銀界のアリオン
人間と狼、二つの姿を持つ獣人たちの世界。豊かな自然の中で素朴に生きるトルン族の村に、ある日伝説の狼一族であるアリオン族の子供がやって来た。今では絶滅したと言われるアリオン族は、数ある狼一族の中で最も神に愛された一族で、類まれな美しい容姿と素晴らしい能力を持っていたが、遠い昔…あることから神の怒りを買い、銀界の園と言われる桃源郷を追われて…やがてその姿は世界から消えて行った。
最後の生き残りと言われるアリオン族の青年、レイナス(通称レイ)はトルン族の長の子供として育ち、18歳で成人を迎えようとしていた。
プロローグ
夜明け前の…静かに張り詰めた空気の中で、たった今昇ってきた太陽が目の前に横たわる湖に最初の光の束を投げ入れた時…彼はじっと自分の指先を見つめた。
湖面に身を屈めるように片膝を付く彼の…細くしなやかな指先の先端…。白い爪が徐々に細長く伸びていく…。それと同時に指と指の間から柔らかな産毛ともつかない銀色の細い糸が現れて、瞬く間に艶やかな毛が生え揃っていった。それに合わせて指先もまるで魔法を見るように形を変えた。
肩先に掛かる漆黒をベースにした見事な銀色の髪が流れるように全身を覆うと、引き締まった筋肉質の身体が徐々にしなって…背筋が伸び、やがてその姿はしなやかな獣に変わる。
さっきまで長い手足と5本の指を持つ「人間」だった彼は、薄明るい湖面に映る4本足で立つ自分の姿を満足そうに見つめた。
半分人間、半分狼…。同じ細胞の中に2つの遺伝子を合わせ持つ彼らが、この世界に現れた起源は誰にもわからない。きっとこの世界を造った創造主の気まぐれな想像力が、二つの異なった姿を合わせ持つ彼らをこの世界に送り出したに違いなかった。
彼らは普段生活する時には人間として過ごし…生きるために狩りをして、闘いに身を投じる時のみ狼の姿に変身した。それは彼らにとってはごく自然なことで、急激な細胞の変化に伴うはずの苦痛も感じることなく、ほんの一瞬…陽の光が陰るごとくに数秒でその姿を変えることが出来た。
でもそれも彼らが生きてきた永い年月の中で少しずつ変化を遂げて、次第に人間の姿でいる時間が長くなっていくにつれて、その能力も変化しているのだろう。
遠い昔、彼らがまだ狼の記憶を多くその身体に留めていた頃には、彼らの生活は原始そのものだった。彼らは群れを成して平原を駆け回り、狩りをして移動しながら暮らした。それが次第に一ヶ所に村を造って定住し、知恵を持つようになると…人の姿の方がはるかに暮らしやすいことを学んだ。
彼らが持つ長い歴史の中で、その能力をどう生かしながら生きてきたか…? それはそれぞれのおかれた環境によっても大きく違っていたのである。
そして数ある狼一族の中でも「アリオン」と呼ばれる一族は、少数ながら黒銀色の美しい毛並みと宝石のように澄んだ碧い瞳を持つ類稀な狼たちであった。彼らは神々に愛され、その美しい容姿に似つかわしい素晴らしい数々の力を自然から与えられていたけれども、孤高の魂を持つ彼らは一ヶ所に落ち着くことを好としない…。群れを作って生活することを嫌ったため、次第にその数を減らしていった。そして今では伝説の狼として人々に語り継がれるのみとなっていたのである。
雪解け
時は春…。彼らが住む大地にも穏やかな季節が訪れようとしていた。
長く山裾を覆っていた根雪も解けて、あちこちに出来た小川のせせらぎが聞こえ始める頃、奥深い山脈の山裾に「トルン」という狼一族の村があった。長い冬籠りの季節が明けて、村の至る所に春を告げる小鳥達のさえずりが聞こえて、あたり一面に雪を割って小さな草花たちが顔を出すと、人々はいっせいに戸外へと飛び出していく。
村はずれから見える森の湖に浮かぶ、解けかけた湖面の氷に、キラキラと春の陽射しが反射して…それはもう眩しいくらいだった。
村の子供達はところどころ赤茶けた土の見える大地を元気に駆け回り、女達はみな冬の間締め切っていた住居の掃除に忙しかった。
「マイラ、今日はみんなの帰りが遅いわねえ…。遠出でもしているのかしら?」
隣り合って洗濯物を干しながら、少し年配の女が訊ねた。
「三ヶ月ぶりの狩りだもの。ずいぶんあっちこっち回っているんじゃないの?」
もうひとりのマイラと呼ばれた年若い女が答える。女達が春を迎える準備に忙しい中、村の男たちは久しぶりに平原へと狩りに出かけていた。彼らの生活は実生活に即したシンプルなものだったけれど、すべては分業化されていて無駄がない。年頃になって成人した男たちはみな狩人として、一族を養うために狩りへと出かけていく。それ以外の年を取って狩りに参加出来ない者や身体的理由で狩りが出来ない者たちは、技術者として村に残ってそれぞれの仕事に従事していた。
彼らの技術はとても実用的で生活にいる。錬金術や織物、刺繍に至るまでとてもシンプルだがその精度は高い。男は狩りへ…女は家を守り一家を切り盛りする。その一見素朴な生活スタイルを長年守りながら、彼らは自分達の文化を愉しんでいるのだ。
彼らの服装も至ってシンプルで、男は両腕の出る短い上着に引き締まった筋肉質の下半身を覆うしっかりとした素材の細身のズボンを身に着け、足元は皮製のブーツ…夏場なら紐で縛るタイプの簡単な靴を履いていた。どれもデザインは実用的で質素だが、生地の織り方にはそれぞれの作り手の工夫が凝らされている。
女達の衣装も同様で、ただ上着の下にはたっぷりと生地を使ったスカートがしっかりとくるぶしを覆っていた。男女とも上着のウエストは美しい刺繍の施された飾り帯で結ばれている。その刺繍はどれも見事で、その華やかさはそれを造った者たちの思い入れを表していた。身分の高いものほど華やかで、たくさんの腕の良い職人を抱えていることを表している。
成人の男達の腕に光る銀色のブレスレットは、彼らが一人前の男の証であり、それには個々の名前が彫刻とともに刻まれている。名前を刻むのはもし彼らが人知れずどこかで命を落としても、それによって出自がわかるようにする意味もあるのである。
今でこそトルン族は平和で穏やかな生活を送っているが、その昔…長であるジェイドの曽祖父がこの地に安住を求めるまでは、平原では部族間の争いが絶えなかった。その頃にはまだまだたくさんの狼一族が平原での縄張り争いを繰り返し、それに嫌気が差した当時のトルン族を率いていたジェイドの曽祖父が、はるか遠く北限に近いこの土地まで苦労して一族を率いて来たのはもうはるか昔のことだ。
生地を織って刺繍をするのは女達の仕事だったから、畑仕事や家事の合間を利用して彼女達はその昔…母親から娘へと代々伝えられてきた技術に自分達の工夫を加えて、若い世代へと伝えていった。
彼女達が身に着けている衣装は、男たちのそれよりははるかに薄く柔らかな生地で出来ていて、ウエストを絞る飾り帯も華やかではあるがずっと実用的だった。幅広で丈夫に織られたそれは、必要に応じてエプロン代わりになったり、収穫した野菜を入れるポケットになったりと無駄がない。
変身して平原を駆け回る必要のない女達は、年中足元はサンダル履きでそれは良く働く。髪を肩より高く結っているのは結婚している証で、未婚の若い娘達は髪を長く伸ばして思い思いの髪型に結い上げてみたり、スカートの丈を短くしたり、帯の結び方を工夫して…質素だけれど自分なりのおしゃれを愉しんでいた。
伝説のアリオン
「そうねえ、今年は春が遅かったから今日の日が待ち遠しかったわね。でもそれよりライザ様の具合はいかがなの? もうあれから二週間は過ぎているというのに、いまだに床に臥せったままだなんて…。本当に大丈夫なのかしら?」
「ええ…あんまりお辛そうなので、お世話するわたし達もどうしてよいのかわからなくて…」
「それはそうでしょうね。お生まれになったばかりのお子様を亡くされたんですもの。本当にお気の毒だわ。だから今日の初めての狩りにも行かずに、ジェイド様が付き添っていらっしゃるのでしょう?」
「ええ、代わりにロウブが狩りの指揮を取っているはずだけれど…。ジェイド様も心配でしょうね?」
二人は忙しく手を動かしながら、さっきからこの村の長であるジェイドの妻のようすについて語り合っていた。
年の若い女の名前はマイラ、トルン一族の長ジェイドが自分の片腕としてもっとも信頼するロウブの妻である。
実はそのジェイドの妻ライザが二週間前に男の子を出産したけれども、その子は生まれた数時間後に死んでしまったため、気落ちしたライザの身を案じてマイラが身の回りの世話をしているのだった。
ライザは年齢で言えばすでに三十歳。これが初産だったことを思えば、次の子供を望むには年を取りすぎている。それに彼女の夫はこの村の責任を負うべき長なのだ。その妻にとってその跡継ぎを生むことは、その生涯で最大の目標であり使命だと思っていたのだから、ライザの落胆は想像以上のものだったに違いない。
「さあ、ライザ様、窓を開けましょうね。今日はとても良い天気ですよ…。」
マイラはわざと明るい声で、ライザの臥せっている枕もとの窓を開けた。
「今の私にはこの陽射しはまぶしすぎるわ。あの子が生きていたなら、どんなにか気持ちの良い朝だったでしょうに…。」
ライザは布団を頭から被ったまま、その顔を上げようともしない。
「亡くなられたお子様はお気の毒でしたけれど、ライザ様さえ元気になって元通りになられれば、また元気な赤ちゃんはいくらでもお生みになられます。ジェイド様もきっとそれを望んでいらっしゃいますよ。」
「いいえ、マイラ…。あなたがそう言って慰めてくれる気持ちは嬉しいけれど、身体の弱い私にはもう無理なの。私もジェイドも年を取りすぎているのよ…。」
「ライザ様…。」
あまりのライザの落胆ぶりに舞らも言葉を失う…。それほどライザの受けたショックは大きかったのである。
その時、屋敷の外が急に騒がしくなって何人かの男たちの忙しない声と足音が近づいてきた。狩りに行っていた男たちが帰ってきたのである。
「ジェイドさま。どちらに…!?」
そう叫びながら慌てて駆け込んできたのはジェイドの代わりに狩りの指揮を取っていたロウブだった。彼は酷く慌てた様子で、自室に居たジェイドの姿を見つけると、挨拶をするのももどかしげに側に駆け寄ってきた。
「おう、ロウブ。ご苦労だったな…。」
しばらく考え事をしていたジェイドは、ロウブをにこやかに迎えた。
「ジェイドさま、これをご覧下さい…!」
ロウブは興奮しきった様子で、震える手でさっきまで大事そうに抱えていた皮袋のふたを開けた。
「あ…!? これいったい…!?」
思わずジェイドも声を上げる。ロウブの差し出した袋の中には、片手に乗るほどの小さな赤ん坊が静かに眠っていたのだ。
「実は…。」
ロウブは興奮に口ごもりながら、獲物を追って入ったここから数十キロ離れた谷で、倒れていた狼一族の夫婦を見つけたこと。男の方はすでに息絶えていて、女の方ももはや虫の息で…その死の間際に苦しい息を押しながら、生まれたばかりの自分達の子供をロウブ達に差し出して…。
「この子は私たち一族の最後の子供です。どうか…私たちの代わりにこの子を…。」
そう言って息絶えたことを話した。
「そうか…。しかし、何という…」
ジェイドは生まれたばかりだというその小さな男の子をそっと自分の手に抱き取ると、じっとその小さな顔を見つめた。眠っているその子の髪はふさふさとして黒く、愛らしい口元と肌は透けるように白い。明るい髪と褐色がかった肌の多いトルン族とは明らかに種族の違う赤ん坊に、さすがのジェイドも戸惑いを隠せなかった。
「一族最後の子供と言っていたとか…?」
「はい、じつはジェイドさま…。この子の死んだ両親というのは、それは見事な黒銀色の狼でして…。もちろんそれを見たのは私だけではなくて、その場に居たすべてのものが見ております。」
「うむ…。それが本当ならこの赤ん坊はあの伝説の狼…アリオン族の子供ということになる。アリオンは伝説だけだと思っていたのだが…。」
ジェイドが驚くのも無理はない。彼がアリオンの噂を聞いたのははるか昔…幼い頃の昔語りとして、村の長老がしてくれた物語の中だった。もちろん、その長老でさえ実際にアリオンの姿を見たことは一度もなかったのである。
二人が驚きの表情で赤ん坊の顔を見つめていると、それまで眠っていたはずの赤ん坊が突然大きな声で泣き始めた。
「おぎゃあ~! おぎゃあ~!!」
まだ結婚したばかりで子どものいないロウブは、どうしてよいのかわからずにおろおろするばかりで、ジェイドにしても先日わが子が生まれたとはいえその子は自身の腕に抱く間もなく逝ってしまったのだ。泣いている赤子を前に戸惑うばかりだった。
二人の男たちが成す術もなく立ち尽くす状態で困り果てていると、そこへ臥せっていたはずのライザがマイラに支えられてやってきた。
どこからか聞こえてきた赤ん坊の声に誘われるようにじっとしていることが出来なかったのである。
「まあ…! 赤ちゃんが…! あなたお願い、私に抱かせて…!」
ライザは待ちきれない様子でジェイドの腕から赤ん坊を抱き取って、愛しげに頬を摺り寄せる。すると赤ん坊も乳の匂いがわかるのか、夢中で探し始めた。
「あら、この子はおなかが空いているのね? よし、よし…いい子ね…。今おっぱいをあげるわね? 」
ライザはまるでわが子をあやすように優しく胸に抱いて、傍らに腰を下ろすと…自分の乳房を赤ん坊に与えた。赤ん坊もよほどおなかが空いていたのだろう。夢中で乳首に吸い付いて一身不乱に飲み始める。
「まあ、なんて美しい子なんでしょう? この子の肌は雪のように白いわ…。それに見て、マイラ…! 瞳はまるで碧い宝石のようだわ…!」
ライザはうっとりと、自分の腕の中にいる赤ん坊に見惚れている…。
「ねえ、あなた。この子を私たちの子どもとして育てましょうよ。きっとこの子は子どもを亡くした私たちを哀れに思った神様が授けて下さったのよ。ええ、きっとそうに違いないわ…!」
ライザは赤ん坊を抱きながら幸せそうに微笑んだ。さっきまでの深い悲しみがまるで嘘のような表情をして…。同意を求めてすがるような瞳で見つめられると…ジェイドも何も言わずにただ黙って微笑みながらうなずいて傍らの妻を見つめた。
このさっきまで重い病に臥せっていた妻の、手放しの喜びようにとても嫌などと言えるわけがない。それどころか彼自身、亡くなった息子が生き返ってきたような…そんな気がしていたのである。
ジェイドも微笑みながら…さっきから傍らでじっとこの様子を見守っていたロウブ夫婦を振り返る。ロウブも、マイラも静かに微笑みながらゆっくりと無言でうなずいた。
こうしてこの「アリオン族」最後の子供は、『レイナス・アリオン』と名づけられ、トルン族の族長ジェイドとその妻ライザの息子として育てられることになったのである。
雪解け
季節はめぐり、十八年の歳月が流れた…。
トルン族の長、ジェイドの息子となった「アリオン族」の子レイは、両親をはじめ温かい村人たちの愛情に包まれてすくすくと育ち、立派な若者に成長した。
背丈はすでに父ジェイドを優に越えて…スラリとした長身に見合う固く引き締まって鍛えられた鋼のような筋肉を持っていた。生まれた時には漆黒だった髪も、今では見事な黒銀色に変わっていた。ビロードのように艶やかな黒髪が、毛先にいくに従って輝く銀色に変わっていく…。碧い瞳はさらに深い色をたたえ…端正な顔立ちをより引き立てていた。
そしてその素晴らしい容姿もさることながら、誰よりも素早い足と敏捷性…。天から与えられるあらゆる感性と、彼が持つ生まれながらの能力に、彼がまさしくアリオンであることを疑うものは誰もいなかった。
季節はまさしく春…。
やわらかな陽射しが大地に降り注ぎ、すべての生き物が心浮き立つこの季節に…トルンの村の若者達も例外なく、村のあちこちで恋を愉しむ若いカップルの姿が見える。娘達は華やかな衣装をまとって、少しでも優れた若者の気を惹こうと躍起になり、若者達もまた本能に導かれるまま…あちらの花、こちらの花へと渡り歩いている。
今年18歳になって成人を迎える若者達は、春から大人に交じって狩りに参加することを許される。その狩りで一人前と認められれば、妻を持つことも許されるのだ。
今年成人する若者の中にはあのアリオン族のレイの姿もあった。とにかく子どもの頃からすべてにおいて抜きん出たレイである。当然村の年頃の若い娘のほとんどは彼に夢中と言っていいほどなのだが、当の本人はまったくといっていいほど無関心だった。同い年の若者達が新しい恋と狩りに夢中になっている中で、レイだけは時間があれば一日中森の木の上で昼寝をして、村外れの小高い丘の上で遠くに見える地平線を眺めて過ごしていた。
「ねえ、誰かレイを見なかった?」
またいつものようにライザがレイを探している。
「もう、せっかく新しい衣装を用意したのにあの子ったら…! 」
ライザは手にしたレイの瞳と同じ碧色の上着を側にいた世話役の女に渡してため息をついた。
レイは子どもの頃からあまり派手な刺繍の入った衣装よりも、襟元と袖口にほんの少し刺繍の入った質素なものを好んだ。刺繍の名手だったライザにはそれが大いに不満だったけれど、レイの頑固さは子どもの頃からよくわかっていたから半分諦めていた。ライザが年頃の息子のためにいくら美しい衣装を用意しても、少しでも気に入らなければ今日のようにすぐどこかへ消えてしまう…。
ただ派手な衣装よりも質素で飾り気のないもののほうが、かえって並外れたレイの美しさを引き立てるのだと言うほかの女達の言葉をライザは渋々だけれど認めてもいた。
レイにしても母の心遣いをすべて断るのは忍びなくて、鮮やかな碧い色の糸で織り上げられた飾り帯だけはいつも身につけることを怠らなかった。
「レイさまならさっき村外れのおかでちらりとお姿を拝見しましたが…?」
ちょうど入ってきた年配の女が言った。
「まあ、また…!? しょうがないわねえ。いつもふらりと居なくなってしまうのだから…。さっきあれほどお父様が、あとで話があるからどこにも行かないようにって言っておいたのに…。」
「レイさまもお若いんですもの。いろんなことに興味をお持ちなんですよ。それに季節は春なんですから、村の若者はみんな恋に夢中ですわ…」
「だったら心配はしないんだけれど、あの子はどうも昔から他の子とは違って、全然あっちの方には興味を示さないのよ。いつも遠くばかりを眺めては物思いに耽っているようで…。とても心配だわ…」
ライザは困ったように呟いて大きなため息を漏らした。実際このところ彼女は、もうすぐ成人を迎える自分の…並外れて美しい息子のことが気掛かりで仕方ない
息子は美しいだけでなく、すべてにおいて優れていた。思慮深く、優しさもあって…決して夫や自分を裏切らない誠実さもある。
ただ自身を装うと言うことついては、かなりの頑固さを持っているが…。
10代の最初の頃には年相応の明るさや茶目っ気も感じられた息子が、年を追うごとに気難しく寡黙になっていくことにライザは、言い知れぬ寂しさと不安を抱いていた。
きっと大人になって自分の姿が、村のみんなと違うことに気が付いたに違いないわ…。あの子は生まれながらにして、生粋のアリオン族なのだから…。
でも自分達に出来ることはただ見守ることなのだと理解していた。今さらレイの運命を変えることは出来ないのだ。アリオン族だったレイの両親はもうこの世にいないのだから…。
レイの苦悩 1 運命の出会い
レイはいつものように村外れの丘にひとり腰を下ろして、じっと眼下に広がる平原と…その遥か遠くを横切る地平線に想いを馳せていた。
何故だろう…? こうしているとひどく落ち着かなくなる…。あの地平線の向こうには何があるのか…? 無性に行って確かめたくなるのは何故だ…?
レイは物ごころ付く頃からずっと…繰り返し、繰り返し何度も心の中に沸いてくる疑問に絶えず自問自答していた。
何度繰り返しても答えを出せない苛立ちから、やがてその想いは深い焦燥感へと変わっていく…。
そこに何があるのか、行って確かめてみたい。だが…。
レイは何度この村を飛び出して、自分をこうまで駆り立てるものが何なのか確かめてみたいと思ったことだろう…。だがその度に自分が居なくなったあとの父と母の失望を思うと、今ひとつ踏み切れないでいた。
いつの頃からレイは、自分が父と母の本当の子どもではないことはわかっていた。そして自分の姿が、他の村の仲間と大きく違っていることも…。
だが彼はそれが特別何を意味するのか、深く考えたことはなかった。ただ父と母が血の繋がらない自分を深く愛してくれていることに満足していたし、感謝していた。だから一族の長である父ジェイドが、これからの自分に何を望んでいるのか…。レイには痛いほどわかっていた。わかっているからこそ辛いこともあるのだ。
心のそこから湧き上がって来る「自由になりたい…」という本能の叫びと…両親への想いとの板ばさみになって、彼は始終苦しんでいた。その心の苦しみが、レイを年の割りに寡黙な青年にしているのかもしれない…。
村の同い年の若者が、狩りと娘達との気軽な恋に毎日愉快に過ごしている中で、レイだけはいつもひとりで一日の大半を過ごしながら、暇さえあればこの丘に来て、遠い地平線を飽きもせず眺めているのだった。
そして…そんな彼を遠くからじっと見つめるひとりの少女の姿があった。少女の名前はリーザ。ロウブとマイラの娘で16歳。小柄で華奢な感じのある年の割には少し幼さの残る可憐な少女である。
小さなハート型の顔に大きなすみれ色の瞳が輝き…それをふんわりと包み込むように明るい栗色の髪が揺れていた。彼女はうっとりとした表情で前方を瞬きも忘れて見つめている。頬はほんのりとばら色に染まって…柔らかな唇からは絶えず小さなため息が漏れている。
「いつもなんて綺麗なの…。信じられないわ、これが同じ村に暮らす人なんて…」
村の若者の中でとりわけ目立つレイの容姿は、例えようもないほど美しく際立っていたから彼に憧れる娘は多く、自分もその中のひとりだったけれど…あまりにも内気で引っ込み思案のリーザは、今まで一度も声を掛けるどころかその存在すら気づいてもらえないでいる。
「レイさま…。一度でいいからお話してみたい…」
リーザはさっきから絶えず独り言をつぶやいてはふっと短いため息を吐く…。
レイさまの瞳の中には太古の星の煌きがある。それを知っているのは私だけだわ…。
リーザは心の中で思った。
じつはリーザは、誰にも語っていない忘れられない思い出があった。幼い頃…森に花を摘みに行ったリーザは、夢中になっているうちに知らず知らずに森の奥深くに迷い込んでしまった。薄暗い森の中で…心細さに泣き出してしまったリーザの前に不意に現れた少年…。それがレイとの初めての出会いだった。
トルン族では年頃になるまで、女の子はあまり外を出歩かない。大概がその家の周りで過ごし、母親の側で暮らすためによその兄弟以外の男の子と顔を合わすことなどほとんどなかった。
トルン族が今の土地に落ち着く前、まだ平原で他の部族とテリトリーの一部を共有していた頃は、子どもや若い娘の略奪やかどわかしは当たり前に行われていたのだ。それを防ぐための習慣だったのだろうが、今となってはそんな不幸な事件は一度も起こっていない。
彼女の前に突然現れた少年は、髪は闇のように黒く、森の湖より碧い瞳を持っていた…。その美しい瞳の中に煌く光にしばらくリーザは、じっと見とれていた。
きりりと引き締まった眉と口元…涼しげで、それでいて激しい情熱を秘めた眼差しは、まるで夢物語に出てくる森の若い男神のようだった。
「動くな…!」
ボーっとしてその場に立ち尽くしていたリーザに、彼は鋭い一言を発しながら素早く茂みから飛び出して来ると、彼女の足許すれすれをかすめるように駆け抜けていく…。
びっくりして大きな目を見開いたまま固まっているリーザに、少年はその片手を大きく掲げて…握り締めた小枝の先で、頭を貫かれて身体をくねらせている毒蛇を見せた。
「ばかか、お前…。この辺りにはこんな奴がうようよしているんだぞ!」
彼の激しい言葉に不意に現実に戻されたリーザは、急に感じた恐怖と驚きから激しく泣き出してしまった。逆に困ってしまったのは彼の方で、とっさに毒蛇から少女を助けたのは良かったものの…母ライザや身の回りの世話をしてくれる大人の女以外異性など見たことのないレイは、いきなり泣き出した…生まれてはじめて見る少女にすっかり驚いてしまった。
すぐに逃げ出したい衝動に駆られたが、そこに少女をひとり残していくわけにいかず、彼は罰悪そうにその場にじっとしばらく立ち尽くしている。
やがて彼女の声がすすり泣きに変わったのを見て、ようやくレイは少女に声を掛けた。
「お前、ひとりか…?」
リーザはつられてこくりとうなずく。
「迷い込んだのか…? 仕方ないな、ついて来い…。」
レイは踵を返すと、どんどん先に立って歩き始めた。リーザも慌てて後を追う。彼女を気遣いながらゆっくり歩いているつもりでも、かなりの速足でリーザは見失わないようにするだけで精一杯だった。
いくつかの茂みを抜けて…急に目の前が開けたかと思ったら、いきなり見慣れた村外れの広場が現れる。レイはそこで立ち止まると、無言で振り返ってリーザに前方を指し示した。見慣れた風景に安心したのか、思わず駆け出すリーザ…。
途中フッと思い出して振り返ると、もうそこにレイの姿はなかった。
その時の少年が「アリオン」のレイだと知ったのは、それからずいぶん後のことだったけれど、その時の凛々しい横顔と…研ぎ澄まれた鋭い瞳が強烈な印象となって、幼いリーザの心に深く刻まれた。
その時レイ8歳、リーザ6歳…。10代の前半で初潮を迎え、男の子よりひと足先に成人する村の娘達は、祝いを済ませると…他の大人の女たちと同じように野山に出て日々の仕事に精を出す。
14歳で成人を迎えたリーザは、初めて参加した村祭りの席でジェイドの隣に座るレイを見て衝撃を覚えた。それまで彼女は、いつかの少年が森の男神だと本気で信じていたから、それがジェイドのひとり息子のレイナスだと聞かされて飛び上がるほどびっくりするのと同時に大きな喜びに変わった。
今までずっと大切な思い出として心の奥にしまいこんでいた彼への憧れが…いつしか淡い恋心へと変わっていくのに大して時間は掛からなかった。
あの時のこと…あの人は覚えているかしら…? 会って直接聞いてみたい…。でも、もし何も覚えてなかったら…?
そんな想いが邪魔をして、リーザは声を掛けるどころか近寄ることことさえ出来なかった。
「リーザ…? どこに行ったかと思ったら、またこんなところに来てたのね? 」
振り返れば、ひとりの少女が笑いながら立っていた。
「ラン…!」
彼女はリーザよりひとつ年上の…ランという名前の少女で、リーザとは幼馴染みで親友といえる間柄である。
「はは…ん? またここからレイさまのことみていたのね? もうリーザたら、こんなところからこっそり見ているくらいなら、側に行って話しかければいいじゃない…」
「だめよ、そんなこと…」
リーザは真っ赤になってうつむいた。ランはリーザとレイの出会いの秘話を知らない…。親友であるランにも打ち明けるのを躊躇うくらい、レイとの想い出はリーザにとっては神聖なものなのだ。
「本当に内気なんだから…。タルラやジェーンを見なさいよ。何度無視されようと懲りないでせっせと通ってるじゃない。」
「だって、私はタルラ達みたいに綺麗じゃないもの…」
「何言ってるの! リーザはとても綺麗よ。可愛いし…自分で気づいてないだけなのよ。」
「だって…」
リーザはいつだって自分に自信はなかった。父や母はことあるごとにリーザがだんだん綺麗に成っていくと言ってはくれるけれど、それは娘への思いやりからだとリーザは理解していた。幼い頃から、この隣に立つ美しい幼馴染みを見てきたから、自分がランと同じようになるとは到底思えなかった。 背が高くほっそりした体つきのランは、濃い睫に縁取られた明るい緑色の瞳と豊かな赤みを帯びた金髪の…それは目の覚めるような美少女だった。自分がそのランと同じくらい魅力的だとはとても思えないのだ。性格だってリーザとは正反対で、ランはいつでも積極的で面倒見の良いところがある。だからリーザもランのことは本当の姉のように思っているけれど、時々何に対しても前向きな彼女がどうしようもなく羨ましくなることがあった。
「ランは今日は、恋人のリュウと一緒じゃないの? 」
話を変えようと、リーザは少し悪戯っぽい目をしてランを見た。
「うん、先週からまた狩りに出ているの…。でもそろそろ戻ってくる頃だわ…」
ランは遠くに広がる平原へと目を凝らして…唇に幸せそうな笑みを浮かべた。その美しい横顔を見つめながらリーザは思った。
私もランのように綺麗だったらどんなにいいだろうと…。
長い赤みを帯びた金色の髪が風になびいて…リーザはこの美しい友人を羨ましく思いながらとても崇めていた。そのランが恋人と認めた相手は、レイの従兄で長であるジェイドの妹の息子で…リュウという若者だった。21歳の彼はジェイドをはじめ村の重臣たちの信頼も厚く、いずれは次の重臣のひとりになるだろうと言われている。
背格好もどことなくレイに似ていて、リーザは彼にも好感を抱いていた。
すっきりと整った容貌は、レイに次いで人気のある若者だが、近いうちにランとの婚礼が決まっている。
「いいなあ~ランは…。リュウみたいな素敵な恋人がいて…。」
「何言っているの…! そう思うのならあなたもがんばらなきゃ…。レイさまなら恋の相手としても、結婚相手としても申し分ないわ。銀色狼なんて…他にはいないもの。おまけに力でも村の男の中ではピカ一だし…。何といってもジェイドさまの息子なんだもの。次の族長間違いなしだわ。あとはあなたの告白する勇気だけね。」
からかうようなランの視線にリーザは、確かにそのとおりだと認めざるを得ない。
レイは見た目にも野の神々のごとく凛々しくて、力でも彼に並ぶものはいないだろう。村の娘達のほとんどが彼に夢中になるのも当然なのだ。
その中からレイが自分を選んでくれる可能性など、万に一つもないような気がして…気持ちはますます落ち込んでいく…。レイはリーザの存在さえ知らないのだ。
「もうそんな顔しないの。私はいつだってリーザの味方よ…」
意気消沈しているリーザの肩をポン!とひとつ叩いて、ランはまた笑いながら去って行った。
「あ~あ。ランの言うようになれたらどんなにいいかしら…? ただでさえレイさまは近寄り難い雰囲気があって、私たち若い娘には全然興味なさそうなんだもの…。あのレイさまを前にして話し掛けるなんて私には絶対に無理…」
リーザは独り言のようにつぶやいた。
ふたたびリーザがレイに視線を戻すと、彼はちょうど立ち上がって…丘の向こうにある林へとその姿を消そうとしていた。
彼の豊かな銀髪が西日に透けて…キラキラと輝いている。それを見るにつけ、リーザはまた大きなため息をついた。
レイの苦悩 2 運命の出会い
今日のレイは二人の同い年の仲間とともに、平原へと続くなだらかな丘陵地で獲物を追い込むグループに属していた。
その日の狩りのグループを決めるのは、それぞれのグループを束ねるリーダーだけれども、そのさらに上に立って彼らを束ねるのはジェイドの片腕のロウブだった。だがそのメンバーはいつも同じとは限らない。その日の天候や狩場によって違ってくる。
でも大概は最初に獲物を群れの中から狩り出す役割は中堅の狼達で、次に一番運動量を必要とする追い込み役は、最近成人した若者達が担う。そして最後の仕上げとして仕留める役割は、経験豊富な年長者が担うことが多かった。
レイたち若手グループはオオシカの群れから少し離れた場所で、狩り出された牡シカが飛び出して来るのをじっと待った。彼らのいる場所は群れからは風下に当たる。
狩りをするに当たって彼らが隠れる場所は、絶対に相手の風上であってはならない。自分達の放つ匂いによって相手に気づかれてしまうからだ。
仲間達は二手に分かれて、左右から一斉にオオシカの群れの中に突進し始めた。群れにはそのリーダー的存在の牡シカと、今年生まれた子どもを連れた母シカと若い牝、そしてその外側に他の牡シカと今年巣立ちを迎えた若い牡たちがいる。
突然の狼達の乱入にパニックを起こした彼らは、必死に陣形を整えながら…何とか逃れようと一斉に駆け出した。
母シカたちは子シカを守るようにエンジンの中心を走り、それを守るように身体の大きな牡たちが威嚇するように立派な角を振りかざして狼達を牽制している。中心にいる牝達や力の強い大人の牡たちを倒すのは、並大抵のことではない。
けっきょく彼らが今日のターゲットに選んだのは、その外側を走る若い牡シカだった。彼らは角もまだ完全には生え揃っていない上に、経験に乏しいからすぐパニックに陥りやすい。制するには比較的簡単な相手だった。
近くにいる母シカには目もくれず、数頭の若い牡シカに狙いを定めると、左右から挟み込むようにしてある一方へと追い詰めていく。やがて我慢が出来なくなった一頭が、群れを外れて逆方向へと走り出した。
そこでやっとレイたちの出番がやってくる。牡シカの位置を確認して素早く隠れていた草むらから飛び出して後を追う…。
牡シカの横に飛び出して、適当な距離を取りながら慎重に追いかけるのだが…逃げる牡シカも必死だった。いくら若いといってもかなりの運動量を必要とするこの作業は、今年成人を迎えた彼らを疲れさせ…次第に疲れの色が見え始めると、徐々に牡シカとの距離は広がり始めた。
レイは初め仲間の後について走っていたが、目の前を走る仲間のスピードが落ちたと見ると、一気にその上を飛び越えて前に出る。もう少しで追いつくところまで詰めたところで急にスピードを緩めた。すぐ目の前に止めを刺す役目の年配のリーダー達の姿が見えたからだ。
たぶん…そのまま追いかけて、彼自身で止めを刺すことも出来たが、今日のところは新人らしくリーダー達の顔を立てなければならない…。そのまま近くの草むらに身を隠して、リーダー達の動向を見守った。
真っ直ぐ自分達のところへ突っ込んで来る牡シカを4人のリーダー達は、両側から同時に飛び掛って一気に仕留めにいく。
しかし彼らが思っている以上に牡シカの力は強かった。完全に生え揃わない短い角を目一杯振り回しながら、必死にまとわりついてくる狼達を振り払おうとしている。しばらく激しい攻防が続いたあと、牡シカはついにリーダー達を振り切って勢い良く走り出した。
「ちっ…!!」
リーダー達はみな悔しそうに舌打ちしたが、狩りの場面ではこういうことはよくあることだった。いくら優秀な狩人たちでも、毎回上手くいくとは限らない。逆に失敗することのほうが圧倒的に多いのだ。
彼らが諦めて牡シカの走り去った方を呆然と眺めていると…目の前の草むらの中を素晴らしいスピードで駆け抜ける一匹の狼の姿が目に止まる。
さっきまで彼らの近くの草むらの中で息を潜めていたレイだった。彼は銀色のシルエットを煌かせながらあっという間に牡シカに追いついた。
レイは明らかに失望していた。散々走り回ったあとで、またいちからと言うのでは割りに合わない…。レイは躊躇することなくリーダー達が失敗したことがわかると、すぐさま茂みから飛び出した。
一気に牡シカとの距離を詰めると、その背中に飛び乗って上体を捻るように頭を屈め、目にも止まらぬ速さでその首筋に牙を立てた。そしてその勢いを利用して自分の体重を乗せ、相手を強引に地面に引きずり倒す…。さらに倒れ際に牡シカの喉元に牙を立てたまま、身体を反転させると、牡シカは不自由な形でもんどり打って倒れると、骨の折れるような鈍い音とともにピクリとも動かなくなった。
レイはゆっくりと…咥えていた牡シカの首筋を離して変身を解くと、血の滴る口元を片手で拭いながら立ち上がる。
「レイ…!」
離れて見ていた仲間達が一斉に近寄ってくると、地面に転がっている牡シカを見て目を丸くした。
「首…首が折れてる…!」
今までこれほど鮮やかに獲物を倒したものはいない…。その光景を目の当たりにした者達はみな、レイが間違いなくアリオンであると言う事実を思い知らされることとなった。
その一部始終を少し離れた場所から見ていたロウブは、頷きながら喉の奥で低く唸った。
「やっぱりあいつは間違いなく純血のアリオンだな…」
ロウブのとなりでもうひとりの重臣のアッサムがつぶやく…。
「ああ…。先が愉しみだ…」
ロウブも平原に目を向けたまま…目を細めてニヤリと笑った。
次の満月の夜、村の長ジェイドの屋敷には一族の中心的な男たちが集まって、村の将来を決める大切な会議が開かれていた。
主な重臣は4人。ジェイドの片腕と言われているロウブとアッサム。そしてデノン、ネストと…それを取り巻くように10数人の男たちが顔を合わせている。彼らの話し合いはすべて合議制で、長を中心に多数決で決められる。
皆の顔がそこにあるのを確かめて、ジェイドが口を開いた。
「皆に集まってもらったのは他でもない。来月で息子のレイも18となり、成人して我々の仲間入りをすることになるが…。皆も知ってのとおりあいつは他の若い者と違って少し変わっておる。わしもずいぶんと年を取ったし、いずれは息子のレイにあとを譲ろうと考えているのだが、それについて皆の意見を聞いておこうと思う…」
ジェイドはそう言って居並ぶ仲間達を見回した。しばらくの沈黙のあと…最初にロウブが口を開く。
「レイは間違いなく純血種のアリオンだ…。先日の狩りでもここにいるほとんどの者が見たはずだ。見事な牡シカをあいつひとりで倒すのを…。あの力と技は誰にも真似は出来ない…。レイの持つ素晴らしい力は一族の繁栄のためにはぜひ必要なのだ。」
「そうだな…ロウブの言うとおりかも知れん…。あいつには我々にはない特別な力がある。我々がこの先生き残っていくためには、強い力が必要だ。」
ロウブの言葉に反応するようにアッサムもそう言ってうなずいた。豊かな自然に守られた彼らの生活といえども、少しずつ変化していく厳しい自然の掟の中で生き延びていくのは、並大抵のことではないのだ。
「だが心配事がひとつある。アリオンは孤独な狼だ。言い伝えによると…彼らは群れを嫌い独りで行動する。レイの人間嫌いもおそらくはそこから来ているのだと思うのだが…。わしはいつかレイが…この村を出て行ってしまうのではないかと心配でならないのだ。」
ジェイドは目を閉じて、喉の奥から声を絞り出すように、苦しい胸の内を語った。ジェイドの想いは、分別あるものなら誰でも感じていたことでもある。ただ誰も声に出していわないだけで…。
皆は互いに顔を見合わせてそれぞれの心の内を探っていたが、しばらく誰も口を開くものはいなかった。
ある午後の昼下がり…。
村の湖のほとりで、いつものように村の若い娘達が集まって水遊びを愉しんでいる。もちろん、その中にはリーザとランの姿もあった。
成人した娘達は午前中は他の女達と同じように水汲みや洗濯などの家事を手伝い、午後には誰ともなくこの湖のほとりに集まって…娘同士互いに持ち寄った新しい恋の噂話などに花を咲かせる…。その時が若い彼女達にとっては恋人と過ごす時間以外にはもっとも楽しい時間だった。恋人のいない娘にとっても、そこで得られる話はとても刺激的なのだ。
その中でもやはり真っ先に出てくるのは、アリオンのレイの話だった。
「タルラ、あんたまたわざとらしくレイさまの家の近くに行ってたんですってね? 」
「何よ、ジェーン、あんただっていつもレイさまが通る時間を見計らって待ち伏せしているくせに…!」
「フン…! 何度も無視されているくせに、あつかましいんだから…」
「あら、それはお互いさま…! だけどまたあのつれなさがいいのよねえ…? 美しい黒銀色の髪にあのクールな碧い瞳がたまんないのよ…!」
「そう、そう、一度でいいからあの逞しい腕にだかれてみたいわあ…! そうしたら、もう死んでもいいかも…!」
娘達は口々に自分がいかに彼のことを想っているか、熱く語りながらはしゃいで愉しんでいる。
「なんだろうねえ…。あれは…? だけど今のままじゃ、あなた…レイさまに存在さえ気づいてもらえないわよ…?」
楽しそうにはしゃぐ娘達を横目で見ながら、ランがつぶやいた。
「わかっているけど…でも…。」
けっきょくその話になると、リーザはいつも口を噤んでしまう。このままでいくと本当にランの言うように、同じ村に暮らしながら一生口をきくチャンスもなく終わってしまうかも知れない…。
そんな絶望的な想いがよけいにリーザを頑なにしているのだろう。
「リュウはレイさまの従兄よ、相談に乗ってもらう…?」
「それはだめ…!」
リーザは強く首を振る。いくらリーザが内気でもそれだけはしたくない…。自分の口からいつかのあの日のことを聞いてみたかったのだ。
「仕方ないわねえ…。じゃあ、とっておきの恋のおまじないを教えてあげる…」
「えっ…!? おまじない…?」
「そう、昔…子どもの頃にお祖父ちゃんの本の中に書いてあるのを見つけたんだ…」
ランの祖父というのは村の祭事には欠かせない占い師で、大切な決め事の際にはその秘術を尽くして占う…。ジェイドの前の代から一目置いている占い師だった。だから占いの類はランにとっては最も身近な得意分野なのだ。
「もしかしたら、リュウもその方法で…?」
「ばかね…リュウは違うの…!
ランは悪戯っぽく笑いながら、人に聞かれないようにリーザの耳元に口を寄せて、ささやくようにつぶやく…。
「いい…? よく聞いて…。満月の夜にゼノンの森に行って、そこにある光る石を採ってくるの。それにおまじないの呪文を書いて、あとは願い事を心の中で3回唱えてからアクリールの花の根元に埋めるのよ。そうすれば、バッチリ…! レイさまの心はもうリーザのものよ。どう? 簡単でしょう?」
「うん…!」
リーザの瞳はキラキラと輝いていた。
次の満月を待って…リーザはランに言われたとおり、こっそりと夜中に家を抜け出すと…ゼノンの森から小さな光る石を採ってきた。家族が寝静まるのを待って、月夜とはいえ薄暗い夜道をひとりで出かけるのはとても勇気の要ることだったけれど、おまじないというのはいつでも自分以外の誰かに見られてしまっては何の効果もない…という風に昔から決まっている。
今のリーザは、そんな暗闇の恐ろしさよりも、何としても想いを遂げたいという気持ちの方が強かった。
「これに呪文の言葉を書いて…アクリールの花の根元に埋めるのね? え~っと、あの村外れの丘に咲いてたっけ…?」
リーザは月明かりに照らされたほの明るい小道を、光る石を大切に握り締めて村外れの丘へと向かった。
「あった…! これだわ…。願い事を3回唱えてっと…。」
目の前には真っ白いアクリールの花が、月明かりにほんのり白く浮かび上がって見える。リーザは興奮する気持ちを抑えながら、ひとつ大きな息を吸って…心の中でレイへの想いが届きますように…と強く祈った。
「あとはこれを花の根元に埋めればいいのね…?」
弾む気持ちを抑えながら、リーザは目の前の花のほうに一歩踏み出したところで、足許に横たわる何かにつまずいて…その場に勢い良く倒れ込んだ。
「きゃあ~っ…!? 」
倒れ込んで手を突こうとした場所が、また急に動き出したためにリーザは2度びっくりする。
じつはリーザが足を踏み入れたその場所は、レイがよくひとりで昼寝を愉しんでいた場所だったのだ。狩りのない天気のいい日中はこの場所で、誰に邪魔されることもなく1日のんびり過ごすことが出来る。
背丈の高いアクリールの花々は、潜んでいるレイの姿をすっぽりと覆い隠すのには十分だった。
その日は何故かいつもよりぐっすり眠っていて、夜になったのも気づかなかったらしい…。そこにいきなり何かが倒れこんで来たのだから…レイも驚いてとっさに飛び起きた。
「きゃっ…! レイさま…!? 」
気が付けば、リーザはレイの膝をまたぐような格好で…その両手を彼の胸に置き、もたれかかるようにして二人は数センチと離れていない距離で向かい合っていた。
まさかこんな形でレイと出会うとは夢にも思っていなかった。おまけにこんなに近くで触れ合うなんて…。
リーザはパニックになって、頭が真っ白になった。
何で…!? どうしよう…!
何と言葉を発してよいかわからずに、口をもごもごと動かしてみても、とても言葉にはならなかった。目の前のレイも驚いたように碧い瞳を大きく見開いて…じっとリーザの顔を見つめている。
「ご…ごめんなさい…!!」
やっとそれだけ言うと、弾かれたように飛び起きて…さっきまで自分が何をしようとしていたかもすっかり忘れて…その場を走り去った。
あとに残されたレイもわけがわからないまま…そろそろと起き上がる。
「こんな夜中に若い娘が何の用だろう…? 」
そう思って足元を見ると、何か光る小石と小さな髪飾りが落ちているのに気が付いた。
「何だ…?」
拾い上げて月明かりにかざしてみると、小石に何か文字らしきものが書かれているのがわかったが、意味はよくわからない…。髪飾りの裏にも何か文字が彫られていた。
“わが娘 リンへ…”
あの娘の名前か…? それにしても…ハハハ…!
鉢合わせした時の娘の驚きようがあまりに可笑しくて、レイは夜中だということも忘れて声を上げて笑った。笑いながら、月明かりに照らされた明るい夜道をふらふらとまた歩き始めた。
晩春の夜の…。ちょっとした妖精の悪戯か…。
この夜の出会いが、後のリーザとレイ…。ふたりにとって大きな意味を持ってくることをこの時はまだ二人ともまったく気が付いていなかった…。
冒険
それからしばらくして…。
レイはジェイドとライザのもとから独立して自分の館を持つことになった。それは彼がひとりの男として一人前になったという証であり…成人した立派な狼として一族に迎えられたということでもある。
その祝いの席で、彼を取り巻くまわりの大人達からたくさんの祝いの言葉を寄せられても…当の本人はちっとも嬉しくなかった。ただ両親から贈られた自分の腕に光る真新しい銀のブレスレットだけは、とても誇らしかったけれど…。
レイが独立して自分の屋敷を持ったとはいえ、完全に独りで暮らしているわけではない。屋敷の中には、レイが両親の元にいた時からずっと彼の世話をしてきた者達が相変わらず出入りしていたし、夜とこに入るその時まで誰かが彼の屋敷の中にいるわけで、それもレイにとってはひどく気障りなことだった。
それに成人した日から彼らの生活はがらりと変わる。今までは自由気ままに野山を駆け回っては、野うさぎやイノシシなどの小動物相手に狩りの真似事をして愉しんだり、同い年の若者達と力比べと称して…どちらかがギブアップするまで取っ組み合ってその優劣を競ったりして過ごして来た。
それが成人した翌日の朝早くから、大人たちに交じって一族を養うために平原へと狩りに出かけていく…。狩りには必ずリーダーがいて、その命令には絶対に従わなければならなかった。たとえ長の息子でも例外ではない。
少年時代からレイに直接狩りの手ほどきをしたのはロウブだった。村には彼らの教育係りが何人もいて、12,3歳頃から狩りの仕方を教え始める。いずれは一族全員を養えるための優秀な狩人を育てるためだが、ロウブをはじめ村でも屈強な男ばかりが選ばれてその役を担っていた。
彼らは時に厳しく、特に集団の中での絶対服従という面ではことさら厳しい…。
日常的な狩りの中で、ひとりでもその輪を乱すことは…時に全員の命を危険に晒すことになるからである。
もともとレイは集団での狩りは苦手である。独りのほうがよっぽどやり易いと思っているのに、それをあえてリーダーの指示に従わなければならないのは、レイにとって苦痛以外の何者でもない。
おまけに疲れて帰っても早々解放してもらえず、あとは大人達に交じっての宴会が毎晩のように続く…。まったくもってうんざりしていた。
今日は狩りはない。レイは出来るだけひとりでゆっくり過ごそうと、屋敷の外へ出たところで、使用人の中で一番年配の女に呼び止められた。
「レイさま、ライザ様が一度顔を見せてほしいとおっしゃっていましたよ」
「ああ…そのうち顔を出す…」
曖昧に答えて立ち去ろうとした時、目の前の小道を数人の娘達が、こちらに向けて歩いてくるのが見える。レイは小さく舌打ちして、すぐさま近くの茂みに飛び込んだ。
屋敷内にいれば世話をしようとやってくる使用人達はもちろんのこと…午後になってどこからともなく集まってくる娘達には正直頭を悩まされていた。
最初の頃、かなり辛辣な態度で拒絶の意志を示したにも関わらず、彼女達はまったく怯むことなく毎日のようにやってくる。
女なんか、うるさくて面倒くさいだけだ…。
本気でそう思っているレイには、毎日彼の気を惹こうと…入れ替わり立ち換り現れる彼女達は、何度追い払ってもしつこくやってくる煩わしいハエと同じだった。
けっきょく最近はもっぱら逃げ回ることに徹しているけれど、この先他の仲間達と同じように、恋をしてこの中の誰かを受け入れることなど、今のレイにはとうてい考えられなかった。
多くの大人たちが考えているような生き方をおれは望んでいない…。平凡になど生きられない…この身体に流れるアリオンの血は決して安穏な生活など求めてはいないのだ。
ただ…父ジェイドと母ライザの自分に抱いている期待だけは無視できなくて…それが重い重圧となって、レイの肩に重く圧し掛かっていた。
この頃年老いてめっきり気弱になったライザは、レイの顔を見ると早く孫の顔が見たいと…口癖のようにそればかり言っている。
レイに恋など必要なかった。自分はいつかこの村を出て行く…。だがいつ…? どうやって…?
自分を取り巻くあらゆることを思えば、その答えが簡単に出せないことは十分すぎるほどわかっていた。
またいつもの苦渋に満ちた、狂おしいばかりの渇望感だけがレイの心を支配していた。
今日のトルンの男たちの狩りは二つのグループに分かれて行うことになっていた。
ロウブとアッサムの率いるAグループと、デノン、ネストの率いるBグループだ。
全体的に見て年代や力のバランスが取れるように構成されている。その中でもさらにいくつもの小さなグループに分かれていた。
狩場の条件によっては、リーダーの指示ひとつで様々な陣形を取ることも度々だったが、今日は狩りのターゲットがいつもより小型だという理由で、3~4人のグループで狩りを行うことになっていた。
レイが狩りに参加するようになってすでに数週間が過ぎていた。彼は最初からずっとロウブが率いるAグループに属していて、一番最初の狩りを除いて…レイは他の大人たちのあとに大人しく従うばかりで、出来る限り自分の力を制御していた。
今は出来るだけ目立たないほうがいい…。
最初の騒ぎを経験して、本能的にそう判断したのだが…というのもあの日以来、ロウブの自分を見る目が微妙に変化したことを感じていたのだ。
ロウブはある意味、父ジェイド以外にレイにとっては一番身近な父親然とした存在だった。物こころついた頃から、何かと面倒を見てくれたのはロウブだった。
男の子が最初に身に着けなければならない変身術も、レイはロウブから教わった。まだ悪戯盛りだったレイは、よくロウブの目を盗んではあらゆる悪戯を仕掛けては…その度にこっ酷く叱られはしたが…。
そのロウブがレイの今日のパートナーに選んだのは、従兄で幼馴染みのリュウだ。
“きっといつもの退屈な狩りよりはずっと愉しめるぞ…。”
いつもの自制心などすっかり忘れて、その日のレイはわくわくするような高揚感に心奪われていた。
リュウはレイより3才年上の21才…彼にとって最も身近な若者である。幼い頃から何でも話し、レイの心の苦しみを一番理解しているのもリュウだろう。
最もリュウがひと足先に成人してからは、生活の場が違うこともあって…村の大きな行事でもないかぎり、二人が顔を合わせることもなかったが…。
今日は若いリーダーの筆頭となっているリュウをロウブが何故レイのパートナーに選んだのか…。少し疑問は残るが、レイが成人した今…また前と同じように並んで平原を駆け回ることが出来る。それはとてつもない愉しみに繋がっているに違いなかった。
「いいか? 今日は危険な場面は少ないが、かといって気を抜くな…! 危険はどこにでも潜んでいるものだ。それと特に若い連中に言っておく…。絶対に自分の力を過信するな。平原には水牛しかいない…。間違ってもあいつらには近づくなよ…!」
ロウブはそう言い残して、他の仲間達を伴ってそれぞれの目指す地点へと散っていく。
「さて…おれ達はどうする、レイ…? 久しぶりにまたおまえと一緒に駆け回れて、おれはうれしいよ。」
リュウはレイの肩に腕を回してその顔を覗き込む。陽に焼けた顔にこぼれるような笑顔を見せて、屈託のないその表情に思わずレイも笑みがもれる。
前に会った時よりもかなり逞しさを増したリュウは、肩幅ではレイを上回っていた。
男らしく張り出した頬のラインを、日焼けして少し焦げ茶色の髪が覆っている。瞳は濃い金色だが、笑うと何とも言えず人懐こい表情になるところが、彼が誰もに愛されている理由だろう。
「おい、おれもいることを忘れないでもらいたいな…?」
リュウの隣からリュウと同い年のグレンが、少しムッとした表情で二人の間に割って入る。
「悪いな…。おまえとはいつでも一緒にいるもんで、つい忘れてしまったよ…」
「で、今日はどうするって…?」
グレンも今日のメンバーがリュウとレイだと聞いて密かに何かを期待していたのだろう。これから起こるわくわくするような出来事に目を輝かせている。
確かに…。このメンバーなら冒険をするのには打ってつけだろう。リーダーは3人の仲で一番経験豊富なリュウだ。いつもの大人のあとをついて回るだけの退屈な狩りよりはよっぽど愉しめることだろう…。さて、この滅多にないこのチャンスをどう愉しもうか…?
「リュウ、せっかくだから、前に練っていたあの計画を試さないか…?」
レイは他の仲間達が、平原の端から山手に続くなだらかな丘陵地に移動していくのを横目で眺めながら…リュウの耳元でささやいた。とたんにリュウの瞳が好奇心で輝く。
「おれが成人する前にやろうって計画してたアレか…? 」
「そう、アレだ…」
レイの碧い瞳もゆらゆらと煌いている。
「何だよ、アレって…?」
ひとりだけ理解できないグレンは、不満そうに首を捻る。リュウに耳を貸せと言われて、3人は顔を突き合わせて何やらボソボソと話し始めた。
「いいか…? わかったか…?」
「話の内容はよくわかったけど、いいのかよ…? さっきロウブが水牛には手を出すなって言わなかったか? 」
腕は立つが生真面目で…少々臆病なところがあるグレンは心配そうにリュウを見た。
「なあに、要は成功させればいいんだよ…。おれ達にはアリオンのレイがついている。それにおれとレイがチームを組めるのも、あとにも先にも今日が最初で最後だ。こうるさい大人連中もいないことだし、試すには絶好のチャンスだ。おまえもそう思ったんだろう、レイ…?」
リュウはレイを振り返ってニヤリと笑った。
リュウのいうとおりだ。もともと力のあるリュウは、若者の中では最初からリーダー格だった。レイにしても近頃のロウブの表情を見れば、近いうちにリーダーの役を任されるのは必至だ。この先2度とこんなチャンスは巡って来ないだろう。
「そうと聞けば何だかゾクゾクしてくるな…? で、おれは何をすればいいんだ…?」
最初は気後れしていたグレンも、いつしか身を乗り出すようにしてリュウの話に聞き入っている。グレンにしても同世代の仲間の中では、かなりの腕の立つ方だったから…要するに普段の狩りでは物足りなく感じているのだ。
リュウとレイが立てた計画はかなり大胆なものだった。レイが水牛の群れの中からターゲットになる水牛を誘い出し、リュウとふたりで挑発しながら興奮させて、岩山のある地点まで追い込むという計画だった。
口で言うのは簡単だが、実際に試すとなればかなりの体力と気力が必要になるだろう。
「いいか、グレン。この先に茂みに隠れた岩だながある。そこにおれとレイとで水牛を誘い込むから、おまえは目印にそこに立って居てくれ。ただし、おれ達が突っ込んで来たら、おまえも上手く逃げろよ。じゃないと、水牛の巻き添えを食うからな。もし巻き込まれたらケガどころじゃ済まないぞ!」
「ああ…立っているだけでいいんだろう…? 楽勝じゃないか?」
グレンは日焼けして浅黒い顔に白い歯をのぞかせて愉快そうに笑った。
さっそく3人は、さらに細かい打ち合わせをして、それぞれの役割のために散らばって行く…。
グレンは最初に3人がいた場所から北に数キロ入ったところにある岩山のふもとに立っていた。彼のすぐ目の前には、固い岩肌を覆い隠すようにちょうど彼の背丈ほどの低い木々が生い茂っている。
彼らはその茂みに覆われた固い岩盤に、水牛を激突させようと計画していた。レイとリュウの身体能力なら、勢いをつけてこの茂みに突っ込んできたところで、その突き出した岩盤を避けることは簡単だろう。でも身体の大きな水牛には不可能だろう。それには十分な勝算があってのことだった。
もちろん、たとえ成功してもロウブの叱責だけは避けられないだろうが…。それを差し引いても、レイにはこの計画を諦める気などまったくなかった。
自分より数倍力強く大きな相手を倒すことこそが、ハンターとしての醍醐味なのだ。いくら生きるためとは言っても、自分より弱い相手を倒すことに何の魅力も感じない…。
レイは生まれながらのハンターなのだ。獲物を狩っている時だけは…心の苦しみを忘れることが出来る…。
レイは平原の水辺近くで悠々とはべる水牛たちをじっと見つめた。
“ふん…! のんびりしてやがる…。”
彼らはレイが自分達のすぐ側まで忍び寄って来ても、ちらりと横目で一瞥しただけで、気にも留めない…。そ知らぬ顔をしてまた草を食べ始めた。狼達が自分達を襲ってこないことを良く知っているのである。まして単独でいる狼など恐れるに足らないと高をくくっているのだろう。
体重は雄の狼の10数倍、体格でも彼らの何十倍も有りそうな彼らを獲物として追うことは、普段なら有り得ない。体力的なことも然ることながら、もし途中でしくじりでもしたら…呆気なく彼らに踏み潰されて命を落とすことは明らかだった。。
仮にまだ力の弱い子どもを狙ったとしても常に群れの中心にいる彼らは、大人の水牛たちがぐるりと取り囲んで身体を張って守っているのだ。それでも執拗に追うならば、彼らの群れの真ん中に飛び出すことになって、あとは万事休す…! 命を落とすのはこちら側になってしまう…。
賢いリーダーなら、絶対にそんなリスクは犯さないはずだった。
レイはゆっくりと草むらの中を移動しながら、ターゲットとなる獲物を探した。
“どうせ相手にするなら、とびっきり体格のいい…元気な奴を狙おう…!”
レイは初めからそう決めていた。
“群れの2番目に強いオスがいい…”
プライドの高いオスなら絶対に挑発に乗ってくるはずだ。群れのボスは責任感が強く、群れを離れてまで追って来ることはない。その点ナンバー2の雄なら、普段から力を持て余しているはずだから、誘いをかけるのは簡単だ…。
「いた…! あいつがいい…」
正面に身構えて、真っ直ぐにレイを睨みつけてくる一番身体の大きな若いオス…。たぶんその大きさからすると、この群れの中でもかなり優位に立っているオスに違いない。。
カーブを描いて力強く天を仰ぐ鋭い角が、彼の若い力を誇示している。そいつと目が合った瞬間、背中をゾクゾクするような悪寒が駆け抜けた。
目の前の雄牛はじっとレイを睨んだまま、微動だにしない。赤く血走った眼は、レイが挑発するまでも無くすでに興奮状態だ。案外動物の持っている感で、レイがこれから仕掛けようとしていることを敏感に感じ取っているのかもしれない…。仮にそうだったとしても、今さらレイは止めるつもりはない。それどころか、願っても無い好感触だ。
興奮しているのは、何も水牛だけに限ったことではない。レイも同様に激しく高揚しているのだ…。
水牛との距離を一定に保ちながら、レイは草むらをゆっくりと移動した。レイの碧い瞳から発せられる鋭い視線は、真っ直ぐオス牛に向けられていた。まわりの水牛たちは、目の前にいる一匹の銀色の狼から発せられる碧い炎のようなオーラに、怯えたように後ずさりして、若いオス牛の後ろへとジリジリと移動して行った。
目の前にいた最後の一頭が後ろに下がったのを見て、オス牛は見事な角を振りかざして猛然とレイに迫ってきた。
“ふふん…やっとその気になったか…”
レイは軽い身のこなしでその角を飛び越えて、わざとオス牛の背中に飛び乗った。するとオス牛は狂ったように暴れ始める。自分の上にいる狼を振り落とそうとして、飛んだり跳ねたり…全力で疾走しながら、当たり構わず暴れまわった。そうするうちにオス牛は少しずつ仲間から遠ざかって行く…。
“そろそろいいだろう…?”
仲間達からかなり遠ざかったのを確認してから、レイはオス牛の背中から飛び降りた。
さっきからかなり興奮状態のオス牛は、もう自分の置かれている状況を判断する冷静さを失って、眼はギラギラした異様な光を放ちながら、真っ直ぐレイを目がけて突っ込んで来た。
レイはわざとオス牛に後を追わせながら、スピードを落として…追いつけると思わせる距離を保ったまま…平原の真ん中を、リュウの待つポイント目がけて疾走して行く。
「おっと、やっと来たな…?」
低い木立に隠れて、レイが獲物を引き連れてくるのをじっと待ち構えていたリュウは、タイミングを見て勢いよく彼らの疾走する軌道上に飛び出すと、助走をつけてすぐにレイのスピードに合わせてきた。
隣に平行して走るリュウの姿を目に留めて…レイは走りながらニヤリと笑う。リュウが一足先に成人して以来、ここ2、3年は一緒に走り回ることが無かったとはいえ、二人は一度チームを組めば、誰よりも息の合うパートナーなのだ。
リュウに追われ役を交代して、レイはほんのつかの間の休息をとる。”奴“は狼の何倍もタフなはずだ。体力的にも自信があると自負しているレイでも、さすがにひとりで相手をするほど無謀ではない。こんな時リュウがパートナーなら、安心してあとを任せられる…。
しばらく草むらに隠れて休んでいたレイが再びリュウと交代した時、オス牛の眼は激しい狂気に歪んでいた。
“リュウのやつ、相当焦らして愉しんでいたらしい。たぶん、オス牛には何も考える余裕などないはずだ。あとは仕上げにかかるだけだ…”
レイの目はもう目前に迫っている荒々しい岩山を見て輝いた。
その頃リュウは近道をして、グレンの待っている岩山にやって来た。グレンは最初、草むらに寝転んで、自分の出番が来るのを待っていたけれど、彼らが一向にやって来る気配が無いので、知らないうちに眠っていたらしい。
「グレン! 起きろ!」
リュウに揺り起こされて、グレンは重たい瞼を開けた。
「何だよ? 遅いじゃないか? おれはてっきりもう来ないんじゃないかと思ったよ…」
グレンは大きなあくびをしながら、そろそろと起き上がった。
「レイがついているんだ。失敗なんかするわけないだろう? じきにここに突っ込んで来るぞ。おまえも準備しろ…! 下手して巻き込まれたら、あの世行きだからな!」
あんまりグレンがのんびりしているので、リュウは呆れてしまった。
「水牛たって、どうせ子供か年寄りの死にぞこないなんだろう…?」
なおもあくびをかみ殺しているこののん気な仲間に、リュウは喝を入れるべく、その肩口を掴んでグイッと平原の向こう側がよく見えるように押し出した。
「バカめ…! 草原をよく見ろ! 誰が水牛を駆りだしたと思っているんだ! アリオンのレイだぞ…あいつがそんな連中をあいてにすると思うか? レイが連れて来るのは、立派な角を持ったオス牛だ…!」
「え…? ウソだろ…!?」
グレンが頭を持ち上げてみれば、平原の向こうから地響きを立てて真っ直ぐこっちを目指して突っ込んで来る巨大なオス牛の姿が見える。
近づくにつれてその姿がはっきりしてきた。真っ黒なその姿の…大きく見開かれた眼は赤く血走って、口からはダラダラと涎を流し…明らかに狂っている様子だ。
「マジかよ…! ヤバッ…!」
やっと事の重大さに気が付いたふうのグレンに、リュウは鋭く叫んだ。
「いいか…! オレが合図したら横っ飛びに逃げるんだ…! 行くぞ! 1…2…3…今だ!」
ぎりぎりまで引き付けて、三人は目の前に迫っている茂みの直前で左右に分かれて、勢いよく飛んだ…!
ドスン…!! あたりを震わせるような地響きを残して…水牛は茂みの中に消えた。
三人が恐る恐る近づいて見れば、水牛が頭から突っ込んだ岩肌は、その場所を中心にして半径1メートル四方が、ポッカリと穴が空いたように崩れ落ちていて、その衝撃の激しさを物語っていた。
その中で横たわるピクリとも動かない水牛の角は根元から折れていて、白目をむいて口からは白い泡を吹き出したまま…ものすごい形相で悶絶していた。
「やったな…?」
「ああ…」
まだ荒い息を継ぎながら、レイはリュウと顔を見合わせて満足そうに微笑んだ。ただその横でグレンだけは、じっと目を見開いたまま…ショックで腰が抜けたようにその場に座り込んだまま動けないでいた。
「どうした、グレン? 」
「やばいよオレ…マジびびった…」
「こんなことくらいでびびるなよ。そんなんじゃこれから先、おれ達とは組めないぜ。なあ、レイ?」
「ああ…」
レイは小さくうなずいて、また何事もなかったように静まり返る草原へと視線を向けた。
“オレを夢中にさせてくれるような獲物も、ワクワクするような冒険も、もうこの先は望めないかもしれないな…”
そんな漠然とした想いが、レイの心を満たしていた。
平原から少し離れた山脈へと続く谷間で、ロウブたちは仲間を集めてその日の収穫を確かめていた。この時期には彼らが主に獲物としているオオジカたちは、他の餌場の草原に移動するために、卿の狩場は山の尾根と決めて、少人数でウサギやイノシシといった小動物をターゲットにしていたのだ。
太陽が西に傾き始めたのを合図に、あらかじめ集合場所になっていた尾根に続くなだらかな丘に、それぞれが捕えた獲物を携えて戻って来る。
「リュウたちのグループはどうした? 」
すでに仲間のほとんどは戻っていて、その顔ぶれを見回してロウブは言った。姿が見えないのは、リュウ、レイ、グレンの三人だけだ。
「西の原に向かうレイたちを見たんだ…」
誰かがぼそりと言った。
「西の原だと…!?」
それを聞いてロウブは思わず眉をしかめた。西の原には水牛たちがいる。今日出発前にロウブは注意を与えたはずだ。水牛には近づくなと…。それを彼らは無視したに違いない。静かな怒りがロウブの胸を満たした。
レイとリュウを同じチームにしたのはロウブだ。次の狩からレイにはリーダーを任せるつもりだった。レイがリーダーになれば、すでにリーダーのリュウと組むことは二度とないからだ。レイが若者の中で、唯一心を許すのはリュウだけだと知っていて、ほんの少しだけロウブなりに彼らを思い遣ってのことだったのだが、どうやらそれが裏目に出たことをロウブ自身認めないわけにはいかなかった。
「ロウブ…?」
しばらく押し黙ったまま…何かを考え込んでいるロウブを見て、もうひとりの重臣アッサムが側にやってきた。
「どうやらレイたちは水牛の相手をしに行ったらしい…」
「水牛だって…!?」
それを聞いて一瞬アッサムも怯んだが、すぐ明るく言いかえした。
「なんとも勇敢なやつらだ。だがちょっと無謀としか言いようがないがな…」
「無謀というより愚か者だ。一緒に来てくれアッサム…。最悪の事態が起きてなければいいが…」
「おまえにしては弱気だな、ロウブ。レイの実力については実証済みじゃないか…。たぶん、あいつらからすると、軽い冒険のつもりなんだ。まあ、無事だったとしても、キツイ仕置きは必要だろうがな…」
「ああ…もちろん…!」
アッサムの言葉に思わずロウブの表情が緩む。だが次の瞬間、二人の顔に緊張が走った。
ズシン…!!
