回顧展


 写真に有る深みとは、と考えると歴史的背景に基づく資料としての意義が思い浮かぶ。筆記による記録とはまた違う、視覚で認識する被写体のあり様はいま現在と地続きの異同を知り、そこに写る人や街、自然風景に鑑賞者の思いを至らせる。また一方で、瞬間的な一場面を切り取り、インパクトで事の重大さを知らしめ、日頃見過ごす問題を考えさせるという意味で「深い」一枚がある。戦時に関するものなどが考えられる。写真の枠を超える表現である。他方で、通常の撮影とは異なるアプローチにより、撮るという行為を突き詰める一枚にも深みを感じる。この場合、写真に対する人の内面で起こる現象がフォーカスされ、視覚及び視覚情報の処理(脳)が露わになるに留まらず、そこから視るに込められる意味の問い直しが行われる。私たちは被写体に感動しているのか、それとも被写体に刺激された個人または文化等で括られる集団で通じる肯定的または否定的な意味に感じ入っているのか。あえて外した方法によって表れるイメージを抱え、面白い(しかしながら、人によっては不快な)疑問が生まれる。写真という行為が揺さぶられる知的な試み、その上で感情面での再肯定に広がる地平が確実にあるようにも思える悩み。高み、と言っても良いかもしれないアプローチに乗っかって、見える光景を想像する楽しみがある。
 奥や縦に繋がるような写真に対し、前後を感じる一枚がある。撮られる前と、撮られた後。何があって、何をしたのか。あるいは何かが起こり、何が起きなくなったのか。映像で記録されたのなら、分かり得たはずの横の出来事がシャッターでぶつ切りにされたため、一枚の左右にある痕のように存在する。見ているとチクチクする。イメージに輝く意識。撮影者はなぜ、この場面を撮ったのだろうか。訊いてみたい。覗いてみたい。ウズウズする、私の好きな写真の特徴である。
 ファッションの広告に使われる写真にも同じ印象を受けることが少なくない。物語を感じさせるのもひと目を引く広告の方法の一つであろうから、そこに納得もするのだが、横に繋がる写真ばかりだ、と思ったのは一度しかない。その写真家は、かつて絵画を学んでいたところ、撮影助手のアルバイトに従事していた中、撮った写真がファッション業界の重鎮の目に止まり、新刊雑誌の担当に抜擢され、時代的感覚がマッチしたこともあって一躍、最前線の写真家としての地位を得た。かかる写真家の展示会では、その時代の雑誌または雑誌の切り抜き、戦災を免れたフィルム群の中から現像されたものが並び、現代でも色褪せないセンスが飾られていた。パープルのドレスに大胆なハットが記憶に残るそのセクションは、確かに来場者の足を止めた。様々な試み(自動車の上部で踏ん張る姿など)は、遊び心と試行錯誤を飽きずに繰り返した結果と名声なのだと思わせてくれた。わくわく、と幼心が呼び起こされる。リアルタイムなご婦人の気分でそこにある服を選べる。これだけでもいいのだ。この写真家からピックアップできる評価の対象は、この時代だけで十分ある。
 しかし、この写真家が好きな理由はこの先にあった。彼は一流ファッション誌の専属契約を更新しなかった。その理由は判然としない。推測可能な断片は、当時の知人たちの証言から窺える。素地となる性格に重なる色が拭えずに、当時の自身の立場に対する彼の消極的な評価を認めさせる。彼が担当した最後の雑誌が迎えた季節の頃には、彼は彼が住む街の通りを悠然と歩き、徐ろにカメラを構えてはスッとシャッターを切って、その場を去る。被写体に全く気付かれずに撮るのが上手かったと彼の友人は言い、気付かれた場合も、何故か相手から問い詰められることが無かった。彼の佇まいがそうさせるのか(友人が撮った「撮影する彼」の姿がとても事務的に感じられ、現像された各記録が市役所にでも提出されそうという私の印象)、好好爺のような笑顔で誤魔化してきたのか(笑顔の「彼」は少ないが、ファッション雑誌に載ってはにかむ若き彼は素敵である)。いずれにせよ、彼が終生撮り溜めてきた何千枚のポートレートたちは全てが彼の倉庫から失われず、過去及び現在の写真家から高く評価され、学芸員たちが選び抜いた珠玉のポートレートが並ぶセクションにおいて、私はその全てを目にすることが出来た。その一枚、一枚が先に記した横に繋がる写真であり、セクションの端から端まで行きつ戻りつを繰り返し、次のセクションに進んでもまた戻り、特に気に入った灰色のコートの男性が手に掛ける黒く細い傘と、その頭上で輝くバーのネオンの古びた赤を中心に、私は時間を走らせた。1920年代の喧騒に、再び降り始める雨に打たれる水溜りと、戻れない水滴が道を開ける一台の自動車から降りる。驚かずに彼が見つめるその視線の先に立つ私は、現在にある者として襟を正す。待ち合わせの時間に少し遅れた、その彼の展示会が近々戻って来る。私は浮き足立たないよう、深呼吸を繰り返すのだ。
 彼の写真に心打たれた私も写真を撮った。しかし、後々心苦しくなった。奥にも横にも繋がらない。こう言えるのでないか、ああいう風に評価されるのでないかと考えて撮るのは、私の性に合わなかった。見て記憶し、そこから掬えるものをこうして打ち込む。納得するか、消して書くか。彼とは別の若い写真家は、シャッターを切ってから考えるのだという。こうして書くと如何にもな言い回しに聞こえるこの一文は、しかし私の経験からは、写真家の向こう岸とこちらを隔てる大きな川幅を保って今も滔々と流れる。彼もきっとそうだったのだろうと思う。彼の内で流れた場面で繋がる瞬間的なエピソードは、視ている人の手を借りて進む。鑑賞しなきゃ始まらない。二人一組の撮影現場。
 彼の展示会の当日、私は颯爽と街を行く。
「妊娠した私を撮らないことにしたの。」 
 プロの写真家として活躍する彼女が笑顔で話をし尽くした喫茶店を後にして、傘も差さずに、晴れ間を共に。

回顧展

回顧展

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-01-05

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