旅立ちのサイダーゼリー
旅立ちのサイダーゼリー
今日こそ、今日こそ言わなきゃ。
僕は焦げ付かないようゼラチンと水で伸ばした手作りの梅シロップを煮ている鍋の中身をゆっくりと木べらでかき混ぜながらそう心を固めていた。
カウンターキッチン越しに見えるテレビには先日発売されたばかりのアイドルのコンサートDVDの映像が映っている。あ、最近はBlu-rayになったんだった。画質が格段に綺麗になってムービングステージを動かすスタッフの姿まで鮮明に映っている。光と水と炎が舞い、音楽と共に画面の中の彼らをよりカッコよく、美しく、華麗に演出する。この世界に、僕はずっと憧れていたんだ。
板ゼラチンが完全に溶けたことを確認して火を止め、ステンレスの浅い容器に移す。あとは粗熱が取れたら冷蔵庫で冷やし固めて、それからは零くんが着てからのお楽しみだ。ちょうど洗濯機も止まったことだし洗濯物を干そう。窓から見上げた空は真っ青に晴れていて遠くに大きな入道雲がそびえていた。8月も終わるというのに今日も猛暑日になるという。
バスケットボール部の夏季選手権大会を最後に引退した零くんは今日も夏季補習がある。こんなうだるような暑さの中で補習を受けても頭に入らなかった記憶しか僕には無い。でも零くんは僕の通う美術大学の近くにある工業大学に入りたいって頑張っている。頑張れ受験生、と僕は陰ながら応援しているのだ。真っ白に洗い上がったシャツが風に揺れるのを見て、僕は終わりそうにない夏の終わりを寂しげに感じていた。
昼過ぎ、マンションのドアベルが鳴った。心もち緊張して玄関を開けると予想通り、僕の最愛の人、相原零(あいはられい)くんだった。
「零くん、補習お疲れ様」
「うん、渚ありがと。んあー外めっちゃ暑かった。死ぬかと思った」
制服のシャツが汗でぐっしょりとして少し透けている。黒いストレートの髪も頭から水を被ったみたいにびたびただ。
「零くんシャワー浴びたら? 着替え出しておくよ」
「ありがとー。じゃあお言葉に甘えて」
靴を脱いだ零くんはまず教科書の詰まった鞄をリビングに置くと、キッチン横の脱衣所に向かった。その間に僕は寝室のクローゼットから零くん用のTシャツと下着とハーフパンツを取り出す。
出会った頃、零くんがまだ高校1年生で僕が高校3年生のときはまだ僕と同じくらいの背丈だったのにあっという間に抜かされて、今じゃ15センチも違うのだ。背中も広くなったし、腕も逞しくなった。再会したあの日からもますます男らしくカッコよくなる零くんにドキドキしてしまう。半年後にはあの零くんが大学生になるのだから驚きだ。そう、半年後には……
シャワーの流れる音がしたのを確認して脱衣所のカゴの上に着替えとバスタオルを置く。そしてさっき作っていたお菓子の続きを作りにかかった。
「渚、シャワーありがとう」
キッチンに立ってネギを刻んでいると、零くんが脱衣所から出てきた。首にタオルをかけてさっぱりした様子の零くんから僕と同じボディーソープの匂いがする。ちょっと嬉しい。
「零くん、お昼まだだよね? ころうどん作ったけどどう?」
言ったそばから零くんが目を輝かせて、食べる! と元気よく返事をする。よっぽどお腹が空いていたのだろう。可愛いんだから全く。
茹でたうどんを流水でしめて、ネギとすりおろした生姜と刻み海苔をトッピングして冷たい麺つゆをかける。半熟卵を乗せるのが僕流。それと今日はピーマンと茄子が安かったので天ぷらにしてみた。零くんがお肉も食べたいだろうと思って鶏肉で柏天も作ってある。
向かい側に座った零くんと各々手を合わせていただきます、と言った。零くんはなんでも美味しそうに食べてくれるから作り甲斐がある。ネギと生姜が絡んだ冷たいうどんを勢いよく啜る姿を見るとこちらまで幸せになるのだ。一方僕はつゆに浸した天ぷらの衣がすこし柔らかくなるのが僕のお気に入り。崩した半熟卵の滑らかな黄身と麺を絡ませることを思いついた人は偉大だと僕は思う。
「ふーっ、ご馳走さま」
「お粗末様でした」
大盛りの天ぷらまで平らげて一休み、僕はデザートに先程作っていたお菓子を取りに冷蔵庫に向かう。細見のグラスに崩した梅のゼリーを入れて冷やしておいたものに、仕上げに甘いはじけるサイダーを注いで出来上がりだ。太めのストローをさし、コースターを敷いてダイニングテーブルに乗せた。
「デザートに梅のサイダーゼリーだよ」
「へー、美味しそう」
一口飲むと滑らかなゼリーの食感と梅の香り、しゅわしゅわと舌を刺激するサイダーに幸せなはずなのに、すこし寂しく、センチメンタルを感じてしまう。これが最後の一緒の食事になるのだから。
「ねえ零くん、あのね」
ちゃんと言わなきゃ。そう決めたのになかなか言葉が出ない。零くんが神妙な顔で僕を見つめる。彼の瞳に映る僕はとても悲しげに見えた。
「僕、アメリカに行くんだ」
えっ、と零くんが首を傾げる。
「んと、旅行か何かで行くの?」
一応確認してはくるが、僕の表情からそうではないことぐらい彼には伝わっているらしいことが声色から察せられた。
「ううん、留学するんだ。ずっと前から決めていて、ミュージカル劇団の舞台装置や美術の勉強をしてくる」
「そっか……どれくらい?」
「は、半年」
「っ!?」
零くんの表情がこわばる。ストローを持つ手が止まり、大きく目を見開いて僕を見つめた。
「明後日の飛行機で向こうに行くんだ。急にこんな話してごめん」
「いくらなんでも急すぎるよ……ごめん、どう返していいか、分かんなくて」
零くんが今にも泣きそうな顔で俯く。僕は立ち上がって零くんの椅子の横にしゃがみ込んで手を握った。
「僕はね、零くんと会えなくなるのは嫌だよ。きっと寂しいし、恋しくて涙を流す日があるのかもしれない。でも2度と会えない訳じゃないよ。それに僕の夢を叶えるために勉強したいんだ。とても素敵なチャンスを掴んだと思う。僕の挑戦を、応援してはくれませんか?」
目をしっかりと見て、そう伝える。零くんは流れる涙を腕で拭うと、うん、とだけ返事をした。
僕は立ち上がって、子供みたいに泣きじゃくる零くんを抱きしめた。いくら身体が大きくなっても、泣き虫の零くんは零くんのままだ。背中をポンポンと叩き、落ち着くまでそのままでいた。
僕たちは、お互いを離すまいと求め合った。
肌の温もり、香り、声、質量。全部を忘れないために。
ベッドで座りながら、すっかりぬるくなってしまったサイダーゼリーを飲んだ。横で泣き腫らした目で眠る零くんの髪をそっと撫でる。
「僕だって、不安だよ。寂しいよ」
ぽろぽろ流れ落ちる涙がシーツに染みを作る。
夕立が上がった黄昏の陽射しが窓から僕らを茜色に染める。ニューヨークの夕空もこんなに赤いのだろうか。風の匂いも、雲の形も、月の色も、同じなのだろうか。
不安と期待が心の中で淡く弾けた。
「零くん起きた?」
「んあ? うん、一応」
あたりはもう真っ暗で、夏の終わりを告げる虫たちが心地よい音色を奏でていた。
眠そうに黒いさらさらとした髪を掻き上げる零くんの愛らしさにふふっと笑ってしまう。
「あのね、零くん。今は全世界、どこにいても繋がれるんだよ」
「そうなの?」
「ニューヨークに行ってもいっぱいテレビ電話するからね」
「うん、渚、待ってるよ。頑張って来てね。オレ、応援するから」
「ありがとう、零」
自然と唇を重ね、僕たちは笑った。
笑っていればきっとうまくいく。
「好きだよ、渚」
「僕も大好きだよ、零」
未来を信じたって、いいよね。
そんな僕の、旅立ち前のお話。
旅立ちのサイダーゼリー
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