「メルヘン」
一
私は今、蔵を眺めている。両岸に理路整然と組まれた蔵の中央を一条の川が流れている。城下町を貫く川の果ては海でもなく、滝でもなく、かといって田畑等の土に辿り着く訳でもない。此の川は総じて神社の池に落ち着くのである。地形を想像する必要は無い、無理に繋ぐ事の適わぬ事象は多いもの、力づくで近づけようとするならば五色の綾糸は忽ちに五体砕けて春の夢よりも軽いその身を塵の仲間に数えねばならなぬ悍ましい凌辱を働くと同義である。手毬糸は分らぬことを分らぬと言ってそのままにしておける丘の雑木林がお気に入りのようで、その丘は今 当に私が蔵を眺めるのに座っている場所であった。
丘は城下町のルールを受け付けぬ。最も城よりこの丘の方が随分昔に在ったので、人間達が後から作ったルールを門前払いして担当の役人達はほうぼうの体で逃げ帰って来た事件は城下町ではすっかり知れ渡っている。丘を何と言われようが構わない。此処に人が入って来なければ良い。人に要る食料も水も此処に来なくても手に入る、充分な量だ。
自然に在る場所は言わずもがなだが、神社の境内も人が鎮座し生活する為の場所ではない。此の国の自然が北方や砂漠のように圧倒的な力量差で人の生きる場所すら抑え込むようにしないのは、その方が人間は自然に干渉する事は無いだろうと私の御先祖様がお考えになったから。人の営みを調和出来る程度の力で接する方が人が躍起になって開拓しようと思いづらいだろうと取り決められたから。聡明な御思考だ、人と離れる為に人に優しくするなんて。私達は長くそう在り続け不変の態度を継続していたけれど、反対に人間は流動し続ける生物で、私達が他国のように残酷な被害を残さないと気づき油断したのだろう。此の国の自然は人類にとって過ごし易い丁度良いぬるま湯だと。
哀しいかな。人と自然、よくある二項対立は幾度も議論されて来たのに答えは出ぬまま此の様だ。知らずとも良い事を知りたいと求め理解出来ないままで良い事を理解したいと求める、明らかにしなくては気が済まない性分は、きっと人間に与えられた何かの罰であろう。
あゝ此の名状し難き感情の為に私は蔵を眺めている。
二
「佐吉、とッととしねェか。」
「はい、若旦那様。」
丁稚の少年佐吉の齢は十四、早朝から寝起きの髪のほつれも欠伸の呼気もぶら下がる眼脂も見せない整えられた顔貌の眦涼しく眉には凛と気の籠もり唇は横一文字にいつも真剣を表す此の町内では中々に珍しい美少年、手脚はいつもきびきびと働き鶏よりも早く起きては黒猫の笑う瞳が山の向うに沈むまでまめに立ち働く律儀な性分、その為に奉公先の大旦那夫妻は佐吉を可愛がることこの上無し。
此処は線香を商う店であり、大旦那が最初店を構えた時、その当時はまだ今のように立派な店構えでなく、侘しいあばら家の住居の表で茣蓙の上に並べて売ったのだが、その際初めてのお客さんが代価と共に一輪菫の花を、土も虫も付いていない清らかな紫水晶の如きをくださった。その菫の花を妻と毎日丁寧に手入れして世話を欠かさずにいると不思議なや、次の日からお客は大入り線香を作る手が旭にも月にも忙しなく輝く職人の手は齢の為にもう作業は出来ぬとなった後も帳簿を付けることは出来ると言って大層元気なご隠居である。此処まで道を違えず歩む事が叶ったも霊験あらたかなる菫の花一輪のお蔭と、看板に記すは「菫屋」の二文字、飾りの無い性分が反って粋で快い。
と、大旦那は見事な人徳者なるが善き人の子が必ずしも善き人に生れると言う道理は無く、佐吉を店頭でこれ見よがしにいびるのは実の息子の若旦那、年齢三十三を過ぎたる者で若い娘の後ろ姿ばかりを追い掛け鼻をひくつかせる色欲魔、大金を落す客にはニコニコ、線香一本をおつかいに来た女の児には素見しなンざ止めてくれィと愛想も何もあったものではないのだから、巷じゃ当然バカ息子だのどら息子だの本当に血が繋がっているのかしらんと悪口のひそひそ声は鳴り止まず。
自分が一代で築いた財を息子の代で呆気無くも潰しては、それも世の移ろいなどの人に抗えぬ理由からならまだ耐えられるが我子の不徳の所為で退転となっては御先祖に申し訳も立たぬと苦肉の策、後継者とは内緒にして一人丁稚を新たに雇ったのが、この佐吉だったと言う訳である。
仕事や他人の感情の方面の勘は全く以て不能であるのに此の若旦那、名前は宮男と言うのだが、宮男は自分を蔑ろにする行為に関してだけは恐ろしく勘が働いた。父親が自らを頼りとせず他所の者に信を置き、店を継がせる腹積りではないのかと、佐吉を一目見た瞬間嗅ぎとったのである。不満があるなら両親に問えば良いものを、宮男にはも一つ難儀な癖があった、不満や苛立ちを顕にせず胸中に溜め込んでおくのである。何か具合が悪いのかと問うても別にとぶすくれ、不満な事でもあるのかと気遣うても別にとぶすくれた物の言い様、鬱々と抱え込んだ苛立ちは哀れな年下の佐吉への言動となって当てられて、また暫くすると変に機嫌好くなりその間は丁稚をいじめる事はせぬがまた暫くするとあっという間に御立腹。両親が不憫な佐吉をかわいがる度佐吉は手酷く扱われた。最も酷いのは佐吉が床に伏した時、いくら愛された者でも病には勝てぬ、此処へ来てから佐吉は幾度か熱を出して医者に掛かったことがある。それは決まって宮男から陰険な舌打ちや溜め息をくらわされた時で、真面目に働く未だ青年ならざる男の子には堪え難い悲しみと苦しさは身体に悲鳴を上げさせた。原因は自分であるにも関わらずまた宮男は舌打ち暴言溜め息を患者に唾と共に浴びせまくる。しかも其等の仕打ちは必ず両親の知らぬ場所で実行され、佐吉は若旦那を悪く言えば大旦那と奥方が非常に悲しまれるだろうと恩人の親心を思い如何しても宮男が自らにする陰湿な態度を暴露するのを出来ないで日々を過ごしていた。
この菫屋の陰惨な家庭状況を、無表情に眺めている者が居た。
三
城下町がすっかり寝静まった頃、月の合図で一人往来を歩く銀灰色の浴衣地に水浅葱と朱鷺色の薄墨ぼかした花の模様を点々と滲み咲かせた上に月白の淡い椿と桜を籠めたる帯を品好く二重お太鼓ですっきり締めたアンバランスをこれ見よがしに示すのでは無く微かな含み笑いで暗緑の大きな布を頭からふわりと打掛け気貴く冷然とした者は誰。
片手には燈灯のような物を下げているがよく見るとそれは柘榴目覚ましい紫陽花を錦の糸で縢って吊した物、人が俗に火の玉と呼び怖気をふるう威が遠目からもぞくぞくと背中を圧する。
もう片方には何やら風呂敷で包んだ物を抱えているが、その包みの色は生臙脂濃ゆく艶やか且つなめらかなれど、その布よりぴちゃぴちゃと雫漏るるは気の所為だろうか。
四
翌日城下町中が慌てていた。号外号外と売子は叫びその声に人々は我も我もと手を伸ばして紙面を求め、読んだ者は恐ろしいだの怖いだのと明日は我身かと肩を震わせて囁き合う。大衆の騒ぎも騒ぎだが、彼等よりもっとガタガタ震えていたのは菫屋の若旦那であった。
宮男は今日も日課の佐吉いじめをしようと井戸の傍で煙草を呑気にふかしていた。毎朝佐吉が井戸水を汲む仕事を第一にすると知っていた為であり、わざとその桶に虫の死骸を置いて、お前は虫の死んでいた桶で朝の水を汲む心算か世話になっている店へ対して何たる不忠義、やい一発仕置きとして殴ってやろうと計画していたのだが、普段は東雲明ける前にもう起きて来る筈の佐吉が、旭昇れど鶏鳴けども起きて来ない。家の井戸は此処しか無い筈、俺を危ぶみ他の井戸へ回る事は有り得ない。さてはあの野郎寝坊だな。これは良い理由を見つけたと鬼の首でも獲ったかの大威張り、ずかずかと階段を登り何事かと訝しむ他の使用人達には目もくれず丁稚の部屋の襖を乱雑にドカリと開けた。
やい、寝坊助めと詰ろうとした口は閉じるも忘れてあんぐりと一音も出ずに臭い呼気を溜めるばかり。普段偉そうに半眼で悟りを開いた風をする細く締まりの無い両眼は今此の時くわッと見開かれ眦には嫌な汗が額をぬるりと伝うその感触にぞわりと一気に肌が泡立つ。力の抜けた身体を支うる腰は初手から持たずぐにゃりと下男が安っぽい女﨟の嬌態を真似するような情けない骨は床にペタンと宮男を横座りに倒れさせた。目の前の有り様に指さす力も持てずただわなわなと小刻みに震うばかり。果して此奴一体何を見たのだろう。
決して粗末とは言えない並の丁稚部屋と比ぶれば品の好い整い揃うた佐吉の為のお部屋には、名も知らぬ美女が一人夫を待ちわびるかの如き清廉な居住いできちんと正座していたのである。冬の曙を溶かした瞳には玲瓏たる光が籠もり宮男をにっこりと視線逸らさずじっと見つめており、その唇は今盛りの牡丹をそのまゝ食して自然に色づいたかとくらり錯覚するよなあてやかさを美しく月の氷の弓と弦、何者をもその天の弧の前では頭を垂れる供物へと化すであろう。だがよく見よその綾羅にも耐えざらむと思う白い右手に抱えられているのは何であるか、それこそ宮男をすっかり縮こませた物、赤い布に包まれた生首だ。
ぽと ぽと
畳みも降る血を吸い切れず血溜まりを成しその水は少しずつ大きくなる。その箱庭の如きお池に人差し指を含ませて薄桃の舌でちろりと舐めた後その指で布をはらりと外し、一言
「知っている方ですか。」
と問うた言葉の源を見よ、その首は憎くて堪らん佐吉少年の首ではないか!
「ああ!」
ようやく悲鳴と共に息の出来た宮男をそのまゝに美女は褄も乱さずすッと立ち上がり楽しそうに頷きながら更に言う。
「今度は貴方。」
それだけ残して嫣然と窓の方へ振りかえり山の嶺に冷然と輝く陽を見ながらトン、と軽く外へ向かって床を蹴った。落ちた、と思い這いつくばって窓の下を覗いてみるも、髪の毛一本の影すら見えぬ。夢かと胸を撫でおろす呑気な瞳に映じたのは、紛うことない赤の水辺。
城下町は菫屋に人殺しが出たとの大騒ぎ。あんなに人の好い大旦那の目の黒いうちに斯様な凶事が起こるなど、とうとう天は菫屋に情けを掛け終えるお心かと噂話、それが為に客は遠のき得意先は不気味がって減っていく、可愛がっていた子を無惨にも殺された大旦那夫婦は心を病みて枕上がらず譫言にも佐吉佐吉と血の涙を流すばかり。親が倒れたその脇で一人息子は布団を頭から被ってガタガクと震うのみ、今度は貴方、今度は貴方のあの優しく恐ろしい声が頭から離れないのだ、無理もない。彼に佐吉の事件を探る程の侠気を求めてはならない。それはその筋の専門家に任すのが正解だ。
五
さて、此処に登場するのは一人の探偵、姓名を清影莟と言う月の冴かな光彩に照らされてほんのりと灯る炎のゆらめきの景色を籠めた名はその面にも映されて紅顔の美青年眼はエメラルドの神秘に輝き澄んだ小川の滴る水にも劣らぬ光を放つ。その目に見つめられ慎ましい淡い紅雪の唇に微笑まれたら如何なる深窓の乙女でも恋をせずにはいられない、井戸端の奥方達も夫を忘れて見惚れてしまう程の花の顔を備えていながら性格は仁義に厚く曲がった事を好まぬ生来の正義感の強さ、弱者や虐げられる者達の声を上げない涙に耳聡く駈けつけて彼等に振り掛る小石・礫の盾になる曇り無き真直ぐな魂。これが為に少々の喧嘩っ早い所はお見逃しを請う。
日本一の探偵と誉の高い莟の事務所へ、宮男はバタバタと駈けつけた。城下内で莟を褒め讃えん者は無いに等しいにも関わらず当の本人はその評判・業績を鼻にかける事一片も無く、見苦しきほどに恐怖と焦りで汗塗れな菫屋さん所の若旦那を見ても常人ならば見下すところを、応接室のソファに座らせるとよく冷えた清水を一杯コップに注いで手ずから一口試みさせた。これに少しは正気づいたか宮男は喉を素直に鳴らし恵みの水を飲み終えると、はあ、と一息大きくついた。
「ご加減は?」
莟の声には咎める色も面倒だとする色も混じってはいない。
「き、清影先生。あの、佐吉の事件のことは知っておりますか。」
「えゝ聞いておりますよ、今朝から町中大変な騒ぎですから、耳には自然と入って来ます。ですがご安心なさると良い、この町の警察は実に優秀ですので、直に犯人は見つかるでしょう。その時佐吉君の遺体を何處にやったかも判明します、ご葬儀ならばその後に…」
「違う、違うだあ先生、次は俺が狙われる番だ。犯人の奴、俺に面と向って言ったのですよ、今度は貴方と。だから、だからな、こ、今度は俺が、あ、あ、佐吉のように、生首もぎ取られて、れて…うわあ。」
「何?それは真ですか?」
「う、う、嘘じゃねえ、決して、決して偽りなんざ申しましねえ。自分の命奪われる嘘をこいてどうするですか。」
殺害予告があったとなると看過してはおられない、しかもターゲットは今自分の目の前で涙ながらに怯える男ではないか。
「分りました。宮男さん、しばらく私のもとで暮らしなさい。当面菫屋さんには戻らない方が良いでしょう。私からお店に手紙を書きますから事情は理解してくださることと思います。」
「と、とんでも無い有難い思し召しだ。ですが、せ、先生。親父とお袋が寝込んでるんだ。使用人だけで大丈夫でしょうか。」
幾ら我身可愛い愚かな息子でも、どうやら親を想う心はあるらしい。
「大丈夫。貴方の家は当分警察が守ってくれるでしょう。恐らく医師も手配してくれる筈です、手紙にも警察への言伝を書く心算ですから一旦お家のことはご安心なさい。今は貴方の身を守らなくては、親御さんにもっと心労を掛けてしまう羽目になりますよ、さあシャンとして、背筋を伸ばして腹に力を込めなさい、そして、事の詳細を私に話して下さいな。一体世間でもあんまり情報が錯綜していて嘘を知るにも難しい。一つ当事者の方からお話を伺いたいと考えていた折、宮男さんがいらっしゃった、これは或種の導きでしょう。」
仕事机の隣に置いた紅茶ポットからティーカップへと温かな湯気を薫らすストレートを一杯注ぐ。幾分か落ち着きを取戻したらしいが未だ動悸静まらん宮男の前にコトリと置けば、彼はわし掴みにぐいぐいと飲んで、飲んで、一滴まで。その喉が確かに上下するのを探偵は物も言わずじっと見ていた。
六
丘の話を知っていますか。
寝息を立てる宮男を布団に休ませた後、菫屋への文を書き終えた後、応接間に戻り本棚から一冊本を取り出した。題名は黒く焼き潰されていてもう思い出せないけれど、扉も本文も焦げ痕で塗り潰されているけれど、まだ本は生きていた。だってほら、忘れないでと声がする。
それも縋る必死をあからさまな声ではなく、近所の野良猫に挨拶をする気まぐれ風味の音調で、忘れないでねと。
頁を捲ると室内にぷんとやゝ黴のにおいが羽で飛ぶ。ぷん、ぷん、ぷん、と気楽な夏の真似をして。パタンと本を閉じたなら、元通り茶葉の香りが戻って来る。秋の、春の喜びを祝う白布が細く裂いておぉい、おぉいと左右に振られる。
冬は、冬はどうだったかな。雨と雪が一緒に降っていると言っても誰も信じちゃくれまいよ。
七
宮男は馴染みの無い洋館に両肩をまだ強張らせていたから、莟はからからと笑い乍ら昨日は昼前から今朝迄ぐうすか鼾をかいていましたよと言えば彼は殊勝にも申し訳無さそうな顔をした。此処は当面貴方の家だ、外出は頻繁にはさせてあげられないけれど、その代り建物の中であれば好きに歩き回って良いし触れたり見たりしてはならないものは一つも無い、食事も好きに摂って構わない、先ず何よりも気を楽に、命を狙われる道理など持たぬとふんぞり返っているくらいが丁度宜しいのですよと探偵の仕事を数多くこなして来た経験が年齢を押し退け説得する。その力にこくりと頷いた宮男は菫屋で振るまっていた過ごすことにした。ためらいがあったは初めだけでものの数分もすればすっかりどら息子は復活した。いとも嬉し気な美青年の笑顔を見よ。
「宮男さん、元気を出せたようですね、何よりです。其処で、一つお願いしたい事があるのですが、貴方に出来ますか?」
「おう、何だい先生。言ってみな。」
「私の助手になって下さい。」
「おう、容易い………え?」
勢いで返事した若旦那の諸手を握り、緑水晶はしてやったり、悪戯の華麗な笑み深く続ける。
「助手の募集は以前からしているのですが、私は事務仕事だけでなく私と一緒に地を駈け水に飛込み炎熱から脱出し悪漢を殴り弱きの為に傷痕付けるを厭わない、そんな屈強な助手が一人欲しかったのです!宮男さん、貴方は私の助手のふさわしいお人だ。是非私の助手となって下さい、ね。」
いつの間にやら宮男の指には朱が塗られいつの間にやら契約書が手の下に差し込まれていて、言葉の最後にぐいと指を下に引かれたと思えばもう探偵莟の助手となる旨の文面の最後の認め印の欄に自分の指が押されているではないか。
「あっ⁉」
若き探偵、してやったり。宮男の驚声に満面の笑み。
「さあ、宮男さん、佐吉殺しの犯人を捕まえる迄、たっぷり働いてもらいますからね。先ずは事件の詳細をまとめましょうか。」
バサリ、バサリ、ドサドサドサ。昨日と今日の新聞をありたけ宮男の前に積んでこう言った。
「情報をまとめ整理するのも助手の立派な勤めです。」
花が咲いた、と思ったの
好きだった雨垂れの音が怖いと感じてしまった時
陽のような月が雲を羽ばたきで吹き払って
白縹に曙をほんのり染めた月の姿が
今はもう還らぬ旋律で呼ぶのが聞えたの
直視しても目を焼かない光は
この眼に花のように見えたのです
薔薇の花弁で形作られた紫陽花の花をよく見れば
銀河の糸で刺繍された鱗粉が見える
一つ一つが天体の欠片を縫っている
その羽ばたきは一点の汚れも無く
唄で呼ぶのです 愛しい名前を
先生、と呼ばれて目を開けた莟は直ぐに上体をソファから起こし事件の内容は上手くまとめられましたかと助手に尋ねる物言いは至極丁寧である、町の者が聞けば歯噛みする程に。今迄書類仕事なんぞされたことが無いのでは?とからかう探偵に若旦那ぐうの音も出ず。いつもならば生意気言うなと喧嘩腰で一言二言あるだろうが自分の命が狙われている状態を“いつも”とは言えぬ、この探偵に見放されれば自分は生首になってしまうのだから、腹にぐっと力を込めて文句を呑み込んだ。文句を言いたくても言えない者の心持ちがこれだけで理解出来たとは到底思えないが、先ずは一歩前進かと莟は内心溜め息を吐く。
城下町で唯一探偵の事務所を構える者が菫屋の若旦那の悪評を知らない訳が無い、むしろ何か揚げ足を取って一発殴ってやりたいものだと機会を伺っていた莟が、何故宮男を助けることにしたのであろう?正義感が強く如何な大つけ者であれ泣いて縋る者を見殺しにはしておけなかった為であろうか、間違っていないのだが
その理由だけではない。もう一つ別な訳があってそれら二つの理由の為に莟は諾したのであるが、そのもう一方がどうやら佐吉の事件に繋がっているようで。
莟には、見えているのだ。宮男のいつも気の抜けた締まらない肩に、長い髪の女性が腰を降ろしていることに。
八
長い髪は此国の婦女のような黒色ではなく、蒼白の地に白梅の羽をちらちらと零した色味は雪解けて別れの春の小川を成しつつも流れの止まぬ水面に綺麗な歌声を最期に残し天に身体諸共息を引き取った鳥の羽が浮びこれからとろけていこうかとする様と異ならず。後ろのみならず前も顔を覆うほどに丈余る為にその表情は分らぬが身に纏う衣服一糸も無くてやゝ青褪めたる肌のふくらみで女性だと分るばかり、その玉には一つのかすり痕すらも認められぬが莟の目には彼女が何處か傷ましく感じられた。断じて裸体だからと言う理由ではない。
(宮男は異国の女性を苦しめた経験でもあるのか?)
この間抜けな助手は女と見れば直ぐに助平心を露出させる男ではあるが、女を組み敷いてまで自分の言いなりにさせようなどと言うねじけた度胸は持てない筈だ、目下の者や子供には大人気無くも容赦しないが殴ったり蹴ったりの暴力なんぞは浴びせない。佐吉へのいじめも精神的な攻撃を仕掛けるばかりで腕力に訴えなかった。(それは決して暴力を好まぬと言う綺麗な理由に因るものではないものを探偵は看破していたが)まあいい理由が何であれ宮男が人を手籠めにしようなんぞ出来ない芸当に頼る事の無いのは明白だ。
(女性に声を掛けてもあしらわれるのが毎度の奴が女から直接恨みを買うだろうが。間接的に、であれば可能性は有る、昔いじめたり詰ったりした者の知己か恋人か家族であれば或は。)
佐吉は天涯孤独の身だったと聞く。そもそも宮男の平生を知る莟から見ればおかしいのは宮男だった。人をいびる悪癖があるのは聞いて知ってはいたが、自身が悔悟し書き纏めた事件に到る迄の内容を占める佐吉への態度は馬鹿息子にしては少し行き過ぎている。
(まさか彼女は宮男に取り憑いて、散々に苦しめ殺す気か?)
