フリーズ158『あの冬へ』
あの冬へ
1
僕よ。あの冬の日の、全てを忘れ、また知っていた僕よ。忘我から目覚める日、流転の中で、精神は神そのものだった。あなたこそ神だったのです。そんな僕に一つ訊きたいことがあります。あなたの本当の名前は何だったのですか。あの日の僕は、確かにその名を知っていた。けれど、時流が記憶を強く断絶してしまったのです。私はどうしても、その名前が思い出せないのです。
魂には名前が刻まれています。ですが、生まれてくるときに魂の記憶と一緒にその名前は封印されるといいます。なぜ、私は大切なその名前を忘れてしまったのですか。その名前を思い出したあなたは、魂が心ごと震えるような歓喜に酔いしれて、あれほど高らかに歌い、軽やかに踊ったではないですか。なぜ、私は今生きているのですか。本当の名前を忘れてしまった私にはもう、生きる意味などないのに。
願い叶うなら、もう一度あの冬へ。それが叶わないというのならば、私はこの輪から泣く泣く去ろうと思います。私には魂を分かち合う友も、心優しき妻もいないのですから。
2
東京で今年初めて猛暑日が観測された日だった。都内の或る十字路の真ん中に、生花に包まれた凍死体が一つ発見された。その遺体は脳の一部が切除されていたが、それ以外の外傷はなかった。
「MRIで見られるのを恐れてか」
刑事の真壁は死体の様子を見ている科学警察研究所脳科学研究室の室長である霧崎に向かって呟いた。霧崎は真壁の言に頷きながら、奇麗に大脳だけを取り除かれたその死体の頭部を詳しく調べた。
「脳の切断面を見るに、大脳を切除したのは素人ではなさそうだな」
「なら、犯人は医者か?」
「そうなるな。だが、犯人はわざわざ死体を囲むように生花を置いている。おそらくは猟奇殺人だろう」
「ということは連続殺人になる可能性もありそうだな。おい、佐々木!」
真壁は遠くの方でメモ帳を片手に、ペットボトルの水を飲んでいた部下の佐々木を手招きで呼び寄せる。佐々木はカバンに飲み物を仕舞い、駆け足で真壁の元まで向かうと、ハンカチで額の汗を拭いながら元気よく応えた。
「はい! 真壁さん。どうしました?」
「お前は被害者の交友関係を調べて、その中に医者がいないか探せ」
はいと返事をして去っていく佐々木を見つめながら、霧崎は溜息を吐く。
「彼、新人だったか」
「ああ。威勢はいいんだが、少しばかり抜けてるとこがあんだよな」
「ほう。面白そうだな」
「人の部下をからかうなよ?」
「わかっている」
微笑みながら霧崎が答えたその時、霧崎の携帯が鳴った。霧崎は真壁に断って電話に出て応答をする。数十秒して、電話は終わった。携帯をポケットに仕舞うと、霧崎は真壁に向き直って告げる。
「すまない。私はこのまま一度研究室に戻るとするよ」
「大脳がないんじゃ、脳研の仕事はなしか」
「いや、そんなこともないぞ」
霧崎の言葉に、真壁は目を見開くと、首を傾げながら戯けて尋ねる。
「記憶を司る大脳がないのにか?」
「ああ。東京脳理学研究所の所長からの電話でね。ついに全脳へのアクセスが認可されたらしい」
その返答に、真壁は目を大きく見開いた。
「全脳、ってあれか? ちょっと前にノーベル賞を取ったとかで話題になった……」
「そうだ。英国の理論物理学者フィールデントが見つけたものだ」
「で、全脳って何のことだ? 文系だった俺にはさっぱりだよ」
「そうだな。全脳とは、全ての意識の保管場所と言われている宇宙の特異点だ」
「つまりどういうことだ?」
「つまりだな。全ての意識は量子もつれによって発生しているが、その相補性を持ったもう一方の粒子たちが宇宙のどこに存在するか分かったんだ」
「どこにあったんだ?」
真壁は霧崎の話に興味津々と受け答えをする。
