青く成る

おんなじところまで落ちてきて欲しい、と思ってから随分自分が底の方にいたんだと気づく。その高低差は、たかだか貴方の落下程度では埋められるようなものではないとわかってはいるのに。願わずにはいられない。今日も通学路の後ろの方から先輩のポニーテールの先を眺めながらそんなことばかり祈ってしまう。

付き合っていた彼氏に別れを告げられた時、思っていたよりも強い衝撃に見舞われたことをよく覚えている。私なりに大切に思っていて大切にしてきたはずだったけれど、彼の目を見てなんとなくもうだめなんだろうなと思ってしまった。
「なんていうか、俺が悪いことばかりしてるみたいな気持ちになってさ。」
まず何よりも悲しかったけれど、そう相手に思わせてしまった自分の生き様に嫌気がさした。ああ、また同じことを繰り返してしまった、と思う。
青くなる、となんとなく自分の中で定義している行動がある。なんとなく不幸な顔をしていれば、勝手に周囲の人間が同じように不幸になろうとしてくれる。そうやって幾人もの人間が同じようなところまできてくれた、ように思う。私を取り残して幸せになることに気後れをさせてきたようなそんな自負があった。思い上がりだと言われてしまえばそれまでだけれど。でも幸せな気持ちよりもそんな悲しさの方が簡単に伝染してしまうのだから仕方ない。16歳にして被害者面をして生きていくことの楽さを知ってしまった私はもう元には戻れないと思う。そうしていろんな人を加害者に仕立てあげて、耐えきれなくなった相手がまた離れてゆく。そういう意味では私が一番真っ青だ。
「うん、わかった、ごめんね。」
いつ失っても仕方がないと思っていたのに、実際に別れを告げられた私はそう搾り出すのがやっとだった。自分で蒔いた種だというのに現金なものだ。

毎朝の登校を共にしていた彼氏を失い、私はひとり電車に揺られる日々を送っていた。今更気がついたことだけれど、彼は満員電車の雑踏からいつも私を守ってくれていたらしい。ひとり、電車で見知らぬ肩に押し潰されるようになってからそんなことを思う。その日もぎゅうぎゅうに押し込められた電車内で、内心舌打ちをしながら目の前のサラリーマンのスーツの模様の数を数えていた。そんな最中目の前に突如現れたポニーテール。あ。と思った。時折学校の中で見かけたことのあったその美しい横顔もまた、私と同じように満員の電車に辟易としているようだった。
電車の揺れに合わせて揺れ動くそのしっぽから何故だか目が離せなかった。そっと手を伸ばしてその毛先に触れてみたいと思った瞬間、開け放たれた電車の扉に向かって彼女が颯爽と歩き出していってしまったのでそれは叶わなかったけれど。

あのしっぽを掴み損ねたことに名残惜しさを覚えながら先輩のことを目で追いかけてしまう自分がいた。幸いなことに彼女はいつも1人であの電車に乗り込み、毎朝同じように人波に揉まれていた。あんな美しい人も、私と同じでひとりなのだ、と気がついて嬉しくなってしまった自分にまた嫌気がさす。人畜無害に生きているつもりで、こんなにも嫌なものを胸中に渦巻かせている。あなたがどんな所ににいようと、私の今いる場所がかわるわけでもなんでもないのに。

