碧のシンフォニー
私、蒼乃祥子(あおのしょうこ)は28歳のフリーターである。正確には6年前音大の弦楽部を卒業してから、一度も就職することなく…もちろん学生の頃もバイト三昧で好き勝手に暮らしてきた。男勝りの性格と曲がったことが嫌いな真っすぐな性格もあって、どうしても型に嵌められることが我慢できない私は、せっかく心配して良い就職口の話を持って来てくれる恩師に、ことあるごとに断りの電話をかける始末で…。それがある日突然、”あいつ”が目の前に現れてから、私の生活は180度変わってしまった。”あいつ”のせいで私の安穏な人生が…どんどん浸食されていく。
”あいつ”のせいで私の安穏な人生が…どんどん浸食されていく。
第1章 蒼(あお)と碧(あお)
1
「祥子ちゃん、そろそろ先生を起こさなくてもいいのかい?」
そういってカウンターの中から声をかけてきたのはこのカフェ”シンフォニー”のオーナーの田崎さんだ。
「そうね、もうそんな時間?」
そう言って私は面倒くさそうに壁の時計を見上げた。時刻は10時30分を過ぎたところ…。
「あ…面倒臭い! 何で私があいつの面倒なんか見なきゃいけないのよ。天才かなんか知らないけど、顔が良いだけの単なるわがまま坊やじゃん」
さっきからそう息巻いている私の様子に田崎さんは苦笑いを浮かべながら、さっとカウンターのテーブルの上に一人分のモーニングセットを置く。
おいしそうに湯気を立てているトロトロの半熟オムレツにカリッと焼いたベーコン付きのプレートにはバターをたっぷり練りこんで焼いた自家製のクロワッサンサンドものっている。かわいらしい形のガラスボールにはきれいに盛られた新鮮野菜のサラダがあって、私はその横に田崎さんが淹れてくれた薫り高いコーヒーを小さなカップに注いで置いた。
「先生はヨーロピアンタイプの苦みを抑えた薫り高いコーヒーが好みだったね? ああ、ペリエも一緒に持っていくのを忘れないで…」
「はい、はい…」
私はさらに差し出された炭酸水の小瓶を受け取ってトレイの端にのせると、速足でカウンターの横にある小さなドアを開けた。このドアは店のバックヤードにつながっていて、その廊下の突き当りには上の階へとつながるエレベーターがあるのだ。
カフェ”シンフォニー”の入っているビルは3階建てになっていて、すべてはオーナーである田崎さんの持ち物で、二階が事務所兼オーナーの仕事場となっている。
田崎さんの本業は楽器の調律師で、実は日本の調律師の中で常にベストスリーに入っている凄業師だった。
日本中、いや世界中の一流の音楽家から引っ切り無しに調律を依頼された楽器が届けられるのだが、田崎さんはほとんど毎日といっていいくらい午前中はここシンフォニーに顔を出している。実際いつ寝てるのかわからないほど多忙な人なのだが、彼が言うにはこのカフェの雰囲気が好きなのだそうだ。カフェ経営はもはや趣味だと言って笑う田崎は、もう十年以上ここで店を開いている。
“シンフォニー”のあるこの街には、国立の音楽大学がある。この店のお客さんの大半はその音大の学生たちだ。
もちろん、わたしもその大学のOBで、10年前山梨の田舎から上京して以来ずっとここでバイトしている。
「あ…祥子ちゃん、きょう午後大学行って元(はじめ)のレッスン受けるんだろ? 今日はお客さんも少ないし…このあと二階のスタジオ使ってレッスンして構わないよ。まあ先生の都合がつけばいいんだけど…」
田崎さんはそう言って時々自分の仕事部屋でもある2階のフロアーをわたしのために開けてくれるのだ。
大学を卒業してもう6年も経つのに、未だここでバイト生活をしながら…半分学生もどきのような生活をしているのには訳があって…。
わたしが専攻していたのは、弦楽器のチェロだ。小学生の頃、たまたま母と母の友人に連れて行ってもらった当時世界的に有名なチェリストだった“ヨー・ヨーマ”のソロコンサートに連れて行ってもらって以来、大ファンになった私は、それからその音色に取り付かれたように夢中になった。