罪に対する罰の具現が彼女なのか?宮男がまだ隠しているものを引き摺り出さねば解決の糸口は掴めぬだろう。ふう、と息を吐いて温和に尋ねる。
「宮男さん、佐吉君の事をもう少し詳しく話してくれませんか。貴方を苦しめたい為に聞くのではありません、貴方が如何して特に佐吉君を苛んだのか、その理由が知りたいのです。」
問われた途端に肩がビクリと固まる。
「それは、あ、あいつが、後継ぎの座を奪おうとしていたから、追い出す為に。」
「まだ理由がおありでしょう。」
すう、と息を吸いピシャリと逃げ口を閉ざす。宮男はうぅ、と呻いて観念したのか、正直にポツリポツリと話し始めたが、その語りは若い乍らにも胆の据わった莟をも驚愕せしめる事実であったとは、彼は此時予想し得なかったであろう。
宮男を初めて見た時、嗚呼こいつは見える奴かと心の中で薄笑いしたのを隠していた。初日から早速いじめたのも無理はない、一刻も早く菫屋から追い出したかったのだ。しかしその意に反して真面目に実体に働き続ける、宮男はさぞ慌て焦ったことであろう。世間ではどらだの馬鹿だの悪人扱いされているがそれは親二人を守る為、使用人達を守る為であったのに如何して人が気がつかない!笑止この上無い余りに簡単な図を描いて皆考えるから答えに辿り着けずに居るのだろう、哀れ!宮男は今行方知れずとされているがきっと此の城下町の中に匿って貰って居るのだろう、だとすれば奇怪!宮男を匿う奴も、若しかしたら見える奴だろう。そうしたらあの若旦那は如何して佐吉をそこまでいじめたのか理由を吐くだろう、本当の事は言うのかな?否言わないでしょう。筋金入りの臆病者だから。
「佐吉の肩には、生首が載っていました。でも俺以外の人は、父も母も使用人も誰一人それが見えていないようだったんです。
その生首は、俺知っていました。お役人様です。森に看板を立てた後、山頂から時節に似合わぬ冬将軍、否冬の女王が颯と看板ごと地面を抉り取って、山腹で作業をしていた彼等を全て麓まで背中を蹴り蹴り追い返したのです。今まであんなに恐ろしい風に吹かれた事は無い、あんな冷たい強風がこの山から降るなんてと菫屋の隣の茶屋で休んでいるのを俺ちらっと見ていたから顔は憶えていたんです、そのお役人様でした、佐吉の肩に据えられた白陶器のやうなあの冷たいお顔の下でぴちゃぴちゃぴちゃと首の切断面からの滴りで血溜まりを幾つも作るのに、誰もそれが見えちゃあいないのです。俺、此奴を家に居させちゃならねェッて直感だ、勘で思ったんだ。だから追い出す為に、佐吉を執拗にいじめました。」
「佐吉がその役人を殺した?」
「いいえ先生そうではなく、佐吉に、その、……と、と、取り憑いているのじゃあないかって……首だけの霊なんざ俺聞いた事も無かったのですが、この目で見ちまったもんで、疑いようはありましねェが、佐吉は性格の良いお人好しだから、その、よくねェものに魅入られたのかと、俺考えました。そんな奴が菫屋に居れば、他の者も変に見込まれやしないかと恐ろしくて、でも見えていない両親達に相談も出来ませんから、俺は……」
「…宮男さんなりに、皆の事を想っての行為、だったと言うことですね。例え褒められはしない行為でも。」
こくりと頷く助手に莟はすうと息を吸った。
「宮男さん、実はね。」
「はい?」
「私にも見えているんですよ。貴方が霊と仰有るものの類が。」
「えゝ、本当ですか?」
「黒髪ではないので恐らく此の国の方ではないでしょうが、とにかく長い髪の女性が、貴方の肩にずうっと座っておられます。」
あゝ言わずとも良かったのに。機会を見て人間の格好をして訪ねようと思ってたのに、この探偵見た目程ひねくれてはいないのかしら。だから此の若旦那を助手に出来たのね。まったく若旦那は周りの人に恵まれている、それでこんなに座り心地が良かったのか。
九
普段周囲が慌てていないのに一人で焦ったりしている人は、驚破天変地異、非常事態となって人々が騒ぎ急いでいる時反って極めて冷静になり大鷲の視点と胆勇を以て両足惑わず立ち動く事が出来ると言う。天邪久も神話や昔話から解放されて現代に住み始めれば存外他者を救ける在り方へと変貌を遂げたようで…と力説する考古学者や文学士等の言葉を借りる程でも無かったやもしれぬ。宮男の変り様はわざわざ此れを用いて前置きする必要も無かったのでは。
「先生、お客様。お紅茶を淹れましたのでどうぞ。」
恐怖が一周すると、人は反って落ち着くらしい、そうしてオマケに人格も以前とは逆転したものになるらしい。
「やれやれ、折角座り心地が良かったのに、あんなにテキパキと動かれては前のように落ち着けないではないか。椅子は寛ぐ為にあるのでしょうに。」
「ご婦人、彼は私の助手であり人間です。人間は椅子になる為の生き物ではございませんよ。」
ふう、と軽く息を吐き微笑なめらかに莟は語る。相手はつい先刻迄宮男の肩に居た裸の女性。だが今では道中を歩く伯爵のようなよく見掛ける黒色の髪型に真っ赤なベストを合わせた白いブラウス、ストンと皺の無いこれまた真っ赤なパンツを足長に着こなす眉目秀麗男装の麗人かと惚れぼれする見目へと化けていた、先程までの表情の分らぬ姿は何處へやら。
「ですが人間椅子と言う高名な作があるでしょう。」
「あれは貴女のように人の肩に乗っかる物語ではありません。」
莟は正しく文化が伝わっていない事に一抹の寂寞を感じつつもそれが痛みに変らぬよう額に手を当てて呆れていた。
莟が宮男の肩に座るものの存在を指摘した時、部屋の中に雨が降った。瞑色のほのかな暗さ薫る雲がうすらと天井を覆い隠すと露草を絞った鴨頭草淡い雫形の雪の結晶がほろ、ほろ、と二人の頬を濡らすと、ふうと微かに、然れども長い溜息が煉瓦で編まれた部屋中に谺する。彼等が目と耳を疑う隙も与えず颯と吹いたは一陣の風、おっとりとした菜の花畑を四肢散々に乱す氷雨の声無き笑いごえ。散る飛沫の激しさに探偵と助手は顔を隠し身を縮め春雷に耐えるか弱き人間の懸命振りに心動かされたか風は止み雪はほどけて雲は天井を元通りに呼び寄せ人肌はかじかんだ痕跡も無し。そして尻餅をぺたりとつく二人の前に立っていたのが紅白の美しき娘であった。その瞳黄金を宿し唇は牡丹を血に染めた艶ありありと悪びれもせず微笑んで芙蓉も恥じらふ風姿玉山。曇り無き威に心を根から洗われたか宮男は話し方も態度も内面丸ごと綺麗になり、今に至る。莟はそれにも驚いた。
「探偵とは随分と失礼なものですね。」
声には僅かな険が含まれている。謎の女性は一言そう発した後応接間のソファーに腰を降ろすと助手に命じた。
「貴方紅茶を下さいな。」
承知しましたと宮男はまだ教えてもいない紅茶淹れに取りかかったのを呆然と眺める探偵をくすくすと彼女は笑う。
「もう椅子は要らない、少しだけ飽きていたもの。ねえ無礼な探偵さん、貴方は如何して私が見えたのか御存知?」
自分に霊感は無い、そもそも怪異や超自然的な物を信じた例は今迄無く、むしろそれらを取っ払うような仕事をして来た。
「貴方神々や仏は信じているでしょう?でも幽霊なんかは信仰しないのね。」
「幽霊や妖怪の類は信じていない。そうすると決めている。」
あら頑固、と微笑む詰りにも不動の心は恰も山の如し天晴なことではあるが、現に認めているにも関わらず信じないと言い切るとはそも如何に。
「我々は今とある事件を調べている最中です。単刀直入に聞こう、ご婦人、貴女は佐吉という丁稚の少年を御存知ですか。」
「まあいけず、理由を言わせようとしたのに引っ掛かってくれなかった。私もまだまだね。」
「私の質問にお答えなさい。」
年の割に肝が据わっている、この若者。私を正面にして微塵も人格が崩れないなんて、恐ろしい。
「きっと貴方は大きな骸骨にも斬り掛って行くのでしょうね。」
ぽそりと呟いた静かな声は微妙に莟の耳へは届かなかった。
「何?」
「貴方のご質問に答えましょうか。私、佐吉と言う男児は知っています。生首だけになった子でしょう。」
「その子の首を美女が抱いていたのです。無躾でも愚かとでも何とでも仰有るが良い、その美女とは、貴女のことですか。」
莟は両手を固く緊めて相手の言葉を待つ。視線逸らさず睨みは緩めず、僅かに髪一本でも搖らそうものなら掴み掛かって骨の一、二本折ってやろうかと尖った殺気の牙を唸らせる。相手は女の姿をしている何ものかだ、人智を優に越えた存在である事は阿呆でも分る。しかし、私は認める訳にはいかんのだ。
単に職務の立場上と片付けるにはあまりに狂気の宿るエメラルドに美女は憶えず背中を震わす。
「違います、違いますわ。佐吉坊やのことはよく知っています。ですが首を持ったりなぞはしていません。」
「では誰だ。言え。」
「あの子です、あの子自身がしたことです。佐吉、佐吉が自分で自分の首を取ったのです。」
十
清影、と漢字を以てして綴られた苗字は父方のものである。父の系譜は代々大きな役職を任せられる政治家の一族であり、子々孫々に至る迄目的の為に手段を選ばない冷酷さと、人の心を捉える為の人情や正義、清らかさの教育を徹底して教え込まれている家柄であったが、その歴史を知る者は町の老人の中にも一人や二人程であろう。
一つの事件があった。莟の父親の祖父の代の頃の話である。曾祖父殿の名前は義美と言い、当時はまだ妻を迎えたばかりの青年であり、その瞳はかつて此の国の老人達がそうであったみたく濃くこまやかで豊かな髪と同じ黒色に光を宿す血気盛んな真昼の星、陽にも負けぬ煌めきは同じ天にある薄く隠るる月とは違いいつも熱意に満ちていた。町の人々は清影家の一人息子に期待していたし、義美自身も人々からの期待を胸に感じそれに報いる責任を背中に確と荷っていた。このような相互の固い関係がこの城下町を百年以上に渡り平穏足らしめて来た最たる理由であったのだろう。だが平和な町は人だけを呼び込むものではない。
住民や上司といった家族以外の人間には気丈かつ沈着に振舞う義美であったが、家に帰ると妻が寝息を立てているのを確認し背筋を丸めて嗚咽を噛み殺す日々であったのは当事全く知られていない事実である。新婚間も無い夫婦を迎えたのは若い妻の病気であり、睦まじい団欒の温もりではなかった。それでも愛しい妻の病状は必ず本復すると信じ我らの国に坐します神々に祈っている間は妻の望み通りに一心に働いた。そんな折、一つの依頼が彼に任された。
仕事の内容はさして困難とも思われなかった、此の町の反対側にある丘の頂上に建つ祠を整備する、と言うものだったから。上司より渡された住民の嘆願書にはこう記されている。
(私の娘が先月から床に伏せております。お医者様にも診せましたが原因が未だに分りませぬ、熱も吐気も無いのですが唯ずっと一言“丘の祠が”と朝夕呻き続けております。そこで私共は此の町の神主様にご相談いたしました。するとどうやら、城下の向い側にあります丘の上に佇んでいらっしゃる祠が手入れされていないことが理由であるらしいのです。
では今すぐにでも掃き清めに参りましょうと神主様に申しますると、あの祠には近寄ってはならないと禁じられてしまいました。何故かと問いますとあの祠、正式な名は「宮の室」と称するのでございますが、どうやら宮の室には人ならざる力、それも此のお国の神々のように有難く尊い存在ではなく、人を弄び飽きたら捨ててしまう悪魔、妖魔、魔の類が居座っているとのご説明を受けました。
宮の室に一度手を触れなばその者の一族は末代まで祟られると厳しく仰せられましたので、その時は神主様自ら御祈祷されたお札とお守りを頂き娘の病む家へと妻と二人泣く泣く帰ったのですが、やはり愛しい一人娘が苦しげに譫言と共に幽明を彷徨いますのを見続けては居られないのが親心でございます。どうか、宮の室を浄化していただけますように、何卒お取り計らいいただけませんでしょうか。神々も匙をお投げあそばした娘の憐れを、貴方様のお手ですくい上げていただきますよう、此処に平に伏してお願い申し上げる次第でございます。どうぞ、この手紙を無用の物として屑入れにお捨てなさりませんようにお願い申し上げまする。)
親が子を想う心は妻を想う夫の心と繋がった。もしや妻の不調も宮の室に端を発する怪異ではあるまいかと、我が清影の血はこれで断絶すれど妻が生き延びるのであればと瞬間一族も町も捨てた若き男は神主の忠告を書面で聞き乍らも丘へ向ったのである。思えばこれで妻の病が治る訳ではないのだが、思い詰めた人と言うのは想像よりも予測が出来ない行動を取るもので、この親の娘を救えば天道の憐れみを以て己の妻も助かるに違いないと哀しいかな血迷うは恋の為、そもそもこの嘆願書が嘘であるかもしれぬのに清影の血は疑うことを知らなかった。他所目から見れば我が身可愛さに他者に祠の呪いを押し付ける行為、他人の不幸で自分達は生き永らえたいというさもしい嘆願であるのに、今の彼には人理も道義も見えていない。あゝ月よ、どうかこの青年を止め給え。
宮の室へ一人到着した義美は流石にぎょっと立ち止まった。
鬱々とした湿る土から立ち込める匂いは黴と腐った青葉、爛熟した梨を分量も滅茶苦茶に閉じ籠めた臭気凄まじく、血の沸いた義美でさえも思わず口を曲げ目を滲ませ鼻を覆いたくなるような酷いもので、その養分を口に含んで育つ草は遠くに鮮やかな青緑とうに忘れ赤茶に塗れた未だ枯れてはいない手足を徒らにびいよ、びいよ、と靡かせて、自分の身体の何處に不調があるのか分らない陰気な怒りと病む身を自嘲する入院患者の乾いた頬によく似ている気がした。そのような輩が土からむくむくと昇り空の三分の一程の高さで止まると今度は横に折れ曲がってざわざわと侵食を続け、また折れ曲がり、進み、曲がりを繰り返し、草達は人間ほどの高さを持つ螺旋模様となって祠の在るであろう奥所を閉ざす。トンネル、と称すには攻撃性が足りない気もするが、この幾重にも重なり合って積まれた病身の顔を踏みつけないでは祠の元へ行けぬのだ。
「踏みつけるくらいなんだ、どうせ皆回復出来ないで横倒れになっているのだろう、それはフテ寝と言うんだ。いじけた病人達の顔面を、頬を私が踏みつけて進むのに何の、何の裁きがあるものか!構わない、構うもんか、突っ切ってやる。」
この草どもを掻き分け掻き分け進んだら、目的の祠があるのだとう、なら私は祠へ真直ぐに前を見て進まなくては。
義美はがしりがしりと草を踏み分け踏み分け両手で押し退けしながら歩を進めて行った。まもなく宮の室は現れた。
銀の石で組まれた祠には一切の乱れは無かった。晴天の日規則正しく流れる川に泳ぐ魚の鱗で誂えた石は順序良く並び扉が開かれないよう秩序を以て立つ衛士の観がある。草木一切此れには手を触れず、触れるは誰が供えたか知れない赤い椿の花一つ、それも葉や茎を連れた姿でななく花輪を一つぽとりと置いた……不思議や水色の光射す祠に義美はふらりと吸い寄せられて端近にまで迫った拍子にがくりと膝を土に着き普段は勇壮の気に満ちている背中を丸めては、ゆっくりゆっくり頭を下げて、請い願う。
「どうか、私の妻をお救い下さい。あなた様が斯様に深い所へお住まいなのはそのお力があまりに強大だからでございましょう。人は、大きな力を恐れます。けれども破壊の為ではなく救済の為に使われるお力であれば人は疑いません、恐れません。どうか人の世から追いやられた積年のお恨みを我が町に向けないでくださいまし、どうかそのお力で人々をお救い下さいますよう、清影義美が町を代表して平にお願い申し上げまする。」
この嘆願を祠はどう聞いたであろう。それから義美は礼拝を終え祠と祠に続くまでの道を丁寧に掃除し始めようとしたら、空に一閃の流星が。昼にしてはあんまりくっきりと瞬くそれは、手入れに専念する彼には見えなかった。
石を磨き草を引き抜く。奇怪な事には入口の草は一本引っこ抜くと少し土の異様な臭気は薄れ、跡には円い藍碧の小石、手の平程な大きさの物がちょこんと座っていた。
「草を抜けば石が出るのか、面白い場所だ。妻へ話す良い話の種になるだろう。」
汗を流し、額を拭い、繰り返すうちに祠の周辺は見違えたように綺麗になり、一点の翳りも有さぬ見晴らしの良い景色になった。祠に深く一礼し、さあ帰ろうかと振り向いた途端、義美の両眼には赤い光が眩しく映った。
夕暮の空?沈む夕日?いずれも違った。光と錯覚したのは龍の咆哮の如き炎で、その炎熱が城下町を舌で嬲っているではないか。
十一
菫屋が建ち莟の住む此の城下町は、昔大火に遭ったと言う記録が残っている。その炎は過去千年にも記録が無いほどの激しさで、町も人も見分けが付かぬくらいに深く広く燃えていったと言う、一面荒れ果てて生命は一縷しか生き残らなかった。もう此の町の寿命かと誰もが絶望し虚無に明け暮れた時。
月の出と同じ刻だったと聞く。一人の嫋女が町の中心部へ歩いて来た。その姿は頭に綿帽子を戴き僅かに影を落す顔は反って明るく星夜の訪いを思わせる、瞼ふっくらと紅を差し閉ざした瞳の睫毛の黒々ときめ細やかなのと相俟って闇夜に佇む鳥居の威を自ずと備えたが唇はにっこりと笑みを絶やさず靨はどうも人懐ッ子そうな。まとう純白の白無垢の所為もあり初心と緊張と喜びを綯交ぜにした娘が一人、生き残った人々の集う中心地へやって来た。だが珍しい客に驚く気力も無い死灰の彼等はその娘を追いやる力も持っていない、ただ一度見て、それからまたしゃがみ俯向く、俯向くだけ。
人々の様子にさも嬉しいと言わんばかりの表情は、地に俯向く彼等には見えていない。
「大火の原因をお教えしましょう。」
娘の言葉に誰も興味を示さない。
「そんなもん今更知って何になる。」
一人が夏の虫を追い払うような声で答えた。
「皆さんこれは全くの天災だと考えていらっしゃる?」
「人は自然には勝てん。お嬢さん、此処等にもう金目の物は無ェし、そんな目立った格好しても手を曳いてくれる男もいないよ。何處から来たかは知らんが、帰った帰った。」
「素見しは止めてくれよ。」
「今は怒る元気も私達には無いのよ。」
町人は娘の姿を視界に入れるのも怠くなり、彼女に背を向けてその場その場に寝転がり、ひとまずの睡眠をとり始めた。一人、若い女性を除いては。
「あの、もし。旅人様。」
女性は娘に駈け寄り
「先程の、大火の原因を教えてくださいませんか?」
よ小声で問えば娘は目を真ん丸にして驚いた。
「私の話を聞いていただけるのですか?」
女性はこくりと頷く。その瞳には気が籠っており、覚悟を決める素早さは独り身ではなく誰かの妻となって会得したものだろう。
「良いですよ。では少し此処から離れた…あの丘の麓でお話しましょう、草に腰を掛けながら。」
遠目に見れば増々町の大焼けの程が良く分る。六曲一双の滑らかな屏風は一面に始まり二面、三面と錦の艶を剝がされ均した下地も炙られて緑豊かな髪も絹の肌も業火に責められ骨をもしゃぶられ落ち残ったは吐き捨てられた食い残しの蚯蚓色。育った地が斯くも無惨に燃えてしまうなど、一体誰が予期したろう?娘に声を掛けた女性も同じ思いであった。
「此の町は穏やかな町でした。喧嘩なぞ滅多に起きません程に住んでいる人達は大人しくって、優しい方ばかりでした。天に背くような所業はいたしませんのに、それなのに、何故地獄にまで落とされてしまったのでしょう。」
着ている寝巻きは半分ほど焼け焦げて、玉のような皮膚には幾条もの火傷の痕が生々しい。冷やす水も直ぐには用いられなかったであろう、傷は大きく腫れている。
「わたくし達は、何か過ちを犯したのでしょうか。」
震える細い肩にも痛みは容赦しない。苦痛に喘ぐ綾糸の喉にも黒い手は煙となって締め付けたに違いない。
「間違い、とまでは申しませぬが、御不興を買ったのは確かです。」
弱った心に娘の言葉は強い波紋を産んだ。真珠の涙を零す女性の驚きと怯えには目も呉れない娘は焼け死んだ町を額に片手翳して眺め始めた。まるで異国で珍しい物を見掛けた旅行者のように。
「貴女方、ずうっと祠を放ったらかしにしておいたではありませんか。それなのに今更何です?手入れをして綺麗に見せたところで心の傷が癒えますか。放っておくなら覚悟してずっと離れていれば良いものを、時間の力を過大に評価して馬鹿々々しい。時が流れれば悲しみは、痛みは、恨みは、怒りは消えますか、和らぎますか。如何にも身勝手で人間臭い考え方ですね。それでは祠も嫌な気持ちになりますよ。」
「貴女、貴女は、先刻から何を…」
「私は、喜びに来たのです、お祝いに参ったのですよ奥様、貴女の旦那様が祠を懇切丁寧に手入れしてくださったばっかりに、自然の怒りを買ったのです。人に嫌な事してはいけないと学校で習いますでしょう?でもそれを守り続けられる者が世界に何人居るのでしょう?この戒めは決して人の道理にのみ留まるものでは御座居ませんの。貴女の夫は其を身を以て知らしめたのですよ生意気な城下町に。その祝い、それの為に私はこうして来たのです。貴女の大切な大切な義美さんは貰って行きますよ、さようなら。」
娘は腰の抜けた義美の妻を眇ににっこり軽やかな笑みを湛え、すッと立ち上がった。
「待、待って、あの人を連れて行かないで。」
涙は甘露、とでも言いたげに舌舐めずりする娘。妻の懇願の叫びもそよ吹く風に等しいもので。
「御病気が治って良かったではないの、奥様。貴女の大好きな旦那様が人界を捨てたお蔭で元気になったのよ貴女は。貴女は元気で居て下さいね、でないとあの人悲しみますわ。」
自分の曾祖父は魔に奪われた。この昔話を代々伝えて来た清影一族の哀れな没落の様子を此処に記すのは控えるが、現在探偵を営む末裔の瞳は祖父母や父母と同じように世間への恥と恐れで曇りはしなかった。そして今、怒れる翆玉は目の前の魔を厳しく睨みつけるのである。
十二
「馬鹿を吐すな、佐吉がどうして自分の首を取る。」
床にひれ伏す女の肩を若い力が砕けよとばかりに引ッ掴んだ。
「宮男さんを、脅そうと遊んだのです。」
痛みに喘ぎ恐れに震えながらも切々にせつなく言う。此処に来て助手も思わず間に割り入る。
「先生、少し落ち着いて下さい。先程から冷静さを欠いています。それでは見えるものも見えませんよ。」
どら息子と思えぬ落ち着いた姿勢と発言に、莟はやうやう正気づく。
「……大変な失礼を、……申し訳ございません。……」
いくら落魄すれども女に手を掛けるは卑怯、と父に教えられし家訓を思い出す。
「父上のお言葉をおまえのお蔭で思い出せたよ…宮男さん、済まない、そして礼を言わせておくれ。それから、ご婦人…実に失礼な事をしました、どうか私の狼藉をお許しくださいませ。証拠も固めぬのに犯人だと決めつける探偵が有って良い訳も無いのに……大変お恥ずかしいところをお見せした、言い訳はしません、申し訳ありませんでした。」
婦人はまだ胸を押さえてはいたがその眼には安堵の色がほのかに灯り、やがてじんわりと隙無く広がっているのが誰の目にも明らかに見えた。
「私もあんまり揶揄いが過ぎました。此方こそ、お許しくださいな。自分では時折抑えきれなくなりますの、人を小馬鹿にして弄びますのは、私達の生れ持った罪なのです。」
三人はそれぞれソファーに腰掛け、少しぬるくなった紅茶を啜り、室内にはようやく話が出来る時間が出来た。
「私達…と仰有るのなら、やはり貴女方は、人間とは違う者でしょうか。」
「えゝ…ですが莟先生、此の世界には人間の数よりも人間でないものの数の方が遙かに多いのです。私から見れば、人間とは私達の枠に収まりきらない者、と言う認識ですわ。」
「では、貴女方は、自分達の中に収まらない人間が憎いのですか?…私の祖父から教えてもらった話では、例の娘は、人間を随分と恨みに思っていたようです。それで曾祖母に酷い仕打ちをしたのではないのですか。」
此の時の莟の声色は責める頬の色に非ず、悄然としたものであった。恐らく祖父母の憂き目を思い浮べたのであろう。
「何故、何故、人間を苦しめるのです。」
沈痛な一言に暫く部屋は静まり返った。この空気に甘えていてはいけないと最初に覚悟したのは、婦人であった。彼女は両膝に載せた握拳を更に強めて、
「清影家を没落させたのは、私の姉です。莟先生がお聞きになった物語に登場した白無垢の娘は、私の姉なのです。そして佐吉は、姉と義美の間に生れた一人息子です。」
婦人の告白に宮男も流石に動搖した。
「佐吉は、人と魔の不義の間に生れた者だったのですか。」
丁稚にしては品のある美麗な顔をしていたが、それは両親の面影を継いだのであろう、そして
「自分の首を切断した風に見せ掛けたは、佐吉の悪戯、母親の性分が強く表れた結果ですか?」
探偵の予想は彼女の首肯で明白になった。
「自分を苛めた俺を、驚かせたかったのでしょう。……事実、俺は恐怖からとは言え佐吉をかなり苛めましたから、その仕返し、と言う訳でしょう。」
では宮男の命が狙われる心配は無い?
