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先手
殺しました。法王猊下を殺しました。はい。あの若くして一国を纏められた方です。殺しました。私は彼女の掛かり付けの看護師でした。日に三度服薬されるお薬に、毒を混ぜて殺しました。殺すつもりでした。死なせるつもりで、殺しました。彼女が死んだのを確認してから逃げました。法王猊下の暗殺なんて、極刑中の極刑でしょうね。でももういいんです。私、何にも信じてないから。あの国のことも、彼女が説いた宗教も。
彼女が説いていた宗教の内容をご存知ですか。「この世に無意味な魂なんてない」です。そう、それです。聞こえがいいですよね。いいんです。もう信じていないので。
あれは、すべての生命は産まれながらにして神さまから使命を受けているという教えなんです。この世界は天界と現世と地獄の三つに分かれている。すべての生命は天界から現世に来て、死してまた天界へ戻ってゆく。魂は現世に来る際、神さまから使命を授かるんです。現世で為すべき仕事です。現世が平穏無事な世界であるよう、任される仕事です。生きている間、その仕事を全うできたら私たちは天界へ還れる。しかしその仕事を怠けたり、使命から外れてしまえば地獄へ堕ちる。一人ひとつずつ、産まれながらに為すべき使命があり、在るべき場所がある。だからこの世に無意味な魂なんてない。そういう教えなんです。
しかし稀に、重罪人がいる。まだ神さまから使命を授かっていないうちに、現世の人間が無理やり魂を引き摺り下ろしてしまうことがある。重罪です。天界は神聖にして犯すべからずなので。それに、使命を授かっていない魂は現世に来ても居場所がありません。為すべき仕事がないから。そういう子どもは「迷子」と言われます。そして迷子を産んだ母親は粛清されるのです。粛清された母親は、家柄も仕事も関係ありませんでした。貴族でも売春婦でも、迷子を産めば等しく重罪です。迷子かどうかは法王様が判断しました。彼女は赤子を一目見れば迷子かどうか判った。彼女以外に迷子を見分けられる人はいなかった。少なくとも、あの国には。彼女は迷わない。間違えない。だからこそ彼女は絶対に正しく、ひとびとは皆彼女の前に跪いたのです。彼女にはそれだけの力があった。確かに素晴らしい御方でした。殺してしまいましたが。
どうして。どうして殺したんでしょう。殺せそうだったから、殺しました。私は彼女に信頼されていました。常時彼女の側にいられる掛かり付けの看護師は、私を含め五人しかいません。更にその中で、彼女にお出しできる薬を調合できるのは、私だけでした。そこに毒を混ぜるだけ。それだけでした。
なぜあれほど無防備に信頼されていたのでしょう。今になって考えても、分かりません。薬草の知識や人の身体の仕組みについて、人一倍勉強していたからでしょうか。それとも以前褒めてくださっていたように、私の白くて細い指先を気に入ってくださったのでしょうか。彼女は冬が好きで、雪が好きでした。私のことを、雪の結晶の美しさを、そのまま閉じ込めて人のかたちにしたようだと褒めてくださいました。あはは。身体を売ったりなんてしていませんよ。
だからやっぱり、薬草や人の身体の仕組みについての知識量で、買ってくださったんだと思います。それだけは誰にも負けないほど努力しましたから。そうでもしないと、私には居場所がなかったんです。だって私、迷子出身だから。
先程お話しましたよね。迷子と呼ばれる子どものこと。産まれながらにして、居場所のない子どもです。私は、それです。
迷子は教会によって保護されます。宗教は彼ら彼女らを守るようにできています。しかしそれは「宗教に」です。「人に」じゃない。実際のひとびとの認識としては、迷子は持て余す存在なんです。迷子と名乗るとだいたい眉を顰められます。迷子は思想の中で守られて、人の間では虐められるんです。だから本当なら、迷子出身の私が法王様のお側にいられるなど、ありえない話なんです。彼女が私を寵愛してくださったのは、私を迷子出身だとはご存知なかったから、というのもあるのでしょう。いえ、もしかしたらご存知だったのかもしれない。その上でお側に置いてくださったのかしら。だって法王様は、法王様にしか、迷子は見分けられないんだもの。ふふ。今更分かりはしないことですから、不毛ですね。
私は幼い頃から人の身体の仕組みに興味を持ち、病気や怪我を治療する技術と知識を身につけたいと願っておりました。人の役に立ちたかったから。人の為、ではないかもしれません。人から必要とされる仕事を勝ち取らなければ、居場所がなかった。生きていくために、他人を利用する必要があったんです。私はこの現世にとって必要のない歯車として産まれてきてしまったから。たくさん勉強しました。教会にお願いして、国外にも旅に出て。そうしたら、私が国外に出ている間に大きな火事がありました。ええ、多くの方が亡くなったから、あなたも耳にしたことくらいはあるかもしれない。山火事から発生した、あの大きな火事です。人も建物も、たくさん燃えました。私を育ててくれた教会も全焼しました。それで、私の出自を証明する書類が焼けた。教会の人も亡くなりましたから、私が迷子出身だと証言する人もいなくなりました。出自による柵が、焼けて失くなったんです。あんなに罪深くて胸のすく思いは味わったことがありませんでした。すべてから、私は自由になった。気持ちよかった。罪悪感も含めて、快感でした。
そして私は、迷子じゃなくなりました。
でも同時に、私はどうしようもなく、迷子だったんです。
国外で病気の治療方法を学んでいたとき、私には気付いてしまったことがあるんです。迷子の見分け方です。これまで法王様にしか判らないとされてきた迷子たちの共通点を、私は見つけてしまったんです。迷子は、彼ら彼女らは皆、先天性疾患を持って産まれた子どもたちでした。法王様は、彼女は、先天性疾患を持って産まれた子を、意図的に区別していた。
ぞっとしました。
世界が裏返ったような気持ちでした。今まで真っ白だった世界が、真っ黒に塗り変わったような感覚。今まで信じていたものが、何も彼も信じられなくなった。法王様も、宗教も、ひとびとも、あの国も。
皮肉です。居場所を勝ち取るために、生きていくために薬や病気の治療について学んでいたのに、それが結果として、私の世界を裏返したのだから。私の世界を裏返したのは、私自身の手です。
法王様が何故赤子を見ただけで、その疾患を持っている子か持っていない子か判るのか。それは分かりません。私自身も国外にある最も進んだ医療を学んで、初めて知ったことでしたから。
私は、私が病気であることを、今まで知らなかった。
そして、私を産んだ母は、罪など何ひとつ、犯していなかった。母がしたことは、私を産んだことだけ。そしてその私が、たまたま病気だっただけ。
法王様は、何ひとつ罪のない母親を何人も殺してる。
慈愛の笑みを浮かべながら。民衆に手を振りながら。
何にも信じられなくなっちゃったけど、たった一つだけ分かることがありました。
神さまなんていないんですよ。
だからもう、何も信仰していません。私に縋るものなんてないんです。
それで、殺しました。
法王猊下を、殺しました。
彼女に盛った薬は時間をかけて身体の内側から彼女を蝕みました。全身が痺れ頭痛に見舞われ呼吸困難になり最後は吐瀉物が喉に詰まって窒息死しました。彼女の最期を看取ったのは私でした。私だけが彼女の看病のために寝室に入ることを赦された。毒を盛ったのは私なのに。苦しむ彼女に碌に治療もしてやらないで、ベッドの側に膝をついて彼女の手を握って「大丈夫ですよ、きっと良くなりますよ」と声を掛け続けました。殺しているのは私なのに。すると彼女は私の手を弱々しく握り返して、そんな力も残っていないだろうに、私に向かって仰いました。痺れた舌で、息も絶え絶えに。彼女は「赦します」と。「赦します」と、仰いました。「貴女のことを、ずっと地獄で待っています」とも。そう仰って、私の指先を軽く引っ掻いて、瞼を閉じて。死んでしまいました。
彼女は死にました。私が殺したのです。
長くお喋りしてごめんなさい。付き合わせてしまった。今日話したことは気の触れた者の戯事として、すべて忘れてくださって結構です。私は、どこか、遠くへ行きます。もうあの宗教を信仰していないから、死んでも地獄には行けないし。
後手
今となっては昔のことですが、あるところに一人の少女がいました。
少女はたいそう美しく、その美しさは神さまも惚れこむほどでした。
神さまは少女の九回目の誕生日に特別な本を授けることにしました。
本には神さましか知らない世界の秘密がたくさん書いてありました。
少女はたいへん喜び、朝も夜も夢中になって本に読みふけりました。
そして少女はおかあさんに世界の秘密を少しだけ教えてあげました。
ところがそれを聞いたおかあさんはたいへん怒ってしまったのです。
少女は、世界の秘密は誰にも喋っちゃいけないのだと分かりました。
少女は自分が知っていることをみんなのために使うことにしました。
少女は世界の秘密を幸せのためにつかうすべをこころえていました。
やがて時がたち、少女は一人の美しい女性へと成長してゆきました。
大人になった彼女は国中の人たちを幸せへ導けるようになりました。
その国に住む人たちはみんな彼女に感謝し、彼女を褒め称えました。
しかし彼女には一つだけ、どうしても気がかりなことがありました。
それは、幼い頃おかあさんに世界の秘密を喋って怒られたことです。
彼女はおかあさんに怒られてとても恐ろしい思いをし傷つきました。
もし、自分と同じ恐ろしい思いをする子どもが出たら、どうしよう。
彼女は、神さまが気に入りそうな子どもたちを守ることにしました。
神さまが気に入って贈り物を授けても、子どもが傷つかないように。
神さまが惚れこむ子どもは赤子のうちから光りかがやくものでした。
彼女はそういった赤子を見つけるとすぐにきょういから守りました。
ある日光りかがやく赤子の中でもことさら美しい子が産まれました。
冬の、吹雪のあとの清々しく晴れわたった日に産まれた子どもです。
まるで雪の結晶のようにもろくせんさいでやわらかな子どもでした。
彼女は、その子どもを一目見たしゅんかん惚れこんでしまいました。
彼女は世界の秘密を自分のために使いその子どもを手に入れました。
欲に目がくらんだ彼女には罰が当たり、彼女はとても苦しみました。
しかし、雪のような子どもが彼女の手を握ってずっと側にいました。
彼女は雪のような子どもと永遠の愛を誓って、目を閉じましたとさ。
めでたし、めでたし。
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