観客席
一
一頭の象に芸事を仕込む調教師の演目になった頃合いに、隣り合って座っていた本物の象が長い鼻をぐいっと伸ばし、やっと一言を放った。
「ブリリアント。」
周囲の席に他の観客はいなかったが、まるで満員御礼の状態であるかのように配慮された声量は、しかしながら人である僕の鼓膜に確実に、また気持ち良く響いた。高らかに歌われるあの鳴き声に感じられる力強さ、鳴らされなかった空気を揺さぶる余韻の広がり、そしてあの舞台で調教されているはずの対象である象だからこそ、口に出来るあの調教師の演技の、その「ブリリアント」な素晴らしさを伝える間。その他、人の身として挙げれる数々の感想を尽しても、象の一言は見事だった。
また、その日、それ以上の言葉が象の鼻から歌われないことがなかったことも、評価すべきことだった。調教師の数がどれだけ増えようが、衣装やら何やら、様々な可能な限りの工夫が施されようと、あの舞台で繰り広げられる架空の象に対して調教をするあの調教師たちの演技は「ブリリアント」な一言で評価され尽くしている。全てはそれで十分であった。
この一言に対し、僕が応えない訳にはいなかない。
口の中に入れたポップコーンを咀嚼中であったため、すぐに返事が出来なかった僕は、取り敢えず首を動かし、縦に振った。しかし、隣り合う象は向こうを見て、こっちを見てくれない。一所懸命に咀嚼をし、口に入れてあったポップコーンを飲み込み、言葉を発したが、しかし象はこっちを見ない。しまった、失念していた。象は人の言葉を解しない。象の発する象の言葉は、生きる全ての生物に、その生き物が日常用いるコミュニケーションツールを介して、その意思を伝える。だが、こちらからはそうはいかない。象が使っている象のツールは、象がものでしかない。象には、象のみが話しかける事が出来る。僕には出来ない。君たちにも出来ない。
それでも応えたい僕はあの手、この手を尽くす。立ち上がり、踊り出し、叫び出し、暴れ出し、終いにはあの舞台に上がる選択をする。僕も調教師になって、象に向かって調教する。
観客席に座る象は、これで僕に気付くはず、だって象はこっちを見ていたのだから。舞台を観る象は、舞台を観られるあそこに座っている。そういう構図、大事な、大事な約束事なのだ。僕は走り出す。同じような姿形に、お構いなしに。ダン!ダン!
振り返る。しかし、舞台から観客席の様子は窺えない。ぼんやり、薄い暗闇、なぜだ、仰ぎ見る調教師。真上のスポットライトは素晴らしく眩しい。ああ、と調教師の発する言葉が短い。
それでも、あの熱情が消えやしない。欲して止まない。止められない!
舞台に上がった。さあ、ご覧あれ!
調教師!
あの、あの見事な言葉をこの身におくれよ!
ポップコーンの空箱を片付けて、腕時計を観る丈夫な手足で去った姿を無情に飲み込む。並ぶ座椅子のバネは機能して、新たな観客を迎える用意を劇場は正しく整えている。
観客席