君はみなぎわの光

※この作品にはR-15相当の残酷な描写、軽度の性的な描写等が含まれます。

【第一部 宮中炎上編】一 杣の宮の皇女〈1〉

 東の(そら)が薄ら明るくなるころ、私は臥所から這いだす。
 側仕えの婆は、年寄りには珍しく寝穢いたちだ。台盤所の鶏が甲高く鳴いてもいびきを立てている。毎朝主人(わたし)に起こされるというのは、仮にも侍女としていかがなものか。しかし婆の枕が高いおかげで、私も安心して宮を抜けだすことができるのだからとやかく言えない。
 腰まである墨色の髪は邪魔にならないよううなじで束ねて輪にして括り、下級の宮女が着る草色の袍と苅安色の裳を身につける。最後に頭から白い被衣をかぶれば出来上がりだ。
 鏡台の前に立ち、顔――特に目元――が見えないか確認する。私はよしと頷くと、控えの間でぐっすり寝入っている婆の横を抜き足差し足で通り過ぎた。
 私と婆がふたりで暮らす宮は、宮人たちから『杣の宮』と嘲笑まじりに皮肉られるにふさわしいぼろ家だ。何代か前の大皇(おおきみ)(みめ)がお住まいだったが、その方が亡くなられてからは朽ちるに任せていたらしい。
 取り柄といえば広さぐらいで、雨漏りはするし、床板はところどころ腐って抜け落ちているし、野分が吹き荒れようものなら蔀戸も簾も飛んでいって屋敷じゅうがめちゃくちゃになる。それでもなんとか住居の体裁を保っていられるのは、心ある宮人があれこれと手を貸してくれるからだ。
 そのうちのひとり、台盤所で働く飯炊き女の真赫(ますほ)が朝食を運んできてくれるまでに戻らなければならない。床下に隠しておいた沓を履き、私は朝靄に煙る森を歩きだした。
 杣の宮の蔑称のもうひとつの由来が、周囲を覆う鬱蒼とした木立だ。
 背の高い常緑樹が並び立つ一帯は昼でも陽の光が遠く、森と呼ぶべき闇を孕んでいる。夜明け前の今時分は青白い靄が波打つように揺蕩い、切れ切れに現れる樹木の影はぞくりとするほど黒い。
 夜露をたっぷりと吸いこんだ落ち葉が積もった地面に足を取られないよう、ざくざくと進んでいく。被衣を透かしても木立のむこうで揺らめく無数の影は確かに見えた。
 ひたひたと、落ち葉の上を這いずって追いかけてくるものの湿った息遣い。
 生きた人ではないもの、陽の当たらない場所――陰りに潜むもの。かれらを形容する名称は定かではない。
 昔堅気の婆は「あれ」や「それ」などとはっきり口にすることを憚るが、真赫などは、だれぞの邸宅に物の怪が出たとか都のどこそこに妖魅が出たとか、宮城の外の噂をかしましく話してくれる。すると宮の物陰のあちこちて何かがうごめくのだが、気のよい飯炊き女を怖がらせるのは忍びないので教えたことはない。
 宮の周辺をうろついている程度の小物であれば、気に留めなければちょっかいをかけてくることもない。
 子どものころ、髪を引っ張られたり足を捕まれて転ばされたり耳元でぼそぼそと話し続けられたりと、とにかく鬱陶しくてたまらず塩をぶちまけて「いい加減にしろ!」と一喝したことがある。以来、おずおずと窺うような視線は感じるものの、悪さをしでかす輩はのいまのところいない。
 塩をまいたのは『昔』の記憶に基づくとっさの行動だったが、こちら(・・・)でも効果は抜群だった。あれから常に革袋に詰めた塩を持ち歩くようにしている。
 靄を掻き分けてどんどん歩いていくと、やがて木立の切れ間が見えてきた。視界が開けてあたりがぼうと明るくなる。
 森のほとりは宮城の西側に接している。水色の静寂に横たわる殿舍を見上げると、釣り灯籠の残り火に照らされた縁に人影が佇んでいた。
 ほっそりとした少女だ。艶やかな墨色の髪に飾られたりんどうの花。白い袍に涼しげな萌黄色の背子を重ね、鮮やかな刺繍があしらわれた朱色の帯を締めている。
 肩にかけた領巾(ひれ)が揺れて、月明かりに光る露のようにしららかな面がこちらを向いた。
夕星(ゆうずつ)!」
 同じ造作をしているはずなのに、鏡の中の自分とは似ても似つかぬ可憐な笑顔。裳裾を絡げて階を下りてきた少女――双子の姉である明星(あかぼし)に歩み寄り、私は伸ばされた両手に応えた。
「会いたかったわ、わたくしの愛子(いとこ)
 指を絡めて額を寄せてくる片割れに、くすぐったく苦笑を返す。
「姉様はいつも大袈裟ね」
「だって、あなたとこうしていっしょにいられるのは暁降ちのいまだけなのよ?」
 桃の花のようなくちびるを尖らせ、明星は不服を訴えた。
 都いちの佳人として知られた母の美しさをそっくり受け継いだといわれる姉――私が私自身を美しいと言い切るのは精神的に無理だ――は、ふっさりと生え揃った睫毛の奥に瑞々しい紫色の瞳を湛えている。夜明けを映す水面を思わせる、深く引きこまれる()だ。
 瓜をふたつ並べたかのように相似形の私たちだが、瞳の色だけは違う。
 私の瞳は、明星の言葉で表せば「夕映えに輝き渡る秋の稲田」、当代の大皇――父の言葉で表せば「禍々しき鵺の眼」であるらしい。夜闇で爛々と燃える朱金(あかがね)色の両目は、確かに化生じみていると思う。
 宮女は私の目は見た者を呪い殺すと噂している。お産で亡くなった母は、ふたりめの赤子の目を見てしまったから魂を吸い取られたのだと。
 私の前で視線を逸らしたり顔を隠したりしないのは、明星と仕えてくれている宮人ぐらいのものだ。大皇の御前に出るですから、足元まですっぽり隠れる(おすい)を被るよう厳命されている。
 莫迦莫迦しい。私が陰視(かげみ)――陰りに潜むものを視る異能を持つ人間――にしか過ぎないことは知っているくせに。
 明星を掌中の珠と慈しむ大皇が一方で私を疎んじるのは、私のせいで最愛の妃が亡くなったからだ。明け方に生まれた姉よりも遅れ、ようやく私が産声を上げた夕方には、母は白い花のごときかんばせを苦悶に染めて絶命していたという。
 母の血にまみれて泣く私の隣から明星を抱き上げた大皇は、「それは妖霊星(ようれぼし)だ。死を招く凶星(まがつぼし)の落とし子だ」と忌々しげに吐き捨てたそうだ。ゆえに私は夕星――滅びと災厄の象徴の名で呼ばれ、片割れには吉兆を告げる明星の名が与えられた。
 私は乳母というには薹が立ちすぎている老齢の婢とともに、森の奥の古宮に押しこめられた。それから十五年、大皇の許しがなければ森の外へ出ることも難しい身の上だ。
「仕方ないわ。私といっしょにいたら、あなたまで母上のように呪い殺されてしまうと大皇はお考えなのよ」
 肩を竦めてみせると、明星は悔しそうに眉根を寄せた。
「そんなの、夕星のせいではないわ。産褥で命を落とすことは珍しくないと前に医女が申していたもの」
「そうね。……きっと大皇は、明星のように理解することが難しいのよ」
 大皇は母のことをたいそう寵愛していたそうだ。身分の低い母を正妃に迎え、彼女以外の女性を拒むほどに。
 母の死後、皇太子(ひつぎのみこ)を望む臣下の声にやむを得ず新しい妃を娶り、皇子(みこ)をひとり儲けている。私は直に会ったことはないが、明星は年の離れた異母弟をかわいがっているようだ。
神隼(かむはや)もね、夕星と話がしてみたいと言っていたの」
 私はぎょっとした。神隼は異母弟の名前だ。
 明星は力をこめて訴えた。
「あなたの噂を耳にして、わたくしに訊いてきたのよ。『杣の宮の姉上は皆が言うようにおそろしい方なのですか』って。もちろん違うと言ったわ。みんな誤解しているだけ。夕星ほど穏やかで、心が安らぐひとはいないと」
「買いかぶりだわ」
「本当のことよ。だって、あなたに出会えてようやくわたくしは自由に息を吸えるようになったのよ?」
 私の手を固く握り、明星は俯いた。
「……ねえ夕星。わたくし、ときどきお父様が怖いの」
 喉の奥から苦いものがこみ上げる。私は寄り添うように片割れの肩を抱いた。
 亡き妃に対する大皇の恋慕は、日に日に母の面影を濃くする明星への溺愛にすり替わった。真赭によれば、適齢期を迎えた皇女(ひめみこ)への縁談をことごとく握り潰しているらしい。
「お父様はとてもおやさしいわ。でもね、わたくしを見る眸が……たまらなくおそろしいときがあるの。お父様の前から逃げだしてしまいたくなるのよ」
「大丈夫よ、明星」
 私は意識して明るい声をだした。
「万にひとつ大皇がおかしなことを考えていたとしても、母上の一族――和多(わた)氏が黙っていないわ。お祖父様……和多の氏長(うじのおさ)は、母上を無理やり奪い取ったことをひどく恨んでいるのでしょう? 更に愛娘の忘れ形見を苦しめるようなら、明日には七洲(しちしま)の湊という湊から舟が消えてしまうに違いないわ」
 母が生まれた和多氏は、かつて戦火を逃れて海を渡ってきた人びとの末裔だ。
 和多氏は優れた造船と航海の技術を持ち、七洲を統べる大皇に臣従を誓うかわりに庇護を求めた。それから二百年近く、和多氏は異国との交易に大いに貢献し、和多水軍と称される一大勢力にまでのし上がった。
 島国である七洲にとって海を制する和多氏はなくてはならない存在だ。すでに祖父との間に遺恨を抱えている大皇が同じ轍を踏むような真似はしないだろう。
「年賀の宴で会うたび、面白いお話をたくさん聞かせてくださったり、珍しい異国の品を贈ってくださったりするのだと話していたでしょう? 何かあったら、お祖父様に文を書くのよ。そうすればすぐに助けてくださるわ」
 異母弟同様、母方の祖父に会ったことはないが、明星には愛情を持って接しているようだ。
 ただ、私のことをどう思っているのかは謎だ――明星の前でも私の存在について言及したことはなく、そもそも会える機会が大皇が臨席している場に限られているので、明星も話題にしづらいらしい。
「国じゅうの湊から舟が消えたら大変だわ」
 明星は弱々しい笑みを浮かべた。私の肩に頭を乗せ、ため息をつくように呟く。
「夕星といっしょに和多の(さと)へ行けたらどんなにいいかしら」
 下向いた紫色の瞳は深く翳り、言の葉だけが頼りなく宙を漂っている。
「皇女であるわたくしは神隼のように皇太子にはなれない。もうすぐ十六よ。どこかの氏族へ降嫁するべきなのに、お父様はお許しにならない。……ずっとそばにいておくれと、そうおっしゃるのよ」
「いずれあなたにふさわしい縁談が整うわ。大皇だって、いつまでも駄々を捏ねてはいられないわよ」
「まあ、夕星ったら」明星のかんばせにようやく光が射した。
 片割れはおかしそうに噴きだすと、袖の下でころころと笑った。
「お父様をそんな風に言えるのはあなたぐらいだわ」
「私からしてみれば駄々っ子も同然よ。責任ある地位に就いている、いい年をした殿方がみっともない」
 正直な感想に、明星は我慢できないとばかりに肩を震わせている。
 私は彼女の手に手を重ねた。
「弱気になって悲観してはだめよ、姉様。いやなことをされそうになったら大皇だろうとだれだろうと、思いきり叫んで顔を引っ掻いて股関を蹴り上げてやりなさい。膝を一発ぶちこんでやれば、たいていの男は再起不能に陥るわ」
「ぶっ……」
 明星の頬がサッと赤くなった。恥ずかしそうに視線を泳がせる姉に、私は念を押した。
「護身用に先の尖った笄を髪に挿しているといいわ。遠慮なく手を刺してやれば、逃げる隙ができるから」
「夕星……ずいぶん詳しいのね?」
 私は咳払いでごまかした。「ええと、飯炊き女の真赫という者がね、世辞に通じていていろいろと教えてくれるのよ」
 実際はあちら(・・・)で聞きかじった知識なのだが――痴漢を撃退するには安全ピンが効果的だとか。
 安全ピンはないが、装身具である笄なら身につけていてもあやしまれずに済むだろう。
 明星は目を丸くして感心しきっている。気位の高い宮女に取り巻かれ、安易に下位の者と口を利こうものならこっぴどく叱責されるという姉にとって、台盤所の飯炊き女とは未知の存在に等しいのかもしれない。
 ……不憫な子だ。
 私も不遇だが、明星とて恵まれた環境にあるとは言えない。互いに憐れみ、傷を舐め合っている関係だとつくづく思う。
 それでも、幸せになってほしいのだ。
 この世界で得た、ひとりきりの私の『家族』だから。
「ああ、夜が明けるわ」
 遠くから朝を告げる鶏の声が聞こえる。
 名残惜しさをこらえ、私は片割れの手を放した。
「そろそろ戻らなければ」
「ねえ夕星……明日の朝、神隼を連れてきてもいい?」
 おずおずと尋ねる明星に、私は首を横に振った。
「私は皇子に会わないほうがいいわ」
「でも――」
「明星の言うとおり、とてもいい子なのでしょうね。だからこそ、いらぬ煙の火種は生まないほうがいい」
 明星は口をつぐんだ。
 聡明な姉のことだ、異母弟と私を引き合わせるリスクは承知しているだろう。
 二年間密かに続けてきた夜明け前の逢瀬とて――そろそろ潮時であることも。
「……わかったわ」
 明星はかすかに頷き、おもむろに黒髪に飾っていたりんどうを引き抜いた。
「これを」両手で差しだしながら、縋るように見つめてくる。
「忘れないで。わたくしは、いつもあなたを想っているわ」
「……私もよ」
 そっとりんどうを受け取り、私は胸を締めつけられる思いで微笑んだ。
「あなたほど愛しいひとはいないわ、姉様」
 また明日――そう言い交わし、私たちは別れた。
 灯りの消えた縁の奥へ消えていく明星を見送り、私は急いで森の奥へ駆けこんだ。
 両手で裾を絡げ、徐々に明るくなっていく森を一心に走る。まとわりつく陰りの気配にかまっている暇などない。
 慌ただしく宮にたどり着くと、まだ真赫は来ていないようだった。
 沓を床下に隠し、まだいびきを立てている婆の横を通って臥所に滑りこむ。
 脱ぎ散らかした宮女の装束を掻き集めて衣装櫃の底に押しこむと同時に、厨のほうから物音が聞こえてきた。
 いつものように僅差で遅れてやってきた真赭が朝食の支度をはじめたようだ。地味な浅葱色の袍に同系色の裳を重ねると、ふと鏡台に目が留まった。
 鏡を覗きこみ、そっけない髪型をまじまじと凝視する。いちど髪を解き、上のほうだけ掬って結い直す――いわゆるハーフアップだ。
 そこへりんどうの花を挿すと、なんとなしに気分が明るくなった。
 満足し、控えの間で熟睡している婆に声をかける。「婆、そろそろ起きてちょうだい」
「ふがっ」皺に埋もれた目をしょぼしょぼさせて婆は起き上がった。見事なまでの白髪が綿毛のように膨らんでいる。
 歯の抜けた口をもごもご動かし、「これはこれは媛様(ひいさま)、おはようごぜえます」と夜着のまま一礼した。
「おはよう。さ、早く顔を洗って髪を梳かしなさいな。真赫が朝食を作ってくれているから」
「おお、ありがたいことじゃ。今日の(さい)はなんでごぜえましょうなあ」
 いそいそと身繕いをはじめる婆に呆れつつ、厨に向かう。
「おはよう、真赫」
「こりゃまあ媛様。おはようございます」
 空腹を誘う匂いに満ちた厨には、下級宮女の装束を着たふくよかな女性が朝食の仕上げに取りかかっていた。
 張りのある赤銅色の肌はつやつやとして、色素の抜けた縮れ毛をひっつめている。ひと目で異国の血を引いているとわかる容貌だ。
 肌の色から真赫と呼ばれている飯炊き女は、白い歯を見せて笑った。
「きれいな花ですねぇ。媛様によくお似合いだあ」
「うふふ、ありがとう」
 袖をまくって手伝いを申し出ると、真赭は遠慮なく「そこの鍋から汁を椀によそってください」と言ってくれた。
 身支度を終えた婆が出てくるころには、ささやかだが温かい朝食の膳が並んでいる。
 こうして、杣の宮の一日がはじまった。

一 杣の宮の皇女〈2〉

 かつて私は夕星ではなく違う名前で呼ばれていた。
 七洲を治める大皇の娘として生まれる前――別の世界で別の人間として暮らしていた記憶がある。
 そこで日本という国で、東京という都市で、私は平凡な女子高生として生きていた。
 サラリーマンの父とデイサービスの介護士として働いていた母。中学生の弟は生意気だったが嫌いではなかった。
 友達がいた。部活は茶道部。人数合わせの幽霊部員だ。彼氏はいなかった。気になっているクラスメイトの男の子が――いたような、気がする。
 得意科目は……なんだっただろうか。小学生のころは『まんがでわかる! 世界の歴史』シリーズをよく読んでいた覚えがある。
 ああ、そうだ。日本史や世界史が好きだった。
 文字を読むのは苦手だが、まんがは好きだった。スマホの読み放題アプリで、昔の――母が知っているような古い少女まんが――を読み漁っていた。
 篠原千恵の『天は赤い河のほとり』に、ひかわきょうこの『彼方から』。大長編の『王家の紋章』は一回挫折して、いつかトライしてみようと考えていて……
 私は、なんという名前だったのか。
 憶えているのは全身を殴りつけられるような痛み。衝撃と言ったほうがいいかもしれない。
 ブツッと意識が途切れ――気がついたら四歳の夕星としてこの世界にいた。
 通学途中、乗っていた路線バスがトラックに突っこまれたのだ。車体がひしゃげて、砕け散ったガラス片がきらきらと光っていた。即死だったらいいな、と思う。
 享年十七歳。こちらでの年齢も加算すると三十二歳。立派なおばさんだ。
 覚醒するまでの四年を引いても二十八歳。もうすぐ二十九歳。どうあがいてもアラサーである。
 前世の記憶はどんどん曖昧になっていくのに、精神面では老ける一方だ。七洲では女の子は十四、五歳で結婚するのが当たり前なので、明星が大人っぽいと褒めるわけである。
 ちなみに大皇は四十代手前。おっさんがいつまでも女々しく娘に甘えんなよ、しかも一国の君主だろ! と腹立たしくもなる。
 前世の父だって娘から見ると洋服のセンスのない中年だったが、もっと頼り甲斐があったし父親の責任を果たしていたぞ……外見に関して大皇のほうに軍配を上げてしまうのは許してほしい。
 芽生えかけていた自我と記憶に折り合いをつけ、俗にいう毒親のもとに生まれてしまったがために辛酸を舐めている境遇を理解したのは七歳。このころ前世の名前を忘れ……夕星という人間に生まれ変わった現実を受け容れるしかなかった。
 だって、納得しなければ生きていけないではないか。
 育ち盛りの子どもはとにかく腹が減るのだ。すぐに眠くなるし、覚えなければならないことは山のようにあった。
 不慮の死を遂げた末、理由はわからないがせっかく生まれ直したのだ。
 私は生きたかった。
 だから夕星という名前で生きることを選んだ。
 まず生まれた場所。七洲と呼ばれる、日本に似た気候の島国。
 春夏秋冬があり、主食は米。これはとても助かった。お米おいしい。
 ただし文明レベルは二十一世紀の日本より遥かに原始的だ。水は井戸や川から汲んでこなければいけないし、日が沈めば灯火だけが頼りだ。
 何より、人間がころりと死ぬ。
 不謹慎な言い方だが、本当にあっさり死ぬ。特に身分の低い者ほど簡単に死ぬ。
 怪我や病気になっても、そもそも治療を受けられるのは高貴な身分の人間に限られているからだ。治療といってもせいぜい薬を煎じて飲ませたり、按摩や鍼灸のような施術を行ったりする程度――あとは呪術に縋るしかない。
 こちらの世界には『おばけ』がいる。
 陰りに潜むもの、人間にとってよくないものを退ける方法――あるいは、かれら(・・・)の力を借りて他人を害する方法――が存在する。見えないもの、不思議なものたちと付き合うための方法が呪術だ。
 私のような陰視は、一般的な集落ならひとりやふたりはいるものだそうだ。だが呪術を操る呪師(じゅし)は、きちんと修練を積まなければなれるものではない。
 私を育てた婆は、この呪師だった。
 といっても呪術の手ほどきは受けていない。「すっかり忘れてしまい申した」と言って教えるつもりはないらしく、陰視としての心がけは説いてくれた。
 陰りに潜むものを侮ってはならぬ。さりとて侮られてもならぬ――塩をぶちまけて怒鳴りつけたと言ったら、「ほんに気骨がある御子じゃあ」と歯の揃わぬ口を開けて笑っていた。
 のらりくらりとした婆との暮らしにほかの人間がまじったのは、夕星の名を受け容れたころだ。
 足腰が弱くなってきた婆を見兼ねて、台盤所で働いている真赫や、彼女と同郷の宮人たちが手伝いにきてくれるようになったのだ。真赫たちは私の目を見ても大袈裟に怖がったりせず、婆と同じく「媛様」と朗らかに接してくれた。
 ……父親から忌み嫌われ、宮の外に出れば腫れ物のようにつつかれて。重苦しい境遇にめげずにいられたのは、のんきな婆や真赫たちのおかげかもしれない。
 多少ひねくれたところは否めないけれど。大皇が一日に一回は調度の角に足の小指をぶつけて悶絶するよう心の中で呪うぐらいは許されるはずだ。
 明星に出会ったのは二年前。
 同じ日に生まれた姉妹なのだから出会ったというのはおかしいかもしれない。双子の姉の存在は知っていたが、いちども姿を見たことはなかったのだ。
 夏の終わりの黄昏だった。
 夕闇に呑みこまれようとする森の中から叫び声が聞こえてきたのだ。何事かと駆けつけると、黒い影のような犬に襲われている女の子を見つけた。
 ひと目で悪しきものだとわかった。私は懐に忍ばせていた塩をありったけ犬に投げつけ、「いますぐ消えろ! さもないと次は御神酒をぶっかけるぞ!」と叫んだ。
 全身に塩を浴びたら犬はギャンと悲鳴を上げ、跳ねるように暗がりへ消えた。
 私は呆然とへたりこんでいる女の子に駆け寄り、息を呑んだ。
 美しい衣を無惨に汚した女の子は、私と同じ顔をしていた。きれいな紫色の瞳が涙を溜めて私を凝視していた。
 墨色の髪の両側をひと房ずつ赤い結い紐で束ねた女の子は、震える手を伸ばしてぎゅっと私の袖を掴んだ。
「あなたが……夕星?」
 鈴を振るようとはこんな声だろうかと思った。ぎくしゃくと頷くと、女の子――明星は顔をくしゃくしゃにして泣きだした。
 のちに聞いたことだが、陰視ではない明星はこのときはじめて陰りに潜むものに遭遇したらしい。
 婆によれば、大皇が暮らす宮城は破邪の術によって堅固に守られており、本来悪しきものが立ち入る隙などないのだそうだ。だが顧みる者もいない杣の宮はいつしか術の守りを失い、闇深い森に数多の陰りが生まれてしまった。
 身ひとつで森に迷いこんだ女の子を悪しきものが放っておくはずもない。かれらとの付き合い方を婆から教授された私ならいざ知らず、煌らかな宮中で育った明星にとってみればどれほどおそろしい出来事だったか。
「あなたに会いたくて、会いたくて、逃げてきたの」
 私の手を握りしめ、ぽろぽろと涙を溢れさせながら明星は打ち明けた。
 狂気じみていく大皇の愛情に恐怖を抱き、少しずつ女になっていく自分の成長が厭わしいこと。
 大皇の怒りを買うことをおそれ、周囲はだれも助けてくれないこと。
 皇子を産んだ継母から激しく憎まれ、臥所に蛇を投げこまれたり宮の床や柱に獣の糞を撒き散らされたり嫌がらせを受けていること。
 苦しくて苦しくて、だれかに助けてほしくて――杣の宮に幽閉されている片割れの存在に縋りついたこと。
 拒絶などできるはずもなかった。
 胸の裡で長く凍えていた何かがゆっくりとほどけていった。
 どんなにやさしいひとたちに助けられ、支えられていても、私は孤独だった。
 人生を失い、故郷を失い、名前を失い、実の父親から母親殺しと忌み嫌われる娘として――夕星として生きるしかなかった。『私』はここにいるのに、夕星にしかなれなかった。
 憎しみでも憐れみでもなく、ただだだ夕星を――私を求めてくれたことが嬉しかったのだ。
 明星に出会って、『私』はようやく夕星になれた。私は夕星、明星の片割れなのだと心から思えたのだ。
「私も……あなたに会いたかったわ。明星、私の姉様」
 滑らかな白い手をおずおずと握り返すと、明星はハッと息を呑んだ。
 潤んだ瞳は雨に濡れるまつむしそうの花を思わせた。そこに光が灯ることを願い、私はほほ笑んだ。
「会いにきてくれてありがとう」
 明星は私の膝に崩れ落ちた。
 幼子のように咽び泣く姉の背を撫でさすりながら、私は生まれてはじめて(・・・・・・・・)満たされた喜びを噛みしめた。
 明くる日から私たちに秘密ができた。
 夜明け前のひととき、森のほとりでのささやかな逢瀬。側仕えの目を盗み、ともに過ごせる時間はほんのわずか。それでも二年の間、私たちは一日たりとも欠かさず約束を守り続けた。
 ――明日の朝も、この場所で。
 明星に会える。その希望があるからこそ、昏い森に閉ざされた宮での暮らしにも耐えられた。
 森のむこう――外の世界へ出たいという思いは常にあった。薄暗い陰りではなく、光を浴びて生きたいという願いが。
 だが、大皇に逆らえば今度こそ殺されるかもしれない。森の中に留まっているからこそ私の命は保証されているのだ。
 明星との逢瀬とて危うい綱渡りだとわかっている。いつまでも見逃してもらえるわけではないことも。

一 杣の宮の皇女〈3〉

 朝食の後片付けを終えると、真赫は台盤所へ戻っていった。私は婆とともに糸繰りの仕事に取りかかる。
 婆はもともと皇族の衣装を作る染殿で働く機女(はたおりめ)だった。私の側仕えとなったいまでも毎日欠かさず糸車を回し、紡いだ糸を染殿に納めている。
 婆からは陰視の心得とともに糸繰りの技も教えこまれた。染殿で働いている宮人たちも、まさか皇女が糸繰り女の真似事をしているとは思うまい。
「昔むかしは、糸繰りや機織りは巫女のお役目でごぜえました。忌服屋(いみはたや)に籠り、心静かに天地(あめつち)の声に耳を澄ませる。すると大気の流れや水のめぐり――海を往き、(おか)を駆ける人の世の移ろいが色鮮やかな布帛のごとく目の前に広がるのですよ」
 糸車を回しながら婆は語る。
 実際、婆は呪師であると同時に優れた巫女でもあった。豪雨や干魃、疫病の予兆を読み取ったときなど、宮に出入りする真赫たちにそれとなく伝え、大皇の耳にまで届くよう取り計らっていた。
 真赫によれば、婆の占は先代の大皇の治世から重んじられているのだそうだ。同時に畏怖嫌厭の対象となり、最下級の奴婢に落とされた。大皇からすれば忌み子の世話を任せるにうってつけの人材だったというわけだ。
 染殿に納める糸は、主に天領で飼育されている特別な蚕の繭から取れる絹糸だ。
 淡い翡翠色を帯びた繭からは、萌黄色に照り映える美しい糸が取れる。一般的な絹糸よりも細くやわらかいため、熟練の糸繰り女でなければ仕上げることが難しい。
 婆はこの特別な絹糸を取る役目を負う数少ないひとりだった。染殿から運ばれてきた繭を大鍋で煮てほぐし、糸車で丁寧に糸を紡いでいく。
 私が糸繰りを任されているのは一般的な白い繭だけだ。「(あめ)の糸をひと筋紡ぐまで、媛様の腕では十年でも足りませんのぉ」と笑われてしまえば、地道に研鑽を重ねるほかない。
 婆が回す糸車の音、古めかしい糸繰り唄を聞いて育った私にとって、糸繰り女の真似事はすんなりと身に馴染んだ。
 ほぐした繭から紡がれる一本の糸によって、私という人間とこの世界が結ばれる。するすると伸びていく糸の先から、言葉でも映像でも音楽でもない情報が波のように打ち寄せる。
 宮を囲う森に潜むものたちの息遣い、梢のささめき、風の匂い。
 広大な宮城で動き回る人びとの足音、話し声、色とりどりの裳の衣擦れ。
 台盤所で真赫がかまどの火を熾そうと息を吹いている。厩から響く嘶き、馬蹄の音。
 染殿では年若い機女たちがおしゃべりに夢中になり、機女頭からこっぴどく叱りつけられている。機織りの音色、染料を煮出す大鍋から立ち上る湯気の熱。
 宮城の奥へ意識を向けると、てらてらと玉虫色に輝く帳が雪崩れ落ちた。パシンッと鼻先で閉め出されてしまい、帳のむこうを窺い知ることはできない。
 呪術による守りは、単なる陰視に過ぎない私では突破は困難だ。破れたところで、大皇に知れれば謀反の疑いをかけられるに決まっている。
 糸車を回す手を止めてため息を噛み潰すと、婆がのんびりと口を開いた。
「御心が乱れておりますなあ、媛様」
 淀みなく糸を引きながら、皺に埋もれた瞳が私の手元を射抜く。
「仕方ありますまい。姉君がたいそう気がかりでいらっしゃるのだから」
 ……婆が見て見ぬふりをしてくれているのだと理解したのはすぐのことだ。
 杣の宮に囚われながら七洲の端から端まで見晴るかす眼を持つ巫女が、養い子が毎朝こっそり森の外へ抜けだしていることに気づかぬはずがない。
 二年間、婆は咎めも諫めもせず私の好きなようにさせてくれた。
 だが、いずれ糸の切れ目――片割れとともに紡いだ感傷を断ち切らねばならない日を宣告されることを、私は知っていた(・・・・・)
「……明星は、大切な『姉様』だから」
 紡ぎかけの糸に視線を落とし、苦い胸中を吐露する。
「幸せになってほしいの。私では(・・・)幸せにしてあげられないから」
 婆のように、はっきり見えているわけではない。
 明星を想えば想うほど感じるのだ。固く縒り合わさっていたはずの私たちは運命の手によって解きほぐされ、まったき一本の糸に戻ることはできないのだと。
 流れた時間のぶんだけ明星は遠ざかり、いつか決定的な別れがやってくる。二度と交わらぬ糸の先は、暁闇よりも暗い。
「私にできるのは、この宮で糸を引いて陰りに潜むものを視るだけ。明星のそばにいて、あの子を守ってあげることもできない」
 私の片割れ、私の愛子。
 同じ日、同じ父母から生まれたのに、私たちが置かれた天は違っていた。
 暁天に昇っていく明星を、私は地の底から見送るしかないのだ。杣の宮という牢獄から解き放たれない限り。
「ねえ婆。どうして大皇は私を生かしたのかしら」
 糸車の音がカランと止まる。
 婆の表情は凪いだ水面を思わせた。皮膚がたるみ、皺が波打つ小さな顔は、どこか人ではないもののように見えた。
「視界に入れることを厭うほど疎んじているのなら、死産なり病死なりと偽って幼いうちに殺してしまえばよかったのに。わざわざ幽閉して飼い殺しにする必要がどこにあるの?」
 口にしてしまえば、胸の裡に巣食う真っ黒な感情が噴きだした。
 明星への想いと表裏一体の、大皇(父親)への反感、理不尽な境遇に対する鬱屈――
 大皇を頂点とする完全な封建社会において、二十一世紀の平和な民主主義国家で生まれ育った『私』の人間性には異質で、異端で、無力だった。
 そう、無力! 圧倒的に無力!
 目が眩むような絶望に溺れ、もがきながら沈んでいく。
 ――どうしてこんなに苦しいの?
 婆ばパチリと瞬き、いつもどおりの気の抜けた笑みを浮かべた。
「はてさて。お聡い媛様ならば、『和多の白珠(しらたま)』と呼ばれた御方のことはご存じでしょう」
「……私を産んで亡くなった母上だわ」
「然様にごぜえます。大皇が白珠媛をお召しになったときの騒ぎといったら、七洲の地がひっくり返った有り様でした。和多の氏長の怒りは凄まじく……白珠媛自ら大皇の暴挙をお許しになるよう訴えられ、ようよう輿入れを承諾したのです」
 私は「え」と声を洩らした。
 拐かされた母自身が和多氏を説き伏せた――とは初耳だ。
 真珠のごとき白皙の佳人であったという母。慕わしさよりも苦々しさを覚えてしまう、朧げな存在。
「大皇と白珠媛は、それはそれは仲睦まじくいらっしゃいました。特に白珠媛は、御子がお生まれになる日を心待ちにしておいでじゃった。……命に替えても惜しまぬほどに」
 糸車がゆうるりと滑る。
 婆の手元から伸びる糸と意識が接続される。未知のイメージが内側から広がり、感覚のすべてが塗り潰された。
 濃い乳の香り。白い手首を飾る翡翠の玉環。
 半身とぴったり身を寄せ合い、温かな薄明かりの中でまどろんでいた。水のゆりかごを揺らす、張りのある女性の歌声。
 ――吾子や、吾子や
 ――早く其方(そなた)を抱いてやりたい……
 欠けたものなどひとつもない、満たされた幸福。狂おしい感情に胸を掻きむしりたくなり、私は悲鳴を上げた。
「やめて! 私の中に入ってこないで!」
 紡いでいた糸がブツリと切れた。
 全霊の拒絶に、意識の結び目が引きちぎれる。婆はわずかに目を瞠った。
 私は道具を放り投げて立ち上がった。
 瘧にかかったように体が震えた。両手を握って歯を食いしばり、育て親を睨めつける。
「……母上の願いだから、大皇は私を殺さず生かしたの? だから母上に感謝しろと?」
「媛様――」
「ええ、そうね。私の母上はとてもおやさしく、慈悲深い方だったのでしょうね」
 息を吸いこみ、私は声を張り上げた。
「だからなんだというの!? 母上は死んだわ、私を産んだせいで! 母上が死んだから、私も明星も苦しんでいる。私は母親殺しの汚名を着せられ、明星は父親から母親の身代わりを強いられている。母上の亡霊に取り憑かれた大皇によって!」
「媛様!」
 婆の口調が一変した。
 反射的に身が竦む。本気で怒っているときの声だ。
 普段とは比べものにならないほど、怒った婆は怖い。錐のような視線が突き刺さり、喉が鳴った。
「そのような、死者を貶める呪詛を吐いてはなりませぬ。悪しき言霊は悪しきものを呼びこむ――そうお教えしたはずじゃ」
 呪詛――そう、私の言葉は呪詛だ。
 どれほど物分かりのいいふりをしても、自分を取り巻く環境を恨めしく思う心が呪詛を垂れ流している。  
 陰りは新たな陰りを生む。だからこそ異能を持つ者は感情のまま他人に害を及ぼさないよう、己を律しなければいけない。
「……忘れたわ、そんなこと」
 私は身をねじ切られるような心地で呟いた。
 床に打ち捨てられた糸が千々に乱れて波打っている。枯れ枝のような婆の指が無惨に断ち切れた一本をそっと摘まんだ。
 婆はしょぼしょぼとした目で糸を見つめ、悲しげに息を吹きかけた。
 糸は一瞬で真っ黒な翅の蝶――いや、蛾だ――に姿を変えると、ふよふよと覚束ない飛び方でこちらへやってきた。
 とっさに袖で打ち払うと、蛾はぼろぼろと煤になって崩れ落ちた。
「ゆめゆめお忘れなされるな」
 点々と袖に付着した煤の痕に、婆は重々しく唸った。
「なんのお役目も与えられずに天から降ろされた命などありませぬ。七洲の大皇と白珠媛の御子としてお生まれになったあなた様にもまた、今生で果たすべきお役目があるのです」
 私はくちびるを噛みしめた。
 ――明星に会いたかった。夕星(わたし)を愛してくれる、たったひとりの片割れに。
 沓も履かず裸足で宮を飛び出した。
 婆は引き留めなかった。私は禁を犯すほど蛮勇な子どもではないと、育て親はよくよく理解していた。
 薄暗い森の中をめちゃくちゃに走った。袖や裳裾が小枝に引っかかって破けてもかまわず、ひたすら走った。
 息が上がるころ、森のほとりまでたどり着いた。木立の切れ間に殿舎の屋根が見える。
 私は肩を上下させながら、暗がりの内側で立ち竦んだ。
 森のほとりに接する殿舎は使われておらず、普段は見回りの衛士しかいない。
 逢瀬のたびに明星と語らった殿舎の縁には、甲冑を身に帯びた衛士が立っていた。
 上背のある、年若い青年だ。
 金属製の短甲に負けず劣らず、浅黒い肌が鞣し革のように輝いている。真赫と同じ渡来民の混血なのだろうか。
 冑の陰に隠れて目元ははっきりとしないが、ぐいと引き結ばれた口に意思の強さを感じる。注意深く周囲を窺っている様子だ。
 一陣の風が吹いた。
 かぎ裂きだらけの袖と裳裾が棚引く。
 思いがけない強さに慌てて髪を押さえるが、りんどうの花が風に拐われてしまった。
「あっ!」
 光の中に舞い上がった青紫色の花は、籠手に覆われた青年の手に捕らえられた。
 喉が細く鳴った。
 りんどうの花を手にした衛士がまっすぐ私を見つめていた。鏃が撃ちこまれたような視線に胃の腑が竦み上がる。
 目が合った。
 瞳の色など判別できないのに、衛士が下瞼を押し上げたのがわかった。引き結ばれていた口唇がほどけ、何かを呟いたのも。
 衛士が階に脚をかけた。
 私は弾かれたように踵を返して駆けだした。
 森の影が激しくざわめく。陰りに潜むものたちが浮き足立って大気を揺らす。
 何度も何度も振り返り、衛士が追いかけてこないことを確認した私は、へなへなと腰を抜かした。
 心臓が耳に痛いほど跳ね回っている。
 噴きだした汗が目に入りそうになり、忙しなく瞬いた。
 ――あれ(・・)はおそろしいものだ。
 歯の根が噛み合わぬほどの震えとともに抱いた確信は、やがて予感に変わる。
 ――私は必ず再会する。
 晴天から打ち下ろされた雷霆のような、あの人物と。

二 海神の落とし子〈1〉

「海が見たいわ」
 いつだったか、明星が話してくれたことがある。
 大皇とその一族が暮らす(みやこ)は、山々に囲まれた盆地に位置している。生まれてからいちども京から出たことがない明星は、山並みのむこうの景色に思いを馳せては憧れを口にしていた。
「和多のお祖父様がね、わたくしの瞳は貝紫だとおっしゃるの。巻き貝から採れる美しい紫色の染料で、とても珍らかなのですって」
「貝から染料を?」
 そのころには糸繰りの仕事に励んでいた私は、好奇心で身を乗りだした。
 七洲で用いられる染料は主に草木から採れたものだ。鉱石を砕いて粉末にしたものを使う場合もあるが、糸や布帛を染めるにはあまり適さない。婆によると、鉱石の毒気にあてられて病む職工も多いのだという。
 貝から染料が採れるというのは初耳だった。私は片割れの両目をまじまじと覗きこんだ。明るく澄んだ紫色の瞳がはにかむ。
「不思議よね。お祖父様はお若いころ、大陸から渡ってきた貝紫の錦を見たことがあるそうよ。息を呑むほど鮮やかな紫色をしていて、ぴかぴかと照り輝いていたと教えてくださったわ」
(すめらぎ)への貢ぎ物だったのかしら?」
「いいえ。貝紫の錦は京へではなくて……南へ運ばれていったそうよ」
 明星の眉がかすかに曇る。
 単に南といえば、七洲の南方に接する島嶼群を指す。
 古くから海上の交易地として栄え、大陸にも七洲にも属さない独自の文化圏を持つ藩王国・伊玖那見(いくなみ)
 伊玖那見は巫女――かの国では神女(エィタ)と呼ぶ――が支配する呪術の国であるという。いずれの父から生まれたのではなく、いずれの母から生まれたのかが重んじられる母系社会で、歴代の藩王である大神女(ウルエィタ)の位は直系の女子が継ぐ習わしだそうだ。
 藩王国の呼称どおり、伊玖那見は大陸の国々や七洲から従属的な土地として見なされている。というより、伊玖那見の外交戦略そのものが他国に対し従順かつ友好的であるのだ。七洲にも年賀の祝いには必ず朝見の使者が訪れ、四方の海から取り寄せた貢ぎ物を山ほど献上すると聞く。
 (くん)の閨に南妓(なんぎ)ありぬべし――あらゆる君主の臥所に侍らぬ伊玖那見の妓女はいないという意味合いの古い風刺だ。伊玖那見は呪術と同じく音楽や舞踊が盛んで、旅女(ウロ)と呼ばれる女ばかりの旅芸人の一団が遠国まで赴いて巡業している。
 明星は幼いころにいちどだけ旅女の曲芸を宴席で目にしたが、たいそう華やかで楽しいものだったそうだ。色とりどりの薄布を翻して踊り子たちが蝶の群舞を披露し、当時の私たちと同年代の少女が玉乗りや綱渡りをやってのけ、大の男よりも巨大な蛇が笛の音に合わせて滑稽に踊ってみせた。
 私はなんとなく女性だらけのサーカス団をイメージしたが、不意に笑顔を萎ませて口をつぐんだ明星の様子からそれだけではないことを察した。
 あとでこっそりと真赫に聞きだしたところ、旅女は行く先々で芸だけでなく春を売る遊女の側面も持っているらしい。ゆえに、伊玖那見人の女性を指して南妓という蔑称が生まれた。
 大皇の御前で芸を披露したということは、その夜のうちに大皇の臥所へ召された旅女がいるわけだ。ひとりなのかふたりなのかは知らないが(別に知りたくもない)、すでに母の後釜として妃の座に就いていた継母や大皇の寵愛を狙う宮女たち、野心を持って彼女らに群がる人びとはさぞおそろしい顔をしたに違いない。
 残念ながら大皇の臥所に旅女が侍ったのは一夜限りで、明くる朝、後宮の池に女の亡骸が浮かんでいたという記録も残っていない。いっそ大皇のお気に入りになって後宮に居座り、継母たちと足の引っ張り合いを演じてくれれば、明星の不幸が少しは減ったかもしれないのに。
 このとき私は、狭い環境の中で育った明星が少女特有の潔癖さで旅女――伊玖那見人に対して抵抗感を覚えているのだろうと思いこんでいた。
「では、伊玖那見の女王への献上品かしら? かの国は本当に豊かなのね。南の海では美しい珊瑚や真珠がたくさん採れるのでしょう?」
 片割れの表情から翳りを拭い取ろうとわざとおどけてみせると、明星の肩がぴくんと跳ねた。
 祖父が貝紫と称した瞳が不安定にさざめき、下を向いた。
「夕星は……だれからの献上品だと思う?」
「え?」
「貝紫の錦を、だれが伊玖那見へ贈ったのか」
 明星が痛いほど両手を握ってくる。私はきゅっと鼻に皺を寄せた。
「和多氏が……ということ?」
 俯いたままの頭が弱々しく頷いた。
「でも、それはおかしいことなの? 七洲の海運は和多水軍が担っているのだもの。交流が生まれるのは自然ではない?」
「お母様の出自について、ある噂を聞いたの」
 和多の氏長の娘である母は、実は祖父の正妻の子ではない。
 豪族の長は複数の妻を持つが、祖父も例に洩れず正妻以外にも数人の側妾がいた。その中のひとりが私たちの祖母である――らしい。
 というのも、白珠媛の産みの母に関する伝聞はあやふやなものばかりなのだ。氏族の有力者の娘だとか、最下級の奴婢だとか、娘同様にお産で亡くなっただとか、はたまた愛娘を大皇に奪われた悲しみのあまり海に身を投げただとか、何ひとつ確かな情報を耳にしたことがない。
 母が大皇に輿入れする際にも、母方の血筋について大いにつつかれたそうだ。そのすべてを握り潰したのはだれなのか、問うまでもない。
 伊玖那見とは異なり、七洲は父系社会だ。母は和多の氏長の息女であり、掌中の珠と慈しまれた媛だった。それだけで母の身分は保証され、大皇無二の妃として生涯を全うした。
 だが、遺された私たち……特に、継母を頂点とする女の園で育った明星は違う。
 定かでない母の出自は、宮城の女たちにしてみればこの子を傷つける絶好の武器でしかない。謂れのない侮蔑を糞尿のように浴びせられ、片割れがどれほど涙してきたか――私がいちばん知っている。
 私は明星の手を握り返した。
「母上を産んだのは伊玖那見の妓女だった……かしら?」
 一拍の空白を置いて、明星はこくんと首肯した。
 莫迦莫迦しくなった私は鼻を鳴らした。
「好きなように言わせておきなさいな。後宮なんて息苦しいところで長年暮らしていると、自分勝手な妄想に取り憑かれて泥水の詰まった革袋のようになってしまうのよ。ぱんと弾けたあとは、こわぁい地獄耳の主がきれいさっぱり片付けてくださるわ」
「……じごくみみ?」
 顔を上げてきょとんとする明星に、私は首を竦めてみせた。「おそろしく耳聡いひとのことよ」
 大皇のような――とは、さすがに言葉にしなかった。
 宮城において、母の出自は一種のタブーだった。いまなお大皇の心を支配する母を貶める言動は、それこそ首と胴体が永遠の別れを迎える行為に等しい。
 愚かな末路をたどった宮女の噂話なら、真赫たちからいくらでも聞けた。継母ですら、夫の前ではけして母を侮辱するような真似はしないというのだから。
 片割れの耳に余計な『噂』を吹きこんだ宮女に同情はしない。近いうちに明星に仕える侍女の何人かが入れ替わるだろう。
「夕星は、ときどきわたくしの知らない言葉を使うわね」
 不思議そうに瞬いたあと、明星はふにゃりと笑みをこぼした。
 私は安堵して、コツンと頭を寄せた。
「宮に出入りする者たちのおかげで耳年増になってしまっただけよ。姉様のほうが歌も舞もお上手だし、器量もいいし、素直でやさしくてたおやかでいらっしゃるわ」
「まあ、わたくしの妹は褒め上手だこと。……ふふっ、そうね。夕星はどちらも苦手だものね」
 これは本当の話で、明星の歌と舞は素晴らしい。何度か披露してくれたことがあるが、身内の贔屓目を差し引いても神懸っている。
 管弦の類いもちょっと手習いをすればあっという間に覚えてしまうらしく、姉ながらとんでもない才能の持ち主だ。
 一方の私だが……糸繰り唄を口ずさもうものなら、婆からしょっぱい視線が飛んでくる。いちど真赫に聞かせてみたところ、「酔っ払いが歌う子守唄よりひどい」という感想を真顔で返された。
 どうやらリズム感を前世に置き忘れたらしく、舞はブリキの人形の盆踊りにしかならない。運動神経は悪くないはずなのだが。
 ひとしきり笑い、明星は憂いを押し隠すように睫毛を伏せた。
「夕星は強いわね」
「……そんなことはないわ」
 私はしかめっ面で否定した。
 強くなったわけではない。ただただ、悲観するふりばかり得意になってしまった。
「あなたがいるから、強がれるだけよ」
 明星は私の肩に額をこすりつけ、「わたくしも」とささやいた。
「わたくしも、あなたがいてくれるから……朝を数えてゆけるの」
 ――この子は何度、孤独な夜を迎えてきたのだろう。
 闇に怯え、朝が来ることに絶望し、救いのない日々を送り続けてきたのだろう。
「いつか」
 震えるくちびるが甘い希望を吐きだす。「いつか、夕星といっしょに、海が見たいわ」
「ええ……そうね」
 私は瞼の裏に、記憶に滲む海を思い浮かべた。
 この世界の海はどんな色をしているのだろうか。
 やはり青いのか、まったく別の色をしているのか。海風はどんな香りがして、波の音はどんな風に響くのだろうか。
 見てみたいと、心から願った。
 願わくは――つないだ手を離さないまま。