「おんなじ学校だよね?」
先輩がそんな風に話しかけてきたのは初夏の頃だった。初めて見かけた時には青いマフラーをぐるぐる巻きにしていた彼女は、気が付けば半袖のシャツに身を包んでいた。その彼女の言葉に努めて神妙な面持ちで頷きながら次の言葉を待つ。ずっと見ていたことがばれてしまったのだろうかと次の言葉に怯えていれば、そんな思惑とはかけ離れた安堵の表情で先輩は顔を綻ばせる。その顔に似合わず、想像していたよりも低くてよく通る声をしていた。
「よかった、いつも電車が同じ時間だなあと思ってたんだ。」
そう言ってから今度は申し訳なさそうに眉を寄せて小声になる。
「ね、一緒に学校行ってもいい?ちょっと、その、心細くて。」
慎重に言葉を選んでいるようだったが言わんとしていることがわかった。彼女の隣で不自然な動きをしていたサラリーマンには、こちらもずっと気がついていたからだ。けれど、気がついていながら何もできなかったこともまた事実だった。何も言わずに頷くと、彼女はこちらへと体をするりと寄せた。お互いのスカートのプリーツが触れ合う。先輩の動きに何かを察したらしいサラリーマンは次の駅につくなり人混みの中に紛れていった。
「…触られたりしてました?」
電車を降り、学校までの道すがら簡単にお互いの自己紹介を終えてからそう問いかけてみた。「うーん。」と肯定とも否定とも取れるような返答が返ってくる。
「まあ、微妙なところかな。」
諦めたような表情が返ってくる。美人には自分のようなものには預かり知らぬ苦悩とやらもあるらしい。「なるほど」と言葉を返すことしかできない。
「まあ、しょうがないよね、夏だし。」
「季節、関係あります?」
「あるよ、あるでしょ、大アリ、夏の女の子が一番かわいいからね。」
そんなこと考えたこともなかった。春も夏も秋も冬も、鏡に映るのはいつもつまらなさそうな顔をした自分だったから。でも確かに、シャツから覗く健康的な先輩の肌が何やら自分をよからぬ気持ちにさせるのもまた事実だった。まじまじと先輩の制服姿を眺め回していれば「ちょっと、見過ぎですけど」と茶化したような笑い声があがる。ずっとただなんとなく眺めていただけの相手が、こんなふうに自分と話をしているという事実がなんだかとても奇妙なことのように思えた。先輩は近くで見ると想像していたよりも背が小さくて、その溢れそうなほど大きな目以外の全てがとんでもなく小さなパーツでできていた。なるほど、これは。と思う。これはどうしたって目を引いてしまう。彼女がこんな田舎のちっぽけな街に収まらない人間であるということがよくわかった。

電車で私を見つけた彼女が顔を綻ばせてこちらに走り寄ってくる。そんな些細なことで優越感に浸ってしまえるような、私はそんな人間だった。なぜ彼女が私にここまで固執しているのか、それはわからない。けれど好都合だった。自分の価値を上げることが難しい女子高生の私にとって、手っ取り早く付加価値をつける方法。それは自分よりも価値のある人間に愛されることだったのだから。そんな風に打算的に彼女に近づいた私ではあったが、彼女の奔放さが目新しく、眩く見えたのもまた事実だった。気がつけば、振られたばかりの彼氏のことを思い出す回数はめっきりと減っていたし、時折学校の中で見かける先輩の後ろ姿にどきりとさせられたりもしていた。

「あ、いたいた。」
学校のベンチで1人座り込んでいれば、そんな声が後ろから聞こえてくるので思わず背筋が伸びる。ちなみに、先輩が毎日この通路を通りかかるのを私は知っている。その上で偶然を装うあたり、なかなかに自分も狡猾だなと思う。けれど、惹かれずにはいられない何かが彼女にはあるのだ。この人ならもしかして、青くならないかもしれない、そう思わされてしまうのだ。とてつもない速度で、引力で彼女に惹きつけられていくのがわかった。
「どうかしたんですか?」
時折校内で顔を合わせた彼女が嬉しそうに駆け寄ってきたことも一度や二度ではなかった。けれどこんな風に何かわざわざ用事を作ってくることは珍しかった。うーん、と少しだけ言いにくそうに口を動かした先輩が意を決したように口を開いた。
「今度、オーディションがあるんだけどさ、」
内緒話をするみたいに先輩がそう打ち明けてくれた時、私は思わず身震いをした。きっと、私だけがこの話をしっている、先輩の口調からそんな秘密めいた香りがしたから。愚直と呼べるくらいにいつもまっすぐな彼女にしては、煮え切らないその態度に特別感を覚えたから。
「オーディション?」
自分の人生にはおよそ縁のない言葉だったものだから、思わずオウム返しをしてしまった。先輩はあまりみたことのない、不思議な顔つきで真っ直ぐこちらを見たまま頷いた。
「1人で行くのは心細くって。」
初めて一緒に登校した時と、同じような口ぶりで先輩がそう言ってみせるので少しだけ困惑する。言葉の意味を飲み込もうとする。
「えっと、それは、女優さんとかそういう、オーディションですか?」
こくんと頷いた彼女にああ、そうか、そうだよな、と変に納得する。こんな田舎に収まりきらない女だということを自分でもちゃんと認識していたはずなのに。ようやく近づけたはずの彼女のポニーテールがまた遠ざかる。おんなじところまで行けたわけではなかった。ただ彼女が戯れに落ちてきてくれていただけ。私のいる場所なんてずっと変わっていない。ずっと足踏みをしている、底の方で。
「いいですよ、もちろん。でもこういう時って、保護者とかじゃなくていいんですか?」
「え?大丈夫じゃないかな、わたしももう18歳だし。そもそも親には何も言ってないし。」
たぶん、駄目だろうなあと思いながらも意志の強そうな瞳を見ていたら何も言えなかった。そもそも私だって、本当に保護者が必要なのかどうかもわからないのだ。「それに、」と付け加えた先輩がようやく私の方へ目を向ける。今度はきちんとその視界の中に私が映っているのがわかって安心する。
「…それに、あなたと一緒に東京に行ってみたいなあと思って。」
「…」
「行ったことある?原宿とか渋谷とか」
「…ないです。ないですし、それはまあ、光栄ですけど。」
それでも気丈にそう言ってみせるしかない。浮かび上がりたいわけでもないけれど、これ以上落ちぶれるわけにもいかない、そんな焦燥が私の中にもきちんとあったから。けれど、私にきちんと手離せるだろうか。もうすでに、どこにも行ってほしくないと思ってしまっているのに。ああでも、そういう向こうみずなところが好きだなあと思って、そこで私は初めてこの人がどうか青くなんてなりませんように、と願ってしまったのだ。

東京の夏は想像していたよりもずっと熱くて、先輩も私も目的の駅に降り立つ頃にはぐったりとした面持ちでお互いを見つめ合うしかなかった。先輩の真っ白なワンピースは地元ではいささか浮いていたけれど、東京のコンクリートだらけの景色に降り立った途端に景色に馴染んでいった。ああきっと、くるべきところに来たんだろうなと思う。熱さに顔を火照らせた先輩はそれでもとても綺麗で、それでも東京には見たこともないくらい綺麗な人がたくさんいたけれど。それでも先輩は私にとってたったひとつの美しい生き物で、もう他じゃ代わりがきかないくらい特別になっていたんだということ、こんなところまで来て気がついた。先輩がその笑顔を強張らせ、オーディション会場へと吸い込まれていくのを見送りながら私はなんとなく、もうこの人のことを好きになってしまっているのかもしれないと敗北感に似たものを胸の中に渦巻かせるしかなかった。

結論として、おそらく駄目だったのだろうなと思いながら私は隣を歩く先輩の本心を伺おうとした。そもそも保護者の同意が取れていない時点で、果たしてオーディションの選考対象になっていたのかも怪しいのだが。
「あのさ。」
「はい。」
会場を出てから「お待たせ!」以外の言葉を発すことのなかった先輩がようやく口を開いたので、私は聞き漏らすまいと思い切り体をそちらへ傾けた。その拍子に
「海。海さ、行きたくない?」
「ええ、東京まで来て…?海なんて死ぬほど地元にあるじゃないですか…」
約束していたはずの原宿も渋谷もすっ飛ばして、ここまで来ておいて海に行きたいなどと宣うこの困った人をどうするべきかと溜息をつきつつ、近くの海の名前を検索してしまっている辺り私も大概なのだけれど。

