統合失調症回復プログラム
第一章 東京へ上京
第一章
東京へ上京!18歳の未来
1
昭和53年、ひとりの若者が大東京の地に初めて足を踏み入れた。東京は、中学に上がった頃からずっと憧れていた場所だった。「高校を卒業したら東京に行くんや」と心に決めていた。そして、ついにその夢が叶った。新幹線の中で隣の席に座っていたのは、60歳くらいのおばあちゃんだった。おばあちゃんが「東京出て何するんや」と尋ねてきた。私は、小声で「テレビカメラマンになるんや」と答えた。思えば、高校を卒業してすぐに就職するつもりだったが、二社連続で不採用の通知を受け、就職を断念した。それから、テレビカメラマンを目指すことに決めたが、それは当時のアイドルオタクとしての熱狂が、まるで神のお告げのように導いた選択だったのかもしれない。運命を導いたのは、北九州・小倉のレコード店の店長だった。行きつけのその店で、ある日店長が「おめでとう」と声をかけてきた。何のことだろうと思っていると、福岡市で開催される総勢30人のアイドル祭りのチケットが当たったという。店長が密かに応募してくれていたのだ。出演者には武田鉄矢、榊原郁恵、伊藤咲子、そして安藤ユキコといった豪華メンバーが名を連ねていた。会場はディナー形式で行われた。ユキコちゃんがオレンジジュースの入ったコップを持って近づいてきた。その瞬間、まるで時間が止まったかのように感じた。彼女の笑顔がまぶしく、憧れの存在が目の前にいるという現実が信じられなかった。ユキコちゃんは軽やかに微笑みながら、目の前にコップを差し出した。
「どうぞ、よかったらこれ、飲んでくださいね。」
その声はテレビで聞いたままのやさしい響きだった。緊張で喉がカラカラだった僕は、無意識のうちにコップを受け取り、ユキコちゃんと視線を交わした。何か言わなければ、と思いつつも言葉が出てこない。
「今日は楽しんでくれてる?」とユキコちゃんが尋ねる。
「は、はい!すごく楽しんでます!」やっとの思いで声を絞り出す。
その瞬間、彼女はさらに微笑み、周りの空気が温かくなった気がした。数年後、安藤ユキコと再会するなんて、この時には夢にも思っていなかった。次の日、安藤ユキコのオンステージが福岡市の香椎スーパーで行われる。私はディナーショーに参加するため、全日空ホテルから電車を乗り継いで会場へと向かう。香椎駅から徒歩で歩いていると信号が赤の交差点に差し掛かった。立ち止まっていると横にタクシーが止まる。乗っているのは安藤ユキコだ。私は思わず手を差し伸ばし握手をしたのであった。おばあちゃんは世田谷区の娘の家へ行く途中で、東京駅から渋谷駅まで案内してくれた。私は東京北区にある滝野川まで行く道のりだ。渋谷駅から赤羽線に乗り継ぐ。電車の中は、通勤ラッシュに差し掛かり、満員の車両が揺れていた。人々は立ち並び、つり革を掴む手や、座っている人の膝の上に置かれたバッグが見える。周囲にはスーツ姿のビジネスマンや、カジュアルな服装の学生たちが混在し、それぞれの目的地へ向かうために静かに時を待っている。車両の内装は、清潔感のある白を基調にした壁に、窓際には広告が貼られている。窓からは流れる景色が見え、時折、青空とともに高層ビルや街並みが目に入る。車両が揺れるたびに、人々の体が互いに押し合い、時には誰かの足が踏まれることもあるが、みんな無言で耐えている。息苦しいほどの密集感の中で、誰もが自分の世界に没頭している様子だ。ドアが開くたびに、乗客が入れ替わり、新たな顔が車両に流れ込んでくる。急いでいるのか、焦った様子で車両に乗り込む人もいれば、のんびりとした表情で座席を探す人もいる。駅のアナウンスが響くたびに、乗客たちが意識を戻し、目的地が近づくのを待っている。滝野川駅に降り立つ。改札口を抜けると、すぐに商店街の中心地に出た。賑やかな声や買い物客の足音が響き渡り、様々な店舗が並ぶ光景が目に飛び込んでくる。鮮やかな看板や通りを行き交う人々の笑顔が、温かい雰囲気を醸し出していた。徒歩で30分ほど歩くと、新聞販売店の看板が見えてきた。ここが、就職先だ。身分は新聞奨学生。新しい職場に向かう道すがら、心の中には期待と緊張が入り混じっていた。新聞販売店の扉を開けると、軽やかなベルの音が鳴り響く。中に入ると、店内は所狭しと並んだ新聞や雑誌で溢れており、独特の紙の香りが漂っていた。棚には最新の新聞が積まれ、色とりどりの雑誌が目を引く。店主は温かい笑顔で迎えてくれ、私は自己紹介をしながら、これからの仕事について少しずつ教わることになった。彼の言葉には経験に裏打ちされた深い知識があり、業界の話や仕事の進め方について聞くうちに、ますますやる気が湧いてきた。店内の賑やかさや、新聞を求めるお客さんの姿を見ると、ここでの生活がどんなものになるのか、楽しみでならなかった。
販売店に着くと、目を引く大きなポスターが貼られていた。それは安藤ユキコのポスターで、彼女の魅力が鮮やかに描かれていた。ユキコの魅力は、まずその純粋な輝きと人懐っこさだ。静岡県出身の彼女は、自然体で人と接し、笑顔で周囲を温かく包み込む力を持っている。ミツミプロスカウトキャラバンの初代チャンピオンとして鮮烈にデビュー。
販売店に着くと、二階にある主任の部屋に案内された。仕事は明後日から始まるため、その晩は緊張が解けてぐっすり眠ることができた。翌朝、目を覚ますと、先輩たちが朝食をとっていたので、その席に加わった。すると、先輩のひとりがニヤリとしながら質問してきた。
「昨夜の布団、どうだった?」
何かあるのかと尋ねると、先輩は笑いながら「実はダニが棲みついてるんだ」と答えた。その言葉に、少し身震いしながらも、皆で笑いあう和やかな空気が広がった。その後、仕事の準備を進めるため、店内を案内してもらうことになった。新聞の仕分けや配達のルートを覚えることはもちろん大事だが、それ以上に大切なのは、先輩たちとのコミュニケーションだった。その日の午後、先輩たちに連れられて、新聞配達のルートを下見することになった。滝野川の街は思っていたよりも広く、曲がりくねった細い路地や急な坂道が多かった。自転車で回るには体力が必要そうだと感じながらも、これが自分の新しい日常になるんだ、と気持ちを引き締めた。先輩たちは慣れた様子で軽快に自転車を漕ぎながら、道順や配達先の特徴を教えてくれた。道端で挨拶を交わす人々の顔には、どこか親しみがあり、この地域の温かさが伝わってくる。配達ルートの確認を終えた頃には夕方になっていた。店に戻ると、主任が「明日から本格的に始めるぞ」と声をかけてくれた。その一言に、期待と不安が入り混じった感情が胸に湧き上がる。その夜もまた早めに布団に入った。ダニの話が少し気になったが、疲れが勝って、すぐに眠りに落ちた。翌朝、まだ暗い時間に目覚まし時計の音で起きると、店内はすでに忙しさに包まれていた。新聞の山が次々と運び込まれ、店の中は独特の紙の匂いで満たされている。先輩たちは手際よく新聞を仕分けていき、私はその動きを必死で追いかけた。初めての配達は、やはり緊張の連続だった。道に迷いそうになるたびに、事前に下見したルートを頭の中で思い出し、何とか指定された家に新聞を届けていく。夜明け前の静かな街に、自転車の音だけが響き、時折すれ違う早朝のランナーや犬の散歩をしている人々が目に入る。配達を終えた頃には、空はすっかり明るくなり、朝の清々しい風が肌をなでた。初日を終えて店に戻ると、先輩たちが笑顔で「お疲れさん」と声をかけてくれた。身体はクタクタだったが、達成感と少しの自信が心に広がっていた。これからの日々が少しずつ形作られていくのだと感じ、胸が高鳴った。
2 東京下町
一週間が過ぎた。配達の道順もすっかり覚え、二日目からはひとりで配達をこなすようになった。配達部数は約三百部。朝の早い時間に新聞販売店へ行き、積み上げられた新聞の束を自転車の荷台にこれでもかというほど高く積み上げる。それを一つずつ、決められた場所へ配達していくのだ。自転車を漕ぎながら、細い路地や坂道をスムーズに通り抜け、無事に新聞をポストに差し込む。慣れてくると、少しずつ速く回れるようになった。ある朝、配達の途中でふと目をやった電信柱に、安藤ユキコのリサイタルポスターが貼られているのを見つけた。彼女の笑顔が印象的なポスターは、鮮やかなデザインで目を引く。ユキコのリサイタルが近づいていることを改めて実感し、思わず自転車を止めてじっと見つめた。ポスターには「安藤ユキコリサイタル」と大きく書かれており、日程は今週末。場所は市内のホールだ。その週末、学校の友達と一緒に安藤ユキコのリサイタルへ行くことになっていた。友達もみんなユキコのファンで、リサイタルを楽しみにしていた。新聞配達の仕事をこなす一方で、週末のその日が待ち遠しく、心の中でカウントダウンをしている自分がいた。日曜日、コンサートから帰ってくると、先輩が待っていた。「今日からアパートに引っ越しするぞ」と言う。嬉しい気持ちと少しの緊張を抱えながら、私たちはその足で新しいアパートへと向かう。無造作に止められた数十台の自転車が並ぶ中、古ぼけたアパートが目の前に現れた。外観は経年劣化が目立ち、時代を感じさせる佇まいだ。先輩が誇らしげに声をかけてきた。「家賃七千円のアパートだ。」いくら昭和の時代とはいえ、家賃七千円は安いと感じた。共同トイレに共同の自炊場、シンプルな生活が待っている。先輩に案内されながら部屋を見せてもらうと、しかし、肝心の鍵がないという。「鍵があってもなくても、一緒だぞ」と先輩は笑う。
「え、本当に?」と驚く私。先輩が少し足で蹴ると、ドアは簡単に倒れてしまう。その様子に呆れつつも、少し笑ってしまった。隣の部屋との境はベニヤ板一枚だけで、プライバシーなどあったものではない。このアパートでの新生活がどんなものになるのか、期待と不安が入り混じった気持ちが心を満たしていた。部屋にはもちろん、安藤ユキコのポスターが貼られていた。彼女の明るい笑顔が、毎日私を励ましてくれる。専門学校は山手線の上野駅の近くにあり、通学も便利だ。しかし、半年も過ぎると、学生の数は半分に減ってしまった。授業についていけない者も多く、新聞奨学生の仲間の中にも、先輩に誘われて毎晩酒を飲み過ぎて退学に追い込まれる者が出てきた。放送の専門学校は、いわば遊びのようなもので、実習は面白くて刺激的だった。一年目は、田舎にも帰ることさはなかったが、東京の生活に慣れ、夢を追いかける日々が楽しかった。しかし、2年生の半ばを過ぎると、就職戦線が始まり、周囲の雰囲気が変わってきた。学生たちは焦りを抱え、自分の進路を真剣に考えるようになる。
「みんな、就職どうするの?」と友人たちが話し始める。私も不安を抱えながら、次第に現実を受け入れなければならないと感じていた。将来への期待と恐れが入り混じり、何を選ぶべきか悩む日々が続く。安藤ユキコのポスターを見つめながら、彼女のように自分の夢を実現させるために、何ができるのかを考える毎日だった。私は学校へ行くと、実習を除いて大半を爆睡して過ごしていた。起きているのは、仕事をしているときだけだ。それも当然のことだ。朝の三時に起こされ、朝食を食べてから一時間かけて学校へ通学し、その後は夕刊の配達、新聞のチラシ入れ、集金、営業と、まるで休む暇がない。授業中に爆睡するしかないのだ。そんな境遇にありながら、販売店の先輩の中には大学受験を目指している男もいた。彼の部屋からは毎日、英語の発音が聞こえてきた。彼は夜遅くまで勉強し、朝早く起きては再び勉強に励む姿が印象的だった。「どうやってそんなに勉強できるの?」と尋ねると、彼は「夢があるからさ」と笑って答えた。
その言葉を聞いて、私は少し考えさせられた。夢を持っている人は、どんな苦労をしても乗り越えられるのだと実感した。私も安藤ユキコのように、何かに情熱を注げる存在になりたい。自分も夢を持ち、彼のように努力するべきだと思うようになった。しかし、今のままでは何も変わらない。自分の目標を見つけるために、少しずつでも動き出さなければならないと心に決めた。
3 就職試験
映像制作の道を進むための選択肢が広がってきた頃、私は自分がどこに向かっているのかを考えることが多くなった。学校での実習や友人との交流を通じて、映像の魅力に惹かれながらも、現実とのギャップに悩んでいた。自分が本当に求めるものは何なのか、何を実現したいのか、それを明確にすることが難しかった。
そんなある日、学校の帰り道、偶然にも安藤ユキコのリサイタルのポスターを再び見かけた。彼女の笑顔が映るポスターは、私にとって励ましの象徴だった。彼女の歌声には、何か特別な力があると感じていた。音楽や映像を通して人々の心に響く存在になりたいと、ますます思いを強くした。その後、友人から「安藤ユキコのライブに行くんだけど、一緒に行かない?」と誘われた。嬉しい気持ちと少しの緊張を抱えながら。私はその提案を受け入れた。彼女のリサイタルは、私にとって特別な意味を持っていたからだ。ライブ当日、会場に着くと、興奮が高まった。周囲には同じように彼女のファンと思われる人々が集まっており、その熱気に包まれた。音楽が始まり、彼女のパフォーマンスが幕を開けると、私はその瞬間に全身が震えるのを感じた。彼女の歌声が会場を満たし、観客たちの心を一つにする。私もその一部として、彼女の音楽に浸ることができた。ライブの終わりが近づくにつれ、ふと横を見ると、昔の友人が立っているのに気づいた。大学時代の同級生で、私と同じように夢を追いかけている仲間だった。お互いに驚き、喜び合った後、しばらく会話を交わした。彼は最近、映像制作の会社で働いており、私もその業界を目指していることを話した。
「夢を追うのは大変だけど、楽しいよ」と彼は言った。その言葉に心を打たれ、自分も彼のように情熱を持って進んでいこうと決意した。ユキコの歌が響く中、彼と再会できたことが、私にとっての新たな希望の象徴となった。ライブが終わった後、私は友人と共に食事をしながら、これからのことについて話し合った。彼は映像制作の現場での経験や、どのようにして自分の夢を実現させているかを教えてくれた。それを聞きながら、私は自分もその道を歩んでいくことができるのではないかと感じた。学校に一番に求人が舞い込んできた。その組織は、豪通というテレビ業界の制作のドンと並ぶほどの力量を持つ企業で、ドラマやバラエティー番組を手掛けているとのことだった。学校内でも注目を集め、同僚の中からも二人が立候補することになった。私もその波に乗ることにした。これが私の夢に向けた大きな一歩になるかもしれないと、期待と不安が交錯していた。面接の前の日、緊張を和らげるために、同僚が私の部屋で寝ることになった。彼は私の親友で、互いに支え合いながら夢を追いかける仲間でもあった。夜になり、二人で資料を見直し、面接の想定問答を考えながら、緊張感を和らげるための軽口を叩いた。
「東通の面接、受かるといいな」と彼が言うと、私は「受かる自信がない」と笑い飛ばした。彼は「お前は十分にやってきた。自信を持て」と励ましてくれた。そんな言葉が嬉しくて、心の中で少しずつ自信が芽生えてくるのを感じた。翌朝、早く起きて準備を整えた。髪を整え、スーツを着ると、なんだか緊張が増してくる。面接会場に向かう途中、同僚と一緒に自転車を漕ぎながら、自然と心が高ぶってきた。彼と一緒だと心強いし、互いに励まし合えるからだ。会場に着くと、少し緊張が和らいだ。建物の外観は立派で、内心の期待と不安が入り混じっていた。ドアを開けて中に入ると、待合室には他の候補者たちがいた。みんな同じように緊張しているようだった。名前が呼ばれ、面接室に入ると、面接官の視線が集まった。数人の面接官がテーブルに座り、私に笑顔で迎えてくれた。緊張をほぐそうと、私は思わず笑顔を返した。面接が始まると、最初は自己紹介から。自分の経験やこすれまでの活動について話すうちに、少しずつ緊張がほぐれ、自然な流れで話すことができた。
「あなたが映像制作で大切にしていることは何ですか?」という質問に、私は迷わず「観る人の心に残る作品を作りたいです」と答えた。その言葉が面接官の心に響くと信じて、精一杯自分の思いを伝えた。面接が終わり、同僚と一緒に外に出ると、彼が「どうだった?」と尋ねた。私は「悪くはなかったと思う」と言いながら、心の中で安堵の気持ちが広がっていくのを感じた。まだ結果はわからないが、この経験を通じて自分の夢に一歩近づいた気がした。数日後、学校に結果が届いた。ドキドキしながら待っていると、教員から連絡が入った。「おめでとう、君たち三人とも合格だ!」その瞬間、嬉しさがこみ上げてきた。思わず同僚と抱き合い、喜びを分かち合った。夢を追いかける仲間と共にこの道を進むことができる。それが何よりも嬉しかった。しかし先生から一言付け加えられた。私だけやる気が買われての試用期間半年付きだと説明される。入社の日、心の中には期待と不安が入り混じっていた。私は新宿のスタジオアルタでのバラエティー番組専属としての業務に決まったと聞き、心の中で小さくガッツポーズをした。ドラマ担当の同僚たちを送り出し、胸を躍らせながら会社のドアを開けた。
4 19歳 社会人デビューの洗礼はクビ!
入社初日、新宿のスタジオアルタのドアを開けると、豪通のスタッフたちが笑顔で迎えてくれた。テクニカルディレクターの秋丸さんは、精鋭としての風格が漂い、カメラマンの青山さんは、仕事に真剣に取り組む表情が印象的だった。事務の徳山さんは、物腰が柔らかく、周囲の雰囲気を和ませる存在だった。社長は威厳がありつつも、どこか温かさを感じさせる人物で、私を一目見て「君が試用期間付きで入社した新人か。やる気を感じる」と声をかけてくれた。初日は簡単なオリエンテーションとスタジオ見学が行われた。スタジオアルタは広く、セットが組まれている様子や照明の配置、カメラの位置取りなど、全てがプロフェッショナルで、その場に立っているだけで圧倒されそうだった。青山さんがカメラの仕組みや操作方法を説明してくれたが、頭の中が興奮でいっぱいで、全てをすぐに覚えられる気がしなかった。それでも、「何事も経験だよ」と笑顔で励ましてくれ、少し気が楽になった。午後には、初めてバラエティー番組の撮影現場に立ち会った。収録は和気あいあいと進んでいたが、裏方のスタッフたちの動きは計算され尽くしていて、タイミングを一つでも外せば番組のテンポが崩れてしまうことがわかった。秋丸さんが全体の流れを統率しており、指示を出すたびにその場がスムーズに動く様子は、まるで指揮者のようだった。私はその姿に憧れを抱いた。
「君はまず、現場をよく観察して、どんな役割があるかを把握することが大事だ」と秋丸さんが声をかけてくれた。私はその言葉を胸に刻み、カメラの位置や照明の使い方、音声スタッフの動きまで細かく見て回った。仕事が終わり、スタッフたちが次々と片付けを始めた。私は少し手伝おうとしたが、まだ慣れない動きが目立ち、結局は青山さんや他のスタッフにフォローされてしまった。それでも、「焦らなくていいさ。誰だって最初はそうだから」と、優しく声をかけてくれる言葉に救われた。その日の帰り道、私は少し疲れていたが、同時に達成感とこれからへの期待で胸がいっぱいだった。夢に向かって確かな一歩を踏み出したという実感があった。まだまだ道のりは長いが、この場所で自分を磨き、映像制作のプロフェッショナルになりたいという思いが強まっていた。家に帰ると、同僚に初日のことを報告した。彼も同じように新しい職場での初日を終えており、互いに励まし合いながら未来への展望を語り合った。「これからだな」と言いながら、私たちはまた新たな一日を迎える準備をしていった。翌日からは、少しずつ現場の仕事に慣れ始め、スタッフたちとの距離も縮まっていった。秋丸さんや青山さん、徳山さんからも新たな業務を任されるようになり、少しずつ自分の役割を見つけていくことができた。しかし、試用期間が終わるまでにはまだ時間があり、これからどんな試練が待ち受けているのかはわからなかった。
二週間が経ち、現場の空気にも少しずつ慣れ始めた頃だった。今日は特に慌ただしく、スタッフたちは何かが起こるのを待ち構えていた。台本には何も書かれていないが、バルコニーにアイドル歌手が登場するという情報が回ってきた。シャッターチャンスを逃さないための準備が求められているようだ。私はその瞬間に備え、カメラケーブルを握りしめながら緊張していた。まさかこの日が特別な日になるとは思っていなかった。扉が開き、ゆっくりと出てきた人物に私は息を呑んだ。それは安藤ユキコだった。思わず目を見張った。彼女の存在感が一瞬にして場の雰囲気を変え、全てが特別な瞬間に感じられた。彼女の歌声に魅了され、感動を覚えたライブの記憶がよみがえる。まさかこの場所で、彼女を間近で見ることができるとは想像もしていなかった。私はその時、ユキコのカメラケーブルをしっかりと握っていた。手のひらから伝わるケーブルの感触に、現実がじわじわと押し寄せる。この瞬間を逃さないよう、心の中で「集中しろ」と自分に言い聞かせた。彼女の姿をカメラに収めることができるなんて、まさにシャッターチャンスだ。カメラ越しに彼女を捉えながら、胸の高鳴りが抑えられなかった。ユキコは輝いていた。今日は唯一の休みの日だ。家賃を支払い、財布に残ったのはわずか2万円。試用期間中で収入が安定しない中、この額を見ると不安が押し寄せた。新聞屋を退職してまで映像制作の道に挑んだが、心細さが募る。気づけば、以前働いていた新聞屋の前に立っていた。無意識のうちに、その扉を叩いていた。扉が開くと、懐かしい匂いと共に、昔の同僚の顔が浮かんだ。思わず口をついて出た言葉は、「朝刊だけでも配らせてください」。誇りを捨てたわけではないが、現実の厳しさを前にして、自分の足元を見直さざるを得なかった。新聞配達で稼いだ日々が、今の自分を支えていたのだと改めて感じた。始発電車に乗り込み、終電で帰る日々が続いた。新聞配達と映像制作の二足のわらじは、次第に体力と精神を削り取っていった。寝不足が続き、体が悲鳴を上げ始めていた。ついに、新聞配りは限界に達し、朝、目覚ましが鳴っても体が動かなかった。朝刊をドタキャンしたことが、自分の中で一つの区切りとなった。「もう無理だ」と思いつつも、残りの試用期間はあと一ヶ月足らず。これが正念場だ。そんな中、迎えたのは本番の生放送の日。プレッシャーがのしかかり、ミスは絶対に許されない。緊張と疲れが入り混じった状態で、生放送に挑んだ。
昼の12時、放送が始まった。私は一階で、天気予報のシーンが来るのを待機していた。生放送の緊張感が漂う中、いつも通りの進行に集中しようと自分に言い聞かせた。しかし突然、カメラケーブルが大きく動いた。見ると、カメラマンが急いで一階から四階へと駆け上がっていく。イヤホンからは怒鳴り声が響いてきた。何事かと思ったが、カメラマンが転倒しかけたと知らされる。幸いにも、映像には大きな影響が出なかった。本番が無事に終わると、私はカメラアシスタントとしてプロデューサーたちに呼ばれ、状況を説明することになった。生放送の現場では、どんな小さなトラブルも見逃せない。翌日、事務所に呼ばれ、社長から冷酷な一言が告げられた。「君は首だ」。理由は、放送業界の掟に従って、トラブルの責任を取らされる形だった。「君は目が悪いから、カメラマンには向いていない」と、無情な理由が突きつけられた。自分がカメラを引っ掛けた覚えはなかったが、その瞬間、あと一ヶ月の試用期間を前にして、運命の糸は完全に切れてしまった。
5 初めての転職
会社を後にするとすぐ、学校に連絡をした。「先生。生活がかかっている。即、仕事を世話してくれ」私は、公衆電話の外へも聞こえるくらいの大声を出して。すると意外な返答が返ってきた。「明日からでも来てくれという会社がある。映像ではないが。カセットテープの録音技師だ。残業は多くて、見習いは論外。それなりの給料がある。私はそく、ハイと答えた。翌日、紹介された会社に向かうと、そこには古いビルの一角にある小さな録音スタジオがあった。見渡す限り、昔懐かしいカセットテープが棚にずらりと並び、レトロな機材がずらりと置かれていた。時代遅れに思える光景だったが、どこか温かさも感じられた。担当者は、無愛想ではあったが、話を聞くうちに技術者としての誇りを持っていることが分かった。「この仕事、ただのカセットテープと思うなよ。細かい音の違いを聞き分けられるかどうかが勝負なんだ」と語るその姿勢に、私は徐々に引き込まれていった。見習いの私は、機材の扱い方を学ぶところからスタートしたが、やはり初日は慣れないことばかりだった。スタジオ内では、古い録音機材を使ってアーティストの音楽を収録する仕事が主で、ノイズを除去したり、音質を微調整したりと、繊細な作業が続いた。初めはミスを連発し、担当者に怒鳴られることもあったが、少しずつ音の違いが分かるようになってきた。繰り返し作業をこなし、残業で夜遅くまで働く日々が続いた。最初はただの仕事としてこなしていたが、徐々に音の奥深さに興味が湧いてきた。カセットテープの録音作業は、映像とは違ったアナログな魅力があった。音の世界に触れることで、新たなクリエイティブな発見をしている自分がいた。