二 海神の落とし子〈2〉

 懐かしい夢を見た。
 眦に溜まった涙を拭い、私は床から起き上がった。
 いつものように下級宮女の装束に袖を通し、髪を結い、襲を被る。控えの間でいびきをかいている婆の脇を通り抜け、沓を履いて宮を出た。
 早朝の森には薄白く靄が漂い、草の露が冷たく裳裾を濡らした。木立のあわいに見え隠れする影から目を逸らし、私は森のほとりを目指した。
 ざわざわと揺らめく梢の陰影が私の心を掻き乱す。裳が絡みつく両脚が重い。
 ――私たちはどこにも行けないのだと思い知らされるかのようだった。
 昨日、逃げ帰ってきた私を出迎えた婆はうっそりと皺深い眸を眇めただけだった。いつもどおり糸繰りの仕事を行い、真赫が用意してくれた食事をおいしそうに平らげていた。
 何も言われずとも、私には理解できた。
 婆が終わりを口にした――それがすべてなのだと。
 樹影のむこうに殿舎の屋根が覗いた。
 私は息を呑んだ。
 殿舎の縁に佇んでいたのは明星ではなく、甲冑を長身に帯びた衛士だった。
 釣り灯籠の残り火に褐色の膚がてらてらとぬめっている。間違いない、昨日の衛士だ!
 どうして、と思わず口の動きだけで呟いた。
 呆然と立ち竦んでいると、周囲を警戒するように見回す衛士の顔がこちらを向いた。
 ひらりと揺れる襲の裾。
 視線が結ばれる。逃げなければと思うのに、鉄の矢で射抜かれたかのごとく動けない。
 瞬きすら忘れるほどの威圧感に、私は呑まれていた。
 衛士が階を下りてくる。
 不思議なことに、かれは足音どころか具足の軋みもほんのかすかにしか聞かせなかった。下生えの草を踏む音は、ささやかな葉擦れのようだ。
 近くに来ると、遠目で見るよりも背の高さが際立っている。小柄な七洲人の中では飛び抜けて目立つに違いない。
 手を伸ばせば襲の裾を捕まえられる位置で立ち止まり、衛士が口を開いた。
「――りんどう」
「えっ?」
 声がひっくり返った。
「りんどう。落とさなかったか、昨日。ここで」
 思ったよりも年若い声だった。
 襲の陰からおそるおそる窺うと、むすりと引き結ばれた口元が見えた。
 彫りが深い顔立ちだが、通った鼻筋と柔い線を描く眉がすっきりとした印象を与える。短甲の上からでも精悍な体躯をしているのがよくわかるが、頬や顎の鋭角はまろく、まだあどけない。
 何よりも、そのまなざしが――
 相対する者の胸にまっすぐ飛びこんでくるかのような銀碧(ぎんぺき)の瞳。
 明度の高い青緑に、波飛沫を思わせる銀の光沢がきらきらと散っている。
 光の加減によって黒ずんだ灰緑色にも、透きとおるような翡翠や瑠璃の色彩にも変化する。まなざしの強さと相俟って、眩暈を覚えるほど鮮烈だ。
「聞こえているのか?」
 青年――というよりも少年と表現したほうがふさわしい相手の問いに、はたとわれに返った。
「覚えはないか。りんどうの花だ」
「……あります」
 一瞬迷ったが、ごまかしきれる自信がなくて白状した。
 すると、少年はふっと口元をゆるめた。
「当たりだ。やっぱり」
 おもむろに腰へ手を伸ばす。
 帯に差された剣に息を詰めるが、かれはその横に差していた花を引き抜いた。
「ほら」
 可憐な鴇羽色の花――なでしこだ。
「りんどう、見つからなかったから」
「……この、なでしこを?」
「あげるよ、あんたに。花、髪に飾っていただろ。似合っていた」
 武骨な衛士にはあまりに不釣り合いな花をまじまじと凝視していると、ん、と促される。反射的に受け取ると、かれはにっこりと笑った。
 なんとも――気が抜けるほど無邪気な表情だった。途方に暮れながらなんとか「ありがとう、ございます」と返すと、うん、と軽く頷く。
「よかった、会えて。おれではないやつに見つかってしまったらと、心配した」
「あの、……あなたは」
 銀碧の瞳がくるりと瞬いた。
水沙比古(みさひこ)
 少年が冑を脱いだ。ほとんど白に近い茶色の頭髪がこぼれ落ちる。
 無造作にうなじで束ねただけの髪は癖が強く、あちこちうねりながらたくましい首筋にまとわりついている。それを鬱陶しそうに払いのけ、水沙比古と名乗った少年は眉根を寄せた。
「ここには来ないほうがいい」
「なぜ」
「おれがいる、理由がわからないか?」
 花を持つ手が震えた。
「……姉様は?」
「自分の宮でおとなしくしている。このあたりは、大皇の妃の息がかかった連中がうようよ」
「そう。……姉様がご無事なら、よかった」
 明星の逢瀬が継母に知られてしまった――禁を破った私たちがどうなるのか、いまごろ楽しみに舌なめずりしているに違いない。
 現場を押さえられたわけではないのが不幸中の幸いだ。
 もう二度とここで私たちが顔を合わせなければ、逢瀬の事実はないも同然なのだから。
 胸が引きちぎれそうだった。
 ――もう会えない。
 私の愛子、私の片割れ。何より恋しく、だれより愛した、私の明星。
 慟哭が喉元までせり上がる。わななく肩を不意に包みこまれ、体が跳ねた。
 顔を上げた拍子に襲が滑り落ちた。片手で私を抱きこんだ水沙比古は、殿舎のほうを窺いながら木陰に身を潜めた。
「ちょ、ちょっと!」
「騒いだら、ほかの衛士が来る。静かに」
 水沙比古の警告はもっともだった。私は置きどころのない心地で襲を握りしめた。
 しばらく周囲の気配を探っていた水沙比古だったが、やれやれと言わんばかりの顔で樹の幹に背中を預けた。
「悲しいのはわかる。でも、ここで泣いたらだめだ」
 取り繕いさえしない言葉が胸を刺した。
 眼窩の奥がカッと熱くなる。たちまち歪む視界に眉間に力をこめると、ぽんと頭を叩かれた。
「二の媛は、一の媛が大好きなんだな」
「……」
「落ちこむな。機会はある。おれが、作る」
「……どういう意味?」
 二の媛、というなじみのない呼称に戸惑いながら尋ねると、水沙比古はやわらかく笑んだ。
「頼まれた。親父どのから。二の媛の助けになるように」
「親父殿?」
「和多の氏長。おれの養父だ」
 溢れそうな涙が引っこんだ。
 ぽかんと目と口を丸くして固まる私に、水沙比古は首を傾げてみせた。
「むかし、和多の浜辺に流れ着いたおれを親父どのが助けてくれた。水沙(みなぎわ)で命を拾われた男児(こども)だから、水沙比古という」
 水沙比古は端的に語った。
 祖父は長らく幽閉されている孫娘を不憫に思っていること。なんとか救いだしてやりたいが、大皇に表立って歯向かうにはリスクが大きすぎること。せめて孫娘の助けとなるよう、養い子の水沙比古を密かに遣わしたこと。
 ぐるぐると思考が混乱する。
 証拠にと水沙比古が示したのは、右手首に巻かれた組紐だった。
 ずいぶんくたびれているが、元は鮮やかな赤色だったのだろうか。細い麻紐を数本用いて、小さな楕円形をふたつ重ねた紋様を連ね、見事に手環を織り上げている。
 繊細な模様は、前世で見かけた熨斗紙の上に飾る水引の結び目に似ていた。
「これ……舟乗りの……護符?」
 楕円形を重ねた紋様は開いた二枚貝を表し、航海の安全を願う祈りがこめれているのだという。和多水軍に属する舟乗りの証だった。
「うん。初めて舟に乗るとき、親父どのが巻いてくれた」
「では、あなたは――本当に?」
 水沙比古は眉尻を垂らした。「信じてくれるか?」
 森がざわめく。
 いつの間にか明度を増した空から光が射して、水沙比古の頭上で踊った。
 ああ、海のいろだ、と思った。
 さんざめくような光を孕んだ銀碧の瞳は、前世の、昼日中の陽射しに照り映える海を思い起こさせた。
 穏やかな晴天の、海原に立つ銀色の波頭。人びとの笑い声を吸いこんで、(かいな)を広げて横たわる青碧の水平線。
 懐かしい、狂おしい、『私』の記憶の底で光り輝く海のいろ。
 唾を飲みこんだ。涙はこぼれず、なのに泣き腫らしたように鼻腔の奥が痛む。
 笑うこともできず、私はぐしゃぐしゃの顔で頷いた。
「――……信じる、わ」
 すると、水沙比古は嬉しそうに笑み崩れた。
 その表情を目にした瞬間、私の脳裏に強烈なイメージが流れこんだ。
 夢の中に現れた、いまより幼い片割れ。固くつないでいた手を引き剥がされる。
 必死に伸ばした手を掬い上げるのは、褐色の大きな手。
 ……血にぬめる、燃えるような男のてのひらの温度が意識を()いた。
 はく、と呼気が震える。
 この子は――いつか人を殺す。
 私のために。私の剣となって、だれかの命を奪う。
「二の媛?」
 おそろしさのあまり硬直していると、水沙比古が怪訝そうに顔を覗きこんできた。
 汚れのないまなざしに、確定した未来ではないのだと気付いた。
 婆ほどの実力者ならまだしも、私の先視など不安定であやふやなものだ。それこそ出会ったばかりの水沙比古の未来を見通すことなど不可能に近い。
 私は水沙比古の右手を掴んだ。
「お願い。ひとつだけ――ひとつだけ約束して」
「ん?」
「あなたを信じる。だから、どうか……私のために、ほかのだれかを……傷つけたり、こ、殺したりするようなことはしないで」
 水沙比古はなんとも言えない顔をした。
「……おれは、気が短いから」
「え」
「郷でも、よく喧嘩を売ってきたやつらを叩きのめしていた。あ、殺したりはしなかったぞ? 親父どのの養い子として恥ずかしくない腕っぷしを見せてやっただけだ」
 舟乗りは気の荒い者が多いと聞く。水沙比古も和多の若衆らしく喧嘩っ早いたちらしい。
「喧嘩は買わないでいいから! 私の陰口を言っているひとたちを全員懲らしめようとしたら、百年あっても足りないわ」
「む」
「私の助けになってくれるのなら、どうか堪えてちょうだい。……姉様に会わせてくれるのでしょう?」
 視線に力をこめて訴えると、水沙比古は困った風に頭を掻いた。
「一発ぐらい殴っても、大目に見てくれ」
 本当に大丈夫だろうか。ため息をつく私をしげしげと眺めていた水沙比古が、「次は、なんの花がいい?」と訊いてきた。
「努力する。でも、すぐに機会がめぐってくるとは限らないから。一の媛に会えるまで、好きな花、また持ってくるよ」
 なんともやさしい口ぶりで、水沙比古は問いをくり返した。
 糸車が回る音を聞こえる。紡ぎだされた糸がまったく新しい糸と絡まり、ゆるやかに縒り合わされていく感覚に頭の芯が痺れた。
 ――この子は、私の運命を連れてくる。
 善きも悪しきも何もかも、遠い外洋から種子を運んでくる波風のように。これから先、私の行く末は水沙比古とともにあるのだと強く感じた。
 凪いだ海を前にした思いで、私は天啓を抱き止めた。
「まつむしそう……」
 息を吸いこみ、ほほ笑みを返す。なでしこの花を胸に抱いて、水沙比古を見つめた。
「まつむしそうの花がいいわ。きれいな紫色の」

二 海神の落とし子〈3〉

 和多の郷から遣わされた少年、水沙比古はするりと日常に溶けこんだ。
 翌日には衛士の黒金(くろがね)に連れられて堂々と宮に現れた。唖然とする私を前に、満面の笑顔のかれは困り果てた様子の黒金から「和多の郷の出で、白珠媛の御子のお顔をひと目見たいと頼みこまれちまいまして」と紹介された。
 黒金は真赫と同郷の宮人だ。呼び名どおり真赫よりもっと色黒で、ずんぐりとしたヒグマのような体躯をしている。もじゃもじゃとした髭まみれの強面だが、水汲みや薪割りなどの力仕事を快く引き受けてくれたり、傷んだ床や戸を修繕してくれたりする親切な男性である。
 もうひとり、真赫や黒金と同じく宮に出入りしているのが木工の白穂(しらほ)だ。かれは黒金と対照的に針金のように痩せていて、腺病質なのか常に顔色が悪い。
 寡黙でめったに口を開かない男性だが、手先が器用で細々とした生活用品を簡単にこしらえてくれる。糸繰りの道具も、すべて白穂が作ってくれたものだ。
 真赫たち三人は渡来民の混血で、出自ゆえに宮中では苦労が絶えないという。ほかの宮人の目が届かず、浮世離れした婆や外界の事情に疎い私しかいない宮でなら気を張らずに過ごせるようだ。爪弾き者だからこそ私たちの境遇に同情し、手を差しのべてくれる。
 水沙比古が黒金に接近したのも、『和多の郷人に助けられた孤児』という身の上を巧みに利用してのことだった。和多の縁者というだけで、宮中では針の筵に置かれるに等しい立場になるからだ。大型犬めいた人懐っこい性格も助けて、面倒見のよい黒金や真赫にすぐにかわいがられるようになった。
 婆は水沙比古の正体に気づいているのかいないのか――いや、気づいていないはずがない――「若禽(わかどり)のような威勢のよいおのこだこと。何やらこちらまで張り合いが出ますのぉ」とのんびりと笑うばかりだ。もともと人を食ったようなところのある巫女だが、近ごろはますます何を考えているのかわからない。
 水沙比古は約束どおり、宮を訪れるたび野の花を一輪携えてくる。
 明星の瞳によく似たまつむしそう、宵の空の色をしたききょう、愛らしい黄色の花が群がって咲くおみなえし。秋の翳りが日に日に色濃くなると、緑から赤へと見事な濃淡を描くかえでを一枝。
「いつもありがとう」
 美しく色づいたかえでの枝を受け取ると、水沙比古は眉尻を垂らして肩を竦めた。
「次は難しいかもしれない」
「え?」
「このごろ、警備が厳重だ。騒がしい。宮城じゅうがそわそわしている」
 脱いだ冑を無造作に放りだし、あぐらを組んだ膝に頬杖をつく。真赫たち以上に水沙比古は身分に頓着しないらしく、私はそれがなんとも新鮮で嬉しかった。
 水を張った盆にかえでの枝を挿しながら、「もうすぐ祭が近いからよ」と答える。
「祭?」
新嘗祭(にいなめのまつり)よ」
 新嘗祭とは、その年の新穀を皇の祖神(おやがみ)である照日子大神(てるひこのおおかみ)月夜見比売(つくよみひめ)に供え、大皇とその妃が食することで収穫の感謝を捧げる祭祀だ。
 年賀の祝いのように各地から豪族の首長を招くわけではないが、国産みの神の(すえ)として王権を打ち立てた皇にとって欠かせない祭事に数えられる。あちこちの天領から供物や献上品が運びこまれ、人の出入りも増える。宮中の取り締まりが厳しくなるのは自然な成り行きだ。
 水沙比古はこてりと首を傾けた。
万祝(まいわい)のようなものか? 和多の郷では、漁期の終わりに海神(わだつみ)に感謝と祈りを捧げる祭を開く」
「和多の民は、海神――深多万比売(みたまひめ)を信仰しているのだったわね」
 海の底の宮に住む女神・深多万比売は、見目麗しい乙女とおそろしい竜蛇、ふたつの姿を持つという。多情で苛烈、奔放な性状の持ち主で、嵐の海に沈んだ舟乗りは水底の御殿に連れ去られて永遠の虜にされてしまうとかなんとか。
「ああ」水沙比古は神妙な顔で頷いた。
「祭祀を怠れば海神の機嫌を損ねて大変なことになる。大昔、祭祀をおろそかにしたら何年も不漁が続いた挙句、大津波に湊がひとつ呑まれたそうだ」
「まあ……」
「氏長の娘が生贄になると言った。沖に出した舟の舳先から海に飛びこんだ。その後、ようやく海神の怒りが解けたそうだ」
 思わず眉根が寄る。
「そこは若者ではないの? 深多万比売は、恋多き女神なのでしょう?」
 少年の口元がニヤッと笑った。
「なんだ、二の媛は知らないのか。海神は半月(はにわり)だ」
「はにわり?」
「豊かなおなごの体に、男のあれ(・・)がついている」
 私はぎょっと目を剥いた。
「あっ――あれって」
「男も女も抱ける体なんだ。嵐に乗って若い舟乗りを攫い、恋人を追って海に身を投げた娘も連れていく」
 じわじわと耳の先まで熱くなる。莫迦みたいに口を開けたり閉めたりしかできない私の顔を覗きこむように身を乗りだした水沙比古は、右手首の護符を掲げた。
「だから和多の女たちは、夫や恋人が海神に見初められないよう二枚貝の紋様を織りこんだ手環を編んだ。一対の貝殻のように、恋しい(つま)をどうか連れていくなと願って。続いた習わしが、護符になった」
「――なるほど」
 二枚貝の紋様が女神の多情を退けるものだったとは。私は火照った頬を押さえ、なんとか「興味深い話だわ」と返した。
「女でも男でもあるなんて……自由気ままな神様なのね」
 水沙比古はきゅっと下瞼を持ち上げた。
「寂しいんだ。ひとりぼっちだから」
 不意に染み入るような声音に、私は瞬いた。
 手環のたわみをもてあそびながら、水沙比古は淡々と呟く。
「日の神と月の神のように、まぐわえる相手にめぐり会えなくて。海神の宮に連れ去られた人間の魂は、いつかあぶくになって消えてしまう。だから寂しくて寂しくて、また嵐を起こして舟乗りを攫うんだ」
 ――海の底は、暗くて冷たいから。
 まるで見てきたかのような口ぶりだった。気圧されて言葉を失う私に、水沙比古はへらりと笑った。
「おれ、七つか八つぐらいの歳で海に流されたんだ。運よく和多の浜に流れ着いたが、名前も、生まれ故郷も、何もわからなかった。ひとつだけ――海の底の、真っ暗な闇だけ憶えている」
「何……も?」
「うん、何も。手がかりになりそうなものも身に着けていなかったと、親父どのが言っていた。たぶん、異国の生まれだろうとしか」
 幼い水沙比古はまともに言葉を話すことすら覚束なかったらしい。記憶も行き場もない少年を手元に引き取り、根気強く教育を施した恩人こそ祖父だった。
 親父どのと呼ぶ声音や表情の端々には曇りのない敬愛が滲んでいる。愛され、慈しまれて育った子どもらしい素直さだ。
 ちくりと胸を刺した羨望に目を伏せ、私は笑みを返した。
「あなたが深多万比売に連れていかれなくてよかった」
 水沙比古は小さく瞬いた。
「寂しい闇の淵ではなく、陽が照らす陸の上へ、お祖父様のいらっしゃる和多の郷へ逃れてくれてよかった。きっといとけない幼子を連れていくのが忍びなくて、神様が情をかけてくださったのね」
「……二の媛は変わっている」
 思いもよらない評価に眉を持ち上げると、水沙比古は片手で髪を掻き混ぜた。
「海神から逃げ延びられてよかったなんて、親父どのにしか言われたことがない」
「助かることが、どうしていけないの」
「浜に打ち上げられたおれを見つけた和多の衆は、海神の許に送り返そうとした。海で溺れた者は海神の供犠となる。おれを助ければ、海神の怒りを買うと考えるのが当然だ」
 絶句する私に、水沙比古は浜に流れ着いた人間――ほぼ水死体であるという――は海に還される習わしなのだと説明した。たとえ息があっても、助かる見込みは限りなく低いからだとも。
 ならば、なぜ祖父は水沙比古の命を救ったのだろうか?
「知らぬ」
 当の水沙比古はあっけらかんと言い放った。
「親父どのに尋ねても、助かったのだからよいではないか、役目があるから生き延びたのだろうと言われた。そう感じたから、助けたのだと。おれを舟に乗せたら海神の祟りが下ると和多の衆が騒いだとき、海神の呼び声を退けたおれほど心強い護符はないに決まっていると笑い飛ばして、自分の舟に乗せてくれた」
 水沙比古は息を吸いこみ、眉尻を下げて破顔した。
「だから、郷でいちばんの舟乗りになろうと思った。嵐にも負けぬ、おれが乗る舟は和多でいちばん安全だと誇れる舟乗りに」
 まぶしさにも似た感覚に、私は両目を眇めた。
 護符の巻きつく右手が伸びて、私の手を握った。唐突な接触に肩が跳ね上がる。
「安心してよいぞ、二の媛。おれを手元に置いておけば、どんな不運も逃げていく。和多の氏長の覚えもめでたい最強の護符だ」
 白い歯を見せて笑う少年につられ、私は思わず笑声をこぼした。
 潮風に育まれた水沙比古の手は、大きく精悍で、海原を照らす太陽のように熱い。
 この子が救われ、いまここに在ることに、ただだだ感謝した。
 水沙比古の手に比べればあまりに細く、弱々しく、糸繰りしか知らない私の手。誇れるものだと何もないけれど、ありのままの私でいいのだと、不思議なくらい自然に思えた。
「頼りにしているわ」

三 鯨の孤独〈1〉

 祭の日が近づいてきても、閉ざされた宮で暮らす私の周囲になんら変化はない。
 下級の宮人は、あちこちの準備に連日駆りだされて慌ただしいようだ。真赫のおしゃべりの八割は仕事に関する愚痴になるし、手先の器用な白穂は殿舎の修繕やら祭で使う道具類の製作やらに酷使されて見るたびに顔色が悪くなっていく。かれのために婆が特製の薬を煎じてやるのも例年のことだった。
 水沙比古は黒金やほかの衛士とともに、各地から運ばれてくる献上品を倉院へ納める力仕事に従事している。
 舟と陸のあいだを重荷を担いで何十回と往復することに慣れている少年は、現場でたいへん重宝されているようだ。宮へ顔を出すたびに腹を空かせているので、真赫に頼んで多めに炊いてもらった米で握り飯を用意しておくようになった。
 今日も元気に腹の虫を鳴かせながらやってきた水沙比古は、三個並んだ握り飯にパッと表情を輝かせた。
「食べていいか!?」
「どうぞ、召し上がれ」
 律儀に私の許可を得てから勢いよくかぶりつく。
 世界が変わっても体育会系男子の食べっぷりは見応えがある。前世の弟も運動部員だったから、わが家の炊飯器は毎朝八合フル炊きだった。
 日焼けした頬をいっぱいに膨らませた水沙比古は、余計に小さな男の子に見えた。もぐもぐと忙しない口元に米粒がひとつふたつくっついている。
 思わず笑みがこぼれた。
「お弁当がついているわよ」
 米粒を取ってあげると、銀碧の瞳が瞬いた。まだ浅い喉仏がごくんと浮き沈みする。
「おべんとう?」
 不思議そうな表情に、しまったと思った。
「えっと、口元についた食べ滓のことよ。本当は、外出先に持っていく食事のことなんだけれど」
「妙な言い方をする。二の媛は」
「そ、そうかしら?」
 水沙比古は指についた米粒を舐め取りながら、両目をくるめかせた。
「たまに思う。ここではない国から来たのではないか。二の媛も」
 息を呑んだ。
 懐かしい世界の海の色をしたまなざしは、胸の奥に秘め隠した感傷を見透かしているようだった。
「……どうして、そう思うの?」
 戸惑いを取り繕うことも思い浮かばず、私は率直に尋ねていた。
 水沙比古は次の握り飯にかぶりつきながら首を傾げた。
(いさな)を知っているか?」
「いさな……くじらのことだったかしら。潮を噴く、山のように大きな魚でしょう?」
 明星から聞いた祖父の話によれば、この世界の海にも鯨が存在し、七洲では昔から捕鯨が行われているらしい。和多の郷では、鯨の肉は祝いの席でふるまわれる特別なご馳走なのだという。
 水沙比古はこくりと首肯した。
「そうだ。鯨は、群れで海を渡ってくる」
 少年の口元に笑みが広がる。
「海面が盛り上がったかと思うと、黒い山が現れる。ひとつじゃない。どんどん黒い山が立ち上がって、舟より大きな尾びれを翻して海に飛びこむんだ」
 巨大な海洋生物の群舞を思い浮かべているのか、興奮と感嘆がこもった語り口に鯨の尾びれが立てる波の音が聞こえてくる気がした。
 水沙比古から強烈な潮の香りが吹きつけた。一瞬のまぼろしは、前世の『私』が知るものによく似ていた。
「だが、たまに群れからはぐれてしまうものがいる」
 口調を変えた水沙比古の声に、潮風のイメージはふっと消えた。
 最後の握り飯を咀嚼しながら、水沙比古は「昔、群れからはぐれた鯨の仔を見た」と言った。
「たった一頭、ずっと和多の沖に留まっていた。舟が通りかかると、親やほかの鯨ではないかと思って近づいてくるんだ。ぶつかって舟が沈んだら大変だ。漕ぎ手が艪で頭を叩くと、慌てて逃げていった」
 迷子の鯨は、何度も舟に近づいては追い払われるということをくり返していたらしい。探している群れは、とうに遠い外洋へ泳ぎ去ってしまっていたのに。
 満足に魚を獲ることもできない幼子が生き延びれるはずもなく、ある朝、とうとう和多の浜辺に動かなくなった鯨の仔が打ち上げられた。
「鯨の仔は傷だらけで、虫の息だった。こんな風に、おれも流れてきたのかと思った。鯨の仔は助かるのかと親父どのに訊いたら、『鯨は陸では生きられない』と首を横に振った」
 握り飯を平らげた水沙比古は、白湯を一気に飲み干すと息を吐いた。
「忘れられない、鯨の仔の眼が。射干玉のような眼が海水に濡れて……泣いていた。じっとおれを見つめて、自分はなぜここにいるのかと、どこへ向かえばいいのかと、叫んでいた」
「その仔は……どうなったの?」
 こわごわと尋ねると、水沙比古はきゅっと眉根を寄せた。
「死んだ」
 わかりきっていた答えだった。苦い感情が喉を塞いで、「そう、よね」と呟く声は掠れていた。
 頭のどこかで、鯨の仔が助かればいいのにと考えていた。やさしい大人が手を差しのべて、水沙比古のように救われたらよかったのにと。
「二の媛は、ときどき、鯨の仔と同じ眸をする」
 水沙比古は空っぽになった椀をいじりながら、そっと私を窺った。
「二の媛を見ていると、ひとりぼっちで途方に暮れていた、あの鯨の仔を思いだす。帰る場所も向かう場所もわからなくて、ずっと泣いている」
 本当に涙が出るかと思った。
 名前もわからなくなってしまった『私』の感情が強く揺さぶられた。
 帰れるものならば帰りたい。『私』の家に。『私』の世界に。
 すり切れた記憶が駆けめぐり、やがて紫色の双眸が浮かんだ。
 いつかいっしょに海が見たいと言った明星のまなざしが楔のように胸の奥深くまで突き立てられる。
 ――私の片割れ、私の愛子。
 私を夕星(わたし)たらしめる、たったひとつのよりどころ。私が迷子の鯨ならば、明星は波間に見えた湊のあかりだった。
 けして届かない、希望という名の絶望。
 鯨は陸では生きられない。明星が立つ場所に私は存在できない。
 余計なものばかり視る両目をくりぬいても、私は暗い夜空へ墜ちていく夕星だ。
「わたし――」
 眼球がひりひりと痛む。眉根を寄せて水沙比古を見つめると、浅黒い指が目元に触れた。
「落ち着かない」
 水沙比古はむすりと呟いた。
「え?」
「その顔だ。二の媛が泣いていると、ざわざわする。ここが」
 少年はもう片方の手で冑の胸元を叩いた。
「……泣いていないわ」
 自然と苦笑が洩れた。
 水沙比古の手の熱が瞼に染みて、視界が滲んだ。
 ぽろりとひと粒、瞬きのあいだに涙がこぼれ落ちる。水沙比古の表情がぎゅっと歪んだ。
「我慢するな」
「そんなつもりはないのよ。ただ……私はいつも泣いている姉様の慰め役だったから」
 涙の痕を拭おうとして阻まれた。親指の硬い腹が頬をなぞる。
「我慢してきたのか。一の媛のために」
 水沙比古の追及に言葉を見失う。
 明星の前で涙したことがあっただろうか。あの子の腕に抱きしめられたことがあっただろうか。
 出会ったときから逆だった。だって『私』は明星より年上で大人だから。
 ――ならば夕星(わたし)は。ここにいる私は、いったいだれ?
「二の媛?」
「……明星のためなんて、聞こえのいい理由ではないわ。私は、弱くてみじめな自分を認めたくなくて泣けなかっただけよ」
 皺が寄るほど裳を握りこむ。強張った肩がぶるりと震えた。
「水沙比古は、和多の浜に流れ着く前のことを憶えていないと言ったわね」
「うん」
「私はね……私は、憶えているの」
 育て親の婆にすら打ち明けようと思ったことなどなかったのに、鉛より重く凝った感情はつるりと喉の奥から押しだされた。
「七洲に、この世界に生まれる前の記憶があるの。そこで『私』は……幸せな子どもだった。恵まれていたと思うわ」
「名前は? なんと呼ばれていたんだ、そこで」
 私は泣き笑うように顔をくしゃくしゃにした。
「わからないの」
 銀碧の瞳が揺れる。水沙比古は驚いたように息を呑んだ。
「最初に忘れたのは自分の名前だった。次は友達や家族の名前。声も、顔も……だんだん曖昧になっていくの」
 前世の父母や弟の顔を思いだそうとしても、まるで滲んだ水彩画のようにぼやけてしまう。
 新聞を読む父の空返事、それに怒る母の小言。変声期を過ぎたばかりの弟は、どんな声で「ねえちゃん」と呼んでいたのだろうか。
 聳え立つ岩壁が少しずつ波に削られるように『私』が失われていく。
 止めどない虚しさの中に取り残された夕星(わたし)は、死を待つばかりの迷子の鯨だ。
「何度も何度も、鯨の仔のように考えたわ。どうして『私』は死ななければならなかったのか。どんな役目を負ってこの世界に生まれてきたのか。いまも、わからないままよ」
 婆の言うとおり、夕星()の生に意味など本当にあるのだろうか。
 熱くて大きなてのひらが両の拳を包みこんだ。
 爪が食いこむほど折り曲げた指をそっと広げられる。しっかりと私の手を握り、水沙比古は下から覗きこんできた。
「親父どのがおれを助けたときの話。憶えているか」
「……ええ」
「役目があるから、おれは生き延びたのだと言われた。きっとおれの役目は、ニの媛を助けることだ」
 水沙比古は白い歯を見せて笑った。呆気に取られるほど晴れやかに。
「おれは二の媛の従者(ずさ)だ。従者の役目は、主人の助けになることだ」
「水沙比古の主人は、お祖父様ではないの?」
「少し違う。親父どのは、二の媛の助けになれと言った。だから、おれは二の媛のためにここにいる」
 ぎゅ、と水沙比古の手に力が入る。
 海色の瞳が揺らめいている。自分の視界が水気を帯びているのだと気づいた途端、ほろほろと涙がこぼれ落ちた。
「私の――そばにいてくれるの?」
「いるよ」
「私、きっと一生この宮から出られないわ。明星のように降嫁することもない。和多の郷にも帰れないかもしれないのよ」
 水沙比古は眉尻を垂らした。
「帰れないのは残念だが、二の媛がひとりぼっちで泣くよりずっといい」
 どこまでもやさしい言葉に、とうとう嗚咽が洩れた。
 水沙比古の両手を額に押し戴いて俯くと、後頭部に尖った鼻先が触れた。
「二の媛の護符になるよ。二度と嵐の海で迷わないように、おれがいっしょに泳いでいく」
 私は震えながら水沙比古の手を握り返した。
 海の底にも似た暗い森の宮で、私はかけがえのないよすがを手に入れた。
 手繰り寄せた糸の先に待つものを、私たちはまだ知らなかった。

三 鯨の孤独〈2〉

 前世の記憶という秘密を水沙比古に打ち明けてから、状況が劇的に変わった……ということはなかった。
 何しろ、水沙比古自身が以前と変わらぬ態度で接してくるのだ。打ち明けた翌日、どんな顔で迎えればいいのか悶々と悩んでいた私に、かれが発した第一声は「今日は握り飯をいくつ食べていい?」だった。
 私の頭がおかしいと思わないのかと尋ねると、水沙比古は仔犬のように両目をくるめかせて不思議がった。
「二の媛は陰視なのだろう? なら、徒人にはないものを持って生まれてもおかしくない」
 和多の郷にも陰視がいたが、かれらは忌避されるどころか尊ばれる存在だったらしい。
「陰視は風や潮の流れを読むことがうまい。だから舟乗りになると重宝される。おなごであれば、嫁入りまで海神の社に巫女として奉仕する。海神の巫女になった娘と縁づくと海難に遭わないと信じられているから、嫁に欲しがる舟乗りは多い」
 土地が違えば境遇も違う。和多の郷に生まれた陰視を羨ましく思った。
 もしもと考えたところで詮ないことだ。出会ったときからまっすぐ私の目を見る水沙比古がそばにいてくれる僥倖を噛みしめ、私は祭の足音を遠くに聞いていた。
「一の媛に会えるかもしれない」
 いつものように宮を訪れた水沙比古は、いつもより緊張した顔で告げた。
 粗末な古宮には隙間風が吹き抜けるようになり、寒がりな婆のために真赫が調達してきてくれた火鉢が欠かせない季節になった。
 熾したばかりの火をつついていた私は、うっかり火箸を取り落としそうになった。
 慌てて周囲を見回す。
 ほかの宮人は来ておらず、糸繰りの仕事を終えた婆は疲れたと言って控えの間で午睡を取っているはずだ。
 私は火箸を灰に突き刺し、甲を脱いであぐらをかいた水沙比古のそばへ膝行った。
「姉様に会えるかもしれないとは、どういうこと?」
 声を潜めて尋ねると、水沙比古は眉間に皺を作って唸った。
「今日、阿倶流(あくる)という舎人(とねり)に話しかけられた」
 水沙比古によれば、阿倶流は皇太子――異母弟の神隼に仕えているらしい。
「神隼の……?」
「二の媛と会えなくなってから、一の媛は食事が喉を通らないほど消沈しているそうだ。心配した皇太子は、密かに手引きして二の媛を一の媛に会わせようと考えていると言っていた」
 ぎゅっと胸を引き絞られる。水沙比古は私の表情に眉をひそめた。
「一の媛の侍女に満瀬(みつせ)という娘がいる。阿倶流の姉で、一の媛に会うために協力してくれるそうだ」
 まさに渡りに舟と言わんばかりのお膳立てだ。だが、私は警戒せずにはいられなかった。
「それは……神隼の名前を使って継母上(ははうえ)が私を誘いだそうという罠ではない?」
 水沙比古は束ね髪に指を突っこんで掻きむしり、ううんと唸った。
「阿倶流の素性について探ってみた。北征将軍(ほくせいしょうぐん)の推薦で皇太子の側仕えに上がったらしい」
「北征将軍? 風牧(かざまき)の氏長の?」
 風牧氏は、ここ三十年あまりで台頭してきた新興の豪族だ。
 もともと七洲の東にある平野部を勢力圏とする地方豪族で、良馬を生産する馬司(うまのつかさ)の一族と知られる。
 先代の氏長のころから騎馬兵団を組織し、七洲の北方に暮らす異民族――北夷(ほくい)の征伐で武功を挙げた。
 確か、私が生まれる前後に大規模な征伐が行われたはずだ。北夷の民は壊滅的な被害を受け、わずかな生き残りは北限の海峡を越えた氷波弖(ひはて)列島まで追いやられたと聞いた。
 華々しく凱旋した当代の氏長は北征将軍の称号を賜り、一気に大皇の側近としてのし上がった。
 もちろん、古くから皇に仕えてきた中央の豪族たちが快く思うはずもない。
 継母は中央の豪族のひとつである希賀(きが)氏の出身だ。風牧氏とは対立関係にあり、目障りな継子を計略にはめるためだけに手を結ぶとは考えにくい。
「北征将軍は大皇の寵臣だわ。継母上は関与していないとしても、その舎人から大皇の耳に入ったりしないかしら?」
「危険がないとは言い切れぬ。だが……一の媛に近づくまたとない好機だ」
 水沙比古はまっすぐ私を見つめた。
「二の媛はどうしたい? おれは、二の媛の判断に従う」
 私の従者だと言った少年のまなざしは、胸の奥から容赦なく感情を引きずりだした。
「会いたいわ、姉様に」
 水沙比古はほほ笑んだ。「うん」
 私は迷いながら言葉を継いだ。
「でも、見ず知らずの人に運を委ねるのは……不安だわ」
 袍の袖口をいじりながら訴えると、水沙比古はにたび頷いた。
「二の媛の気持ちはわかる。なあ、阿倶流に会ってみないか?」
「えっ!?」
 予想外の提案に仰天した。
 水沙比古は肩を竦め、「その気があるなら連れてくる」と言った。
「で、でも、皇太子の舎人が私のところに来たなんて知られたら……」
「大丈夫だ。あいつはおれと似たようなものだから」
 七洲人らしからぬ色素の薄い髪を引っ張り、水沙比古は目を細めた。
「阿倶流は異人(まれびと)だ。北夷の血が混じっている」
「え……でも、風牧の氏族の出なのでしょう?」
「いや。宮人のあいだの噂では、北夷の略奪に遭った女が産み捨てた鬼子らしい。境遇を憐れんだ北征将軍が姉の満瀬ともども養い子として引き取ったそうだ」
 鬼子という単語にどきりとした。
 水沙比古によれば、阿倶流は鮮やかな赤毛と白珊瑚のような膚を持つ隻眼の少年なのだという。
 異民族の特徴が濃く出た容姿のせいで、周囲からは腫れ物に触れるかのごとく扱われているそうだ。後見人である風牧の氏長をおそれて水沙比古や真赭たちのようにあからさまな差別はされないものの、宮中では異分子だった。
「杣の宮は爪弾き者の吹き溜まりと言われている。阿倶流がここへ来ても不審に思われることはない」
「周囲の認識を逆手に取るというわけね」
 それでも危うい綱渡りには違いない。
 ふと、灰に埋もれた熾火が目に留まった。ゆるやかな明滅のリズムに合わせ、カラリカラリと糸車の音が聞こえてくる。
 燃え立つような赤銅色が脳裏に閃いた。
 広野を吹き抜ける北風(あなじ)の乾いた匂い。草の海を駆ける駿馬の群れ。
 赤い染め糸の束が炎のごとくうねっている。いいや、これは人毛だ。
 長髪を風に靡かせた人物がゆっくりと振り返る――
 かれ(・・)の顔が向き直る寸前、炭が爆ぜる音にイメージが弾け飛んだ。
「どうかしたか?」
 水沙比古が怪訝そうに顔を覗きこんできた。
 私は息を吐き出した。
「糸が手繰り寄せられている……」
「いと?」
「人と人を結ぶ縁の糸……と言えばいいのかしら。それが強く引っ張られている。阿倶流という舎人と会うべきなのだと感じたの」
 糸を引く手は潮流に似ているかもしれない。
 目に見えずとも確かに存在する、大いなる力のうねり。
 ――私という舟の航路は、水沙比古なくして定まらない。
「あなたは鶚のようなひとね」
「みさご?」
覚賀鳥(かくがのとり)よ。昔話を知っている? 七洲の平定の途中で行方知れずになった皇子を探して、かれの妃が国じゅうを旅するのよ」
 ある浦を訪れたとき、「がくがく」という不思議な海鳥の鳴き声が聞こえた。
 もしや海鳥に姿を変えた皇子が自分を呼んでいるのではないかと思った妃は、沖まで舟を出して探し回った。しかし海鳥は見つからず、妃は悲嘆に暮れた。
「そこへ一艘の小舟が通りかかるの。小舟にはみすぼらしい身形の漁師が乗っていて、何を悲しんでおられるのかと尋ねるの」
 妃は涙ながらに、不思議な声をした海鳥を捕まえてくれないか、もしかしたら姿を変えた夫かもしれないのだと訴えた。
 すると、漁師は魚籠(びく)の中から大きな蛤を取り出し、妃に差し出した。
「覚賀鳥はなかなか姿を見せないから捕まえることは難しい。けれど、あなたの夫はこの蛤のように対の貝殻を忘れたことはありません……そう言ってほほ笑む漁師は、実は行方知れずの皇子だったという内容よ」
 貝が口を閉じるように両の()をぴったりと合わせてみせる。
 貝覆いの遊びに使われる蛤は、あわびと同様に男女の和合を象徴する。
「私は背の君を探す妃ではないけれど、覚賀鳥に導かれた彼女はこんな気持ちだったのかと思うわ。水沙比古は、どんな荒波にも果敢に飛びこんでいく私のしるべの鳥よ」
 水沙比古はむず痒そうに口を引き結んだ。
「おれは……二の媛の従者だから。主人を助けるのは当然だ」
「とても感謝しているわ。ねえ水沙比古、何かお礼にできることはないかしら」
「別に、礼なんて」
 しきりに後ろ首を掻いていた水沙比古は、思いついたように「あ」と呟いた。
「髪紐」
「髪紐?」
「うん。ちぎれそうなんだ、ぼろぼろで。二の媛は糸繰りが得意なのだろう? それなら、紡いだ糸で髪紐を編んでくれないか」
 水沙比古は後ろを向いて束ね髪の根元を見せた。
 使いこまれた様子の髪紐は、いつぷつりと切れてしまってもおかしくない。
「わかったわ。切れないように丈夫な糸で作るから」
 かれにはどんな色の染め糸が似合うだろうか。髪色が薄いから、明るくて鮮やかな色がいいかもしれない。
 水沙比古は銀碧の瞳を細め、嬉しそうにはにかんだ。
「楽しみだ。とても」
 少年の笑顔は、火鉢の熱よりも温かく私の胸に沁みこんだ。

三 鯨の孤独〈3〉

 森に閉ざされた古宮の夜は長い。
 蔀戸をぴっちり閉めきっていても吹き抜ける隙間風がすすり泣き、燭火を不安定に震わせる。闇のささめきは冷たい波濤となって打ち寄せ、くすくすと笑いながら手招きしているかのようだ。
 幼いころは衾を頭から被り、耳を塞いでじっと聞こえないふりをしていた。あまりに強い『声』で呼ばれるときには、魔除けの護符を妻戸に貼った塗籠の中でひと晩過ごすこともあった。
 塗籠の中の息苦しい暗闇を思いだすような夜だ。ぐいぐいと後ろ髪を手繰り寄せようとする力を感じ、私は明るい灯火の近くに居座った。
 夕食のあとは、繕い物などの細々とした手仕事を済ませてから床に就くのが常だ。だが、今夜は水沙比古から頼まれた髪紐に取りかかるつもりだった。
 まずは髪紐に使う糸を選ぼうと並べてみたのだが、これがなかなか決まらない。
 手元にある染め糸には限りがあり、しっくり来る色が見当たらない。……試しに染めていない絹糸を出してみると、いちばんよく思えてしまった。
 絹糸本来のまろやかな真珠光沢は美しいが、これだけでは物足りない。
 唸りながら悩んでいると、控えの間で休んでいるはずの婆がひょこひょことやってきた。
「媛様、よろしゅうごぜぇますか」
「どうしたの?」
 このごろ、すっかり痛みを訴えるようになった膝で億劫そうにいざって近づいてきた婆は、懐から小さな布包みを取り出した。
「どうぞ、これをお使いなされ」
 皺に埋もれた瞳を細め、婆はうっすらほほ笑んだ。
 戸惑う私の手をやさしく取り、布包みを持たせる。見た目よりも少し重い。
 視線に促されて中身を開くと、翠緑の輝きが現れた。
 思わず息を呑む。
 布に包まれていたのは、皇だけが身に帯びることを許される天の糸の束と、そっくりな色合いをした手環だった。
 翡翠をくりぬいて作られた腕輪には、細かい装飾が彫りこまれていた。
 幾何学的な独特の紋様からは呪力を感じる。舟乗りの手環と同じく、これもまたまじないを施した護符なのだ。
 ――不思議と見覚えのある手環だった。
「これは……」
「ずっと婆めがお預かりしておりました。白珠媛の形見の品にごぜぇます」
「母上の?」
 婆は頷くと、衣の袖でそっと目元を押さえた。
「この天の糸は、産まれてくる御子のためにと白珠媛御自ら紡がれたもの。白珠媛がお隠れになられた際、ひと束は一の媛様にと大皇に献上いたしました。こちらは、二の媛様のための天の糸にごぜぇます」
 私はおそるおそる天の糸に手を伸ばした。
 滑らかな翠緑の絹糸は人肌の温もりを帯びていた。柔い女人の()に触れたような。胸の奥がツキンと痛んだ。
「では、この手環は……」
「こちらは、白珠媛がお隠れになるまで身につけておられたものです。白珠媛の母君から譲り受けたのだと」
「私の……お祖母様?」
 翡翠の手環は硬く、ひやりとしていた。
 手に取った瞬間、ざぶんと押し寄せてきた波に頭から呑みこまれた。
 銀のあぶくが輝きながら天上へと昇っていく。透きとおるような翠玉(エメラルド)色の水の上で、ゆらゆらと光の網が揺蕩っている。
 私は海中を漂っていた。白い砂地にいくつも陽射しの柱が立ち、小さな魚の群れが鱗をきらめかせて泳いでいる。
 砂地の先には碧い珊瑚の森が広がっていた。色鮮やかな宝玉のような魚たちが舞い踊り、遠くにはゆったりと水中を滑る海亀の影が見えた。
  ――なんて美しい光景なのだろう。
 もっと近づきたくて深く潜ろうとした刹那、ぐんと上に引っ張られる感覚があった。
 みるみる海面まで浮上し、大きく息を吸いこんだときには婆の前に戻ってきていた。
「何か視えましたかえ?」
 探るような婆の問いに、私は呼吸を整えながら首肯した。
「南の……夢のように美しい海の底の景色が流れこんできたわ」
「手環の持つ記憶にごぜぇましょう。白珠媛の母君は、南からお渡りになられた妓女だったと聞いております」
 私はまじまじと婆を凝視した。
 育て親は手環を取り上げると、恭しく私の右手に通した。まるで誂えたように、私の手首はぴったりと環の内側に嵌まった。
「強き力を持つ巫女でありながら訳あって国を追われて流離い、たどり着いた和多の郷で氏長に見初められたそうです。白珠媛のご幼少のみぎりにお隠れになられ、いずれ自らのお血筋に巫女の才を持つ御子が生まれたならばこれを渡すよう言い残されたと」
「お祖母様は――伊玖那見の神女でいらしたの?」
 明星から聞かされた母の出自にまつわる噂話を思いだす。私と片割れは、本当に海のむこうの異国の血を引いていたのか。
 婆は静かに頷いた。
「白珠媛の御子を取り上げたのは、この婆めでごぜぇます。息を引き取られる寸前、おふたりめの御子……媛様の御目を確かめられた白珠媛は『この子こそ、母御前の血を継いだ常夜大君(ティダゥフージェ)愛児(いとしご)に違いない』とおっしゃられました」
 常夜大君――伊玖那見で信仰される女神の名だ。
 海の彼方にある夜の食す国(ネィラエィラ)を治める精霊の女王。生と死を司る太母神。
 伊玖那見の女王たる大神女は、常夜大君の憑坐なのだという。かの国では女神の神託こそ重んじられ、大神女の占によって政が行われている。
「南では、闇を見通す金の瞳は夜の女神の恩寵のしるしとされているのだとか。白珠媛の母君も、媛様と同じ朱金に輝く御目をお持ちだったそうです」
 母殺しの鵺の眼と蔑まれてきたこの両目は、顔も知らない祖母から受け継いだものだったのか。手環の表面を撫ぜると、染みるよう波動が伝わってきた。
 そこには、やさしい祈りと祝福だけがあった。
「母上は……私を疎んだりしていなかったのね」
 ほろりとこぼれた言葉に、婆は皮膚のたるんだ瞼を伏せた。
「最期まで媛様のことを案じられておりました。女神の恩寵を賜ったために苦難の道を強いられた母君と同じ不幸を味わわぬようにと、願い続けておいででした」
「もしかして……婆に私を託したのは、母上なの?」
 婆はうなだれるように首を縦に振った。
「この婆めは、いちどは大皇によって不吉なるものとして首を刎ねられる定めにこぜぇました。それをお救いくだすったのが白珠媛です。奴婢に落とされた身に天の糸を紡ぐお役目を与えられ、これまでどおり占をせよとお許しくださった……大恩あるお方にごぜぇます」
 胸の裡にすうと冷たい風が吹きこんだ。
 婆が私を育てた理由は母への恩返しだったのだ。そうでなければ、乳飲み子を抱えながら粗末な古宮での暮らしに耐えられるはずもない。
 ささくれた心を拾い上げたのは、婆の口から出た名前だった。
「十六年、心をこめてお育て申し上げました。いつか媛様が護り手を得られるまで、大切に大切に」
「護り手?」
「水沙比古殿ですよ。あの若子は、媛様の剣となり翼となる定めの者。あなた様の許へ天命を運んでくる風の鳥」
 節くれ立った老女の手が手環をつけた右手を包みこむ。婆はくしゃりと笑みを崩し、私の手を撫でさすった。
「あの若子が現れてからというもの、媛様の未来(さき)を視ることができなくなりました」
「えっ!?」
「力が消えたわけではありませぬ。あなた様が婆の手を離れ、御自ら護り手を選ばれたから。だからこうして、白珠媛の形見をお返し申し上げたのです」
 私は困惑を隠せないまま尋ねた。
「確かに、水沙比古は私の従者になると言ってくれたけれど……私はこれからもずっとこの宮で暮らしていくのよ? 婆だっていっしょでしょう?」
 婆は薄い眉を垂らして笑った。
「ええ、ええ。それもよいでしょう。ますますお美しくなられる媛様のおそばで送る余生ほど得がたきものはございますまい。ですが、天から(こぼ)れた黄昏の星は、一介の糸繰り女には過ぎた宝」
「婆?」
「媛様、夕星媛。これだけはわかります。あなた様には特別なお役目がある。母君が憂えた苦難もまた、避けられぬ。けれども、迷うことはありませぬ。あなた様には心強い護り手がついておられる」
 婆は私の手を押し戴き、かすかに声を震わせた。
「どうか、天地の加護があなた様にありますように。この命が果てる日まで祈りましょう」
 糸車の回る音が聞こえる。
 軋みを上げながら回り続ける運命の輪は、抗いがたい別れの予兆を運んできた。
 私は――片割れだけでなく育て親も失うのか。
 あまりに唐突で残酷な、幼年期の終わりの幕開けだった。

四 北風の使者〈1〉

 叩きつけるような雨は朝から降り続いていた。
 新嘗祭の準備の合間を縫って訪ねてくる水沙比古と黒金が屋根の修繕をしてくれたおかげで、ひどい雨漏りを免れることができた。
 まだ昼日中だというのに、雨に降りこめられた森は薄暗い。
 しかし、陰りに潜むものたちも激しい雨脚に辟易しているのか、木の下闇でじっとうずくまったままだ。軒先に置かれた水瓶を打ち鳴らす雨音だけが響いている。
 私は白と緑の絹糸で髪紐を編みながら、雨音のむこうへと尖らせた意識の先端を伸ばしていた。
 白糸を地に緑の糸で幾何学的な紋様を描いていく。翡翠の手環に彫りこまれているものを真似たまじないだ。魔を退け、身に帯びたひとの魂の緒を私の許へ結びつけるように。
 髪紐が編み上がるころ、雨に紛れて近づいてくる足音が聞こえた。
 ひとりではなくふたりぶん。どちらも篠突く雨などものともしない足取りで泥濘を進んでいる。
 葉陰に隠れた小鬼が息を潜めてふたりを見送る。――かれらこそがおそろしい存在であるかのごとく。
 濡れ縁に続く階がギシギシと軋む。雨避けに閉めた蔀戸を来訪者が叩いた。
「二の媛」
 従者の少年の声に立ち上がった。
 蔀戸を開けると、簑笠を纏ったずぶ濡れの水沙比古がホッとしたように表情をゆるめた。
「阿俱流を連れてきたぞ」
 水沙比古の背後に佇む人影が俯きがちに礼をした。長身の水沙比古よりいくぶん小柄だ。
「よく来てくださいましたね。どうぞお入りになって火に当たってください」
 ふたりを招き入れ、火鉢のそばまで案内する。
 躊躇を滲ませて簑笠を取った阿俱流の姿に、私は既視感を抱いた。
 火明かりに黒い冠を被った結髪が赤銅色に輝いている。雨に濡れたままの面は冬の満月のように真っ白だ。額が広く、鼻筋が通っている。
 右目を白布で覆い、左目は藍方石を思わせる深い青色を湛えている。私や水沙比古と同年代の少年だが、ひどく翳りを帯びたまなざしをしていた。
 位の低い官吏であることを示す浅縹の朝服を纏った阿俱流は、文官というより武官らしい印象だった。袍の袖口から覗く両手は逞しく、細い筆ではなく駿馬の手綱を握るほうが様になりそうだ。
 ふと、阿俱流から乾いた風の匂いが漂ってきた。
 草いきれ、獣の息遣い。刹那のイメージは瞬きの合間に掻き消えた。
「二の媛。紹介する。こちらが風牧の阿俱流だ」
 水沙比古の言葉に続き、阿俱流は深々と叩頭した。
「お初お目にかかりまする。皇子様(みこさま)の御側付きを勤めさせていただいております、名を阿俱流と申します」
 老成した印象の落ち着いた口調。私は違和感へと変じた既視感に困惑した。
 ――かれのほうではない(・・・・・・・・・)
「あの、阿俱流殿。不躾な質問かもしれないけれど、ご兄弟はいらっしゃる?」
「……同母姉(いろも)がひとりおりますが」
「えっと、兄か弟はいないかしら。あなたと同じ、赤い髪の」
 阿俱流の肩がぴくりと揺れた。
「いいえ。私の身内は姉だけにございます」
 きっぱりと否定され、私は思わず口をつぐんだ。
 水沙比古が不思議そうに首を傾げる。「何か視えたのか?」
「阿俱流殿とお会いする前に、かれとよく似た赤い髪の若者の視線(・・)を感じたの。てっきり阿俱流殿かと思っていたのだけれど……」
 同母姉とは、明星の侍女をしている満瀬のことだろう。ほかに兄弟がいないのであれば、私が占を読み間違えたのか。
 ゆっくりと面を上げた阿俱流と視線が絡む。藍方石の隻眼は凝乎(じっ)と私を見据えていた。
「噂どおり、皇女様(ひめみこさま)は陰視でいらっしゃるのですね」
 鋭利な錐を刺しこまれるような視線に気圧されながら頷く。
 水沙比古がさりげなく私の傍らに移動し、阿俱流の視線を肩で弾いた。
「心当たりはないか。何か」
「……いいえ。申し訳ございません」
 阿俱流はツと目を伏せた。
 私は慌てて首を横に振った。
「こちらこそごめんなさい。どうか気にしないでくださいね。私の勘違いかもしれないし……」
「二の媛でも失敗するのか?」
「もちろんあるわ。私は本当に視えるだけ(・・・・・)なの。きちんと巫女や呪師の修行をしたわけではないから、視えた結果を自分なりに読み解くしかないのよ」
 水沙比古の質問にこそこそ答えていると、阿俱流が口を開いた。
「私も身近に陰視の者がおりましたゆえ、いつでも望みのままに視えるわけではないと存じでおります。むしろ、望まぬものを視てしまったがために苦しむことのほうが何倍も多い」
 少年の声は染み入るように静かに響いた。
 阿倶流はふっと息を吐きだし、「本日は、皇子様より言伝をお預かりしてまいりました」と告げた。
 私は両手を握りしめた。
「水沙比古から話は聞いています。姉様……明星媛と私を会わせたいと」
「はい。一の皇女様はお食事も喉を通らず、宮に籠りきりのご様子。姉宮様をご心配なさった皇子様は、二の皇女様のお顔を見れば元気を取り戻されるのでは――とお考えなのです。幸い、私の姉が一の皇女様にお仕えしておりますので、姉の協力があれば難しいことではありません」
「私は、この宮から出ることを禁じられているの。ましてや明星媛と密会したと大皇に知られれば……皇太子である神隼親王はともかく、手引きをしたあなたや姉君は無事では済まないわ」
 もちろん私も、阿倶流と引き合わせた水沙比古も許されない。露見すれば四人仲良く晒し首だ。
「ご心配には及びませぬ。必ずうまくいきます(・・・・・・・・・)
 阿俱流は淡々と言い切った。
 まるで確定した未来を知っているかのような口調に私は言葉を飲みこみ、水沙比古は眉をひそめた。
「ずいぶんな自信だな」
「根拠はございます」
 阿俱流は水沙比古の視線を受け流し、隻眼を私に向けた。
「新嘗祭の日、大皇とお妃様が日月の両神に供物を捧げるため祭殿にお籠りになられます。神事のあいだ、多くの朝臣や宮人も祭殿の周辺に待機しております。宮中の警備も祭殿に集中する……つまり、それ以外への注意が薄れるということです」
「まさか、神事のあいだに明星媛と会おうというの?」
「然様にございます。皇嗣であらせられる皇子様は祭殿近くの殿舎でお過ごしいただかねばなりませんが、皇女様方は神事でのお役目はございませぬ。宮女に扮した二の皇女様を姉宮様の許へお連れするには、またとない好機かと」
 阿俱流の提案は、荒唐無稽と断じるには魅力的だった。
 そう、これは好機(チャンス)なのだ。再びめぐってくるかどうかわからない、最後かもしれない神様の気まぐれ。
 阿俱流の誘いを断れば、明星に二度と会えないままで終わるかもしれない。
 生涯幽閉の身である私と違い、いつか明星は然るべき相手の許へ降嫁する。あの子が花嫁となって宮城を旅立つ日は遠くないはずだ。
 そうすれば、私たちは今度こそ離ればなれになる。前世の記憶のように、鈴を振るうような笑い声や、夜明け色のまなざしや、寄せ合った肩のぬくもりが、少しずつ風化していく日々に怯えながら生きていくのだ。
 ――いっしょに海が見たいと願った片割れの幸せを願えるように、手を離すためのさよならが欲しい。
 波間に覗く湊のあかりに焦がれた迷子の鯨が暗い海へ漕ぎだすために。私が、片割れがいなくても夕星(わたし)であれるように。
 私は水沙比古の衣の袖をつまんだ。
 銀碧の瞳が振り向く。目が合うと、かれはふっと口元を綻ばせた。
「二の媛はどうしたい?」
 風が吹いた。
 鯨の仔を沖へと押しだそうとするような風が首筋を吹き抜けた。
 風に乗って海原へ翔んでゆく鳥の影が瞼裏をよぎる。私を呼ぶ声。
「私は――姉様に会いたい」
 水沙比古は頷いた。
「おれは助けるよ。二の媛が望むなら」
 その言葉に背中を押され、私は阿俱流に向き直った。
「阿俱流殿。明星媛にお会いするために、どうか力を貸してちょうだい」
 阿俱流はかすかに左目を眇めた。
「もとより、その所存。皇女様方、引いては皇子様の御為、身を粉にして働かせていただきたく思います」
 浅縹の裾を捌き、阿俱流は低く一礼した。冠の上で火明かりがチラチラと揺らめいている。
 私たちの密談を隠すように、雨音はいよいよ激しさを増した。顔を上げた阿俱流は、計画の詳細について語りだした。
 水沙比古の傍らで、私は期待と不安に押し潰されそうになりながら糸車の音を聞いていた。
 善きものも悪しきものも運んでくる、運命の轍の軋みを。

四 北風の使者〈2〉

 波音が聞こえる。
 遠く遠く打ち寄せる潮騒は、乾いた北風によって運ばれてきた。冷たく冴えた空気に混じる草の匂い。
 視界を開くと、そこは白金色の草原だった。
 平原を覆う背の高い枯れ草がいっせいに風に揺れ、彼方の山脈(やまなみ)から射す斜陽を浴びてさざめいている。草の波間を駆けてゆくのは、軽やかに鬣を靡かせる駿馬の群れだ。
 水色と黄金色が溶け合って輝く(そら)には真白い星がぽつりと浮かんでいた。
 宵の明星――夕星だ。
 甲高く口笛の音が響き渡る。
 二度、三度と口笛が続くと、駿馬の群れがぐるりと向きを変えてこちらへ駆けてきた。迫り来る蹄の音に逃げなければと思考のどこかでおののいていると、視界の後方から小さな人影がふたつ飛びだした。
 野火のような赤い髪。枯れ草を掻き分けて駿馬の群れへ走り寄っていったのは、私の肩よりも小柄な男の子たちだった。
 ふたりの男の子は口々に声を張り上げながら――聞き慣れない異民族の言葉だ――鼻息の荒い馬たちをなだめていく。日頃から馬の扱いに慣れているとわかる手際のよさだ。
 手分けをして馬の数を確認した男の子たちは、先ほどとは違う音程の口笛を吹いた。ひとりが馬たちを先導し、もうひとりが最後尾について追い立てる。
 先導役の男の子がすぐそばを通り過ぎた。
 曲線的な紋様が染め抜かれた布を頭に巻き、揃いの紋様で衿を飾った上衣を着ている。赤く日に焼けた頬に散らばったそばかすがいっそうあどけない。
 すれ違う刹那、髪とは対照的な深い青色の瞳が私を視た(・・・・)
 藍方石を思わせる双眸がきゅっと弓形に線を引く。強烈な既視感に息を呑んだ私は、そこで夢から醒めた。
 隣の控えの間からは婆のいびきが聞こえる。蔀戸を下げたままの室内は暗く、まだ起きるには早い時間帯だ。
 すっかり眠気の吹き飛んでしまい、褥の中で何度も寝返りを打った。とうとう堪えきれなくなって起き上がり、身支度を調えて宮を抜けだす。
 明け方の森には、あちこち霜柱が立っていた。
 だれにも踏まれていない白い絨毯の上を歩き回り、沓で霜を踏みしだく戯れは、二度目の幼少期でも不思議と夢中になったものだ。冬になると軒先に垂れ下がった氷柱を叩いて澄んだ音色を楽しんだ。
 かじかむ指先に息を吐きかけながら薄暗い森の中を進む。木立の切れ間に殿舎の屋根が見えてきたあたりで立ち止まり、陰からそっと森の外を窺う。
 殿舎の軒先に人気はなく、釣り灯籠の火が物寂しげに燻っていた。巡回の衛士はいないようだ。
 明星の姿が見当たらないことは、だだ悲しく切なかった。肩を寄せ合って語らった階のあたりをぼんやり眺めていると、廊のむこうからだれかが歩いてくる。
 慌てて木の幹に隠れると同時に、釣り灯籠の下に冠を被った宮人が現れた。
 身分の低さを示す浅縹の朝服。赤銅色の結髪が残り火に淡く光る。
 ――阿俱流だ。
 驚く私を、藍方石の左目がまっすぐ捉えた。
 阿俱流は迷いのない足取りで階を下ると、こちらへ歩いてくる。
「おはようございます、皇女様」
 隻眼を細め、阿俱流は朗らかに挨拶した。
 愁いを帯びた第一印象が強かっただけに、私は面食らって瞬いた。形容しづらい違和感に産毛がちりちりする。
「お……はようございます。あの、阿俱流殿はどうしてここに?」
 新嘗祭まで日もないので作戦会議のために近く再訪すると聞いていたが、てっきり水沙比古と連れ立って来るとばかり思っていたのに。
 阿俱流は思慮深げに答えた。
「一の皇女様からのお預かりものを姉に『二の皇女様にお渡ししてほしい』と頼まれました。お届けに上がった次第です」
「姉様から?」
 片割れの名前に心臓が跳ねる。
 阿俱流は懐から布包みを取りだした。恭しく差しだされたそれは、片手に収まるほど小さい。
 もどかしく震える手で受け取ると、見た目どおり軽かった。布包みを開き、きらりと瞬いた光が瞳を射抜く。
 光の正体は鋭く磨かれた銀の笄だった。私の手で握るのにちょうどよい長さで、赤い花を模した珊瑚の飾り珠があしらわれている。
「これは――」
「揃いの笄を一の皇女様がお持ちになっていらっしゃいます。再会の約束の証に、祭の当日につけてほしいとおっしゃっていました」
「姉様は、こたびの密か事をご存じなの?」
 私の問いに、阿俱流は短く首肯した。
「姉を通じて手筈をお伝えしております。妹君にお会いできると知れると涙をこぼして喜ばれ、食欲も戻られたご様子でした」
「ああ……そうなの。それはよかった」
 滲んだ涙を袖で拭い、私は布包みごと笄をそっと胸に抱いた。
 きっと次の逢瀬が今生の別れになる。この笄は互いの手を放すための約束の証であり、いつか思い出のよすがとなるものだ。
「ありがとう、阿俱流殿。約束の証は確かに受け取ったと、どうぞ明星媛にお伝えして」
 水沙比古よりもいくらか低い位置にある隻眼にほほ笑みかけると、阿俱流はきゅっと左目を眇めた。
 その表情に既視感がよみがえる。炎のように揺れる赤銅色の髪が眼前にちらついた。
 ――あの男の子だ(・・・・・・)
 今朝の夢に現れた男の子とまったく同じ()で私を見ている。グンッと意識を引き寄せられる力を感じ、たたらを踏んだ。
 かれが私を覗きこもうとしているのか、それとも私がかれの意識野へ潜りこもうとしているのか。双方の力が拮抗しながらぐにゃぐにゃと入り乱れていく。
「……ッ!」
「おっと」
 耐えきれずによろめいた肩を大きな手が受け止めた。カメラのシャッターを切るように接続が遮断され、どっと汗が噴きだした。
「いかがされましたか、皇女様」
 阿俱流は涼しい笑顔で尋ねてきた。
 私は深く呼吸をくり返しながら、少年を凝視した。
「阿俱流殿……あなた、陰視だったの?」
「いいえ」
 さらりと返された否定に面食らう。
 阿俱流はクツリと喉を鳴らし、私の肩から手を離した。
阿俱流(わたし)は陰視ではございません。しかし近しい者に陰視がおりましたので、徒人よりもいくらか勘が鋭いたちなのです。おそらくは血筋なのでございましょう」
「血筋?」
「私と姉の満瀬は、火守(クウィル)の巫女の流れを汲む生まれなのです」
 耳慣れない響きの言葉。くうぃる、と口の中でくり返すと、冷たい風の匂いを嗅ぎ取った。
「北夷の民が自ら名乗る呼称です。こちらの言葉では『聖なる火の番人』という意味になります。北夷の民は火を司る炉の女神(オルヘテ)を篤く信仰しており、女神から火を授けられたことで厳しい寒冷地でも暮らしていけるようになったという伝承があるのです」
「あなたたち姉弟は、確か……その……」
 水沙比古から聞いた出自の噂を思いだして言い淀んでいると、阿俱流はおかしそうに笑った。
「北夷の男に略奪された女から産まれたという話でしたら間違いですよ。私の父は風牧の将で、武功の褒美として北夷の巫女を妻に賜ったのです」
「その巫女殿が母君?」
「ええ。しかし時経たずして父は戦傷が原因で亡くなり、身重の母は北夷の郷へ帰されました。私と姉は、伯父に当たる養父の迎えが来るまで母の郷里で育ちました」
 阿俱流は言葉を切ると、皮肉っぽく口端を吊り上げた。
「いずれにしろ、宮城(ここ)での私たちが『鬼子』であることに違いはありますまい。杣の宮に幽閉されている皇女様には、われらの思いがよくよくおわかりいただけるのではないでしょうか」
 青いまなざしが私の両目を覗きこむ。母親殺しの鵺の眼と父親に忌み嫌われた、呪いのような朱金色の瞳。
 くちびるを噛んで俯くと、右手首の手環が視界に入った。
 この手環を母に託した顔も知らない祖母は、私と同じ色の瞳を持っていたという。
 手環に宿る亡き(ひと)のぬくもりにやさしく励まされ、視線を上向ける。
「そうね。自分ではどうしようもない理由で疎んじられる悲しみや腹立たしさは、私にも覚えがあるわ。……でも、自分が何者であるか最後に決めるのは、自分自身の心だとも思う」
 阿俱流に向けて語りながら、私は自分の気持ちを見つめ直していた。
 婆が言っていたような、生まれてきた役目はまだわからない。
 だが、夕星という人間は、確かにこの世界の命の連鎖のひとつなのだ。母から子へ連綿と紡がれてきた血脈の糸の末端が、いまここにいる私なのだ。
 ――ここは夕星の世界であり、『私』の世界でもあるのだ。
 手環と同じ紋様を織りこんだ髪紐の持ち主を思い浮かべる。私がどこで生きようと、そばにいて助けてやると笑った少年の海色のまなざしを。
 水沙比古の想いに報いたい、あの子に恥じない主になりたい。南の海の温かな波にも似た感情に思わず眉尻が垂れた。
「私は鵺でも鬼でもなく、人の心を持って生きていきたい。死ぬまでこの森から出られないとしても……人として、大切なひとの幸いを願い続けたい」
 阿俱流の口元から笑みが消えた。
 かれはツイと片眉を持ち上げ、首を傾げた。
「二の皇女様は、生涯幽閉という身の上にご納得されているのですか?」
「……神隼親王のおかげで、もういちど明星媛に会える。どこかへ降嫁される前にお別れを申し上げて、どうか幸せにとお伝えできる。それだけでじゅうぶんよ」
 困惑気味に答えると、阿俱流は「なるほど」と呟いた。
「皇女様は物分かりのよいお方でいらっしゃる。身を引き裂かれるほどに定めを恨んだことなどない、素直な気質をお持ちのようだ」
 どこか刺々しい台詞だった。眉をひそめる私に、阿俱流は頬を歪めた。
「あなたは、本当の意味で孤独ではないのですね。一の皇女様と違って」
「え?」
「私には、一の皇女様のご心中が痛いほどわかります。たったひとりしかいない(・・・・・・・・・・・)、何もかも分かち合って生まれてきた半身だけなのに。失うなんて……奪われるなんて、許せない」
 足元の影まで射止めるような、凍えきった声だった。暗く燃える藍方石の瞳に思わず後退る。
 阿俱流はひとつ瞬いて笑みを刷くと、慇懃に頭を下げた。
「ご無礼をお許しください。他愛ない戯言と聞き流していただきたく思います」
「あなたは――……」
 私は夢の中に現れた男の子たちを思いだした。姿かたちも声も相似形のふたりの男の子。
 どちらかが阿俱流なのだとしたら、かれには姉以外の兄弟がいるはずなのだ――おそらくは私と同じ、双子の片割れが。
 何かを見落としている気がした。テスト用紙の解答欄に誤って隣の問題の答えを書いてしまったような、すぐそこにある真実に手が届かない焦燥感。
 継ぐべき言葉が見つからないまま立ち尽くしていると、阿俱流が朝服の裾を捌いた。
「そろそろ衛士が見回りにくる時間でしょう。また改めて宮にお伺いいたします」
「そう……ね。私も朝食までに戻らないと」
 阿俱流はちらりと笄を一瞥すると、舌舐めずりする蛇のようにほほ笑んだ。
「きっと皇女様には珊瑚の赤い花がお似合いですよ。いまから拝見するのが楽しみです」

四 北風の使者〈3〉

 朝ぼらけの宮城に太鼓の音が響き渡る。
 夢の名残が醒めやらぬ空気を震わせる重低音に、陰りに潜むものたちがざわついている。祭の日には人間ではないものの気配も浮き足立って落ち着かない。
 太鼓の音を数えながら、私は鏡台と睨み合っていた。
 古ぼけた鏡にはしかめっ面の少女が映りこんでいる。普段は適当にまとめているだけの髪をきっちりと双髷に結い、慣れない化粧をしているせいか自分の顔ではないかのよう。
 白い袍の上に晴れやかな花浅葱の背子を重ね、更にひらひらとした玉虫色の領巾を肩にかけている。鮮紅色の裳を着ければ、皇族のそば近くに仕える上級宮女の出来上がりだ。
 下級宮女の扮装では明星が待つ殿舎まで近づきにくいから……という理由で阿俱流が用意してくれた装束である。上級宮女は男性皇族に見初められることもある身分なので、華美な装いが好まれるのだ。
 双髷の根元には珊瑚の飾り珠がついた笄を挿している。阿俱流が言ったとおり墨色の髪に赤い花が映えているような気もするが、似合っている自信はない。
 眦に紅を差した朱金色の双眸は、戸惑いを浮かべて私を見つめ返していた。袖や領巾で隠せば目立たないはずだと阿倶流は言っていたが、本当にうまくいくのだろうか。
 ため息を噛み潰していると、外から蔀戸を控えめに叩く音がした。
「二の媛、起きているか?」
 水沙比古の声に、ようよう観念して立ち上がる。
「ええ。いま開けるわ」
 蔀戸を開けると、冑を脇に抱えた水沙比古が立っていた。
 銀碧の瞳がきょとんと瞬く。不思議なものを見るまなざしに居心地の悪さを覚え、とっさに顔を背けた。
「おはよう。寒いから、中へ入って」
「あ……ああ」
 水沙比古は蔀戸をくぐると、そそくさと火鉢のそばに腰を下ろした。
 いつになく挙動不審な様子に私までいたたまれなくなってしまう。お互いに黙りこんでいると、育ち盛りの少年の腹の虫が切なげに鳴いた。
「あ」水沙比古が間の抜けた声を洩らし、仔犬のような目でこちらを窺う。
「……昨日、真赫が持ってきてくれた(しとぎ)がまだ残っているの」
「食べる!」
 元気のよい返事に思わず笑ってしまった。
 粢は米粉と水を混ぜて捏ねたものを丸めた、団子や餅に似た菓子(くだもの)だ。日常的な軽食ではなく、祭の日に神前に捧げられたあとで特別にふるまわれる。
 子どものころは、祭のあとに真赫が持ってきてくれた粢を炉端で焼いて食べることが楽しみだった。
 固くなった粢を草の葉で包み、火鉢の灰の中へ埋める。しばらく待つと灰の熱で蒸し焼きになる。
 焦げた草の葉を剥くと、ふわりと甘い湯気が広がった。
「熱いから火傷しないようにね」
「うん」
 水沙比古はふうふうと息を吹きかけてから粢にかぶりついた。見てくれは立派な若者なのに、こういうところが男の子のままなのだ。
 私も自分のぶんの粢にかじりつく。米粉の素朴な甘みが妙に懐かしい。
 年を取って固いものが食べづらくなった婆は、細かく切った粢を甘葛煎を薄めた汁で煮てもらい、やわらかい芋粥のようにして食していた。
 前世でも、デイサービスで働いていた母が老齢の利用者には焼き餅入りのお雑煮ではなく小粒の白玉が入ったお汁粉をふるまうのだと話していた記憶がある。どの世界でもお年寄りの食事で気をつけるポイントは同じらしい。
 丈夫な歯と旺盛な食欲を持つ水沙比古は、粢を三個ぺろりと平らげた。
「うまかった!」
「それはよかった」
 白湯の入った椀を渡すと、水沙比古は腹を撫でさすった。
「粢なんて久しぶりだ。和多の郷にいたころは、万祝のあとに親父どのがこっそり食べさせてくれた」
「私も同じよ。甘い菓子なんてめったに食べられないから、とても嬉しかった覚えがあるわ」
 七洲で甘味料はとても貴重だ。舶来品である砂糖はほぼ出回っておらず、宮中の台盤所で用いられているのも甘葛煎や水飴ばかり。
 それすらも稀少で、甘味料を使った菓子を気軽に食べられるのは皇族や高位の豪族に限られる。
「水沙比古は削り氷を食べたことがある?」
「けずりひ?」
「薄く削った氷に甘葛の煮汁をたっぷりかけて、夏の盛りに食べるの。とても冷たくて甘くて、それはそれは美味だそうよ」
 以前、明星が教えてくれた菓子だ。おそらくかき氷のようなものだろう。
 冬のあいだに天領の池で作った氷を切りだし、夏まで氷室で保存しておく。毎年蒸し暑い季節になると台盤所に運びこまれ、大皇の計らいで後宮の妃嬪や親王、内親王に削り氷がふるまわれるのだそうだ。
「明星はね、暑い夏の日に食べる削り氷が菓子の中でいっとう好きだと話していたわ。異母弟の神隼もお気に入りなのですって。私は食べたことがないと言ったら、とても気まずそうな顔をしていたわ」
 水沙比古は眉根を寄せた。
「羨ましかったのか。一の媛が」
 私は手元の椀に白湯を注ぐと、少し冷ましてからそっとすすった。
 火鉢の灰の中で熾火がちろちろと燃えている。赤い揺らめきを眺めていると、胸の奥がさざめいた。
 澱のように凝っていた感情がよみがえる。白湯を飲み下しても消えない苦味に頬が歪んだ。
「みじめだった……かもしれない」
 空になった椀を持つ両手に力が入る。
「悲しくて、恨めしくて、あの子が憎らしく思えた。立場の違いは明星のせいではなのに」
 片割れの苦しみを、だれよりも知っているはずなのに。行き場のない、許しがたい怒りを明星に抱いてしまった。
「明星が大好きよ。何より大切で、だれより幸せになってほしい。でも本当は、私にはないものを当たり前のように持っているあの子が……少しだけ嫌いだった」
「一の媛に会うのをやめるか?」
 水沙比古が声を落として尋ねる。
 私は首を横に振った。
「明星に会いたいのは本当よ。最後にきちんとお別れを言いたいの」
「……これが最後でよいのか」
「危険は何度も冒せないわ。それに私たち姉妹の年齢を考えれば、明星の降嫁は遠くないはずよ。あの子はようやく大皇から自由になれるの。その邪魔をしたくない」
 カランと椀が転がった。
 身を乗りだした水沙比古が左手を掴んでいた。ぎゅ、と力をこめられ、かすかな痛みに眉をひそめる。
「水沙比古?」
「二の媛は……」
 もどかしそうに口を動かし、水沙比古は言葉を押しだした。
「このまま杣の宮に囚われたままでよいのか。外の世界へ――大皇に怯えずともよい場所へ逃げたくはないのか?」
 私は息を呑んだ。斬りこむような阿俱流のまなざしが銀碧の双眸に重なる。
「逃げるって……いったいどこへ?」
「和多の郷ならどうだ。二の媛が望めば、親父どのは喜んで迎えを寄越す」
「そんなの、無理よ」
 泣きそうになりながら頭を振ると、水沙比古は「なぜ」と低く唸った。
「大皇に疎まれているのなら、こちらから出ていけばいい」
「そういう問題ではないの。大皇は、私に死ぬまでこの宮に留まるよう命じたのよ。外へ出たいと言えば殺される。私だけでは済まないわ。婆も真赫たちも、あなたまで巻き添えにしてしまう」
「……こんなに暗くて寂しい森の奥で、糸繰り女の真似事をしながら生きていくのか? 和多の氏長の孫娘、内親王である貴い媛が」
 悔しそうに奥歯を軋ませる水沙比古に、私は眉尻を下げて笑いかけた。
「大皇の治世が続く限り、幽閉が解けることはないでしょう。でも、そうね……何年か何十年か経って神隼が皇位を継いで世情が変われば、もしかしたらお許しが出るかもしれない」
 右手を少年の手に重ねると、強張った肩がわずかに弛緩した。
「明星から聞いた異母弟は、聡明でやさしい子だというから。私の身の上を憐れんでくれるかもしれないわ。もしも外へ行けるようになったら……私を和多の郷へ連れていってくれる?」
 水沙比古は瞳を揺らし、ぐっと口元を引き結んだ。
 会ったこともない異母弟の恩情など、あてになるかどうか定かではない。所詮はこの場しのぎの慰めでしかないと、かれもわかっているはずだ。
 ――それでも。
 叶わないと知っていても願わずにはいられない想いがある。片割れのぬくもりとともに。
 左手首を掴む右手がほどかれ、代わりに右手を両手で包まれた。
「約束する」
 少年の手の温度と、刻みこむような声の強さに、私は呼吸を忘れた。
「和多の郷でも、海の果てでも。二の媛が望む場所まで連れていくよ。おれが、必ず」
 いつか見た海の色を宿した、その眸が。
 ひたむきな表情から視線が逸らせない。時が止まったかのように見つめ合っていると、控えの間から婆の唸り声が聞こえてきた。
 揃ってハッとする。外からすっかり明るくなっていた。
 太鼓の音がいよいよ大きく鳴り響く。祭のはじまりを告げる合図だ。
「そろそろ行こう。人目につかないうちに阿俱流と落ち合わないと」
 水沙比古は冑を被りながら呟いた。
 慌てて火の始末をしていると、褐色の指先が口元に触れた。
「二の媛。出る前に鏡を見たほうがいい」
「え?」
「紅。取れているぞ」
 粢を食べたときに落ちてしまったのだ。不意打ちに固まる私へ、水沙比古は両目を細めた。
「おれが差してやろうか?」
「ばっ……こんなときにからかわないでちょうだいっ」
 羞恥をごまかすために小声で怒鳴ると、少年は喉を鳴らして片手を振った。
「残念。せっかく従者の役得にありつけると思ったのに」
「役得、って」
 滲むような朝の光にふちどられた横顔がほほ笑む。
「似合っている。普段から二の媛は美人だが、めかしこむといっそうきれいだな」
 ぽかんとする私を置き去りに、水沙比古は「外で待っているよ」と出ていってしまった。
 のろのろと鏡の中を覗きこむ。映りこむ少女の頬は、明らかに化粧ではない紅色にほんのりと染まっていた。

五 火群の宴〈上・1〉

 久しぶりに触れた森の外の空気は、細かい棘のようにピリピリと皮膚を刺した。
 水沙比古に連れられ、人目を避けながら後宮に向かう。日の出と同時に新嘗祭がはじまったので、祭殿から離れた後宮付近は人が出払って異様なほど静かだった。
 後宮の入り口である唐門の前に、浅縹の朝服を着た阿倶流が待っていた。
 私たちに気づくと、かれは伏し目がちに一礼した。その姿に覚えのある違和感が頭をもたげる。
「お待ちしておりました」
 だが、それを口に出す暇はない。だれかの目につかないうちに移動しなければならない。
「おれはここで待っているよ」
 水沙比古が冑の下でほほ笑んだ。下級の衛士は後宮の中まで入れないからだ。
「二の媛が伝えたいことを、正直に伝えてこいよ。心残りがないようにな」
「……うん」
 途端に心細くなり、私は途方に暮れて銀碧の双眸を見上げた。
 水沙比古は励ますように私の手を軽く握り、阿倶流に視線を移した。
「おれの主を頼んだぞ」
 藍方石の隻眼が瞬く。阿倶流は短く頷いた。
「確かに承った」
 水沙比古に見送られて唐門をくぐる。記憶にある限り、はじめて後宮に足を踏み入れた。
 宮城はふたつのエリアに分けられる。大皇が朝臣とともに政務を行う外朝と、皇族の居住区である内朝だ。
 大皇の妻子が暮らす後宮は内朝の北側に位置し、宮中で最もきらびやかでありながら陰惨極まる毒花の園だ。その頂点に君臨する継母は、さしずめ女王を気取るとりかぶとだろうか。
 もしも母がお産で命を落とさなければ、明星とともに私も後宮で暮らしていたのかもしれない。複雑な気持ちで周囲を見回していると、先導する阿倶流が口を開いた。
「一の皇女様は最奥の御殿にお住まいです。私の姉とともにお待ちになっております」
「ほかの侍女たちはどうしたの?」
「姉の手筈で、皇子様のお世話へ回るように仕向けてあります。最低限の侍女が残っていますが、一の皇女様は神事が滞りなく行われるようお祈りするため、早朝からお部屋に籠られていることになっております」
 つまり、明星は万全の人払いをした状態で待機しているわけだ。阿倶流と満瀬の手際のよさには感嘆させられる。
「明星媛は、ずいぶん満瀬殿を信頼しているのね」
 苦しいばかりの後宮での生活で、ひとりでも心を許せる相手が片割れにいることが嬉しかった。
 私の台詞に、阿倶流は横顔をわずかに強張らせた。
「……姉は私と違って、明朗で他者の懐に入ることに長けておりますゆえ。皇女様方と同年という点も親しみを覚えていただけた理由のようです」
「満瀬殿はわたしたちと同年なの?」
「姉も私も、今年で十六になります。私たち姉弟は双子なのです」
 私は阿倶流の顔を凝視した。
 少年は前を向いたまま、独白のように語る。
「幼いころから互いを半身と思ってきました。生まれ育った北夷の郷でも、九つで引き取られた風牧の氏族でも、この京でも……私たちは女神に祝福された特別な魂を分かち合って生まれてきたのだから、半身を欠かすことがなければ何が起きても――」
 不意に口をつぐみ、阿倶流は肩越しに振り向いた。
「申し訳ございません。余計なことまで申し上げました。どうかお気になさらぬよう」
「……あなたにとって、満瀬殿は失いがたい半身なのね」
 阿倶流は眉間を歪め、伏し目がちに笑った。
「わが身と引き替えでも欠かせぬもの、と。何より近しく……ですが、ときどきこの世の端と端にいるのではないかと感じるのです」
 阿倶流の独白を聞きながら、私は内心で動揺していた。
 いままで視たヴィジョンを振り返ってみる限り、かれには双子の兄弟(・・)がいるはずだ。それとも、幼少期を過ごした北夷の郷では訳あって満瀬も男児として育てられたのだろうか。
 乳幼児の死亡率が高い七洲では、魔除けの意味をこめて一定の年齢まで子どもの性別を偽って育てるという風習があるそうだ。疫病が猛威を振るった時代には、幼い皇太子に皇女の衣装を着せて疫神から守ろうとしたこともあったと婆が話していた。
 ――違う。目が合ったかれ(・・・・・・・)は男の子だった。
 直感は警告のように鋭く訴えてくる。思わず立ち止まると、阿倶流が振り向いた。
「皇女様?」
「……満瀬殿も、あなたのような赤い髪をしているの?」
「然様ですが……それが何か?」
 怪訝そうな阿倶流の表情に、なんと尋ねればよいかわからない疑念が喉を塞ぐ。口ごもっていると、阿倶流がハッと息を呑んだ。
「こちらへ」
「えっ」
 片手を引かれて殿舎の陰に連れこまれる。覆い被さってきた阿倶流に目を白黒させていると、「お静かに」と小声で耳打ちされた。
 視界を塞ぐ阿倶流の肩越しに、縁の板を鳴らす足音と話し声が近づいてくる。とっさに袖で口元を覆った。
 きゃらきゃらと響く声から察する限り、若い宮女たちが通りかかったらしい。雀のようなおしゃべりと歩みを止める様子もなく、宮女たちはさっさと立ち去ってしまった。
「……行ったようですね」
 阿倶流は隙のないまなざしで周囲を見回し、素早く身を離した。
 心臓が固く縮こまったままで、うまく呼吸ができない。ぱくぱくと口を動かしていると、掴まれたままの手を引っ張られた。
「ほかの者に見つからないうちに急ぎましょう。一の皇女様の宮まであと少しです」
 頷く間もなく歩きだす。もつれそうな足で必死に浅縹の背中を追いかける。
 阿倶流の手は水沙比古の手と同じぐらい大きく、種類の違う武骨さを纏っていた。体温が低いのか、どこかひやりとする。
 焦燥と緊張で白昼夢の中をさまよっている気分だ。いくつかの建物を通り過ぎ、ひと際大きな殿舎が見えると阿倶流が指差した。
「あれです」
 大皇の愛娘が住まう宮は、主人の身分にふさわしく立派で手入れが行き届いていた。
 黒々とした屋根瓦にまぶしいほど白い壁、色鮮やかな丹塗りの柱。夜になれば、軒先の釣り灯籠からあかりが絶えることはないのだろう。
 ここで片割れは大勢の侍女に傅かれ、暗い森の闇に怯えることも知らず暮らしてきたのだ。突きつけられた境遇の差に羨望とも嫉妬ともつかない感情が沸き上がるが、一瞬で冷めて虚しさが広がった。
 ――私が欲しかったものは、明星にとって幸福だったのかわからない。
 阿倶流に導かれて階を上がると、縁の奥からひとりの少女が現れた。
 しゅるしゅると裳裾が床板を擦る音。腰を屈め、片脚が引きずるようにゆっくりと歩いてくる。
 ……女性にしては背が高い。阿倶流と変わらない身長の持ち主ではなかろうか。
 白い袍に褪めた朱色の背子、藤色の模様が入った領巾と浅葱色の裳。上級宮女としては落ち着いた色合いだが、刺繍入りの帯が上品で美しい。磨いた赤銅のごとく艷めく髪を双髷に結い上げ、金の簪を挿している。
 氷雪から切りだしたような白皙の(かお)。化粧をしているが、目鼻立ちは阿倶流そっくりだ。
 両眼揃った藍方石が柔和な線を描き、しずしずと伏せられる。
「お待ち申し上げておりました」
 ざらりと掠れた声がささやく。一礼する少女を前に立ち尽くしていると、阿倶流が「姉の満瀬です」と紹介した。
「子どものころに患った病の後遺症で喉が潰れ、片脚が満足に動かせぬ身なのです。見苦しいと思いますが、どうかご容赦を」
「まあ、そんな……見苦しいだなんて」
 慌てて首を横に振ると、満瀬は面を上げてほほ笑んだ。
 阿倶流と相似形の顔立ちは、どちらかというと鋭角的で女性らしからぬのに、紅を刷いたくちびるをゆったりと持ち上げる様は息を呑むほど婀娜っぽい。深紅に煙る睫毛の陰に隠れた青い瞳は、底知れぬ吸引力を秘めている。
 一瞬、視界がぐにゃりと歪んだような感覚に襲われ、私は彼女の双眸から視線を逸らした。
 満瀬の目をまっすぐ見ては危ない(・・・)
 とっさの判断だった。あからさまに顔を背けたりせず、不自然でないよう鮮やかな口元に視点を置く。
「一の皇女様からお聞きしていたとおり、二の皇女様はおやさしい方でいらっしゃる」
 満瀬は歌を口ずさむようにささやくと、領巾を揺らして来たほうを示した。
「どうぞこちらへ。一の皇女様がお待ちになっておいでです」
「私は御座所までお供できませぬゆえ、ここに控えております」
 阿倶流は素早く満瀬に目配せをすると、床に片膝をついて頭を垂らした。
 弟の一瞥を受け取った満瀬は、「これより先はわたくしがご案内いたします」と誘った。
 私は面食らった。当然のように阿倶流もいっしょだと思っていたからだ。
 しかし、皇太子の舎人とはいえ一介の宮人に過ぎない阿倶流が皇女の御座所を訪うことなど許されるはずもない。満瀬とふたりきりになる状況は容易に予想できたのに、ひどく狼狽してしまった。
 満瀬は私にかまわず裳裾を引いて歩きだした。元来、許された時間は少ない。
 私は双子の姉弟のあいだでうろうろと視線を迷わせ、観念して満瀬の背中を追いかけた。
 殿舎をぐるりと囲う縁を回りこむと、明星の宮は複数の棟で構成されているのだとわかった。建物のあいだには透廊が渡され、明るい庭がよく見えた。
 冬も近いのに甘やかな花の香がどこからか漂う。ひよひよとさえずる小鳥の声、穏やかな晩秋の木洩れ日。
 人の手が行き渡った、陰りなどどこにもない清らかな箱庭。私の知らない、片割れが生きてきた世界の景色(ながめ)
「この宮は、大皇が(さき)のお妃様をお迎えする際に造られたと聞いております」
 不意に満瀬が振り返った。
「え……?」
「お妃様のため、選りすぐりの(たくみ)を七洲じゅうから呼び寄せて造らせたそうです。冬枯れの季節にも花が絶えぬよう、庭には大陸渡りの珍かな草木を植えられているとか」
 なるほど、と私は素直に納得した。
 大皇の寵姫の住まいともなれば、後宮で最も贅を凝らした宮であるに違いない。母亡きあとも、彼女の忘れ形見である明星の揺籃とされても不思議ではない。
「母上――白珠媛に対する大皇の寵愛の深さは、私もよく聞き及んでいるわ。きっと大皇は、白珠媛の思い出が残る宮で、明星媛を慈しまれることを心の慰めとしたかったのでしょうね」
 だが、その選択は大皇の傷心を本当に癒したのだろうか。愛妃への追慕は長じていく明星への執着にすり替わり、あの子の心にこそ影を落としている。
「一の皇女様は、この宮を牢獄だとおっしゃいました」
 満瀬の声は冷え冷えと響いた。
 思わず身を竦めると、赤い花のようなくちびるがうっすら笑う。
「真綿のような鉄で作られた鳥籠。籠の中で生まれ育った小鳥は飛び方など知りませぬ。だから自分はどこにも行けない。そも、自分は片方の翼しか持たずに生まれ落ちた。もう一方の片翼もまた、暗い森の奥深くに籠められてしまっているからなのだと」
 ――わたくしたちは、どこにも行けない。
 明星のささやきが聞こえた気がした。透廊に佇み、閉ざされた庭を見つめる片割れの姿を幻視した。
それでもいい(・・・・・・)と、皇女様はほほ笑まれました。片翼がいてくれる、それだけでよいのだと」
「……明星媛は、いずれ然るべき氏族へ嫁がれるわ」
 幻を打ち消すように私は頭を振った。
「いまは大皇が許さなくても、和多の祖父や、ほかの豪族たちが黙っているはずがない。昔は異腹の兄弟姉妹であれば皇女が皇子の妃となることも珍しくなかったけれど、近親間の婚姻は血の濁りを呼ぶという巫女の占があってからは忌避されている。明星媛と身分が釣り合う未婚の男性皇族は神隼親王だけ……つまり、明星媛は皇の外へ出ていかなければならないのよ」
「大皇は果断の君であらせられる」
 低く喉を鳴らし、満瀬は爪先の向きを直した。
「そのご気性がいかに苛烈であるか、二の皇女様もご存じでしょう。武を好み、七洲(くに)を麻のごとく乱しかねないと知りながら和多の氏族から白珠媛を奪い去った。まさに赫日の(みこ)たるお方」
「満瀬殿。何が言いたいの?」
 訝しんで尋ねても、満瀬は答えないまま進んでいく。
 やがてたどり着いた殿舎の縁に立ち、視線だけ投げて寄越した。
「さあ。あなたの片翼がお待ちです」
 笑みのまま閉ざされた紅唇を睨み、私は満瀬の横を通り過ぎた。いまはとにかく明星が最優先だ。
 殿舎の蔀戸は下半分が取り払われ、簾が垂れ下がっている。私はそろそろと簾に近づき、小声で片割れを呼んだ。
「姉様……明星?」
 勢いよく簾が跳ね上がった。
 袖を掴まれて室内に引きずりこまれる。床に倒れこんだ私を跨がるように、だれかが覆い被さってきた。
 墨色の髪が帳となってさらさらと流れ落ちた。真白い単衣を羽織っただけの明星が私を凝視している。
 あまりにしどけない出で立ちに唖然とした。簾越しの薄明かりに、ほっそりとした少女のシルエットが単衣を透かして浮かび上がる。
「あ、明星?」
 戸惑う私をひたと見つめ、明星は吐息をこぼした。珊瑚色のくちびるが震え、どこか艶かしく綻ぶ。
「このときを待ち焦がれていたわ、夕星。わたくしの愛子」
 白魚のごとき十指が私の頬を撫で、頤を伝い、やさしく首に巻きついた。
 恍惚と上気した頬。朝露に濡れたまつむしそうの花にも似た双眸は、怖気立つほどの狂気に輝いていた。
「どうかわたくしといっしょに、ここで死んでちょうだい」
 私の首を絞め上げる片割れの両手が、ぎちりと軋んだ。

