バレリーナ・森下洋子に泣いた日
生まれて初めて見た「くるみ割り人形」のリポートです。
私が文章を書くようになって4年が過ぎた。
後々、自分の人生を振り返った時に、こんなことがあった、あんなことがあったと思い返したい出来事や人々について書いている。また、それが今を生きる、100年後を生きる誰かの目に留まることを願って書いてきたが、今回、どれだけ私の文章で思いの丈を記すことができるのか、何とも言えないところだが、この人生初めての経験と言える出来事を、個人的な思いとして書き記しておこうと思う。
毎年、この時期になると、世界中のバレエ団が競うように「くるみ割り人形」を上演する。クラシック音楽の世界での「第九」と同じような位置に属しているバレエ演目とも言える、この「くるみ割り人形」は、そのバレエ団によって演出も振付も衣装もキャストもオーケストラも全て違う。そのバレエ団によって特色も異なるから、同じ演目であっても全く違う味わいというものがある。できることなら全部のバレエ団の「くるみ割り人形」を見てみたいと思うところだが、人間の体は一つしかないから、そうはいかないのが現実である。
長年ずっと、この「くるみ割り人形」を見たいと切望していた私だったが、心にゆとりがなかったからなのか、それともまだ先でいいやという思いがあったからなのか、何が理由か自分でも分からないが、今まで私が「くるみ割り人形」を見に行くということを、実際に行動に移すことはなかった。
そんな私が、どういう風の吹き回しか重い腰を上げ、その願いを叶える時が、去る12月8日に訪れたのである。松山バレエ団が、森下洋子主演による「くるみ割り人形」全幕を、東京文化会館で上演した。
私の記念すべき初めての「くるみ割り人形」の鑑賞は、松山バレエ団の手によるものになった。やはり、決め手となった最大の要因は、森下洋子さんの存在によるところが大きかった。ちなみに、私の初めてのバレエ鑑賞自体が、今年の5月4日にオーチャードホールで上演された、松山バレエ団による森下さん主演の新「白鳥の湖」だった。
22年前、初めてテレビで森下洋子さんを見て以来、いつか彼女の舞台を見たいと思いながらも、あっという間に月日は流れ去り、あの時、52歳だった森下さんも先日、76歳を迎えた。52歳の時も現在も、女性に対していちいち年齢を口にするのは失礼な話ではあるが、その年齢という数字を出して語らなければ、いかに森下さんが現役でいることが驚異的なことであるか、リアリティを持って語ることができないから敢えて書かせていただくが、もう森下さんはとっくに舞踊生活を引退していてもおかしくない年齢である。その森下さんが今年、舞踊生活73年を迎え、その長年の功績、功労に対して旭日重光章を授与された。そんな記念すべき年となった今年、森下さん主演で「くるみ割り人形」が上演されることを知った私は、森下さんへの祝意も兼ねてチケットを購入したのだった。
新「白鳥の湖」の時は、どうも私には物足りなさの残る舞台となった。元々、森下さんの出番が少ない演目だったせいなのか、森下さんの踊り見たさに舞台を見に行った私は、森下さんの出番が少ないことに拍子抜けしてしまったのである。自分の知識不足を反省する結果となった。そんなことがあったものだから、音楽、ストーリー全てが分かっているようで分かっていない「くるみ割り人形」を見て、果たして私は、一体どんな思いを胸にこの舞台を見届けることになるのか、多少不安な思いもあったのだった。
午後3時過ぎに念願だった「くるみ割り人形」の舞台の幕が開いた。可愛らしいクララに扮した森下さんが、セットのドアを開けて舞台に姿を現した。客席からは「待ってました」と言わんばかりの拍手が起こったが、それからというもの、森下さんは、新「白鳥の湖」の時とは打って変わって、ほとんど出突っ張りであった。
森下さんの初演時の「くるみ割り人形」はもちろん実演では見ていないし、映像という類のものでも一度も見たことがない。だから比較のしようがないのだが、もしかしたら、初演の頃の森下さんのクララは、元気溌剌で活発でお転婆なクララだったかもしれない。それから40年以上の時を経た森下さんの演じたクララは敢えて言うなら、嫋やかで品のいいエレガントなクララである。おかしな顔のくるみ割り人形を愛おしそうに胸に抱くその指先は繊細の極みだったし、その姿は慈愛と慈しみに溢れていた。ネズミの王様に突き飛ばされて床に転んだ時も、その転び方さえもエレガントだった。それは、強いていうならば、森下さんの踊り自体がもう今では見られない古き良き時代の、一つの動く生きた標本のようなものなのだからかもしれない。
