トラブルはカクテルと共に
本作品を以下の人物に捧げる。
Sergio Leone(3 January 1929 – 30 April 1989)
Samuel Dashiell Hammett(May 27, 1894 – January 10, 1961)
Lillian Florence Hellman (June 20, 1905 – June 30, 1984)
John Wayne(May 26, 1907 – June 11, 1979)
Burton Stephen Lancaster (November 2, 1913 – October 20, 1994)
其の日は終日蒸し暑かった。
其の理由は実に単純明快で、此の時期特有の季節風が吹き始めたから。
此の季節風がやって来ると、途端に空模様はかんかん照りとなり、雨は殆どと言って良い程降る事は無い。
仮に降ったとしても其れは単なる「通り雨」に過ぎない為、乾ききった地面が潤う事も無く、そして暑さが遠退く訳でも無い。
寧ろより暑さが増すばかりである。
併し是等は多少の我慢をすればまだ何とかなるものだ。
そもそも天気に対して泣き言を申し上げた所で仕方が無い事、そして天に唾を吐く真似は御法度中の御法度である事を、古来より信心深い土地の人間、特に何代にもわたって此の土地を守り抜いて来た人々は其の事を理屈では無く、肌感覚で知っている。
いや、身に染みている、と言った方が良いかもしれない、此の場合。
が、其の様に我慢強い、忍耐が備わっている方々でも思わず「苦虫を噛み潰したような」顔をしたくなる存在がある。
其れは季節労働者だ。
「労働者」と言えば聴こえは良いかもしれないが、其の殆どは他の街で暮らす事が叶わない、否、暮らそうとすればたちまち警察機関の「御世話」になるであろう様な破落戸〈ごろつき〉又は流れ者、果てはならず者ばかりである・・・。
此処迄文章を普通の紙よりも、一寸御高めの紙にタイプライターで彼女即ちリリアンのお腹は目一杯ぐう、と鳴った。
一昨日部屋住の整体師に頼んでしっかりと整えて貰った首にぶら下げた金時計へ、フッと蒼い眼を向けると既に時刻は午后六時一寸前である。
幾ら真夏日だからとはいえ、外はもうすっかり夕映えと言った感があり、気分転換も兼ねて窓を開けた途端、何とも言えぬ気怠げな真夏日独特の風が、此の屋敷で働いているお手伝いさんの中で一番古株のロザンナ曰く、もう一年半程鋏を入れていないと言うリリアンの見事なブロンドヘアーをそっと撫で、そして春の日の蒲公英〈たんぽぽ〉、又は夏の日の向日葵〈ひまわり〉の如く、フワリと浮かび上がらせた。
六時になった途端、屋敷内の大時計が大きな音を響かせた。
其れと同時に、万緑の木々で羽根を休めていた鳥達が一斉に飛び上がり、カラフルな羽根を夕闇に染まった大空へ向け悠々と拡げ、其処に堂々と新たな色を添えてみせた。
其の様子を甘い香りの漂う紫煙を咥えた状態で眺め乍ら、嘗てロースクールの卒業旅行と称し、自らの事を「荒くれ者」と称する何人かの友人達と共に遠い阿弗利加へと旅をした際、夜明けと同時に獣達が一斉に動き出す瞬間を叔父が贈ってくれたカメラに収めた事があったのを遠い眼をし乍らそっと思い出していると、不意に今宵は街へ繰り出そうと言う気分になった。
こうなると「思い立ったが吉日」である。
其の昔、自身の母も使用をしていたと言うアンティーク調の机の側に置いてあったベルを鳴らし、且つ祖母曰く、旧き良き上海の蚤の市で購入をしたのだと言う鯉の絵が描かれた灰皿の上で紫煙の火を揉み消すと、リリアンは鼻唄混じりに翠色のサマーコートを羽織り始めた。
失礼をばいたします。
どうぞ。
ノックと共に部屋の中へと入って来たのは小間使いのマリアンナであった。
今日も今日とて庭師で夫のバーナードと共に庭仕事にせっせと精を出していたらしく、日焼け止めのクリームの香りがリリアンの鼻腔を軽く擽る中、リリアンは立ち鏡越しに、今夜は外へ出掛けるから、お夕飯の支度は結構よ、とマリアンナに告げた。
左様で御座いますか。
お酒の方をお召しに為られるのであれば、道中くれぐれもお気をつけあそばせ。
マリアンナはリリアンの側へとやって来るなり、外出の際、リリアンが何時も好んで被っている朱色のベレー帽を手渡し、同時に「スミス・アンド・ウェッソン:M10 6インチ」が収納されたガン・ホルダーを装着し始めた。
予備の弾丸も手渡しておきますね、何せ物騒な世の中ですからして。
そうね、自分の身は自分で守らなくては。
そうそう、その意気です。