五 火群の宴〈上・2〉

 ――いったい何が起きているの!?
 気道を圧迫される苦しさに体が強張る。
 なんとか明星の両手を引き剥がそうともがくと、爪の先に皮膚が食いこんだ。肉を破る鈍い感触のあと、桃花色のくちびるから悲鳴が洩れる。
 ぱたたッ、と頬に熱い雫が降りかかった。
 裳がまくれるのもかまわず脚をばたつかせると、体勢を崩した明星の手が首から離れた。
 そのまま明星を突き飛ばし、床を這って後ろへ逃げる。
 両手の甲に掻き傷を負った明星は顔を歪め、すすり泣くように唸っている。髪を乱し、着崩れた単衣から白い肩をあらわにした姿は、幽鬼じみて空恐ろしかった。
「ひどい……ひどいわ、夕星……」
 泣き濡れた紫色の瞳が恨めしげに睨んでくる。どこまでも純粋に私を責める、幼子のような目で。
 私は唾を飲み下した。
「明星、あなた……自分が何をしようとしたのかわかっているの?」
 尋ねる声は震えてしまった。片割れは柳眉を曇らせ、痛ましい緋を滲ませる手を伸ばした。
「あなたこそ、どうしてわたくしを拒むの。わたくしは、夕星といっしょに果ててしまいたいのに」
 眩暈がした。
 この子は――本気で私を殺そうとしたのだ。
「なぜ」
 片割れの血にまみれた指先を握りこみ、驚愕と怒りを吐き捨てる。体の底から震えが沸き起こり、視界が涙で歪んだ。
「こんな莫迦なことを」
「莫迦なこと?」
 明星は引きつったような笑みを浮かべた。
「そう……夕星にとっては莫迦なことなのね。夕星だけがわたくしのすべてなのに、夕星は違うのね」
 青ざめた面にじわじわと怒りが広がっていく。明星からはじめて向けられた敵意に、私は息を呑んだ。
奼祁流(たける)が教えてくれたとおりだわ。あなたはわたくしを見捨てた。わたくし以外の人間に心を寄せて、ひとりで幸せになろうとしている!」
 悲鳴じみた糾弾は甲高く耳を打ち据えた。
 私は呆然と明星の台詞を反芻した――私が明星を見捨てた?
「まっ……待って。待ってちょうだい、明星。言っている意味がわからないわ。私があなたを見捨てただなんて、そんな――」
「和多の郷から氏族の若者が杣の宮へ遣わされたと聞いたわ。お祖父様が、あなたを守る従者にするために」
 思わず言葉に詰まる。明星はきつく眉を吊り上げ、「名は水沙比古」と吐き捨てた。
「ずいぶん仲睦まじいそうね。まるで妹兄(いもせ)のようだと」
「それは……水沙比古はお祖父様の養い子で、私を助けるよう言いつけられているからよ。従者ならば主を助けるものだと、心を尽くしてくれるいい子だわ。下心なく自分によくしてくれるひとがいれば、好ましく思うのは当然でしょう?」
 私は頭を振った。
「あなたの言い分は支離滅裂よ。水沙比古がいるからといって、なぜ私が明星を見捨てたことになるの? 一日だってあなたを忘れた日はなかった」
「うそよ」
 切り捨てる声は硬く凍りついていた。
 明星はゆらりと立ち上がり、単衣の裾を引きずって近づいてきた。
 簾を透かして射しこむ秋陽がはだけた裸体をぼんやりと浮かび上がらせる。まろやかな胸乳のふくらみ、雪原を思わせる薄い腹、太もものあいだの淡い陰り。
 あと一歩で手が届く距離で立ち止まった明星は、冷え冷えと見下ろしてくる。
 そこで、ふと気がついた。
 少女の柔肌に赤い痕が花びらのように散らばっている。首筋から両脚の内側まで、至るところに。
 背筋がぞわりと粟立った。一瞬、明星から鉄錆の臭いが漂う。
「明星……?」
「うそつきだわ、夕星は。わたくしの気持ちなんて知りもしないで、お父様の目の届かない場所で大切にされて、のうのうと安穏を貪っているくせに」
 これが本当に片割れの言葉だろうか。
 私を愛子と呼んでくれた声は、いまや前世の『私』へ無慈悲に降り注いだガラス片の雨のよう。切り刻まれる心が苦鳴を上げる。
「杣の宮での暮らしを聞くたび、夕星が羨ましくて仕方なかった。あなたは顧みてくださらないお父様を恨んでいたけれど、わたくしには、やさしい大人に囲まれてお父様やお継母様(かあさま)に怯える必要もない生活は夢のように見えた」
「羨ましい……?」
 明星は口元を歪めた。
「そうよ。いっそ憎いほど、夕星が羨ましかった。大好きなのに、胸が引きちぎられるように嫉妬していた」
 まつむしそう色の両目が涙に沈み、少女の頬を流れ落ちていく。
 秋陽にきらめく金色の雫が明星の足元で砕け散った。
「夕星を嫌いだと思うたび、どうしてわたくしたちは別々の心と体を持って生まれてきてしまったのだろうかと悲しくなったわ。あなたがいなければ、わたくしは空を飛ぶ夢すら見れないのに」
 ほろほろと涙を流しながら、明星は失敗したような笑みを浮かべた。
「お父様に愛されないと苦しむ夕星は、心底かわいそうでいとおしかった。白珠媛の写し身でしかないわたくしでも――明星(わたくし)だからこそ必要としてくれるあなたを、愛することが唯一の救いだったの」
 私たちは似た者同士だった。
 互いの疵を舐め合って、寂しさや悲しみを分かち合おうとした。ふたりだけの殻に閉じこもり、来るはずのない朝を待ち続けた。
 ……つないだ手を離すことが裏切りならば、確かに私は明星を裏切ったのだ。
 泣きたいのに涙が出てこない。両目はカラカラに乾涸びて、瞬きのたびに痛んだ。
「夕星、わたくしの片翼。わたくしにはあなたしかいない。あなたが離れていくなんて耐えられない。だから、どうかいっしょに死んでほしい」
「……私を置いていくのは、明星のほうでしょう」
 声が震えるのは動揺か、それとも苛立ちか。私はよろめきながら立ち上がり、同じ目線で片割れを睨めつけた。
「明星こそ、私の何がわかるというの。生まれただけで母親殺しの罪を被せられ、化け物がうろつく森の古宮に死ぬまで閉じこめられて。見たくもないものを見てしまう目を持っている、それだけで化け物だと忌み嫌われる私の何が!」
 明星の表情が変わった。
 戸惑い、驚愕、納得、反発――手に取るように感情の揺れ動きがわかった。
「皇女として何ひとつ申し分のないあなたなら、嫁ぎ先にだって困らないはずだわ。なんならお祖父様の手を借りて、和多と親しい豪族に降嫁することだってできる。一生大皇の許につながれた私と違って、堂々と外に出ていけるじゃない!」
 そうだ。私だって、明星が羨ましかった。妬ましかった。大嫌いだった。
 この子を不憫だと憐れんで、この子の疵を労りながら自分の鬱屈を和らげようとしていた。本当に救いたかったのは、自分だった。
 どこまでも私たちは平行線で、同じものになどなれなかった。
「夕星は、本当にお父様がわたくしを手放すと思っているの?」
 おそろしく平坦な口調で明星が呟いた。
 不意に陰影が濃くなったような、明星が遠ざかったような感覚に襲われる。足元がすっと冷たくなった。
「わたくしこそ、お父様に囚われた虜」
「……正嫡の皇女を然るべき相手へ降嫁させずにいるなんて、お祖父様が黙っていないわ。何より、白珠媛の遺児を目障りに思っている継母上や希賀氏が許さないはずよ」
 乾いた笑声が響いた。
「お父様にはだれも逆らえないわ」
 白魚のような指が胸元から腹部へと素肌を伝い落ちていく。点々と浮かぶ赤い痕跡をたどるように。
「ただひとり、荒ぶる赫日の王を慰撫できたのは白珠媛だけ。お父様は軛が外れた牡牛(こというし)のようなもの」
 明星はぎりりと下腹部に爪を立てた。臍のくぼみの下――やがて子を孕む場所。
 再び鉄錆の臭いが鼻先を掠めた。真っ赤なストロボを焚かれたように視界が眩み、私は呻いた。
 先ほどからまとわりつく、この不安感は……何?
「ねえ、夕星。お父様は仰せになったわ。いずれわたくしに、ご自身の御子を産ませたいと」
「……なんですって?」
 私は耳を疑った。
 明星は、あるかなきかの微笑を湛えている。
「この祭が終わったら、お継母様を廃してわたくしを妃に迎えるつもりだそうよ。わたくしに産ませた御子に皇位を譲りたいけれど、近すぎる血が皇統に障りをもたらすことを危惧されているようね。その代わり、わたくしが女児を産んだら神隼の妃にしようと笑っていらっしゃったわ」
 脳裏に大皇の顔が思い浮かんだ。玉座の上から石のごとき冷めた眸で私を見下ろす、実の父親の顔が。
 喉を突き上げる吐き気に耐え切れず、私は嘔吐した。
 胃液と少量の吐瀉物が紅い裳に染みを作る。火傷したように喉が痛い。
「狂っているわ……」
「そんなこと、最初からわかっていたでしょう?」
 おかしそうに肩を揺らし、明星は乱れ髪を搔き上げた。
 唐突に理解した。片割れは、私を地獄への道連れに望んでいるのだ。
 苦しみも嘆きも絶望も等しく分かち合い、風切り羽を奪われた双翼で奈落の底まで墜ちていこうと。
 満瀬から聞いた、明星の言葉がよみがえる。――片翼がいてくれる、それだけでいい。
 私には、明星は救えない。明星もまた同じ。ならば末期をともにして、母が待つ死の国へ行くしかない。
 私の明星。だれより愛しい、私の片割れ。
 私は――この子のために死ぬべきなのか。
「いやよ」
 ガラス片の雨の中から、耳目を塞いで怯えていた森の夜の片隅から、叫びを上げる。
「私は死にたくない。私の命は私のものよ」
 泣きたくて、泣けなくて、涙の代わりに頬についた片割れの血を拭い取る。
 握りしめた拳が軋んだ。
「いっしょには死ねない。私は……生きるわ。生きたい。どんなに苦しくて、みじめで、明日が見えなくても。だれのためでもなく私のために、斃れる日まで」
 陽の翳りに佇む明星は「そう」と呟いた。
 笑みすら消えた面は、玉座の上の大皇()に似ていた。
「やっぱり、夕星はわたくしを見捨てるのね」
「姉様」
「出ていって」
 明星は近くの鏡台に置かれていた小物を鷲掴み、力任せに投げつけた。
 足元で金属音が跳ねる。赤い珊瑚の花を咲かせた笄がカランと転がった。
「いますぐわたくしの前から消えて。出ていきなさいッ!」
 床にぶつかった際に瑕がついたのか、飾りの花弁の部分が欠けていた。私の髪に挿しているものと同じだったはずの花は、不揃いになってしまった。
 もう二度と戻らない。――戻れない。
 かける言葉など見つからず、私はくちびるを噛んで爪先を外に向けた。
 簾をくぐる刹那、うなだれた明星の背中が震えていた。
 すり切れそうな嗚咽が追いかけてくる。私はわが身を抱きしめ、歩廊を駆けだした。

五 火群の宴〈上・3〉

 明星の宮を出るまで、私は終始無言だった。
 部屋から飛びだしてきた私の姿に、満瀬は藍方石の双眸を眇めただけだった。まるで、こうなると知っていたかのように。
「汚れを落としましょう。お召し物も替えたほうがよろしいかと」
 言われるがまま用意された湯で顔と両手を清め、真新しい背子と裳に着替える。満瀬は慣れた手つきで私の化粧を直すと、外に控えていた阿俱流を呼んだ。
「二の皇女様がお帰りです」
 私の首元に視線を留めた阿俱流は、眉をひそめた。
「……一の皇女様は?」
「後のことはわたくしに任せておきなさい。手筈どおり(・・・・・)二の皇女様を頼みましたよ」
 満瀬は有無を言わさぬ口調で弟に命じた。阿俱流は眉間の皺を濃くしながらも、黙して私の手を取った。
 ふわふわと覚束ない足取りで阿俱流の後ろをついていく。来た道を戻りながら、停止していた思考が徐々に回りはじめる。
 ――明星に負わせてしまった傷は、大丈夫だろうか。
 真っ先に思い浮かんだのは、白い手の甲に浮かんだ赤色だった。
 脚が止まった。
「皇女様?」
 阿倶流が怪訝そうに振り返る。
 いつの間にか宮を出てすぐのところまで戻ってきていた。後方を仰げば、壮麗な殿舎の屋根が変わらず秋陽に照り映えていた。
「いかがされました?」
「明星が、怪我を」
 絞め上げられた首がじくじくと痛い。息苦しさと明星の両手に爪を立てた感触がよみがえり、全身に震えが走った。
 うまく呼吸ができない。私は阿倶流の手を振り払い、両膝から崩れ落ちた。
「皇女様!?」
 阿倶流が驚いたように声を上げた。慌てて伸ばされた手に背中を支えられ、なんとか倒れこまずに済んだ。
 苦しい。苦しい。いまなお少女のほっそりとした十指が首に巻きついている気がして、私は胸を掻き毟った。
 このまま死ぬのではないかと気が狂いそうな私の耳元で、阿倶流がささやいた。
「皇女様、ゆっくり息を吐いてください。息を吸うのではなく吐きだすのです。ゆっくりと……そう」
 私の背中を撫でさすりながら、阿倶流は冷静にくり返した。かれの声かけに合わせて長く息を吐いたり、敢えて止めたりしていると、ゆるやかに胸の圧迫感が薄らいでいく。
 やがて自然な呼吸が戻ってくると、「落ち着かれましたか」と尋ねられた。
 恐怖と息苦しさから溢れた涙がすっかり頬を濡らしていた。返事が形にならず、私はなんとか頷いた。
 私の肩を抱き、顔を覗きこんでいた阿倶流は目元を和らげた。
「それはよろしゅうございました。……立って、歩けそうですか?」
 にたび頷き、浅縹の腕に掴まってよろよろと立ち上がる。
 阿倶流は何かに迷うような表情を浮かべながら口を開いた。
「少し……休んでまいりましょう。近くに、皇子様が一の皇女様とお会いになられる際に使われる小さな宮がございます」
 阿倶流に導かれるまま、もつれそうな脚を必死に動かした。
 明星の宮からそれほど離れていない場所に建っていたのは、こぢんまりとした殿舎だった。日頃は閉め切られているせいなのか、やはり人気はない。
 阿倶流の助けを借りて階を上がり、簾をくぐる。仲の良い異母姉弟の逢瀬の場にふさわしく、室内は小綺麗に整えられていた。
 几帳の前に小柄な人影がちょこんと座りこんでいた。
 七つか八つという齢の女の子だ。色白の、人形のように愛らしく品のよい面立ちには不思議と見覚えがあった。
 肩の下で切り揃えた涅色の髪を色糸を使って両脇で結い、萩色の短袍と白地に秋草模様が入った裳を纏っている。身形から察するに、女性皇族の侍女見習いとして働く女孺(めのわらわ)だろうか。
 手持ち無沙汰に短袍の袂をいじっていた女の子が顔を上げる。くりくりとした萌黄色の瞳が瞬き、阿倶流と私を認めるとまろい頬にパッとももの花が咲いた。
「姉上!」
 とっさに「え」と声が洩れた。
 勢いよく飛び上がった女の子は、小動物を思わせる動きで駆け寄ってきた。
「はじめまして、杣の宮の姉上。ずっとお会いできる日を楽しみにしていました!」
「まさか……神隼親王ですか?」
「はいっ」
 女の子――女孺に扮した異母弟は元気に頷いた。
「阿倶流殿、いったいどういうこと!?」
 動揺しながら問い詰めると、阿倶流はいささか気まずそうに目を伏せた。
「皇子様のたってのご希望でお連れしました」
「お、お連れしたって……いまは神事の真っ最中よ? どうやって気づかれずにここまで……」
「……人形(ひとがた)で皇子様の写し身をこしらえ、神事のあいだであればそれを皇子様だと周囲が認識するよう、まじないを施しました。念のため、皇子様には女孺の姿になっていただいてからこちらへ」
 私は呆然と尋ねた。「あなた……呪師だったの?」
「私ではありません。姉に呪術の心得があるのです」
 阿倶流の答えは端的だった。かれは私の肩を押して座らせると、立ち尽くしたままの神隼に声をかけた。
「皇子様。姉宮様は少々体調が優れないご様子。あまり大きなお声は出さず、座ってお話しになっていただけますか」
 この少年も、これほどやさしげな口調で話せるのかと思った。神隼は途方に暮れた顔で阿倶流と私を見比べたあと、素直に腰を下ろした。
「あの……夕星姉上。阿倶流と満瀬を怒らないでください。ぼくがお願いして、ふたりに協力してもらったのです」
 神隼は胸元でぎゅっと両手を握りしめ、両の眉を垂れ下げて訴えてくる。私は苦い唾を飲み下した。
 私の表情から批難を感じ取ったのか、異母弟はくちびるを噛んでうなだれた。強張った小さな肩が痛ましい。
 まるで私が悪役ではないか。さっきから沈黙している阿倶流を睨みつけると、なんとも言いがたい表情が返ってきた。
 ……私にどうしろと!?
「神隼親王。お顔を上げてください」
「はっ、はい」
 びくりと震えた神隼は、神妙に私の顔を見つめている。頼りなく揺れながら逸れることのない視線に、出会ったばかりのころの明星を思いだした。
 嗚呼――この子も躊躇なく私の目を見るのか。
「本来、私たちはこうしてお会いすべきではなかった」
「それは……」
「私は鵺の眼を持つ呪い子。それゆえ杣の宮に隠された身なのです。皇太子たる親王にお目通りするなどもってのほか。立場ある者が軽率なふるまいをすれば、罰せられるのはおそばに仕える宮人たちです」
 引き結んだ口の下に皺を寄せ、神隼は頷いた。
 明星が言っていたとおり聡明な子なのだろう。澄んだ瞳は賢しげで、どうかそのまま成長してほしいと思った。
 私は小さな手をそっと取った。戸惑いを浮かべて瞬く面を覗きこみ、ほろ苦い気持ちで笑いかける。
「でも、ひと目でも私の弟宮のお姿を見ることができて嬉しいです」
 神隼の表情がみるみる明るくなる。両手で私の手を握りしめ、「ぼくもっ」と口を開いた。
「夕星姉上にお会いできて、とても嬉しいです。明星姉上からお話を聞くたびに、どんな方なのかなってずっと考えていて――」
 片割れの名前に頬が強張る。些細な変化を見逃さなかった神隼は、「あ……」と声を震わせた。
 開きかけた花が萎むように、幼い皇子の表情が翳った。
「明星姉上は……お元気でしたか?」
 やわらかな少女の指の感触がまとわりつく首元が疼いた。私は意味もなく口を開閉させ、苦い飴のような言葉を押しだした。
「悲しんで……傷ついていたわ。でも、私は……明星を助けてあげられなかった」
 神隼の手に力が入った。異母弟は頭を振るい、泣きそうな声で言った。
「ぼくが、姉上たちをお守りしたいのに。でも、できないのです。ぼくは……ぼくは……皇の血筋と希賀氏の権勢を守るためだけの傀儡だから」
 私は絶句した。十歳にもならない童が口にするにはあまりにも惨い事実だった。
「昔から父上の関心はぼくにありません。父上にとって、ぼくはご自分の控え(・・)でしかないのです。母上も希賀のおじいさまも、ぼくを次の大皇にすることで頭がいっぱいだ」
「神隼……」
「でも、明星姉上はやさしかった。母上がひどいことをしても、ぼくといっしょに遊んでくれました。お歌や筝を聞かせてくれたり、和多の氏長から聞いたという外つ国のお話をしてくださったり……勉学で博士たちに褒められたと言ったら、『神隼はがんばり屋さんね』と笑って頭を撫でてくれるのです」
 萌黄色の瞳からぽろりと涙がこぼれ落ちる。私が手を伸ばすよりも早く、神隼は衣の袖で目元を拭った。
 だれも知らないところでひとり、悲しみを呑みこむことに慣れた仕草だった。
「ぼくは明星姉上が大好きです。明星姉上のために何かしてさしあげたかった。……夕星姉上に会えれば、またお元気になってくださるかもしれないと思いました」
「私、は」
 あの子が牢獄と呼んだ場所に置き去りにしてきた。ともに死のうと伸ばされた手を振り払って逃げてきた。
「明星といっしょに、生きられない」
 ――あなたといっしょに生きたかった。
 ふたりで迎える朝を願い続けた。その気持ちは嘘ではない。
「私たちも同じよ、神隼。明星は大皇の空しさを埋めるための、私は悲しみを紛らわせるための傀儡に過ぎない。これからは、そばにいてあげることさえ」
「……どこでなら、姉上たちはいっしょにいられますか?」
 神隼の言葉に思考が途切れる。
 瞬き、私はまじまじと異母弟を見た。明るい虹彩をほのかに光らせ、神隼は続けた。
宮中(ここ)ではないどこかなら、姉上たちはいっしょにいても咎められないのですか」
 潮騒のようによみがえる、声が聞こえた。
 海が見たいとささやく、片割れの声が。
「和多の郷」
 自分の口からまろびでた答えに、私は肩を震わせた。
 神隼がハッと息を吸いこむ。「和多の氏長なら姉上たちを守ってくれますか?」
 眩暈がした。大皇のおぞましい企みを祖父が知れば、今度こそ反旗を翻しかねない。
 七洲の海を掌握した和多水軍の一斉蜂起――国を引き裂く内乱の幕開けだ。
「だめよ。それは……」
「でも、このまま明星姉上が……姉上たちが苦しむ姿を見たくありません!」
 神隼は激しく首を横に振った。
 縋るようにも、訴えるようにも思える強さで握りられた手に、心が揺れる。
「姉上」
 半分しか血のつながらない、はじめて会った私の弟。懸命に見上げてくる瞳に、こみ上げる衝動のまま抱きしめた。
「ゆ、夕星姉上?」
 神隼が戸惑いの滲んだ声で呼ぶ。こんなにも小さな背中で、危険を顧みず異母姉を助けようとしていたのか。
 ――どうして私たち姉弟が苦しまねばならないのだ。
 大皇の思惑どおりに運べば、明星は父親の子を孕まされ、神隼は異母妹であり姪である娘を妃に迎えるのだ。
 青年になったかれは、どんな気持ちでその娘を妻と呼ぶのか。生まれてくる子を待ち受けるものは、汚れた不幸と絶望だ。
 ふつりと何かが切れた。
 幼き日の感傷を引きちぎって、憎悪が脳裏を真っ黒に染めた。ただただ大皇を殺してやりたいと思った。
「もうこりごりだわ」
 そっと抱擁を解き、神隼の頬を両手で包みこむ。
 不思議そうな顔をする異母弟に向けた笑みは、おそらく酷薄だった。
「ありがとう、神隼。おかげで目が覚めたわ」
「え……?」
「あきらめる前に、戦うべきだったのよ」
 明星。私の片割れ、私の愛子。
 あなたと生きる、明日が欲しい。
 たとえ別れの運命(さだめ)を覆せなくても。希望に輝く暁天へ笑ってあなたを送りだせる、幸福な未来が欲しい。
 血塗れた糸を手繰り寄せる、罪を犯したとしても。
「あなたの力を貸してくれる?」
 ささやいて問いかければ、神隼の喉がコクリと鳴った。
 互いの瞳に危うい炎を探し求める私たちの傍らで、阿倶流は無言で佇んでいた。
 来るべきものを待つように、静かな憂いを帯びた顔で。

六 火群の宴〈下・1〉

 私の話を聞き終えた水沙比古は、これ以上ないという渋面だった。
「……二の媛は本気で言っているのか?」
「本気よ」
 きっぱりと即答すれば、イライラした様子で束ねた髪に指を突っこんでいる。白と薄緑で紋様を描いた髪紐をいじりながら低く唸った。
「一の媛を拐かして和多の郷へ逃げこもうとは、大胆なことを考える」
「あら。いざとなったらお祖父様を頼れと、あなたがけしかけたのよ?」
「それはそうだが……」
 水沙比古は視線をうろつかせたあと、ため息を洩らした。
「二の媛を郷に連れていくつもりはあったが、一の媛を勘定に入れていなかった」
 私は苦い笑みを返した。
「私こそ、明星を宮中から攫おうだなんて考えてもいなかったわ。正直、私自身が杣の宮から出ていくことをあきらめていたもの」
 水沙比古の眉がぴくりと震える。途端に刺々しくなった銀碧の双眸に首を縮こめた。
「怒らないでちょうだい」
「怒ってなどいない」
 不機嫌になった水沙比古は怖い。
 私たちがいるのは後宮の外縁部に位置する殿舎の一室だった。物置として利用されているのか、古びた調度などが並んで埃を被っている。人目を避けて密談をするにはもってこいの場所だ。
 神隼との面会後、私は急いで後宮の外で待機していた水沙比古と合流した。これから行おうとしている企みには、和多氏の協力が欠かせないからだ。
 新嘗祭が終わるまでに明星を連れて宮城の外へ脱出する――私と神隼が出した結論である。
「二の媛が和多の郷へ行くことは賛成だ。一の媛のことも、親父どのなら喜んで受け容れるだろう。だが……皇太子もとなると、話は違ってくる」
 水沙比古が頭を振ると、括った髪が疲れきった老犬の尾のように揺れた。
「大皇だけではない。皇太子の後ろ盾である希賀氏も敵に回すことになる。親父どのは大皇のことは心底いけ好かないと嫌っているが、ほかの氏族と事を構えようとは考えていない」
「私と明星だけで逃げるなんてもってのほかよ。逃亡の幇助が露見すれば、神隼の命が危ういわ」
 詰め寄って訴えると、水沙比古は片眉を持ち上げた。
「皇太子で、唯一の皇子だぞ?」
「皇太子で、唯一の皇子であろうとも、よ」
 満瀬や明星は、大皇を赫日の王と呼んだ。何もかも焼き尽くす、燃え盛る日輪のごとき男だと。
 神隼は大皇の影だ。苛烈な光の下では、あえかな影など存在することを許されない。
「大皇にとって、神隼は単なる控えでしかないの。自分の意に反する行動を取れば容赦なく粛清するわ。継母上や希賀氏もろともね」
「……皇太子を殺したところで、妃を新たに迎えて別の子を儲ければよいということか」
「ええ。皇子を遺せなかった白珠媛が亡くなって、代わりに継母上が妃となったときのように」
 口腔に溜まった唾を嚥下すると苦味が広がった。
 大皇の心の中に住んでいるのは白珠媛ただひとり。いまとなっては、母に向けられた感情が愛と呼べるのかどうかすらわからない。
 明星に苦しみを、神隼に悲しみを、私に憎しみしか教えなかったあの男が、私たちの父親であった瞬間などありはしなかったのだから。
「だから神隼も連れていく」
「希賀氏はどうするんだ」
「神隼の名で、希賀氏を含めた諸侯に対して大皇の所行を告発するわ。私欲のためならば皇統を汚し、七洲に災いを呼びこむことも厭わない、廃すべき暗君だと」
 水沙比古は両目を瞠った。
「希賀氏や豪族たちを丸めこんで、正面から大皇を引きずり落とすのか?」
「そうよ。父上(・・)には乱心したという体で皇位を退いていただくわ。即位した神隼の後見は、豪族間の均衡を配慮して複数の氏族から選んだほうがいいわね」
「どうやって豪族たちを……なるほど。親父どのの威光を借りるつもりだな」
 私は頷いた。皇と対等な勢力を誇る和多氏が味方についてくれれば、諸侯は屈服せざるを得ない。
 大皇の専横が続けば、堪気に触れて理不尽に殺される者が必ず現れる。犠牲はひとりやふたりではとどまらず、いくつもの郷が焼き払われ、氏族ごと滅ぼされるだろう。
 ……北夷の民のように。
 かつて母を妃に迎える際、大皇の周辺で起こったいくつかの血腥い出来事はだれもが憶えているはずだ。目覚めさせてはならない、狂わせてはならない赫日の王の片鱗を、人びとはおそれおののきながら見なかったふりをしている。
 母の死と引き替えに私が生まれた日、軛はとっくに外れてしまっていたのに。
「二の媛の考えはわかった」
 水沙比古は腕を組み、眉根を寄せて私を見据えた。
「だが、無事に逃げおおせたとしても間違いなく血が流れるぞ。大皇の掌中から一の媛も皇太子も奪い取っていくんだ。争乱にならないはずがない」
 厳しい口調に胸が軋んだ。
 水沙比古と出会ったときに浮かんだヴィジョンがよみがえる。
 血にぬめる褐色の手。私の手を掴み、もう片方の手には炎の揺らめきを照り返す刃を握っている。
「約束した。二の媛が嫌がるなら、だれかを傷つけたり、殺したりするような真似はしないと。だが、二の媛が望むなら――そうしなければあんたを守れないのだとしたら、ためらわない」
 おれは、と、水沙比古は断言した。
「二の媛はそれでいいのか」
「……私は夕星よ。破滅を告げる凶星なの。生まれたときから、大皇にとって(・・・・・・)
 なんて痛烈な皮肉だろう。思わず自嘲が滲んだ。
 夕星(わたし)は大皇を滅びへと導く嚆矢となるべく黄昏の(そら)からこぼれ落ちたのかもしれない。もしもこの両目で呪い殺せるのなら、いますぐあの男の前に立ち塞がってやるのに。
 この先悔いが残るとすれば、水沙比古に手を汚させる選択を取らせたことに対してだ。
「ごめんなさい。巻き添えにしてしまって」
 水沙比古は不服そうに顔をしかめると、大きな手をこちらに伸ばしてきた。
 褐色の指先が頬を掠めて喉元に触れる。縊り殺されかけた痕跡をなぞられ、ばつが悪くなって俯いた。
「おれは一の媛なんてどうでもいい。正直、張り飛ばしてやりたいぐらいだ」
「……あなたに張り飛ばされたら、明星が死んでしまうわ」
「殺したりしない。傷つけもしない。二の媛が守りたいと望むから、おれもそのようにするだけだ」
 ただそれだけの相手だと、水沙比古はきっぱりと言い放った。
「おれにとって大事なのは二の媛だ。何があってもあんたを優先する。それだけは譲らない」
 たまらなくなって少年の手を取った。
 ごつごつとした手を両のてのひらで包みこむと、水沙比古はこそばゆそうに睫毛を震わせた。
 躊躇するような間を置いて、もう一方の手が私の両手の上に重なる。
「二の媛は、もう少し自分を大事にしたほうがいい」
「私は自分のことばかりよ。いっしょに死んでくれと縋りつく明星の手を振り払ったわ」
「当たり前だ」
 水沙比古の声は怒りに掠れていた。「生きたいと思うのは、当たり前だ」
 生きて、かれの前にいることが嬉しくて、悲しかった。
 確かに私と片割れはふたりでひとつだったはずなのに、それでは満足できなくなってしまった。
 ――明星は、きっと私を許さない。
「私、海が見たいわ」
 失敗したような笑顔で打ち明けると、水沙比古はきょとんと瞬いた。
「前世で、家族と海に行ったの。『私』の世界では海水浴といって、夏になると海で泳いだり浜辺で花火をしたり……ああ、こちらに花火はないわよね。なんて説明したらいいのかしら」
「都の貴人が磯や浜で遊興するようなものか?」
「そうね、それに近いかも。子どものころは泊まりがけで海辺の町に連れていってもらったわ。夏の陽射しに照らされた銀色の海をいまも憶えている」
 銀碧の双眸を覗きこむと、戸板の隙間から射しこむ光に透過して仄白く輝いていた。遠く懐かしい、あの世界の海を閉じこめて。
「水沙比古から和多の郷の話を聞くたび、見てみたいと思いが募ったわ。夕星(わたし)が生まれた世界の、七洲の海を」
 焦がれ続けた海を明星と見ることは、おそらく叶わない。
 自由になった片割れの手は私とつながってはいないだろうから。
 水沙比古の手に力がこもった。
「見られるさ。おれが見せるよ、二の媛に。これがあんたの故郷(くに)の海だと」
 真白い歯を覗かせて水沙比古が破顔する。打ち寄せる潮風の香りに包みこまれ、眼窩の奥が熱くなった。
「水沙比古」
 声が情けなく震えそうだ。水沙比古の手を握り返すと、長い指がかすかに跳ねた。
「お願い――私を離さないで」
 水沙比古が吐息を洩らした。
 握りしめた手ごと引き寄せられ、鼻先が甲の肩部に当たった。頬をくすぐる癖毛から汗と日向の匂いがする。
 舟乗りらしい堅い手がゆっくりと背中を撫でさする。
 喉の奥から嗚咽をえずくと、水沙比古が覆い被さってきた。まるで自分の体で隠そうとするかのように。
「うん。ここにいるよ」
 穏やかな波音を思わせる声に甘えて瞼を閉じる。
 片割れではないひとの腕の中、たったひとりでこの世に生まれ落ちたような孤独を噛みしめた。

六 火群の宴〈下・2〉

 足元の影が長く伸びている。立ち並ぶ殿舎の狭間から見上げると、太陽は中天を過ぎようとしていた。
 私は再び後宮に足を踏み入れていた。未だ神事の最中であり、あいかわらず人気がない。殿舎の陰にじっと身を潜めていても、だれかに怪しまれる危険性は少ない。
 それでも、私の心臓は胸を突き破らんばかりに早鐘を打っていた。息を殺して足元ばかり見つめているせいで、瞬くたび影の形が瞼の裏にちらついた。
 けして長くはない永遠のような待ち時間が過ぎて、視界を浅縹の袖がひらりとよぎった。
「二の皇女様」
 顔を上げると、待ち人である阿倶流が眼前に立っていた。藍方石の隻眼が注意深く私を捉える。
 阿倶流はいちど口を開きかけ、きゅっと引き結んだ。「……よろしいのですね?」
 私は頷いた。
「水沙比古殿にはお会いできましたか」
「ええ。すべて話したわ。和多氏の協力を取りつけてくれるそうよ。阿倶流殿に指定された合流地点で待機しているわ」
「然様ですか。……では、参りましょう」
 阿倶流は表情固く促した。朝と同じようにかれの後ろに続いて後宮の最奥へ向かう。
 目的地は明星の宮だ。
「神隼は?」
「先に宮へ向かわれ、私の姉とともに二の皇女様のご到着をお待ちになっています」
 これから阿倶流と満瀬の手引きで明星の宮に入り、神隼とともに片割れの説得を試みる算段になっていた。
 日の出とともにはじまった神事は一昼夜続く。つまり、タイムリミットは明日の朝陽が昇るまで。なんとしても明星を納得させ、宮城から脱出しなければならない。
 肝心の脱出ルートだが、驚くことに提案したのは神隼だった。
 ――新嘗祭の献上品は国じゅうから集まります。遠方の豪族からの献上品は運ぶのに時間がかかりますから、前日ぎりぎりに到着することも珍しくありません。
 ――遠路はるばる荷物を運んできた使者たちは、せめてひと晩休息を取ってから帰途につくでしょう。つまり、祭のあいだに宮城の正門から堂々と出ていく者がいる。かれらに紛れこんでしまえばよいのです。
 ――満瀬は呪術の心得があると聞いています。現に、側仕えの者たちの目を欺いてぼくを夕星姉上と引き合わせてくれました。満瀬の力を借りれば、外へ出ることは難しくないと思います。
 ――神事が終わるまで、宮中の警備は父上たちのいる祭殿に集中する。見方を変えれば、出ていく者(・・・・・)に対しては手薄になるということです。
 利発な少年だとは聞いていたが、思わず舌を巻いた。私よりよっぽど頭が回る。
 明星を説得したら、彼女や神隼、風牧の双子といっしょに後宮を出て水沙比古と合流する。満瀬の呪術でめくらましを施し、宮城から去る使者たちに紛れこんで正門から脱出。あとは水沙比古の案内で、最も近い和多の湊へ駆けこむだけだ。
 本当にうまく事が運ぶだろうか。何度も不安が浮かんでは消え、夏の盛りでもないのにじっとりとてのひらに汗が滲む。
 前を行く阿倶流の背中に迷いや躊躇は見当たらない。私はもたつく口を開いた。
「あの、阿倶流殿。いまさらだけれど……あなたと満瀬殿は本当によかったの?」
 阿倶流は脚を止めないまま視線を投げて寄越した。
「あなたたちは北征将軍の養い子なのでしょう? 私たちに協力することは大皇の寵臣である将軍や、風牧の氏族に対する背信になってしまうのではない?」
「――……姉も私も、己を風牧の者だと思ったことはございません」
 打ち明ける声は驚くほど凪いでいた。
「私たちは北夷の――火守の郷で生まれました。炉の女神の祝福を授かり、火守の民の名を与えられて。火守の子は物心つく前から馬に慣れ親しんで育ちます。馬の背に乗って金色の草原を駆ける、あの風の匂いを忘れたことはありません」
 藍方石の瞳が細く線を引く。その笑みは嘲るようにも見えた。
「風牧の氏族は、武力による融和政策によって火守の民を取りこんできたのです。土地を奪い、文化を搾取し、わが物顔で騎馬兵団を作り上げました。火守の民の混血は急速に進み、純粋な血統はごくわずかしか残っていません」
 私たちのように――不意に陽が翳ったかのごとく寒気を覚えた。
「ですから、風牧の名に未練はありません。もとより、いまの私は皇子様に仕える身。主人の助けとなることこそ従者の務めでございましょう」
「満瀬殿も同じだと?」
 阿倶流は一瞬口をつぐんだ。わずかに目を伏せて「はい」と首肯する。
「一の皇女様のお望みは、姉にとっても本望に違いありません。あの方が願われれば……姉は叶えてさしあげるでしょう」
 そう言うと前に向き直ってしまった。更に追及することは憚られ、私は黙って少年を追いかけた。
 やがて最奥の区画に至り、明星の宮が見えてきた。
「夕星姉上!」
 殿舎の縁では、満瀬に付き添われた神隼が待っていた。階上から意気込んで抱きついてくる。
「和多の者とのお話はいかがでしたか?」
「お祖父様にお願いして、氏族の協力を得られるよう取り計らってくれるそうよ」
「よかった! あとは明星姉上とお話しするだけですね」
 安心したように笑った神隼は、不意に黙りこんで私の袖にしがみついた。
 萌黄色の瞳が頼りなく揺らいでいる。異母弟は俯きがちに呟いた。
「姉上は、ぼくたちといっしょに来てくれるでしょうか……?」
「……いやだと言われたら、ひっぱたいてでも引きずっていくわ」
 神隼の口がぽかんと開いた。満瀬が意外そうに片眉を持ち上げている。
 小さな肩を抱き寄せ、顔を覗きこんで言い聞かせる。
「明星もあなたも、大皇の傲慢の犠牲になる必要なんてないの。大皇がなんと考えていようと、あなたは正統な皇太子――次の大皇になる皇子よ。だから堂々と胸を張って、大皇の間違いを正しなさい。何があっても、私が……姉様があなたを守るから」
 涅色の頭がこくんと縦に揺れた。
「それでは……皇子様、二の皇女様。一の皇女様の許までご案内いたします」
 満瀬がほほ笑んで促す。階下に控えた阿倶流が無言で頭を下げた。
 私は神隼と手をつないで満瀬の後に続いた。
 昼下がりの陽が射しこむ宮は温い水底のように静かだった。明星の宮に直接足を運ぶ機会が少ない神隼は、落ち着きなく周囲をきょろきょろと見回している。
 三人ぶんの衣擦れと足音が透廊に反響する。奥へと進みながら、私はちりちりと首筋の産毛が焦げつくような感覚に襲われた。
 満瀬の背中を追いかける視点がぶれる。同じ光景を別のだれかが見ている――いや、見ていた(・・・・)のだ。
 私よりも目線が高く、荒々しい足取りのせいで視界が揺れている。
 満瀬が振り返り、たしなめるような笑顔で何事かを告げる。視点の主は立ち止まり、愉快そうに肩を震わせると一転して悠々と歩きだした――
「姉上?」
 神隼の不思議そうな声にヴィジョンが掻き消えた。
 ハッと息を呑むと、いつの間にか明星がいる殿舎に着いていた。
「だいじょうぶですか? お顔が真っ白です」
 眉を曇らせた神隼が袖を引っ張る。私はなんでもないと答えようとして、脳裏に閃いた緋色に脚を止めた。
 満瀬がゆるりと振り向いた。
 藍方石の双眸をたゆませ、少女は――少女であるはずの人物は妖しく笑っていた。
「いかがされました、二の皇女様。さ、どうぞおいでませ」
 ――私たちは袋の鼠だと悟った。
 逃げ場がない。単なる陰視に過ぎない私が神隼を抱えて呪術使いの満瀬や、力のある男性の阿倶流から逃れることは不可能だ。
 とっさに神隼を抱き寄せた。異母弟はきょとんと私と満瀬を見比べている。
「満瀬殿……教えてちょうだい。大皇は……父上は、いまどこにいらっしゃるの?」
「父上?」
 私たち姉弟の視線を軽々と受け流し、満瀬は口元を領巾で隠した。
「おや、殿舎の記憶を読み取られるとは。さすがは伊玖那見の神女のお血筋であらせられる」
「どうしてそれを――」
「金の瞳は(はは)なる闇の女神の賜物。南の果ての島々は、かの女神が最後にお産みになった大地……死せる女神に最も近く、ゆえに南の地の巫女はその声を聞くことができる」
 常夜大君――七洲の伝承では国産みのふた柱の片割れ、闇水生都比売(くらみふつひめ)とされる。
 夫・耀火大神(かがよいのおおかみ)とともに北の氷波弖列島から南の島嶼群まで数多の陸地を創ったが、太陽と月の兄妹神を産んだ際に大火傷を負って地底深くお隠れになられた。
 妻の死を嘆き悲しんだ耀火大神は地上を捨て去り、太陽と月の兄妹神への罰として世界を昼と夜に分けてかれらを引き裂いた――これが七洲の創世神話だ。
「けれども、あなたの金眼は視えるだけ。大皇は異国の巫女の血統を疎んじ、あなたをただただ飼い殺すことにした。まったく惜しいことをしたものだ。相応の修行を積めば、優れた巫女になれただろうに」
 クツクツと喉を鳴らす満瀬は、もはや少女に見えなかった。阿倶流と同じ背丈、同じ声、同じ容貌(かお)をした……少年だ。
「満瀬……?」
 不安に声を震わせる神隼に、異人の少年はにっこりと笑った。
「皇女様のお力に敬意を表して、真の名を教えてあげよう。俺は奼祁流――火守の男巫(おとこみこ)にして、皇の国を焼く北夷の梟師(たける)だ」
 たける。どこかで耳にした名前。ほかでもない、私を殺そうとした明星が口走った。
 そんな、と、私は悲鳴にもならない呻きを洩らした。
 私たちは謀られたのだ――蛮族の双子と、血を分けた姉妹に。
 奼祁流が優雅に領巾を振るった。一瞬で私の腕は空を掻き、かれの袖の内側に神隼が現れる。
「神隼!」
「姉上……っ」
「おっと、おとなしくしておくれよ。俺の言うとおりに従ってくれれば、皇子の命までは取らずにいてあげるから」
 神隼の頭をやさしく撫でながら奼祁流が微笑する。顔を蒼白にする異母弟を見つめることしかできずにいると、「いっしょに来てもらおうか」と指先で命じられた。
「俺の媛が首を長くしてお待ちだよ」
 奼祁流が神隼を引きずって歩きだす。神隼がか細い悲鳴を上げる。
 ガンガンと頭が痛い。吐き気が喉をこじ開ける。私はもつれる脚で奼祁流を追った。
 ――だめだ。この先に行ってはいけない。神隼に見せてはいけない……!
「お願い、やめて……止まってちょうだい!」
 私の懇願は、けらけらと笑う声に踏み潰された。
 脳裏で緋色のストロボが爆ぜる。縁の奥から漂ってくる鉄錆の臭い。
 奼祁流の腕が無造作に簾を跳ね上げた。神隼の両目が壊れそうなほど見開かれ、変声期前の甲高い叫び声が木霊する。
 ちちうえ、と。ただその言葉をくり返す神隼の視界を塞ぐために前へ飛びだした。
 ひと際強く血臭が鼻を衝く。
 部屋の中には点々と赤い花びらが散っていた。いいや、これはぬめる血痕だ。
 奥の座に散乱する、濡れた土器(かわらけ)の破片。金臭さに混じる酒精の香り。
 赤いつばきの花に埋もれるように、血まみれの男が横たわっていた。
 赤みがかった黄褐色――黄櫨染の袍は、この国においてただひとり纏うことを許された禁色の衣だ。
 冠が外れ、乱れた頭髪の下に垣間見えた男の顔は真っ赤に染まっていた。まるで、鋭く太い針で滅多刺しにされたように。
「遅かったわね、夕星」
 男を見下ろすように佇む明星が振り返り、陶然とほほ笑んだ。生々しい返り血に彩られた、しららかな面。
 薄い単衣を纏っただけの手は、珊瑚の花飾りが欠けた笄を握りしめていた。
 笄の金属部分は血に濡れて、切っ先から雫を滴らせている。
「あなたの教えどおり、不埒な男を退けるのに笄が役に立ったわ。酒に痺れ薬を混ぜて動けなくなったところを思いきり突いてやったの」
「明、星……」
「ふふっ、いい気味。助けてくれ、許してくれと命乞いするお父様をいたぶるのは、とても爽快だったわ!」
 明星ははしゃいだように両手を叩いた。血の色を吸って赤く沈んだ紫眼を細め、うっそりとささやく。
 さながら、燃える愛を告げるかのように。
「あなたがいっしょに死んでくれないから、お父様を殺しちゃった」

