「美しい國」

秒針

 ホットケエキを食べたかったけれど、綺麗な真ん丸が滲んでしまうのは嫌だったから、少し厚めのジャムトーストと温かいココアを頼みました。
 木苺のジャムは私が家で作るものと見た目はよく似ていましたけれど、此方の甘いルビーの方がごろごろと実が残ったりはしていないのでとても食べやすくって絹の飴のようになめらかで、おまけにジャムの下にはバターも予め塗られていますから、ほんのりとミルクの湯気甘やかなまろみと可愛いすっぱさが双子の映し鏡のようにちらちらと顔を覗かせます。温かいココアはよく飲んで馴染みのある砂糖と生クリイムたっぷりではなく、珈琲のエッセンスを数滴垂らしたかのような苦みの濃いものでしたので、私はとうとうココアの淹れられていた珈琲カップの丸縁に涙を零してしまいました。
 おもいだしてから、すぐのこと。ココアは紅茶に戻りトーストはホットケエキに戻ってゆきます、星に白く輝く蜘蛛糸で紡がれた大時計のような古い羅針盤が蛾の眠る夜の空の天井へとコトリ音を動かしました。
 滅びた王国は、毎日こうして朝を迎えるのです。

トネリコ

 王国の名は、トネリコ。嘗て世界樹ユグドラシルを育てるのが使命であった此の国に敬意を表し、その芽が潰えぬようにと祈りを込めて託された名前です。トネリコには魔術使いと妖獣と称される王の獣が共に暮らしていました。妖獣の名前はエスメラルダと言って、ふさふさとした大きい真緑の王冠の毛が頭に生えている白く賢い瞳の獣です。彼は一頭の氷柱から削り出された大きな馬に乗り、下りると背丈は私の腰元までしかありませんでしたが、彼はふわふわと浮遊することが出来ましたので、いつも私と目を合わせられる高さに居るのが常でした。
 エスメラルダは植物を咲かせる力と、雪を降らせる力、そして人の心を見通す力を持っています。先に申しました通りこの子は王の動物ですから、決めた一人にしか懐きません、けれどもとても心優しく穏やかな性格ですから、主人以外を冷遇する態度は断じてとりません。昔のトネリコ王国を治めていただけあって、彼はよく古い歌物語を聞かせてくれましたが、今では私を気遣ってあまりそのお話をしなくなりました。王国が滅びたのは変えようの無い悲劇ですが、私は私の生れ故郷、そしてエスメラルダと出逢った場所、シャーロットの流れ着いた土地を愛していますから、涙さえ込み上げなければ何回でも彼の歌う歴史を聴きたいのです。それは彼等も、エスメラルダ達も湖の底は同じでありましょう。
 私達魔術使いは、生れ乍らに与えられた力を有します。私の場合は鎮めの湖の力が与えられていました。鎮めの湖の力とは、文字の通り争いごとや揉めごとを仲裁する為の能力を意味し、人々の衝突を和らげる静かな水底の力です。この力がエスメラルダの緑と雪を育む力とても相性が良かったので、私が世界樹の新芽から誕生した際、長年行方の知れなかった王の獣が帰って来てくれたと国中が喜びの穏やかな微笑みに包まれたと言います。その際エスメラルダは一匹の幼虫を連れていました。
 その虫は新雪が大好物なアザラシのような見た目の白い芋虫でありました。エスメラルダに大人の魔術使い達が質問すると、この子は国の一番北側にある迷子の海辺でひとりぴいぴいと泣いていたと答えました。白くてフワフワの、到底芋虫には見えない外見だから受け入れてもらえなかったのだろうと思います。その子を憐れんだ国民達は、まだ右左も曖昧な幼い私に彼を渡しました。あの温もりは、今までも私とエスメラルダを安眠させてくれる心の拠り所です。私は彼にシャーロットと名付けました。
 私達三人は毎日一緒に過ごし、遊び、学び、くすぐったいイタズラ、雪山を駈けまわり日が暮れる迄はしゃいだこと、澤山の湧き水のように眩しい時間に浸りました。トネリコでの日々は、本当に穏やかなものだったのです。

来訪

 或日、国の外から一人の男性がやって来ました。私達はたいへん驚きました。トネリコは来ようと思って来られる場所ではなく、シャーロットの時みたく自然に外から流れ着く、地図に決して分析出来ない、真綿の国であったからです。
 男性の名前はマーガレットと言いました。マーガレットは魔術を使う者ではなく、人間でありました。何かの術を使う訳でもないのに、人間がどうして此方にやって来たのでしょう?私達がそう尋ねますと、マーガレットはニコリと笑って快活に話し始めました。
「私が此処を訪れましたのは、貴方がたに是非頼みたい事があるからです。魔術の国に生きる皆様、我々人間と交流致しませんか。」
 交流。交流?ひっそりと世界から隠れて世界を動かす樹を守って来た日々しかしらない私達にとって、その言葉は耳に鋭く刺さりました。いぶかしむ国民に、マーガレットは臆せず更に話を続けます。
「不安を感じられるのも無理のないことです。突然訪れた人間の言う事を信じて良いのかとお疑いになるのは賢い皆様であれば当然のこと、交流とは申しましたが、実のところは私達人間を助けていただきたいのでございます。」
 助けてほしいと望むものを放っておくなど、魔術使いには生来出来ませんでした。マーガレットの話は人の世界には資源が乏しいので、それを補う為に私達の力を借りたい、そして願わくば人と魔術師の間に交易を結び、末永く交流していきたい、と言うものでありました。トネリコ王はその申し出を受け入れました。そして王の娘である私は、人間をもてなす為の材料を遠くまで摘みに向かう(めい)を与えられたのです。

遠くへ

 王である私の母は、私の出立(しゅったつ)の準備を家臣に任せることなく、ご自身で整えられました。何故そんなに丁寧になさるの、木の実や清水、枝葉や花を摘みに行くのなら私も何度もしてきたではありませんか、と首を傾げる私に、母は微笑み私の頭を撫でました。
「いつも頼んでいる材料だけでなく、今日行ってもらうのは特別な材料の咲く場所ですから、用心の為ですよ。」
 特別な材料。私は聞いたことがありません。けれどこの時は見知らぬものに興味を惹かれて早く見てみたいと心急いたのです。
「どのようなものですか、それは。お母様。」
 母は答える代りにこう返事をしました。
「実際に見て御覧なさい。貴女ならきっと、必ず分ります。」
 いつもの使いの延長の筈なのに、何故母は私を強く抱きしめたのか、まるで、今生の別れでもあるかのように。
 エスメラルダの氷柱馬に乗せてもらい、胸にははしゃぐシャーロットを抱いて私達三人は材料拾集へと赴きました。
 トネリコは雪の結晶に愛された国です。エスメラルダがトネリコの王であったのも、その特性による結果だったのでしょう、けれどそう考えれば、私は一つ疑問を抱かずにはいられませんでした。
「エスメラルダ。貴方は何故国から離れていたの?」
 彼は氷柱の馬の項を丸い手でぽすぽすと優しく叩きながら静かに答えました。
「私がトネリコの国王であった時、傍には一人の魔術使いが居た。その者は春のひだまりの力を持つ者だった。」
「貴方の雪の力とは相性が悪いのでは?」
「トネリコの雪は人の世界に降る雪とは少し違う。人間達の知る雪は温もりに涙を溶かす脆くも儚いものだが、トネリコを愛する雪はすべて温もりが降らす雨のようなもの。だから溶ける時が来るまで日を浴びても湯を掛けても流れて行きはしないんだ。」
「じゃあ…春のひだまりの魔術使いはトネリコの始祖ということ?」
 エスメラルダはにっこり微笑んで頷きました。
雪若(ゆきわか)はよく勉強しているから理解がはやいね。そう、彼はトネリコの国を生む為に生れた者だった。彼と私はトネリコをおこしてから王として国を愛し民の草葉を想い続けた。しかし或日、彼は一発の銃弾に倒れてしまった。……銃を撃ったのは彼が助けた人間だった。漂流して来たその者の手を握った瞬間、彼は心臓を傷付けられ、二度と私を見ることは無かった。」
 太古のトネリコの歌の中で、エスメラルダが歌えなかった過去を私は初めて知りました。そして同時に、何故愛する国から離れ続けていたのかも、感じ取れたように思いました。
「国を離れている間も、貴方の雪が降り続いていたのは、相棒の魔術使いとの大切な場所だったからなのね。」
 エスメラルダの頬は温かでありました。その時、シャーロットがひょこりと服の中から顔を覗かせ、私の唇にキスをしました。
「その者の呼び声が聞こえて、千年ぶりに目を覚ますと、雪若。君の生れたことを知った。迷子の海辺は春のひだまりの彼と私が別れた場所でもあった……随分驚いたよ、こんな所でいつまでも何してるグズグズするなと…そう頭をはたかれたような気がしてね。」
「では、シャーロットがエスメラルダを連れて来てくれたのね。」
「そういうことであろうな。」
 蛾は口が退化している為エスメラルダや私のように言葉を話すことは出来ませんが、言葉を伝えることが出来ます。けれどその技術は成虫となり羽に氷の鱗粉を纏わせるようになってから覚えるものですので、まだ幼虫の彼には難しいからシャーロットはぴいぴいと愛らしい鳴声とにこにこした表情で私達に感情を教えてくれます。
「シャーロット、もうすぐ翼の孤島に着くからね。」
「着いたらおまえの大好きな新雪をたっぷり使ったランチをしよう。」
 故郷を遠く離れて、私達が最初に到着したのは翼の孤島と名の付く無人島でした

廃墟

 無人島とは、私達の文化の中に於いて、“昔は人が暮らしていた場所”を意味します。
「人間の世界では意味合いが少し異なるのでしたっけ?」
「そうであるな。人間界で無人島と言えば海に浮ぶ原生林の島を指す。我々は人の嘗て住んでいた今では寂れた建物を指す。人が其処に居ないという点は同じである。」
 少し休めそうな隙間をシャーロットが見つけてくれたので、私達は早速お昼ご飯にしました。木の実と新雪をたっぷり使ったサンドウィッチをもくもくと食べるシャーロットを微笑ましく眺めながら夕景の淡いレモンティーを注いでいますと、歌声が聞えてきました。

 わたしの金魚 かわいい金魚
 あちこち歩いて何處へ行ってしまったの
 あなたには頑丈な両脚は無いのに
 大きく振るための両腕も無いのに
 柔らかい尾鰭で飛べはしない
 優しい水槽で眠らないで
 如何して雲を追いかけたの
 もう一度答えてわたしの金魚
 返事を聞かせてかわいい金魚
 わたしの金魚 かわいい金魚

 歌は繰り返し同じ言葉を続けています。まるで子供の旅立ちを寂しく感じる親の哀歌にも聞えますが、恋人を失った悲しみにも聞えました、いずれにせよ胸を塞ぐ泣声であるのは確かなようで、私は思わずポットを傾ける手を止めました。
「エスメラルダ、あの歌は…」
「無人島の歌だ。」
 彼も私と同じような面持ちをして、声のする朽ちた建物を遠く見ています。
「人が恋しいと呼んでいるのね。」
「だがもう此処に人間は戻らないだろう。もう島が、白と灰色の翼に変わりつつある。此の場所もやがて物語の中にしか存在しない架空の土地へと昇天する日も近いであろう。」
 翼の孤島。それは天使や鳥達のような美しい羽が雪の如く舞い降る景観を持つ証ではなく、これから跡形も無く雲になろうとする無人島を意味する名称であり、やがては霧へとなるこの動作は、島の意図に関係無く発生するものなのです。
「翼の孤島を無くすことは我々では止められない。」
 人間が移動し新たな文化を築くのを止められないように。私はローブの中から水色の三日月形(みかづきなり)をした小瓶を取り出して栓を開けました。すると廃墟の歌声は瓶の底に白い風船のクッキーとなってころんと沈みます。此れが母の仰有っていた特別な材料集め、魔術使いの中では“読みかえし”と呼ばれる作業なのです。

ガラクタより

 私達が日常を温和に過ごしている間に、幾つもの土地が無人島となり、翼の孤島へと羽化していったのでしょう。お腹が満たされてお昼寝を始めたシャーロットを起こさないように気を付けながら、私とエスメラルダは氷柱馬に乗り次の目的地へと移動しました。
 次の無人島はガラクタの集められる場所でありました。其処では昔人と生活をしていたであろう道具や器材、人形にぬいぐるみ、おもちゃや本が寂しい歌を語っていましたが、旋律は言葉で聞き取れない歔欷(すすりなき)となって低いヴィオラの溜息のような声が街中に谺しておりました。言葉を失くした悲嘆は、もう間も無く羽化するサインなのです。
雪若(ゆきわか)、小瓶を。」
 呆然とする私にエスメラルダは指示をして、私達の任務を思い出させました。小瓶を出して(てき)した水晶はやがて黒いシルクハットのチョコチップクッキーへと成りました。
「こんにちは。あなたがたもガラクタになりに来たのですか?」
 一番星の金平糖。私達に声を掛けてトコトコ歩いて来たのは、そう名告(なの)るうさぎのぬいぐるみでした。その子の片耳は綿がお菓子のようにふわふわと零れ、生地は綿の重さに耐えきれずぺたんと垂れ下がっていたので、エスメラルダは一番星の金平糖の下垂(しだ)れる片耳に手を当てて、トネリコの古い物語を唱えました。

 月影の街、遠い都
 瞳を開けて地面を見つめた記憶は何處に
 湖水の空はまだ口をつぐむ
 莟はまもなく気づくだろう
 海の水底忘れじの涙が
 夕日影に包まれることを黄昏の喜びを静かに歌え
 月影の街、遠い都よ

 昔を想う言葉の調べは、一番星の金平糖の耳のほつれを縫い直し、以前のように綿をきちんと閉じさせました。すっかり軽くなった元通りの耳をぴょこぴょこさせるミント色の子兎はエスメラルダに抱きつききゃっきゃとはしゃぎます。
「おまえも一緒に来るかい?こうやって話をしたというのも何かの縁に導かれてのものであろう。」
「うれしい!」
 こうして私達の仲間に一番星の金平糖が加わったのです。

「もう喋られるものは貴方だけなの?」
 一番星の金平糖は私の頭の上でこくりと頷きました。
「みんな音楽になってしまったの。ねえねえって話し掛けてもヴィオラの音しかしなくなっちゃったから、羽化するまでにもう一度誰かとお話がしたくってあっちこっち歩いていたら、雪若達を見つけたの。」
 羽化して空へ舞い踊って昇っていく誰かの故郷を眺めながら、私達四人は次の場所を目指します。
 ところで、私は此の時どうも引っ掛かっていることが一つあったので、一番星の金平糖に尋ねました。
「ねえ、先程の質問はどういう意味?」
「先程の質問……ガラクタになりに来たのか、と言ったこと?」
「そう。」
 エスメラルダも同じ考えだったらしく、私をちらと見て小さく頷きました。シャーロットは行手(ゆくて)をほけっと眺めています。
「噂話を聞いたんです、だから事実かどうかは分らないけれど…わざわざ羽化すると決まった土地を訪ねている方達がいるらしいと、人間が立ち去る前に話していたのを耳に挟んだから。」
「それは我々のことか?」
「いいえ、その方達は全く人間なんですって。エスメラルダさんやシャーロット君のような獣ではない、雪若さんのような魔術を用いる人でもない、昔此処に暮らしていた者達と変りの無い人間らしいのです。
「人がわざわざ翼の孤島へ?」
 確認すると一番星の金平糖はまたもこくりと頷きました。
 何故人間の世界から存在出来なくなる場所に人間が赴くのか。私は嫌な想像をしました、とても不吉な仮説です。人は、もう生きていくのが嫌になって、本来の命を投げ捨てて踏みつけにし、自分はガラクタだと偽って死んでいるのではないか…あゝ、今、此等(これら)の文字をしたためていても手が震えます、指先を霜に喰わせたように痛みと震えが襲って来ます。冷たい壁に四方を囲まれながらでもまさかそうではあるまいと鼓舞する胸はエスメラルダがトネリコ王国を去った原因を再び読み聞かせている。
 思い出せ、春のひだまりの魔術使いが亡くなった理由を。相棒の悲しい過去を聴いた時に一瞬確かに感じた激しい怒りを。
 人間なんて迷惑なだけだ!
 本当に?
 私は次の島へ到着するまで、何も言えませんでした。どれほど怖い顔をしていたのでしょう。

地層

 化石は地球の生き字引、石は惑星の何たるかを唯一知る。この句は魔術使いであれば幼い時より馴染みのある言葉です。幾つか異なる点を持っていると雖も人にも理解のし易い概念ではないでしょうか。
 今度訪れた場所は未だ羽化も進んでいないどころか、街行く人々が現に活気に満ちた表情で挨拶を交わしている所でありました。
「翼の孤島にはまだ当分なりそうにもないみたい。」
 王国を出てから人の声を聞いていなかった私達には、賑やかな雰囲気がイルミネーションみたく心惹かれる煌めきであったのです。
「此処では木の実や清水、それに雑貨も見てみようかしら。シャーロットも雑貨屋さん行くの好きだものね?」
 シャーロットはぴい!と元気よく返事をしました。トネリコにも街中に雑貨や小物を扱うお店は多く、この小さなアザラシ芋虫さんはそれらのお店を窓越しにキラキラした円らな眼で見つめていたのは少なくありません。
「では街の散策と行こうか。」
 エスメラルダもにこにこ笑って頷きました。一番星の金平糖が仲間になってから初めての散策は、皆にとって楽しみなことであったのです。
 街は赤茶の鮮やかなレンガで組まれており、歩く人達は全員一輪だけの花束を白い布に包み、茎の辺りで黒色のリボンを結わえていました。此処は花屋かそれとも花畑が在るのだろうかと思っていますと、一人の男性の声がしました。
貴女(あなた)は花をお持ちではないのですか?」
 振り向くと目鼻立ちのくっきりとした、私より二つほど年上らしい青年が切れ長の眦涼しい瞳を丸くして立っているではありませんか。彼を見掛けて真先にエスメラルダが私と青年の間に入り込みました。相棒は私がトネリコ以外で男性と、しかも魔術使いでない人間の男性と会ったことも話したことも無いのを憂慮したのです。エスメラルダの私を庇う動きを不審に思うどころか青年はかえって微笑みました。
「あゝ、申し訳無い。いえ、貴方が心配されているような狼藉を働いたりは致しません。大変失礼をしました、いきなり大きな声で女性に話し掛けるなど男にあるまじき行為です、本当に、申し訳無い。」
 青年はエスメラルダと私に深く黒髪の清潔な頭を下げました。エスメラルダは目を泳がせる私とは対照的に青年の心臓の辺りをじっと見据えています、彼の本心を見通しているのでしょう。数秒後には此方を見向いていつものにこにこ顔を示したところから、彼は信用に足る誠実な人物であったようです。
「疑って済まなかった。其方(そなた)は良き人間であるようだ。名前は何と申すのだ?」
 私の傍ではついぞ見せたことの無い王様の風格と威厳を纏って青年に話し掛ける彼にふきだしてしまいそうになるのをこらえることが少しばかり大変でした。その為、私の(ひそ)かに微笑むのを青年がちら、と見ていたことに気がつかなくて。
「…………」
 青年が何も言わないことに気が付いて、私はようやく彼の顔を見返しました。
「どうかなさいましたか?」
「あっ、……いいえ。何でもありません。何でも。……自分の名前は雪嶺(せつれい)と申します。」
「せつれい?」
「雪の(みね)と書いて雪嶺です。自分が生れた時、両親が雪の恵みを受け続けていられるようにと願いを込めて戴いた名です。」
「私も、似たような願いを託されて名付けられました。雪若。私はトネリコ王国の魔術使いで、現国王の娘です。」
「雪若様…」
「そんな、様と呼ばれるような者ではありません。一介の魔術使いですよ。」
 雪嶺の真直ぐに見つめる秋桜色の瞳に、満月の色で染められた私の薄青と藤の花の混じった瞳が伏せているのが故郷の湖に映したかの如く搖れました。
「あの、ところで雪嶺さん、此の街の人達は如何して全員花を持っているのでしょう?」
「それならば、雑貨店に入れば分ると思いますよ。」
 私は雪嶺さんに手を優しく引かれ、その後ろにエスメラルダが続く形でメインストリートを歩きました。私達がよそ者扱いをされないのは雪嶺さんの居てくださっている為か、此の土地の人柄に因るものかは判断出来ませんでしたが、何にせよ小石などを投げつけられる事が無いのは良いことです。
「さあ、此方に。」
 辿り着いたのは“雲のポン菓子”と楕円形の木のプレートに手できちんと彫られた看板がドアに掛かる一軒のお店の前でした。
「可愛らしいお店のお名前ですね。雲のポン菓子。フフ、シャーロット慌てないのよ。」
 金縁の立派なドアの取っ手を握り、お店の中へと入りました。すると…あゝ、私は今でもあの景色をまざまざと眼前に見るように一つ一つ思い出せます、土の匂い、石を砕く音、発見した時の笑い声、期待外れに落胆した時の溜息まで。ですが、それらを詳らかに記すのは、どうしても憚られてなりません、いいえ、もっと正直に申しましょうか、怖いのです、恐ろしいのです、そして雪嶺さんが如何してトネリコ国の住民を慕っていたのか、それは生娘が瞼に咲かせるほのかな色づく純情からではなかったのです。
 其処にはティーカップやケエキスタンド、銀食器にティーコゼーなどが並ぶ場所ではありませんでした。其処には片目の落ち窪んだ老人が一人で笑ったり疲れたりしながら地層を削っている景色が広がっていたではありませんか。老人は来客に気が付き私の顔をバネが壊れたような激しい勢いでぎゅるりと振返って眺めました。彼の顔を一目見た途端、話し掛けようとする私を遮ってエスメラルダが店の硝子窓を氷柱の馬に蹴り散らさせ、大きな音に身を竦めた私を抱えて“雲のポン菓子”を脱出しました。
「エスメラルダさん、どうしたんですか?」
一番星の金平糖が私の肩から離れないように衣服をしっかり握っています。そうでもしないと吹き飛ばされてしまいそうなほどエスメラルダは白馬を全力疾走させていたので、私は馬の速度が落ち着いたら彼に質問しようと思いました。尤も、エスメラルダの方から何が起きたのかを語ってくれるでしょうけれども…
 街が遠く霞んで此方に触れられもしないくらい離れた白砂の上で、ようやく氷柱馬はおとなしくなりました。体力が限界に到ったのではなく、主人がそう命じたからです。
「シャーロット、済まなかったな。雑貨屋さんで遊ばせてやれなくて…」
芋虫は心配そうに話すエスメラルダを私の腕の中から見上げています。
「だが、彼處(あすこ)はおまえの好きな雑貨店ではなく、そもそも店ですらないのだ。あの店…の毛皮を被った場所は地層に間違いないであろう。」
 化石は地球の生き字引、石は惑星の何たるかを唯一知る。
 地層と言う語を聞いた瞬間、私の胸には魔術使いが自らを戒める為の警句が雷光となって表れました。

