多江が自分で捻じった日記の束を美由紀に差し出した。
「これが、そこに?」
日記を受け取った美由紀の右の眉がグイッと跳ね上がった。
そしてその高い鼻を真希の方へ向けた。
鼈甲で作られた眼鏡のレッドライラック色をしたフレームが、真希を睨む美由紀の黒目部分だけを横に隠していた。
どちらにしても真希は祖母の美由紀と目を合わせることはできなかった。
美由紀と多江、二人からの真希に対しての視線は、またもや厳しいものであったが、彼女はこう切り出してみた。
「おばあちゃん、その日記の切れ端を最後まで私に読ませてはもらえないかな?どうしておじいちゃんが私にその日記を見せようとしたのか知りたいの。もちろんおばあちゃんや多江さんにとって苦い記憶を思い出させてしまうことかも知れないけれど、おじいちゃんが私に知らせたかったことを、私は今どうしても知りたいの」
多江は呆れたように「ハッ」と素早いため息をついた。
それを横目に美由紀はこう語り出した。
「つまり、あの人は真希ちゃんに伝えたいことがあって、わざわざ日記を切り離して、ここに隠したという訳なのかしら。ただ私はね、別にあの人のこともあの娘のことも恨んではいないわよ」
こう言うと美由紀は、鼻息を使って微笑した。
「私だって本来結婚をする予定だった相手がいながらも、そちらの約束を蹴ってまであの人と一緒になったのよ。好きになってしまったら、立場とか世間体とか関係なくなるのよ。それは当時はとても傷付いて辛かったけどね。でもあんな結果になってしまった以上、誰も責められる道理が無くなってしまったでしょ。あの火災が起こった時点であの一件は終わったのよ」
真希が持つ疑念とは裏腹に、祖母の美由紀はやけに淡々とこう語ったのである。
「じゃあおばあちゃん、どうして火事のときに屋敷にいたのに街へ行っていたなんて誤魔化したの?あの火災の日に一体なにがあったのよ」
真希の問いかけに、美由紀の表情は変わらない。
だが何かを隠していることに違いはなかった。
「仕方ないわね」
美由紀はそう言うと突然、鼈甲の眼鏡を外した。
真希は、眼鏡をかけていない美由紀の目鼻立ちの整った顔を見るのは相当久しぶりだった。
そして美由紀はあの日の出来事を話し出した。
~~ 祖母の行動 ~~
「あの日はね、確かに私は自宅に居たの。それで街に買い物に出るときだったわ。玄関を出るとちょうどガラスが割れるような音が聞こえたの。そう、お隣の宗佑さんの屋敷の方でね。屋敷に目をやると二階の窓ガラスが割れていた。不思議に思って屋敷に向かうと、その割れた窓際にあの娘が立っていたの。私のことを、冷めた目で二階から見下ろしていたわ。そう、広い和室にいる孤独な日本人形のように身動きひとつせず。それにしても人からあんな氷のように冷たい視線を浴びたのは最初で最後よ。あんな不気味な思いをしたのは初めてだった。すると、あの娘の背後から赤い炎が立ち昇ったの。それと同時に黒い煙もね。私は驚いて、すぐにそこから逃げなさい、と大声で叫んだわ。それでも彼女はその場から動こうとはしなかった。それどころか彼女は微笑んだの。どこか誇らしげな顔に見えたわ。そして何かボソッと呟いてから、窓際から炎と煙が巻き起こっている部屋の奥へ消えていったの。その頃には屋敷から使用人達が大騒ぎして外に飛び出して来たり、消化するために桶に水を溜めたりと騒然としていたわ。私はますます恐ろしくなって屋敷から離れた。これがあの日、あのときの私の行動の一部始終よ」
語った美由紀の表情に、真希は何の疑いも起こらなかった。
それを裏付けたのは、姉の話を横で聞いていた多江の驚いた表情であった。
その多江はしばし唖然としていたが、突然、姉の腕を両手で掴んですがるような格好になった。