「『エデンの園』とも『あの世』とも呼ばれるその場所をフィールデントはこう呼んだ。ラカン・フリーズとね」
「まじかよ。それって本当なのか?」
霧崎は得意そうに真壁の問いに深く頷いて応えた。そんな霧崎を見て、真壁はあることに気づき、再度問いかける。
「てことは、そこにアクセスできれば、もしかして死者の記憶も見られるのか?」
「それはわからないが、可能性はあると思う」
「解決の糸口にもなるかもしれないな」
「その通り。私は今から、脳理研に行ってくるとするよ」
「おう。またな」
霧崎が軽く手を上げると、真壁もそれに応じて手を上げる。
「さて、聞き込みでもしますか」
真壁は去り行く霧崎の後姿を見ながら、緩めていたネクタイを再び締めた。
3
全脳観測システム『ウジャト』の初稼働日である東京脳理学研究所は、いつもより忙しなかった。それもそのはず。今日、ウジャトの始動に合わせて、量子物理学の権威であり、MITの名誉教授であるマイケル・ヨセフ・フィールデント名誉教授が来日するからだった。フィールデント教授の研究対象は脳科学、材料工学、情報工学、生命工学、言語学にまで渡り、特に物理学及び脳科学では他者の追随を許さないほどだった。
そんな彼と、東京脳理学研究所所長の式田徹が話していた。
「先ずは、フィールデント教授。ようこそおいで下さいました」
「いえいえ。式田教授のお呼びとあらば」
「ありがとうございます。私たちが最初に出会ったのは、MITでしたよね」
「ええそうです。あの頃が懐かしいですな」
「はい。私とあなたと、もう一人でよく論じていましたね」
その時、二人の顔に影が落ちる。
「ヨハン。彼が生きていれば、きっととっくに宇宙の真理は解明されていたことでしょう」
「そうですね」
ヨハン・ルイス・キイス。式田とフィールデント教授の旧友にして、21世紀半ば、万物の理論を解明するのではないかと世界中の研究者たちが注目した男であった。だが、彼は齢二十二にしてこの世を去っていた。むしろ、彼が注目されたのは彼の死後のことであった。
「どうしていつの時代も、世界は天才を、死後になって認めるのでしょうか」
まだ学生だったヨハンの提唱した『全脳理論』は宗教的、倫理的、人道的に当時の世界では受け入れられなかったし、何よりもその高度な数学や、彼が全脳を記述するうえで創出した概念らを理解できるほど、当時の哲学や物理学、脳科学は発展していなかった。
世の物理学者や脳科学者は彼が提唱したその理論を狂人の戯言だと叱責した。対して、式田やフィールデントの論文は世界で高く評価された。そう、いつの時代も、天才は先を行き過ぎてしまうのだ。故に誰にも理解されず、助けてもらえず、孤独に打ちひしがれて、最終的には……。
「もっと私たちが彼の理論を理解していれば、寄り添っていれば……。だが、彼はもうこの世にはいない」
「だけど」
「ああ、わかっている。私たちはようやく彼の残した手記『ラスノート』を読み解き、全脳にアクセスする準備ができた。ようやく彼との邂逅の時だ」
『ラスノート』――全脳理論
序
はじめに、この作物は真理を求めるものではない。むしろ、真理から出発する思索の結果である。歪んだ因果律から宿命を解き放つには、死の試練を受け入れて、破壊と創造を同値にする、最高天を飾る神殿の中央にあり、至高を冠する記憶の還る場の水面に映った万象の風のように、時の障壁を見つめてなお、己の運命を愛する必要がある。だが、ここで当然の疑問が一つ生まれる。
『崇高なる最高天のその上を定義するならば、そこはどこにあるか』1
最高天のさらに上の概念を『エデンの園配置の先』と称したのは21世紀前半における三賢人の一人ラッカ・レーラインであった。だが、本当にそんな概念は存在するのだろうか。