銀河を怯やかす者

 魔術使いと人間は少しだけ違っています。文化や思想は言うまでもありませんが、一番の違いとは恐らく、欲しいものを手にする事が出来るか否かでございましょう。私達は生れた時から自分の求めるもの、必要とするものが何であるかを知っています、何方(いずれ)も其等は自らの力に沿ったもの達であるので、手にする事は難しくはないのです。
 ですが、人間は違いましょう。彼等は成長していくに連れて、求むるものも変質していくのです。生れた時は母乳を望んでいた者が、今では富を求めるのは珍しくない現象なのだそうで。
 人は苦労して欲しいものを得ようとしますが、魔術使いは苦労せず欲しいものを手に出来ます。その為、世界の中で自分達が最も優れた生物だと思い上がらないようにと、戒めの言葉を編んだのです。
 魔術で雨を降らせることは容易いですが、何故雨を降らせられる力を与えられたのかは分りません。風を吹かせて荒れさせることも簡単ですが、何故荒ぶる力を風に与えられたのかは分りません。私達は自然現象の名称や絡繰りを知識として持ってはいますが、その現象が何故起るのかまでは知る事が叶いません。けれどそれを唯一知っているのが周りにたくさんある太古の物語達であり、昔話、昔の記憶、総じて物言わぬまゝ時間に埋れた存在なのです、私達は其等の記憶語りのもの達を化石と呼んだり、もっと身近に石と呼んだりしています。古い物語に敬意を払うことで、魔術使い達は自らの世界での立ち位置を整えて見つめ続けて来たのです。
 警句であれば人間も澤山持っていると言うのに、如何しても言葉は人の骨に透るばかりで沁みはしないのでしょうか。もし注意書きを一言一句取り零さず読める種族であったのなら、地層のような恐ろしい怪物は産まれなかったでしょうに。
 地層とは古い物語を無かったことにする行為を働く人間を意味する単語です。お間違いの無いように申しておきますと、(さき)にお話ししました羽化とは異なるもので、羽化が自然に薄れて空へと溶けゆく月のような現象であるのに対し、地層は意図的に世界から物語を追放し、行き場の無くした物語達を自らの立つ足場に生き埋めとし、都合の良い時にだけ働かせる奴隷主人のような存在です。
 先程逃れて来たあの街は、生きたまゝ殺され自由を奪われた物語達を見目良く整え訪ねる者の目に理想の姿として映るように設定して旅人を喰らおうとする場所、魔術使いの共通言語で言えば銀河を怯やかす者の支配する場所だったのです。
 私達の故郷の言葉に、銀河は幾千もの旅人で紡がれている、と言う教えがあります。ゆえに、旅人を異邦人として追い払うのではなく、宇宙を構成する星の一粒だと重んじなくてはならない、(いづ)れか一つでも壊れてしまえば惑星も恒星も目を塞がれてしまうからと、母は丁寧に幾度も教えてくれました。
「ねえ、あの街はどうなってしまうのでしょう。」
「雪若の望むハッピイエンドにはならないよ。」
「あすこにはもう羽化することも叶わないだろう。でも放っておけばトネリコが見守る世界にまで影響を及ぼす。」
「このままにしておくのは、認められないのですね。」
 シャーロットをエスメラルダに渡し、背中に隠していたユグドラシルの枝から編んだ私より背の高い杖を取り出し両手で握ります。
 この日、銀河を怯やかす者、地層のはびこった土地は、霙の矢雨(やさめ)に跡形も無く滅びました。どれだけ遠く離れても老人の断末魔は一行の耳に残らず届きました。

 翼の孤島を巡り、読みかえしをこなし続けた後、普段いつも集めている木の実と清水、枝葉と花をまだ持っていない私達は、四種類を何處で拾おうか話し合いました。
「いつもは決まった場所に取りに行くの?」
「いいえ、これらはいつも歩いていれば自然に集められる物ばかりなのだけれど…今回は読みかえしを含んでいるからでしょうか、いつもの材料が全く手に入らないわ。」
「このような事態は私も初めてだ。それゆえに気掛かりでもある。トネリコに何か異変でも起きたのだろうか。」
 エスメラルダの言葉に、出立前(しゅったつまえ)の陛下を想いました。
「…一度、トネリコへ戻りましょう。もしかしたら帰る途中で四つの材料を得られるかもしれないし、それに、普段何気無く集められる物なら改めて取りに来れば問題は無いと思う。今の私達の心境では旅を続けても収穫が望めないわ。帰りましょう。」
 他の三にんも同意見のようで、提案に頷いてくれました。こうして私達一行は故郷へ戻る手筈となったのです。

 トネリコ王国の傍には、宿り木の上り下りをする物静かなリスが住んでいます。彼女はいつも古びた小さな本を抱えており、陽の出る間はユグドラシルの頂上で頁を捲り黙々と読み続け、月が昇る頃には根元に座りまた読書を進めているのです。その間誰とも口を利きませんが、その表情は人間嫌いのような他者を寄せ付けたがらない類のものではなく、いつでも抱きしめてよいと微笑むそよ風の雰囲気を湛えているのです。そして彼女はとても正直ですなおな性格の持ち主でしたから、よく魔術使いのパーティーに招待されたり、私達の畑仕事を進んで手伝いに来てくれることもありました。もうじきでトネリコの世界樹の水気が感じとれる距離にまで私達が戻って来ると、彼女が向うから走って来るのが見えました。
「雪丸、どうかしたの?」
 私が彼女に話し掛けると雪丸は息を切らせて声も絶え絶えに話しました。
「雪若お嬢様、エスメラルダ様、トネリコ王国に戻ってはなりません。」
見ると彼女の身体は擦り傷や切り傷に塗れて赤い血が滴っています。
「雪丸、そなた怪我をしている。今治すからじっとしていなさい。」
 エスメラルダは馬から降り、雪丸の額に手を当てますと、彼女の傷はみるみるうちに塞がれてやがて痕形も分らなくなりました。痛みがひいて冷静になれたのでしょう、雪丸はトネリコに何が起きたのか語り始めました。
「トネリコに流れ着いたマーガレットと名乗るあの男は、交流や交易が目的ではありませんでした。あの者は最初から魔術使いの有する力が狙いだったのです。人間の持てない力を自分達の世界に持ち込もうとしていたのです。丁度貴女方が陛下の(めい)で国を出られた後でした、雪若お嬢様の気配が追えない程の距離となったのを良いことに、奴は態度を一変させて横柄な調子で語り始めました。
“汚らしい異物の輩ども。貴様等の持つ不思議な力を渡してもらおうか。”
 そのような人物を母が見逃す筈はありません。思わず私が話を遮りますと、雪丸は悲しそうに目を伏せました。
「お嬢様、仰有る通りです。女王陛下は最初からマーガレットの目論みを見抜いていました、そして、彼を殺さないとどうなるのかも…ですが、ですが、それを全て御承知の上で陛下は貴女を旅へ行かせられたのです、エスメラルダ様達に守ってもらう為に陛下は貴女を外へ向かわせられたのです。それは、エスメラルダ様も分かっていたのです。トネリコの…トネリコ王国の寿命が来たのだと言うことを。」
 耳鳴りがまるで他人事のように素知らぬ風をして続きました。私は雪丸の言わんとする事を理解しながらも受け容れられなくて胸に抱くシャーロットの温もりで心が冷えて凍って行くのを騙しました。でも、でも、
 息を切らして呼吸も酷く駈け着いた場所は、私達の愛する景色の広がっていた故郷ではありませんでした。破壊の嘲笑が濃く刻まれた街中には、旅の無事を祈って微笑みと祝福を贈ってくれた国民の動かぬ石碑のような凍った身体が幾つも幾つも横たわり、何度もつまずき立ち上がれず、這い身になって震える指で開いた城の扉の内側には、地面の大理石に磔にされ跡形も無く鮮血に塗れた国王陛下(ははおや)の御姿がありました。
 あの時私は自分が叫んでいたことなど気が付きませんでした。ですが間違い無くあの時から羅針盤には錆の匂いが染みつき、少しずつ少しずつ侵蝕し始めていたのです。

満潮

 家族と国民全員分の墓を世界樹の根元に建て、弔いの儀式を結ぶ白い秋桜を風に吹かせた後、私達は誰が言うとも無しに墓の近くへ座り込み、黙って哀しみを分ち合いました。私達の慣習(ならわし)では、喜ばしい時にはホットココアを、悲しみの時には紅茶を円卓状に座って共に飲むのです。そしてそのお茶うけには決まって木苺がそなえられるのでした。黙々と静かなお茶会をしていると、隣に座っていたエスメラルダが近付き、私を深く抱きしめました。彼だけではありません、シャーロットも、氷柱の馬も、一番星の金平糖も、雪丸も、言葉は無いまま温もりを分け与えてくれました。そして私も、唯一生き残った友たちに同じように体温を分けました。
 何年私達はそうしていたでしょう。夜を迎え朝を迎え、夢の望みを見ては覚めてを繰り返し、ようやく私達は再び言葉を用いることが出来たのです。
「エスメラルダ、トネリコの寿命とは…何の事?」
 腫れの治まった私の目をまだ気遣わしそうに撫でながら、それでも私の問いから外れる事もせず。
「一つの樹の寿命、と言うことだ。ユグドラシルをまた新たに育てる時が来たのだよ。」
 ユグドラシルは人の世界と私達の世界を結ぶ清廉な居大樹、それはずっと同じものが伸び続ける訳ではなく、或る時必ず人間の手によって燃やされつくすのが決まりなのだそうです。そして焼け野原の後、エスメラルダとその相棒となった魔術使いがまた樹を生やすのだと言います。
「お母様はそのことを御存知だったのですね。」
 若く美しく気高いあのお顔の裏に、私の知らない秘密を幾つ抱えていたのでありましょう。私は何も知らないで恵まれた環境に身を置いているだけでした。生れた時あんなに祝ってくれた方々に、私は、本当にすまないと思うのです。相棒はそれを見通したのでしょう、
「雪若、トネリコの死は避けられない決まりだったのだよ。君が気に病むことでもないし、またそうしたところで如何にもならないのだ。今我々が成すべきは新たなユグドラシルを育むこと、此れが先ず最優先。思い湧くことは澤山あるが今だけで良い、胸にそっと閉じておきなさい。」
 次のユグドラシルは湖の真ん中に植えることにしました。以前は緑深い若葉が隙間も漏らさず残っていたのですが、此度の葉は水の色を投影したのか、極光のたなびく光と水底の新月濃い藍碧をぼかして滲みも含ませた姿をしていました。それらに残らず雪が降ります。
「羅針盤の要素も見に行こう。」
 城の奥深く空近く、星屑の今際の炎を紡いだ蜘蛛糸で編まれた鐘のような羅針盤がそびえます。これは世界樹を支える言わば土のようなもので、この秒針枯れぬ羅針盤だけは、樹が燃えても決して失われないとのことでした。
「この羅針盤の針が止まってしまったら、人の世界は完全に消えて名残も失われてしまう。」
「羅針盤に名前は無いの?」
 一番星の金平糖が訊くと、エスメラルダは答えました。
「私の王となった頃には確かニレの樹と呼ばれていたな。」
 ニレ。今私が昼夜見守り続けている物の名です。ニレとトネリコが一緒に在ってはじめて此の宇宙(そら)が成り立つので、二つは切っても切れない手毬の綾糸で繋がっているのだと、エスメラルダは言いました。本当に彼には知らない事など無いみたいです。
 エスメラルダ。私は貴方を愛しています。そして同じくらいシャーロットも一番星の金平糖も雪丸も氷柱馬も愛しています。そしてこの愛は、トネリコ王国にも、国民にも、お母様にもそそがれていたのです。これが雪の峰より与えられた清廉な春告鳥の涙であるならば、私が人間に抱くこの心は間違い無く雪解け水ではないのでしょう
 私の愛する満月の色は、時折ニレの樹に赤い錆を投げる悪夢の色になります。