「夢を追うためには、どんな経験も無駄にはならないんだな」そんなことを感じながら、私はこの新しい職場で自分の技術を磨いていった。再出発として、これもまた一つのステップだった。仕事が忙しさを極め、一日の労働時間が36時間にも及ぶことがあったが、不思議とそれは苦には感じなかった。それでもどこか心に引っかかる何かがあったのかもしれない。そんな中、シンガーソングライターの沢田聖子との出会いが訪れる。彼女の歌声は、これまで感じていたものとは異なり、安藤ユキコの歌声を超えて心に深く溶け込んでいった。沢田の音楽は、自分にとって何か大きな変化をもたらす予感を秘めていた。一年が過ぎ、昇給の月がやってきた。技術部にいた私は、同じ部署の同僚とともに昇給を期待していたが、結果は一万円の昇給があっても基本給がわずか五千円の違い。倉庫部の同僚は一万円の昇給を得ており、その不均衡は明らかだった。その光景を目にした丸山洋司は、憤りを抑えきれなかった。彼の中で何かが決定的に切れたのだろう。そして、その日のうちに辞表を提出した。彼の決断は周囲にも大きな波紋を広げた。丸山洋司の辞職は社内に衝撃を与えた。彼は黙々と仕事をこなす職人タイプで、そんな彼が急に辞表を提出したことは、同僚たちにも深く影響を及ぼした。彼の去り際の姿が、どこか寂しげでありながらも、決意に満ちていたのが印象的だった。その後、私も心の中で自問するようになった。「このままでいいのか?」と。昇給の不公平さは当然だが、それ以上に自分がどこに向かっているのかが分からなくなっていた。映像制作の夢を追いかけていたはずの自分が、気づけば目先の仕事に追われ、ただ流されているだけになっていることに気づき始めた。そんなある日、仕事帰りにふと足を止めたのは、いつもの通勤路ではなく、以前訪れたことがある小さなライブハウスだった。中から漏れ聞こえる音楽に足が引き寄せられ、何となく扉を開けた。そこで再び沢田聖子の歌声に出会うこととなった。ステージに立つ彼女は、以前と変わらず透き通るような声で観客を魅了していた。彼女の歌には、何かが決定的に変わったと感じさせる力があった。音楽に込められた情熱や、どんなに厳しい状況でも自分を貫いているその姿に、私は心を打たれた。ライブが終わり、偶然にも沢田と話す機会が訪れた。彼女はいつも通りの穏やかな笑顔で「あなた、ここに来てくれたんだね」と声をかけてくれた。私は彼女に、今の自分の状況や、どうしても見えない未来について率直に話した。彼女は静かに頷きながら聞いてくれた後、こう言った。
「音楽も人生も同じだと思うよ。迷ったり、立ち止まったりすることは悪いことじゃない。大事なのは、そこから自分がどう動き出すか。そして、その瞬間を見逃さないこと。私も何度も挫折したけど、いつも新しい扉を見つけることができたんだ。」
その言葉は、私の中でくすぶっていた何かを揺り動かした。何か新しいことに挑戦しなければならない、そう強く感じたのだ。私も丸山洋司の辞職を機に、自分のこれからについて深く考えるようになった。彼が辞表を提出して去っていく姿を見て、心の中にあったモヤモヤが明確な形を持ち始めたのだ。日々の仕事に追われ、夢を見失いかけていた自分に気づき、思い切って行動を起こすべきだと感じた。仲の良かった同僚たちと話しているうちに、彼らの多くも同じような不安や不満を抱えていたことが分かった。会社の体制や昇給の不公平さ、そして未来が見えない現状に対する不安は、私だけのものではなかった。彼らと話し合う中で、いつしか「自分も次のステップに進むべきではないか」という思いが強くなっていった。丸山洋司が辞めた後、私は彼の選択に右に習う形で、退職を決意した。周囲からは「今の仕事を辞めるなんて勇気がいるよ」「これからどうするんだ?」という声もあったが、自分の心はもう決まっていた。安定した給料や慣れ親しんだ環境に縛られるのではなく、自分が本当に望む道を追いかけたいと思ったのだ。退職届を提出した日の帰り道、少しの不安と大きな解放感が交錯していた。次の一歩がどんなものになるかはまだ分からない。しかし、沢田聖子の言葉や彼女の歌声が背中を押してくれているように感じていた。
「自分の夢を取り戻すために、この決断は正しいはずだ」そう自分に言い聞かせ、再び新しい道を歩み出す準備を始めた。
第二章 康子
第二章 康子
6 宿命?の彼女との出逢い
退職後、私は運転免許を取得するために目黒の自動車学校に通っていた。当時の給料はそこそこあったが、食事の大半を外食に頼っていたため、ほとんど貯金ができず、学費を工面するのも苦労していた。やがてお金が底をつき、卒業検定試験までにあと5万円が足りない状況に。私は初めて消費者金融アコムの窓口を訪れた。その頃、転職先として大手印刷会社を受け、健康診断や学歴証明書を取り寄せていた。しかし、一週間、二週間と待っても採用の連絡が来ない。これが、人生の大きな分岐点となった。そして、ふと立ち寄ったのがパチンコ屋だった。当時、手打ちパチンコがデジタルパチンコに移り変わる時期で、店内は活気に満ちていた。その日、私は何も考えずに席につき、玉を打ち始めた。初めての体験だったが、次第画面に引き込まれ、時間の感覚が薄れていった。最初は小さな当たりが続き、少し勝った気になっていた。だが、それは一時的な錯覚にすぎなかった。気づけば財布の中身が空になり、次に打ち込むための現金を探している自分がいた。その後も、パチンコに通う日々が続いた。転職の不安や日常のストレスから逃れるため、無意識のうちにパチンコ店へ足を運んでいた。最初に借りた5万円はすぐに消え、気づけばアコムからの借り入れが膨らんでいた。振り返ると、私の生活はすっかりパチンコに支配されていた。朝からパチンコ店に入り、夜遅くまで打ち続ける。転職活動も次第に疎かになり、無気力な日々が続いていた。借金の額は増え続け、返済のためにさらにパチンコで取り戻そうとする悪循環に陥っていた。気がつけば、いくつかの消費者金融から借金を重ね、限界に達すると今度は丸井のデパートでキャッシングをするようになっていた。まるで自転車操業のように、借金は膨れ上がっていった。そんな日々を過ごしているうちに、ようやく仕事が決まった。結局、印刷会社からの採用連絡は来なかったが、新しい就職先は医薬品の営業見習いだった。給料は月に10万円ちょっとという少額だったが、トップセールスマンになれば借金なんてすぐに返せる、と自分を励ました。若さゆえに、借金をあまり重く考えず、ポジティブに捉えることができた。この瞬間から、借金地獄は私の思考から消え去った。そして、迎えた初出勤の日。ドアを開けた瞬間、同期入社のメンバーが目に入った。男性2人、女性5人。その中の一人、19歳の三橋康子が私に声をかけてきた。彼女との出会いが、私の統合失調症劇の始まりとなった。康子は初めて会った瞬間から、私の仕草に対してとにかく口うるさく文句を言ってきた。彼女の顔は可愛かったが、私の興味は全く湧かなかった。最初は、康子の言葉に戸惑い、なぜそこまで私に厳しいのか理解できなかった。けれども、日が経つにつれて彼女の態度はますます攻撃的になり、私の精神は次第に追い詰められていった。職場では普通に振る舞おうと努力していたが、康子の視線が常に気になり、何をしても彼女に批判されるのではないかという不安がつきまとった。そんな中、仕事自体にも慣れてきて、営業見習いの成果も少しずつ上がっていったが、心の中では葛藤が続いていた。康子の存在が、私にとって精神的な負担になり始めていたのだ。ある日、思い切って康子に「なぜそこまで私に厳しいのか?」と尋ねた。すると彼女は、思いもよらぬ答えを返してきた。「あなたが他の誰とも違って、特別に感じるからよ。」その言葉に、私はさらに混乱したが、同時に彼女の態度の裏に隠された感情に気づき始めた。これをきっかけに、私の心境にも変化が訪れる。康子との関係が、今後の私の人生にどう影響を与えるのかは、まだわからなかったが、確実に何かが動き始めていた。
私は商品の知識を覚えるのが仕事だ。60歳になる年配の男性が私の先生だ。取引先に行く際にはいつもコンビで同行し、いつの間にか界隈で有名な存在となった。そして、仕事が終わると銀座の裏通りにある飲み屋を渡り歩くようになる。まずは酒屋で五円煎餅と一杯の酒から始まる。五円煎餅と酒で軽く口を湿らせた後、私たちは次の店に向かう。銀座の裏通りには、知る人ぞ知る小さな居酒屋やバーが並んでおり、どの店も味わい深い雰囲気が漂っている。爺さんはどの店のどの酒が美味いか、どの料理が絶品かを知り尽くしていて、まるでガイドのように私を案内してくれる。
二軒目の小さな居酒屋に入ると、カウンターの隅に腰を下ろし、焼酎のお湯割りを頼む。爺さんは無言で湯気の立つグラスを見つめ、やがてゆっくりと語り始める。「昔、この銀座の界隈でさ、一杯の酒に賭けてた頃があってな…」
