百合の君(37)
その長美千尋という村は、かつて浪親が暮らした村と同様、欅の植えられた家が小さな畑に隔てられて並んでいる。その欅は風を防ぐためと(経済的にも物理的にも)家が傾いた時の木材として先祖から伝えられたものであったが、今はただ炭の山と化した母屋を、雨と一緒にひっそりと包んでいるだけだ。
しかし包むとは言っても、枝葉も根っこも張り出しているのだから、近くを通れば中は丸見えである。浪親は、瓦礫からはみ出した腕から、一匹の蝿が暗い空に飛び立つのを見た。
となりはいくらか貧しいらしく、欅もなく瓦礫の山も小さかった。声がしたので目を向けると、倒れた人がはっきりと見えた。鴉が群がり、その頬や腕をつついている。
助けようとしたのか、ただの反射か分からないが、浪親は馬を止めた。しかし、発声器を失ったからかこと切れたのか、すぐに男は静かになった。近づいて鴉を追い払うと、下半身には凌辱の跡が雨に流れていた。
しんと心が冷たくなった。浪親は心を奮い立たせた。十二で親を失い放浪を始めた彼にとって、衝撃的な死などもうあるはずがない。
「生き残りは?」
つとめて平静に問うた。盛継はひとつ咳払いをした。
「それが・・・」
「探せ」
そのとき影が飛び出して来た。瞼がないのか剝き出しになった眼球はあらぬ方を向いて回り、焼けただれた肌からは血とも雨とも違う透明な液体がにじみ出ている。
「殿様、この子は何も悪い事などしていないのです。どうしてこのような目に遭うのですか」
声を聞いて初めてそれが若い母親だと分かった。馬から下りて、腕に抱かれた赤子を見下ろす。焼け焦げて垂れ下がった皮膚は微動だにせず、もう死んでいるのではないかと思われた。
「わたしらも最初のうちは、あの別所に勝って嬉しいと思いました。でも今じゃ、敗けた方がよかったんじゃないかって思っています」
「貴様!」刀を抜こうとする盛継を浪親は制した。
「もし負けたら、もっとひどい目に遭っていたかもしれない。わが軍が戦っているからこそ、別所を追い払えたのだ」
「そのもっとひどい目に遭うというのは、誰なのです? わたしらはもう、これ以上ひどい目には遭いようがありません」
一瞬浪親は答えに窮したが、努めて厳しい表情を作り、女の肩に手を当てた。
「女子供にこのような事をするなど卑怯千万、武士の風上にもおけぬ奴等よ。お前の恨みは我らが晴らしてみせようぞ」
女は涙を流し、浪親にひれ伏した。はずみで子供の首が曲がったが、やはり動かない。
「お願いします、お願いします。きっと奴らに同じ苦しみを味合わせてください! 妊婦からは胎児を引きずり出し、積み上げた死体を奥噛の神への階としてください。いえ、奥噛の山よりもっと高く、奴らを星に還してやるのです」
女の眼球はぐるぐる回り、視神経が切れたのか血がにじみ出た。口角からは泡が吹き出し、赤ん坊の額に垂れた。
浪親は、恨みという言葉を使ったことを悔やんだ。彼女は怨嗟そのものだった。原始的な感情そのもの、呪詛の起源だった。もう負けるわけにはいかない。この呪いに応えねば、次は私がこのような姿になる。皮を剥がれ爪をむしられ尿道に入れられた管は眼窩とつながり、血と涙と尿と精液とが体中を巡り、穴という穴から絶えず漏れ出ることとなろう。
返す言葉を失い、浪親は馬に跨った。一度目はうまく跨げず、二度目でようやく鐙に乗った。村を出ると、浪親は意識して呟いた。
「息子を亡くした母親に、その意味を与えてやらねばならない」
少しでも理性化しようと試みたが、上手くいかなった。彼は自分が何を整理すべきなのかすら知らなかった。聞こえたはずなのに返事がないところをみると、盛継もそうなのだろう。これが君主になるということなのだ、浪親は思った。城に戻る道は来た時の蹄でぐちゃぐちゃになり、壁のような黒い雲がかかっている。
百合の君(37)