歯科助手さんとぼく
歯科助手さんの手
くちびるが、ちょっと、しびれている。あまく、しびれている。
歯科助手さんのてらてらとした手袋をした手が、ぼくの口内を調べている。ちょっと、くすぐったい。
ぼくは、学校の歯の検査のときに、アイスクリームをすくうときの木べらみたいなものでくちのなかを覗かれるのがきらいで、あれがくちのなかへはいるたび、おえっとなる。あの瞬間の恥ずかしさ。やって来た先生のしかめられた眉。大丈夫よと思ってもいないなぐさめを言う助手。あの瞬間のさびしさ。
それが、歯科助手さんのときだと、ない。おえっと、気持ちわるくなるどころか、ちょっと、気持ちがいい。きぶんがいい。
変態っぽい。
歯科助手さんは、じっさいにはもう助手ではないけれど、ぼくは歯科助手さんと呼んでいる。そしてほかにもたくさんいる歯科助手さんだが、ぼくの歯科助手さんは歯科助手さんだけなので、問題ではない。
薬のにおい。消毒っぽいかんじのあのにおい、きらいで、すきな、あのにおい。鼻のふちに停滞して、だんだん消えてゆくさびしさ。でも歯医者というのは、一度行けばしばらく通えるので、さびしさはたのしみに変わる。単純。
こういうところがこどもっぽくて、だから歯科助手さんはぼくの治療のあと、あたまを撫でるんだろうなとおもう。くやしくて結んだくちびるは歯科助手さんのためにしびれていうことをきかないので、表情はほころぶままに任せて。
待合室で流れている、ねむりのふちへ沈んでゆくようなゆったりとした音楽。ほどよくふるびた絵本たち、おもちゃたち。そろそろべつなところへかよわなくちゃねというかあさんに対する言い訳を、会計待ちのあいだ、かんがえる。
虫歯はないよ、ていねいに歯をみがいているんだね。みがいてるんだね、ではなく、みがいているんだね、という歯科助手さん。食べものだけじゃなく
ジュースをのんだあとも気をつけるんだよ、という歯科助手さんはぼくがブラックコーヒーだってのめるようになったことを、しらない。
「一週間後にまたね。さようなら」
「さようなら」
しらないままで、つぎも、あたまを撫でてくれたらいい。
いや、ほんとは、それをしってもなお、あたまを撫でてほしい。
やさしくておおきくて骨ばって、ととのった深爪ぎみのつめ、ぼくのくちのなかをたしかめるながい指。ぼくのくせ毛に沈んで、やさしくゆれる、あの手。
あの手がいい。
帰り道に面した窓からべつなひとのくちのなかをしらべる歯科助手さんがみえる。後頭部のまるみ、ぼくに気づかない歯科助手さん。ぼくのじゃない歯科助手さんの手が、だからぼくはすごく、恋しくなる。暮れ時。
歯科助手さんとぼく