話は、爺さんの若い頃の思い出や、今ではもう見かけなくなった老舗の話にまで広がる。私が知らない昭和の香りが、彼の話を通じて今に蘇るようだった。普段は寡黙な爺さんが酒を片手に語るその姿は、どこか懐かしさと哀愁が感じられ、不思議と聞き入ってしまう。次第に夜も更けてくるが、私たちは三軒、四軒と店を渡り歩く。やがて爺さんがふとため息をつきながら言う。「酒ってのは、ただの飲み物じゃない。人生の喜びや哀しみを映し出す鏡なんだよ。」
その言葉に深く頷きながら、私もまた一口、酒を味わう。気づけば、いつの間にか爺さんの話に影響され、自分の人生も見つめ直している自分がいた。この銀座の夜が、私にとっても大切な時間となっていることに、はっと気づいたのだった。
7 束の間の幸せを感じる瞬間
私が、現実には誘うことはなかったが、夢を見ていた。康子は、私が外から戻るとすぐに手を振ってくる。その仕草に、私は次第に惹かれていった。会社の飲み会で聞いた郷ひろみの「哀愁のカサブランカ」が、頭に焼き付いている。その夜の飲み会では、誰かがリクエストした「哀愁のカサブランカ」が流れ、康子がそれに合わせて口ずさんでいた。彼女の歌う姿に、少し照れたような笑顔が浮かんでいて、私はその様子に見とれてしまった。曲が終わる頃には、なんとも言えない切なさが胸に残り、康子への想いが強くなっている自分に気づいていた。しばらくして、彼女と二人で話す機会が増えてきた。休憩時間には何気ない会話を交わしながら、少しずつお互いのことを知っていく。康子の好きな映画、休日に行くカフェ、ふとした笑顔――どれもが私にとって特別なものになっていった。彼女とのひとときが、私の心を癒し、日々の仕事に新たな楽しみを与えてくれる。ある日、思い切って「今度、一緒に食事に行かないか」と誘ってみた。康子は少し驚いた顔をしたが、すぐに微笑んで「うん、行こう」と答えてくれた。その瞬間、郷ひろみの歌が再び頭の中で響き、康子との新しい一歩を踏み出せる気がして、心が弾んだ。そんな夢を見ていたせいか現実に大事件が起こったのだ。
2月になり、中途入社してから半年が経った。会社のアルバイトで理科大学の学生と、隣の会社のスキーツアーに二人で参加することになった。当日、駐車場に停めてあるバスに乗り込み、発車を待っていると、どこからか声が聞こえてきた。
「待って、私も行く!」
振り返ると、そこには康子の姿があった。突然の出来事に驚きながらも、なんだか嬉しい気持ちがこみ上げてくる。こうして、予定外の康子も加わり、私たちは三人で新潟の苗場スキー場へと向かうことになった。
バスの中では、雪山の話題やスキーのコツについて盛り上がり、和やかな雰囲気が広がっていた。康子がいることで、いつもより楽しく、どこか特別な旅になる予感がした。積もった雪は背の高さほどもあり、苗場スキー場の景色は壮大だった。私はリフトで一度だけ頂上まで登ったが、それだけで精一杯だった。宿泊先の民宿に行くためにも、スキーで滑らなければならない場面があり、初心者の私は苦戦するばかりだった。
スキーの思い出よりも印象に残ったのは、夜の宴会だった。賑やかな宴会の席に康子が顔を出してくれたことで、その場の雰囲気は一層華やいだ。彼女の姿を見た瞬間、疲れも吹き飛び、私は自然と笑顔になっていた。宴会では康子が周りと楽しげに会話を交わし、笑い声が絶えなかった。そんな彼女の様子を見ながら、次第に自分の中で彼女への気持ちが確かなものになっていくのを感じた。帰りのバスの中で、私たちは隣同士の席になった。彼女はスキーの疲れからか、私の肩に頭を預けて眠ってしまった。穏やかな寝顔を見ていると、自然と心が温かくなるのを感じた。そして翌日、私は自分が彼女に恋に落ちていることをはっきりと自覚した。彼女の仕草や笑顔、そしてこの旅行で過ごした時間が、私の心に深く刻まれていた。
春になり、東京では上野公園での花見が行われた。同僚が朝から場所を確保し、会社の仲間たちが集まった。康子は友達を連れて花見に参加していた。宴もたけなわになり、酒が進むにつれて私はすっかり酔い潰れてしまい、康子への想いを彼女の友達の前で口走ってしまった。そして帰り道、酔いが抜けずに山手線を何周も回り、終電でようやく池袋駅にたどり着いた。そこから目黒まで歩いて帰ることになり、自宅に着いた頃には、すでに夜が明けていた。それから数日、康子と顔を合わせるたびにあの花見の日のことが頭をよぎり、少し気まずい思いがしていた。しかし、康子はいつも通りの明るい笑顔で接してくれた。それがかえって私を安心させ、彼女への想いがさらに深まっていくのを感じていた。そんなある日、康子から昼休みに「ちょっと話があるんだけど」と声をかけられた。二人で近くのカフェに向かい、静かな席に腰を落ち着けると、康子は少し照れたように微笑みながら話し始めた。
「この前の花見の時、○○さんが私に言ってくれたこと…覚えてる?」
その一言で、私の心臓は一瞬で跳ね上がった。あの酔い潰れていた夜の告白が、彼女の中でどう受け取られているのか、不安と期待が交錯する。
康子は続けた。「正直、驚いたけど…でも、嬉しかった。こんな風に誰かに想われているなんて、私も少しずつ気持ちが動いてきてる気がして…」
その言葉に、私は胸がいっぱいになり、思わず笑顔がこぼれた。康子と初めて気持ちが通じ合った瞬間、私たちは新しい一歩を踏み出そうとしていたのだ。
彼女の前で統合失調症を発病
8
数ヶ月前から、康子は私に会うたびに「もうすぐ誕生日だからね」と繰り返すようになっていた。そんな彼女の言葉が頭に残り、誕生日の前日、私は渋谷の西武デパートでプレゼントにと腕時計を買った。そして迎えた当日、時計を胸ポケットに忍ばせ、渡す機会を伺っていたが、なかなかチャンスが訪れない。業務終了のチャイムが鳴る頃になってようやく勇気を出し、「これ、プレゼント」と彼女に差し出した。康子は驚いたように「こんな高いもの…」と言ったが、隣で見ていた総務のお姉さんが「もらっときなさい」と一言。康子は恥ずかしそうに、しかし嬉しそうにプレゼントを受け取ってくれた。その瞬間、胸の中が温かくなり、彼女への想いがさらに深まるのを感じた。
統合失調症感情障害(Schizoaffective disorder)は、統合失調症と気分障害(例えばうつ病や躁病)の症状が同時に現れる精神的な疾患です。この病気では、現実と感情の認識が歪み、感情の高まりを制御できなくなることがあります。統合失調症の特徴である幻覚や妄想、そして感情の障害が複雑に絡み合うため、患者は感情の波に翻弄され、しばしば自分の感情を適切に管理できなくなることがあります。感情の高まりが制御できなくなるとは、極端な情緒の変動、過度の興奮や不安、急激な落ち込みが現れることを意味します。これらの症状は、患者が周囲とのコミュニケーションや日常生活を行う上で大きな障害となる。
この日は、会社での初めての当直の日を迎えた。忘れもしない、5月7日、彼女の誕生日から三日目の出来事だった。夕方になると、康子がパンを差し入れに持ってきてくれた。これまで、精神に異常をきたしたことは一度もなかった。しかし、酔った勢いで駅の改札口を突破したりと、時折変な行動を取ることはあった。康子が差し入れのパンを持ってきてくれた瞬間、心の中に温かい感情が広がった。それは、彼女の誕生日からまだ三日しか経っていないということを考えると、どこか特別な意味を持っているように感じた。普段の仕事の忙しさに埋もれて、彼女への気持ちが少しずつ形を変えていくのを実感する。これまで、自分が精神的に不安定になったことはほとんどなかった。自分自身に誇りを持っていたし、感情を上手くコントロールできていた。しかし、酔って駅の改札口を突破したあの夜のように、予測できない自分の行動に驚くこともあった。それでも、その場の興奮や衝動に任せて動いた自分を振り返ると、どこか逃げ道を探していたようにも感じる。康子の存在が、自分の内面を見つめ直させ、心の中で何かが動き出すのを感じていた。夜の8時、会社のビル群が静寂に包まれ、各ビルの戸締りを確認しながら、社長室で就寝の準備を進めていた。入社して一年。人間関係も順調で、職場での仕事にも自信がついていた。すべてがうまくいっているように思えたその時、まるで予兆のように胸の奥にひとしずくの不安が広がっていった。やがて深夜の2時、完全に静まり返った社長室に、突如として悪夢が襲いかかる。その瞬間、何もかもが歪んで見え、冷や汗が背中を走った。目の前に現れるのは、私が必死に押し込めてきた感情の塊。それが形となって目の前に現れ、私を捕らえた。現実と夢の境目が曖昧になり、恐怖と不安が一気に押し寄せてきた。今まで無意識に避けていた自分の心の闇が、ついに浮き彫りになったような感覚がした。
9 被害妄想の嵐
深夜2時、突然目が覚めた。社長室の静けさの中から、家具の上でゴソゴソと音が聞こえる。昼間、総務のお姉さんが事務所でネズミが出て困っていると私に訴えてきたが、机の引き出しを開けてみても何の気配もなかった。それが、今度ははっきりと聞こえる。咄嗟に、その音が幽霊のラップ音だと思い浮かんだ。心霊現象に関する記事を読んだことがあったからだ。恐怖に駆られながらも、その音がどこから来ているのかを探ろうとしたが、すぐに怖さが押し寄せてきた。それでも、どこか冷静さを保ちながら、心の中で必死に「きっと気のせいだ」と自分を納得させた。数秒後、音は収まり、私は再び深い眠りに落ちた。翌朝、目を覚ますと、私は被害妄想の世界に襲われていた。頭がぼんやりとしていて、現実と幻想の区別がつかなくなりそうだった。会社にやってきた私は、同僚を捕まえて「この会社の給料が安いのは、幽霊が出るからだ。ゆすられているんだ」と意味不明な言葉を次々と話しかけていた。周りの同僚は困惑した表情を浮かべながら、私を避けるように距離を取った。仕事をしていると、突然「今日はやつはどうしたんだ?」という声が聞こえてきた。声の主は誰なのか、どこから聞こえてきたのかも分からない。ただ、その声が私の中でどんどん膨らんでいき、頭の中がさらに混乱していった。
その日、私はまるで自分が周りの人々から取り残されているような気がしてならなかった。誰も私を理解していない、何かがおかしい、そんな感覚が深く根を下ろしていた。会社の空気が重く感じられ、周りの同僚たちが私を避けるようにしているのが気になった。昼食時、ひとりでいることが増え、食べ物の味さえも感じられなくなった。そして、ふと視線を感じて振り返ると、同僚たちが何やら囁き合っているのが見えた。私を避けるような態度を取るその姿が、さらに私の心を重くさせた。もしかしたら、昨日の言動が誰かに伝わり、私は完全に異常者だと思われているのだろうか。その夜、再び眠る前にふと考えた。今日の出来事が、もしもただの幻覚だとしたら、私はいったいどこにいるのだろうか?自分の感覚を信じることができない恐怖が、心の中で強く渦巻いていた。その日は一睡もできず、涙が止まらなくなった。感情が高まりすぎて、何もかもが怖く感じ、ひたすら涙があふれてきた。次の日、私は部長を捕まえて「彼女と結婚します」と呟いた。その言葉が何故か、部長の口からは「うん」とうなずく返事が返ってきた。それが一層私を混乱させ、現実がますます歪んでいくように感じた。そんな被害妄想の世界が三日間続き、ついには異常な行動に出てしまうことになった。その時、私は完全に自分を見失っていた。涙が止まらない夜、心の中は渦巻くような感情でいっぱいだった。現実と妄想がごちゃ混ぜになり、どこまでが本当で、どこからが自分の作り上げた幻なのかが分からなくなっていった。翌日、部長に言った「彼女と結婚します」という言葉が、なぜか自分を安心させた。しかし、すぐにそれが間違っていることに気づき始め、心の中では冷静さを取り戻そうとする自分と、逆に暴走していく自分との間で葛藤していた。次第に、私は現実の世界にいられなくなってきた。被害妄想がエスカレートし、自分の行動が次第に制御できなくなっていった。周囲が私を避けるように見え、何かが私を監視している、何かが私を追い詰めているような錯覚にとらわれ、夜になると怖くて寝ることもできなかった。そんな中で、自分が何をしているのかも分からなくなり、やがて異常行動に走ることになった。
10 思考の暴走
アパートを飛び出した私の頭の中には康子の存在が強く刻まれていた。彼女の面影が、まるで命令するかのように次々と浮かび上がる。「次は右に曲がって、そして真っ直ぐ、そして左に曲がって」と。思考が次第に混乱し、破裂しそうになる。私は無意識のうちに、あるマンションへと向かっていた。12階の部屋で彼女が待っている──そう信じて疑わなかった。深夜の静けさの中で、私はその部屋のドアを叩いた。心臓が鼓動を速め、手が震えていた。待っているのはきっと、康子だろうと思った。でも、ドアが開いた瞬間、そこに立っていたのは見知らぬおじさんだった。
「あ、間違えました」と私は呆然としたまま謝り、何も言えずにその場を後にした。マンションを出ると、冷たい風が顔に当たった。心の中に残った空虚感が、ますます大きくなる。康子のことが、どこか遠くなっていくような気がした。それでも、まだその面影は私を引き寄せていた。
目黒を後にし、武蔵小山へ向かう足取りは、まるで夢遊病者のようにおぼつかない。頭の中は被害妄想で埋め尽くされ、自分でも何が現実で何が妄想なのか分からなくなっていた。駅が近付くと空腹が堪え難くなり、立ち食いそば屋に吸い寄せられるように足を踏み入れた。出されたどんぶりに目を落とすと、一匹のハエがスープの表面に浮かんでいるのが見えた。瞬間、これは神様からの支えの使者ではないか、などという不可解な妄想が頭をよぎる。そして、その妄想に導かれるように、スープを飲み干してしまった。空腹が満たされると、今度は思考の中に住み着いた康子の存在が、かすかな幻聴となって耳元で囁き始めた。その声は言葉にならない曖昧な音として響き、右へ行け、次は左だと、私の進むべき道を指し示してくる。その指示に従ううちに、気付けば明け方を迎えていた。冷えた空気の中、辿り着いた先は田園調布だった。夜通し歩き続けた足の痛みを感じながら、そこで立ち止まり、私はようやく周囲を見回した。自分が何を求めてここまで来たのか、その答えは分からない。ただ、妄想と現実の狭間をさまよう自分だけが、確かにそこに存在していた。私は腰を下ろし、一軒家のポストから新聞を取り出して広げた。活字を追うことで、心のざわめきを少しでも静めようとしていたのかもしれない。しばらくして、赤い光がゆっくりと近づいてきた。それはパトカーのランプだった。住民が「不審者がいる」と通報し、警察が駆けつけてきたのだろう。その瞬間、胸の奥がきしむような音を立てた。自分の存在が、他人の警戒心を生む対象でしかない現実に打ちのめされる。報道でよく目にする「精神鑑定」という言葉が頭をよぎる。精神衰弱の人間がしばしばその対象となるという話を思い出しながら、私はふと自分を省みる。被害妄想に襲われた時、どこかで理性が働いていることを感じるのだ。他人を傷つけてはならない、という明確な行動規範が意識の中に存在し続けている。それは、狂気に飲み込まれそうになる自分を引き止める、かすかな光のようなものだ。一方で、犯罪を犯す人間は、この理性がなぜ働かないのだろうかと考える。そのことがどうしても理解できない。理性の欠如とは、果たして何なのか――それは、私にとって永遠に解けない問いであり、同時に自分自身を見つめ直す鏡のようでもあった。警察の赤い光に照らされながら、私はただ、自分の中に残る理性の存在を確かめるように目を閉じた。
11 手錠をかけられ連行
「ガチャ」という冷たい音が静寂を裂く。
両手首に手錠がはめられ、その硬い感触が皮膚を刺すように伝わる。抵抗する間もなく、警察官に促されて足を進める。視線を落とすと、自分の手首に光る金属が重々しく揺れていた。その瞬間、胸の奥に冷たい塊が沈み込むような感覚が押し寄せる。パトカーの後部座席に押し込まれると、車内の閉ざされた空間に息苦しさを感じた。車が揺れ、窓越しに見える景色はどこか遠くの世界のようだった。目の前で街が通り過ぎていくのに、自分だけが止まっているような錯覚に陥る。
「なぜ、こんなことになったのだろう?」
品川警察署へと連行される道中、頭の中でその問いが何度も繰り返される。確かに、自分がポストから新聞を取った行動は誤解を招いたのかもしれない。しかし、それがこんな結末を招くとは夢にも思わなかった。心の中にじわじわと広がる不安と怒り、そして無力感。誰も自分の言葉を聞いてはくれないだろうという孤独感が胸を締め付ける。パトカーの振動がそのまま自分の心の揺れと重なるようだった。品川警察署へ向かう道のりは、わずか数十分だったはずなのに、永遠に続くかのように感じられた。書類が乱雑に積まれた大部屋のオフィス。その一角にある簡素な机の前で、私は指紋を採取されていた。指先に軽く押し付けられる感触と、インクのひんやりした冷たさが、現実の厳しさを突きつけてくる。だが、不思議なことに、罪の意識というものは一切湧いてこなかった。ただ、「もう悪いことはできないな」という揺るぎない確信だけが、胸の奥に静かに芽生えていた。そんな緊張感の中、不意に警察官の声が飛び込んでくる。