「ちょ、ちょっとお姉さん、それ本当の話?私は当時からお姉さんが関わっているものだと思っていたのよ。どうしてもっとそれを早く教えてくれなかったのよ」
美由紀は再び鼈甲の眼鏡をかけて、土蔵の天井を梁を見上げた。
「そうね。でもそもそも当時警察からだって事情を聞かれていた訳だし、それでもやっぱり誰かは誰かを悪者にして、噂に尾ヒレを付けて面白くしたがっていた。あの娘の婚約も、私があの人と別れさせようとして宗佑さんへお願いして決めさせたことにもなっていたのよ。方々で様々な噂話をされて私たち西条家は本当に苦しめられたわ。特にあの娘の葬儀の時なんて、私もあの人も生きた心地がしなかったわよ」
真希は今回のことの発端となった疑問を投げてみた。
「って言うことは、澄夫さんが言っていたこともその噂話のひとつに過ぎなかった訳なの?どうしておばあちゃんがおじいちゃんに感謝をしなければならないなんて、そんな噂話を私になんか言ったのかな」
祖母の眉間に一瞬、深いシワが刻まれたのを真希は見逃さなかった。
「それはね、宗佑さんの屋敷に火を放ったのは私なのではと疑っていたからなのでしょう。現におじいさんも私を疑っていたわ」
美由紀は深いため息をついた。
「にしても、あの人があの娘に気持ちが傾いてしまったことは、この私にも責任の一端はあるかも知れない。そして結果彼女を追い込んでしまったこともね」
そう言うと、祖母は捻れた日記の束をほぐし、そっと真希の手元に戻した。
「これに何が書かれているのか私は知りたくて仕方がなかったの。でもあの人が伝えたかったのは真希ちゃん、あなたへだったのね。これはあの人の遺志。私たちでどうにかできる物ではなさそうね。これはあなたがしっかり読み終えて下さいな」
~~ 三つ巴 ~~
ここまできて真希は、祖父の誠司、祖母の美由紀、叔母の多江の手のひらで転がされていたのかも知れないと、ようやく理解ができ始めていた。
真希がまるで探偵気分のように誠司の日記の在処を探し出し、この切り取られた日記にたどり着くように美由紀と多江に監視されていたのかも知れないと。
だがここに至ると、真希たち三人の思惑は実にバラバラだったのだ。
真希は単純に聞いたことの無い初恵という人物が祖父と祖母とどのような関係があったのか、どうして祖母が祖父に感謝をしなければならなかったのかを、ただ知りたかっただけであった。
多江は、どうやら姉が放火をしたのではという当時からの噂話を信じており、真希が誠司の日記を目当てに帰郷したことを、ハナから警戒をしていたようだった。そして姉を苦しめた初恵を強く恨んでいた。姉の手前、浮気をした義兄誠司に対しても相当我慢があったに違いない。
では美由紀はというと、誠司と初恵の間に何があったか等とそんな分かりきったことではなく、これは真希の推測になるが、誠司と初恵の気持ちに寄り添い、二人の愛の形とは何だったのか、ただその確信を知るためだけに日記帳を完成させたかったのではないか。
それが誠司のためなのか、初恵のためだったのかは分からない。
結局誠司は、孫娘の真希に何を伝えたかったのだろうか。
真希は自室へ戻った。
くしゃくしゃになった祖父の日記を机の上で手のひらを使って平らに伸ばした。
ベッドへ入ってからブックライトを点けてその続きを読み始めた。
真希は妙に落ち着いた気分だった。
~~ 十六歳の初恵 ~~
一九XX年一月十日