「助手の方の仰有る通りですわ。きっと佐吉は貴方に一泡吹かせようとして、生首をお手玉にして遊んだのです。その性分は姉によく似ていますの、姉は人を驚かせたり揶揄うのが私よりもうんと好きでうんと上手だったので御座居ます、故にきっと此度の事件も母の心が佐吉をそう動かしたのだと私はそう思っております。」
婦人は言葉を丁寧に並べ宮男の懺悔に賛同する。
日が西に没するのを床の色が映し出す、その床は助手によって綺麗にモップを掛けられて埃は一つも残っていない。恰も宮男の胸中を表したような輝きとは対照に、主人の顔は月に叢雲陰り眉間の悩みは一向に晴れない。
「先生、もうそんなにお悩み遊ばなくったって良いんですぜ。あの別嬪さんも仰有っていたじゃありませんか、もう俺の身を案ずる必要無いと。杞憂、杞憂だったんですよあゝすっきりした。」
婦人が別れの挨拶をし深々と頭を下げてからまだ後ろ髪引かるゝ、という姿で事務所を去ってからもう彼是数時間は経過している、その間に宮男はすっかり元のような宮男に戻ったようだ。
「えゝ、じゃあ先生、俺はもう家に帰らせて頂きます、もう守ってもらう心配は去りましたから、大手を振って道を歩けますや。」
安堵ににこにこと眉を下げて会釈して、若旦那が帰り支度を済ませた背中は扉を開けようとしてくるりと此方へ向く。
「や。」
瞬間莟は机の上を土足で踏み音も慌ただしく宮男の背に飛び移った、両腕を首にがきりと回し体重を後ろに任せてぐいと引っ張れば気の緩んでいた若旦那は声叫ぶ間も無く莟の身体の上にどたんと倒れた。
「ああ、な、何をしやがる!」
「宮男、待て、行くな、行っちゃいけない、一人で外に出てはならん。」
もがく宮男を引き留めようと此方も躍起になりドアへ伸ばそうとする腕を片足で床に叩きつけた。その痛みにぐう、と唸り宮男は一気に全身の力を抜かれてへろへろ声で問う、
「先生、まだ何かあるんですか。え、俺に、未練が。」
然もありなん、莟の瞳は先程のように私情で濁っている硝子玉に非ず、探偵として、否、人として果たすべき道義の為に鋭く燃えている。
「当り前だ。一度でも私が守ると言った相手を見す見す死に追いやって堪るものか。病膏肓に入れば容易には治らぬ、このまゝおまえを家に帰せば明日には死体となって私の目の前に来る事になるぞ。」
十三
人から愛されやすい者、動物から愛されやすい者がいるように、自然から魔から妖から好かれやすい者も当然いる。彼等への共通点は未だ判明していないが莟は一つ思い付いた事があり、それが曾祖父にも宮男にも通じているのではないかと思い到ったのであった。
「乱暴な真似をして悪かった宮男さん、どうです、首は傷めていないか?」
「なぁにが“悪かった”ですか。俺があのまま締め殺されてぽっくり死んでしまっても扉の外には行かせなかったでしょうに。」
まだ傷む首と手を摩りながらジト目で年下の探偵を睨むも、莟はからからと小気味良く笑う。
「死んだ者が歩いて外に出られる道理は無い。何、幾ら私が荒ッぽいとは言え大切な助手を間違って殺す事などしませんよ。気付いたんですよ私の曾祖父と貴方の共通点に。」
「共通点ッてのは何の点で御座居ますか?」
「ばか、おまえつい先刻迄誰と話をしていたんだよ、何の物語を聞いていたんだ。」
「へぇ……あ、あァ、あの女人…否人に化けた…もの等でありますか。」
「そう、そうさ。先ずはあの存在をどう呼ぶか考えた、これ以上おまえが混乱しない為にもね。」
莟のウインクは見た者を恍惚させる魅力を常に放っているが宮男どんには効果が無かったらしい。
「先生、そんな気障なコトしてねぇで話を早う進めてくれよ。俺は其処等を歩いている娘っ子じゃないぞ。」
誰でも気を許す得意の技もずぶとい助手には興醒めなナルシスト行為に映ったようで、莟は少々決まりが悪そうにむずむずしていた。
「私のウインクで惑わないのはおまえと妖精くらいだろう。」
むすくれた幼い顔立ちは平生の凛々しさからは想像もつかないだろうが、それを知るのは助手に許された特権である。
「妖精。先生はあのもの達を妖精と、そう呼ぶんですね。」
したり顔でずっと莟へと膝を進める、同時に莟も距離を詰め、
「魔物と本来ならば言いたいところではあったが、魔物よりも相応しい言葉があることを思い出した。おまえ、ケルトの物語を読んだことはあるかい?ずっと昔に、でも確かに存在していた文化の一つなんだがね。」
菫屋の大旦那は此の町でも指折りの博識者だが、その息子は果してどうか、と彼は宮男を一寸試してみた。本には興味無い素振をいつもは奮っているが本当は?
「……ケルトの妖精伝説のことでしたら、俺もよく存じております。」
この話し方を見た者はこの言葉が見栄や意地に依る肩ひじ張った発言でないと一目で分るであろう。莟の言葉が途切れるやいなや固く目を瞑り一文字に引緊めた口、そして年齢に似合わぬ深いは眉間の皴、ずっと馬鹿な息子で在りたかった一途な願望の仮面は音を立てて床に落ち粉々に砕け散る、破片はころころと水銀みたく転がって、宝玉に成りきれなかった無念と諦念と謝罪の色を鋭く光らす。
「初め、貴方が俺を助手にと言い放った時は内心冷や汗ものでしたよ。まさか菫屋の事情が知られているのではないかと大変に危惧しました。だって貴方は城下町の住人ではありますが只の町男では御座居ません、旭の女神がしろしめす日の国に於いて天晴一等星の探偵先生でおいでなさる。その方のお言葉であれば町の者は一点の曇る疑いも催さず心から信じるに違いない……ですが、俺の不安は見事に明らかにされたと言う顛末ですね、自分の命惜しさの余り貴方にと頼ったが間違いでありました。女性は自らの秘密を墓場迄連れゆくばかりではなく己の居ない後にも暴かれる事の無いように身装を整えると聞きます…俺に、其処迄の覚悟が無かったのです。」
自分を恥じる者の涙は誰の目にも哀れに翳り、同情を禁じ得ない。どれ程担ぎ上げられた肩書であろうと清影莟は歴とした人間である、人間には程度の差こそあれ心があり、情があり、そして涙を抱く。男泣きに項垂れる助手の肩を若々しい生気に満ちる手が此時ばかりは嘗て母親にしてもらった仕草を真似て慈悲深く優しい力にあふれる手となり幾度も撫でた。
「宮男さん、否、宮男、宮男。これから私はおまえの事を古くからの友だと思って呼ぶよ。宮男、おまえ何も恥じる必要なぞありやしない、おまえは実に立派だよ、誰もそう言わなくったって、例え親に石を投げつけられたって私はおまえを必ず庇うよ、断じて不平も不満も恨み言も塵一ッ葉だって聞かせない、おまえが然うまで信じてくれている私が、清影莟がそう言い切るんだ、だから胸を張るといい、おまえは此の世のどの人よりも健気で優しい男じゃないか。だから、ね、もうそんな哀しい涙を落してくれるな、私に褒められた、認められたという嬉しい涙を流してくれまいか。」
二人は互いを互いに抱き合って、その背中の重みを支え合い、分かち合い、信じ合った。この友二人の光景を感じる為には、菫屋の内證を記しておかねばなるまい。
十四
異国の妖精の昔話。此処に一人の女性が居た。その女性は自分の赤ん坊を搖り籠に寝かせた傍、窓を開けて春の陽気な風を家の中に巡らせながら編み物をしていたと言う。一見長閑やかなワンシーンに見えるが、実は此の話が伝わる国ではとんでもない愚行の絵図なのである。その理由は窓にある。
此の舞台では春の季節中に窓を開け放しにしてはならない。春は植物と妖精の季節であり、人も動物も鳴りをひそめなければいけないとされている自戒の季節なのであるが、例の女性はその慣習を蔑ろにして春は喜びの時期だと舞い上がってしまっていたのだ。斯様な人間は妖精と樹木の格好の餌になる。
赤子は未だ人の言葉だけを上手く聞き取れない、母親の呼び声だけであれば耳は覚えているが、春の讃美歌は人の声を花で隠し草木の晴れた波音を母の声によく似せて子供に語り掛ける、赤ん坊は疑わない、母親は編み物に夢中、こうして妖精は自分の子と人の子を取り換えることが出来るのだ。
妖精の子は美しい。人よりもずっと端正な顔立ちは幼少の折から汲み込まれているらしく、目はぱちりと風を捉えて乗る旋律に耳を傾けると可笑しくって面白くってクスクス笑う、人の子のように大きな口は開けないで。人の母親は我が子のご機嫌な顔を見ようと搖り籠を覗きこめば……あゝ。もう遅い。
悲鳴は家中を駈け扉を破って外へも走り回る、私の子を知りませんか、どなたか、どなたか。けれど人間は今引き籠っており、誰も対岸の火事を手づから消そうと禁を侵してまでも心奮い立てる猛者は居ない、あの家は春の掟を破ったのだ、自業自得なのだと規律で同情を押し止める。
若い母親は地面に伏して己の行いを恥じて嘆いた。自分が妖精達を侮らなければ坊やは盗まれずに済んだものを、後悔先に立たずと言うが悔やまないでは到底居られぬ。もしかしたら自分を哀れに思った妖精が今一度家を訪ねて坊やを戻しに来てはいないかと正気を失した涙は希望に輝き家路を辿る灯火となるも、その光はお腹を痛めて産んだ我が子ではなく他所様の子を照すだけであった。
月が昇る頃、夫が仕事から帰宅した。聡い夫は家の内を一目見るや妻と子に何が起きたか察し、謝罪に塗れた妻の手を取り肩を抱き寄せ震える身体を抱きしめた。そしてすうすうと搖り籠で眠る妖精の赤子の元へ連れ立って歩き夫婦揃って無垢な寝顔を見つめて言った。
「私達の子供が妖精の元へ連れられたのは身を切られる思いだ。けれどあの子は私達の世界ではきっと幸せになれなかったのだ、それを憐れみ妖精は私達夫婦の代りにあの子を幸せに育てると決意したのだ、私達には辛い事だがそれは彼等も同じこと、自分達の子供を人の子一人の幸いと引き換えに手離したのだから。いいかい、この子供は妖精が私達を信じて遣わしてくれた存在なのだよ、だから信頼に報いなければならない、その報いが私達の坊やを育てる糧になるのだから。私達はこの子が幸せになれるよう育てて行かなくてはならないんだ。」
この後物語は墓場へと移動する。人の世界で墓場と聞けば死者を埋葬する場所と思わせるが、此処は人間の世界と銀食器のスプーン一つ隔てた妖精の国。生まれてから数える程しか実の母親の顔を見ないまゝ此方側へ連れて来られた赤ん坊は今や立派な青年へと育てられていた。彼は小さい頃より育ての親から自身の境遇を説明されて来ていたが、彼等への怒り憎しみ恨み言は一粒も生じず、妖精の国での暮らしにも満足していたが、時々ふと湖面に映る逆さの月を目にすれば記憶こそ薄く輪郭もぼやけているが一度も色褪せた例の無い光景、産みの母親の面影を思わずには居られなかった。そして養子の母を慕い憧れ焦がるゝいじらしさを、育ての親は肌身に感じあわれと想っていたので、或日息子に言った。
「おまえは人間の両親に会いたいかい?」
その問いの答えは書くまでも無い、妖精の親は子供を人間の住む場所、青年の生家へと宿り木を伝わせて送り届けた。
「帰って来たくなれば、帰りたいと強く想いなさい。ずっと彼方側で暮らしたいと望むなら、そうしてもいいのよ。」
育ててくれた恩を忘れることは無い。一目、一目母を見たならもう家に帰ろう、自分の故郷は妖精達の住む世界なのだからと、優しい養母の言葉に心の中で答えながら青年は目を瞑り、そして開けた。
けれど、其処は墓地であった。目の前だけでない、右も左も前にも背後にも石がずらりと並べられ、人家らしきものは一つも無い。夢に見た赤い屋根、三角の天井、窓の木漏れ日小鳥の挨拶、そして編み棒の忙しく動く姿は雨降らす雲の下、暗く黒く沈んでいた。人間の世界と妖精の世界は時間の流れが根本から違っていた事を青年は知らなかったのである。
「青年は故郷へはその後帰らなかったそうです。最初は育ての親を恨んだ心からでしたが、町々を放浪する内に気が変ったそうで、自分と入れ違いに此方側へ来た妖精の子を探そうと思ったと聞きます、その為若い頃は全国を歩き回ったが、寄る年波には抗えず、とうとう元気に歩き回ることも出来ず旅銀も底をついた時、一人の女性に救われたのですってね。」
宮男は何處か自嘲気味に苦笑した、その後の言葉を莟が引き受ける。
「其の女性と言うのが、宮男、おまえの母様なのだろう。」
菫屋の大旦那は、昔異国から異国へと連れて行かれ、嘗て妖精に育てられた昔話の赤ん坊その人なのであった。
十五
人には知って良い知識の量が定められている。量だけでなく方面まで実は定められていたのだが、情報が頻繁にあちらこちらをウロウロと人目に付くように徘徊し始めているのは此処数十年前からなので、人は決められた方角以外の知識にも手を伸ばし足を突っ込む事が叶うようになっている。その為人は量のみを未だ自由のまゝに出来ていない事になるのであるが、その事実は存外人間を縛り付けられてはいないようだ。
菫屋の大旦那は大層な物知りだ、我々の知らない事まで詳らかに知っている、悩んだらあの人の所へ行けば解決の糸口を与えてくれる、凄い人だ、頼りになるなあ。町の人々は自分達が無知であるのを然程気にも留めていなかった、唯素直に大旦那の博識を尊敬し、誰もその裏、それ迄の知識を鮮明に保有し続けられる理由を推測しなかった。
「探偵とはね、何處かしらひねくれている性分なのだよ。」
莟は大旦那の知識量とそれが上辺の見栄による代物でないことに舌を巻いた。その頃はまだ幼く探偵になるなど夢にも考えていない鼻垂小僧の時分、祖父母に上げるお線香を買いに一人で店を訪ねた日。
店前に立ち夕日影を浴びる旦那(その時は未だ宮男は若旦那でなかった)を逆光に暗くぼんやり見た時、いつも笑顔のその人の頬が一瞬だけ灰色に一筋光った気がした。
「いらっしゃい莟坊や。本日はどのような御用です?」
幼い者にも優雅にしゃがんで目線を合わせる丁寧な顔は、いつも通りの旦那さんだった。
「その日から私は大旦那のあの表情が忘れられなくてね、でもこんな事当人に訊いたって事実を話してくれよう道理は無し、探られたくない腹の一つや二つ誰にだってあるものだ、けれど、私は否が応にも探りたい、知らずには居られない、あのお顔の裏に何が隠されて在るのかを知りたくなった。その日から毎日町の図書館に通って勉強をしたよ、其処で私は一つの単語を知った、それは、逢魔ヶ刻、と言う単語だ。」
光と闇の間に生る黄昏の空間の内部は更に三つに細かく分かれているのを御存知だろうか、一つは落葉刻、二つは音止刻、そして三つが逢魔ヶ刻。太陽が西に横たわろうかと空に俯く時間帯になれば風が鳴って木の葉を落す、落ちた葉が土に埋れゆく末期の呼笛は吹けば辺りの音をなくすと聞く、その音に招かれて魔が現れる、此が黄昏時の仕組みである。
「おまえの親父さんが涙を零していたのはきっと逢魔ヶ刻に違いない。あの日は変に町がしんとしていたのを幼心にも感じて不気味だと思ったのをよく憶えているから。」
逢魔の光の中で別れた父母に涙を捧ぐ。大旦那は何方の親を想って泣いたのであろう。
「でね、此の時刻と言うのは、正しく妖精達の人界へ遊びに来る僅かな間だと言うじゃないか!」
「それで、親父が妖精に関係しているのじゃないかと考えたのですか?ちと大胆が過ぎやしませんか?」
宮男の指摘も尤もである。理論を重視する探偵像とは似ても似つかぬ子供のような想像力、それのみで菫屋の秘密に気づいたとは、何とも。
「私は人の涙ならば物心着く前から澤山見て来た。」
莟の一言に宮男は押し黙る。没落した嘗ての名家の悲惨な暮らしは、末裔の声色に暗くも拭えぬ影となって深く沈み込んでいるのを聞き取ったから。
「だが親父さんの涙は、見て来た人々の涙とはどれとも違っていた、人間であるには違いないが、人の流す涙に景色は潜り込まない。あの人の涙には、灰色が確かに灯っていた。」
人の身でありながら人ならざる世界に育ち楽園を離れた途端に孤独を感ずる、その寂しさは宇宙に繋がっている天体と似たようなものであったかもしれない。
「大旦那は確かに親切だ、けれどその親切は自分に人を必要以上に近づけない為の優しさじゃあないかと私には感じられるんだ。息子としては、如何思う?」
幼少期に父親の秘密を知ってからずっと目を背けて来た二十年以上演じ続けて来た息子役を剝ぎ取って一人の人間として、宮男と言う名前も今は捨てて向き合わなければならない時が訪れていたのを、彼自身は覚悟していたのだろう。
十六
外で見る父は、家の中で見る姿よりも物腰柔らかで、かと言って横暴に力任せな性格ではなかったけれど、二つの世界の父に共通していた点は、近寄りがたい、と言う点だった思う。人を怒鳴らない、叱らない、いびらない、傍目からはこの上無い理想の父親像と映るだろう、おまけに働き者であったし。でも
「すてきなお父さんを持って幸せだね。」
と褒めてくれる言葉に、一度も心から頷けた例が無い。違和感。それを思う度に自分は親不孝な息子だと呆れ悲しくなった、だって、自分は菫屋の息子として生れてから一度も飢えた事が無い、三食毎日食べさせてくれて、勉強も受けさせてくれたし趣味の読書も咎められた事も無い。これほど恵まれている身上で、親を疑ったり嫌うのは子供として最低な行為に当る、父母の為にも恩知らずのどら息子にはなりたくない。
だから違和感を毎日毎日抑え込んだ。
初めは同じだった瞳が、年を経る度に色が変わって行った。
「親を悪く思うなんて、自分は悪い息子だ。」
本当に?
次は耳が変わって行く。
空気を感じる肌が変わって行く。
鏡の前には菫屋ん所の宮男君じゃなくて、恐ろしい人間が佇んでいる。
その人に、どんどん囚われて行く。日に日に宮男は影を薄めて光が強くなっていって、指を硝子に押し付けても皮膚はもう感触を伝えてくれなくなっている。
人の形をしているこの輝きは、宮男と言う人間が生来抱いていたのであろうか、それならば成長とは光を避ける行為なのか?
ぐるぐると分らないが素顔そのまんまに笑っている、頭の中で、理解の及ばない事が始まってしまっている、此の恐怖を正直に父に話せば良いじゃないか、父を見て感じる違和なのであれば父が解く鍵を握っているのだろう。
「俺はそうしなかった、その代りとして、何も知らない馬鹿な道楽息子を演じることにした。その姿の方が父にも母にも今まで通り、違和感を感じる以前の態度で接することが出来ると信じた。もうそんな生活の記憶、本当は碌に憶えちゃいないのにな。」
「演じることで従順な息子でいられると考えたのか?」
彼は莟の問いに小さく頷く。
「でも裏では妖精の伝説を調べたりしていたんだろう?なら、演技は最適解ではなかったようだな。」
また頷く、涙も一緒に。
「何の因果かは知る由も無いが……妖精に家族を奪われた者と、妖精に家族を養われた者、立場は一見相対するようだが私は君を見捨てない、諦めたりしない、今は親の涙を一旦置いて協力するのだ、なあ、私達で此の事件を解決しよう。佐吉少年の行方も追わなきゃならんし、例の祠にも行く必要もある、避けては通れん魔所だと思う。いつまでもべそをかくのは一連の騒動を片付けてから、上等な酒を呑み交わしてすることにしよう。」
痛烈な違和感を自分の一部とする決意。菫屋宮男は友の言葉で顔を洗い、その決意を持つ事は叶ったのだろうか。光に目を向ける覚悟は、勇気は。
十七
先ず怪しいのは昔清影義美に届いた嘆願書だ。文章中には祠の事を「宮の室」と呼んでいたが、現在その名前は城下町に伝承されておらず、丘の上にいは無縁仏の墓があると勘違いしている者ばかりで、町の住民に尋ねても丘の祠を認識しているのは一人も居なかった。
「その嘆願書を書いた家の者に子孫が無かっただけでは?現に残っている話が昔話の全てではないでしょう、途絶えた記録や物語など幾らでもある。」
「宮男、おまえは此の町の人達の顔をよく観察したか?呑気にはい知りませんと答えた者は幾人居た?」
「俺の顔を見るなり親不孝者だの佐吉は貴様が殺したんだろうの、唾に砂利を混ぜて小石と一緒に投げつける、そんな人達の顔を正面向いて見られると思うか?莟先生が隣にいなかったら俺は妖精に憑き殺される前に頭打って死んでるよ。」
「そうだ。私の問いに皆は直ぐ応じなかった。」
「それは俺がこうして家にも戻らずにいるから腹を立てたんでしょうよ。」
「話題を逸らす為におまえを的にしたのだとしたら?」
「そんなに話したくないのなら、話せませんと申しゃ良いでしょうよ、妖精に口止めされてる訳でもあるまいに。そもそも城下の奴等は妖精なんて信じちゃいませんよ、見ただろ?あの白々しい台詞達。(えゝ、丘の上には祠があるのですか、てっきり墓だとばかり、それも無縁の墓だとばかり思っていました、ははははは。)なんて、誰も彼も口を揃えて言いやがる。」
「妖精が自ら立ち現れて人差し指を唇に添えた訳ではないだろう、だが、昔の大火の教訓がそれとなく子々孫々に口伝えで継がれていたらどうだろう。それは一つの禁句、禁忌となって人は言いたがらなくなるんじゃないか?」
代々良家として名を馳せて来た清影家の没落は、妖精が仕組んだ遊戯なのか。
「人々に普段見えない存在を利用して自分の思うまゝに事を運ぼうとする野心家はいつの時代にも居るものだ。」
莟の瞳は火を失わない。宮男は彼の言わんとする仮説をその眼の気迫と言葉から推察したのか、それまでふてくされていた目の瞳孔をキュッとそばめて口をもごもごと冷汗一つ。
「じゃあ……清影一族が目障りだった人間が一枚噛んでいることになるじゃねェか。そんな事、不可能だ。」
「何故?」
「妖精と人間は協力し合う関係に無いからですよ、いつだって妖精は一方的に人へちょっかいを掛けて来る、此方の意思なんかお構いなしさ、俺が読んだケルトの話では…」
口を噤む、その表情。相棒を見てニヤリと大胆不敵に微笑む探偵を見よ。
「そうだ宮男、それはヨーロッパでの話だ。昔かの大陸は自然と対立していたからね、彼等は一方的に人と関わる存在だと信じられていたんだろう。」
でも、此処は日本だ。太古より自然の中に数多の神々を見、アミニズムを礎として命を紡いで来た風土、里山を見よ、村々を見よ、林業も漁業も農家も、自然と共に在れと先祖の声により考えられ産み出されし人の生活の姿である。自然を師とし親とし友として思い続けた者達の国家の土を、今我々は踏んでいる。
「日本の自然は、元来極めて人に友好的だったんだよ。」
自然の穏当な手をひねり上げて羽交い絞めにしその身を仲間と組んで陵辱したのは誰だ。
十八
「佐吉達は、義美の仇を討とうとして今回の件を引き起したんじゃないか?」
父親である義美を貶めた黒幕に仕返しする為?
「いや、でも義美が貶められたお蔭で自分は生れる事が出来たんでしょう?恩を感じても恨みを抱きますかね。」
ざまあみろと町中に叫びたがった為?
「初めのうちは恩を感じていても、未だ義美が己を恥じて置き去りにした人間の妻を想っていたら?」
「そんなに殊勝ですかね妖精は。伝わっている話に依ると白無垢の娘は大層嬉しがって町に下りて来ていたでしょう。」
「その姿そのものが、黒幕の手によって脚色されていたらどうなる?」
公園のブランコに座り片方は立つ、男二人のブランコへの二人乗りは案の定誰一人として周囲に近寄らせなかった、思惑通りとにこつく莟と何となく虚無の表情をしている宮男、スン…と感情を失した顔は落花にちよちよと寄る雀達を見つめているが、目は遠い。
「何で、ブランコなんだ。」
「何か言ったか?どうした宮男。」
「顔が綺麗な奴は何しても絵になるから恥を知らないって聞くが本当だな。こんなおじさんブランコに座らせて……」
「人に聞かれたくない話をするんだから、この方が都合が良いだろう?」
「天然だ、此奴は天然の美青年だ……」
「もぞもぞ何を独りごちている?よく聞き取れないぞ。」
聞かせて堪るかこんなこと。宮男は莟の顔を見上げてその美しい顎に向かって賛同する。
「宮の室には未だ行かないのか?」
「勿論向かうとも、でも、もう少し日が沈んでからだ。落葉刻に祠の真ん中で立っている時分が丁度良い。」
「魔に用事があるのなら夕刻に伺うのが道理ってやつか。」
男二人できぃこきぃことブランコ遊び、少しずつ影が伸びてゆく。
操を立てろ、と言われた時代がある。操など立てなくても死にはしない、と言われた時代がある。貞女で在ることを鼻で笑われた時代もある。女は自由に生きよと言われた時代がある。一人の男を想い続けて命を自ら絶つのが美しいとされた時代があって、その時代は他国に蹂躙されたから、その時代は今の禁忌となってしまった、その時代に関する単語も標語も色彩も恥と後ろめたさで編んだ長い長いマフラーに閉ざされて喋る口も覆われる。空の色も、雲の形も、川の光も月の涙も、敗戦の一言で塗り潰された。思い出してはいけないよ、喋ってはいけないよと暗黙の内に伝えられて継がれていって人は暗い過去の顔に白い布を被せて棺に入れて燃やして灰になると、風を待つ。灰が何處のものかも分らない塵や芥と一緒に吹き飛ばされて空の途中で散るのを待つのである。
語り継がれないように、忘れてしまえるようにと誰も明らかに言葉にはしないけれど、その被害を被る歴史の事実には痛いくらいに黙った言葉達は突き刺さる。自分達は必要とされていない歴史だったのだと人から目を背けても不必要だの黒歴史だの国の汚点だのと視線には考えが籠るもの、ちくちく、ずぶずぶ、ずきんずきん。虐げられた者は自分より小さい弱いものを虐げる習性に人間は従ったまでだ、だがその相手が非常に悪かった。自分達よりも劣り言い返しても来ないと鼻で笑っていた歴史の恐ろしさを無知故に理解しようともしなかった。人ならざるものは妖精だけではない。
歴史の踏まれ殴られ蹴られた瀕死の頬に一滴水が注がれた。それは歴史の頬から口へ伝い喉をこくりと生きさせた。傷だらけの歴史の伸ばしていた手は雲の髪うつくしい一人の娘の手に繋ぎ引かれた。歴史は妖精に口づけされ、一切の記憶と憤りと諦めと嘆きを妖精の舌に引き継ぎ、身体は粉砂糖みたいに崩れ始めたが、最期には安らかな笑顔が見えて、見えなくなっていった。
人間を囲う自然の力と歴史の無念は妖精達の具現により人の世界に顕現する、その力は落葉刻に向って膨らんでゆく、海の波が満月の夜暴れるのとよく似たさゞ波がどんどん膨らんで、風を待つ。人を怖がらせるのに丁度良い時刻になるのを待つのである。
妖精の怒りは乙女の怒り。理不尽で手に負えない一途な遊戯の延長戦。風が吹いて、始めようかと家の扉を開いたら、見知らぬ男が二人立っていた。
祠の前に、二人立つ。莟と宮男は今より何が起きるのか一人は期待して一人は怯えて一歩も動かず風の吹くまゝに身を置いていた。
「誰も出て来ない!」
「おう!」
「もう少しこのままで居るぞ、この祠に用があるんだ、風に目を回されるな!」
「おう!」
片方はまああんなに怖がっちゃっているのに足は確かね、一ミリも搖れていない。それにもう片方は…よく似た瞳をしている。
風が止み、それまで遠くに鳴っていた豆腐販売のチャルメラの音が聞えなくなる。そして二人はぽかりと開いた地面の口に悲鳴を上げる暇も無く落下して行った。
十九
大昔の物語で、地下の世界は蛾が治める楽園があると読んだことがあった、諍いの息が出来ない平和な場所だと。そんな居場所が地球の何處かに在るのなら、人間は国など造営しなくて済んだだろうに、其処で富も利益も繁殖も知ることなく極光の愛の翼を泳がせていれば良かった、月影に鱗は輝きを返す嫋やかな挨拶を抱きしめ続けていれば良かったのだ。
自らの国を楽園にしようと寂しい努力を重ねて来た、その姿勢は惨めで醜くていじらしい、蟻の群れに覆われて為す術も無く喰い尽されてゆく蛇のまだ生きんと僅かに蠢く目を見ているようでいじらしい。救ってやるのは造作無けれどそれで蟻の誰かが飢えて死んだら如何しよう?お母様によく教えられたもの、命を助ける行為は慎重にしなければいけないよと、感情や激情に任せて動いてはいけない、それは弱い者にだけ許された特権、私達はその権利を持たないだからと。
では私達は何の権利を持つの?
権利でなく義務を負うの。
どんな?
それは、時計を動かす義務。
青銅の霜柱が立ち並ぶ広い地面にまだ色は無くて、同じ原理で空を模した遙か高い天井も無色であった、天井から霜柱でなく氷柱が長く枝垂れており、その先端は仄かな朱鷺色の雫が今にも落ちそうにしているが凝り固まって動かない。凍った炎の目前には雪の花びらを襲して形作った一匹分の蛾の羽に、桜の瞳、硝子の口吻、藤の手脚、菖蒲の胴体。小さな人形がひたと乗るのは金色の大きな器の中に砂金に半ば埋もれて円盤を覗かせる大きな時計であった。
落下して来た二人は、未だ目を醒まさない。一人は佐吉がいじめた男、一人は夫によく似た瞳を持つ男。此処に落ちて来て死んでいないとは運が良い、けれど佐吉にこれ以上おもちゃは要らない、悪い遊びをまたしたらいけないもの。
起こしてあげないと。
「もし、もし、其処の人達……」
懐かしい母の声がした。人々に石を投げつけられて傷を負った白い頬が痛ましく、掌でそっと触れると、母は微笑んだ。
「莟、貴方はとても優しい子ね。清影の人間はそうでなければいけません。さあ、涙を拭いて立ちなさい、もう、起きる刻ですよ。」
母上。呼ぼうとする唇は動かず、代りに涙が身体を伝う。
「先生、先生、莟先生起きて下さい。大丈夫ですか、何處か痛むんですか?」
一足先に目を醒ましていたらしい、相棒はひそひそと声を潜めて探偵の横で伏せたまゝ顔のみ向けて此方を危ぶむ。
「まだ全体を見ていないので確証とはなり得ませんが、俺の目の先にも身体の下にも針も棘も植えられていやしません、地獄は落ちた者をその瞬間から責め苛むと言われていますが、未だ俺の四肢と首が胴体からおさらばしていないのを見ると、此処は地獄でないようですよ。亡者の呻き声も血の涙も降ってやいません。」
現状目に映る眺めから考察した答えは涙に意識を預けて微睡んでいた莟を耳から目覚めさせた。色の未だ持てない土を伝って町では人に示さなかった宮男の胆勇が起きろと手を打ち呼ぶ声が、夢の中の母を通じて届いたのである。
「宮男!」
莟は声に応じて身を起こすと満面の笑みで彼の身体を起こした。普段感情を優先し慎重を欠く点が全く無いとは断言出来ないがそれでも今此時の清影莟は探偵としての職責と姿勢を脱ぎ捨てて久しい旧友に再会した只の若者の喜びを咲かすもので、慎重も冷静も失してはしゃぐ城下町では人に示さなかった莟の幼い笑顔は凄腕の探偵だと事実を言えど宮男以外は信用しない、あまりに無計画な子供の振るまいであった。
「宮男、此処は祠の内部かな?まさかこのような景色が広がっていたとは…青銅の霜柱か、フフフ、踏むと楽しいなあ、ああ、踏んでも直ぐに生えて来る、これはずっと遊んでいられるなあ相棒。」
莟の幼少期は決して明るくはなかった。町の者達から代々迫害され続け友達付合も出来なかった、まして遊ぶだなんて。埋められなかった記憶を今以て楽しさで覆ってしまおうとでも言うのか莟は精悍な顔立ちに似合わぬくらいに戯れている。
「楽しい、楽しい。フフッ、遊ぶとはこういうものを言うのか、友達と遊んだ経験が何せ皆無だったから。一緒に遊ぼうと声を掛けても子供達は地面の砂を握って投げつける、土くれを投げて寄越すんだ。如何してって訊くとね、お前の御先祖は人間に背いた大逆人じゃあないか、そんな血筋の輩と仲良くするなんざァ真平御免だってね、そう言うのですもの、心服はされないじゃありませんか、でも私には家で帰りを心配してくれる家族が居ます、あの時分はまだお祖父様もお祖母様も御存命でしたから、今此処で暴れるは容易だがそうすればどれ程母上達は胸を痛めるだろうと想いますとね、拳も足も一気に元気を失くして怒りを忘れるんだ、情け無い……一言も憎まれ口返さないで何が天下の名探偵だ、私は……」
ふらりと身体が傾いて、地に倒れ込んだ探偵は、何たることか再び意識を手放したらしい。
「莟!おい、どうしたんだよしっかりしろ…」
「本音を吐くのは気力も体力も削がれますから、暫く休ませておあげなさいな。」
眠る莟を横抱きにして宮男は新たな声のした方へ振り返る。其処には一人の淡い女性が立って居た。
二十
取り繕った。人の幸せの一つが忘却の本能を備えていることだと、教えてもらったから。だから人が物語を忘れる事も、約束の際放った言葉を一言一句違えずに言い直せない事も、人にとっては祝福されたものなのだからと、微笑んだ。
御先祖様は偉い人。人間から離れて一定の距離を保ち続けられるようにと人間に優しく接し始めた賢いお方。感情で責務を失わないようにと配慮された凄い方。
ですが、一点だけ愚かだと申させてください。我々は人間を愛してしまう恐れを御存知でいらしたのであれば、何故其を明確に禁じる法を作らなかったの。
人が人を愛するのは珍しいことではない。人が動物を愛することも自然を愛することも、物に愛着を抱くことだってある。畢竟人間とは自分ではない何かしらに愛情を捧げる習慣があるらしいが、思いを捧ぐ対象から愛されたいとはしないのだろうか。
例えば、恋人を愛する者、犬を愛する者、ペンを愛する者、そして自然を愛する者の四つのパターンを考えよう。愛する恋人から思いを返されれば嬉しいだろうし、好きな犬が自分に懐けば喜ばしい。ペン、は少し想像し辛いかもしれないが、自分を使いこなしてくれるのは此の人だけだと思って使い心地が良くなる、手に馴染むようにしてくれているのだと考えれば互いに唯一無二の相棒だと信頼されているみたいに捉えられる。例に挙げた三種類は、人の肌に、温もりに触れるを許されている。
では人に恐れられる存在は?自然を愛する者の想いが嬉しいからと言って、森が人家に雪崩込めば、樹が人に倒れ込めば、海が身体を抱き包んでしまえば、何方も其等は天災となり自然の怒りよ神々の怒りよと恐れられる。愛していますと涙ながらに恥を含めて囁く唇に、誰が鎮魂の言葉を唱えよう、然れど自然からの恋情は総じてこのように扱われてしまうのだ、人に近づくことをも、彼等は許されていない身なのである。
それ故人を遠ざけた。人を遠ざけて愛されないように距離を置いて、想い想われぬ関係へと退いた、そしてその哀しい項には、人間の傍に在って歓迎されない存在達も集まった、宛ら月光に進む蛾のように…寂しい涙の一閃は、空に流れ星となり人々を見つむるも、人にはその輝きが認められない。
けれども長い歴史の隙間には、豪傑や英雄の人品が彗星の花を咲かすと聞く。そのような胸おどらせる相手の登場があれば、人の眼で識別出来ない光は光と認められる。
その人物の性別は、男であったような気がする。女性のようなふっくらとした美しさを有する、微笑みの貴き人だったから。優しい瞳が此方を見つむと、思わず口をつぐんでしまう、けれど当人は話を聞きたがるから首を傾げて先を促す、頬が恥じらひを知り唇は僅かに噛まれ、俯向く目元に横髪がはらりと掛かる。
「照れているのかい?」
顔に似ない無神経な物言い。女の感情は口に出して話すものではないものを。ツンと口を閉ざしたままフイと顔を反対側にそらす。
あゝ、あの時そんな意地など張らずもっと顔を見つめていればよかったのに。
「此処が何處か分りますか。」
後悔なぞする程度であれば
「…祠の内側?とかか。今更何が起きたって疑いはしないさ、丁稚に来た奴が生首を肩に載せて、自分の首を取り外して、俺の寿命を告げたと思えば肩を妖精に椅子にされて野郎二人で公園のブランコに相乗りして、祠までやって来たら風がびゅうと吹いて足から地獄に落とされた、おまけに俺の親父は昔妖精と取り換えられたって言う。此の世の奇怪な事柄を信じたくなくても向うは容赦せず現実にやって来るんだ、抗わずに受け入れる、その覚悟なら出来ている心算だぞ。」
最初から後悔しないように動けば良かった
「あゝ涼しい言葉だ。まだ三日と暮していないのにもう探偵の姿勢に影響されたのですか、其処で休んでいる…その人に。」
後からだと何とでも言えるし思えるもの
「その人、と呼んでくれるな。彼は俺の相棒の清影莟、城下の町で一等の探偵先生だ。」
どれだけ どれだけ独り善がりでも
「まあ。その先生様は私達に容易に名を明かしてもいいとお教えに?簡単に支配されてしまうことをお望みなの?」
情け無い、みっともない。
「馬鹿にするなこの人を。俺は貴女の妹に性格をいじられたが、莟は微塵も動かされなかった、妖精の威を前にして臆する御仁ではない、清影莟を侮るな。」
宮男の声は聖堂の内に凛と響き、口からは清らかな炎を吐く勢い、一点も疑わない信実の心は此の場に風を呼び、未だ目醒める気配の無い莟と女性を正面に見据える宮男の周りをひゅうひゅうと囲む。雪は水へと溶かされて二人の足元には泉が鏡越しに種を芽吹かせ子葉を伸ばして背筋を伸ばして立ち並ぶ、その様恰も緑野に守護さるる異国の騎士の観を呈し、冬の女王は微笑みを消し真面目な顔で相対する。
「如何して私が大火を招いた女と分かった?まだ一言も此方は名告っていないと言うのに。」
「貴女方の理屈も道理も感情も分らんよ、人間に其処迄理解の及ぶ脳味噌は持てないのかもしらん、けれど、人間だって生物だ、四足歩行の時代からずっと受け継がれて来た本能がある、俺の本能が、貴女をあの人の姉だと叫んでいるんだよ。」
本能に従うだけでは人は正しく在れないんだ
「愚か者め。人間とは斯くも浅間しいか。」
でもね、僕が君を見つけられたのも、本能のお蔭だった。
「それが本能だと豪語するなら、そんなお荷物捨ててしまえ。人間は情と言う物を持つから面倒事や厄介事を招き寄せる、感情に振り回されて、それを本能の仕業だと取り繕って、愚か愚か。」
本能なんて備えていなければ出逢わずに済んだのよ、
「じゃあ貴女は如何して泣いてるんだ!」
時計の音が、カチリと止まった。
いけない、私の義務は
「宮男さんの言う通りよ。姉さん、もういいの。」
婦人は自らの影を振り返り声の主を追う。其処には、もう逢う筈の無い妹が柱の傍に立っていた。
二十一
黄金に身を横たえる水晶の針は止まり、時計は朝靄に凍る雫を流して行く、さらさらと小川は地面を廻り木の葉と遊ぶ渦巻きをちらりと見せて色を知らない土深くに沁み込んでゆき後には金を含めた水跡が硝子片のように憶束無く散らばるのみ、蒸発するにはまだも少し時がかかりそうな。
霜柱は時計の佇みと同時に青銅の神威も鎧も糸のように色がほつれてみるみるうちに透明の心臓の姿を露わにされるも凡そ気恥しさもまだ知り尽してはいまい、ぽかんとしたまま横座りにくなりと崩れると、小川の後を追うて深層に無垢を重ねに行った。土台が去った為に一匹の蛾の人形は均衡を失し粉々に砕けると、此れもまた美しい水を求めて溶けてゆく。
全てが水に流された後、残っていたのは高い天井から零れようとする氷柱の先端、朱鷺の衣は両翼を開けたまんまで一つも身動き取れないで黙したまま。
「姉さん、後は天井だけよ。その氷柱も返してあげないと。いつまでも義美さんの御家族を待たせられない。」
妹君は《いもうとぎみ》は真ッ赤なワンピースを着て、胸には大きな黒いリボンが中央に結ばれている。髪は別れの色、莟が宮男の肩越しに初めて見た色と一分も変らないが、あの時とは違い今彼女は顔が見えるようにとおかっぱの丸いヘアスタイルに整えていた。
「姉さん、宮男さんが抱いている男の人を見て。彼が義美さんの末裔よ、ずっと町で苛められて来た一族だったでしょうに、此の方は探偵業を開き多くの依頼をこなすことでようやく町の人々に認められたのですよ。けれど心残りはありましょう、義美さんを人間の、自分達の一族の墓に入れてやりたいと言う願いがあるの、御先祖様を愛した人間のもとへ連れて行ってあげたいと望んでいるのよ。」
「……そのお声は、人間椅子の御婦人ですか…?」
「莟!」
「莟さん!」
「………」
横抱きにされながらも意識を取り戻した莟を、三人がそれぞれにじっと見つめる。
息を吸って、小さく息を吐く。いつもはこのまゝ話し始めるのだが、今回はも一度大きく吸ってから声を出す。
「お初にお目に掛ります婦人。私は清影莟と申す者。人の世界では腕利きの探偵として称されておりますゆえ、嘘は申さず率直に名告った事で御機嫌を損なわれないように。正直ついでに、貴女にお訊きしたいことが。貴女は清影義美を御存知ですか?知っているのであれば是非お話をお聞かせ下さい。」
莟の言葉に姉君は両肩を己の手で抱きしめて、ふるりと身体を強張らせた。
「あゝ嫌だ…その語気と言い話し方と言い、何から何まであの人とそっくり。まるで生き写し、私は何處に居てもあの人の影からは逃げられない。」
「あの人とは、義美さんのことですね?」
「義美さんは今何方に居るの、姉さん。」
妹の問いにも莟の確認にも答えないで、うら若き乙女はよろよろと時計の在った跡へと歩み寄り、崩れる裾をも正さずに横倒れに涙を落す。
「一度だけ…一度で良いから、私は、家に帰りたかった。けれど、両親は許さなかったんです。母が随分久しい間神経を病んでいまして、自分の大切とするものは一切傍に置いて居ないと泣くのです。まだ泣くだけなら私だって振り切れました。けれど泣いた後は決まって怒り出すんですもの、そうして私を睨んでは、如何して母の元を離れるんだって恨みがましい湿った瞳でぶつぶつと呪詛を唱えるんです、あの顔が憎らしくもありますが真先に感じるのは恐怖です。あゝ斯くも人間は執念深いのかと私は背筋が凍りました、体中を巡る血がさあっと蒼ざめてぞくぞくと冷えてゆくのが分るんです。だから家に帰るのはもう諦めて、兎角母を喜ばせよう、機嫌を損ねないようにしなければと一生懸命に勤めました。父も優しい人であったから私の胸中は察してくれてはいたのですけれど、母さんがこうなったのは自分の所為だからと強く出られないといつも涙を落して私に謝りました。
育ててくれた恩がある。それに両親は断じて悪人ではありませんもの、赤子の時に運ばれて以来、私を本当の子供のように可愛がって甘えさせてくれました、何一つ不自由の無いようにと大切に大切に育ててくれた人達を、如何して置いて行けましょう、案ずる腕を振りほどいて駈けてゆくなど、私は出来なかった、出来なかったんです。」
面を覆う仕草も無く着ている着物の水色儚く薫る半襟の袷せ目をほっそりと白い指でぎうと握り哀情を吐くその姿。裳裾長く勿忘草を水に曳き涙の池に半身浸してもなお歩こうと這う白蛇の今際の際は莟の胸にしまわれた。
「私が来たのは貴女を責める為ではありません。貴女がそうまでして身を窶すほどに焦がれた男の罪を、一族を代表して謝りに来たのです。……申し訳、ございませんでした。」
愛する者をその身に喰らった狂愛の貴女は、彼の面影に手を伸ばし、頬に触れる直前で息を引き取った。その微笑みは、忽ち銀の砂となって地面に流れた水の後を追い、やがて見えなくなるまで沈んで行った。
二十二
主を喪った祠は崩壊を始めなかった。婦人が莟の腕の中で旅立った直後、一人誰か駈けて来る者があったから。
「母様!」
その声に聞き覚えがあった、あの滑らかな声、美しい顔立ち、冬の旭日の光。
「佐吉か?」
その声に聞き覚えがあった、自分の本性に真先に気づいた男の声は、自分をよく苛めたもの。
「若旦那?どうして、此処に…?」
佐吉少年は菫屋で丁稚として働いていた頃の相貌を崩さず見る者をたじろがせる美少年のまゝであったが、その瞳には雪解けの雫が浮んでいる。
「佐吉。」
初めて見る子供の涙に宮男が後の言葉を続けられなくなったのを受け取ったのは妹君であった。
「叔母様…」
「おいで。」
多くを語らず唯だ一言呼び掛ける。しかし母を亡くしたばかりの少年には充分な言葉であった。佐吉は叔母の胸に抱き寄せられてワッと大きな声で泣きじゃくる、その悲泣に連られて妹も儚い露を止められなくて、二人は互いに互いの背中を強く抱いて家族を失った空白を埋めんかのように身をくっ付け合う、例えそれが無意味であっても今は体温が惜しくてならない。莟と宮男はそれぞれの着ていた外套を脱ぐと、遺族二人の肩にそれぞれ掛けた。
「我々は、未だ此方に居ても宜しいでしょうか。」
青年の問いに叔母は彼の顔を見て頷いた。
「貴方方もは知る義務が御座居ますから…けれど今は此の子と一緒に涙を流したい。」
「尤もです。では、私達二人は少し離れた場所でお待ちしています、決して急かしはしません。私も相棒に話しておかなくてはいけない事がありますので。」
こうして莟と宮男、佐吉と叔母は暫く別れた。二人の姿が薄く霧に包まれる位置まで静かに歩いて来た男二人、宮男が最初に口を開く。
「話しておかなくてはいけない事は、俺の疑問を全て解消してくれるのか?」
「恐らくそうだろうと思う。」
「何から尋ねたら良いんだか…」
「じゃあ私が話そうか。先に話を聞き後から問うてみれば良い。」
「長くなりそうだな。」
「別離の哀しみは短い時間では誤魔化せられない。」
もっとも、佐吉の母…婦人もそうであっただろう。此の婦人、名前をカヲリと言うのだが、それは人間としての名前であり、妖精の名前即ち本名はクヰルと言った。先に大旦那が妖精の国へ連れて行かれたのは説明申したが、彼と交代に妖精の国から人間の世界へ贈られたのはクヰルであった。子供を取り換える風習のある事は妖精国に生きる者であれば生まれた時から遺伝子に組み込まれている知識なので、クヰルは自分の番が来た事実を恨み惜しむことは無かった。
ただ哀しかった、寂しかった。
大きな呼吸をして喜びの涙を流した時開いた両眼が見た空を、冬の空、雨と雪が同時に手を取り舞う空は薄紅の微笑みに橙の雲が差す色をしていて、宿り木の莟の中で母と父から語ってもらった人間界のお話のような灰色の空とは違う空の色、人間の住む空では決して見られない空の踊り。それをもう一目見てみたくて、何度も人の両親に頼んだけれど許してもらえなかった、お前は親不孝な娘だ、お前は夫を持ち子を産んで家に居るのが一番良い、冒険だの不測の出来事なぞは物語の中だけの話で良い、現実では平坦な道が最も得難く貴重なのだと、波紋は起こさないようにするのが一番良いと、母は編み物をしながら毎日暖炉の前で唱えていた。でも子供を産む事は出来ない、妖精の身体は人間と違う、そう言えば母は決まって火箸をクヰルに投げた。お前は人間に育てられた人間だ、子を成せない身体な訳が無い。
帰りたい、帰りたい、自分の居場所は此処じゃない。両親が寝た後家の外に出て、内側から開けられないように細工した、教わった訳じゃないけれど、妖精としての力は息するように使えたから。
人の世界の冬は雨が降らないから酷く乾燥している。こんな時期に、集落の一つの家に火を放ったらどうなるか。風よ強く吹けと心は昂る。
妖精の怒りは乙女の怒り、乙女の怒りは自然の怒り、自然の怒りは歴史の怒り。全てを繋げたひとつの怒りはその日人間と決別する炎の世界樹を打ち立てた。
宿り木の若芽の中でよくお母様に教えてもらっていた種族の使命なんてどうでもいい。心のまゝに憎んで、呪って、恨んでやれば良かったのだ、私は人間でないのだから人間を思う必要なんて無い、妖精は恐れられたら良い、人は無力で惨めで醜くて汚い種族なのだと深く遺伝子に刻みつけて、延々と怯えて生きて行けば良い!