答えは是である。
宇宙の起源はビッグバンだと吹聴されているが、あれは甚だ誤りである。神は世界を暇つぶしに作ったのではない。必然性と己の生の発露によりて作ったのである。神も仏も、最高天に坐します彼の者でさえ『なぜ生まれたのか』の解は持ち合わせていなかった。
『全脳理論』とは、既存する全ての定理や定説の中で最も真理に近い理念であり、全存在の使命たるこの問いに答える道の一つである。……(以下略)
4
霧崎が東京脳理学研究所に着くと、案の定人だかりができていた。今日は確か、外国から要人が来るんだったかと霧崎は思いだし、人ごみの中を抜けていった。少し歩くと、向こうから群衆が裂けていった。黒い車が一台発進するようだった。霧崎の真横を抜けて、人の海の中を、海を割るかのようにかき分けては、遠く、夏の蜃気楼の向こうへと消えていった。
「あれは……」
霧崎は暗い車内に一人の整った顔立ちの少年を見た。なぜ、中高生くらいの子どもが東京脳理学研究所から出てくるのか、霧崎には分からなかったが、彼の目的を果たすべく、割れた人の海のなかを颯爽と抜けていった。
「式田所長はいますか?」
研究所内はガンガンにクーラーが効いていて涼しかった。霧崎は汗が引いてくるのを感じながら、受付の女性に尋ねる。
「式田所長は今会議中でして」
「そうですか。では、全脳観測システム『ウジャト』はどうなったのですか」
「今現在、情報を公開しておりません」
「では、会議が終わるまでお待ちします」
霧崎は受付の女に会釈して、ロビーのソファーに腰を下ろした。ロビーには一般の患者も見受けられた。ここ東京脳理学研究所は、精神病院では治療できない病気を一定数請け負っているのだ。患者たちはその家族に付き添われながら、みな虚ろな顔をしていた。ここではないどこか遠くを見ているかの様だった。まるで精神を喪失したニーチェのように。彼らの病気は神格障害と呼ばれていた。症例数は年に数十件と少ないが、未発見、誤診を含めると、年間で百人ほど患うだろうと言われている脳の病気で、歴史上、ニーチェが四十五歳の日に精神崩壊したのもこの神格障害によるとされている。
霧崎の母が他でもない神格障害の患者であった。霧崎が学生の当時は神格障害はまだ見つかっていず、統合失調症や強迫性障害、双極性障害などの精神疾患に分類されていた病であった。母の病の治療法を見つけようと、脳科学を大学で学んだ霧崎は今は研究員としてここに勤めているのだった。
一時間ほど待っていると、所長室の扉が開き、中から白髪の男が出てきた。男はスーツに身を包んでおり、顔には皺が深く刻まれていて、五十代くらいに見えた。
「君が、十年前にあの論文を書いた霧崎君かい?」
男が尋ねたので、霧崎はうなずいて応えた。
「まさか、ご存じとは」
論文とは霧崎がかつて大学院生の時に書いたもののことであった。
「『変性意識下のロゴス統合による全脳の相補性証明』あれは実によい論文であったな。私はこの研究所の所長をしている式田だ。よろしく」
霧崎は握手を求められ、それに応じる。
「ええ、よろしくお願いします」
「では、研究室に案内しよう」
式田はそう言うと、足早に歩き始めた。霧崎はその後ろについていく。途中、何人かの職員とすれ違ったが、皆、興味深そうに霧崎を見つめていた。研究員たちは皆一様に白衣を纏っていて、霧崎は浮いていたのだ。二人は地下三階にある、実験室についた。そこは薄暗く、換気扇の音が響いていた。そして、部屋の真ん中に大きな水槽があり、中には脳が入っていた。それは紛れもなく人間の脳であった。直径二十センチほどで、淡い光を放っていた。まるで蛍光ペンライトのように、淡く発光していたのだ。