『消防の話では、失火では無く放火の可能性もあると見て捜査をしている様子だった。妻に改めて聞いてみた。屋敷の火事の時は一体どんな様子だったのか。「私が戻った時には屋敷は半分燃えておりました。もう消火をしている者もおりましたが、手がつけられない程の猛火でした」果たしてこれが嘘だと言うのか。いや、いくら嫉妬に狂っても、妻がそんな大それた事をする様には思えない。しかし、妻から聞いた話と野瀬さんから聞いた話の食い違いは明らかで、野瀬さんが敢えて嘘つく理由も無い。だからと言って、誰かを疑った所で当の初恵は戻っては来ない。ただただ虚しくなるだけだ』
一九XX年一月十一日
『昨晩また初恵の夢を見た。この間に見た夢の初恵と同様に、彼女は白々しく眩しい濃い霧の中に立って居た。どうだろう、この間より少し大人びた雰囲気になっていたが、それは唇に紅を塗っていたからそう見えたのだろうか。だが生前に初恵が付けていた紅よりも随分と薄く、優しい色の紅であった。それだけでなく、初恵の髪は以前よりも長くなっており、腰の辺りまで真っ直ぐに伸びていた。少し強めの横風が吹いた。風呂につかっている時、立ちのぼる湯気に対して優しく息を吹きかけた時の様に、霧の細かな粒子ひとつひとつが、ふわふわと動いて、そして再び何事も無かったかの如く初恵の周りに停留していた。初恵の美しく長い髪は、またも彼女の顔半分を覆い隠したが、それよりも彼女が何を言おうと唇を動かしていたのか、俺はそればかりが気になった。頼むから、俺に何と伝えたいのかその声を聞かせて欲しかった。が、その夢の中でも初恵が何と言っていたのか分かる事は無かった。だが俺は、例え夢の中であっても、初恵と時間を共に出来る事が、何よりも幸せであった』
一九XX年一月十二日
『消防団員の一人が我が家に来たらしい。使用人の話によれば、この茶封筒を俺に、と置いて行った様だ。まだ開けずにこの茶封筒の前で俺はこの日記を書いている。これに何が入っているのだろう。この茶封筒を開封した後、俺はどんな気持ちになってしまうのかを、俺はただただ恐れていた』
~~ 永遠の離別 ~~
一九XX年一月十三日
『また夢に初恵が現れた。更にまた少し大人になっている様に思えた。髪の長さは前の夢と同じであったが、よく梳かされており、以前よりの格段に艶やかに見えた。それよりも、いつもの薄手で白い着物姿の上からでも分かる程、初恵の身体が成人した女性らしい、ふくよかな形になっていた。そう、年頃の健康的な少女に初恵は戻っていたのだ。こけていた頬も柔らかな桃色に染まっており、あの澄み切った瞳も、一層に一段と輝いていた。俺は思い切って声を掛けた。「初恵、あの日、何故大阪へ行かなかったのだ。何故、火災が起こった屋敷から逃げ出さなかったのだ。何故、お前は死ななければならなかったのだ」そう問い掛けた瞬間、初恵は大きな目を更に大きくさせて、不思議そうに顔を傾げて見せた。そして今度は、とても優しい今までに見た事が無い程の満面な笑みを浮かべて、俺にこう語ってくれたのだった。
「貴方様から頂いた愛情を他の誰にも奪われたくありません。貴方様から頂いた愛情と共に私は永遠に生き続け様と思います」
こう言うと、少し悲しそうな顔をして、初恵は続けて言った。
「お許しください、私の我が儘で。もっともっと貴方様と時間をお共したく思っておりました。あんな暗い納屋の出来事でさえ、私にとっては、あれ程に本望な事はございませんでした。ずっとずっと貴方様のお側に居たいと思っておりました。ですがそんな事は叶う望みにございません。生まれ堕ちた時代が悪かったとか、再び生まれ変わったら等と言っても、本来の私の気持ちはそれ如きで諦め切れる様な戯れ言では決してございません」
初恵はそう言うと、はっと何かを感じたかの様な表情をした。すると彼女に、強い向かい風が吹いて長い髪が大きく舞い乱れていた。
「私は、もうこれでゆかねばならない様ですね」
いつかの泡垂山で見た、凜とした表情で彼女は少し高い所へ視線をやった。そう言ってから、風に渦巻く霧の中に溶け込む様に消え行く初恵を、俺は必死になって手を伸ばし止めに行った。しかし、どうして夢の中とは、何故あそこまで上手く力が入らないのだろうか。走りたくても思う様に脚が動かず、腕を伸ばそうにも、初恵を抱き寄せたくても、全く身体に力が伝わらない。そしてますます風と霧が強まる中、目前の初恵が遂に消え去ろうとした時だった。
「さようなら、本当にさようなら」
そう囁く初恵の声が周囲に反響した。瞬間、俺は目が覚めた。俺の脳天がジンジンと痺れており、しばらく夢と現実の狭間を彷徨っていた。ああ、前から何度かあった、初恵が俺に何を伝えようとしていたのか。彼女の唇の動きを思い返すと、それが何かとようやく分かった気がした。しばし後、落ち着いた俺は、もう二度と夢の中でさえも初恵と逢うことが出来なくなってしまったと、掛け布団を抱きしめながら初めて実感をしてしまった』
~~ 祖父の決心 ~~
一九XX年一月十四日
『戦争へ直走る世間の関心事など、俺にはどうでも良かった。あの茶封筒を開けてみた。端の辺りが少し焦げていた物が多かったが、俺が宗佑さん宅宛に出した十数年分の年賀状の束であった。これは初恵の手紙にも書かれていた、毎年彼女が楽しみにしていた俺からの年賀状だ。これは一体、何処から見つかったのだろうか。明日、あの消防団員に確認することにしよう』
一九XX年一月十五日
『膝を折り、丸くうずくまり、真っ黒な炭の様になった無惨な坊主頭の焼死体が、大切そうに胸に抱き抱える様に、この俺が書いた年賀状の束を懐に入れていたらしい。そこまで大切な物だったのか。初恵がそこまで俺を想っていてくれたのなら、どうして俺はあの聖夜、あの異形なる虫を握り潰してしまったのだろうか。年賀状に頬を当てると、焦げた匂いとは別に、あの初恋の香りが微かにしていた。消防団員の話では、差出人である俺にこの年賀状を渡してくれと頼んだのは桐絵さんだったらしい。桐絵さんの真意は分からないが、それはそうだろう。俺が初恵を殺してしまったも当然だからだ。出火の原因は、最終的に初恵が自らの意志で屋敷に火を放ったと判断された。簡単にそんな原因を鵜呑みに出来よう筈が無い。周囲の人間も、これを簡単に腑に落とす訳もあるまい。だがもう何が真実なのか、俺には判断が出来る材料も思考も無い。いつの日か、真実が分かる時が来るとでも言うのか。もうどうでもいい。初恵はどの様な思いでこの年賀状の束を抱き抱え、猛火にその身を焦がしたのだろうか。俺自身はもう金輪際、初恵の何も語る事は無いだろう。しかし俺は初恵を忘れる事は決して無い。忘れようにも、俺は初恵の亡霊を追い続けるに違いないだろう。夢で初恵が言っていたのと同じ様に、残された俺は、お前から頂戴した愛情と喪失感、それに周囲への罪悪感を、俺が死ぬその時まで持ち続けなければならないのだから』
最終話 自白
~~ 離郷 ~~
ちょうど一年前の、こんな秋のことだった。
この屋敷で誠司の日記帳を探し出し、真希は美由紀と多江と夜中まで色々と会話をした。
真希は最初は謎解きのような気持ちで半分いたが、美由紀と多江姉妹にとっては、真希が本来そんな浮ついた気持ちで帰郷するのではなく、普通に何事もなく当たり前のように、最近あった出来事だったり、懐かしい昔話をして楽しみたかったに違いない。
誠司の書斎で安楽椅子に座って中庭を眺めながら、真希はそんなことを思っていると、多江がダージリンの紅茶を持って来てくれた。
「このお屋敷とも真希ちゃんはこれでお別れなのね」
「私ここで育って来たので寂しく感じちゃうけれど、私では相続できても維持することができないから。おじいちゃんとおばあちゃんには申し訳ないけれど」