バレエ・ダンサーという職業自体が、非常に短命な職業であるために、そのダンサーを語る際は、ここからここまでと活動したその時代のみに限られるが、現役である森下さんにはそれがない。言うなれば、森下さんは日本のバレエが世界のそれとは全く違った意味を持っていた時代から、そのまま途切れることなく歩み続けているのである。今では森下さんしか指導を受けていないような、橘秋子をはじめとする先人たちの教えや、ルドルフ・ヌレエフやマーゴ・フォンテインといった、海外の錚々たる伝説的なダンサーと共演を果たし親交を持った。彼らから得たもの自体が最早クラシックで、それが、今も森下さんの中に血となり肉となり存在しているのである。
机上の知識ではなく、経験以上に勝るものがないとするならば、その時代を生きなければ決して得られなかったものを肌で感じて、そして経験したことはダンサーとして、人間としての森下さんの強みであり、宝なのである。
以前、1983年に松山バレエ団が創立35周年を記念してルドルフ・ヌレエフを招聘して「ジゼル」を上演した時の舞台映像が、NHKで「思い出の名演奏」という番組で放送されたことがあった。ちょうど、「にんげんドキュメント・いつまでも輝いていたい〜バレリーナ・森下洋子〜」が放送されて間もなくの頃だったと思うが、ヌレエフの死去からちょうど10年目の年のことだった。
全幕の中から、二人が踊るシーンの抜粋で、約1時間程度の映像だったが、この時も、ジゼルに扮した森下さんの的確なテクニックの中にもエレガントな踊りと、若さ溢れる可憐な佇まいが酷く印象的だったが、もうこの前年には「くるみ割り人形」を初演していたのである。思えばこの頃からずっと森下さんはクララを演じ続けているのである。せいぜい、演じることができるのも20歳から始めたとしても最長で30年くらいであろうと思うが、森下さんは35歳を迎える年から踊り始めて今年で42年。こんなダンサーは世界中どこを探しても誰一人としていないだろう。
「くるみ割り人形」からいささか話が脱線気味だが、ここで分かったことがひとつ。私は森下洋子さんが大好きなのだということである。そして、クラシック音楽が大好きなのである。中でもチャイコフスキーはピアノ協奏曲をはじめとして、素晴らしいバレエ音楽も残している。その中でも私は「くるみ割り人形」の第14曲の「パ・ド・ドゥ、アダージョ~コーダ」が好きなのだが、その中でも「アダージョ」が最も好きである。その大好きな「アダージョ」を森下さんの踊りで見ることができるとは、私は考えたこともなかった。
第一幕は「くるみ割り人形」とはこういうものなのかという感覚で見ていたが、インターミッションを挟んで第二幕が始まり、私が「くるみ割り人形」の中で最も愛する第14曲「別れのパ・ド・ドゥ」をオーケストラが奏で始めると、舞台でポーズを取っていた森下さんが、その美しい旋律に呼応するかのように、パートナーの男性と優雅に踊り始めた。初演から40年以上の時を経ても尚、森下さんの踊りでこの場面を見ることができるとは、まさに夢を見ているようであった。
来る日も来る日もバレエのことだけを考え、若い頃はどうしたらもっと上手く踊れるか。そして、年齢を経た現在は、どうしたら一日も長く踊れるかということを第一に考え、他のものを全て手放して生きて来た森下さんの、壮絶な努力と研鑽がその裏にはある。とは言え、人間にはそれだけではどうにもならないことがある。人が与えられた健康や寿命、その中で何かしら授かった使命を全うするということは、一個人の願いや努力だけではどうにもならないことである。できることは全てやり、後は天に任すしかない。その後のことは自分の力ではどうにもできない。それが人間である。
森下さんがこうして今も舞台で踊り続けることができているのは、森下さん自身の力によるところが大半ではあるが、もはや、それをも超越した「奇跡」という言葉以外では、とても表現できないことである。私は胸が熱くなり、それから間もなく涙が頬を伝った。この涙が意味するものとは一体何だったのか。本当のところは私自身、分からないし説明の仕様がないのである。
大好きな「くるみ割り人形」の「別れのパ・ド・ドゥ」を生演奏で聴くことができたからなのか。それとも、チャイコフスキーの作曲した、この余りに美しい音楽にただただ胸を打たれていただけだったのか。それとも、76歳を迎えた森下さんの全てを超越した踊りに引き込まれたのか。もしくは、謙虚にひたむきに努力を重ね、踊り続ける森下さんのその一途に胸を打たれたのか。どれも間違いではなく本当なのだが、そういう様々な要素が融合し、喜びや悲しみといった全ての感情を大きく揺さぶる。それが舞台芸術というものなのだと、森下さんにまざまざと見せつけられたことは確かだった。