六 火群の宴〈下・3〉

 背後で神隼がすすり泣いている。
 私はいまにも崩れ落ちそうな両脚でぐっと踏ん張った。床に膝をつけば、幼い異母弟の目に惨たらしい父親の死体を再び晒すことになる。
 軋むほど噛みしめた奥歯が痛い。凄まじい虚脱感のあとに湧いてきたのは怒りだった。
 明星を睨みつけると、叩きつけた感情が火花になって散った。短い悲鳴を上げる。
「夕星……!?」
「明星――あなたは――あなたというひとは、なんて愚かなことを!」
 明星が両目を瞠る。血まみれの面が心外だと言わんばかりに歪んだ。
「愚かですって?」
「ええ、そうよ。なぜ大皇を殺したの。よりにもよって、あなたの手で!」
 大皇の所業を豪族たちに向けて糾弾し、皇位から引きずり下ろした上で裁きを与えるのとは訳が違う。未だ至尊の玉座に就く男を、皇太子でもないただの(・・・)皇女が弑したのだ。
「許されるはずがないわ、こんなこと。皇籍を剥奪され、即刻死罪となる。それどころか、姻戚である和多の氏族も連座して根絶やしにされかねないのよ!?」
「ああ……そうね。あなたの大事な従者にも類が及ぶかもしれないわね」
 明星は気怠げに髪を掻き上げると、冷ややかにほほ笑んだ。
「でも、わたくしには関わりのないことよ。和多の氏族が、お祖父様がどうなろうと……いいえ。むしろ滅んでくれたほうがせいせいするわ」
「なっ……」
「だって、お祖父様はわたくしに手を差しのべてはくださらなかった。守ろうともしてくださらなかった!」
 紫色の双眸が一瞬で燃え上がった。
 虚を衝かれた隙に距離を詰められ、ぬらぬらと血に濡れた手で胸倉を掴まれる。
「いつも、いつもいつもいつも! わたくしの欲しいものはぜんぶあなたに与えられる! 自由も、味方も、特別な力も!」
「特別……?」
「奼祁流が教えてくれたわ。わたくしたちのお祖母様――白珠媛を産んだ伊玖那見の神女。あなたの『鵺の眼』は、お祖父様が愛し、お母様が待ち望んだ神女の瞳だと」
 明星の視線が右手首に注がれる。私はとっさに翡翠の手環を袖で隠した。
 おおよそ思いもつかない仕草で、明星は嘲笑するように声を立てた。
「ねえ夕星。お祖父様はね、あなたを手元に引き取りたいと、ずっとお父様に訴えていたのよ」
「なんですって?」
「宮中で呪い子と忌まれるのであれば、皇女の地位を返上させ、皇といっさい関わりのない氏族の娘として育てるとおっしゃって。お父様は、お祖父様への嫌がらせで嘆願を握り潰していたけれどね」
 私は呆然と呟いた。「そんなの……知らないわ」
「それはそうよ。だって教えなかったもの」
 くすくすと笑いながら、明星は私の頬を撫でた。
 べったりと血がこびりつく感触に怖気が走る。
「知らなければ、わたくしと同じ絶望の底にずっといてくれるでしょう?」
 まるで甘い蜜のような憎悪が耳の穴から流しこまれる。明星の指先が頤から首筋へとたどっていく。
 男であれば喉仏がある部分に親指の腹がかかった。ぐぐっと圧迫され、たまらず払いのける。
 明星はあっさりと手を離した。
「どうして、明星。私は……今度こそあなたを助けたかったのに」
「そう。でも、もういいの(・・・・・)
 白けた表情で呟き、笄を投げ捨てた。欠けた珊瑚の花が私の足元に転がる。
「お父様ともあなたとも今日でお別れ。せいせいするわ」
「お別れ?」
「大皇殺しの皇女は明星(わたくし)ではなく夕星(あなた)よ」
 私は絶句した。
 明星は可憐な仕草で首を傾げてみせると、ほっそりとした指を口元に添えた。
「杣の宮の皇女が邪眼を使って大皇を惑わし、わたくしに罪を着せるためにこの宮におびきだして殺した――という筋書きよ。わたくしもあなたの邪眼に魅入られ、操られてしまったの」
 芝居のあらすじでも読み上げるような口ぶりだった。信じられなくて……信じたくなくて、尋ねる声は震えてしまった。
「最初から、私を陥れるつもりだったの?」
 片割れはやわらかな笑みを浮かべた。私の結い髪から笄を抜き取ると、「交換しましょう」と目を細める。
「夕星だってお父様を殺すつもりだったのでしょう? その汚れてしまった笄をあげるわ。欠けたところのない、清らかな珊瑚の花はわたくしのもの」
 満足そうに赤い花の飾りに口づけ、明星はくすくすと喉を鳴らした。
「明星姉上!」
 神隼が涙まじりに批難の声を上げる。
「どうしてですか、姉上。どうしてこんなひどいことを!?」
「嫌いだからよ。夕星も、あなたも」
 明星はぴしゃりと言い捨てた。神隼の青白い顔がくしゃくしゃと潰れていく。
「安心していいわよ、神隼。お父様亡きいま、あなたは大事な皇太子。殺さないで上手に使ってあげるわ」
「明星!」
 思わず怒鳴ると、神隼を軽々と抱えた奼祁流が明星の隣まで移動した。
「騒ぐなよ。弟宮のかわいいお顔まで傷物にしたくないだろう?」
 奼祁流はこれみよがしに神隼の顎を片手で鷲掴み、長い指で頬を撫でている。
「卑怯者っ! すぐに神隼から離れなさい!」
「事が済んだら解放してやるさ。あなたが従順でいてくれれば、な」
 紅いくちびるが嗤いながら命じる。「さあ、媛の前で跪け。大皇殺しの下手人として」
 私は爪が皮膚を食い破るほど拳を握り、片割れの前で膝をついた。
 すると、奼祁流が甲高く口笛を鳴らした。
 ハッと息を呑む。駿馬の群れとともに夢に現れた双子の男の子が吹いていた口笛の音だ。
 簾のむこうで空気が動いた。縁に控える人物が口を開く。
「お呼びか、兄者」
 淡々と響く阿倶流の声に、神隼が肩を震わせた。
「二の皇女を拘束しろ」
 奼祁流が命じると、阿倶流が簾をくぐって入ってきた。
 部屋の惨状に眉をひそめつつ、私の両手を背中に回して素早く縛り上げる。
「阿倶流殿! あなたまで……神隼も騙すなんて!」
「……世間知らずで寂しい子どもを誑かすのは簡単だったよ。少しやさしくしてやれば、ころりと異人の俺を信じこんでくれた」
 神隼の泣き声がひと際大きくなる。
 不愉快そうに顔をしかめた奼祁流は、舌打ちすると異民族の言語で短く呟いた。
 途端に神隼が意識を失って脱力した。悲鳴を上げると、「うるさいから術で眠らせただけだ」とあしらわれる。
「言っただろう、この子は大事な手駒だと」
「……あなたたちの目的は何?」
 せめてもと睨みつけながら尋ねると、奼祁流は肩を竦めた。
「あなたの耳は飾りかい? 俺は皇の国を焼く北夷の梟師だと名乗ったじゃあないか。阿倶流は俺の半身、もうひとりの(たける)。俺たち兄弟の目的は、復讐だよ」
「復讐ですって?」
「そう。俺たち火守の民の土地を奪い、同胞を殺し、血を汚した――皇と、それに従うやつらへの復讐さ」
 自ら皇にまつろわぬ夷狄の首領だと告げた少年は、蛇のような笑顔で舌舐めずりしてみせた。
「俺と弟は、風牧の将に略奪された火守の巫女姫から生まれたんだ。母は自分を汚した男を呪い殺し、皇の国を滅ぼし一族を再興させる子を炉の女神に願った」
「でも、あなたたちは風牧の氏族で養育されたと……」
「火守の再興を妨げるために一族から引き離され、風牧の者として生きるように強要された。だが、それを逆手に取って氏長の懐に潜りこんでやったのさ」
 奼祁流は大袈裟に肩を揺らした。
「風牧の伯父上は好色でな、かわいらしいおなごの形をしてすり寄ればあっさり術にかかってくれたよ。いまではすっかり俺の傀儡だ。北征将軍の権威があれば、宮中に上がるなんて造作もない」
 背筋が凍る。
 少年の台詞は、風牧の氏族――その軍事力の掌中にあると言っているに等しい。北征将軍を操って風牧の騎馬兵団に京を蹂躙させることもできるのだと。
「京を焼き払うつもりなの!?」
「最初はそのつもりだったんだが、どうせなら内側から皇を瓦解させてやろうと思いついてなァ」
 藍方石の瞳が明星を一瞥する。少年の視線を受け止めた片割れは、にっこりとほほ笑んだ。
「奼祁流はね、わたくしを苦しみから解放してくれるの。何もかもいやになって、すべてを壊したくてたまらなかったわたくしに、絶好の機会を与えてくれたのよ」
「明星――」
「利用されているなんて憐れまないでちょうだいね? わたくしもふたりを利用しているのよ。利害の一致によってお互いに利用し合っているの、わたくしたちは」
 もはや眼前にいるのは、私が知る明星ではなかった。
 私を憎み、世界を呪い、己の手で故国を燃やさんと欲する凶星の娘。滅亡(ほろび)の火矢となって七洲に降り注ぐ暁星だ。
「夕星、あなたを形代にしてわたくしは過去の自分と決別するわ。傷みも思い出もあなたの血で洗い流して、ひとりぼっちの明星として生まれ直すの」
「ずいぶんと自分勝手ね」
「夕星だって同じでしょう? わたくしもあなたも、互いの姿見であることを拒んだのだから」
 明星は眉尻を下げ、皮肉るような、どこか切ないような苦笑を滲ませた。
 とっさに手を伸ばそうとして、身動きが取れず血溜まりに転がった。むせ返るほどの臭気にえずきながら、私は彼女を見上げるしかなかった。
 ――私たちは歪んだ鏡だった。
 互いの姿に理想の自分を投影して一方的に羨み、嫉妬心を隠しながら憐れみ合う共依存。どちらかが先に鏡を叩き割ることでしか、この関係を断ち切れない。
 鏡を砕いたのは私だったのか。それとも明星だった?
 涙が溢れ、頬にこびりついた血とまじり合いながら落ちていく。
 嗚咽だけは漏らしたくなくてくちびるを噛みしめた刹那、音もなく大気が震えた。
 キィンッ! と強烈な耳鳴りが脳天を走り抜ける。思わず呻くと、奼祁流が顔を歪めながら片膝をついていた。
「兄者!?」
 阿倶流が神隼ごと半身の体を支えた。明星は驚いた様子で立ち竦んでいる。
「くそ……いったい何が……」
 どうやら異変を感じ取ったのは、陰視である私と奼祁流だけらしい。
 耳鳴りの余韻が引くと、新たな異変に気づいた。――空気が冷たい。
 心臓が跳ね上がった。全身の毛がぶわりと逆立つ。
 簾から射しこむ陽が急速に翳る。まるで黄昏時のように気温が低くなり、影が濃くなる。
 これは、杣の宮の森の気配だ。
 大気が激しくざわついている。宮城のあちこちで陰りに潜むものたちが騒ぎ立て、蝙蝠の群れのごとく舞い上がるヴィジョンが脳裏に浮かぶ。
 宮中だけではない。高い塀のむこう、四方から黒い雲が押し寄せてくる。
 あれは――あれは――陰りに潜むものたちの大群だ!
 黒い雲は瞬く間に宮城を覆い尽くし、異変に気づいた人びとが悲鳴を上げた。静まり返っていた後宮でも女性の叫び声や慌ただしい足音が聞こえてくる。
「な、何が起こったの?」
 狼狽する明星に、奼祁流が喘ぐように答えた。
「守りのまじないが……宮城の結界が壊された。外から魑魅魍魎が雪崩れこんできている」
「なんですって!?」
「ちくしょう、やられた。どこかの莫迦が内側から破壊しやがった。皇を守る結界だぞ!? いったいだれが――」
 奼祁流は動きを止め、私を見た。私たちは同じ人物を思い浮かべていた。
 宮城の結界を破壊することができる呪師など、宮中にひとりしかいない。
「まさか……婆が?」
 呆然と呟く私の耳を、けたたましい鳥の鳴き声がつんざいた。
 簾を吹き飛ばして真っ黒な鳥が侵入してきた。子どもほどの大きさもある鴉、いや猛禽にも見える。
 鳥の異形はギャアギャアと吠え立てながら火守の双子に襲いかかった。少年たちの怒号と少女の悲鳴が交錯する中、私は破れた簾の下から滑りこんできた人影に目を奪われた。
 重い甲冑を脱ぎ捨てて、身軽な麻の短袖と袴を纏った水沙比古だ。腰帯に長剣を無造作に差している。
 水沙比古は猫科の獣を思わせるしなやかさで床の上を(はし)り、私に向かって手を伸ばした。ひたすらに私を見つめる銀碧の双眸が流星のごとく光る。
 褐色の腕が私の体を掬い上げると、かれは強く床を蹴って外へ飛びだした。
「み――」
「口を開くな。舌を噛むぞ!」
 私を抱えた水沙比古は猛スピードで明星の宮を脱し、陰りに潜むものが飛び交い宮女たちが逃げ惑う後宮を駆け抜ける。驚嘆すべき脚力だが、回る視界に悲鳴も上げられず口を引き結んでいるしかできない。
 少年の肩越しに宮城の空を見た。
 青空を塗り潰す百鬼の黒、黒、黒。やがて至るところで火の手が上がり、炎の赤が滲みだす。
 ……それはまるで、陰りに潜むものたちの宴を照らすかがり火のようだった。

七 冥闇の舟出〈1〉

 宮城は地獄絵図と化していた。
 陰りに潜むものの集合体が上空で渦巻き、乾溜液(タール)のような黒い雨となって降り注ぐ。
 地表に落ちた闇は、鳥にも獣にも魚にも蟲にも見える異形となって牙を剥き、逃げ遅れた宮人の断末魔と血肉をすする音を響かせた。
 連なる屋根瓦の上、いくつもの黒煙と赤銅色の炎が揺らめいている。煤と火の粉を巻き上げ、風が木材の焼ける臭いを運んできた。
 杣の宮にたどり着くまで、私は水沙比古の腕の中で震えていることしかできなかった。
「媛様、よくご無事で!」
 水沙比古に抱えられたまま宮の中へ飛びこむと、いつもと様子が違う真赫が待ちかまえていた。
 見慣れた下級宮女の装束ではなく、水沙比古と同じ麻織りの短袖と袴を纏い、更に鞣し革の胸甲を装着している。赤銅色の髪を後れ毛残さず結い上げ、腰には水沙比古のものより短い剣を帯びた姿は、さながら名うての軍人(いくさびと)のよう。
「ま、真赫? その格好は……」
「詳しい話はあとにしてください。とにかく時間が惜しいんです!」
 真赫に急き立てられて汚れを落とし、麻織りの短袖と袴に着替える。生乾きの髪はうなじで束ね、輪を作って括った。
 外の騒ぎとは裏腹に、森は不気味なほど静かだった。葉擦れひとつ聞こえない。
 ――陰りに潜むものの気配が消えている。
「おお、媛様。ようお戻りになられましたな」
 異変に戸惑っていると、黒金と白穂を伴って婆が現れた。
 男たちもまた、麻の衣と鞣し革の胸甲を身に着けていた。黒金は長槍を携え、白穂は矢筒を背負い弓を手にしている。
 私は婆の出で立ちに言葉を失った。
 染めていない真っ白な袍と裳。霜が降りた髪は丁寧に梳られ、眦にはまじないの紅を差している。
 ――七洲において、白は喪の色だ。
「婆……」
 立ち尽くす私の前までやってくると、婆はしわくちゃの顔を更に皺だらけにして笑った。
 年老いて節々が固くなった両手が私のそれを握る。慈しみに溢れた仕草だけで、私は婆が暇乞いを告げようとしていることに気づいた。
「つらい、悲しいことがありましたかえ」
「……あったわ。信じられないくらい、いつか醒める夢ならよかったと思うほど」
 婆は首を横に振った。
「現はけして醒めぬ夢。心を強くお持ちなされ。虞れることなく眼を開けば、進むべき道が必ずや見えてくるはずです」
 私は崩れるように膝をつくと、育て親の両手に縋りついた。
「婆、婆。どうして結界を? 陰りに潜むものが大群になって押し寄せて……宮中は血と火の海だわ」
「こうするほかなかったのでごぜぇます。媛様と水沙比古殿を無事に逃がすには」
 婆の視線が私の背後に立つ水沙比古へ向けられた。
 振り返ると、かれは強張った表情で婆を凝視している。
「逃がすって……和多の郷へ?」
「いいえ。伊玖那見にでごぜぇます」
 婆の言葉に、真赫、黒金、白穂の三人がきびきびとした動作で片膝をついた。
「この者たちがおふたりを伊玖那見までお守りします。京からいちばん近い湊から南へ向かいなされ」
「ま、待って。どうして伊玖那見が出てくるの? それに、真赫たちはいったい――」
 私の質問に答えたのは真赫だった。
「われらは伊玖那見にて、藩王家にお仕えする者にございます。摂政にして世子たる稚神女(トゥナエィタ)のご命令により、夕星媛と卑流児(ひるこ)王子をお迎えに上がりました」
「卑流児……王子?」
 真赫が重々しく頷いた。
「水沙比古様の本来の御名です。大神女のご息女であらせれた(らい)王女の御子に当たります」
「おれは何も憶えていない」
 水沙比古は早口にまくし立てた。
「そんな名前は知らない。伊玖那見で暮らした記憶なんて、これっぽっちもありはしない」
「承知しております。……八年前、卑流児王子は穢れを祓う儀式で供犠として海へと流されました」
 ぎくりと心臓がいやな音を立てた。
 水沙比古が口を引き結ぶ。真赫は少年の顔を見つめ、「当初、王子は供犠のお役目を果たされ、常夜大君の御許へ召されたと思われていました」と続けた。
「しかし、常夜大君からの神託により、記憶を失いながらも隣国の七洲で生きておられること、いずれ貴きお方を伴われて国へ戻られることが判明いたしました」
「貴きお方だと?」
「夕星媛にございます。媛の母君、白珠媛は伊玖那見の神女のお血筋。そして白珠媛の母君は、大神女の姉君であらせられた香彌(かぐや)王女なのです」
 私と水沙比古は顔を見合わせた。
 真赫の説明を信じるなら、私たちは互いの祖母が姉妹同士の再従姉弟ということになる。
 水沙比古はぐしゃぐしゃと髪を掻き乱した。
「おれは和多の水沙比古だ。どこの生まれだろうと関係ない」
「あなたは間違いなく伊玖那見の卑流児王子なのです。和多の氏長はそれを承知の上であなたを保護され、われわれにお力添えくださいました」
「……親父どのは、おれの正体を知っていたのか?」
 こぼれ落ちそうなほど両目を見開き、水沙比古は声を震わせた
「お召し物から伊玖那見の王族だとわかったそうです。しかし、香彌王女のように事情があって国を追われたのだとしたら、伊玖那見に帰れば助かった命も危うくなるかもしれない。そう判断され、養い子として保護したと」
「なら、なぜいまごろになって来た!?」
「藩王家の信書をお送りしたからです。常夜大君の神託により、卑流児王子と夕星媛を伊玖那見にお迎えしたいと。伊玖那見にいらっしゃる限り、藩王家の庇護をお約束すると申し上げました」
 祖父は藩王家の申し出を受け容れた。私を宮城から逃がし、水沙比古とともに大皇の手が及ばない伊玖那見へ亡命させる計画を企てたのだ。
 藩王家から遣わされた真赫たち三人は、祖父の協力を得て宮中に潜りこんだ。いつか伊玖那見へ旅立つ日まで、大皇に気づかれぬよう私の身辺を守るために。
「婆も最初から知っていたの?」
 思わず責める口調になると、婆は紅に彩られた双眸を細めた。
「媛様を取り上げたとき、この御子は天命を負ってお生まれになったのだと直感しました。果たすべきお役目があり、それを助ける護り手がいつか現れる。媛様を護り手に託す日まで健やかにお育て申し上げる――それが己の使命であると。媛様のご出自を知ったのは、真赫たちに会うてからにごぜぇます」
「私の運命は、伊玖那見にあるの?」
「老いた眼にそこまでは視えませなんだ。いっとう明るく輝く宵星の周りは暗らかなように。けれども、このまま宮中で消える光ではございませぬ」
 婆は翡翠の手環をそっと撫でた。
「伊玖那見へ行かれませ、媛様。露払いはこの婆めがお引き受けいたしまする」
「婆は……婆はどうするの。いっしょに来てはくれないの?」
 答えなどわかりきっていた。それでも問わずにはいられなかった。
 婆は柔くほほ笑み、首を横に振った。
「宮城の守りをほどいた咎は贖わねばなりませぬ」
 ひくりと喉が震えた。私は婆の膝に突っ伏した。
「いやよ、いや……お願い、死なないで……」
 婆は死ぬつもりなのだ、罪人として。彼女は私を逃がすために、皇に仕える呪師でありながら皇を守る結界を破壊した。
 絶望に胸が潰れそうだった。苦しくて喘ぎながらすすり泣くと、背中に温かいてのひらが添えられた。
 確かめずともわかる、水沙比古の手の大きさだった。
「水沙比古殿」
「そう呼んでくれるのか。婆さまは」
「己が何者であるのかを定義するのは、結局のところ己自身でごぜぇます」
 婆はやさしく諭すように告げた。
「ですが、そのためには己が何者であるのか知らねばなりませぬ。ご自身の目で確かめ、心の声に耳を澄ましてみなされ」
「何者かもわからないおれに、二の媛を託せるのか」
「何者でなくとも、あなた様はちゃあんと約束を守る気持ちのよい御子じゃ。大事なものを見誤ることはありますまい」
 水沙比古の手が私の肩を抱いた。ぐっと指の関節に力が入る。
「……うん。うん、わかっている。それだけは迷わない」
「媛様をよろしく頼みます」
 傍らに水沙比古が膝をついた。二の媛、と肩を揺すられる。
「行こう、伊玖那見に」
「いやよ」
「二の媛」
「いやったらいや! そんなに行きたいなら水沙比古だけ行けばいい!」
「あんたが動かないなら、おれもここで死ぬぞ!」
 怒声が空気を震わせる。頬を平手打ちされたような衝撃だった。
「おれは二の媛の従者だ。主が残るなら、おれも宮中に残る。そして死ぬ」
「……どうして」
「このまま宮中に留まれば、二の媛は大皇殺しの重罪人だ。最悪、この騒ぎの責任も押しつけられて処刑される」
 私はのろのろと顔を上げた。水沙比古はぐうっと眉根を寄せた。
「ごめん。おれが悪い。阿倶流たちの正体を見抜けなかった」
「違う……あなたはただ、私の願いを叶えようとしてくれただけよ」
 少年の指先が涙で濡れた頬を拭う。
 銀碧の瞳が凪いだ海のように私を映していた。
「行こう、二の媛。このまま終わってはいけない。次の手を考えよう、生き延びて」
 私は洟をすすり上げて頷いた。
 婆の手にいちどだけ強く力がこもった。そしてするりと離れていく。
「どうぞ、息災で」
 もはや引き留められないことを思い知り、私は別れの言葉を見失った。
 婆と過ごしてきた月日の断片が翻り、吹き散らされる。
 四歳の夕星として異世界に放りだされた私を導き、見守り続けてくれたひとだった。夜の海を彷徨する鯨に絶えず降り注ぐ月あかりのように。
 私は愚かで浅はかな子どもだ。
 血のつながりなどなくても、命を懸けて愛してくれるひとはずっとそばにいたのに。
「――」
 何も言えない私に、婆はくしゃりと笑み崩れた。
「媛様、王子。急ぎましょう」
 真赫に促され、水沙比古が私の腕を掴んで立ち上がった。
 三人の伊玖那見人が一礼すると、婆は厳かな巫女の顔つきで告げた。
「あなた方の道行きに、闇の帳のご慈悲があらんことを」
 婆を残して宮を出る。「婆、婆」と泣き叫んで進めずにいると、有無を言わさず肩に担ぎ上げられた。
「水沙比古……っ」
 背中を叩くと、水沙比古は呻くように声を押しだした。
「後ろを見るな」
「どうして――」
「別れがつらくなるだけだ」
 私はハッと息を呑んだ。
 首筋の産毛がチリチリと逆立つ。森の霊気がざわめき、宮に向かって収斂する。

 ――ぷつん、と。
 糸が、切れた。

 森の闇が強烈な光に薙ぎ払われた。
 光源は宮の内部から噴き上がった火柱だった。
 赤銅色の炎が屋根を食い破り、簾や蔀戸を吹き飛ばして燃え盛る。小さな古宮は轟音を立てて崩れはじめた。
 炎は樹々に燃え移り、みるみる森じゅうに広がっていく。私の鳥籠、不自由の象徴であった闇が――失われる。
 暗く忌まわしく、温かく慕わしい私の杣の宮。跡形もなく焼き尽くされて、この世から消えてしまう。
 言葉は形になる前に端から潰れていった。
 喉をこじ開けて、獣の仔のような慟哭が迸った。

七 冥闇の舟出〈2〉

 (そら)が紅く燃えている。
 もはや宮城の大半が炎に呑まれ、凄まじい火勢に垂れこめた暗雲が赫々と照り輝いていた。落日の火に焼かれて世界が燃え落ちようとするような光景だった。
 おうおうと木霊するのは風の唸り声、それとも陰りに潜むものたちの咆哮?
 熱に灼けた目と喉が痛い。
 水沙比古の肩にしがみつきながら、私は婆から教えられた魔除けの呪詞を唱え続けていた。
 婆が死んだことで完全に制御を失った陰りに潜むものは、私たちをも獲物と認識した。糸を撚り合わせて頑丈な縄を編むイメージで呪詞を重ねていくと簡易的な結界となり、襲いかかる異形を弾き飛ばす。
 私を担いだ水沙比古を三人の伊玖那見人が取り囲み、炎の中をひた走る。先頭を黒金、水沙比古の左右を真赫と白穂が固めている。
 内朝を抜けて外朝に出ると、いよいよ混乱は凄まじかった。
 火事の最中、大皇と皇太子の不在が発覚したらしく、探し回る宮人の叫び声が聞こえてくる。
 ……神隼。異母弟は無事だろうか?
 明星と奼祁流は言っていた。あの子を大事な手駒だと。
 いますぐ命を奪われることはないだろう。しかし、その先の保証はない。
 次代の大皇である神隼は皇そのものだ。異母弟が死ねば皇統は断たれ、この国の玉座は空になる。
 皇位継承からほど遠い傍系皇族、あるいは有力な豪族の中には皇に取って代わろうと野心を抱いている者もいるはずだ。
 王権が揺らげば内乱が起こる。戦火が国土を焼き、力なき蒼生(ひとびと)が家も田畑も命も奪われる。
 この煉獄が七洲(くに)じゅうに拡がってしまう。
「だめよ」
 カラカラに掠れきった声は風にさらわれた。
 そんな未来は、絶対にだめだ。
 巨大な鼓を打つような音を響かせ、炎に包まれた殿舎が崩落する。
「止まれ!」
 荒々しい制止に水沙比古が立ち止まった。反動で体がガクンと揺れる。
「おまえたち、どこの所属の者だ? いますぐ持ち場へ戻って、消火と負傷者の救助に当たれ」
 振り返ると、武官とおぼしき男たちが五人ばかり行く手を遮って立ち塞がっていた。
 伊玖那見人たちは無言で得物をかまえた。腰に回った水沙比古の腕に力がこもる。
 武官のひとりが眉をひそめた。「……なぜ答えない?」
 矢羽根が空を切り裂く音がした。
 尋ねた武官の肩に一本の矢が突き刺さっていた。武官は両目を見開くと、よろよろと後退った。
 白穂が矢を放ったのだ。
「貴様ら……!」
 武官たちが気色ばんで剣を抜く。
 白穂が流れるような動作で再び弓を引き、二本目の矢を別の武官の右腕に命中させた。
 鏃に右腕を貫かれた武官は、呻き声を洩らして剣を取り落とした。
「曲者、曲者だぁ!」
「出合え出合え! 残らず捕縛しろ!」
 たちまち戦闘が始まった。
 伊玖那見人たちは目を瞠るほど強かった。膂力を誇る黒金が長槍を振るい、数人をまとめて薙ぎ払う。真赫は剣舞のような速さで武官たちを翻弄し、ひとりずつ地面に沈めていく。
 武官たちが残らず倒れるまで時間はかからなかった。
 私は固唾を呑んで水沙比古に縋りついていたが、武官たちが命まで取られていないことに気づいて脱力した。
「急いでここを離れましょう。応援が駆けつけたら厄介です」
 剣を手にしたままの真赫が険しい口調で告げた。
 悪い予感とは当たってしまうもので、立て続けに武官や衛士の集団と遭遇した。
「逃がすな!」
「そいつらが火をつけたんだ、捕まえろ!」
 いつの間にか私たちが放火の下手人という認識になってしまっている。弁解している余裕などあるはずもなく、力ずくで逃げ道を切り開く。
「このッ!」
 黒金と真赫の隙を衝いた武官がこちらに向かって手を伸ばした。私を担いでいる水沙比古なら動きが鈍いと判断したのだ。
 真赫が焦った顔で武官を追いかける。
 武官の手が私の髪を掴もうとした刹那、水沙比古は私を懐へ抱き寄せて強烈な蹴りを相手の鳩尾に食らわせた。
「ぐぁッ」
 武官が仰け反って体勢を崩した。水沙比古の片手が長剣を引き抜き、紫電を閃かせる。
 迷いのない太刀筋で、少年の振るった刃が武官の腕を斬り飛ばした。
 武官は悲鳴を上げ、肘から先を失った腕を押さえて転げ回る。
 私は呆然と水沙比古の横顔を凝視した。血飛沫が褐色の頬を濡らしても眉ひとつ動かさない護り手を。
 火の色を帯びた銀碧の双眸は凍えそうだった。
「おのれェ!」
 仲間を傷つけられて激昂した別の武官が怒鳴りながら斬りかかってくる。水沙比古はするりと刃を躱し、全身を発条(ばね)のようにしならせて死角から反撃を放った。
 脇腹から胸まで斜めに斬りつけられた武官が倒れ伏す。水沙比古の足元に血溜まりが広がり、袴の裾まで湿らせる。
 ――二の媛が望むなら。
 ――そうしなければあんたを守れないのだとしたら、ためらわない。おれは。
 水沙比古の台詞がよみがえる。言葉どおり、かれの刃に躊躇は一切なかった。
 私を守るためだ。
 水沙比古は私の剣だ。かれが振るう力はわたしのもの。かれが流した血は罪過となって私の両手を染める。
 私は、水沙比古の主人なのだから。
 怖くても目を逸らしてはいけない。何ひとつ取りこぼさず、この無力な両眼に焼きつけなければならない。
 いまは逃げることしかできない、それでも夕星(わたし)は皇の娘だ。
「媛様、王子! こちらです!」
 黒金が声を張り上げる。戦闘を重ねながら移動を続けた私たちは厩舎にたどり着いた。
 陰りに潜むものによる被害は少ないようだが、つながれたままの馬たちはすっかり怯えて興奮しきっていた。
 いまにも馬房から飛びだしそうな馬をなんとか落ち着かせ、まともに走れそうなものを四頭見繕う。真赫は一頭の青毛の手綱を水沙比古に渡した。
「王子、乗馬のご経験は?」
「頼むから水沙比古と呼んでくれ。……荷車を引く駄馬の世話ならしたことはあるぞ」
「それでは、手綱は媛様がお願いします」
「えっ!?」
 仰天する私に、真赫は至って真面目な表情で続けた。
「巫者や呪師は鳥獣を従える技を持つといいます。媛様ほどの異能をお持ちであれば、馬を手懐けることなど容易なはずです」
「そ、そんな」
 私は単なる陰視に過ぎない――と反論しようとして、ぶるる、と青毛の鼻息に遮られた。
 軍馬らしく立派な体躯をした青毛は、気忙しく足踏みしながら私の顔を覗きこんできた。豊かな睫毛にふちどられた黒い眼に吸い寄せられる。
 一瞬、私を取り巻くすべてが遠ざかり、青毛のまなざしが眼窩に嵌めこまれたような錯覚を抱いた。青毛の視点が私の視点に、私の視点が青毛の視点に、入れ替わって同化する。
 私の双眸からこぼれ落ちる帝王玉(インペリアル・トパーズ)のような揺らめきに、恐怖と混乱がとろりと融解する。私は青毛の鼻面にてのひらを寄せると、この大きな生き物を掌握したことに気づいた。
「いいこ、いいこね。私たちを、ここから連れだしてくれる?」
 青毛はにたび鼻を鳴らし、甘えるように私の手にすり寄った。
 真赫がほうと吐息を洩らし、「お見事です」と呟いた。
「二の媛、両目が」
 水沙比古が困惑しながら指摘する。私にはとっさに目を伏せた。
 視える(・・・)だけだったはずの目が視る(・・)ことで特異な力を発揮するようになったらしい。明星に投げつけられた邪眼という単語が脳裏をよぎった。
「水沙比古、馬に乗るのを手伝ってくれる? あなたは後ろに座って体を支えてちょうだい」
 聞こえなかったふりをして頼むと、水沙比古は眉をひそめつつ追及しないでくれた。
「……ああ。わかった」
 水沙比古の肩を借りて青毛の背に跨がった。
 乗馬の経験なんて、前世の幼少期にふれあい牧場でポニーに乗った程度だ。目線の高さと軍馬の巨躯に恐怖を覚えたが、背中を包みこむ温かさに励まされる。
「本当に大丈夫か?」
 手綱を持つ手に水沙比古のてのひらが添えられた。
 私は息を吸いこんで頷いた。
「なんとかやってみるわ」
「落ちないように支えているから、思いっきり走らせていいぞ」
 水沙比古の片腕が腹に巻きつき、かれの体にぴったり引き寄せらる。舟乗りの優れた体幹と平衡感覚は、はじめての乗馬でもびくともしない。
「全速力で宮城を抜けます。媛様、しっかりついてきてください!」
 真赫の言葉に手綱を握りしめた。力いっぱい引いて腹を蹴ると、青毛が高く嘶いた。
 四頭の馬は炎の只中へ走りだした。
 体が上下に揺れ、風景が飛ぶように流れていく。お尻が浮き上がるたび地面へ放りだされそうだ。
 私は泣きそうになりながら、必死に青毛にしがみついた。
 不安定な体を水沙比古がしっかりと抱えこみ、青毛の動きに合わせて姿勢を調整してくれる。私は先ほどのかれの台詞を反芻し、ひたすら青毛を駆った。
 ――ずっと夢見てきた。
 自由になって光を浴びることを。日陰者の夕星ではなく、明星の隣に並んで日向を歩く権利を。
 いつの間にか涙が溢れだした。
 私の明星。私の片割れ、私の片翼。
 あなたを止めることがあなたを殺すことと同義だというのなら、ほかのだれでもなく私があなたを殺す。愛しているから、ほかのだれにもあなたを殺させない。
 私たちのために、もはや朝陽は昇らないのだから。

七 冥闇の舟出〈3〉

 湊に着いたときには日没をとうに過ぎていた。
 盆地である京から沿岸部へ抜けるためには山道を通らなければならない。舗装などされているはずもない険しい道程を馬で駆け詰めに駆け、休む間もなく舟に乗りこんだ。
 七洲のどの湊にも、必ず和多水軍の舟が停泊している。これから西回りで伊玖那見へ渡るという舟を運よく見つけ、水沙比古が舟長(ふなおさ)に話をつけて南方へ送ってもらえることになった。
 いかにも屈強な海の男という壮年の舟長は、水沙比古の後ろで縮こまる私を見つけると恭しく頭を垂れた。
「氏長から和多のすべての舟乗りにお達しがありました。氏長の養い子である水沙比古殿とお連れの方を必ず伊玖那見にお送りするように、と」
「親父どのが?」
「和多の白珠、儂らの媛様を大皇に奪われた屈辱を忘れた日はありません。媛様の御子をお守りできるなんて、和多の舟乗りの誉れです」
 浅黒い顔を綻ばせる舟長のまなざしは、かつて白珠媛に命を救われたと語っていた婆を彷彿とさせた。
 先を急ぐ私たちのため、舟長は出航の予定を繰り上げてくれた。闇に紛れ、一隻の舟が夜更けの湊から沖へ漕ぎ出でる。
 この世界の船舶は、木材で造られた細長い舟に手漕ぎの櫓と筵や竹を編んだものでできた帆がついている。舟には乗員が休むための小屋が設けられており、私と水沙比古はその中へ案内された。
「さぞお疲れでしょう。明日には最初の寄港地に着くそうですから、それまでお休みになられてください」
 労りがこもった真赫の声に、津波のように疲労感が押し寄せてきた。へなへなと座りこむと、水沙比古が慌てて背中を支えてくれる。
「大丈夫か、二の媛」
 案じる問いかけに返事をするのも億劫で、私は無言で首を横に振った。
 全身のあちこちが痛み、発熱しているときに似た怠さがまとわりついている。とにかく横になりたかった。
 水沙比古は慎重な手つきで私を抱き上げると、小屋の隅にしつらえた寝床まで運んでくれた。衾代わりの筵にくるまると、私の意識は泥のような眠りに沈んだ。
 ――夢を見た。
 天から降り注ぐ乾留液のごとき闇がどろりと広がって、どこまでも(くら)い海原となる。
 見渡す限りの黒い闇。幽かな月あかりを頼りに進むにはあまりに危うく、櫓もない小舟に乗った私はひとり波間を漂っていた。
 湊のあかりは遠く消え、月も星も暗雲に塗り潰されてしまった。婆も水沙比古もいない、無力な私だけが運命という潮流のまま漂泊している。
 どこへ行けばいいのだろう。
 黄昏の天からこぼれ落ちてしまった夕星(わたし)は、この地上で何を果たすべきなのか。明星を殺すことこそが私の天命なのだろうか。
 振り返ると、闇の波間に炎が見えた。業火の底で燃えているのは――京だ。
 ――だめよ!
 叫びは闇を震わせた。
 海が激しく波立ち、風が雲を押し流す。細く射しこんだ月あかりが白い小径のように伸びていく。
 海鳥の鳴き声が雲間から響いた。
 光の小径を鳥影が飛んでいく。羽ばたきが向かう先には、黒い荒海の上に佇むひとがいた。
 夜目にも鮮やかな異邦の衣が潮風にそよいでいる。まるで明るい陽射しの下で咲き誇るべき南国の花が夜の海に迷いこんだようにちぐはぐだ。
 長髪は登頂部あたりのいちぶぶんで丸い髷を作り、あとは背に流している。髷に挿した金鈿から垂れた雫型の鎖が涼やかな音を立てる。
 ゆったりとした上衣と太い腰帯、軽やかな紗の裳。華やかな染色が施された装束もまた、金や宝玉を連ねた首飾りや手環で飾られていた。
 髪型や装いは異邦の女人だ。だが上背のある精悍な体つきは、私の見慣れたシルエットだった。
 ――水沙比古?
 戸惑いながら呼びかけると、かれ(・・)は気怠げな仕草で振り向いた。
 痺れるような衝撃とともに、翠緑に金砂が散る双眸が私を射抜いた。
 強く風が吹きつけ、白茶けた長髪が靡く。
 金鈿の垂れ飾りが、素足の足首に巻かれた細い金の環がシャラシャラと鳴った。
 警戒する猫のように瞬いたかれは、ゆっくりとほほ笑んだ。
 潮流がうねり、因果の糸が抗いがたい力で手繰り寄せられる。かれの手がこちらへ伸びて――
 大きな揺れと舟の軋みに夢が弾け飛んだ。
 一気に覚醒した意識が現状に追いつかない。筵の中で硬直していると、潮の香りに油の匂いがまじる。
「二の媛? 目が覚めたのか?」
 手燭のささやかな灯りを掲げて顔を覗きこんできたのは水沙比古だった。
 小屋の中は真っ暗で、打ちつける波音が低く響いていた。私と水沙比古以外は甲板に出ているのか、だれの姿も見当たらない。
「いま……」
「うん?」
「いまは、夜半?」
「もうすぐ夜明けだ。気を遣って、真赫たちは小屋の外に待機している」
 横たわる私の傍らに腰を下ろした水沙比古は、「腹は空かないか?」と尋ねてきた。
「……水が欲しい」
 私の訴えに、水沙比古は片隅に置かれた水瓶から土器に水を掬って持ってきてくれた。
「ほら」
 水沙比古が土器を傾ける。頭をもたげてふちに口をつけ、少量の水をすすって渇きを潤した。
「ありがとう」
「もういいのか?」
 心配そうな少年に頷き返し、重い頭を筵の上に戻した。
「体調はどうだ。痛いところはないか、どこか」
「全身が筋肉痛よ……特に太もも。内側が擦り剥けているのかも」
 水沙比古は間が悪い顔をした。
「ああ、うん。湊まで駆け通しだったからな。あとで真赫に軟膏か何か頼んでおくよ」
 ぽふりと大きな手が頭に乗り、輪郭に沿って撫でられる。
 私は火あかりがちらちらと揺れる銀碧の双眸を見上げた。
「水沙比古は……だいじょうぶ?」
 頭を撫でる手が止まった。
 水沙比古の表情が硬くなり、眉根が歪む。
「おれにもきょうだいがいるそうだ」
「え?」
「真赫たちを遣わした伊玖那見の稚神女だよ。おれと同母の妹らしい」
 大神女は老齢のためにここ数年表に出てくることが少なく、世継ぎである稚神女が政務を代行しているという。水沙比古の母君はすでに他界しているそうだ。
「自分に同じ親から生まれた妹がいるなんて考えたこともなかった。おれは、親父どのの倅で、和多の舟乗りで……それでじゅうぶんなのに」
 水沙比古の吐息が火あかりを震わせた。
「真赫が言うには、おれ――卑流児王子は稚神女と仲睦まじい兄妹だったそうだ。七つのとき、藩王家に凶事が起こって穢れを祓うために王子は供犠として海に流された。七洲で生きていることがわかってから、ずっと王子の帰還を心待ちにしていると」
「水沙比古は……妹に会いたい?」
 私の質問に、水沙比古は黙りこんだ。
 波音が暗がりを揺り籠のように揺らす。水沙比古は前髪をぐしゃぐしゃと掻き乱した。
「怖い」
 吐露する声はいつになく幼く、頼りなく聞こえた。
「おれが憶えていない昔のおれを知っているやつに会ったら、いまのおれではいられなくなりそうだ。おれは、和多の水沙比古のままでいたらだめなのか?」
 銀碧の瞳が私を映す。途方に暮れて助けを求めるまなざしに自然と手が伸びていた。
 水沙比古の手を取り、力の入らない両手で包みこむ。骨張った手首には舟乗りの護符が変わらず巻かれていた。
「私は、水沙比古が水沙比古のままでいることがいけないとは思わないわ」
「……親父どのは、卑流児王子としておれを伊玖那見の連中に託したのに?」
「お祖父様や真赫たちの思惑は関係ない。大事なのは、あなたの気持ちよ」
 水沙比古は生きたいという私の思いを否定しなかった。私もまた、かれの心を尊重したい。
「婆も言っていたわ、何者であるのか最後に決めるのは己だと。あなたが水沙比古でありたいと望むのなら、それが答えではないかしら」
「おれは……親父どのの倅で、和多の舟乗りで……二の媛の従者でいいのか?」
「あなたが、そう思ってくれるのなら」
 水沙比古の手が小さく震え、ギュッと握り返してきた。
「二の媛を離さないと約束したな」
「うん」
「おれも離さないでいてくれないか。手をつないでいてほしい、二の媛に」
 絶え間ない波音を聞いているうちに、まるでふたりぼっちで夜の海を漂流しているような錯覚に陥った。
 心細さは変わらない。けれど、夢の中よりも穏やかな気持ちで現状を受け止められた。
「約束するわ」
 水沙比古は安堵したように頬をゆるめた。
 そのまま私と向かい合う形でごろりと横になる。片腕を枕にして、もう片方の手で筵をしっかりと掛け直してくれた。
「さすがに疲れた。おれもここで寝ていいか?」
「いいけれど……あまり寝心地はよくないわよ」
 水沙比古は声を立てて笑った。
「舟乗りだぞ、おれは。陸よりも海で揺られながら見た夢の数のほうが多い」
 筵の上からやさしく背中を叩かれる。水沙比古は私よりもひとつ年下だと発覚したが、まるで年長の兄が妹を寝かしつけようとする仕草だ。
 卑流児と呼ばれた男の子も、かつて妹の隣で眠った夜があるのだろうか。
 私はいちども明星に「おやすみ」と告げたことがない。眠れないあの子に寄り添うことも、おそろしい悪夢を分かち合うこともできないまま離ればなれになってしまった。
 滲みかけた涙を瞼の下に隠して、私は水沙比古の懐に潜りこんだ。
「おやすみ、二の媛」
「……おやすみなさい」
 闇に波音が木霊する。
 夜明けを待ちわびるからこそ暁降ちがいっとう冥い。ともに朝を迎えたかった片割れを失って、私は思い知らされた。