中庭の方を見る多江の横顔は、美由紀にそっくりで懐かしかった。
美由紀は今年の春、心不全であっけなく他界してしまった。
それに至って真希は、祖父母が遺したこの屋敷を手放すことになったのである。
「このお屋敷に来られなくなっちゃうなんて私も寂しいけど、せめてお姉さんの一周忌までは残しておきたかったわね」
「すみません、私の転勤が重ならなければ焦って手放す必要もなかったんだけど」
「いえいえ、こればかりはタイミングだからね。お姉さんも亡くなっちゃって、真希ちゃんは京都へ行ってしまうなんて、寂しくなるわぁ」
ふと見ると、少し多江の目が充血していて、真希の胸がチクリと痛んだ。
昨秋のあの日、真希は祖父の日記帳を屋敷に置いて帰った。
すべてが揃った日記帳を、その後に美由紀と多江が読んだのか分からない。
そして今その日記帳がどこにあるのか彼女は知らない。
初恵の手紙は、真希のあの秘密の小箱の中にしまったままである。
小箱は今日、例の秘密の場所から回収し、真希は持って帰ろうかと考えていた。
「さて、私もうそろそろ行こうかな」
門前で、真希と多江は軽く抱擁をしてから、彼女は屋敷をあとにした。
~~ 少女と芍薬 ~~
北鎌倉駅へ向かう道すがら、相変わらず女学生たちの愉快に弾んだはしゃぎ声や笑い声が、緑のトンネル内でこだましていた。
そんな女学園の脇を歩いていると、突然木々のこぼれ日が光の矢となって、一直線に真希の目に突き刺さってきた。
「あっ・・・」
真希の左耳を襲う強烈な耳鳴り。
耳鳴りと同時に右目だけが白くかすんでくる。
また見覚えのない少女が、かすみの中から姿を現してきた。
視点が定まらず、同時にさらに強い耳鳴りがして、一旦、目をグッと閉じた。
少しして、恐る恐る左目を薄く開くと、真っ白な視界の中に、髪が長く桜色の着物をまとったあの少女が楽しげに若草色の毬を追っていた。
両手で毬をすくった少女は、横目で真希の存在に気が付いた。
キョトンとした顔で真希を見ると、一転して狐目の愛らしい笑顔で彼女に微笑みかけてきた。
光のカーテンで焦点が定まらない真希は、必死にこぼれ日を手で遮るも、それ以上はその少女のハッキリとした姿や、輪郭さえ確認することが出来なかった。
真希はあまりの眩しさに、たまらずまた目を覆ってしまった。
徐々に耳鳴りが治まってきた。
また賑やかな少女たちの笑い声が、彼女の耳へ走り込んで来た。
薄目を開くと元通り、緑翠に彩られた清々しい世界が広がっていた。
「この少女って、初恵・・・さんなの?」
結局、祖父は真希に何を訴えたかったのか分からなかった。
限りなく純粋で、限りなく不純でもあった二人の物語。
もしや祖父ではなく、初恵の方が真希に何かを伝えたかったのだろうか。
今の彼女では、まだまだ理解できる域を出なかった。
緑のトンネル内でたたずむ真希の視線の先に、ひとつ季節はずれな桃色の芍薬が誇らしげに咲いている。
吸い寄せられるように近づいてみた。
よく見るとそれは、この季節に咲くただの寒牡丹であった。
~~ 自白 ~~
列車の座席に座って一息ついた真希は、急に初恵の手紙が読みたくなった。
正確に言えば初恵が書き込んだ肉筆の手紙に触れたくなった。
鍵を開けて小箱を開くと「真希ちゃんへ」と書かれた高級感の溢れる和紙で作られた、木の葉が入った鳥の子色の封筒が一番上にあった。
「?」
こんな封筒なんて入っていなかったはず。真希はそう思ったのと同時に、この文字は祖母のものだと理解していた。
どうしてこの小箱の中に美由紀の手紙が入っているのか。
小箱が置いてある秘密の場所をどうして知っている?