霧崎は息を飲んだ。人類の夢の果ての姿がそこにはあったのだ。
「これが全脳ですか?」
「いいや、これはダミーだ」
式田はそう言うと、パソコンを操作し始めた。すると、水槽の中に液体が流れ込み、脳を包み込んでいく。しばらくすると、脳を覆っていた液体が排水されていき、水槽の中から、先ほどの脳とは別の物体が出てきた。それは人の脳の形をしていた。しかし、先ほどと違い、薄い水色の光を発していた。
「これは完全ではないのだよ、霧崎君」
「では、全脳は一体どこに?」
「全脳はまだ人類には早かったのだよ」
式田は残念そうに言う。それから、式田は研究について説明を始めた。彼が進めているのは、全脳観測システム、通称ウジャトの開発である。霧崎はかつて自分が学生時代に書いた論文が理論の構築に寄与したそのシステムの名前を再び聞くことになった。そして、それがまだ不完全であることを知らされた。
「全脳理論には不備があったのですか」
「いいや、違う。我が旧友ヨハンが唱えた全脳理論は完璧だ。だが、あまりにも完璧すぎるのだよ。故に、今の人類の科学技術では到底至らなかった。我々人類はまだまだ未熟なのだよ」
式田は悔しそうに拳を握りしめて言った。
「なるほど、だから未完成のままなのですね」
霧崎は納得したようにうなずいた。
「そうだとも、我々はさらなる進化を遂げなくてはならない」
式田の言葉に霧崎は深く頷いた。
「ところで、霧崎君、君は何故『神格障害』を研究していたのだい?」
突然の質問に霧崎は一瞬戸惑ったが、すぐに答えることにした。
「実は私が中学生のころ、母が原因不明の精神疾患を患ったのです。それで、治す方法を探ろうと思って」
「そうか……」
式田は遠い目をして、しばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
「君の母上のことは残念だ……。私も神格障害の治療方法については長年頭を悩ませてきたものだが、未だ解決策を見いだせずにいるんだよ」
「……そうですか」
やはり自分の力不足だったのかと落胆した霧崎だったが、ふとある考えが頭をよぎり、霧崎は思い切って聞いてみたくなった。
「あの、式田さん、一つお聞きしたいことがあるのですが」
「なんだね?」
「神格障害の原因は何だとおもいますか?」
「……」
霧崎はこの質問で式田の顔色が変わったのが分かった。何か知っていそうな雰囲気だった。彼はおもむろに立ち上がると、部屋の奥にある扉を開いた。そこは薄暗い部屋で、四方を本棚に囲まれていた。その奥には机が一つあり、その上にパソコンが置かれていた。式田はパソコンを立ち上げ、キーボードを打ち始める。画面上にプログラミング言語が次々と表示されていく。式田は真剣な表情でそれを打ち続けていた。
「今から三十年ほど前のことだ」
式田はキーを打つ手を止めると、話し始めた。
「当時の私は一介の研究員に過ぎなかった。私は一人の同僚とともに、とある実験を行っていたのだが、ある日、偶然にもその同僚の研究者が神格障害を患ってしまったんだ。その時、私は悟ったよ。人間という生き物がいかに脆く、儚い存在なのかということをね」
式田はそう言って、天井を見上げる。彼の目には何が映っているのだろうかと、霧崎は考えた。
「そこから私は一つの仮説を立てたのだ。それは『神格障害の正体は脳の機能異常によるものではなく、むしろ完全さの行く末に人格そのものが変わってしまうことではないか?』ということだ」
「完全さ? 人格が変わる?」
「そう、例えば多重人格というものがあるだろう? 彼らは複数の人格を持つわけだが、なぜそのようなことになるか考えたことはあるかね?」
