円陣のプロ
円陣のプロ。高橋は俺たちにそう呼ばれている。
見目通り、決して野球が上手いわけではない彼だったが、円陣の声だけは、いつだって誰よりも本気だった。いや、本気なんてものじゃない。地が震えるんだ。本当に。高橋の益荒男を思わせる声は、大気なんかじゃ飽き足らず、大地まで震わせるのだ。恐らく、震度1か、震度2か、それくらい。
始めは誰も、きっと本人だって、それが高橋のおかげだって気がついてはいなかった。うちのチームの円陣は地を揺らすほどの迫力がある、くらいにしか思っていなかった。けれども、そんな円陣を組んだ時には、必ずそこに高橋がいた。
高橋は決して上手い選手ではなかったから、どの試合にも出ているわけではない。高橋のいない試合の円陣は普通の円陣だった。高橋は公式戦には殆ど出たことがないから、うちの学校は練習試合の円陣の方が、迫力があった。
それで、ある時、誰かが高橋こそが震源地なのだと気がついて、彼を円陣のプロだと言うようになったのだ。
本当に地面が揺れるんだから不思議なもんだ。俺だって変だと思って、理科の先生に聞いてみたことがある。そうしたら「きっと高橋君の声の周波数が、地面の何らかと上手く噛みあって、共振するのだろう。ほら、二つあるグラスハープの片一方を響かせると、もう一つも鳴り出すという実験があるだろう」と。
俺は、やっぱり今ひとつ腑に落ちなかった。が、だからと言ってどうということでもないので、深くは考えないことにした。
しかし、やはり、地を震わすほどの円陣というのは、チームにとって魅力的だ。チームから実力以上の風格を引き出す。相手を怯ませる凄みを持つ。
先日の幹部ミーティングで、ついに監督はこう言った。
「高橋をベンチ入りさせようと思うんだ」
夏の大会。今年はチームも良ければトーナメントの枠の引きも良く、あわよくばベスト4進出だってできるかもしれない、監督はそう考えているはずだ。つまり、その中で最後にチームに加えたいもの、それが勝利への気迫というわけだ。
「確かに高橋は名選手という訳ではない。だが、ひたすら努力を重ねてきたおまえたちの中でも、とりわけ一途に、そして純粋に野球と向き合ってきた。高橋が選手に選ばれて、不満に思うやつはいるまい」監督はそう言い切った。
それで、俺は思わず監督に問うた。
「では、高橋を試合に出しますか」
監督は直ぐには答えなかった。顎を手で揉み、しばらく考えてから、やがて答えた。
「それは、その時が来たらだ」
俺はそれ以上は聞けなかった。
そうして、今更こんなことを思い出してしまったのは、いよいよ本当に高橋の出番が来てしまったからだろう。円陣の声出し役としてではない、プレーヤーとしての真の出番。
夏の大会、三回戦。今日も試合前の円陣は完璧だった。どこを探したって、こんなに素晴らしい気合い入れをする学校は見つからない。球場中に俺らの声が轟いて、その瞬間にスタンド席がどよめいたのが、俺たち選手にもわかった。
勢いづいた俺たちは、一回の表から激しく攻めたてた。俺のソロホームランもあり、大いに盛り上がった俺たちは、それぞれに勝利を確信していた。
ところが、結局その一点だけ。六回に満塁ホームランを打たれてから急に流れが変わった。野球の怖いところは、一度流れができてしまうと、それを簡単には変えられないというところだ。実力は僅かに、けれども確かに、こちらが上のはずであった。しかし、どう言うわけだか、点が一向に入らない。
俺たちは全力で足掻いた。俺だって主将として、皆を鼓舞し、己も塁に出ようと奮闘した。そこに逃げの気持ちは一つもなかった。だが、九回表、一対六、ツーアウト、ランナーなし、そうなった瞬間、監督に小さく名を呼ばれた。
振り返って、監督の目を見る。少し赤っぽくて、痛いくらいに鋭い眼差し。それで、俺は自分たちが負けたことを、理解した。俺は奥歯を噛み締めながら小さく頷いた。
負けた。負けたんだ。高校生活の辛く苦しい練習の記憶が蘇ってくる。その中に仲間の笑顔が混じって、大きな塊となって押し寄せてくる。これで、全部終わりなんだぜ。悔しいよ。
そんなセンチメンタルに独りで浸っているときに、大きな歓声が耳に飛び込んできた。俺は漸くそれで引き戻されて、慌てて最後の打席に目をやったのだった。
そうして、そこにあの高橋がいるのを見た。終わったも同然の試合で、あいつは当たり前のように、自然な動作でバットを構えていた。
ピッチャーからボールが放たれる。高橋のバットがボールを弾きあげ、審判はファールをコールした。そうしてそれが幾度か続いた。その度にスタンドは沸いた。