「今日の江川は160キロ出ますよ!」
その言葉に、現場の空気が一瞬ゆるむ。どうやら、酔っ払いの相手をする合間に、世間話のような言葉を投げかけているらしい。肩を軽く叩かれ、「わかった、わかった」と軽くいなされる。自分が置かれている状況の異質さに気付かされ、なんとも言えない虚無感が心に広がった。時間が経つにつれ、次第に疲労感が押し寄せてきた。数時間後、オフィスの扉が開き、会社の部長が現れた。迎えに来てくれたことに感謝しつつも、自分が迷惑をかけたという事実に、胸が締め付けられる。この一連の出来事が、私に何を教えようとしているのかは分からない。ただ、指紋を押した指先に残るインクの痕が、何か深い教訓のように思えたのだった。アパートまでの一時間、部長と言葉を交わすことはなかった。重たい沈黙が車内を支配し、ただタイヤの音だけが淡々と響いていた。アパートの前に着くと、部長は「今日はゆっくり寝ろ」と一言だけ告げ、特に疑惑を抱く様子もなくさっさと帰っていった。そのあっさりとした態度に、少しの安堵と大きな孤独が心に広がる。部屋に戻ると、静寂が一気に重圧となり、再び被害妄想が頭を支配し始めた。見えない誰かの視線、壁の向こうから囁く声、そして、この世界そのものが自分を追い詰めているような錯覚。恐怖に駆られた私は、ステレオの音量を最大まで上げ、外界の音をかき消そうとした。しかし、それでも不安は収まらない。手に取ったのは、部屋の隅に置いてあったバットだった。「この壁の向こうに異次元の世界がある――」そんな確信めいた妄想に突き動かされ、バットを振り回して壁を叩きつける。乾いた音が部屋中に響き、壁の破片が飛び散るたびに、何かが解放されていくような感覚に浸った。しかし、現実は冷酷だった。異次元の世界への扉は開かれず、壁を壊す音に気づいた大家が警察を呼んだのだ。数分後、ドアを叩く警察官の重いノック音が鳴り響き、私は現実へと引き戻された。混乱したまま立ち尽くし、バットを握る手がじわりと冷たくなるのを感じながら、自分がどこへ向かっているのか、その答えがますます遠ざかっていくように思えた。
「どうかしましたか?」
ドア越しに警官の声が聞こえた。その低く落ち着いた声は、こちらの混乱を静めようとするかのようだった。しかし、私の手はドアノブに届かない。開けることへの恐怖が身体を硬直させていた。代わりに、ステレオの音を切ることで答えた。部屋の中に突然訪れた静寂は、かえって耳鳴りのように不安を膨らませる。それでも、声を絞り出すようにして「すみません」と謝罪の言葉を投げかけた。自分の言葉がどれほど伝わったのかは分からない。ただ、警官がそれ以上何も言わず、足音が遠ざかるのを聞いて、ほっと胸をなでおろした。だが、その安堵も束の間だった。二時間ほど経った頃、再びインターホンが鳴った。今度は会社の同僚が訪ねてきたのだ。ドアを開けると、同僚の顔には心配の色が濃く浮かんでいた。その視線に自分の荒れ果てた部屋が映り込んでいることに気づき、恥ずかしさと申し訳なさが押し寄せた。
「大丈夫か?」と言われるその一言が、胸に刺さる。答えたくても、どんな言葉を選んでも嘘になりそうで、ただ頷くだけだった。同僚の存在はありがたいはずなのに、心の中では「こんな姿を見せたくなかった」との思いが強く渦巻いていた。部屋の中に流れ込む外の空気が、少し冷たく感じた。その冷気が、今の自分が立ち直るべき現実を突きつけてくるようで、ただ視線を床に落とすことしかできなかった。
「ちょっと外に出ようか。」
同僚の穏やかな声に、私はただ頷くしかなかった。自分の意思など、もうほとんど残っていなかった。言われるままにコートを羽織り、重い足を引きずるように外へ出る。夜の空気が肌を刺すように冷たいが、それさえもどこか遠い感覚に思えた。
「あそこの喫茶店に行こう。」
そう誘われた時、心の中で何かが僅かに揺れた。しかし、それを拒む力もなく、ただ同僚の後ろを無言でついていく。喫茶店と聞いていたのに、次に目に映ったのは真っ白な壁の空間だった。ドアを開けて踏み入れたそこは、喫茶店ではなく、まるで異次元の世界のようだった。気づけば私の周囲には、白衣を着た人々が立っていた。その表情は穏やかで、けれど、どこか冷たくも感じられる。「ここは……?」と声にならない声で問いかけるが、答えは返ってこない。同僚は少し距離を置いた場所で何かを話していたが、その言葉も耳には届かない。ただ、ここが精神病院だという事実がじわじわと理解され、全身に緊張が走った。自分がここにいる理由は何だろうか。あまりにも突然の展開に、頭の中は真っ白だった。怒り、悲しみ、恥ずかしさ、安堵――すべての感情が渦を巻き、胸の奥で暴れている。ただ一つだけ確かなのは、ここで自分の人生がまた大きく変わるのだろうという予感だった。
12 隔離室にぶち込まれる
診察室の扉が重々しく開くと、そこには30代くらいのメガネをかけた精神科医が座っていた。彼は机の向こうからこちらを見据え、少し癖のある動きで目を右に左にとぱちぱちさせながら質問を投げかけてきた。
「今の気分はどうですか?」
その問いは、まるで心の奥底を暴こうとする探り針のようだった。私は深く考える余裕もなく、「はい」とだけ答えた。その返事が適切だったのかどうか、自分では分からない。ただ、部屋の空気がどんどん重く感じられるのを意識するだけだった。25年後、障害年金申請のために取り寄せた診断書には、当時の診断が記されていた。その文字を目で追うたびに、かつての自分が映し出されるようで、胸が締め付けられる。「悪霊が憑依して悪さをする」。その言葉が、まるで私の存在そのものを形作っているかのようだった。診断名は「精神分裂病」、今では「統合失調症」と呼ばれるものだ。それを読んだ時、25年の時の流れを超えて、あの診察室の空気と医師の視線が鮮明によみがえった。当時、診察室を出た後の記憶は途切れ途切れだ。意識がもうろうとして、身体が勝手に動いているような感覚に襲われた。そして、気がつくと見知らぬ異様な部屋の中にいた。狭い空間に重苦しい静けさが漂い、鉄格子の向こうから微かに聞こえる誰かの声だけが現実を繋ぎ止めていた。その瞬間、自分が隔離されたのだと理解し、胸の奥から冷たい恐怖が湧き上がった。この部屋が、今後の私の運命を決定づける場所になる――そんな予感が、頭の隅で静かに鳴り響いていた。その瞬間、私は正気に引き戻された。周囲を見渡すと、そこには血の滲む壁、剥き出しの便器、そして三畳ほどの狭苦しい板張りの部屋が広がっていた。窓には鉄格子がはめられ、外の世界との繋がりを完全に断たれている。ここが精神病院の隔離室だと気づいた時、胸の奥に冷たい現実が突き刺さる。この部屋に入れられるのは、最も症状が重い患者だけ――それは知識として聞いたことがあった。しかし、まさか自分がその中にいるとは夢にも思わなかった。混乱と屈辱、そしてわずかな恐怖が胸の中で渦巻き、どうしようもない焦燥感に襲われる。
「出してくれ!」
叫んでも誰も答えない。声が届かない現実に苛立ち、私は衝動的に壁を蹴りつけた。最初はただ力任せに蹴り続けたが、硬い壁はびくともしない。十回、二十回、三十回……蹴るたびに足には鈍い痛みが走り、それでも止められなかった。
「こんなところに閉じ込められてたまるか!」
自分に言い聞かせるように、さらに力を振り絞って蹴り続ける。鉄格子越しに見える淡い月光が、唯一の現実感を与えるものだった。しかし、やがて体力は尽き、息が荒くなり、膝が床についた。疲れ果てた体は、抵抗する力さえ奪われていた。何もできずに横たわると、胸の奥で怒りや悔しさが静かに消えていく。その代わりに訪れたのは、深い眠気だった。孤独と絶望の中で、私は深い眠りに落ちていった。そこだけが、束の間の安息だった。
13 退院待っていたのは2度目の首
