百合の君(40)

百合の君(40)

 里山近くの畦道(あぜみち)で、倒れ伏している。裾の短い着物に、夏の太陽が容赦なく突き刺さって来る。これは思ったよりも大変な仕事だ。
 目の前の地面に汗が垂れている。自分の息がはね返って、その湿り気さえも不快だ。こんなことをしているだけで、本当に来るのだろうかと穂乃(ほの)は思った。同時に、本当に来てしまったらどうしよう、とも思った。
 果たして私にできるだろうか?
 心音が自分の体から直接聞こえて来るのか、地面を伝っているのか、かけ声のように大きく響いた。ふと人の気配がしたような気がして、がばと顔を上げる。見えるのは青い空と雲だけだ。こんな動作をもう何度も繰り返した。こんなことなら、戦場(いくさば)で槍を持って突撃した方がどれだけ楽か知れない。
 全身の毛が逆立ったのと大声が聞こえたのと、どちらが先だったのか穂乃には分からない。
「うおーっ! 女だぜ!」
 振り向くと敵兵が二人、一町くらい先にいる。ああ、これはと穂乃は思った。あの時と同じだ。一人盗賊村に逃げ遅れて、夢塔(むとう)の兵が襲って来た時と同じだ。そう思った時、むらむらと怒りが湧き上がった。
 立ち上がって走り出すまで、信じられないくらい体がなめらかに動いた。
 地面を蹴って、走り出す。山に駆け込むと、木々があっという間に後ろに流れていく。鹿になった気分だ。
 振り切ってしまったのではないか、そう思って振り向くと、男達は犬のように一生懸命ついて来ている。
「この女、どんどん、ひと気のない所に、逃げてくぜ!」
「誘ってんじゃねえか?!」
 あえぎあえぎ叫んでいる声を聞いて、思わず笑い出しそうになる。と、木の根に足を取られて穂乃は転んだ。

 並作(へいさく)は、珊瑚(さんご)がデンデン太鼓を振り回す様を眺めていた。
「いやあ、参ったなあ」
 珊瑚は精神を集中させ、一定のリズムで太鼓を鳴らしている。並作の言っていることが分かるのか分からないのか、振り向きもしない。
「弓矢を全部、お嫁さんにやっちまった」
 半分という約束だった。別に穂乃がそれ以上の要求をしたわけではない。しかし、いざ出陣しようとすると、武器が何もないことに並作は気が付いた。
 いま目の前の畑では、弓矢も何もない状態で、ただ純粋に子分たちは野良仕事に勤しんでいる。農夫から差し入れの麦茶なんぞもらって、完全にお手伝いだ。
「どうすっかなあ」
 珊瑚は力強くデン! デン! と鳴らすと、どうだと言わんばかりの表情で見上げる。並作はつくづく感心した。
 珊瑚をお腹に宿した状態で穂乃を連れ帰ったので、親分の実の子でないことは知っている。しかしこの格好つけで寂しがり屋なところは、親分にそっくりだ。
「しかしこんなとこ、親分に見られたらなあ」
 と、向こうからやって来るのは出海(いずみ)の旗印をつけた浪親(なみちか)たちだ。並作は慌ててほっかむりを被ると地面にひれ伏した。珊瑚の頭も押さえつける。こんな赤い目見られたら、すぐにばれてしまう。
 浪親たちが通り過ぎて、ほっとため息をつく。
「戦のない世かあ」
 生まれてこの方、戦のない世など見たことがない。見たことがないものに憧れるというのは、親分が立派だということなのだろう。そして珊瑚を見る。戦のない世というのは、武士が刀の代わりにデンデン太鼓を持っているような世なのだろうか。

百合の君(40)

百合の君(40)

あらすじ:別所の侵略に苦しむ八津代国。夫が傷つき民が斃れているのを見て、国主、浪親の妻である穂乃は自分も出陣すると主張しますが、却下されてしまいました。穂乃はこっそりと夫の子分(家臣)の並作に、武器を融通してもらうことになりました。直接的には38の続きです。

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2025-01-18

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted