雑種化け物譚❖Cry/R. -赤い呪い-

雑種化け物譚❖Cry/R. -赤い呪い-

1月下旬から掲載しているCry/シリーズC零のR編(子世代話)です。2023/2/29までの期間限定公開予定です。
ノベラボ版より少しプロローグなどを削り、ほぼエブリスタ版準拠となっています。
人の姿をしながら人ならぬ力を持つ「千族」が「雑種」だった時代、故障した五感を持つヒト殺しの少年が出会う運命とは。
update:2023.1.25-2.29 Cry/シリーズzero R前編
C零親世代A篇→https://slib.net/121266

プロローグ

 
 その命の味を、忘れることはなかった。
 全ての呪詛は、そこから始まったのだから。
「ユオン……やっと来た、な……」
 赤い(ほむら)をともす、赤まみれの指。
 呪われた火をかざす少年の、最初の(のぞ)みと最後の願い。それを台無しにする裏切り者のたった一言。
 愚直なうわ言は少年の逆鱗を鷲掴みにした。

 果てのない暗闇に、死神の産声が響く。
――……あアアああアアアアア!
 救いなき嘘の「生」に、真っ赤な咎人は抗い続ける。

 いったいどれくらい、脆弱な肉芽を屠ったのだろう。
 虫を潰すほどにも、心は痛く感じなかった。ただそこで喰らった命が、少年に消えない「死」を刻んだだけで。
 そして少年は、ヒト殺しの才能をその名に背負っていく。

◆①◆ 辺境の少女達

 
 黒い鳥が、少年の視界を不意に奪った。

 特に変哲もない山の麓に、この世のものと思えないほどの清雅な黒い鳥。
 山を降りたばかりの少年の暗く(よど)む目に、それはひたすら、綺麗に映った。

 黒い鳥は、聖なる翼を全て失っている。それで人真似をして、地上にいるのだろうか。そして傍らにいる人間と助け合う姿は、同じように暮らしていた少年の郷愁を誘った。

 地平に萌ゆる、気高き黒い鳥。その温かな赤の眼を、血溜りのような(あか)い涙が澱ませる。あまつさえ清らな黒の身を、鳥は自ら(けが)そうとしていた。
 だから少年は、迷うことなく剣を取った――


+++++


 時は「神暦」。舞台は「地の大陸」、数々の「化け物」の三大潜伏地――ヒトならぬ力を持つヒトや、(しのび)という素性不明の雇われ者も暗躍する、物騒な大陸の山々の何処かで。
「この……不届き者達!」
 薄暗い山辺で、追い詰められた最弱のヒト、うら若き人間の娘が叫び声を上げる。
「私が誰なのか知っての狼藉と言うなら、貴方達に未来はないものと心得なさい!」
 山賊まがいの男達に取り囲まれた人間の娘が、外套で覆う細い身を強張らせる。傍らに立つ「忍の者」らしき黒装束の少女が、鎖骨下までの面紗(めんしゃ)をひらりと揺らして進み出る。
「どうして!? 貴方達、『ディレステア』の国民でしょう!?」

 忍の者はその名の通り、世を忍び素性を隠す雇い人だ。大抵の者が並外れて体を鍛え、化け物の「力」を持つことも多い。それなら人間の賊など虫けら同然の相手のはずだった。
 しかしその、年端もいかない忍の少女は、まだヒトを殺したことがないと観られ――
 覆面の面紗に唯一隠されない端整な紅い目で、襲撃者を睨むだけの護衛。筋骨隆々の男達は歪んだ(あざけ)りを浮かべ、下卑た笑みを零し合った。

 中心にいる男が荒々しく忍の少女の腕を掴み、打ち捨てるように地べたへ払い除けた。
「――……!」
「シヴァ!?」
 倒れた少女に娘が振り返る。長い金髪と鳥の紋章を刻む首飾りが揺れる。
 その姿を笑うように、別の大男がすかさず、娘のかぼそい腕を掴み上げた。
「いたッ……! 離しなさい、無礼者――!」
 人間の娘の手背には「D」が刻まれている。掴む大男の手にも同じく「D」の刻印。
 もがく娘の、香りを間近で楽しむように、にやりと大男はその手を乱暴に捩り上げた。
「あッ――……! やめ、なさい……!」
「……!!」

 大きな赤い目をきつくしかめて、軽々と娘が釣り上げられる。すぐに立ち上がっていた忍の少女は身を低くし、不甲斐ない己を叱咤するよう男達を睨みつけた。
 護衛たる忍がついぞためらいを持ってしまった。そんな呪わしき甘さを振り切るように――「力」を秘める胸に、決意を刻んだその時だった。

 大男の厚い胸板を、背後から容赦なく、白銀の長剣が貫き通した。
「ぎ――あッ……!?」
 たぎる心血が一瞬で途絶える。笑うような顔で大男の命数が尽きていく。哀れな大男は何が起こったかもわからないように、人間の娘を手離し、あっさり地面へ崩れ落ちた。
「なっ!?」
 周りの仲間がざわめき、倒れた大男のすぐ後ろへと、がん首を揃えて慌てて振り返る。そこには絶命した大男に隠れる体格しかない、銀色の髪の少年が無言で立っていた。

 刃にまみれる肉片を振り払った少年は、外套を(ひるがえ)し、無骨な長剣を片手で中段に構える。黒いバンダナが閉ざす双眸に男達を捉えて、そのまま静かに呼吸を止めた。
 受けた血しぶきを隠す黒衣で、吹けば飛びそうに細身なあどけない少年。男達はすぐに気を取り直すと、各々手斧や棍棒を握り直し、数をもって圧倒せんと襲いかかった。
「このクソガキが! よくもやりやがったな!」
 少年は無慈悲な目線と、両刃の剣の切っ先をまっすぐ男達に向ける。
 そしてあえて断ち続けている呼吸――己が「命」を全て、戦う力に振り分けていく。

 愚鈍な攻撃は少年の纏う外套にさえ触れず、一方少年の刃は確実に男達の心の臓を貫く。
 人間の娘と忍の少女は互いにかばい合い、その非情な血振いを声も出せずに凝視する。
「……!」
 人間の娘にしがみつかれた忍の少女が、腕にくい込む指にはっとして娘を下がらせる。殺し合う少年達と娘の間に迷いなく入り、毅然とした面で出で立っていた。

 そのような、全身黒ずくめの少女が横目に映る。少年はようやく、返り血まみれの柄を握る高揚をごくりと飲み下す。
(……あんたが……さっきの黒い鳥?)
 少年は、自分がどうしてこの場にいるのか、それがまず不思議だった。
 育った隠れ里を出て、山を下りたばかりの先刻、「黒い鳥」の居場所を感じてここに導かれた。近傍に限定されるその本能は通常であれば、「気配の探知」と言われる化け物特有の探索能力だ。
 しかし少年は、故障した五感を持つためか、化け物にはすべからく備わるその第六感が鈍い。そのためここまでの道のりは、少年自身にも不可解ないざないの結果だったのだ。

 少年の五感は、周囲にあるもののことを我が事のように感じる。
 犠牲者の心腑(しんぷ)を無下に壊していく度、故障した五感の末端まで「死」の味が行き渡る。天性の死神はただ一度だけ、薄い口の端を釣り上げて静かに笑った。

 屈強な男は六人いたが、あえなく五人が殺されたところで、最後の一人が武器を捨てて走り出した。
(コイツを逃せば……仲間を呼んでくる)
 こんな人間、何人来ようが殲滅できるが、忍の少女と人間の娘はそれでは困る気がする。
 男達はただの追いはぎではなく、行動には何か狙いがあった。自他の区別が曖昧である少年の知覚は、その心情を大まかに察し、潜在的な危険の存在をしきりに警告する。

 奇声をあげる男が焦って躓いたせいで、最後の刺突は心の臓から逸れてしまった。
「……っ……!」
 そしてその虐殺の代償、故障した五感による耐え難い罰が、ヒト殺しの少年を襲う。
(痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い――)
――痛い痛い死ぬのは嫌だ痛い怖い……!
 男はなかなか意識を失えずにのたうち回る。なまくらな剣に血肉がもつれ、永い一瞬の壮絶な苦痛、それを少年は感じてしまう。
 全身全霊で無比の嘔吐を堪える間に、やがて最後の一人も息絶えていき――

 俯く少年の顔は、上腕にかかる外套に隠されて誰にも見えなかったが、それは男の命が終わる瞬間、自身も消えてしまいそうな安らかさを浮かべていた。
(……ああ……痛い、な――……)
 少年はそうして、その身に決して拭えることのない「死」を刻む。

 よりかかっていた剣から顔を上げると、離れていた忍の少女と人間の娘が近寄ってきた。
「アナタ……大丈夫?」
「…………」
「助けてくれて、ありがとう……ところで、アナタ、『ゾレン』の化け物のヒト?」
 剣を握り締める少年の手の「(ジー)」の刻印を、「D」を持つ人間の娘は見たのだろう。この「地の大陸」全般で通じる、堅苦しい共通語で尋ねてきた。
 警戒しているが、怯えてはいない勇敢な人間の娘に、少年は同じく共通語で質問を返す。
「……そういうあんたは、『ディレステア』の人間?」
 少年は一応共通語を使えるが、母語ではなく、話す方にはあまり自信がない。聴く分に関しては、故障した五感もあるためなのか、誰の言葉でもよくわかる。
 人間の娘も母語は違うようで、少年とは何とか共通語で話ができるとわかると、ほっとしたように少年の返事に頷いていた。

 腰まで下ろす長い金髪の一部を、両耳の上で二つに束ね、快活そうな人間の娘は「アディ・ゾーア・D」と名乗った。
「私はアディでいいわ。こっちはシヴァ――私の大切な友達よ」
 忍の者と連れ立った人間の娘は、どうやら単純な雇用関係ではないらしい。人間の娘の硬い顔は、忍の少女を紹介する時には少し和らいでいた。
「シヴァは喋ることができないの。だから話は私にさせてね」
 小さな貝殻の笛を首にかける忍の少女は、何かあるときにはそれで合図をするという。

 少年は不意に、妙にもやもやとした気持ちを持て余すことになった。
「それは……大変、だな」
 人間の娘はしれっとしているが、忍の少女は少し揺らぎを見せていた。つまり嘘であるようだが、詮索しても迷惑だろうと思い、余分な疑念はすぐに脳裏から消していく。現在の問題はそれよりも、この生臭い殺戮現場をどうするかの一言に尽きた。

 暴漢への対処とはいえ、一方的で多数の殺人は「神」の天戒に反する。今後紛糾を招くはずの死体を、少年が背中、少女達に頭と足を持たせて、近くの浅い森へと運び込んだ。
 六つもの死骸を運ぶのはさすがに疲れたが、全てを生い茂る草むらに一旦隠す。離れた岩場に移動し、腰をかけて休むと、同じように座り込んだ人間達が少年に重い顔を向けた。
「あんた達はここで、何をしているんだ?」
 忍の者連れとはいえ、かよわい人間の娘はどうしてこんな秘境にやって来たのか。短い腰巻きに膝丈の中履きと盗賊のような恰好だが、光沢ある白の分厚い外套はかなり上等な生地と見てとれ、何より護衛の忍を雇える富裕な身上のはずだ。

 他郷より化け物が多いこの大陸で、「ディレステア」という国はほぼ人間で構成されていると少年は聞いたことがある。そしてディレステアの両脇に広がる君主国が「ゾレン」――「化け物と人間の共存」を謳う雑種大国なのだが、ゾレンの理念は最早過去のものと見做され、人間の国ディレステアとゾレンは三十年以上紛争を繰り返していた。
 だから本来、ゾレン出身で「Z」を手甲に刻む雑種の少年と、ディレステアの「D」を刻む人間の娘は敵対関係にある。

 それでも人間の娘は、この地にいるわけを明かすどころか、少年が殺した男達の問題も放り投げて、鮮烈な赤の目でとんでもない依頼をしてきたのだった。
「ねえ、アナタ。単刀直入に言うけれど、私達のこと、しばらく守ってくれない?」
 少年は思わず息を飲んで、人間の娘を見返すしかない。その目前で沢山の人間を殺した野蛮な化け物に、それはあまりに愚策な頼み事ではないだろうか。
「あんた達のことを……守る?」
「ええ。私達はエイラ平原から国に帰るために、『第二峠』を目指してここまできたのよ」
「あんた達――第二峠に行くのか?」
 運命のような偶然としか言えなかった。わけもわからず追い立てられるように隠れ里を出た少年は、ここでやっと、当初の目的地を思い出すことができた。
「俺も第二峠に行きたかったんだ。それなら俺を、第二峠まで連れていってくれないか」

 この状況で人里に向かい、人間を六人も殺したことが明らかになれば、ヒト殺しとしてどんな咎めを受けるだろうか。それでも少年には、第二峠に行きたい理由があった。
 そんな少年に、人間の娘と忍の少女は大きく目を丸くして、顔を見合せている。
「……?」
 二人の困惑の理由がよくわからず、少年も黙って答を待っていたところに――

 ソレは突然、少年の前に飛び出してきた。
「オマエ、バカだなにょろ? 中立地帯でよそ者を殺した上に、ゾレンから第二峠に行く程度で、どんだけ遠回りをしてるんだにょろ!」
「――は……?」

 人間の娘の外套内から、跳ねるように出てきた緋色のソレ。ずっと隠れていたらしいが、がさがさに乾き、小さく幅寄せされた抜け殻だけの蛇もどき。そうとしか言えない物体が忍の少女の肩へ跳び乗り、唖然とする少年に対して、謎の語尾の人語で説教を始めた。
「ゾレンのバカかにょろ、西部者か東部者かにょろ? バカっぽいから西部者にょろ!」
 少年の母国――海易の盛んなゾレンでは、異大陸で流通する新語が国語とされている。しかし地の大陸では少数派である言語を、謎の物体は少年に合わせてなのか流暢に操る。
 少年は気圧されながら、場にいる他の者にもわかるよう、今まで通りに共通語で返した。
「いや……俺は、ザインから来たんだけど」
 何だとにょろ!? とソレはますます、目らしき空洞に真っ黒な異彩をたたえた。

 ヒトでも魔物でも獣でもない、謎の物体。無表情のまま黙り込んだ少年を見かねてか、人間の娘が抜け殻蛇の首をむんずと握り、忍の少女の肩から引きはがしていった。
「デューシス、アナタはちょっと黙っていて。これ以上話をややこしくしないで」
「でもアディちゃん、コイツ危険人物だにょろ?」
 人間の娘は蝶々型に抜け殻蛇を結び、今度は共通語を話すソレを強引に黙らせんとする。
「危ない時はいつもいつも、自分だけ隠れるアナタよりずっとマシよ、デュー」
 ねぇ? と人間の娘が忍の少女を見る。忍の少女も重く頷き、抜け殻蛇はそれが意外にこたえたらしい。大きな口を半開きにしたまま、素直に静かになっていった。

 人間の娘は努めて何事もなかったような顔を作り、抜け殻蛇を外套内の衣嚢にしまう。
「そう言えば、アナタ、名前は?」
 まだ衝撃の冷めやらぬ少年にとって、その当然の問いは、よくない不意打ちだった。
――……。
 己が名と共に浮上する、隠れ里での赤い記憶。灼熱の心の臓が胸裏を叩く。
「……キラ。『キラ・レイン・S』」
 溢れる悪心のせいで、バンダナの下の目で睨むように答えてしまい、人間の娘も余裕を消して少年をきつく見つめた。

「『S』? 『(ジー)』ではなくて?」
「――」
「アナタはゾレンの化け物さんでしょう? 手にもそう書いてあるじゃない」
 娘が「Z」の刻まれる少年の手背を見る。答え方を間違えたと少年はすぐに悟る。
「父さんがザインで、母さんがゾレンの出身だから。ザインではそう名乗っている」
 話し相手の感情の機微に、同時進行で影響される少年はすぐに釈明する。不審を抱いた人間の娘は、少年の切り返しの速さに自然な回答と納得したようだった。隣で睨む忍の少女については、この程度で警戒を緩めないのは当然のことだろう。

 ふう、と息をついた人間の娘が、座る切り株から腰を上げて少年の方へとやって来た。
「ザインから来たのはわかったわ。でもね、ここは『エイラ平原』の手前よ?」
「……?」
「第二峠は、ディレステアとザイン、エイラ平原全ての境なの。ディレステア北端にしてザイン南東部なのに、アナタはザインから東に向かって、第二峠とは方向が違うの」
 なるほど、と少年は納得する。

「まぁつまり……アナタにはちょっと戻ればいいだけだから、とても簡単な道のりなのよ」
「――?」
「途中で気が付いて、逃げられても嫌だし。それでもアナタは私達を守りながら、一緒に第二峠まで行ってくれるの?」

 少年にはそこで、人間の娘が地理を伝える理由がようやくわかった。
「……あんた、いい奴だな」
 人間の娘と忍の少女を守ることと引き換えに、第二峠に連れていけ。そう言った少年に、それは対価の釣り合わない取引だと、人間の娘はきちんと先に教えているのだ。彼女達のことを助けたとはいえ、こんな化け物のヒト殺しに対して。

 人間の娘の返答は忍の少女も同じ心のようで、若いわりには肝の据わる二人であり――対して少年は、これまで大人のように仕事をしたことがない。必ず遂行する、その責務の重さに初めて直面する。取引に応える覚悟を決めるために、僅かの間、黙り込んで俯く。
「……あんた達二人を、どんなことをしても必ず、第二峠に送り届ける。だから俺も……一緒に連れていってくれ」
 黒いバンダナの影が差す目で、人間の娘と忍の少女をまっすぐに見る。知らず氷点下となっていた声色に、人間の娘が体を竦める。
 娘の肩に忍の少女が重く手を置き、危険は承知と言いたげな空気で頷く。忍の少女は、少年を信頼したわけではない、と鋭く赤い目で語る。それでも少女達は、見知らぬヒト殺しに頼らなければいけないほど、窮迫した状況であるようだった。

 自然の秘境ザインで、人間大国「ディレステア」の人間など滅多に見かけない。道具や武器の発達したディレステアを除き、農耕や狩猟が盛んで原始的なこの大陸では、猛獣だけでなく鬼や(あやかし)といった人間を食らう化け物が闊歩している。数が多いだけの弱者である人間が、女二人で出歩くのは自殺行為だった。

 人間の娘の頼みで、殺した男達を埋葬することになった。
 人間の娘は腰に届く長い金髪と、両耳の上で小さく括る髪を軽く揺らし、隣にいる忍の少女と顔を見合わせ溜め息をついた。
「アナタは化け物さんだけれど……私達のために、ヒト殺しの禁忌まで侵すヒトだし」
 少年は土を掘る即席の鋤を作るため、手ごろな石を探しながら聞く。六人もの墓掘りは相当な仕事だと思ったものの、娘達には大事なことらしいと感じて黙って従う。その姿を見て娘が歯を噛み締めて言った。
「峠を通る作戦に必要だから、隠さずに言うけれど……さっきの彼らは、私の国の民よ」
「……?」
「おそらくはディレステア反乱勢力に(そそのか)された、哀れな末端の者達」
「ってことは……あんた――」

「私は『アヴィス・ディレステア』。砦の国ディレステアの、唯一にして第一王女よ」
 だから自分には、彼らを埋葬する義務がある。
 今にも泣き出しそうな痛ましい目で、人間の娘は少年をまっすぐ見つめていた。

◆②◆ 「壁」

 日中はとにかく、目の前の状況を観て立ち回りを続けた少年だったが。月色の金髪を揺らす人間の娘――ディレステアの王女にはもう少し後で、深い事情の説明を求めた。
「あんたが本当にディレステアの王女なら、何でこんな所で危ない目にあっているんだ?」
「……そうよね。改めてきちんと、話をさせてね」
 そこでまた、あの謎の抜け殻蛇が姿を現していた。ソレの勧めで少年達は、先の死体を一日がかりで埋めてから、近くの苔むす洞窟を野営地としていた。
「アディちゃん達が無事にここまで来れたのはオイラの功績にょろ。感謝するにょろ!」
 全然無事じゃないじゃない! という王女の抗議はともかく、抜け殻蛇は本来そうして、王女達を導き、帰国までの道案内役を申し付けられているそうだった。

 土より石の成分が多い洞窟で、湿気の多い山の夜となると、初春には結構な寒さを覚悟するものだ。しかし火打石もなしに忍の少女はすぐに火を起こし、燃料の(たきぎ)もろくにないのに、少年の守る入り口にまでその温かさが広がってきた。
「シヴァちゃんがいれば薪がなくなっても、暖は十分にとれるにょろ。だからオマエは、この洞窟を離れるなにょろ」
「……それなら、わかった」
 付近の峡谷の急流で、昼間の内に飲み水は確保してある。そこらの棒につがえた竹釘で魚も数匹打ち捕り、王女と忍の少女はそれを夕餉にするのだという。そうした形で逞しく山旅をしている同年代の王女達に、少年はひたすら感心しきりだ。
「ねぇ! キラの分も焼けたから、しばらく見張りは休んで入ってこない?」
「――」

 一人で里を出た時から、少年は絶えない吐き気につきまとわれていた。

――それで、おめぇはどうするんだ、キラ。

 覚えているのは一面の血溜まりと斬られる肉の痛み。殺される、消えていく恐怖。
 でもそれは、誰の「死」だったのだろう。

――オマエ……何で生きてるんだ、キラ!?

 溶鉱炉と化した喉は「生」を拒絶し、小匙一杯の命も受け付けない。後はもう、止めどない嘔吐の記憶しかない。
 最早、水を飲もうとするだけでも嘔吐(えづ)く。人間とは違う化け物であるから元々食も細く、何も摂らずとも今は何とか動けていた。
 魚を焼く煙が濛々と漂ってきた時、匂い一つで喉を焼かれて、思わず吐いてしまった。王女達にはそれを隠して、食事はいらない、とだけひっそりと告げた。

 吐き気を振り切り、王女達の事情を改めてきくためにも、そろそろ中に入ることにした。
 野営の準備で昼間は忙しかったが、洞窟内で串刺しの魚を嬉しそうに(かじ)る王女は、やっと寛げている。少年を見ると、ヒト殺し相手には考えられない顔で微笑んできた。
「キラ、今日は本当にありがとう。アナタがいなければ、どうなっていたかわからないわ」
「……俺は別に、大したことはしていない」

 それは少年には、全く謙遜ではない。
 この洞窟を包む熱を始め、弱い人間の娘が生き抜ける環境を作ってきたのは忍の少女のたゆまぬ努力なのだと、死体を埋める間中、少年は抜け殻蛇に延々と聞かされていた。
――シヴァちゃんの張る『壁』は、その中で使われる『力』の熱……威力を奪えるにょろ。
 忍の少女の珍しい「力」、「壁」は王女を中心に無色に広がり、化け物の気配探知や探索魔術から中の者を隠す作用を持つと抜け殻蛇は言う。だからこれまで二人は無事に逃れてこられたが、今朝は人間の男達に襲われたせいで、「壁」が一旦途切れたのだという。
――シヴァちゃんに『壁』の維持と戦闘、両方やれというのは酷にょろ。だからオマエの役目は近接戦にょろ!

 忍の少女は四六時中、王女を守るために「壁」を維持し続けているらしい。
 少年が洞窟に入る前に、覆面をずらして食事を終えた忍の少女は、これから眠る間も「壁」を維持するためという魔法陣を、洞窟のあちこちに刻んでいるのだった。

 小さな魔法陣の内で燃え盛る火を、王女と忍の少女と三人で囲む。薪はないので、煙の出ない不思議な温かさに、人間達から四肢のこわばりが徐々にほどけていくのを感じる。
 身分を隠す質素な朱い貫頭衣の王女が、おそらく話しやすいだろう事柄から、無意識に少年は最初に尋ねていた。
「……なぁ。第二峠には、何で行くんだ?」
 その質問自体が、あまりに世間知らずのヒト殺し。王女が苦笑いながら話を始める。
「ディレステアには、国をぐるりと囲むあの外壁があるでしょう? 私達が国に帰ろうと思ったら、全部で六ヶ所の『峠』を通らないと、他に外壁を貫く道がないのよ」
「……」
「ディレステアとゾレンは長く争いを続けているから。第二峠の二大勢力の一つ、ザイン警備隊は不干渉の中立だけれど、第三峠を司る『レジオニス』は信用できなくて。本当は第三峠から帰りたかったのだけれど、あえて第二峠に行く理由は、第二峠に赴任してもらった大使がとても信用できるヒトだからなの」

 少年はそこで、レジオニスという謎の単語が気になったが、それはまた違う話らしい。
「大使というのは、ディレステアの六つの峠と接する地域が、互いに出入りを守るために敷いた関所――『大使館』の監視者なのだけれど」
 人間ばかりの砦の国は、国境の堅固さが生命線となっている。その壁を挟み関所となる各地の大使館は連絡通路で繋がり、大使が許可した者だけがそこを通れる仕組みだという。

 無言を通す忍の少女の膝で丸くなっていた抜け殻蛇が、ここで揚々と口を挟んできた。
「ディレステア大使館はディレステアの外側に、よその大使館は大体ディレステア国内にあるにょろ。つまりお互い人質をとって、国境の不可侵を約束してるんだにょろ」
 楽しげに茶々を入れる抜け殻蛇に、少年は溜め息をつきながら反論する。
「人質として成立しないだろ、あんな強い化け物。弱いのは、ディレステア大使館の人間一人……ディレステア大使だけなんじゃないのか?」
「おお! オマエなかなか、鋭いなにょろ!」
 複雑な気分になる少年には、「大使」という存在が、基本は強大な化け物だと知っている理由があったが――自分の話などしても仕方がないと、引き続き王女の声に耳を傾ける。
「第二峠は広い町で、レジオニスもザイン三大勢力も噛んでいるから、盛栄だけれど。ある意味、最も危険な峠なのよ」
 何で? と首を傾げる少年に、王女は唸るように険しげな赤い目を見せた。
「あからさまに紛争中のディレステアとゾレンより、本当に険悪なのは雑種大国ゾレンと全ての近隣。そして雑種の宝庫ザインと、純血軍団レジオニスのエイラ平原だと教わったことがあるの」

 雑種とは、ヒトの姿をしながら人間にはない「力」を持つ化け物のことだ。純血というのは人型も怪物も合わせ、天使や悪魔など世に名だたる有名な神威と言える。
 特にザインは、世俗に縛られない雑種が多く、純血との確執も根深い隠れ地雷原なのだった。

 そしてようやく、王女達がこんな異郷にいる理由に話が至った。
「そんな化け物のただなかで、ディレステアはゾレンと争っている場合ではないの。我が王家はずっと、和平を念願としていて……此度はついに、第四峠で和平交渉が設定された、十年ぶりの重大な局面だったのよ」
「和平……交、渉?」
 一瞬、まるで、天地が翻るように頭がぐらりとした。
 ゾレンとディレステアが最後の休戦協定を破ってから、十年を越えている紛争。それが終わる可能性があったのならば、かつて少年にささやかれた儚い声を思い出してしまう。

――いつかきっと……戦いが終われば……。

 苦い動揺を黙って噛み殺し、少年は王女の話を座して待つしかなかった。
「私はディレステア代表として、和平交渉の場、第四峠ディレステア大使館に足を運んだ。第四峠はね、ディレステアとゾレン東部とエイラ平原の三地方の境だから、ディレステア大使館はエイラ平原側にあるのよ」
「ってことは……」
「そう。交渉はご破算……開催すらできなくて。私達はエイラ平原から必死に帰国中なの」
「……――」
 顔をしかめる少年に、忍の少女がまた強く、両手を握り締める痛みが伝わってきた。

「案内役のデューを私達に渡したのが、ソリス大使といって、第四峠のレジオニス大使で……十年ぶりの和平交渉を設定したのは、そもそも大使なのだけれど。私達は最初から、ソリス大使に騙されていたの」
「えっ?」
「和平交渉ができなくなったのは、大使が、第四峠ディレステア大使館を襲う反乱勢力をわざと見逃したからなの。おかげで私達は、第四峠を通って帰ることもできなかった……レジオニスは本当に油断ならない相手なの」
「そうそうにょろ! ディレステア大使館を襲った連中は、第四峠のレジオニス大使館で出国を許された、みんなディレステア人だからなにょろ」

 どうやらディレステアには、ゾレン以外に国内の反乱勢力という厄介な敵があるらしい。内乱をしている場合かと王女が憤る前で、人間も案外バカだ、と少年はこっそり呆れる。
「あれにょろ? シヴァちゃん何で、オイラの首を絞めるんだにょろ?」
 ほとんど表情のわからない忍の少女まで怒気を隠さず、膝の抜け殻蛇に憤慨を向ける。
「アナタもレジオニスでしょ、デュー!」
 王女が呆れた怒声を出した時に、少年の中で、何かの違和感がつながった気がした。

「そのガラ蛇は……化け物なのか?」
 尋ねた少年に、抜け殻蛇が身を乗り出して、焚火ごしに少年のバンダナに頭をぶつける。
「化け物以外の何に見えるにょろ! オイラをバカにしているのかにょろ!」
「……」
 体の一部が透き通る抜け殻の、がさがさとして薄い影が、洞窟の壁にゆらゆら揺れる。
 少年はバンダナのずれを直しながら、今も持て余している違和感をぽつりと口にした。
「俺には――アンタは、違うものに観える」
「にょろ?」
「アンタは本当に……レジオニスなのか?」
 そのおかしな化生に対して、自身が何を言いたいのかも、よくわからないまま少年は呟く。

 純血であれば、そもそも有名でまかり通った姿形。雑種はヒト型が原則であり、それら以外の出自が判別できない化け物を魔物と呼ぶが、抜け殻蛇はまさに蛇の抜け殻で、逆に何と呼べばいいか不明な謎の物体に、案外王女は愛着が出ているらしい。抜け殻蛇を鷲掴みにしながら不意の釈明に入った。
「デューはレジオニスから、私達の帰国用に渡された案内役なの。交渉は潰されたけれど、私達が死んでもレジオニスは困るのよ」
「……何で?」
「知らないわよ! ソリス大使がそう言ってデューをよこしたのよ!」

 同じ中立地帯でも、砂漠の熱帯エイラと秘境ザインは大きく違う。
 好戦的な純血の化け物の集まりであるエイラの、中立を維持する化け物軍団が「レジオニス」なのだ。交渉妨害の責任問題から窮地に陥った王女に、仲介人の第四峠レジオニス大使は、一つの取引を持ちかけたという。
「ゾレンへの手土産に、私の護衛を捕える。その代わり私達は国に帰すからと、コイツの案内通りに帰れって、そう言われたのよ」
 そして少女達は条件通り、名の知れた護衛を差し出した。引換えにそのデューシスという抜け殻蛇を貸し出され、帰国する脱出路として今まで案内されてきたようだった。

 第四峠レジオニス大使。王女が思い浮かべるその姿が、不意に少年の視界に混じった。
 鋭い金色の眼で、肩で細く長い髪を束ねた緋色の髪の男が、にやりと不敵に笑っている。

――王女様達も、せいぜい頑張って帰国してくれよ?