会場は小さなお子さんを連れて、家族揃っていらした方。カップルでいらした方、友達と一緒にいらした方。そして、私のようにひとりぼっちで誰にも邪魔されることなく、純粋に舞台を鑑賞しに来た人。それは様々な人でごった返していた。
そんな中、年配の男性と女性が一人でいらしていたり、同じく年配の女性同士が群れをなしていたり、ご夫婦二人でいらしている姿をお見かけした。彼らの過去まで私は知らないから本当のところは分からないが、もしかしたら森下さんが日本人として初めて世界の舞台で活躍し始めた、そんな時代から森下さんの踊りをずっと見続けているファンの方だったのかもしれない。
他のバレエ団の公演を見に行ったことがないから分からないが、三世代にも亘り幅広い年齢層のファンを持つ、そんなダンサーも世界中どこを探しても森下さんしかいないだろうと思う。
今まで何度となく、チャイコフスキーの「くるみ割り人形」の「別れのパ・ド・ドゥ」は聴いてきたし、テレビでたくさんのダンサーが踊る姿も見てきたが、それらを見聞きしても、さすがに涙までしたことは一度もなかった。
年齢を経て行くということは、若さから遠退き、それまで当たり前に持っていたものを失っていくという、生きていなければ経験することのできない、それは素晴らしくも切ないことである。殊に、若さの芸術と表されるバレエという世界に身を置く者にとっては、常に葛藤の日々であることだろう。辞めるも地獄、続けるも地獄だからである。しかし、その中で一定の水準を保ち続け、長年踊り続けている森下さんは、私を「森下洋子の時代」に間に合わせてくれたのである。何度も書いているが、もう私が森下さんの踊りを見たいと思っても、一般常識的に考えたら当然、見ることはできなかったのである。それが、他のダンサーの常識なのである。その常識という壁を取っ払い、私に「くるみ割り人形」を届けてくれた森下さんを、やはり私は心から敬愛し、愛さずにはいられないのである。
終演後、 ロビーには「くるみ割り人形」のキャストに向けて手紙を書こうという、子供向けのコーナーが設置されていた。私は子供ではないが、ここに用意されてある紙にメッセージを書いて、ポストに投函すれば、必ずキャストの方々に読まれるのだと知った私は、薄黄色の紙を手に取り、赤いペンで森下さんにメッセージを書いた。私が森下さんの「別れのパ・ド・ドゥ」にどれだけ感激し、感動し、涙したかを、森下さんにだけはお伝えしたかったのである。
時として、人はその自分の得た感動や喜び、流した涙というものを密かに自分の胸の内に、そっと大切に納めておきたいと思うものである。しかし、会場で見かけた幼い子供たちの姿を思い出すと、私の思いは変わった。私的な思いが多分に込められているリポートではあるが、こうして公に書き残しておく必要性があると私は思い直したのである。
この記事が後々、どれだけの人に読まれるかそんな話は別として、今日ここにいた子供たちは幸運にも時代に間に合ったが、そうでない次世代の子供たちに、森下洋子という素敵なバレリーナがいた。それを伝えていくことが、その時代に間に合い、その芸術に接し、感動に身を震わせた人間の役目だと考えたからである。
また来年も、森下さんの「くるみ割り人形」を見たいなぁ、と会場を出た私は、鬼が笑うことも忘れて、冬の冷たい木枯らしに頬を刺されながらも、心地よい感情に包まれながら思ったのだが、ふと我に返りハッとした。
来年、森下さんがまた「くるみ割り人形」を踊ることができるかどうかなんてことは、私たちはおろか、森下さん自身でさえ分からないのである。
私は急に寂しくなった。しかし、森下さんはきっと私の気持ちなど意に介さず、また来年も「くるみ割り人形」をはじめとする他の作品も踊れるように、また、来る日も来る日も自分がするべき鍛錬を続け、ひと欠片の煌めく新しい発見をひとつずつ心に貯め込みながら、踊るために全てをバレエに捧げて生きていくことだろう。
2024年12月10日 書き下ろし
バレリーナ・森下洋子に泣いた日
こんな長文になるとは思わず書き出した舞台感想だったが、結果、森下洋子さんへの熱烈なラブレターとなってしまった。それを公開したことに関しては正直恥ずかしい思いだが、森下さんの目に届けばいいなと心から願いつつ、ペンを置く。