 人間を恨むなど、鎮めの湖の力に背く身勝手な行為です。私は現に一つの街を滅ぼしました。人の世界にある律法によれば、命には命を以て償えと記載されているではありませんか、魔術使いは魔術の使える人間で、人間は魔術を持たない魔術使い。人を殺めて秩序を保とうとした分際で何一つ正当性など持ち得ないなんて何度も勉強したことなのに、私は今国で学んだ規律を歪めようとしているのです。人間達への憎しみを自覚すると、私は決まって湖へ赴きました。どれだけ悔しい怒りでも、悲しいだけの涙でも、白く彼岸花の水中に咲く中に身を浸せば小鳥があやされ眠るように静かな寝息となるのです、そして暁頃に仲間達が、今日はシャーロットの声でしたが、起こしに来てくれるのが常でした。
 城の内側で勉強していた頃は、このような結末が用意されているなど夢にも思いませんでした、私は何と未熟であったのでしょう、本に残された物語の中には悲恋もあったのに、それらは本の中だけの出来事だと知らずの内に決めつけてしまっていたのです。
「もう一度、読み返してみようかしら。」
 ニレの樹の傍で小瓶を開けました。先に(ことわり)に従って滅んでしまった場所の物語を、私は今一度見なければならないような気がして、羽化して飛び去ってしまった言葉達、人に知られることもなく翼となり雲の霧へと重ねられた物語、集めた御伽話にもう一度触れたのなら、この心は鎮まるのでしょうか。白い風船のクッキーを私はポリリと食べました。

 其処は、人を愛するものが集まる場所でありました。わたしはその中の一つ、三階建の黒と赤の煉瓦で組まれたビルでした。わたしは自分の名前を欲しいと望んだことは無かったけれど、人間はわたしを桜桃ビルヂングと呼びました。わたしの足元に並んでさくらんぼの木が一本植えられていたからです。
 その木には毎朝小鳥がやって来ます。朝日と共に訪れたサファイアの小鳥達は、宝石で造られた身体の手入れを小さなダイヤの嘴で済ませると、枝の上から街に向けてハミングするのが日課でした。その鳴声に連れられて、一匹の黒曜石のハリネズミがとことこ歩いて来ます。
「小鳥さんおはよう。今日も優しい歌声だね。」
「ハリネズミさんおはよう。そういってもらえて嬉しいな。」
「桜桃君もおはよう、具合はどうだい?」
「ハリネズミさんありがとう、わたしは今日も元気みたいだよ。」
 このような特別でない会話を繰り返しながら、わたしは街行く日予備とを眺めるのが好きでした。わたしの皮膚に小さな外傷が増えて行こうとも、そんなこと気にも留めないほどには。
 或時、よく出入りをする男性が一枚の白紙をペタリと貼り付けました。自分の背中に何が貼られたのか見えないので、ハリネズミさんに読んでもらうことにしましたが、ハリネズミさんは中々教えてはくれず、何か口籠っているようです。
「ハリネズミさん一体如何したのですか?」
 わたしが問い掛けますと、ハリネズミさんはもう少し黙りこくった後、貼り紙の内容を声にしました。
“老朽化により立ち入りを禁ず。”
 わたしの元から会社は去りお店は移転し、人は残らず居なくなってしまいました。そして、桜桃ビルヂングは建っている事を認められず、とうとう小石の姿にさせられてしまったのです。こんなに小さくなった以上、昔のように首を回して近くを眺める事も叶わないので、桜桃の木が如何なってしまったのか尋ねる旧友に問いました。
「ねえ、あのさくらんぼの木は如何していますか?」
 小鳥さんはぴちちゅりと囀ります。
「ねえ、あのさくらんぼの木は如何していますか?」
 ハリネズミさんはころころと駈け回ります。
 わたしが小さくなって動ける空間が増えたからと言って、二人とも喜びすぎではありませんか?私の質問に返事をしてくださらないと寂しいではありませんか、黙ってしまって。
「ねえ、如何なっているんです?」
「さくらんぼの木は?」
「如何なっていますかさくらんぼの木は。」
「さくらんぼの木ですよ、御存知でしょう。」
「もう景色を見る事が叶わない姿になってしまったので、教えていただけませんか。」
「ねえ、さくらんぼの木は如何なっているんです?」
「あの、お答えいただけませんか。」
 ねえ。
「ねえ、さくらんぼを知っていませんか。」
あの
「如何して御存知ないのかしら。」
さくらんぼは
「教えてください、教えてください。」

「知っている筈でしょう、貴方は。」

 その一言が、クッキーの後味でした。私は閉じていた瞳を()けて、(ひら)いていた聴覚をもう一度閉じました。いつまでも現実を見向けずに夢を喰らって記憶を喰らって誤魔化しても幼い晩餐は終わるもの、それを厭い今度は自らの肉を引き千切り、やがて此処に居たのが何者かも分らなくなっていく。
 この建物はいつから目を瞑っていたのでありましょう。最早其を知る術もありませんが、羽化した先で小石が誰かの両手に掬われていることを願います。そして、忘れません、貴女が語ってくれたバッドエンドを。

「エスメラルダ。」
 随分久し振りにニレの樹から離れた私が城の階段を降りてユグドラシルの最も根元に駈けて来るのを見たエスメラルダ達は、わッと私に馳せ寄り囲みました。
「雪若。よく此処迄降りて来られたな。」
「お嬢様、お具合は?」
「シャーロットも嬉しいみたい!」
「ぴい!ぴぴぴ!」
 一人一人に話しておきたいことはあるけれど、今は郷愁を抑えて。
「私、人間の世界へ行きます。一人で。」
 トネリコ王国がいつか再び人の手で滅ぼされることが定まっているのであれば、私はその規律を破ってやる。そして二度と黙って殺される者を生ませやしない。私は王国を二度と奪われたくない、失いたくない、その為には先ず敵を知り行動や感情を把握しなければならない。もう部屋の中で羽を待つだけの日々は終わりにしなければ。そして新たな幕を開くのです。
 愛する友に背を向けて私はユグドラシルの根の一部を杖を逆さまに返し切りつけると、その傷から零れる綿に手を伸ばしました。
 小瓶にはシルクハットのチョコチップクッキー。そして、そのお菓子を食べたそうに眺めるアザラシ芋虫。……?
「え?」
 雪若は素頓狂な声を上げた。だって、置き去りにした筈の仲間が当り前の顔をして自分をじっと見つめている。(シャーロットは別だが)
「どうして?」
(どうしてもこうしてもない。友人を一人異国に放って置ける訳が無いであろう。)
(一人で行かないで雪若、僕達も連れて行って。)
(お嬢様、私も傍に居させてください。)
「ぴー。」
 雪若の前には小さなぬいぐるみが三つ、姿もそのままふわふわにした抱きぬいぐるみがちょこんと座って待っていた。
「何故シャーロットだけそのままなの?」
(それは…)
「それは?」
(シャーロットが…その、ぬいぐるみになるのは嫌だと駄々をこねてしまってな。だからそのまま連れて来たのだ。)
 シャーロットの種族は氷で拵えた背中が特徴的で、ぬいぐるみになればその氷のつやが失われるから嫌だと頑固にも首を振ったと言う。雪若は彼の背中よりも目をまろくした。赤子だと思っていた子にしっかりとした自負と自我が根付いていたとは。
「じゃあ…シャーロットはこのまま抱っこして行くことにします。他は皆ポーチに入ってくれる?」
 緞帳が上がり、世界樹の真綿に包まれた一行は、旭日の舌へ運ばれて行く。
 誰かがそっと背中を押したような気がした。

四季の無い国

 熱い胸を冷ますような風が、黒い桜を咲かせている。銀の波がしぶきを上げて白い枝葉に散り掛かる。くるくるとネジは回りオルゴールの景色はまた一から動き出す、絡繰をカタカタと織る音はヴィオラの独奏にリズムを刻んで。
 第一の舞台は観客無しの屋外劇場、一人と一匹は佇んで背景美術だけの世界を眺める。空は黒く白い星点描で突つかれてこちこちと時計の針の煌めきを返す。人間に会いにやって来たが人影も見当らぬとは如何に。
「此処も街なのかしら、故郷と地続きになっていた街々とは同じようには感じないけれど…」
 斜めに肩掛けにした若草のマカロン型のポーチからエスメラルダが顔だけをひょこり覗かせた。
「雪若、人間の姿が見えないからと言って人の無い街だとは限らないぞ。杖を使ってみなさい。」
 扇を翳すようにくるりと一度杖を回せば、誰も座っていない筈の椅子に青黒く燃える楕円形をした物体が、一ツ目を橙色に光らせながらじっと舞台を見続けているではないか、それも一人や二人でない、劇場を離れた丘の向うからも鯨の寄せる波のようにずらずらと列をなし時折左右に身を搖らし乍らその場に留まる者達は何。
「これは…人?」
 最前列に座る存在の気配に見覚えがある。まさか、此奴は。
 前のトネリコを滅ぼしにやって来た人間、マーガレットだ。
 エスメラルダの発言と雪若の胸中の悲鳴は重なり合った、そして、杖の先を鋭い(しろがね)の剣に変えて奴の喉元へ突き立てようとするのとシャーロットが雪若の顔面に飛び乗ったのも同時であった。
「シャーロット、離れなさい!」
「ぴいー!」
 ころころと無垢の砂金が雫の形を借りて彼女の胸に散り掛かり、沸き立つ脳裏に月夜の冴えた風が吹きつけた。
「シャーロット。……シャーロット。もう平気よ、傷付けない。…そうだよね、殺しに来た訳じゃないんだもの。」
 杖を元の長い枝の形に戻して背中にしまい、ほろほろと悲しむ幼子を抱いて宥める。
「ごめんね。ごめんね…貴方に悲しい思いをさせてしまって。ごめんね…ごめんなさい…」
(でも、エスメラルダ様、此の姿は実際国に来た例の男とは随分格好が違います。)
(本当に、人間なの?僕の知っている人間とは似ていない気がするよ。)
 シャーロットが泣き止むまで娘の疑問は雪丸と一番星の金平糖が代弁した。尤も、エスメラルダ(とシャーロット)以外は同じ質問をしたがったであろうが。
(これは罪人として定められた生命だ。罪とは、一つの場所を自分勝手に終わらせること、自らに与えられる蹂躙と支配の快楽を望み生れた者は罪を犯す事を約束されているが、その後寿命を全うしたら此処に運ばれる。現世(げんせ)でも幽世(かくりよ)でもない四季の無い国だ。)
 四季の無い国?
「でも、舞台の背景に描かれているあの絡繰は四季を表しているんじゃないの?」
(よく御覧。)
 泣き止んだシャーロットを起こさないようにそっと装置に近づくと、
「四季じゃない。」
 線で描かれていると錯覚した絵の輪郭は、その(じつ)言葉でありました。様々な言語や単語が入り乱れ呼んでも意味の通じない直線や曲線となってはいるが、その文字を一目見た者であれば意味は分らずとも意図は肌身に感じ取られることだろう、と若い娘がぞッとしたほど、怨嗟に満ちていたのだから。
「これは、怒り?」
 震える問いにエスメラルダはうむと短く肯定する。
(もっと正確に言えば怒りだけではないのだがな。恨みつらみ、嘆き悲しみ、憎悪と報復も含まれている。此処の観客達は主演の居る歌劇を望むことは永劫叶わない、自分達の手で何處かの主人公を終らせてしまったのだから。彼等はずっと読み取りも聞き取りも出来ない相手を見続け口を開くことも認められず動くことも許されない、ずっと今いる其の場に在らなくてはならない。)
「罪人達は四季の見た目をした毒の傍を離れられないようにされているのね。それも、こんな数……」
(四季とは生物の感情を示すものである。喜びや興奮、寂寞や悲しみ、実に細かな起伏を顕す一つの(ことわり)だが、罪人は理の中に存在することは出来ない。)
 背景美術は音ある無言の内に罪人を閉じ込める城壁、他人を貶め傷付ける笑顔をしたが為に二度と出られない、死にもしない彼等を凝視し続ける棺の壁。
「ぴ。」
 懐かしい声に目を向けて雪若は再びユグドラシルの根を切った。此処では復讐なんてしようとも思えない。だが生死の外に追いやられた因果者どもを最後ちらりと盗み見た時、彼女の唇には微笑が湛えられていた。