 こうして、私と水沙比古の彷徨がはじまった。



 第二部 南海彷徨編に続く

【第二部 南海彷徨編】一 浪の上の都〈1〉

 闇の中に(まる)い月が薄らぼんやりと浮かんでいる。
 よくよく目を凝らせば、それは奇妙な楕円形をしていた。つるりとした玉子型の球体は白緑の光沢を纏い、さながら果実のごとくやわらかな青葉に包まれている。
 月ではない――天蚕の繭だ。
 通常の蚕と違い、天蚕は世にも珍らかな緑色の糸を吐く。その繭から紡がれる絹糸は(あめ)の糸と呼ばれ、特に天領で作られたものは皇に献上される。
 青葉が茂る枝には繭が三つ実っていた。とてもふっくらとしていて、平均的な繭よりも大ぶりだ。
 ――玉繭、というのだよ。
 闇のむこうから声が聞こえた。母親が幼子の疑問に答えるかのような、笑いまじりにささやく声。
 傍らに温かな気配を感じる。
 ふわりと闇を掻き分け、仄白い二本の腕が現れた。手首が細く、指先まですんなりと伸びた女の手だ。
 白い両手は繭のひとつを掬い取り、そっともいだ。
 ――二匹の幼虫がそれぞれ糸を吐きだしてひとつの繭を作ることがある。二本の糸が複雑に絡み合っているから、玉繭から紡いだ糸は太い上に節があって絹には向かない。
 私は惜しい気持ちで玉繭を見つめた。こんなに立派な大きさなのに、使い物にならない屑繭だなんて。
 ――けれどね。
 白い両手がやさしく玉繭をくるみこむ。
 ほほ笑むような吐息。まるで、小さな子どもになって抱きしめられている心地だった。
 ――玉繭から紡いだ糸は丈夫で、織った布はちょっとやそっとのことでは破れたりしない。大事に使えば、何代でも着られる衣ができるのだ。
 絹にはなれずとも、野山の息吹をたっぷりと浴びて実った繭から紡がれる糸は、さぞ美しく色鮮やかに違いない。刹那、瑞々しい萌黄色のヴィジョンが目の前で翻った。
 ――だから(・・・)其方(そなた)たちも一対で揃えたのだよ。
 ――ひとりでは耐えがたい定めにも、ふたりでならば耐えられよう。強き糸で結びついた其方たちであれば、必ずや役目を全うできるはずだ。
 白魚のような指先から玉繭が転がり落ちる。闇の底、冥き泥の海へとひとつ、ふたつ、三つ。
 三つの玉繭は淡く明滅しながら泥の海を流れていく。それぞれ別々の方角へと遠ざかり、やがてふつりと闇に溶けた。
 ――ひとつはまほろばに。青き山々に抱かれた皇の地へ。
 ――ひとつは北に。炉端に宿る心やさしき(わたし)の娘が守る地へ。
 ――ひとつは南に。妾が産んだ最後の子、(まかる)の臥所となった地へ。
 歌を口ずさむように声は告げる。
 白い両手が頬に触れた。闇を透かす気配はいっそう濃く温いというに、女のてのひらは湿った墓土のごとく冷たかった。
 ――宵星の名の娘、異界より流れ着いた魂を持つ妾の(すえ)よ。其方は生まれながらに死返(まかるがえ)しを知っている。冥き闇を潜り、妾の国へと至る道筋を。
 ――だからこそ。哀れな妾の子、神代が遠き昔となってなおさまよい続ける(まかる)の王を……
 ささやきはため息に消えた。声の主が頭を振ったような気配がして、するりと白い両手が離れていく。
 ――まずは生大刀(いくたち)を探しなさい。もうひとりの死返しの子、稀有なる海神の慈悲を授かった若子とともに。
 ――死返しを知る者でなければ生大刀の鞘は抜けないのだから……
 声が遠ざかる。
 白い両手はみるみる小さくなって星のような点となり、やがて消えた。ハッとした瞬間、私は天地のない闇に投げだされていた。
 どぷんと泥の海に落ちる。
 粘つく冥闇の底へと沈んでいく。深く深く――生と死が混ざり合い、混沌を成す原初の淵へと。
 やがて闇の奥底に光が生じた。針で突いた穴から陽射しが注ぎこまれるように、急速に闇が晴れていく。
 漆黒から薄赤い色、血脈を透かした瞼の内側。両目をそろそろと開くと、薄暗い天井が見えた。
 ぎいぎいと軋む舟の揺れ。木板を継ぎ合わせた壁の隙間から吹きこむ潮風の匂い。
 途端にむかむかとした胸焼けを覚え、鳩尾のあたりで両手を握りしめて丸まった。
 舟酔いに悩まされた挙句、さんざん吐いたおかげで胃の腑は空っぽだ。胃液に焼かれたのか喉の奥が痛い。
 小屋の片隅には水瓶が置かれているが、水分補給はとても無理だ。けれども、黴臭い筵にくるまって寝ていても気分は晴れそうになかった。
 甲板に出て新鮮な空気を吸えば、少しは違うかもしれない。
 筵から這いだし、壁を伝ってよろよろと歩く。戸口にかかる簾代わりの筵を掻き分けると、視界が真っ白になった。
 とっさに片手を翳す。眩んだ両目をしぱしぱさせていると、甲高い海鳥の声が聞こえた。
 つられて視線を上向けると、風を孕んだ帆が陽射しに白く光っている。
 嘘みたいに(そら)が青かった。
 群青色の油彩で塗りこんだように真っ青だ。高みは藍色を帯びて、見上げていると吸いこまれてしまいそうになる。
 海の風と、潮の香りと、波の音に磨き抜かれた青さだった。
 徐々に目線を下降させると天の裾野は淡水色となり、やがて水平線の濃藍に接する。常夏の海原は輝くような翡翠色をしていた。
 手環の記憶を通して垣間見た光景そのままだ。ところどころ青い影が模様となって浮かんでいるのは珊瑚礁だという。
 風が向かう舳先のむこうには、青墨色の島影が横たわっている。
 ぼんやりと立ち尽くしていると、徐々に甲板の騒がしさが耳の穴から流れこんできた。
 舟乗りたちが慌ただしく上陸の準備に取りかかっている。屈強な男衆に混じって白茶けた髪の若者が溌剌と働いていた。
 ほかの舟乗りと同じく諸肌を脱ぎ、精悍な褐色の肩を汗で光らせている。慣れた手さばきで縄を手繰っていた水沙比古は、私の視線に気づくと笑みを広げた。
 近くにいた舟乗りに縄を託すと、一目散に駆けてくる。
「二の媛!」
 ちぎれそうなくらい尾を振るゴールデンレトリバーが頭に浮かんだ。
「具合はいいのか?」
 汗で前髪が額に張りついている。無邪気な笑顔をとっくりと凝視し、私は頷いた。
「もうすぐ着くのね、伊玖那見に」
「ああ。真赫に聞いたのか?」
「ううん、夢で」
 水沙比古は小さく瞬いた。
「舟に乗ってから毎夜見ると言っていた、闇の中から聞こえる声の夢か」
「いままででいちばんはっきりと聞こえたわ。結局、声の主はだれなのかわからなかったけれど……伊玖那見に近づくにつれて気配が強くなっているから、着いたら会えるかと思って」
 白い両手から放たれた三つの玉繭を思い浮かべる。
 泥の海を漂い、まほろば、北の地、南の地に流れ着いた玉繭はどうなったのだろうか。
 まほろばとは『すばらしい土地』を意味する京の美称だ。山脈を越えた北方は異民族の生き残りが暮らす平野が広がり、南方は海を隔てて島嶼群と接する。
 そう、私たちは伊玖那見にたどり着いた。水沙比古の生まれ故郷であり、私に流れる血の起源である、死の女神の声を聞く巫女の国。
「死の臥所……」
「ん?」
「夢の中で、声の主が伊玖那見のことをそう呼んでいたの。自分が最後に産んだ子どもだと」
 深く考えずに声の主の台詞をなぞると、水沙比古はぎょっと目を剥いた。
「伊玖那見を産んだ(・・・)?」
「そうよ。妙な言い回しよね」
「妙というか……」
 水沙比古は歯切れ悪く口ごもり、ちろりと横目で窺ってきた。
「まるっきり国産みの母神だぞ、それ」
「く――」
 舟酔いで使い物にならなくなっていた思考が停止し、ぐるんと急加速した。
「国産みのふた柱は最後に伊玖那見の島々を産んだのだろう? 大火傷を負って命を落とした母神は地底深く隠れ、亡骸は最南端の末波真島(みはまじま)に葬られたと郷の古老から聞かされた」
 国産み神話は闇水生都比売の葬送で締め括られる。南の果ての陵は禁域とされ、現在の伊玖那見では常夜大君信仰の聖地として藩王家の直轄領となっている。
 百余の島嶼群から成る伊玖那見の王都・翠里(すいり)は、最も大きな那見大島(なみおおしま)にある。私たちの目的地もそこだ。
「わ、私の夢に闇水生都比売が出てきたというの!?」
「おれには夢占を判じようがない。でも、血筋を考えれば巫女の才覚がある二の媛に母神の夢告(ゆめのつげ)があってもおかしくはないと思う」
 水沙比古は眉根を寄せ、舳先を睨んだ。
「二の媛の祖母様は、優れた巫女だったのに国を追放されたと言っていたな」
「ええ……」
「いまの大神女とやらに追い落とされたのではないか。どこの氏族でも、兄弟が多ければ跡目争いになる」
 こくんと喉が鳴った。
 祖母が故国を離れた理由は謎のままだ。しかし水沙比古の言葉どおり、大神女の座をめぐる権力闘争に破れたのだとしたら説明がつく。
 藩王家は大神女を中心とする母系の一族であり、一妻多夫の風習があるのだという。
 一族の女たちは国内外の優れた人材を夫に迎え、多くの子を成す。先代の大神女、つまり私と水沙比古の曾祖母も複数の夫を持ち、かれらとのあいだに子どもを残している。
 当代の大神女と祖母は異父姉妹だったそうだ。片親が違うきょうだいは、味方ではなく競争相手であることのほうが多い。
「普通に考えれば奇妙だ。国から追放した王女の血族や供犠として海に流した王子をわざわざ呼び寄せるなんて。母神の神託が重んじられているとはいえ、何か裏があるのかもしれない」
「私たちに危害を加えるような?」
「親父どのがそんな場所へ二の媛を送るとは思えない。だが、伊玖那見の王宮でも安穏と過ごせるわけではない気がする」
 銀碧の双眸が振り向いた。
 水沙比古の目は、伊玖那見の海とはどこか違う色をしている。海の底の闇から生きて還ってきたとき、記憶とともに故郷の色彩を忘れてしまったのだろうか。
「母神はほかに何か伝えてこなかったのか」
「……死の王がどうとか。それから、まず生大刀を探しなさいと言っていたわ」
「生大刀?」
 なんだそれはと問われ、私は首を横に振るしかなかった。
「わからない。そもそも、本当に闇水生都比売だったのかどうか確かめようがないもの」
「近づいてきていると感じるのなら、また夢を見るかもしれない」
 水沙比古の言葉には確信めいた力強さがあった。
 私は答えず、迫りつつある那見大島に視線を向けた。
 海鳥の歌声が強烈な光とともに降り注ぐ。舟を島へと引き寄せるような風の音に紛れ、夢の中で聞いた声が私を呼んだ気がした。
 不意に手を握られた。
 舟の上の仕事で荒れた手に力がこもる。熱いほどの体温に胸が詰まった。
 耐えがたき定めにもふたりでならば耐えられるはずだと声の主は告げた。
 片割れを失い、故郷から逃げだした。それでも私の手は水沙比古とつながっている。
 離さないと約束した。何があっても。
 舟が湊に入るまで、私たちはじっとてのひらの温度を分かち合っていた。

一 浪の上の都〈2〉

 翠里の街は島で最も栄えている那見(なみ)の湊を見下ろす丘陵地に広がっていた。
 王宮を頂点に、螺旋状に張りめぐらされた石積みの城壁に沿って丹塗りの家屋が並んでいる。藍碧や琥珀色に艶めく瑠璃瓦、珊瑚のように赤いぶっそうげ(ハイビスカス)の花。
 日避けのために被った紗布を透かしても目が眩む。真赫が湊で調達してきた馬の背に揺られながら圧倒されていると、馬と並んで歩く水沙比古が声をかけてきた。
「まだ気持ちが悪いか?」
「え?」
「城下に入ってから黙りこんでいるから」
 気遣わしげに紗布の内側を覗きこもうとする仕草に苦笑が洩れた。
「大丈夫よ。何もかもはじめてで、驚きっぱなしなの」
 水沙比古はひとつ瞬き、噛みしめるように頷いた。
「ああ……そうだな」
 七洲では晩秋だったというのに、人や家畜が行き交う大路は夏の風が吹いていた。
 砂埃にまじって香辛料(スパイス)のような匂いがする。威勢のいい客引きの声、車輪の軋みと蹄の響き。
 伊玖那見の民とおぼしき人びとは、水沙比古や真赫たちと同じように彫りの深い容貌と浅黒い肌をしていた。褐色や藍色に染めた芭蕉布のゆったりとした長衣を帯で締め、袴や裳を穿いているひとは少ない。
 こうしてみると、水沙比古が伊玖那見人だという事実がしっくり来る。身成こそ七洲人だが、少年の姿は南国の風景に違和感なく溶けこんでいた。
「異人だらけだな」
 水沙比古がぼそりと呟いた。
 確かに、伊玖那見人と同じくらい外国人とすれ違う。大半は水夫(かこ)で、七洲人や大陸東方の人種が目立つ。
 たまにいずこの土地から旅してきたのか見当もつかない風貌の持ち主もいて、私の目は右に左に滑りっぱなしだった。
「わが国は古くから海の交易路の要所なのですよ。七洲や大陸諸国だけでなく、南の遠洋の島々からも舟が渡ってきます」
 先導役の真赫が白い歯を覗かせて説明する。
「伊玖那見より更に南にも国があるの?」
「ありますとも。大陸の南の果てに突きだした半島から連なって、無数の島が浮かぶ多島海が広がっています」
 私の質問に頷き、彼女は太陽が昇ろうとする南の方角を指差した。
南風(はえ)が生まれる海域という意味で、伊玖那見では『気吹(いぶき)の海』と呼ばれております。われわれ伊玖那見の民には、かの海域から渡来した異人を父祖に持つ者もいるのですよ」
 伊玖那見では父親が異人という混血児は珍しくない。筆頭は藩王家で、大神女や水沙比古の母親は大陸系の血を引いているらしい。
「香彌王女の父君は七洲人でいらしたそうです。国を離れる際は、父君の縁故を頼って七洲に渡られたと聞き及んでおります。卑流児王子と稚神女の父君も同じく七洲の方でした」
 水沙比古の肩が揺れる。
「水沙比古の母上は亡くなられているのよね。父上はご健在なの?」
「いえ、残念ながら。蕾王女の夫君は舟乗りでしたが、七洲に向かう途中で嵐に見舞われて舟もろとも……舟の残骸だけが浜に流れ着き、王女は悲しみのあまり――」
 真赫はわずかに口ごもったあと、「臥せりがちになり、そのままお隠れになられました」と小声で続けた。
 私はとっさに水沙比古の様子を窺った。
 しかし、少年の表情には心配していたような翳りは見当たらなかった。
「おれの本当の父親は、和多の舟乗りだったのか?」
「申し訳ありません、氏族までは……。ですが、腕利きの舟長で風を捉えることに長けていたことから風速(かざはや)殿と呼ばれていたと聞いております」
「風速、か」
 水沙比古は口の中で反芻し、ふっと相好を崩した。
「おれは生まれたときから舟乗りの倅だったのか。王子の身分より、そっちのほうが嬉しい」
 屈託のない感想を聞いた真赫は微苦笑をこぼした。
 下船の前に聞いた説明では、城下に宿を取って王宮からの迎えを待つそうだ。丘陵地の中腹付近まで登ってくると街の賑わいはいちだんと華やぎ、大きな旅籠や酒房が目立つ。
「このあたりは治安もよく、上質な店が揃っております。当面の宿を見つけてきますので、しばらくお待ちになっていてください」
 真赫と白穂が宿の手配に出かけているあいだ、私と水沙比古は護衛として残った黒金に連れられて近くの市を見物することになった。
 大路を外れたところに開けた広場には、日避けの布を張った露店がひしめいていた。
 色とりどりの鮮魚や籠いっぱいに盛られた果実、舶来の織物や装飾品が所狭しと並べられた光景は、まるでおもちゃの宝石箱をひっくり返したかのよう。
 四方の海からあらゆる品が集まるという文句はけして誇張ではないのだ。圧倒されながら目移りしていると、黒金がほほ笑ましそうに口を開いた。
「媛様、あちらの店などいかがですか? わが国の螺鈿細工を取り扱っているようですよ」
「螺鈿?」
「貝の中には、貝殻の内側に真珠や蛋白石のような光沢を持つ種がありましてな。それを砕いた破片を漆地や木地の彫刻に嵌めこんだ細工物ですよ」
 黒金に先導されてやってきた一角には螺鈿細工の店が並んでいた。
 思わず驚嘆の声が洩れた。
 櫛や鏡、髪飾り、かわいらしい小匣。漆塗りの表面にあしらわれた螺鈿が陽射しに当たって虹色にきらめいている。異国の花鳥の図柄や、波線や渦を重ねた紋様など多種多様だ。
「すごい! とてもきれいね」
「伊玖那見では昔から盛んに作られておりましてな。七洲や大陸の国々では、特に高貴なご婦人への贈り物として喜ばれるそうですよ」
 確かに、どれも値が張る品ばかりだ。うかつに手を伸ばせず紗布越しに眺めていると、店の主人が声をかけてきた。
「何かお気に召したものはありますかい、お嬢様」
 異国訛りのある陽気な口調だ。びっくりして顔を上げると、敷物にあぐらをかいた青年と目が合った。
 年齢は二十代前半。亜麻色の長髪を一本に編んで垂らしている。
 小刀で入れた切れ込みのような一重まぶたをした、癖のない顔立ち。鉛色の双眸を覆う円形の玻璃(ガラス)――眼鏡らしき代物に、私は唖然とした。
 袖の広い羽織のような形状の袍を胸元の留め紐と帯で締め、筒袴を穿くというスタイルは大陸風だ。はるばる海を越えてきた旅の長さを物語るようにくたびれている。
 青年はにっこりと笑った。したたかそうで人好きのする表情だ。
「どうぞお手に取ってごらんなさい。藩王家御用達の細工師が腕によりをかけた品ばかりですよ」
「藩王家の?」
 黒金が眉をひそめると、青年はいかにもな仕草で耳打ちした。
「ちょっとした伝手がありましてね。もちろん藩王家への献上品とは比べ物にはなりませんが、御用達の看板を許された工房で作られた一品ばかりですよ」
 青年は商品のひとつを手に取り、恭しく差しだした。
「こちらなどいかがですか?」
 華奢な造りの手環だ。細く削りだした木製の環に漆を塗り、淡い青や紫の螺鈿で小さな花の図柄があしらわれている。
「これは……まつむしそう?」
「ええ。螺鈿の光沢が花びらの色合いをよく表現しているでしょう? 一見地味だが、清楚で美しい。いま身につけていらっしゃる手環ともよく合いますよ」
 反射的に右手を引っこめると、青年は目敏くほほ笑んだ。
「七洲の翡翠を伊玖那見に持ちこんで加工した手環とは、なかなか珍しい。翡翠も細工も上等だ、売ればかなりの値になりますよ」
「……売り物ではありません」
「ご無礼を。商売柄、どうしても目利きの癖が抜けませんでね」
 ひょうきんな物言いに騙されそうだが、どこか隙を見せがたい青年だ。
 思わず警戒していると、水沙比古が一歩前に出て威嚇のように得物に手をかけた。
 丸眼鏡の奥のまなざしが水沙比古に注がれる。青年は両眉を持ち上げた。
「これはこれは――」
「なんだ」
「いやあ、驚きました。話には聞いていましたが、本当に瓜がふたつ(・・・・・)だ」
 青年は丸眼鏡を上げたり下げたりして、つぶさに水沙比古を観察している。黒金が咳払いをすると、「おっと、失礼いたしました」と空々しく謝罪した。
「おぬし、藩王家に伝手があると言ったな。いったい何者だ?」
(あたし)はただの商人ですよ。璃摩(りま)の国から参りました、海燕(かいえん)と申します」
 璃摩は西の海を隔てた大陸の一国だ。『龍の爪』と呼ばれる大きな半島の南東部に位置し、七洲とも国交がある。
「実はちょっとしたご縁がありましてね。いまは稚神女の食客として、王宮でお世話になっているんですよ」
「何ぃ?」
 黒金が語尾を跳ね上げる。私と水沙比古は顔を見合わせた。
 青年――海燕は意味深長に声量を落とした。
「七洲からお戻りになられた王子とお連れの媛様の件も承知しております。まさか、こんなところでお目にかかるとは思ってもみませんでしたがねぇ」
 紗布の内側を覗きこむような視線に体が強張る。まるで値踏みされる(ぎょく)になった気分だ。
「瓜がふたつとはどういう意味だ?」
「どうって、そのまんまの意味ですよ」
 水沙比古の問いに海燕は瞬いた。
「ははあ」黒金の表情を見て膝を叩く。
「なるほどなるほど。こりゃあ面白……いやいや、大変なことになりそうだ」
「おい」
「一介の食客が余計な口を挟めないんでね、どうかお許しください。なに、稚神女にお会いすればおわかりになりますよ」
 海燕は手にしていた手環をポンと放り投げた。
 水沙比古が片手で受け止めると、「お代は結構ですよ」とにんまり笑った。
「お詫びとお近づきの印に。ご入り用の際は、どうぞこの海燕めにお申しつけください」

一 浪の上の都〈3〉

 真赫と白穂が見繕ってきた旅籠は大路を逸れて奥まった区画に建っていた。
 二階建ての高楼(たかどの)で、濃藍の瑠璃瓦と丹色の柱のコントラストが美しい。周辺は大路の喧騒が遠く閑静な雰囲気で、確かに上客向けの商いをしていると知れた。
 屋内は板張りの床に沓のまま上がる大陸風の様式だ。壁が少なく、風が吹き抜けて意外にも涼しい。
 案内されたのは二階の客室だった。広々とした空間を衝立で仕切り、臥所と居間、更に控えの間まで贅沢に用意されている。
 内装はもちろん、異国情緒に富んだ調度品が並んでいた。天蓋と(たれぎぬ)が付いた匣のような寝台、金銀蒔絵で彩られた化粧台、黒光りする木製の(つくえ)と椅子のひと揃い。
 まるで貴人が暮らす御殿のよう。聞けば、王宮に出入りする身分の異人が長期滞在の宿として使っているそうだ。
 私と水沙比古はそれぞれに臥所と居間があてがわれ、真赫は私の客室の控えの間で、黒金と白穂は水沙比古の客室の控えの間で護衛に当たる。舟の上では狭い小屋の片隅で過ごしていたというのに雲泥の差だ。
 黄昏時が近づくと、(はしため)が手燭を携えて灯りを点けて回る。暮れなずむ(そら)は薄明るい薔薇色に染まっていた。
 居間の窓辺に凭れかかってぽつりぽつりと浮かびはじめた星を数えていると、ぶすくれた顔をした水沙比古がやってきた。
「二の媛、あいつらをどうにかしてくれ」
「あいつら?」
「黒金と白穂だ」
 どうやら、従僕よろしく王子の世話を焼こうとするふたりから逃げてきたらしい。
 旅の汚れを落とした水沙比古は伊玖那見の民族衣装に着替えていた。
 羽織に似た上衣は丈長でゆったりとしていて、紫紺の染めも織りも庶民のものより上等だ。幅広の帯を締め、上衣の裾からは白い筒袴が見え隠れしている。
 かくいう私も真赫に手伝ってもらって湯浴みを済ませていた。
 伊玖那見の高貴な女人はとにかく華美な装いを好むらしく、私が袖を通した上衣は目が覚めるような支子色と紅色で意匠化された草花が全面に描かれている。脚にまとわりつく紗の裳は薄く、なんとも心許ない。
 髪は上半分で双髷を作り、下半分はそのまま流している。きっちり髪を結い上げるのは既婚者の証らしい。
 水沙比古は私と斜めに膝を突き合わせる位置にどっかりと腰を下ろした。「王子王子とたまったものではない。用を足すにもついてくるんだぞ」
 私は思わず声を立てて笑った。
「この国ではそういう身分なのよ、あなたは。慣れるしかないわね」
「……性に合わぬ」
 水沙比古はむっつりとぼやいた。
 いつもは無造作に括っているだけの髪は、きちんと櫛を通して高い位置で結わえている。私が贈った髪紐だけがそのままだ。
「私も最初は戸惑ったわ。幽閉の身とはいえ一国の主の娘に生まれ変わったのよ? 前世は平々凡々な女子高生だったのに」
「じょしこうせい?」
「あー、えっと、『私』の故郷では子どもは学校というところへ行くの。七洲では官吏になるための大学寮があるけれど、その庶民向け……といえばいいのかしら? 年齢に応じた学校に通って、読み書きや計算や……ほかにもいろんな知識や教養を身につけるのよ」
 水沙比古は目を丸くした。
「庶民の子どもが手習いをするのか? 仕事をしなくて稼ぎが足りるのか」
「昔は子どもも働き手だったけれど、『私』が生まれ育った時代には子どもを労働させることは禁じられていたの。子どもは大切な存在で、社会全体で守り育てていくものだという考えが浸透していたのよ」
 少なくとも、当時の『私』は周囲の大人に守られて甘えることを当然だと思っていた。同じ日本にも不幸な子どもがいる事実をニュースで知っても、「かわいそうに」と呟いてすぐに忘れた。
 苦々しい郷愁を噛み潰し、私は片頬を歪めた。
「私は高校という学校に通う学生(がくしょう)だったの。女子高生というのは、女の学生という意味よ」
「ふうん。……『こうこう』とやらで二の媛は何を学んでいたんだ?」
「そうね……高校はね、いまの私ぐらいの年ごろの子が通うのよ。高校を卒業したら専門的な勉強をする学校へ行ったり、社会人として働いたり……大人として社会に出るための準備をする学校、かしら」
「郷の若衆宿のようなものか」
 七洲の多くの郷では、成年を迎えた男女はそれぞれ若衆宿や娘宿の寄り合いに加わる。そこで仕事を覚え、郷の祭礼やしきたり、いっぱしの男や女のふるまいなど、郷で生きていくための知恵と規範を学ぶのだという。
 水沙比古はげんなりした表情を浮かべた。
「あそこは苦手だ。同じ年ごろのやつは威勢よくつっかかってくるくせに弱い者ばかりで、ぶちのめすと上の連中にどやされる」
「……友達はいなかったの?」
「親父どのの総領孫にはよく連れ回された。総領息子は嫌味な御仁だが、その息子は親父どの以上に変わり者……というか、阿呆だな」
「あ、阿呆?」
 水沙比古は膝の上に頬杖をつき、「うん」とやわらかく相好を崩した。
「底抜けに明るい阿呆だ。だが、嫌いではない。百千魚(ももちお)という」
「私にとっては母方の従兄弟殿ね。いつかお会いしてみたいわ」
 いちどは目指した母の郷里に思いを馳せると、七洲に置いてきた何もかもが脳裏を駆けめぐった。
 あれから京はどうなった? 神隼は? 和多の氏族は――
 気づけば右手首に嵌めた手環を撫でさすっている。最近、すっかり癖になってしまった。
 指を滑らせると玉の硬さとは違う感触に当たった。つるりとした漆地に点々と咲く螺鈿の花。
 海燕と名乗った商人から渡された手環だ。素直に受け取るには躊躇を感じたが、片割れのまなざしを彷彿とさせる螺鈿の輝きを見ているうちに手放しがたく感じてしまった。
「二の媛」
 水沙比古の声に意識を掬い上げられた。
 はたりと瞬くと、眉根を寄せてこちらを注視している。
「また暗い顔をしているぞ」
「……お祖父様や和多の氏族は大丈夫かと、心配になってしまって」
「親父どののことだから抜かりはないよ。和多の衆だって逞しい連中ばかりだ」
「ええ……そうね」
 励まそうとする水沙比古に頷くが、笑顔は途中で萎んでしまった。
 水沙比古は困った様子で押し黙った。立ち上がって私の前に移動し、衣装にかまわず片膝をつく。
 両手ごと大きなてのひらに包みこまれる。高い体温に自然と安堵感を覚えた。
「まるで異国の公女(ひめぎみ)だな」
「え?」
「宮女の姿も様になっていたが、その格好も似合っている」
 朗らかな表情と声音につられて苦笑がこぼれた。
「ありがとう。あなたもとても似合っているわよ」
「そうか? 着心地は悪くないが、布地が多くて動きづらい。城下で見たような軽装のほうがいいな」
「確かに、市井のひとたちの装いは身軽でいかにも涼しげだったわね。この織物は芭蕉布というそうだけれど……どんな素材から糸を紡ぐのかしら」
 糸繰りだけでなく、織物や染物の工房があれば見学できないだろうか。糸女(いとめ)の端くれとして伊玖那見の染織文化は興味深い。
 しげしげと自分の衣と水沙比古の衣を見比べていると、水沙比古は目を細めた。
「いまの顔だ」
「え?」
「泣いたり塞ぎこんだりするより、好きなものや昔のことを楽しそうに話す二の媛を見ていたい」
 率直な言葉が胸を打った。言われたそばから涙腺がゆるみそうになり、睫毛を伏せる。
「本当は――本当はね。ずっと迷っているの。伊玖那見へ逃げることを選んだのは正しかったのか」
「後悔しているのか?」
 頭を振った。「後悔ではなく、覚悟が足りないの。これから先にあるものを受け容れる覚悟が、まだ」
「うん」
 水沙比古は深く頷き、私の手を包む両手に額を寄せた。
「二の媛の気持ちは、おれもわかる。おれたちは嵐の海をさまよって、ようやく陸地に流れ着いたばかりなんだ。だからいまは、命あるまま海を渡れたことを喜べばいい」
 少年の声はどこまでも真摯で、清い水のごとく染み入った。生きていてくれて嬉しいと、ただそれだけを言祝ぐやさしさに視界が潤む。
「私も、水沙比古が健やかでいてくれて何より嬉しいわ」
 心からほほ笑むと、顔を上げた水沙比古はうろりと視線を泳がせた。
 吊り灯籠のあかりに照らされた眦が朱に染まっている。
「二の媛は……」
「なあに?」
「心臓に悪いことをする。たまに。いや、ちょくちょく」
「えっ!?」
 どういう意味かと尋ねる直前、真赫が顔を出して夕食の支度が調ったことを告げた。
 当然のように水沙比古は私の手を引く。
 真赫の前ではなんとなく質問を口にしづらくて、私は黙ってかれの手を握り返した。
 花の香がくゆる南国の夕べはあまり穏やかで、この静けさが嵐の前なのか後なのか私には見通せなかった。

二 夢告の王子〈1〉

 上陸から二日目。
 朝食が終わるころ、旅籠の外が騒がしくなった。大勢の人のざわめきや馬の嘶きが聞こえる。
「王宮からの迎えが到着したようですね」
 窓の下を確認した真赫が笑顔で報告する。
 好奇心に負けて窓帷の陰から覗きこむと、旅籠の前の路地が何十人もの大行列で埋め尽くされていた。
 屈強な男たちが四人がかりで担ぐ豪奢な輿がふたつ前後に並び、その周囲では槍や剣を携えた歩兵が整列している。更に行列の外側を騎兵が取り囲み、兵士たちが纏う金属製の甲冑が南国の陽射しをまばゆく照り返す。
 行列の先頭では醒めるような山吹色の流れ旗がたなびいている。ひと目で貴色だとわかる深く澄んだ紫――のちのち、貝紫だと知った――で染め抜かれているのは、流水紋を思わせる円形の図柄だ。
「あの旗印は大神女と稚神女だけが使うことを許されている特別な紋章です。稚神女からの勅使に間違いありません」
「な、なんだか大袈裟ではない? もっとこっそり王宮に入るのかと思っていたわ」
「何をおっしゃいますか。おふたりは常夜大君のご神託によって伊玖那見に迎えられた稀人(まれびと)なのですよ。いまごろ王宮では歓待の宴の準備で大わらわでしょう」
 真赫が大仰に目を見開いてたしなめる。
 伊玖那見では(はは)なる闇の女神の託宣によって万事が決まる。七洲でも信仰は重んじられていたけれど、国の采配は大皇と側近たちが振るう。海を渡れば文化はこんなにも違うのだ。
 私はこっそりため息を噛み潰した。ふと視線を感じて再度窓の外を見遣ると、ある騎兵が目に留まった。
 行列の右側についた騎馬の上から、甲冑を着こんだ兵士がこちらを見上げていた。
 ほかの兵たちに比べてやや小柄――七洲人の中背ほどの体格で、日焼けしているものの伊玖那見人より肌の色が明るい。目深に冑を被っているので髪色は確かめようがないが、鋭い三白眼は薄い茶色だとはっきりとわかった。
 ――私を見ている(・・・・・・)
 兵士はゆっくりと瞬き、何事もなかったように前へ向き直った。
「媛様? どうされました?」
 急に黙りこんだ私に、真赫が怪訝な顔をする。
 兵士のまなざしから敵意は感じ取れなかった。ただ、市で出会った商人の海燕と同じ、私という存在を見定めようとする冷徹な意思は伝わってきた。
「ううん……なんでもないわ。光がまぶしくて、少しくらくらしてしまったの」
「まあ、それはいけません。伊玖那見の陽射しはきつうございますから、今日もしっかり日避けを被らないと」
 真赫に促されて涼しい日陰に戻る。そのまま鏡台の前まで連行され、しばらくのあいだ着せ替え人形と化した。
 最終的に落ち着いたのは、薄藍の地に淡紅や支子色、紫色の花々が大胆に咲く図柄の上衣だった。帯は鮮やかな珊瑚色、ふわふわとした紗の裳は濃紫。
 髪型は、登頂部の髪だけを双髷に結ってあとは流すというすっかりおなじみになったスタイルだ。珊瑚色の珠を通した髪紐と薄橙のぶっそうげの花で双髷を飾り、真赫は満足そうに頷いた。
「よくお似合いですよ。雪の膚に花の色がいっそう美しく映えますこと」
「……ありがとう」
 私は鏡越しに苦笑いを返した。
 白珠と称えられる美姫であった母に似たのか、私も明星も平均的な伊玖那見人より色白だ。母方の血筋を考えれば濃い肌色になりそうなものだが――
「祖母君譲りでございますね」
「お祖母様?」
「ええ。香彌王女は白銅の御髪と白珊瑚の膚をお持ちだったそうです。混血児が多い伊玖那見では、異人の特徴を持つ子どもが稀に生まれるのですよ。藩王家も例外ではありません」
 なるほど、言われてみれば人種の坩堝のような伊玖那見で白い肌の子どもが突然生まれても不思議ではない。
 仕上げに眦を魔除けの紅で彩り、真赫はほほ笑んだ。
「だれが見ても、まことうるわしい伊玖那見の姫宮にございます。これからはわれらの国で、心穏やかにお過ごしください」
 なんと答えればよいのかわからず、私は曖昧な笑みを取り繕った。
 日避けの紗布を被り、真赫に手を引かれて部屋を出た。廊下の壁際には旅籠の使用人が並んで額ずき、私が前を通り過ぎるといっそう深く叩頭する。
 正面玄関から外に出ると、強烈な陽光に視界が白くなった。
 睫毛を上下させると、物々しく武装した人びとがこちらに向かって跪いていた。騎兵は下馬し、立っているのは先導の真赫と私、そして水沙比古だけだ。
 褐色(かちいろ)の地に金糸銀糸で煌らかな刺繍をあしらった上衣。すっきりと額を見せる結髪に匣型の冠――地位や身分のある成人男性が公的な場で身につける被り物だ――を戴いた正装は、見慣れぬ異国の貴公子のようで困惑した。
 緞子の帯に提げた実戦向けの長剣があまりに無骨で、なんだかちぐはぐだ。当の水沙比古は神妙そうな面持ちを装いながら口をへの字に押し曲げており、いかにも少年らしい表情に思わず笑ってしまった。
「卑流児王子殿下並びに夕星内親王殿下、お揃いにございます」
 真赫が声を上げると、人びとがいっせいに平伏した。
 一団からひとりの兵士が進みでた。
 口髭を貯えた中年男性である。ほかの兵士よりも立派な具足を纏っており、どうやら一団を率いる勅使らしい。
 勅使は恭しく一礼し、立ち尽くす水沙比古と私へ伊玖那見語で話しはじめた。
「『常夜大君のお導きによりニールヤ(海の彼方の国)から還られし稀なる方々よ。イゥナムヤ(伊玖那見)巫王(ふおう)に代わり、ご帰還を心よりお慶び申し上げます』」
 傍らに控えた真赫が七洲語に通訳してくれた。
 巫王とは古い時代において祭司と君主を兼ねた首長を意味し、いまでは大神女の別称となっている。
「『これより、われらが王宮までお供仕ります。王子殿下と内親王殿下にはご不便をおかけしますが、おひとりずつ輿に乗って移動していただきます』」
「待て。ひとりずつ、だと?」
 水沙比古が口を開くと、勅使は面食らったように目を瞬かせた。
「おれは内親王の従者……護り手(ナグル)だ」
 少年が発した単語は七洲のものではなかった。伊玖那見人たちはハッと瞠目し、水沙比古を凝視する。
「おれも同じ輿に乗るか、馬で横を並走する。護り手が主人(ヌル)のそばを離れるわけにはいかない」
 真赫と勅使が視線を交わす。勅使は水沙比古へほほ笑んで頷いた。
「『承知いたしました。それでは、おふたりごいっしょに輿へお乗りください。少々手狭にはございますが、担ぎ手を増やしますので乗り心地はご心配に及びません』」
「わかった。……ありがとう(ニファー)
 おそらくは感謝を告げる言葉に、勅使は深々と拱手(きょうしゅ)した。
 真赫が私の手を水沙比古に託す。少年に手を引かれて輿に乗りこんだ。
 唐破風を思わせる天蓋に覆われた輿は、大人ふたりがなんとか並んで座れるほどの広さだった。垂れ絹が四方を囲み、床にはやわらかな織物が敷かれている。
 水沙比古の隣に腰を下ろすと、号令とともに輿が持ち上がった。わずかな揺れのあと、担ぎ手たちが歩きだす。
 はじめての感覚に思わず水沙比古の腕にしがみつく。すぐさま背中にてのひらが添えられた。
「平気か?」
「な、なんとか……」
 水沙比古は垂れ絹をつまみ、隙間から外の様子を窺っている。
「大路に出るぞ。すごい人だかりだ」
「え――」
 路地を抜けると喧騒が押し寄せてきた。
 息を呑む。神女の瞳が垂れ絹を透過させ、行列をひと目見ようと沿道に詰めかけた群衆を映しだす。
 老若男女が手を振って歓呼し、妣なる女神と藩王家を称える言葉を叫んでいる。どこからともなく花が舞い、色鮮やかな祝福となって人びとを熱狂させた。
 固く目を瞑り、外界の情報を遮断する。水沙比古が気遣わしげに背中をさすった。
「二の媛?」
「ちょっと熱気にあてられただけ」
 呼吸を整えて瞼を開く。陽射しが遮られた輿の中で、心配そうな水沙比古が顔を覗きこんでいる。
 視えるものに惑わされてはいけない。視るべきものを見定め、守るべきものを見誤ってはならない。
 いま、いちばん大事なのは、水沙比古と、私自身だ。
 伊玖那見が私たちにとって本当に安寧の地なのか、まだわからない。夢で聞いた『声』は「生大刀を探しなさい」と伝えてきたけれど――あれは女神が授けた使命なのだろうか?
 わからなくても前へ進むのだ。私が夕星(わたし)であるために。
 水沙比古の手を握る。銀碧の瞳が戸惑うように泳いだ。
「それにしても驚いたわ」
「え?」
「伊玖那見語よ、さっき話していたでしょう。もしかして、昔のことを思いだしたの?」
 故郷の土と風に触れて、失われた記憶がよみがえったのだろうか。
 私の疑念に、水沙比古は苦笑いをこぼして頭を振った。
「違う。伊玖那見人の舟乗りに簡単な言葉を教わったことがあるだけだ」
「ああ……なるほど」
「伊玖那見の王子らしく伊玖那見の言葉で話しかけたら心証がいいと思った。要求が通りやすくなる」
 呆れるほど打算的だ。
 舟乗りという危険と隣り合わせの生業に就いていたせいか、水沙比古の判断には常に迷いがない。羅針盤を持たない渡り鳥が広大な海原でも針路を見失わないように。
 なんだか気が抜けて笑ってしまった。
「あなたは本当に頼もしいわね」
「親父どのと婆さまから二の媛を任されているからな」
 水沙比古は右の拳で胸を叩いた。
 袖口から覗いた手首には舟乗りの護符のほかに、私の編んだ髪紐がしっかりと巻かれていた。いつものような気軽な束髪を許してもらえず、使えなかったのだろう。
「伊玖那見語では、『従者』は『ナグル』というの?」
「『護り手』や『護衛官』という意味が近いな。一般的には貴人の身辺警護を務める武人のことだ。『ヌル』は『主人』や『雇い主』という意味だ」
 水沙比古は日常的な言葉をいくつか教えてくれた。『ありがとう』は『ニファー』、『こんにちは』は『ハーティヤ』、『さようなら』は『ウジャービルヤ』……大陸文化の影響で、礼をするときには片手のてのひらを立ててもう片手で拳を作って添える拱手というポーズを取るそうだ。
 輿が王宮に到着するまで、私たちはそんな風に他愛もないやりとりを続けた。
 つないだ手は、どちらからも離そうとはしなかった。

二 夢告の王子〈2〉

 王宮は高い石垣で幾重にも囲われていた。
 宮中へ入るには、石壁がそそり立つ谷底のような坂道をぐねぐねと登っていかなければならない。まるで石造りの迷路のようだ。
 朱塗りの楼門をくぐり抜けた瞬間、むせ返るような花の香に包まれて息を呑んだ。
 ひらり、風に垂れ絹が翻る。
 色鮮やかな衣を纏った乙女たちが舞い踊るかのごとく、花々が咲き乱れていた。
 ぶっそうげはもちろん、紫や淡紅のいかだかずら(ブーゲンビリア)、燃えるように真っ赤なさんたんか、橙黄色の蝶が翅を広げたようなおおこちょう――
「花神が遊ぶ庭のようだな」
 水沙比古が感嘆をこめて呟いた。
 どこまでも青く広がる南国の空の下、花の波間に翡翠色の瑠璃瓦と紅緋の外壁の宮殿が浮かんでいる。大陸文化の香りが漂う、壮麗な佇まいだ。
「あれが王族の御殿か?」
「ええ。いちばん立派な殿舎が大神女や稚神女の御座所がある正殿。その裏に、後宮である奥殿が建っているそうよ」
 王宮は、まず内郭と外郭に分けられる。内郭は王族の居住エリアと行政・儀礼の場、その他の施設は外郭に点在する構造だ。
 内郭は玉庭(ぎょくてい)と呼ばれる広場を中心に、西に正殿、行政を司る北殿、儀礼を司る南殿が建つ。この玉庭は諸官が大神女・稚神女に拝謁したり、異国の使者を迎えたりする場所らしい。
 行列は玉庭の中央を進む。広場は敷き瓦で舗装されており、馬蹄の音が高く響いた。
 広場の周囲には優に百人を超える正装の男女が並んでいた。母系社会の伊玖那見では女性の官吏も珍しくはなく、色とりどりの衣裳に目が眩みそうだ。
 号令に合わせて行列が止まる。わずかな揺れとともに輿が下ろされた。
「『尊き太母、われらが大神女に申し上げます。常夜大君のお導きにより、陽と月の都から参られし客人(まれびと)をお連れいたしました』」
 勅使が伊玖那見語で声を張り上げる。輿の外で人影が動き、垂れ絹がまくり上げられた。
「王子殿下、内親王殿下。どうぞお降りください」
 垂れ絹の陰から真赫が促した。水沙比古が無言で頷き、先に輿から降りて手を差しだす。
 その手を借りて垂れ絹をくぐると、凄まじい情報量のヴィジョンが脳裏に流れこんできた。
 遠い過去から近い未来まで、この場に焼きついた記憶が溢れ返る。
 大陸から渡ってきた使節団の行列。力強い太鼓のリズムに合わせて舞い踊る妓女たち。銅色の波のように揺れるかがり火の輝き。
 ――いやだ……いやだ! 
 ――いかないで、ヒコ!
 変声期前の、甲高い少年の叫び声が木霊する。
 激しいスコールが叩きつける中、女官たちに取り押さえられた少年が必死に手を伸ばしていた。いや――少年と呼ぶには幼い、男の子。
 虚空を掻く指先のむこうには、雨に打たれながら立ち尽くす男の子がいた。手を伸ばす男の子と同じ顔をした、白茶けた髪と浅黒い肌、海色の瞳の男の子。
 ――ごめんね、ナキ。
 寂しげにほほ笑む頬を雨垂れが涙となって伝い落ちる。
 ――でもぼくは、常夜大君に感謝しているんだ。ぼくを選んでくださったことを、おまえを生かしてくださったことを。
 ――母さまの罪はぼくが贖う。だからナキ、おまえは…… 
 雨音が男の子の台詞を掻き消した。
 水沙比古の手を握り、呼吸を整える。両脚を踏みしめ、ぐらぐらと揺れる視界の均衡を取り戻していく。
 優秀な従者は黙って手を握り返してくれた。日避けの紗布越しに目が合い、大丈夫と小さく頷いてみせる。
「そのまま正殿へお進みください」
 真赫の言葉に、私たちはゆっくりと前方――正殿に向かって踏みだした。
 玉庭から続く正殿の正面には石段が延び、その上は龍蛇が巻きつく太い柱に囲われた舞台になっていた。舞台の奥にある戸口は五色の垂れ絹に覆われ、屋内を垣間見ることは難しい。
 舞台のすぐ下、石段の両脇に女性たちが三人ずつ並んでいた。ほかの女性官吏よりも華やかで高貴な装いに身を包み、眦には魔除けの紅を差している。
 階下から彼女たちと視線を交わした刹那、大神女に仕える高位の神女なのだと直感した。育て親の婆を彷彿とさせる静謐な瞳がほほ笑んだ。
 長い袖で顔を隠すように神女たちが拱手した。最も上段に控えた神女が溶々と告げる。
夜の食す国(ネィラエィラ)より参られし死返しの若子と乙女子よ、ご帰還を心よりお待ち申し上げておりました」
 まるで京人のように訛りのない七洲語だ。面食らっていると、神女が面を伏せたままささやいた。
「どうぞ舞台へお上がりください。稚神女がお待ちです」
「……大神女に拝謁するのでは?」
 水沙比古が小声で尋ねると、神女はわずかに袖を揺らした。
「畏れながら、大神女は仔細あってこの場にはお出ましになりません。本日は稚神女が代理としてお会いになられます。大神女へのお目通りは日を改めて機会を設けさせていただきますので、何とぞご容赦くださいませ」
 深々と垂れた神女の頭を胡乱げに見下ろし、水沙比古は視線で「どうする?」と問うてきた。
 私はこくりと頷いた。
「彼女の言うとおりにしましょう。嘘はついていないわ」
「……わかった」
 水沙比古のくちびるは若干不服そうに尖っていた。
 神女の前を通過して舞台へ上がる。一瞬、水中へ潜ったかのように耳の奥で空気が膨らんだ。
 階を駆け上がるように風が吹きつけ、戸口を覆う垂れ絹が閃いた。
 薄い布地を透かして人影が見えた。
 内側から垂れ絹を掻き分け、スウと褐色の腕が伸びた。細い金の手環をいくつも手首に嵌めた、骨張った大きな手だ。
 まるで――青年への過渡期にある、少年のような。
「こちらへ」
 垂れ絹のむこうから誘う声にわたしは息を呑んだ。水沙比古の声だった(・・・・・・・・・)
「もっと近くまで来ておくれ」
 シャランと手環が澄んだ音色をこぼす。
 垂れ絹をまくり上げ、手の持ち主が現れた。
 水沙比古の喉がヒュッと鳴った。
 同じ水面から弾きだされた雫のように水沙比古そっくりの少年が立っていた。
 腰まである砥粉色の髪をハーフアップにして、頭頂部で結った髷に金鈿と赤いぶっそうげの花を挿している。金鈿から垂れた雫型の金鎖が柱のあいだから射す斜光をきらきらと弾く。
 山吹色の地に濃い赤や紫の花が咲き乱れる上衣と茜色の裳をゆったりと纏った長身は、あきらかに女性ではない。だが化粧をして魔除けの紅にふちどられた双眸は、南国の巫女姫にふさわしい美しさと神秘性を湛えていた。
 間近で向き合って気がついた。顔立ちは水沙比古に酷似しているが、稚神女の瞳はエメラルドグリーンの海面に金砂を蒔いたような色合いだった。
 奼祁流のときと同じだ。初対面のはずなのに強い既視感がまとわりつく。
 稚神女は無邪気な笑みとともに両腕を広げてみせた。
「嗚呼! 嗚呼! この日が来ることを幾年待ち続けたか! ようやく、ようやくわたしの片割れが帰ってきた!」
 金の足環をシャラシャラと鳴らして駆け寄ってくる。水沙比古がすばやく私を背に庇うと、手が届くか否かという距離で立ち止まった。
「ヒコ」
 期待と不安がこもった声が水沙比古を呼んだ。
「わたしだよ。ナキだ、那岐女(なきめ)だ。わかるかい?」
 水沙比古は眉根を寄せ、同じ貌をした少年を見つめた。
「おれは和多の水沙比古だ。それ以外の何者でもない。……この国のことも、あんたのことも、何も憶えていない」
 稚神女――那岐女と名乗った少年の両腕がだらりと垂れた。
 花が萎むように笑顔が消え、表情がくしゃくしゃに歪む。那岐女は目を閉じ、長く息を吐きだした。
「そうか……聞いていたとおりだ。ごめん、困らせてしまったね。気を悪くしないでおくれ」
 頭を振り、朗らかな笑みを作り直す。
 ふと、金色の粒子が散らばる翠緑の双眸が横に滑った。
 私を視界を納めた那岐女は、きゅうと下瞼を持ち上げた。
「はじめまして――は、おかしいかな。あなたとは夢で会ったことがあるのだから」
 そうだ。夢の中で、私はかれと遭遇した。
 冥い海の波間に佇んでいた人影。運命の潮流を手繰り寄せんとする異邦の巫覡。
 闇の女神の恩寵たる金色を瞳に戴く、私の同族。
 私は日避けの紗布を払い落とした。
 那岐女は眉を押し上げ、品定めするかのように私の両目を注視する。
「お婆様がおっしゃっていたとおりだ。黄昏の火を宿した朱金色の瞳。妣なる女神の(とき)を告げる、先触れの娘のしるし」
 夕星媛、と妖艶にほほ笑むくちびるが私の名を発する。引きずりこまれるような力を感じ、私は視線に威嚇と拒絶をこめた。
 小さな火花が弾けると、那岐女は驚きを覗かせた。
「『はじめまして』が正解でしょう。夢は夢、ここは現よ」
 ぱちぱちと瞬き、おもむろに口端を吊り上げる。
「これは失礼」
 女らしい膨らみなどまったくない胸元に手を当て、那岐女は「改めて名告(なの)ろう」と言った。
「わたしは那岐女。巫王の世子にして摂政たる稚神女。まあ見てのとおり性別は男なので、単なる中継ぎに過ぎないけれどね」
「中継ぎ?」
 私の問いに肩を竦めてみせる。
「不幸なことに、いまの王家には大神女の跡目となれるほどの才ある女子がいないんだ。傍流の傍流すら隈なく探して、結局男子のわたしが成人するまで仮の稚神女を務めることになったんだよ」
「……稚神女は、おれの妹だと聞いた」
 黙りこくっていた水沙比古が口を開いた。
「だが、あんたは……おれの弟、なのか?」
「そうだよ」
 那岐女は目を眇めて肯定した。
「同じ母から生まれた、双子の兄弟だ。対外的にわたしは女ということになっているから、妹だと伝わったのではないかな」
 またしても双子だ。明星と私、奼祁流と阿倶流、そして水沙比古と那岐女。
 夢で見た、闇色の海へ流された三つの玉繭を思いだす。
 ひとつはまほろばに。ひとつは北に。ひとつは南に。それぞれの玉繭が流れ着いた先に双子が生まれ、見えざる手が糸を繰るように引き寄せられる。
 ぞくりとした。偶然と片付けるには、あまりに出来すぎだ。
 この世界には神様がいるのだ――といまさら実感し、戦慄した。人間の意志を遥かに超越した存在によって物事が進んでいるのだとしたら、おそろしさに足元が崩れてしまいそうだ。
「堂々と姿を見せてもかまわないのか? 女だと偽っているのに」
 水沙比古がちらりと舞台の下を一瞥する。那岐女は自慢げに胸を張った。
「心配は無用さ。ごく一部の者以外には、わたしを女だと思いこむ惑わしの術をかけているんだ。念のために舞台の周りに防音の結界も張っているから、下まで会話が聞こえることはないよ」
 舞台に上がった際に覚えた違和感の正体に得心が行った。北夷の男巫同様に、伊玖那見の稚神女もまた優秀な呪師のようだ。
「家臣を騙しているのか」
「余計な混乱を防ぐためだよ。それに、わたしはあくまで中継ぎだと言っただろう? 稚神女になれる真の巫女姫が現れたのだから、すぐにでも退くよ」
 批判的な兄の口ぶりに、弟はひらひらと手を振った。
「真の巫女姫?」
 先ほど女子がいないと説明したばかりなのにと疑問符を浮かべると、那岐女は私へにっこりと笑いかける。
「あなただよ、夕星媛」
「……なんですって?」
「血筋も異能(ちから)も不足ない、当代の王家で最も稚神女にふさわしい姫宮だ。これは常夜大君の思し召しだよ」
 予想外も甚だしい展開に唖然とするしかない。
 水沙比古は険しい横顔で那岐女を睨んでいる。そんな視線など意に介さず、那岐女は笑みを深めて言祝ぎを謳う。
「弥栄、弥栄。(うま)伊玖那見(イゥナムヤ)と死返しの稚神女に、女神の祝福ぞあれ!」

ニ 夢告の王子〈3〉

 ――私が大神女の後継者?
 那岐女の言葉を何度咀嚼しても飲みこめない。玉庭に降り立ってから湧き水のように溢れる幻影とぐちゃぐちゃに混ざり合い、吐き気すら覚えた。
「おや。顔が真っ青だ、大丈夫かい?」
 きょとんと瞬いた那岐女が顔を覗きこんでくる。すかさず水沙比古が袖で壁を作った。
「気安いぞ。近づくな」
「なんだよ、心配しただけじゃないか」
 那岐女はむっとした様子で口を尖らせた。
「年ごろの近い親族同士、仲良くするべきだろう? それに、夕星媛にはわたしの子を産んでもらうかもしれないのだし」
「……なんだと?」
 水沙比古の声がぞっとするほど低くなった。
 私は呆然と那岐女を見つめた。はくはくと口を震わせ、なんとか言葉を押しだす。
「私が、あなたの子――を?」
 那岐女は、なぜ驚くのかわからないと言わんばかりに小首を傾げた。
「次代の稚神女候補を増やすためだよ。わたしもあなたも巫覡だから優れた素質を持つ子が生まれやすい。再従姉弟同士なら、近親婚による弊害も心配いらないだろうし」
「まっ……待ってちょうだい。勝手なことを言わないで!」
 私は水沙比古の腕にしがみついて頭を振った。髪に挿した花がはらりと散る。
「私と水沙比古は、藩王家で保護してもらえると言われて伊玖那見まで来たのよ。稚神女になるとか結婚して世継ぎを産むだとか、そんな話は聞いていないわ!」
 砂金水晶(アベンチュリン)の双眸が私を覗きこみ、チシャ猫みたいに笑った。
「特に伝えていないからね、あなたの祖父君には」
「え……」
「だけど、藩王家にあなたたちの身柄を託した時点で承知されていると思うよ? 王族の一員として遇されるなら相応の対価を求められるってね」
 水沙比古の肩がぐっと強張る。
「親父どのが、おれたちを藩王家に売ったのか?」
「ええ? なんで飛躍するのかなあ。違う違う、和多の氏長はあなたたちが生き延びる道を探して伊玖那見へ逃したんだ」
 那岐女はひらひらと片手を振った。
「伊玖那見に渡れば夕星媛は次代の稚神女、ヒコは現稚神女の兄宮。常夜大君のお墨付きなんだから、殺されたり手酷く扱われたりする心配もない」
「……つまり、藩王家の庇護を得たければ二の媛に身を差しだせということか」
 いまにも腰の得物に手を伸ばしそうな水沙比古の様子に、那岐女は下瞼を持ち上げた。
「そんなつもりはないけれど。単純に、今後発生するだろう王族としての義務の話をしていただけだよ」
「命からがら逃げてきた相手にする内容ではない」
「ヒコは何に怒っているの? 夕星媛がわたしの子を産むことが気に食わない?」
 水沙比古を包む怒気がぶわりと膨らむ。私はとっさにかれの腕を掴んだ。
「だめよ、剣を抜いては!」 
「しかし」
「私たちはまだ客人(まれびと)――余所者なのよ。稚神女に刃を向ければ、ただでは済まないわ」
 水沙比古の眉が険しく歪む。私は首を横に振ってみせ、悠然と佇む那岐女に向き直った。
「藩王家が私に期待する役割はわかったわ。でも、諾々と従える話ではとうていないわね」
「何が気に入らない? ああ、もしかしてふたりは妹背の仲なのかな。わたしとの結婚というのがまずかった?」
 那岐女は薄く笑んだまま、探るようにねっとりとした視線を注いでくる。
 かすかに滲む苛立ちと嫉妬めいた感情に、私は困惑した。
「違う」
 水沙比古はきっぱりと否定した。
「おれたちが交わしたのは妹背の契りではない。主従の誓約(うけい)だ」
「……ヒコは夕星媛の従者なの?」
「そうだ。おれは和多の水沙比古、二の媛の護り手。そう在ると、神にではなく己に誓った」
 迷いなく宣言し、かれは私を庇う腕に力をこめた。
「おれは二の媛の剣であり、盾だ。二の媛が望まぬことは、けして許さない。もしも無理やり世継ぎの責を負わせ、挙句に子を孕ませるというのであれば――」
「わたしを斬るかい?」
 ひどく暗い声で、那岐女は問うた。いつの間にか紅い口元から笑みが抜け落ちている。
「その手で、わたしを」
 水沙比古は頭を振った。
「去るだけだ、伊玖那見を。おれは、二の媛が心安らかに暮らせる土地へ連れていってやりたい。七洲にも伊玖那見にもないのなら、ほかの国を探す」
 淡々と、本当にそう考えているのだと伝わる口調で、水沙比古は告げる。
「二の媛の心と身を損なってまで、この国に尽くす義理はない。おれはもともと死人で、二の媛は七洲の皇女。客人は、いつか立ち去るものだ」
 どこまでも私に添おうとするやさしさが胸に痛い。
 那岐女は半身を見つめ、ぼんやりと立ち尽くしていた。
「また、わたしを置いていくの。あの日のように――わたしをひとりぼっちにするの」
 褐色の面に引きつれたような笑みが浮かぶ。一瞬、そこに明星の顔が重なった。
 ともに死んでくれと縋ってきた片割れの手を私が振り払ったように、水沙比古もまた失われた記憶とともに過去の絆を手放そうとしている。
 ――ぷつ、と、いまにも糸が切れてしまいそうな音がした。
 冥き泥の海に落とされた三つの玉繭。ひとりでは耐えがたき定めにも、ふたりでなら耐えられるはずだと希望を語っていた女の声。
 あの声の主が常夜大君――闇水生都比売なのだとしたら、彼女は力を合わせて苦難を乗り越えられるよう私たち三組の双子を現世に送りだしたのではないか。
 全き一対に揃えられたはずの私たちは、すでにひと組――明星と夕星(わたし)――が決裂に至った。さらにひと組、水沙比古と那岐女が袂を分かてばどうなるのか。
 ぷつ、ぷつつ、と、縁の糸がちぎれていく。このままぷっつりと断ち切れたら……
 視界がぶれた。
 絹を裂くような悲鳴が聞こえる。
 おうおうと渦巻く、無数の人びとの叫び。
 世界が真っ赤に塗り潰される。流血。業火。侵略。破壊。殺戮。破壊。殲滅。死。死。死。死死死死死死――!
 紅蓮の赤に、黒い影が浮かび上がった。
 天を衝くほどの巨大な人影が地を這いずり、山の峰を磨り潰す。
 虚ろな闇でできた腕が振り下ろされると、大地が割れ、地中の熱が鮮血のごとく噴き上がった。巨人が触れた水はどろどろした黒色に濁り、河川も湖沼も海洋も腐り澱んだ死の淵に変貌した。
 巨人が咆哮する。
 深紅の(そら)から漆黒の万雷が地上へ降り注ぎ、野を、森を、田畑を、人里を灼き尽くす。雷鳴は祝砲、魑魅魍魎が高らかに歓呼する。
 世界から遺棄された神、死の王の名を――
「だめよ」
 私の言葉に、那岐女がはたりと瞬いた。
 水沙比古が怪訝そうな顔をする。
「二の媛?」
「だめなの、水沙比古。確かに私たちは客人だけれど、まだ伊玖那見に留まらなければ。この国で見つけださなければならないものがあるのよ」
 私は水沙比古の隣に並び、呆とこちらを見る那岐女と向き合った。
「それにはあなたが必要。神代から常夜大君の神陵(みささぎ)を守り続けてきた巫の裔、稚神女であるあなたが」
「わたしは……仮初めに過ぎない」
「仮初めでも中継ぎでも、あなたは太母神が認めた稚神女だわ。その口が言ったのよ、私たちを招いたのは常夜大君の神託があったからだと」
 那岐女の双眸に力と光が戻る。同時に、悔しげに口を引き結んだ。
「伊玖那見に来るまでのあいだ、夢で女神とおぼしき声を聞いたの。『生大刀を探しなさい』とおっしゃっていた」
「生大刀?」
 那岐女は眉をひそめた。「なんだい、それは」
「私にもわからないわ。七洲の神話では聞いたことがなかったから」
「わたしも初耳だよ。お婆様……大神女なら何かご存じかもしれないけれど」
 若干の落胆を感じつつ、私は気を取り直して訴えた。
「那岐女殿。あなたは私たちの――七洲の現状を知っているのでしょう? 大皇は私の姉に弑され、皇太子の身柄と京は姉と通じていた火守の民の手に落ちた」
「ああ、おおよそは。妣なる女神の娘、炉端の姫神を奉じる巫は、わたしと同じおのこだね。かれはとても強い……おそろしい異能の持ち主だ」
 砂金水晶のまなざしが冴え冴えと澄む。
 那岐女の瞳は、北の果てからやってきた火守の男巫をはっきりと捉えていた。
「かれは破壊者だ。あなたの姉宮と出会い、滅びをもたらす道を選んでしまった。かれと明星媛が熾す火は、いずれ七洲にとどまらず伊玖那見にも大陸ひも広がっていく――」
「そして、死の王が現れる」
 那岐女が息を呑んだ。
「死の王……悪霊王(あくりょうおう)か!?」
「悪霊王?」
 なんとも禍々しい響きに水沙比古が顔をしかめる。
「妣なる女神が光の男神とのあいだに最初に儲けた子どもだよ。体のあちこちが欠損した、肉塊のような異形だった。あまりの醜さに父神に疎まれ、泥の海に投げ捨てられたんだ」
 葬り去られた名もなき不具の神。七洲の神話でも、「わが生める子よくあらず」と嘆いた耀火大神の手で海に流されたとしか伝わっていない。
「棄てられた神という意味で棄神(きしん)と呼ばれる場合もある。棄神が沈んだ場所に、やがて北方の島々――氷波弖列島が創られた。続いて七洲、最後に伊玖那見ができた」
「棄神が沈んだ場所に?」
「そう、それがまずかったんだ。弔われずに打ち捨てられた棄神の怨念が大地を蝕み、北の陸地は天上の光輝が落とす影から生まれた悪しきものどもが跋扈するようになった」
 天上の光輝の影から生じた悪しきものとは、私たちが陰りに潜むものと呼ぶ存在だ。あれらは棄神の落とし子なのだと知り、寒気に身震いした。
「棄神の呪詛は、国産みのふた柱が生んだ陸地のほぼ全域に及んだ。特に七洲の北部、氷波弖列島の穢れは悲惨で、国つ神ですら逃げだす有り様だった」
「だが、あすこにはもともと北夷の国があったはずだろう?」
「火と炉を司る炫和祺比売(かがなぎひめ)、北方ではオルヘテと称される姫神が棄神の怨念を鎮めるお役目に志願されたんだ。棄神に悪霊王という仮初めの名を被せて慰撫し、荒魂を封印した。炫和祺比売の御光で棄神の陰りは薄らぎ、姫神を慕った氏族が北の地に移り住んだ」
 炫和祺比売を奉じる氏族は、やがて火守の民と自称するようになった。
 次第にほかの国つ神や氏族も北へ生活圏を広げ、国産みのふた柱が生んだ陸地は命溢るる混沌の時代を迎えた。
「その後の歴史は、夕星媛のほうが詳しいよね?」
 那岐女がちらりと視線を投げてきた。
 私はくり返し婆に聞かされた寝物語の記憶を掘り起こした。
「神代末期の七洲は数多の国つ神を奉じる氏族たちが割拠していたのだけれど、争いが絶えない不安定な世だったの。それを憂いた耀火大神によって天孫……太陽と月の兄妹神の御子である赫流比古命(あかるひこのみこと)を地上に遣わして、七洲の平定をお命じになった」
 赫流比古命こそ皇統の祖だ。七洲平定の大事業は三世代に及び、赫流比古命の孫に当たる初代大皇の御世に成し遂げられたとされる。
七洲(くに)の平定は、皇にまつろわぬ国つ神とそれを奉じる氏族の討伐という側面もあったの。いくつもの国つ神が名を奪われ、信仰を捧げる民を滅ぼされ、歴史の闇に消えていった……」
「だが、神々の無念は地上に残された」
 思わず喉が鳴る。
「天つ神の血族への恨みは地中深く沈殿し、棄神の怨念と混ざり合っていった。国つ神たちの怨嗟を吸収し続けた棄神は、仮名どおり悪霊の王、死せるものたちの王になってしまったんだ」
「つまり悪霊王は、棄神の怨念と国つ神たちの無念の集合体ということ?」
「あくまで核は棄神だけどね。炫和祺比売の封印がある限り、悪霊王は消えることはなくても眠り続けるはずだった――」
 私はくちびるを噛んでうなだれた。
 皇と風牧の氏族によって火守の民は攻め滅ぼされ、わずかな生き残りは最北の氷波弖列島まで追われた。封印は、失われているに等しい。
「赫日の皇女と火守の男巫によって死の王が解き放たれる。あなたが受けた常夜大君の夢告は、この国のどこかにあるという生大刀を見つけて災厄を回避せよ……ということなんだね?」
「そうよ。私は故郷を守りたい。たとえ刺し違えてでも、姉の暴挙を止めたいの」
「……明星媛を殺すのかい?」
 那岐女が声を低めて尋ねた。押し黙っている水沙比古の表情は硬い。
 無性に泣きたくなって、でも涙はとっくに涸れてしまった。
「いっしょに死んでくれと言われたの。明星には私しかいないから、いっしょに地獄まで落ちてほしいって。でも私は、明星の手を振りほどいて伊玖那見まで逃げてきた」
「二の媛――」
「いっしょにいたかった。いっしょに生きたかった。でもそれが叶わないのなら、ほかのだれでもなく私の手であの子を殺すわ」
 昏く燃えるこの想いが愛だというのなら、私は確かに愛に狂って死んだ父の娘だ。
 私たち皇の愛は苛烈で、支配的で、どこまでも歪んでいる。
「愛している。愛しているから殺すの。そして私は、私の片割れを運命から取り戻す」
 那岐女は目を瞠った。褐色の喉仏が小さく上下する。
「稚神女の座に就くことも世継ぎを産むことも、いまは承服できない。それでも力を貸してくれるなら、あなたをひとりにしないと約束する。あなたの片割れを奪わないと、あなただけに伊玖那見の運命を背負わせないと約束するわ」
「何を言っているんだ、二の媛!」
「水沙比古、わかってちょうだい。私たちには那岐女殿が必要なの。そして那岐女殿には――あなたが必要なのよ」
「それは、巫女としての託宣か?」
 水沙比古は厳しい顔で尋ねた。私は苦い笑みを返し、かれの手を握った。
「そうでもあるし、半分は私個人の願いよ。ようやくめぐり会えたあなたの兄弟を、私のために切り捨ててほしくない」
「……おれはもう、伊玖那見の卑流児ではない」
 銀碧の瞳がさざめく。水沙比古は那岐女を見つめ、血反吐を振り絞るように言った。
「きっとおまえが望むヒコ(おれ)には戻れない。おれには大事な故郷も家族(うから)も主人もある。それでも……おまえが、おれを兄弟と呼ぶのなら――」
「それでいい!」
 那岐女が叫んだ。弾かれたように水沙比古に駆け寄り、寸分違わぬ背丈の兄に抱きついた。
 水沙比古の体が硬直する。やがて那岐女がぐずぐず泣きだすと、脱力して弟の背に両手を添えた。
「それでいいよ。どんな名前でもかまわない。だから、だからもう置いていかないで。わたしの目の前から、いなくならないで……」
「わかった。わかったから、泣くな。おなごの格好をしていても、おまえはおのこだろう」
 ぽんぽんと軽く背中を叩かれると、那岐女は肩を震わせて泣き声を上げた。途方に暮れた様子の水沙比古が視線で助けを求めてくる。
 ――きりりと、儚く途切れかけていた縁の糸が、いまいちど結び直された。
 私は苦い安堵を飲み下し、迷いを滲ませたまま那岐女を抱き寄せる水沙比古の腕に手を重ねた。
 どうか、もう悲しみに引き裂れないように。

三 変若の剣〈1〉

 ざあざあと、波音が聞こえる。
 私は闇の中にぽつんと立っていた。
 無明の闇ではない。三、四十メートルほど先にいびつな円形の穴が大口を開け、淡藍色の星影が射しこんでいる。
 うねうねとさざめく黒い水面の上を星影が滑る。穴の外から吹きこむ潮風が波音を運び、ざあざあと木霊する。
 素足を包む、冷たく湿った砂の感触。どうやら私は海辺の洞窟にいるらしかった。
 星影を頼りにこわごわ前へ進むと、波が爪先を舐めた。ここが水沙(みなぎわ)だ。
 脱出するためには海へ入るしかなさそうだ。覚悟を決めて裳裾を絡げ、片脚を水に浸そうとして――
「それ以上行くと、引きずりこまれて戻れなくなるぞ」
 背後から話しかけられた。
 思わず飛び上がって振り返ると、いつの間にか人影が佇んでいた。
 星影に照らされた面差しは妙齢の女性のものだった。私と同様に、伊玖那見風のゆったりとした上衣と裳を纏っている。
 無造作に束ねた長い巻き毛。明るい髪色に反して肌の色は暗い。星影を吸いこんで青みがかった白目が際立ち、煙るような金色の瞳が蛍石のごとく底光りしている。
「ここは死せる女神の胎内を模した霊場だ。霊魂の状態でふらふら潜り抜けようとすれば、間違いなく肉体に戻れなくなる」
 男性的な口調にもかかわらず、ハスキーな声は不思議と艶っぽい。女性は肩や腕に絡みつく髪を煩わしそうに掻き上げ、危うげのない足取りで近づいてきた。
「どこの見習い神女が迷いこんだのかと思えば……その朱金色の瞳、七洲から亡命してきたという噂の姫宮か」
「あの、あなたは……?」
(さん)だ」
 呆気に取られるほど端的な自己紹介だ。
(なれ)と同じ巫、常夜大君に仕える神女(もの)だ。この霊場の守り目をしている」
 燦殿曰く、この洞窟は実際に那見大島のどこかに存在しているらしい。
 女神信仰の聖地のひとつで神女が行を積むための禁域なのだが、ごく稀に生者の霊魂が迷いこんでしまうことがあるそうだ。まさしくいまの私のように。
 守り目の神女は、生者の霊魂を現世へ導く役目を担っているという。あとは霊場を穢そうとする悪しきものを祓ったり、訪れた神女の修行を手伝ったりするらしい。
(われ)も王族の端くれでな。肉体は王宮にあるのだが、病を得てから長く起きれなくなってしまった。それで、以前の役目は後継に譲って守り目の任に就いたのだ」
 守り目は代々、長時間霊魂の状態で留まれる――死期が近い神女が負うしきたりなのだそうだ。淡々と説明する燦殿の横顔に悲愴感は見当たらず、静かに天命を受け容れているのだと察せられた。
「汝は闇の女神の先触れ、宵告げの娘。知らず知らず女神の痕跡に惹かれて、霊場へ迷いこんだのであろう。力は一流だが、まるで見習いになりたての童のように危うい」
 呆れまじりの批評に首を竦める。単なる陰視として育った私が、巫女の心得など持ちようがない。
 燦殿は眉根を寄せ、首を横に振った。
「いや……汝を責めても詮なきこと。伊玖那見の神女のしるしを忌んだ父御によって、無力な娘に育てよと強いられたのだ。汝を預かり育てた巫女殿は、さぞ口惜しかったであろうな」
 蛍石のまなざしは私の記憶を読み取ったのだろう。見たいものを視る技を持つ、これが巫なのだと痛感した。
 視えたものにただただ振り回されるしかない私とは雲泥の差だ。くちびるを噛んでうなだれていると、「姫宮」と呼ばれた。
「顔を上げて、水面を見てみなさい」
 促されるまま視線を持ち上げると、隣に並んだ燦殿がスイと海のほうへ腕を伸ばした。
 私よりも背が高い彼女はわずかに身を屈め、指先をうねる水面に向けた。
「何が視える?」
「何って……」
「汝は自ずと知っているはずだ。遠きもの、隔たれたもの、秘されたものを視るすべを。吾らにとって、闇は闇ではないはずだ」
 ――闇は闇ではなく、光も光ではない。見えずとも在るものを識る、それがこの目だ。
 ぱちぱちと瞬き、私は両手で目元に触れた。
 眼球がぼうと熱を放つ。瞳が金色に光り輝いていることが手に取るようにわかる。
 瞼を閉ざしても視界は開いていた。金色の光は闇を透かし、暗い水底まで照らしだす。
 洞窟内の砂地がゆるやかな斜面になって海中まで延び、ひと際深い場所が窪地になっている。窪地の中央には、細長い棒のようなものが突き刺さっていた。
 もっとはっきりと識りたくて目を凝らす。
 それは、剣だった。
 ずいぶん古めかしい意匠で、大の男でなければ振り回せないようなずっしりとした幅広の両刃を持っている。海中にあるにもかかわらず錆ひとつなく、銀とも金ともつかない不思議な光沢を帯びていた。
 剣はじっと眠っていた。冷たい海流に身を委ね、いつか再び陸へ上がる日を夢見て待っていた。
 己を振るうにふさわしい使い手の訪れを。
「何がある?」
「剣が……視えます。とても古いのに煌らかで、巨大な生物が眠っているような……」
 私の答えに、燦殿は満足そうに頷いた。
「そう、あの剣は確かに眠っている。遥か神代からずっと」
「神代から?」
「ああ。あれは人ではなく神が造った霊剣だ。あの剣はな、生きて(・・・)いるのだ」
 蛍石の双眸を眇め、幽明の神女はささやいた。
「お隠れになった闇の女神を追いかけて、光の男神が地底を目指した話は知っているか?」
「は、はい。闇水生都比売の死を嘆いた耀火大神が根の国まで赴き、妻を連れ戻そうとするという……」
「そう。当の女神は子らに課した生と死の理を身勝手に破ろうとする夫を疎んじ、地底に居座った。拒絶された男神は女神を憎み、離縁を申し渡して地上へ戻った。かくして光と闇、生と死は完全に分かたれた――とされている」
 しかし、と、燦殿は言葉を切った。
「男神は女神に怒りこそ覚えたものの、変わらず愛し続けていた。妻をあきらめきれない男神は、変若(おち)の剣を造った」
「変若?」
「変若とは若返りのことだ。変若の剣は凄まじい精気を刃に帯びており、握れば傷病がたちどころに癒え、老人を幼子にまで若返らせると云われている」
 私は息を呑んで剣を凝視した。愛する妻に顔を背けられようと、耀火大神はとんでもない代物を生みだすほど何ふりかまわずにいられなかったらしい。
 燦殿は片頬を歪めて笑った。
「偉大な神も、愛に狂えば莫迦な男でしかないというわけだ。変若の剣を死者に握らせれば、その命を生者まで巻き戻すことができる。男神は変若の剣を使って女神をよみがえらせようとしたのさ」
「つまり、死返し?」
 私の問いに燦殿は深く頷いた。
「だが、男神の企ては結局失敗に終わった。律を乱すふるまいを見咎めたほかの神々によって阻止され、剣を天上から盗みだして男神の手が及ばぬ地に封じたんだ」
 剣を盗んだのは、右津比売(うずひめ)左具比売(さぐひめ)という双子の女神だった。
 姉の右津比売は舞踊の名手、妹の左具比売は吉凶を占じる巫女。姉妹は協力し合い、右津比売が得意の舞で耀火大神を誘惑している隙に、左具比売が剣を抱いて天上から飛び降りた。
 巫女である左具比売は闇水生都比売の啓示に導かれて地上を彷徨し、ついに女神の加護篤き南の果ての島々に至った。
 そこには、耀火大神の怒りを買って惨たらしい姿に変わり果てた右津比売が打ち捨てられていた。
 悲嘆に暮れる左具比売に、闇水生都比売は右津比売の手に剣を握らせるよう促した。左具比売が女神の助言に従うと、右津比売の傷はみるみる癒えた。
 姉妹は抱き合って再会を喜んだ。そして闇水生都比売の(はら)に擬した海辺の洞窟に剣を沈めると、封印の守り目となった。
「やがて姉妹はそれぞれ夫を迎えて子を儲け、現在まで続く藩王家の祖となった。これが藩王家に伝わる建国神話だ」
 仲睦まじく、手を取り合って困難を乗り越えた双子の姉妹神。羨望が切なく胸を焦がし、とっさに目を伏せた。
「……はじめて知りました」
「光の男神を御祖として奉ずる七洲の皇家にとっては恥部のような話だからな。歴史は常に権力者の都合のいいように改竄されるものさ」
 燦殿は肩を竦めてみせた。
「藩王家も同類だ。時代が下ると七洲の反感を買いかねない真実は隠蔽された。大神女や補佐を担う女たちのあいだで、口伝しか残っていない」
 那岐女が、自分は単なる中継ぎに過ぎないのだと笑っていた理由がわかった気がした。
「教えてくださったのは……私が次の稚神女候補だからですか?」
「いいや? 常夜大君からの神託を受けたからだ。『七洲から渡ってくる乙女が伴う若子こそ、生大刀の担い手である』と」
 ぎょっとして燦殿を見る。ぶっそうげ色の爪紅に彩られた指が剣を示した。
「変若の剣は、別名を生大刀ともいう。生と死の理を塗り替える力を持つ剣を御せるのは、死返し――よみがえりを果たした理の外にいる者だけ。すなわち汝と、汝の護り手だ」
「私もというのなら、なぜ水沙比古が剣の担い手なのですか!?」
「巫女たる汝は神の剣を振るうのではなく、その荒魂を慰撫し鎮める役目こそふさわしい。一方であの若子は、汝のためならばいかにおそろしき力もたやすく振るうだろう。しかし、汝がいる限り剣の神性に呑まれることはない。汝は剣の鞘であり、担い手を人の世につなぎ止める錨なのだ」
 燦殿の指先が掠めるように頬をなぞる。死者に近い生者だからなのか、体温は冷たいほど低かった。
 淡い紅を乗せた口元を歪め、燦殿は悲しげに笑った。
「すまないな。吾は女神の意志を語るすべしか持たない。(わい)らの宿命を、ただ見届けることしかできないのだ」
「燦殿――」
「ああ……近くで見れば見るほど懐かしい色をしているな、汝の瞳は。香彌によく似ている」
 祖母の名を呟く声には、途方もない年月を経た哀惜がこもっていた。
「祖母を知っているのですか?」
「ふふ。汝が視ている姿よりも、本来の吾はしわくちゃの婆でな。香彌とは童のころから同じ宮で寝食を共にし、稚神女の座を競い合った仲だ」
 幽魂の姿は肉体に引きずられるものだが、死者や死期の近い生者の場合、自ずと当人が望む姿を取るらしい。
 燦殿が若かりしころの姿を取る理由のひとつは、姉妹のように育った幼なじみだという祖母なのだろうか。
「香彌は抜きんでた才を持つ神女だった。彼奴(あやつ)こそが稚神女として立つのだろうと、だれもが思っていたよ。吾も、いつか大神女になった香彌を(たす)けることが自分の役目だと疑いもしなかった」
「祖母は……大神女の座をめぐる争いに破れて国を追われたと聞きました」
 燦殿はゆるりと頭を振った。
「香彌は自ら跡目争いから退いたのだ、『自分の天命はこの国にはない』と言って。国を捨て、旅女の一座に紛れて七洲に渡った」
 祖母が異国に見出した天命とはなんだったのだろうか。燦殿のまなざしが振り向き、まぶしげに私を見つめる。
「別れのとき、彼奴は不可思議なことを言い残した。『(そら)から燃え落ちる星は地表に至る前に消えてしまう。けれども、消えずに地上までたどり着いたら、それはきっと意味があることだと思わない?』と」
「星……」
「汝を会ってようやくわかった。香彌は未来(さき)を視ていたのだろう。地上にこぼれた星の宿命を――」
 ざああ、と波音がひと際大きく響いた。
 洞窟の穴から吹きこむ風が燦殿の髪を炎のように靡かせる。星影を帯びた神女の指が伸びて、そっと額に触れた。
「この霊場を探しなさい。剣の担い手と稚神女とともに、いまこそ生大刀を解き放つのだ」
「まっ……待ってください! まだ聞きたいことが――」
しるべ(・・・)は授けた。あとは汝次第だ」
 燦殿はうっすらとほほ笑み、仄光る袂をひらひらと振ってみせた。
(おそ)れるな。光は汝の裡にある。闇は汝とともにある。その眼で、世界を見定めなさい」
 潮風に押され、急速に彼女が遠ざかっていく。
 私は無我夢中に手を伸ばし――ふつりと意識が暗転した。