「それなら如何して泣いているんだい?」
墓を造ることなんてしなくていいじゃないか、と少年は少女に言った。焼け野原となり人骨の白く残るのも許さなかった火の枝々は今降る雨に頭を打たれて頬を撫でられもはや煙の跡形も留めず家屋の灰に紛れて絶命していた。墓の色は空と同じ色である。
恃んでもいないのに少年は自分のことを澤山話してくれた。自分は今家族と隣街に休暇に来ているだとか、友達が中々作れなくて恥ずかしいだとか、君を家族に紹介したいだとか、放っておいてと突き放したのに、少年は来る日も来る日もクヰルの元へ足を運んだ。
「私人間じゃないの、妖精よ。貴方達人間が嫌いでしょうがないの。だから離れていてくれない?」
何度もそう言おうとしたけれど、今日こそと決めた瞬間握った拳に血管を透いて見えるのはカヲリとして自分を育てて来た人間二人、両親の燃えゆく背中。
「如何して貴方は此処に来たの。こんな焼けた集落なんかに、何の用だったの。」
声は、震えていないだろうか
「それが僕にもよく分からなくってね。此の場所に在った村に知己が居た訳でもないし、父上と母上にも最初は止められたんだ、事故のあった處へ興味本位で行くのは良くありませんからって。」
「でも興味本位で来たんでしょう。」
「違うよ、気掛かりだから来たんだよ。」
「似たよなものじゃない。」
「今直ぐに此処へ駈けて行かなきゃ、行け、と心臓がね、叫ぶのだよ。」
何それ
「父上に尋ねたら、それはきっと本能と言うものだって。」
「本能って、どういうもの?」
「父上が仰有るには、人の心の一つの働きなんだと。けれども本能に従うだけでは人は正しく在れないんだ、ゆえに理性と呼ばれる知能を備えていて、人間は本能と理性を以て正しい道を選べるように進化して来た生き物なんだ。」
「難儀なのね。貴方が年齢にも見合わずませているのも本能と理性のお蔭なの。」
「それは勉学に励んだからだよ。」
「じゃあそんなお荷物お捨てなさいよ。本能とやらも理性とやらも人間には重荷が過ぎる。」
「でもね、僕が君を見つけれられたのも、本能のお蔭だった。
それでも、それでも君は本能が要らなかったと言うのかい?」
「……………カヲリ。」
「何?」
「私は君、なんて名前じゃない。カヲリって名前があるの。これ以上話を続けると言うのなら、他人行儀な呼び方は失礼よ。」
この時心を許してしまった自分への罰であったのだろう、その少年が成長して青年となって人間への恋を憶え、幼少期の不思議な友だちを忘れたことは、きっとそうに違いない。
人を殺めた者が人に思いを寄せて良い道理は無い、使命を捨てて妖精達を裏切った者が幸せに身を置き続けて良い道理は無い、人間にも妖精のも離れた身は彷徨う魂と変らない、迷子は気を付けなければいけない、不図した時に緊張の糸が千切れて泣き出してしまうから、泣くのが人ならば害は無いけれど、力を持て余した妖精だと、それは自ずと人を呪う天災と成り果てる、当人の意思など関係無しに。
二十三
美しく輝く光を星のようだ、と呼称する。星は一つの道標であり、天体に属する者達は何れも地上の生命を守護し導く責務を与えられていると信じられて来たのは最近始まったことではない。またその畏れゆえに凶兆を示すとされて来たものもあるが、凶兆は好きこのんで恐怖の対象になった訳ではなかったのだが、人間の中にその物語を知っている者はほぼいない。それを知る為には、吉兆に比喩されるものの中に身体を浸して共に生活をしなければならないからである。此の条件を満たすのは菫屋の大旦那一人であるが、彼は今現在佐吉を失くした悲しみで人々へ語る力を持てない。気力を取り戻すには佐吉少年の無事を先ず伝えなくては。莟と宮男は遠くから叔母と彼を見つめていたが、内心どのように折合を付けるべきか悩んでいた。
「おまえの謝罪であの子は許してくれるのかね。」
「許しちゃあもらえないでしょう、いじめられた方は相手を許さない権利を持ちますから。逆にいじめた奴は許される資格を自らの行いで放棄するんです。」
「恰好つけやがって、まだまだ弱虫な若旦那のくせによ。」
「相方が恰好つけてばかりいるから癖が移ったんでしょうな。」
男二人は見合ったままぐうと口を閉じた。情けない沈黙に割って足音を響かせたのは。
「探偵さん、若旦那。」
母親と瓜二つの佐吉であった。彼は胸に巻物を一つ抱いている。
「叔母様がこれを大旦那に見せるようにと。でも、僕その前に若旦那達にも見てほしくって、お許しも貰いましたから、あの、内緒ですけど内緒でありませんから、読んで下さいな。」
莟の手にぐいっとつっこんで少年は踵を返し、待つ叔母の所へ走って行く。紐を解いた後二人の目に語り掛けて来た水茎の筆跡は佐吉の母の言葉であった。
“どうか此の言葉を、気の狂った罪人の叫びだと五月蝿く厭うことなく、終い迄読んで下さる事を願います。これは妖精として生れ乍ら人間として生きる術を強いられた或女の物語です。
女はクヰルとして妖精の国に生れました。彼女には両親と妹がおり、宿り木の種子から芽吹き莟となっていく中で澤山のお話を聞いたのです。その中には自分が人間の子と入れ違いとなって人の住む世界で生きていくことも含まれていました。
戻って来たくなれば戻って来たら良い、家に帰れる力は妖精であれば赤子から持っている力だかた使えば良いと別れの直前、産声をあげる花咲く直前に父と母は言ってくれました。妹は姉さん行かないでと悲しがりましたが、このままでは人間の子は幸せに生きる道を失います、種族の使命は人の世界を正しくまわすこと、クヰルは泣き虫な妹を心配しながらも永遠の別れではないのだからと心を決めて生れたのです。
クヰルの家族のもとでなら人の子は幸せに生きる道を与えられることにクヰルは疑いませんでした、そして自分が赴く家も、自分が居れば子を失った哀しみも癒えるのではないかと信じていました、彼女は妖精の使命を一片も疑わなかったのです。
妖精には無くて人間に有るものの中で最たるものは執着心である事を、御存知でしょうか。妖精は命に順位を決めません、それゆえに全ての命を同じ丈で愛することが出来ます、我が子も知らぬ子も犬も植物も皆同じです、妖精は生命を等しく愛する種族なのでございます。愛情だけであれば人間も劣らぬものを抱いていますが、彼等の場合には愛の中に執着心が当り前のようにそ知らぬ顔で混ざっているのです、此が人間と妖精の根の違いでありました。知らぬ子よりも自分の子、他人の犬より自分の育てる植物を大事と思うような精神を持つ人間が、他所の家の子を我が子と想うにはきっと一生涯の時間が必要だったのです。けれどクヰルにとってその時間はあんまり長く感じたのでしょう、彼女はとうとう我慢出来ずに人間を殺したのです、育ての親を、親の暮らしていた集落ごと。
種族の使命に背いた妖精は故郷へ帰る為の力を失います。彼女は雨降る中勢い止まぬ烈火の樹を植えた前で笑い続けておりました。例え追放されても自分は人間でなく妖精なのだと、人の要素など自分には含まれていないのだと決別する高笑いでありました。
此処に、一人の男の子が登場して来ます。彼の名前は清影義美、クヰルが滅ぼした集落の在った街の隣の街に毎年家族で遊びに来ているのです。義美少年はクヰルの所へしょっちゅう遊びに来ました。初めて逢った時から彼女は彼に放っておいてと言い続けたのに、義美少年は顔に似合わず頑固者で、クヰルの威嚇も何のその、僕達はもう友だちだろうと真剣に言う強情な呑気さ。クヰルは人間の家へ贈られてからカヲリと名付けられて一歩も家の外に出た事が無かったので、義美少年に戸惑いました。だって、彼はクヰルの知らない事をたくさん知っているのです、もっと話を聞きたい、私の知らない事教えてほしいと願った時、クヰルはカヲリと名告りました、そして別れ際、義美少年はカヲリにまた来年も来るからと言って手を握ってくれたのです。
人肌を知ったカヲリ少女は義美少年を恋しく思い、早く逢いに来てはくれないかなと指折り数えて出逢った季節を待ちました。その間に少年は青年へと成長しているのだとも知らずに。
迷子は忌み子。忌み子は一筋の涙を流すのにも気遣うと云ふのは、海に潜る貝でなしに空翔ける火になってしまうからだと聞きます。カヲリの涙は彗星の尾引く炎となってしまい、初恋の人の住む町へと墮ちました、しかしその涙も義美青年には直接届かなかったのです。
宮の室、とはその昔恋に狂って男を刺し殺した娘の首が斬られた場所であると言い伝えられており、失恋した人間、それも女ばかりが自然と引き寄せられる魔所、其処に此の娘もやって来ていたのです。もう彼女はクヰルなのかカヲリなのか自分では決められずにいました、涙で狂う視界の感覚に滲みぼやけたのは、両膝を付き燃える町を呆然と眺める男の子の姿でした。
口づけをしようとしたのです。けれど忌み子の行動は常人の行動にはなりません、その唇は初恋の人の喉に深く噛み付いたのです、恋の炎は血飛沫高く天に伸ばされ、二人はおぞましい薔薇の小舟の中で一晩を明かしました。
「約束を果たしに来てくれたのね。」
と少年だった青年の頬と唇をなぞる、その指で髪の毛をいじってやろうと思ったら、娘はしゃぼん玉の夢からぱちりと醒めて、奈落の口に落ちて行く。あゝ、自分は何てことを、何ということを、また、人間を殺しているではないか、育った凍てに集落、町だけでは飽き足らず、終には初恋の少年まで。娘は目の前の慘状に、此れは現夢、此の身の為した行いかと首を傾げて傾げて、肩から腕から脚から力がするすると逃げて行って、宮の室の隣にぺたんと座り込んだのです。
哀れな名を失った少女は、鮮血清い想い人の亡骸に縋りました。もう言葉を伝えられない冷えた唇に顔を伏せて、涙で血塗れの肌を雪ごうとしたのでしょうが、それは人肉をむさぼる肉食獣の黒い影となり、とうとう清影義美は髪の一本も地上に残せない有様にされてしまいました。自らのあさましさと所業に娘は目を瞑り天を仰ぎました、其処は雨も降らない冬の空であった筈が、頬にぴたぴたと雫が点滴するではありませんか。
霙か雹かと考えることを少しずつ削がれ始めぼんやりする娘の瞳に、雨粒が一つ一つ映りました。あゝ怖い、と娘は怯えます、あんなに好きだった焦がれて慕い続けた雨をも恐ろしい地獄の舌舐めずりの跡よと震えるほどに、娘は妖精を、かつて穏やかであった以前の自分と今の自分との落差に戦慄いていたのです、雲が罪人である私をこのまゝ圧し潰すのかと絶えた光の眼は仰ぎ続けていましたら暗い空に一縷の白い、羽が。
はじめ扇ほどな輪郭であった其は、雲のさらに上から流れ来る花筏のように純白の花びらをひらりと空の小川に泳がせて、静かな水流紋様を描きます、その弧のなめらかなこと、これ程迄に美しい弓弦は到底地上には有らせずと頭を垂らす威を含み乍らも決して崩れぬ気貴き微笑みの花…満月が、白い紫陽花の絹を纏い訪うのでありました。柔らかな袂をすうと伸ばして雲を払い地上に触れた袖の光は綿雪へと想いを結ばせて、雨と雪が娘の頬を撫ぜました。恋しい故郷の空の記憶を再び彼女の胸に抱かせしめた花のベールは娘を嫁入りの姿に変えて、死んだ青年の残骸の血を真綿で包んで白く清めて一つ接吻を与えますと、透明な硝子と花々で編まれた蛾が一匹、生れました。その置物を娘は両手で戴きふっくらとした胸の間にしまいこみ、先程迄絶望に仰いでいた瞳は今や産声を上げた音の涙に輝き、祠は、宮の室は両手を掲げて妖精の娘をアーチで招きます、その中に入ろうとして一歩立ち止まり、娘は焼けた町へ歩みを移しました。
娘が自らの思ったことを素直に話せたかは分りません、その時彼女は陣痛を隠すのに必死でありましたから……宮の室に戻った後、彼女は、椿の赤い花で鍵を掛けました。
此れで女の物語は終りです。どうか、此の手紙を持って来た少年を、可愛がってあげて下さい。“
二十四
姉が妊婦になったと星の便りで聞いた時、耳を疑った。人の世界に住んだからとて肉体までをも人と同じにする事なんて出来ない筈なのに。父と母に駈け寄って伝えたら、流石に驚き嘆くであろうと思ったのに、
「そう。そういう事もあるんだよ。」
なんて、植物の変異種について説明するような穏当さでゆっくり何度も頷くだけだなんて。妖精であればそう想うのでしょう、執着を持たない生き物であれば誰かの体内が狂おうとも草木の一部分変色したのと変わらない平等な扱いをするのでしょう。
でも、妖精であれば、人間と妖精互いの国を自由に行き来が出来るから。そうして銀河に置かれた羅針盤に道を尋ねて姉の籠る岩の祠に向かったら、一人の小さな男の子が祠の前、一輪の椿をじっと見つめて佇む姿が認められた。まさかもう子供を産んだのかと走ろうとしたら、着物の裾が足に絡んでもつれてバランスを崩してうつ伏せに倒れてしまった、もっと動きやすい服装に化けるのだったと痛む足を擦りつつ顔を上げると、男の子の姿はもう無くて、代りに宮の室から女性の呻く声がか細く誰かに縋りたそうに耳に届く。
「姉さん!」
扉の向うには自分と似た影を持つ孕んだ女性が一人で床に倒れていた。駈け寄り着付けのまじないを唱えながら汗ばむ額に指を当て、泣き痕の著い頬にも伝わせて、そのまま喉の中心部へと下ろして行けば、姉の動悸は少し鎮まったので、自身の額を姉の額に重ねて声を掛ける。
「姉さん、しっかりして。姉さん。」
うっとりと細目に開けた切れ長の瞳、嘗ては涼しかったのであろうその瞳は、私に焦点を合わせることすら出来ないで天井が指し示す硝子花の虫を一点に見つめ続けている、その蛾とぱちりと目が合わさった時、姉は甲高く悲鳴をあげて胎から血を吐いた。意識を失う直前に血溜りから抱きかかえた塊は、大きな産声をあげた。
「姉さんとの想い出、何かある?」
甥の隣に座って訊いてみる。彼は少し考えた後、嬉しそうに頬を緩めて
「よく絵本を読んでもらいました。」
と涙まじりの鼻声で返事した。よほど愛されていたのだろう、恋に死んだ母親への置き去りにされた恨みに一滴も黒ずんでいない雫は、妖精の国の雨音に異ならない。
「叔母さんはね、貴方のお母さんと過ごした時間はほんの僅かだったの。貴方を産んだ後もね、姉さんはあまり私と話をしたがらなくて、最初は決まりが悪いんだと考えたわ、妖精として生れた意味を捨てたからと、そう思って、姉の方から打ち解けてくれるまで待とうと思って。でもね、少しずつ日を追うごとに、自分の考えはなんて呑気だったのだろうと分ってしまったの。」
「如何して?」
佐吉の問いに彼女は口を噤んだ。
母子が睦まじく戯れる横、部屋の隅で妹は死んだように立ち続けた。振り向かない姉が自分の方を向いてくれた時、何を話そうかと会話の始まりをあれだこれだと考えていたら、あんまり集中し過ぎたのか、ついつい目の前の光景を見逃してしまっていた。その隙に姉の顔は目の前にあった。姉さん、と言おうとした口は、
「貴女、誰ですか?」
きょうだい、とは残酷で甘い単語である。どれだけ片方がもう片方を大切にしていても、その思いが想いになることは無い、お互いがお互いを助けたいと思う事は星の数を肉眼で数える行為に等しく、長い時間と辛抱強さが試される。だが不可能なことではない、相互理解は叶わない願いではない。願いが叶った場合であれば。
死んだことも知られず輝きを信じられている星のなんと多いことか。
二十五
祠の外へ出る為には、迷宮のように道を辿って行かなくてはならない。だが迷宮の伝説と異なるのは、番人のような怪物が此処には居らない、という点である、祠とは元来信心深い人が造ったもので、其処には純粋な破片を失わない人々が頭を垂れて集って来る、それが為に、哀しい人も縋るようにして招かれる。宮の室には人々から歓迎されない女ばかりが訪れる。
その娘は、身分違いの恋をした。その娘は、人道弁えぬ恋をした。その娘は、身の程知らずな恋をした。その娘は、倫理を唾棄する恋をした。……
招待客はいつも境遇が似ている。皆硝子の涙を炎で燃やし大地を呪う、空を睨む、大地の間で死神の鎌を鏡代わりとして微笑んで、焼ける忌わしの故郷を丘の頂上から見下すのだ。そうしてそうして積もった灰は彼女等の目には祝福の細雪かと天降る、その中で誰もが月を仰ぎ舞いに舞った、丘の下に住まう人々が恐れてやまぬ宮の室。
町の鬼門に当る魔所を、遠くに居るゆえに町人達は語気強く罵ったけれども数刻後に雨強く降ればお祟りじゃと平伏して丘の方角にぶるぶる震えて尻も隠し得ぬ程怖がったのはさて何人。特に娘を持つ親達は殊更恐れ、自分の娘が宮の室の手招きに応じないかといつも内心穏やかな時など無くて、家の奥深くに閉ざしていてもすいと魂が迷い出そうで気が気でない。城下町の中で女の子供を持つ者は皆正気を失っていた。
正気でない者に悪意は下心を隠して近づいて来る。判断力が恐怖で上書きされている時、人間は正しい決断を下せない事を奴等はよく知っている。
城下町と言うからには城があって領主がある、そしてその年の領主には気の弱い一人娘が居た。娘の名前は白菊と言い、生来体調の崩しやすい病弱な性質であった為、町娘のように外へ気軽に出掛けられない深窓の綾羅にも耐えざる蒲柳の佳人を憐れんだ両親は我が子が少しでも気の晴れるようにと書物を澤山買い込んだ。
白菊は書物に愛され、また白菊も書物を愛した。けれど自室の中で夢を見る乙女の心はその為にますます外へ出る事をためらわせてしまい、やがて彼女は外の世界に怯えるようになっていき、またも両親は心を痛め、美しい愛娘の行く末を四六時中案じる親心は、良からぬ腹心を招き寄せた。
“一つ、清影に仕事をさせてみましょう。”
領主に進言したのは光矢一族の当時の主不知火と名の聞えた凄腕の部下、不知火は主人の為によく働く男であり、雇い主を諫めるなど言語道断、甘い汁を垂らす黄金の樹は枯らせないと、忠義と申すには少々依存、否執着する握力が過ぎると言おうか、兎角主人に逆らってでも正しき道を歩ませんとする清影義美とは種類の随分と違う忠臣で。
天下の道は純情のみの一筋縄ではいかず、清濁併せて肚に納めた上で一片も体を壊さぬように歩まねばならない現実を領主は分っていたので、民に恐怖を与える光矢一族の慘忍と傲慢にも眉間に刻む忍耐で黙認してはいたのだが、それを許さなかったのが瞳明らかな清影一族、中でも義美は顔に似合わず喧嘩ッ早い性分なので、不知火と殴り合いの諍いを起こした事は手指に収まる数ではない。そのような因縁があると知れば大概御推察なされよう、不知火が女を恐怖せしめ続けて来た宮の室の掃除を義美にやらせようとした訳が。
光矢は代々学者として名を挙げた者達で、生れる者は皆残酷なまでに頭の回り冴える者ばかり、その優秀さと古今東西知識の広さ深さを買われて城に呼ばれた経緯である、つまり彼等は古くから領主に仕える働きをしていたのではない。故に先祖から領主に信じられ任され続けた清影の家には対抗心も浅からず抱いていたのも理由の一つになったであろう、哀れ領主は娘のことで正気ではなくなってしまっていた、そして此の時何の運命か、義美の妻も謎の病に罹り清影当主も尋常な心を少しずつ保てなくなっていたのは。
町民からの嘆願と偽って手紙を書き上げた不知火は北叟笑む。
“貴様だって冷酷な人間であるのに、自分だけ潔白と称して逃げるなど卑怯だ清影。”
水底で生きる命は、光あふれる浅瀬では肉体を保てない。光矢の家系、血を引く者は、正義と俗悪の互いに息し得ぬを本能で察知している、寒気を感じさせる光矢の藍深い海底の暗い瞳は、同じ寒さを有する本能に因り獲物を探す。
妖精でもなくなり人間でもない處女の血涙を利用して見事に不知火は目障りな政敵を葬ったのである。
宮の室の外、町人ならば先づ訪ねないであろう場所に、一人佇む者が居た。彼の祖先もまた、何度も滅びては立ち上がった此の城下町に嘗て生活をしていた者であり、血は一度も絶やされること無く今の世まで氷柱は地を削り道を続けて来た。凍った血は保存の為にと氷漬けにされた柘榴と見目は変らぬ。
此の男、何故怯えもせずに此処に立つ?その理由は、片手に持つ自動小銃が教えてくれるのであろうか、それとも佐吉の肩に載せられていた生首そっくりな顔が語ってくれるのだろうか。
二十六
時間は万能じゃあない。心の傷みを完全に塞ぐ手術を執刀出来る存在は地球上に存在せず、痛みはつきんつきんと内側から勝手に扉を叩いて開けようとする。
だが、幾分かは有効な良薬にはなれる。一度は死のうとした者が数週間、数ヶ月後も死のうと思わないのは一つに時間のお蔭であるかもしれない。
「若旦那。」
佐吉は宮男に話し掛けた、それは勇気の要ることだ。
「若旦那、あの……あんないたづらを見せて、ごめんなさい。」
まして自らの行動を謝るなど、罵られて謝罪すべきは相手の方であるにも関わらず…嗚呼
「俺が、悪かった。」
今更だが、今更だが、自分が恥ずかしい。
「店を、従業員を、両親を守る為とは言え、俺が佐吉にしたのは誰にも許されない馬鹿の真似だ。俺を一生恨んだって良い、菫屋で佐吉にきつく当っていたのは俺だけだから、おまえの気が済むまで俺を嫌って憎んでくれて構わない、俺はそうされるべき阿呆だから。母親から離れて心細い子供の気持ちを推察出来なかった俺が悪いんだ、おまえは、あんなに一生懸命働いてくれていたのに、認めようとしないで馬鹿息子を演じるに必死だった大人をどうか軽蔑してくれないか。」
大旦那の心は、息子にも引き継がれていた。
「若旦那、僕は貴方のこと恨んじゃいません。」
その遺伝が、佐吉には抱きしめたいほど愛おしくて
「その、そりゃあ…腹を立てたことは何度もあります。人間のくせに生意気だ臆病者のどら息子ッて怒った時はありました。だから一寸驚かして怖がらせてやろうと思ってあんな真似を……ですがね若旦那、あの悪戯の後、暫くはせいせいしたって嬉しくてすっきりしていたのに、母上のところに帰ったら、急につまらなくなってきて、楽しいなんざ思えなくなっちまったんです。だから僕訊きました。母上に、如何して面白くなくなったんでしょうって。そうしたら母上は、いつか分る時が来ますよ、と………」
なつかしくて
「本当は、僕、若旦那のこと嫌ってなんざいなかった。だって若旦那があの日恐がった顔を見て、胸の奥がずくずく痛んだんです、それを恨みの笑顔で誤魔化しちゃった。だって今日、貴方にこうして謝るまで、僕、ずっと、苦しくって、それで………」
あまえたかった
大人でも自分の本心を認めるのは困難と言うのに、この人ならざる聡明な少年は難行を見事果たした。言葉はいらず、宮男と佐吉は泣き合って抱きしめあった。ようやく分り合えた二人を頷きながら涙ながらに眺める莟と妹君は互いに顔を見合わし、安堵の笑みを交わし合う。
さて、探偵の仕事だ。
「佐吉君、君が宮男を驚かせたのは、実は君の生首の一件だけじゃあないんだ。最初に逢った時、宮男は君の肩に男性の生首が載せられていたと証言しているのだけど、それは本当かな?」
莟の言葉を佐吉は真面目に聞いていたけれども、男性の生首と聞いて素直に首を傾げた。
「男性の、生首?僕そんなものを背負ってはいませんよ。僕はあの日母上から貰ったお守りを持っていましたもの、悪いことの出来よう筈がありませんよ。」
今度は此方が首を傾げる番だった。宮男は佐吉の肩に役人の生首を認めたが、佐吉は人の首を取り晒す悪行などしていないししようとしても出来なかったと言っている、さて、片一方が嘘を吐いてでもいるのだろうか、否、宮男も佐吉も双方瞳は曇っちゃいない、二人が嘘を言っていないのであれば、何故食い違う?理由は一つ、第三者が介入して二人のことを操り人形にして遊んでいるからだ。しかし、誰が?
(えゝ、丘の上には祠があるのですか、てっきり墓だとばかり)
「何故墓なんだ。」
町の者達の吐けない嘘を吐く姿を思い出せ、愛想笑いより乾いた声より不自然なのは漢字一言。
「鳥居を見て寺の門と間違う者が無いように、祠を見て墓と信じるものなど居ない筈、ましてや町には曾祖父の代から続く神社がある、町の鬼門とされる丘とは真反対に魔所と向き合う北極星の真下に存する由緒正しく、神主も先祖代々信心深くヤクザ者でない方々だ、清い気持ちの良い神社だからと町の人は日参を欠かさないではないか。いくら神々を信用せぬからと宣う輩でも祠と墓が形状異にするそれぞれであることは分るだろうが、町民達は珍しくも皆信心がある、見間違える訳は無い……」
正直者が言葉を誤る理屈は、誰かがそう言ったから。その言葉をそっくりそのまま使っているだけに他ならない。
「町の人達に嘘を吹き込んだ者がいるぞ。」
鋭い探偵の眼光に佐吉は叔母の衣服の裾をぎゅと掴む。乱暴された怯えはもう無いが、彼女も清影の鋭利な本性を垣間見て首に思わず生唾を。莟の声には明らかな敵意が、牙を覗かせ獲物の頸動脈を裂くのを伏し待つ敵意が研がれていた。
見事血を待つ澄んだ刀よ。莟の憶測は外れておらず、その実全く的中していた。町の者達に墓と答えろと告げて回ったお役人、莟と宮男は役所の繁忙期だと受け取りさして気にも留めなかった後ろ姿、城下を治める領主に仕え主人の手足となって働く者達、信の厚い宮仕えの者達、だが直接見られぬ爪先の赤黒く染まっているのはあ城下眺めても分らない。現在の悪人は姿を隠すのが昔と比べ遙かに上手となった。
嘗ては悪の一族の道を突き進んでいた光矢の命も義美を失くしたお上からの振り上げた刀の前に尽きようとしていたが、光矢不知火は怯えも後悔もせずに、新月が抉るは正義の眼、男はニヤリと一度笑うのみ。今に処刑されようと言う身の在り様とは到底思えぬ忠臣のおぞましさに、領主は力を奪われ刀を落す。その刀を拾い上げて主人の鞘に戻した不知火は座り込む主人の前に威儀正しく座り直し、
「白菊様の御具合は如何にございます。」
領主には氷柱を背骨に突き刺された思いであろう。そうだ、義美に娘を気遣う親と偽り手紙を書くことを認めたのは娘可愛さに正道を捨てた自分に他ならないではないか。
不知火の白菊を思う部下の言葉は、一人娘を持つ父親には逃れられない選択を迫らせるた、時代が遅れても進んでも、女は不自由を与えられる。
白菊は不知火との婚約を受け容れた。それは病が本復したからではない、父の言葉の行間に申し訳無さと怯えを感じ取ったからである。書物に魅入られた娘は人の言わぬ心を察知する能力に恵まれた。身体が脆く怖がりの少女の魂は対立を嫌い温和を好む傾向を招き寄せ、やがて自分が耐えればまるくおさまる悪癖を無意識に自然に実行させるようになってしまったが、白菊は己の悲鳴が聞えない。
挙式は盛大に催され、宴は明るい声に覆われた。
一族の行末は安泰と疑わない不知火の横で、角隠しを被った白菊の瞳は宮の室に黙って注がれている。
二十七
光矢の家の者達が何故に主人の側近ではない立場に在り続けていたのか、最初は領主に近しい地位にて権を奮っているのが後々秘書でもなく役人の職に就いたのか、此の理由を光矢を厭うておらるゝかもしれない者達であらば、先祖の罪を孫子が被ったからだと正義の思いの下に高らかと声挙げたくなるかもしれないが、なかなかどうして物語とは上手く行かぬ。
不知火は主人が土台在って無きものだと知っていた、それは歴史や神話が証明している絶対的存在の不確実さ儚さ脆さ卑怯さを熟読している者であればこそ抱けた主人への疑い、時世に愛された者が未来永劫愛し認められ続ける道理など人の世には有らず、只其一時の慰みものになれば良し、世間は信頼と言う単語を持たないことを不知火はよく知っていた。一族を絶やさない為には主人の傍で栄華を誇るのではなく地味に堅実に働き続けることこそ大事と考慮し民草の声を身近で聞ける距離に侍らせ給えと自ら昇格の申し出を断る彼を藤原道長の器には非ずと嘲笑した同僚の子孫はとうの昔に潰えており生きた痕跡葉一つも残っていない。
恐ろしいは生きる執念、生き永らえる執念はもはや確固たる意志となり光矢の足を支え続けた。そしてその心は今宮の室の前に立つ末裔にも受け継がれている、氷の二枚舌を胸中に埋める彼の名は光矢明星、城下町の役人として此処に勤むる者である。
新月の瞳は余す所無く明星にも引き継がれ、暗い光を放つ両眼が照準を合わせた銃と同じく宮の室の鍵なる椿の赤を捉えた時、冷たい指は引き金に迷わず、
耳を劈く激昂に祠の内部は天井から悲鳴を下げた、氷柱は受け止めきれない激しさに身を震わせてぱたぱたと涙を零したが、やがてそれは自死に到る嘆き、根元から重さに耐えられない身体がぽきりとわかれて地面に居る者達へと降って来たではないか。
「氷柱が落ちて来るぞ!」
逃げ場の無い広々とした平地に氷の牙は鐘の音をぐわらぐわらと頭痛の谺させて突き刺さり、歯ぎしりしながら水の通った床に透明な血を噴き出させる。溢れた痛みは手近にあるものを握り、莟は水に足を掴まれた。
「莟!」
「構うな、行け!」
通路を辿れば外へ逃れられると知る叔母は佐吉の手を引き氷柱の落ちない洞穴へ潜り二人は難を逃れたが、涙の血に絡まる莟を助けようと宮男はまだ来ていない、莟に伸ばす手もずぶずぶと短剣が沈みゆく。血塗れになる相棒の耳に逃げろと叫ぶもその耳にも氷柱は掠め過ぎるため鼓膜に流れ音を確かに拾えない。
二十八
拳銃を握り弾を放った明星は、大昔不知火が領主の前で見せた笑みを浮べてはいなかった。先祖と似た顔つきではあるものの表情を示さないのは明星特有の質らしい。光矢不知火が昔邪魔者と妬んだ清影義美を妖精伝説を利用して歴史の暗部に葬った事実を掘り返されてしまえば、今度日の目を望めなくなるのは誰か、言う迄も無い。一族が存続出来なくなる事は決してあってはならぬと疑わない男は、気まぐれな妖精の子を利用して清影の末裔を曾祖父の二の舞にしてやろうと企んだ、そして其の計画の歯車は菫屋の馬鹿息子になる手筈だったのに、明星の予定はまんまとはずれてしまったのだった。
宮男が清影をあんなに深く信じきるようになるなんて、意外の他何者でも無い、佐吉を裏で操っているのはあの探偵だと吹聴すれば簡単に動かせる木偶だと考えていたのは浅慮に到ると認めなければならない、町一番ともてはやされて良い気になっている鼻は膿の溜り場ではなかったのだから。
清影一族には気を付けろ、常に危ぶめと代々囁かれて来た言葉を思い出せ、彼奴等は優しい毛皮を被った悪人だから、領主や下の者共には慕われる、自分達と敵対したり反旗を掲ぐる者ではないからだ、逆にそのような者達を一目翆玉の瞳で見つければ地獄に自ら落ちるように相手に仕向く、清影に逆らった報いを受けろと崖の上でせゝら笑うその本性を上手に隠しているだけだと、騙されてはいけないぞあの気品ある面立ちにと、祖父も父も口を酸っぱく繰り返しただろう。
莟が清影の最後の血を引く者であれば、自分のすべき使命は間違いない。
銃を撃つ。銃を撃つ。最後の一発も気を抜くな。
祠に全弾撃ち終えた後、椿の花は見るも無惨に穴だらけの肉体を引き裂かれもはや欠片を集めても元の形には戻せまい、崩れた祠の鍵を土足で力一杯踏みつけにすると斜め先に陽炎の熱に魘される夢の如き白糸の階段が宙に浮くのを視界に認めた。
一本道とは限らない。自分を此の糸で誘き寄せて背後から首を締める算段かも知れぬ、清影莟が生死を確かめたいと逸る心臓の音を宥める為に鎖骨を皮膚の上からグッと押さえる。確実に使命に忠実であれ、激情は一時の助けにしかならん。前へ招く階段に斜に構えて背中を祠の壁に沿わせて一段一段挑発に乗り階下を目指す、腰に備えた弾薬盒から弾を銃に装填し警戒する。
だが不条理は神秘の専売特許。一度も油断なぞしていなかった明星の首に、白い手が掛かって。
二十九
神話で記される世界とは、人の発展・繁栄を願う土台である。神々から与えられた(或は奪った)居住地は、人に繁殖を齎すも、人は人としか話せないように制限されて、居住地に生きる動植物等の言葉が聞き取れなくなった為に人は繁殖の意義を自分達で考えなくてはならなくなった。初めのうちは真剣に悩み考え抜く日々が続いたけれど後々快楽に勝てず思考を一旦放棄した時があったのだろう、悩む時に光を射したのは真似事と言う単語であり、人は神々の真似事と称して繁殖に意義を被せた。人が後世に残したい、繋ぎたいと思うのは真似事の観念が彼等の本能に含まれてしまったからに過ぎないのだが、こうなるといじわるな質問をしたくなる、如何して一族を存続させなきゃいけないの?なんて
光矢不知火であれば何と答えよう、光矢明星であれば?一族を根絶やしにしないを最良と信じ続ける彼等に、人ならざる者は口元隠して声を抑えて目だけで静かに笑うのだ。滅びた者達が如何に幸に満たされ清い湖の内で心健やかに生きているのか御存知でないのかと。
佐吉は母親の苛烈と純真を強く引き継いだが、彼は半分人間である、悪戯の才能の中にも道義と言う理性を住まわせている極めての常識人である、しかし彼の叔母は人の血を含まない。
クヰルの妹の名はコヰル、コヰルは姉のようよう旅立てた場所をわざと荒らし傷付けんとする輩が祠の外に居るのを知ると、佐吉を洞穴のも少し奥へ避難させ、その眼を見つめてこう告げた。
「莟さんと宮男さんを助けなさい、決して死なせてはいけません。」
自分を忘れた姉とても捨てきれぬのが家族の弱さ、も一度名前をコヰルと呼んでほしい笑ってほしいその願いは叶えられなかったが姉は安らかに瞳を閉じた、自分一人では果たせなかったもう一つの悲願を果たせたのはあの人間二人のお蔭、此処で死なせるのは妖精としての責務に恥じる。
「畏れを知らぬ暴挙など、赤子の手を捻るよりも容易いこと、利己の権化など私の敵には非ず。」
冬と春の涙に染められていた短い髪は荊棘に伸びて天を衝く、昔姉が植えたてた世界樹の炎によく似た紅色は優しく穏当な想いやりの鏡の姿、懐いたものには柔和な笑みを、容赦せぬと一度定めたものには骨をも透す涙の舌を、それぞれ与ふる二面性は處女の憤怒に異ならぬ。窒息せよと不倶戴天の仇を締め上げようと襲い掛かった殺意の一刻、待てと制止する血だらけの片手が挙がる。
「宮男。」
「若旦那。」
氷柱は全て宮男に向けられた。明星は莟に仕向けた心算だったが、凶弾は清影家よりも思い通りにならなかった宮男の方を恨んでいるらしい、頭と心の狙いがズレれば銃とて主人の意を汲まない、どちら共倒れさせてやると、滅茶苦茶に軌道を描いた先は莟の相棒の身体であった。
己が明星の計画の駒となっていた事など知る由も無い宮男は、今佐吉に手当てをされて玉の命は繋ぎ留めたが、傷痕はまだ生々しく、莟に覆い被さった背中は朱の筆で鞭打たれたよう、其処に包帯を巻く佐吉少年はべそをすぐにでもかきそうな表情、冷えきっていない手を両手で握り暗涙を湛える探偵は、宮男のもう一方の手が真直ぐに天の方角へ伸ばされたのを見た。
「宮男、あまり動いてはいけない。佐吉君の術のお蔭で血を止めたは良いが本当ならば死んでいてもおかしくない怪我だもの、まだ動くのはよしたほうが。」
「それでも今は手を伸ばさなきゃならない、佐吉の母様が人殺しをした過去は変えられない俺でもな、叔母様の手を汚すのを止める事は出来るんだ。もう此の子の親類を人の世からのはみ出し者に落としてはいけない、佐吉は菫屋の大切な丁稚達の一人だ、守る為に店の若旦那が命を張るのは道理や道義なんぞ大それた理由じゃあない、当然、当然のことだ、誰も疑わない当たり前のことだろう。」
呼吸ぜいぜいと苦し気なる肺を叱咤し言葉を紡ぐ、その目の光は莟と佐吉の思わず流した雫をきらきらと反射させ、いとも清々しい強がりな笑顔をこれ見よがしに披露する。命の声は、コヰルに届き、寸でのところで墮落を免れた妖精は気を失った明星を風に乗せて三人のもとまで連れて来た。
「此の男は?」
「此奴、お役人様じゃねェか。」
「おまえが言っていた、例の生首の男性か?」
「そうだ、山に看板を建てに行って、目的の場所に着けたは良いが今の時期に似合わぬ寒冷の疾風を受けながら帰って来たと話していた。」
白目を向いて失神している男を見るも其の身体からは
「妖精の…私や佐吉のような術を使う為の力は何處にも見受けられませんね。この男は、莟さん達と同じ人間ですよ。」
「じゃあ何で只の人間が自分の生首を佐吉の肩に載せたように見せられたんだ?」
「手ッ取り早いのは此奴自身に言わせることだな。」
腕まくりをして喧嘩の準備をする相棒に宮男は呆れ顔で
「佐吉の前で手荒な真似をする心算か?日本一と名高い清影探偵は喧嘩ッ早くて嫌ぁね。」
コヰルのワンピイスの裾に隠れる佐吉を庇うように身体を動かしつつ鼻で笑う。
「勘違いさせるようなことを言うんじゃあない。私は何事も暴力で解決しようだなどとは普段からも考えちゃいないんだから、話し合い穏和に解決出来る方法を考えているのが探偵だ、でも時には敵を作る事もあるのは職業上仕方が無い、暴かれたくないものを白日に晒すのが仕事だからね、それを阻止しようとする輩に襲われたのは一度や二度ではないがその度毎に痛い目を見せて追い払った、武器を持つ相手には先ず一発ぎゃッとのめらせるのは一番だ。話し合いや説得は相手が怯み気を落した時に滑り込ませると最も効果的だよ。」
「佐吉、今莟が言った事は忘れた方が良い。此奴は血気盛んが過ぎる所がある、俺も背後から首を絞められたからね。」
コヰルと甥っ子が顔を見合わせて少しぽかんとしているのは、文化の違いの為であってほしい。
三十
本能に従って来ただけだ、決して命令されて為して来た事じゃない、人が子を残すのは当然の生存戦略じゃないか
馬鹿だなお前は、星の名前を戴いておいて恥ずかしいと思わないのか
俺の意志でして来た事だ
単純に済ませられる言葉があるだろう
祖父と父だけではない、その昔から一族を繋げ続けて行くのが光矢の生きる目的だ、それは人として何らおかしい営みではない、人間の当り前の為に策略を巡らして何が悪い
強迫観念、聞いたことはあるだろう?
違う、強制されたものではない
ならばお前がまだ妻も娶らず養子を迎えようともしないのは何故なんだい。
「起きろ、光矢明星。」
女の声。
「目が醒めているのならまた瞑れ、見開く事は許さない。それに、その方がお前の為でもある。今お前の身体は二目と見られない有り様だからだ、此の言葉は脅しではない、事実を言うだけだ。」
否、女のようだが男の声であるらしい。さては今喋っているのが清影莟で間違いあるまい、てっきり腕力で従えさせるかと危ぶんだがどうやら杞憂で済みそうだ、力自慢の者がその手段を取らないのは相手が自身より強い奴の場合か或は暴力を見せたくない相手が自身の傍に居るからだ。私は清影莟に武術で勝てると根拠の無い自信を持つ者ではない、むしろ喧嘩などすれば忽ちに倒されてしまうような類の人種だ、だから今奴の傍には奴の弱点になり得る存在があると推測するのが正しい。ならば隙を窺うまで。
「分かった。君が誰かは知らないが、君の言う通りにしよう。私は目を閉じたまま動かない。」
「……お前に聞きたい事がある。佐吉と言う名の少年を知っているか?」
「私は城下町の役人だ。町に住む者の名を忘れることは職務への侮辱とされる世界で働く身だもの、如何して菫屋の丁稚小僧さんの存在を知らないだろう?」
「佐吉少年に危害を加えたのか。」
「何故そう思う?」
「質問に質問で返すのは礼儀に反する、人であれば道義に背くな。」
「私はあの子に悪意も敵意も抱いていない、それなのに害を及ぼす理由は無いでしょう。答えはノーです、私は佐吉少年に何もしていない。」
足音。固い床をコツコツと動く音は軽いが重みを感じさせる。明星は目を瞑りながら更に続けた。
「そもそも何故私を疑うのです?否別に証拠を示せと申すのではありません、人は論理だけで生きていけるものではない、直感だって時には大いに必要となる場合もありましょうよ、私を疑ったのはその、直感に因るものですか?」
相手の声は何も答えない。
「先程貴方の質問に答えたのだから、私の問いにも答えてくれませんか。其方ばかりが問い掛けるのも失礼だ。」
相手の声は何も答えない。
「…………」
「…………」
暫く無言が続く中で、先に音を発したのはまだ正体を明かさない向うの方で、カタリと引き出しを開いたようなさゝやかな物音。
「お前の先祖の話をしてやろう。確か此処に…あゝ、この本だ。」
頁を幾つかめくる指の動きが見えるよう。
「光矢、光矢不知火、性別は男、齢は七十にして往生、よく書物を読み博識なるが、学者の道を中途で終え城下の領主の膝元で働く身分へと移る、妻は領主の一人娘白菊、妻との間に十人の子を設く、性格は冷静にして動搖する心臓を持たず、自分より身分の低い者には辛辣な態度を一貫し残酷な仕打ちをもよく行いたり。身分の高い者には柔和なること一度も無く常々恐れられるような表情、仕草、振舞いを為す、他人にへつらう事を嫌う潔癖な性分であり、家族以外に親睦関係は持たぬゆえに友一人として居らず、ただ一念に望みしは光矢一族の絶えざることなり。………」
相手が読み終えたらしいので、明星は一つ咳をしてから口を開こうと
「そのようなことは教えてもらわずとも知っている、……と言いたいのだろう。」
まだ再び唇も開けぬ先に相手はピシャリと彼の心を読んだ。心が読めるのかと胸中極めて小声に呟ければ
「心が読める?他愛も無い、人間がよくよく観察して察する心の内などお手玉をするより容易い児戯。光矢明星、貴様はもう一言も話さなくて良い、私が全て話してやろう。」
それは単純な昔話。神話のように切なくもなく、ドラマのように救いようの無いものでもない、よくある、子供の為の御伽噺、誰にも知られないままで居続けた一つの童話。
人が産まれては老人に達する前に亡くなってしまう場所が在った。其処では人間は四十を過ぎるとふっつり糸が切れたみたく目を閉じ眠り続けてしまう、恋人も親も子の声も届かぬくらいに深く深く眠りに就いていく現象を人々は“死”と呼んで恐れた、原因も判明せぬ“死”に怯えない者はいなかった。
人間達が恐怖に項垂れて過ごす雨雲の場所に、一輪の淡い花が咲いた、その花は物を話す花だった。
(如何して貴方は哀しいお顔をしているのですか。)
花の問いに人々は答える。
(そりゃ、何時“死”が来るか分らないからさ。誕生日だって嬉しいのは物心着く迄さ。分別を弁えるようになってしまえば年を経る事は恐ろしいのさ、けれども我々には時間に抗う術が無い。何を欲しても、何を得ても、不意に訪れた“死”に抱きしめられればもう動けない。)
人は再び元のように俯向いてしまった。花はどうにかして目の前の人を励まそうと思い、一つの物語を語った。
(あの、今だけ、少しの間で良いから聴いてくださらない?私、貴方達が“死”に会った後何處に向かうか知っているの。)
(何、それは本当かい?)
(えゝ、それはね、其処は…妖精の国。)
(ようせいって何だい?人間なのかい?)
花は妖精の国を知っていた。確かにそれは存在する場所であり、花も其処で長い種子の時代を過したのである。喜びの陽だまりは空からそそぎ土に満ち、潤う風は息吹の小川を遍く降らす、光と温かな香りこぼれる妖精の国、此処に人が訪れるかどうかは知らないけれど、あの場所の方が今彼等の生きる世界よりも幸せそうだと淡い花は心から信じていたから。
(妖精と言うのは、人が“死”の後に変わる姿の呼び名なの。だから貴方達の世界で目を醒まさなくなった人間達は全員妖精へと姿を移して常若の国で生き続けられるの。)
此時の人の表情を、花はいつまでも忘れない。先刻迄は世の終りにうちひしがれて蒼ざめた頬が牡丹の色づくように染まったのを、白く淀んだ濁る瞳が月の輝きを宿したのを、涙に濡れていた紫の唇が血の色を思い出したのを。
花は、嬉しかったのだ。
人々は花の元へとかわるがわるやって来ては、彼女の話を聴きたがった。花は人々の望む通りに物語を紡いでは話し続けた、皆の笑う顔が花の喜びとなり、生きがいとなっていくことを、彼女は一度も疑わないでいた。信じた道を歩み続けて祝福を感じた花は、やがて人間には自分が居なければならない、必要不可欠な存在だと考え始めるようになっていった。
或日の出来事、いつものように話を聴きにやって来た人に、彼女はこう問い掛けてみた。
(ねえ、私がもしも此処から居なくなったらどうする?)
相手は初めて花が喜ばせてあげた人だった。彼は彼女の言葉を耳にした後、うろたえるだろう、嘆くだろう、ずっと此処に居てくれと懇願するであろうと花は固く思った、けれど相手の返答は。
(それなら、君を忘れないように絵に残すよ。そして新しい花に君のことを教えてあげたいな、昔、此処にはとても優しい花が咲いていたんだよ、彼女はとても物知りでね、澤山の物語を自分達に教えてくれたすてきな花だったんだって。)
うろたえたのは此方の方だった。
(絵に残す?なによそれ、私がいなくなってしまえば貴方達はもう喜べなくなってしまうのに?絵は何も喋らないわよ、常若の国のことも、世界の始まりの話も、神様達の物語だって、声に出すことは無いのよ?)
(そんな事は無いよ。君の絵を見て僕等は想い出すんだ、君から聴いた夢のようなお話達を。そして今度は僕達がその話を伝えていくんだ、君の姿はなくなってしまっても、君は人々の中で生き続ける。)
花は実を成らせない身体だった。自分は次世代に命を繋げられない運命なのだと妖精の国で種として目醒めた時に知った事実、それを恨まないように嘆かないように気にしないように過して来た彼女の胸を、彼の言葉は恰も音を立てない羆の牙の如く刺し貫いた。
誰かに物を託す行為の叶わぬ身であれば、自分の傍に居る生命に喜びを与えよう決めた彼女は、人の話した生き方を認められなかった。自分が居なくなったのに自分は生き続ける?そんな頓知気な物語初めてだわ。
(死んだまゝにはさせてくれないの?)
(それはあまりに悲しいことだ。誰にも語られる事無く死に続けるなんて。)
(もう生きていないのにずっと生かしておくのだって悲しいことじゃない。)
(人間にはそれがよすがとなることもあるんだよ。“死”を迎えた者が残してくれた言葉や振舞い、仕草や感情を忘れずに想い続ける事が、生きる者同士を繋ぐ縁になったりその人の生き方在り方を決定づける原因になったり、或は残された者への手紙だと受け取る場合だってあるかもしれない。
君は亡くなった存在をあまり重視していないようだけれど、植物と僕等とでは考え方が違うのかな?)
彼は自らの発言に余計な一言が含まれていたとは心から考えなかった、花の物語によって知識を得て成長し発展を進めて行った彼等人間は、物語に頼らない生き方を獲得していた、もう無知で守られるべき赤子の姿は居ないのだ。
自分に縋らなければ生きて行けない弱々しい無垢の存在であったものがいつしか自分が居らずとも生きて行こうと覚悟を固めただなんて、花には受け入れ難い事実であった、人間はとっくに依存の領域を脱していた!彼女が人であるならば、親離れや巣立ちの単語で寂しくも納得していたであろう、旅立ちの時を嬉しかなし涙で迎えられたであろう、けれど、花は、変化していった人々の思想を知らないのだ、当然である、此れは人が編み出し人の世界で通用する概念であって、妖精の国では存在していない定義、思想、感情なのだから。
同じ言葉を喋れていたら同じ存在だと信じていたのに、例え言語が同じでも同じにはなれないだなんて。じゃあ、私は、如何して言葉を喋られるの?人の築いた隔絶の壁を、仰ぐ為に、高い壁が空中を覆ってしまうのを土の下に足を埋められた有様で何も出来ないのを分らせる為に?