「…ね、言ったでしょ、たぶん綺麗じゃないですよって。」
ビルの間からほんの少しだけ見える海と、それに囲まれた小さな砂浜を見て、先輩がぽかんと口をあける。とりあえず一番近くの海を目指して電車を乗り継ぎやっと辿り着いた場所はおそらく想像していた海とは全く違ったのであろう。すぐに帰ると言い出すだろうと思っていれば、先輩は嘘くさい笑い声をあげてその砂浜へと走っていく。
「ちょっと!ガラスとか落ちてるかもしれないんだから!」
慌ててその背中を追いかけてみせれば、あっさりと捕まったその細い手首。不思議に思って顔を覗き込んでみれば、案の定彼女は笑ってなどいなかった。不安げな目が私の視線を捕まえる。
「…今回のオーディションもまたダメ。いつもとおんなじことを言われちゃった。」
「…同じこと?」
私の問いかけに答えることなく、先輩は何故か「ごめん」と言ってみせた。
「ごめん。謝らなきゃいけないことがあるの。」
「…なんですか。」
私の愛した、不敵な笑みは影を潜めていた。その表情はよく見たことのある顔だった。ああ、同じだ。この人ももうすでに、わたしのよく知っている色に染まり始めている。
「わたし、いつもオーディションで言われちゃうんだ。影がないって。それじゃ女優にはなれないって。」
「…でも、そんな先輩のこと、私は、」
そこまで言いかけてから口を噤む。ありのままの彼女のことがこんなにも好きなのに。それでも彼女は違う自分になりたいと言う。自分ではない何かになりたいと望んでいる。
「…学校であなたを初めて見かけた時、ああ、こんな風になれればいいのかなって直感的に思ったの。だから電車の時間を合わせて、あなたに近づく算段を立てた。」
どうして彼女が自分に近づいてきたのか、ずっと不思議だった。だからこそ、その理由を聞いてやけにしっくりくると共に、失望が私の心を覆う。ずっと必死に守り抜いてきたたった一本の芯がぽきりと折れてしまったような。何かとてつもなく大事に育ててきたものが根こそぎ倒れてしまったような。黙り込んでしまった先輩の口元を見つめてみても、それ以上何かを言う気はないらしい。仕方なく、小さなため息をついて私から口を開くしかなかった。
「…私、昔からずっと不幸な顔をするのが得意だから。」
「…」
「なんとなくずっと、許されてきたんですよ。可哀想だから仕方ない、って。そんな風に言われるように誘導してきた。」
でもそれは同時に、誰からも大切にはしてもらえないということを意味している。被害者はそれ以上追及されることはないけれど、それ以上にはなれないのだ。誰だって加害者になんてなりたくない、だからこそ私の周りには最後誰もいなくなってしまう。意外にも先輩はそんな私の発言に笑みを深くしてみせた。嘲笑とは違う、穏やかな微笑みだった。
「気を悪くしないで欲しいんだけど。なんか、わかる気がする。あなたといると、自分が綺麗なままでいるのが申し訳ないような、そんな気持ちになるの。」
愛おしいと思う相手にこんなことを言わしめる自分に嫌気がさす。あなたなら、変えてくれるんじゃないかと思ったのに。こんな私ごと、愛してくれるんじゃないかと思ったのに。それなのにあなたは自ら望んで私の隣の日影に座り込んでしまったのだ。
「向いてるのかもね、私よりもよっぽど女優向きかも。」
「天性の被害者、ですね。」
「…なるほどね。そんな感じかもしれない。」
ああ、あなたのそんな顔、見たくなかったなと思う。笑っていてほしかったわけじゃなくてきっと、あなたの泣き顔を見たくなかっただけだったのかもしれない。同じ「泣いてほしくない」なのにそれらは天と地程の差があるように思う。
おんなじところまで落ちてきてほしかった、はずだった。なのに、落ちて来たあなたをどうすればいいのか、私にはもうわからない。愛かもしれないと思っていた何かが音を立てて崩れ去る。
天性の被害者、なんて言ってみたってそれは同時に誰かを加害者にしてしまうことを表している。そうして、それはきっと一番近くにいる相手なんだと思う。きっとこの先もずっと。私に染みついた悪癖は消えない。隣に私がいる限り、きっとあなたは幸せになろうとしてくれない。幸せよりも不幸の方が簡単に伝染するのって、どうしてなんだろう。
「わたし、あなたみたいになりたかったの」
そう呟いた先輩の爪の先が青く彩られているのを見て、思わず目を逸らしてしまう。連なる青が伝染して、あなたを蝕んでいく。それがあなたの望んだ呪いだったとしたなら、私は一体どうすればよかったのだろう。

青く成る

青く成る

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-04-19

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted