黄金の蝶
私たち一家はうちつづく不運のためにすっかり困窮に陥っていた。
困窮は私をすっかり変えてしまった。
家族に手にあげることだけはしたくなかったというのに、私は、嗚呼、悪魔より悪魔であった。
とうとうある夜に私が酒場から酷く酔っ払って帰った時のことである。
妻が私を避けたような気がした。
その時だった。
私は悪魔が乗り移ったように妻に暴力を振るってしまった。
それ以来妻は私に怯えるようになった。
もう暴力を振るっていないものの、私たちの関係は修復が不可能なほど壊れてしまっていたのだろう。
ある日夜遅くに酒に酷く酔っ払って帰った時に部屋が灯りひとつついてなくて、私は不審に思い家中を探したが妻は何処にも見当たらなかった。
私は慌てて、外に飛び出し、空が白み始めるまで村中を探し回ったが、やっぱり妻は何処にも見当たらなかった。
私はあれから酒に逃げ、酒場に入り浸り、私自身を責め続ける毎日だった。
そんなある日私はある噂を耳にした。
なんでも美しい黄金の蝶が未開の地の薄暗い森の奥深くに生息しているらしい。
噂では、この蝶は人間より寿命が長く、それさえ手に入れてコレクターにでも売れば、人生を数回繰り返しても遊べるだけのお金が手に入るという。
然し未だ嘗て黄金の蝶を見たものはいない。
そもそも未開の地の奥深くに生息すると噂され、またそこに辿り着くまでに未開の地の人間や、黄金の蝶を狙うハンターに命を狙われることもあるとされる。
未開の地の人間は気紛れで、いつこちらの命を奪うか不安であるし、実際に未開の地に踏み込んだハンターは帰って来ないのだからその可能性も十分にあるだろう。
他にも未開の地の危険な生物達が待ち構えている。
例えば、タラグマタランチュラに噛まれれば、長い時間苦しみ抜いて、そして漸く死ねるという噂だ。
その日から私は逃げるように、夜な夜な未開の地に関する噂のことを考えた。
あまりの恐怖に眠れないほどだった。
殺されるかもしれないし、苦しみ抜いて死ぬかもしれない、という恐怖に目は見開き、口からひゅーひゅーと音がする自分の呼吸にさえ恐怖を感じる始末だった。
然しそれ以上に私は誰もが成し得なかったことを成し遂げるのだという栄光を思えば、また誰よりも金持ちになるんだと思えば、依然やる気が沸くのだった。
恐怖とやる気が鬩ぎ合い、幾日が過ぎた頃だった。
太陽の光を浴びながら必死に畑仕事をしていた時に領主の館を、その館に入る立派な馬車を見た。
その時だった!
私は私が高価な服に身を包み、立派な馬車に乗り、私の館に堂々と入る姿を!
私は鋤を放り投げた。
笑いながら走った。
人々は私を見て指をさし笑った。
嗚呼、あいつらは私が遂に可笑しくなってしまったと考えてるに違いない。
あいつら普通な人間だと思っている。
生まれて、普通に生きて、普通に死ぬのだと。
普通から逸脱すれば、それは気が違えたに違いないと莫迦にする。
その癖あいつらは上の、普通よりも遥かに贅沢な生活を送っている人間には媚び諂うのだ。
それでいいのか?
それは常々私が私に問うてたことだ。
私らの血の滲むような努力の上にカーペットを敷いて、優雅に年代物のワインを飲んでいる人間がいる!
私には一生努力しても届かないようなワインを!
私は走った。
恐怖に負けない内に私は私をもうやるしかない環境に追い込む必要がある。
家にさようならを告げた。
私は急いで纏めておいた荷物を手に取り、そして笑いながら走って街を飛び出した。
私は何処にだって行ける気分だった。
暫く歩けば、日が暮れる。
そうなれば急に心細くなる。
私は正直に言うと帰りたくて堪らなかったし、実際に何度も、何度も、帰ろうとした。
私が帰らなかったのは、醜い欲に取り憑かれていたからであった。
誰もが成し遂げることのできなかったことを成し遂げ、知らない者はいないほど有名になり、誰よりも金持ちになり、皆んなに見せびらかし、優越感に浸りたいという醜い欲である。
未開の地に辿り着くまでに5年は要した。
私のこのノートにその間に経験したことはあまり書きたくないのだ。
....あまりに惨めだったのだから。
ボロ布一枚と、大切な日記帳、鞄。
それが私の全てだった。
妻に暴力を振るい、醜い欲に取り憑かれ村を捨てた。そんな私の全てだ。
物乞いだって数え切れないくらいした。
周りの人間には蔑まれ、それでも夢のために生きて、遂に未開の地に立った!
私の5年は、まるで裸足で針の道を歩むようなものだった。
それでもこの惨めさは私の選択の結果だ。
私はもう選択したのだ。
だから歩かなければならない。
未開の地は私が鬱々とするような、暗く深い、奈落の底を覗きこむような気持ちにさせる森であった。
-彼は立ち止まり、そして後ろを振り返った。
また前を向き、深い森のなかに消えていった。-
幾日が過ぎ、酷く腐敗した死体をこの地に住む住人が見つけ、偶然にもその死体の側で発見された彼の日記は、長い時間をかけて、色々な人の手に渡り、遂には私が手にしたのだ。
私は興味本位で最後のページを覗いた。
「....私は偶然遭遇した奴の矢に右脚を射抜かれ、崖から落ちた。
そこから川に流され奥地に辿り着いた。
曇りガラスのように辺りがぼやけていく...
その時だった。
黄金の蝶の群れが私の右脚に集まるではないか。
嗚呼、見よ!村人よ!妻よ!
私は辿り着いたぞ!」
私は昨日に知ったことだが、黄金の蝶々は、別に黄金ではなく、普通の黄色の蝶々のようで、この蝶は人間の血に誘われる性質のせいで未開の地では不吉の象徴とされていたようだ。
50年前に多くの人間が黄金の蝶を信じて、未開の地に足を踏み入れ、同じハンターにだけにではなく、未開の地の人にも殺されたらしい。
それは未開の地の人が野蛮などではなく、ハンター達に好き勝手に森を荒らされるのを怒ったからとも言われている。
野望を抱き、未開の地に踏み込み、荒らし回り、時には未開の地の人間を手にかけるなんてこともあったらしい。
なかには荒らし回らない人もいたのだろう。しかし未開の地の人にとっては外の人間はみな大切な森を荒らし回るような敵でしかなく、殺すのを躊躇う理由はなかった。
ちょうど20年前に聖戦という名の下に、森は焼き払われ、未開の地の人たちは殺され尽くしたそうだ。
黄金の蝶