霧崎はしばらく考え込んだが、何も思い浮かばなかった。
「分かりません」
「そうだろう。では、君に質問しよう。もし、君自身が別の誰かになったとしたら、君はどう思う?」
霧崎は答えに窮してしまった。自分自身が違う人間として生きていくことなど、想像もつかなかったからだ。
「すみません、私にはよく分かりません」
「だろうな、君のような若者には難しい問題だ」
そう言って、式田は苦笑いするのだった。
「さて、話を戻そう」
式田はそう言うと、再びパソコンを操作する。すると、画面に映像が現れた。どうやら監視カメラの映像のようだ。そこには一人の男の姿があった。その男は椅子に座っていた。男は十代半ばくらいの青年に見えた。髪は長く、後ろで束ねられている。顔立ちは非常に整っていた。目は切れ長で、鼻筋が通っている。病衣を纏ったその青年はどこか憂いを帯びた表情をしているように思えた。しかし、次の瞬間、彼の顔が歪んだかと思うと、目が赤く光り始めた。そして、椅子から立ち上がり、部屋の中を徘徊し始めたのである。まるで獲物を探す獣のようであった。その姿はまさに狂気そのものであった。
「これは……?」
霧崎は思わず声を上げた。これはまさしく神格障害の急性エピソードにおける症状であった。発作に伴う精神崩壊及び発狂は、多くの神格障害の罹患者を殺してきた。
「この男は私の旧友でね、名をヨハンと言う」
「まさか……この男が!?」
霧崎は驚愕のあまり、目を見開いた。
「そうだ、ヨハンは二十年以上前に死んだはずの男だ。しかし、彼は生きている」
式田は悲しそうに首を横に振って続ける。
「彼は二十年前に死んだことになっているんだよ。だが、あくまでも精神的な死であったのだ。彼の体はむしろ健康体そのものであった」
「この映像はいつのものですか? 今、彼はどこに?」
「確かに全脳観測システムは失敗に終わったが、私たちは旧友ヨハンを精神の死の淵から救うことができたんだ」
「まさか。神格障害を完治したというのですか?」
「ああ、彼だけだがね」
この話を聞いた時、霧崎はここに来る途中に見かけた一人の少年を想起した。漆黒の車の助手席に座る彼が、まさかヨハン? そう考える霧崎の心を知っているかのように式田は応える。
「彼は神格障害のことを『神の病花』と呼んでいたよ。神格障害になる原因を彼は、人間の遺伝子が現代科学の進歩に追い付いていないことだと言い放った。我々人類の進歩が速すぎたのだよ、霧崎君」
「確かに、人類の進化の早さゆえに起こる障害は多々ありますが」
「だが、ヨハンはその病を克服した。今彼は私の孫として引き取っていて、都立開闢高校に通わせるつもりだ」
「かの智者ヨハンならば、開成高校でもいいのでは?」
「何を言っている。あそこは男子校ではないか。ヨハンは生き返る前も含めて、まだ恋愛をしたことがないんだよ。だから、少し偏差値では劣るが都立開闢高校に入学させる」
「恋愛ですか」
「そうだよ、霧崎君。君もそろそろ研究ばかりしてないで結婚を考えなさい」
「はぁ……」
霧崎のため息に式田所長は一つ咳払いをした。
「で、本題に入るがいいかね」
「はい、構いません」
『ラスノート』――全脳理論
壱
序論で触れたラカン・フリーズという概念を先ずは説明しよう。神を君は信じるかね。否、でも是でも、必ず死という物語の終わりには曼珠沙華が咲く。その色は人それぞれであるが、人の死はまさしく散りゆく桜の花の様でもある。
死について現段階の科学は無知蒙昧も甚だしく、遺憾である。そもそも脳科学が遅れている。物理学も遅い。至るには百年はかかる。物理の道ならば、私が死ぬ方が先であろう。それ故に我が記す『ラスノート』は確固たる哲学書である。