隔離室に閉じ込められてから、どれほどの時間が経っただろうか。感覚が麻痺し、外界との繋がりを失ったような日々が続いた。おそらく3日は経過していたのだろう。それから、少しずつ状況が進展し、隔離室から解放されると、入院生活が始まった。退院までの一ヶ月は、まるで時間が止まったかのように感じた。入院中、九州から母がわざわざ見舞いに来てくれた。その姿を見たとき、何とも言えない罪悪感と安堵が心の中で交差した。母は私がいない間、アパートの部屋で待ってくれていたらしい。その事実を知ったとき、胸が締め付けられるような思いだった。入院中には短い外出も許されるようになった。外の空気を吸い込むたびに、生きている実感が少しずつ戻ってきた。食事も満足に取れるようになり、むしろ食欲がありすぎて、気づけば10キロも体重が増えていた。食べ物の味がやけに濃く感じられたのは、心のどこかで何かを埋めようとしていたのかもしれない。そして退院の日を迎えた。久しぶりに見るアパートのドアは、見慣れたはずなのにどこかよそよそしい。中に入ると、あの生活が待っている。それが救いなのか、それともまた苦難の始まりなのか、まだわからなかった。退院後の生活に希望を抱きたい気持ちと、再び訪れる恐怖や不安の予感が入り混じる中で、私はただ足を進めることしかできなかった。そして、その先に待ち構えていたのは、想像もしなかった2度目の解雇だった。また首か――そう呟いた瞬間、胸の奥に鈍い痛みが広がった。会社の事務手続きのために向かったオフィスは、まるで過去の断片が詰まった箱のようだった。その隅に座って仕事をしている康子の姿を見つけたとき、時が一瞬止まったような感覚に襲われた。 彼女がこちらに気づくことはなかった。いや、気づいても知らないふりをしたのかもしれない。その無言の距離が、まるで私の過ちや未熟さを静かに指摘しているように思えた。これを最後に、彼女と会うことは二度となかった。不思議なことに、心の中に未練はなかった。過去の出来事や感情が薄れていく中で、自分自身の若さや未熟さを呪う気持ちのほうが強かったのだ。それは後悔というよりも、人生に対する苦い理解だった。上司や同僚、そしてかつて好意を抱いた彼女に別れを告げたとき、心に残ったのは、これで全てが終わったという妙な解放感だった。好きだったはずの彼女との決別も、過去の一部として消えゆく感覚がどこか冷たかった。それでも、それが必要なことだと理解していた。
退職の手続きを終え、オフィスを去るとき、康子の姿がちらりと視界の端に映った。振り返ることはなかった。心にわずかな痛みを残しながら、私は新たな道を歩むしかなかったのだ。退院した次の日から、精神病院を訪れることは一切なかった。薬局に足を運び、処方された精神薬を受け取ることもなく、その服用を断ち切った。それが正しい選択だったのかは、今でもわからない。だが、あの場所に戻ることは、自分にとって敗北を意味しているように思えた。33歳になるまでの間、統合失調症という名の嵐に、三度も襲われた。それでも、私は同じ場所に帰ることを拒み続けた。症状がその姿を変え、時には影のように忍び寄り、時には暴風のように荒れ狂ったが、私はその度に、自分だけの戦い方を模索していた。精神薬がどれほど重要なのか――それは今も理解しきれていない。それでも、私は薬を手放したまま、この病と向き合い続けてきた。そして気づけば65歳、症状は形を変えながらも、私とともに生き続けている。この長い戦いの中で、病と折り合いをつける方法を学び、自分の精神の揺らぎと共存してきたように思う。この物語をここまで読み進めてくれたあなたが、もし「精神病」「統合失調症」という枠組みを超え、その背後に潜む「スピリチュアル」や「魂」、さらには「宇宙」との繋がりについて何かを感じ取ることができたなら――それだけで、この文章を書いた意味があったと言えるのかもしれない。それが私の願いであり、この人生の断片を記した理由だ。
第3章 人格崩壊への片道切符
14 第三章 人格崩壊への片道切符
2度目の再発
14
都会とは違い、田舎はのんびりとしていて、とても環境が良い場所でした。アパートから会社までは、バスを使ったり、自転車で通ったりしていました。仕事はプリント基板を作る最初の工程で、写真技術のようなものに携わっていました。たしか、その会社は某大企業から独立して設立された会社だったように記憶しています。発病した当日、朝の段階では特に異常はありませんでした。今振り返ると、仕事というのは徐々に身についてくるもので、自分の手際やペースが整ってくる感覚がありました。しかし、その日のお昼を食べた後、暗室で作業をしていると、突然「偶然が重なる感覚」が襲ってきました。その瞬間から、頭が妄想に支配されるようになったのです。どうしても我慢できなくなり、会社を飛び出してしまいました。バスに乗りアパートへ向かう途中、さらなる異変が訪れました。バスの中で幻覚のようなものを見たのです。乗客の一人の顔が、自分の母親の顔に見えたのを今でもはっきり覚えています。アパートに着き、部屋に戻った頃には、自分の精神状態がおかしいことを自覚するようになりました。部屋にある亡き祖母からもらった一枚のはがきが目に入りました。それは、自分にとって大切なものだったので、丁寧に飾り、祈るような気持ちで向き合いました。混乱の中でも、何かにすがりたい、心を静めたいという強い思いがそこにあったのです。
「何事も起きませんように」――そう願いながら、その夜を迎えました。しかし、どうしても寝付けず、深夜ラジオを聞いていました。静かな部屋に響くラジオの声が、どこか心を落ち着けてくれる気がしていたのです。けれど、そのひとときは突然に破られました。パーソナリティが口にした言葉が、私の心を揺さぶったのです。
「あの世からなーんちゃって」
その瞬間、頭の中で何かが引き金を引かれたようでした。まるで自分がこの世にそぐわない存在であるかのような感覚が、急激に押し寄せてきたのです。外部に自分の異常を悟られないようにと、スーツの上に作業着を重ねて着込み、部屋を出ました。夜の冷えた空気の中、駅へと向かう途中、前を歩く人々の何気ない会話が、自分を噂しているように聞こえてきました。その妄想に突き動かされるように電車を乗り継ぎ、六本木へとたどり着きました。六本木の街を彷徨い歩きました。「誰かが待っているはずだ」と信じながら。しかし、何も起こりません。焦燥感と孤独感に苛まれながら、次に目黒へ向かいました。夜が更け、妄想はさらに膨らんでいきました。あるマンションの一室に、彼女が待っているという確信のようなものを抱き、狙いをつけた部屋のドアをノックしました。けれど、現れたのは彼女ではなく、見知らぬ人でした。
夜が明け始めたころ、次に向かったのは上野駅でした。財布の中はすでに空っぽ。それでも、自分を止めることはできませんでした。無賃乗車で特急電車に飛び乗り、大宮へ向かいました。心も体も疲弊しきった中、終わりの見えない旅が続いていました。大宮駅について、ロビーにある大きな絵を眺めていました。そして、この絵を見ながら、妄想に耽っていました。その後、ふたたび電車へと乗り込みます。この時、頭の中は、スーパーマンにでもなったかの様な感じでいました。そして、品川駅を目の前にして、頭の中は破裂したのです。「電車に、当たっても不死身だと考え線路に飛び込みました」
電車は、近づいていましたが、まだ直前ではありません。気を取り直して、反対側のホームへと、渡りました。この時、駅員さんは、そんなに死にたいかと近寄って来ましたが、頭の中は、死にたい訳は、ちっともありません。その後、交番へと連れて行かれ、会社の社長さんが迎えに来ました。ここまでの行動は、すべて頭の中だけで行われていましたが、はじめて電車に飛び込み妄想が表にでました。普通の人でも、毎日何か頭の中では、あれこれと考えて変な事については理性が働きますが、病気になると理性が消えていきます。そして、再び独房室へと連れて行かれました。薄暗いその部屋の中、心は重く沈み、時間が永遠に感じられるような孤独の中に置かれていました。2度目の入院となったその時、被害妄想が薄れるまでには1週間ほどかかったように思います。日が経つにつれ、少しずつ心の霧が晴れていく感覚がありましたが、その過程は苦しいものでした。誰かの声や気配が自分を責め立てているように思え、現実と妄想の境目が揺らぐたびに、自分自身を信じることが難しくなっていたのです。やがて退院の日を迎えました。東京で出会った数人の親友に別れを告げる時、胸の奥に小さな痛みが生まれました。その別れが、何か大切なものを手放すような気がしてならなかったからです。それでも、九州へと帰ることを決断しました。そこには、心を癒し、もう一度新しい生活を築ける可能性があるように思えたのです。九州に戻ってからの5年間は、驚くほど穏やかなものでした。自然に囲まれた生活の中で、自分自身と向き合い、少しずつ心を整えていきました。何事もなく平和に暮らせたその時間は、嵐の後の静けさのようでした。しかし、その静けさが続くほどに、「嵐はもう過ぎ去ったのか、それともまたやってくるのか」という不安が、心の片隅にかすかに残り続けていました。
統合失調症回復プログラム