だが、あれは、勝つための代打ではない。三年生を出場させるためだけの代打だった。ここにいる誰もがそうだと知っていた。そんなこと、高橋だってきっとわかっている。けれども、これっぽっちもそれを思わせない、誇りを含んだ堂々たる姿だった。
やがて、その時はやって来る。高橋は球を高く打ち上げた。高橋は勢いよく一塁に駆けて行ったが、高く上がった球は、前進していたレフトのミットに吸い込まれるようにして消えていった。
ああ、あいつは、何を考えてあそこに立っていたのだろうか。そうして、それに思いを馳せた時に、俺は高橋の秘密を思い出したのだ。
昔、高橋に一度だけ聞いてみたことがある。どうやったら、あんな声を出せるのかと。練習試合の帰り道、二人で駅から歩いていた時のことだ。
高橋はへへと照れ笑いをし、一度は、はぐらかした。
「おい、教えてくれよ。誰にだってできることじゃないだろ」
「そんな、大したことじゃねえよ」
「大したことだよ。声で地震を起こすなんてことは」
「そんなに知りたいか? じゃあ、俺とお前だけの秘密にするって、約束できるか?」
「するする、約束する。だから、幼馴染のよしみで教えてくれよ」俺は少しだけ戯けてそう言った。
すると高橋は、恥ずかしそうにしながらも、俺に秘密を打ち明けてくれた。
「あのな、俺にも何でそうなるのかとか、そう言うのは全く分からないんだけどな、やり方だけは、ちゃんと、はっきりしてるんだ」
「やり方?」
「ああ。ほらな、生きてりゃ、口に出さねえ方がいい思いの一つや二つは出てくるじゃねえか。それを言っちゃあお終ぇよ、ってやつ。そう言うのをな、円陣みたいな大声を出す時に、その叫び声の中に混ぜちまうんだ。勿論、言葉にはしないぜ。ただ叫ぶだけ。叫びながら思いを地面に叩きつけるんだ。ほら、円陣の時って丁度、下を向いているだろ。叩きつけるのにもってこいの姿勢なんだ。その辺に放り出すには厄介な思いを、地面にぶち込んでやれば、大地が震えあがる。だから、別に円陣を組んだ時じゃなくても、その気になれば、地面は揺らせるぜ」
やっぱり変な話だと思ったが、高橋が言うんだから、本当なのだろうともその時、俺は思った。
勝者の校歌の大合唱が終わると、勝者は彼らの応援席に向かって一斉に駆けて行った。挨拶のためだ。俺たちもそのタイミングに倣って我々の応援席に向い、そこに一列に並んだ。そうして、先に勝者が受ける力強い拍手を背に聞いた。彼らの挨拶は拍手に飲まれて聞こえなかった。
次は俺たちの番。挨拶のタイミングを測るため、横を見る。
と、一番遠くに高橋が見えた。ここからでは、はっきりとはわからないが、口の端が微かに上がっている? 俺の出番。そう言ってる気がした。
そうか。声を出すのは何も円陣の時だけじゃなかったな。どこよりも威勢の良い声は間違いなく、俺らのチームの誇りだった。試合は負けたが、俺たちは円陣のプロだ。この声だけは轟かせてやらなきゃな。
そこで俺は、言葉にできない想いが地を震わせるんだということを、また思い出した。
俺はあいつを誇りに思っている。あいつはいつも笑って何にも考えていないふりをして、野球バカを演じて見せていただけだった。俺に、愚痴の一つも聞かせてくれなかった。きっと他の誰にも。だから誰も何も知らねえし、みんなあいつを純朴な、ただの真面目な努力家だって信じきっている。
けれども、本当は地を震わせるほどのもんを腹の中に飼って、平気で毎日そこにいたんだ。いや、平気じゃないよな。戦ってたんだよな。それってすげえことだと思うんだ、俺は。
俺はあいつのそんなところを尊敬するのだけれども、俺なんかがそれを口に出したりなんかしたら、あいつが今まで大事にしてきたこと、全部無駄にすることになるよな。あいつを惨めにするだけだもんな。これを言ったらお終いだってこと、確かにこの世にはあるな。
口に出せない思いを込めて、今、それを地面に叩きつけよう。俺にも大地、震わせられるかな。
ほうっと音を立て、大きく息を吸い込む。
「礼」「ありがとうございました」
揃った我らの大音声は、温かい拍手を圧倒し、間違いなくこの世界を揺らした。
激しくうねる視界の先に、尻もちをついた幾人もの観客がいたことを、俺は見逃さなかった。
これまでに経験したことのない、この大きな共振の殆どは高橋が作り出したものだろう。けれども、そこに少しでも俺の力が加わって、それがほんの少しでも高橋に伝わればいい、そう思った。
円陣のプロ
坊っちゃん文学賞落選作品です。