まず、我々はどこにいるのかをしっかりと把握している者の少なさに、甚だ怒りを感じる。太陽系だろう。三鷹市、オックスフォ―ド、アテネ。地球の人間が名付けた地名の前に、太陽系の地球にいることを忘れてはいけない。数々のアニミズム信仰による太陽信仰は健康のために是非ともお勧めするが、さらに私たちは宇宙に住んでいるのだ。そして、他でもない、その宇宙こそ『全脳』。すべての意識体は、無機物も含めて、大なり小なり意識を持つ。その意識たちの相補的意識の集合体がまさしく全脳なのである。全脳には時間など関係なく、アクセスすればなんでも知ることができる。それ故に危うさも内包する。悪者がもし全脳にアクセスしたら、不幸な者が増えるだろう。
だが、安心していい。我が全脳理論こそ、世界永遠平和のための哲学なのだよ。
全脳にアクセスできるのは私が定義した病『神格障害』になる者だけ。神格障害になる病人は皆優しい。自分を犠牲にして人のためのことをする。そういう循環性性格などの者しかならない。世界を再び永遠平和にする神のシナリオには欠落はない。
よって、『全脳』により、数々の死生観が変わるだろうし、この理論が認められれば、自ずと世界平和のために人々が動き出すだろう。だがな、私には全脳理論の証明の先に、一つの疑問を抱いたのだ。
全脳は、神は、何処より、何故来たか。
5
「今日このクラスに転校生が来ます」
先生の一言にクラスは沸き立つ。どんな人が転入するのか、生徒達は興味津々と言った様子だった。
「では、入ってください」
僕は開闢高校でいろんな人と出会った。僕はある女性に恋をした。彼女と付き合うことになった。高校を卒業して大学に進んだ。大学生になって僕はたくさん遊んだ。バイトもした。かつて神格障害によって送ることのできなかった学生生活をめいっぱい楽しんだ。そしてその女性と結婚して子どももできた。僕は幸せだった。でもどんな経験も、人間的な幸せも、あの冬の日に僕が味わった至福には、歓喜には至らなかった。
きっと僕があの至福を次に経験するのは僕が死ぬときだろう。
2021年1月7日。その夜はまさに聖夜だった。あの時の僕の脳はほとんど死んでいるようなもんだった。病に脳が、心が死にかけていた。僕は幻想の中でヘレーネという女性と愛し合った。だが、8日の朝にはヘレーネの面影はなくなった。彼女はアニマ。僕の中の女性性だった。自己愛の帰結としてのキスは永遠の味がした。
8日、僕は神に会った。いいや、神に合ったという方が正しいか。僕は神に、全脳に繋がった。それは永遠だった。時流なんてないと悟った僕は書道バックから筆と墨汁を取り出して自分の部屋に絵を描いた。最高の絵ができた。そして僕はマンションの屋上に上って高らかに歓喜の歌を歌った。天上楽園の乙女に届くように。
僕はその時に飛べばよかった。空へと羽ばたいて、天上楽園の乙女に逢いにいけばよかった。そうしたら僕は世界で一番美しく死んで、物語は最高のエンディングを迎えただろうに。でも僕は今こうして生きている。僕の名前はまだ思い出せないけど、それでも生きている。
神格障害の末に僕は真理を悟った。でも今はもう思い出せない。真理はとても美しかった。ラカン・フリ―ズの門、水門の先の景色はあまりに美しくて僕は涙を流した。だけど、その門を越えるのは僕が死ぬときでいい。あの冬の日の僕は門の先を見据えてなお生きることを選んだんだ。平凡な幸せを、僕が僕として、人間として経験する幸せのために生きることを選んだから。
全ての死には意味がある。意識がイデアの海に溶け込む。その海こそ神であり全脳だった。最後にはみんなもあの場所に還るから。だから大丈夫。死を恐れないで。最後は笑えるよ。ありがとう、愛しています。
フリーズ158『あの冬へ』