あたりの空気を揺るがすような地響きが聞こえてきたのだ。二人は無言で同時に駆け出した。
「だがレイ、こいつをどうする…? 引きずって帰るにはでかすぎるぞ…!」
「そうだな…」
レイは足元に転がる水牛の巨体を見下ろした。倒すまでの計画は完璧だったが、その後の事までは何も考えていなかった。どのみちロウブの指示を仰ぐことになるだろいう…。でもその前にかなり厳しい意見を覚悟しなければならないが…。
「おまえたち…!!」
やがて三人を見つけて駆け寄ってきたロウブとアッサムは、彼らの後ろに転がっている巨大な水牛の骸を見て絶句した。さっき仲間のひとりから、彼らが水牛の群れに向かったと聞いたときには、どうせ失敗して罰が悪くて戻って来られないのだろうと高をくくっていたのだが…。
「おまえたち三人にはオレの言葉が聞こえなかったらしいな…? 」
しばらくの沈黙のあと、ロウブはわざと抑えた低い声で言った。三人ともいつも以上に厳しい表情のロウブを前にして、緊張の面持ちでじっと立ち尽くしている。
「すまなかった…。言い訳をするつもりはないが、これはオレとレイとでずっと前から試そうと計画していたことだったのだ。もちろん、十分な勝算があってのことだ…」
リュウが年長者らしく落ち着いた声で言った。
「それに提案をしたのはレイだが、決断を下したのはリーダーのオレだ。罰するんなら、リーダーのオレを罰してくれ…」
ロウブはさっきから押し黙ったまま…何かをじっと考えている様子だった。
「しかし、まあ…やらかしたなあ? おまえたち。ロウブの指示を無視したことは許しがたいことだが、こんなことが出来るのはおまえたちくらいなものだ。ロウブ、今回のことは大目に見てやれ、どうせリュウとレイが組めるのは今日だけだったのだろう?」
黙っているロウブを見て、アッサムが横から言った。置かれた立場を考えれば、なぜ彼らがそんな行動を起こしたのかは理解できる。
レイをものごころつく頃からずっと側で教えてきたのはロウブなのだ。これまでの成長を思えば、その有り余るエネルギーが今の生活でとうてい癒されるとは思えない…。
「わかった。今回は大目にみよう。だがこの次は許さない。肝に銘じておくんだな…」
「わかった…」
リュウが返事を返すと、ロウブは厳しい表情を崩さないまま…そこで待つように指示して、また仲間の下へ戻るべく踵を返した。ただ行きかけてまた振り返る。
「レイ、戻ったらすぐジェイドさまのところへ来るんだ。いいな…?」
「ああ…」
レイは去って行くロウブの後ろ姿をじっと見つめた。その背中からは、苛立ちとも諦めとも付かない表情が伺える。
「黙っているロウブの方が何倍もおっかないな…? レイ、こりゃ、戻ったら大目玉を食らうぞ!」
グレンがかたをすぼめると、リュウがレイの耳元でささやいた。
「気にするな。おまえはおれ達とは立場が違う。長の息子はそれなりに当たる風もキツイんだ…」
わかっていると笑いながら言ったあとで、レイは心の中でつぶやいた。
“すべての頂点に立とうとする者は、自分に厳しく在らねばならない…。いつ如何なる時も自分より仲間の安全と利益を優先する…。それが出来ない者は王者たる資格はない。子供の頃から嫌というほど聞かされた言葉だ。でもオレは…王者になどなりたいわけではない…”
ロウブの計らいで一足先に村に帰った若者が、村から大型の台車を運んできた。それに水牛を乗せるのに二十人がかりで、かなり時間をかけてやっと積み込んで出発した頃には、西に傾むきかけた太陽はすでに地平線近くまで移動していた。
「こら、そこの三人…! おまえらの責任なんだからしっかり引け…!」
アッサムが後ろからからかうように叫ぶ。リュウとレイ、グレンの三人は、最前列で台車に括りつけたロープを引っ張りながら歩いていた。
「ちぇっ…! おれ達のおかげでこの先一週間、狩に出なくてよくなったっていうのに、何でだよ…!」
さっきからグレンがブツブツ文句ばかり言っている。
「よせよ、指示に従わなかったのはおれ達のほうだから仕方ないさ…」
リュウは相変わらず、何があっても楽天的だった。そのあっけらかんとした性格がレイは好きだった。
それでも何とか村外れまでたどり着くと、目の前の通路の端まで多くの村人が並んで彼らを出迎えていた。普段ならこんなことはないはずだったけれど…。たぶん、さっき台車を取りに戻った誰かが、レイたちが水牛を仕留めたことを村中に触れ回ったに違いない。
「悪い、リュウ。オレはここで消えるからな…」
レイは手にしていた引き綱をリュウに預けて、そのまま近くの茂みに姿を消した。
「おい! レイ! どこへ行くんだ…!?」
「グレン、あれを見ろよ。あれじゃあ、レイが逃げ出したくなる気持ちもわかるさ…」
リュウが前方を指差すと、そこには多くの娘たちが集まって、身を乗り出すようにしてこちらに手を振っている。
「あ~あ、羨ましいよな。あいつは…。さっさとあの中から誰かを選んじまえばいいのに…でなきゃ、うるさくって仕方ないや…」
またしてもふてくされたようにグレンは言い放つ。じつはグレンが密かに想っている相手もその中にいて、彼女もレイに夢中なのを知っているから、彼は告白さえ出来ないでいたのだ。
「まあ、そうふてくされるなって…! そのうち落ち着くさ」
「そう言うお前はいいよな…? 来月ランとの結婚が決まっているんだから…」
「ああ、いいだろう…? 羨ましいか? 悔しかったらおまえもさっさと適当な相手を見つけて結婚しろ!」
リュウはそう言ってまた高らかに笑った。
ジェイドとロウブの苦悩
暗くなって灯りが灯されたジェイドの居室で、ロウブはジェイドと向かい合っていた。さっきから真剣な表情でロウブを見つめるジェイドに、ロウブもしばらく押し黙ったまま、何か言葉を探していた。あの遠い昔…赤ん坊だったレイをこの村に連れ帰ったのは、誰でもないロウブなのだ。その責任においても彼の成長をずっと見守ってきたロウブは、ジェイド同様レイをこの村においておきたいという想いは同じだった。
「その件に関してはジェイドさまの方からレイに話していただければ…。わたしも最初はそんな突拍子もない提案には、今のレイを見る限り無理だと思っていました。しかしこのところのレイの成長ぶりと態度を思えば、ジェイドさまの心配もそう遠くない時期に現実となるかもしれません…」
「ロウブ…?」
それを聞いてジェイドは言葉を失った。先日の会議でジェイドは、レイを自分の後継者にしたいと、その意志をはっきりさせた。だが表向き賛成した村人の中にも、レイのアリオンとしての力をその目で見た後でも、彼がこの村に居つくことを信じていない者がいることもジェイドは承知していた。
「間もなくここにレイがやって来ます。今のレイをこの村に引き止めておくためには、そういうことも必要なのかもしれません」
数人いる重臣の中で、彼が最も信頼するロウブの言葉は、重たくジェイドの心に響いた。
レイは慣れ親しんだジェイドの屋敷の…中庭を突っ切って真っ直ぐ父の居室を目指して歩いた。ロウブが父の前で、自分に何を言いたいのかはわかっている…。今日のことを含めて、今のレイの行動を諌めたうえで、将来彼が父の後を継いで一族の頂点に立つことを約束させるつもりなのだ。レイが決して父と母を裏切れないという心を見通して…。
父ジェイドの居室の前まで来て、レイは足を止めた。
“すべてをわかっていて…おまえは黙って受け入れられるのか…?”
心の中でもうひとりの自分がささやく…。その答えは…?
ひとつ大きく深呼吸して例が扉を開けると、そこにはロウブの姿はなく…蝋燭に照らされた薄明かりの中、ジェイドだけがひとり…窓辺に立っていた。
「父上…?」
「ああ、来たな…? こっちに来て座りなさい」
意外にも穏やかな声でジェイドは言った。レイは訝しく思いながらも、ジェイドの向いの席に腰を下ろした。
「父上、ロウブは…? 一緒じゃなかったんですか?」
「いや、報告は聞いたが…その後すぐに帰った。何か…?」
「いえ、ここに呼ばれたのは、てっきり今日のことを父上の前で叱られるものだとばっかり思っていましたから…驚いただけです…」
レイは少しホッとして答える。
「どうじゃレイ、一人暮らしは慣れたか…?」
「はい、少しは…」
「大人の仲間入りは慣れないことばかりで、最初はおまえといえども苦労することも多かろうが、おまえは鷲の子供じゃ…。一人前の男として立派にやっていける。おまえはわしら夫婦の自慢の息子じゃからな…少々羽目を外すのも、若いうちは仕方のないことだ」
「父上…?」
ジェイドは微笑みながら自分もその場に腰を下ろして、すっかり白くなってしまった長い顎鬚を片手でなぞりながらつぶやいた。その横顔には、長い間一族の長としてその重責を担ってきた苦労がありありと感じられる。その頬や額に刻まれた深いしわを見るに付け、レイは年老いた父の哀しさを見たような気がして…思わず目を伏せた。
「母さんが、おまえが家を出てから一度も会いに来てくれないと嘆いておったぞ。時々はのぞいて、元気な顔を見せてやってくれないか…?」
「はい…」
ジェイド同様年をとったせいで、このところ体調の優れない日が多いライザは、臥せりがちなことも多い。あの美しかった母の…やつれ果てた姿を見ることもレイには耐え難く、自然に足が遠のいてしまったのかもしれない。
「そこでだが…」
そう前置きして、ジェイドは少し強い口調で言った。
「今日おまえをここに呼んだのは、先日の会議で決まったことをおまえに伝えるためだ」
「会議できまったこと…?」
殺気までとは打って変わって真剣な表情をしたジェイドを前にレイは戸惑いを隠せない。今のジェイドの顔は間違いなく長の顔だ…。
「そうだ…。おまえももう18になって、立派に一族の男の仲間入りをした。一人前の男として十分すぎる働きをしていると、村の誰もが認めている。と…そこでだ…」
ジェイドは、まるで他人に語るように淡々と先日の会議の内容をレイに話して聞かせた。
「どうだろう…? レイに花嫁を迎えては…?」
そう言って口を開いたのは、ジェイドのもうひとりの重臣アッサムである。
「え…!? 花嫁を? あのレイにか…!?」
あまりの突拍子のない提案に、ジェイドをはじめその場にいた者は皆驚きの声を上げた。確かに成人して、狩りも一人前と認められた若者は、自由に連れ合いを選ぶことが許される。でもそれはあくまでも本人同士の問題で、お互いにこれと認め合った者達が家族や村のリーダー達に祝福されてのみ成立することなのだ。
立派に成人したとはいえ、今のレイにそれに見合う相手がいるとはとうてい思えない。それどころか、わざと避けているのは誰が見てもあきらかだ。みんなが驚くのも無理はなかった。
それに構わず、アッサムは続けた。
「そうです。レイも成人した。連れ合いを持つのに早すぎる年ではない…。それにあいつの中に流れるアリオンの血は、何があっても次代に残さなければならない。最後のアリオンならばなおさらのことだ…」
「それはそうだが…相手はどうする? 誰でもいいっていうわけにはいかないだろう…? それなりの相手でなければ、あいつだって納得しないはずだ…」
それまで黙って聞いていたロウブが、少し厳しい表情で言った。なるほど…。皆は小さく唸る。
「村の娘の中からレイ自身に選ばせればいい。娘のほとんどはレイに夢中だ。あとはレイの気持ち次第だと思うが…?」
「ウ…ム、それもそうだな。女が出来ればあのレイも少しは変わるかもしれん…。ジェイドさまの心配も、少しは減るというものです」
「ほう…? 一石二鳥というわけか。考えたな、アッサム…」
「だろう…? いい考えだと思うが…?」
他のリーダー達の言葉にすっかり得意になったアッサムは、如何に自分の提案が的を得ているかを説明した。
「そなた達の意見はよくわかった。しかしそれをレイが納得するかどうかは別問題だろう。ただでさえ気難しい上に、あいつはそっちの方にはまったく興味を示さぬ。ライザも困っておるのだ…」
ジェイドも溜息混じりに、親としての苦しい胸のうちを語った。レイの頑固さは誰よりもよく知っている。
「それならなおさらのことです。一族のため、長としての命令として、父上であるジェイドさまから言っていただければ、レイといえども嫌とは言えますまい…。なあ、ロウブ…?」
「ウム…。アッサムの言うことにも一理あります。ジェイドさま、あいつはこの世界に存在する最後のアリオンです。美しさはもちろんですが、その比類なき力はもう誰も疑いようがない事実です。それをあいつ一代で絶やすのは、我々一族にとっても大きな損失というべきでしょう。トルンの血の中にアリオンを入れることで、我々一族の未来は飛躍的に開けるでしょう…」
重臣の中で最も人々に信頼のあるロウブの言葉は、何よりも説得力をもつ。
「というわけじゃ、レイ…。これは村人すべての意志であり決定でもある。わしは、この村の長としておまえに命令しなければならない…。3ヵ月後の満月の夜、おまえは村の娘の中から、自分の連れ合いを選ぶのだ。よいな…? 時間はたっぷりある。ゆっくり考えるがよい…」
ジェイドは父としてではなく、トルンの長として威厳のある言葉でそれを伝えた。レイは父の…穏やかだが威厳に満ちた強い意志を秘めたその眼差しをじっと見つめていた。その父の…何者にも屈しない強い意志が放つオーラが彼は好きだった。
レイは今まで実践的なことはロウブから…精神的なことはジェイドから学んだのだ。
ジェイドの一族は何代も前から、おそらくはトルンがこの場所に安住の地を求めてからずっと長の地位を守り続けてきたのだろう…。その自身と誇りが、彼の言葉すべてに表れている。
レイは強いショックを受けていた。何も考える余裕もなく…ただその場に立ち尽くしたまま、父の言葉を心の中で何度も反すうしながらその意図を探った。
それからのレイは、自分がどうやって屋敷まで戻ったのか、まったく覚えていなかった。いつもの大人たちとの宴には顔を出さず、屋敷の中にいた使用人達を追い出すと…彼は広い屋敷の中を落ち着きなく歩き回った。そのうち寝台の上にごろんと横になった。
「このオレが連れ合いを…?」
仰向けに寝転がって、天井を見上げながら半ば呆然とつぶやく…。当たり前の若者なら、いつかそういうことも考えるだろう。だがレイは違う。叶うことなら、いつかはこの村を出て自由に生きる道を模索するつもりだった。それがどんなに困難なことでも、決して諦めるつもりはなかった…。
しかし、群れに生きる者にとって長の命令は絶対である。父ジェイドが長として、レイに連れ合いを選べというのなら…その息子といえども従わなければならない。それがレイにとってどんなに非現実的なことであっても、それは彼らトルン族が永らく生きていくための知恵であり掟なのだ。
毎日賑やかに押しかけてきて、こちらの気持ちなどお構いなしに騒ぎ立てる彼女達の中から、どうやって一生連れ添う相手を選べというのか…? 絶対にありえない…。それならば、自分より能力の劣るリーダーの下で、延々黙って走り続けることの方がよっぽどましだ。
どっと疲れを感じて、レイが寝台の上で寝返りを打った時、何かが寝台からカラカラと転がり落ちた。
「……?」
見ると小さな髪飾りがひとつ…床の上に転がっている。
“なんだ…? あの時の…?”
いつかの晩、娘が走り去ったあとで拾った髪飾りである。リンという名前がわかっても、それをどうすることも出来ずに髪飾りはそのままレイの手元にあった。
レイはそれを拾い上げて、自分の目の前にかざして見る。骨を削って、小さな水晶を幾重にもつなげて作られた見事な細工物だった。
“ フ…フ…!”
レイは見つめているうちに不意にあの晩の…レイの顔を見つめる娘のうろたえた表情を思い出して、可笑しさに声を出して笑っていた。
“変なやつ…”
逆光になっていたとはいえ、娘の驚いた表情と声と声は、今でもはっきり覚えている。娘は確かにレイのことを知っている様子だった。でも漠然とだけれど、あの晩出逢った娘は、毎日彼を煩わせている娘達とは何か違う気がする…。何とは言えないが…。
そんな想いが浮かんできて、レイは自分でも驚いた。
“バカな…? 時分がそんなことに興味を持つなんてありえない。あんな夜中にまともな娘が出歩くはずがないのだ。きっとオレは森の妖精にでもからかわれただけだ…。それよりも今は現実を考えなければ…。
逃れようのない見えない呪縛に、全身を絡めとられたような気がして…レイは息苦しさに大きく息を吐いた。
リーザの想い
リーザは夜遅く、喉の渇きを覚えて寝台から起き上がると、水を飲もうと向かった廊下の端で、灯りのもれる両親の寝室から聞こえてくる声に思わず足を止めた。
「それで、あなたはどうなさったの・・・?」
「もちろん、立場上きつく諌めはしたが…だがもうレイの優位は誰も止められない…。わたしも子供の頃からあいつを見て来たんだ。アリオンの血統の素晴らしさは目を見張るばかりだ。レイは狩りに出るようになってまだ数えるほどだが、力だけではなく…知恵も持っている。劉たちの手助けがあったとはいえ、あの水牛をたった三人で倒すとはな…。さすがのわたしも度肝を抜かれた…」
「まあ…!」
レイたちが水牛を倒したという噂は本当だったのだ。何日か前の夕方、家に戻る途中の道で、リーザと同い年の娘たちが興奮して話していたのを思い出した。
「おかげでこの二、三日は狩りに出る必要もなくなった。
「それはいいことなんでしょう…?」
「もちろんだ。ずば抜けて優秀な狩人が増えれば、それだけ村は潤う。生活は安定するし、村の将来は明るくなる…」
「ではあなたは何をそんなに心配していらっしゃるの…?」
マイラの抑揚のない声が響く…。
「レイのアリオンとしての成長は止まることを知らない…。あいつはじきにトルンの域を超える。いや、もう超えているというべきか…? 我々トルンの器にあいつをはめるのはかえって酷というものだ。あいつはすでにリーダーの器だ。誰も文句を言うものはいないだろう。ジェイドさまもそう遠くない未来に、長の座をあいつに譲るつもりでおられる…」
「まあ、そうなったらどんなにライザさまは喜ばれるかしら…?」
「そうだな…レイがジェイドさまのあとを継ぐことを心待ちにしていらっしゃったからな…」
ロウブもマイラも、すぐ近くでリーザが聞いていることも知らず、すっかりリラックスして話に夢中になっている。
「あなたはどうなの? わたしはあなたの跡取りになる息子を産むことは出来なかったから、心のこりに思っていらっしゃる…?」
「まさか…私たちにはリーザがいるじゃないか? あの子が選ぶ相手が私の後継者になる…」
「そうね…でもあなた、リーザが誰を想い続けているか、御存知なの…?」
母の言葉を聞いた時、リーザの胸に鋭い痛みが走る。
「知っている…。レイだろう? 幼い頃に森でレイにたすけられたと言っていたな…?」
「ええ…それからずっとあの子はレイさまに夢中なのですよ」
「誰に恋しようと自由だからな…でも村の娘のほとんどはレイに夢中だ」
そこでロウブが大きく息を吐くのがわかって、リーザは思わず廊下の端の暗がりで息を潜めた。
「だが、あいつは年頃になっても娘たちにはまったく興味を示さない…。ライザさまも気を揉んでいらっしゃることだろう…。アリオンは孤高の狼だ。身近な者にさえ決してその心を明かさないその性質は、あいつの中にも多く残されている。それに群れの中で生活することは、あいつにとっては苦痛でしかないのだ…」
「でもあなた、それではレイさまは…?」
「ああ…いつか村を離れる日が来るかもしれないな…」
「そんな…」
マイラは小さな叫び声をあげた。
「もちろん、そんなことは思っていても誰も口には出さない…。私だってあいつにはいつまでもこの村にいてほしいと思っているさ。でも立派に成人したあいつを鎖につないでおくわけにもいかないだろう…? 神の御心に従う他はないのだ。ジェイドさまやライザさまの気持ちを思うと辛いがな…」
「あなた…」
そこまで聞いてリーザはその場を離れた。自分の部屋に戻ってもさっきから早鐘のようにリーザの心臓は、激しく鳴り響いている。
“レイはいつかこの村を出て行く…”
その言葉だけが、深くリーザの胸を抉った。
“だからレイさまは女の子に見向きもしないのね…? いつか別れるとわかっているからあんなに無関心でいられるんだわ…これから先、捨てていかなければならない者に情けをかける人なんていないもの…”
不意に胸を締め付けられるような苦い想いが浮かんできて、胸が痛くなった。でもそれと同じくらいの、溢れるほどの愛しさもリーザの胸を満たしている。
たぶん、リーザが自分から行動を起こさないかぎり、レイと自分との関係は永遠に代わることはないだろう…。けれど、それがわかっていても今のリーザに何が出来るだろう…?
先日ランに教えられて行ったおまじないだって、結局は最後まで成し遂げることさえ出来なかった。
でも…でも…レイがいつか完全にリーザの目の前からいなくなってしまう…そう聞かされても、彼を愛することを止められないのは、自分の心の弱さなのだろうか…?
ふと見上げた寝室の窓からのぞく明るい月を見つめながら…リーザは想った。
しばらくは狩りは休みと決まっていたから、レイはフラフラとあてもなく野山を歩き回った。屋敷にも居たくなかったし、村の中で娘たちに出会うのもたまらなく憂鬱だった。それでもどこをどう歩いたのか…気が付けばジェイドの屋敷の…母ライザの居室の前に立っていた。
「誰…?」
ドアの外に人の気配を感じて、ライザは部屋の中から声をかける。
「母上…」
少し躊躇ったあとで、レイはドアの取っ手に力をこめてゆっくりと引いた。昔から何か悩み事があると、必ず自然と母の元へ足が向いてしまう…。母の優しい膝にもたれていると、どんな嫌なことでもすぐ忘れてしまう…そんな気がしていた。
未だにそんな想いに捉われている自分がひどく滑稽に思えてレイは苦笑した。
「おかげんはいかがですか…? 少し前から体調を崩されていると聞きましたが…?」
レイは穏やかな笑みを浮かべて、母の臥せっている枕元に歩み寄った。
「レイなの…?」
「いけませんよ、寝ていなければ…」
レイの姿を見て身を起こしたライザをレイは押し留めた。
「いいのよ…やっとあなたの顔が見られたのですもの…嬉しくて病気のことなんて忘れてしまったわ。ねえ、もっとそばに来てよく顔を見せてちょうだい…」
ライザは本当に嬉しそうに笑っている。レイは身をかがめると、細く痩せた母の身体を優しく抱きしめた。
「レイ、何か悩みがあるのね…? 」
少し蒼ざめたレイの表情にライザは何かを感じたのだろう…。レイの頬に手を伸ばして、心配そうにその瞳を覗き込んだ。
「いえ、何もありませんよ…」
そう言って笑ったものの…母に何もかも見透かされたようで、思わずレイは赤くなってうつむく。
本当に昔からこの人はいつもそうだとレイは想った。実際に人の心がよくわかる人なのだ。何も言わなくても…すべてわかってくれる。まるで春の陽だまりのような暖かさを持っていて、そっと包み込んでくれるのだ。
「あのことをお父さまから聞いたのね…? 」
「……」
レイは黙ってうなずいた。
「最初は私も反対したのよ…。あなたには早すぎると…。誰にだって時期というものがあるわ。あなたと同い年の若者の多くは恋をしているかもしれないけど、あなたにはまだもう少し時間が必要だと思ったから…」
「恋…ですか…?」
レイは小さく息をのんで、ライザの枕元のイスに座りなおすと、真っ直ぐ母の黒い瞳を見つめた。
「そう、恋よ…。私がジェイドと出会って恋に堕ちたのは17の時だったわ。ジェイドは18で…。そう、今のあなたと同じ年ね…。私は風に飛んだハンカチを探していて…高い木の枝に引っかかっていたハンカチを、背の高い彼が軽々と取ってくれたの…。私はすぐに彼に恋をしたわ…。もちろん、彼も同じ。素晴らしい出会いだったわ。それから先は…私たちは、ずっと一緒にいたの、今もね…」
ライザは少女のように頬を染めながら…ジェイドとともに過ごして来た長い年月を思い出していたのだろう…。穏やかに微笑んで…遠くを彷徨っていた瞳が、またレイの瞳を真っ直ぐ捉えた。
「レイ…今はまだでも、いつかあなたにも訪れるはずなのよ。その時が…。お父様たちはそれまで待つつもりはなさそうだけれど…」
ライザは伏目がちに小さく息を吐く。
「レイ、あなたは私たちに無いものを持ちすぎているわ。誰も皆心配なのよ。あなたは私たちトルンとは違いすぎるから…。もちろん、それはアリオンであるあなた自身が一番よくわかっていることでしょう…? でもね、生まれはアリオンでも…育ったのはこのトルンなの。かけがえの無い私たちの息子であることに何の疑いもないわ。レイ、アリオンは孤独な一族だと聞いているわ。あなたの中にもその血は濃く受け継がれていることでしょう…。あなたが村の中に溶け込めずに苦しんでいることも、私もジェイドも知っているのよ…」
ライザの言葉に、レイは胸の奥が熱くなるのを感じた。
「このままいくと…あなたはいつかどこか行ってしまうのでは…? みんなはそう考えているの。だから今あなたに花嫁を迎えることで、あなたにこの村にずっと居てほしいと絵に思っているのよ。あなたを愛しているわ…レイ。あの早春の朝、あなたが私たちのところへやって来たその時から…あなたは私とジェイドのかけがえの無い宝物なの…。私たちはあなたを失いたくない…」
ライザの声はだんだんか細くなって、最後には泣き声に紛れて聞き取ることはできなかった。そしてそのまま、レイの胸に泣き崩れてしまう…。その細い肩を抱きながら、レイはただ黙って今までの自分に想いを馳せる。
幼い頃から同い年の子供に交じって遊んでいたが、その容姿や行動に至るまで、ことごとく仲間との違いを思い知らされてきた。年頃になると、力の差はさらにはっきり現れてきて、同い年はおろか少し年上の若者でさえ、力比べでは誰一人として彼に叶うものは居なくなった。
そうなると、自然に仲間達も彼を避けるようになる。力の差がありすぎて、気軽に声を掛けられないのだ。
日を追うごとに日々の生活の中で、レイは孤独を感じることも多くなり、寡黙な青年へと代わっていった。昨日までは一緒に騒ぎふざけあっていた仲間から、おそれと羨望の眼差しで見つめられることに、レイは耐え難い心の痛みを感じていた。
“こんな力など要らない…! みんなと同じでいい…”
何度そう思ったことか…。しかしレイの心とは裏腹に、さらに背丈も伸び…押さない頃には真っ黒だった神が、肩先までかかる見事な黒銀色に変わる頃には、村人の誰もが彼の中のアリオンを尊敬するようになり、尊敬しながら…畏れた。
“トルンやアリオンがどうしたというんだ。どちらも同じ狼一族ではないか…? それに片方はすでに滅びの運命にある。オレにとってのアリオンなど、何の価値もない…”
そう思いながらも、心の中に湧き上がる不思議な感覚…。何かを打ち破って自由に飛び出したいという強い欲求に、時々呑み込まれそうになる自分がたまらなく怖かった。畏れながらも、いつかはそうなってしまいたいという切なる願いも心の奥底に宿っている。
これから先何があろうと、自分の意志で村を出ることはない…そう言って母を安心させてから、レイはライザの居室を後にした。
“愚かなことをしている…。いったいいつまで自分の心を偽るつもりだ…!? ”
そうつぶやく心の声に呆れながら、レイは自分の館へと急いだ。
“ここへ残るということはつまり…重臣たちのいうとおり、妻を娶り…子を生してこの村に骨を埋めるということだ。そんなことがこのオレに出来るのか…?”
病弱な母を安心させるためとはいえ、心にも無い嘘をついてしまった自分に、レイは深い嫌悪感を覚えた。
そんなことを考えながらふらふら歩いていると、やがて近くの茂みの向こうから何やら男女の争うような尋常でない声が聞こえてくる。
“オレには関係のないことだ…”
そう思ってそのまま行き過ぎようとした時、ちょうど聞こえてきた男の声に妙な聞き覚えがあって、レイは思わず足を止めた。
「やめて…!! もう構わないでって言ったでしょう…!?」
「何でオレじゃあ駄目なんだよぉ…!? オレのほうがよっぽどお前を幸せにしてやるって言っているじゃないか…!? 」
どうやら男のほうが一方的にしつこく迫っているらしい。応える女の声はかなり若々しく、彼女にはその気がないのがこちらにもはっきりとわかるくらい、言葉のひとつひとつにも嫌悪の気持ちがはっきりと現れている。
「嫌っ…! 誰があなたなんて…!!」
「何だと…!! おまえもあのレイに夢中だって言うのかよ…!?」
「関係ないわ! あなたには…」
そのまま行きかけたレイが一歩踏み出した時、そこでまた急に自分の名前が聞こえてきたことに驚いて、声のする方を振り向く…。
するとその瞬間…業を煮やした男のほうがいきなり強行に出たのか、茂みの向こうから突然甲高い女の悲鳴が上がった。
「きゃあ!! 嫌っ! やめて…!」
「せっかくこっちから下手に出てやっているのに、おまえがその気にならないのなら…力ずくでもオレのものにしてやるまでだ!」
そのただならない雰囲気にレイがとっさに振り向いたのと、茂みの奥からひとりの少女が飛び出してきたのはほぼ同時だった。
「……!?」
少女はそこで一瞬立ち止まると、信じられない…というようにレイを見つめた。だがすぐに我に返ると、蒼ざめた頬を引きつらせて…そのまま走り去る。レイもその少女の顔にどこか見覚えがあるような気がして、しばらくその後姿を見つめていたが、やがて少しして…少女のあとを追うようにして、今度はでっぷりと太った体格のいい若者が茂みの中から出てきた。
「……?」
彼は無言で、その場にいるレイを一瞥したあと、罰悪そうにフン…! とはなを鳴らした。
“やっぱりこいつだったか…!”