青い籠

 薔薇は一片残さず青に濃く染まっていた。ぐるりぐるりと十重二十重(とえはたえ)に屋敷を取り囲む花々は情念を失わぬ蛇のようで風に晒され乍らも鱗の一粒とて砕け散りはさせなかった。
「此処に罪人が住んでいないことを祈りましょう。」
 雪若はすやすやとお昼寝をするシャーロットを風で飛ばされぬようしっかりと胸に抱きしめ、雨の破片厳しい寒さの中を一歩一歩靴を濡らしながら霞む邸に近づいていた。
「こんな水は初めて浴びる。トネリコではこんな天気一度も無かったもの。」
 吹きつける水は硝子片の冷気を纏い深夜の通行人を流し目で見送り餞に水銀の体温を静かな微笑みと共に肌へと刻む。寒さ冷艶(れいえん)が皮膚の湖面下梅花藻に秒針を透して沁み込めば生物は忽ち白い戸惑ひを呼気に吐き頬は血の色を表に露見さす。真冬の深更温かい息をはあはあと白く吐く雪若の唇はそれでも苦痛に歪んでいるのでもない。
「けれど私の鎮めの湖の力によく似ている。清々しいわ、可笑しいの、凍えつきそうな冬だって言うのにね。」
 マカロンポーチのショルダー掛けの三人も、特に心配している素振りは無いが、それでも仲間の故郷をよく知らない一番星の金平糖はほんのちょっと目を俯向き。
(真冬の嵐なんて聞いただけでも怖いような天候なのに、何故雪若は楽しそうに笑っているんだろう?)
(大丈夫よ坊や。お嬢様は決して正気を失った訳では無いの。只、自分の持つ魔術と似た力を感じたのではないかしら。)
(じゃあ此処には魔術使いがいるかもしれないと言うこと⁉)
(そうね。魔術使いはトネリコだけに暮らしているとは限らないから。今は何よりあの屋敷へ入って情報を集めなくちゃ。)
 扉の高い呼び鈴を指の代りに杖の後ろでビィーッと押すと、少々の沈黙の後、一人の青年が現れた。
「……雪嶺さん?」
「…雪若……様?」
 娘の手で滅ぼされた筈の地層に侵食されていた土地で出逢った最初の人間、かの好男児雪嶺が燕尾服に背筋を正しあの時より数倍洗練された美しく凛とした顔立ち端正に屋敷の内側に立っているではないか。
(お嬢様、此方の人を御存知なのですか?)
「あの…」
 雪若は雪丸の問いに答えられず、雪嶺の瞳を見つめるばかり。そしてそれは向う側も同様だったらしく、花と月は互いに互い僅かな疑いを抱いて眺めている。双方共に言葉を思いつかなくなった時、屋敷の内より声がした。
「雪嶺、何をしているのです。客人をいつまでも外で待たせてはなりません。早く(うち)へ入れてさしあげなさい。」
同時に、コツコツと段を降りて来る足音が。主人らしき者の声にハッと意識を戻したのか雪嶺は雪若達を扉の中へと招き入れ、
「主人がお待ちです。どうぞ此方へ。」
暖房のよく利いた室内へ案内した。其処は応接間らしい風格と威厳を備えた一室で、部屋の広さは言う迄も無いが赤い天井から吊下がっているダイヤモンドであいらわれたシャンデリアの光、そして品の良い群青と深みのある焦茶で整えられた肘掛椅子や長机、硝子の戸棚に収められたウイスキーやブランデーの琥珀の瓶に到る迄どれを取っても立派と言わざるを得ない堅実に満ちていたので、雪若は呆気に取られてシャーロットをきゅっと抱きなおすことしか出来ないでいた。
「なんて立派な調度品…此処迄骨組みの確かで搖らぎの無い家具は城の中でしか見たことが無い…これは、貴方がお作りに?」
 雪若の斜め後ろに控える雪嶺は気恥しそうに「はい。」と短く返答したが、その直ぐ後に再び先刻の声が。
「もっと胸を張りなさい、其処のお嬢さんに嫁入り道具など持って来ない方が良いと惚れさせてしまうくらいの家具をおまえは作ることが出来るのだから。」
「旦那様…!」
 嫁入り道具の意味が分らず首を傾ぐ娘と意味を知っている為に思わず主人を窘める青年の視線の先に、一人の男性が巻き煙草を指に挟んで立って居る。煙草から流れる白蛇のとぐろは着痩せして見える男の筋肉質な身体にゆらりと巻きついて離れる素振も見せはしない。青年よりは年の経た顔は不敵な笑みがよく似合い、顎に短く揃えられた髭はトネリコ国には居なかった男性像である。その眼は見惚れる雪若の頬が莟に俯向くのを見逃さなかった。
「おや?お嬢さんは私のような男を見るのは初めてかな?随分と嬉しい反応をしてくれる。でもそんなに素直な態度をとった相手に本気にされてしまうよ?」
 目元は少しばかり垂れているがその眼は決して狸ではない。むしろ口を閉じて指示を待ち相手の隙を窺うドーベルマンの眦の凄味がある、端整と苛烈と忠義で形作られた男の声は低く甘くチェロのこすれる音がする。
 初めて逢う大人の男性。煙草の渋くて苦い薫りにくらくらする。
「かんちがい。」
掠れた脳では強く出られない。
 それでも背中の杖を忘れぬように身体を強張らせて息を吸う、と、シャーロットが目を覚ました。
「みー。」
 此方も初めて聞く鳴き声。マカロンポーチの中は大騒ぎ。成長した赤ん坊、幼児が新たな言葉を喋った嬉しさよ。雪若達が瞳を輝かしていると男性と雪嶺が近寄り、
「おお、この子は彗星の蛾ではないかな?まだ幼体みたいだが。」
「この子の種族名を知っているのですか?」
 ポーチと雪若はもう声を大に揃えて屋敷の主人に問うた。彼は煙をふうと吐き、「知っているとも」と容易く答える。
「シャーロットの種族名を御存知なのであれば、貴方は…」
「ご推察の通りだよお姫様。私は貴女と同じ種族、一介の魔術師です。お待ち申しておりましたよ、雪若の姫君様。ようこそ黒百合の屋敷へ。」

黒百合

 男は黒百合と名告(なの)った。そして雪嶺と雪若達を応接間の上等な椅子にストンストンと座らせるとそのまゝ指をちょいと動かしレモングラスの紅茶一式を運んで来ている。杖を必要としない魔術使いなんて初めて見た…
「トネリコ王国は皆杖を用いますからなあ。」
心が読めるの?エスメラルダみたいに?
「王の獣に相応しい名ですね。」
これも魔術の一種?それとも大人の男の人は誰でも出来るの?
「頭の回転も早く魔術の腕も一級ですがまだまだ世間を知らないと見える。思考を捉えられるのは初めてかな?」
「心を読めるのは、エスメラルダだけの力だと思っていたので。」
「心を読む、か。そのような芸当は私には出来ないな。伝承では人を一度見ただけでその者の本性や思想まで余さず見抜くとは聞いているが、どうやら嘘ではないようだ。」
「エスメラルダが何も警戒しないのならば貴方は信頼に足るお方だと言うことです。」
 立板に流す如くすらすらと言っていたが、一度途切って、少しだけ手先を見つめた後、再び彼女は話し始めた。
「ですので、嘘を言ってはなりません。この子は嘘をも一瞥で見破ります。」
 黒百合はその様子にキョトと円い目。
「嘘?私が嘘を言いましたかね?」
「仰有ったではありませんか!心を読む芸当は出来ないと。ですが黒百合様、貴方は私の胸の内を読んでいましたでしょう、つい先刻。私は、」
 また…
「私は嘘を意図的に吐く者も閉まわねばならない力を持っています。だからまた、」
「地層の侵していた街のように強制終了させますか。」
 ほら、読んだじゃないか。
「これは心を読んでいるのとは微妙に違う。思考を捉えると私は申しましたぜ。少し説明をしましょうか。
 先ず、心を読むと言う行為。これは相手の思っている事を間違え一つ無く見透す能力です。これは誰しもが持てる力ではない。
 けれどもう一つの行為は訓練を重ねれば誰にでも出来得るもの。思考を捉える為には相手をよく観察し其の人の意図を予測したうえで此方が動く必要がある。私に獣の王のような力は無いが世間知らずの嬢様の顔色や仕草を気に掛けるのはおてのもの、尤も貴女は隠し事がまだ苦手でしょう。その可愛らしいポーチの中にいるお仲間達も素直な性質(たち)のようだ。雪若姫は誰かに裏切られ傷付けられる危険とは遠い地位で生きて来られたみたいで、何より。」
 トネリコを侮辱された怒りと悔しさに(まさ)ったのは、黒百合の瞳と口元、そして自分のよりずっと大きい手を集中して見続ける(ほう)であった。彼の新月の瞳は何を映している?その笑みの奥に隠す景色は?煙草を持ち自分をエスコートした手は何を示したいのんだろう?見つめて、考えて、想像して、筋道を立てる。黒百合様だけじゃない、此処には雪嶺さんもいらっしゃる、あの街で、あの瞬間、間違い無くこの手で殺めたと疑わなかった雪嶺さんが。
 臆するな。想像自体に罪は無い。
「後処理、後始末。」
 長く残るフィルターが灰の重さに耐えきれず雫をこぼす。
「翼の孤島は私が手を下してはならない。そもそも孤島は放っておいても害が無い、落ちた水が空に姿を変えて戻るだけだから。けれど私が杖を握らなければならない場所がある。実際私は一つ街を終らせた、物語を無理に幕引けば辻褄の合わないほつれが生れる、ほつれを正しく縫い留めて糸を切るのが貴方の仕事、私が滅ぼした命をあるべき場所へ連れて行く者、黒百合様、貴方は湖の楫人(かこ)、トネリコの歴史、それも明るみに出してもらえない歴史、王国の水底の門番……暗い水に身を置く者、そして………追放者。」
 黒百合は雪嶺が制止するのも待ち切れなかったか、雪若の細い手首を握り椅子に縫い留めると姫君の涙ごと喰らうような深く長い、だけど何處か甘い口付けを。