こんなの、妖精の国の呪いじゃないか。
人の世界を正しく回し続けるのが使命だなんて、如何してそんなに人に優しくするの?彼は、奴等は私達に優しくなんてしないのに此方が気を遣う理由なんて虚しいじゃあないですか、見返り、までとは言いませんから、私達の存在を人間と同じように扱ってくれるだけで良いから、種族が違うなんて言わないで、私は貴方達の傍に居たい。
彼女と初めて話した人間である彼は、花の住む丘を下り山を幾つも越えた土地へと去って行った。
種子から若芽へ、茎を伸ばしやがて一輪咲かせる姿から推せられる通り、花は己の容姿を変え得る術を持つ、その術で、一人の人間へと身体を変えた、心は燃ゆる元のまゝで。彼の後を追って山越えをしたって良かったが、あの男一人にするには勿体無い、復讐は澤山の相手に仕掛けるから面白い、幸い人は繁栄の道を選んだから、この後も人間の数は増えていくだろう、その中に人間ではない生物の子が人の姿で混ざり込んだら?その子には人を差別せよと教え込んでやろう。そして同時に人にとって手離し難い存在になれ、我等の子孫を絶やすな、平和な光の日だまりの横で、離れられない恐怖を常に滴らせ続けるのだ。
これは貴方方へ放つ一本の矢。貫けなかった思いを以て人肉を貫く私の為の光。
童話は幕を降ろす為の月夜を拒み、物語を演じ続けていられる白昼を望んだ、此れが光矢一族の始祖の歴史。
「人より博識なのは当然のこと、そもそもが人間ではない妖精の国の住民であったのだから。人への復讐の為に人と交わる事もしなかったから光矢の者達は一人残らず妖精だ。人のフリをしている妖精の一族、それがお前達の先祖だよ光矢の末裔。」
声は一人言葉を続けた。
「子孫を残すのは人ならば当然とするのも、人間に自分達の真相を知られたくなかったからであろう。暴かれてしまっては始祖の怒りに反してしまうものなぁ。」
光矢の一番の恐れる相手は清影である。月光は人を正直にし裸の思いを静かに吐露させる光である、陽光は人の形を生み出すが月の光は人の影を暴くのだから、故に光矢不知火は清影義美を葬り去らせた。けれども此処で一つ疑問が残る。
三十一
何故不知火は白菊を娶ったのであろう?妖精は人間のように子を成さない、人間の女など必要無くとも子を授かる事は可能なのに、どうして?口を開こうとした明星を突き放す氷の風は何も答えない。卑怯者、と叫んだ途端目が醒めて、正気付いたは祠の内側、衣服の袖をまくり今にも殴りかかりそうな清影莟の足下だった。
「ワッ、起きた!」
佐吉はコヰルの裾を握り姿をサッと後ろに隠す、叔母もまた明星の視界に甥を入れぬよう彼を抱きしめ背中を向ける、その隣には莟をちっとも宥めようとしない菫屋の二代目が仁王立ちに明星を見下ろしていた。
左頬に、脳を震わす痛み。遅れて鉄の味が臭く広がる。
「お役人様、一体全体如何して斯様な場所に居らっしゃるんです?」
利用せんと狙っていた小物に見下されるを我慢出来る男ではない。
「何だとッ、此ゥの馬鹿坊が!俺に生意気な口をきく!」
殴られた直後、しかも目醒めたばかりの身体のくせによく叫ぶ、声のみならず動作までをも勢い烈にしてまたも怖いもの見たさに叔母の肩越しからそっと覗く佐吉を怯ませたが、宮男に飛び掛かる猟奇は彼の背広の襟をワイシャツごとむんずと掴み再び地面に伏せさせた莟の動きによって封じられた。
「放せッ、汚らわしい清影の末裔め、貴様達が生き延び続けて良い訳など無いのだ、お前の曾祖父の義美はな、俺の御先祖様の不知火様に誅された、当然だ、清影は光矢を滅ぼす一番の敵なんだ、そう教わって来た、俺が間違った事を教わる筈が無い、代々賢い血筋が続いて来たんだ、お前達人間とは格が違う!」
一息に言い終え呼吸を荒げながらも組み伏せられた目を組み伏せている宿敵に注ごうと睨む眼差し、狂った斧は肉を欲して飢え渇く、熱に喘ぐ金属はどうするべきか。簡単である、よく緊まった冷水を頭からざんぶと掛けてやれ。
「清影の家には、憎むべき相手など伝わっていない。私は確かに自然の怪異や異類の者を恨んではいた、だがそれは私一人が勝手に血気逸っていただけで、祖父母も両親も、誰一人として敵の事などお考えにはならなかった。それよりも、清影の家に生れたのは神々のお選びなされた結果なのだから、生家に恥じる行為は慎んで、弱き他者の為に気を配りなさい。道理を弁えない強者であれども諫めねばならない、へつらうことは同じ愚者の道を付いて歩くと同じ事、醜い汚物に成り下がるのであれば家も質素なまゝで良い、町の者から御先祖様の悪口を投げられようとも硝子片で切った皮膚ならいつかは必ず治る、治れば窓硝子を修理すれば良いだけのこと、我々は誠実と仁心だけは失ってはならない。
…自分の食べる分を私に譲ってくれたお祖母様はいつも私の頭をよしよしと撫でながらそう教え続けてくれた。けれどお前は?私は未だお前の名も知らない、今こんなにとっくみあっていると言うのに、答えろ、誰だ、お前は一体誰なんだ。」
「明星!光矢一族が末裔、光矢明星。貴様は清影莟だろう、噂に違わぬ見事な見目だな。」
「見目には普段から気を付けているから当然だ、みすぼらしくむさい態で探偵の仕事が出来るかよ、仕事の依頼は第一印象と実績で勝ち取るんだぜ、光矢明星。」
少し落着きを取り戻したのかして、明星は顔を地に自ら伏せて肩での息は徐々に上下の昂ぶりを少なくしていき、シンと静かな空間が現れる。
落ち着いたか。
とんでもない。クマムシは自身の危機を感じ取った際死を演じることが出来る。その芸当を明星は真似した、つまり大人しくなったフリをしているだけで、いつでも恐ろしい生命力を以て相手を怖がらせる準備はしてあるのだ。
「光矢明星、お前は如何して其処迄私達の一族を恨む?」
「光矢と清影は政敵であったからだ、因縁は其の時から始まっている。」
「義美さんの時からだと言いたいのか?」
「そうだ、先程も言っただろう、光矢不知火様は清影義美と共に領主に仕えていた、けれどいつも馬が合った例が無く、それで腹を煮やした不知火様が妖精を利用して義美に町を滅ぼさせた、町民からも憎まれ恨まれ嫌われた清影の家は見事落ちぶれて蔑まれた、昨日まではもてはやされていた一族なのに、掌を返されて泥水を啜る暮らしにまで落ちたんだ。そう在らねばならない、清影の血は忌わしいからな。」
興奮を抑えた這い呻く声を瞑目し耳に入れた莟は少し考えて、暫く誰も一言も発しなかった。或者は男の顔の凄味に怯えて、或者は浅間しき人への激しい侮蔑と怒りとこのような人間が今日迄生き延びている事実への諦念の為に、そして或者は相棒の家族を独り善がりに苦しめ続けた犯人への憤りの為に。しかし三人とは別に莟の内心は凪いでいた。それは、彼が此時職務を、探偵の仕事を遂行している為であった。
人は人を使わなければ悪事を果たす事は困難だ、しかし人を利用する以上必ず痕跡も証拠も残してしまう、だが不知火が義美を貶めるのに人ではなく妖精を使ったのなら?人ならざる者であれば人は本気にしない信じないから証拠はあるのに無いも同然にする事が可能だろう、けれど妖精を目にするなど人には出来ない、妖精の方から姿を明らかにしない以上人間が関わるなんざ不可能だ、それとも宮男のように妖魔に懐かれる類の人間か?佐吉の叔母は光矢明星を私達と同じ人間だと見ていた、けれど宮男の話を聞く限り、奴の所業はまるで
「妖精の力のようだ。」
明星の月が生れる直前の空の色の瞳が動きを止める。
「人間業でない、とでも言おうか。自分の生首を他人の肩に載っける悪戯なんて人間なら出来ない、せいぜいが手指や腕、脚なんかで行き止まりだ。でも人間でない、智を越えた自然や歴史をも身内に抱く妖精であれば、不可能ではない、むしろ軽々しく突き進んでしまうだろうな。彼等に行き止まると言う概念は無いのだから、正気を保ってさえいればやりたい事は何でも出来る。」
そう、正気さえあれば、の話だ。此の目の前で唸りを止めない男がくるっているかそうでないのか、一体如何やって確かめてみればよいものか。
狂人は自分を狂人だなんて思っていないし認めたがらない、つまり狂者にとっては自らの信ずる価値こそが絶対なのであろう、他者を自らの思うように振り回すこと、それを正しいと信じて信じて頑ななのが気の触れた者となる。為に優しさと遊び心を併せ持つ者は狂いやすい、尤も狂人に辿り着く初手から碌でも無い性分の者は多々いるので全ての狂者が優しい心を生れ持っていると一括りにするのは良くない、だが最も身近な例で言えば妖精クヰル・生娘カヲリが相応しい。彼女は他者を思う心を抱き乍ら同時に義美につれない態度を取ってみせたりと正直だけで行動する性格ではなかった。若しあの娘がずっと正直で居続けられたら?妖精として人間の家に贈られる事を拒めたかもしれない、妖精の国でクヰルとして空の下生きて行く道を選べたかもしれない。だがイフの話は其れ迄だ。彼女が人間側に来なければ他の妖精が交換されに連れられたろう、そしてきっとクヰルの辿ったあらすじを言葉違えず進めて行くのである、クヰルが幸せになる物語であればクヰル以外の誰かが悲しむだけであり、辻褄は遅かれ早かれぴたりと合うのが第一条件。此の世界では誰かが狂わなければ時計は正しく回らない。針を動かすのは確かに人ならざる者達であるが、針となるのもまた人ならざる者達なのである。人間に過酷な仕打ちを与えると同時に、与えた側もまた過酷な仕打ちを受けるのだ。
三十二
「莟さん、私の言葉をお疑いであるのは百も承知でございます、私は人間とは違います、平気で嘘をつく者だって仲間内には少なからず居りますが、それを言い訳には致しません、身内の不出来で自らを正当とするのは我々にとって恥ずべき行いですから。ですが、先刻申しました此の男が人間であると言う判断は、決して嘘ではございませんものを。」
「いや、コヰルさん…と仰有いましたね、コヰルさん、貴女を疑っているのではありません、私が申した結論は、貴女への不信から生じたものでは断じて無いのです。」
「では何故此奴が妖精だなどと?」
「光矢明星は確かに我々と同じ構造をしている人間で間違いないでしょう、実際妖精の顔立ちにしては少し峻峭な相が目立ちます、けれどもね、コヰルさん、よくお聞き、彼はきっと自分でも意識しないうちに妖精の力を操っているらしいのですよ。」
明星は未だに一言も発しない。
「私達の前で伸びていた時は気を失っていましたので、妖精の術を使う使わない以前の問題だったのでしょう、その為に普通の人間のように見えたとしても無理はありません。」
「でも莟、無意識に力を使うなんて、そんな芸当出来るのか?」
「いいえ宮男さん、私達の力は意識を傾けてからでないと扱えません。私達のような存在にとっては強い感情を保ち続けるのは容易に出来る技ではありません。」
「妖精は執着心が無いから、ですね。こだわりを持つのが難しいのでしょう。」
「えゝ、それは人でなければ……」
自分の姉を思い出した。姉さんは、確か
「…自分が人なのか妖精なのか判別出来ない。妖精でないが人間だとも言い切れない、人と関わって交わってしまったが為に、半端に人間の要素が混ざった。だが人間とは雑草なみの自我と執着を持つ生命だ、それゆえ例え雫一滴であろうとも二つの意識は根強く残る。…一度取り払い乗り越えたように見えても、それは息を潜めているばかりに過ぎない、人の要素が死ぬことはない……」
莟が其処迄言うと宮男も流石に分かったのか、目を何度もしばたきながら明星と莟の顔を交互に見る。
「まさか、莟おまえ…此奴の一族は妖精だって言いたいのか?」
「今でも人間に紛れて生きているのを鑑みると、どうやら佐吉の母君に似て妖精のはぐれ者らしいがな。向う側に帰られないのだろう。」
「えゝ!でも此奴は人間だってコヰルさんが言ってたのは正しいって。」
「明星は純粋な妖精ではないのだ。人に限り無く近しくなった妖精と言うべきか。始祖は妖精だったとしても、途中で人と交わったのだろう、其処からだんだん妖精の血は薄くなり、彼の代にはもう一欠片残っている程度。その力が彼の人として抱く強い感情に反応して無意識下での術を発露させたんだ、それが、自分の生首を宮男にだけ見せること。その感情が誰に向けられたどのようなものかまでは分らないが…」
…滔々と喋っておいて原因は分らず終いか。
明星も含めたその場に居る五人は目を見張った。明星の口から女児のような静かな声が発せられていたから。
「貴様を臆病者と罵ることはしない、身内の事情など他者に話すのは難しかろう。」
口を開け閉めするも唇の動きと声が全く一致していない、どうやら今明星は自らの声を思い通りに発せられる事を女子の声によって妨げられているらしい。
「探偵。其処の若い男。貴様は随分と図々しい性格だな、物事を何でも解明し白日に晒すのが常に最良の手段だと思い上がってはいやしないか?よく人間はそのようなつけ上がりを信念と呼んで美化せしめているが、貴様の探偵としての誇りだの責務などは思い上がりだ、たゞの。それなのに何故其の役から離れない?」
「貴女がどなたかは存じませぬが、私は罵倒されても此の職から離れようとは思いもしません。何故と訊かれゝば理由を申しますが、それは少し幼稚なものであるかもしれません。貴女がお笑いなさるもなさらぬも御自由、私も問われて素直に返さぬは愚なり恥入る恥じ入る行いをするのは耐えられない、ゆえに今、肚を決めて申し上げます、それは、母の勧めによるものだからです。」
きっかけは菫屋の大旦那さん。夕陽の中の大旦那を見掛けたあの時から垂れていた鼻水をぼろの袂でぐいとごしごし拭ってから図書館中の本を読みに読む日々、学習と相性の良かった莟は今日覚えた事知った事を家族で冷たい麦飯を囲む夕餉の時間に話すのが習慣になっていた。あれこれと言葉を尽して今知る限りの話をすれば祖父母も両親もにこやかに相槌を打ちつつも驚き感心し納得しまた驚く、ころころと表情が楽しい声の内に変わって行くのが莟少年の一番の幸せであった。寒さ厳しくも空気清澄に満ち月の冴えて光が樹上の巣で眠る小鳥の翼を撫でる夜、寝ぼけ眼をとろりと甘えた母の膝で、莟は母の額への接吻の後声を聴いた。
“莟は探偵になれるかもしれないね。とっても賢くてかっこいい正義の探偵さんに。”
後頭部を撫でられる温もりは心地良く、少年を少しずつ夢の雲へ連れて行く。
「僕かっこいい探偵になります母様。だからも少しだけ頭を撫でて、ぎゅっとしてよ……」
「その日以来探偵になることを決意した。だから私は探偵となり、母上が夢に見た賢くてかっこいい正義の探偵さんに相応しくなれるように日毎活動している訳ですよ。」
「…包み隠さず話しおって。しかも遊び心も無い素直な言い回しばかり、普段の貴様らしくもないが…まあ良いだろう。私は鬼ではない、今私の主人を呼んで来るから一寸待っていなさい。」
主?また新しい人が此処に来るのか?と一同顔を見合わせば、今度は前の女性とは違う女性の声がし、彼等に挨拶をした。
「蒼菜有難う、でももう少し優しくなさいな。……お初にお目に掛かります、散々驚かせて御免なさい、疲れさせてしまったわね。あの、どうぞお掛けになって、地面ですが座っても身体は冷えませんから、何よりも先づ、気楽に。明星の坊や、悪いけれど少し貴方の身体をもう少しだけ借りますよ。」
明星を可愛い幼子扱いするは何者か。
「改めまして、こんにちは。私は光矢不知火の妻、白菊と申す女です。本日は貴方方に知っていてほしい事があります。」
何故嘗ての人間であった娘が宮の室に声を届けているのか、此の怪奇を確かめるのはさて置き、五人の興味は白菊の語る知っておいてほしい事、に惹かれている。
「白菊さん、それは一体…?」
「何故光矢不知火が人間である私を娶ったのか、その理由…経緯です。」
三十三
物語と言うのは幾層にも霧の羽が重ねられているものである。一つの事を語ればまた一つを語り、翼は何枚も何枚も翳しあってはやがて血の通う葉脈からは枝が伸び莟を吹いて花へ囀り種へと芽吹く、幹と根を有さず次々と生命を息づかせていくもの、それが物語の性質であり、その中では誰もが等しく動かなければならない、その汗は清い雨露と変化し海の一粒にもなれば真珠の玉にもなり大鴉の黒曜の瞳ともなり空に光る雫にもなる、煌めく影が葉脈に水分を与えまた霧の羽は重なり合う。
物語と一日中身を寄せ合う娘は本を読み終えた時いつもがっかりしていた。
「如何して物語は終ってしまうのかしら。終らない物語は此の世界に無いのでしょうか。」
言ってもどうにもならぬ呟きを、夢見る乙女の色とは到底思えぬ深く淀んだ躑躅の瞳で今日も言う。
「如何して終わらせたがるのかな、楽しい事を。」
外に出掛けて遊ぶ同い年の町娘達は楽しそうに笑っている。その楽しみを何故ずっと続けていられないのだろう。
「自由に動けるのに。」
たった一言の不満と同時に扉を叩く音が三回鳴った。
「どなた。」
お父様かお母様だったらと思い、布団で半身起こしていたのを潜り込ませ、ずっと伏せていたかのような姿勢を取ってから返事をする。
「光矢不知火です、お嬢様。」
血の気が引く。まだ、いいや、お父様かお母様が良かった、それでなくとも他の人なら誰でも良かった、此の男でないのなら。
「どうぞ。」
今直ぐにでも義美殿を呼びたいけれど、恐ろしさのあまり人を呼ぶ、助けを求める声も出せやしない。具合が良くない体を取り繕って早々に下がってもらおうか。
扉がギイと鳴る音を背中で受ける、冷汗は額から胸から噴き出して、冷たくなった指先で白くシイツを握る。
「白菊様、お加減のほどは…」
「良くありません。折角来て下さったところ申し訳無いけれど、一人にしていてほしいの。」
「…左様ですか。では私はこれにて……」
足音が背中から去って行く毎に息を少しずつ吐いて、吸って、この動搖がばれてしまわないように、静かに静かに息をする。やがて扉が閉まり、寝たまま振り返ると、誰も居ない。上体を起こしほうと胸を撫でおろした時、はずみで額に載せていた氷嚢がするりと髪を滑って膝元に落ちる、その口元に、紙が一切れ添えられていた。
―今度十六夜の月の刻、町を歩きたくありませんか。―
領主や清影の筆は達者であり時に読む人を選ぶ事態も多々あったと母から白菊はお茶話で聞いた事がある、相手に伝える文を読めない文字で書くなんて可笑しいですね、と笑いあったのを憶えている。いつも見慣れた字、けれど紙片にある言葉少なな文言は知る字のいづれでもない、この字はまさか…
いや、いや、そんな筈は無い、城の内部情報は幾らか得る術はある、父上の部下や母上の部下、女中にだって私の内緒の約束は通じる。私の気を紛らす為と頼んだら彼女達は力になってくれるから。だからこそ不知火のような冷血な悪漢はこのような誘いの文句を言おう筈が無い奴がこんな筆跡をするなんて考え難い。それとも私を誘き寄せて何か企んでいるのかも知れぬ、魂胆を隠す為の筆使いであれば辻褄は合う。
信用してはならないが、放っておくこともしてはならない、何とおぞましい計画の一端でろうあの男、外に出たいなんて、私の願いを悪事にまで利用するなんてとんだ恥晒し、今すぐ義美に殴ってもらいたいけれど、姫の身でありながら城内を搖るがすなんて許されない、領主の娘は両親を最良の手本として育たなければならない、そして両親のように賢く聡明でなければならない、いつか良妻賢母となる日々に備えて振る舞いを弁えていなければならない。それが城下町を守る事に繋がるから、私達に仕える民の為に。
だから、此の申し出は受けなくてはならない。放っておくとどんな悪行を城内にばら撒くか分らない。狙いが推測出来ないから怖いけれど、彼を放っておくわけにはいかない。
光矢不知火が御令嬢の白菊の町歩きに付き添うなどと日の下で義美が知れば黙ってはいまい。二人は月に数度、白菊を見舞う番が廻って来る時機を利用し小さな手紙のやり取りを始めた。
―いいでしょう、十六夜の月の日を楽しみにしております。―
―お気に入りましたようで安心致しました。―
ふん、何が安心だ。貴殿の悪評は聞き飽きた程に聞いて来たぞ、一計を案じているのであれば、私が其悪事を暴いてやる。気弱な娘はすっかり胸の内熱く滾って来る日を待った。
当日、空は高く夜澄んで、恥じらふ月は片頬を雲の隙間から微かに見せて雪の光は一筋落つる瀧の如く、また蜘蛛の細糸の雫するが如く、人いきれの風で掃かれて静まる町の道に流れていた。冬のそろそろ始まろうかと言う季節、やがて来る寒さに負けじと昼中は人の意気込や熱気でにぎわう町は、人が帰ってしまえば呆気無い程色の寂しさに面を伏せて項を垂れて口を閉ざす、その哀しい唇に潤む月影は二つの人物を浮びあがらせる。
「白菊様。」
女を呼ぶ声の持ち主は光矢不知火に他ならず、呼ばれた方は無言のまゝ前に伸ばされた男の手を取る格好は紳士が淑女をエスコートする類のものであるにも関わらず白菊の胸は躍らない。彼女としてはこれより贄に連れて行かれるような心持ちだ、自分はこれからどんな酷い目を見るのかと、逃げたい思いは僅かに残れども両親と町民を想えば、想えば、自分だけが憂き目を見るのであればそれで良いと固く信じる念が白菊自身の悲鳴をせき止めていた。
暫く双方声も無く人の居らぬ道をしずしずと歩いたが、
「あゝ、見てごらんなさい姫様。」
見ろと言う声に従い地面に下げていた視線を上げた、すると
まだ氷柱の筏から散らさぬ雪片を撒くのは未だもう少し、人がも少し熱気に飽いて体温に倦んだ時と秘かに待つ一輪の花、恵まれた全ての上白糖を固めずさらさらと形作った円球の花びらは太古に陽光の連鎖から外された水の楽園冥王星の氷下の海に焦がれて真似した此の花は。
「雪の誉れと呼ばれる菊の仲間です、此れは満月を過ぎないと首をもたげないので、世間一般では知られない存在なのですって。……菊を愛づるは満月の時だけだから。」
行き来が無いのは両端に在る藪枯らしを見れば分る、何が生きても何が死んでも頓着されない路地であることは。だが此の白い菊花は其処に咲きたがった、此処が己を光らせるに十分な土地でないことを知ってか知らぬかは花に直接問わねば真意は定められぬにしても、どういった因果か雪の誉れは町の路地に佇んだのである。これから如何動けば良いのか計りかねているような表情で辺りをきょとんと見渡すかのように風で首が搖れている、冬をまだ迎える準備の出来ていない町角に誰にも内緒で冬を抱きしめた痩せ地が十六夜の青い光に一人きりで照らされていた。この景色を見つめながら白菊の花の説明をする不知火の声の響きは平常みたく他者に有無を言わせぬ自信と気迫に満ちたものではなかったのは彼を恐がる娘にとっては実に意外であったろう。声も瞳も眼差しも急にひどくか弱くなって置き去りにされた落し物のように力無く居続ける姿、もう何年も何十年も何百年も標を待ち続けたような姿…
「貴方は誰?」
娘は男に恐怖から尋ねたのではない、疑問から起こったのでもない。彼に彼自身が何者であるのかを分らせてあげたくて、口を突いたのである。
「誰なんでしょうね。」
一度そう言ってしまうと、彼は口を閉じて白菊を見た。
花を見たのか娘を見たのか何方にしろその日令嬢は初めて恋を知ったのだった。
「お父上には極く内密に。それから清影にも無論ですよ。何、いっそのこと暴露したってされたって構いませんがね、然るべき時に私からお父上に申し上げますよ、娘さんを夜分連れ出した事実はね。」
「けれど、わたしの方から貴方の誘いに応じたのに、まるで貴方ばかりが悪人のようで、納得がいかないのよ。」
「招くのがそもそも悪い事なのですから、私は悪人ですよ。」