レイは心の中でつぶやく。彼の名前はヴァント。レイよりは2歳年上の若者で、ジェイドの重臣のひとり、アッサムの息子である。顔一面に大きなニキビを浮き立たせたお世辞にも見映えがいいとはいえない若者だが、父親が重臣のひとりということで、仲間内では一目おかれている。だが性格がわがままで自分勝手なところがあるために、始終まわりの大人たちから諌められているが、本人は一向に応えている様子はない。おまけに太っているから狩りに出でても動きが鈍い。そのくせ大した働きもしないくせに偉そうな態度をするから、表向きはともかく…裏では皆から嫌われていた。
“嫌なやつに会ったな…”
無視して行き過ぎようとしたら、ヴァントの方から口元に愛想笑いを浮かべながら近づいてきた。
「レイじゃないか? 何でおまえがここに居るんだ…?」
ヴァントは間の悪さをごまかすように、ここであったのがいかにも意外と言いたげにつぶやいた。
「さあな…。オレは偶然通りかかっただけだがな…」
レイも不快な気分を隠すこともなく、面倒くさそうに答える。
「フン! おまえのせいでせっかくの獲物を取り逃がしちまったじゃないか…!」
どうやら娘に逃げられたのは、レイが邪魔したせいだと思っているらしい。もともと全然相手にされていなかったうえに、勝手にヴァントが入れあげていただけなのだ。勘違いもはなはだしい。
「おまえにとって女は獲物と同じか…?」
「何だと…!?」
レイの言葉にカッとしたヴァントだが、さすがにレイに歯向かおうとはしない。力でかなわないことは十分わかっているのである。そのかわり、とんでもない嫌味を投げかけてきた。
「いいよな、おまえは…。何もしなくても女は寄ってくるし、おまけに嫁取りの段取りまでしてもらえるんだからな…?」
昼間から酒に酔っているのか、顔も赤く鼻息も荒い…。
“こいつ…! 何でそのこと知っているんだ? そう思ったとき、ヴァントがアッサムの息子であることを思い出して舌打ちする。
「よお、レイ、おまえ連れ合いを持つからには、もう女は知っているんだろうなぁ? どうやったら女がヒィヒィ泣いて喜ぶか、教えてやろうか?」
ヴァントは自分の言葉に興奮したのか、赤ら顔をヘラヘラさせながら、酒臭い息を吹きかけてくる。本当に嫌なやつだ…。
「これ以上オレに用がないなら…さっさと消えろ…!」
さすがのレイもこれには我慢の限界が来た。吐き捨てるように言い放つと、サッとヴァントに背を向けて歩き始めた。
「フン! 言われなくても消えるがな、これだけは言っておく…。おまえが誰を選ぼうが俺の知ったことじゃないが、ロウブの娘のリーザだけはやめておけ! オレが先に目をつけたんだからな…!」
ヴァントはレイの肩越しにそう叫ぶと、ふらつく足を引きずって…またもといた茂みの中へと消えていった。
“ロウブの娘だと…? ではさっきヴァントの毒牙から逃れてきたのは、そのリーザという娘なのか…? しかしあのヴァントに気に入られるなんて、なんとも不運な娘だな…。
ロウブはこのことを知っているのか? まあ、そんなことはオレには関係ないことだ…“
歩きながらレイは、不運なロウブの娘のことを思ったが、今まであのロウブに娘がいたことさえ知らなかったことに自身驚いていた。
まさかその娘が、いつかの満月の晩にアクリールの花の咲く丘で出会った娘だとは、さすがのレイも知る由もない…。
レイの結婚が村の会議で決定されてから、あっという間にレイが村の娘の中から花嫁を選ぶという噂は村中に広まった。
レイに夢中になっている娘たちはみな有頂天になって、自分こそが彼の花嫁になるのだと意気込んでいる。けれどもその中でリーザだけはひどく塞ぎこんでいた。
「あなた、この頃リーザの様子がおかしいんですよ。急に塞ぎこんでしまって…。何か思い詰めているようなんですけど、いくら聞いても何でもないっていうだけで…心配だわ」
リーザの母、マイラが心配そうにろう部の顔を見つめた。
「フ…ム。またレイの事を考えているのではないか? 誰にでも均等にチャンスはあるとはいえ、選ばれるのはひとりと決まっている。こればかりはいくら私でもどうしてやることも出来ないからな…」
さすがのロウブも困り顔である。幼い頃からリーザがレイに憧れてきたことはロウブも知っていた。その願いを叶えてやりたいと思うものの…若い男女の秘め事に口を挟むようなことは、たとえロウブといえども出来ない。まして相手はあのレイである。年頃になって諦めて、それなりの相手を選んでくれればいいと思っていた。それが今回の嫁取り騒ぎである。願ってもないチャンスだが、もし選ばれなければきっと今以上に傷つくに違いない…。
「どうしたものか…?」
二人が思案に暮れていると、しばらくずっと籠っていたリーザが奥から姿を現した。
「リーザ…?」
ずっと泣いていたのだろう。両目は赤く泣き腫らして…頬にはいく筋もの涙のあとがある。
「ランのところへ行ってくる…」
ポツリとそうつぶやいて、リーザは家を出て行った。その後ろ姿を見つめながら、二人はその姿の痛々しさに声を掛けることも出来なかった。
リーザの災難
しばらくは狩りは休みと決まっていたから、レイはフラフラとあてもなく野山を歩き回った。屋敷にも居たくなかったし、村の中で娘たちに出会うのもたまらなく憂鬱だった。それでもどこをどう歩いたのか…気が付けばジェイドの屋敷の…母ライザの居室の前に立っていた。
「誰…?」
ドアの外に人の気配を感じて、ライザは部屋の中から声をかける。
「母上…」
少し躊躇ったあとで、レイはドアの取っ手に力をこめてゆっくりと引いた。昔から何か悩み事があると、必ず自然と母の元へ足が向いてしまう…。母の優しい膝にもたれていると、どんな嫌なことでもすぐ忘れてしまう…そんな気がしていた。
未だにそんな想いに捉われている自分がひどく滑稽に思えてレイは苦笑した。
「おかげんはいかがですか…? 少し前から体調を崩されていると聞きましたが…?」
レイは穏やかな笑みを浮かべて、母の臥せっている枕元に歩み寄った。
「レイなの…?」
「いけませんよ、寝ていなければ…」
レイの姿を見て身を起こしたライザをレイは押し留めた。
「いいのよ…やっとあなたの顔が見られたのですもの…嬉しくて病気のことなんて忘れてしまったわ。ねえ、もっとそばに来てよく顔を見せてちょうだい…」
ライザは本当に嬉しそうに笑っている。レイは身をかがめると、細く痩せた母の身体を優しく抱きしめた。
「レイ、何か悩みがあるのね…? 」
少し蒼ざめたレイの表情にライザは何かを感じたのだろう…。レイの頬に手を伸ばして、心配そうにその瞳を覗き込んだ。
「いえ、何もありませんよ…」
そう言って笑ったものの…母に何もかも見透かされたようで、思わずレイは赤くなってうつむく。
本当に昔からこの人はいつもそうだとレイは想った。実際に人の心がよくわかる人なのだ。何も言わなくても…すべてわかってくれる。まるで春の陽だまりのような暖かさを持っていて、そっと包み込んでくれるのだ。
「あのことをお父さまから聞いたのね…? 」
「……」
レイは黙ってうなずいた。
「最初は私も反対したのよ…。あなたには早すぎると…。誰にだって時期というものがあるわ。あなたと同い年の若者の多くは恋をしているかもしれないけど、あなたにはまだもう少し時間が必要だと思ったから…」
「恋…ですか…?」
レイは小さく息をのんで、ライザの枕元のイスに座りなおすと、真っ直ぐ母の黒い瞳を見つめた。
「そう、恋よ…。私がジェイドと出会って恋に堕ちたのは17の時だったわ。ジェイドは18で…。そう、今のあなたと同じ年ね…。私は風に飛んだハンカチを探していて…高い木の枝に引っかかっていたハンカチを、背の高い彼が軽々と取ってくれたの…。私はすぐに彼に恋をしたわ…。もちろん、彼も同じ。素晴らしい出会いだったわ。それから先は…私たちは、ずっと一緒にいたの、今もね…」
ライザは少女のように頬を染めながら…ジェイドとともに過ごして来た長い年月を思い出していたのだろう…。穏やかに微笑んで…遠くを彷徨っていた瞳が、またレイの瞳を真っ直ぐ捉えた。
「レイ…今はまだでも、いつかあなたにも訪れるはずなのよ。その時が…。お父様たちはそれまで待つつもりはなさそうだけれど…」
ライザは伏目がちに小さく息を吐く。
「レイ、あなたは私たちに無いものを持ちすぎているわ。誰も皆心配なのよ。あなたは私たちトルンとは違いすぎるから…。もちろん、それはアリオンであるあなた自身が一番よくわかっていることでしょう…? でもね、生まれはアリオンでも…育ったのはこのトルンなの。かけがえの無い私たちの息子であることに何の疑いもないわ。レイ、アリオンは孤独な一族だと聞いているわ。あなたの中にもその血は濃く受け継がれていることでしょう…。あなたが村の中に溶け込めずに苦しんでいることも、私もジェイドも知っているのよ…」
ライザの言葉に、レイは胸の奥が熱くなるのを感じた。
「このままいくと…あなたはいつかどこか行ってしまうのでは…? みんなはそう考えているの。だから今あなたに花嫁を迎えることで、あなたにこの村にずっと居てほしいと絵に思っているのよ。あなたを愛しているわ…レイ。あの早春の朝、あなたが私たちのところへやって来たその時から…あなたは私とジェイドのかけがえの無い宝物なの…。私たちはあなたを失いたくない…」
ライザの声はだんだんか細くなって、最後には泣き声に紛れて聞き取ることはできなかった。そしてそのまま、レイの胸に泣き崩れてしまう…。その細い肩を抱きながら、レイはただ黙って今までの自分に想いを馳せる。
幼い頃から同い年の子供に交じって遊んでいたが、その容姿や行動に至るまで、ことごとく仲間との違いを思い知らされてきた。年頃になると、力の差はさらにはっきり現れてきて、同い年はおろか少し年上の若者でさえ、力比べでは誰一人として彼に叶うものは居なくなった。
そうなると、自然に仲間達も彼を避けるようになる。力の差がありすぎて、気軽に声を掛けられないのだ。
日を追うごとに日々の生活の中で、レイは孤独を感じることも多くなり、寡黙な青年へと代わっていった。昨日までは一緒に騒ぎふざけあっていた仲間から、おそれと羨望の眼差しで見つめられることに、レイは耐え難い心の痛みを感じていた。
“こんな力など要らない…! みんなと同じでいい…”
何度そう思ったことか…。しかしレイの心とは裏腹に、さらに背丈も伸び…押さない頃には真っ黒だった神が、肩先までかかる見事な黒銀色に変わる頃には、村人の誰もが彼の中のアリオンを尊敬するようになり、尊敬しながら…畏れた。
“トルンやアリオンがどうしたというんだ。どちらも同じ狼一族ではないか…? それに片方はすでに滅びの運命にある。オレにとってのアリオンなど、何の価値もない…”
そう思いながらも、心の中に湧き上がる不思議な感覚…。何かを打ち破って自由に飛び出したいという強い欲求に、時々呑み込まれそうになる自分がたまらなく怖かった。畏れながらも、いつかはそうなってしまいたいという切なる願いも心の奥底に宿っている。
これから先何があろうと、自分の意志で村を出ることはない…そう言って母を安心させてから、レイはライザの居室を後にした。
“愚かなことをしている…。いったいいつまで自分の心を偽るつもりだ…!? ”
そうつぶやく心の声に呆れながら、レイは自分の館へと急いだ。
“ここへ残るということはつまり…重臣たちのいうとおり、妻を娶り…子を生してこの村に骨を埋めるということだ。そんなことがこのオレに出来るのか…?”
病弱な母を安心させるためとはいえ、心にも無い嘘をついてしまった自分に、レイは深い嫌悪感を覚えた。
そんなことを考えながらふらふら歩いていると、やがて近くの茂みの向こうから何やら男女の争うような尋常でない声が聞こえてくる。
“オレには関係のないことだ…”
そう思ってそのまま行き過ぎようとした時、ちょうど聞こえてきた男の声に妙な聞き覚えがあって、レイは思わず足を止めた。
「やめて…!! もう構わないでって言ったでしょう…!?」
「何でオレじゃあ駄目なんだよぉ…!? オレのほうがよっぽどお前を幸せにしてやるって言っているじゃないか…!? 」
どうやら男のほうが一方的にしつこく迫っているらしい。応える女の声はかなり若々しく、彼女にはその気がないのがこちらにもはっきりとわかるくらい、言葉のひとつひとつにも嫌悪の気持ちがはっきりと現れている。
「嫌っ…! 誰があなたなんて…!!」
「何だと…!! おまえもあのレイに夢中だって言うのかよ…!?」
「関係ないわ! あなたには…」
そのまま行きかけたレイが一歩踏み出した時、そこでまた急に自分の名前が聞こえてきたことに驚いて、声のする方を振り向く…。
するとその瞬間…業を煮やした男のほうがいきなり強行に出たのか、茂みの向こうから突然甲高い女の悲鳴が上がった。
「きゃあ!! 嫌っ! やめて…!」
「せっかくこっちから下手に出てやっているのに、おまえがその気にならないのなら…力ずくでもオレのものにしてやるまでだ!」
そのただならない雰囲気にレイがとっさに振り向いたのと、茂みの奥からひとりの少女が飛び出してきたのはほぼ同時だった。
「……!?」
少女はそこで一瞬立ち止まると、信じられない…というようにレイを見つめた。だがすぐに我に返ると、蒼ざめた頬を引きつらせて…そのまま走り去る。レイもその少女の顔にどこか見覚えがあるような気がして、しばらくその後姿を見つめていたが、やがて少しして…少女のあとを追うようにして、今度はでっぷりと太った体格のいい若者が茂みの中から出てきた。
「……?」
彼は無言で、その場にいるレイを一瞥したあと、罰悪そうにフン…! とはなを鳴らした。
“やっぱりこいつだったか…!”
レイは心の中でつぶやく。彼の名前はヴァント。レイよりは2歳年上の若者で、ジェイドの重臣のひとり、アッサムの息子である。顔一面に大きなニキビを浮き立たせたお世辞にも見映えがいいとはいえない若者だが、父親が重臣のひとりということで、仲間内では一目おかれている。だが性格がわがままで自分勝手なところがあるために、始終まわりの大人たちから諌められているが、本人は一向に応えている様子はない。おまけに太っているから狩りに出でても動きが鈍い。そのくせ大した働きもしないくせに偉そうな態度をするから、表向きはともかく…裏では皆から嫌われていた。
“嫌なやつに会ったな…”
無視して行き過ぎようとしたら、ヴァントの方から口元に愛想笑いを浮かべながら近づいてきた。
「レイじゃないか? 何でおまえがここに居るんだ…?」
ヴァントは間の悪さをごまかすように、ここであったのがいかにも意外と言いたげにつぶやいた。
「さあな…。オレは偶然通りかかっただけだがな…」
レイも不快な気分を隠すこともなく、面倒くさそうに答える。
「フン! おまえのせいでせっかくの獲物を取り逃がしちまったじゃないか…!」
どうやら娘に逃げられたのは、レイが邪魔したせいだと思っているらしい。もともと全然相手にされていなかったうえに、勝手にヴァントが入れあげていただけなのだ。勘違いもはなはだしい。
「おまえにとって女は獲物と同じか…?」
「何だと…!?」
レイの言葉にカッとしたヴァントだが、さすがにレイに歯向かおうとはしない。力でかなわないことは十分わかっているのである。そのかわり、とんでもない嫌味を投げかけてきた。
「いいよな、おまえは…。何もしなくても女は寄ってくるし、おまけに嫁取りの段取りまでしてもらえるんだからな…?」
昼間から酒に酔っているのか、顔も赤く鼻息も荒い…。
“こいつ…! 何でそのこと知っているんだ? そう思ったとき、ヴァントがアッサムの息子であることを思い出して舌打ちする。
「よお、レイ、おまえ連れ合いを持つからには、もう女は知っているんだろうなぁ? どうやったら女がヒィヒィ泣いて喜ぶか、教えてやろうか?」
ヴァントは自分の言葉に興奮したのか、赤ら顔をヘラヘラさせながら、酒臭い息を吹きかけてくる。本当に嫌なやつだ…。
「これ以上オレに用がないなら…さっさと消えろ…!」
さすがのレイもこれには我慢の限界が来た。吐き捨てるように言い放つと、サッとヴァントに背を向けて歩き始めた。
「フン! 言われなくても消えるがな、これだけは言っておく…。おまえが誰を選ぼうが俺の知ったことじゃないが、ロウブの娘のリーザだけはやめておけ! オレが先に目をつけたんだからな…!」
ヴァントはレイの肩越しにそう叫ぶと、ふらつく足を引きずって…またもといた茂みの中へと消えていった。
“ロウブの娘だと…? ではさっきヴァントの毒牙から逃れてきたのは、そのリーザという娘なのか…? しかしあのヴァントに気に入られるなんて、なんとも不運な娘だな…。
ロウブはこのことを知っているのか? まあ、そんなことはオレには関係ないことだ…“
歩きながらレイは、不運なロウブの娘のことを思ったが、今まであのロウブに娘がいたことさえ知らなかったことに自身驚いていた。
まさかその娘が、いつかの満月の晩にアクリールの花の咲く丘で出会った娘だとは、さすがのレイも知る由もない…。
花嫁候補 1
レイの結婚が村の会議で決定されてから、あっという間にレイが村の娘の中から花嫁を選ぶという噂は村中に広まった。
レイに夢中になっている娘たちはみな有頂天になって、自分こそが彼の花嫁になるのだと意気込んでいる。けれどもその中でリーザだけはひどく塞ぎこんでいた。
「あなた、この頃リーザの様子がおかしいんですよ。急に塞ぎこんでしまって…。何か思い詰めているようなんですけど、いくら聞いても何でもないっていうだけで…心配だわ」
リーザの母、マイラが心配そうにろう部の顔を見つめた。
「フ…ム。またレイの事を考えているのではないか? 誰にでも均等にチャンスはあるとはいえ、選ばれるのはひとりと決まっている。こればかりはいくら私でもどうしてやることも出来ないからな…」
さすがのロウブも困り顔である。幼い頃からリーザがレイに憧れてきたことはロウブも知っていた。その願いを叶えてやりたいと思うものの…若い男女の秘め事に口を挟むようなことは、たとえロウブといえども出来ない。まして相手はあのレイである。年頃になって諦めて、それなりの相手を選んでくれればいいと思っていた。それが今回の嫁取り騒ぎである。願ってもないチャンスだが、もし選ばれなければきっと今以上に傷つくに違いない…。
「どうしたものか…?」
二人が思案に暮れていると、しばらくずっと籠っていたリーザが奥から姿を現した。
「リーザ…?」
ずっと泣いていたのだろう。両目は赤く泣き腫らして…頬にはいく筋もの涙のあとがある。
「ランのところへ行ってくる…」
ポツリとそうつぶやいて、リーザは家を出て行った。その後ろ姿を見つめながら、二人はその姿の痛々しさに声を掛けることも出来なかった。
リーザはこの数日、ずっとひとつの想いが頭の中にぐるぐると駆け巡り、繰り返し繰り返し浮かんでくる否定的な答えを、自分でも打ち消せずに苦しんでいた。
“もうダメかもしれない…。あのヴァントに言い寄られていたところを、よりによってレイさまに見られてしまうなんて…。きっとあの人はもうわたしのことを当たり前には見てくれないに違いないわ…”
絶望的な言葉だけが次々と浮かんでくる。するとまた涙が溢れてきて…もうリーザは時分がどう歩いているのかさえわからなかった。
「リーザ…?」
誰かに名前を呼ばれて振り返ると、そこに立っているランの姿を見た時、初めてリーザは自分がいつの間にかランの家の前に来ていたことに気が付いた。
「ラン…?」
リーザは大声で泣きながら、ランの胸に泣き崩れた。 晩春の燃え立つような夕日が、山脈の山裾を舐めるように沈んでいく…。ランの住まいになっている家の、西の明り取りの窓にも、春の名残り陽が長い影をおとしていた。
「どう…? 少しは落ち着いた…?」
ひとしきり激しく泣いて、やがてリーザの声がすすり泣きに変わる頃、ランは優しくリーザに語り掛ける。リーザもこくりとうなずいて、涙を手で拭うとやっとその顔を上げた。
「何があったの? リーザの様子がおかしいって、おばさんたちが心配していたから、気になってたいのよ…」
「だって…」
ひどく泣いたせいで、リーザの目は赤く泣き腫らし、声は小さく擦れている。それでも途中何度もつまりながら、この前からの出来事…満月の夜のレイとの出会いから、ヴァントの無理な求愛を、偶然レイに見られてしまったことなどを話していった。
最初はじっと黙って聞いていたランも、ヴァントの話になると自分のことのように怒りを露わにしてヴァントを罵った。
「なんていう奴なの…!! 許せない! ロウブさまに言って懲らしめてもらったら…? 」
「ダメよ、そんなことしたら、レイさまに見られたことがわかっちゃう…それに、きっとレイさまは私のことを変に思っているわ…」
そこでまた思い出したようにリーザは泣き始めた。
「もう…」
ランも言葉なく、もうひとつ大きく溜息をついた。雪解けの頃からヴァントが、リーザに何かとちょっかいを出してきていたのは知っていた。多くの若者たちが皆そうだったし、たくさんの娘たちがまわりにいる中での他愛もない悪ふざけだと思っていたから、それほど気にもしていなかったのだ…。
それが、自分の思い通りにならないと見て力ずくの行動に出るなんて…!
それにしても、もしそこにレイが通りかからなかったら、リーザはいったいどうなっていただろう…? どんな形であれ、レイに印象付けることは出来たはずだから、結果的にはそれほど悪いことではないのでは…?
「でもどうしてそんなところに行ったの? あれほどひとりにならないでって言ったでしょう?」
「髪飾りを探していたの。父さんにもらった大切なものだったから…」
「ああ、あの水晶の飾りの付いた…?」
「そう…」
それなら知っているとランはうなずいた。成人したお祝いに、父のロウブからもらったと言って、リーザはいつも大切に身につけていた。
「でもあれには名前が彫ってあるって言わなかった?」
「ううん、あの名前はわたしが子供の頃の名前だもの…それにそう呼んでいたのは、父さんだけだもの…」
「そっかぁ…じゃあ、誰かが拾ったとしてもそれがリーザのものだなんてわからないわね? でも元気出して! リーザ。レイさまはあなたのことを変な娘だとは思わないわ。悪いのはヴァントだもの…。あなたはレイさまに救われたのよ。かれが現れなければ、今ごろどうなっていたかしら…? ね…? おまじないは効いたでしょう? 」
そう言ってランはリーザの顔を覗き込んで悪戯っぽく笑った。
「ううん…だめよ。結局あのおまじないは最後までできなかったんだもの…」
「そうじゃないわ、リーザ。おまじないは心の中に相手を思うときからもう始まっているのよ。だからあの晩、あなたが行った丘にレイさまがいたのも運命なの…一瞬でもレイさまに触れられたのでしょう…? タルラたちが聞いたら卒倒しちゃうわよ。だきついちゃったんだから…! 」
その瞬間に、あの晩の記憶と一緒に感じていたときめきが一気に戻ってきて、リーザは真っ赤になる。転んだ弾みとはいえ、お互いの頬が触れ合うくらい近くに寄ってしまった。一瞬触れたレイの胸は、広くてとても温かだった。手のひらに感じた彼の逞しい鼓動が…今もしっかりとこの手に残っている…。
月明かりに照らされていたとはいえ、ちょうど逆光でレイにはリーザの顔は見えなかったはずである。
「ねえ、信じようよ、リーザ。奇跡をさ…」
「うん…」
そこでやっと、リーザは笑顔の戻った。
“あなたが好きです…”
誰かが耳元でささやきながら…白く細い腕をレイの首に絡めてくる…。・
“誰だ…?”
そう叫びたくても、上手く言葉がならない…。相手の顔は暗くて見えないのに、甘い髪の香りと妙に柔らかい肌の感触だけが伝わってくる。
そんな心地よい感覚の中で、やがて身体の中心を突き上げるような衝動に、レイはピクッとして飛び起きた。
“やっぱり夢か…!? ”
あたりを見渡せば、静寂に満ちた暗闇があるだけである。
この頃…決まって毎晩同じ夢を見るようになった。誰かわからない相手に抱きしめられる夢…甘く切ない思いだけがひしひしと伝わってくる。彼はどうしていいかわからないまま…身動きひとつ出来ないで、やがて目覚めるという繰り返し…。自分でも変だと思う…。
いつかの晩…リンという名前の娘に出会ってからかもしれない…。倒れてきた娘を抱きとめた時感じた甘い香りと…肌の柔らかさが、未だに時々不意に蘇ってはレイを戸惑わせる…。
レイだって若く健康な雄である。精神では拒絶していても、身体は正直なのだ。その証拠に目覚めたあとで、自分の身体の一部が妙に熱くいきり立っているのを、彼は戸惑いながらも苦々しく思っていた。
その日はいつになく獲物の量も多かったので、大人たちはみな上機嫌だった。いつかリュウが予想したとおり、レイたちがしでかしたあの事件から、レイとリュウは二度と同じグループで狩りをすることはなかった。レイもあれからすぐリーダーに昇格したものの…リーダーという立場が、レイにとって前よりもっと面倒であることを学ぶことになる。
前は多少の欲求不満は感じても、ただグループのリーダーの指示どおりに動くだけでよかった。だがリーダーになった今は、他の仲間を自分で動かさなければならない。ただでさえ思い通りに動かない連中を相手にしながら、それでも結果を出さなければならないから、仲間が失敗してもそれをそのまま受け入れられないレイは、結局その後始末をすべて自分自身でする羽目になる。
結果的にレイのグループの狩りの成功率は常に100パーセントだったが…。レイは前よりも何倍のエネルギーを使わなければならなかった。
いつもの祝宴の中、レイたち若者も宴の片隅に陣を取って仲間同士酒を酌み交わしながら…賑やかに互いの労をねぎらいあっていた。
「すごかったよなあ…? あの水牛の群れ、いつかあんなのをたおせたらなあ…」
「バカ言え! 下手に突っ込んでみろ、踏み潰されて一貫の終わりだぜ…!」
彼らは口々に今日の狩りの感想を述べ合って騒いでいる。もう何度も狩りに出でている者、そうでない者と、その経験や働きによって、自然と彼らの座る位置も決まってくる。 当然今年成人した若者の中では、レイが一番中心に近いところに位置していた。今日の狩りでもレイは並みの大人の3倍、年上の若者でも数人がかりでしか倒せない獲物を彼一人で易々と仕留めていく…。
しかしまわりが皆はしゃぐ中、レイだけはひとり黙々と杯を傾けていた。どうも昔からこういう賑やかな堰は苦手だった。何度経験してもこの居心地の悪さだけはなれることが出来ない…。
「よお、レイ…元気か? 顔を合わすのもあの件以来だな?」
不意にそう言って隣に腰を下ろす若者がいる。その顔を見て思わずレイは微笑む。従兄のリュウだった。彼とこうして顔を合わすのは、いつか一緒に水牛を倒して以来だった。
「相変わらず無愛想な奴だな、ライザさまが嘆くわけだ。これでもう少し愛想がよければ、おまえはもっとモテるぞ!」
「バカなことを…」
酒を酌み交わしながら、冗談交じりに昔話にはなを咲かせれば、つかの間だが憂鬱を紛らわせることが出来る。幼馴染みで従兄という気安さを抜きにしても、リュウの人柄は信頼にたるものだった。普段は無口で無愛想なレイも、この気さくな青年だけには心を開くことが出来た。
もっともレイが成人するまでは、生活の場が違うこともあって、日常ではほとんど顔を合わす機会さえない二人だったが…。
「オレはうれしいよ。またおまえと一緒に駆け回れて…。この前はちょっとやりすぎたがな…。でももうおまえには叶わないな、狩りでも何でも…」
「リュウ…」
レイはこの年上の従兄の顔をじっと見つめた。おまえまで…? そんな気持ちが自然と現れていたのかもしれない…。リュウは慌てて言い直した。
「オレはおまえの力を認めたうえで言ってるんだ。お前ならいつか必ず村の最高のリーダーになれる。そうなった時、おまえのそばで、一番におまえを助けるのはオレだからな…!」
「リュウ…」
レイは胸が熱くなるのを感じた。やはりリュウは他の奴らとは違う。もの心つく頃から一緒に遊び、過ごした仲間なのだ。
「でもその前におまえも男にならないとな…?」
「ぶ…!!」
いきなり背中を叩かれて、レイは思わずのんでいた酒を吹き出して激しくむせる。
「悪ぃ…! 悪ぃ…!」
激しく咳き込みながらも、リュウの存在がたまらなく嬉しかった。
「ところで、おまえ…もう相手は決まっているのか…?」
ひとしきり笑った後で、今度は興味深かげに聞いてくる。たぶん、二ヵ月後に迫っているレイの花嫁選びのことを言っているのだろう…。
「いや…」
「いないのか、誰も…? 気になる娘とか…?」
「いない…誰も…」
そっけなくレイも答える。別に隠すつもりはなかった。現実にこれといって思い浮かぶ娘がいないだけなのだ。ただあの“リン”という名前の娘を除いては…。
「呆れた奴だな…? それでいて、一生連れ添う女を選ぼうっていうんだから、信じられないね…」
リュウは本当に呆れたような顔をして、盃の酒を一気に飲み干した。彼に何と言われようと、仕方がない。いないものはいないのだから…。
「じゃあ、オレが教えてやる。タルラは村一番の美人だが、ちょっとわがままだ。ジェーンはグラマーだけど、あれは年取ったら絶対太る性質だな。その証拠に母親はすげーデブだ。それに…」
「もういい…おまえにとっていい女は、ランだけじゃないのか?」
「当たり前だ。でもランは止めとけ…もう男がいる…」
「バカ…!」
そんな悪ふざけもリュウとなら自然に出来る。ついでに心の中で気になっていたこともリュウにぶつけてみた。
「なあ…? この村にリンという名前の娘はいるか…?」
「リンだって…!? 聞いたことないな…。この村の娘に間違いないのか?」
「さあ、わからない…」
「何だ…。おまえにもそれなりの心当たりがあったってことか…? おれはマジで心配していたんだ。おまえは女に興味がないんじゃないかってさ…。」
「そんなんじゃない…!」
レイはムキになって否定するものの、内心は落胆を隠せない。
“この村の娘じゃなかったのか…? そうだろうな、あれは幻だ。現実であるはずがない…。ばかげたことだ…”
妙な期待を抱いていた自分に半ば呆れながら…レイは想いを断ち切るように、手にした盃を一気にあおった。
「レイ、こっちに来て一緒に飲まないか…?」
そこで奥の重臣たちの席から声がかかった。リュウを見れば、
“行けよ…”
そう目配せしている。渋渋レイは呼ばれた方へ座を移した。
重臣たちの席は、皆よりは一段高いところにある。中心にジェイドを置き、そのまわりにロウブ、アッサムと…村の主だった者たちが輪になって座っている。さすがのレイもその中に何の躊躇いもなく入っていくことには抵抗があった。
「レイ、こちらへ…」
ジェイドの傍らにいるロウブが、座っていた場所を少し空けて、自分とジェイドの間にレイを招き入れる。レイも父であるジェイドに一礼すると、その場に腰を下ろした。
「今日の一番手柄はレイだな…。見事であった。誇りに思うぞ」
「ありがとうございます…」
他人行儀なあいさつも、皆の手前では仕方がなかった。たとえ長の息子でも、ここでは一介の新参者に過ぎない…。
レイが加わって、上座ではまたひとしきりの酒盛りが始まった。せっかくのリュウとの楽しい時間に水を注されて、少々不機嫌なレイだったが、ここではそういうあからさまな態度を表に出すことは許されない。またいつもの無表情にもどって、ひたすら注がれる酒を飲み干した。
どれほど経った頃か、重臣のうちの誰かが近くにいた世話役の女に何か耳打ちすると、やがて座の端から若い娘の一団が現れた。
「どうじゃ、レイ…? 今夜の余興に娘たちを呼んでおる。いずれも若く美しい花嫁候補たちばかりじゃ…。目移りするだろう? 」
アッサムの言葉にその場はざわざわとざわめいて…酔いに任せて手を叩く者、からかうようにヒュウと口笛を鳴らした。
“誰がこんなことを…? ふざけるな…!”
レイは怒りに指先が震えるのを覚えた。すぐさま講義の視線をアッサムに向けたが、その視線はそばにやって来た娘たちの姿に遮られた。
“くそ…! ”
小さく悪態をつくレイを尻目に、娘たちは嬉々として彼を取り囲んで、先を争って彼の盃に酒を注ごうとする。
「待て、待て…順番だ。それではレイだってお前たちを値踏みする時間もなかろう…?」
アッサムがそう言って高らかに笑えば、その場に大きな笑いの渦が起こった。
その場の和やかな雰囲気とは裏腹に、レイは内心怒り狂っていた。だいたいに娘たちとの間に話は付いていたのだろう…。何とも手際がいい…。レイに逃げ出す隙さえ与えないとは…。
自分が大人連中のいい慰みになっていることが我慢ならなかった。だがここは長である父の前でもある。歯噛みするほどの悔しさを押し殺して、レイはひたすら酒をあおり続けた。
「娘たちよ、今夜は存分にレイを酔わせてやってくれ…明日は狩りは休みだ。何ならつぶれさせてもよいぞ。後はそなた達に任せる…。」
酔った重臣のひとりが言った言葉にレイの怒りは募るばかりだ。
“冗談じゃないぞ! 誰がそんなこと許すか…!! ”
焦る気持ちであたりを見回せば、並んでいる娘の一番後ろに、見覚えのある顔があることに気が付いた。
“あれはいつかヴァントに言い寄られていたロウブの娘…?”
ひとりずつ順番に酌を受けて、やっとリーザの番が回ってきた。よほど緊張しているのだろう…。酒を注ぐ手が小刻みに震えている。すると…酒は盃からこぼれて、レイの膝を濡らした。
「ご…ごめんなさい…!」
リーザは慌てて懐から小さなハンカチを取り出して、レイの濡れた衣服を拭う。
「大丈夫だ。気にするな…」
リーザの狼狽ぶりがあまりに気の毒で、とっさにそう声をかけただけだったのだが、彼女がレイの濡れた膝を拭こうと身を乗り出した瞬間に、後ろで束ねていた長い髪が前にしなだれかかって来て…突然何ともいい香りがレイの鼻先をくすぐった。
“ この香りはどこかで…?”
そう思ってレイが顔を上げた時には、もうそこにリーザの姿はなかった。
「すまない、レイ…。娘は奥手でな。甘やかして育てたせいか、どうも幼くて…」
いつもは堂々としているロウブも、さすがに娘のこととなると弱いらしい。心配そうにじっとリーザの消えた辺りを見つめている。
その騒ぎのあとで、何か不思議な感情がレイの中で芽生えていた。今まで感じたことのない感覚…だが、確かなことは何もない…。レイの心の奥底では、不思議な胸騒ぎを感じていた。
その晩、レイはどうやって自分の屋敷に戻ってきたのかさえもわからないほど、ひどく泥酔していた。祝宴を出て、途中何度か吐いたのは覚えている。普段から酒はそんなに弱いほうではない。むしろ底なしで、いくら呑んでも酔ったことがないくらいだったのだが、今夜は盃の空く間もないほど次から次へとやってくるのだから、さすがのレイもたまったものではない。途中ロウブが止めに入らなければ、本当に潰されていたかもしれない…。
重臣連中のくだらない好奇心を満たすために、昨夜は本当にひどい目にあった。
“望みもしないのに多くの娘たちに囲まれて、浴びるように酒を飲まされた挙句、酔った連中の好奇心に晒されて…”
思い出すたびに思わず舌打ちしたくなるほど苦い想いが胸に込み上げてくる。
“ 二度とあんな誘いに乗ってたまるか…! 女なんて真っ平だ…!”