小箱を開ける鍵はどうしたの?
様々な疑問が一気に彼女の頭の中を引っかき回していた。
そう考えていたが、無意識に真希は祖母の手紙を開いていた。
彼女は手紙を読む前から、もう嫌な予感しかしていなかった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「真希ちゃんへ。
不思議でしょうね。この手紙が何故この箱の中に入っていたのか。それは今後の宿題にしてちょうだい。
そう、私は酷い女なのよ。でも、私だけではなく、人はみんな酷い性格を持ち合わせているの。あなたにもそんな部分がきっとあると思うわ。
そんな事より、ごめんなさい。
あの人の日記には、本当に正直な気持ちが書かれていた事に驚きました。
そう、日記や手紙って本来そういう物だったのよね。
だから私も、正直に書き残そうと決心できたの。
許せなかった。
これが正直な私の気持ち。
あの人も、あの娘も、本当に許せなかったの。
年末の慌ただしい最中、宗佑さんのお屋敷に入り込む事など簡単だったわ。
悔しかった。
なにが一番悔しかったって、あの娘に詰め寄った時の事ね。
私がどれだけの悔しさ、惨めさ、悲しさをあの娘にぶつけても、あの娘ときたら、まるで全てを悟ったかの様な、そう、弥勒菩薩に様に、私に慈悲を与えんとばかりな、憐れんでいる様な表情を浮かべていたの。
私はその後、気が付いた時には大きな火鉢をひっくり返していたわ。
細かく散った火の粉が、彼女を取り巻くように舞い上がった。
それでも彼女は一切動じなかったわ。
紅蓮の大蛇が彼女の足元から数本、着物の裾を伝って上半身へ這い上がっていった。
ほんの一瞬だけ、あの娘が炎を纏った一輪の華の様に見えたわ。
するととっさに彼女は奥にある本棚の方に走って、何かを、そう、何かを胸に抱いて、身を焦がす炎と共にその場に踞ったの・・・・・・・
グシャリと真希は祖母の手紙を握り潰した。
冷や汗が胸元からお腹にかけて一筋流れたのを感じた。
そして膝がガタガタと震え出した。
それを周囲の乗客に悟られぬよう、乱れた呼吸を何とか落ち着かせようとした。
列車の車輪が線路の連結部を叩く音が、まるで水の中で聞いているかのように波打った音に聞こえる。
貧血状態のように目の前の世界が深緑に覆われてきた。
今は、今は読むべきじゃない・・・と、自分に言い聞かせた。
そして真希は、声を押し殺し、喉元で唸るように慟哭した。
彼女の目に映る鎌倉観光の帰り客や、疲れ切った顔をしている仕事帰りの人でさえ、呑気な人間に見て取れて、今の真希にとっては羨ましい存在に思えた。
しかし、なんだろう。
恐ろしいのに、悲しいのに、虚しいのに、噓をつかれて、騙されて憎たらしいのに。
そんな陰鬱に襲われている真希は、どこか快感に似た興奮を感じてならなかった。
血がそうさせるのだろうか、下腹部がまた疼き出していた。
それを感じると真希は、今度は妙に納得した気分になって、新天地である京都に急に早く行きたくなって、たまらない心持ちになっていた。
ややあってから、真希は自身が座っている対面の男性が大きく広げている新聞に目が向いた。
その新聞の一面には「昨年のXX区の火災は放火殺人の疑い」という見出しが載っていた。
「・・・」
彼女は大きく息を吸った。
ゆっくりと息をはき出して、心の中でこう思った。
(やっぱりバレるもんなんだね。結局、私もおばあちゃんと同じってことじゃない。血は争えないってことかな)
そしてこうも思った。
(だって、どうしても許せなかった。彼が・・・あの人が妻子持ちだったなんてさ)
西条真希はこの一週間後、京都駅において殺人容疑で逮捕され、のちに放火殺人罪で起訴され、無期懲役の判決を受けた。
おわり
焦爛の芍薬
最後までお読み頂きありがとうございました。