いつものような微笑みを残して部屋から立ち去った不知火を思う。
「自分が悪人になれば政は上手く回ると信じて悪役になりきっているのかしら。」
寒さ初め外へ出た反動で軽い咳が頻繁に出る、少しの息苦しさの間にも白菊のあたまはくるぐると忙しい。父の傍で働く者達は自己犠牲が過ぎる、父が悪いとは言わないけれど領主に仕える者達は誰でもそうなってしまうのかしら。不知火殿は主人の言葉には絶対服従だし諫言だって発した事は無いと聞く。正反対なのは清影殿の方で、彼は正道を説き道理を説き人として恥じぬ御決断をとよく父に話している。
その時、父はどのような顔をしているのだろう。気になった。領主は簾の内側に座すから隔てた相手には表情が分らない、今度お供の人に訊いてみようか、本に飽きたからまた城内の様子を話してほしいとねだってみれば聞かせてくれるでしょうか。
うーんと一人考えた後、たった今自分が感じた疑問は意味の無い問いだと白菊は思い直した、いくら諫言を申すからとて彼は清影義美、父も母も民も厚い信頼を置く人物、時にはムッとする事があっても邪魔物だなんて思わないに決まっている、今は清影殿よりも不知火殿の方が気掛かりだわ。
「折角望みを一つ叶えてくれたのに、バレたら全て彼の責任になってしまうなんて…私は。」
硝子のコップに無造作に活けた雪の誉れも、民からの献上品として扱われた、不知火がそう図ったのなんて知れている。
「貴方は本当に悪者になりたいの?」
いつもの彼の微笑みを思い出す。人は残らず戦慄を覚え白菊も以前は彼等と寸分違わぬ反応をしていたのが急に恥かしく情け無くなって良心が自分を責め立てた。異国のサアカスショーの物語が思い出される、その中には熟練のピエロが居て、本当は泣き虫な性格なのに仮面で飾れば一滴も悲苦を零さないんだったっけ。貴方もそうなの?何を考えて、何がしてみたいの?如何して城に仕えるようになったの?ご飯は何が好きで嫌いなの?本を読んでも目で文字をなぞるだけ、頭に入って来なくなっていく、訊きたい事が蒲公英の綿毛のように膨れてぱちぱちと心に散る、種子が開いて若葉が伸びて莟を知ってまた咲いてしまう、そしてまた膨れて膨れて今度は胸の違う所に散って行く、もう次の芽が割けない内に白菊は急いで文をしたためた。また十六夜の月の刻連れ出してほしいと乞い願う、なんとも美しく乱れた筆跡。
歩いてはまた喘息の軽度な発作が出ては大事と、不知火は流れる手つきで白菊を横抱きにするが、彼女は頬を染めるだけで抵抗も文句も抱かなかった。
「またお部屋が嫌になりましたか?」
不知火とてこんなに必死な令嬢を見たのは初めてで、また何故自分を誘ったのかも分らない。長引く反抗期は出来れば他の女中に任せた方が適任なのだが…
「雪の誉れはお部屋に活けましたか?そうすれば何時でもあの花を眺められますからね、退屈されることも無いでしょう。」
「光矢不知火、貴方のことを教えてほしいのです。」
「私を知ったとて御不快な思いをするだけですよ。
「貴方は、誰なのです?」
「嫌われ者の部下ですよ、下ッ端ではありませんが、それなりの地位に就いている。」
「何故?」
「何故とは?」
「何故貴方は城へ来たの。」
「……知識の広さと深さを買われたからですよ。」
「断る事も出来た筈。」
「学者の世界に飽きていたんでしょうね、誰も彼も自分より劣る者ばかりでやってられなくなったのかも。」
「学者は人がなるものよ。此処は人の世界だから。」
「…何が仰有りたいのです?……」
「雪の誉れは、此の世の花ではないでしょう。」
沈黙は、朱鷺に然矣を意味する・
「あれは、随分前に童話で読んだ妖精の国に咲く花です、まさか実現するものとは思わなかったけれど、あの花が、人の世界に自生する筈が無い、空想の中の花だもの。でも、若し、空想とされた世界が本当に在って、其処から摘んで来たのなら。それは、貴方がしたことなの?貴方は……妖精、の仲間なの?」
その時月が雲の流れに覆われて、町中はすぽりと真ッ暗になった・
「そうだとしたらどうします?」
雲はぶ厚く濃く長く、切れ目の隙もありはしない。表情が見えない闇の中で抑揚の無い声が低く耳元に囁く。
「人を知りたくて来たんです。私達の最初のひとは人間を深く憎んでいましてね、彼等への復讐をする為に光矢を名告ったそうですよ。一思いに絶滅でもさせてやれば良かったのにそうしなかったのは取り残される哀しみを二度と味わいたくなかったのでしょうね。始祖に其処迄追い込ませられる人間とはどのような生物なのか。私は素直に知りたくなったのです、常に冷静で正しい判断を下し続ける存在であらねばならない妖精を狂わせるものが一体何なのかを。」
脅しの気があるのであれば自分は今もう生きてはいないだろう、人とも獣との種類の違う圧迫感はこれ以上踏み入らないでほしいと私に伝えているのだろう。白菊は総身の血管と言う血管全てに氷の牙を押し当てられている冷気に一度身体をふるりと震わせたが、自分を抱える男の腕を突っぱねる真似はせず、虚弱の宿世に魅入られてしまった薄い皮膚白く体温の低い細い指を不知火の米神に当てて温かい掌で頬を包んだ。雲が千切れて
「ならば私がその材料になりましょう。」
月が射す。目に見える大きな悲鳴は町の何處にも聞えずに、空には傷口に触れられた奥歯嚙みしめる声無き呻きが遠く風に吹かれて小さく遙かに消える溶けてゆくのを認めるばかり。男を見つめる女の瞳に涙を注ぐ男の瞳、寄せあう顔に触れ合う唇、決して他人から祝されない世界で二人だけの恋人達は黙契も泉に身を浸す。
三十四
清影義美が消息を絶ってから領主の顔色は悪くなる一方だったが娘が長子を無事出産したのを見届けてからは妻と共に心は回復に向っていた。両親の元気は子の元気、白菊は城に思い残すこと無く不知火と共に町の郊外へ引越した。
一人使用人を連れて来ると言った夫が実家から伴ったのは若い女性であった。
「彼女は光矢の家に仕え続けてくれている妖精だ。名前は蒼菜、こう見えてもかなりの齢だよ。」
「旦那様、余計な一言は仰有らずとも良いのですよ。」
主人に臆せずキッパリと物言う態度、身分差はあくまで見せかけに過ぎぬと言いたげなのが声の調子からも伝わって来るのが可笑しいが
「初めまして、これから宜しくね蒼菜さん。」
「はい、奥さま。」
白菊には甘えた仔猫みたいにコロッと懐くのがまた可笑しくって、愛らしい。
蒼菜は光矢の始まりとなった者をよく知っていたと言う。
「彼女に妖精としての名前は無かったのです。奥さま達が歩く地面にいちいち名を付けないのと同じ、全てが名前を与えられる運命にある訳ではありません。それだけに一層彼女は誰かの為になれた事を嬉しく感じたのだと思います、ですがその深さが仇となってしまった、それだけのことなんです。自分は彼女の傍に生えていた雑草でした。」
人は花が咲けば目を向けるも、一緒に雑草が咲いていたって草には一向見向きもしない。だが蒼菜は自分が人に無視され嫌われるからと言う理由のみで人を嫌うのではないらしい。
「人は嫌いです。ですがそれは雑草を人が厭うからだけではありません。わたくしは、美化と言う習性を持つから人間が嫌いなのです。勿論ね、全ての妖精が人間嫌いではありません、むしろわたくしのような考えの者は極めて少ない、他の妖精は人を好いています、ですが好いていながらも時には無情の判断を下すのです、彼等が其の時どれ程心を痛めて悲しい涙を零すか御存知ですか、そうとも知らず、まあ知る術も無いのですけれど、人は自分達を被害者と美化して此方側を悪しきものどもと団結するでしょう。自らの手に負えない存在を災いと呼んでその時ばかりは自分達は矮小な存在だ何てちっぽけなんだとかしこまる…何です普段我が物顔で地球を闊歩しているくせして。
それからもう一つ憎いのは、自分の思い通りになれなかった事までをもまるで苦くも美しい経験だとして綺麗に済ませてしまう所ですよ。人は死をどうこう出来ません、それは今までもこれからもそうあるべき不動の事実ではありますが、それならば悔しいと醜く歯噛みをしてしまえば良いものを、この死を無駄にしてはならないとか、この死にも必ず意味がある筈だと美化している、正気に悲しみを打ち撒けないで如何して彼等は綺麗な言葉で落ち着こうとするのです?」
初代の花の物語を白菊は夫から彼の知る限り全てを話してもらっていた。花の命を人の命として例えるのは好きなのに、花の命をその心を人の命人の心へと当てはめて考えなかった嘗て愛した人間達。彼等へその憎しみと自身への苛立ちは花弁を滑る白露一粒にはなったであろうが人は花の白露を愛でるのだ、悔し涙を憤怒の涙を寂しい涙を、空に散ると美しい宝玉になるなどと言って、まるで方向の違う捉え方をする、身勝手な奴原。花の傍に居たのであれば、花の表せぬ感情は余さず蒼菜にも伝わったろう。この肌の青白く不健康な透明さに覆われて人の姿と化した雑草は自らが蔑ろにされた事より友が蔑ろにされた事が許せず此処迄憤るのである。人間間にある情が、何故草花には無いと言い切れる?
「ですが、不知火様を愛してくださる奥さまは大好きです!奥さま、わたくしアフタヌーンティーを誰かとするのが夢だったのです、なので、澤山お茶会しましょうね。わたくし美味しいスコーンを毎日作って待っていますから!」
「おい蒼菜、妻に懐いてくれるのは大いに結構、素晴らしい事だが、夫婦の時間を横取りするのは止さないか。」
「では三人でお茶会をする時間は空けておくようにしましょう。それなら不知火さんとも蒼菜さんともお茶会が出来ますよ、如何?」
白菊の素直な提案は
(妻と二人きりになりたいのに)
(奥さまと女子会がしたいのに)
結局
(でもまあ、妥協してあげなければ蒼菜が・旦那様が可哀相だから…)
「良い提案だ、白菊。」
「奥様の仰有る通りに。」
人嫌いな者は一度懐いた者にはとてもよく甘えて甘えられたがる特徴を持っている。白菊をかけがえ無い存在として想い続ける不知火と蒼菜はしょっちゅう白菊の取り合いをして彼女に困った微笑みをさせたものだが、三人は人並みの幸せに包まれていた。子宝にも恵まれ、不知火が勤めに出ている間寂しくないようにと長子の後九人もの子をもうけたと両親の耳に入った時、驚きと喜びで領主夫妻は十年も若返ったように瞳は輝き頬は牡丹の潤みに染まり口元からは気苦労の皺がすうと引いていく。心の中で清影義美とその家族に謝罪せぬ日は無かったけれど、此時ばかりは贖罪の枷を忘れていた。常に重荷を背負い続けることは人には到底為せる所業ではなく、それを果せた者は天晴英雄よと讃えられる場合もあるが、生憎城下町をしろしめす領主は英雄の器ではなかったらしい。喜びに人は弱いのである。
敵を憎むな、恨むなと教え続けられて来た清影義美以降の者達に光矢は感謝すべきだと世間は糾弾するかもしれない、お前達が幸せになった土台には清影義美の死と奥方の不遇があるのだからと、人の幸せは誰かの不幸の上に成り立つ構図に馴染みのある世間はそう言いたがるに違いない。
果してそうか?
妖精を裏切った人間と人に裏切られた妖精から起きた者達が一つのわだかまりも無く肩を組み合えるとでも?
三十五
白菊の物語を聞き終えた莟、宮男、コヰル、佐吉、そして明星は一言も物を言うことが出来なかった。その心中を察してか蒼菜の声がする。
「事実は小説よりも奇なり、と言うのは人間達の行いの所為だ。褒められないような裏切りを子供の夢だから仕方無いと良いように切なく盛って、喜ばれるべき小さな幸せを犠牲の上に立った悪しきものとして責め立てる。美しいものを美しいままで置いておかずに忌むべきものを美化して輝かせる、それが貴様等の愛して止まない人情だ、事実人情は醜悪だったろう。」
光矢不知火も明星も、人間を許せなかったのだ。口に出さずとも胸に掲げずとも刻々と降り積もるかなしい氷は涙に緩み雪にほつれ白く燃える無念の花を咲かせ続けた。許すことなど過去も未来も叶わない、光矢が清影を強く憎み怖れるは偏に遠い物語の為であったのだ。
「私は不知火様と住んで二年程経った時、光矢の花のお話を聴きました。何故不知火様が義美殿をあゝまで憎んでいたのか其時ようやく理由を知ったのです。」
でも、と白菊の声は続ける。
「だからと言って、光矢が清影家にした事は認められない行為、不知火は妖精でも私は人です、人の道に背く蛮行を夫愛しさに看過するなど以ての外、せめて後に生れる子供には道義を見失わないでいてほしい、その悲願は私の祈りでありましたが、不知火も見まいとしている心の奥底ではそう祈っていたのです、決してそれを認めた例はありませんでしたが…私は妻です、夫の涙の願いを聞き取れないで如何して妻と名告れましょう。」
迷いの無い月光の凛と澄む声は、祠の内に静かに、されど正しい威を込めて谺した。
「ですから、どうか宮男さん。貴方は莟さんの傍に居てあげてね。そして私の子孫が貴方にした過ちは必ず償わせます、コヰルさんも佐吉さんも、怖い思いをさせてしまったこと、私からもお詫び致します。」
「何を、気弱なことを、不知火様の奥方ともあろう人が何を此奴等に詫びることなどあります。俺は、一族を残す為に、」
「黙りなさい坊や。」
ぴしゃりと窘める言葉数は少なかれど観音の怒りは穏やかに相手の口を噤ませる。
「…奥様。如何してこうなってしまったのでしょうね。」
もう一つの声、蒼菜の声がぽそりと呟く。
「もう明星坊やの代になると奥様の想いも旦那様の祈りも届いていません、この子達には伝わっていないのです。清影を憎む心だけが残されてしまったなんて……。」
蒼菜は光矢の先祖を知っているだけあって、結局憎しみで続いてしまった主人の一族の歩みも変えられない結末だったのかと気を落す。
「いえ、お二方、諦めてはなりません、どうか、気を落さないで。」
明朗と響いたのは莟の声だった。彼は声のする天井を一心に見つめている、外はもう月が射すのか所々崩れた上からは柔らかくもなめらかな羽毛の光が散り、散り、とその翆玉に呼び掛けるように映り込む。
「気休めを言ってくれなくても良いのだぞ探偵。そもそもわたくし達のような有り得ざる存在、貴様みたいな思考の持ち主には受け容れ難い話であろう。」
「否、貴女、蒼菜さん。私の唯一無二の相棒の父親は事実妖精に育てられました。そのお蔭で宮男は生を受ける事が出来たのです。自分も以前は神秘を憎んでおりました、人を恨む真似はしなくても妖魔を嫌い神秘を厭い、いつか此の手で奴等の鼻に刀を一振りザクリと一矢報いてやる…家族からの教えをきちんと理解しきれなかった馬鹿な子供の駄々です。しかし、私にその憎しみを、怒りを捨てさせ正道へと手を引いてくれたのは、他でも無い宮男だったのです、私の事務所でのコヰルさんへの狼藉を止めてくれたのは彼なのです。他から見れば何気無い仲裁役だと見えたでしょう、ですがあの時私は、救われたのです。女性に無体を働く、男として最も卑しく醜く侮蔑されるべき行いをせずに済んだのだから、町の人達には勿論のことご先祖にも祖父母にも父にも何より母にも顔向け出来なくなってしまう身になるのを止めてくれえたのです。そんな彼のルーツを如何して私が厭えます?」
「莟さん、貴方のお言葉はとても嬉しい。妖精達を大切に想ってくれているのは本当に嬉しいの、私にとって妖精とは愛する者達であるから…でも、ですがね、貴方に光矢の呪縛が解けて?その呪縛も光矢の自業自得のようなものですけれど、貴方に彼等の…明星、この子に集められた憎しみの緒がほどけますか。」
「白菊さん。」
今度は宮男が話す番だった。彼は莟と顔を見合わせて一度深く頷くと、パッと笑顔明るく言葉を返す。
「此の男をまだ軽くみていますよ、こいつはね、一度やると決めたら誰に反対されても為し遂げる頑固者です。それに、人の悩むのを放ってはおけない熱い野郎です、なんてったって此の町、否此の国一番の探偵ですから。貴女の心配事を、どうしたって解決させたがる、そういう奴なんですよ清影莟と言う男は。莟が諦めるなと言ったのであればどうか希望を抱き続けてやって下さい、どうか彼を信じて任せてくれはしませんか。」
友が友を千尋に信ずる磨かれて傷一つ無い真珠の丸く眩く輝くに当てられてコヰルと佐吉も宮男に続いた、尤も彼女達も莟を信じる事宮男には劣れども其処等の町民よりかは遙かに強かったのである。
「白菊さん、私からも頼みます。蒼菜さん、私は貴女と同じ世界に生きていた者、どうか同類の頼みと聞き入れてはくれますまいか。」
「莟先生はすごいお人です、それに若旦那は実直なお方です。お二人の言葉が嘘に終るころはきっとありません。」
次々と投げ掛けられる信頼の言葉達に、白菊はふっと緊張と責務の糸を緩める、その隙を明星は見逃さなかった。自由に口が利けるようになったと感じ取るやいなや、男は大声でこう放ったのである。
「綺麗ごととご都合主義を朗々と語る恥かしさ!貴様等どいつもこいつも恥を知れ。何が私に任せてくれだ、彼に任せてくれ彼なら大丈夫?すごい人?笑わせる!清影莟、俺から如何やって憎しみを奪う?宮男のように手なづけるか?それともお得意の喧嘩で言う事を聞かせるか?あゝ、貴様等一族は冷酷で残忍な一面を秘していることも教わったから、酷いやり方で服従させてみるか?どれを取ったとしても俺はお前に懐柔などされない、仲良しこよしなんざ反吐が出る、分り合えない者同士を接触させたところで融和など有り得ない、おのれ憎し清影一族!」
白菊が止めようとするのに息を呑んだ音に、言われ放題の莟は手を空に差し翳して制止の構えを示した。
「光矢明星、私はおまえの事を憎まないし、恨まない。相棒は殺されかけたが、今こうして生きている。生きているのなら何でもいい、だから私はおまえをもう如何しようとも思わない。だが君が私を憎みたいのであれば好きにするが良い、君が本心からそうしたがっているのならそうしたまえ。」
「なら今此処で貴様を撃ち殺しても構わないんだな?」
「望むのならそうすると良い。」
「じゃあお言葉に甘えてそうさせてもらおう。」
「そんな震える手指でどうやって銃を握る心算だ?」
仇敵の声に自らの手元へ目を落す。明星の手は今やぐっしょりと汗に濡れて雫滴るのが傍目にも見てとれる程に震えていたのである。
「まるで手が泣いているようじゃあないか。」
そんな筈は。だが何度改めて見ても手の怯えと涙は止まらない。
「何故、何故だ。俺は俺の為すべきことを理解している、お前を殺す算段は幾度も頭の中で組み立てて来た、全て納得した計画だ、それなのに、何故、どうして。」
迷子は今も他人から嫌われるであろうか?
「明星。」
否、今時迷子を忌み子とするのはもう二度と流行るまい。
「君には私に無い才能がある。そして私には君には無い才能だある。これは私達二人に限ったことじゃない、賢い君ならその摂理を分っているだろう?」
「やめろ、そんな生温い言葉聞きたくない。俺は平和なんて望んじゃいない、他人の幸せを願いはしない、恨みを抱かないなんて出来ない、清い世界など有り得ない、冷酷な無関心が一番強いんだろう、そうやって生き延びて来たじゃないか。他者に関わると碌な事は起きずに自らを損ない磨り減らすばかりだ。やがて感覚は研ぎ澄まされてしまって以前は何とも思っていなかったことにも鋭敏に反応し肉体は痛む、痛みは癒されても根絶はされないで黙って身体を侵蝕するだろう、そして起き立つ動作も出来なくなってからようやく人は気づくのだよ、“あゝ何も感じなければ幸福なのに”と。人が体感しないと得られない正答を俺が一足先に理解して行うことの何が悪い?お前のことなど知るか!興味も無い。興味の湧かんものを傍に置くのは不快だ、鳩尾がキイキイと歯を喰いしばりやがる!」
暫く一座は呆然とした。明星の吐く怒りと不満の黒い炎は乱れた語気と呼気に唾混じり熱毒を撒いた。撒いたのだが、
「それなら何故君は泣いているんだい。」
莟の問い掛けに脚色は無く諂いも含まれていなかった。
三十六
「佐吉、早くしねェかい。今日の主役はおまえだぜ。」
秋の空は最早名残を地面に敷く葉の色にのみ留めて寒気が深く風を染めて藍碧深く開けた空に小鳥がちら、と翼を凍らさぬようにと翔けている。冷気厳しい中であのように羽を動かせばあかぎれの一つや二つは免れぬであろうにと哀れに感ずるが、鳥達にはそのような思いやりは不要であって、彼等は唯飛ぶ為に飛んでいるのだから、人がどうこう不安を抱くは此の場合大いに驕慢である、人には人の世界があり鳥には鳥の世界がある、物事の何もかもを人間ものさしに嵌めるのは思い上がりも甚だしい。そして此の文句は同じ人間であっても言えるのだ。
「若旦那さん今参ります。でも、その前に一寸だけ、明星さん家の扉に蜜柑をおすそ分けしてから。」
菫屋の二軒隣、空家を隔てた光矢明星の一人住まいにコンコンとおとなしく戸を叩き、そっとその前に蜜柑の入った籠を置くと佐吉はまた奉公先へ駈け戻った。
今日は佐吉が菫屋へ丁稚に来た記念日である。大旦那夫妻と宮男は勿論のこと、従業員にお得意先、そして探偵先生までをも太ッ腹に招く盛大なお祝いの日であった。
祠に留まる道を選んだコヰルは、明星を今も案ずる白菊と蒼菜の声と共に今日も談笑している。
「コヰルさん、本当に良かったのですか?」
「あゝ白菊さん、私はもう心から納得しております。」
「けれどあの佐吉と言う子、貴方の姉君にそっくりの綺麗なお顔であらせられるのに。」
コヰルは膝にきちんと乗せた両手をじっと見つめながらも
「それは、まあ夢にでも逢いたいと願わない日はありません、似た顔の者ならば毎日でも顔を見たいのは本心ですわ。けれど佐吉はクヰルではありません、佐吉を通して姉を思い出すのは佐吉に対して彼を見ないも同然の無礼なこと、それにあの子は優しい子、私を気遣って姉の真似でもした日には私は姉には勿論両親にだって顔向け出来ない。
だから、あの子は宮男さん達の傍で生きてほしい、妖精に育てられた大旦那さんは私にとっては可愛い弟も同じこと、一緒に育って健やかに支え合ってほしいと願うのは、姉の俤を偲ぶよりも強い願いなのです。あの方達なら大丈夫。佐吉の生きる世界はあちら側です。」
図らずも妖精の住居となった祠は、主であるクヰルを喪ったら本来崩れて瓦礫になる筈だったのだが、次の主が決まれば話は別で、落魄を免れた祠の内部には妖精国の植物が常若に茂り鳥の羽を持つ蜜蜂が花から花へと花粉を運んでいる。外側は一度明星に壊されたものの、後々夜が更ける頃何者かが一人で修復作業をする音が毎日続き、今では以前よりも整えられた慎ましい見目へとなっていた。その正体が誰であるかは御推察にお任せしたい。
「蒼菜さん、今日は何のお話を教えてくださるの?」
「そうですね、今日は、妖精とされる者達が命を終えた後どうなるうのかをお聞かせ申しましょうか、ねえ奥様。」
「そうね。私は夫の天寿を全うした時に立ち会えたから一通りは知っているkれど、全ての妖精がそうなるかは分りませんもの。是非聞かせて頂戴。」
「蒼菜さんは可愛らしいカナリアみたいな声だから、直ぐ物語に引き込まれてしまうわ。」
「まあコヰルさんはお世辞が上手なこと。」
「世辞などではなくってよ、本当に小さな女の子みたいなお声だもの。」
今日も人の知らない場所で秘密の物語が紡がれる。糸は翼を編んで翼は重なりやがてその一つは空を気まゝに漂う雲になる、溢れた言葉はやがて雫となって地面を求める、そしてまた新たな芽が出て葉を伸ばして日影を生んだり虫達を招待したり、憩いの場を訪れたものは次に何を結ぶのだろう。
答えは貴方の想像力の中に。
終
「メルヘン」