そう想いつつ…レイは昨夜の、ジェイドの満足そうな顔を思い出した。
約束された“満月の夜”まで、あと幾日もない頃、ロウブの家でもその準備に大忙しだった。
マイラは娘のために心を込めて美しいドレスを織り上げた。もとより彼女は村一番の刺繍の名手である。ドレスの胸元と豊かに揺れる裾間に施された美しい金糸の縫い取りはそれは鮮やかである。
「どう…? まあ、ピッタリね。よかったわ、間に合って…」
「ありがとう…母さん。とても素敵だわ…!」
「とてもきれいよ、リーザ。これなら誰にも引けは取らないわ」
マイラはドレスを着た娘をうっとりと見つめた。淡いピンク色の柔らかな薄衣を幾重にも重ねて…うす紅の生地をアクセントに使ったドレスは、華奢なリーザの身体をとても女らしく見せている。少し深めに開いた胸元は、細い体つきからは想像出来ないほど豊かな膨らみを見せていた。
「ちょっと胸が開きすぎてない…?」
「そうかしら? あなたには幼いところがあるから、これくらいでちょうどいいと思ったんだけれど…? どうかしら、あなた…?」
さっきから娘の豹変ぶりに、驚きと賞賛の眼差しで見つめていたロウブは、慌てて目をそらした。つい最近まで父親に甘えてばかりいた娘が、いつの間にか大人になっていたことを認めないわけにいかない…。そしていつか信頼できる男の手に託し、幸せになってくれるのを見守ることしか出来ないこともロウブはわかっていた。
「本当に綺麗だよ。母さんが若い頃を思い出したよ」
「まあ…?」
今度はマイラが赤くなる番だった。それを見てリーザは思わず微笑む。父と母は今でも互いに深く愛し合っている。二人はリーザにとっては理想の夫婦の姿だった。自分もいつかそんな人と出会い結ばれて…生涯深く愛し合いながら暮らしていく…。互いを死で分かつその時まで…。
“ でも今の私には理想でしかない…”
リーザはレイを愛しているけれど、彼はリーザの存在すら知らないのだ…。
“ いいえ…! 先日の宴の席から、少なくとも重臣ロウブには、内気でそそっかしい娘がいることはわかってもらえたはずだわ…”
リーザは大きく息を吸い込んで、二人に向かって微笑んでみせる。ロウブとマイラはそれを見て、互いに顔を合わせて微笑んだ。実際のところ…ロウブもマイラも意外に元気な娘の姿にホッとしていた。
先日の宴の席での失敗に、どれほど落ち込むかと思っていたのに、リーザはそれほど気にするふうでもなく、逆にとても嬉しそうだった。
リーザにしてみれば、レイの服に酒をこぼしてしまったことは、とても恥ずかしいことだったけれど、彼が気にするなと言ってくれたことがたまらなく嬉しかったのだ。
今まではただ遠くから彼の姿を見つめているだけだったのに、それがいつかの晩の出来事は別にしても…あんなに近くで接したことも初めてなら、直接声を掛けてもらうのも初めてだったのである。
レイの声は低く、威厳に満ちた響きがあった。その声を思い出す度に、リーザはもう天にも昇る気持ちになった。
「でも父さん、母さん…。選ばれなかったらごめんなさい。せっかく用意してくれたのに…」
「何を言うか…。その時はおまえは…ずっとこの家で、父さんや、母さんと暮らせばいいではないか…。リンは父さんにとっては、いつまでも可愛い娘なんだから…」
「いやだ、父さん…もういつまでも子供じゃないんだから、リンって呼ぶのはやめてって言ったでしょう?」
「ああ…そうだったな」
ロウブは眩しそうに目を細めながら、いつの間にか成長した娘の姿をじっと見つめた。
そして…どうか、この愛すべき無垢な娘の願いが叶うようにと、願わずにはいられなかった。
花嫁候補 2
その日が近づくにつれて…レイはだんだん落ち着きを無くしていった。最初は連れ合いのことなど、どうでもいいと思っていたレイも、毎晩のように見る夢に悩まされるうちに、ことの現実に気が付いた。彼は力こそ他の若者とは比べものにならないほど優れているものの…男としての知識はさっぱりなのである。
割り切って子供をつくるだけの連れ合いならば、誰でもいいと思っていた。自分の中のアリオンを次の世代に残すだけの目的ならば、感情など必要ないと…。
だがそのための行為には…。いくら割り切ったとしても、何の感情ももてない相手と肌を触れ合うほどに親密になる気には到底なれなかった。それ以前に、欲望とは何なのかという点についてもレイはよくわかっていないのだ…。だんだん焦りにも似た感情が湧いてくる。
だいたいがこういう類のことは、息子が年頃になると、その父親によって教えられるものだが、今まで意識的に避けてきたのはレイの方だった。もちろん聞けば当然父は答えてくれただろう。でもレイは聞きたくもなかった。そんなことは自分には必要だとは思わなかったから…。
でも今さら聞くのも彼のプライドが許さない。そこでレイは何日か前、母の元を訪れた時に、母から聞いた言葉を思い出していた。
“ いつかあなたにも訪れるはずなのよ。その時が… ”
“恋か…。恋とは何だ…? ”
レイはいつものように夢から覚めたあと、自分の身体の熱い強張りに戸惑いながら…寝台の上で寝返りを打って仰向けになったまま…じっと暗闇に目を凝らした。
“ 身体の欲望については理解している…。それは自然の摂理だ。毎晩見る夢だって、心が求めているわけじゃない…。身体の渇望が見せる不埒な妄想に違いなのだ。でも… ”
やり切れない想いを抱きながら、レイは自分の身体から熱い情熱が、耐えられるまで自然に引いていくのを、長い時間待たなければならなかった。
夕方、気が付けばレイは父ジェイドの屋敷の前に立っていた。
“ 聡明な父のことだ。きっと何かヒントをくれるに違いない。でもどうやって切り出す…? ”
思案しながら表門をくぐる。屋敷の通路で何人かの人々とすれ違った。彼らはレイの姿を見ると、一歩壁際に下がって軽く頭を下げた。
村人は一様にレイに敬意を払い、どこであろうと会えば会釈を欠かさない。本音をいえばそれもレイには気詰まりだった。彼らに頭を下げられる度に、自分が長の息子という立場を思い出させられるからだ。
やがてジェイドの居室まで来て、レイは足を止めた。中から誰かの笑い声が聞こえた。誰か先客がいるのだ。
父のジェイドがここまでくつろいだ笑い声を上げるからには、よっぽど気の置けない相手なのだろう。改めて出直そうと背中を向けた時、扉の向こうから聞き慣れたロウブの声が聞こえてくる。
「いよいよですね?」
「そうじゃな…? あれをその気にさせるのには苦労した。何といっても年頃になっても、そっちのほうにはまったく興味を示さないのでな…。今嫁を取るなどとは考えもしなかった…」
「本当に…アッサムは大したことを思いついたものです。これでよい娘を嫁にもらって、子どもでも出来れば、将来は安泰ですよ」
「そう上手くいけばいいがな…」
どうやら自分のことを話しているらしい…レイはさらに聞き耳を立てた。
「娘といえば、そなたの娘…リーザと言ったかな…? いくつになった…?」
「16です…」
「ほう…? 早いものだな。先日宴で見たが、マイラの若い頃に似て美しくなったな…? 」
「そうですか…? まだまだ子どもだと思っていましたが、昨日…もうリンだなんて、子供の名前で呼ばないでくれと叱られました…」
“ リンだって…!? ではあの晩の娘はロウブの娘だったというのか…? ”
それまで何気なく聞いていたレイは、その名前が出た瞬間にハッとして我に返った。
“ リンが愛称だったとはな…どうりでリュウにもわからなかったはずだ。あの時の娘がリーザなら、オレが探していた娘はリーザということになる。探していた…? 別にオレは自分からあの娘を探していたわけじゃない…! ”
急に熱を帯びたように全身は熱く火照って…さっきから引っ切り無しに胸の鼓動も激しく鳴り響いている…。レイは慌てて逃げるようにジェイドの屋敷をあとにした。
あの夜、あの丘で出会った娘…。何度も夢の中に現れては繰り返し、愛しているとささやく娘…。きっと森の妖精にでもからかわれたのだと自分に言い聞かせて、無理に忘れようとしていた。それが突然、現実の姿となって目の前に現れたのだから…レイは自分でも呆れるくらいに動揺していた。
“ それがどうしたと言うんだ…? 偶然であった娘の素性が知れただけじゃないか…? あの夢もオレの不埒な妄想に過ぎない…。”
空を見上げれば満点の星…明るく照らす月は間もなく満月を迎える。
その日のレイはいつになく、朝からイライラしていた。表面上はいつもと変わりなく無表情のまま、冷静を装って自分の役割を黙々とこなしていたが、そのじつ内面ではひどく落ち着かなかった。
いつもなら気にならない仲間たちのくだらないおしゃべりや悪ふざけでさえ、その日に限ってうるさく感じて仕方なかった。相変わらず、騒ぎの張本人はあのヴァントで…それも余計にレイの神経をイラつかせた。
よりにもよってヴァントは今日はレイのグループに入っている。あの事件以来、レイは徹底的にヴァントを無視していた。最初の頃…彼のほうも何度か探るような眼差しをレイに向けてきたが、ヴァントは小心者だ。自分がロウブの娘に無理に迫っていたことが父親はおろか、ロウブにでも知れればただでは済まないことをわかっていて気にしていたのだろう。
それが時間が経つにつれ、あの一件をレイが誰にも明かしていないのが判ると、急に態度が大きくなった。それはまるで自分の存在をレイに誇示しているようにも見える。きっとヴァントはレイに無言の抗議をしているのだろう…。あの時も言っていたではないか?
リーザは自分のものだと…。それにヴァントは今日のリーダーがレイだということが面白くないのだろう…。何かにつけて逆らって見せる。
最初は無視することで我慢していたレイだったが、ついにその限界がやってきた。
「合図したら来いって言ったのに、なぜ来なかった…!?」
狩りを終えて集合場所に向かう途中で、ついにレイはヴァントを捕まえた。
「悪いな、合図が見えなかったんだよ…」
顔に薄笑いさえ浮かべて、少しも悪びれる様子もないヴァントにさすがのレイもキレた。
無言でぐぃっとその襟元を掴んで引き寄せると、いつにない激しさで牙をむく。碧い瞳からギラギラとした怒りの炎が立ち上り、美しい銀糸が逆立って…それだけ彼の怒りの激しさを現している。
今にも飛び掛っていきそうな勢いに当のヴァントはもちろんのこと、周りにいた仲間も震え上がった。レイがここまで自分の感情を露わにするのははじめてのことだった。
「よせ、レイ! 仲間を傷つけちゃいけない! 止めるんだ…!!」
騒ぎを聞いて、群れの最前列にいたロウブが駆けつける前に、近くにいたリュウが中に割って入った。リュウの言葉にハッとして我に返ったレイは、突き放すようにヴァントを掴んでいた手を離した。
ヴァントはさっきから蒼くなってブルブル震えていたが、レイの手が離れると腰が抜けたのか、その場に座り込んだまま…動けなくなってしまう。何とか仲間に支えられて、やっとのことで立ち上がると、そろそろと後ろへと下がって行った。
「奴にはいい薬だが、少しやりすぎだ。おれもおまえが本気でヴァントを殺っちまうんじゃないかって心配したぞ…」
「バカらしい…」
吐き捨てるようにレイは言ったが、自分でもよくわかっていた。本当にバカらしいのは、ヴァントごときに本気でイラついてしまった自分自身だ…。
そこに遅れてロウブとアッサムがやって来て、リュウから短く説明を受けると、二人はチラリとレイを見たが、ロウブはそのまま…また群れの最前列へと戻っていく。一人残ったアッサムは一瞬ためらったあと、レイの近くまでやって来て…耳元で一言…“ すまなかったなレイ、迷惑をかけて…” そう小声でささやいてまたロウブのあとを追った。
アッサムも人の親だ。ヴァントのことはきっと頭痛の種に違いない。いつもは自信たっぷりのアッサムの顔に苦渋の表情が浮かぶのを見て、レイは急激に自分の中の怒りが萎えていくのを感じた。
“ もし…次の満月の夜までに、自分がこの取り決めを無視して村を出て行けば…きっと父ジェイドもアッサムと同じように悩むに違いない…。”
自分の進む道はもうすでに見定めていたはずだと、レイは自分に言い聞かせる。重臣たちが決めた取り決めを受け入れられなければ、この村を出るしか方法はない…。それも叶わないとなると…もはやすべて受け入れて、運命に従うか…? 連れ合いを選び、自分の中のアリオンをこの村に残したあとに、オレはこの村をあとにする…。そのための連れ合いなら誰でもいいはずだ…。
そこで不意にあのロウブの娘の姿が浮かんできて、レイは慌てて首を振ってその面影を振り払った。
“ オレが誰かに固執するなどありえない…。”
釈然としない想いを抱いたまま…レイはまた何事もなかったように歩き始めた。
しばらくして狩りを終えた男たちは村へ帰り着いた。村外れの空き地に、それぞれの家族や恋人が出迎えている中…そこにはレイの姿をひと目見ようと多くの娘たちが集まっていた。
「今日もまた大した出迎えだなあ…?」
そばにいた誰かの声で、レイはハッとして立ち止まる。いつもならとっくに姿をくらましているはずが、ぼんやりしていたせいで気付いた時には、娘たちが騒いでいるすぐ側まで来ていた。
急いで姿を隠そうとして一瞬立ち止まり、自分が無意識にその娘たちの中に、あのロウブの娘の姿を探していることに気が付いて愕然とした。
“ オレは何をしているんだ…!? ”
怒ったような顔をして、レイはその場を走り去った。
「見た…!? 今レイさまこっちを見たわ!」
「誰を見ていたのかしら…? いつもならここに来るまでにいなくなってしまうのに…」
娘たちは騒ぎながら、もう有頂天になっている。その人垣の後ろで遠慮がちにのぞいていたリーザは、レイの姿が少しでも見えないかと爪先立ちになった。
“ ああ、もう少しで見えたのに… ”
花嫁選び
その日は朝から村の大人達は忙しく働いていた。まるでこれから大切な祭礼でも始まるかのようである。村の中央にある広場には小さなステージが作られ、そのまわりに色とりどりの季節の花々で美しく飾りたてられている。そしてその外側をぐるりと取り囲んで人々が座れるように座が組まれていた。
女達は朝から御馳走作りに忙しく、若い娘のいる家では、まるで婚礼の花嫁の支度のような目まぐるしさである。どの娘も美しく着飾って…自分の出番を待っていた。今日は約束されたレイの花嫁選びの日…。誰が選ばれるのか…村中がワクワクしながら、その時を待っていた。
夕刻から広場にはたくさんの料理が並べられると、どこからともなくあたりに立ち込めるおいしそうな匂いに誘われて、小さな子供達が集まってくる。今日はジェイドの計らいで、村の重臣たちから普段一緒に座することのない子供達まで、同席することが許されていた。
「さあ、楽しみだな。レイさまはいったい誰を選ばれることやら…?」
「さあ…なぁ? 誰が選ばれてもめでたい事だ。これでジェイドさまも、ライザさまもあんどされることじゃろうって…。なんにしてもめでたい…」
村人は皆、口々にそう言って囁き合っている。
だが村中が喜びで沸き立つ中、ひとり浮かない顔をしている者がいる。当のレイほんにんである。彼は未だに心の迷いを吹っ切れずに悶々とした日々を過ごしていた。村中に広がるお祭り騒ぎの雰囲気を逃れて…村外れの丘でひとり、茂る草むらの中に寝転びながら、流れる雲を見つめていた。
“ 今ならまだ間に合う…このまま村を飛び出してしまえば、もう煩わしさに振り回されることもないだろう…。でも…。 ”
例によってまたいつもの両親の顔が浮かんでくると、それは出来ないともうひとりの自分がつぶやく…。
“ それでいいのか、レイ…? 村をあとにすればもうここには戻って来られない…。両親、そして幼い頃から優しかった村人と…そしてあの娘とも二度と会えなくなる…。それでいいのか…? あの娘…何度も幻だと自分に言い聞かせてきた。幻に惑わされてきただけなのだと…。おまえはそれで満足できるのか? 押さえがたい自由への憧れと、父と母…強いては村全体を裏切ることへの罪悪感…それらに責め苛まれながら、どうすることも出来ない自分…。ずいぶん情けない話じゃないか…? ”
半ば自嘲気味になっているところへ、遠くから誰かの足音が近づいてくる。レイは寝返りを打ってその場に息を潜めた。
誰か若い娘だろう…。彼の隠れているすぐ側を通り抜けていく…。レイのいる場所からは、娘の足元しか見えないからその顔はわからないが、身につけている華やかな衣装からすると、今夜の花嫁候補の一人に違いない。うす紅のドレスを着て…何か歌を口ずさみながらゆっくりと歩いていく…。
生い茂る背丈の高い草はらに遮られて、彼女からはレイの姿は見えない。すぐ近くに人がいることも知らないで、傾いていく陽の光に向かって子守唄だろうか…? 優しい声音で歌い続ける。
“ 何だろう…? 遠い昔、どこかで聞いたような…? とても懐かしい響きがする… ”
どんな娘が歌っているのか知りたくて…レイはそっと上体を起こして草むらの陰からのぞいてみた。そして彼女の顔を見た瞬間、レイは驚きの声を上げる。
“ あれはロウブの娘…!? ”
彼女は柔らかなすみれ色の瞳を天に向けて…まるで夢見るように軽やかに歌う…。
“まるで無垢な妖精だな…? 確かにあの晩、おれは妖精と出会ったのだ…。”
レイはポツリとつぶやいた。思えば、この娘の姿を今初めてまじまじともたのかもしれない…。最初はいつかの満月の夜、月明かりに照らされていたとはいえ…その顔は見えなかった。二度目はヴァントに言い寄られていた時、驚く顔と泣き顔しか知らない…。そして3度目に合ったのは、あの宴会の席で…酒をこぼして真っ赤になってうつむいていた。 思い返してみれば、偶然とはいえ何度も顔を合わせていたのだ。
それにしても…うす紅のちょうどこの夕陽の色のドレスに身を包んだ姿は、飛び切りの美人というわけではないが、華奢な感じのする可憐な少女である。
明るい栗色の髪を風になびかせて…時々乱れた前髪を片手でかき上げる仕草が何とも可愛らしい。
“あの髪にふれてみたい…。” そんな想いがふと浮かんできてレイは自分でも驚いた。
「リーザ…!」
誰かの呼び声で振り返ると、そこにはランが立っていた。
「ここにいたのね? おばさんたちが探していたわ。そろそろ準備しないと間に合わないって…何していたの?」
「うん、もし選ばれなくっても仕方がないって自分に言い聞かせていたの。レイさまが幸せならそれでいいって…」
「あなたっていう子はもう…本当に優しいんだから…。その優しさがレイさまに伝わるといいのに…。でももしそうなっても、リーザならいつか幸せになれるよ…」
「うん…」
二人は微笑みながら、並んで夕陽の迫る陸をあとにして行った。
娘たちが去ったあと、レイもそろそろと起き上がった。西の山影に傾いていく夕陽を眺めながら、彼は心の中でひとつ大きな決意をしていた。
“ このまま…いけるところまでいってみようか…?”
不思議とさっきまでのイライラが嘘のように跡形もなく消え失せていた。あの娘の澄んだ歌声が、荒んでいたレイの心をすっかり洗い流してしまったのだろうか?
そう…あの歌は子守唄なのだ。遠い昔…母の膝の上で聞いたあの懐かしい調べ…。
レイは目を閉じて、さっきのリーザの姿と優しい歌声を思い描いた。
広場の中央、花で飾られたステージには、今夜の美しい花嫁候補…思い思いの艶やかな衣装に身を包んだいずれ劣らぬ美しい娘たちが一列に並んで…その時が来るのを待っていた。
そして、そのステージを取り囲むように多くの村人が集まって、祭りの始まりをまだかまだかと心待ちにしている。
「レイはまだか…?」
「さあ、どうなされたのでしょう…? さっき少し前に村外れで、お姿を見たというものもおりますが…」
すべての準備が整ったというのに、肝心のレイが現れない。まさか、逃げ出したのではないか…? 内心ジェイドは穏やかではいられない…。
今日はひとりにさせるのではなかったと心の中でひとしきり後悔していたところへ、どこからともなくふらりとレイが現れる。
集まっていた人々は、彼の姿に気が付くと、いっせいに大きな歓声をあげた。レイの登場でいよいよ祭りが始まるのだ。
レイはその人ごみを掻き分けるようにして、ステージにいるジェイドの元へとゆっくりと近づいた。内心はともかく、その表情はいつもと変わらない無表情である。
ただその顔には、あたりを明るく照らし出す真っ赤な篝火に映えて…ゆらゆらと赤い炎が陰影となって揺れている。
ジェイドもやっと現れた息子の顔を見て安心したのか、ホッとしたようにうなずいてから、おもむろに顔を上げて…威厳に満ちた声で語り始めた。
「今宵はわが息子、レイナスのために多くの村人が集まってくれた。まずはレイを言おう…。息子もこの春で成人を迎え、みなの仲間入りをしたわけだが…一人前の男として新たな証を立てなければならない…。そこでだ、今夜一族の娘の中から花嫁を選ぶことになった。いずれ劣らぬ美しい娘たちばかりじゃ。よいな、レイ。そなたの望みの娘を選ぶがよい…。」
ジェイドの話が終わると、村人達からひときわ大きな歓声が沸き起こる。それが落ち着くのを待って、レイはジェイドに促されて娘たちの待つステージへと上がった。
どの娘も美しく着飾って自分が花嫁として選ばれるのを、心震わせながら待っている。レイは心の中の高揚を落ち着かせるために、ひとつ大きな深呼吸をすると…覚悟を決めてその一歩を踏み出した。
リーザは震える手足を必死に押さえながら、ステージに立っているのが精一杯だった。
“どうしよう…! お願い、神さま…わたしに勇気を下さい…”
大きな館セガ沸き上がったことで、そこにレイが現れたのはわかったけれど、そのあとのジェイドの言葉は何一つリーザの耳には入らなかった。
レイは無表情を装いながら、目の前の娘たちを見回した。堂々と顔を上げてレイに微笑みかける娘や、恥ずかしげに上目遣いに彼を見上げてくる娘などさまざまだが、レイが求める顔はひとつしかない…。
“どこにいる…? いた…!”
娘たちの列のいちばん端に、遠慮がちにうつむいて立っているリーザの姿を見つけた。やはりかなり緊張しているのだろう…。肩が小刻みに震えている。
ゆっくりとした足取りで、居並ぶ娘たちの前をひとり…またひとりと通り過ぎていく。その度に娘たちの口から大きなため息がもれた…。そして列のいちばん端…リーザの前で足を止めたレイは、何の躊躇いもなくその手を取った。
その瞬間、会場からワッという歓声とともに大きな拍手が沸き起こる。
リーザは一瞬何が起こったのかわからなかった。レイが現れたとわかった時から頭を上げることが出来なくて、じっとうつむいて目を閉じたまま…その時が来るのを待っていた。
“きっと選ばれるのはわたしではない誰かだから、その時が来ても絶対に泣かないようにしよう…”
そう心の中で決めていた。
じっとその場で息を潜めていると、不意に誰かに手を取られて…驚いて顔を上げて見上げると、自分を真っ直ぐ見下ろしている、煌く碧い瞳とぶつかった。その瞬間…すべてが真っ白になった…。
“信じられない…?“
レイがその手を取ったとき、見つめあったその瞳はそう言っていた…。その視線がやがて宙を彷徨ったかと思うと、そのままレイの腕の中に崩れ落ちた。
「おっと…!」
慌ててレイはリーザの身体を抱きとめる。
「リーザの花嫁はロウブの娘、リーザと決まった。祝言は一週間後に行う。今宵はめでたい祭りじゃ。皆心行くまで愉しむがよい…」
上機嫌のジェイドは満面の笑みを浮かべて、まわりの観衆に手を上げる。するとそれを合図にどこからともなく楽しげな太鼓の音が聞こえてきた。祭りの雰囲気は一気に盛り上がっていく。
「レイ、リーザはおまえの花嫁だ。連れて行って介抱してやりなさい」
ジェイドに促されて、レイは胸にしなだれかかっている華奢な彼女の身体を抱き上げて、賑やかなその場を後にした。
“さて…どうしたものか…?”
いくら介抱しろといわれても、いきなり屋敷に連れて行くわけにはいかない。しばらく考えて、レイは村外れのあの丘の…咲き乱れる花の絨毯の上に、リーザの身体をそっと下ろした。
両腕からリーザを解放して、レイはほっと溜息をついた。じつは倒れた彼女を抱きとめた時から、彼はあることに悩まされていた。とっさに彼女の両脇に腕を回して、その身体を支えようとして…結果的にリーザを横向きに抱きしめる格好になったレイは、左腕に彼女の柔らかな胸の膨らみを感じた瞬間、自分のみぞおちから下半身にかけて走った衝撃にひどく戸惑った。かといってそのまま放り出して逃げ出すわけにもいかない…。
彼女が途中目を覚まさないことを祈りつつ…レイは少しずつ手の位置をずらして彼女の身体を抱き上げた。だがさらに悪いことに、抱き上げたことでリーザの頭がレイの胸元に寄り添うことになり、毎晩のようにあれほどレイを悩ませ続けたあの芳しい髪の香りを目いっぱい意識しなければならなくなった。
おまけに目を落せば、すぐそこにある彼女の開いたドレスの胸元から、豊かに張り詰めた白い胸の谷間までがのぞいている。それが目に入った瞬間、カッと頭に血が上るのを感じて、慌ててレイはその視線を外した。
いつまでもこの状態が続けば、そのうちとんでもないことになりそうだ…。初めて体験する自分の身体の激しい反応に驚いたレイは、必死に自分を制御した。
レイは歯を食いしばって急いでその場を離れる。足早で一気にこの丘までやってくると、リーザを出来るだけ見ないようにして、やっとのことで、そっと地面に下ろしたのだった。
レイはかなりショックを受けていた。こんなに自分の身体が制御出来なかったのは生まれて初めてだった。まして生身の娘にこれほど激しく反応するなんて…。
“自分はアリオンだ…。自分以外の何者にも振り回されてはならないのだ…”
どれくらいの時間が過ぎたのだろう…? 隣に横たわるリーザを意識しないように、レイはわざと視線を外してじっと前方を睨んだまま動かない。
“なぜだ…? これでよかったのか? あの時オレは自らの心の命じるままに、この娘の手を取っていた。アリオンの血を残すだけの連れ合いなら、誰でも良かったはずだ。なのにオレはこの娘を選んだ。たしかにオレはこの娘の何かに惹かれ…欲しいと思ったのだ。でも何故…?”
それを確かめようと視線を彼女に戻しかけて、レイは止めた。やっと鎮まりかけた欲望の炎を再び燃え立たせてはならない…。硬く拳を握り締めて、きつく唇をかみ締めた。
月明かりの中で、リーザは小さく寝返りを打って目覚めた。うっすらと目を開けてあたりを見回せば…穏やかな光の中
で、銀色に光る一面の花畑が見える。
“わたしは今夜、レイさまの花嫁選びの席にいたのではなかったかしら…? それがどうしてこんなところに…? あの時、突然目の前にレイさまがいらして…目が合った瞬間にわたし、気が動転してしまって…。それから気を失ってしまったんだわ。あれは夢だったのかしら…? いいえ! 夢じゃないわ…! ”
そこでリーザは、自分のすぐ側に腰を下ろして、じっと何かを考え込んでいる様子のレイがいることに気がついた。
子供の頃からずっと憧れ続けた端正な横顔がそこにある。森の湖よりもずっと深い碧色の瞳に流れる銀糸…。思わずリーザは見惚れてしまう…。
“わたしはこの人に選ばれたのだわ…”
その事実が嬉しくて、リーザの心臓はまた早鐘のように鳴りはじめた。
「大丈夫か…?」
彼女が目覚めたことに気が付いたレイは、ポツリとつぶやいた。その声には何の抑揚も感じられない。どんなに内心、心乱れようと、それを相手に悟られることは絶対にあってはならないのだ。
「はい…」
再びの思い沈黙…。逸る想いに何か言わなければと、リーザは焦るものの…のどは焼けるように熱くて、とても言葉にならない…。ドクン…ドクン…!と鼓動だけが激しくなり続けた。
“お願い、何か言って…!”