 しかしその大使の眼は笑っていない。そこで追想上の男の姿は途切れた。

「オイラはもうシヴァちゃん派にょろ! レジオニスには戻らないから安心するにょろ!」
「だからアナタは軽過ぎるのよ、デュー! どうしてそんなの信用できるっていうの?」
 少年がそうして何かを意識しかけても、この騒がしい場ではすぐに沈んでしまう。軽く溜め息をつきつつも、それで吐き気も紛れているので、気分としては悪くなかった。

 斜向(はすむ)かいで騒ぐ王女達を置いて対面を見ると、抜け殻蛇の離れた忍の少女は一人俯き、押し殺した溜め息を長々とついている。随分重い疲れを感じているようだった。
 異郷を訪れ、その目的である和平も叶わず、ここまで忍の少女だけで王女を守ってきた。今も唯一の協力者が、敵国の化け物のヒト殺しとなれば無理もないだろう。
 他に護衛がいない理由もわかった。化け物の気配探知や魔道による追手を無効にする「壁」があるなら、残りの護衛を囮に少数で逃げ切る道に賭けたのだろう。

 項垂れる忍の少女は、それでも少年の視線にすぐに気が付いていた。無遠慮に見つめる少年を警戒し、何だ、と言いたげな紅い目をじっと向けてくる。
「…………」
 少年の視界、故障した五感に、忍の少女が見ているもの……銀色の髪に黒いバンダナを巻く赤い目の少年が、不意に混じり込んでくる。

――……貴男は、誰?

 忍の少女――黒い鳥に観える相手と、少年は感覚がつながりやすいのだろうか。黒い鳥は少年に気を許していないのに、何処かで会ったことはないか、という疑念を持っていることが伝わってきた。少年がこの黒い鳥を見たのは、今朝が初めてであるのも関わらずに。それで黒い鳥も、ヒト殺しの少年を警戒しながら護衛と認めたのかもしれない。
 ヒトの姿である黒い鳥は、翼を全て失っている。それは黒い鳥に、何かの代償を強いているはずだ。何がその目を紅く澱ませるのか、不意に気になってしまった。

 翼を失くした黒い鳥は、暗い地上の道を探して、眼火を紅く光らせているのだろうか。
 人間の娘の無事を願う健気さが柔らかく薫っているのに、その目色はまるで闇夜の森をさまよう魔物のようだ。多様な化生が住まう秘境にいた少年は今更にそう思う。
(……凄く、キレイなのに)

 覆面の下は全く見えないが、少年にとって、黒い鳥は存在そのものがキレイだった。
 キレイな黒い鳥は、キレイなままがいい。初めの想いをようやく自覚しかけた少年に、そこで冷水を浴びせるが如く、場の本題は切迫した話に切り替わった。
「キラ、よく聞いてね。キラが今日殺した人間達のことは、シヴァが殺したことにして」
「……え?」
 いつの間にか王女はとても厳しい顔色で、何も考えていなかった少年をたしなめるよう見澄ましていた。
「第二峠についたら、自分達から警備隊に彼らのことを申告してしまう方が無難なのよ。だから口裏を合わせてほしいの」

 そもそもヒト殺しとは、治安管理者の取り調べを受け、正当化の余地がなければ死罪となる重大問題だ。さらには警備隊を敵に回さない方がいい、と王女が確信を持って告げる。
 王女の真剣さはわかったものの、それでも何故か頷くことができずに体が固まる。
「ザインは完全中立地帯。中立維持者である警備隊も、介入権限を持つのは異種・異国間の紛争のみなの。つまりはね、同国の人間同士の諍いには関与できないの」
「それは……知っているけど……」

 異種争いの根強い秘境ながら、それ以外は我関せずの中立の地では、同種間の揉め事に部外者が関わること自体が忌避されている。だから王女は、ディレステアの人間の男達を殺したのは同国者である忍の少女として、干渉そのものを帳消しにしたいのだという。
「それで本当に、あんた達は第二峠を越えられるのか?」
 忍の者の黒い鳥はディレステア人であるというが、人間であるのかすらも少年は納得がいかない。王女も難しい面持ちで、不安を払拭できないようだった。

「ディレステア大使館は当たり前だけれど、ザイン大使館のクラン・フィシェル大使は、もうありがたいくらいに、親ディレステア派なの」
 だから後は、とにかくディレステアに行ってしまえばいい、とヒト殺しの少年の重罪を王女は本気でもみ消そうとしている。
 頭脳の優れる者が多い人間という生き物は、そうしたところは化け物より非情なのだ。それを王女の次の断言で、少年は思い知らされる。
「その二人の大使から許可が出れば、警備隊が何を言おうと、私達は国に帰れるの」
 年齢不相応に、王女が冷たい眼差しをたたえた。反論の余地はなさそうだった。少年は自身が第二峠を目指した理由を王女の言で思い出して、咄嗟に言葉を失ってしまう。
 咎人として第二峠に行く。それがどんな意味を持つか、今頃まざまざと自覚が襲い来る。

 身動き一つしなかった忍の少女は、少年の咎を引き受けろ、と言う王女の提案を、当然と思っているようだった。王家の命だとして王女が証言すれば国内では正当防衛が認められ、全員が助かるのだというが……化け物の少年にはどうしても、胸の悪さがぬぐえなかった。
 王女への答は濁したままで、少年はそれ以上の相談を諦めると、夜風の吹きつける洞窟の入り口へ見張りに戻っていった。


 「神」の戒めで、化け物であれ人間であれ、ヒトの殺し合いは民間ではご法度にあたる。しかし天使など高次な使徒の介入は稀で、当事者の裁きは各地の自治に任されている。明文化された法を持つ「国」など、地の大陸ではディレステアとゾレンくらいだった。
 謎めいた「神」――世界の「理」にして「力」、無数にして唯一という概念的な存在の下、世界を牛耳っているのは「力」だ。だから黒い鳥も敵を「力」ずくで排除し、ヒト殺しと呼ばれてもかまわない強さを自身に求めているようだった。

 声なき黒い鳥の心情が、少しだけわかったせいか、どうにもやるせない気分に襲われる。
 代理の魔法陣を描き終わった忍の少女は、ずっと張っていた「壁」を解除したらしい。魔法陣の効果が及ばない入り口では、春先とはいえ厳寒が襲ってきた。
 魔物や敵を寄せ付けないため、道中の黒い鳥はかなり広範囲に「壁」を張るのだという。少年が王女達を見つけたのは、麓にいた黒い鳥の「壁」を手繰った結果だったのだ。

 先程の王女との会話で何が納得いかなかったのか、改めて考えてもわからなくなった。背中に冷気を突き刺す壁にもたれ、片膝を立てて座り、外の森を眺めていた少年だったが。
「……え?」
「……」
 洞窟から出てきた忍の少女が、妙に不服げな顔で、気が付けば傍らに立っている。
 何事か、と思う間もなかった。疲れているはずの忍の少女は、少年のすぐ横にかがむと、石床に追加の魔法陣を刻み始めた。
「別に俺は――」
 「壁」がなくとも少年は気配を殺せ、隠れることができる。寒気による消耗も重大ではない。それなのに黒い鳥は余分な「力」を使い、少年にも熱を届かせようとしている。

 上体を起こし、黒い鳥を制止しようとした少年に、顔を横向けた黒い鳥は――
 がん、と僅かに出す白い肌に青筋をたててまで、止めようとする少年をきつく睨んだ。
「――」
 それは黒い鳥自身が、己の甘さをわかっている故の怒りらしい。それなら少年も、何も言うことはできなかった。
 有無を言わさず魔法陣を描き終わった黒い鳥は、不機嫌そうに洞窟に戻っていった。

「……何だ、あれ」
 「壁」の内ほど強くないが、黒い鳥の心を受ける熱が、じわりと少年の周りに広がる。
 黒いバンダナが目陰(まかげ)を差して、ずっと無表情である少年。その口元が微かに緩んだことには、少年自身を含めて、誰も気付かなかっただろう。
「月が……キレイだな……」
 疲れで余力などないのに、どうでもいいことを少年は何故か呟き……些少な休息ではあるが、久方ぶりの、慣れた半睡に入っていった。

◆③◆ 雑種の化け物

 強大な化け物だらけの土地を、あらん限りの力を尽くして逃げる二人と一匹の中で。
 それはいったい、誰が見た悪夢。おそらくは近日の、苦々しい記憶だったのだろう。

 軽い口調で、重い話を持ちかける緋い人影。
――取引をしないか? 王女様よ。
 さらりと、緋い前髪がかかる金の炯眼に、悔しげな黒い鳥が映し出される。
 ヒトの無力をよく知る弱小な人影は、僅かなものを救うために大きな代償を求める。

 そしてそこに被さるように、(あがな)いを引き受けた者の、酷く静かな声が響く。
――本当にすまない。俺が力になれるのは、どうやらここまでらしい。

 ――どうして、と、思わず叫びそうになった。
 その慟哭も、いったい誰の心だったのだろうか――

 身をよじるほどの激しい憎悪で、少年は飛び起きるように目を覚ましていた。
 体だけでも休めるために、浅い眠りを維持していたのが仇となったようだった。
(なん、で――!?)
 五感が故障した少年には、よくある境界線の融雪。すぐ近くで眠る者の夢を共に観たのだろう。
(あれは……アイツ、は……)

 少年の憎悪を呼び覚ました夢の人物。
 その灰色の眼の男は、王女の護衛だったのだろう。細身でも鍛えられた体で、才気ある銀の髪に比べ、彩のない眼は冷え切って見え、無様な一言一句が全て少年の癇に障る。
――他の兵士は全て陽動につかせる。二人だけで必ず、『壁』に隠れて国に帰ってくれ。

 己の不甲斐なさを詫びながら、灰色の眼は何処か違う遠くを見ていた。それで王女達はたった二人で逃げてきて、昼間の者達に襲われる羽目になったのだ。
 王女も黒い鳥も、それはよほど辛い選択だったと、ひたすら胸苦しい夢は物語っていた。


 硬い横穴での一夜は、そうしてすぐに過ぎた。
 第二峠に向かって、一行は南の山麓沿いに歩き始めた。方角を違わず、魔物や猛獣にも気取られずに行ける枝道は、少年が思ってもみない平穏そのものだった。
「……シヴァの『壁』って、本当に凄いな」
「そうだぞにょろ。昨日人間に見つかったのは、よくよく運が悪かったんだなにょろ」
 そうでなければ、王女はまず生き残っていない。沐浴場所を探したり、ところどころで歴史を語り出したり、木の実や山菜を楽しんで摘める気持ちの余裕もないだろう。

 大陸に国家そのものが少ないため、大国と言われるだけのディレステアの国土は狭い。隣り合う峠の間は人間でも五日以内で行けるといい、青い空には綿雲、風も弱く温かと、あまりに安穏な道のりなので、話をする余裕があったことが余計な疑心の引き金だった。

 夢の衝撃がまだ抜けていなかった少年は、前を歩かせていた王女に、つい深く考えずにその疑問を尋ねてしまった。
「なぁ……あんた達は――」
「?」
「あんた達は……『英雄ライザ』と、一緒にいたのか?」
「……――」
 何気ない問いかけに、王女がぴたりと足を止める。
 先頭の忍の少女も瞬時に立ち止まり、ぽかんとする少年に俊敏に振り返った。

 今も胸を焼き付ける存在――その「英雄」は、少年が里を追われることになった、最大の原因といえる相手だ。
 そのため、どうしてもきかずにいられなかった少年に、王女と忍の少女が花の顔を大きくしかめた。

 どうして――と。あの夢の終わりに似た声で、王女は痛ましい苦渋を浮かべる。
「どうしてライザ様が、私達といたことを、アナタは知っているの……?」
「……――」
「ディレステアとゾレンの、十年ぶりの和平交渉だって、アナタは知らなかった。全てはそう、秘密裏に運んできたことだから」
 その言葉だけで、少年は王女が何を懸念しているのか、ほとんどのところを理解できた。まずい、とは思ったものの、抑えるべくもなく王女達の猜疑が溢れ始める。
「ライザ様は私達の咎を一人で引き受けて、私達を逃して下さったのに――誰も知らないはずのことなのに、どうしてアナタは知っているの……!?」

 現状はわかったが、どう説明するかは難しい。少年はしばらく、黙り込むしかなかった。
(……夢で、見たから。そう言ったって、信じないよな)
 その「故障した五感」は、かなり稀少なものであるらしい。「勘が良過ぎる」と里の者には言われ、少年が忌まれた理由の一つでもある。
 それならこの場で、少年に言えることは限られていた。
「……俺がゾレンの、どこの誰でも……」
 王女も忍の少女も、危険を承知で、それでもヒト殺しの化け物と取引したはずだった。不安定な共通語でも間違いなく伝えられる、その意志だけを少年は口にする。
「俺はあんた達を、第二峠まで送る。約束は……破らない」

 たとえどれだけ、途上に疑念が満ちていたとしても、少年にはその結果があればいい。
 そう思うしかなかった。これ以上嘘をつけるほど、少年は器用ではない。その姿が二人にどう見えていようと、少年を信じるかどうかは――それを選ぶのは王女達の問題なのだと。

 バンダナで目が隠されるため、伏し目がちに見える少年が、王女の視界に曇りなく映る。
「……アナタがもし、ゾレンの密偵なら……わざわざ自分を疑わせることは言わない?」
「……」
「それとも、迂闊な密偵なのか……アナタはいったい、誰なのかしら?」
 王女は何故か、八割方は少年を信じている。それでも二割の疑念を無視はできないだろう。

 少年が何も答えないので、膠着しかけた状況を動かしたのは、くだんの道案内役だった。
「そんなこと悩む暇があれば、さっさと歩いた方がいいにょろ」
「……デュー?」
「アディちゃん達は最初、オイラのことも全然信じていなかったにょろ? それでも前に進んだから、今ここにいるにょろ」
 先導をとっていた忍の少女の、肩にぐるりと巻き付く抜け殻蛇が、幼声ながらも偉そうに続ける。
「起きてから対処するしかない問題もあるにょろ。それなら、起きるまでは歩くにょろ」

 それからの道は、昨夜の和やかさとは違い、気まずい緊張感が漂うことになる。
 けれども、このぐらいの距離がいいのだろう、とヒト殺しの少年は自ら結論付けていた。どうせ初めから、僅かな期間の同行なのだ。余分ばかりの感情もすぐかき消されていく。

 とりあえず、「英雄ライザ」は捕まったらしい。それがわかった少年は、妙に冷えていく思考を感じながら、気を紛らわせるためにどうでもいいことを話に出した。
「ディレステアの第六峠は、今はどうなっているんだ?」
 様々な地域に囲まれているディレステアで、「第六峠」とはゾレン西部との国境になる。他の地域は関わらないため、ディレステアとゾレンの長い紛争の最前線にあたる。
 英雄は元来第六峠の守護者として有名であり、彼が峠を離れたとなれば第六峠が攻め落とされる危険が出てくるだろう。だから王女は和平交渉の際に、英雄を護衛に伴うことを隠したはずだった。

 本日の野営地、大きな岩場の陰で火に当たる王女が、難しい顔色で尋ね返す。
「第六峠のことなんて、きいてどうするの?」
 よく考えれば、それはまた少年を、ゾレンの密偵と疑わせる発言だったかもしれない。王女と忍の少女は呆れたように目を合わせ、昼に摘んだ山菜を炙る。
「キラは何故、ライザ様のことを気にしているの?」
 それが少年の下手な共通語で説明できれば、こんな不毛な思いはしなかったのだろうが……ゾレンの「Z」を刻む化け物に思い当たる節を、誠実な王女は率直に訊いてくる。
「ライザ様が――ゾレンの裏切り者だから?」

 本来、英雄はゾレン人の化け物であり、「最強の獣」と呼ばれる雑種がその出自だった。ディレステアにはそうして人間の肩を持つ化け物が古くから絶えないという。それは同じゾレンの化け物からは、疎まれる宿命でもあった。

 ゾレン出身者として、裏切り者が憎いか、ときかれた少年は、小さくかぶりを振った。
「別に……そんなんじゃない」
 伝えるのを(はばか)るほどの、自制できない憎悪。少年はまた、一人で黙するしかない。
 王女は少年を信頼するため、色々ときこうとしてくる。その問いに何者として答えるべきか少年はわからず、白熱する胸の吐き気を必死に飲み込んでいく。
 王女に八つ当たりすることはなかった。それはあくまで、英雄への憎悪だ。そんな少年を黒い鳥が、心なしか、理由のわからない哀れみの目で見つめていた。


 第二峠に行くならば、少し戻ればいいだけ、と言った王女の前言通りに、翌日の夜には一行は第二峠東端の宿場町に到達していた。
 地の大陸は本来農耕や狩猟、採集や採掘、物々交換などが一般的な未開地帯だ。しかし第二峠はディレステアの影響で、貨幣が流通する指折りの文明地域になる。

 質素だが久方ぶりのまともな宿を見つけた後に、これからが大変、と王女が念を押した。
「明日の午後には、大使館につくからね。ここザイン側の峠には、ディレステア大使館とレジオニス大使館があるの」

 町に着いてまず王女は、全員のくたびれた履き物を新調した。その足で鍛冶屋に向かい、血流しにも脂がまわった少年の剣を、高価な鋼の剣へ買い換えてしまった。
 証拠隠滅よ! などと威勢良く言うのだが、ここまで同伴した少年に報いたかったのが本音であるらしい。少年を信じ切っていないわりに、別の方面でも何かと気にかけてくる。
「ところでキラ、アナタ、今日も何も食べないつもり? もう何日も完全絶食じゃないの」
「…………」
「いくら化け物さんでも本当に大丈夫なの? 私、そんな化け物さんは見たことがないわ」
 気を使う王女はそれだけ、護衛の少年を、危険があれど必要な存在と当初から判断していた。何故そう思うかまでは、故障した五感だけではとんとわからなかったが。

 結局王女にあまり答えず、宿で外套を脱ぎ捨てた途端、少年は激しい吐き気に襲われていた。即座に口元を押え、背中を折り曲げて、身悶えしながら水場にしがみついた。
 ずれてしまったバンダナが汚れないよう、外套のある方へ放る。その動作だけでさらに胸が悪くなり、体を支える片腕が軋み、赤い印を刻む額が熱くなってきた。この印は少し前からある大事なものだが、思い出したくないのでバンダナを着けて普段は隠している。

 声を殺しながら、しびれる肢体で何とか吐物を片付けると、少年は寝台に倒れ込んだ。
「オマエ本当に、まずくないかにょろ? 体力かなり限界だなにょろ?」
 怪しい者同士、一人部屋に押し込められた抜け殻蛇が、少年を軽く覗き込んできた。
 ソレは警戒するほどの「力」を持たず、少年を心配している気配もない。答える必要を感じず、細めた視線を宙に泳がせ、少年は黙って呼吸を細く落ち着ける。
「何で何も言わないんだにょろ? オマエ、色々わかってるにょろ? もう少し親しみをアピールしないと、いつまでたっても危険人物だぞにょろ」
「……危険人物で、十分だろ」
 お。と抜け殻蛇は、背中を向けて横たわる少年が反応したのが嬉しいらしい。半開きの口で毛布を持ち上げ、少年の露わな上腕までかけると、枕の端によりかかって丸くなった。
「今日くらいはちゃんと寝るにょろ。明日はなかなか、修羅場とみたにょろ」
 警告する抜け殻蛇の声は、太陽の匂いがする温かな掛物の中で、すぐに聞こえなくなり……地上に堕ちた黒い鳥に、ここまでついてきた旅の帰結を、少年は翌日知ることになる。

+++++

 宿場町から関所までは、沢山のヒトに紛れ、何事もなく一行は辿り着いた。
 第二峠ディレステア大使館――その峠こそが王女にとって、長い苦難が報われるはずの約束の場所だった。
 ところがそこに待ち受けていたのは、この逃亡劇の発端と言える者。黒幕にしては貧相な体付きの、ある人間の男だった。
「君達。何処に行こうとしているのかね?」
「えっ――……貴男、どうして……!?」

 ディレステアの高い外壁に向かって小丘を登り、薄暗い林の中の第二峠ディレステア大使館を目前にした時だった。王女に声をかけた貴賓の人間が、多くの配下と共に立ちはだかっていた。
 驚愕に染まる王女の前に、忍の少女と少年は、すぐに進み出て戦闘態勢に入る。
(……アイツ……?)
 第二峠ディレステア大使館の門前で、館の主を待っていた王女は、閉ざされた門を背に、大量の銃器を持つ軍服の男達に囲まれてしまった。

 ようやく扉から出てきた館主の大使に、鉄柵越しに王女が厳しい怒声をあげた。
「アウクシリア第二峠大使! これはいったい、どういうことですか!」
「いえね、王女様。どうか落ち着かれてくださいね、ね?」
 大使職とは、誉れが高く、王族と対等に話をしてよいとされている。それでもにこにこと揉み手をしている第二峠ディレステア大使は、その門戸を開放しようとはしない。
「いったい何故、中立地帯の第二峠大使館に、第四峠ディレステア大使のアグリコラ殿が兵を寄せているのですか!?」
 大使館の内側には第二峠大使と門番が、外側には王女が後にしたはずの第四峠の大使が、兵まで連れて集まっている。その様相はまさに、王女を包囲した状態といえた。

 王女は気鋭に、第四峠大使に振り返る。
「アグリコラ大使! 持ち場を離れ、このようなところで何の悪ふざけなのですか!」
 第四峠大使と、それが引き連れる兵士達は、すでに人間独特の武器を構える体勢なのだ。だから少年も迷わず剣を抜いて、戦闘態勢で場の成り行きを窺う。

 兵の中心にいる豪華な軍服の第四峠大使は、一歩だけ前に出ると、少年にはわからないディレステアの古語で、妙に心地よさげに大袈裟な礼を取っていた。
「王女よ、困りますなぁ。あまりに身勝手な行動をとられては、私共も庇い切れませぬ」
「!?」
「せっかく私が、王女を迎えに忠国の徒を遣わしましたのに。あろうことか王女はそれを斬り捨てられたと、私は報告を受けておりますぞ?」
 第四峠大使はそこで、王女には理解し難い勝ち誇りの顔を見せた。
「このようなことをディレステアの民が知れば、彼らはどれほど悲しむことでしょうなあ」
 にやにやと言う、下劣な面皮の第四峠大使。その卑劣な罠を悟った王女の顔が歪む。
「あの男達は、アグリコラ大使、貴男の差し金だったというのですか!」

 明らかに人間の娘を害さんとした、山賊のような同国者達。その「D」を刻む娘には、ディレステア王家特有の月のように(さや)かな金髪、天上の鳥の聖火と言われる赤眼、そして王家の紋章の首飾りがあったというのに。
 そんな刺客を遣わした者が、この地に来る理由は一つ。そこに王女がついに思い至る。
「アグリコラ大使……まさか、貴男は……」
 そんな刺客を遣わした者が、この地に来る理由は一つ。そこに王女がついに思い至る。
「第四峠に反乱勢力を呼び込み、和平交渉を潰したのは、貴男……貴男はレジオニスとも手を組んだ、反乱勢力の一員なのですね!?」
「何を仰いますかな? 私はわざわざ、王女をお迎えに上がったと申しますのに」
「大使が持ち場を離れることは厳禁です! 貴男自身がここまで足を運ぶのは、謀叛者の指揮を直接とるために他ならないでしょう!」
 激昂する王女に、己が頭脳を誇るらしき矮小な男は、実に野卑な笑みを浮かべた。

 そうして王女は、罠にかけられたのだ。謀反の勢力に殺されても、返り討ちにしても、第四峠大使に都合良く事が運ぶ――王家への不審を糾弾する材料とされるように。

 第二峠大使は巻き込まれたくない一心の様子で、今も門の内に留まっていた。
「まさかね、にわかには信じ難いことですけどね? ひとまず第二峠レジオニス大使からも、国境封鎖の要請が来ているんですよ、王女様」
「国境封鎖!? そんなこと有り得ません!」
 取り囲む兵士を牽制する少年達の間で、必死に闘う王女の血の気がさっとひいた。

 ただの人間である第二峠ディレステア大使が、恐ろしい化け物のレジオニス大使に睨まれたくない怖れは王女もわかっている。しかし数多の化け物達が渦巻く第二峠には、レジオニスと相容れないザインの高名な雑種にも大使を任せてあるのだ。
「あともうひとかた、ザイン大使館のフィシェル大使は、何と仰っているのですか!?」
 このザイン大使がとても信用できるから、第二峠に行く、と王女は話していた。その名をそこで出したものの。
「ええとですね、残念ながらですね、フィシェル大使は先日から行方がわからなくなっておりまして、ですね」
「――!?」
 王女の視線に第二峠ディレステア大使は後ずさり、それではそういうことで! と、館内に逃げ帰ってしまった。
 そうして場には、第四峠のほぼ全ての人間兵士に囲まれた、三人だけの少年少女が取り残されたのだった。


 第二峠ザイン大使――ディレステアの王女が頼みにしていた、高名な化け物が消えてしまった。他には何もゆかり無き地で、敵に囲まれた王女と忍の少女の戦慄が少年に鮮明に伝わる。
 この関所はまず通れないだろう。無情な現状をすぐ把握した少年は、林間に集う兵士の銃口の前で背中を合わせる忍の少女に、低くかすんだ小声で尋ねた。
「……騒ぎを起こせるか、シヴァ」
「……?」

 ザイン大使がいなければ、第二峠に執着する理由はない。それなら無私の少年の決断は早かった。
「あんたの『壁』は――アイツらのことも、含められるのか」
 武装した兵士を見て問うと、忍の少女は意図をわかったのか、小さく頷く。
 唯一の懸念は解消された。少年は少女に一言だけを指示し、第四峠ディレステア大使の元へ向き直った。

 うそ寒い高林で、吐息を震わせる王女が立ち尽くしている。細い肩を少年は軽く叩くと、振り返った顔に有無を言わさず、腕を取って忍の少女へと引き渡した。
「――キラ!?」
「……剣をありがとう、アディ」
 考えてみれば言えていなかった。今頃礼を告げると、何故か気分が落ち着いていった。
 改めて剣先を翻す。徐々に熱を帯びてきた円陣の中心で、第四峠大使を鋭く睨みつける。

「アンタ……この間の奴らの、親玉だな」
 無学な少年は、古語での会話を理解できていない。第四峠大使に拙い共通語で話しかけた。
「同じ匂いだ。弱い者虐めが大好きだって、下衆な匂いが」
 第四峠大使である男は、大使だけはあって大陸全体の共通語にも精通しており、少年の侮蔑を理解して歪んだ笑顔を見せた。
「何かね、君は? 君がその王女の命令で、大事なディレステア国民を手にかけたのかね」
 反論など簡単だ、とばかりに、少年にもわかる共通語で男は話し始める。

 ゆっくりゆっくり、王女を抱え込むように、かばい続ける黒い鳥が熱を持っていく。まるでその背から徐々に、透き通る熱の翼を生やしていくような――少年はその虚ろな火を感じ取る。
 それこそ少年が、黒い鳥に託した指示。なるべく異状に気付かれぬよう、そして一瞬で激するように、少年自身も呼吸を操り、機を窺いながら話を続ける。

 人間の男達を殺したのが、少年でも忍の少女でも、第四峠大使はどちらでもよいのだろう。その参考人が、王女の護衛であること自体が問題なのだ。それなら少年は――
「誰も俺に命令なんてできない。俺は、下衆な奴らを殺したいだけだ」
「しかし君は王女の護衛で――……む?」
 第四峠大使はその時、少年の手の「Z」を見た。そこでやっと誤算に気付く。何一つ保身を考えていない少年の出方、その意味を思い知ったようだった。
「まさか……またも、ゾレン人の護衛だと!?」
 それは第四峠大使には、最も不都合な展開を招く事実。都合が悪いのは少年も同じで、この後は峠の警備隊に咎人として、その身を断罪されるのだろうとわかっていた。

「ちょっとキラ! そんなことは――!」
 忍の少女が殺した、と口裏を合わせる話を違える少年を、王女が後ろから焦って掴む。何故ならそれは、かのヒト殺しを正当化し、全員を守るための方策であったからだ。
「もうその必要、ないだろ」
 王女の顔も見ずに少年は答える。その心積もりを悟ってか、王女が愕然と表情を固める。同時に少年の前でも、驚く速さで酸っぱい面付に変化した第四峠大使がいた。
「何故だ……何故にこうゾレンの化け物は、いつも貴女をかばうのだ、王女よ!」
「アグリコラ大使!?」
「いや、やはり裏切り者は王女、貴女だ。ゾレンの手先になって大事な国民を手にかけ、国をゾレンに売り渡す算段に違いあるまい!」
「……それはさすがに、無理があるだろ」
 必死に辻褄を合わせる第四峠大使の言葉を、最低限の共通語で完封した少年だった。

 第四峠大使にとって、この場は何の危険もなく、王女を糾弾すればよいはずだったのだ。差し向けた刺客のように王女と戦う気はなく、同国者として話し合いに来たのだから、護衛が抵抗すれば王女の立場はますます悪くなる。それがディレステア人同士のいさかいであればザインの異国者も介入権限を持たず、あくまで大使からの告発となる。
 しかし部下のディレステア人を、敵対国のゾレン人が殺したと証言し、ここで戦闘までされると大使は何一つ安全ではない。対して王女は、少年を見放せば事が済んでしまう。殺された人間の男達のことも、敵国の少年に罪を着せればいいだけの話だ。
 そうなると大使にはただ危険な上に、現王家に不信感を招きたい反乱勢力として、何の旨味もない状況だった。第四峠大使もそうして苦境となったが――

「キラ――どうして……!」
 自分を切れ。それが少年の意志なのだと、悟った王女が声を詰まらせて飲み込む。
 少年はそれには答えず、ただその第四峠大使――女子供を狙う多勢の刺客を放った者に私怨にも似た憎悪をたたえる。知らず、寒々しい眼光に血塗られた赤い焔が宿った。
「俺は……アンタ達みたいな奴は、嫌いだ」
 殺したい。その死神を本能的に感じた人間が、瞬時に腰を抜かしておののいた。
「ひぃぃぃ……! 殺せ、そいつを殺せ! 誰か助けてくれ、ヒト殺しの化け物だぁぁぁ!」
 円形に陣取る部下達にそう叫び、なりふり構わず狼狽しながら敵の筆頭が後退する。
 第四峠大使の命じた通り、全ての兵士が少年を標的に切り替えてきた。

「キラ、もう逃げて……!」
 使い捨ての先日の男達とは違い、銃という高度な武器を今日の兵士は持たされている。ディレステアとは「力」無き人間でも化け物と戦える、技術の発達した文明大国なのだ。
 その銃器を始めとした様々な技術は、弱小な人間が天恵により世界を動かしていた古代――高度物質文明の遺産であるとも名高かった。
 ディレステア王家は古代人の血をひき、脅威の破壊兵器を伝える唯一の管理者である。
 化け物がひしめく原始的な「地の大陸」で、人間の国が成立する最大の理由が、その真偽の知れない伝承であると少年は知る由もない。

(どの道……もう、終わりだ)
 よく知らない火器の小銃が、いったいどういった武器であれ、この数の人間を捌ける余力はない。ここで戦えば少年の仕事は終わる。残った力も使い果たすことだろう。

――フィシェル大使は、行方がわからなくなっておりまして。

 それなら後は、剣を買い換えてくれた返礼に、王女をこの窮状から解放したい。そして黒い鳥にも要らぬ嫌疑をかけず、少年がヒト殺しの罰を受ければいい。
 少年はそのまま静かに、呼吸だけを止めた。

 ザインで育った少年は、ザインが完全中立地帯であることはよく知っていた。ディレステアの人間を殺した時も、それが咎めを受ける行為であるとわかっていた。
 場に言い知れぬ熱情が満ちてきたことを、全く気付いていない第四峠大使は、兵士達の威嚇をものともせずに剣を構える少年に縮こまった。
「何を、何をするつもりだ、化け物!」

 少年は、忍の少女に告げた狙いが、すでに達成されつつあることも感じ取っていた。
――騒ぎを起こせるか、シヴァ。
 忍の少女の「壁」による暖……異常な熱の集中に、ザインの化け物がここを見ている。
 敵しかいない状況よりも、さらなる混乱を呼ぶこと。それ以外には活路はなかった。

 化け物が持つ「戦う力」には、「神威」、「獣性」、「自然」の大きく三系統があるとされる。最上の化け物とされる純血の好む「高度な力」が、「神威と理の運用」たる「魔道」であり、魔力に紡がれる神秘「魔術」や念を具現する禁忌「呪術」など、様々に分派していく。
 そして最強と言われる「天意の力」が「自然」であり、自然元素を司る「精霊魔法」や、自然の脅威「竜種の災厄」が該当するが、天性が大きいその「力」は非常に稀少でもある。

 忍の少女が、熱の分布に介入しているのは、明らかに「高度な力」ではあるが、「魔道」といえるほどの指向性がない。場が温まる以外効果はないが、その異変で騒ぎを起こすこと自体が少年の目的だった。
 熱を放ち、世界の理をどう動かすかという、魔道的な「力」の質疑は意味をなさない。
 忍の少女――翼無き黒い鳥が、どうやって熱を放っているのか。その熱は何処から調達されたものであるか。一番重要なその疑問を持てる者は、この場には存在していなかった。
 黒い鳥に指示を残した少年と、黒い鳥のことを少年に教えた、異端の抜け殻蛇を除いて。

 少年が一歩、第四峠大使の方へ踏み出しただけで、卑小な人間には臨界点がきていた。
「――撃て! 王女に当たってもかまわん、その化け物が殺したことにすればいい!」
 甲高く叫んだ第四峠大使に、第二峠大使館の非武装の門番達がざわつく。その明らかな背信に対して、貴重な目撃者達に王女が咄嗟に声を上げた。
「貴方達、すぐに館内に退避しなさい! 巻き込まれる前にこのことを伝えるのです!」

 流れ弾の危険がある上に、王女の勅命。門番達は揃って、誰もが慌てて逃げ出し始めた。
「撃て撃て撃て撃て! 皆殺しにしろ!」
 それも含めて撃つよう命じた第四峠大使に、反乱勢で固めてあるだろう兵士は、迷わず全員が引き金に手をかけ――

 たった三人の少年少女に向けて、逃げ去る門番もろとも集中砲火を浴びせんとした諸人。その卑しさを嘲笑う事態が、やがて続いた。
「なっ……なぁっ――!」
 銃声の嵐が吹き荒れるはずが、静まりかえる場にあるのは、全ての兵士が自身の武器の不発に慌てふためく滑稽な姿だった。
「な、撃て、撃てと言っているだろう!」

 そうやって、熱を奪われ、無様な敵の陣中へ、その隙に少年は上段から鋼の剣を大きく振り下ろした。
 少年に残された「力」で成しえる抵抗、余分を切り捨てる拒絶だけを込めて。

 (うめ)き声のような衝撃音と共に、剣から発した白光が扇形に疾走する。その広角の矢面にいた第四峠大使と大半の兵が、一瞬で吹き飛んでいった。
「――なぁぁ!?」
 誰からともなく、立ち残った兵士達がざわめく。広範囲に通じる「力」を打った少年に再び銃が向けられるが、またもや不発で動揺が起こる。
「キラ、待って!」
 残った兵士団に飛び込み、活路を開くために次々と剣を払った。行く手の兵士が弾き飛ばされる。何とか脱出口が通じたところで両膝をつき、地面に突き立てた剣の柄に縋った。

 この一連で、少年の力はほとんど尽きた。乾いた喉に血が絡んで息が詰まる。全身が蒸発しそうな苦痛に耐えていると、駆け寄ろうとした王女を忍の少女が慌てて止めた。
 陣営を崩された兵士達が、虫の息の少年を見て全員で切りかかってきた。王女の制止も通ることなく、数を(たの)んだ人間達が少年に襲いかかる。

 しかし少年が、忍の少女に指示していたこと。ザインで生きていた少年の数少ない人脈、騒ぎに反応するはずの者を呼び寄せることには、すでに成功していた。
「――そこまでや! このザインでの揉め事は、一切勘弁やで、あんたら!」
 忍の少女が熱を散らかす異状に、遠目から場を探っていた化け物。少年の手甲の「Z」を見て、同じ所に奇妙な「8」の印を持つ声の主が、糸のように細い目でにやり、と笑った。

 地に伏す人間の間をぬって、十数名の化け物が、場の者を誰彼構わず取り押えていく。それを手伝う数羽の怪鳥がばさばさと降り立つ。一般的な服の上に白布を巻きつけ、右肩で留める制服を着た精鋭達。ザイン三大勢力の一つである「警備隊」の到着だった。
 介入すべき異種間の争いか、警備隊はずっと様子を窺っていた。少年が「力」の白光を放ち、「D」を刻む人間達が反撃に出た時点で、おそらく踏み込む決断を下したのだろう。

 ずっと腰をついていた第四峠大使が、必死に自己主張を始めた。
「よ、よく来てくれた、ザインの警備隊よ! この者達が我が部下を殺した! 捕まえろ!」
「別に誰も死んでへんで? とりあえず事情聴取や、こいつら全員ひっとらえい!」
 そうして警備隊の化け物達が、倒れている人間もまとめて手際よくお縄にかけていく。

 あくまで第三勢力でも、敵の敵が混ざったことに、王女が俄然やる気を出した。
「ザイン警備隊の隊長殿! 申し伝えたいことがあります!」
「へ? って――あんたは!?」
 そして互いが顔見知りだったことに、支部隊長も王女も同時につんのめって驚く。
「まさか……バルフィンチ長官?」
「ディレステアのアヴィスちゃんやんけ?」

 それを聞いた少年は力が抜けて、へたりと座り込みながら、剣だけは何とか鞘に納めた。
 ひとまず、縛られた王女達は当面安全、と確信を持てる相手がその支部隊長なのだ。

 弱り切った少年が、王女達以上に重要な知り合いであると、迂闊にも支部隊長は少年に縄をかける時にやっと気が付くことになった。
「は!? こっちはオマエ……あれ、えーと、そうや! キラ! キラやないか!」
「……」
「無事やったんか、キラ!? このどアホ、どれだけ探した思ってんねん!」

 王女が不思議そうな顔で、旧知である支部隊長を見上げて尋ねた。
「長官は、キラをご存じなのですか?」
「当たり前やろ、非公式やけど、クランの一人息子やがな。コイツらを探して、クランは行方不明になってしまいよったんやから」
「――えええええ!?」
 支部隊長が口にした失踪者の名は、王女が希望の灯としていた、第二峠ザイン大使――治水の魔道の大家である雑種、クラン・フィシェルそのもの。
 黒い鳥が密かに、少年に会ったことがある気がする、という心をようやく納得させていた。
 少年も今更、悟ることになった。黒い鳥が見る少年の姿は、その大使の息子であることを。

 支部隊長は頭を抱えつつ、改めてその嫌疑を、公正な警備隊として少年に訊ねかけた。
「向こうの大使の部下を殺したって、どういうことや、キラ?」
 そこでヒト殺しの少年が何か答えてしまう前に、王女が憤然と割って回答する。
「違います、長官! それは私の護衛がしたことで、ディレステア内部の問題なのです!」
「そうなんか? 証言が食い違うとるみたいやから、まずは警備隊で調査せなあかんなぁ」

 死因やそれぞれの出身地を取り調べ、裁定を下す必要がある。それなら警備隊も、すぐに少年を罰することはできない。それを勉強家な王女は知っていたのだ。
 現状ではこれが最善、と、納得して捕縛された、難境の王女達と少年だった。

◆④◆ 緋色の髪の男

 ヴァルト・バルフィンチ・ZS。ゾレン出身の強力な化け物ながら、ザインに帰化して「S」を刻み、「Z」に重ねたことで「8」の印になったのがその第二峠支部隊長だった。王女達が知るのは数年以上前の、ディレステア通商庁旧長官の溌剌とした鳥頭姿だ。
 ザインやエイラ平原には国がなく戸籍制度がないため、出生時に「D」や「Z」を刻む必要はない。それでもザインに住む者には、中立を表明するために「S」を刻む者もいる。
「しかしオマエ、この印も剣もどうしてん?」
 支部隊長は首をひねり、妙に高価な剣を持ったザインの少年に尋ねるのだが、それは最も話したくないことで口を開く気になれなかった。

 化け物用の頑丈な鎖をしっかりと腕に巻かれ、少年は警備隊の拘留地まで連行された。
 第四峠大使一派とは離され、取り調べとして支部隊長が私室に一行を招き入れた。
「オマエ、元々気配弱くて探し難いんに、さすがに弱り過ぎやろ。何があってん、キラ?」
 拘留地までの、僅かな登山でも蒼白な少年を、支部隊長は鎖をしたまま救護効果を付する敷物に座らせる。公私の線を逸脱せずに厚遇するが、少年は何も喋りたくない。
 木々深い山間の、ごく普通の天幕集合所に見える拘留地では、処々で焚火の煙が上がる。盛況な町に比べ、秘境ザイン本来の簡素な天幕が多い拘留地だが、いずれの天幕にも並み居る化け物を制する強固な結界を敷いている、と支部隊長が語る。

「まさか長官が、警備隊になられていたなんて」
「おお。ディレステアで必死に頑張っとった頃よりは、これでも好待遇やねんで」
 怪鳥を従える雑種である支部隊長は、英雄ライザと同郷者でもある。そうして古くから英雄と共に、ディレステアに貢献していた身上だったのだが――
「あの時は本当に……ごめんなさい、長官」
「ええねん、アヴィスちゃんが気にすることやない。おれが問題起こしたんも確かやしな」
 ゾレンの化け物を嫌うディレステア人達と揉めた旧長官は、あえなく追放処分を受けてしまった。その後にザインに流れ、警備隊となったことを知る者はとても少ない。
 そんな化け物の数少ない旧い仲間が、捕えられた少年の両親であるのだ。

 ぴくりとも顔を上げない少年の真正面に、支部隊長が隅の暖炉をたいてから悠然と座る。王女と忍の少女を横の長椅子に揃ってかけさせる。節くれだった右手を少年の銀色の頭に置くと、まず安堵の長い吐息を、熱々と漏らした支部隊長だった。
「とりあえずほんま、無事でよかったわ。レインさんがあないなことんなって……もしやオマエ、仇をとりにいったんちゃうかって、ずっと心配しとったんやで」
 無言で俯き続ける少年と、支部隊長のただならぬ空気の重さに、王女が恐る恐る疑問の色を浮かべた。その顔を見て、王女達が何も少年の事情を知らないとわかったらしい支部隊長は、少年から手を離して振り返りながら深い溜め息をついた。
「ついこの間、キラのお母はんが、ゾレンの追手に殺されたんや……でもそれは同国間の揉め事やし、あんまり突然過ぎて、おれは駆けつけることもでけへんかった」
「……!」
 王女は息が止まるほど強く胸に手を置き、忍の少女も体を強張らせて少年を見つめた。

「レインさんは、エア・レイン・Zいうて、おれやライザの姉貴分で、ディレステアにも『千里眼』の名前で貢献したんやで?」
「って……それは長官、もしかすると第五峠の占い師、『エア・フィシェル』ですか?」
「そうそう、それやそれ。芸名はそっちやった。でもその能力が仇んなって、ゾレンから追われる身になってもーたんやけど」

 そうして支部隊長は、暖炉の前で影を揺らしながら、そのゾレン人の女の話を始める。
「レインさんは生まれつき、『千里眼』っつー広範囲の気配がわかる能力の代償に、えらい体が弱うてな。ただの人間やのに、持っとる感覚が特殊過ぎたんやろうな」
 人間という生き物は、化け物よりとにかく気配が拙く、「力」無き存在をそう呼ぶことが多い。それでも人間にも、呪いや神降ろしを行える神子(みこ)など、独特の能力を持つ者が現れることがある。それらは突然変異として、由緒正しい魔道家からは嫌われる。
 「千里眼」は、探索可能距離が異常なものの、化け物には普通の第六感たる気配探知で説明可能な能力だった。魔道の大家、フィシェルを名乗っても咎められなかった人間は例外に属する。人間には気配探知という第六感が滅多にみられず、予知や霊感といった、特殊感覚の異能が多いのが特徴なのだ。

「十七年前のディレステアとの和平に、おれやライザが頑張ったんは知ってる思うけど。その活動を支えたんは、レインさんの『千里眼』でもあるねんで」
 英雄を始め、休戦の功労者は主にゾレン人であり、ゾレン国王の信も厚い一派だった。だからこそ実現できた、夢のような七年間の完全休戦だった。
 しかし再開戦後は誰もがゾレンに背を向け、祖国から狙われる形になっている。特に「千里眼」は休戦直前の事変で両眼を焼かれており、平和が訪れる前にゾレンを追われていたという。
「銀髪赤眼のすっごい美人やのに、クランに出会うまでは独り身やってなぁ。クランも、お尋ね者で盲目になったレインさんを、強引にザインに攫うたようなもんやしなぁ」
「あの物静かな、フィシェル大使が?」
「それだけレインさんは強情やってん。体はめっちゃ弱いんに、キラが生まれるまでは、ザインの山奥で一人暮らしを続けたんやで?」

 同じように、ゾレンから逃げた者が集まった隠れ里で、「千里眼」はその力と、生来の頭の良さや器用さを活かし、周囲の役に立つことで生活を助けられていた。ところがやがて、あるきっかけで里の者に疎まれていくことになる。
「ライザが再開戦の時、ゾレンを裏切ったやろ? そこからゾレン軍の、逃亡者の追跡が厳しなってな。レインさんはずっとライザの味方やったから、反感を買うてしもてん」
 そしてついに先日、ゾレンの追手に見つかってしまったのだ、と「千里眼」の死について支部隊長は忌々しげに話したのだった。

 少年の母の惨い末路。悲愴な顔で、しばらく黙り込んだ王女が、改めて少年を見やった。
「それならキラ……どうして、フィシェル大使の息子さんだと教えてくれなかったの?」
 びくっと、僅かに体が揺れる。沈黙を守る少年が初めて反応してしまう。
「私達が第二峠大使を信頼していることは、話していたのに……教えてくれれば、アナタを疑ったりしなかったのに」

 少年の出自を知った王女と忍の少女は、今や虎に騎る勢いで、少年を信じ始めていた。
 しかし到底、その期待には値しないヒト殺しは、だからこの話をしたくなかったのだ。

 失踪したザイン大使は、少年を探しているという。それだけでも少年は自らに虫唾が走る。
 その憂き目にあった王女に、答を返すなら一つしかなかった。
 肺腑(はいふ)にこびりつく暗い呪怨を、やっと少年は絞り出す。
「……俺の――せい、だから……」

 本当に答えるべきことは、もうわかっていない。
 声を出す力すら尽きていく死線の上で――この時ばかりは少年も堪え切れなかった。
「っ――は……!」
「ってキラ!? おい!」
 這いつくばったまま激しく黒い血を吐き出した。支部隊長が慌てて救護班を要請する。
 少年の惨状を目の当たりにした王女達は、大きな衝撃を受けていたものの、まず王女達自身の窮状を説明するために、支部隊長の天幕にしばらく留まることになる。


 危篤と言える昏睡で、少年は寝台に横たえられた。支部隊長が堪えられないように、思わず顔を覆う。ずっと悪ガキとして手を焼いた相手の、その姿はあまりに痛ましいものだったのだろう。
「クランも失踪してしもうたし……おれはどうしてやればええねん、レインさん……」
 警備隊での仕事は、支部隊長にとってはやっと得た安住の地だ。バンダナが覆う少年の額に手を当て、その母を彷彿とさせる銀髪の、弱々しい寝姿を困り果てて見つめている。

 その後、王女達の元に戻る前に支部隊長は、大切な疑問を知らず口にしていた。
「ところでキラ……ユオンはどないしてん?」
 いつも、支部隊長の手を何度も煩わせていた、旧い仲間の威勢の良い子供達。
 その赤い目と青い目の、共に銀色の髪だった二人の少年を思い浮かべて、もう一人をまだ探している支部隊長は、糸目顔をひたすらしかめて両腕を重く組むのだった。

+++++

 「キラ」というのは、ゾレンの言葉で、「ヒト殺し」を意味するのだという。盲目で体が弱く、出産など無理だと思われていた「千里眼」は、よく笑いながら言っていた。
 少年は一人、暗闇に横たわっている。まるで走馬灯のように、不意の温かな光景が広がっていく。

――エアは、命がけでオマエを産んでくれたんだ……キラ。

 ザイン大使の言う通り、虚弱な「千里眼」は、その子供の出生に殺されかねなかったのだ。
 出産前後は第二峠に身を寄せていたが、やがてまた山奥に隠れた「千里眼」であり、それを支える実子に彼女はいつも、目隠しの下でもわかる微笑みをたたえていた。

――本当に、嬉しかったの。アナタはクランと私の命、かけがえのない宝物なの。

 たとえ命尽きても、生まれてほしい子供。その名を愛しげに呼ぶ彼女を、きっと誰もが守りたかった。それでたとえ、真なる「ヒト殺し」になったとしても。

 ヒト殺し。それはこの化け物が闊歩する神秘世界では、結局は弱いものが悪い天理だ。だから弱い人間と強い化け物はいつまでも相容れない。助け合う人間と奪い合う化け物、どちらも互いの気持ちは理解できない。
 けれど化け物は、ヒトの姿を持っている。特に雑種は、化け物の体に人間の心が宿った哀しからぬ生き物だという。
 そんな化け物に惹かれ、通じる人間は少なくない。ザインの大使と「千里眼」のように。
――姓だけ名乗らせて。それだけで私、幸せ。
 占い師のエア・フィシェル。両眼を焼かれてからは、その姓を名乗ることもなかった。「千里眼」の能力自体はむしろ研ぎ澄まされたが、人間としてはそれは不幸なことだ、と離れて暮らす大使は悲しげに白い目隠しをいつも見つめていた。

 第二峠のザイン大使が、もうそこにいない。その事実が少年の、微々たる心残りを奪う。
 ゾレンから追われる「千里眼」は、ザイン大使の誉れを汚さないため、公的に妻となることを拒否していたというのに。

 隠遁を続ける「千里眼」は、その山里のことを、「残り者のたまり場」とずっと呼んでいた。
 わけあって故国ゾレンから、逃げた者達が集まっている隠れ里。そこから巣立てずにいた者は人間が多く、化け物達も弱い血筋が残り、行き場の無い弱者が身を潜めて細々と生活していた。
 その中で死刑宣告まで受けたのは、彼らを逃す手助けをした「千里眼」だけだ。彼らは「千里眼」に恩があるものの、ゾレンの追手に自分達も処罰されるのを長らく恐れていた。

――困ったことになったもんだがなぁ。今後を考えれば、これでよかったのかもしれんな。
 だから大人達は、葬送は二人で済んだことに強く安堵し、少年を慈しんでくれた女性の棺を前にそんなことを呟く始末だった。
――それで、おめぇはどうするんだ、キラ。
 彼らにすれば、ささやかでも葬儀を行っただけで上々だったのだろう。今でもその日をよく覚えていない少年は、我を失ったまま、翌朝早くに隠れ里に背を向ける。
――フィシェルさんのとこに行けや。エアがいなけりゃ、おめぇにゾレンの罪状はねぇ。
 少年はそして、黒い鳥に出会う山路へ、無我夢中に迷い込んでいったのだった。

 人間も化け物も、里の彼らは誰もが少年を疎んじていた。
 あの日少年は、同じ里に住む仲間を惨殺した――そして、ヒト殺しとなったのだから。

――ユオンは行方不明とな……全く。あの、ライザの息子がいたせいで、俺達もびくびく暮らさにゃならんかったんだ。

 そうしてそこから、耐えない吐き気が少年に根を張る。

 少年はただ、何もかもが許せなかった。
 大した力もなく生きていた人間を、無情の死に追い込んだ全ての化け物。守れなかった少年自身も、それは同罪だった。
 あまつさえ――その原因はあの、灰色の眼の英雄……。


 目を覚ました時、少年は見覚えのない牢で、毛布をかけられた状態で横たわっていた。
「――……あれ?」
 両手を拘束し、化け物たる力を使えないよう、封印の魔道を施された鎖も外されている。
 警備隊の駐屯地で手厚い治療を受けたのか、体力も僅かに回復していた。今すぐ倒れるということはないが、戦えるほどの力は戻っていない。

 首を傾げる少年に、不意に――
 その緋い(えにし)は、あまりに唐突に訪れを告げていた。
「よォ。目が覚めたかい? 少年」
 眠っていた少年から少し離れ、あぐらをかいている人影。何故かずっと、様子を見ていたらしい誰かの声が、広めの牢内に軽やかに響いた。

 少年は起き上がり、その誰かと同じように座り込んで、周囲を見回してみた。
「ここは……何処だ?」
 おそらく、何処かの地下室なのだろう。土の匂いに不思議と落ち着く心地を感じながら、呑気な声でそう口にする。
 その様子に誰かは、さも冷ややかに、笑って答える。
「ここは、オマエさんも来たがっていた、第二峠の地下牢だよ」
「へっ?」
「ディレステアのアヴィス王女のたっての願いでね。オマエさんのことはディレステアで裁きたいと、警備隊で必要な治療をさせて、ここに身柄を移したわけだ」
 ただし。その中性的な声の誰かは、端正な顔の鋭い金色の眼を細めて笑う。
「あくまでここはまだ、国境から言えばザイン側。更にはエイラ領でもあり――つまりは、オレ達の縄張りなのさ」

 おそらくそれは、男だろうが、外見だけなら女と見えなくもない、長くてまっすぐな淡い赤毛。明るい場所では鬱金にも見えそうな緋色の長い髪を、首元で無造作に一つに束ねている男は、襟が角ばった形の珍しい上着を着ており、牢の壁にもたれて少年を見ていた。
 全く見覚えのない者。しかし男は少年の母語、ゾレンの新語で話しかけており、そんな気遣いを怪訝(けげん)に感じる。
「じゃあ、アディ達は、峠を通れたのか?」
「――へぇ。先にそちらを気にするとはねェ」
 くくく、と彼は楽しげに微笑む。緋色の髪が飾る嫌味のない顔からは、不思議と純粋に現状を面白がっている空気しか伝わってこない。
「残念だけど、王女様達も一触即発? 依然、持ち場に帰ろうとしない第四峠大使と、この上でひたすらにらめっこ中さ」
 王女達の安全は、ザインにいる内は警備隊の男が睨みをきかせている。しかしその権限は、峠を越えるには及ばない。男が嘲笑うように実状を言う。

「それで――アンタは、レジオニスの化け物?」
 そして難無く状況を見切る少年に、男はますます面白そうにした。
「ここがエイラでもあるなら、レジオ大使もこの峠にいるんだろ」
「いいや? オレは別に、この第二峠の大使ではないけど?」
 容姿は二十代前半に見えるが、声色からも幼さを漂わせる男。少年はそれじゃ、と適当に口にする。
「あの下衆大使と同じ。第四峠のレジオ大使」
 男は楽しそうに、今度はふっと黙り込んだ。確かに誘導的だったとはいえ、あっさり己の正体を看破した少年に、改めて興味を持つような視線を向けた。

「それで、アディ達を罠に嵌めたレジオが、俺に何の用だよ?」
 和平交渉の場を仲介しながら、ディレステア反乱勢力を招いたというレジオニス。好感は持てそうにない相手だが、少年の母語で話してくるためか、口調が砕けて男に対峙する。
「オマエさんさ。ソレは昔からか?」
「――?」
 男はずっと不敵に、害は無い声色のまま微笑んでいた。
「わかるんだろ。オレがオマエさんにとって敵か味方か――誰が下衆で、誰が真っ当か」

 それだけじゃない、と緋色の髪の男が呆れるように続ける。
「例え弱い人間相手と言え、初見でその急所――人間なら心臓を、精確に狙い打つとかな」
 まるで、少年の戦い方を見てきたような口ぶりだ。男は頬杖をつきながら、男がここに現れた理由である依頼をそこで口にした。
「そんなオマエさんを見込んで、一つ頼もう。アヴィス王女達――ディレステアの面々を、ここから連れ出してくれ」
「え?」
「オレ達レジオニスが見逃すと言ったからには、王女様には無事国に帰ってもらわないといけなくてね。この第二峠にいるディレステアの大使と、あの第四峠の大使はグルだよ。ここでは王女は峠を越えられないし、今や脱出もできない」

 にこにことしながら、厳しい状況を告げる男。少年も怪訝な顔を向ける。
「じゃあ、違う峠を通れってこと?」
「お察しの通りさ。どの峠を選ぶべきかは、オマエさんの腕と……その『直観』に頼ろう」
「――えぇ?」
 その情報はくれないのか、と少年は呆れる。しかし男は気にせずに、手土産らしき物をどさりと放り出した。
「ほらよ。オレのコネに感謝してくれよ、オマエさんは」
 警備隊に没収されていた少年の剣と荷物。どうやら少年の鎖を外したのも、指でくるくる鍵を回しているこの男だと見えた。
「この情勢じゃ、どの峠が無難かはオレにもわからない。武運を祈ってるぜ、少年」
 そのまま男は唐突に――まるで土の中に取り込まれたように、煙を上げて消えていった。

「何だ……アレ」
 剣と荷物を拾いつつ、少年は強く首を傾げる。
「アイツ……何処かで会ったような?」
 何故かあまり、警戒心の持てなかった相手。
 まずもって、油断して良い相手ではないが、今は少年に脱出の好機をくれた。それなら黙って依頼を受けるしかなさそうだと頷く。
「別に……もう他に、することもないし」

 第二峠に会いに来たはずだった、ザイン大使は失踪してしまった。そのために王女達が足止めを食っているなら、それは少年が償うべき事柄でもあった。
 たとえそれが少年にとっては、何の希みも生み出さない旅路でも。

+++++

 地下牢の脆い部分を見極め、気取られない最低限の破壊で、少年はやすやすと脱獄を果たした。
 警備の薄いディレステア大使館で、人間の娘達の押し込められていた部屋を、まず最初に探し当てた。
「あ、アナタ、あ……!」
 驚き過ぎて声も拙い王女に、黒いバンダナを締め直した少年はお待たせ、と笑いかけた。
「ヴァルトに見つかると後が面倒だから。早い所ずらかろう」

 そもそも何故、彼女達の軟禁された部屋がすぐにわかったのか。初見の者の弱味を見抜き、忍の少女の「壁」も温かさで感じ取れる少年は、脱出経路にも不自由しない。
 幼少時から周囲に言われた「故障した五感」は、「千里眼」の母が視るものも感じて様々な応用が効くようになった。一番得意なのが、人体の急所を観ることであるだけだ。
「バカ! アナタねぇ、人がどれだけ心配していたと思っているの!」
 怒りながらも王女は、先導する少年にしっかりと続く。
「オマエ、見直したぞにょろ! ただのバカ正直バカじゃなかったなにょろ!」
「バカ正直バカって何だ、それ」
 気が付けば肩に乗り、難解な罵声を口にする蛇もどきにも、少年は慣れつつあった。

 故障した五感。謎の男曰く「直観」は五感を介し、少年に迷いがない時に強く働く。
 王女達をディレステアまで送り届ける。不審な男からそれを依頼として受け取った時、少年の意識はいとも簡単に、とるべき道を拾い上げていった。

「ところでオマエ。同じくらいバカ正直バカから、伝言があるにょろ!」
「――へ?」
 唐突にそんなことを言って、抜け殻蛇が巻きついてくる。
「どうしてもディレステアの王女と共に行くなら、二度とザインには帰んなや――咎人は追放や! だとにょろ!」
「……――」

 それはおそらく、少年がこうして脱出することを期待していた彼の、見逃しを意味する不器用なエールだ。ザインさえ出れば何とかなるのだろう、とほどなく理解していた。
 きっと、平穏を希求するザインにおいて、血まみれの少年の居場所はもうないことを、誰より少年自身がよくわかっていたのだから。

 ある程度拘留地を離れてしまえば、後は忍の少女の「壁」が頼りだった。
「大丈夫か、シヴァ?」
 ディレステア大使館で、一人で王女を守り続けた忍の少女も密かに消耗していた。気力で「壁」を展開しているが、揺らめく紅い目の焦点が合わず、足下もおぼつかない。
「これは何処かで、休憩が必要だなにょろ」
 抜け殻蛇が辺りを見回し、少年をはた、と見上げると、空洞の目をきょろりと輝かせた。
「オマエ、この辺、詳しいだろうにょろ? 隠れられる場所に連れていくにょろ!」
「……詳しくはないけど、探すのは得意だ」
 いい加減な道案内役に憮然と答えつつ、少年にも回復の場は必要だった。何も考えずに動けば迷い続ける山々だが、目的さえ持てば秘境育ちの足取りは軽い。
「水の流れてる所がいい。匂いがする方へ行こう」

 風が強くない夜であるのが、丁度良かった。本能的に動き続ける少年の先導で、その後に一行が辿り着いたのは、渓流が覆い隠す小さな空洞……清瀬の滝の裏に広がる岩屋だった。
「凄いわ。これなら水も食料も、隠れたままで何とか確保できるわね」
「シヴァちゃんの『壁』も狭くていいし、効率が良いなにょろ。お手柄だにょろ、キラ!」
 肉眼的な捜索も、気配での探知も遮断しやすい横穴。少年は一応警鐘も加える。
「警備隊の誰かは、隠れやすい所として知っているかもしれない。長居はしない方がいい」
「そうだなにょろ。オマエとシヴァちゃんがもう少し回復すれば、すぐに出るにょろ」

 そこで座り込んでいた王女が、重なる疲れを思い出したように、暗い顔を上げた。
「でも、出ると言っても、どこへ?」
 警備隊から逃げ出した以上、第二峠はまず通れないだろう。残る選択肢は、敬遠した第三峠、高い山上の第一峠の他には、敵国ゾレン領の峠しかないのが砦の国の実状なのだ。

 少しの沈黙の後、壁際に荷物を置いてから、少年は周囲が驚く行動に出た。
「それはまた、休んでから相談しよう」
「え……って、キラ!?」
 滝へ戻った少年は、忍の少女の背をさする王女に構わず、降り注ぐ水に身を晒す。
「えっと……水行でも始めるの? キラ」
 ぽかんとする王女を後ろに、少年は流れる水の懐に腰かける。これでようやく、在るべき所に帰れたような休らいに包まれ――自身でも不可思議な、淡い静謐に満たされていく。

「なるほどな、にょろ……矛盾してるな、にょろ」
 疲れ切っている王女は、抜け殻蛇に返答する気力も持てずに、黙って少年を見やる。

 水浴み。それは少年が山育ちで偶然見つけた、機序のわからない疲労回復法だった。
「これがアイツなりの燃料補給法、アイツの化け物特性なのはわかるがにょろ。それだとアイツの存在は、矛盾だらけなんだにょろ」
 抜け殻蛇はそんな風に言いつつ、次の一言が最大の不可解、と重々しげに首を傾げた。
「しかし何故か――何が矛盾なのか、それをオイラは説明できないのだにょろ」
 何かの矛盾を、矛盾とわかっているものの、自覚する前に燃やされる謎の抑止力がある。抜け殻蛇にはとてもおかしな事態が、そこに展開されているらしい。
 とはいえ、顔色がとても悪い忍の少女を介抱する王女に、抜け殻蛇の些細な問題提起に反応する余裕はないようだった。

 滝の御許で、喉元の熱さと、流れ出でる水に確かに癒されていく少年も、ただ大自然の懐に己が身を任せる。打ち付けられる水の内に、今にも溶けていきそうなのに、確かな熱が少年を包み、あくまで少年の輪郭を失わせはしない。
 そうして溢れ出す癒しが、その母の血筋に由来することを、今の少年は知るべくもない。

◆⑤◆ 人間の娘

 その小柄で慎ましい滝は、存外に良い隠れ場所であったらしい。
「平和だなぁにょろ。警備隊も人間も、影も形も現れないにょろ」
 ただしそれは、少年達に追手がかかっていないことを全く意味しない。
「でも空模様だけは、今日も不穏にょろ」
 抜け殻蛇が言うように、その空が不吉なのは――普通はこんなに毎日、何十羽もの鳥が飛び交うようなことは滅多にないからだ。
「ヴァルトだ……ここいらの鳥達は、アイツの支配下なんだ」
 支部隊長としてそうせざるを得ないだろう相手に、少年は苦い顔をするしかない。
「そうだろうなにょろ。今度見つかれば、さすがに見逃しはしてくれないにょろ」

 そして……! と、蛇もどきは急に焦り声になった。
「オイラを食べんと狙ってるにょろ! 早くオイラを守るんだにょろー!」
 そうしてなりふり構わず、楽しげにしか聞こえない声で、少年の外套の中に飛び込んでいった。

 少年は、あぐらをかいて滝に打たれながら、日々王女の話し相手をすることになった。
「シヴァの『壁』は、本当に凄いでしょう? 本来は結界とか、そういう呼び方らしいけれど」
 ……? とひたすら、世間知らずは首を傾げる。
「たとえば同じ『熱』でも、シヴァの『壁』のように自然よりの力もあれば、炎の飛竜を扱うライザ様は獣で、火の魔法が得意なフィシェル大使の魔道もまた別物なんですって」
 内容に興味はあるので体を傾けて振り返り、続きを待って王女をじっと見つめる。
「でもシヴァは、今の自分では自信がないみたいなの。『自然』はどこにでも源があるから、シヴァは誰より強くなれる、とライザ様は仰っておられたのに……」

 全く、と王女は、困ったように少年に微笑んでいた。
「どうして化け物さんのアナタに、力なんてない人間の私が、そんなことを説明するのよ」
 普通は逆でしょう、と笑う博識な王女に肩を竦める。戦う以外に何も能の無い少年に、王女が最もだろう質問を口にする。
「キラはフィシェル大使に、魔道は教わらなかったの?」
「……滅多に帰ってこられないし、俺は剣を教えられていたから」
「そうなのね。そうね、フィシェル大使は腕利きの剣士でもあるものね」
 ザイン大使の息子という少年に、すっかり気を許してしまっている王女。それが少年は落ち着かなかったが、王女はこうして、仲間と認めた者と話をするのが本当に好きらしい。
「そんなことをきいて、どうするんだ?」
「だって、同行しているヒトがどんなヒトで、何を考えているのかが気になるんだもの」
 そのまま、とても無防備に笑いかける。化け物に対してそんな笑顔ができる弱い人間は、少年にとっては「千里眼」以来だった。

 ヒト殺しの少年と、そして黒い鳥も、ここではにわかに優しい時間が流れていた。
 黒い鳥が大きく焦っていなければ、少年も殺意をかき立てられることはなかった。
「アディは本当……化け物にも、その話にも全然抵抗ないんだな」
「当たり前じゃない。私はずっと、化け物さんにも沢山守ってもらっているのに」
 特に忍の少女とは、幼い頃から一緒なのだ、と人間の娘が祈るように言う。
「私だって、射撃には自信があるんだけれど、シヴァの壁の中では銃が使えないから、今は隠し持っているだけね。ライザ様はシヴァの壁の力のこと、『青炎(せいえん)』と言っておられたわ。でもおかしいのよ。それなのにシヴァのこと、氷の君とも呼ぶんだから」
 あの静粛さだしね。と、無愛想な忍の少女に王女が苦笑する。

「地獄の青い炎は、ライザ様達が使う炎とは違って生き物を氷にするんだとか。でも――」
 そこで王女は不意に、いつになく重い顔で俯いていた。
「地獄って……どういう意味なのかしら。シヴァは素直じゃないけれど、優しい人なのに」
 助け合う赤い目の人間と化け物。少年には、黒い鳥に観える忍の少女の目には、鬼火を宿す紅い光が今も散らついている。しかしその魔性の色は、まだ安定していないらしい。
 辛うじて岩屋に魔法陣を描いた後は、ずっと横になって休んでいる忍の少女に、少年もバンダナの下の顔を知らず曇らせていた。
「キラがいてくれて本当によかったわ。私達のために犠牲になったライザ様や、他の兵士全員のためにも、私もまだまだ頑張らなきゃね」
 第二峠から帰国できなかったことに、相当落ち込んでいた王女も、お喋りをしている内に調子が戻ってきたらしい。今の内に、と汚れた衣服の手洗いを楽しんでいる。
「私が一番、足手まといなのが辛いけれど……絶対に、何が何でも帰るんだから!」
 第四峠から第二峠へ、ディレステアを横断する以上の距離を、王女はこれまで踏破してきたのだ。そしてその帰国の目途を失った――これで少しも挫けない方が気丈過ぎるだろう。

「ところで、キラ。結局今日も、一口も食べることはできなさそうなの?」
 妙に器用な王女は、つる草と笹竹を絡めて罠を作り、滝つぼで魚を上手く捕らえては焼く。これでも昔は野山を駆け回った、などと言うのだが、その食事の誘いに少年がぎこちなく首を傾けるのも、この頃は一行の日常と化していた。
「できるなら、これまでも、そうしているから……」
 少年としては、そうした食の話が、一番困る話題だと断言ができる。
 少年が何かを摂ろうとすると、摂った分以上が吐き戻される。だから収支としては、何も摂らない方がましだという、人間には不可能な結論を王女に説明してみたのだが――
「自業自得だなにょろ。オマエの体はどんどんその方向に変化して、余計に普通の栄養を受け付けなくなっているんだにょろ」
「……そうなると、どうなるんだ?」
「最悪、魔物化して、ヒトの血肉を欲しがることも有り得るなにょろ」
 そんな警告を聞いて、王女はさらに心配になったらしく、先の催促となるわけだった。

 夕刻になると、忍の少女もやっと回復した。例によって魔法陣の温もりを皆で囲みながら、これからどうするかの大事な相談が始まっていた。
「えっ……まさか本当に、第六峠を通るの?」
 この二日間、休息をとりながら抜け殻蛇と話し、少年の至った結論に王女が驚愕する。
「一番近い第一峠……雪山の頂上に登るのは、アディにはやっぱり無理が過ぎる」
 王女が自分は足手まとい、と言う理由は主にその難関にある。魔物や未知の化け物の潜む雪山を、王女に無理をさせて登頂する価値はどうにも見出せなかった。
「仮に辿り着けても、また反乱勢力がいる可能性もある。第三峠もそうだけど、中立地帯なのが逆に困るんだ」
「そうだなにょろ。第三峠はオイラもお勧めしない、と最初の時に言って敬遠したにょろ」

 ここまで王女の足を引っ張ったのは、本来敵ではないはずの、レジオニスと同国者だった。
 抜け殻蛇が描いたディレステアの逆三角形を眺め、ザイン近縁地の第一峠、第二峠、第三峠にバツ印をつける。
「でも、第六峠は……」
 それはまさかのゾレン西部、完全な敵国領にあたる。ディレステアの郊外にあたり、ソレン王都からも遠い第六峠は、他の中立地帯が関与しないため、外交事情としては逆に単純なのだ。
「一番戦乱の峠だからこそ、ディレステアのマトモな正規軍が必ずいるだろ。戦闘だって頼れるし、そこに辿り着ければ、アディ達の身の保証は確実じゃないか?」
「辿り着ければ、だにょろ。戦地で簡単にそんなことできれば、誰も苦労しないにょろ」
「苦労するのは第一峠だって同じだ。それなら少しでも、勝算が先にある方がいい」

 誰かに期待された「直観」には関係なく、これまでの状況から断言すること。しかし第六峠に行くにはある難問があり、ゾレン出身の少年ならではの提案でもあった。
「通行証はどうするの? ゾレン西部に入ってから、第六峠まで近くはないわよ?」
 ゾレンの国境には、ディレステアの外壁とは違って障害物はない。代わりにゾレンには全土に簡易な結界が張られており、通行証を持たない者が入国した時には、ゾレン軍に感知される。しかもゾレン軍が発行する通行証は、譲渡も貸与も露見すれば出身を問わず死罪という、洒落にならない闇物資なのだ。

 少年は黙って、腰の佩袋(おびぶくろ)から、大事な荷物の三つの小石を取り出したのだった。
「ほほーにょろ。さすが、ゾレン出身だにょろ」
「これは……ゾレン国民専用の、全土許可証?」
 ゾレンの懐が広い点に、「Z」を受けた国内生誕者全てに刻名通行証を発行する制度があった。死した時に返上すべき通行証は、基本的に身分証明書を兼ね、ゾレン人の命と言われるくらいだ。
「尋問で照合されたらかなりやばいけど……第六峠に着くまでくらいなら、行けると思う」
「でも……どうして三つも持っているの?」
 少年の分は、ゾレン出身なのでわかるだろうが、法外な数の通行証に王女が目を丸くする。
「一つは、エア母さんが隠してたのと……ヴァルトがこっそりくれたんだ――俺の友達に」

 その事情。友達という存在を口にした時に、少年を久々に赤い記憶がかすめ――
 唐突に声調が落ちて、所構わず、吐き気が込み上げそうになってしまったのだが……。
「待つにょろ! オイラの分がないにょろ!」
 少年、王女、忍の少女に一つずつ通行証を分けた後に、抜け殻蛇が抗議の声を上げた。それで何とか気分が紛れ、少年は自身の通行証を握り締めながらいつもの調子で答えた。
「アンタは生きていないから、ひっかからないよ」
「……生きて――いない?」
 少年自身も、よくわからずに適当に言った。王女と忍の少女がはて、と顔を見合わせ、騒ぐ抜け殻蛇を膝に乗せつつ首を傾げている。何故か抜け殻蛇はうんうん、と頷いている。

「しっかしにょろ、そもそもゾレン入り後、第六峠にどうやって無事に行くんだにょろ?」
「そんなの、行ってから考えるしかない」
 結局、それしかないことなのだ。ゾレン通などいない、にわか旅人の若人達にとっては。

「それにしても……こうして見てみると、第四峠から第二峠よりも遠い距離を行くのね」
 逆三角形の中点から中点まで、外周の距離の長さに物憂い顔で、王女が呟く。忍の少女も隣で紅い目を伏せ、空気を重くしていく。全て周縁上を行けるならまだしも、第一峠は山上であるため、その山を迂回する道のりがさらに必要になるのだ。
「和平交渉に赴いた王女と、英雄が行方不明……さすがにあまりに時間がたち過ぎると、第六峠も落されてしまったかもしれないし。国全体にも、動揺が広がるんじゃないかしら」

 和平の望みは、ディレステア全体のものだと王女は言う。その悲願を背負って、王家の人間自ら臨んだ会談、それが決裂した失望だけでなく、英雄や王女といった偶像の不在など世情の不安が高まれば、反乱勢力も動き易くなる。第六峠行きに本心は反対らしい王女のそうした懸念は、少年にもよく理解できた。
「その点については一つ提案があるにょろ」
 にょろろろろ、と笑い声らしい自力の演出音と共に、抜け殻蛇が地面に軽く降り立つ。
「第四峠は地下水脈だらけだし、第二峠までは安全を最優先にしたので、地上を案内したにょろ。でもにょろ――」
 つんつん、と尻尾の先で石床の図をつつき、抜け殻蛇は不敵な声色で全員を見上げた。
「空模様もまだ怪しいしなにょろ。無法地帯でよくて、危険さえ厭わなければもっといい感じの近道……というか地下道があるにょろ」

「近道って……どういうことだ?」
 こういうことだにょろ、と逆三角形の上辺の中点から、左辺の中点にかけて、三角形の内部を通る直線を得意げに引く。顔をしかめる一行を誇らしげに見返してきた。
「ディレステアという国の、深い地面のどぉーんと下には、これまで掘りまくられた地下通路が存在してるんだにょろ」
 ただし、と珍しく改まって先を続けた。
「勿論ここまで、直線ではないにょろ。それに方角を見失えば野垂れ死にだにょろ」
 今ではあまりに死者の宝庫であるため、いつからか存在も隠されるようになった地下道だという。それでも化け物には利用者が多いという通路に、少年は大きな疑問が浮かぶ。
「それって……国の地下に通路があるなら、そこからディレステア地上に出られないのか」
「みんな同じことを考えるぞにょろ。でも誰も、それに成功した者はいないんだにょろ」
 何故なら、と抜け殻蛇は、あっけらかんと大変な内容を続けた。
「この外壁は何と、地層中にも広がるんだにょろ。ディレステアという国は地下に埋まる無敵の三角柱に囲まれる、まさに砦なんだにょろ」

 つまりは、地下から地上に掘り進むと、途中でディレステアの基板にぶつかるらしい。分厚く頑強な基板には連絡通路となる砦と地下水路以外穴はなく、化け物の力でも破壊できない外壁の延長であるという。開口部は全て計画的に施された古の建造物なのだ。
 そのため、地下通路自体かなり深い所にあるようで、王女が深々と溜め息をついていた。
「本当……身持ちの硬さにもほどがあるわね。もう転送とか転位、そんな便利な魔法とか使える化け物さんはいないの?」
 噂には聞いたことがあるという神秘を、王女が期待していない顔付きで呟く。
 抜け殻蛇はあっさりと、いるにょろ? と少年の足下でにんまり笑った。
「レジオニスになら沢山いるがにょろ。それも阻むのがディレステア外壁の凄い点にょろ」
 それが何故、どんな理屈で阻まれるのか、聞く元気もない王女は相当疲れていたらしい。最後まで乗り気ではない様子ながら、代案がないので黙り込んでしまった。
 そうしたややこしい相談は、明朝から地下通路へ潜入ということでやっと一段落し――今夜で安全な場所は最後かもしれず、十分休むように抜け殻蛇から促された一行だった。


 休めという指示の通り、ずっと滝に打たれる少年だったが。そこから見える位置で滝の外に出て、月明かりを頼りに、何かの小さな書を眺めている王女の姿があった。
 王女が見ている小さな書に、少年は視線を合わせて尋ねた。
「――それ、何なんだ?」
 大人が読む本にしては薄く、書き物をするには小さい。王女は片手で持つ書を見たままで答える。
「シヴァとの連絡帳みたいなもの。彼女とは筆談が基本だから」
 なるほど、と頷く少年を見て、王女は何故かふふふ、と笑う。
 その意味ありげな笑顔に、バツが悪くなったので思わず尋ねる。
「……今回は何が書いてあったんだよ?」
「ええ。私がアナタに感情移入し過ぎているから、注意しなさいなんて書いてあるわ」
「――」

 喋ることができないため、何を考えているのか詳しくわからない忍の少女は、そんなことを思っていたのか。それはそれで衝撃の少年だった。
 そもそも何の感情移入かよくわからない少年に、そうよね、と王女も困ったように笑う。
「どうしてなのかしら……キラを見ていると、何処か危なっかしくて、急に心配になるの」
 守られているのは、自分のはずなのに。王女自身、不思議そうな顔で呟いていた。

 王女は覚書の目を通した所を破き、細かく千切る。
「国家機密に関わる相談もあるから、読んだ後はいつも、こうして処分するのだけれど」
 それでも、と懐からたった一枚、処分できなかったという紙切れを取り出す。
「勇気を貰いたい時は、いつもこれを見るの。私の一番の宝物よ」
 とても温かな目で、王女はその紙を見つめる。
「……」
 遠目でも、紙に書かれた文字の判別がつく程度には、少年は目が良い。しかし使われているのが古語なので、文法が違って全くわからなかった。
「何て、書いてあるんだ?」
 ふっと、無意識に尋ねる。そんな自分に驚く少年だった。
「うん。随分前にシヴァと出会って……」

 そして王女は、その問いかけを待っていた、とばかりに、嬉しそうに話し出した。
「『貴女は勇敢で聡明な人。これから貴女以上に信頼できる人はきっと現れない。私は命をかけて貴女を守ると誓う』――なんて。本当にただの人間に過ぎない私なのに、シヴァはそう言ってくれたのよ」
 これまでの辛かった、逃げるばかりの日々も、おそらく明朝から訪れる地下の険しい旅路も。その相手が一緒であれば、乗り越えられる。和らげられた赤い目がそう語っている。
「だから、頼りにしているからね。私とシヴァのこと――絶対に守ってね、キラ」
「――……」
 満面の笑顔で言う王女に、少年は黙って頷く。
 少年にとっては、それは当然に過ぎない前提だった。

 少年が頷くのを嬉しそうに見届けると、王女は一転、真面目そうな顔付きになった。
「だから、英気を養うためにも、今夜くらい。一口くらいは何か食べられない?」
 紙切れを大事そうにしまいながら、滝に打たれる少年の前にやってくる。そのまま屈み、少年を不満げに覗き込むのだった。
「あんたも本当……飽きないよな、ソレ」
 今までで一番困った顔で、少年も王女を頼りなく見返す。
「だって……ライザ様だってシヴァだって、他のみんなだって。何も食べない化け物さんなんて、今まで私、会ったことがないんだもの」
 水面で膝を抱えて、水しぶきに王女の服が湿っていく。同じように潤む赤い目を少年にまっすぐ向ける。

「キラってやっぱり、不思議なヒトね。最初に会った時は、本当は少し怖くて……それでも、頼りになるヒトだろう、って。そう思ったし、今も凄く心強いのに。それなのに」
「――?」
「同じくらい、気安くて放っておけないヒト。キラを見ていると、そんな風に思うの」
 まるで、一人の中に二人のヒトがいるみたい。そんな喩えをする王女に、少年は俯く。
 それでも、逃げる少年を追いかけるように、王女は懐に切り込んでくる。
「キラはいつから、何も食べていないの?」
 それが唯一、自らを語らない少年を知る手段、と知ってかもしれない。
 この人間の娘は、一度懐に入れた者には常にそうなのだろう。相手が何者か納得がいくまで尋ね、そして受け入れる。

「そう言えば、いつかな……最後に食べたの……」
 その話をすれば、王女はおそらく悲しむ。それでも聞いておかなければ納得できないだろう娘に、少年は潔く諦め、苦く笑った。
 思えばそれは、とっくに知っていたことなのだから。
「多分あの日――エア母さんが珍しく作った朝ご飯を食べて。それが最後だった気がする」
 この程度でも、王女の雰囲気は強張っていた。裏表の少ない心は、少年でなくとも何を考えたかはすぐにわかるだろう。

「でも、エア母さんが死んだせいじゃない」
 だから先に、少年はその現実を伝える。王女が少年に、無駄な同情をする前に。
「その夜に初めて、俺はヒトを殺したんだ。それもずっと、同じ里で暮らしていた仲間を」
 少年にとっては、最早他人事のような赤い記憶。それでも初めて、誰かに語った。ヒトの命の味を知ってから、何を口にしても受け付けられなくなったことを。
「それは……どうして?」
「さぁ? 命以外、食べられないのかもな」
 違う、と王女は厳しい顔で目を細める。
「どうしてキラは、そのヒトを殺したの?」
 大事なのはそちらだ、と、決して逃げない王女に少年は改めて感服する。
「何でだったかな……凄く嫌な感じがした奴なのは、覚えてるけど……」

 部屋中が血に染まるように殺されていた母。
 少年がその惨状を目にして、呆然とした後。
――オマエ……何で生きてるんだ、キラ!?
 少年のその姿に、そう叫んだ仲間だったこと。
 それだけは少年はずっと覚えていた。

 壊れた感性で世界を捉える少年に、聡明な王女は言葉を投げかけ続ける。
「それじゃ、あの時……私達がキラにとって嫌な感じだったら、私達も殺されていたの?」
 最初に会った時、六人もの人間を私怨もなく殺した少年。殺した相手は下衆だ、と評した暗い目色を、王女が思い返している。
「何で? 嫌な奴なんて、何処にでもいるだろ?」
 少年にとって、その理由は優先ではない。王女は顔をしかめ、まだ何かを探し続けていた。
「嫌な奴を全部殺さなくちゃいけないなら、俺はとっくに警備隊に殺されてるよ」
「それじゃあ……キラは」
「最初のその時と、アディ達と会った日。今それ以外で、ヒトを殺した覚えはないけど」
 少年が、嫌いな者を殺し回る殺人鬼か、と心配しているらしい。人間という弱い生き物の不安が感じ取れたので、先回りした答を告げた。王女は安堵しつつ、結局悲しそうだった。

「アナタってやっぱり……不思議なヒトね」
「――?」
「お母様が殺されたなんて、辛いことを淡々と話せる。憎くもないヒトをいきなり殺せて、今もこんな風に笑える」
 バンダナに隠されてはいるが、少年の人懐っこい目。それが一番怖いこと、と王女は思っているらしい。
「なのに思うの。アナタには多分、アナタがわかっていないだけで、事情はあって。それでもアナタは……そうするべきではなかった」
 王女はただ、そんな少年を知りたい、というように尋ねる。
「ねえ。キラは私達のこと、どう思っているの?」
「――へ?」
「どうしてキラはあの時私達を……そもそも助けてくれたの?」
 ディレステアの第二峠に行きたい。それだけなら少年は、そこまですることはなかったはずだ。
 それは最も根本的で、初歩的な問いかけでもある。

「……」
 全く答の浮かばない問い。しかし王女の問い方そのものが、すでに結論を誘導していた。
「……アディ達は、みんな……いい奴らだと思う」
 暗く澱んでいた目に、そこで僅かな光が宿る。

 その黒い鳥はただ、綺麗だった。
 黒い鳥に寄り添う人間の赤い目も、温かな血が流れていると、少年には初見でわかった。
 自身のことでもないのに、泣いたり笑ったり。こうして細かく、その気にかけたりする。
 だから――と。少年は何かを掬い始める。
「アディ達みたいないい奴らが――無事に、故郷まで帰れるなら……」
「――なら?」
「……その手助けが、少しでもできるのなら。俺も……里から出て、良かったのかな」
 うん――と。自身もやっと、納得できた気がして、一人で少年は頷いていた。
「アディ達が国に帰れたら、俺のヒト殺しも、意味はあったのかもな?」

 その笑顔の意味に、気付いてしまった王女が息を飲む。おそらくそれを、利用している王女だからこそ。
 少年は結局、何かを守っているだけで。
 でもその理由は、彼自身のためであることを。

「それなら、キラ――……」
「――?」
「私達が帰れたら……その後はどうするの?」
 思わず尋ねた王女に、首を傾げた。今は考えも及ばぬことを言う娘に、不思議な気持ちで笑った。
 そんな彼らを見守りつつ、忍の少女と抜け殻蛇が、洞窟内で溜め息をついていたのだった。

◆⑥◆ 忍の少女

 昏い地の底であるにも関わらずに。その地下通路では、灯りとなる光蘚(ひかりごけ)がふんだんに生え、天井も木柵で補強され、とても深く降りてきた地中とは思えなかった。
「これは地底に住む妖精の仕事だにょろ。アイツらはこの地下通路を守っているにょろ」
 そうして、ディレステアの直下に広がる、縦横無尽の地下通路にて。

「だからね――さすがに連日トカゲが続くと、私も故郷の食事が恋しくなるものなのよ」
 地下に潜り、早数日。全く衰えない王女の勢いに、少年は日々驚くばかりだった。
「キラはどう? 好きだった物はないの?」
「別にそんな、好き嫌いはなかったけど……元々そこまで、食べる方でもなかったし」
「そうなの? 体はよく鍛えてあるけれど、それでお腹は減らなかったの?」
 少年の外套を、無遠慮に王女が大きくめくる。驚く少年の前方で忍の少女も、さすがに呆れた色を見せた。

 連日続く下手物の食事に、忍の少女はうんざりした様子だが、栄養を摂らなければ戦えない実状は人間らしい一面だった。いつも真剣な背中で必死に何かを食べている。
 反面、王女は食べられれば何でもいい、と何かが現れる度にまず食べ方を考えている。その活力たるや、未だに何も口にできない少年には尊敬しかできない。

 忍の少女の首元――お気に入りの定位置に、今日も抜け殻蛇は陣取っている。隙あらば話に割って入り、長々と喋り始める。
「コイツは元々水脈が力の源っぽいにょろ。でもアディちゃんの言う通り、生き物としての成長には人間と同じで、栄養がいるにょろ。このまま絶食を続けると、コイツはこれ以上大人やムキムキにはなれないにょろ」
「ムキムキ、には、ならないでほしいけれど」
 今も何かと、少年に食事を摂らせようとする王女は、少年を何度も不満げに見るのだった。
「今となっては、ザインの山菜も恋しいわ。せめてもっと、安全そうなキノコはないかしら」

 この傍らで、先導と荷物持ちが基本の忍の少女は磁針つきの懐中時計で方角を調べ、分岐ごとに角に印を付けては黙々と進む。
 食料の確保もさることながら、人間には必須の水源に関しても、一行は困ることはなかった。元来野生児の少年が指示する場所により道すると、必ず滾々(こんこん)と湧き水がある。

 本来、危険で過酷さしかない地底の旅は、そうしてお喋り舞台と化してしまっていた。
「それにしても、ドやかましい探検隊だにょろ!」
 この平和さもひとえに、「壁」の力なのだろう、と少年は歎息する。
「地下に来てからも、全然襲われないし」
 普通の地棲動物は姿を見せるが、地中によく潜む奇獣や虫型の魔物は全くより付かない。盗賊やレジオニス、反乱勢力の追手すらない。
「動く熱を持った力にだけ、効くと言うけど」
 稀に他の旅人とすれ違いはするが、その相手に「壁」の影響で異常のある気配もない。
 この無害な「壁」があるなら、果たして護衛は必要なのか。当初の状況を思い出して、少年は思わず不可解事を呟いていた。
「なぁ。最初に会ったあの時は、何で人間に襲われていたんだ?」
 それに、と、一番の摩訶不思議な点を尋ねる。
「シヴァの『壁』は、その中で使う『力』は全部、熱を奪われるんだよな?」

 少年は戦いをする際、「力」を剣と体に巡らせ、筋力や反射速度を一般的な化け物以上の水準にしている。しかしこの道中、少年のその「力」は全く消火されていない謎があった。
「それは――」
 広く均一に「壁」を張る忍の少女が、少年だけを都合良く除外するのは無理そうだった。むしろ中心である王女に近いほど、奪える熱の対象は増える様相なのだ。銃器を発動する人工の熱すら奪えるのに、生き物が生命活動で発する熱までは奪わない特徴がある。

「シヴァの『壁』は、『力を制御する熱』だけ奪うらしいの。力そのものや、力が無いから索敵も制御もしない人間には、全然通じないみたい」
 王女や忍の少女は、その謎を考えたこともないようだった。少年さえ護衛でいてくれれば心強いと、何も疑問を持っていなかったのだ。
「アグリコラの刺客に見つかったのは、アイツらが人間だったからだと思うのだけれど。人間って、足跡とか野宿の痕とか、そういうものを見分ける眼力は化け物さんより優れているの」

 娘曰く、逃亡中には、「人間」なら山賊など他の輩に襲われたこともあるのだという。
「俺もアディ達がいたのは、わかったけど」
 人間ではない少年は、むしろ「壁」の温かさを辿って黒い鳥を見つけた。
 そして「壁」の内でも、少年の「力」が滞りなく使えるのは「壁」の欠陥でないのか、甘受してよい事態なのかを悩む。その例外が、少年だけとは限らないからだ。
「オマエは特別だにょろ。抜け殻のオイラと大体は一緒――オマエはそもそも、動くもの、『生き物』の範疇を出つつあるにょろ」

 訳知り声の抜け殻蛇の、その言葉の意味を、聞き返す間もなく話題は変わっていった。
「シヴァちゃんが近接で戦えば、人間からも気は奪えるにょろ。でもそれは大変だにょろ」
「そうよ。そこまではさせない――魔物のように、人間を喰らう力の奪い方は」
「……」
 王女の言葉に、忍の少女が心なしか、紅い目を複雑そうに伏せる。
 「力」の熱を奪うのも、すでに「魔性」と。そんな現実を思うような険しさをたたえ、紅い目を右だけ細めた、その時だった。

「――!」
 何事かを自覚する前に体が反応した。少年の全身が急激に、石像のように強張っていた。
「――キラ?」
 躓くように立ち止まった少年に、振り返った王女に咄嗟に叫ぶ。
「走れ! 柱の方に――!」

 その声と同時に、重苦しく巨大な地殻の悲鳴が、突然地下通路全体に響き渡った。
 これまで真下を歩いていた、砦の国が丸ごと暴れ出した。そんな錯覚と共に四方八方が激しく波打つ。大地の震えと共に、補強のない土の天井や壁のあちこちが崩れ始めた。
「きゃっ!」
 とにかく他より頑丈な場所、逃げ込む先を探す前で、王女が体勢を崩してしまった。
「アディ!」
 急いで助け起こした瞬間、ちょうど少年達の真上で、天井に大きな亀裂と激音が走る。
「!」

 そうしてヒヤリとした一瞬――何かとても、熱いものに全身を押された。
 王女と共に少年は弾き飛ばされ、少年達のいた場所を大量の土砂が埋め尽くしていった。

 何が起きたのか、少年はすぐに理解できなかった。慌てて立ち上がった王女につられて、ようやく我に返った。
「――! シヴァ……!」
 王女と同時に、その新生した土の壁を見て叫ぶ。二人より後ろにいた忍の少女と、肩の上の抜け殻蛇の姿が何処にもなかった。

 王女がいつになく、甲高い声を上げながら土壁に掴みかかった。
「シヴァ、大丈夫なの!? シヴァ!」
 その声に応えるように、ただ一度だけ、低音でよく響く貝の笛の音が微かに聞こえた。
 しかし続く問いかけには、その後何の反応も無くなってしまった。
「シヴァ! 返事をして、シヴァ!」
 王女が必死に壁を掘り返し始めた。唖然としていた少年はまた違う危機にはっとする。
「アディ、離れろ!」
 無理やり王女を抱えて土の壁から引き離した。王女がもがいて必死な声を上げる。
「ダメ、離してキラ! シヴァを放っておくわけにはいかないの――!」
「落ち着けよ、今は駄目だって!」

 揺れ自体は収まっていたものの、周囲の空気が不安定だ。何かがおそらく危なかった。
 上手く説明ができず、とにかく壁から離そうとする少年に、王女が爪を立ててまで抵抗する。
「アディまで何かあったらどうする――!」
「私なんかよりシヴァを――!」
 無我夢中な人間の娘が、そう悲痛な声で叫んだのと、全く同じ瞬間だった。
 壁の周囲の不安定な空気が、一気に弾けた。少年にはそう感じられた刹那、土の壁が内から爆破されたかのように崩壊していった。

 激しい轟音と共に、石や土砂があちこちに吹き飛ぶ。
 再び開通したその地下の通路で、少年と王女の視線の先に現れたもの。それはあまりに思いがけない、それぞれ因縁のある奇妙な再会だった。
「あーらら。イイもの、拾っちゃった?」
「――シヴァ!?」
 そこには、見覚えのある緋色の髪の男が、気を失った忍の少女を抱えて立っていた。
 緋色の髪の男の前には、全身を大きな外套で隠す背の高い男が護衛のように立ち塞がり、少年達と忍の少女を引き離していたのだった。

+++++

 その異様な状況で、一番先に口を開いたのは、聡明且つ気丈な王女だった。
「ソリス……第四峠大使!?」
 王女にとってもそれは、忘れるべくのない重大な相手なのだ。
「先だっての仲介者――レジオニスの幹部である貴男が……何故このような所へ!」
「お。アヴィス王女様、久しぶりだな」
 とても楽しげに、忍の少女を抱えている大使。王女はその名も知っていたようだが、(いぶか)る少年も因縁浅からぬ、第二峠で武器と荷物を届けた見知った相手。

 少年は黙って前に出ると、剣を迷わず抜いて構えた。
 自分達と大使の間、全身を外套で隠す男に対峙する。その姿にソリスと呼ばれた緋色の髪の大使は、相変わらず嫌味なくにやりと笑った。
「さっすが、状況わかってるな、少年」
「どういうことですか! ソリス大使、貴男の職務規定違反は不問に致しますから、我が側近をお放し下さい!」
 本来どの峠でも、大使は持ち場を大きく離れてはいけない契約になっている。しかしそんな約款が、「レジオニス」の幹部に通じるとは、王女も本気で思ってはいない。
「ふむふむ。怒られてもいいからオレ、このお嬢さん、お持ち帰りしたいけどな?」
「――!? どうしてシヴァを!」
 気を失った彼女を、大切そうに大使は抱えている。王女の険しい視線を楽しげに受け止め、まるで子供のような表情で笑ったのだった。
「だってオレ、前からシヴァちゃん、タイプだったのさ」

 そんな不真面目な大使を、黙りこくっていた供の男が、抑揚なき低い声で――古語で窘めていた。
「――ククル。お遊びが過ぎるぞ」
 呆然としていた王女も、その静かな古語に助けられてか、僅かに冷静さを取り戻していた。
「ソリス大使……私達をディレステアへ帰国させて下さると、貴男は約束したはずです」
「でもさ。王女様の護衛は、レジオにくれる約束だっただろ?」
 にまにまと、その時はわざと見逃した事項を、大使が今更口にする。
「よくよく考えたら、シヴァちゃんも護衛なわけで。それならオレがもらっても、契約違反ではないよな?」
「シヴァは――」
 ぐぐ、と、両手を握り締めて王女が俯く。
「シヴァは、護衛じゃない……だって――」
 そしてその先を、人間の娘が口にしてしまう前に……。

「アンタさ」
 供の男に向かって剣を構えたまま、少年は泰然と割って入った。
「アンタ、英雄ライザ、その他もアディの護衛を手に入れて。その後どうしたいんだ?」
「ん?」
「レジオで革命でも起こすのか? 見た所、アンタ個人には大きな力、なさそうだし」
 王女にあまり、話させてはいけない。そう感じて話題を変えるために少年は挑発に出た。様子を見守っていた供の男が、全身を覆う外套の中から大きな剣を取り出していた。

「うーん。失礼な奴だな、少年。本当のことはもうちょっと、オブラートに包もうぜ?」
 しかしその「本当」は、大使にとっては後半部分らしい。
「ま、レジオで覇権とか争う気はないけど。もうライザ君とか、ゾレンにあげちゃったしぃ」
 その言葉に王女が全身を硬くした瞬間、大使は初めて、冷徹な微笑みを口元にたたえた。
「エグザル――好きにやれよ」

 その開始の声は、少年以外にしかわからない古語。
 最早エイラ平原の一部とディレステアでしか使われない言葉だが、供の男が動いた瞬間、少年はすぐさま反応していた。
「――!」
 男の大剣と少年の長剣が、人間の剣戟では咲き得ない火花を出してぶつかり合った。
「アディは下がってろ!」
 少年の声に籠る緊張に、王女は素早く場から離れつつも、目元に不安を混じらせている。
 大剣を振い、外套で全身を覆う長身の男は、それでなくても大きく見えた。
 対して少年は、成長の止まった十五歳の体躯。人間の感覚で見れば、まともに迫り合えば押し負けるのは目に見えている。

 王女の離脱を確認すると、少年はすぐにも剣と全身に込める力の解放を始めた。
「――!」
 気付いた男が剣を払って距離をとった。今まで戦った弱小なものとは判断力も桁違いだ。
 さらには少年と同様、男は大剣に己の力を込め始める。忍の少女が気を失っているため、「壁」に力が消火されていないのだ。

 少年は知らず――
「アンタ……強いな――!」
 本当に久しぶりに感じた、その本能的高揚。
 何故そこで少年が凶悪な顔をするのか、と呆れる王女の視線を感じた。

 再び二つの剣がぶつかった時、今度はその込められた力もぶつかりあった。反動が衝撃の波となり、爆風のように吹き荒れていく。
 そして何度も相殺を繰り返し、男の大剣に完全に押されて少年は悟った。この男は確実に――自身より上手であると。
(力の使える量が違う)
 それは人間でも同じことだろう。小回りを武器にする者は、体格の優れた相手より消耗が早い。幼少から剣の鍛錬ばかりしてきた少年だが、化け物軍団レジオニスの精鋭には劣る。
 そうした実力差を把握しながら、少年は、その目に暗い光を宿して相手をじっと観る。

――……。

 冷静に、とにかく勝つだけなら、何とかすることはできる。勝つというより、殺すと言うべきだろう。
 手段を選んでいるから、今は剣を取った。相手の出方に合わせただけだ。そんな少年を見る緋色の髪の大使は、当初の余裕を消して成り行きを見守っていた。
「なるほどね……」
 大使は少年がちらちら、大使の抱える忍の少女を見ていることに気が付いていた。
「やっぱり天性の――死神だな、あれは」
 少年ほどの剣の腕と身のこなし、ある程度「力」で調整し好きに動かせる躯体があれば。たとえ剣の実力では劣る相手でも――
「殺すだけの近接戦なら、多分オマエさんは負けないな」
 そう見切れるのも、この大使ならではだろう。だからあえて、頑丈な部下を少年にぶつけた。

 大使の所感もぼんやり感じながら、少年の考えごとは一つで――思考の余分から余計に押されるわけだが、ハラハラと見守る王女を後ろに、今更の迷いを浮かび上がらせていた。
(俺は……コイツのこと、殺すべきなのか?)
 なかなか殺し難そうな相手ではある。これも何かの化け物で、人間より相当頑丈な体を破壊しようと思えば力を惜しまず、そして隙を作る必要がある。
(動きを止める方法は……ある)
 男が少年と戦う、動機づけこそが弱みだ。殺意を感じないのが一番の甘さで、そこに付け込めばこの劣勢は打開できる。しかしそこまでして、目前の相手を殺す理由がなかった。

(それは……シヴァのために、なるのか?)
 その対応は、時間と体力の無駄でしかない。忍の少女――黒い鳥を取り戻すなら目前の敵を排除するべき。理性ではそうとわかっていても、感覚はそれを無為だと断言していた。
 その理由を少年は、漠然としかわかっていない。
 大使もこの相手も、黒い鳥を守ろうとしてここに来たのだ。それが大使に抱えられる、地に堕ちた黒い鳥を観ての確信であり――

 そんなこととは露知らず、ふと黒装束の少女が意識を取り戻した時。
 そのすぐ眼上の、恨みの募る相手。憎い取引を持ちかけた張本人、第四峠大使の顔が、真っ先に紅い目に映っていた。
「……――!」
「あー、やばい?」
 咄嗟に忍の少女が掌底を突き出す。大使が慌てて少女を下ろして退くと、直後に続いた派手な爆発音に、場にいた誰もが動きを止めていた。
「シヴァ!? 大丈夫なの!?」
 爆心地まで駆け寄ろうとした王女を、煙の中から出てきた忍の少女が手で制する。凛とした黒い鳥は、その場ですぐに何かを念じる体勢をとった。

「あちち、と。さすがは、青炎の氷の君」
 供の男の剣から、「力」が失われていく。所々焼け焦げた大使が隣に座り込み、「力の熱」を奪う「壁」の復活に軽く顔をしかめていた。

 そうか、と少年は、落盤の時に自分を弾き飛ばした熱の正体を悟った。
「なるほど……奪った後は、こうして発散してるのか」
 それが黒い鳥の「壁」の、本来の用途なのだろう。日頃の熱集めは、言わば貯蓄だった。
 「壁」の復活に、大使とそのお供はいくらかぐったりしたような様子となった。
「どうするんだ。この状況でもまだやるのか」
 押し負けていたわりには、偉そうに言う少年。たはは、と大使が無害な顔つきで笑う。
 迷いなく王女の元に戻った忍の少女。そして二人を守るように男達との間に立つ少年。そのあまりに自然な連携を見て、大使からは完全に毒気が抜けていった。
「オレは別に――軟弱だしな? な、エグザル」
「……」

 彼らには最早、危機感もなく戦意もない。供の男は何かを納得したらしく、座り込んだ大使の傍ら、古びた大剣を外套の内にしまった。
「おお。満足したか、よしよし」
「――?」
 やはり彼らは、黒い鳥を見守っていたからこのタイミングで現れたのだ。目覚めた少女に異常がなさそうなので、安堵したものと見えた。
 それならどうして、素直にそう言わないのか、と逆に警戒する少年に、大使が笑って手を振っている。
「残念だったけど、落し物は一割で十分とも言うしな。一応目的は――果たしたわけだし」
 少年のことを楽しげに見つつ、大使はぽんぽん、と傍らに立つ供の男の足を叩いていた。
「今回は、シヴァちゃんの熱い思いを頂いただけで満足ってことに」
「――は?」

「ソリス大使……いったいどういうおつもりですか」
 呆れる少年の背に隠れながら、王女が食ってかかる。怒りの感情を強く乗せるために母語を使い、遠慮なく大使を睨みつけていた。
「我が忠臣のライザを捕らえ、ゾレンに引き渡し、それで貴男の得る利益とはいったい何なのです」
 あまつさえ、と、忍の少女を横目に王女が激情を込める。
「我が側近を召し控えようなど、戯れにもほどがあります!」
 その心も決して嘘ではなかった大使。そっぽを向く供の男の隣で、不敵に微笑み返していた。
「ふむ。オレはただ、通りすがって偶然いいものを拾っただけだけど」
 きょろきょろ、と周囲の、落盤の痕跡たる砂山を見回して言う。
「そんなに大切なら、落としちゃダメだろ? 今後は気を付けるんだな、王女様よ」
「!」

 ああ、そうそう、と。噛みつきそうなままの王女に、今度は意地悪そうに笑いかけた。
「例の英雄さん、そう信頼しない方がいいぜ? 今まではともかく、彼にもディレステア以外の、守りたいものだってあるだろうさ」
「――何ですって?」
「幽閉の形でいいからゾレンに行きたい、とオレの条件を飲んだのはアイツだってこと。つまり――利害の一致ってやつ?」
「……!?」
 どういうこと、と王女の声が明らかに強張る。動揺のため、埃を払う大使に続きをきけなくなってしまっていた。

「――さてさて」
 大使は最早、それ以上説明する気はないようだった。
「少年。オマエさんに必要なのは実戦経験と、とにかくスタミナだな。護衛を名乗る気なら、この先、それは解決しとけよ」
 今度の大使は、少年にしかわからないゾレンの言葉を使ってそう言った。初めて第二峠の地下牢で会った時と同じように。
「アンタ達……俺を試しに来たのか?」
 なので少年も同じ言葉を使って、ずっと感じていた推測を返答する。
「オレは別に、必要ないと思ってたけどな? 王妃の元側近――旧騎士団長が煩くってな」
 ちらり、と横目で供の男を見ながら、大使は少しだけ困ったように笑った。
「まぁついでにコイツみたく、シヴァちゃんをレジオに引き抜けるなら、万々歳なんだがね」

 そこまで言うと、彼は少年にしかわからない言葉で、じゃあな、と踵を返した。
「王女様達のこと、守ってくれよ、少年」
 王女を守るのに、ふさわしい護衛であるかどうか。最後まで意図を少年以外に明かさず、レジオニスの男二人は、ディレステアに向かう王女達を後にしたのだった。


 男達が去った直後に、緊張の糸が切れ、座り込んだ王女が力なく少年を見上げた。
「何の話、していたの……? キラ」
「別に――俺のダメ出しをされただけだよ」
 旧騎士団長とやらの存在を、話しても王女に益はないだろう。すでにその男は、レジオニスに引き抜かれてしまっているのだから。
「アディこそ、アイツと何の話をしてたんだ?」
 ずっと、古語でやりとりしていた彼らの会話に、少年も気になっていた部分を尋ねる。
「ライザは自分から行ったって……アレは、どういう意味だ?」
「――え?」
「アディの言葉は、全然わからなかったけど。アイツ、俺にもわかるように、二重に喋ってた」
 生粋の化け物はどうやら、そうした芸当も可能らしい。そしてその話題がやはり、王女が座り込んだ一番の原因だろう。珍しく覇気のない様子で、そのまま俯いてしまった。

「わからないけれど……。ライザ様が唯一、とても哀しそうに話をされていたことは……覚えているけれど」
「……?」
「自分が守りたかったものは、もうほとんど全て、ゾレンに奪われてしまった――って。兄弟も、仲間も……大切な家族も」
 座る体勢を変えて、王女が頼りなく膝を抱える。その内にあるのは何故か、罪悪感のように少年には思えた。
「それは自業自得だけれど――許されるなら、十年前に戻って、次は家族と生きたいって。そう、仰ってたわ」
「……何だよ、それ。自分で選んだことだろ? 本当――女々しい英雄だな」
「……そう、よね」
 王女は無理に笑いながら、そこで何とか顔を上げた。

 十年前といえば、王女が忍の少女と出会った頃らしい。ディレステアとゾレンの、最も長い休戦時代の終わりの時でもあった。
「でも、キラ。本当はライザ様、いつだって帰りたかったのよ。十年前のあの時代に――ゾレンで最後に家族といた日々が一番幸せだったって、珍しく笑って仰ってたもの」
「――……」

 元々その英雄は、ディレステアとゾレンの和平を目指し、ゾレン内で若い頃から活動していた。そうして十七年前に二国の王家を取り持ち、和平交渉の機会を設定し続けた功労者。当初は和平派であったゾレン王も彼を厚く信頼し、彼の活動の本拠はゾレンだった。
 しかしゾレン王は、やがて和平から急進派へと傾き、彼らが掴んだ休戦を自ら打ち破る。そして再開戦の直後に英雄は妻を失い、以後はディレステアに身を寄せていたのだ。
「それでも……英雄ライザが今、ゾレンに帰る理由なんてないと思うけど」
 呆れた顔で言う少年に、王女は困ったように笑い、そうね、と呟いていた。王女の横で同じように座り、休息をとっていた覆面の少女も、何かを悩むように俯いている。

 そんな、ややも暗くなっていた雰囲気に、少年が何も言えなくなった時に。
「うぅーんにょろ……た、助けてにょろ……」
 先刻の男達が来た時に、弾け飛んでいたはずの土の壁。その場所から苦しげな幼声が上がった。
 あ、と。一行は同時にその声の場所を、同じタイミングで振り返った。落盤の際に忍の少女の肩にいて、少年達を少女が咄嗟に弾き飛ばした時、ソレは見事に落っこちたらしい。

「ひどいにょろー! みんなオイラのこと、カケラも心配しなかったにょろー!」
 掘り出された抜け殻蛇が、頭をぶんぶん振りながら泣き(わめ)く。
「仕方ないでしょ? アナタいつも、山場には隠れているから、今回もいなくても違和感はなかったんだもの」
「それはあれにょろ! 自業自得と言いたいのかにょろ!」
「……それ以外に、何と言うのよ?」
 ぎゃーにょろー! と暴れている抜け殻蛇を、苦笑しながら王女が宥める。一気に戻ってきた平和な光景を、少年は複雑な気分で眺めるしかなかった。

 落盤に巻き込まれ、その後に「力」も沢山使ったせいか、かなり疲労した忍の少女が溜め息をついていた。その姿にも少年は、暗い色の目を歪める。
(……やっぱり……)
 おそらく忍の少女がいれば、王女に起こる大概の危険は、あらかじめ摘みとられていく。先程のように少年が苦戦する相手でも、「壁」の力を攻撃方向へ変えれば対応できるのだろう。
 それだけこの黒い鳥は、侵し難い聖火と共に在る。しかしその代償も、必ず存在している。
「やっぱり――俺が殺さないとダメなんだな」
 そう、ぼそっと、少年は思わず呟く。
 抜け殻蛇と戯れながらも、その声には気付いた王女が、そこでいつになく、厳しげに目を細めていたのだった。

◆⑦◆ ヒト殺しの少年

 地下では、時の流れがとても分かり難い。
 行動指針を決めることに、ディレステア製の方位磁針付の懐中時計はひどく役に立っていた。人間の作る道具はつくづく便利だ、と少年が感じていた時のことだった。
「――羽のない天使?」
 懐中時計を忍の少女から預かり、今日は自分が徹夜で見張る、と疲労した少女を早めに休ませた後だ。少し離れて水脈を探していた少年に、王女がこっそり話しかけてきた。
「ええ。私だけが勝手に、シヴァのことをそう呼んでいるから……絶対内緒にしてね?」

 地上に堕ちてしまった黒い鳥。氷の君という二つ名の、羽の無い天使。
 その呼び方は確かに、黒い鳥にしっくりくると思った。しかし王女が、それを話してきた意図――温かな赤い目の揺らぎが、まず気になってしまう。
「シヴァはね。本当は、人間の体力だって奪ってしまえるのよ」
 「力の熱」を奪う忍の少女の「壁」。しかし先刻のように、貯め込んだ力でも扱うことは大きな負担なのだ。少年も感じていた現状を王女が改めて告げた。
「でも私は、それをさせたくなくって。だからずっと、シヴァは壁の力を抑えていて――シヴァ自身の体力の補充も、人間と同じ食事だけで保っているの」
「ふーん……それじゃ、俺よりも余程魔物一歩手前。って感じだな、シヴァ」
「その通りよ。シヴァはとても強いけれど、本当に化け物達と対等に渡り合おうと思えば……人間の血や精気で、力を取り込むくらいはしなきゃいけないんですって」

 いったい、そんな忍の少女は何者なのか。それを尋ねることにはためらいがあった。王女もこうして話をすることに、強い迷いを抱いている。
「……私はシヴァに、化け物じゃなく人間でいてほしい」
 それでも王女――人間の娘は強い口調で、その思いをはっきり語る。
「アヴィスは、化け物は嫌いじゃないのに?」
 何を何処まで話せば――話してよいのか。人間の娘は、いっそ全て話したがっている。素性を隠す忍の者のことを、必死に感情を抑えて話す相手に、少年は黙って続きを促す。
「シヴァは、羽のない天使……私はそう呼んでいる。私に羽をくれて、人間になって……私をずっと守ろうとしてくれているの」

 幼い二人が出会った理由。それは、化け物の養母の縁だったという。
「私達を取り上げてくれたのは、さっき言った育ての母……同じ産婆なの」
 しかしその産婆は、王女を狙った罠で命を落としてしまったらしい。産婆が養う他の養女を使った、卑劣な刺客に襲われた事件だったと。
「彼女は、魔女と呼ばれていた純血。シヴァは彼女から色々習って、戦う力を手に入れて……でもそれを彼女は、心配もしていた」
 魔女とはまた違う、黒い鳥の魔の道。化け物の領域も越えて忌まれる「魔性」――それは「力」の源を世界でも己でもなく、他者に求める邪法が鬼火でもあるのだ。 
 英雄曰く、黒い鳥は地獄の青い炎を司る鬼。その話には同意だった少年も眉をひそめるしかない。

「鬼や(あやかし)は人間を食べるけれど、食べずとも生きていける。けれど魔物は、ヒトの血や精気がないと生きていけない……だからシヴァに、鬼で留まりなさい、と彼女は言っていた。でも、そのヒトが殺された後から、ずっとシヴァは迷っているの」
 魔物となれば、もっと強くなれる。ヒトの知能を保ち、「力」さえあるなら、初めの一歩を踏み越えればどうでもよくなるだろう。
 物言わぬ黒い鳥はそう考えていそうだ、と、ヒト殺しの化け物である少年は直観する。

 化け物の秩序は、人間とは違う。自身に都合の良い環境を築ける「力」の魅力は、ヒトなら誰もが抗い難い。公正な世を求める人間の心を失い、「力」の奴隷となったとしても。
 だから人間の娘は黒い鳥のために、すでに踏み越えたヒト殺しの少年を必要としたのだ。黒い鳥がヒトを殺し、魔物の道を歩む前に。
「……」
 少年は、率直な所感を娘に伝える。
「それは――シヴァ自身、護衛として強くなりたいなら……手段があるなら、使えばいい」
「……――」
 何よりきっと、黒い鳥はそれを望んでいる。だからあの紅い目だと、少年にはわかった。
「でもシヴァは――護衛じゃないんだろ?」
 その自然な声に、少し前に自らそう口にした娘が、はっと顔を上げる。
「アヴィスがシヴァを、護衛としないのなら……シヴァの役目は何なのか、それを考えたら?」

 無意識に。アディとは口にせず、王女の本名を呼んでいた少年。
 少年が本当に言わんとすることを、人間の娘は深いところで受け取ったようだった。
「……そうね。シヴァがしなければいけないことは……本当は、私を守ることではないのよ」
 そこまで口にして、人間の娘が目元を和らげる。
 やっと心が晴れた、とばかりに、日頃のような笑顔に戻ると、ありがとう、と口にした。
「やっぱり私、シヴァには魔物になられては困るわ」
「――……」
 だって、と、人間の娘が誇らしい顔で微笑む。
「シヴァは私の……大切なヒト。大切な友達。だから私を守るより――私のために自分を守ってほしい」

 人間の娘はその答を、胸を張って口にする。
 そしてようやく覚悟が決まったらしい人間の娘は、そこで残酷な本音を口にしていた。
「キラ――私はね」
 ともすれば、冷酷とも言える顔で少年を見る。
 これまでは踏み切れなかった、身勝手な願い。それを初めて、真っ向から告げるために。
「私は、アナタがあの時助けてくれたこと――それは、アナタのためには最悪なことだったと思っている」
「――?」
 同郷の誰かを手にかけた後に、何も口にすることができなくなった少年。今や娘は少年以上に、その理由を感じ取っているらしい。
「でも――」

 理解していながら、少年に酷な願いを依頼する。自身の罪をも認めて、娘は断言する。
「アイツら、ディレステアの刺客をキラが殺してくれて、私はとても助かったわ」
 その行動は、王女の立場だけではなく、人間の娘の大切な者を、ヒト殺しの道から守っていた。
「私は、私達の敵は……――シヴァの代わりに、アナタが殺してほしいと思っているの」

 ふーん、と。少年はまず、ぽかんとせずにいられなかった。
「アディは、マジメだな」
 わざわざ醜い算段を、あえて言葉にした娘。きっと、年若く弱い人間だからこそ、せめて誠実に告げたのだろう。ヒトの上に立つ者の覚悟を示した姿は、少年には眩しかった。
「あのさ。もう何日目と思っているんだ、今」
 その黒い鳥に綺麗でいてほしいのは、無自覚な少年も同じだった。今更願われても、少年はすでに黒い鳥のために行動している。だから穏やかな声で笑うしかない。

 少し前から、己に拙い笑顔が増えていることを、少年は自分でわかっていなかった。
 その何処かに溶けて消えそうな微笑みに――人間の娘がふっと、立ち眩みをしたように少年の方へよりかかった。
「あれ――……何、今の」
「――……?」
「ねぇ、キラ……アナタの目って――」
――……私達と同じ、赤色よね……?
 俯きながら、戸惑ったような声で口にする娘に、少年はただ暗い色の目を澱ませて――そうだよ、とだけ無機質に答えた。
 いつも通りの彼の、初めの嘘のままに。

+++++

 長かった地下を、ひたすらモグラの如くに進んだ。
 その後にやっと、太陽と再会できた後には展開が早かった。
「もうとっくに、地下でゾレンに入っていたのね……通行証があって本当に良かったわ」
 王女達は初めて足を踏み入れた、化け物の国。農耕や畜産、採集による物々交換を主とし、木造の建物が多い街並で、容姿や服装文化は人間の国とも近い国柄だった。
「みんな人間に見えるけれど……違うのね?」
「第六峠には全然いないにょろ。だからアディちゃん達二人は、人間の気配だって怪しまれるにょろ」

 化け物の独立と単独統治を目指すゾレンでは、元来人口の五割程を占めた人間の排斥が進んでいる。一見人間に見える者達も、血の薄まった化け物、というのが通説だった。
「俺も全然、ゾレンで暮らしてた頃は覚えてないけど……こんなに人間がいないなんて、思わなかった」
 その殺伐とした雰囲気を肌で感じながら、少年も呟く。

 ゾレンを追われた人間の難民は、主にザインやディレステアに流れる。ディレステアに来た者はゾレンとの徹底抗戦を望み、反乱勢力に参入する者も多くいるという。
「ここに人間が帰ってこようと思ったら……今のゾレンを潰すしか、確かにないのかな」
「追い出されたような場所に帰りたいなんて、人間の気持ちはわからないなにょろ」
 坦々と先導する抜け殻蛇に、王女が顔をしかめる。外套で全身を隠しているので、その赤い目以外に豊かな表情は見られようがない。
「帰りたいだけではなく、憎しみも沢山生まれているの。あまりに強引な排斥なのだから」
 第六峠に向かう道は、確かに戦場さながら――荒れ果てた建物が各所に見受けられた。
 それは主に、ゾレン内での人間と化け物の確執の跡なのだと、見てきたような口ぶりで抜け殻蛇は説明するのだった。

 丁度時期として、ゾレンもディレステアも、大きな作戦が一つ終わった後だったらしい。
 第六峠周辺では各所にゾレン軍の部隊が駐留し、ゾレン側に設置されたディレステア大使館は、今や完全にゾレン軍が占拠していた。
「おい、オマエ。これの何処が安全にょろ」
「……そんなこと言ってない」
 見渡す限り、ゾレン軍だらけの現状。一行の目指す、ディレステア正規軍との合流は相当の難問だった。忍の少女の「壁」がなければ、とっくにゾレン軍に見つかっていただろう。

「ディレステア軍と合流するには、絶対に大使館の近くに行かないといけないのか?」
「本来はそうだけれど、ここは長く戦闘区域だから……外壁もさすがに崩れ出しているし、大使館なんかボロボロだしね。守りに徹するならともかく――ディレステア軍の方にも秘密裏に軍営を出て、ゾレンに攻撃するための極秘侵入路が何処かにあるはず」
 それはあくまで軍事機密だ。直接指揮をとっていない王女は、その位置を知らないだろう。
 しかし話を少年が聞いてからは、簡単だった。
「何だ……それじゃあ、その秘密の入り口を探せばいいんだな」
「――へ?」
 あるある。などと、隣家にこっそり忍び込む悪ガキの気軽さで呟く。
「こういうのを探すのは、昔から得意なんだ」

 要するに、違和感のある場所を見つければいい。王女達を連れ、ゾレンの兵士に見つからないよう移動だけは慎重にしながら、日没までに少年はその侵入路を見つけたのだった。
 こんな少年に簡単に見つけられて、大丈夫なのかしら、ディレステア軍。そう苦悩する王女達を連れて、少年はディレステア軍営へと侵入していったのだった。


 そんな、まさか――と。人間の軍人達の驚きは最もなことだった。
「アヴィス王女!? ご無事でしたか!」
 侵入路の途中、ディレステア軍の見張りに一行は捕まり、当然ながら不審尋問される事態となった。王女が名乗り、王家の紋章が入ったペンダントを掲げた後には、あれよあれよと一行は軍営へ迎え入れられていった。

 堅固な石造の基地で、植物油の慎ましい灯りが一行を照らす。
 ディレステア正規軍で現在、最前線の指揮をとるセルヴィ将軍は、第六峠の真逆の和平交渉地から辿りついた王女の、良くない報告の数々に沈痛な面持ちだった。
「まさか、ライザ殿が捕らえられるとは……」
 それから色々と、ディレステア軍の現状を将軍から聞く。
「和平交渉破綻の一報があったのち、ディレステア大使館はゾレン軍に占拠されました。ライザ殿のご助力がない今、我々にはそれを防ぐことができませんでした」
「……ゾレン大使館は、まだ落とされてないのか?」
 ディレステア大使館はゾレン軍の掌中にある。するとディレステア側にあるゾレン大使館が最後の砦になるはずだ。
 しかし十年もの間、ディレステア大使館は何度も敵の占拠と自軍による奪回を繰り返し、他の競り合いは主にゾレン側で、荒れ果てた宿場町が戦いの場であるという。戦争というには小規模な争いと、化け物による人間排斥を続けているのが、ゾレンとディレステアの長きに渡る紛争なのだ。

 ディレステア軍が根強く抵抗し、決着のつかない大きな要因は外壁にある。それに連なる軍営の堅固さと、外壁内の連絡通路(ヴィア)が単一で狭く、化け物の力でも広げられないことが人間の弱小さを補っていた。
 ゾレンでの兵役が長い将軍が、少年に流暢なゾレンの言葉で説明を続ける。
「化け物といえど、少数でしかヴィアは通れません。我が軍はヴィアの封鎖にこそ最大の資源をつぎ込んでいます」
 とにかく丈夫な外壁は、唯一の連絡通路の内でどんなに強力な「力」や武器を使っても崩落しない。それに化け物は真正面から挑み、ことごとく非業の最期を遂げるのだという。

 第六峠からディレステアに帰国するには、やはり大使館を通らなければいけない。その問題には解決策がある、と将軍は王女に説明していた。
「私がここにいることは、まだなるべくふせておいて。和平交渉が決裂し、国一番の英雄が行方不明……今後の動揺にどう対応するのか、先に対策を練らなければいけないわ」
「まずは反乱勢力の告発からですな、王女よ」
「ええ。なるべく早くディレステアに帰国できるよう、はからってもらえると助かります」
「心得ました」
 すでにかなり夕闇が辺りを染め、すぐ行動を開始するより先に休息をとることになった。
 少年のことは賓客として厚遇するよう、王女が将軍に念入りに頼んでいたのだった。


 外套のない質素な軍服に着替えた将軍が、王女と離れた上階の角部屋へ少年を案内していた。
「しばらくはこちらで、王女の帰国方法が決まるまでなるべく外出はされないで下さい。貴殿が万一何かの事件に巻き込まれれば、アヴィス様の御責任となってしまわれます」
 怪しまれるのは当然なので、反論はない。そのまま抜け殻蛇と同じ部屋に入れられる。
「戦闘が起きたときは、良ければアヴィス様をお守り願います。……キラ・レイン殿」
「おうおう。疑ってても、使えるものは使うんだなにょろ?」
「恐れ入ります。ご不便をおかけします」
 抜け殻蛇にも丁重な、化け物慣れした将軍が特に見ていたのは少年の手の「Z」だった。
 少年は黙って頷き、鍵が無く重い扉を閉める。その後はすぐに、人間の匂いしかしない殺伐とした石壁の部屋で、久方ぶりの深い眠りに入っていった。


 よく喋る抜け殻蛇も放置して、泥のように眠った。未明の夜更けにふっと少年は目覚め……あることに気が付き、誘われるようにして、ふらりとその部屋を静かに出ていった。
(……シヴァ?)
 もう遅い時間なのに、忍の少女の「壁」がまだ途絶えない。それだけが気になったこの夢遊は、何かの予感だったのだろう。

 「壁」の発生源の王女の部屋には、王女と忍の少女がいる。他には将軍が訪れていた。
 聴こえてくるのは、古語での会話で――そして、王女の悲痛な声が真っ先に届いた。
「そんな、セルヴィ将軍……! どうしてもそれしか方法はないというのですか……!」
 おそらく中では、将軍と王女が、帰国の方途について話し合っている最中のようだった。

 どうやら将軍は昼間に言っていた通り、大使館が占拠されていても王女を帰国させられる方法を知っている。詳細はわからないが、王女を一刻も早く帰国させたい焦慮を感じる。
 将軍の進言は当たり前だろう。王女は何故か反対し、理由はどうやら、少年のせいらしい。王女の意志はわからないが、キラという名前が何度も会話に出てきている。
 それに対して、場を見守る忍の少女は――
 僅かの間、沈黙が流れた後に、再び王女の小さな悲鳴が上がった。
「そんな、シヴァ……! シヴァまでキラをここに置いていけというの……!?」
 ああ――と。少年はそこで、王女に筆談で意見を伝えただろう、黒い鳥の心を知る。
「ライザ様を差し出した時も、私は反対だったわ……! それは仕方がなかったけれど、今はもっと他の道も選べるはずよ!」
 王女と忍の少女は、自分達が帰国するため、少年を切り捨てるかどうか。そう口論しているのだと、置き去りの英雄の名前を聞いて、少年にはわかった。

 王女は少年のため――ひいては少し前に少年に託した、黒い鳥を守る願いのために。
 そして黒い鳥は、王女を守るために、互いにひこうとしないでいた。
「キラは私達に必要な存在よ……! 信じるかどうか、それだけであれば、ここでキラを置いていく必要などないでしょう?」
 黒い鳥は、王女の反論に覆面の下の唇を噛み締める。そして非情になれ、と己を叱咤する。

 少年はやっと、黒い鳥の危うさが何かわかった気がした。
 何故ならその場で、少年に一番強い心配を抱いていたのは――王女でも将軍でもなく、他ならぬ黒い鳥だったのだから。
(……それは、迂闊だろ)
 ずっとそうだった。黒い鳥は己の感情を、殺すべき余分と知りつつ割り切れないのだ。魔物になれば強くなれると思いながら、人間の身に踏み止まっているように。
 地下の落盤の時、黒い鳥は感情的になって、少年と人間の娘を助けようとした。けれどその行動は明らかに誤りで、大使達が助けてくれなければどうなっていたのだろう。
 少年は、王女の負担になることを望まない。黒い鳥もその姿を認めて、今回は己が役目に徹そうとしているのだ。

 王女と忍の少女の珍しい齟齬は、そうしてしばらく平行線を辿りそうだった。
 将軍と忍の少女が同意見の以上、王女が折れるのを待つだけだ、と将軍は判断していた。
「それにしても、王女……あの少年は……」
 将軍の古語の、少し先を聞いてまもなく、少年は扉の前を離れてゆらりと自室に戻る。

 無言で外套を羽織った少年が、突然がさりと、安眠を貪る抜け殻蛇を荒々しく掴んだ。
「うにょろ!? 何だにょろキラ、寝ぼけたのかにょろ!」
 何一つ答えずに少年は、鋼の剣に抜け殻蛇を括って逃げられないようにする。そのまま小さな窓を開けて、狭い孔から宵闇の内へ、上枠を掴んで滑り込むように身を躍らせた。
「何処に行くにょろ! 何でオイラを連れていくにょろ! 蛇攫いだにょろ!」
 外套をはためかせて、石の基地の辺側に着地する。月も朧な夜空の真下、少年は一人きりでひっそりと立ち上がった。
 少年が今できることは、それくらいなのだ。すれ違った人間の巣から離れるため、硬い砂の音を鳴らして歩き始める。

 王女の帰国に、どうやら邪魔らしいものを全て排除するために。
 それは当然の答だと、荒野を吹き抜ける風だけが、暗影に呑まれた少年を笑っていた。

◆⑧◆ 導きの蛇

 第六峠という荒れ果てた地域には、一般の化け物も人間もほとんど住んでいなかった。
 大使館周辺はいくつも土嚢の障壁がしかれ、雑草も乏しい荒野だが、そこからゾレン側には森が密生して僅かな人家を呑み込んでいる。

 ディレステア軍営を出て、少年は程無く、人目から離れることに成功していた。大使館にこもるゾレン軍にも見咎められていない。手持ちの剣に結んだ抜け殻蛇の文句を聞きながら、朝焼けの差し込む森をぽつりと歩いていた。
「今頃アディちゃんは大騒ぎだにょろ。シヴァちゃんもオイラがいなくて泣いてるにょろ」
「……それはないだろ」
 段々、胡乱な朝陽が昇る。街道をこれ以上行くと誰かに見つかる、と草むした脇道に入る。

「何でオイラも連れてきたにょろ? そもそも何で、キラは軍営を出たにょろ?」
 当然の疑問を抜け殻蛇が何度も繰り返し、少年もようやく、返答する気力が戻ってきていた。
「俺とアンタは……多分、ディレステアには行けない」
 あまりよくわかっていないことを、大まかに言う。抜け殻蛇は案外、すぐに納得を見せた。
「まあ、大使館を通れないからなあにょろ。万一別ルートがあれば、ゾレンに知られたらそこも攻められるし、よそ者のオイラ達には教えてくれないだろうなにょろ」
「…………」
「でもなにょろ。ここからみんなで、多少危険でも第五峠に行く手段もあったにょろ?」
 そうして抜け殻蛇は改めて、夢現から独断独行に走った少年を咎める。
「どうしてキラは、相談をしないんだにょろ。なまじキラは、色々わかって勘が良いから、目先の感覚で動き過ぎだにょろ」
 王女達と話せば、ゾレンの森でこうして路頭に迷うことはなかったと言う。しかし今の少年には、王女達から離れることこそが最優先事項だったのだ。
「アディ達が早く――国に帰る方がいい」

 国民の半ば近くを占める人間を、ゾレンの化け物は排斥を進めるという。そうした町に、少年は行く気が起こらないでいる。
 癖のように清涼な水の匂いを辿り、やがて、南向きに流れる閑静な小川を見つけた。
「…………」
 足を止めて、川辺の大きな木陰に隠れて腰を下ろす。人目について問題を起こし、王女達に迷惑をかける可能性は避けたかった。

 ぎっちり括りつけた抜け殻蛇を、剣からほどいてやる。そのまま川のそよぎを眺めて、呆けたように座り込んでいると、抜け殻蛇がつと、その混濁の糾明を始めた。
「オマエ……これからどうする気だにょろ?」
「……さぁ。夜になったら、また動くかな」
 隠れ里を出た時のように、一人に戻っただけ。
 王女達の事情を納得できるなら、抜け殻蛇は好きにすればいい。その心積もりで少年は目を伏せるが、帰ろうとはしない抜け殻蛇が、隣の岩からしばらく黙って見上げた。

 少年に合わせて、ゾレンの新語を話すソレは、首をもたげて神妙に少年を見つめる。
「キラはどうしてそんなに、自分を鞭打つんだにょろ?」
 食事はおろか、休息より見張りを優先し、限界まで動く少年を抜け殻蛇は見てきている。その上での感慨らしいが、少年にはよくわからない。薄暗い樹影を受ける抜け殻の頭が、他人事の軽さで問いを続けた。
「オイラにはそうとしか見えないにょろ。キラはまるで、アディちゃん達を送り終わって、自分は邪魔者だと言わんばかりだにょろ」

 特別心配そうでもない抜け殻蛇に、少年は流れる水を無心に見つめて、少しだけ考えてみる。
 別に己に厳しいつもりはない。感情のない声色で、呟くようにその答を返していた。
「みんな……俺のせいでいなくなった」
 柔らかく冷たい浅瀬のせせらぎに、拙い声はたゆたく浚われていくが――
「俺は……足手まといだけは、嫌だ」
 それはおそらく、どうでもいい相手にこそ、無意識にたやすく出せた真情だった。

 俯く少年に、抜け殻蛇が見透かすような黒い眼窩を向ける。
「それならオマエの……やるべきことより、やりたいことは何だにょろ?」
 粛々とした声にただ項垂れる。疲れた理性は言われた通り、目的探しに明け暮れていた。成すべきことが何もなければ、足手まとい、というざわめきが喉元までせり上がってくる。

 浮かぶのは、少年のせいで失踪し、王女達にも迷惑をかけた大切な相手だ。
――クランは行方不明になってしまいよった。
 少年が初めに第二峠を目指した目的は、何処に消えてしまったのだろう。あの、激情と魔道の力を静かに制御する赤い目の男。「千里眼」の元に通いながら培った、大使の生活を投げ打ってまで――

 少年は、バンダナの影が差す目を伏せたままで呟く。
「俺には……やりたいことなんてない」
 まずもって、望む権利すらない――それこそが咎人の不文律だった。
「できることをするだけだ。それも、ろくに使えたもんじゃない」
 だからその血は冷たく、希みなど流されてはいけない。居場所は初めから存在しない。
 そうかにょろ? と返す抜け殻蛇に、あえて何の感慨も浮かべずに答えた。
「そんなこと、初めてヒトを殺した時から、わかってた」
 淡々と告げると、抜け殻蛇が押し黙った。その目が何処にあるのかわからなくなった。

 他には何もない。少年はいつも何も感じていない。故障した五感が拾い続ける現実の情報に、自らの心などかき消されている。
 失った理由も、望めなくなった理由も関係はない。咎人でありながら悔いていない死神に、赦しなど与えられはしない。野垂れ死ぬまで進むだけだ。詫びる資格すらない、と「死」を刻む化け物はとっくに救いを諦めていた。

 そうして現実だけを口にする少年に、無表情の抜け殻蛇が話題の矛先を変えた。
「キラは、シヴァちゃん達がこれからどうなっていくか、興味はないのかにょろ?」
「……」
「ディレステア軍と合流ができれば、本当にオマエは用無しだ、と言えるのかにょろ」
「……さぁ」
 とりあえず目だけは向けて、少年は抜け殻蛇を見る。よくわからない、という正直な色で。

「キラが守りたいのは、シヴァちゃん達じゃなく、峠に送る約束だったのかにょろ?」
 的を射る抜け殻蛇は決して咎める口調ではない。それでも珍しく、真面目な様相を見せた。
「キラにはまだ、役目があるはずだにょろ」
 抜け殻蛇は無情に、ソレの目的の駒として、少年を動かすためにある隙をつく。
 この情報過多である直観の少年に、強い想いを伴わない言葉は届いてくれない。それなら埋もれかけていた約束を、誰かがもう一度後押しするだけだろう。
「ヒトを殺す。それが『キラ』の役目だにょろ?」
 息を飲む少年の早い反応に、ソレはもくろみの成功を悟る。ヒト殺しの少年はただ動く――「生」を吐くため、自らの役目を渇望していた。
「殺すって――誰を」
「今後、シヴァちゃん達の前に立ち塞がる敵。それをキラが殺せばいいにょろ」
「――……」

「戦局が不利になるにつれて、シヴァちゃんは追い詰められていくにょろ。強くなりたいシヴァちゃんはきっと、魔物に堕ちることを望んでしまうにょろ」
 弱小なソレは、独力では想いを叶えられない。それ故に少年の存在を切に求めていた。
「とりあえず目前にシヴァちゃんの敵が、大使館に大量にひしめいているにょろ?」
 ソレの想いも、少年と同じ。その黒い鳥の目を、紅く穢したくない――
 凍りついた心を動かし、剣をとった少年が、闇の底で唯一見つけ出していた道。
 少年の特技は、ただヒト殺しだけだった。

 ようやく顔を横向け、大きく嘆息した少年は、抜け殻蛇への呆れを全面に浮かべた。
「アンタ相当、シヴァに執着してるんだな」
「好みのタイプなんだにょろ。だからオイラもついてきたんだにょろ」
 それは抜け殻蛇が、少年と対峙する限りにおいて、揺らぐことはない大きな真実。いつも黒い鳥の肩に収まろうとする抜け殻に、少年はその緋い蛇の中身を悟る。
 少年より軟弱な者に、利用されていることはわかり始めた。それでも嫌いでない相手に使われるなら、少年は何も構わなかった。

「大使館のゾレン軍に喧嘩を売って、俺一人で勝てるわけがないけど?」
 具体的な相談を始めると、抜け殻蛇がにんまり舌を出して、話を続ける。
「騒ぎを起こして注意を引けば、シヴァちゃん達は多分、帰国しやすくなると思うんだなにょろ」
「騒ぎと言っても、どうやって起こすんだよ」
「そうだなあにょろ。オマエの特技で隙を窺って、将校の一人でも暗殺すればいいにょろ」
 故障した五感を持つ少年の使い道を、的確に把握した言葉。不覚にも少年は納得する。
「それくらいなら……何とかなりそうだ」
 私怨もない相手を一方的に殺め、その後に少年がどうなろうとも知ったことではない。そうした酷薄さこそ、この死神を動かす鍵であるのだ。

 心なしか、黒ずんできた空の下で息をつくと、少年はおもむろに立ち上がった。取るべき道がわかれば、立ち止まることはない。歩けなくなるまで動き続ける。
 来た道を戻る遠回りに、肩に跳び乗った抜け殻蛇は大仰な溜め息をついていた。
「だから相談しろと言ってるのにな、にょろ」
 そして少年と抜け殻蛇は、ディレステア軍営よりやや北西、大使館に臨む広い森に立つ。


 風雲急を告げる第六峠大使館は、ザインの第二峠大使館と、遠目には同じ外観だった。洋館と言うらしい華やかな木造の高い建物を、とうに崩された煉瓦の塀が囲む。それより外周を守る鋭い鉄柵にも所々に歪みや断絶があり、繰り返される戦禍を物語っていた。
「忍び込むこともできそうだけど……」
「それより向こうが出てくるチャンスを待つにょろ。オマエは番兵に見つかっただけでも致命的にょろ」
 地下道以後は戦闘がなかったので、少年は何とかここまで歩武を保てた。しかし食事も休息もろくにとらない少年の体力は削られる一方であり、少年が本来、強い「力」を持つ化け物の血筋でなければ、とっくに力尽きていたことだろう。
「将軍レベルの強い奴は、外に出るのか?」
「さあなぁにょろ。気長に待ってみるにょろ」
 少年を隠す大木の樹冠に抜け殻蛇も隠れ、無責任な声にやっと気が重くなった。あまりここに長居して、近隣の王女達に見つからないかが気がかりだった。

 少年の存在は矛盾だらけ、といつかの夜に抜け殻蛇は言った。それは奇しくも、少年の素性が知れたすぐ後のことでもあった。
 ディレステアの軍営を後にした少年が、最も切迫を感じていたもの……それは顎鬚の将軍が少年に向ける、強い猜疑の思いだった。
――それにしても、王女……あの少年はいったい何者なのですか?
 後に続いた疑問は、英雄を始めとし、ゾレン西部の化け物と長く関わってきた将軍だからこそ持てる不審。誰もが見てこなかった、基本的な現実でもある。

 王女は将軍に、化け物の少年の素性を改めて凛と主張する。
――これまで話した通りです。ザインで出会い、私達をここまで送ってくれた、第二峠のフィシェル大使の大事なご子息なのです。
 しかし、と将軍は、一つも警戒を解かずに続けた。
――『Z』も『D』も、あくまでその国内で生誕した者にのみ刻まれるものです、王女。あの少年がエア・フィシェルの息子なら……少年が生まれたのは彼女がゾレンを出てから、ザインでのはずです。それなのに何故彼は、あの印を持っているのです?

 手の甲に「Z」を刻み、素性の知れぬヒト殺しの化け物。王女の連れでなければ、まず危険人物として排除されるべき存在だろう。どうあっても少年は、敵国の化け物なのだ。
 少年の手の印については他にも、違和感を持った者がいたことを王女は思い出していた。
――しかしオマエ、この印も剣もどうしてん?
 王女もその不整合に、少しずつ旗色を悪くしていく。
――……この印は、後から彫るということは可能なのですか?
――無論できますが、生まれてすぐ刻んだものと、後に彫ったものは状態が違います。
 将軍はそして、少年の決定的な不実を口にする。
――あの少年の印はまず間違いなく――ゾレンで生誕時に刻まれたものです、王女。

 キラ・レイン・S。咄嗟にSで名乗った者は、それが不自然でない存在だったはずだ。有名なフィシェルの姓を隠すのも、厄介事を避けるためにいつもそうしていたのだろう。
 そもそも「千里眼」という人間を母に持つ少年は、半分は人間であるわけで――
――じゃあ、あのキラは……いったいどうなっているの?

 王女が少年を信頼したのは、助けられたことに加え、少年の素性が好ましかったからだ。それならそこに不信が芽生えれば、少年と王女達には再び溝が生まれる。
 己が誰か、身の証を立てる術のない少年は、逃げることしかできなかった。
 王女や黒い鳥から疑われるのは、それだけ辛いことだったのだと今更気付きながら。

 空は愁雲に曇り、太陽が隠れ、昼前なのに黄昏時のように峠全域が物狂おしく――これからヒトを殺そうと身を潜める少年の五感を、滅多にない静寂が支配していた。
 ふっと、ディレステア大使館を見つめる抜け殻蛇が、不意に重い話を始めた。
「オイラはな――にょろ。英雄ライザが、オイラは嫌いだにょろ」
「……え?」
「昔の休戦前はともかく、今の英雄はディレステア国民に半端な希望を持たせて、争いを長引かせる張本人だにょろ」
 珍しく私情を感じる語り。抜け殻蛇から満面の気怠さが醸し出されていた。

「ディレステアに勝ち目はないにょろ。ゾレンの望む通り国土を譲るのが最終結末だろうなにょろ」
 かつて、化け物と人間の共存を謳ったゾレンの要求。化け物と人間を隔離させるために、ディレステアの外壁を取り壊し、ゾレンに隣接した地域からは人間を退去させる。その要求は、通せばディレステアの大半に人間が住めなくなる難題だと、少年は過去にきいていた。
「そりゃ、理不尽だにょろ。けれどそれを、たった一人の英雄が覆す方が、もっとタチが悪いにょろ」
「……ディレステアが負ける方が、自然だってことか?」
「調和ってのは、いつか崩れるんだにょろ。ヒトはそうして揺り籠から出て、移り変わっていくにょろ」
 その在るべき結果を歪め、ヒトの可能性を奪う。それこそが罪だ、と抜け殻蛇は言う。

「始末の悪いことに、そういう奴に限って、圧倒的な力の持ち主だったりするにょろ」
 その代表格が英雄ライザだ、と呆れるように大きく息をついていた。
 少年には理解し難い戯言だった。そしてそれ以上に気になることは――
「何で俺に……英雄の話なんてするんだ?」
 少年の気をひくために、抜け殻蛇は英雄の話題を持ち出している。こんな話が始まったこと、そのおかしさの一点に尽きた。
「だって、オマエもアレが嫌いなんだにょろ? ――『キラ・レイン』」

 少年の内で、長い憎悪が再び浮上しかけたその時。臓腑の(うごめ)きに呼応するように、彼らの運命の歯車はぎしりと回り始めていた。
「うにょろ? 大使館から、何か妙なのが出てきたにょろ」
 あっさり話題を変えた抜け殻蛇の軽薄な声が、少年を今この現実へと導く。

 空が暗みを増していた。化け物の兵士達に守られた大使館から、番兵とは色合いが違う軍服の一団が現れていた。
「……?」
 外にいる兵士とは階級が違うのかと思ったが、一団の内でも豪華な外套の者、十数人の下級兵など身分は一定していない。明らかに異風な者達がそこに集まっている。
「あれは……第六峠担当の軍部じゃないな、にょろ……?」
 怪訝そうな抜け殻蛇の言う通り、占拠された大使館の番兵とその一団は、あからさまに険悪な空気を醸し出している。
 館内から見送りに出た第六峠の将校らしき化け物に、一団の最も屈強な体の化け物が、侮蔑の視線を返して大使館に背を向けていた。
「――……?」
 荒れ地の先の、森に隠れる少年の近くまで、段々と歩いてくる一団。それらから少年は、不思議なほどに目を離すことができず――

 広場の中間辺りで一団は、大使館の方に振り返って立ち止まった。
 一団を見送りながら、敬礼もしていない番兵達に一しきり悪態をついてから、下級兵に囲まれる中心の二人が立ち話を始める。
「それにしてもダゴン将軍。何故にそこまで、英雄ライザに拘られるのですか?」
「ふん。あの裏切り者の飛竜――いや、違うな。身の程知らずの飛びトカゲには一度、現実を知らしめてやりたいと思っていたのだ」
 朗々と喋る声が、五感を研ぎ澄ませる少年に辛うじて届く。ぴくりと少年は、聞き知った名前に体を固める。
 装具の多い外套の参謀と、巨斧を背負う巨体を無理やり軍服に詰めた将校は、大使館に一時滞在していたようだった。第六峠の軍部とはほとんど関係のない者達なのだ。

「しかし、第六峠に英雄がいないという噂は、本当であったようですね」
「口惜しい。奴に直接、絶望を突きつけてやれなくてとても残念だ。最早、我々の目的の達成は時間の問題だろうからな」
 第六峠にいる目的を、徐々に明らかにしていく将校の後ろ姿。担がれた巨大な斧に隠れ、見えもしない相手の顔が何故かありありと浮かぶ。
 全身に鳥肌が立った。少年はいつしか、理由のわからない大気の氷結を感じ始め……。

――殺したい殺したい殺したい――

 慣れた吐き気より、唐突で激烈な頭痛。
 黒いバンダナもろとも、額を手荒く掴んだ少年の声が割れた。
「ア――イ、ツ……?」
 その化け物の声が何故、耳孔から頭をかき回すのか。異変に気付いた抜け殻蛇が空洞の目をひそめるほど、少年は急速に鬼気迫っていく。
「キラ……? オマエ、にょろ……?」

 体幹から冷や汗が噴き出し、言葉を忘れた舌が渇く。筋という筋が全て強張っていく。
 指の隙間で両目を見開く。乱れる胸の音が煩過ぎて、気配を殺すことも忘れてしまった。
 血走った視線を受ける一団が不穏な気配に気付くまでに、さして時間はかからなかった。
「ダゴン将軍。付近に異様な雑種と思しき気配を認めます」
「何だ? このような時期に何故、大使館付近を単体でうろつく愚民がいる?」
「かなり形容し難い気配です。ご注意を」
 強い化け物同士は、同じ生活圏に属する見知った気配の者でなければ、互いに警戒することが当たり前だ。化け物はそもそも、化け物同士でも争いが絶えない生き物なのだ。

「ふん。何者か知らぬが、この西部の国境の守護者ダゴンに刃向える愚か者などおらぬわ」
 第六峠といった一部の地でなく、広範囲を預かる軍部ほど、強い化け物が配置される。その将校は西部最強の称号を持つようだった。
 英雄や他の軍部のみならず、全ての化け物を見下す将校が、(きびす)を返して移動を再開する。

 少年のいる方に、部下を引き連れて歩き出した将校の、強大な全身像を目の当たりにした少年は、わけもわからず激しく叫び出しそうになった。
「っ、は――」
 その暗い色の目に、直接対象を映すこと。故障した五感が最も強く発揮される捉え方を、少年自身はわかっていない。
 勝手に呼吸が止まる中で、空いた手が胸倉に爪を突き立てる。鋭い痛みで自らを保とうとしても、動き始めた運命を止めるには全くの無意味だった。

 鼓動と噴出。喘ぐ少年に映る化け物も、ちょうど自身を凝視する少年に気が付いていた。
「……む?」
 同じ瞬間、少年の掴む額の印がはじけた。脳髄を逸らせる赤い記憶が絶息を打ち破る。少年の唯一の「力」、常に吐き出す「生」が、その焔を通じて灼熱の逆流を始めた。
 この場にいた目的も、己が名前も、何もかもをかき消す炎上。成し遂げられた咎の一念。目を塞がれた心がそれを知る前に、燃える印と同調する熱がその真実を訴えていた。

 大使館の向かいの森に入る直前、進行を止めた将校が訝しげに、大きな樹下の暗がりに潜む少年を見つけていた。
「どういうことだ――?」
 少年の銀色の髪と黒いバンダナに、ザイン遠征に出た将校は強く見覚えがあるらしい。わざわざ遠征結果を示しに第六峠に来た将校にとって、どうしても見過ごせない少年がそこにいる。それこそがここで、少年の全霊を乱す存在の理であり――
「せっかく目障りな飛びトカゲに、身内の無残な末路を教えてやろうというものを……」

 そして将校は黒いバンダナの少年に対して、最も口にしてはならない一言を言い放ってしまった。
「貴様、生きていたのか? 英雄の同輩、エア・レインの息子の混血よ」
「――……」

 それはあの、少年が初めてヒトを殺した夜と同じ愚直なうわ言。
――オマエ……何で生きてるんだ、キラ!?
 少年の親友が命をかけて施した咎。魔の道による赤い呪いが、その意味を持つ時。

◆⑨◆ 赤い呪い

「生きていたのか。エア・レインの息子よ」
 黒いバンダナの隠すその下。額に赤く刻まれた印が、ある二人の少年を入れ替える。
「キラといったか。弱小な人間の混血児だな」
 死んでしまった親友の名で、少年を呼ぶ化け物がいる。その状況が意味することは――少年は今、親友の姿で周りには見えていること。
「あれだけの傷から、よもや人間が生還するとはな……」
 そして親友を映す少年に驚く者は、親友の死に関わった者であるだろうこと。
 何故ならその死を知るのは、親友を独りで看取った少年か、殺害者しかいないのだから。

「……ア――」
 部下を連れて、将校が尊大に近付いてくる。ただ唖然と、少年は額を抑える手許の目を限界まで瞠る。
「ちょうど良い、今度こそ吐いてもらおうか? 貴様らと共に暮らしていたはずのユオン……ライザの息子は何処にいる?」
 圧倒的な威圧を放つ巨体の軍人。それが英雄の息子を狙ったゾレンの追手であり――
 あまりの感情の噴出に少年は呼吸を忘れ、騒がしい心の臓が悶死寸前に大きく波打った。
「アンタ――が……」
「む?」
 鷲掴みで緩んでいたバンダナが、退けた手につられてするりと外れ落ちる。
「アンタが……キラと、エア母さんを――」

 バンダナの下で赤く燃え盛る焔に、将校はそこではたと気が付く。
「貴様、その額の印は……?」
 まさにその、直後の瞬間だった。

――あアアああアアアアア!

 少年の喉から広大な光が(ほとばし)った。場の者を全て、白日の下へ消し去るように一瞬で包む。
 暗雲漂う空に響く、強奪の命を受けし天声。ただ一息にて衆愚を灼きつくすそれは、天性の死神があまねく曝け出す、呪われた「生」に他ならず――

「貴……様――!?」
 突然の凶事に逢った一団が、外傷もなく地に崩折(くずお)れていった。あまりに異様に事切れた者達の中、唯一立っている将校が、動き難い外套ごと軍服を引き千切りながら叫ぶ。
「今の『力』は、いったい何だ!?」
 正装として儀礼用の軍服を着ていた巨体は、見るも豪強な甲殻に覆われた雑種の化け物。
 ザインに遠征して英雄の関係者を討伐した際は、討伐相手の身に無かったはずの二つの刻印に、将の男はそこで気が付いていた。
「その額の印……系統は『呪術』か」
 それこそがこの、もつれた現状全ての発端。男の声に違う種類の懐疑が宿る。

 呪いとは、「世界の理」を司る魔道において、等価に引き換える理なき禁忌だと言う。
 何かを呪うほどの強い念が現実をも侵食する、その禁じ手が呪術だ。思いさえ強ければ何者であっても、己の何かを代償に、化け物に通じるほどの「力」を持てるものだと。
「エア・レインの子に、(しゅ)をかけられたか。道理であの後から、いつまでもライザの息子が見つからぬわけだ」
 額の印を隠していたバンダナが落ち、手に「Z」を刻む少年。その出で立ちを目にして、全てのまやかしを気取った男が得心の笑みを浮かべた。

「探したぞ――ユオン・ドールド・Z」
「――……」
 黒いバンダナが無くなった後も、変わらず暗い色の目で少年は木の下に立ち尽くす。
「ライザ・ドールドの実の息子よ。わざわざ自ら正体を明かすとは愚かな。その額の呪も、魔道に通じる者か、よほど身近な者でなければ違和感すら持てぬだろうに」
 西部最強たる将の男は、ヒト種の姿形に介入する魔道に心得があるようだった。だから命の火をかざす印そのものを見て、赤い焔に包まれた少年の存在を見極めているのだ。
「まさか英雄の息子が人間の混血の皮をかぶり、我らの追跡を逃れていようとはな」

 そこまで看破されてもなお――少年の暗く青い眼光が、将の男に赤く見えていることは変わらないほど、その呪いの焔は強力だった。おそらくそれは、狙われた青い目の少年を隠したかった、赤い目の主の思いの強さだけ。
 青い目と赤い目、二人の銀色の髪の少年を入れ替えた、赤い呪い……――


 養子である青い目の少年が、育てられた家へと夜更けに帰り着いた時だった。
「……え……?」
 少年より半日早く帰った親友と、いつも家にいた育ての母がいない。家中の家具が泥だらけで蹴散らされ、床一面と壁の地図まで、赤まみれにする散り散りの肉塊が転がっていた。
「エア母さん……? キラ……?」
 いったいここは、何処なのだろう。突如迷い込んだ異界に少年は途方に暮れた。
 しかし塊の一つには、辛うじて息があった。血まみれの髪に巻かれる黒いバンダナが、それは共に育った親友だと、無残な現実を少年に教える。

「ユオン――……やっと来た、な……」
 完全に命が途切れる前に、頭の良い親友は自ら魔道の儀で仮死状態に入り、殺害者達を撤収させたのだ。死の寸前でありながら、執念の吐息で少年を待っていたようだった。
「……キラ!?」
「思ったより、早かったな……おかげでまだ、何とかなりそうだ……」

 真っ白な頭のままでとにかく駆け寄る。その姿に親友の方が苦しそうに笑う。
「ユオン……オマエを狙う奴が、来た……」
 とにかく断末の摩を取り戻した親友。抱き起こしながら初めて、何で、と泣き叫んだ。
 それにかまわず、親友は少年の額に、最後の力で真っ赤な指を強く突きつける。
「アイツはやばい……絶対に、相手、するな……オマエだけでも、助かってくれよ――」
 待って、と言う暇もなかった。少年の額から血が滲むほどの力で、決して消えない咎を親友が刻み込む。それがどれほど長く、少年を縛ることになるのかもかまわずに。
「どういうことだよ、キラ……!?」
「オマエのことは、オレが隠してやるから……」
 だから、逃げろ――と。それだけ親友は言い遺し、己が存在の全てを焔の印に燃やす。

 嫌だと叫んだのに、力の限りしがみついたのに。腕から零れ、消えゆく赤い目が最後に笑顔を見せた。事切れた瞬間灰になるように、親友は黒いバンダナを残して霧散し――
 そうして親友が残した最後の願いで、その日から少年は親友の姿を映し、親友の名前で呼ばれることになったのだった。

 少年は剣を――親友は魔道を。それぞれが親友の父から適する戦いの手ほどきを受け、自分達を守れるように、と鍛えられていた。
 それでも親友の母は人間であり、体は人間よりの親友。化け物である少年が日増しに親友より強くなるのは当然だった。
 けれどどうしても戦いたがる親友は、化け物に差し迫る直情さで魔道を学んだ。その執念こそが、呪いという禁忌の魔道への適性だった。

――これならオレ自身が弱くたって、呪殺の力は化け物にも通用するんだからな。
 そんなことを楽しそうに言う親友に、少年はいつも、最初の希みを返す。
――別にキラは、強くなくていいよ。敵は俺が殺せばいいんだから。
 淡々とそう言うと、不敵な顔に最後の願いを隠す親友が笑い返す。
――オマエは殺すな、って言ってんだろ、バカ。ユオンはオレの背中を守ればいいんだ。
 親友も戦おうとする理由。少年がヒトを殺せば、その痛みは全て少年に還る、と故障した五感を心配する親友は、何かあれば自らが手を汚すことを覚悟していた。
――だからユオンはヒトを殺すな。オレ達は二人で、オレ達の母さんを守るんだ。
 オレは「キラ」だからな、と誇らしげに微笑む親友に、少年もまたよく笑った。

 二人はそうして張り合い、戦う力を磨いた。少年は隣山で剣の師につき、陽気な親友は里の困り事を解決して重宝され、彼らが揃えば警備隊の真似事もできるほどだった。

 そんな二人をある朝、母――「千里眼」はお使いに出す。
「キラ、ユオン。ユオンのお師匠様が体調を崩して困っているわ。二人で看病に行って」
 滅多に帰れない親友の父から紹介された、隣山に住む剣の師。「千里眼」の言葉に従い、少年達は揃って隣山へと向かった。

 しかしそこで親友は、彼らの母の思惑に反したことを思い出してしまう。
「そういや、母さんの薬も切れてたっけな」
 それは母思い故に、呪術に手を染めた親友の末路――親友自身に還った呪いだった。
 もしも少年の直観が五感に依存せず、また予知の類であれば、少年は親友を一人だけで引き返させることはなかっただろう。
「何だ、そりゃ。師匠の看病なんて俺だけで十分だから、キラはそっちに行けよ」
 そして先に帰った親友が、母を殺される現場に立ち会うこともなかっただろうに。

 ゾレン西部にいた昔、強大と名を馳せた将校の知った一団。それがザインに現れたのを、「千里眼」はその朝に探知していたようだった。
 体の弱い育ての母は、一団がもし追手なら、先のない自分だけが見せしめに殺されれば良い、と考えたのだろう。まさかとは思いながら、念のために二人の少年をなるべく遠くに隠そうとした。しかしそのもくろみは失敗してしまう。
 英雄の息子の居場所を尋ねる拷問と共に、裏切り者として殺されゆく時、赤い目の実の息子は帰ってきてしまったのだ。

 たった一人で、あの惨状の中に帰った親友。母と同様、おそらく少年の所在を訊問されて痛めつけられ、単身では呪術を使える余地もなく殺され――それでも危機を伝えるために、呪いの一念で命を保ち、少年を待った親友の苦痛はどれほどのものだったのだろう。
 少年達を守りたかった「千里眼」――そのため大切な息子の命を払うことになった育ての母は、どれだけ無念だっただろうか。
――アナタは、かけがえのない宝物なの。

 そしてそれほどまでに、オマエは生きろ、と呪いの願いを受けた化け物は、もう自身の意志で身の振り方を決めてよい生き物ではなくなっていた。
――オマエだけでも、助かってくれよ。
 たとえどれだけ少年が、彼らのいない後の暮らしに何の救いも持てなかろうとも。
――俺さえいなければ、みんな――……。
 彼らを襲った不幸の因を己に見出し、その生に全く価値を置けなくなったとしても。


 そして少年は、彼の全てを奪った男に、激しい感情を飲み込む暗い目を向ける。
「――どうした? 我が部下達を一瞬で抹殺しておいて、その後はだんまりか?」
 黙って将の男の全身を観る少年に、男は自らの武器を取り出す。ずっと背にしていた、背中を埋め尽くす大きさの戦斧を。

 将の男の遥か後ろ、大使館の方で番兵達が、見送った一団が突然謎の死を遂げたことに慌てふためいていた。
 しかし将の男と少年は、大使館の兵士達が敵対するディレステア人ではない。ゾレンの化け物同士が大使館外で起こした騒ぎに、兵士達はまだ様子を窺っているようだった。

 少年はその後方に、あっさりと見切りをつける。
(アイツらは、コイツを恐れてる)
 大使館にいる化け物に、大切なのは大使館の死守だ。不要に大使館に近付かなければ、この脅威の男に巻き込まれたい化け物の意思は感じられなかった。

「このダゴンと戦うつもりか。愚か者よ」
 将の男が、過重な戦斧を地面に叩きつけると、地鳴りかのような震動が少年の元まで轟く。森を背に小さく佇み、狭小な剣を構える少年を非力と笑うように。
「国賊エア・レインの元で、ライザの息子が匿われている。その情報をよこした男からも、あの後連絡が途絶えたが、貴様が殺したのか」

 あ――……と。少年は、初めの命を思い出した。
 密告した一家の惨殺場面を見届けた後に、わざわざ、現場に戻ってきた裏切り者のことを。
(……アイツは……俺を探してたのか……)

 密告者は千里眼一家と引換えに、里にいる他の者の恩赦を、ゾレンの追手と取引していた。性根は悪くない化け物だった。きっと、相手なりの事情はあったのだろう。
 ところが現場に戻ると、嬲り殺されたはずの赤い目の少年が立っていた。そのことに密告者は驚愕し、己が裏切り者だと愚直に叫んだのだ。何で生きてるんだ、キラ――

 それだけがおそらく、余分だった。
 次の瞬間には少年は、生きろという願いのために。身を守るために、地獄から生まれた激情のままに初めて殺した。

 同じ里で暮らしていた仲間だった。
 密告者とはいえ、悲しむ家族も友人もいる里に、それ以上いられるわけもなかった。

「難儀したものだ。エア・レインもその息子も、どれだけ痛めつけても頑として、ライザの息子の居場所を吐かぬのだから」
 アイツはやばい。だから逃げろ、と。事切れる寸前、親友はそう言い遺した。
 だから少年に仇を探す気はなかった。望まれたのは生きることだと。
 少年がたとえ、その仇をどれだけ強く……冥府の底より深く呪っていても。

 ひたすら黙って立ち尽くす少年に、怪力の男は片手だけで、巨大な戦斧を振って構える。
「ライザと違い、随分と脆い体だな、貴様は」
 男が西部最強の称号を得るのを長く邪魔した、「最強の獣」――同じ西部出身の、英雄への妬心は深いらしい。それに比べて貧相な気配の少年を、ここぞとばかりに高く嘲笑う。
「母方の血か。しかし貴様の母も、脅威の種であったのだがな」

 管轄の違いで、将の男は英雄と直接戦えなかったのだろう。いびつな笑みをたたえつつ、やっと憂さが晴らせるというように、少年の方へとゆっくり歩みを進める。
「所詮は愚かな混血と混血の子。父と母、どちらの血も薄まった貴様は雑種以下の化け物……人間とそう変わらないということか」
 一歩ごとに大地を震わせる男は、有り余る「力」を全身に巡らせ、匂い立つ気魄が暗い大気に立ち昇っていく。その在り方は醜悪にしか感じられず、少年は強く眉をひそめる。

 死んだ他の兵士とは違い、少年の「力」を弾くほど屈強な獣。その戦斧を受ければ、一撃で人間は死に向かうだろう。歪んだ楽しみのために、(なぶ)られ続けでもしなければ。
「ライザへの土産話だ。思う存分、嬲り殺してやろう――エア・レインの息子のように」
 少年の正面で将の男が、地を割るように戦斧を振り下ろした。地表を走る重い「力」の衝撃だけで少年は吹っ飛ばされた。
 後方の丸木小屋に叩きつけられ、小屋ごと全壊する「力」の余波に、少年の体は早くも六割方を破壊される。
 ああ――本当にやばいな、コイツ。親友の遺言に、少年は心から頷いていた。

 命を惜しむ猶予などない。動けなければ即、殺される、と呼吸を止めて全ての「命」を壊れた体躯の補完に回す。
 瓦礫の中から血を吐きつつ立ち上がる少年に、将の男はまたじわじわと近付いてきた。
「逃げようとしないことだけは感心だがな。さすがは、英雄の息子と言ったところか――それとも、ただの無謀か?」
 そう、逃げろと。育ての母も親友もそれを望んだ。
 だからこそ少年は、この断頭台に踏み止まり、俯きながら軋む体で再び剣を構える。

 迫る常闇に、知らず、俯く少年の口元が歪む。
(困ったよな、キラ……エア母さん……)
 初めのことにしてもそうだ。ここで相手に背を向ければ、その背中を討たれるだろう。

 出会ってしまった時点で、殺し合う運命は必定だった。相手の息の根を止めなければ、少年の命は危険に晒され、誰かの願いを守れなくなる。
 要するにそれは、簡単なことで――
(殺さなきゃ、殺されるから)
 だから少年は逃げることなく、剣を構える。
(だから……俺は……)
 暗い色の目に黒闇(こくあん)が宿る。ぎこちない口端が上向きに裂ける。
「……会っちまったから、仕方がない」
「……――む?」
 将の男は、少年の全身の戦慄にそこで気が付く。

「俺は――コイツら、殺していいよな?」
 顔を上げて男を見た少年は、将の男以上の喜悦で歪む笑みをたたえていた。

 少年が映す親友の形見、何処かに消えてしまった黒いバンダナが、少年の故障した目と耳を少しでも塞いでいたことを誰も知らないだろう。
 解放されてしまった殺意は制御を失い、全ての「生」を戦うためだけに少年は吐き出す。

 次の一瞬、男は信じ難い状況に陥る。
「がっ――ッ!?」
 初動から全速、将の男の懐に滑り入った。化け物以上の速さに驚く頭上に向かい、細身の剣を斜角に刺し上げる。硬く閉ざされた厚い甲殻の、ごく少ない弱みを精確に抉って。
「な――!?」
 すぐさま離脱する少年に、男は驚愕して戦斧を振り回すと、傷口を押えて一度後退した。

 少年と同じように血を吐きながらも、まだまだ動く力は残る将の男。少年は冷やかに、再び相手の全身に暗い目を向ける。
(……一撃くらいじゃ、あれは崩せない)
 その豪強さに呆れながら、次に狙うべき弱点を少年はひたすら観察する。

「貴様、何故我が体を貫くことができる!」
 化け物という生命体として、かくも強靭な雑種の殻は、少年の最初の「力」を男の内に届かせなかった。しかしそうした甲殻を持つ生き物の急所は、殻の繋ぎ目である節であり、男が擬態の魔道を知っていた理由は弱みを隠すためだ。少年が親友の姿へと赤く変えられたように。
 敵の弱味を初見から狙い討つ天性の死神。将の男はここで、恐れを持ち始めたようだった。

 されど西部最強たる強大な将校は、動揺など寸刻で叩き潰していた。
「そもそも先程の力――命を直接削ぎおとすあの力は何なのだ、貴様」
「…………」
「あのような力は、ライザも使ったことがない。勿論貴様の母にしてもだ」
 知るか……と。実の親をよく覚えていない少年は、それだけ将の男に毒づく。

 ただ英雄に見せつけるためだけに、この男は少年とその周囲を狙った。そんな災禍に、ヒト殺しとして出会えた少年は(わら)うしかない。
 それはおかしい。何かが違う、と誰かが叫ぶ声など聴こえるわけはない。
――将校の一人でも暗殺すればいいにょろ。
 そう、そもそも役目なのだ。それなら誰にも、少年を止めることなどできない。

 一団が現れ、少年の空気が変わった時点で、そそくさとソレは避難していた。
「なるほどなぁ、にょろ……」
 少年と将の男が始めてしまった殺し合いを遠目に、草むらに隠れる抜け殻蛇が呟く。
「オマエは生き物であることを拒絶して……だからその心を、武器にできるんだなにょろ」

 少年は、己の両親がどんな「力」を持っている化け物なのかも知らない。
 争い事から一人遠ざけられて、秘境の山奥で生きていた少年の戦う力。それは単純に、化け物の身体能力で剣を習っていたことや――
「『心』は『命』にょろ。生き物というのは、生きた心が体を動かして暮らす物だにょろ」
 ただ、余分な心を切り捨て、そこから生まれた「力」を相手の心髄に作用させること。拒絶に留まれば敵の身を弾き、殺意を放てば受けた者の命を奪う。それが里を出る前後に気付くことになった、「生」を吐く少年独特の戦い方だった。

 その意味においては、少年も言ったように、この抜け殻蛇は直接生きてはいない。
 抜け殻蛇は、命も心も、何も存在の内実を持っていない。
 ある緋い蛇が「神の意」を受け、その抜け殻からできた「先導(デューシス)」が、蛇の中身の頭脳を代弁している。そうして少年達を導く「力」となっただけなのだから。
「ディレステア軍営も、騒ぎに気付いたようだぞにょろ。さて、各々、どう動くにょろ?」

 ディレステアからゾレンまで、第六峠の上空は急速に暗みを増していった。
「大使館のゾレン軍も動揺しています。どうかこの隙にヴィアへお向かい下さい、王女」
「でも――……キラが……!」
 未だに少年の真実を知らない王女は、渦中の少年を置き去りにすることをためらう。その肩に無言で、背後から忍の少女が重く手を置く。
「……シヴァ……」
 そうして二人の、旧き日の誓いのために。弱き人間の王女はついに、帰国を果たす――

◆⑩◆ 最後の希み

 「死」を刻み、「生」を外に放つ化け物の少年の躯体が軋んだ。
「――……ッぁ――」
 食餌なしに、「力」で体を動かす少年は、それはそうだ、と己の現実を俯瞰する。
 最初に「命」を使い過ぎ、また相手の初撃で体を壊され過ぎたのだろう。折れた骨格を無理につなげ、筋の切れた手足で地を駆け剣を振るう――それらを「命」で補えるのは、流れる水を糧とできるような少年の特性だが、その「力」が無くなれば唐突に自身の「生」は終わるだけなのだ。
(あと二撃と……首を落とせば終わるのに)
 将の男の全ての急所を観ることはできた。ところが圧倒的に、それを遂行する「力」が足りない。それも見切った少年に先手で動くことはできず、強大な男と睨み合いを続ける。

 のべつに空を覆う黒い雲から、ぽつぽつと雨が降り始めていた。
 それに男は不快そうにし、低い声から遊びの容色を完全に消し去っていく。
「単体で一個師団を潰すライザとは別種だが……貴様もどうやら新たな脅威であるようだ」
 ぐるりと戦斧を回し、将の男が持ち手を重心に変える。
 余裕に満ちていた嬲り殺しから、必ず殺す、と方針を切り替えたのだ。あの巨斧を真剣に振るわれたら自分は死ぬ、と少年はすぐにも理解していた。

 長柄の斧を前に、少年が先刻懐へ入れたのは、嬲り殺そうという愚かな隙を男に見つけたからだ。
(そっか……勝てない時は、勝てないのか)
 覆せない自明の理。少年は期せずして、親友も味わったろう敗北の無情さを知る。

 重苦しい雲からさらに、絶望を唄うような夕立が、少年と男を矢継ぎ早に叩き始めた。
「せめて原形は留めて、ライザに見せつけてやりたかったが――」
 この少年を侮れば命取りになる。それに気が付いた将の男は、されば滅するのみ、と……戦斧を頭上で高速回転させながら、人工の竜巻さながらに轟々と飛び上がった。

 その容赦なき猛攻は、確実に将の男の王手。
 死を直視した少年の脳裏に、赤い目の誰か……少年を呼ぶ声が、聞こえた気がした。

 雨粒一つ逃さず弾いた男の迫撃に対し――
 少年はぎりぎりまで動かずに間合いを詰め、自身の轢死を観るその直前に、細い瞳孔をかっと開いた。
「なっ――なぁぁあっっ!?」
 猛り狂う戦斧は大岩の如きで、巻き込まれる間隙すらない剛体の失策。
 込められ過ぎた回転力が逆効果だったのだ。それまでの少年には考えられない「力」で強めた剣で、甲状に受け止めた戦斧を袈裟がけに逸らして流す。
「青い――青、目、あ――……!?」

 見事に捌いた戦斧の真横をすり抜けた後、少年はすぐさま背後の男へ振り返った。
 豪雨の内で目を光らせた死神は、今度は懐ではなく、殻が重なる脊背(せきはい)に凶刃を伸ばす。
「貴様、その目は竜人(りゅうじん)の……!」

 まず背の擬態された脆弱な殻を払う。そのまま隠された甲殻の節を貫く。将の男はそれで完全に力を失い、戦斧も取落とし、ぬかるむ地面へぐらりと倒れ込んだ。
 その傍らに少年は、目だけを青く浮かべる亡霊のように佇む。全身から黒雨を滴らせる様を、九死の男は辛うじて動く灰色の目で愕然と見上げる。
「まさ、か……この雨から、『力』、を……」

 水脈を司る化け物である、少年の母の脅威を知る男ならば。
 場に猛雨が訪れた時点で、その敗北を悟っておくべきだったのだろう。

「……――……」
 言葉無く、倒れた男の横に立つ少年は――激しく打ちつける雨を青い目に滲ませる。
 この数瞬で、少年の体は完全に壊れた。つながっている骨など一つもないくらいに。
 それでも最後の補填のために、ただ恵みの雨の力を貪る。
 少年に訪れた唯一の勝機。将の男の言う通りの化け物、「竜」。母から流れるその血脈を、滝や川に伏する以上に力付けるために。

 何故か今、将の男には青く見えている目は、母譲りで少年本来の眼光なのだが――
 その母の血は、それ自体が竜人と人間の混血で、決して濃いものではなかったという。それでも最強の「力」とされる竜とは、この大陸のみならず世界中で怖れられる天災……純然たる「自然」の化身だった。
――これがアイツの特性なのはわかるがにょろ。それだとアイツは矛盾だらけだにょろ。

 個体数が非常に少ないために、有り得ないとまでいわれる「竜人」とは、自然の脅威がヒトの形をとった化け物だという。
 自然そのものである体は、同系統の自然界から直接「力」を受けられるのが特徴となる。少年が親友のように魔道家と人間の子であれば、滝に入るだけで疲労を回復することなどできない。外界の熱を己の「力」とできる、「自然より」の黒い鳥以上の効率がそこにある。
 特にこの少年は、「雨」によすがを持つ化生であることを、誰も知ることはない。

 淵水に臥し、めったに世に現れない竜のように。そうして常に、身の回りの自然と繋がり、自然と命を共有し、いつかは自然に回帰する化け物は――
 それ故に命を「力」とできる少年は、肌身を伝う雨に融けられるほど、もうぴくりとも動く力は残っていなかった。

 何かを考える力すらも、今の少年にはない。「命」――「心」は使い果たしてしまった。
 どうしてここにいて、何を望んで戦ったか。足元の男が誰だったかさえ思い出せない。

――……何で……殺さないの……?

 仰向けからうつ伏せへ、しぶとい将の男が死にもの狂いで体勢を変え、這いつくばって逃げ出そうと試みていた。
 逃げられる前に首を落とすなら、少年も「力」の補給が間に合わず、その一閃で自身の「命」が尽きる現実がそこにあった。

 何かがおかしかった。雨水が滴り、重い剣を振り上げた肩が固まった。
 憎悪を燃す「力」もない少年の内では、少年が、男を殺す理由が見つからない。むしろ誰か、赤い目の誰かが、オマエは殺すな、と何度も少年に呼びかけてきた。
 オマエだけでも、助かってくれ、と。黒いバンダナを巻く少年が、今も血まみれで叫ぶ。

――……あ――……――
 そして青い目の少年は、真実に気が付く。この状況は、消えた誰かの願いではなく――
――……俺は――……殺したいんだ……――
 憎しみを越えて、最後まで残った呪怨。それは自身の希みであったことを。

 膝を屈し、崩れ落ちてしまいそうな心。その幕引きを希む己と――
 踏みこたえ、敵の存在を憎みながら、生きろ、と願う赤い呪いがあった。

――俺は……殺したいんだ、キラ……――

 憎悪を抱きながら、オマエは殺すな、と何度も叱咤する黒いバンダナの誰か。少年は固い柄を握り締め、泣き出しそうに希みを訴える。殺したい、と、殺させてほしい、と懇願する。
 少年が、生き延びるためであるなら、もうここで剣を収めなければいけない。けれども少年は、そうしたくない。それは紛れもなく、少年自身の心からの呪怨で……その希みに抗え、と赤い焔は呪っているのだ。たとえそれで、その憎悪の仇を見逃したとしても。

 「命」を力とする少年は、ヒト殺しは許されざる咎だとわかっていた。
 だからこそ、抗いながらも、悔いることはなかった。
 それは少年には、ただ、罰であったために。


 自らの命を寒雨に還しても、ヒト殺しの少年は災いの芽を摘むはずだったが。
「――駄目、キラ……!」
 あまりに不意に、投げかけられた声。激しい雨中を、聴こえるはずのない声が駆けた。

 剣を握りしめる少年の腕を背後から掴み、断罪の刻を阻んでいた者。
「……何、で……?」
 振り向いた先には、もう国に着いてよいはずの、雨露を弾かせる黒い鳥の姿があった。

 だらりと、力無く垂れ下がった手から、取り落とされた鋼の剣が地面に突き刺さった。
 呼吸のために覆面をずらした黒い鳥は、潤む双眸と同じ真紅の唇で、息も絶え絶えに想いを発した。これまで決して封印を破ることはなかった、少年がよく知る声と言葉で。
「……もう、やめて……キラ……」
 その玉の声音は、古語と共通語で話す誰かと同じで――だからこそ隠されていたもので。
 少年のためだけに黒い鳥は、息苦しい片言の新語で、出さずにいられない声を続ける。
「それはアナタを……傷めつける、だけ……」
 腕を引いて、少年を寄せる柔らかな手は、酷く震えて弱々しいのに。肩で息をしながら凛とした声は、荒れ地を乱れ打つ雨音の中でも、確かに少年に届く。

 少年にはもう、わからないことだらけだった。
「……何で、シヴァ……」
 どうして黒い鳥が、ここにいるのか。どうして黒い鳥は――少年を止めているのか。
「何であんたが……それを、言うの……?」

 どうして少年に、殺させてくれないのか。
 王女のために、少年を切り捨てたのは黒い鳥だ。少年もそれが正しいとわかっていた。それなのに黒い鳥は、「王女」を国に帰さずに、わざわざ何を声にしているのか――
「あんただって……殺すのに……」
 間近で哀しげに見つめる紅い目。何から尋ねればいいか少年はわからなかった。

 銀色の髪を浸す雨が、かけがえのない焔を知らず流している。少年に泣き笑いが浮かぶ。
 雨風の中、黒髪のように面紗がなびく黒い鳥は、小さな両手を祈るように胸元で握る。
 黒い鳥は少年を、毅然と見つめ直すと、その最も大切な想いを口にした。
「……アナタのおかげで、ゾーアを守れた」
 人間の娘は国に帰せた。だから次は、少年のために戻ってきた。
 それは間違っている、そう感じた少年だったが――

 黒い鳥は、元よりそのつもりだったのだ。優先順位を間違えるな、と己を戒めてはいるが、優先自体をやめる気はないらしい。その甘い姿に、少年の切り詰めた心がはじけた。
「あんた……バカ、だろ……」
 またも無礼なことを言う少年に、黒い鳥が怒る顔を見られることもなく――

 力尽きて膝を折った少年が、泥土に無残に沈む前に、不審な緋い人影が窶れ果てる身を受け止めていた。
「それはオレ、どっちもいい勝負だと思うぜ?」
 意識は僅かに残っていた少年は、神出鬼没で気侭なソレに、呆れて返す言葉も出ない。

 黒い鳥が現れてから、将の男は少年の殺意を免れ、必死に大使館に向かっていたが……この雨は男の動きを大きく阻み、大使館とは違う方向の森に男を迷い込ませていた。
「――……!」
 その森には、二人の強大な化け物が黙って木陰に立ち、地を這う男を取り囲んでいた。
 一人は全身を外套で覆い隠し、正体の全くわからぬ大男。もう一人は明らかな異人の、赤い髪と目の美丈夫だった。
「な――……クラン・フィシェル……!?」

 黒い宝の剣を携え、水禍の魔道書も手挟(たばさ)む有名な雑種。将の男の希望が凍る。
「何故ここに……! まさか……この不可解な雨は、貴様が……!?」
 男が少年に敗北した最大の原因。それは、仕組まれたものだったのだが――
 何故その罠に嵌められたか、惨たらしい今わの際に、男は果たして悟っていただろうか。

 そうしてとても近い森に、懐かしい気配があると気が付いた少年は、緋色の髪の大使に抱えられながら必死に目を開けようとした。
 しかし微動だにしない体に、第四峠のレジオニス大使に即座にたしなめられる。
「やめとけ。アイツら通行証がないから、出てきたゾレン兵とこれから追いかけっこだぜ」
「……――」
「せっかく少年を雨で隠して、囮になってくれてるんだしよ。このままシヴァちゃんに、ディレステアまで連れていってもらいな」

 少年はそろそろ、意識を保つのも限界であり、それを見越した大使の言葉だった。
「いいだろ、シヴァちゃん? 気を失ってれば、抜け道がどこかもわからないしな」
 大使が現れた時から険悪な空気の黒い鳥は、不服気ながらも少年を大使から受け取る。
 いつも王女の分まで旅荷物を持っていた黒い鳥が、何とか肩越しに抱えた少年の背中を、大使はぽんぽん、と叩いて軽く笑った。
「ま、フィシェル大使さんは、オレのお供がちゃんと送るからさ。安心しろや、少年」
 黒い鳥は、大使の言葉に気を取られて気が付かなかったが、少年の外套の内に、大使が背中を叩いた時にこっそり抜け殻蛇が紛れ込んでいた。
「内緒だにょろ、キラ! オイラも一緒に、ディレステアに行くんだにょろ!」
 少年にはすでに、その不審物を黒い鳥に伝えられる力も残っていない。

 何のためにここまで来たのか、緋色の髪の第四峠大使は少年達をあっさりと後にした。行きずりの同伴者が待つ森に入った大使は、無言の男達の中に混じり、軽々しく口を開く。
「んーで……こうして、騒ぎに乗じて、頑固なユオン君を助けにきたのはいいが」
 緋色の髪の大使は、地面に転がる無残な化け物の亡骸に、おっと、と軽く顔をしかめる。
「こんな助け舟を出せるアンタは気付いていたのか? キラ君とユオン君の入れ替わりに」
「…………」

 沈黙したまま背を向ける、火のような赤い目を持った相手。
 その痛哭を知る緋色の髪の大使は、一つだけ深い溜め息をついた。
「お互い、不審者だ。ザインとゾレンの殺し合いなんて、見なかったことにしてやるよ」
 そうして、元々大使仲間であった者達は、成り行きで結んだ協力関係に区切りを打つ。

 少年の背の上で、外套の弛みに隠れる抜け殻蛇は、密入国の協力のお礼とばかりに、この場の事情をよく喋っていた。
「アイツらはディレステアから第五峠回りで来たんだにょろ。だから時間がかかったんだにょろ。オイラもそっちで入国してもいいんだがにょろ、キラが心配なんだぞにょろ」
 覆面をしている黒い鳥には、煩い雨音もあいまって、抜け殻蛇の声が聞こえていない。
 痩身とはいえ、軽くはない少年を抱えながら、全力で「壁」も張って隠れ進む黒い鳥に、意識の途切れかけた少年はただただ頭が上がらない。

 そして妙に恩を着せる抜け殻蛇にも、何も返答する気力がなかった。
「ほら、オイラの言う通りに動けば何とかなったにょろ? 感謝するんだにょろ、キラ」
 ヒトを巧く利用しつつ、使い捨てもしないソレに、少年は憮然と閉口するしかない。

 本当に、この一行の中で、最も掛け値なしに少年を心配するのはいつも黒い鳥だった。護衛として少年に仲間意識を持ちつつも、黒い鳥自身も戦う心は強く、少年だけを当てにする気は毛頭ないのだ。
 だから黒い鳥は、その周囲が少年に頼んだ依頼を、全く知らないのだと少年は悟る。
――シヴァの敵は、アナタが殺してほしいと思っているの。

 気高い黒い鳥の内に、幾度も流れるまっすぐな感情。
――アナタのおかげで、ゾーアを守れた。
 人間の娘の本名を呼ぶ紅い目には、少年の身元に関係ない信愛が溢れて余りあった。
 英雄の庇護を失った旅を、やり遂げられた確かな力を、黒い鳥は自らにも見出せていた。
 だから一人で少年を迎えに戻れた。自らが強くさえあれば、その甘さを殺さずに歩んでよいのだ、と願って。

 黒い鳥の力強い足取りに、気付いていた抜け殻蛇はそれを喜びながら、こっそり見ていた少年の戦いについて不意に語り始めた。
「キラは……自分自身を救うために、ヒト殺しをする気はなかったんだなにょろ」
 復讐相手を少年は殺さなかった。それは抜け殻蛇には、意外な展開であるらしい。
「それならシヴァちゃんのために生きるにょろ。オマエはシヴァちゃんの剣になるにょろ」
 その抜け殻蛇の声を最後に、少年の意識は、黒い鳥の温かさに落ちていったのだった。

◆終◆ 雑種と人間

 ゾレン第六峠にて、ディレステア大使館に訪問中のゾレン軍人の内輪もめが発生した。関係者は全員死亡した前代未聞の事態に、ゾレン東部にも不審の声が広がっている。
 大体そうまとまった一連の事変に、当事者の少年は第六峠ゾレン大使館にて、療養も含めた軟禁を余儀なくされていた。
「本当、信じられないわ。どうしたらこんな体で、まともに動けていたというのよ?」
「……だから今、全然、動けないけど」
 今日も朝から、ディレステア側とはいえまだ第六峠のゾレン大使館に留まっている王女が、忍の少女と抜け殻蛇を引き連れて見舞いにきていた。

 ゾレン側の第六峠の騒ぎで、銀色の髪の少年の姿は、少なからず目撃されている。
 第五峠を経由してゾレンから逃げ、ようやく発見されたザイン大使はともかく、完全に当事者の少年について、今後どう扱うかを王女はずっと苦慮中だった。

 というのも、少年の存在そのものが、両国にとっては大問題だからだろう。
「本当にねぇ、アナタ……」
 それが一番、信じられないことだというように、安静にする少年の傍らで王女が両手をぶるぶると握り締める。
「アナタ本気で、ライザ様をそのまま小さくした感じじゃないの。どうして今の今まで、全く気が付かなかったのよ、私……!」
 ザイン大使が呼んだ雨で、少年の額に刻まれた呪いは半ば流れ落ちた。バンダナの無い少年の暗い青の目と、英雄に瓜二つな面差しに、まさに驚愕した王女一行のわけだった。

「……親父は眼、灰色と聞くけど」
 青い目は母譲り、と聞いていた少年は、少しだけ不服を反論する。
 薀蓄好きな抜け殻蛇が、代わりに解説を始めた。
「飛竜ライザ――獣の代表と、自然の権化な竜人からじゃ、コイツみたいに呪いの想念に侵されやすい依り代……つまり、自分があやふやな奴が生まれても無理はないにょろ」
「……どういうことさ?」
 拗ねるように首を傾げる少年に、にょろろとうねり笑いながら抜け殻蛇が語る。
「獣の力と自然の脅威は完全に別物にょろ。オマエは常にその間にいて、どっちつかずで身体も困ってるにょろ。それでも今は、完全絶食の効果で自然よりになっているにょろ」
 だからこそ、ゾレン西部最強の将校を撃退できたのだ、と抜け殻蛇は揚々と告げる。
「獣と自然じゃ、自然の方が力は大きいにょろ。丁度いいからもっと自然よりになって、今まで以上に役に立つにょろ」
「ちょっと。ライザ様の大切な子供のためにならないこと、あまり言わないでちょうだい」
 結局のところ、今やすっかり少年は「英雄の息子」で、それで取扱いに悩まれている次第だった。

 少年の安全を考えれば、今後はゾレンには関わらせず、キラ・レインとして存在させる方がいい。ザイン大使もそれを望み、少年を内密に第二峠に引き取ると言っているらしい。
 しかし少年はどんな立場であれ、王女達の力になるといってきかない。それならいっそ、英雄の息子として発表し、ゾレンに対する切札としたいのが王女側の都合だった。
「でもこの状況でユオンの身元がわかれば、第六峠では大きな反発を呼ぶでしょうね……」

 王女としては、新たな英雄がほしい。しかしこのあどけない少年に、これ以上無理をさせたくない、その狭間で揺れ動いている。
 何よりこの少年は、とにかく傍目には危うげらしい。
「ところでいつ頃、アディ達は裏切り者大使の第四峠に乗り込むんだよ?」
 それとも第六峠の奪回が先か、と、和平より戦うことばかりを少年は考えている。王女達の力になりたいだけで、英雄扱いは別にどうでもよく、そうして話はいつも平行線を辿る。

 そんな折に、王女に遅れて忍の少女が部屋に入ってきた。寝台内で上体を起こして座る少年に、硬い陶器の水飲みを静かに差し出す。
「……」
「――ほら。シヴァがまた作ってくれたから、飲みなさいよ」
 温かい陶器を受け取った少年は、こくりと頷き、苦甘い飲み物にそっと口をつける。
「ライザ様も、疲れた時はこれが一番って、お気に入りの薬湯だったんだから。全く……唯一何とか摂れたものが、そんなまっずい、用意も面倒な煎じ薬の飲み物だなんて」
 何とか何も吐かずに、僅かずつでも口に含む。腕をふるって用意した忍の少女の、紅い目が心なしか緩んでいく。少年の少しずつの回復を、黒い鳥は待ち望んでいるようだった。
 その嬉しげな眼差しは、少年が元気になることを、ただ心から願っているだけなのだ。

 賑やかな王女達が帰っていくと。一人になると、いつも胸苦しさが喉元を越え、少年は一睡もできないでいた。
(……なんて、使えない奴)
 なかなか上手く動かない体に、相変わらず気持ちばかりが焦る。忍の少女が作る薬湯を必死に飲むのも、一刻も早く、動ける体になりたい一心からだ。
 それでも僅かずつ、溶かすように流し込むのが精一杯で今も食物を受け付けない体は、傷が癒えても英雄ほどの戦いは望むべくもない。それくらいはわかっていた。
 飛竜という最強の獣を操る英雄は、ゾレンの化け物を師団単位で潰せるというのだから……少年には、結局飛竜としても竜人としても、大した「力」はその身にないのだ。

 弱々しい細い指を見つめながら、呻くような溜め息を大きくついた時だった。
「難儀だよなぁ、少年。オレはその気持ち、よぉーくわかるぜ?」
「――?」
 とっくに暗くなっていた部屋に、いつの間にか、緋色の髪の大使が訪れていた。入り口の近くの灯りを無遠慮に点火し、寝台の横の丸椅子へ不作法に腰かける。
 ゾレン以来の大使は相変わらずの金色の眼で、少年に気さくに笑いかけるのだった。
「お互い、化け物としてはよわよわだもんな。それでも少年は単体相手なら、英雄並みの猛者だと思うけどな」
「……それだけで、ゾレン軍には勝てないだろ」
 警戒すべき相手かどうか今も悩ましい大使に、少年はすげなく返すのだが……。

「別にいいじゃん。だって少年、ディレステアの行く末に、実際そんなに興味ないだろ?」
 王女達の前では言えないことを、あっけらかんと言う大使に少年は毒気を抜かれる。
 あえて否定しない少年に、ますます大使は親近感を持ったようだった。
「できることをやるのが、オマエのいいところだろ。後、これ――ゾレンに忘れ物だぜ」
「――え?」
 土産を渡したかっただけ、というように、大使が少年に差し出していた見舞い品。それは少年の故障した五感を塞ぎ、ずっと守り続けてくれた、あの大切な黒いバンダナだった。
「アンタ……」
 完全に諦めていた。ゾレンに戻って探しに行くのは無理だとわかっていたのに。呆然と少年がそれを受け取ると、緋色の髪を翻し、大使は振り返るように立ち上がった。
「近い内に、また会おうぜ、少年」
 大使の言う通り、第四峠とその近縁ゾレン王都に、今後少年は大きく関わることになる。

 英雄がいたという部屋は、ゾレン大使館の北側にあり、暖炉をたかないとすぐに厳しく冷え込んでいく。それなのにほとんど薪も備えておらず、暖炉以外の設備も乏しい。
 この冷え冷えとした場所で、英雄は十年も何を考えていたのだろう。少年はふと思った。

 ゾレンとディレステアの再開戦時、幼い少年を「千里眼」に預けた男は、それからすぐゾレンの第六峠へ向かったという。
 育ての母は、それは連れ合いを殺された男の復讐だった、と言っていた。ディレステアに助力するつもりなど、男にはさらさらなかったのだと。
――いつかきっと、戦いが終われば、ライザに直接尋ねてあげて。どうしてライザは……戦い続けているのか。

 第六峠を散々荒らした後に、ディレステアに迎えられた男は英雄となった。そこからは十年、牙を向けた祖国に対して和平を求め続け、少年の元に帰ることはなかった。
 少年の両親を、どちらも可愛がっていた「千里眼」は、その早過ぎる死別を思い出すのを辛そうにするため、少年は本当の親のことを聞かないようにしていた。
 だから少年は英雄を――両親のことを、何一つも知らないでいる。
 もう少し、調べてみてもよいのかもしれない。今はそう思え始めていた。

 翌日にまた見舞いに来た王女が、少年が腕に巻き付けた黒いバンダナに気が付いていた。
 バンダナの存在に加え、付けられた部位が不思議、と年相応の娘らしく首を傾げる。
「これ、無事だったのね? どうしてまた、額に巻かないの?」
 格好良いわよ、と微笑む王女に、少年は淡々と、伏し目がちな暗い青の目で答える。
「……つけたら、キラになった」
「――え?」

 大使がそれを持ってきた時に、その場で少年は頭に着けたのだ。すると驚いたことに、その影を受けた目は再び、大使の眼には赤く映り直していた。
――それ、大事にしとけよ、少年。
 気配が変化したままの少年を包む、赤い呪い。その焔は第六峠で、ザイン大使が呼んだ祈雨に浄化された。だから途中で、少年の目は青く見えるように戻った。
 それでも潰えてしまったわけではない。ただ今までの焔の印から、火元を変えただけであるようだった。
「俺はまだ……キラになれるんだ」

 もしも今、少年に、自身のための願いがあるとすれば――殺すな、とささやく赤い呪いを残すこと、と迷わず答えただろう。
 親友の姿を映すようになった当初は、どうしていいか全くわからなかった。育ての父を欺ける気もせず、英雄の子など戻りたくもなく、また証明もできないのだから。
 王女達にはきっと、英雄の子だとわかってさらに喜ばれている。英雄のこともその子のことも、少年は憎悪しているとは知らずに。
――俺は……殺したいんだ、キラ……――
 誰一人、少年を責めていないのに、それでも少年は許せなかった。そのことにようやく、あの時の雨の中で少年は気が付く。

 たとえそれが「ヒト殺し」でも――少年はただ、己の無様な生にこたえがほしかった。育ての母と親友を犠牲にしてまで、生きている意味が知りたかった。
 だからずっと役目を求めて歩みを止めず、それはきっとあの日、出会えていたのに――

――もう、やめて……キラ……。

 黒い鳥は少年から、唯一の希みを奪った。
 でもそれでよかったのだろう。そうでなければ少年は、温かさなど感じなかったはずだ。

 改めて王女が、差し迫った真面目な問題を、少年に対して相談を始めた。
「ユオン。これから私達、まず王都に帰還して、すぐに第四峠に向かうことになったの」
「……へぇ」
「第六峠の兵士団には、王女としての激励を残して出立するわ。アナタがもしも、ついてきてくれるなら……今後、『英雄の息子』としてライザ様のように偶像化される。この国に利用されることは、避けられなくなるわよ?」
 引き返すなら今の内だ、と、王女たる人間の娘が、人間としての情けをもって言う。
「ディレステアの軍人として戦わなくても、私の護衛をするというのは、そういうことよ」
 冷酷とも言える、まっすぐな眼差しと忠告。覚悟を持って尋ねた王女に、少年はあっさり、きょとんとしながら答える。
「それは別に、どうでもいいけど」
 相変わらず不用心な少年に、がくっと王女が、大きく肩を落として溜め息をついた。
「周りが勝手に騒ぐだけだろ。何を言っても俺は、俺が決めたことしかしないし」

 少年も、誰でもいいわけではない。力になる相手を認めたのは、少年自身なのだ。
 それなら王女の役に立つことは、勝手に利用すればいい、と思っているのだが――
「あのねぇ。それなら早速、兵士団の激励で、ライザ様の息子だと発表してしまうからね?」
「好きにしろよ。それを決めるのは多分――俺じゃなくて、『アヴィス』だろ」
 悩める王女が答を迫る深奥を、暗い目で見通すように静かに訴えかける。思わず王女は忍の少女を、頼りにするよう振り返りかけて、すんでの理性で思い止まっていた。
「ま、そうね……アナタを利用するつもりが、自国の首を締める可能性もあるわね」
 確かに、利用する側が考えるべきことだわ、と。安定感のない少年に、人間の娘が頷く。
 複雑そうな忍の少女を後ろに、今日はもう休む、と、自室へ戻った人間の娘なのだった。

「…………」
 おそらく、少年の処遇を真に判断すべき者として、忍の少女は寝台の横に留まっている。ずっと黙って少年を見守り、肩の抜け殻蛇まで言葉を発さない、異様な沈黙が訪れていた。
「……なぁ。あんた、やっぱりバカだよな」
 少年を英雄として利用することを、その少女は危機管理以前に、人情でためらっている。以前より甘さが激しくなったとすら言えた。
「使えるなら使えよ。でなければ捨てろよ。今のあんたには、必要なさそうだし」
 様々な経験を積み、確かに飛躍した黒い鳥に、まるで他人事のように少年は心を伝える。

 はっと、黒い鳥が息を飲み込んでいた。悩みを見透かしてバカ呼ばわりする少年に、声を出してくれるかと期待したが、人目のある所ではあくまで禁を破らないらしい。叫びたさに震えながら、拳を握りしめている。
 怒声を発する代わりに手近な抜け殻蛇を掴み、黒い鳥は思い切り少年をはたいていた。
「……?」
「酷いにょろ、オイラを利用したにょろ!」
 黒い鳥が、とても怒っているのはわかるが、何故怒っているかまでは理解できなかった。巻き込まれた抜け殻蛇が、成長してないな、オマエ、と言ってきて、黒い鳥を憐れむように見るのが尚更納得いかなかった。


 今まで通り短気な忍の少女が、そうして憤然と、部屋を出ていったしばらく後のこと。
 安静にする少年の上で、猫のように丸まる抜け殻蛇が、やがてウトウトとし始めていた。
「なぁオマエ……今後はどう名乗るにょろ?」
 まるで寝言のように細く、珍しく覇気なく尋ねる。ソレに少年も静かな声で答える。
「ライザの息子――ユオンの名は、アヴィスが勝手に使えばいい。俺はこのまま……」
 キラでいくよ、と。たった一つ残った願い――黒いバンダナを巻いた左腕を見て呟く。

 その少年の拙い望みに、ソレは嘆息する。
「オイラがこう言うのも、何だにょろが……オマエは、オマエを大事にしてくれる場所を、ちゃんと守るんだにょろ」
 それが誰かの願いを守れる道だ、と、諭すようにささやく空っぽの抜け殻。きっと少年の傍らに在る、ほとんどの者達が望む代弁に――

 赤まみれで「死」を刻む少年は、やっと今頃、それを言葉にできたのだった。
「……ありがとう」
 少年をここまで、生かしてきたもの全てに。

エピローグ

 
 その出立の直前に。長きに渡る戦乱の峠で、正装した少女は王女の責務を全うする。
 夜のように黒い礼装、月色の金髪に編み上げの黒い靴。そして王家の紋章となる、鳥の首飾りと共に。
「我は汝を映す光。汝は我を宿す光。それが故に、汝が試練はまた我が試練なり」
 少年も一人、黒いバンダナを銀色の髪に巻き、軋む体をおして少女の一大舞台を観に向かう。言葉は全くわからないが、ある予感を胸に。

 奪われた第六の峠を後に、第四の峠に向かわんとする王女は、その高き志を訴える。
「我が国が切に願う和平を妨げるは、同国の徒でも許されぬ大罪であり――汝らの働きを無とする背信の徒は、討伐されねばならない」
 そして王女は宣言する。かの英雄が帰らずとも、希望は失われてはいないことを。
「今ここに集う我らこそ、ディレステアの大いなる望みと力」
 英雄をもう、利用はしない。全てはこの場の皆人に望む、と王女は自らに誓ったのだ。
「我が国の未来は、我らの手の内と心得よ――ディレステアの地上の鳥よ!」

 己の力を信じ、覚悟を決めた王女の紅い目には、厳かな青い鬼火が宿る。滅びに向かうだろう姿は、ただ少年の郷愁を鷲掴みにした。
 助け合う化け物と人間。紅い目と赤い目、黒い鳥とその大切な翼――
 そして少年は、ヒトの定めに抗うために、ヒト殺しの才能をその名に背負っていく。


『赤い呪い』 了

雑種化け物譚❖Cry/R. -赤い呪い-

ここまで読んで下さりありがとうございました。
この話は星空文庫にUP済みの、Cry/シリーズ千族化け物譚・千族宝界録の過去話のC零CPRシリーズ前編です。
2/29にオマケUP予定の物語Cry/CRと内容が近いため、2/29までの期間限定公開としております。以後は不定期公開もあるかもしれません。
この話の完結編となる中後編は2/24にUP済みで、そちらは常時公開です。
公開終了後もノベラボでは本編を全編掲載しておりますので、よければご覧下さい。
初稿:2014.5 最新改稿:2021.1.25(第5版)

ノベラボC零A▼『雑種化け物譚❖A』:https://www.novelabo.com/books/6331/chapters
ノベラボC零R▼『雑種化け物譚』:https://www.novelabo.com/books/6333/chapters

雑種化け物譚❖Cry/R. -赤い呪い-

†Cry/シリーズ・零R①・期間限定公開† 人間は雑種の化け物より弱く、雑種は純血の化け物に疎まれ、純血は人間に関わることに制約のある「宝界」。人間の国と化け物の国で静かな争いが続く中で、自分以外のことを我が事と感じる故障した五感を持つ少年が人間の国の王女と「黒い鳥」に出会う。 image song:凱歌 by fiction junction

  • 小説
  • 長編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 冒険
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-01-25

CC BY-ND
原著作者の表示・改変禁止の条件で、作品の利用を許可します。

CC BY-ND
  1. プロローグ
  2. ◆①◆ 辺境の少女達
  3. ◆②◆ 「壁」
  4. ◆③◆ 雑種の化け物
  5. ◆④◆ 緋色の髪の男
  6. ◆⑤◆ 人間の娘
  7. ◆⑥◆ 忍の少女
  8. ◆⑦◆ ヒト殺しの少年
  9. ◆⑧◆ 導きの蛇
  10. ◆⑨◆ 赤い呪い
  11. ◆⑩◆ 最後の希み
  12. ◆終◆ 雑種と人間
  13. エピローグ