それからのわたしは、当時音楽には全く縁もゆかりもなかった田舎人である両親や祖父母に必死で拝み倒して、毎週末、片道1時間はかかる離れた町の音楽教室に6年間通い詰めたあと、現在の恩師、日本のチェリストとしては第一人者の『斎藤元(さいとうはじめ)が特別講師を勤めるA音楽大に進学したのだ。
大学時代はそれなりに充実した生活を送ったわたしは、卒業後は当然どこかのオーケストラに所属しながら大好きなチェロに関わる将来を夢見ていたのである。
それが…卒業を半年後にひかえた9月のある暑い日の午後…わたしの幸せな人生は一変した。
プロローグ1 蒼乃 祥子
「祥子、今日バイト入ってる?」
いつものように午後の講義とレッスンを終えたわたしが、大きな楽器ケースと楽譜の入ったショルダーバックを抱えて構内を移動していると、後ろから声をかけてきたのはピアノ科の同期で親友の理子(リコ)だった。
「今日は無いよ。 聡(サトシ)と約束あってこれから二葉園に行く予定なんだ」
「ああ…きょう聡の誕生日だったね? またみんなでお祝いなんだ」
「そう、子供たちが楽しみにしてるから行かないと…」
「はあ…? 楽しみなのは祥子の方でしょう? このところ聡も秋の留学の準備で忙しくって、あんたたちほとんど会えてなかったじゃん? しっかり甘えてきなよ。留学前に入籍するんでしょう? お祝いのパーティーには絶対呼んでね」
希理子はそう言って私の空いている側の肩をポン!と叩いて去っていった。
この時期大概の卒業生は卒業後の予定は決まりつつあって、わたしは神奈川の地方都市にある市民オーケストラに就職することが決まっている。理子は音楽家の道は選ばず、ある大手の音楽系の出版社へと早々と自分の進路を決めていた。
そしてこれから会う約束をしている彼、波多野聡(ハタノサトシ)とは大学に入ってから知り合い、今では恋人関係にある。
聡は4歳の時に両親が事故で無くなり、頼れる親戚もいなかったことからある養護施設で育った。なんの後ろ盾もなく、
支援もなかった彼が、今では若き天才ピアニストといわれるまでになったのは、ひとえに持って生まれた才能と並々ならぬ努力があったせいだ。
彼の育った施設には、誰からか寄付された古ぼけたピアノがあって、それを聡は物心ついた時からずっと親友のように一緒に過ごしてきたのだ。
知り合ってから聞いたのだけれど、彼のなくなったお母さんはピアノの先生で、幼い彼をずっと膝の上にのせてピアノを弾いていたのだという。
その頃の記憶は朧気で、お母さんの面影もほとんど覚えていないんだ…そういって笑う聡の表情はひどく寂しそうだった。
待ち合わせの大学近くの交差点まで行くと、聡はすでに来ていて私の姿を見ると、日焼けした顔に真っ白な葉を見せて笑いかけてきた。決してイケメンというわけではなく、身長も168センチという女にしては長身のわたしと並ぶと目線も同じで、どちらかといえば真面目な好青年といったところだ。
大学にも奨学金をもらって進学したくらいで、昼間はレッスン、夜は深夜まで居酒屋でのバイトを掛け持ちしている至って普通の大学生なのだ。
けれど…ひとたびピアノの前に座れば、彼の指先から紡ぎだされる調べは聴く人すべての心を捉えるくらい素晴らしい音楽家なのだ。1年の時に推薦で参加した国内のコンクールで、聡は審査員特別賞を受賞してから、彼の名声は一気に高まり大学でも有名になった。
わたしが聡と仲良くなったのは、友人の理子を通じてだったけど、その時にはすでに聡は有名人。
自分とはまったく別世界の人だと思ってたから、最初はまったく無視してた。
けっこう不愛想だったにも関わらず、どこをどう気に入ったのか、聡はそれから猛アタックしてきて…。
しまいには私が根負けする形で付き合い始めたのは、1年の冬ごろだったのかな…?
「祥子はいつだって消極的すぎるんだよ。前から言ってるだろ、祥子はオケ(オーケストラ)よりソロの方が向いているんだよ」
「そんなこと言ったって、わたしは聡ほど才能があるわけじゃなし、実家の親からは、どっかのオケに拾ってもらえなかったら、さっさと田舎かえって就職しろって言われてるからさ」
わたしは無関心を装って大きな荷物を抱えながら、さっさと速足で歩きだす。
「待てよ、祥子。俺の話聞いてる?」
聡は慌てて私の後を追ってくる。小さなバックだけを抱えている聡は、無言で私のチェロを肩から奪い取ると、憮然とするわたしを追い抜いて行く。
聡が言いたいことはわかっているのだ。わたしのチェロは、ほかの学生たちが2,3歳のほんの子供の頃から学び始めるのに対して、わたしが始めたのは小学校の高学年から…。
実家が地方都市の片田舎だったこともあり、早々専門家の指導も受けられず、どちらかといえば独学に近い環境で学んできた私のチェロは、基本に忠実というよりはかなり独創的なのだ。
それを恩師の斎藤先生は、個性的でいい…と言ってくれるけど…。
「俺が二年の留学を終えて帰ってきたら、そん時は俺は祥子と一緒に音楽やりたい。俺のピアノと、祥子のチェロで日本中、いや世界中を演奏して回るんだ。俺たちにしか出来ない演奏をして、世界中の子供たちを元気にするんだ…!」
そう言って笑う、聡の少し下がり気味で切れ長の瞳はキラキラと輝いていた。
(何よ、のん気なこと言っちゃって…自分はさっさと海外に行っちゃうくせに…!)
その時のわたしは何故か素直になれなくて、何かにつけてはつい聡に対して反抗的な態度をとってしまう。
だけど聡はそんな私に対してもいつだってニコニコと笑いながら、ばかだなぁ…というようにわたしの頭を大きな手のひらでポンポンとはたくのだ。
そんな聡の態度にまたイライラして、聡のこと大好きなくせにまた憎まれ口をきいてしまう自分が嫌で…。
要するに、その頃のわたしは、自分だけひとりおいていかれるような寂しさを感じて、密かに聡に嫉妬していたのかもしれない。
だけどその頃のわたしは、そんな心のモヤモヤを直接聡にぶつけることが出来なくて、時々一緒に晩御飯を食べるという名目で理子を呼び出しては、居酒屋でグダグダと心の不満や不安を吐き出していたのだ。
「あ~もう! それを世間では惚気って言うのよ。馬鹿らしい…! 祥子、あんたねぇ知ってる? 聡毎日ピノのレッスンの合間に、アレンジの勉強しているんだよ。ほら、なんていったっけ? あんたの好きな曲、ほらアレクシアの…」
「幻夢…?」
理子が言っているのは、今世界で神の子ともてはやされている超が付くほどの天才バイオリニストで当時若干12歳の『ユーリ・アレクシア・レオン』が作曲したといわれる曲なのだ。
超難解な組曲で、オーケストラはおろか彼以外には演奏できないといわれている。
「はぁ~? なんでそれを聡が? 何のために?」
「馬鹿なの、あんた。祥子のためにきまってんでしょ? もう聡が哀れになってくるわ。わたしが何でピアノ辞めたかわかる?
聡見てると、自分の凡庸さと甘さに嫌気がさしちゃってさ…。自分みたいなのは、ちょっと斜めくらいから音楽にかかわったほうが幸せだって気が付いちゃったわけ。だからわたしは後方からあんたたちを支援しようって決意したんだから、観念しなさい…!」
理子の強引な物言いには思わず苦笑しちゃうけど、頑固なわたしはそうでも言ってもらわなければきっと、決心出来ないんだ。そう、自分でもよくわかってる。
そんな口の悪い悪友の理子に励まされて、それからわたしと聡の将来への第一歩は踏み出したわけで…。
だけど…そんな倖せは思わぬ形で終わりを告げることになる…。
プロローグ 2 もう一つの『碧』 ユーリの章 1
暗闇の中をずっと手探りで歩いていた。
ずっと昔…まだ幼い頃、いつも優しく語り掛け…抱きしめてくれたあの細い腕は、きっと朧げな記憶の中の母のものだろう…。
3歳で母を病気で亡くしてひとりぼっちになったおれは、母以外に身寄りはなく…当たり前のように施設へと送られた。
「まあ、ずいぶんと綺麗な顔した男の子ね? あら、この子の瞳は青いのね?」
「何でも父親は外国人だったって話ですよ。ずっと二人暮らしだったようですが…男に捨てられちゃったんですかね…?」
「まあ、いいわ。さっそく例の方に連絡入れなきゃ、きっとお喜びになるわ」
突然連れてこられた部屋の中で、無遠慮に向けられる視線に晒されながら…怯えたように“3歳のおれ”は震えていた。
18年後ー。
「ユーリ、ユーリ…! 起きて! また悪い夢でも見てたのね? 」
誰かに揺すり起されて、おれは重い瞼をゆっくりと開けた。
「ん…? ナンシー…?」
まだ意識のはっきりしない頭で、ぼんやりと自分を見下ろしている相手の顔を見つめる。
「まったく、また明け方まで 一人で飲んでたのね? この頃ずっとじゃない? 」
彼女は眉間にしわを寄せながら、ベッド脇のサイドテーブルに並ぶシャンパンの空き瓶やグラスに申し訳程度に残っているに気の抜けた液体を手早く傍らに置かれたワゴンへと移していく。
彼女は『ナンシー・クロムウェル』おれの所属する音楽レーベルの責任者でもあり、実家でもあるこの古城、オーストリアの首都ウィーンから少し離れた場所にある『レスター・アライン城」のホテル部門の責任者でもある。
年齢で言うなら40代前半、シャープな顔立ちにショートカットがよく似合う彼女は、きっちりとしたグレーのパンツスーツを粋に着こなすキャリアウーマンだ。
「ユーリ・アレクシアン・レオン。それで…あなたはいつまでそうやってここで隠遁生活をするつもり?」
「さあ…? このまま引退してもいいかな…って思ってるけど…?」
ボサボサになった髪をかき上げながら、おれがゆっくりとベッドから起き上がると、ナンシーははぁ~と盛大にまたため息を吐く。
「ユージンを失ってあなたがショックを受けた気持ちはよくわかるわ、でももう一年よ。いい加減前を向いてあなたの道を歩いてほしいの。いつまでもこんな風に過ごしてほしいなんて、ユージンは望んでない…!」
「そんなことわかっているさ…」
(わかっている…十分すぎるほどわかっているんだ…)
おれはワゴンの端にあったミネラルウォーターの瓶を取ってごくごくと飲み干した。
『ユージン・アレクシアン・レオン』 その名前を聞けば…おれの胸は苦しくなる。
ユージンは世紀の天才マエストロであり、おれの音楽の師であり…父親だった。
おれは3歳まで日本で暮らした。 母は日本人で名前は倉木小夜子。N響オーケストラの期待の若手バイオリニストだったらしい。
らしい…というのは父と母の共通の友人だった恩師『斉藤元(はじめ)』からそうきかされたからだ。
母は未婚でおれを生み、オーケストラを辞めて街のバイオリン教室をしながらおれを育てた。けれど無理がたたって、病に倒れ29歳という若さで亡くなった。
おれはそれから施設に送られ、半年後に斎藤先生に見つけられるまで、そこで暮らしたが、先生の話だとそこは養護施設とは名ばかりで、養子縁組と偽って容姿の美しい子供を海外の資産家に高値で売り渡す人身売買をしていた。
当時先生は3年間ニューヨークに住んでいて、日本に帰国するまで母が一人で子供を産んだことも知らなかった。先生が記憶を頼りに訪ねた以前の住まいの近所の住人にそのことを聞いて、必死におれのことを探してくれたのだ。
それからのことはもう感謝しかないのだが…父と母がどうやって知り合って愛し合い、おれが生まれたのか…それも先生の口から教えてもらった。
母と先生は音大の同期で、入学当初からの友人であり、京都の旧家出身のお嬢様
だった母は、大人しい性格に似合わないほど意志のはっきりした女性だったと、先生は何故か悲しげな…どこか懐かしいような表情で話してくれたのだが、大人になった今ならわかる。
きっと先生は母のことが好きだったのではないかと…。
父のユージンとは音大の卒業後、留学したウィーンの音楽学院で知り合ったそうだ。当時のユージンはすでに音楽家としての頭角を現しており、才能だけではなくビジュアル的にも優れた容姿をした彼はどこに行っても目立っていて、留学してすぐにそんな彼に声をかけられてひどく驚いたと先生は言っていた。
ユージンは音楽の才能だけではなく、ウィーン社交界屈指の旧家であるレオン家の跡継ぎでもあった。
そんなユージンは先生のチェロを気に入って、何かと小さな音楽界に誘い出しては自分と同じステージに立つことを強要したのだそうだ。
最初は戸惑っていた先生もそんな気さくなユージンの性格が気に入って、それからは気の置けない親友同士として過ごした3年間は素晴らしいものだったと、誇らしげに先生は言った。
ユージンが母と出会ったのは、先生が留学を終えて日本に戻った半年後、すでに若き天才マエストロとして世界中で活躍していた彼が、初の日本公演として選んだのがN響で、当然先生を通じて二人は会い…一気にその距離は近くなる。
二人が恋人になるにはそれほど時間はかからなかっただろう。そんな二人の姿を先生はどんな気持ちで見ていたのだろう。
多忙なユージンと母がどんな方法で連絡を取り合っていたのかはわからないけれど、きっと先生が二人のために自分の時間を削ってでも動いていたのは簡単に想像できる。
はじめ先生…どこまで人が良いんだか…。
( ユージンは本気で小夜子を自分のそばに置きたがっていたよ…。
日本で保護されたおれは、1年間先生のもとで過ごした。その間に先生は、理不尽な大人たちに傷つけられたおれの心を少しでも癒そうとしてくれたに違いない…。)
母の記億はおぼろげだったけれど、優しい声と眼差し…子供心にもとても美しい人だったことはどこか覚えている。
母の奏でる美しいバイオリンの音色と…やっと動き始めた小さなおれの手を取りながら、バイオリンの指使いを何度も繰り返し教えてくれたことを忘れていなかった。
ある日、おれは先生に聞いてみた。
『ぼくのお父さんは先生なの?』
その時の先生の悲しげな顔は今でも忘れない。
「僕は君のお父さんじゃない。君のお父さんは君のことを知らないんだ。お母さんが亡くなってしまったこともね…。だからもうしばらく待ってくれないかな? 僕が必ず君をお父さんのところへ連れていくからね…」
ユージンは当時母と結婚の約束をしていたのだろう。
近いうちに母をウィーンに連れていくつもりで独自に準備を進めていたのに、彼の父親である当時のレオン家の当主は現侯爵であり、息子が音楽家であることは許しても、外国人の花嫁を迎えることは許さなかった。
そして京都の旧家族の出身である母も一人娘であったことから、父親からその結婚を酷く反対された。
当時の母は25歳…味方は先生しかおらず、一度は何もかも捨ててユージンの元に行く覚悟をしたけれど…。その時のユージンは28歳。華々しく活躍する、世界の音楽界の寵児としてもてはやされる存在で…。
決して今の自分の存在がユージンのためにならないと判断した母は、ひとり身を隠し、ユージンとも先生とも連絡を絶ったのだという。
そうその時、すでに母はおれを身籠っていた。
ちょうどその時先生は、ニューヨークに1か月の演奏公演に出かけていて、そのことを今でも悔やんでいると先生は言っていた。
自分がそばにいればこんなことにはならなかった。だから、君を放っておけないのだと先生は言ってくれたけれど…違うよ先生。それは先生のせいじゃない。
先生は十分すぎるほど、おれたちを助けてくれた…。
そして今だって…。
17年前、 ウィーンに渡ったおれはユージンの元を訪ねた。
初めて会う父親に、かすかな希望を抱いていたのは嘘じゃない…。
だってはじめ先生と過ごした10か月はとても穏やかで温かい日々だったから…血の繋がった父親ならもっと愛情を向けてくれる…当時4歳のおれは、どこか心の中でそんな期待を抱いていたのかもしれない。
だけど実際のその人は…ユージン・アレクシアレオンは、おれの音楽の師にはなっても、決して父親にはなってくれなかった。
ユージンという人間は、音楽に対してはストイックで決して妥協を許さない、自他ともに厳しい人間だった。
言葉も通じない…誰も心許せる相手のいない幼い子供にとって、音楽だけがユージンとつながる唯一の方法だったから…。
どんなに厳しくても手放すことはできなかった。それがなければ…生きていくことが出来ないほどに…。
そして…1年前、ユージンの死とともにその絆は失われてしまった…。
ベッドから起き上がって、まぶしい朝の陽ざしに思いっきり伸びをすると、おれはサイドテーブルの引き出しを開けて一通の手紙を取り出した。
「ナンシー、おれは日本へ…先生に会いに行こうと思う…。
あいつがやってきた。
『カフェ・シンフォニー』 午後3時を回った頃。
にぎわっていたランチタイムも落ち着いてきて、そろそろ夕方のシフトのメンバーが出勤してくる時間。
やっと一息ついたわたしは、いつものようにカウンターに座りながらマスターの入れてくれたコーヒーを啜っていた。
「あ~! 今日は忙しかったですね? こんなことならシンちゃんにもう1時間早いヘルプ頼んどきゃよかった。」
「ハハ…どうやら午前中の講義が1件休講になったって誰か言っていたから、その分みんなこっちに流れちゃったのかな?」
半分ぐったりしているわたしを見て、田崎さんはニコッと笑いかける。
シンフォニーはA音大のすぐ側にあるから、お客さんのほとんどは音大の学生たちだ。
フロアーは1階と2階へと分かれていて、1階にはテラス席とゆったりしたテーブル席があって、もちろん小さいけどカウンター席もある。
そして1階の一番奥には小さいけれど、ステージも作られていて、時々貸し切りで学生たちの身にコンサートも行われるのだ。
当然2階席からもステージが覗ける造になっていて、窓も大きく全体的に明るい。
そこは田崎さんの亡くなった奥さんのこだわりが、そこかしこに現れていて、さすが1流の設計士でインテリアデザイナーだっただけはある。
なんでもある有名なホテルの迎賓館も、彼女のデザインなのだと自慢げに語る田崎さんの表情はとても幸せそうで、今でもすごく奥さんの事を愛しているんだなぁ…と周りの人をほっこりさせるのだ。
「あれっ? 祥子ちゃん、今日なんか用事あるって言ってなかった?」
さっきからへばっているわたしを横目に、田崎さんはいつもの笑顔で話しかけてくる。
「うん、今日、園長先生の誕生日で夕方チェロを弾きに行く約束しているの」
「ああ…聡くんの…?」
「うん、毎月1回は行くようにしてるんだ。たまたま今日は先生の誕生日と重なったから…」
学生時代も聡と一緒に何度も足を運んだ場所だった。
聡がお世話になった場所というだけではなくて、今は70歳を越してまだ頑張っている園長先生を応援したくて、わたしはひとりでもずっと通っているのだ。
30代で最愛のご主人を病気で亡くした愛子先生は、ご主人が愛したこの古い施設を離れたくないからと、いつ行っても優しい笑顔を向けてくれる。
「今日も一人で行くの?」
「ううん、今日はスペシャルだから、理子の応援も頼んでるんだ。ああ見えて一応この音大の卒業生だからね」
そこでテーブルに置いたスマホがブルブルと震えだした。
画面をのぞけば理子の名前がある。
「もし、もし…理子?」
「ああ、祥子? ごめん、急ぐから用件だけ言うね! 」
理子はいきなりまくしたてるように自分の言いたいことだけ言って電話を切る。
昔から理子はこうと思ったら突っ走る質で、そうなったらもう誰にも止められない。
それがわかっているから、突然予定をキャンセルされてもわたしは笑うしかない…。
「どうしたの…?」
「ハハ…なんか前から理子が追ってる天才音楽家が、午後の便で日本に来るらしくて、今成田にいるんだって…」
呆れてそうわたしがつぶやけば、田崎さんはニコリと笑う。
「ああ、知ってる。12歳でウィーンのコンクールで金賞とった天才バイオリニスト、ユーリ・アレクシアン・レオンだろう? ユージンの秘蔵っ子でヴァイオリンだけじゃなくて作曲家としてもこのところ有名だからね」
「そうなんだ…ユージンはよく知ってるよ。日本でのコンサート何回か聞きに行ったから…」
ユージンは、言わずと知れた天才マエストロだ。彼がタクトを振るだけでどんなオーケストラでも満席になる。理子に言わせると、音楽だけでなく、彼の容姿も芸術的なのだそうだ。
碧のシンフォニー
初めまして。佐伯彩里です。今からずいぶん前にふとしたきっかけから書き始めた物語です。主人公は大人の女性でありながら、それを拒否して生きてきた真っすぐな女の子。もう一人の主人公は非凡な才能を世界的に認められた超、超天才音楽家だけれど、かなり偏屈的な世界観を持っている若干21歳の少年の面影を持つ青年です。何一つかみ合うことのない二人が、唯一音楽を通してだけ互いを理解できる…。
そんなある日、あることをきっかけにしてどんどん二人の距離は近づいていきます。お互いをかけがえのない存在だと認めた時…魂のシンパシーが始まります。切なさとワクワクするような高揚感を感じていただけたなら幸いです。