心の中でリーザは祈るような気持ちでレイの次の言葉を待ち続けた。でも意外にも彼の口から出た言葉は、あまりにも礼儀正しくあっさりとした言葉だった。
「送っていこう…」
そう言うなりサッとレイは立ち上がって歩き始めた。リーザも慌ててあとを追う。少し早足のレイに遅れまいと付いていくだけで精一杯だった。
そういえば、前にもこんなことがあったような…? ふと思い出してリーザは思わず笑顔がこぼれた。
“もう迷わないわ…。だってこれからはずっと、この人だけを見つめていていられるんだもの…”
村外れの丘から楡の木の林を抜けて、なだらかな坂を下ったところにロウブの屋敷はあった。屋敷の周りにはきちんと手入れの行き届いた庭園が広がっていて、季節に応じたたくさんの花々が咲いていた。美しく刈り揃えられた芝生は、ロウブ夫妻の勤勉さを表している。
その芝生の上を玄関に向かって歩く間、リーザは背の高いレイの後ろ姿を、誇らしく見上げた。マイラは今夜は、広場に行かずに家で待っているからとリーザに言った。きっと母は、選ばれなかったリーザが気落ちするその姿を見たくないのだろうと、彼女は理解していた。
“レイさまはわたしを選んでくれた…。母さんもきっと心から喜んでくれるはずだし、父さんにしたって今ごろ、ジェイドさまたちと愉しんでいるに違いないわ…”
もうすべてが誇らしく、レイが玄関のベルを鳴らす間、浮き浮きしながらリーザは、彼の横顔を見つめていた。
「あらためてまたロウブを訪ねる…」
玄関で出迎えたマイラを前にしても、レイは表情ひとつ変えずにそう言っただけで、そそくさと帰ってしまう。
「レイさまもきっと照れておいでなのだわ。こういうことには慣れていらっしゃらないのだから…」
そっけないレイの訪問にも、マイラは手放しの喜びようだった。マイラにしても、本当に自分の娘がレイの関心を引くとは思っていなかったのだろう。
「さあ、一週間後が結婚式なら忙しくなるわね。ロウブと相談しなければ…。それにあなたももっとお料理を覚えなければね…?」
「意地悪ね、お母さん…」
その晩、リーザは心からの笑顔を見せて笑った。
レイは広場の騒ぎをよそに、ひとり屋敷に戻っていた。当然屋敷の使用人達も今日は祭りのために暇を出していて、屋敷の中にはレイひとりだった。
“リーザか…今までどんな娘に言い寄られても何も感じなかった。それが今夜はどうだ…? あの娘の肌に触れ、匂いを嗅いだだけでどうしてこんなに身体が反応してしまうんだろう…? ”
感情とは別の、太古から受け継がれてきた動物の本能ともいうべき欲望が、自分の中にも存在していた…。それはレイにとっては驚きの連続でもあり、ある意味恐怖でもあった。
“今はまだいい…。これが一週間後には結婚式だ。その日から毎日彼女を側に置くことになったら、いったい自分はどうなってしまうのか…? ”
今夜の自分の不甲斐なさに自嘲しながら…目の前に、いつか拾ったリーザの髪飾りをかざして見る。理由はないが、レイはまだ髪飾りを自分の手元に置いていた。本気で返そうと思えば返せたのに、彼はそうしなかった。
あの晩であったことをレイが知っていると告白することに躊躇いがあったのも事実だが、正直なところ…リーザに正面から向き合うことを暗に避けたかったというのが本心だろう。
自分の意志とは反対に、その姿を見ただけで…その肌の柔らかさと匂いを思い出して、即座に反応してしまう男としての自分を、彼のプライドが許さなかった。レイがもっと生きることに積極的で、そこまでプライドが高くなかったら…きっとこの感情の高ぶりや、過剰なまでの肉体の反応こそが、彼がすでに恋に堕ちた証であると理解できたかもしれない…。
結婚式 それから…。
木立の中にひっそりと建つ白いレンガ造りの建物の中庭に、煌く春の陽差しが降り注ぐのを眺めながら…レイは何度目かの大きなため息を漏らした。
中庭に続くテラスへの扉は大きく開かれて、そこからは引っきり無しに爽やかな風が吹き込んでくる。その爽やかさとは裏腹に、その日のレイは朝からずっと緊張の連続だった。
表面上はいつもどおりの無関心を通していたのだが…。その日は朝早くから母ライザに呼びつけられて、彼女は婚礼の支度の間…レイの側を片時も離れなかった。きっと途中彼が逃げ出さないように見張っているつもりなのだろう…。この場に及んで逃げ出すつもりはなかったが…出来ることなら『その時』までひとりで過ごしたかった。
「どこへ行くの…?」
世話役の女たちが仕事を終えて出て行った後、忙しなく席を立つレイを見て、ライザが見咎めた。
「少し外の空気を吸って来ます。ここはどうも気詰まりなので…」
ライザに背を向けたままレイは答える。
「ダメよ、レイ。式が始まるまでは、あなたをひとりにしてはいけないというお父様の言いつけですもの…」
ライザは一歩も引かない様子らしい。レイはゆっくり振り返ってライザに笑いかけた。
「母上…。ここまで来て逃げ出したりしませんよ。それにこの格好でどこへ行くと言うんです…?」
レイは自分の身につけている煌びやかな婚礼用の衣装に目を落としながら言った。いつもの軽装とは違って今日は、レイの瞳と同じ碧色の生地に、華やかな絹糸でいくつもの刺繍の施された丈の長い上着を着ている。引き締まった下半身には、白と銀の綾織のぴったりとしたズボンを履き、その細身のウエストを同じく銀の糸で織り上げた飾り帯で締め上げている。
輝く銀髪を縫うように碧い宝石の額飾りをまいた姿は、まるで神話の世界の神々が抜け出たようだ。うっとりとした眼差しで彼を見上げるライザにレイは、微笑んでみせる。
「こんな格好で村の中を歩けば目だって仕方ない。中庭に出て少し新鮮な空気を吸いたいだけですよ…」
「そうね…? あなたの言うとおりだわ。式はもうすぐ始まるし、少しくらいなら構わないでしょう。わたしはリーザの支度を見てくるわ。きっとびっくりするくらい綺麗な花嫁に仕上がっているはずよ。楽しみだわ…」
ライザはまるで自分のことのように浮き浮きしている。実際レイの花嫁が決まってからの彼女はとても顔色がよくて、それを見れば少なくともレイの決断は間違っていなかったと多少の慰めにはなるが…。
だが確実に近づいている『その時』のために、レイは自分の心を落ち着かせる時間がどうしても欲しかった。
ひとりになってレイは中庭の中で、とりわけ大きな切り株のひとつに腰を下ろした。そしてこれから始まる、少しも現実的でない自分の結婚を思った。
“この結婚はとんだ茶番劇かもしれない…。”
この先リーザを側に置いて、自分がどうしたいのかさえ、まったく見えてこないのだ。ただ激しく反応するレイの雄の部分だけは別として…。
それからレイは、冷静さを失った自分の身体の言い訳を自分なりに考えて、自分のプライドをあっさりと裏切った自身の肉体の変化を、若さのせいだと思うことにした。
“リーザとの結婚はいまさら逃れようのない事実だ。それならば、出来るだけ彼女を見ようとしないようにしよう…。どんなに彼女が美しく可憐であっても…目を閉じて耳を塞いでいれば、心を乱されなくて済む…。いいか、レイ…何があっても自制するんだ…”
そう自分に言い聞かせて、レイは立ち上がった。見れば中庭の向こう側で、世話役の女が手招きしている。
リーザは部屋の鏡に移った自分の姿を見てニッコリと微笑んだ。今日、この日のために母マイラが用意してくれた衣装は、言葉で言い表せないほどすばらしいものだった。
シルク地の、淡い象げ色の生地に刺繍をふんだんにあしらった衣装は、トルンにしては色白のリーザの肌にはとてもよく似合っていた。
「綺麗…ありがとう、お母さん…!」
「本当に綺麗だわ…! リーザ、わたし達はあなたをとても誇りに思っているわ。幸せになってね…」
マイラは美しく装った娘の肩に手を置いて、満足そうにうなずいた。彼女は村一番の刺繍の名手だった。そのマイラが愛する娘のために、心を込めて造った衣装は、彼女のたくさんの想いが込められている。
「まあ、本当に素敵…! 衣装が出来たら今度は髪ね…? 」
今日はランも手伝いに来てくれている。ランは時々リーザをからかいながら、彼女の柔らかな明るい栗色の髪を器用に結い上げていく。細いうなじに沿うように柔らかなウェーブを描いて肩先で揺れていた。
ランも今ではレイの従兄であるリュウの妻だ。左手の指に光る金色の指輪が眩しい。
「いいなぁ…金色の指輪…」
鏡越しに光るランの指輪を見て、リーザは羨ましく思った。
「何を言っているの…? あなたももうすぐ、レイさまから指輪をはめてもらえるのよ。それに今夜は…」
ランは髪を直すふりをして、リーザの耳元で何か小声でささやくと…リーザは耳の付け根まで真っ赤にしてうなずいた。
「さあ、急いで…! 外でお父さまが妬きもきしながら待っているわ…」
婚礼の日、花嫁を花婿の下へとどけるのは、花嫁の父親の役目だ。マイらの言葉に、二人の娘は顔を見合わせて笑った。
結婚式はジェイドの館の中にある礼拝堂で行われた。それは、いつもジェイドが重臣たちと会議を行う建物の、中庭をはさんだ向かい側に建っていた。
それはこぢんまりとした白い建物で、入口の大きな威厳のある扉を開けると…正面の祭壇には大きな日本の水晶の柱が立っていて、その根元には小さな碧い炎が上がっていた。正面の扉から、その数段高くなっている祭壇へと続く通路を挟んだ両側で、村の重臣や親族達が結婚式の始まりを、息を潜めて待っていた。
先に祭壇の前で花嫁を待っていたレイは、まわりの人々のざわめきから花嫁の到着を知って、反射的に振り向いた。
その瞬間、レイはさっき彼が自分に課した誓いが、あまりにも呆気なく破られたことを知った。
父であるロウブに手を引かれながら入って来たリーザの姿は、森の妖精そのままだった。象げ色の優しい色の衣装に身を包み、柔らかな明るい栗色の髪をふんわりと上品に結い上げて、春の花をあしらった姿は清らかで美しい…。
思わず見とれている自分に気がついて、レイは自分の意志の力をふりしぼってリーザからその視線を引き剥がさなければならなかった。
リーザはとてもレイの顔をまともに見ることが出来なかった。礼拝堂に足を踏み入れた時、正面から振り返った煌びやかな姿を見て、くらくらとめまいを感じてよろめきそうになる。両足はさっきからガクガクと震えていて、祭壇の前にたどり着くまで、転ばないように何度も息を整えなければならなかった。
そして彼の隣…花嫁の位置に立ったとき、あらためて彼の背の高さに感嘆した。どちらかといえば小柄なリーザの背丈は、きっと彼の鎖骨辺りまでしかないだろう。誘惑に負けてちらりと見上げた時、礼拝堂の高い吹き抜けの窓からもれてくる陽射しに、レイの銀髪がきらきらと輝いていた。
“なんて綺麗なのかしら…? 信じられない…。これからわたしは…レイさまと本当に結婚式を挙げるのね…? 夢じゃないかしら…? もしこれが夢ならわたし…死んでしまうわ…”
リーザがレイのとなりに落ち着くと、二人は司祭に促されて祭壇の前に膝まずいた。司祭の言葉に従って互いに向き合い、レイは右手…リーザは左手を差し出して、それぞれの指を絡めるようにしっかりと手を握り合って夫婦の誓いの言葉を述べた。その短くも厳かな儀式の中に、どれほどの意味が込められていただろうか…? 互いの指を絡めあうというシンプルだけれど、はっきりとした性的な結びつきを現すその行為は、二人の心に大きな衝撃を与えた。
例は再び自分の中の…雄の部分を痛烈に意識しなければならなかったし、これで自分はリーザに永遠に縛り付けられてしまったという気がしていた。
そしてリーザも、彼の細くしなやかな指に自分の指が絡め取られたとき、言いようのない慄きが全身を走った。
儀式が終わると、広場で待ち構えていた人々に迎え入れられて、二人はまた賑やかな人波に飲み込まれた。案内役の少女達が、手にした花かごから朝摘みしてきたたくさんの花びらを二人の足元にまいていく…。
「まあ、何て綺麗な花婿、花嫁なんでしょう…? 」
「本当に…! とてもお似合いだわ。 それに二人とも初々しいこと…!」
人垣のあちこちからそんな囁きがもれる。両脇にはたくさんの村人が立ち並び、若者達や花嫁になれなかった娘たちも、羨望の眼差しでふたりを見つめた。人垣の中を広場の中央まで進むと、そこで待っていたジェイドとライザに二人は軽く頭を下げてひざまずく。
「さあ…こちらへ…」
ジェイドは自分達の側に二人を招きいれて、満足そうに周囲を見渡した。
「たった今、我が息子…レイとロウブの娘であるリーザは、オルトカル神の御前において誓いを立てて夫婦になった。この年若い夫婦を祝福し、今宵は皆存分に楽しんで欲しい…」
ジェイドの言葉で、まわりに集う村人たちからいっせいに大きな歓声が沸き起こった。皆争うようにして、二人の前に集まって…それぞれ口々にお祝いの言葉を述べていく…。
今日はジェイドも上機嫌で、ロウブたち側近に囲まれながら楽しげに酒を酌み交わしている。ライザの回りにも多くの女たちが集まっていた。
「おめでとうございます。ライザさま、今日は何て素晴らしい日なんでしょう…!」
「ありがとう、これで一安心よ…。レイはあの性格でしょう…? 花嫁を迎えるなんて、もう半分諦めていたのよ」
「まあ…」
「それに、レイの花嫁がリーザのような素直で可愛い娘でよかったわ。本当にレイは好い娘を選んでくれたわ。マイラ、これからも頼むわね…?」
「もったいないことです。ライザさま…。リーザはまだ子供で、至らないことも多いですけれど、どうかよろしくお願いいたします」
マイラもことのほか嬉しそうだった。レイとリーザの結婚が決まってからというもの、とても体調が良いらしく、顔色も申し分なかった。ほんの少し長家が入ったせいで、頬をバラ色に染めている姿はとても健康そうに見える。
そんな雰囲気の中で、レイだけが妙にしらけていた。最初こそ始めて体験する出来事に戸惑い困惑していたものの…慣れてくるにつれて、今彼を取り巻くいろいろな状況に腹が立ってきた。
“ 自分の気持ちに逆らって父の提案を受け入れたまではいい…。だが実際にはもっと時間をおくべきだった。何もかもが彼らの言いなりになって、こんなにことを急ぐべきではなかったのだといまさら後悔しても遅い…。リーザと出会い、微妙な心の変化を自分なりに理解するのには、もう少し時間が必要だったはずだ。自分のとなりに寄り添うリーザからは、言葉はなくても至福の想いはひしひしと伝わってくる。その想いに自分は応えることが出来るのか…? ”
どちらにしても、今さら引き返せない現実の重さが、レイの両肩に重く圧し掛かっていることに変わりない。レイは黙って無表情のまま、次々と注がれる祝いの酒を飲み干した。
“ なんて素敵な日なんでしょう…! ”
早朝の準備の段階から、リーザにとっては感動の連続だった。夜明けとともにやってきたランは、彼女に何が必要かよくわかっていた。ちょうど1ヶ月前にランはリュウと結婚式をあげたばかりだ。
「もう昨日は眠れなかったのでしょう…? 目の下に蒼いくまがあるわ」
リーザの顔を見るなり、ランはからかうように言った。
「だって…」
「判っているわよ。やっと長い間の夢が叶ったんですものね…? 夢の中の王子さまの腕に抱かれる日が来たのですもの…興奮して眠れないのも無理ないわ…」
黒い瞳をきらきらさせてリーザの耳元でささやくランの言葉に、リーザは真っ赤になった。
“ もうすぐいよいよ…わたしはレイさまのものになるのね…? ”
レイのとなりに座りながら、リーザは今朝のランとのひとときを思い出して赤くなった。心はもう天にも昇る気持ちで、ここに落ち着くまでは、フワフワとまるで雲の上を歩いているようだった。
“ レイは今どう思っているのだろうか…? ”
顔を上げて、彼の顔に浮かぶ表情を見てみたいという欲求に駆られたが…とても恥ずかしくて出来なかった。
少なくともレイは、リーザよりもずっと落ち着いているように見える。
“ きっと何もかもが上手くいくわ…」
リーザは至福の想いに酔いしれて、ほんの少しあるここの中の不安を、頭の片隅においやることにした。
祝宴は深夜まで続き、適当な時期にリーザは母やランに伴われてその場を後にした。花嫁は一足先に床入りの準備のために宴を離れる。花婿よりも先に身支度を整えて、花婿が戻ってくるのを寝台の上で待つのが習わしなのだ。
初めて足を踏み入れるレイの屋しきの広さに、リーザはまず驚いた。思わず足が震える…。何人かの使用人が真新しい白木の両扉を開くと、広い玄関の中は明るい篝火で照らし出され、壁には美しい刺繍の施された大きなタペストリーが飾られていた。壁際の足元には色とりどりの美しい季節の花が飾られている。
「こちらでございます…」
年配の世話役の女が指し示す方向に足を進めると、いくつかの扉を過ぎたところに、大きな浴槽があって…中には熱いお湯が満たされていた。
“ ここで身体を清めてから、初夜の床で旦那さまを待つのね…? “
思わず頬が熱くなって…その時を想うと、期待に身体中が蕩けそうになる。重い花嫁衣裳を脱いで熱い湯殿に身を浸すと…今日一日の出来事が夢のように思えてくる。湯殿には香りのいい花びらが浮かべられていて…それがよけいにリーザの夢想をかき立てる。
“ あのひともわたしと同じように感じてくれるかしら…? ”
考えてみれば、例と自分の間にはほとんど会話らしきものは何もなかったことに、多少の不安は感じるものの…たしかにレイは自分を選んでくれた。その事実を信じようとリーザは自分に言い聞かせた。
“ 大丈夫。お互いを理解する時間はこれからいくらでもあるわ。あの人のために…わたしが出来ることを一生懸命しよう…”
湯殿を出ると、母マイラとランの姿はなくなっていた。
“ そうよね…? ここから先はわたしひとりでやらなければ…。もう誰かに頼るのは止めなくては…”
長い艶やかな栗色の髪を梳かして、柔らかな素材の夜着に着替えてから、ほんの少し唇に紅を差して…リーザは案内されるまま…寝室の扉を開けた。
リーザの困惑と試練
レイは宴が進むにつれ、次第にイライラしてきた。途中リーザが席を立つと、一気に緊張して張り詰めていた気持ちがほぐれたのと、入れ替わるようにして側にやって来たリュウと数人の若者達の能天気なはしゃぎように少しむかついた。
回りを見ても、誰も彼も無礼講のお祭り騒ぎに有頂天になっている。その少し離れた場所で、あのヴァントが何人かの若者を捉まえて自棄酒を飲んで騒いでいた。
「チキショー! レイの奴、あれほどリーザだけは止めとけって言ったのによ~!」
いつしかレイにこっ酷くやられてからは、すっかり大人しくなってしまったヴァントである。
「止せ、止せ…! レイにかなうわけないんだから…」
仲間達も慰めるふりをして、じつはからかって楽しんでいる。ともかく今夜は無礼講なのだ。未来の長の結婚式なのだから…。
レイは軽く眉をしかめただけで、視線をヴァントから逸らせてまたリュウたちの方へ向き直った。
「何をまたふて腐れた顔をしているんだ…? 飛び切り美人の花嫁を前に、今からビビッているんじゃないだろうな? 」
酔って真っ赤な顔をしたグレンがレイの顔を覗き込んで言った。グレンはあの水牛事件からレイに親近感を感じているのか、機会があれば時々レイの側にやってくるようになっていた。
「別に…。朝早くから飾り立てられて、窮屈な場所に押し込められて…辟易していただけだ…」
「だろうな…? オレはおまえがいつまで辛抱できるか、仲間とかけていたくらいだ」
ぶっきらぼうにレイが答えれば、その横でリュウが声高らかに笑う。
「さて、そろそろ花嫁の準備が整うころだ。おれ達も行くか…?」
リュウがグレンとさっきから何か目配せしている。レイがいぶかしんでいると、二人はレイの両腕を両脇から取って立ち上がった。
「何の真似だ…?」
「知らないのか…? 支度の整った花嫁のもとに花婿を送り届けるのが、おれ達の今夜の役目だ…」
“ そんなことは知るわけがない…。”
思わずレイは心の中で叫ぶ。
「何で…? 付き添いなんて必要ない…!」
レイは両腕を振りほどきながら、照れ笑いとも怒りともつかない笑みを浮かべながら立ち上がった。
「そうはいかないんだ…。これは慣習だからな。きちんと務めないと叔父上に申し訳ない。それに…おまえに花婿の心得ってやつを教えてやる…」
リュウはいつものおどけた調子でレイの背中を押しながら、賑やかな祝宴の場から彼を連れ出すと、その耳元に口を寄せてささやく…。実のところこれからの時間をどう切り抜けようかと思案していたところだ。リュウの登場は、本音で言えば有り難かった。だが…。
「心得って何だよ…? 今後の参考のためにオレにも教えてくれよ!」
となりからグレンが目を輝かせながら、身を乗り出してきた。リュウは歩きながら得意げに話し始める。
「初めての床入りで失敗しないための三か条だ。ひとつめは飲みすぎないこと…。まあこれはおまえに限っては必要ないな、底なしなんだから…。ふたつめは、相手が初めてかどうかによるな…。まあ、間違いなくリーザはバージンだろうが…」
“ バージン…? ”
そこまで聞いてレイは、もういい…というふうに首を横に振った。あまりに直接的な意味合いをもつその言葉に、無意識に反応してしまう自分にまず驚いた。これから彼を待ち受けている現実を嫌でも意識してしまう…。
「で、バージンだったら…?」
レイの代わりにグレンが問いかける。
「ちょっと手ごわいな…。まして相手同様、おまえも初めてだろうし…。だが構えることはないんだ。あくまでも自然に…自分の中の欲望に従え。だがこれだけは言っておく…。焦るなよ…」
「なあ、おまえはどうだったんだよ? 偉そうに言うからにはちゃんと出来たんだろうな…?」
ニヤニヤしながらグレンがリュウのわき腹を突っついた。リュウはちょうどひと月前にランとの結婚式を済ませている。
「おれか…? おれは…というか、おれ達は結婚当日に本番を迎えるというヘマはしない。ちゃんとそれまでにリハーサルは済ませていたからな…」
「だろうな…? おまえらしい。おまえがとても結婚式まで大人しく待っているとは思えないからな…」
「当たり前だ。だがレイ…」
そこでリュウは急に真顔に戻ってレイの顔を覗き込んだ。
「おまえにとっては今日のことは特別だ。おれ達とは違う。自分の意志で結婚するわけではないからな…。それでもリーザを選んだのはおまえだ。案外生むが易し…ということわざもある…」
「ああ…」
レイは曖昧に答えたが、実際には緊張感からリュウの言葉の半分もよく聞いていなかった。ただリュウがグレンを伴って、レイの介添え役を引き受けたのは、彼なりの思いやりだったということは理解できた。それほどこういう類のことに関しては、レイはまったくの無知だった。実際この数ヶ月前までは、知りたいとも思わなかった。
それが今はどうだ…? こうして自分の家に向かっているだけだというのにどうしてこんなに動揺しなければならないのだろう…?
今さら後悔しても遅い…逃げ出す代わりに現実を受け入れ、たしかにオルトカル神の前で、レイはリーザと誓いを立てたのだから…。
「さて着いたぞ…!」
グレンがはしゃいだ声で叫んだ。
「まるでおまえが花嫁を迎えたみたいだな…?」
それを見てまたリュウがからかうように笑うと、レイはもううんざりだというように二人を脇に押しやった。
出来ることなら…あとのことはとりあえずおいておくとしても、このなんとも動きにくい衣装をなんとかしたい…。
二人が笑いながらまた闇の向こうに消えるのを見送ってから、レイは入口の扉を開けた。
屋敷の中に使用人の姿はなかった。花嫁が到着してすべての準備が整ったら、誰も残らなくてもよいとあらかじめ言ってあったのだ。
だから今屋敷の中には、レイ以外に寝室で彼を待つリーザしかいない…。
“ それが問題なのだ…”
レイは扉の内側に腕組みをしてもたれると、目を閉じて溜息をついた。
“リュウはただ欲望に従えと言ったが…? ”
同じ欲望でもこんな時、獲物に向かうならまだ楽だ…。迷わず飛び掛って、相手の息の根を止めさえすればいいのだ。でもこの奥で待つ相手は獲物ではない…。純真無垢な乙女だ。
いつか村の嫌われ者のヴァントに、「女は獲物か…?」と言って問い詰めたことがあったが、今まさに自分も同じ揶揄をしていると…自分自身に嫌悪を感じた。
“ その手を取って抱き寄せ…その唇にキスをすればいい…。あとは自然の摂理が導いてくれるはずだ…”と。そんな声が頭のどこかから聞こえてくると同時に、
“ 抑えろ…!” という理性の声も聞こえる。
レイは湯殿に飛び込むと、身につけていた衣装を乱暴に剥ぎ取った。
リーザは、小さな灯りだけのほの暗い寝台の上で、じっと身を硬くして座っていた。欄たちが帰ってしまってから、どれくらい時間が経ったのだろう…? レイの屋方の使用人達も、皆リーザに恭しく一礼すると…ひとりづつ帰って行った。
最後に残ったロタと言う名前の年配の女は、母マイラの古くからの知り合いだったからリーザを寝室に案内してから、親しげにリーザの手を取って抱き寄せて言った。
「可愛いリーザ、あなたがレイさまの花嫁としてここに来るなんて…こんなに嬉しいことはないわ。あなたのことは子供の頃からよく知っているもの…。でもこれからは奥様と呼ばなければならないわね…?」
「わたしもロタおばさんが側にいてくれて心強いわ…」
「ふふ…わたしがここにいるのは、最初の一ヶ月だけよ。ライザさまにあなた達を見守って欲しいと頼まれているの。レイさまは特別な方だから…。でも大丈夫。あなたなら上手くやれるわ。なんてったってあなたはマイらの娘だもの…」
ロタはもう一度リーザを抱きしめて、その頬にキスをして部屋を出て行った。
母の親友ともいえるロタの存在に、ほんの少し励まされた気分になったものの…間もなくやってくる『特別な時間』をドキドキしながら待つリーザの…心の緊張を解すたすけにはならなかった。
“ ふたりきりになったら、どうしたらいいの…? もし失敗してしまったら…? ”
初めての夜の…花嫁の心得は、昨夜母マイラから聞かされているけれど…。心の奥底から湧いてくるどうしようもない不安をリーザはどうして良いのかわからなかった。
遠くで扉が開く音がした。レイが戻ってきたのかもしれない…。一気にリーザの中の緊張が高まっていく…。
レイは寝室の扉の前まで来ても、まだ躊躇する自分に苛立っていた。
“ オレは大切なことを忘れている…非現実的な自分の結婚の儀式の中で、もっとも現実的な『今夜』を乗り越えなければ、跡継ぎは出来ない…。跡継ぎが出来なければ、永遠に自由は得られないという現実を…。 くそっ…! ”
心の中で小さな悪態をついて、レイは寝室の扉を開けた。
目の前の扉が開いた瞬間、リーザはハッとして我に返った。レイを待つ間にリーザは、自分の緊張を解そうと…しばらくのあいだ夢想に耽っていた。
遠い昔、初めてレイと出会った頃のことを思い出していたのだ。今でも鮮やかに浮かぶのは、少年の日の…神々しいまでに凛々しいレイの顔立ちだった。
白くなめらかな頬が紅潮して、黒いまつ毛に縁取られた碧い瞳が大きく見開かれるのを、リーザは息を詰めて見つめていた。それまでずっと泣いていたリーザは、茂みから飛び出した彼の顔を見た瞬間に、自分が何故泣いていたのかさえ忘れてしまっていた。
それほど彼の姿は神々しくて、彼が森に棲む若い男神だと信じるには十分だった。
開いた扉の向こう側から漏れる明るい光を背に受けて、レイの髪がキラキラ光るのを見て眩しさにリーザは思わず目を伏せた。
レイの瞳が陰に隠れてよく見えなかったのがかえって良かったのかもしれない…。もう心臓が今にも口から飛び出しそうだった。彼が扉を閉める間も、リーザは息を詰めて自分の…痛いほどに握りしめた拳を見つめていた。さっきからずっと指先が震えている…。
レイが扉を開けた瞬間、リーザの短く息を吸い込む音が聞こえた。この薄暗い部屋の中で…リーザはずっと緊張しながらレイが来るのを待っていたに違いない。今朝目覚めた同じ部屋だとはとても思えないほど、今寝室の中は張り詰めた空気で満ち溢れている…。
レイは無言で扉を閉めた。だが次にどうするか何も決めていなかったから、そのまま扉に背中を預けて…じっと寝室の中を見渡した。
今朝とは何かが違う…? たぶん母ライザの言いつけで、使用人の誰かが新婚用に模様替えしたのだろう。ただこの場におよんで、まだ状況を見定める冷静さが残っているとは自分でも驚きだった。
でも実際には、暗がりにしだいに慣れてきた視界の端に入ってくるリーザの姿を意識しないようにするだけで精一杯だった。
一歩寝室に足を踏み入れた瞬間に、鼻先をくすぐる彼女の甘い肌の香りを感じて、即座にレイのからだの一部は反応していたし、身体が覚えている彼女の記憶…芳しい髪の匂いや、肌の柔らかさ…そして澄んだ歌声までも、彼の中の欲望を呼び覚ますには十分だった。
“ 怖気づいているのか…? ”
またしても心の声がささやく。
“ いや、オレはアリオンだ。おそれなどありえない…。どうと言うことはない…この欲望の炎に身を任せてしまえばいいのだから…”
レイはできるだけ頭を真っ白にして、ゆっくりと寝台の端に腰を下ろした。
「リーザ…」
「は…はい…?」
不意に名前を呼ばれて、リーザは慌てて顔を上げた。驚いたのと、ずっと続いていた緊張から思わず声が上ずっているのが自分でもわかった。
「手を…」
レイもその声をどうやって自分ののどから搾り出したのかわからなかった。でも恐る恐る差し出されたリーザの震える手をその手で掴んだ瞬間に、ビクッ!と全身に電流のような衝撃が走る。
“ ……! ”
互いに見つめあったまま…固まって動けなくなって…。レイの手に預けられたリーザの手の震えがいっそう激しくなった。
“ その手を引き寄せろ…! ”
もうひとりの自分がささやきかける…。その瞬間に再び欲望の記憶が…先日抱きとめた時感じた彼女の柔らかな胸の膨らみや、今目の前にあるふっくらとした愛らしい唇が頭の中を満たして…またしてもレイに急激な身体の変化をもたらした。
熱い痛みにも似た感覚が下半身を貫いて…すぐにでもリーザを寝台に押し倒して、今感じている欲望のすべてを遂げたい…。
耐え難い衝動に駆られたレイは、ぎりぎりのところで踏みとどまると、反射的に掴んでいた彼女の手を離して立ち上がった。
「……?」
澄んだ二つの瞳が真っ直ぐにレイを見上げている。その表情にはひどく戸惑っている様子がありありと伺える。それはそうだろう…。レイは自分からリーザを求めておきながら
唐突にまた突き放してしまったのだ。
自分でも驚くほど落ち着いた声で…。
「おまえも今日は疲れただろう。今夜はゆっくり休め…オレは外で眠る…」
レイはそう告げるなり、寝室の扉を開けて外へと飛び出した。
あとに残されたリーザは、呆然としてレイの消えた寝室の扉の向こうを見つめていた…。
“たしかにあの時レイさまは、わたしの手を取ってくれた…。なのにどうして…? わたしは何か失敗したの…?
わけのわからないまま、取り残された左手が虚しく膝の上に落ちた。じわじわと哀しみが押し寄せてきた。堪えようのない涙が溢れてくると…リーザは我慢しきれずに寝台の上に泣き崩れた。
レイは村外れの丘まで一気に駆け上がると…そのまま草原の中に倒れこんだ。ハアハアと激しく息を吐きながら…目を閉じて苦しそうに喘ぐ…。急に酔いがまわったようにさっきから目の前がクラクラして、しばらくな二も考えられなくなった。
“ オレはいったい何をしているんだ…!? ”
自虐的な言葉が次々と浮かんできて、レイは思わず苦笑する。
“ 初夜の晩から花嫁を放り出して逃げ出したとわかったら、父ジェイドは何と言うだろう…? ヴァントのやつは…? 伝説とは似ても似つかぬ腰抜けアリオンと笑いものになるか…? ”
酔いの成果、妙にしらけた笑いばかりが浮かんでくる。ひとしきり笑ったあとで…今度は胸塞がれるような切なさが込み上げてきた。閉じた瞼の裏側に浮かんでくるのは、大きく見開かれた澄んだ真っ直ぐな瞳…。そう、さっきレイが部屋を飛び出す前のリーザの…すがるようなまなざしである。
「( 何故…? )」
その瞳はそう告げていた。何故…? そう何故そうしたのか、自分でもわからない…。たしかにリーザの何かに惹かれたのだ。だから、選んだ…。その頬に、その髪に触れてみたいと思いながら…その澄んだ瞳を、レイは素直に見つめ返すことが出来なかった。
“ おまえは何を怖れている…? 自由と引き換えにリーザにすべてを許し、心まで明け渡してしまうことか…? それとも欲望のままに彼女を奪い…自らのプライドを失うことか…? ”
心の声に、すぐにレイは答えられなかった。おそらくはその両方…。リーザに執着して手元に置くことは、永遠に自由を失い…アリオンとしての誇りを失うことなのだ。
“ 堕ちてしまえば楽だろう…? ”
でもアリオンとしてのプライドは、決してそれを許さない…。レイがリーザの愛に身を委ねてその温かさに甘んじることを本能的に受け入れられなかった。もしリーザが他の娘たちと同じだったら…レイもここまで苦しみはしなかっただろう…。迷わず与えるものを与え、次期が着たらこの地を飛び出して域ことに何の躊躇いも感じなかったはずである。
けれど、レイはリーザを選んだのだ。他の誰でもなく…自分から望んで…。彼女の存在がどれほどレイの心をかき乱すかなど、その時のレイは考えもしなかった。
結婚式の日から瞬く間に二週間が過ぎた…。あの切なく哀しい夜から、ふたりを取り巻く状況は何も変わっていなかった。
レイは相変わらず無口で、必要なこと以外は何もしゃべらない…。記念すべき最初の夜の…突然の拒絶に傷ついた心を抱きながら…それでもリーザはレイを信じて待ち続けた。
レイが狩りに出ている間は、リーザはロタに付いて様々なことを学びながら…ほんの少しだけ気持ちを休めることが出来た。
「やっぱりあなたはマイらの娘ね。飲み込みが早いわ」
リーザに織物を教えながらロタは言った。リーザの母マイラが刺繍の名手なら、ロタは織物の名手だった。綿であろうが絹であろうがロタの手に掛かれば、本当に素敵な生地が出来上がるのだ。
「あなたの花嫁衣裳は、それは自信作だったわ。もちろん、花婿の衣装もね…? 」
織物の機械に腰掛けながら、ロタは自慢げに微笑んだ。
「本当におばさんが織る布は最高だわ…」
「ありがとう…でもこれからはあなたが作るのよ。旦那さまの衣装も、これから生まれてくる赤ちゃんの衣装も…」
「おばさん…」
それを聞てリーザは涙ぐんだ。
「まあ、幸せすぎて泣きたくなるっていうところね…? でもこれからの長い人生の中では、感激して泣いてばかりはいられないのよ…」
ロタはからかうように笑ったけれども、彼女はリーザの本当の涙の意味を知らない…。
あの夜以来、レイが
リーザに再びふれることは一度もなかった。狩りから戻ってきても、湯殿で身を清めると…レイはすぐさま男たちの宴会へと出かけてしまう。そのまま朝まで戻らないことも度々だった。宴会のない日でも、レイが屋敷にいることは稀で、仮に居たとしても、夜になると…決まって怒ったような顔をして、どこかへ出かけて行った。
“ 彼がどこで眠っているのか? 聞きたくてもとても聞けない…。だってあの人がわたしを避けているのはたしかだもの…。わたしは、そんなに嫌われているの…? ”
ひとりぼっちの冷たい寝台の上で、リーザはぼんやりと窓の外にかかる月を見上げていた…。その瞳からは、幾すじもの涙が頬を伝って、彼女の膝を濡らした。
婚礼の日から一ヶ月は、互いの実家を訪問するのは習わしで禁じられている。もちろん、親たちが訪ねて来ることもである。その間、夫婦はお互いの結びつきを深め、未来に向けての揺るぎない絆を強めていくことに務めなければならないのだ。
もうすぐレイとリーザが夫婦の誓いを立ててから、すでに三週間が過ぎようとしていた…。
結婚直後から屋敷に来ていたロタは、二人の間の邪魔をしてはいけないと、一ヶ月を待たずに帰ってしまい、リーザは一気に寂しくなったような気がした。」
レイがいない間はロタが話し相手になってくれたし、レイがいるときでもロタが側にいれば、二人の間の緊張感を少しでも紛らわせることが出来たのに…。
昼間屋敷に誰か使用人がいる時は、レイはそれなりにリーザに敬意を払ってくれているような気がしていた。少なくとも夜のように、完全に無視されたりはしなかったから…。
昼間、あとは自分で出来るから…そう告げて、残っていた使用人を帰すと、リーザは力なく今の敷物の上に座り込んだ。
あの礼拝堂で、レイのとなりで誓いの言葉を口にしていたあの瞬間には、こんなことを誰が想像しただろう…? 今のレイと自分の間に横たわる…冷やかな緊張感を思うと、自然と涙が溢れてくる。
“ わたし達の間には、自然と育まれるはずの愛も…得られるはずの信頼も、何も存在してはいないんだわ…。その現実をどうして受け入れればいいの…? ”
そんな事実を突きつけられても、レイを愛することを止められないリーザの心の中を、行き場のない想いが出口を求めて彷徨っている…。今までなら母に、今の想いのすべてを告白していただろう。でもレイに嫁いだ今は、そんなことが許されるはずもない…。そんなことをすればレイの…そしてちちであるロウブの名誉を傷つけることになる。
今は唇を噛んで、苦しみを耐えるしかない…。まるで出口のない迷路に迷い込んだようだった。
「リーザ…?」
不意に誰かに名前を呼ばれて振り返ると、誰もいないと思っていた屋敷の、入口に近いところにランが立っていた。しばらくぶりに見る優しいその顔を見て、フッと張り詰めたリーザの表情が緩む。
「まあ…? 何度呼んでも返事がないから、思い切って入ってみれば、どうしたの…? 他に誰もいないの…?」
ランは回りを見回して、驚いたように言った。
「ラン…!?」
リーザはランに駆け寄ると、少し背の高いランの胸に飛び込んだ。ランの顔を見た瞬間、今まで胸の奥に抑えていた感情が堰を切ってあふれ出した。それはもう止めようがなくて…。
どれくらい経ったのだろう…? 激しく泣きじゃくったあとで、リーザは少ししゃくりあげるようなすすり泣きをもらしながら、ランの差し出したハンカチで濡れた頬を押さえた。
「大丈夫? 落ち着いたら話してくれる…? 何があったのか…。だってあなたは今、村中でいちばん幸せな花嫁なはずだもの。間違ってもたった一人で涙を流している悲しい花嫁じゃないわ…。」
ランの言葉は、リーザの乾いた心に沁みた…。
「わたしはきっと…あの人に嫌われているんだわ…」
「何を言っているの? そんなことがあるわけないでしょう…!?」
力ないリーザの声を励ますようにランは言った。
「いくら強いられた結婚でも、レイさまは自分の嫌いな相手を選ぶはずがないわ。それは誓って言えるわよ。リュウが言っていたもの。最初は戸惑っていたみたいだけれど、最後には覚悟を決めたみたいだって…。そんな人が自分ばかりか、相手まで不幸にすると判っていて選ぶと思うの…? あなた間違っているわ…」
「じゃあ、どうしてレイさまはわたしを見てくれないの…? どうしてあんなにわたしを避けるの…? こんなのもう耐えられない…」
そう言ってまたリーザの目から大粒の涙がこぼれた。
「それはわたしにもわからないけれど…。でもレイさまがあなたを避けているのには何か訳があると思うの…。待っていて、リーザ…。リュウに調べてもらうわ」
「ダメよ、そんな…。そんなことをしたらあの人を傷つけることになるわ。わたしは…わたしは愛されなくてもいいの…。ただ側に居られたら…。いつか父さんたちが夜中に話しているの聞いたの…」
リーザはひとつ呼吸を整えると…いつかの夜、両親が話していたことをランに告げた。幼い頃からずっと、レイが自分の中のアリオンの存在に悩み苦しんでいたことも…。
「そこまであなたが理解しているのなら、あなたからその理由を聞いてみたら…?」
「え…?」
びっくりしてリーザはランの顔を見つめた。こんな時、ランはいつでも楽天的で前向きな意見を与えてくれる。
「もう引っ込み思案のリーザから卒業するのね…。だってあなたはもうレイさまと結婚したのよ。妻になってもじっと遠くから見つめているつもり…? そうじゃないでしょう…? あなたは彼の妻なのだから、ちゃんと自分を見て欲しいと…自分の口から言わないと…。わたしは間違っているかしら…? 」
「いいえ、たぶん…」
リーザは首を横に振った。
「自身を持って…あなたにはわたしとリュウが付いているわ」
「ありがとう…」
ランにはっきりと言ってもらったおかげで、やっとリーザは自分の心の迷いに決着をつけることができるような気がした。
“ ランの言うように待つのはもうやめよう…。勇気を出してあの人に正面から向かい合わなければ、何も解決しないはずだもの…。 ”
リーザは大きくうなずいて、涙を拭くと微笑んだ…。
レイの苦悩
その日の狩りを終えて、帰り支度を始めるまでのほんのわずかの間…その場に座り込んだまま、ボーっとしていたレイは、不意に目の前に立った人影に気付いて顔を上げた。
「リーザはどうしている…? 上手くやっているのか…? 」
レイはその声に驚いて振り返った。ロウブだった。狩場では決して隙を見せないロウブの、意外な面を覗き見た気がして…ハッと息を呑んだ。
ロウブだってひとの親だ。まして一人娘が嫁いだのだから、気にならないはずがない。
「ああ…申し分なく…」
「そうか…」
レイの返事を聞いて安心したのか、ロウブは一言そうつぶやいただけで、何事もなかったように去って行った。レイはその後ろ姿を不思議な気持ちで眺める。
忙しい父に代わって、レイに男としての心得を教えたのはロウブだ。時に厳しい一面を見せながら、反面…ハッとするような優しさも持っている。そんな彼に、世話役以上の何かを感じていることも事実だった。
“ リーザの今の様子を知ったら、ロウブは何と言うだろう…? 不実な夫を捨てて、戻って来いと言うだろうか…? いっそそうなったほうがどんなに楽か…。”
「おやっ…? 仮は大成功だったというのに浮かない顔だな? 娘を嫁に出して寂しくなったか…?」
物憂い表情で戻ってきたロウブの顔を見てアッサムが言った。
「まさか…。娘を嫁に出すことは、娘を持ったときから覚悟してきたことだ。」
「そうか…? でもおまえの顔には、娘が心配でどうしようもないと書いてあるぞ…? だがそれもおまえの取り越し苦労というものだ。レイを見ろ、あの結婚以来えらい張り切りようじゃないか…?」
「そうだが、おれにはどう見ても無理しているようにしか見えないがな…」
すべてはおれのいうとおりになっただろう…とアッサムは得意げに笑っているが、後に連なる仲間に帰還の合図をするために後ろを向いていた彼は、ロウブの最後の言葉は聞こえていなかった。
帰り道、レイが黙って歩いていると…リュウが後ろから近づいてきた。このところリュウは他の狩場に出かけていることも多くて、あまり顔を合わす機会もなかった。だからこうして合うのは久しぶりだった。
「おい! さっきから何不貞腐れて歩いてるんだ…? 新婚だからって、毎晩がんばり過ぎて身が持たないって言うのは、言い訳にならないぞ…。」
「バカ言え…! おまえじゃあるまいし…」
「だろうな? でもクソ真面目なおまえのことだ。本当は未だ花嫁に指一本触れていないとか、冗談言うなよ…?」
「……」
あまりに的を射た問いに思わずレイは絶句した。
「冗談だよ、本気にするなよ。この前ランが言ってたんだよ。お前の屋敷を覗いたら…リーザが泣いていたって…。何ていったって、リーザはまだ16だからな…優しくしてやれよ。一人娘だったし、ロウブも気にしているだろう…。普段はそんな素振りは微塵も見せないがな…」
リュウはそう言いながら、前方を行くロウブの後ろ姿を目で追った。
「ああ…そうだな…」
レイはさっきのロウブの言葉を思い出した。リーザが泣いていたのは、リュウが言っていたのとは違う理由だろう…。当たり前の女なら悩まないわけがない。夫となった男からまだ一度も愛を受けていないのだから…。レイの胸がまた痛み始めた。
“ こんなことをいつまでも隠しておけるはずがない。だいたいが初めから茶番だとわかっていたはずだ。過ちを正すなら早いほうがいい…。これ以上リーザを傷つけないうちに…出来るだけ早いうちにこの結婚の解消を願い出なければ…オレはいつかこの村をあとにする。その日のためにも心残りはひとつでも少ないほうがいいんだ…。”
それからのレイはほとんど、リュウの言葉も耳に入らなかった。リュウは何か気休めを言ったかもしれない…。だが今の彼にはそれさえも何の助けにもならなかった。
リュウは、心ここに在らずといった様子のこの気難しい従弟が、何か心に重大な問題を抱えているような気がした。さっきの軽い冗談にもあれほど動揺しているところをみると、案外それが問題の核心だったのではないかという気がしたが、もしそうなら簡単ではないな…そう思っていた。
あと数時間で夜が明ける頃…レイは物音を立てないように、そっと扉を開けた。昨夜男たちの宴会が終わってもレイは屋敷に戻らなかった。自分の欲望に負けて、リーザを自分のものにしないために…どうしても二人の間に距離をおく必要があった。同じ部屋に居て、その匂いを感じれば、冷静ではいられないことをレイはよく知っている。
結婚式の夜、レイはもう少しで欲望に負けてリーザを自分の胸に抱き寄せるところだった。あのまま身を任せ…リーザを自分のものにしまっていたら、いつかここを旅立つ時に今以上にリーザを傷つけてしまうことだろう…。でも…?
この過ちを正す前に…もう一度だけ、眠っているリーザの姿をこの目に焼き付けておきたい…。そう思ったレイはひとつ大きく息を吸って…寝室の扉を開けた。
薄暗い部屋の中で、何かを求めて視線を彷徨わせる…。窓際の寝台の上にその姿があった。月明かりに照らし出された寝台の枕元…枕に豊かな栗色の長い髪を広げて、リーザは眠っていた。
蒼白い頬に扇形のまつ毛が陰を落として…その顔はとても小さく見えた。細い髪の束が幾すじか頬に張り付いている。きっと泣いていたのだろう…。枕はひんやりと冷たかった。
レイは胸を締め付けるような切なさを感じて、寝台の端に腰を下ろすと…じっとその顔を見つめた。
“ おれがアリオンではなくて…長の息子でもなく、ただのレイならよかったのか…? そうしたらおまえと愛を交わし、同じ未来を夢見ることが出来たのか…? ”
そんな想いが浮かんできて、自分でも気付かないまま…その頬にかかる髪を片手で払っていた。とても優しい仕草で…。
リーザはどうしてもレイと話し合う必要があると、その晩はどんなに遅くまででも起きて待っていようと決めていた。レイが明け方こっそりと館に戻っていることは、物音でわかっていたから…。
いつかランに会ったことで、リーザは強くなろうと決心していた。
“ レイさまからはっきりと、おまえは必要ないと言われたわけじゃないもの…。自分で確かめるまでは何も信じないと決めたから…。もう待つのは嫌…! 引っ込み思案で弱虫のわたしとさよならするのよ。レイさまの目をちゃんと見て、自分の気持ちを伝えないと…。”
自分の幸せは自分で勝ち取るのだとと言う強い決意で、寝台の上に座ってレイを待つ間に、リーザは知らないうちに眠ってしまっていた。眠りながら夢を見ていたのだろう…。夢の中でリーザは泣いていた。目の前に自分を見つめる碧い瞳を感じて…レイを想う気持ちがあふれて…リーザは流れる涙を抑えることが出来なかった。
誰かの視線を感じて、リーザはうっすらと目を開けた。そこで自分の頬を優しく撫でるレイの指先に気が付いて、ハッ…!っと身を硬くした瞬間、レイはその手を引いた。そのまま部屋を出て行くレイを見て、リーザは慌てて寝台の上に身を起こした。
「待って…!」
そう叫びながら慌てて寝台を飛び降りて、レイの後を追う…。レイは寝室の扉に手を掛けたまま…立ち止まった。
まさか、目を覚ますとは思わなかった。最後に寝顔を見るだけならと、そう思ったところが間違いだった。激しい鼓動を抑えながら、レイは彼女の目を見ないように立ち上がって、急いでその場を去らなければ…そう思った。
「お願い待って…! 話を…話を聞かせてください…!」
リーザの声を聞いて、レイは後ろ向きのまま立ち止まる。張り詰めた彼女の声はレイの心に響いた。思わず振り返って彼女の姿を見たいという想いをレイは必死で抑えた。
二人の間にしばらくの沈黙がながれた…。ピンと張り詰めた空気が、互いの激しく鳴り響く鼓動と共鳴しているように感じた。
「お願いです…レイさま…」
リーザの声には、哀しみの中にもはっきりとした決意が感じられる。
“ そういえば、自分はこの娘の声をまともに聞いたことがあっただろうか…? ”
結婚して三週間が過ぎた今でも、二人の間にはまともな会話さえなかった。そのことに今さらながらレイは気が付いた。
「レイさま…」
リーザは震える手でうしろからそっとレイの腕を掴んだ。ビクッとしてレイが振り返ると、涙を溜めたリーザがいた。必死に自分の気持ちを抑えようとしているのがよくわかる。彼の腕に添えられた指先も微かに震えていた。
「行かないでください…お願いです。教えてもらえませんか…? わたしの何がいけなかったのでしょうか…? あなたがこんなにわたしを避けているのはきっと、わたしに原因があるのでしょう…? 」
その問いかけに、レイは答えることが出来なかった。リーザはこうなったのは自分のせいだと思っている…! そのことがさらにレイを追い詰めた。レイの腕に触れるリーザの手は温かく…それだけでも十分レイの気はそぞろになる。
「何も…」
レイは低く、抑えた声で答えた。
「嘘…! では何故あなたは何も求めては下さらないのですか…? だって…わたしたち…」
リーザは自分でもそんなことが言えるとは思っていなかった。言ったあとで真っ赤になってうつむく…。
「おまえが悪いのではない…。悪いのは…」
“ おれのほうだ…”
そのあとは心の中でつぶやいた。リーザは何も悪くない…問題があるのはおれのほうなのだ…。
だが次の瞬間からレイは冷静ではいられなくなった。レイの方に一歩踏み出したリーザが、つま先だって背の高いレイの首に細い腕を巻きつけてくる。
「あなたを愛しています…ずっと前から…」
耳元でささやきながら…レイの唇に自分の唇を押し付けてきた。あの夢そのままに…。とてもぎこちない口づけだったけれど、レイを打ちのめすには十分だった。
その瞬間に…レイの中でそれまで必死に抑えていた何かが弾け飛んだ。
無意識で両手をリーザの背中に回してグッと力を込めて抱き寄せた。リーザの柔らかな胸の膨らみがレイの胸に押し付けられて…そのままレイは彼女の芳しい髪に顔を埋めた。
“ いけない…! 戻れなくなるぞ…! ”
頭の中でそう聞こえてくる言葉は、まるで警告のように鳴り響く…。
「ダメだ!リーザ…おまえの気持ちは受け入れられない…。オレはいつかここを離れる。だからおまえを傷つけることはしたくない…。今ならまだやり直せる…おまえはロウブのところへ帰れ…。帰ってロウブに言うがいい…アリオンのレイは男としては腑抜けの役立たずだったと…。そうすれば誰もおまえを責めたりはしないだろう…」
「そんな…!?」
大きく見開かれたリーザの目から、大粒の涙がこぼれて落ちた。
「わたしは…子供の頃からあなたのことが好きでした。覚えていらっしゃらないでしょうか? 10年前…はなを摘むのに夢中で、気が付かないうちに森の奥に迷い込んでしまったわたしを、あなたは毒蛇からたすけてくださいました。あの時のあなたを、わたしはずっと森の男神だと思っていたのです。」
「 …… 」
黙ってじっとリーザの告白を聞いていたレイは、引き寄せられるようにリーザの目を見つめていた。たぶん、レイがアリオンでなければ、こうまで彼女を拒むことはなかったはずだ。目の前で…自分を愛しているとささやくこの可憐な娘を抱き寄せて、その想いを受け止めてやることも出来たかもしれない…。でも自分はアリオンだ…。もうこれ以上自分の気持ちを偽ることは出来ない…。
“ 今日の狩りが終わったら、すべてを父に話して…この茶番劇を終わらせよう…。そう決心して、レイはリーザに背を向けて、わざと冷たく言い放った。
「そんなことは知らない…。あったとしても過ぎたこと…どうせ気まぐれでしたことだ。忘れてしまえ…。おまえが何を期待していたかは知らないが、オレはおまえが思っているような男ではない…」
「でも…でもお願いです!どうかわたしをこのまま側においてください…! 愛されなくてもいいんです…ただ、あなたのそばに居られるだけで…。あなたがいつかここを去られることは、ちちが話すのを聞いて知っていました。もし、その時が来ても、わたしは決して泣いたりしません…。短い間でも構わないから、どうか、レイさま…お願いですから、帰れなんて言わないで…!」
リーザの悲痛な叫び声は、最後には涙で途切れてしまう…。たぶん、リーザがその時、レイの瞳に浮かぶ表情に気付いていたら…きっと沿うまで傷つくことはなかったのかもしれない。彼女に背を向けたレイの碧い瞳には、深い哀しみの色があった。言葉とはうらはらの…彼女同様に深く傷ついた瞳の色が…。
「勝手にしろ…!」
レイはやっとのことで喉からその言葉を搾り出すと、振り返りもせずに外へと飛び出した。東の空の端には、うっすらとバラ色の帯が広がり始めている。
もうすぐ夜が明ける…。その時レイの心の中にはどうしようもない嵐が吹き荒れていた。自分からリーザを突き放しておきながら、心のどこかで深く後悔している自分がいる。本当は失いたくないと叫んでいる…。
湖のほとりにレイはがっくりと膝を付いた。どうしてこんなに心が萎えるのだろう…。
レイはちょうど山の端に昇ってきた朝日に、眩しそうに顔をしかめた。
ラングーン
その日の狩りはレイにとってかなり辛辣なものとなった。まるで内側に渦巻く行き場のない憤りと怒りと…。すべてを叩きつけるように相手に挑みかかり…そのやり方は仲間が震え上がるほど容赦がない。
レグナンという細長く鋭い角を持つシカの仲間の群れに飛び込むと、見境なく立て続けに5頭倒した。
「どうしたんだ…? あいつ…まるで怒り狂った獣さながらだな…?」
誰かがつぶやいた。いつもなら相手を焦らし…極限まで愉しんで狩りをするレイが、今日は苛立ち、憤り、触れるものすべてを傷つけそうな…そんな雰囲気さえ漂わせている。
心配して声を掛けようと近づいてきたリュウをロウブが押しとどめた。ロウブは黙ってうなずいてから、一歩レイの方に踏み出した。
レイは胸の中に吹き荒れる嵐のような感情を抑えきれずに、今にも爆発しそうな想いを持て余していた。リーザの言葉が何度も頭を過ぎって、繰り返しレイを苦しめる。今朝、泣きながらすがりつくリーザに、叩きつけるように発したあの一言に…レイ自身こだわり続けているのかもしれない…。
“今手ばなしてしまえば、あの可憐な花はもう二度と手にすることは出来ないだろう…。 ”
そう思うと胸の奥に耐え難い痛みがはしる…。
“ たかが女ひとりに何だ…!?”
荒い息を吐きながら…前を見上げると、すぐ側にロウブが立っていた。
「レイ、おまえに話がある…」
「ああ…」
レイはゆっくり立ち上がった。どのみちロウブの知ることになるんだから、今すべてを話してしまおう…。あとに引き伸ばしたところで、事実は何も変わらない。両親のことを想ってこの結婚を承諾したが、最初からこの縁組には無理があったのだとレイはロウブに打ち明けるつもりだった。
自分には誰かの気持ちに答えるだけの情熱もなく…互いに不幸になるだけだ。現にリーザは今苦しんでいる…。そしてレイ自身も…。
「ロウブ、おれからも話がある。じつは…」
伏し目がちにロウブの顔を見れば、ロウブは複雑な表情をして…レイの瞳から何かを探ろうとして、じっとその目を見つめている。レイはその視線に耐え切れなくなって、思わず目を伏せた。だがその瞬間…今までに感じたことのない得体の知れない感覚に、レイは全身が硬直したように動けなくなった。
それは全身の毛が逆立つほどの恐怖感…いや、恐怖というよりは圧倒的な威圧感とでも言うべきか…? その未知の感覚は背中から這い上がってきて…あっという間にレイの全身を捉えた…。
「レイ、どうした?」
低いロウブの声がどこか遠くで聞こえる…。背中の毛が一本、また1本…ピーンと硬直したように逆立っていく…。
“ この激しい感覚をロウブは何も感じないのか…!? ”
「レイ…!?」
激しいレイの反応に、ロウブはいぶかしみながらじっと見つめている。
“ やはり、ロウブには解らないんだ。これは何だ…!? ”
ロウブの問いかけには答えないで、レイは自分の五感をフルに働かせて、今自分の身の上に起こっていることの分析に務めた。すると、頭の中にあるひとつの名前が浮かび上がってくる。
“ ラングーン…。 ラングーン…!? ”
その名前を知ってレイ自身驚きを隠せなかった。ラングーンとはここから数百マイル北に行った山岳地帯の、硬い氷に覆われた大地に住む肉食獣で、この世界で一番獰猛で狡猾といわれている。
といってもアリオン同様、話には聞いても実際にその姿を見たものは誰もいない…。もともとラングーンは寒い地域に好んで住む猛獣で、長い毛皮と顎の下まで伸びる鋭い牙を持ち、硬い氷の大地を引っかいて歩くためのかなり鋭い爪も持っている。
この地域は大昔、氷河に覆われていたといわれる。その名残で、時々崩れた地層から、彼らの化石化した骨が見つかることもあった。
「レイ…! 答えるんだ…!? 」
ロウブの鋭い声が響いた。レイは自分の中の異様な興奮に向き合ううちに、すっかり目の前にいるロウブの存在を忘れていた。
「ロウブ…?」
ロウブの目には明らかな苛立ちが浮かんでいた。
「何かが…近づいてきている…。大きく、恐ろしくて…強い…。ラングーンかもしれない…」
「ラングーンだって…!?」
レイの言葉はロウブに衝撃を与えた。様子のおかしいレイを問いただすつもりが、予想外の言葉を耳にして、ロウブは傍目にもわかるくらい動揺していた。帰り支度をしようと近寄ってきたアッサムにさえ、ロウブは気付かなかった。
「ロウブ、そろそろ引き上げよう…。ロウブ…?」
アッサムは二人の顔色を見て、ギョッとして足を止める。
「どうしたんだ!? ふたりとも…」
アッサムの言葉を聞いて、やっとレイは我に帰った。
「ああ…頼みがある。ロウブ、今すぐ仲間を連れて南回りの尾根伝いに帰ってくれないか? この気配からすると…やつはもう10マイルと離れていないところまで迫っているだろう…。このまま行くと、奴に村の在りかを教えてしまう…」
「待てレイ…! この次期にラングーンが現れるなんて、何かの間違いじゃないのか!?」
ロウブは自分を落ち着かせようと、大きく息を吸い込んでから口を開いた。アッサムもそこでラングーンという名前を聞いて、言葉なくロウブの顔を見つけた。
その名前を聞いても、誰もがにわかに信じられないのは当然である。彼らの誰一人して、それを実際に見たものはいなかったのである。だがそれがラングーンだとどうしてわかるのか…? つまりは感である。レイのアリオンとしての天性の感が、そうだと教えるのだ。
「かなり遠回りになるが仕方がない…。オレはここに残る…」
「それは構わないが、おまえは残ってどうするつもりだ…?」
そう問うロウブの表情も険しい。レイが何を考えているのか、瞬時にロウブは判断した。
「おまえが何を考えているのか、おれにはわかるぞ。奴と闘うつもりだな…?」
「ああ…奴を殺るしかない…」
「待て、レイ…! 殺るとは言っても、本気で奴に勝てると思っているのか…? いくらアリオンのおまえでもそう簡単に勝てる相手ではない、無謀すぎる…」
「解っている…でも誰かが殺らなければ、いずれ奴は村の在りかを突き止める。ラングーンは殺し屋だ。放っておけばいつか必ずあいつは現れる…。もし男たちが留守の間に村が襲われたら…?」
レイの言葉はかれらを怖れさせるには十分だった。そう…ラングーンとは、北の殺し屋と怖れられているくらい獰猛な相手なのだ。狼ごときが闘って勝てる相手ではないことは誰でも知っている。
「おまえだって大切な身だ…。もし何かあったら…」
ロウブは娘婿としてのレイの身を案じているのか…?
“ なるほど、オレが死ねば…リーザは自由になる。何の物思いも無くなるというものだ…。”
そんな皮肉な言葉が浮かんでくるが、のんびり考えている余裕はなかった。きっと奴は、こうしている間にも着々と、こちらとの距離を詰めていることだろう…。鋭い殺気ともいえる激しい気配が、さっきから全真意ビリビリするほど感じられるのだ。
「悩んでいる暇はないんだ…! すぐに帰って父に伝えて欲しい…。4日経って戻らなければ、諦めて欲しいと…。」
「レイ…!?」
「心配するな…オレだってそのまま殺られはしない…。必ず奴の息の根を止めてみせる」
いつの間にか回りに集まってきた仲間たちに、レイはニヤリと笑った。一度決心すると、自分でも驚くほど落ち着いてきた。
くるりと踵を返して走り出した。その瞬きをする間にもうどこにもレイの姿は見えなかった…。
彼が消えた辺りをしばらく見つめていたロウブは…すぐさま仲間に短い掲示を与えて…足早にその場を離れた。レイが言うとおり、実態が一刻を争うことをロウブは承知していたのだった。
できる限り仲間を急かして南よりの未知を村へと急いだ。レイの無事を祈りながら…。
レイは全速力で走りながら、もうゾクゾクするほどの期待感に身を任せて…ぜんしん総毛立つのを感じた。最初に感じた恐怖に似た感情は、今ではたとえ様もないない高揚感に変わっている。
“ こんな感覚は初めてだ…! ”
今の今まで大して命をかけるほどの存在に出会うこともなく過ごしてきた、怠惰な毎日に飽きていたのかもしれない…。ラングーンというかつてないほどの強敵に出会って、今まで眠っていたアリオンの闘争心に火が点いた。
死ぬかも知れない…そんな恐怖心など意図も簡単に吹き飛ばしてしまうほど、それは激しいものだった。
途中じっと茂みの中に身を隠して奴が現れるのを待つ…。きっと相手もレイの気配を感じているに違いない…。相手の体長はメートルあまり、体格にそれほど違いがあるわけではないが、決定的に違うのは奴には鋭い牙と爪があるということだ。たとえ敏捷性ではレイの方が優れていても、その鋭い爪に捕まったら…さすがのレイも危うい…。
何とか奴を近くの渓谷の岩だなまで誘い込めれば…。逸る気持ちをぐっと抑えて、レイはこれから始める死闘に思いを馳せた。
陽の沈む少し前に、ロウブは村にたどり着いた。ずいぶん遠回りをしたのと、、重い獲物を携えての強行軍はかなりこたえたのだろう…。仲間達は皆、ぐったりと地面にはいつくばったまま、動けないでいる。
その中でロウブだけが必死の形相でジェイドのもとへと走った。
「ジェイドさま…!」
転がり込むようにロウブが駆け込んでくると、ジェイドは村の司祭と間近に迫った祭りの打ち合わせの最中だった。
「どうした…? ロウブ、血相を変えて…?」
いつもは何があっても顔色ひとつ変えないロウブが、ひどく慌てている様子に、ジェイドは今何か途方もないことが起こっていることを知った。
「そ…それが…!」
ロウブは苦しい息を何度も継ぎながら、さっき自分たちに起こった出来事…ラングーンの出現を察知したレイと、その後の彼の行動について…出来るだけ冷静に話した。
「何と…! それでレイがたった一人で、そのラングーンに立ち向かっているというのか…!?」
「はい、おそらく今頃は…」
ロウブもそう言って苦しげに目を伏せる。いくらアリオンの地を受け継ぐレイでもラングーンを相手にして無事でいられるわけがない。それほど相手は強いのだ。その場に重苦しい空気が流れた…。
「レイは、4日経って戻らない時は…諦めて欲しいと…もちろん、もしもの話ですが…」
「バカな…」
さすがのジェイドも言葉を失った。
「ジェイドさま…わたしも元気の残っているものをつれてすぐ引き返します! お許しを…!」
「おお、すまぬな、ロウブ、よろしく頼む…! それと誰かこのことをリーザに知らせてやってくれ、きっと心配していることだろう…」
ジェイドはロウブの動きを目で追いながら、近くにいた者に声を掛けたが、もはやその目は何も映してはいなかった。
すぐさまロウブとアッサム、それとリュウたち若者を中心にしたグループが編成されて、レイの探索に向かった。そして同じ頃、レイの身に起こった一大事を母マイラとランによって知らされたリーザは、蒼ざめてガタガタと震えていた。
“ 嫌っ…! このままあの人が戻って来ないなんて…! そんなこと信じたくない…あんな言葉を残したまま…死んでしまうなんて…!酷すぎる…信じない、絶対に信じない…!」
何度心の中で首を横に振ってみても、不安が次々へと大きなうねりとなって押し寄せてくる。
“このまま本当にあの人が戻ってこなかったら…一度も本心を確かめることなく、永遠の別れが来てしまうなんて…そんなの耐えられない…!”
心の中でずっと彼女を支えていた何かが音を立てて粉々に砕け散っていく…。リーザはすうーっと意識が遠のくのを感じた。
死闘
真っ赤な夕陽が、北の山脈の山肌を舐めるように沈んでいく…。すべてを焼き尽くすように燃える陽炎が地平線を揺らして…やがてくる闇の静寂を誘っている…。
そのはるか北の渓谷で、いつ果てるとも知れない死闘が繰り広げられていた。双方とも身の丈は2メートルあまり…一方は全身を焦げ茶色の長い毛で覆われ、上顎から下あごにかけて10センチ以上ある長く鋭い牙と、4本の足には鋭い爪を持つ。いかにも狡猾そうなギラギラとした眼光が見るものの背筋を凍らせる。
そしてもう一方は豊かな黒銀色の毛並みを惜しげもなく晒し…驚くほど身のこなしが軽い…。だが一見優雅でしなやかなその身体から発せられるオーラは、青白く燃え上がる炎のように、全身を覆い尽くして…鋭く射るような眼差しが、真っすぐ相手を捕えて離さない…。
“ 絶対におまえをここから先へと行かせるわけには行かないんだよ…!”
レイは目の前の眼光鋭い相手を見据えてニヤリと笑った。
ぎりぎりのところで、繰り出されたラングーンの鋭い爪を交わして、ヒラリヒラリと避けながら、レイは決定的な一撃を相手に与えるチャンスを狙っている。
狭い岩棚は2頭が行き交うたびにカラカラと少しずつ足元が崩れていく…。そのはるか下には暗い谷底が、大きな口を開けてすべてを飲み込もうと待っていた。
「チッ…!」
ラングーンの爪を避けてわずかに後ずさった拍子に、レイの後ろ足が狭い岩だなから外れて落ちる。バランスを崩したその一瞬を、ラングーンは見逃さなかった。
ガツン…!! という衝撃とともに激しい痛みが右肩にはしる…。奴の鋭い爪がレイの方を深く抉ったのだ。
「クソッ…! このまま殺られるか…!」
レイは痛みに顔をゆがめながら、次にくる奴の鋭い牙の攻撃を避けるために、素早くラングーンの下に潜り込んで、思いっきり片足を蹴り上げた。
すると…ラングーンの身体は、レイの右肩を捉えたまま宙に浮く…。2頭はひと塊になって暗い谷底へと転がり落ちていった。
長い尾を引くような叫び声を聞いた後、やがて辺りはまた真っ暗な静寂へと戻る…。
アリオンの生還
一晩かけてロウブは、レイの姿を求めて探し回ったけれど見つけられず、翌朝疲れ果てて村に戻ってきた。
「ジェイドさま、方々探し回りましたが、レイの姿はどこにも…」
ロウブの報告を黙って聞くジェイドも、深くうなだれたまま…顔を上げようともしない…。
「ご苦労であったな、ロウブ、あとはゆっくり休むがよい…」
それだけ言うのがやっとで、ジェイドも昨夜は一晩中起きていたのだろう…。声に力がない。その側では妻のライザが、両手で顔を覆うようにして声を殺して泣いていた。
「神さま…今頃になってまたわたし達の息子を奪おうとされるのですか? あんまりです…」
村は深い悲しみに包まれて…いつもは賑やかな村の広場もひっそりとして、誰一人村人の姿はなかった。
リーザはひとりになりたかった…。まわりの人のどんな慰めも新たな苦痛をもたらすだけ…今はひとりになって、せめて二人で過ごしたこの館の中でレイのことを想っていたかった…。
今朝出かける前のレイの姿を思い出しては涙にくれている…。もう涙などとっくに枯れてしまったはずなのに、忘れられないその面影が浮かんでくるたびに、あとからあとから…止め処もなく溢れてくる。せめて彼の温もりだけでも欲しいと、抱きしめた彼の上着から、小さな何かがリーザの足元に、カラカラと転がり落ちた。
「何…?」
拾い上げてみれば、それは小さな髪飾りで、いつかの晩、リーザが無くしたと思っていたあの髪飾りだった。
「どうしてこれがこんなところに…?」
あれこれ考えてみても納得のいく答えが見つからない…。
“ まさか、あの晩…レイが拾ってそのままもっていてくれたのだろうか…? それならどうしてすぐ返してくれなかったのだろう…? ”
そう思ったらまた涙が溢れてきた。
それから3日過ぎても何の手掛かりも見つけられないまま…4日目の朝が来た。毎日男たちは探索を続け、諦めかけた時に北の渓谷を流れる川の岸辺に、引っかかるように横たわる大きなラングーンの骸が見つかった。
「たしかにラングーンだった。長い牙と爪があったし、話に聞いたのと同じ姿だった。」
「ラングーンが死んだのならば、レイはどこかで生きているんじゃないか…? 奴の骸の首筋には、確かに止めを刺した痕があったぞ…」
「だがあれほどの奴の相手をして…無事でいられるわけが無い。深手を負っているのなら、いまだに戻って来ないのは、もうすでにレイも…」
村人達は口々に噂して…4日経っても戻らないレイを諦めかけた頃…。
「父ちゃん、村外れで誰か倒れているよ…!」
外で遊んでいた子供が村外れの丘で、意識を無くして倒れているレイを見つけた。自慢の黒銀色の髪は泥で汚れ…全身は傷だらけ…誰にそれがアリオンのレイだと気付くだろうか…?
身に着けている服はぼろ布と化し、滲んだ血痕が黒いシミになっている。豪華な刺繍の施された飾り帯は擦り切れて、端は無残にも千切れていた。
右肩は服ごと大きく裂けて、真っ赤な傷口がぱっくりと口を開けている。避けた服の胸元にこびりついて固まった血が微かに震えて見えるのは、たしかに彼が生きている証だった。
「レイが…レイが生きていたぞ…!」
その報せはすぐにジェイドのもとに届けられ、彼は村人によってすぐジェイドの屋敷に運ばれた。手当てをした薬師は首を傾げる。
「信じられませんな、これほどの手負いを受けて生きておいでとは…。全身に及ぶ傷はかなりの深手です。しかしわずかですが、すべて急所からは外れていたのが幸いでした…」
「それで…レイは助かるのか…?」
「今のところは何とも…。骨も何箇所化は折れているので、回復までにはかなり時間がかかると思われます。それにしばらく熱も出ます。ここ、2,3日がヤマとしか申し上げられません…」
傷の手当をした薬師は、さっきからしきりに首を振っている。それほどレイの受けた傷は深かった。
ラングーンとともに深い漆黒の谷底に落ちたまでは覚えている。右肩に食い込んだ鋭い爪がギリギリと筋肉を貫き、骨を砕く…。焼けるような痛みにやがて手足が痺れてきた。
それでも朦朧とした意識の中で、最後の力を振り絞ってラングーンの喉もとの急所を狙って牙を突きたてた。
確かに手ごたえは感じたが、そこで意識は途切れ…あとはすべてが暗闇となった。
それからどれくらい意識を失っていたのだろうか…? 気がつけば狭い岩だなの…わずかな隙間に引っかかるようにして横たわっていた。
“ オレは…生きて…いるのか…? ”
瞼が重い…。手も足も、とても自分のものとは思えないほど、身体中が痺れて動かない…。瞼を閉じたままでも、陽射しの明るさは解る。身体は1ミリも動かないのに、喉が渇いて口の中は焼けるように熱い…。
幸運にも頭の上に茂る湿った苔を伝って、わずかだが水滴が落ちてくる。それで喉を潤しつつ…辛うじて命を繋いだ…。
それから夜が2日、朝が3回来て…やっと上体を動かせるようになって、レイはようやく自分がどこにいるのか理解した。切り立った崖の中腹に突き出るように張り出した岩の窪みに、はまり込む様な形で横たわっていた。そのはるか眼下には深い谷底が…。上は断崖絶壁…左右を見渡しても、崖をよじ登るだけのわずかな足場もない…。
さあ、どうする…? 仮に登れたとしても、この手足が頂上に着くまで持つのやら…。ズキズキする痛みをおして片手の指を1本づつ動かしてみる。どうにか動くらしい…。
動くとわかってからは夢中でそのわずかな手掛かりを手探りで求めつつ、必死で崖をよじ登った。あとはどうやって村までたどり着いたのか…? 自分でもまったく覚えていなかった。ただ帰りたい…。その一心で…思うように動かない手足に鞭を打った。
“ 何としても…帰らなければ…。あの娘のために…。”
次に気がつけば、ジェイドの屋敷の一室に横たわっていた。確かに意識は在るのに瞼が開かない。どこか遠くで…自分の名前を呼ぶ声が聞こえる…。心配そうに覗き込む人の気配と…微かなすすり泣き…。 この声は母ライザだろうか…?
“ 何だろう…? 何かをささやきかける声が聞こえる…夢の中にいるのか…? それとも現か…? ”
「レイ、お願いよ! 目を開けてちょうだい!」
レイが横たわる寝台に取りすがるようにして、母ライザが激しく号泣している。その側でジェイドがどうしようもない…というように首を横に振りながら、妻の細い身体を抱き寄せた。
「ライザ…レイの命は神の御心に委ねよう…オルトカル神は、きっと我々を見捨てたりはなさるまい…。信じて待つのじゃ…。そして、リーザよ…」
「は…い…?」
不意に名前を呼ばれて、リーザも涙で濡れた顔を上げる。レイが生きていたと聞かされた時には、飛び上がるほどに嬉しかったが、それもすぐに萎えた。寝台に横たわるレイの姿はあまりにも無残で…彼の命が危ういのは誰が見ても明らかだったから…。
「哀れな娘よ…。あの喜びのあとで、このような凶事が待っていようとは…。すまぬな、村のためとはいえ、若いそなたをひとりにしてしまうやも知れん…」
何かに堪えるようにジェイドは言った。その声には深い絶望の響きがあった。
「ジェイドさま…わたしは信じています。レイさまは絶対に助かるはずだと…。わたしは…わたしは信じて…」
リーザの声もだんだんか細くなっていく…。
何の前触れも無く、レイの瞼がすっと開いた。その目にはすぐ近くにいる母ライザの涙に濡れた顔がまだぼんやりとしか映らなかった。そして、父ジェイドと…それから…? 虚ろな碧い瞳が何かを求めて彷徨う…。
「レイさま…?」
「レイ…!」
まわりの呼びかけにもレイは微かに唇を動かすだけで、焦点の定まらない瞳が何かを捕えてわずかに微笑んだ。
“ リーザ…オレは…生きて…いるのか…!? ”
全身は熱を帯びてだるく、どこもかしこもちぎれるような痛みに苛まれている。そのp中でわずかに映った彼女の姿は、暗闇に中に差し込んだ一筋の光を見た感じがした。だがそれもつかの間で…次の瞬間、またレイは深い闇に吸い込まれていった…。
「やはりかなりの高熱にうなされておいでのようです。さっき差し上げた薬が効いてくれるといいのですが…。このまま何日も熱が下がらないということになれば、いくら屈強なレイさまといえども、あるいは…」
年老いた薬師は、苦しそうな表情で伝えてくる。回りで見ていた誰もが、ジェイドとライザ…リーザとすべての重臣たちが深いため息を吐いた。
「聞いての通りじゃ、すべては神の御心に委ねる以外にない。どうかレイのために祈ってもらえまいか…」
沈痛なジェイドの言葉に皆、うなずきながら深く頭を垂れて…一礼するとその場をあとにして行った。ライザも誰かに支えられてそろそろと立ち上がる。その瞳には光はなく、不意に訪れた悲しみに、すべての生きる力を失くしたかのようだった。
ライザの姿が扉の向こうに消えると、ジェイドは最後まで残っていたロウブ夫妻を振り返って言った。
「ロウブ…今夜はこのままリーザを一緒に連れて帰ってほしい…。おそらくこの何日かはまともに眠ってはおるまい。このうえおまえにまで倒れられては、大切な村の光を二つとも失いかねない…。何かあれば必ず報せよう…今夜は両親のもとでゆっくり休むがよい…」
それを聞いて弾かれたように、リーザは顔を上げてジェイドを見つめた。ジェイドの表情にも深い苦渋の想いがありありと感じられる。リーザの身を思い遣っての言葉だとわかっていて、リーザは首を横に振った。
「お願いです。ジェイドさま…。どうかわたしをこのままレイさまのお側にいさせてください…! ずっと側にいたいんです。もしも…レイさまに何かあった時には、わたしも一緒に逝けるように…」
「リーザ、おまえは…?」
リーザの必死な想いにジェイドは言葉を失った。今さらながらの想いの深さに、もう何のいたわりも慰めも要らないのだとその澄んだすみれ色の瞳は訴えている…。
「すまぬな…それでは頼む…」
目頭を押さえながら、ジェイドがそろそろと立ち上がって部屋を出て行くと、ロウブとマイラもチラリと心配そうに娘の姿を振り返ったあとで、そのまま去って行った。
みんながいなくなると…部屋にはまた二人きりになった。夕闇が近づいた部屋に、リーザは灯りを灯した。
また二人っきり…。こんな時なのに、リーザは嬉しかった。またレイは帰って来てくれた…。そう想うだけで、胸は激しくときめいて…またあの朝の、レイの碧い瞳に見つめられた瞬間、強く抱きしめられて感じた…温かい胸のぬくもりを思い出していた。
明るいろうそくの炎に照らし出されたレイの横顔は、とても瀕死の重傷を負って生死を彷徨っているとは思えないほど美しかった。時々苦しそうに口元が歪むのは、熱のせいかもしれない…。
レイの額に吹き出る汗を拭いながら…リーザは魅入られたようにその顔をじっと見つめた。
“ このまま、何も告げずに逝ってしまうつもりなら、あんまりではありませんか…? せめて失くしたと思っていたあの髪飾りが、あなたの手元にあったわけを教えてください…。あなたの心の片隅に…ほんの少しでもいられたという証がほしいのです…。 ”
つれないほど整った横顔に、ついそんな恨み言のひとつも言いたくなる。
“ このまま…あなたがひとりで逝ってしまうというのなら、わたしは…きっとあの世まで追いかけて…あなたの本当の心を聞き出してみせる。必ず…。”
レイはひとり…深い森の中にたたずんでいた。樹齢何百年という巨木が生い茂る木立の間から、キラキラと春の陽射しが降り注いでいた。その眩しい木漏れ日を見上げながら、レイはその場所にじっとに立ち尽くしているのだった。
たぶんここは…養育係りのロウブの目を盗んではよく遊びに来ていた場所に違いない…。でもどうして今ごろ、こんな場所に…? そう思ったとき、レイは自分が8歳の子供に戻っていることに気がついた。
“ まさか…? これは夢だ…! さては現実から逃れるために、心が都合のいい夢を見せているのか…? それでもいい…たとえ一瞬でもあの、狂おしいほどの想いから逃れられるのなら…。”
そう思った瞬間、視界の中に何かが飛び込んできた。目を凝らしてみると、ひとりの幼い少女が何かに怯えたように立ち尽くしている。彼女はわなわなと震えながら、さっきからしきりにあたりを気にしている。キョロキョロ落ち着き無くあたりを見回して、ひどく怯えていた。
年のころは、5,6歳といったところか…? ふたつに結って垂らした栗色のお下げが、とても愛らしい少女だが、恐怖のために頬は引きつり、乱れた髪が汗に濡れて細い首筋に張り付いている。道に迷ったのか、あちこち走り回ったのだろう。呼吸も荒く、かなり体力を消耗しているのがわかる。
だがそれよりも、少女の足元に一匹の毒蛇が今にも飛びかかろうと…鋭い牙を向けて狙っているのに、少女はまったく気がついていないのだ。
レイは瞬時に少女に向けて、猛然と走り出していた。驚く少女の足元から毒蛇を掬い上げて、高々と少女の目の前に掲げた。毒蛇は無残にもその頭を、鋭い枝先で貫かれてもがいていた。
「死にたいのか、おまえ…! この辺りにはこんな奴が山ほどいるんだぞ…!? 」
ぶっきらぼうなレイの言葉に、凍りついた少女の表情が一瞬緩むが次の瞬間、今度は大きな声で泣き始めた。はじめて見る少女の姿に、レイは戸惑ってただ立ち尽くすしかなかった。
だがレイはその時、心の中でつぶやいていた。
“ オレはこの少女を知っている…。たぶん、この澄んだすみれ色の瞳も…柔らかそうな栗色の髪も…思えば、そのままじゃないか…! ”
でもそれが誰なのか、どうしても思い出せない…。
そのもどかしさを振り払うかのように、レイは少女に向き直った。
「迷い込んだのか…?」
レイの言葉に少女はコクリとうなずいた。
「ついて来い!」
レイはくるりと少女に背をむけて、また茂みの奥へと歩き出した。少女は慌ててあとを追う…。
感情の高ぶりがそうさせるのか、自然と早足になる。途中何度も立ち止まっては、少女が追いつくのを待って…また歩き出す。それを何度も繰り返して、急に目の前の景色が開け…見慣れた風景が現れた。
ホッとして駆け出す少女…。レイは近くの茂みに身を隠して、じっとその様子を見守った。彼女は2,3歩走ってから、急に何かを思い出したように立ち止まって振り返った。キョロキョロと何かを探すようにあたりを見回していたが、やがて諦めたようにまた走り出した。
きっとレイの姿を探しているのだろうと思ったが…そのまま彼が隠れていると、少女の姿はどんどん小さくなって見えなくなった。
少女の消えた方を見つめながら…レイは奇妙な想いにとらわれていた。少女に何か大切なことを伝え忘れているような気がして…でもそれが何なのか自分でもわからないのだ。ただそれが、自分にも彼女にとっても、とても大切なことのような気がして…。
“ 何だ…? いったい何を忘れている? 思い出せ…! ”
頭の中に同時にいくつもの想いが駆け巡り、もうこれ以上堪えられないと感じた時、不意に脳裏にありありと…鮮やかな面影が浮かんできた。愛らしく澄んだすみれ色の瞳…長い栗色の髪に縁取られたすっきりと整った面差し…さっきの少女に似通ってるものの、ずっと大人びて憂いを秘めた眼差しは、ドキッとするほど美しい。
“ そうだ、オレはこの面影をずっと探していたんだ…。 ”
そう気がついたとき、目の前の澄んだ瞳から大粒の涙がいくつも、いくつもこぼれ落ちた。
“ これも夢か…? ”
そう思ったとき、レイは確かな声の響きをその耳で聞いた。リーザの声だ…。
「ああ…神さま、感謝します…!」
「り…ザ…?」
レイはそこでやっと自分が現実に戻ったことを知った。
“ 終えは生きていたのか…? てっきりもう命は失われたとおもっていたのに…。オレは生きて…再びあの娘の前にいる…。あの朝、オレはひどい言葉で彼女を傷つけた。自分から遠ざけることで、あの苦しみから逃れようとした…。でもそれがよけいに自分を苦しめることになるなんて…思ってもいなかった。心が求めていたのはリーザだったのだから、バカなオレは、そんなことにも気付きもしなかった。自分のプライドを守るために、オレは一番大切なものを傷つけてしまった。愚かなことだ…。 ”
レイは虚ろげな視界に映るリーザの面影に向けて、やっと自由になる左手を伸ばした。リーザはその手を取ると、自分の濡れた頬に押し当てる。
「良かった…生きていてくださったのですね? わたし…嬉しくて…」
涙が止め処も泣く流れて…その雫がレイの手を濡らした。その温かさを感じながら…レイは何とか笑おうとして…唇の端を動かした。
“ 本…に…おま…え…泣き…だな…」
思ったほどうまく言葉にならなかった。言いたいことはたくさんある。だがそれに見合う言葉が見つからない…。
誰かを呼びに行こうと立ち上がりかけたリーザの手を、レイは掴んで引き戻した。
“ 誰も呼ばなくていい…。” そう目で訴えて首を横に振ると、片手を伸ばして彼女の頬を撫でた。
“思えば…最初からオレはこの娘を泣かせてばかりいるな…最後に笑顔を見たのは、結婚式の晩だったか…? その微笑に惹かれながら…それを素直に認めようとはしなかった。リーザは一途に…その純粋な想いをぶつけてきたというのにオレは…卑怯にもしり込みしてしまった。でも今ならわかる。何が大切で、何が必要なのか…。もう2度と失うわけにいかないそれを取り戻すために、どうしても今しなければならないことがある…。”
「リーザ…すま…ない。オレを…許せ…」
声を喉から搾り出すように、レイはリーザに語りかけた。
「レイさま、あんまりしゃべってはお体に障ります」
「いや…今話しておかなければ…ならない…のだ。オレは…眠っている間、ずっと…夢を見ていた…」
「夢を…?」
「ああ…。遠い昔の…そう、オレとおまえが初めて会った時の夢だ…。あの朝…オレは…おまえに、そんな昔のことは…覚えていないと言ったが、どうやら心は…忘れていなかったらしい…。夢の中で、ずっとおまえの面影を探して…いた…。」
「レイさま…?」
「聞け、リーザ…。いつか、月夜の晩に…村外れの丘で、出会ったことがあっただろう…?
オレはてっきり…森の妖精にからかわれたのだと思った。でもそこで…『リン』という名前の彫られた髪飾りを拾って…」
「ああ…」
リーザは深いため息を漏らした。やっぱり…という想いが胸を過ぎる。
「それが…おまえのものだと知るのに時間がかかったが…オレはそれまで、花嫁など誰でもいいと…思っていた。もともと強制された結婚で、この村にアリオンの血を残すだけの連れ合いなら…誰でもいいと思っていたから、感情など必要ないと思っていたんだ…」
「では何故…?」
「おまえを選んだのか、聞きたいのだろう…?」
リーザはコクリとうなずいた。
「それは…おまえの…その澄んだ瞳が、荒んだオレにはとても眩しく感じられたから…。それに、いつか歌っていただろう…? その歌声が忘れられなかった。懐かしくて…温かいその声をもう一度聞きたくて…おまえを選んだのかもしれない…」
「レイさま…」
嬉しさにリーザの全身は震えた。同時に自分の歌を聞かれていたと知って、恥ずかしさに頬を染めた。
“ あのレイさまが…わたしだけに想いを語ってくれている…。寡黙で…だれにもその本心を明かさないと言われているあの人が…信じられない…。”
さらにレイの告白は続く…。
「なのにオレは…ずいぶんとおまえにひどいことをしたな…? 心では惹かれながら…未熟なオレは…無垢なおまえにどう接していいのか、わかららなかったんだ…。許してくれ、リーザ…。オレの身体が元に戻ったら、出来ることなら…あの結婚式の夜からやり直さないか…? 」
苦しい息を整えながら、レイはじっと瞬きもせずにリーザを見つけた。涙を溜めたすみれ色の瞳がキラキラと輝いて、その全身から歓びがあふれている。それを見てやっとレイも微笑んだ。
「レイさま…許すも許さないも、わたしはこうしてあなたが…生きて帰ってくださっただけで十分なのです。それ以上何かを望んだら…わたし…」
幸せすぎて怖いのだと…言って、リーザはまた泣いた。
やっと笑ったかと思ったら、また泣くのか…? 本当によく泣く娘だと笑いながら…レイはリーザのほっそりした腕を引いて、寝台に横たわる自分の上に引き寄せた。
彼女の重みを受けて、思わず傷の痛みに口元が歪む。
「あ…レイさま、傷が…」
「大丈夫だ…。誰かを呼ぶのは明日になってからでいい…。今夜はこのまま眠りたい…」
レイの左胸に頬をうずめるようにして、リーザは寄り添った。素肌の上に巻かれた白い包帯が痛々しい。本当は右の助骨も何本か折れていて、息をするのもままならないのだが、レイはリーザの背中に腕を回して、グッと強く抱きしめた。
「もう何も心配は要らない…。2度とおまえに辛い思いはさせないと約束する…」
「レイさま…わたしも、あなたがこのままひとりで逝ってしまったら…ともに赴いて、あなたの本当の心を聞きたいと思っていました。あなたのいない世界なんて考えられないから…」
「ああ…オレの本心は、さっき…おまえに語ったとおりだ。嘘偽りはない…」
「はい…信じています…」
リーザの頬を再び熱い涙が濡らした。これはうれし涙です…。微笑むリーザを、レイはもう一度優しく抱きしめた。
しあわせな時間
それからの数週間…リーザとともに、父ジェイドの屋敷で過ごしたレイは、体力がもとに戻るのを待って、自分の屋敷へと戻って行った。
レイが助かったという報せは、沈んでいた村の雰囲気を一蹴した。ジェイドの屋敷で過ごす間、ロウブ夫妻・重臣たちをはじめ、多くの人々が代わる代わる見舞いに訪れた。
その顔を見た誰もが喜びと安堵の表情を浮かべ、若い夫婦の仲睦まじい様子に微笑んで帰っていく…。
あの晩…リーザとレイは、互いの気持ちを確かめ合ってから、より強く惹かれ合うような気がしていた。起き上がれるようになったとはいえ、まだ完全に傷の癒えないレイのために、リーザは毎日ランのもとへ通って、新しい薬草を取ってきては、せっせと傷の手当をする毎日である。
「クッ…!」
「ごめんなさい、痛みますか…?」
右肩から胸にかけて、赤く盛り上がった傷跡に、丁寧に薬をすり込みながら…リーザは心配そうにレイの顔を見上げた。
「いや…少し沁みただけだ…。大したことはない…」
平気だ。レイは笑ってみせるが、表面こそ塞がっているものの…骨の近くまで達した傷の治りは遅い。ラングーンの鋭い爪に抉られた傷である。そう簡単に癒えるはずもなかった。時々激しく疼いてはレイを苦しめた。
「そんなに心配そうな顔をするな…。おまえの煎じてくれる薬のおかげでだいぶ楽になったから…」
「本当に…?」
その言葉を聞いて、リーザの顔がパッと明るくなった。そのキラキラ輝く瞳を見下ろしながら、レイはリーザの頬に手を添えて…優しくその唇に自分の唇を重ねた。恥ずかしそうに頬を染めながら…唇が微かに震えているのがわかる。
“ なんて初心な娘なのだろう…?”
爽やかな感動がレイの心を満たした。
“ なのにオレは…この娘に背を向けた。大ばか者だな…。”
レイとリーザの想いが重なったあの晩から、二人は夫婦として生活していたが、本当の意味での夫婦にはまだ成っていない。リーザは2人でいることに何の不安も感じてはいなかったが、レイがリーザにキス以上のものを求めてこないのは、傷がまだ完全に癒えないせいだとわかっていても、時間が経つにつれて自信がなくなってきた。レイと早く本当の夫婦になりたい…。でも自分からそれを求めるのはためらわれた。
そんな中で、レイにはある計画があった。身体が回復したからには、少しでも早くリーザを自分のものにしたい…。でも今まで彼女を苦しませた分、出来るだけの優しさと最高の雰囲気の中で『その時』を迎えたいと思っていた。初めてという点ではレイも同じだった。
でも不思議なほど緊張感は無かった。この数週間、ふたりでゆっくり互いの気持ちを高めあってきたせいだろう…。
「何を考えているの…?」
寝室の高窓から見える明るい月を、じっと見つめるレイの視線をリーザは辿る。
「今夜は満月だな…?」
二人が同時に見上げる空には、中天にかかる見事な満月が美しい姿を見せている。
「いいところへ連れて行ってやろう…」
レイはリーザの手を取って立ち上がると、側にあった柔らかな夜具を取ってふわりと彼女の肩に掛ける。
「どこへ行くの…?」
「いいところだ…」
不思議そうに自分を見上げるリーザに、レイは黙って微笑んで見せる。
「おいで…」
手を引いてリーザを抱き寄せ…村外れから続く小道を、2人は寄り添って歩く…。リーザはうっとりしながら、レイの端正な横顔を見上げた。3ヶ月前にこの道を…たったひとりであるいたことを思い出した。
“ あの時は自分の想いを伝えるのに必死で…こんな風に彼に寄り添える日が来るなんて…想像も出来なかったわ…。”
つないだレイの手の平からは、温かいしっかりとした感触が伝わってくる。それを2度と離したくない…。リーザは強くその腕にしがみついた。
「リーザ、あの晩もこんな満月の夜だったな…?」
レイはそう言いながら、リーザを振り返った。あれからレイは優しい微笑で自分を見つめてくれる。見下ろす碧い瞳がキラリと光った。
“ ああ…この瞳には逆らえないわ…。でもあの晩のことは言えないの…あのおまじないは秘密にしておかなくちゃ…。だってもし誰かに知れてしまったら、魔法が消えてしまうような気がするもの…。”
リーザは答える代わりに、つま先立って背伸びすると…レイの頬にキスをした。
月明かりに照らされた夜道を…二人がやってきたのは、太古の昔から数多の神々が住まうと言い伝えられているゼノンの森だった。見上げるほどの巨木が生い茂り、ふだん立ち入ることのない森は、本当に神々が住まうのにふさわしい場所である。この森の奥深くには光る石の洞窟があって…そこで採れる石には不思議な力が宿るといわれている。
いつかランに教えられて、まじない用の石を採りに来たことを、リーザは永遠に忘れないだろう…。その日の晩にあの丘でレイと出会って、そこからすべてが始まったのだから…。
レイに導かれて入った洞窟の中は、ひとりで訪れた時よりも…はるかに素晴らしい場所だった。あたり一面キラキラと光り輝いていて…その中をふたりは奥へ奥へと進んでいく…。すると、やがて大きな広い場所へと出くわした。
どうやら洞窟はそこで行き止まりになっているらしかった。見上げる天井は高く…大きな巨大な水晶の塊りが幾重にも層になって出来ていた。どこからか月の光りが差し込んでくるのだろう…その水晶の層が幾重にも光りを反射して、無数の光りのイルミネーションを創りだしていた。
そして中央にある透明な大きな石の下に、澄んだ水が流れているのが見える…。それが少しずつ石の下から沁み出して…そのまわりに小さな小川をつくっている。
「なんて綺麗なの…!?」
この世のものとは思えないほどの美しさに、リーザは思わず感嘆の声を上げた。
「すごいだろう…? 子供の頃に見つけてから、ずっとオレだけの秘密の場所だった。だから傷が癒えたら…必ずおまえを連れてきてやろうと思っていた…」
「レイさま…」
「もうレイでいい…」
レイはリーザの手を引いて、広場の真ん中にある透明な石の上に上がった。石の表面はなだらかな平面状をしていて、二人が腰を下ろしたちょうどその真下を…いく筋もの澄んだせせらぎがゆっくりと流れていく…。
「今はっきりと言う…。オレはおまえを愛している…頑固なオレの心を開いてくれたおまえだから、これから先…そばにいるのは、おまえでなければダメなんだ…」
柔らかな光りのイルミネーションの中で、レイはじっと明るいスミレ色の瞳を見つめながら言った。両手はリーザの肩の上に置かれている。
「わたしも…長い間、あなただけを見つめて来ました。あなたでなくてはダメなんです…」
リーザの肩も小刻みに震えていた。その頬をまた一筋の涙が伝って落ちる。レイはその瞳を見つめたまま…その頬の涙を指先で拭うと、ふっくらとした唇に口づける。
誰に教えられることもなく…互いに愛しいと想う気持ちが自然に二人を引き寄せるのか…向かい合って互いの衣の紐を解く…。
リーザは震える指先で、レイの上着を止める紐に手を伸ばした。恥ずかしさと緊張で、とてもレイの顔をまともに見ることは出来ない…。レイも同じように緊張しているのだろうか…?
最後の結び目が解けると…レイは素早く上着を脱ぎ捨てた。彼の裸の胸が激しく上下している。もともと白い肌が日焼けして蜂蜜色に輝いて…なめらかな筋肉質の身体には、無駄なものは何一つ無かった。
リーザは惚れ惚れと見つめ…その平らな胸に恐る恐る触れてみる…。リーザは自分がこんな風に大胆になれることが信じられない…。
そしてレイは…さっきから自分の中の、情熱の炎を抑えるのに苦労していた。急いてはいけないのはわかっている。ゆっくりとことを進めなければ…。でも一度欲望の炎に飲み込まれてしまったら…? そのさきは自分でもどうなるのかわからなかった。
頬に添えた手を下ろして…リーザの衣の、ウエストを止めるサッシュに手を伸ばした。
ゆっくりと結び目を解いて引っ張る…。柔らかな生地の衣は、あとは肩紐を解くだけでいい…。
迷わずレイは細い肩紐に手を掛けると、しなやかな生地はするりと…彼女の肌をすり抜けて落ちた。
柔らかな月光の中に白いリーザのシルエットが浮かび上がった…。細身の身体からは想像できないほど豊かな胸を、真っ赤になって両手で隠す様は初々しくて…レイは思わず息を呑む。
初めて目にする生身の娘の、ありのままの姿に…鼓動は激しく鳴り響き、さっきから頭はクラクラするほどのめまいに襲われている…。大きく息を吸って…自分を落ち着かせてから…リーザの背中に腕を回して抱き寄せる。そして反対の腕で支えながら…優しく彼女をその場に横たえた。
二人の視線が激しく上下に絡み合う…。レイの身体に組み敷かれながら…その腕の中でリーザの身体は小刻みに震えているのがわかった。
「オレが怖いか…?」
「い…いいえ…」
消え入るようなか細い声も、心なしか震えている。リーザもこれから初めて体験するであろうことへの期待と不安にドキドキしてしていた。頭の片隅で…レイに最初に嫁ぐ晩に、母マイラから送られた言葉を、リーザは思い出していた。
“ 愛する人を初めて受け入れる時…決して怖れないこと…。まるで水面に揺れる水草のように、その流れにすべてを任せて、決して逆らわないこと…。そうすれば、苦しみなど感じなくていいのだと…。”
静かに微笑んで、リーザは目を閉じた。今はレイにすべてを任せよう…。
レイは逸る気持ちを抑えて…ゆっくりとその細い首筋に唇をつける。むき出しの肩も肌も熱を帯びて熱い…。触れ合う肌はなおさら熱くて…思わず何もかも忘れてしまいそうになる。
絶え間なく漏れる熱いささやきと吐息と…。月の光りの織り成す華麗なイルミネーションに包まれて、これから二人だけの神聖な儀式が始まる。
やがて…熱い嵐のような時が過ぎ去ったあとで…二人はぴったりと身体を寄せ合うようにしてまどろんでいた。互いの脱ぎ散らかした衣を敷き詰めたその上で、リーザはレイの胸に頭を乗せたまま…小さく身体を丸めて寄り添う…。そのむき出しの肩を抱きながら…レイは心地よい疲労感に酔っていた。
“ こんな気持ちになったのは初めてだ…。これが愛するということなのか…? 誰かを愛しく想い、満たし…分ち合うことが、こんなにも自分の心に充実感を与えてくれることを、オレは知らなかった。オレは…孤独な自由よりも満ち足りた拘束を選んだのだ。オレは間違っていない…。”
リーザも甘い余韻に浸りながら、身体の奥深くに残る微かな疼痛が、自分がレイに始めて愛されたという確かな証拠なのだと感じてたまらなく嬉しかった。幼い頃から憧れ続けてきた人が、今、自分のすぐとなりでまどろんでいる。何度も繰り返し見た夢の続きではなく、現実の姿で…。
自分を抱いているこの手が、本当にレイのものなのか…急に不安になって、リーザは顔を上げて確かめずにはいられなかった。
「どうした…?」
けはいを感じてレイも目を開ける。
「ごめんなさい、起こしてしまったのですね…?わたしを抱いているこの手が、あなたのものなのか、不安になってしまったの…」
「バカな…」
レイは笑いながら上体を起こして、じっとリーザの瞳を見下ろした。左腕を彼女の首の下に置いたまま…右手で頬にこぼれかかる髪を払う。
「この手が幻であるはずがない。確かにおまえを抱いている…」
「ええ…わかっていても不安になってしまうのです。あまりにも長い間、あなただけを見つめてきたから…。でももう迷わないと決めたのです。強くなると…。あなたの中の…アリオンの血が目覚めて…いつかここを去る日が来ても、わたしは絶対にうろたえたりしません。あなたに寄り添って生きられることを誇りに思うから…。たとえそれが、今だけの幸せでも決して後悔しません。あなたを想い…あなたを支えていきたいから…。」
「リーザの告白を聞いて、レイはリーザを抱く手に力を込めた。
「リーザ、不思議だな。オレはついこの前まで、自由を手に入れるためなら、何を犠牲にしてもいいと思っていた。両親の愛も、将来の長の座も…自由に比べたら、簡単に手ばなせると高をくくっていたのかもしれない…。それなのにおまえと出会って、何もかもが驚きの連続だった。このまま自分の気持ちを認めたら、自分が急に弱くなってしまうような気がしていたんだから可笑しいだろう…? オレももう迷うのはやめた。先のことは考えない…。今おまえを愛し、守ることに命を賭ける。ラングーンと闘ったことが、オレの目を覚まさせてくれたんだ。おまえを…この村を本気で守りたいと思った。オレの中のアリオンの血は、決然としてそこにあるが、オレにはおまえがいる。おまえの存在がオレをここに引き止めているのだから、オレがともに生きたいと思う女は、誰でもない…おまえでなければダメなのだ…」
一気にしゃべっリ終えて、レイはまた熱いまなざしをリーザに送った。自分の中にこれほど情熱があるとは思っていなかった。
細い華奢な身体を抱きしめて…熱く唇を重ね…レイは再びその肌を求めにくる…。
「あ…」
レイの指先がリーザのもっとも敏感な部分に触れてきた時、ピクンと身体を震わせた。さっき愛し合った余韻が、まだ身体の奥に残っていて、初めてレイを受け入れた時の痛みがまだ完全に消えていないのだ。でもそれは…痛みであり喜びなのだと自分に納得させて、リーザは自らを解放していく…。
「大丈夫か…? 」
心配そうに覗き込むレイの頬をリーザは片手で包んだ。
「お願い、もう何も心配しなくてもいいように、死ぬほど何度でもわたしを奪ってください…決して離れられなくなるまで…」
そう訴えて、両腕をレイの背中に回して…強く彼の身体を抱き寄せ…リーザはまた瞼を閉じた。
やがてすっかり傷の癒えたレイは、また以前のように仲間達に交じって、狩りへと出かけていった。力強く大地を蹴って走り抜けていく狼たちの中でひと際目を引く存在…。先を行く先頭グループの中に光り輝く銀色の狼がいた。
見事なシルエットを煌かせて、眼下に広がる広大な平原へと飛び出していった。
それを村外れの丘に立って、じっと見つめる娘がいた。見違えるほど美しくなったりーざである。
「リーザ…?」
後ろから呼ばれて振り返ると、幼馴染みのランが立っていた。ランもすでにレイの従兄、リュウの妻である。
ほんの少しおなかが膨らんで見えるのは、この夏ごろから身籠っているせいだろう…。
「すっかり元気になられたわね? レイさま…」
「ええ…」
はるか遠くに消えつつある彼らの姿を見つめながら、リーザはうなずいた。
「それにあなたもとても幸せそう…。彼とは仲直りしたんでしょう?」
「そんな、仲直りなんて…」
リーザは赤くなってうつむいた。
「クスクス、照れなくてもいいわよ。最近のあなたを見てればすぐわかるわ。彼はとてもあなたを愛してくれるのでしょう? この頃のあなたは眩しいくらいに綺麗だもの…」
ランの言葉にリーザは誇らしげに微笑んだ。
そう…自分は確かにレイに愛されている…。そう思えることへの自信が、今の自分を強くしているのだと思う。リーザは思った。
“もう何も怖れない…。仮にそれが今だけの幸せであっても構わない…。いつかレイの中に眠るアリオンの血が目覚めて、遠く旅立つ日が来ても、決してわたしは後悔しない…。
遠く隔てられて、2度と会えなくなる日が来ても…わたしは、わたしだけのあの碧い瞳を忘れない…。
空はどこまでも碧く…風は秋の色をはこんでいく…。リーザは遠い空を仰ぎ見た。
“ 心はいつまでもあなたのそばに…。わたしだけのアリオン…。
『 銀界のアリオン… 』 終わり
あとがき
アリオンのプロローグ編 レイとリーザの出会いの物語りを最後まで読んでいただきましてありがとうございます。
この物語を描いたのはもう十数年前で、物語をアップしながら懐かしくなってしまいました。
まだ描き始めたばかりで拙い表現もあったりしてよ見苦しいところもあってすみません。
実はこの物語には続きがあって、アリオンのレイが一族のリーダーとして成長しながら、やがて自分のルーツであるアリオン族の秘密へとたどり着くまでの成長物語です。
少しづつまたアップしていきますので、どうか引き続き楽しんでいただけたら幸いです。
あとプロフィールにも載せていますが、フェイスブックの方でも創作している人形の画像も載せていますので、良かったら検索お願いいたします。
銀界のアリオン
最後まで読んでいただきありがとうございます。レイナス・アリオン…彼の不器用な成長記です。やっと見つけた心の平安もつかの間…物語はやがて彼のルーツともいえるアリオン族の真実の物語りへと続いていきます。
ご期待ください。