石と星


 あれを海とし、ここを陸としよう。
 かの人がそう名付ければ、そのように全てが生まれる。だからこその全知全能の権能性の証明になるのだが、その行使の仕方が簡素に過ぎて、知り合いの舞台演出家が稽古初日にする、舞台装置の指示とそう変わらない。勿論、現実となる結果の規模には雲泥の差はあるのだが(かの人のそれは「現実」そのものを生む)、結果に見合った行為の迫力に欠ける。それが、少し残念に映る。
 近くで観察していても、キャンバスにある一面の白に落とせる色に、迷う。
 とす、とかの人が歩くことで生まれる砂の音、歩み出す殻の中の生き物の持つ意思に、何度目かの風は過ぎる。レイリー散乱の空にはまだ、かの人の関心が向かない。時々、唸るように輝く遠雷が一呼吸、遅い声を上げるが、あれをいじけていると捉える心が意地悪いのか。むくれた後の表情のように、雲の存在感だけが増しても無意味、と考えることは捻くれていないか。答えのない問い、思考の渦の音に似ている、蝸牛の殻を返す。もぞもぞと動く気配。雨が降る余寒がしない。
 丸椅子から立ち上がる癖は、クローゼットのように開けば出会える衣服をイメージする。日差しを浴びて温かくなる頃、身に纏ったシャツがひと回り大きくなり、一段と小さくなった視界は関心とともに幼く、詳細になる。思えることが真水に近くなり、関心の絞りが増す。そこから真似をする不出来なピルエットは見えるものを混ぜ、骨の仕組みを教える。何回転も出来ない。しかし。
 人は、どこまでも人だ。
 そうだ、と動機をここに置くと決めた。



 砂浜に埋まる形を星と名付け、取り敢えず取り扱えるようにした。少ない口数の中で、かの人がそう言った。
 その星々を指先で摘み、その形状を具に観察する。自律した動きが見られない星は、そこに吹き込まれる命を待つ器のようだ。かの人が命じれば、直ちに青い空のその上、真っ黒な空間で周るものになるのだろうか。煌めく炎を身に纏うもの(「太陽」と名付けられる前のそれ)になれるのだろうか。同じものがあっても無くてもいい、唯一無二でも、そうでなくてもいい。理由の紐をその袖口に隠し、ときには只々風にたなびかせる、かの人の真意は知れないのだから。
 笑みに見えるそれも、僕が思うところの感情の表れなのか否か。祝福を思う僕に分かることが少ないし、それを伝える時間も惜しい。
 足跡を辿る幼き関心は、あの通り、かの人の傍を離れはしない。その幼き関心がかの人の手を離さない。その幼き関心のもう一方の手に、届くまで泳ぐ魚が進化した。
 夢のような話。信じられないディーゼルの軽さ。
 始まりは近く、この指先に込める程の力。



 僕も、かの人に名付けられたものの一つ、なのだろう。筆を咥えてそう思う。
 閃いたインスピレーションが、かの人からもたらされたものでないことに、後ろめたさを感じる。でも、人の身としては出来る自由はそういうもの、と書誌に閉じ込められた歴史的な故人が呟く。
 突風に捲れた頁から、数々の故人は説く。論理的なアプローチ、寓話を事実に映す解釈、対人をもってする教えの深化。あの高みに梯子を高く架けるため、どれもかの人に近付くために行われてきた、と。
 言葉を積むのが段階的な歩みなら、僕が取る筆はひと目見た感動でなければならない。そう思うと動きが滞る。僕以外のものの感動を想像する僕は、僕自身の感動を置き去りにしている。
 僕の描ける感動を知る。どこまでも、「僕」を辞めることは出来ない。かの人が与えた制限の中の、人の身として出来る自由。
 歌える歌に、聴こえる呼吸。
 飲み干したコップの内側で眠るように動かない、水滴に働く事象について出来る説明を見つめる。
 ミルクを所望する欲に駆られて。



 また戻ろう。
 返す返すの波間に立ち、向こうに続く足跡の主体が不在であるまま、奇跡のようなものの数々が残された。それらはぶつかり合うし、並び合う。どうすればいいかまでは決められていない。先の足跡がかの人のものであれば、かの人の関心は、やっぱりそこまで及んでいない。
 説教を嫌って抜け出した路地の真ん中を走った幼年期に代わり、道を教える郵便屋が脱いだ帽子を払うこと。その横を慎重に通り過ぎる花屋の青年が抱えた花束の数と色、届け先を記した人物。その人物をフォーカスして構える背広姿の男性の背中を追う、主人公のような娘。決意のある目。切り取られる一場面。
 コーラス隊が練習する建物の下、割れたガラスを掃く掃除を熟す主人が呼ぶ、大きな声に返事をする。かつての僕、そして私。
 具体的に在るここでは、開閉するドアがあり、建物があり、ブーンと吹く機械が暑さを和らげてくれるし、寒さを退けてくれた。テレビではニュースが流れ、違う星にまで皆が辿り着いた。夢みたいな出来事を喜んだ。焼けたトースターを齧った。
 嘘みたいに晴れた風景を見つめ続けた天気の日に、駆り出された劇の衣装係でその胸に担いだ両翼の一枚を盗って帰って、怒られた。大きな祖母の前で泣き、小さな声で励まされた。背中を叩かれ、顔を上げた。涙で歪む世界の中にあって、消えない暖炉の灯りと、祖母が語る逸話の悪戯小僧に学んだ。一枚の羽を無くしたまま両翼は処分され、返せなかった一枚を壁に貼り付け、そのうち捨てた。何回も下書きした。おかげで、正確に再現出来るようになった。原始のように忘れられない。いまに続く道。
 ある時、ナイフ屋が奪い損ねた一通と、切られなかった革鞄の表面に付いた傷を修復する技術があると知り、その作業場を覗きに行った。しっかりと縫われた生地に歯磨き粉みたいなものを付け、数回、拭えば消える奇跡を目にした。すごい、と心躍った。
 なのに悲劇は起こった。ナイフ屋は人を狙った。捕まる前に世界を呪った。真っ暗になるまで降った雨の日、野良猫が鳴く声も沈んだ。
 路地の端っこで蹴っ飛ばした石はどこにも当たらず、ただ真ん中に躍り出た。雲も何個か浮かび、なんとなく広がっていた。缶蹴りをして遊ぶには早い朝で、ちょっとずつ、買った飲み物を飲んでいた。少し甘い。そう思って、石を眺めた。頭の中で描いた。複雑な転がり方をする形。凸凹には沢山の面があるのだと知った。
 休日に遊びに行った海の中にいろんな種類の生き物はいて、海水はしょっぱく、クラゲに刺された傷は痛んだ。痛みが引くまで、座り込んだ海岸から眺めた夏は大きくて、眩しい日差しに視界を細めた。遠くで風に切り込む白い乗り物を中心に、動く光景を遊んだ。心は踊った。手の近くにいたヤドカリを捕まえた。暫くして名前を呼ばれ、背をほんの少し高くした僕がお尻の砂を払った。足跡を付けないように砂浜を駆け上がる遊びはしなかった。
 車の中で走り書きした。誰にも見せずに大切にした。
 かの人に会いに。
 手足がきしっとした。



 模写に名前を付けるのは愚の骨頂、と誰も言わなかったし、言われなかった。
 だから僕は完成した一枚を掲げ、その名前を口にした。

石と星

石と星

  • 自由詩
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-03-22

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