波音

 屋敷の外は未だ雨が降っており、全く止む気配も無い。まるで水底に沈められたかのように雫は終らず絶えず注ぐ。
「王国が俺に危害を加えた訳じゃない。」
黒百合は雪若の頬をなぞり止まぬ涙を拭っている。それでも王女は涙を止めぬ。
「そう言う役回りだっただけだ。むしろトネリコ王国はお人好しが過ぎる。国に仇なす反逆者の俺をずっと庇いだてしてくれた。貴女(あんた)の母親なんざ特にさ。役を負った以上俺は手酷く追い出されるべき扱いなのにまるで旅立ちみたいに両手を包んでくれたもの。」
「それでも追い出されなくてはならなかったんでしょう?貴方は国に居たかったのではないの?」
 黒百合は苦笑いをして今度は濡れる頬に接吻(キス)をした。
「一つの所に居続けるよりもあちらこちらを彷徨う方が性に合っている。この屋敷だってもうじき立ち去る心算だ。」
「こんなにすてきな場所なのに?」
「建てる時脳裏に在ったのは故郷の城だった。だから姫様の家に似ているのは不思議なことじゃあない。……俺はむしろ貴女が心配だよ。此処をすてきと言うのなら、城がすてきだと思っているんだろ、故郷を、トネリコを……」
「私は、水面の上で生きて来たもの、恵まれた環境で光を知って来た、だから今でも故郷は美しいと思っている。でも、トネリコを一度発ってから初めて向うような場所に
逢ったの、それまでは本の中でしか見たことの無い物語を目の当りに
して、エスメラルダの嘗ての相棒が人に殺された話も聴いたし、綺麗な街も見たし化物だって見た、報われない物語も話してもらった。私の力は鎮めの湖、それは必ずしも平和的に問題を解決するばかりではないとは知っていたの、生れた時私の頭の中にも流れ込んで来たし、書物にも記されていたから。でも、実際にする日が来るのは心の何處かで信じられなくてmそんな日来ないかもしれないと思っていたけれど…私は……トネリコ王国が存在する意味を失いそうで、手放し……そう…で……」
 背中の杖が水分を澤山呑んだようにずぶりと重い。雪若は黒百合にかき抱かれ厚い胸板に孤独を滲ませる。微かに汗ばんだ小柄な頭と薄い背中を己から離れ逃げさせまいと掌で強く支える男は膝の上ですすり泣く乙女の苦しみを、昔自分の抱いた其に重ね合わせ、項、首筋、耳へと唇を落しながら洋服の釦留(ボタン)を緩め純潔の雪の胸を露わに寛げ再び優しい唇を下げていく。

「あの行為は太古の婚姻の儀式だ。」
 雪嶺と共に二階の寝所で話すエスメラルダは、もうぬいぐるみの格好ではなく元の姿に戻っていた。みーみーと抱っこを求めて鳴くシャーロットは雪嶺の腕ではご不満そうだ。
「雪嶺さん、如何やってあの街から出て来れたの?」
 一番星の金平糖はシャーロットを宥めながら膝固くソファーに腰を降ろす青年に尋ねた。あの土地で住人とされて来た彼等に意思など持てたのであろうか、仮に持てたところで雪若の魔術を逃れられたか疑わしい。一番星の金平糖は雪嶺の足元を手でつっついている。
「自分が何處の、何を描いた物語であったのかはもう憶えて居ませんが、あの日雪若様が街を訪れた時、自分は言葉を思い出しました。花束の格好をしている錆を捨てて貴女方に話し掛けたかったのです、それが、あのような不躾な質問になってしまって。お恥かしい。折角雪若様の理想の姿になれていると言うのに。」
「お嬢様だけではありませんよ、雪嶺さんは今私達の誰の目にもこうあったらいいなと思う存在に映っていますよ。」
「これは失礼…貴女達を軽んじた訳では断じてないのです。……時に、雪丸さん。」
「何でしょう?」
「貴女のお名前は随分と雪若様に似ていらっしゃる。雪丸さんは彼女のご姉妹(きょうだい)でしょうか。」
「まあ、」
 うふふと普段無口なリスの貴婦人はもしょもしょとまだ喋りたそうににこにこと小さな身体を搖らしている。
「話すと少しだけ、長くなってしまうかもしれないので、それに、普段は恥かしくって中々教えないのですけれど、でも、此のお話は私も大好きですので、雪嶺さんが宜しければ申し上げたいんです。」
「えゝ!是非お聞かせ願います。」
「それでは、暫く昔のお話をしましょうか。
 私はユグドラシルが葉を知った時から樹の上に座っていました。其頃はまだ霧雨で世界が覆われて雪原が深く長く呼吸を繰り返していた時分でございましたら話し相手も居らず寂寥の眺めではありましたけれども美しい時代でもあったのです。此時、私には名前がありませんでした。呼ぶ者も居ないし別に苦しいとも特段感じませんでしたから、エスメラルダ様も最初は私のことをリスの貴婦人と呼んでいたほどですもの。」
「懐かしいな。あの時代は名前の意義を考えもしていなかった。自分達は人間の世界を穏やかに回し続けている事だけが存在意義だと信じていたが、信仰とは出会いでいくらでも変化していくもの。春のひだまりの魔術使いだけが私の正解ではなかったのだ。」
「じゃあ、エスメラルダも、雪丸も、雪若が()れた名前なの?」
「みゅー。」
「あ、シャーロットもだよね。僕はさ、自分で名前付けたからちょっとだけ違うけどね。」
「雪嶺、と言うのは恐らく雪若様が与えてくれたものだと思いますので、自分もシャーロットさん達と似ているかもしれませんね。」
 ふふふと穏やかな談笑がころがると、雪丸は改めて話し始めた。
「雪若様がお生まれになりました時、女王陛下が私をお呼びになりました。其時私は読んでいた本から飛び出して来た鷲に鉤づめ頬を引掻かれた傷痕が白く残っていましたので陛下の御前に出るのは憚られましたから一度はお断り申し上げたのです。ですが女王様は、
“此の子が呼ぶからおいでなさい。貴女に名前を付けたがっている。”
と仰有りました。まだ女の子は幼かろうにと、私は生意気にも訝しみますと、母親に手を引かれて歩いて来たお嬢様が、
“雪丸ちゃん。”
と笑顔で手を差し伸ばしてくださったのです。あの時から、私の顔の丸い傷痕は褪せることの無い一等星、大切な誇りになったのです。エスメラルダ様は、何處を見て命名されたと思いますか雪嶺さん。」
「えゝ…やはり真先に到るのは御立派な頭の色ですが…」
 正解、と言う代りにエスメラルダはにっこりと微笑んだ。過去は月影、白黒(あやめ)分たず。

 尾花に菫が風吹けば、青い向日葵は冬空を仰ぐ。ようやく雨の止んだ黒百合の屋敷の外では、積った六花をもくもくと道を作って()み進むまんまる芋虫、その後ろ姿は虫と言うよりもうアザラシである。
「まだ数日しか過ぎていないがだいぶ丸々として来たな。」
 黒百合は少しカサついた唇に煙草を咥えて指を鳴らし火を点ける。煙はよく冷えた氷柱にふッと掛かり、薄紫の藤の模様を朝靄に映す。
「もう少ししたら言葉も話せるようになる筈よ。これは本で得た知識だけど、お母様にもエスメラルダにもそう教えて貰ったから間違いないわ。」
「シャーロットはおまえの傍に居るんだな。」
「貴方だってそう望むのでしょう。」
「惚れて娶った女を易々と他の男に見せ付ける趣味は持たんからな。」
「でも此の場所から一歩でも外に出れば雪嶺は消えてしまうのよ。」
「元々俺の我儘で引張りだして来たようなものだ。街を滅ぼすのに慣れていない誰かさんの御蔭でつと掬った誰かの何處かの記憶だ、手放しても恨まれることは無いだろう。」
 雪若のイメージを具現化する強烈な力を正面(まとも)に見た結果星屑は形を成し声を持ち心を思い出しトネリコ王国を囲っていた雪の峰々の言葉を一枚借りた名を与えられた青年の姿へと生れ変った。この瞬きの(わざ)は地層の老人にも予測し得なかったであろう。故郷の面影ちらつく者を黒百合が咄嗟に助けたのは気まぐれではない。
「彼は何て?」
「恨みも悪口(あっこう)も一片も無いとさ。エスメラルダのお墨付きだ。」
 二人とも黙った。これから何處へ向かうのか、手掛かりはチョコチップクッキー。
「その帽子を食べるのか?」
「多分ね。そうするのが次の目的地へ辿り着く手段だから。」
「何も菓子を食べなくても人間を知る事は出来るだろう。」
 世間知らずのお嬢様。
「え?」
「トネリコ王国を知ることだって、人間への理解に繋がる。」
「でもトネリコは人に傷付けられて何度も滅んでいるの。トネリコにとって人が厄災であるのは明白じゃない。」
「本当にそうか?」
 黒百合は地面に灰を落とした。
「何故トネリコがそういう役回りなのかを知れば人との関係性も見えて来るだろう。それに、トネリコには魔術使いと人間だけが居る訳じゃない、シャーロットに雪丸、一番星の金平糖、エスメラルダ…獣達やぬいぐるみだって共存出来る理由は何だ?」
「それは、トネリコが」
 寛容の国だと言うのならば、何故追放者が生まれるのだろうか。言葉に詰まった雪若の肩に黒百合は手を掛ける。
「おまえの知らないトネリコがある。それは俺の存在からしても明らかだろう。トネリコは何故ユグドラシルを育てるのか、そもそもユグドラシルは何なのか、それを知った時人が何の為に在るのか察しはつくんじゃあないか?」
 肩に置く手を握りしめた妻に、もう一度キスをして、黒百合はエスメラルダの元に歩いて行った。彼が此処を離れれば、屋敷は跡形も無く水滴と散るだろう、そして二人を見送る雪嶺も、微笑んで手を振ったままに光へ帰るのであろう。
 また、滅びた故郷へ戻らなくては。世界の中での正しい居場所はきっと変えられはしないのだから。

駄菓子

 ユグドラシルの物語。それらは図書館の中でも最深部にあり、陛下のみが閲覧を許されていた。図書館には浅葱色の炎ゆらめくカンテラが黒ずんだ硝子の中から道を示す、長い階段を真直ぐに下り円形状に下り時々上って迷子になって辿り着く大きな扉。此より先は雪若も踏み入った事の無い領域、母は一度も娘を深海には連れて行かなかった。その為雪若は図書館に底がある事実も知らないまま過ごして来たのである。
 雪若の知らない事は黒百合が知っている事。彼はエスメラルダが国を離れた後に生まれ、雪若が生まれる前にトネリコを追われた。(彼曰く、追放する側は役に従っているだけで、恐らく心底の演技ではなかったそうで)エスメラルダの知らない事も、雪若の夫たる者は読んでいる。
「扉の鍵はあるのかな。」
 一番星の金平糖が扉によじよじ登り隅から隅までチェックをしたが鍵を差し込むような形は用意されていない。
「如何やって開けたら良いんだろう?押しても引いてもビクともしない。魔術の力で閉められているのかな。」
「開ける必要は無い。」
 シャーロットは煙草の匂いが嫌いなので、今黒百合はエスメラルダに渡されたサイダーシガレットを挟んでいる。妻の腕の中で抱きかかえられる芋虫がそれでも自分を睨むようにびみゅびみゅ威嚇するのは何故なのかも何となく理由は想像出来るが、子供の駄々など可愛いもの、黒百合は横に立つ雪若の腰を引き寄せマウントを取った。この幼い攻防に気を向けていないたった一人の姫様は扉を開ける必要が無いと言った夫の言葉の意味を考え、床にコンコンと杖を突く。
「扉は開けるものだけど、開ければ中に入れたくないものに侵入する隙を与えてしまう。なら、扉は閉じたままにしておくのが一番良い。でもそれならどうやって内側の本を読む?そうしたいのなら透視の術でも持っていないとならないですよね。」
「陛下には未来を見る力があったんじゃないの?」
「金平糖、陛下がお持ちだったのは未来ではなく星を読み遠くを見る力です。未来予知を実行する透視とは種類の違った星見の力ですから。」
「黒百合、其方我々を案内してまでして終り、と言う訳ではなかろう。此処を進む方法があるから連れて来たのでは?」
 エスメラルダの質問にも臆せずフフンと笑う余裕さよ。大人の余裕と言うものなのか格好つけたい年上なのか。
「簡単な式だ。扉の成分を新雪に変えて、シャーロットに食べさせたらいい。俺達に先代の真似が出来ないならしなくて良いんだよ。」
 黒百合と居たらふわふわと覚束無い浮遊感を得るほどに、思考が軽くなる。彼は決して軽薄な性分ではない、むしろ真面目で賢く優しいのに、黒百合の言葉は重荷にならない。いつも横抱きに抱えられているような眩暈がする。
「じゃあ、雪若の雨と私の雪で扉の素材を変えよう。雪丸と一番星の金平糖はシャーロットのお腹のマッサージ、よくほぐしておくように。そして黒百合は雪若から離れて我々のフォローにまわっておくれ。」
 どうやら敵はシャーロットだけではなかったようである。エスメラルダの微笑みは相棒に見せられないものだったから。
「ちゃっかり皆に愛されてんなぁ。」
 少し離れた所で魔術に狂いが無いかを確かめ続ける。雪丸は名前を貰って顔の傷まで美しいものと思えるようになったし、一番星の金平糖は雪若が拾い主、懐かない訳が無い。
「認めて頂くにはまだまだ時間が要りそうだ。」
 噛み砕いたサイダーシガレットは駄菓子らしく甘たるい味が味蕾を覆っていく。が、黒百合には嫌な味に思えなかった。口寂しいとねだればまた()れるだろうか?

白色

 人の世界には存在しない素材で編まれた大扉は、雨を降らせると思いの外おとなしく打たれていた。花の莟が愁雨(しゅうう)に反さぬ姿、俯向く項の俤籠めた扉に白い過去が降り掛かる。抵抗も牙も向かず図書館は芋虫の為のお菓子となり食べ応えのある贈り物に腕の中の瞳は輝く。
「むぃー!むむぃ、むうっ!」
「慌てないで。今食べさせてあげるから。」
 扉をはみはみとずんずん進んで行くシャーロットの向こう側に、図書館の奥の景色が見えて来た。
 高い天井は建物の地上階にまで伸びる大樹の枝葉を灰色がかった貝の水晶となって茂りを見せていたが、最深部に佇むその根は泡となってパチパチと所々弾けているではないか。陽炎みたく霞んで搖れる覚束無い根元が幾層にもまたがる天の河の葉脈を支えているなどと誰が知り得よう?
「根が泡沫(うたかた)になって床の…これは、この床は土じゃない、氷…?まるで城の大理石の床に見えるけれど石造りの物じゃなくて、氷だわ。床が氷で出来ている。」
「顔上げてみろよ。床だけじゃなくて四方の壁も氷で出来てるぞ。」
 エスメラルダまでもが呆気に取られ氷と樹しかない空間、其処はチャペルの表側のような広さと静けさ清廉さを備えていながらも裏側の秘室、知られてはいけない墓地の秘密を抱く暗がりにランタン一つ置いている影の門番の住まう狭い一室の横顔が四隅に配属されているようで、気軽に歩みを進められぬ。
「本が一冊もありませんね。」
「僕が前に居た街の図書館の地下には機械室があって、ぐるぐるもくもく蒸気を立てて歯車を回していたっけ。でも、此処はそれとは大分(だいぶ)違うみたいだ。」
「むぃー、むぃー!」
「シャーロット?どうしたの?」
 食事を終えた甘えん坊はいつもの定位置、雪若の腕の中には戻らず、枯木の部屋の黒い奥へと這い出した。
「待って、まだ何が居るかも分らないのに一人で行ってはダメ!」
彼を追う雪若を追って他の者達も駈け出した。部屋の奥は天井の穴も塞がれ地上からの光はだんだん減り夜にも勝る暗さが茫漠と広がる、まるで怪しい移動遊園地の顔のはっきりと分らない支配人が諸手を伸ばし”こわくないよ”と笑うように。
「黒百合、其方此の場所を知っているのだろう。この先には何がある?」
 氷柱馬を呼び出しシャーロットと雪若以外の者を乗せたエスメラルダは二人を追いながら問い掛けた。
「大丈夫だ。化物や悪人が居る訳じゃない。トンネルのような道だと思えばいい。ところでもうサイダーシガレットは無いか?あれば一本貰いたいんだが。」
「貴方は良くても私達はよくありません。あゝお嬢様嘆かわしい、どうしてこんな男に惹かれてしまったのでしょう。」
「そりゃ、年上の色気に()てられたんだろう。それに初心な所も愛しいじゃないか。」
「誰が惚気ろと言いましたか!」
「妻に関する話題は全て惚気になる。」
「呆れた溺愛ぶりだな。まあ、雪若に本音を言わせる者は少なく、そのような者達は存外驚くほど誠実だ。」
「へえ、御自身のように?」
 エスメラルダは何も答えなかった。
「あのさ、雪若がヒロインみたいな立ち位置だっていうのは分かったよ。でも今僕らが一番確かめたいのはトンネルの続きには何があるのかってことだよ。勿体ぶってないでさ、早く教えておくれよ。」
 馬が徐々に速度を緩めていった。ポクポクと蹄が歩み寄ったは此方に背中を向ける雪若の姿。シャーロットはその足下に凭れるみたいにして寄り掛かっていたが、その凭れ方がちと尋常でない。
 何かに耐えるようにして震えているのは、雪若の身体自体が小刻みに震えている所為であろうが、今迄アザラシのように丸々と太っていた筈がみるみるうちに痩せてゆくのは何事であろう。
「シャーロット⁉」
 エスメラルダは馬から飛び下り衰えていく子に馳せ寄った、一番星の金平糖も雪丸も同じように。しかし彼の姿を案じていなかった者が一人、シャーロットと雪若の後ろ姿を視界に捉えて唯黙る男に雪丸は珍しく苛立ちを露わに叫ぶ。
「貴方、手を貸して下さいな。ぼうッと突っ立ってなどいないで、今直ぐシャーロットに新雪を、」
「安心しろ、死ぬ訳じゃない。」
 短く要点だけを発した黒百合に獣とぬいぐるみ達はポカンとする。その続きを引き取ったのは雪若だった。
「これが、トネリコの心臓。シャーロットは、…その子達の種族は、此処を守り続ける一族だったのね。」
 一同の瞳を上げた暗闇の先には、白樺の木々が幾本も立ち並び、紺青を藍碧のラピスラズリの空間にはちらちらと鱗の淡い火がダイヤモンドの形を借りて波紋のまにまに鱗粉となっては漂っている。時々、ことりと浸る地面に落ちて来るのは樹上から零れた絵具の欠片、忘れた色を思い出し、思い出した涙を片思いに空に、土に、波間にまぶす。
 そして此の一連の弔いを紅色の薔薇で編まれた鳥籠の中から見守るのは、もう息の絶えている真白な一羽の蛾であった。
「あの鱗の火は、星の死体。亡くなった後包帯で巻かれてガーゼに(くる)んだら、白樺の墓に螢のように放すんだ。蛾は月白(げっぱく)の使者、白樺の墓の守り役として任命されて短い命の終えた後も次の守り役が来るまで待ち続ける。…その蛾は、昔俺の相棒だった鶺鴒(せきれい)だ。良い名前だろう?鳥にも恥じないくらいに美人な奴だった。」
 天が一番に生れたのは想像に(かた)くない一説である。しかし空が樹に恋をしてその美しさと気貴(けだか)さを歌に綴って手紙を贈ったならば何になろう?雪が白樺に色を与えたのではなく、白樺の色が雪に命を与えたのである。隠さねばならない思い、身の丈に合わぬ恋を空は隠さねばならなかった。言葉に果せぬ炎は風に当たればますます苛烈に我身と相手を傷付けるばかり、すぐに鎮火するには涙よりももと多い水が要る、雨に佇み胸を押さえたまゝ冷たい息吹にのみ秘密を話し続けた身体は足が()み胴体も霜に覆われやがては一つの氷塊と化す。
 水の魔術、雪の魔術、氷の王国。トネリコ王国は身分違いの恋に燃える心を年月重ねて騙し続けた自傷の痕凄まじき亡骸が土台になって出来た国、頬から芽が生え茎が伸びやがて巨大樹は土台の頬から零れ切れずに根を張った若芽が始まりであった。

帰郷

 生まれた時から使命を知っている筈だった。魔術使いは皆そうで、使命を果す為に授かった力を行使する。それが私達の正しい在り方であり、役目であると信じていたのです。シャーロットの芋虫としての体形が痩せ細るにつれて鳥籠の成虫の姿が瑞々しく光を含み始めていく。シャーロットは自分の使命を最初から知っていたのでしょうか。
 トネリコはその始まりからして間違い、いゝえ、勘違いをしていたのです。ユグドラシルを育てる為に造られた国ではなく、ユグドラシルの生えた土地が偶々トネリコ王国になっただけ、私達魔術使いが何故人間の仲間入りを果せずに居続けたのか、人間に憎まれ滅ぼされる運命にあるのかようやく分かった気がします。トネリコがいつまでも自らを欺き続けて純真な童話を語り続けるのであれば、永遠に王国は襲われ住民は虐殺され続けるのです。
「絹糸を、断たなくてはならない。」
 黒百合はこの王国の秘密があるからこそ生まれたのでしょう、トネリコ神話を根底から覆しかねない物語を知る者。だから彼は追放者となり育った故郷を遠く離れたのです。
「ずっと水底で待っていてくれたのに、ごめんなさい、気づくのがこんなに遅くなってしまって。」
 白樺の木に触れると、シャーロットを抱きしめている感覚と似ています。きっと今日まで多くの蛾が見守り宿って来たのでしょう、恐怖も嫌悪も巻き起こらない、深く呼吸の出来る空気に、旅に出てからどれほど久し振りに満たされただろう。
「貴方も、私達のような旅を?」
 黒百合はまだ瞼を開けない鶺鴒の身体に近寄ると、籠の隙間から手をそっと差し入れ、死しても醜く崩れない美しい相棒の背を静かに撫でました。
「こいつも、或日流れ着いて来た。偶然俺はそれを見つけて家に連れて帰った。まんまる太った姿はおまえのシャーロットに瓜二つだった、まるで幼い時に戻ったようでさ……自分の役回りは承知していた筈なのに、自分の傍に誰か居てほしいなんて、幼稚じゃないか。
 国を出た時、鶺鴒も一緒に来たがっていたが、あいつの使命を俺が奪う訳にはいかないからって言い含めて背中を向けたよ。でもまあ……」
結晶に()いた雪の羽が睫毛を震わすみたく微かに搖れる。
「よく、頑張ったなあ。」
 蛾は黒曜の(まなこ)をぱっちりと開き、遠い絵画の物語に思いを馳せた。もう幼く鳴くことの無い年下の弟が兄へと成長するのは雲を見送るのによく似ています。雲は二度と同じ形で戻ることはありませんが、必ず帰って来るのです。
「俺も帰って来たよ、鶺鴒。ずっと傍に居てやれなくて悪かった、ごめんなあ、ただいま。」
 物語は優しくて、悲しくて、憎くて酷い。でも突き放せなくて、いつか愛する時が来る。それを知って、ずっと待ち続けている、恨み言も嘆く言葉も吐かないで、私達がもう一度必ず振り向く旭を月の夢に星の涙に湖の底に映して待っているのです。

魔女

 放っておけない魅力があった、と言っていい。言っていいどころかそれこそが雪若を妻にした理由である。人助け、とは根本から違う。
 満月の色彩に紫陽花の俯向く月影を籠めた瞳に、赤いリボンで口止めされたかのような優しく脆そうな唇、丁寧に手入れされたふわふわと行き所の無さそうな素直な髪、それに顔色は人より一段階雪交じりと来た。どれか一つでも当てはまれば充分に孤独にさせてはならない人相であるのに四つとも全て含まれているとはむしろ笑うべきである。
 鶺鴒と別れてから白黒の世界で多くの人の目を見て来た。魔術使いには持ち合せなかった淀みが人間の瞳には誰しも、生まれたての赤子にさえも混ざっていたのを知ったのは一人で旅をして初めて知り得た事で、おりものは男女問わず体内に有していたのだが、もう一つ人間特有のものがあった。
 トネリコは何度も滅亡しては再生を繰り返す或種の生き物だ。それはトネリコに住む者ならば残らず知っている事実で変えようの無い終着点。けれど此の事実を雪若は知らされていなかった。生れた時から意識の中に組み込まれている歴史を何故彼女だけが知らなかったのか、それは魔術使いに操作出来る範疇に無い組みかえ、ユグドラシル、もっと言えばユグドラシルの生える氷の土台にしか叶わぬ所業、切なる叫びの不完全さと不安定さを以て生み出されたのが雪若と言う乙女。この説の確証はさっぱり無いが雪若には人のみが有する執着心が根付いているのが根拠になるかもしれない。
 トネリコが滅んだ時人を激しく憎んだと言う、故郷を失った痛みに泣き喘いだと言う、何より俺が魔術に頼らず女から本音を聞き出せたのは初めてであった。
 素直すぎる。トネリコの本音を背負うには純粋で夢見がちで素直すぎる。その危うさは人を惹きつけ虜囚を産む、母君よりも恐ろしい女だ。相手に手放したくないと違和感無く思わせる魔女の中の魔女である、それに無自覚と来た。妻にしたくない理由が無い。
 平和主義者なのは間違い無いが、トネリコ王国の羅針盤、ニレの樹が赤錆を消し得ないのは恨みの念が燃え続けている証左。一度地層を消し去った時、それは王国が滅ぶ前の出来事ではあるが、喜悦の波紋は微弱にも靡いていたかもしれない、其時隣に付いてやれなかったことが情け無く悔やまれる。でもそれは使命を信じていた時代の話。図書室の最深部を見て、どう動く?
ひだまり
 シャーロット。そう呼んでくれてわたしは瞬きをしました。此の名前は王女様の大好きな物語に登場する御伽話の國の名前、御伽の國の名前なんですよね。
 シャーロットは争いの無い平和で穏やかな純真の國、春と冬が手を取りくるくる回って踊る秘密の國。貴女はきっとシャーロットとトネリコを重ね合わせていたのでしょう。貴女の愛する願いをわたしに与えてくれてありがとう、とても光栄で、ほんとうに誇らしい。
 貴女の元へ流れ着く以前、わたしは鶺鴒姉さんの影を勤めていたのです。姉さんが動作をする度にぴったりくっ付いて離れない、そうして役目を継ぐ為の勉強をしていました。姉さんの身体の部位や翼、瞳に合わせて動く度、わたしの主人となる相棒の人の姿を想い描き、髪の色、瞳の色、魔術の文様、声の調子、背丈に杖の形や似合う服装…醒める日暮れの星色でわたしは貴女を待ち続け、姉の死と同時に躯から光となって離れますと、もう広い海岸にぽつりと蹲っていて、貴女を呼んだのです。
 わたしの言葉は上手く意味を結べず、勘違いされてしまうのではないだろうか、と心配になった昼間もありましたが、貴女は意をよく汲んでくれたので幼稚な不安は直ぐに去りました。わたしの命、わたしの言葉、貴女はご自身の輝きを気づいていらっしゃらない。それだけが湿り気となって心に傷みを残します。伝えたいのに伝えきれないもどかしさと情け無さがずっとわたしの気掛かりでした。
 今、羽を持てたわたしは美しいですか?貴女の瞳にもう一度湖面の月を映せるほどに立派でしょうか。決して忘れないでいてください、貴女が(いだ)いた優しさを。貴女は温もりの人、春の力、水は草木を芽吹かせて花を実らせるもう一つのひだまりであることを。

別離

 図書館の底から生える樹は皮の性質から見てユグドラシルとは異なるものでした。此方の樹には散りばめられたシュガースプレーが時々綺羅と反射しています、川の中を遊ぶ魚の鱗とよく似ている。
「根は修復してあげられるのかしら。エスメラルダ、心音はどう?」
 彼は樹皮に長い耳をぺたりと押し付けて樹の容態を測っています。根が滲んでゆらゆらと泡を吐いて空中へぱちんぱちんと割れて行く、このまま放置していればいつか根は全て泡沫へとなりに行ってしまうでしょう、根を失った大樹は倒れる他ありません。大きさは私が何十人・何百人手を繋ぎ合わせれば良いのか咄嗟に計算が出来ないほどの胴回り、高さは地下から地上にするする伸びて屋上にある硝子仕立てのオルゴール時計の左右にざっと分れる繁み。これ程の樹が支えを失ってしまえば、トネリコ再興の矢先に図書館を丸ごと失う形になってしまう。そして勿論建物の下の氷土(ひょうど)・地面に生きる小さな動物、昆虫、植物達もです。
 見殺しにしてたまるか。ずっと守られて来たのであれば、今度は私が守らなくては、トネリコをもう失いたくない、奪われたくない、滅ぼされなくても生きて行ける道を探さなくては。だって、ずっと殺され続ける運命なんて本来あるべきものではないのだから。
「根が泡になること自体は止められない構造になっている。だが泡となった部分をまた根に戻るように誘導してやれば良い。」
「それならエスメラルダ様、私が道を立ててみましょう。」
 雪丸は小さな掌からポンポンと木の板を出して小鳥が眠れる程の大きさの小屋をちょこんちょこんと並べて行く。中央部分には丸い穴を開け小屋から小屋へと通り抜けられるようにして、泡達が迷わないように注意を払う。てきぱきと雪丸が甲斐々々しく立ち働くのを見て一番星の金平糖も黙ってはいられない。
「外側の準備が出来ていても中身の用意がなきゃ台無しさ。泡達を案内するお話は僕に任せて。」
 とてとて樹の根に歩いて両手をぽふぽふ合わせれば一、二、三冊の豆本がぽんぽんぽん。手品が得意なのに恥ずかしくって言い出せなかったガラクタの心が勇気を出してあの日と向き合う、昔誰かを笑顔にしてあげられていたいつかの日々を。
 エスメラルダと雪丸、一番星の金平糖の三人のお蔭で樹の根の花びらが元の場所へ戻って来られる道は完成した。
「これで根が失われて消えてしまう事態は防げた。雪若、次は何をする?」
 次にすることは涙を拭うこと。
「此の樹に名前を付けてあげたい。ずっと隠さなきゃいけないものであったのなら名前を呼ぶことも禁じられていただろうし、名前も剥奪されたでしょう。存在を忘れられる為には名を失うのが最も効果的だもの。…でも、その結果が国の滅亡だったのよ、そうまでして隠し続けておきたいのは、魔術使いの存在意義を、人を守り秩序を回し続ける役割を担い続ける為。」
 人は名前の無いものや声を上げられない泣き声には気づかない。気づかないけれど気が付いた時には放っておきにくいと感じる性質があるもの。だからトネリコを何度も何度も襲うのでしょう。彼等からすれば土台を正直にさせることも、水底に隠されている樹を光の下に出すのも正義なのでしょう、悪は我々魔術使いだと信じて疑わない。結末自分達が何處にやられるかなんて知らぬまま。
「人は魔術使いが見守らなくても良い。秩序を与えたところで彼等は其を崩したがる。そして自分達なりの秩序を書いていくのでしょう。もうお互いに関わる必要は無い。」
 私は樹に歩み寄り、胴体を抱きしめます。こぽこぽと水を吸い上げる音が谺の呼び声となって耳に届きました。
藍晶(らんしょう)。藍深き結晶、水底に憩う者。あなたの名前よ、藍晶。」
 ガクンと氷の地面が一度搖れると、バランスを崩した王国の土台は滑り落ち湖に沈み始めた。
「もう地上の空も見納めか。」
 黒百合は倒れそうになった妻を抱きしめ離れゆく空を見る。彼だけでなく、エスメラルダも、一番星の金平糖も、雪丸も同様であった。しかし雪若だけは空を見る皆と、鳥籠の中鎮座する雪の蛾を見つめていた。
「雪若の夫はセンチメンタルだな。この程度の引越、私は味わって来たぞ。」
「獣の王様、嫉妬は醜いですよ。」
「でも雪丸だって笑っているじゃん。」
「そりゃ、姑は旦那をいびるものですもの。」
「そうなの?」
「違うよ一番星の金平糖。」
 穏やかな日常を過ごしたまま、トネリコ王国は地上から姿を隠した。此の後の物語は、彼女達しか知らないが、今でも澄んだ水の中で生きているそうだ。
 人間の世界に魔術使いが存在していないのは、一つはこの童話の為である。いつかトネリコ王国と言う単語も忘れられて羽ばたいていくのであろう。

「美しい國」

「美しい國」

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2025-01-20

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 秒針
  2. トネリコ
  3. 来訪
  4. 遠くへ
  5. 廃墟
  6. ガラクタより
  7. 地層
  8. 銀河を怯やかす者
  9. 満潮
  10. 四季の無い国
  11. 青い籠
  12. 黒百合
  13. 波音
  14. 駄菓子
  15. 白色
  16. 帰郷
  17. 魔女
  18. 別離