マリアンナは内地勤務とはいえ、凡そ十年間にわたって軍の任務に就いていた経験を持っており、小間使いであると同時にリリアンの護身術の先生でもあった。
あゝ、でも無闇矢鱈にぶっ放すのはよしてくださいましね。
お上の方も中々に喧しゅう御座いますから。
そう言ってリリアンに拳銃携帯許可証を手渡すと、リリアンは苦笑いを浮かべ乍ら、はいはい、と軽めの返事をしつゝ、拳銃携帯許可証の入った革のケースをサマーコートの左ポケットの中へと収め、では行って来ます、とハグと言う名の挨拶をマリアンナにした。
リリアンにとってマリアンナは歳の離れた優しいお姉様で、マリアンナにとってリリアンは可愛い歳の離れた妹だった。
道中拾ったタクシーの料金を電子決済で支払い、咥え紫煙に軽い足取りで街をぶらつき始めると、港町は相変わらず催し物も無いのに様々な服装と様々な肌の色、そして様々な言語で会話をする者達で途轍も無くごった返していた。
どんどんと歩いているうちに、馴染みの店へと近付いて来た。
馴染みの店の名前は「イースト&ウエスト」と言って、パリッとしたスーツに其の身を固めたバンドが良い意味で古めかしい音楽を四六時中演奏していて、夜毎色々な事情を抱えた男女が其処で会話を交わし、時に踊り、そして戀に落ちたり、落とされたり、喧嘩したり、別れたり、なんて事が延々と繰り返されているのだが、其処で「リリアン」は人間観察と称し、音楽に耳を傾けつゝ、グラス片手に又は咥え紫煙で方々の人生模様を眺めるのが理由〈わけ〉も無く好きだった。
でもって此の店では月に一回、其の理由は兎も角として必ずと言って良い程やれ殴り合いだ、拳銃を使った決闘だ、と言った其れは其れは結構な「アトラクション」が開催されるのであるけれど、リリアンからしてみれば港のお祭りに参加させられるより、其の「アトラクション」を眺めている方がよっぽど楽しいし、血湧き肉躍るのだが、人の善い友人達は決まって「あの娘(人)は大丈夫かしらん」と心配をしてくれるのが恒例であった。
やあ、リリアン。
今日も机に向かってカタカタやっていたみたいだね。
カランコロン、と言うドアベルを鳴らし乍ら酒場の扉を開けた途端、そんな風に聲を掛けて来たのは、当人曰く、此の店の「使いっ走り」みたいな事をして日々の生計を立てているリリアンの従兄弟・宗俊〈そうしゅん〉であった。
女の子から貰ったの?。
其のテンガロンハット。
カウンターテーブルに腰掛けるなり、リリアンが宗俊の事を茶化すと、宗俊はプラスチック製の灰皿をリリアンへ差し出し乍ら、まあそんな所さ、と上手いこと逃げを打ち、何時もので良いかい、と質問をし、差し出された灰皿の上で紫煙の火を揉み消したばかりのリリアンが、ええ、宜しく、と返事をするや否や、畏まりました、と呟いてから二十歳を迎えた晩に呑んで以来、今日迄飽きを覚える事無く嗜んで来たジンライムを拵え始めた。
そうこうしていると、何やら向かいの席に於いていざこざが始まっていた。
途切れ途切れに聴こえる会話に耳をそば立てていると、如何やらポーカーでイカサマがあったの無いので揉めているらしく、右頬に傷のある中年の男が熱〈いき〉り立つ若い男を宥めているのだが、側〈はた〉から眺めている限りでは、如何にも収まりが付きそうに無い様子だった。
あの喧嘩に興味があるらしいな、ええ、嬢ちゃん。
不意に聴こえて来た聲の方向にパッとリリアンが身体を向けると、其処には何時もであれば奥の方で一人静かに呑んでいる筈の歳の頃なら四十代後半の髭を蓄えた人物が、何やら企み顔を浮かべていた。
どうだ、俺と一緒にあの喧嘩を丸く収めてみねぇか?。
無論タダたぁ言わねぇ。
嬢ちゃんの好きなジンライム、しこたま呑ましてやっからよ。
ジョン・ウェインを気取るワケ?。
こんな所で。
今自分に話しかけている人物の名前が確か羽瀬山と言う名であると言うのを耳にした記憶を引っ張り出しつゝ、臨戦態勢と言わんばかりに腰掛けていた椅子からゆっくりとリリアンが立ち上がると、「こゝろを豊かにし、大切な人との絆を深める」と言う一月の誕生酒「スロージン・サワー」をグッと呑み干した羽瀬山は、そう受け取るのも自由とだけ言っておくぜ、と言ってステッキ片手にツカツカと人混みの中を掻き分け始め、そして殺気立つ男たちの前へニュッと姿を現した。
チョイと御免よ、御兄〈あに〉いさん方。
あんまり野暮ってェ事は言いたかねぇが、此処は見ての通りの盛り場だ。
大きな聲を出しちまうと、皆んなの興が冷めちまう。
此処は一つ、お互い矛を収めてくンねぇか。
被っていた帽子を脱いだ状態で羽瀬山が其の頭〈こうべ〉を垂れると、其の場の空気が沈静化したかに思えた。
が、そうは問屋が卸さないのは世の常。
若者は自身の身体を抑え付けていた者達の腕をあっという間に振り解いたかと思うと、腰にぶら下げていたナイフを素早く引き抜いたのち、獣の様な唸り聲を響かせ乍ら、其れを力任せに振り回した。
併し、流石は仲裁役を買って出るだけの度胸がある人間である。
羽瀬山は額に冷や汗を浮かべ乍ら間一髪で其の刃を避けると、其処から羽瀬山なりのクソ度胸で間合いを詰め、ステッキで土手っ腹にグサリと突きを喰らわせた。
へへ、棒っ切れッてのはなァ、振り回すばかりが能じゃねェんだわ。
強烈な痛みに思わず倒れ込んだ若者に対して馬乗りになった羽瀬山は、横向きにしたステッキを若者のか細い喉笛へとグイと押し込んだ。
そして恐ろしく低い聲で、俺に刃物を振り回そうなんざ、百年早いんだよ、此のデコ助野郎が!、と叫んでから、顔面へ向けて二、三発固い拳を振り下ろした。
おい、誰か手当てしてやんな。
急な運動に思わず息を弾ませ乍ら、想像以上に歯応えが無かった事を残念そうに思った羽瀬山が其の場から立ち上がるなり周囲にそう聲を掛けると、今度は身内の敵討ちだと言わんばかりに別の男が角瓶片手に絡んで来た。
そして羽瀬山の事を左手に握り締めた角瓶で傷付けようとしたのだが、一発の銃聲と共に角瓶はガシャン、と破裂し、途端に男の身体も吹っ飛んだ。
恐る恐る周囲の人々と羽瀬山が銃聲のした方角へ視線を向けると、其処には拳銃をしっかりと握り締めたリリアンが居た。
安心して。
拳銃許可証はあるから。
硝煙の香りを纏ったリリアンが拳銃許可証を提示すると、人々は二人の英雄に対し賛美の拍手を送り、同時に「お騒がせ者」達をえっさえっさと店の外へ
連れ出し始めた。
いやあ、御見事、御見事。
矢張り斯う言う事は我々トウシロで無くクロウトが対応にするに限りますな。
まるで我が事の如く、事の成り行きを見守っていた野次馬も含め、人々が三々五々散っていく中、リリアンと羽瀬山がカウンター席へと戻って来た途端、実に調子の良い台詞を吐いたのは、カウンターの隅に於いてつい先程迄ガタガタと其の痩せ細った身体を震わせていた白髪頭が特徴的な此の酒場のマネージャーであった。
別に大した事はしていないわ。
事を丸く収めた迄よ、一寸乱暴気味になった
けれど。
拳銃をホルダーへ収納し、羽瀬山がさり気なく差し出した柚葉色のハンカチで両手の汗を拭ったリリアンがそう呟くと、羽瀬山は今夜二杯目となるダイキリの注がれたグラス片手に、ま、何はともあれ一件落着だ、と言って乾杯を促す素振りを見せた。
そんじゃ乾杯。
乾杯。
琥珀色した照明の下、其々のグラスがまるで聖杯伝説の聖杯の如く高く掲げられ、そして勢いよく呑み干された瞬間、腕組みをした状態で其の様子をジッと眺めていた宗俊は、全く、凄い人間を親戚に持っちまったぜ、と静かに呟き、お代わりをお作りしますね、と言葉を添えてから其の手を動かし始めた。
ひと暴れした所為かねェ、街の風がやけに染みるぜ。
約束通り羽瀬山の奢りで支払いを済ませ、ゆったりとした足取りで幾千、幾万の星が瞬いては消えて行く広大な空が広がる夜道を歩き乍ら、リリアンに向かって羽瀬山が其の様な事を喋ると、リリアンは自身の顔を常夜灯に照らし出しつゝ、日常茶飯事って御顔ね、あんな事は、と言い乍ら靴音を響かせた。
さっき店で語った通り、オジさんは此れでも経営者だからよ、トラブルにゃ慣れっ子さ。
なら尚更無茶は禁物じゃない?。
其の点はおあいこって事にしといてくれ。
星明かりを背にして、バート・ランカスターの様にニカっと羽瀬山が笑みを浮かべるや否や、リリアンはひと言、男の人は何時迄も子供っぽい生き物だって言われた事は如何やら本当だったみたい、とひと気のすっかり薄れた大通りに其の軽やかな笑い聲を響かせたのだが、手柄欲しさに追っかけて来たのであろう三、四人の人間達から放たれる足音に気が付くや否や、あゝ、そうそう、貴方も所持しているのでしょう、拳銃を、と羽瀬山に質問を投げた。
其れに対し羽瀬山は、あゝ、と言って其の眼をギラギラと輝かせつゝ、ホルダーから抜き取った拳銃のグリップをギュッと握り締め乍ら、こんなヤベぇ時にこんな莫迦話をするのもナンだが、良かったら今度ウチの店に来てくれや、とびきり良いオトコが出迎えてやっから、と冗談を吐いた。
其れを聴いたリリアンは、宜しく頼むわ、と返事をし、阿吽の呼吸で勢いよく振り向いた途端、羽瀬山と共に其の銃爪〈ひきがね〉を引いた。〈終〉
トラブルはカクテルと共に