三 変若の剣〈2〉

 ゆらゆらと爪先が揺れている。
 いや、体そのものが揺れていた。横抱きの状態で移動しているのだと悟り、瞼を押し開く。
 視界は薄暗かった。点々と浮かぶ赤い楕円形の光は――長い回廊を幻想的に照らす、布製の火屋で覆われたランタンだ。
 上を向くと、夕焼けのようなあかりに染まった少年の横顔が見えた。睫毛が光を弾き、銀碧の双眸がふわりと笑う。
「目が覚めたんだな。気分はどうだ?」
「――水沙比古?」
「うん。憶えているか? 宴の途中で酔い潰れてしまったんだ」
 水沙比古の台詞を聞いた途端、胸がむかむかするような不快感がこみ上げた。
 思わず口元を押さえて呻くと、水沙比古は苦笑を浮かべた。
「伊玖那見の酒は強いからな。慣れていないとかなりきつい」
「……私、ほとんどお酒を飲んだことないの。宮中の宴でもさっさと退席していたから」
「すまない。気が回らなかった」
 水沙比古は申し訳なさそうに眉を八の字にしている。精いっぱい首を横に振った。
「歓待される側がお酒を断るわけにはいかないもの。さすがに意識を失ったら抜けだせたみたいだけれど」
「……それを狙って無理をして飲んだわけではないよな?」
「まさか。本当に加減がわからなかったのよ。前世だと未成年は飲酒できなかったし――」
 十代での結婚出産が当たり前のこの世界では、もちろん「お酒は二十歳になってから」などというルールは存在しない。
 水沙比古は元から飲み慣れている様子で、次から次へと注がれる杯をひょいひょい空けていた。私がダウンする前に相当な量のアルコールを摂取していたはずだが、足取りはしっかりしている。
「ところで、主賓が揃って抜けてきて大丈夫なの?」
「ああ。ナキ(・・)が気を利かせて、いっしょに退席させてくれた。おれたちがいなくなったあとは無礼講でと話していたから、宴自体はまだ続いている」
 一瞬だれを指しているのかと考え、那岐女のことだと思い至る。
 ヒコ、ナキという呼び名は、双子の王子たちのあいだで使われていた愛称らしい。昔のように呼んでくれと泣いてせがまれた水沙比古はたいそう困り果てていたが、ひとまず納得したようだ。
「あとでお礼を言わないと」
「宴が終わったら二の媛の様子を見に行くと言っていたから、そのときに伝えたらどうだ? さすがに稚神女が途中で抜けるのはまずいらしい」
「結局、大神女は宴にも姿をお見せにならなかったものね……那岐女殿は摂政も兼ねていると聞いたけれど、実質的な公務も引き継いでいるのかしら?」
 宴のあいだ、国主の御座(みくら)は空のままだった。開始早々に那岐女の口から大神女の不在が告げられたものの、人びとは気にするそぶりもなく宴の賑わいに酔い痴れていた。
 水沙比古の眉間に皺が寄る。
「そのようだ。日々の祭祀や政の采配も、ほとんどナキが行っているらしい。家臣のあいだでは次代への譲位を求める声が日に日に強まっていると聞いた」
「当然ね。健康で優秀な稚神女に早く即位してもらって、みんな安心したいのよ。でも、那岐女殿は男だから正式な世子にはなれない……」
「だから、血筋も力も申し分ない二の媛を代わりに即位させようとしているのか」
「私を傀儡の国主に仕立て上げたいのかもね。私と結婚して子を生せば、王配として堂々と政に口を挟めるもの。かれ自身優れた巫覡だから問題なく祭祀にも関われるし」
 水沙比古が剣呑な表情で黙りこんだ。
 私は慌ててパタパタと手を振った。
「あくまで仮定の話よ!? あくまで、仮定の!」
「ナキの求婚を受け容れるのか。二の媛は」
 とっさに口をつぐんだ。
 あかりがまじって夕暮れの海のように輝く瞳が私を射抜く。胸の奥がざわめいた。
 視線の強さに耐えきれず、俯きがちにぼそぼそと答える。 
「よくわからないわ。このあいだまで一生幽閉の身の上だったのよ? だれかと結婚して子を産むとか……考えもつかない」
 杣の宮に囚われていたころの夕星(わたし)にとって、『家族』は片割れだけだった。
 結婚も出産も、今生では関わりのないことだと思っていた。だが、いまは自分の家族を一から作る選択肢もあるのだ――たとえ政略的なつながりだとしても。
「おれは」
 少年の声が呼気とともにつむじを掠めた。私を抱える腕にぐっと力が入る。
「二の媛が子を抱いている姿を見たい気もするし、見たくない気もする」
「なあに、それ」
「二の媛と同じだ。自分でもうまく説明できない。ナキの子を産んだ二の媛を想像すると……腹の底がぐるぐるして、いやな感じがする」
 奥歯に物が挟まったような、水沙比古には珍しくもごもごとした口ぶりだった。
 なんだか妙に気が抜けて、胸に凭れかかって笑ってしまった。
「そうね。だれが相手か見当もつかないけれど、いつか結婚して子どもができたりするかもしれないわね。……少なくとも、いまはそのときではないわ」
 肩をぽんと軽く叩くと、水沙比古は脚を止めた。
 腕を借りながら黒光りする床に降り立つ。ランタンの燈に照らされた廊下には、薄紅色をした夜の帳が下りていた。
 酔いから醒めた意識を研ぎ澄ませれば、離れた柱の陰に潜む人影がひとつふたつ。粗末な官服から察するに、監視を命じられた下級の宮人か(げなん)だろう。
 水沙比古も尾行に気づいていたらしく、瞳の動きだけで後方を一瞥してみせた。
 敢えて追跡者の視界に入ったまま、さも宴の余韻を語らうように腕を引いて水沙比古の耳に小声でささやく。
「夢を見たの。伊玖那見に来るまでの舟旅で見ていたものとは違う夢よ」
 私は夢の中で出会った燦殿や、海辺の洞窟に封じられている変若の剣について説明した。
 水沙比古は眉根を寄せ、口を引き結んで私の話に耳を傾けていた。
 似ている――と思った。
 あえかな光に照らされた面差しが、どこか燦殿を彷彿とさせる。
 親族なのだから顔立ちが似通ってもおかしくはない。当代の大神女や祖母と世子の座をかけて競い合ったという経歴を考えれば、燦殿も直系に近い出自なのだろう。
 彼女は、私を祖母に似ていると言っていた。つまり明星や、私たち姉妹が生き写しだとさんざん言われ続けてきた亡き母も、伊玖那見人らしからぬ白い肌を持つ祖母の血を色濃く受け継いだのだ。
 己の目指すべき場所は生まれ育った国の頂点ではなく海のむこうだと識ったとき、若き祖母は何を思ったのだろうか。
 ふと、翡翠の手環からさざめくような感覚が伝わってきた。
「神の剣の担い手――か」
 水沙比古がぽつりと呟いた。
「たいそうな役目だな」
「私も、実感なんて湧かないわ。目覚めた生大刀がどれほど強大な力を振るうのかわからないのに、鎮魂(たましずめ)の鞘になるなんて」
 途方に暮れる心地でうなだれると、水沙比古の両手が肩に置かれた。
「逃げたいか?」
 顔を上げると、銀碧の瞳が静かに私を見つめている。私が逃げたいと答えれば、いますぐ王宮から攫っていくだろうと確信できる迷いのなさで。
 息を吸い、私は首を横に振った。
「逃げないわ。逃げだすことはいつでもできる。でも、立ち向かうことはそのときでなければできない」
 手を伸ばして水沙比古の両頬に触れた。結髪のおかげで顎のラインの精悍さが増し、普段より大人っぽく映る。
 水沙比古は睫毛を伏せた。
「二の媛は強いな。たまに、その強さがおそろしくなる」
「単なる強がりよ」
 以前にもこんなやりとりを片割れとしたことがあった。
 あのころのまま、私は弱くて無力だ。けれどいまは、呪わしい両目に視える予定調和の悲劇を覆したくて悪足掻きしている。
 どれほど闇に惑い、光に灼かれても。何かできることがあるはずだと信じたい。
「燦殿がおっしゃったの。燃え落ちるはずの星が消えずに地上までたどり着いたとしたら、それは何か意味があるはずだと、私のお祖母様が言っていたと」
「星?」
 水沙比古が怪訝そうに首を傾げた。
 手環の紋様をなぞると、さわさわとさざめきが耳朶を撫ぜた。穏やかな波音、女性のやわらかな笑声、異国の子守唄にも似た『声』。
 祖母から母へ、母から育て親の婆へ。手環に刻まれた女たちの思念(おもい)が身の裡に反響する。
 ――生きなさい、わたしの娘。
 ――生きて、生きて、生きてこそ。
「私は生きたい。私の人生を、私のために。大事な片割れを傷つけてでも。……こんな罪深い望みを、顔も知らないお祖母様に肯定してもらえた気がしたの。生まれる前から死にたくなかった私は、私のままでもいいのだと」
 両手に大きなてのひらが重なった。私の目を覗きこむように水沙比古が身を屈めると、コツンと額が触れ合う。
「何度でも言うが、生きたいと思うことは罪などではない。一の媛のことなど捨て置け。おれは二の媛がいちばん大事だ」
 呆れと怒りがまじる声に苦笑するしかない。私は水沙比古へ額を寄せた。
「ありがとう。でもね、どんなに憎み合っても明星を放っておけない。あの子が災厄の種になる運命だとしたら、私の手で断ち切りたい。……あなたを巻きこんだとしても」
「生大刀を呼び覚ますのだな」
 私は頷いた。
 水沙比古のため息が睫毛を揺らす。ギュッと両手を包みこまれた。
「二の媛が己で決めたことなら、それでいい。おれに対して負い目など感じるな。置いていこうとしても勝手についていく」
「故郷に帰ってこられたのに?」
「おれは和多の水沙比古だ。いままでも、これからも」
 水沙比古の居場所は私の傍らなのだと、かれは断言する。
「母神の思惑など知らぬ。おれは守りたいもののために剣の担い手になる」
 水沙比古は両手をいったんほどき、ゆっくりと私を抱きしめた。
「二の媛も、迷ったり悔やんだりするな。迷いや後悔は判断を鈍らせる。判断を過てば命取りになる。何よりあんたの命を優先してくれ」
「約束するわ」
 私は水沙比古の腕に身を委ねた。きらびやな異国の装束の下から聞こえてくる鼓動に耳を澄ませて目を瞑る。
「水沙比古も約束してちょうだい。何があっても生きて延びて、私のそばにいて。たとえ離ればなれになってしまっても必ず探しだすから」
「二の媛なら、根の国に隠れても見つけてしまいそうだな」
 水沙比古が笑う。
 瞼を透かして光が射すような声に、私は祈りにも似た想いを抱いた。

三 変若の剣〈3〉

 滞在先として用意されたのは、奥殿の一画にあるこぢんまりとした宮だった。
 本来、奥殿は大神女と稚神女の配偶者や子女が住まう後宮だ。しかし今上の王配は死去したり国外へ出てしまったりでだれもおらず、蕾王女の異父妹である砂羅(さら)王女――水沙比古と那岐女の叔母君――はお産で亡くなっているため、現在は砂羅王女の息女の(よう)媛だけが暮らしている。
 宴席で顔を合わせた瑶媛は齢九つの、利発そうで警戒心が強い小動物のような印象の女の子だった。丁寧な挨拶はしてくれたものの、私や水沙比古を見る目には不信感がありありと浮かんでいた。
 血筋でいえば次の稚神女に最もふさわしいのだが、神女になれるほどの異能を持っていないという。那岐女はたったひとりの従妹をたいへんかわいがっているらしく、瑶媛も那岐女には瞳をあどけなく輝かせて笑顔を見せていた。
 長らく閑散としていた奥殿だが、私たちが訪れると夜半にもかかわらず大勢の女官が待ちかまえていた。
 あれよあれよという間に水沙比古と離されてしまい、女官たちの手で盛装をほどかれて湯殿に追い立てられた。
 体の隅々まで磨き抜かれて香油を塗りこまれ、生絹(すずし)のように薄くてひらひらした寝衣を着せられる。洗い髪に白いぶっそうげの花を一輪飾ると、仕上げ係の女官は満足そうにほほ笑んだ。
「こちらへ」
 しずしずと手を引かれて別室に移動する。
 戸口の両側に立った女官が垂れ絹をまくり上げて頭を垂らしていた。困惑しながら垂れ絹を潜ると、薄紅色の火屋に覆われたランタンのあかりが艶めかしく室内を照らしていた。
 臥所だ。中央には大陸風の立派な寝台が置かれ、枕元の香炉から立ち上る煙がいっそう陰影を滲ませている。
 女官が一礼して退出すると、するすると垂れ絹が下ろされた。私だけぽつんと残される。
 今夜はここで休めばいいのだろうか? 戸口の外には女官が控えているようで、確認しようとした矢先に再び垂れ絹がまくられた。
「これより、若宮がお渡りになられます」
「え?」
 垂れ絹を潜って現れた水沙比古と目を丸くして見つめ合う。水沙比古の後ろで垂れ絹が下りてしまった。
 水沙比古も湯上がりらしく、ほどいた髪をゆるく束ねて肩に流し、私と同じ生地の寝衣に着替えている。布越しに筋肉質な胸板が透けて見えて、思わずぎくりとした。
「なぜ二の媛がここに……?」
 少年の視線が妾の顔から下へと動き、弾かれたような勢いで背を向ける。
「水沙比古?」
「みっ……見ていないぞ! 見ていないからなっ、おれは!」
 慌てふためく口ぶりにはたと気づく。水沙比古と揃いの寝衣ということは、つまり――
 悲鳴を上げそうになった。寝台の掛布を引っぺがして、ぐるぐる体に巻きつける。
「……もういいわよ」
 おそるおそる振り向いた水沙比古は、掛布にくるまった私の姿に安堵の息を洩らした。
「いったいどういうことだ? 手違いで二の媛の臥所に案内されてしまったのか?」
「手違いではなさそうよ。あなたが入ってきたとき、『若宮のお渡り』と女官が言っていたから」
「は?」
 眉間に力を込めて室内を見回す。出口を閉ざす垂れ絹に奇妙な気配を感じた。
 しばし睨んでいると、垂れ絹の表面に仄光る紋様がぼうっと浮かび上がった。外から入ることはできるが中から出ることはできない、たちの悪い呪術だ。
「那岐女殿の指図でしょうね。私たちを同衾させたいのよ」
「どっ……!?」
 水沙比古は目を剥いたまま固まった。
 垂れ絹以外にも呪術が施されていないか探してみたが、特にそれらしい痕跡は見当たらなかった。やれやれと嘆息し、寝台に腰を下ろす。
「私たちの仲を誤解したままなのか、自分が断られたから水沙比古を代わりにと思ったのかまではわからないけれど……よほど急いで子どもを産んでもらいたいのね、私に」
「ナキは何を考えているんだ!? 一発殴ってやる!」
 肩を怒らせて垂れ絹に手を伸ばした水沙比古だが、見えない壁に阻まれたように戸口の前で立ち止まった。
「なんだ? 出られないぞ?」
「臥所から出られないように術がかけられているのよ。きっと朝陽が昇ったら解けるわ」
 私はあくびを噛み殺し、隣をぽんと叩いて水沙比古を手招いた。
「これだけ大きな寝台なら、ふたり並んで寝ても問題ないでしょう。私はこちらで寝るから、水沙比古はもう半分を使ってちょうだい」
「大いに問題あるだろう!?」
 水沙比古はぶんぶん首を横に振った。少年の慌てように訝しむ。
「単に隣で寝るだけよ? 伊玖那見までの舟旅でも同じことをしていたではないの」
「あのときといまとでは状況が違う」
 苦い木の実を噛み潰したような顔で、水沙比古はため息を吐いた。
 気怠そうな、どこか熱っぽい仕草に違和感を覚えた。
「水沙比古?」
「この部屋……妙に暑くないか? 頭に靄がかかったような……いまさら、酔いが回ってきたのかもしれない」
 水沙比古はいつもより覚束ない足取りで歩いてくると、ふらりと寝台に倒れこんだ。
「だいじょうぶ!?」
「うん……」
 息が荒い。照明のせいで顔色がよくわからないが、ギュッと眉間に皺を寄せている。
 ひと言断って額に触れると、褐色の肌は薄く汗ばんで熱かった。
「熱があるわ。待っていて、いま医女を――」
 不意に手首を掴まれた。
「二の媛」
 乱れた髪の下から潤んだ銀碧の瞳が見つめてくる。水沙比古は体を丸め、もう片方の手で寝衣の胸元を握りしめていた。
「おかしい」
「え?」
「体が熱くて、気が、変に昂ぶっている。それに、おれ、急に……」
 水沙比古は口ごもると、両目を瞑って褥に突っ伏した。強張った肩が呼吸に合わせて震えている。
 私は慌てて水沙比古の背中をさすった。
 急激な体温の上昇と興奮状態。確かに不調と片付けるには奇妙だ。
 もう一度室内をくまなく探る。……さっきよりも煙が濃くなっている?
 まるで、暗い紅色の靄が立ちこめているような――
 くらりと眩暈がした。血液が逆流しはじめたみたいに身の裡から熱が滲みだす。
 まずい。
 この煙を吸いこんではいけない。とっさ口元を袖で覆い隠した。
 異様な火照りとともに息が上がる。煙に何かしらの毒が含まれているのだ。
 早急に脱出しなければ。なんとか垂れ絹の呪術を破れないか綻びを探していると、するりと垂れ絹を掻き分けて那岐女が入ってきた。
「おや」
 長い髪を背に流し、薄物の寝衣をしどけなく素肌に纏った姿は、淫蕩な遊び女そのものだ。ぐったりとうずくまっている水沙比古と、かれを庇いながら睨みつける私を見比べ、妖しくほほ笑んで近づいてくる。
「まだ意識を保っているとは驚きだ。ナキはしこたま呑んでいたから、すっかり動けないようだけれど」
 寝衣の裾を割って現れた少年の膝が寝台に乗り上げる。髪を耳にかけながら顔を寄せてこようとする那岐女に、私は獣のように唸った。
「触らないで。私にも、水沙比古にも」
 拒絶の言葉は一瞬、那岐女の動きを止めた。水沙比古と同じ形の眉が不愉快そうな線を描く。
「ずいぶん強気だね。逃げ場なんてないのに」
「毒を盛ったりして、私たちをどうするつもり?」
 那岐女はくすりと笑った。
「毒なんて盛っていないよ。安心して、この香には媚薬の効能があるだけさ」
「び……なんですって!?」
「宴で出された酒があるだろう? あれを呑んでからこの香を嗅ぐと色欲が高まるんだ。南妓の手管のひとつだよ」
 薄紅色の火あかりに砂金水晶の双眸がゆらゆらと輝いている。意識がくらみ、狂おしい熱に呑みこまれそうになる。
 いけない。このままでは、身も心も那岐女の術中に――
「わたしと子を生すことがいやなら、ヒコもいっしょなら(・・・・・・・・・)かまわないだろう? ヒコも直系の王子なのだから、きっと強い異能を持つ子が生まれるはずだ」
 那岐女は無邪気な笑顔でとんでもないことを言い放った。溶けかけた思考がぱきんと凍りつく。
「生まれてくる子は、どちらの種でもわたしとヒコに似ているのだろうね。ああ、楽しみだなぁ。わたしとヒコの子をあなたが産んでくれたら、みんなずっといっしょにいられるんだ」
 少年の手が伸ばされる。褐色の指先が届く前に、私は那岐女の袖を掴んだ。
「ふ――ざけるなぁ!」
 瞠目する那岐女を引き寄せ、思いっきり顎下に頭突きを食らわせた。
「〜〜ッ!?」
 盛大に舌を噛んだらしい那岐女が言葉にならない悲鳴を上げた。体勢を崩したところへ鳩尾を全力で蹴りつけると、どすんっと寝台の下に落ちた。
 起き上がる隙を与えずのしかかり、鼻先が触れ合う至近距離で眼光を浴びせる。爛々と燃える邪眼に睥睨された那岐女は、呼吸も忘れて硬直した。
「私の体も心も、私のものだ」
「ひ――は……」
「水沙比古の体と心は、水沙比古のもの。私も水沙比古も、あなたのものにはならない」
 那岐女の喉がひゅうと鳴る。
 胸倉を掴んでいた手を放すと激しく咳きこみ、両手の甲で顔を覆ったまま脱力した。
「稚神女? いかがなさいました!?」
 垂れ絹のむこうから女官が慌てた様子で尋ねてくる。力をこめて呪術の紋様を凝視すると、金色の炎が噴き上がって垂れ絹がぼろぼろと燃え落ちた。
「きゃあ!」
 戸口から覗きこんでいた女官たちが悲鳴を上げた。
 一瞥すると、蒼白になって腰を抜かしたり袖で顔を隠してぶるぶる震えてたりしている。
 故郷でいやというほど見飽きた反応だ。自然と冷めた笑みがこぼれた。
「だれでもいい。すぐに媚薬の解毒剤を持ってきなさい。それから、御匙の手配を」
 ゆらりと視線を滑らせると、目が合った女官が飛び上がって走り去る。おそらく医女を呼びにいったのだろう。
 戸口を塞いでいた垂れ絹がなくなり、香の煙はいくらか薄くなった。私は女官に命じて水盆を持ってこさせると、香炉を水に沈めて完全に火を消した。
 そのころには、わらわらと婢を引き連れて中年の医女がやってきた。
 臥所の惨状に顔をしかめた医女は、私たちを別室に移動させるよう指示を出した。婢や動ける女官が戸板を持ってくると、那岐女、水沙比古、私の順に寝間から運びだす。
 落ち着いた先は、旅籠の客室に似た大陸風の居室だった。庭に接する一面が帷で覆われ、心地好い夜風が吹きこんでくる。
 婢の手を借りて寝椅子に座り、解毒と鎮静効果のあるという薬湯がなみなみと注がれた茶器を手渡された。薬湯はとろみがあり、舌の上に残るような独特の甘苦い味をしていた。
 顔をしかめながら薬湯を飲み干したころ、先に水沙比古を診ていた医女がやってきた。
 かれは居室を仕切る衝立のむこうに運ばれたはずだ。
「水沙……王子の様子は? 無事なのよね?」
「ご安心ください。王子殿下も少量ずつですが薬湯をお飲みになり、いまは落ち着いてお眠りになられています。このままゆっくりお休みになれば、明日には回復されるでしょう」
 医女は薄く笑んで頷いた。安堵のあまり寝椅子にずるずると崩れ落ちてしまった。
 そばに控えていた婢が背中にクッションを当てて体勢を直してくれた。
「失礼いたします」
 医女が私の手を取り、脈を測る。両目や口腔の様子を確かめると、小さく息をついた。
「姫宮は稚神女と遜色無い異能をお持ちなのですね。稚神女がお使いになった媚薬の香は、力の強い神女には効きにくいのです」
「そうなの? てっきり飲酒量が少なかったから助かったのかと……」
「それも要因でございましょう。いずれにせよご無事で何よりでした」
 医女の言葉に思わず両目を眇めた。
「王宮の方々は一刻も早く私に稚神女……那岐女王子の子どもを産んでもらいたいのではないの? 今回の一件はかれの独断ではなくて、女官たちも協力していたように見受けたけれど」
 正殿や奥殿で働く女性たちは稚神女が男子であることを承知している側なのだ。私の指摘に、医女は深く頭を下げた。
「姫宮のお怒りは至極当然。……稚神女が若宮であることを知る者の多くは、常夜大君の加護篤き姫宮とのご成婚、更に姫宮がお世継ぎとなられ、若宮と手を取り合って築かれる御世の訪れを心待ちにしております。しかし、そのために姫宮を陥れ、あまつさえ無体を強いるような行いが許されるなどありえません」
「つまり今夜の謀りごとは王宮の総意ではなく、稚神女とかれに賛同した一部の女官の暴走……ということかしら?」
「仰せのとおりかと」
 私は深く息を吐いた。
 偽りを述べていない。赫々と輝く神女の瞳を前にして、真実以外を口にするなど愚の骨頂だと理解しているのだ。
「稚神女が事を急いた理由は何かしら。宴の席にもお見えにならなかった大神女と関係があること?」
「それは――」
 顔を上げた医女の表情が歪む。
 私が自白を誘導する前に、長身の人影がふらりと視線を遮った。
「大神女はね、二年前に倒れてからずっと昏睡状態なんだ」
「稚神女!」
 寝衣の肩に女物の上衣を羽織った那岐女が眼前に立った。乱れ髪を気怠げに搔き上げ、瞳に浮かぶ黄金の粒子を煌めかせる。
 視線がぶつかり、金色の火花が散った。私と那岐女はしばし睨み合い、苦笑を浮かべた那岐女が目を伏せて自ら退いた。
「白状するよ。大神女……お婆様は日に日に衰弱している。歳が歳なだけに、意識が戻らないままいつ亡くなってもおかしくないんだ。跡目を継ぐ真の稚神女が見つかっていないのに――このままだと、国の要である大神女の座すら空白になってしまう」
「既成事実を作って私との婚姻を成立させ、ついでに身籠らせて世継ぎ候補を産んでもらおうという魂胆かしら。まあ、伊玖那見の藩王家はずいぶん野蛮な家風なのね?」
 腸が煮えくり返るような怒りを覚える一方、思考は平坦で冷めきっていた。感情のバロメーターが振りきれると冷静になれるらしい。
 那岐女は拳を握り、フイと顔を背けた。
「謗りはいくらでも受け容れるよ。どうすればヒコとあなたをこの国に留めておけるのか、よく考えたつもりだった。でも……ヒコもあなたも、絶対にわたしのものにはならないとわかったから」
 私はひとつ瞬いた。
 悄然と俯く那岐女は臥所で対峙したときとは打って変わり、置いてけぼりを食らった幼子のようだ。
「そばにいてほしい相手を自分のものにしたいと思う気持ちはわかる。けれど力ずくで支配する方法を選んだ時点で、あなたは永遠にそのひとを失うことになるわ」
 そして、最後には悲劇しか残らない。大皇の死に様がよみがえり、くちびるを噛みしめる。
 ふらつく脚で立ち上がり、那岐女を見据えた。
「私の名は夕星。七洲の皇女、闇の女神の裔にして先触れの娘。伊玖那見が女神の民の地であるというならば、私の行く手を阻まないで」
 医女と婢が平伏する。
 呆然とこちらを見る那岐女へ手を差しのべて訴えた。
「私の同胞(はらから)(わか)き女神の巫。私とともに来て。私に力を貸して。私のために、あなたの兄弟のために、あなたの国を守るために」
 額が熱い。夢の中で燦殿の指が触れた場所に光が灯り、宵の(そら)を駆け上がる一番星のように燃えている。
 天啓のように閃いた。
 死のほとりで眠り続ける大神女。もしかして燦殿は――
「大神女に会わせて。彼女に会って、確かめたいことがあるの」

四 波夫里の女王〈上・1〉

 墨を磨ったような薄闇に、仄青いあかりがぼうと灯った。
 青い火屋で覆われたランタンに案内役の神女が火を入れたのだ。ひとつふたつ三つと、柱のあいだに吊るされたランタンの青ざめた燈が浮かび、室内の様子を照らしだす。
 開放的な造りの伊玖那見の建築では珍しい、塗籠のように四方を壁に囲われた部屋だ。ある程度の広さはあるものの、窓が一切ないために息苦しく感じる。まるで継ぎ目のない石棺の中に閉じこめられているかのよう。
 仄青いあかりに煙の影がうっすらと波打つ。四方を支える柱の根元に小さな香炉が置かれ、細い煙が天井までするすると立ちのぼっていた。
 あたりにはお線香のような香りが漂い、それが余計に死の気配を色濃く感じさせた。病院の霊安室や、火葬場の待合室の空気を連想させる。
 部屋の中央には大陸風の寝台があった。匣型の天蓋から紗帷が垂れ下がり、寝台に横たわる貴人の姿を覆い隠している。
 案内役の神女は寝台の前で跪くと、長い両袖に面を伏せた。
「大神女の玉体はこちらに」
 私は隣の那岐女をちらりと一瞥した。
 姫宮の装いに長躯を包んだ少年は伏し目がちに寝台を見つめていた。仄青い光を帯びた横顔は硬く、口元がぎゅっと強張っている。
 反対側に控えた水沙比古を見遣る。若宮にふさわしく身形を整えた私の護り手は、目が合うと「二の媛に任せる」とばかりに頷いた。
「那岐女殿。大神女のご尊顔を拝してもよろしいかしら」
「――ああ。かまわないよ」
 諾と答える声は淡々としていた。
 案内役の神女が恭しく寝台の紗帷をまくり上げると、暗がりに細身の老女が仰臥していた。
 真白の上衣と裳。癖の強い霜髪が敷布の上に広がり、痩せて節榑立った両手を胸の上で組んでいる。
 切れ長な眦を縁取る魔除けの紅。深い皺が刻まれた貌は、眠っているにもかかわらず凜々(りり)とした気品と気迫を纏っていた。
 美しい(ひと)だ。閉ざされた瞼の下には、きっと蛍石のような金色の瞳が嵌まっているに違いない。
「お婆様」
 ぽつりと呟き、那岐女は寝台に歩み寄った。裳裾にかまわず膝をつき、大神女の手をやさしく撫でる。
「ほら、ヒコが帰ってきましたよ。お婆様が会いたがっておられた黄昏の瞳を持つ巫女姫を伴って」
 那岐女の言葉に、ゆらりと煙の影が揺らめいた。
 両眼に神経を集中させて大神女を凝視する。かろうじて呼吸はあるものの、彼女の肉体は空っぽ(・・・)だった。
 サーモグラフィーの画像のようなヴィジョン。大神女の身の裡に納まっているはずの霊魂が見当たらず、臍のあたりから仄赤い光が細くたなびきながら天井まで伸びてどこかへ消えていく。
 あの光は肉体と霊魂を結ぶ緒だ。(たま)の緒とも呼ばれ、肉体が死を迎えると自然に切れて、霊魂は地上を離れて死後の世界である根の国に向かうのだとされている。
「大神女の御魂はいずこに?」
 私の問いかけに、うなだれていた那岐女が頭をもたげた。
 案内役の神女は驚いた顔をしている。
「夕星媛。あなた、生霊(いきすだま)が視えるのかい?」
「ええ、そうみたい。玉体は空っぽで、御魂だけ別の場所へお出ましになられている状態だわ」
「……体から魂がなくなっているのに、大神女は生きているのか?」
 水沙比古が理解しがたいと言わんばかりの口調で訊いてきた。
「魂の緒は切れていないから、完全に霊魂が失われてしまったわけではないのよ。危うい状態には変わらないけれど、精神力と呪力で肉体の生命活動を維持している。今上猊下は、まさに巫王と呼ばれるにふさわしい異能をお持ちね」
死霊(なきたま)ならまだしも、生霊の痕跡をたどれる眼を持つあなたもなかなかの傑物だよ」
 那岐女は呆れたように頭を振り、薄闇に揺らめく魂の緒を見つめた。
「わたしにも細く伸びた光が視えるよ。側仕えの神女たちも、ある程度把握できる。だけど、一歩臥所の外へ出ると追えなくなってしまうんだ」
「どういうこと?」
「お婆様が意図的に痕跡を消しているのだと思う。万が一、わたしや神女たちが追いかけてこられないように」
 大神女の手を撫でさすりながら、那岐女は呟いた。「波夫里(はふり)の岩室」
「波夫里……」
「七洲では奥津棄戸(おきつすたえ)と言うのだっけ?」
 奥津棄戸とは棺や墓所を表す古語だ。死者の亡骸を棄てる場所という言葉が転じて、亡骸を納める棺、更に棺を埋葬する墓所を意味するようになった。
「お婆様の生霊は波夫里の岩室にいらっしゃる。藩王家に伝わる霊場のひとつで、王族の血に連なる神女だけが入ることを許された禁域だよ。岩室は常に守り目の神女によって鎖されているのだけれど、守り目には死期の近い神女が就く習わしなんだ。守り目の神女は生きながら肉体を捨てて、命が絶えるまで霊魂のまま岩室に留まらなければならないから」
「大神女は守り目の任に就いたのか?」
 水沙比古の質問に、那岐女は苦々しげに表情を歪めた。
「うん。先代の守り目――お婆様の従姉君がお隠れになられたとき、ほかにお役目を継げる者がいなかった。するとお婆様はなんの相談もなく、『あとはよしなに』と言い放って眠り薬を飲みやがったのさ」
 大神女はなかなか豪胆な人物らしい。育て親の婆を思いだし、ほろ苦い郷愁を噛みしめた。
「習わしどおり、お婆様は二度とお目覚めにならないだろう。このままでは大神女が空位になってしまう。だからわたしは――なんとしてもお婆様がお隠れになる前に、夕星媛に大神女を継いでもらいたいんだ」
 男子である自分では正統な跡目になれないから。那岐女の口調には苦悩と悔しさ、それ以上に一国を背負う王族としての矜恃が滲んでいた。
 夢の中で邂逅した彼女(・・)を思い浮かべる。
 以前の役目は後継に譲ったと語っていた。私を次期稚神女候補ではなく、生太刀の鞘として見做していた。
 それが天命なのであると迷いせず。
 思わず長いため息が洩れた。那岐女が片眉を跳ね上げ、きつく睨んでくる。
「何が言いたい?」
「ああ、勘違いしないでね。あなたに文句があるわけではないの。私を育ててくれた婆もそうだったのだけれど、巫女って歳を重ねれば重ねるほど勝手気ままな性格なるのかしら。お互い苦労するわね」
 砂金水晶の瞳が胡乱げに瞬く。
 私は那岐女の傍らに膝をつき、目線を合わせて話しかけた。
「那岐女殿、大神女の御名は燦様とおっしゃる?」
「……そうだけれど」
「では間違いないわ。私、夢で大神女にお会いしたの。海辺の洞窟に霊魂のまま迷いこんでしまって――たぶん、あそこが波夫里の岩室だったのね」
「はあ!?」
 那岐女がぎょっと声を上げた。
 案内役の神女は唖然としている。さもあらん。
「お若いころのお姿で、ただ神女の燦とだけ名乗られたから、まさか私も大神女だとは思いもしなかったのよ」
「ちょ――ちょって待って。霊魂だけ飛ばして波夫里の岩室に行ったの?」
「偶然による事故よ。波夫里の岩室は闇の女神の胎内に擬した霊場だから、無意識に女神の痕跡を追いかけてしまったのだろうと言われたわ」
 朱金色の両目を指差すと、那岐女は眉をひそめつつも口をつぐんだ。
「大神女は、以前の役目は後継に任せて守り目になったとおっしゃっていたわ。私を次代の稚神女にとお考えなどなっていなかった。波夫里の岩室には藩王家が代々受け継いできた神代の遺物が封じられていて、それを私と水沙比古に託すように常夜大君から神託を受けたそうよ」
「なんだよ、それ」
 那岐女は顔を歪め、深く眠り続ける大神女を見下ろした。
「わたしを認めたことなんてなかったくせに。男のままでは表に出せないからと女の格好をさせて、女名を名乗らせて、女のふるまいをさせて……どんどん大人の男になっていくわたしを、父様に似ていくわたしを忌々しそうに見ていたくせに!」
 ドンッ、と大神女の枕元に少年の拳が振り下ろされた。
 案内役の神女が「稚神女!」と批難めいた声を上げる。
「お婆様の後継は、本来は母様だったんだ。だけど母様は禁を犯した。海に出て帰ってこなかった父様を取り戻そうとして……お婆様は、母様を狂わせた父様を、その息子であるわたしとヒコを憎々しく思っているはずなんだ」
「病で亡くなったのではないのか? おれたちの母宮は」
 片膝を折った水沙比古が、私を挟んで那岐女に尋ねた。
「違うよ」
 那岐女は力なく首を横に振った。
「舟乗りだった父様は海で死んでしまった。それを受け容れられなかった母様は父様をよみがえらせようとした。詳しい方法は知らないけれど、藩王家には死返しの禁呪が密かに伝わっているらしい」
 息を呑み、私と水沙比古は顔を見合わせた。蕾王女は、おそらく生大刀を使って夫君の死返しを試みようとしたのだ。
「母様は――常夜大君の怒りを買って発狂し、海に身を投げた」
 しかし闇の女神の怒りはあまりに激しく、蕾王女の命だけでは贖いきれなかった。
「罪穢を祓うための供犠を捧げよと、神託が下ったんだ。咎人が産んだ双子の男児の、どちらかひとりを形代として海に流すようにと」
 玉庭で幻視したヴィジョンがフラッシュバックする。
 礫のようなスコールに打たれながら、泣き叫んで片割れに手を伸ばす男の子と、悲しげに笑って別れを告げる男の子。あれは――幼き日の兄弟が引き裂かれた場面だったのだ。
「そしておれが供犠に選ばれたのか」
 那岐女の肩がぐっと強張る。水沙比古はわずかに目を細め、大神女を見遣った。
「ならおれは、伊玖那見の親父どのとおふくろどのに助けられたんだな」
 静かな声は、不思議なほどはっきりと室内に響いた。
 那岐女がのろのろと顔を上げる。不安定に揺らめく砂金水晶の瞳を、凪いだ銀碧の瞳がしっかりと受け止めた。
「海の底で見た真っ暗闇を憶えている。たぶん、本当ならあのまま海神に連れていかれるはずだった。でも、きっと伊玖那見の親父どのとおふくろどのが海神の手から救いだして、和多の浜まで連れていってくれんだ」
 水沙比古はトン、とこめかみを指で叩いた。
「ヒコの記憶を失ったのは、命を見逃してもらった代償なんだろう。確かに伊玖那見のヒコは、いちど死んだ。でも、親父どのとおふくろどののおかげで和多の水沙比古として生き永らえた」
「……そんなの、ただの都合のいい解釈だ」
「そうかもしれない。だが、そう考えると嬉しいよ。伊玖那見の親父どのとおふくろどののおかげで、おれは生まれ故郷を目にすることができた。血を分けた兄弟に出会えた」
 水沙比古は薄く笑んだ。「正直に言って、ナキの行いは許しがたいが」
 那岐女が青ざめて凍りつく。水沙比古は肩を竦めて私を一瞥した。
「二の媛が許したのなら、もうとやかくは言わぬ」
「ヒコ――」
「二の媛の夢に現れた大神女は、稚神女とともに(・・・・・・・)波夫里の岩室へ来いと告げたそうだ。ナキ、稚神女はおまえだろう?」
「ヒコまで、ずいぶん意地の悪いことを言うね」
 那岐女はため息を吐きだし、ぐしゃりと前髪を搔き上げた。
「わたしは――おのこなのに」
「実力も実績もじゅうぶんなら、いまさらだれも文句なんて言わないさ。自信がないのなら直接聞きにいけばいい」
 水沙比古が手を差しだす。
 那岐女は泣きそうな顔をして、逡巡の末に片割れのてのひらに手を置いた。
 更にその上に私が手を重ねると、那岐女はびくりと身を震わせた。
 雷雨の中で慟哭する男の子そのままの、本来のかれ自身をようやく見つけた気がした。
「会いにいきましょう。三人で、大神女の許まで」

四 波夫里の女王〈上・2〉

 大神女の魂の緒をたどると、光の軌跡は王宮の外――麓の城下から湊に至り、更に島外の海へと出ていった。
 舟に乗って追跡すると、光はぐるりと島の東側へ回りこみ、入り組んだ岩場の奥へと延びていた。
 岩場の先には干潮時のみ小江が現れ、そこから洞窟が続いているのだという。しかし、探索は断念せざるを得なかった。
 というのも、追跡に協力してくれた舟乗りが岩場への上陸を頑なに拒否したからだ。
「『たとえ高貴なお方のご命令とあろうと、那見の海で生きる者として禁を犯すわけにはいきませぬ。どうかご容赦を』」
 屈強な海の男が小さく身を縮め、舟底に額をこすりつけて懇願する。
 護衛として同行した真赫や黒鉄が武器をちらつかせても、舟乗りは怯むどころか「『那見の舟乗りとして死ねるのなら本望です』」と居直って首を差しだす始末だった。
 国と海は違えど舟乗りとして生きてきた水沙比古はかれの様子を見て、静かに首を横に振った。
「二の媛、あきらめろ。舟乗りにとって掟は絶対だ。禁を犯すよう迫って命を奪い、舟と海を罪なき者の血で汚せば、海神だけでなく舟の神や風の神、果てには産土である母神の怒りを招くぞ」
 淡々としているが実感のこもった忠告に、舟の上に沈黙が落ちる。
 姫宮らしく日避けの紗布を被った那岐女が伊玖那見語で話しかけると、舟乗りは恐縮しきった様子で何かを説明しはじめた。
 すかさず真赫が会話を通訳してくれる。
「稚神女が禁について問われたところ、舟乗り曰く『われわれ伊玖那見の舟乗りのあいだでは、あの岩屋は古代の巫王の霊廟だと言い伝えられております。かつて嵐に見舞われて流れ着いた舟乗りが金色の眼を持つ神女の死霊に遭遇し、命を(たす)ける代わりに何人たりともこの地に近づいてはならぬ、もしも禁を犯せば岩屋に眠る大いなるもの(・・・・・・)の呪いが災いとなって降り注ぐぞと末代まで語り継ぐようにお告げを賜ったそうです』……と」
 大いなるものとは変若の剣――生太刀のことに違いない。金色の眼の神女は古の守り目だろう。
「以来、あの岩屋は禁足地として伝えられてきたそうです。巫王の霊廟と聞かされれば、伊玖那見の民ならばけして近づこうとはしないですからね……」
 複雑な表情を浮かべた那岐女がこちらへ向き直り、「ヒコの言うとおりだ」と告げた。
「この舟……というか、伊玖那見の舟乗りの舟で禁域に近づくことは不可能だ。命と引き替えになる無理強いを民にさせるなんて稚神女として許可できないし。別の手立てを考えないと」
「異国の舟乗りを雇ってみたらどうだ?」
「どこの馬の骨かもわからない異人をほいほい国家機密に近づけるわけにはいかないよ。あすこは王族ですら限られた者しか知らない場所なんだから」
 水沙比古の提案に頭を振りかけ那岐女はふと瞬き、「いや」と呟いた。
「ちょっと待てよ。……異人だが頼めそうなあてがひとり――ふたりいるな」
 砂金水晶の瞳が水沙比古と私を交互に見つめ、微笑とも苦笑とも言いがたい笑みを作った。
「いずれ引き合わせようと考えていたんだよ。こんな形になるとは思ってもみなかったけれど」
 那岐女はちらりと私の右手首――螺鈿細工の手環を見遣った。
 私の脳裏に、玻璃の眼鏡越しにほほ笑む鉛色の瞳、続けて鷹のように鋭い薄茶色の三白眼がよぎった。
 胸の前まで右手を挙げ、まつむしそうの手環を見せながら那岐女に問う。
「そのうちのひとりは、璃摩国の海燕殿とおっしゃる商人かしら? 稚神女の客分として王宮に滞在していると話していたわ。私と水沙比古の出自も把握している口ぶりだった」
「うん。海燕は……わたし個人で雇っている御用聞きと言ったほうが正しいかな。やり手な上に情報通でね、いろいろと仕事を頼みやすいんだ」
 那岐女によると、海燕個人で舟を所有しており、相応の報酬を提示すれば禁域への上陸だろうと喜んで引き受けるはずだという。改めて海燕殿を思い浮かべ、なんとなく納得してしまった。
「もうひとりは多火丸(たかまる)という男だ。二年ほど前に七洲から渡ってきた武人で、風牧という氏族の出らしい」
 風牧の名に息を呑む。
 とっさに水沙比古を見ると、険しい皺を眉間に刻んでいた。
「風牧は火守の民の討伐で名を挙げ、かれらの恨みを買った氏族だ。火守の巫は、氏長を籠絡して一族ごと手中に収めたと言っていたぞ」
「知っているよ。多火丸は氏長の庶子で……火守の巫とは従兄弟同士で義兄弟なんだ。元は武官として宮廷に出仕していたけれど、父親が火守の巫に入れ込むようになって一族に見切りをつけて国を出奔したと話していた」
 多火丸殿は、もともと海燕殿の用心棒として雇われている立場だったらしい。海燕殿を介して面識を持ち、身の上話を聞いて興味を持った那岐女が食客として王宮に招いたそうだ。
「多火丸は、夕星媛にずっと会いたがっていたんだよ」
「私に?」
「うん。あなたの育て親の巫女殿のことについて話がしたいってね」
 婆との別れがよみがえり、軋むように胸が痛んだ。
 彼女の亡骸もろとも、杣の宮は跡形もなく焼け落ちてしまったに違いない。いつか故郷に戻る日が来たら、婆の弔いをしてあげなくては……
 私たちは上陸を断念し、いったん王宮に引き返した。
 その日の夕刻、逗留中の宮へふたりの食客を連れて那岐女がやってきた。
大七洲国(おおしちしまぐに)の奇しき姫宮、夕星内親王殿下。伊玖那見(イゥナムヤ)の猛き若宮、卑流児王子殿下。ご尊顔を拝する機会を賜り、恐悦至極に存じます」
 京人のような流暢な発音で挨拶を述べたのは、初対面のときよりも小綺麗に身形を整えた海燕殿だ。堂に入った跪礼を披露する様は、大陸から遊学のために渡ってきた良家の子弟といった印象だった。
 面を上げた海燕殿のまなざしが私を捉え、薄くほほ笑む。舌舐めずりしながら算盤を弾いているヴィジョンが頭をよぎり、半眼で睨み返した。
 海燕殿の隣では、鉄色の髪の青年が頭を垂らしたまま微動だにしない。
 七洲人らしい中背の体躯はがっしりと逞しく、ひと目で武人だとわかる。冠こそないものの、七洲で見慣れた略式の朝服を纏っていた。
「改めて紹介するよ。こちらが商人の晶海燕(しょう かいえん)と、風牧の多火丸だ」
 那岐女に促されて多火丸殿が面を上げる。薄茶色の三白眼がまっすぐ私を貫いた。
 二十歳をいくつか過ぎた年ごろだろうか。日に焼けた肌が精悍な、どこか幼い顔立ちをしている。
 従兄弟というわりに火守の双子と似通った点は見当たらず、七洲ではごく平凡な風貌だ。
 多火丸殿は小さく瞬き、まぶしい光を前にしたように目を伏せた。
「お初にお目にかかります。風牧の丹毘麻呂(たびまろ)の庶子、多火丸にございます」
「はじめまして、多火丸殿。お話は稚神女からお伺いしています」
 王宮へ招聘された際、旅籠で感じた視線の主はかれに違いない。迎えの兵に紛れていたのだろう。
「火守の男巫とその弟は、あなたの従弟だそうね」
「然様にございます。あれらはわが叔父、風牧の黄毘麻呂(きびまろ)が北夷の梟師の娘に産ませた鬼子。幼きころは北夷の集落で育ち、兄はタテルイ、弟はアクライと呼ばれておりました」
 タテルイ、アクライという名を耳にした瞬間、金色の草原に立つ異民族の男の子たちのヴィジョンが視えた。
 夜と朝のあわい、光が生まれ闇が去る間際の世界。手をつないだふたりの男の子の、片方は山脈のむこうから立ちのぼる曙光にふちどられ、片方は暁闇の暗い影に塗り潰されている。
 影に覆われた面貌(かお)の、右目があるはずの箇所で一際濃い陰りが黒煙のように揺らめいていた。陰りはとぐろを巻き、ぽっかりと穿たれた暗黒色の孔となる。
 ――孔の奥底から、何か(・・)がこちらを覗いている。
 冷たい死人の手で心臓を撫で回されるような怖気が走った。あれは――〈死〉だ。
暁の火を熾す者(タテルイ)あだしくにを統べる者(アクライ)
 はじめて聞く言葉なのに、するりと意味が思い浮かんだ。
 あだしくに(・・・・・)とは『他国』や『異民族の土地』という意味合いの言葉だ。だが、|あだし《・・・》は『無常』という意味も持っている。
 すなわち、無常の国――死の国とも解釈できるのだ。
 悪霊王の別名は(まかる)の王。死の国の統治者――不吉な符合に身震いした。
 タテルイと呼ばれていた兄が氏族を率いる若長であり炉の女神の男巫ならば、アクライの名を与えられた弟は何者なのか。
「皇女様?」
 多火丸殿の訝しげな呼びかけにヴィジョンが霧散する。
「ああ……ごめんなさい。きっとその名はかれらの真名なのね。一瞬、子ども時代のかれらが視えたの」
「過去視――でございますか?」
「過去の記憶……というよりも、かれらの真名が持つ言霊が映像として現れたと言えばいいのかしら」
 火守の双子の真名には強い言霊が宿っている。
 祝福ではない。母親である火守の巫女姫がこめた、(しゅ)だ。
「かれらのことは風牧で与えられた名で呼んだほうがよいわ。これまでどおり奼祁流と阿倶流、と」
 名にこめられた呪は呼べば呼ぶほど力を増す。特にアクライの名から漂う〈死〉の気配はあまりにおぞましい。
 思わず眉間に皺が寄る。海燕殿が興味深そうな顔で那岐女を窺った。
「なるほど。内親王殿下は聞きしに勝る巫師(ふし)でいらっしゃるようですね、稚神女」
「夕星媛はわたしよりずっと強い異能の持ち主だよ。惜しむらくは巫女の修行を積まずにここまで来てしまったことだ」
 ため息まじりにぼやいた那岐女は頭を振った。
「彼女の育て親は七洲随一の巫女にして呪師だったそうだよ。どうして相応の教えを授けなかったのかさっぱり理解できない」
「……何者でもない、ただ視えるだけの無力な幼子だからこそ皇女様は生かされたのだと、千幡(ちはた)様はおっしゃっておりました」
 多火丸殿がぽつりと呟いた。
 ハ、と掠れた息が洩れる。千幡とは久方ぶりに聞いた婆の名だ。
「千幡様は先代の大皇の寵愛深い占者でしたが、神がかった異能をおそれた今上から疎んじれ、数多の凶兆を読み人心を惑わしたという謂れなき咎を負わされました。皇女様を巫女としてお育てしたら大皇の勘気をこうむるに違いない。だから何も教えず、伝えず、真の護り手が現れるまで健やかであるようお育て申し上げるのだ――と、お話しされていました」
「多火丸殿は……婆をよく知っているの?」
「占者としてのご高名は聞き及んでおりましたが、実際にお会いしたことは二度ほどです。わが父が北夷の鬼子に誑かされて以来、この身に代えても討ち滅ぼすべきか否かと迷っていた折、千幡様御自らお導きくださいました」
 ――いつか夕星媛が南へ渡るとき、その旅路の果てにこそ氏族を救う道が見つかる。
 さらりと吐かれた台詞に気圧される。
 多火丸殿の瞳は、獲物に狙いを定めた鏃のごとく静謐に光り輝いていた。

君はみなぎわの光

君はみなぎわの光

七洲を統べる大皇の娘として生まれた夕星には前世の記憶がある。だれにも打ち明けられない秘密を抱え、暗い森の古宮に隠れ住む日々。心の支えは双子の姉媛・明星だけ。しかし、海を越えてやってきた少年が燃え落ちる星の運命を変えた――影と光のあわいを駆けめぐる、古代日本風・異世界転生譚。

  • 小説
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  • 青年向け
更新日
登録日
2020-02-02

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