七大罪とウァルグラの断片
1 スパ【温泉】 怠惰の罪
数日、時間が取れたので、例によってキョクトー地区のスパへ行くことにした。手間のかかった国際会議と、それ以上に手間のかかる銀河連盟の総会期の間の、英気養いだ。
一週間分のマッサージの予約を全て、ウァルグラ指名で入れた。世界富豪の一、二人と、地元の有力者や金満家数人の先約を、反故にさせたかもしれない。だが、そんな無茶も、私にだけは許される。
私、ヤーガが疲労困憊していては、地球の未来は覚束ない。世界中の人が今、意に染まない労働とは無縁で、まるで古代の貴族のように遊び暮らせるのも、私の陣頭指揮があってこそだから。そして、ウァルグラのあの手に心ゆくまで癒されるためなら、私だけがいまだに、人類というご主人に奉仕して馬車馬の如く働きまくっている、この年中の多忙にも、なんとか耐えていけるというものだ。
キョクトー基地から専用機で到着すれば、いつも通りの待遇で、スパの最上階にスイートルームが確保され、ウァルグラが待機していた。一週間丸々、彼が私の専属になり、私はいつでも、彼のサービスを受けられる。いくらかかるかなどは、考えもしなかった。
こういった骨休めの日以外の、日々の私の労働、一分一秒が、私に金をもたらしてくる。収入を使い切ることなど到底できない。だから結局、それらは私を通過して、地球中の慈善団体、自然保護団体、NPO、NGO、その他諸々、人々が好きに結成する善意の団体に再分配される。所詮、一個人が金でできることになど限りがある。いくら豪華な部屋に宿泊したところで、それ自体が費用に見合う満足をもたらすわけでもない。一人、いや二人で使うには十分以上に広く、最新の美的な調度と便利な道具で整えられた部屋を、美しいな、と思いはするが。
衣食住に必要な費用も、個人がいくらかけるといったところで限られる。地球および地球連盟、もとい、銀河連盟を運営する費用、テランとアリェン皆さんの、稼ぎ出して税という形で運用を寄託されている莫大な資金の方が、私にとっては関心事であり重要だ。これは巨額であっても、無尽蔵というわけにはいかない。災害がある、設備の老朽化がある、植民星の閉鎖がある。掛かりの大きさでは世界富豪の全財産を集めたところで穴埋めにもならないほどに、星間連盟の維持運営に費やされる財は多い。これらは、生きて動いている資金である。日々、生み出される富と消費される財との間で、我々は適切なバランスを取り続ける必要がある。
一方、私はそんな大局を操作しているという立場に過ぎない。私という、ただの一個人にいくら報酬を払ったところで、使える上限は限られているのだ。それをわかっていて、地球の皆様、連盟の皆様、私に報酬を使い切れないほど払ってくださる。この議員という重責、公僕という、人権もあれば尊敬も勝ち得ているが全世界公認の奴隷仕事に、人生の大半の期間を奉じる、ということへの対価として。
地球政府も銀河連盟も、大金を払い込み、私の口座を一旦通過させ、また別の組織へと捌く。貯蓄などは意味がない。死亡すれば個人の持ち物は、連盟の財産へと吸収されるだけだからだ、身体の構成要素が、宇宙共通の元素へと戻るように。人生の時間は限られている。人々は生きている間に得たものを使い、使い切れない残りは、それを必要とする、まだ生きている人へと回される。地球には、いいや連盟の星の全てにおいて、もはや困窮によって死ぬ者はいない。
話が逸れた。だから私は、ウァルグラに一週間、奉仕してもらうぐらいの贅沢を、自分に許したいと思っている。
部屋に入って、ウァルグラと顔を合わせ、キョクトー地区特有の地球語で挨拶を交わした。仕事柄、普段は常に、耳に組み込める翻訳機を使っているが、テラン各地と主要植民星の、この程度の会話言語は覚えている。これもまた仕事柄というところか。
ウァルグラの様子はいつも通りだった。海惑星、マルの最後の生き残り。結局、彼がテランに対して感情を露わにしたのは、あの惑星で保護された瞬間だけだったのかもしれない。それとて私は、報告映像の中で見ただけだが。ウァルグラという、ウミホタルから取った名前も、彼の本名ではない。彼の本名はわからない。言わないからだそうだ。マルの海にウミホタルがいたのかどうかはわからない。今はもちろん、もういないだろう。
ウァルグラはその、マルの海色に調整された青い目で、単に私を見つめて、入力された計算式の解を出すように薄く笑った。私は、それで特に不足はなかった。これからの一週間、彼の様々な表情を引き出す時間は、充分とは言えないにしても、あるにはある。
到着日はスパの様々な湯を、ウァルグラに同伴してもらい、楽しんだ。一般の人々とも混ざっての利用となるが、私は気にしない。私に気付く者も多かったようだが、皆、節度と距離を守り、礼儀正しかった。具体的には、私の体を覗き込みに来るような輩はいなかった。スパが男女混浴でないことの利点でもある。女性の方が、私を見つけた場合、プライベートを侵すことにそれほど躊躇しない傾向がある。
共用部分では特に素早く通り抜けることに気をつけた。SPなど呼んでいては無粋だ。私を害しようというような者は地球中はおろか、星間連盟を探してもいないはずだからだ。それに、ウァルグラの持っている、ちょっと冷たいような威厳が、ある程度の人払いには役立つ。ただ、スイートルーム直通のエレベーター前で、タイミングを狙って現れた数人には、サインをねだられた。スパのスタッフがすぐに駆けつけて追い払ってくれたが、支持者に邪険にすることは得策ではない。その場に初めからいた数人には、サインをしてあげた。事前の配慮が足りなかったと詫びるスタッフにも、逆に厚く礼を言っておいた。これで次からは、待ち伏せは起こるまい。
部屋で心置きなく、ウァルグラの全身マッサージを受けた。これが楽しみで年中働いている。そのことを彼に、素直に告げた。地球と銀河連盟の政治を動かしている重要人物の、確かな一人である私のモチベーションが、自分の腕に支えられていると聞いて、彼はどんな顔をして聞いていただろうか。
うつ伏せでマッサージされながら言ったので、ウァルグラの表情はわからなかった。いつも通り、当たり障りのない礼の言葉以外には返ってこない。マッサージの加減が変わるということもなかった。それにしても、ここで過ごせば、全ての疲れが湯に溶けて、さらにウァルグラの施術で体外へと、永遠に霧散してしまうような気がする。国際会議の最後一秒まで食い下がってきた森林保全団体の代表との議論で蓄積した凝りや、次の連盟総会で待ち受けているだろう膨大なロビーイング対応を思う憂鬱も消えてしまう。最高の心持ちだ。
浄水器で濾過された新鮮な水で、十分に水分を補給し、オーシャンビューの展望窓から、水平線を炎上させるがごとき夕暮れを堪能する。ゆっくり一息入れた後、ウァルグラと差し向かいで、ルームサービスの豪華な食事を楽しんだ。酒は、スパに滞在中はどうしても回りが良くなるので、非常に上等なものを、少しだけだ。晴れた夜空の下、黒い海には、抗酸化処理の万全な豪華船が、何艘か浮かんでいる。客船で酒宴を楽しむ人々のための、灯が楽しげに瞬いている。ここは湾なので、水質も、かなりいい。水上舞踏会が船の溶ける心配をしなくていいのはそのお陰だ。明日の朝には、アメジスト色に光る海を眺めて楽しめるはずだ。素晴らしい場所だ。
ウァルグラにも酒を勧める。彼は飲むのだが、決して度を過ごさず、酔わない。トパーズ、とでもいうような色合いの肌に、いつでも冷たい表情を浮かべている。湯でも酒でも高価な約束でも、彼を熱くすることはできないようだ。恋ではどうだろうか。彼は恋をするだろうか? なんでも構わない、一度ぐらいは酔わせてみたいものだ。
眠くなったのでベッドへ向かい、ウァルグラを隣に誘ったが、彼は断り、私が彼に許した隣室の寝台へと引き取った。広々としたスイートルームには応接室、主寝室の他に第二寝室、書斎、キッチン、貴重な石材を用いた風呂場に、外のテラス、海に続いているような錯覚を計算したプールもある。住居として考えた場合でも、大変贅沢なものだ。それはさておき、もう少し強く要請すれば、彼は私のベッドへと来ただろう。彼は職分に忠実で、私を決して不満にさせず、角を立てることがない。役目大事の生真面目さ、というよりも、全く我を張らないところは、却ってつまらなくなるほどだ。しかし今日は、私も入浴三昧とマッサージによって程よく疲れが溶け出しているところだったので、それ以上は押さなかった。残りの日々がある。まだまだ、いくらでも楽しめる。
2 ピスキス【魚】 貪食の罪
朝から寝坊を楽しみ、目覚めたからには、湯に入る以外のことは何もしない、というほどの意気込みで、各種の風呂を巡る。スパは、キョクトー地区アーキペラゴ各地の天然温泉などを汲んできて、衛生管理をし、私達に提供している。安定的な人工海水で満たされている内陸海からも潮水を運び、タラソテラピーの湯船も用意されている。丁寧に栽培した貴重なハーブを惜しみなく薫いて、様々な効果を狙うサウナもある。鉱泉に浸かり、潮を浴び、サウナに座っては水風呂に入り、皮膚も体も、ますます新鮮に、若くなる思いをする。
現在、テランにもアリェンにも、醜い者や病気の者、老いた姿の者などは、ほとんどいない。医療は進み、不老法も確立し、人々は若く健康な状態で長く生きる。例えば心身の不調やアンバランスがあっても、それを補うための技術は必ず用意されている。本人の望み通り、いやそれ以上に、足りない部分を補うどころか、オンリーワンのアンバランスが強力な魅力になるようにさえも、美容なり身体能力を操作して、整えてもらうことができる。人類はもう、不慮の事故にさえ気をつけていれば、ほとんど好きなだけ、それこそ飽きるまで生きられる。
その美しいテラン・アリェン達の中でも、私は際立って美しい容姿に恵まれている。謙遜しても仕方がない、誇張も同様に意味がない。これはただの、客観的な事実だ。私の外見の美は、節制と、医師らのアドバイスを常に受けたメンテナンスをかかさないからでもある。だから、スパに滞在し、こうして浴場で、全裸の肉体を晒して歩くことにも、私は密かな満足を覚える。人々はここでは、私が、星間連盟にとって重要な政治家、ヤーガであるから、ということよりも、現在、目に入った肉体に、素直に感心する。我知らず視線で追い、無意識にため息をついて賛美する。それが愉快だ。キョクトー地区には様々な肌の色のものがいて、スパはその多様な姿を楽しむ格好の場所だ。だがその中にも、私のように健康的な明るい肌、出来立ての赤銅の輝きを放っている長い巻き毛、地球の誇る大森林にも喩えられるエメラルドの目の持ち主は、まずいない。しかもそれらが全て、整形も色素の調整も必要のない、天然に、宇宙から私へ与えられた外見だ。
しかし、午前中のスパには、宿泊以外の客も少ない。そこで私は、無邪気に天から授かった自分の肉体を見せびらかして回るでもなく、一人で純粋に、趣向を凝らした色々な湯の感触を楽しんだ。昼前に部屋へと戻る。隣室を全く確かめないで出てきたが、ウァルグラは私よりも早く起きていて、キッチンを使い、簡単に朝食も料理していたようだった。ところが私は起きるや否や、食べもしないで風呂を巡りに行った。そのため、彼は一人で朝食を食べ、後もすっかり片付けたらしい。それからどうしていたのか、と尋ねると、彼は「何も」と返した。
備え付けられた書斎には、星間共通語に直された多種の本があり、モニターはネットワークに繋がっている。電子ゲームの類にも事欠かない。読書ぐらいはしたのではないかとも思うが、言葉通り何もせずに、窓から日の移るのを眺めていたのかもしれない。彼の嗜好はほとんどわからない。ウァルグラに趣味など、ないのではないかと思う。
もしも彼に、昼に食べたいものはないかと尋ねても、あなたの食べたい物を、と答えるに決まっている。そこで私は尋ねず、今回はスパの厨房ではなく、近隣で一番のレストランへと注文して、魚料理の最上のものを運ばせた。人工海で養殖される海魚、内陸の清冽な川で放流されている川魚や貝、蟹などだ。合成食品は全くない。地球の海が死ぬ前の時代に作られた、希少な天然物の缶詰を用いた一品料理まで並んだ。まるで歴史上の独裁者が権力を振るったような昼食になった。しかしウァルグラは、テーブルを埋める非常に高価な料理達を見ても、眉ひとつ動かさなかった。
彼は、本当に美味い海産物以外は口にしない。かつてマルの海で、文字通り、その手に掴み取りにできた魚の味を知っている。だから基本的に、地球の魚を好まない。ここで私が、金と権力にものを言わせて、キョクトーの誇る魚介料理を揃えさせたのは、ほとんど私の、テランとしての意地と見栄といったところだ。
彼は礼儀正しく、「美味しい」と礼を述べて食べた。魚の骨を除く様子や貝の身を外す手際、蟹の甲を割る速さなどは、実に食べ慣れている者の熟練を思わせる。手指を使って彼が食べる様子は、野生的であり、かつ、優雅だ。昼の膳ではあるが、温めたライス・ヴァインもつけておいた。しかし彼は飲まなかった。仕事中にはなるべくクリアでいたいのだと言った、その言葉で、私は少し、いい気分に水を差されたと思った。友人として共に楽しむつもりにはなれないか、と冗談めかして言ったが、ウァルグラはあの薄い微笑で見返すだけだった。
私は鼻白んだ。彼は礼儀正しく、私に逆らうことは、まず、しない。だが、初めから最後まで、あくまでも仕事という態度を崩さない。それをなんとか壊して、エゴも弱みもあるはずの人間・ウァルグラを掴まえてやろうと、いつも私は企てるのに、その前に必ず、滞在期間が終わってしまう。
今度こそは掴まえると思いながら、彼の顔を眺めると、こちらの気持ちを読んだものか、ウァルグラは表情を消して横を向いた。そんな個人的嗜好のハンティングは、別料金の中にも入らない、とでもいうのだろうか。彼の顔色一つでエスカレートした自分の考えに、一瞬振り回されそうになり、ここで不興になろうかと、束の間、気持ちが迷った。
結局、貴重な滞在時間の空費になると考え、未熟な子どものように不機嫌を出すなどということは、止した。いつも通りに、合理的な判断と冷静さ、諦めず前向きな交渉術で、ことを進めるに限る。
テーブルを片付けに来たボーイ達に任せ、書斎へ場所を変えて、ブランディを片手に、二人用のボードゲームを何局か戦わせた。ウァルグラはその気になれば上手いのではないかと思うが、真剣になる様子もない。負けた方はテラスのプライベートプールで、裸で泳ぐこと、という賭けを持ちかけた。彼は拒まずに受けた。私はそこから、本気でゲームを進めた。結局、私が勝ったが、思った以上に頭が疲れてしまった。ウァルグラはそれほど悔しがる様子も見せなかった。彼が手加減してわざと負けたのか、それとも最後まで本気で対戦していたのかはわからない。
約束通り、午後遅くの光線がふんだんに降り注ぐテラスで、彼は全ての着衣を脱いで、プールに入った。自分の体へ、紫外線避けのスプレーを吹きつつ、縁から水を覗き込めば、彼のトパーズ色の肌の全てを、眺めることができた。浴室でもいくらでも見られる彼の裸なのに、そして、例え水着を着けていたとしても、肌の露出はそれほど大きく変わらないというのに、「本来裸では使わない場所」に裸で彼を居させるというだけで、私には兆すものがある。彼は巧みに泳ぐ。神話をモチーフにした彫刻の、イルカと戯れる海神の息子のようだ。私はゲームでは勝ったが、自分も裸になって水に飛び込んだ。澄んだ水に頭を浸せば、脳の疲れが、水と泡とに溶けて消える。
泳ぐ彼を捕らえるのは無理だ。私の水泳の技術では、人魚のように泳ぐ彼に、追いつくことも不可能だ。私はただ彼を呼ぶ。彼は私の命令に従う。それではまるで、飼いならされた家畜も同然だ。面白くない。私は側に来た彼に、腕も脚も絡ませた。私達の体は絡み合って沈む。沈められても、彼は全く慌てる様子がなかった。遠ざかる水面の波紋が、乱れた金色を水中に撒き散らし、私達の体についた気泡が、銀色にさんざめいて、二人の周りを細かく踊りながら上がっていく。捕まえたウァルグラは、水中で、波よりも青い、明るい色の目で、冷静に私を見つめていた。私は手を伸ばし、彼の顔を掴み、口を吸った。熱のない、水の味だけがした。やがて息が保たなくなり、私は水面へ脱出した。ウァルグラはゆっくりと側へ浮かび、静かに細い呼吸をしてから、私に「アルコールが回るので、もう上がった方が良いでしょう」と注意した。
私たちはプールから上がった。力いっぱいに泳いだりふざけたりしたせいで、体が疲労で重く感じられた。ウァルグラはプールサイドのデッキチェアに、柔らかいバスタオルを重ねて敷いて、私を寝かせた。部屋のあしらいにしては実際に土を入れて生やされているヤシの木が、美しい葉の形そのままに、私たちに日陰を作っていた。ウァルグラは私に、爽やかな香油を塗って、天国の福音のようなマッサージを施した。あるいは地獄の入れ知恵のような。私は心地よくなり、眠り込んだ。次に起こされたのは、夕食の時だった。
太陽はほとんど沈んで、空気は少し冷えていたが、目覚めた私はウァルグラの手により、体が冷えないよう、フカフカの贅沢なバスローブをしっかりと着せられていた。足元までは乾いたバスタオルで包まれ、足先には、やはりフカフカのスリッパを履かされている。間違っても私が体調を崩さないように、彼は細やかに配慮している。
昼食が魚だったので、夜は肉にしようと決めた。二人だけの晩餐だ。ディナージャケットに着替えて、同じく着替えさせたウァルグラを伴い、スパの地階のレストランに赴く。パーティでもないので、誰に見せる装いでもない、ただ、私が華やかな正装姿をウァルグラに見せたいのだし、普段の仕事着とは違う彼を楽しみたいのだ。混み合ってもいない広いレストランでも、私たちは目立った。それでも他の客は行儀が良く、遠くから私達を見るだけで、誰も邪魔をしなかった。
リストからキョクトー地区名産の、良い血統を持つ牛の肉を選んで、焼き加減を指示する。夜なので、量も少なく、シンプルなコースにしてくれとオーダーする。素材の味で決まってしまう肉はもちろん、付け合わせの野菜や、澄んだスープの味も良かった。自然と、機嫌も良くなる。晩餐の形式としては、酒がつきものではあるが、せっかく、マッサージと昼寝ですっきりとして元気が出たのだと、酒はやめておいた。その代わり、店のとっておきの天然水を出させた。食後にフレッシュフルーツを頼むと、ウァルグラはこちらの方を好んで食べている。私はウァルグラに主にそれらの水菓子を食べさせるため、自分はナッツを追加で頼み、水のアテに栽培胡桃や炒り豆などをかじっていた。
3 カーマ【ベッド】 色欲の罪
昨夜は私の要望に従い、ベッドを共にしたウァルグラは、翌朝私が目覚めた時には、すでに隣室へ引き取っていた。この冷静な態度が余計に私を刺激する。彼はそれとわかっていて、なおも事務的な態度でいるのか、それともわかっていないのか。
私は異性愛者として妻も子もあり、しかし誰しも持っている自由恋愛の権利で、同性を含めて恋人も多数いる。テラン、アリェン問わずに、世界各地、各惑星にいると言ってもいいほどだ。ウァルグラに執着するのはなぜだろう。拒まずに抱かれながらも、結局、彼が決して、私の恋人にはならないからかもしれない。
性的な快感をもたらしてくれるサービスは、スパに頼めばいくらでも誂えてくれる。むしろ、そういうことがしたいなら、適している場所は、スパ以外の場所にたくさんある。それどころか、例えば人肌の温度が高すぎると思うなら、キョクトー地区の金色の肌の女性達、芸術的な刺青を持つ、逞しく日焼けした青年達に頼ることもない。ヴァーチャル、リアル問わず、様々なアミューズメント、器具、仕掛け、玩具の類に事欠かない。
私は敢えて、本業がマッサージである、海惑星の孤独な生き残り、ウァルグラに拘らなくても構わないわけだ。私にはいくらでも選べるのだから。しかし私はウァルグラが良かった。
寝転んだまま、ベッドサイドのボタンを押して、第二寝室を呼び出した。「御用は」とウァルグラが答える。静かな声だ。こちらへ来るように言えば、じきに、足音を吸ってしまう絨毯を歩いて、彼が現れる。ウァルグラは細身で背の高い、良い身体をしている。今はその体に、スパで普段彼が着ている仕事着を纏っている。浴衣のような着流しのような、簡単な一枚布になっている服を、彼は不思議と、だらしなく見えないように、きちんと着る。私は今すぐにそれを脱いで、私のベッドへ入ることを彼に要請した。ウァルグラは少しの間、黙って私を見つめたが、やはり逆らわずに言葉通りにした。側へ来た身体を捕まえ、肌に顔を近づければ、朝湯でも使ったのだろう、爽やかな香りがする。彼の体は、太陽光に似た、自然の温度を発散している。
マッサージですか、と彼が尋ねるので、そうだと言って、裸でマッサージをさせた。室温は少し涼しいぐらいに保たれている。窓には薄いカーテンがかかり、強まりゆく外光を和らげる。私はわざと、気分を高める効果のあるローションを使ってくれるよう頼んだ。ベッドが汚れることは気にせずに、人肌に温む弱い粘性の液体が、肌を滑る感触を楽しむ。催淫の甘い香りが空間に満ちる。身体中を撫でさする指先の感触と、ウァルグラの平静な呼吸の音。倫理も道徳も熱い指に解かれて、すべておおらかに、自然の欲求に任せるままとなっていく。いや、私がいくらそうなろうとも、ウァルグラは結局、熱くはならないのだった。
もっとだ、と要求すれば、彼は私の秘所にも触れる。波立たない澄んだ海の色の目で、私の男根を検分して、長い指を的確に絡める。効果的なマッサージに、嬌声を上げる私にも、彼は顔色一つ変えない。彼はまた、私の強請りに応じて、衛生用の薄い膜を手に装着し、後ろの穴へも指を入れる。ウァルグラは繊細に、私の内側を揉みほぐしてくれる。前立腺を緩やかに刺激することで得られる、長く大きなオーガズムを、私は、飽きるまで味わう。
溢れる声と唾液の間から、唇を、と求めれば、彼は落ち着いた表情のまま、顔を寄せて差し出す。どれだけ情熱的に舌を絡め、息を奪い合うと思えても、彼にとってそれは、手技と同じ技巧に過ぎないのだろうか。乱れた呼吸でのたうちながら、何度も天国を見ている私には、あまりうまく判断はできない。セックスは酒よりもよほど鮮明で熱い感覚を味わえる。天然に与えられた感覚を駆使して、快楽に酔えるものだと思う。彼は私に挿入することはないのだから、彼の手を借りた、一人遊びの感はあるとしても。この方法は、身体に最も負担のかかりにくい耽り方だとも思う。内側を適切なやり方で刺激することは、男性に特有の病気の予防にも良いとのことで、古より実行されている。性欲の健康的な解放は、自然治癒の力を高め、ホルモンのバランスを整えるのだ。
もう指示も出せないほど、最上の果実を味わい尽くして飽満し、息を弾ませて私はのびていた。弱みを全てさらけ出して惚けていても安全だ、ということ以上に、自分が強者だと感じられる瞬間は、ないのではないだろうか。そんなことを、考えるともなく考える。程なく、私の汗だくの身体全体を、そっと拭って、ウァルグラは腰を上げる。自らの肌についた汚れには無頓着だ。汚れの上から浴衣をきちんと着て、「風呂へ行きましょうか」とウァルグラは私を誘う。大浴場へ行けば爽快だろうと思ったが、私は部屋付きのジャグジーを準備するように言った。まだ、彼の乱れた姿を見ていない。次はそれが所望だ。
熱い湯が、まろやかな泡に攪拌されて、湯船は音を立てている。そこへ身を沈めて、ウァルグラも呼び寄せる。肩に腕を回し、優しく抱きしめて、至近でその浅黒い顔を見つめる。彼は、視線を合わせると逆上せが去るような、冷たいほどの目をしている。彩りを綿密に操作した、マルの海色の虹彩のせいではない。目を覗けば、脳の芯まで、彼が冷静だということがわかるからだ。「君は熱くはならないのか」と私は尋ねる。「湯が熱ければ、私も熱いと感じます」と彼は、言葉を曲げて取って、答えを逃げる。
彼を熱くしたい、という意思を伝え、彼が拒まないのを確認してから、私は彼を広々とした浴槽の縁へと腰掛けさせた。足の間に入り、彼のものに口をつける。彼とて、刺激によってエレクトしないわけではない。ジャグジーに撒いた上等のアロマが、細やかなミストとともに私たちを包む。ガラス窓からは昼前の明るい光がふんだんに入って、上空を速く流れる雲の影が、留まることなく明度を変えていく。私は嬰児がおしゃぶりを離さないのにも似て、彼の部分を口全体で愛撫する。滲み出る彼の体液の味が、舌に素敵な刺激を与える。褐色の皮膚に包まれた、筋肉の美しい長い腕や足をかすかに動かし、刺激に耐えている彼の姿はきっと垂涎の美しさだろう、と想像しながら、食べられはしない美肉をしゃぶる。熱めの湯と、口に大きく含んだ彼の肉体の一部が、私の温度をどんどん上げる。彼も溶解するほど、熱くなってくれればいいのだが。耳に、熱く血液の流れる音が、派手やかなジャグジーの泡音を凌駕し始める。「ヤーガ。そろそろ上がられねば、逆上せます」。彼の静かな警告も無視して、私はなんとか、彼を駆り立てようとする。
ふ、と諦めのため息の声で、彼は少しばかり吐精する。私は満足を覚えて、含んだ彼の精を、喉へと飲み込むか、浴槽外へと吐き出すかまだ決めないまま、立ち上がろうとした。そして案の定、湯に沈む。「ほら」。責めるではないが、淡々と指摘する言葉は控えずに、ウァルグラの揺るぎない手が私を掴んで、素早く水面に出した。すぐに彼は、その外見から思うよりもかなり強い力で、私を湯から抱き上げて、ゆっくりと浴室から連れ出した。
逆上せて、世界がガンガンと鳴り響いている。もはや、していた口淫のせいではなく、血が膨張して回りすぎるがために、息が弾む。こんな体たらくでありながら、火照り、力の入らない私の体も頭も、満足している、といってよかった。「馬鹿なことを」。ウァルグラが呟く。薄眼を開ければ、彼の使っている第二寝室のベッドへ、寝かされているようだ。視界に水のボトルが差し出されたが、首を振って拒む。そうすれば、口移しで与えられると知っている。冷たい水が美味い。彼の冷えた唇が美味い。ウァルグラはその後、草の優雅な細工物の団扇を取り、静かに私を扇ぎ始めた。
しばらくすると、体の火照りも冷めてきて、耳鳴りも収まる。気分もまともになった。「馬鹿なことだと思うか」。私は横たわったまま、頭を動かし、改めて彼に尋ねる。ベッドの端にかけたウァルグラは、光る眼で見返して、薄く笑うが答えない。その笑いにも、はっきりとした意味はないようだ。「私をどう思う」、と私は尋ねた。ウァルグラは視線を外し、窓を見た。こちらでは開けられている窓から、暖かい海風が入ってくる。毒の海の悪臭は全くしない、一方で、人口海の潮の香りもしない。湾は良く管理され、空気の調整も万全だということだろう。ウァルグラの褐色の髪がサラサラ揺れる。「海の泡から生まれた、ヴィーナスのようだと」。ウァルグラは海の彼方へ視線を投げたまま、言った。薄光りのシーツに投げ出された私の裸体は、確かにそれほどの見た目ではあるのだろう。「馬鹿を言うな、私は男だ」苦笑で答えると、彼の視線が戻る。今度は確かに、彼も微笑っている。
これこれしかじかのような人を、恋人に欲しい、と言いさえすれば、世界中、星間中の美女でも美男でも、いくらでも引き合わせてもらえることはわかっている。私の地位や、果たしてきた仕事への尊敬と憧れがなかったとしても、ただ私が私の人格をして、私の外見をしているだけで、私を慕い、熱狂的に追いかけるファンは、老若男女問わず、大勢いる。私が若い男の肉体でいる以上、女性がやや、多くはあるが。このスパの下の階のロビーに、例えば、今降りて行き、しばらく立っているだけで、人々が十重二十重に私を取り囲むだろう。群衆は私を見れば、もっと近くへ寄って、見て、可能ならば言葉を交わし、できることなら手を伸ばして触れたい、と願うファンの群れに変わる。それが私の、言ってみれば、日常だ。
オフの日のアバンチュールの相手には、女性が好きだが、女性でなければならないということはない。誰かに仲介を頼んだら、美丈夫でも少年でも、私が注文した通り、側に差し出されてくるだろうし、彼ら自身も私といれば、大概は、私に情熱を燃やすようになる。全て、とまでは私も自惚れない。一緒にいて視線を交わし、話していても、恋にならないことはある。もし、そうして恋情が見出せないならその時は、優しいキスでもって、あるいはそれも清潔に省略して、お別れすればいいだけのことだ。『愛の政治家』と、からかい半分、憧れ半分に、私はあだ名されることがあるのを知っている。
ウァルグラだけが私に恋をしないのではない。ただ、ウァルグラだけが、私に恋をしないのにも関わらず、私の興味を惹きつけ続けている。靡かないものを側においても、仕方がないのではないか、と私の中の計算高い部分がいつも言う。これはしかし、計算では割り切れない。ウァルグラは私を嫌いなのではない、嫌いな者に身を任せるような男ではない。しかし、私に恋しているわけでもない。敬意を払ってくれているのはよく理解できる。細心に世話もしてくれる。私に何が足りないのだろうか。
思い巡らせ、眉間にしわを寄せている間に、ウァルグラは立って、部屋を出て行った。しばらくすると、キッチンで調理をする音が聞こえる。食材は移送装置で厨房から、何でも選んで取り寄せられるので、それを使い、遅いブランチをこしらえているのだろう。午後と、夕方と、夜。腹ごなしをしたら、また、彼を抱いてみよう。私は思いながら起き上がった。ベーコンを焼いている良い匂いが、微かに流れてくる。食事の後は眠くなるかもしれない。それでは、食休みの後に下のスパに行って、ゆっくり湯船やサウナを巡ろうか。その間に部屋をクリーニングしてもらうのが良さそうだ。健康な空腹を覚え、そのことを楽しみながら、私はベッドから降りて、裸のままでウァルグラのいるところへ向かった。
4 クーリア【会議場】 憤怒の罪
忌々しいことに、緊急会議の要請が入ってしまった。年中これだ。急に休めるようになる日などは万に一つもないが、法定の休日が台無しにされることは、ありふれた出来事だ。腹の立つことには、誰も大して悪びれずに、私から楽しみを奪って、厄介な仕事を手の中に押し込んでくる。ため息をついても唸り声を出しても、事態は変わらない。一刻も早く終わらせるのみだ。
副官からの通信によれば、太平洋の向こうの大陸で、巨大ハリケーンと大規模森林火災が同時に起こったという。物に動じないが、同情的でないわけでは決してない、副官の柔らかい女声と共に、次々に、任務用の端末へとデータや映像が送られてくる。被害は既に甚大だったが、これからの拡大を防ぐのが我々の仕事でもあり、腕の見せ所でもある。救援対応のための特別予算を用意し、支出を許可する。近隣地区から少数の人間と訓練された動物と、たくさんの救助用ロボットから成る災害対応部隊を派遣する。さらに避難者を慰撫する演説を行いつつ、地球の他地区からの支援物資を呼びかける。今後は同時に、植民星から届けられる予定だった品々の行き先をどこへ振り分けて受け入れるかなどの指揮をとる人々の、さらに指揮をとり、管理して見守る役目がある。第一弾の指示は、通信で行える限り行った。
ある意味では、ここで休暇はおしまいだ。しかし幸い、副官が、災害の酷かった場所に近い都市に、ちょうどいた。そこは地形的な幸運から、被害を受けておらず、従って、今後の対策の、現地拠点になる。私は彼女に、初動に当たっての一時的な権限移譲を提案した。私一人の移送に大陸間宙航船を使うぐらいなら、そこへこちらの地区で貸し出せる救助ロボットや物資などを積んでもらい、現地に急行してもらってそれを使えば、今すぐにできることはいくらでもある。その場にいる者をまず援助してできることをしてもらう方が、今はいい。私の到着と指示を待つのでは遅くなる。
私の提案は受け入れられた。副官一人では手が回らないことを考慮し、現地地区周辺の官僚で彼女が必要と思う人物には、彼女の判断で補佐についてもらうようにとも助言した。初動の間は、こうして、副官と、彼女を支える臨時のチームに現場指揮にあたってもらい、私は通信経由で、報告と相談を受ける。現在、現地にいて、状況もより肌で感じられる彼女の指揮で応対すれば、いちいち私にお伺いをたてる時間のロスもない。こういう場合は一刻一刻が、海難者の船に残された水の一滴にも当たる。少しも浪費すべきものではない。多少は事態が落ち着いて、私のような部外者が大仰な大陸間移動をしても、現地に負担を与えなくなってから、私が乗り込み、陣頭を交代する。そのように手早く、取り決めた。事態が収束する前に始まってしまうだろう本来の予定、星間連盟の総会には、通信参加か、会期後半からの参加で我慢してもらうよう、交渉せねば。
とにかく今は、権限の一時的な移譲を行うために、首脳部を招集しての緊急会議を、すぐに行う必要があった。そこで、スパから最寄りの立体映像会議室を緊急で押さえ、送迎車で向かうことにした。ところで、例年通り今回も、私の仕事を補佐してくれる、秘書や事務官といった役目の人間をも休ませての滞在だ。彼らを一旦スパに呼び出すのでは時間の無駄だ。会議室へ直接参集するようにと連絡する。ついでに、時間までに集合できないならば無理をせず、通信で傍聴するようにとも伝えた。キョクトー地区は狭いようだが、南北に細長く、海岸線や山が入り組んで、移動は意外に面倒だ。それでいながら風光明媚で変化に富むので、部下達も、休暇を機会によほど遠くまで遊覧して、羽を伸ばしていないとも限らない。急ぐあまり、無茶をする者がいては、ろくなことにならない。地区の交通の安全にも関わる。
これで私は一人で向かえば良い、とはいうものの、ここは私の普段活動している土地ではなく、多少、不便だ。そこでウァルグラに、同行を依頼した。彼はこの滞在期間中、私専属で借り切っているので、地区内であれば、どこへ連れ出すにしても、特別な許可もいらない。彼に頼めば、いわゆる「鞄持ち」の代わりぐらいはしてくれる。政治家見習いのために、普段は必ず、秘書の若者が数人、私についている。若い秘書らが行うような身の回りの世話なら、ウァルグラの方が、よほど細やかにこなしてくれると思う。多分、彼は今から勉強をして星間政府に参画しても、充分働けるほどの素材ではあると、私は見ている。しかし、そんな役目に彼をつけては、宇宙中でもっとも心地よいマッサージを、誰も堪能できない。だから彼はスパに住むことに決まっているのだし、私がどんなに、個人的にも客観的にも彼を評価していても、彼を自分の秘書に採用することはできない。
立体映像会議室はかなり広い、灰白色の部屋で、壁と天井がドーム状になっていた。隣室が控えで、そちらは普通の小さな会議室だ。ウァルグラにはそこに待機しているよう言って、私は映像会議室へ入った。部下達は数人来ていて、あとは通信をつなげてきている。すぐに会議が始まった。大洋の向こう、現地は夜になったところだ。壁と天井が消えて、被災地の記録映像と夕方までの状況が様々に映し出される。副官や現地の部下達がフロアに現れて、実体はないが存在感は同じ、正確な立体映像で私に話しかける。私の映像も、向こうでは同じように彼らの会議室に現れていることだろう。
会議が終わったのは昼も過ぎた頃で、途中休憩もほとんど無しに、私たちは当面の行動を取り決め、決める側から関係機関に連絡して実働に移した。許可待ち、事後承認待ちの案件も既に多数あり、状況把握とゴーサイン、改善点の指摘や別案の差し込みなど、頭を休ませる間もなく考え、話し、決め続けた。私たちの決定で実働する人々の労働が、効果的になるか、無駄な苦痛の多いものとなるかが左右されてしまう。誤りを少なく、しかし迅速に、次々決断して指示をせねばならなかった。やっと、という感覚さえも忘れるほど無我夢中で取り組み続けた後、本日の通信は終了、と決まり、慌ただしく、しばしの別れと、強い激励の挨拶を交わす。像が速やかに消えた会議室で、私は急に大きな疲労を感じ、放心に近い状態で椅子に座り込んだ。壁に隠れていた窓が外光を入れるモードに切り替わり、真昼の太陽に照らされた小ぎれいな街並みが視界に広がる。破壊されて散乱し、あるいは暗闇に延々たる炎と煙を上げていた、災害の只中の場所と、この、穏やかなキョクトーの正午と。あまりの落差に、しばらく感覚がついていかないような気がする。
今の私や、被災地区ではない、安全な遠方にいる人間にとっては、惨禍は映像なり音声のニュースの中のものだ。善良な人々は、もちろん、もう既にあちらの惨状を知っており、街で職場で家庭で、心からの同情を表明して、早速に資金や物資の拠出をしたりしているはずだ。さらに、自らの家庭や、暮らす街の備えに思いを巡らせたりもするだろう。そしてその後は。その前までと同じく、彼らの行っていた日常を続ける。豊富に物が並ぶ屋内マーケットで、生体認証による決済で買い物をし、快適な設備に守られた家で調理し、愛する家族とそれを食べる。恋人達は実感型のヴァーチャルシアターに行き、高速宙車での上空デートを楽しみ、夜には清潔なベッドで、愛を囁き合う。当たり前だ。事態の彼我が逆だったとしても、きっと同じことだ。キョクトー地区がタイフーンに見舞われて壊滅した真昼に、海の向こうのあの街の人々が、いつもと同じまばゆい夜景の中で、オーディオサーヴィスから流れる心和む音楽を聴き、おやすみのキスを交わしあう。そちらの未来に私が生き延びていれば、現地対策本部をここか、隣接の半島の都市にでも立ち上げる。今頃副官らが、今後の支援の手順を、私と相談していたことだろう。
この事態は、当分は続くのだ。休暇の終了までには、予定を変更して現地へ乗り込める程度には、復旧の着手が進んでいなければならない。ここからあと三日、いや二日と半日でできることをする。そう考えながら、私はウァルグラの手が欲しいと思った。頭や肩、背中に一気に取り付き、これからしばらく離れないだろう、重大な責任と凝りの塊を、卓越した指と手で、癒して欲しかった。自らの全身の呼吸を、私のリズムに合わせてくる不思議の技で、つかの間、苦労を忘れさせて欲しかった。そうすれば明日の通信では、より様々なことを考慮して、明白に処理できるだろう。離れた場所にいる今から不眠不休の体制で心配していては、解決までとても保たない。助ける側にある私達はむしろ今こそ、体調維持に配慮して、交代で休み、交代で力を尽くす義務がある。
私は気持ちを定め、ウァルグラと落ち合おうと隣室に入った。ところが彼はいなかった。トイレか、気分転換に廊下でも歩いているのかと、少し待ち、やがて廊下を見て回ってみたりもしたが、その様子もない。なぜ、どこへ行ったのか? 急な呼び出しでもあって、スパへ戻ったのだろうか。管理人に連絡を取るか、少し迷った。スパからの用事で、そちらへ戻っていれば問題なしだが、もし、どこかへ彼個人の用があって、勝手に待機をやめて出て行ったとなれば、職務放棄とみなされて、彼の責任問題になるかもしれない。
どうしたものかと思ったちょうどその時に、廊下をウァルグラが歩いてくるところへ行きあった。非常に急いで控え室へ戻ろうとしていたようだったが、彼は私を見て足を止めた。「会議はお済みですか」と、彼は落ち着いた声で問いかけ、誠実そうな表情で私を見た。私は瞬間、頭に血が上った。彼の裏切りを知ったからだ。
彼の着衣には変化がなかった。朝、着るようにと渡したスーツを、すっきりと着用し、とてもきちんとして見えた。しかしその香りは。私は彼の手を無言で掴み、自分の鼻先へ近づけ、確かめた。本当は、確かめる必要もなかった。間違いようのない、マッサージ用香油の香りが、ふわりと香る。それも、私に施術する時に使わせていた香油とは、違う種類の香りだった。ウァルグラは今まで、誰かにマッサージをしに抜け出していたのだ。私との専属期間中に、私が困難の渦中にある多くの人々のために、重大な会議をしているまさにその時に、彼は誰か他の客のために、私から数時間を誤魔化した。「一週間の約束だった。まだ四日目も終わっていない」。私がそれだけ告げると、彼はため息をつくでもなく、ただ無言で、私の離した手をゆっくりと引っ込めた。
彼の、波立たないラリマー色の目は、今も変わらず、水の温度で静まっている。私はそれを睨みつける。ふっとウァルグラの唇が緩んで、ため息と混ざる声が出た。「それで、罰は」と彼は尋ねた。契約の打ち切りや謝罪、罰金など、色々なペナルティを想像し、しかも『それで済ませれば良いと考えている』。そう思い、罵ろうという衝動で憤然と息を吸った。だが一度、私はそれを堰き止める。ゆっくり息を吐き出し、吐き出す間に、考えを変えた。彼の言う「罰」を彼に加え、それで精算としよう。ここで契約を打ち切って、彼やスパに損害を与えても、彼は甘んじてそれを受けるだけだろうし、私には、より不満が残る。それよりは、ウァルグラにとって実際に「罰」だと感じられる思いをさせた方がいい。「こちらへ」と私が言うと、ウァルグラは淡々と、私の後について歩き出した。
5 アヌルス【指輪】 嫉妬の罪
貸しオフィスの転送装置へ、スパから私の荷物の一つを転送してもらう。すぐにそれは届く。肉体的快楽を得て楽しむための、ちょっとした小道具を、私は休暇にも持参していた。そういった小道具は、自宅であれ旅先であれ、相手がなくても健康的なトリップによって気晴らしをしたい時、セルフプレジャーを助けてくれる。平和が長く続いて、文化や文明が遠慮なく発達した結果として、愉しみを得るための気の利いた品物は、次から次へ発展する結果となった。旅行に持ってきたものなので、小さなケースに一つ分、そう大掛かりなものはない。ただしどれも、気に入りの道具ではある。効果は高い。
既に皆が引き上げて空になった、広い立体映像会議室ではなく、控えに使っていた通常の会議室へと入る。通話装置で、一時間の延長使用を伝えて、通話を切り、鍵をかけた。ウァルグラは黙って壁際に立っていた。私はネクタイを外す。それで察したのだろうに、彼は私をろくに注視もしなかった。「こちらへ」ともう一度呼び、スーツのままの彼の両腕を、背中側で私のネクタイで縛った。ウァルグラは何の抵抗もしなかった。「殴るのですか」、と彼は、それはさすがに迷惑であるという様子で、普通に尋ねた。「殴りはしない、暴力に訴えるなんて野蛮なコミュニケーションは、少なくとも地球からは消えた」。私は答えて、彼を押しやり、会議テーブルの上に上体を伏せさせた。私の言葉に対し、「どうでしょうね」と、冷笑の独り言で、ウァルグラが呟く。
私の頭に血が上るのは、怒りなのか嫉妬なのか、あるいは興奮なのかもしれない。暴力に酔う興奮か。確かに、野蛮行為は地球上から消えたとしても、テランの血の中には永遠に残るのだろう。人間が生存してくる上では、協力して助け合うことと同じぐらい、争って相手を打ち負かすことが必要なコマンドだった。今、人間同士争う必要がなくなった、と、いくら理性で、共存戦略の勝利を宣言しても、私達が人間である限り、遺伝子には消去不能な「闘争」の選択肢が、受け継がれ続ける。
私は私の中の獣に、今いっとき、負けることにする、とウァルグラに伝えた。それで彼は、強姦を予期しただろうが、口先ですら抵抗はしなかった。私は彼のベルトを外し、腰からトラウザースと下着をずらした。トパーズ色の肌が見えたところで、私は小ケースから道具を取り出す。特にほぐす必要もないほど、その器具自体が小さく、かつ、ゼリーのように潤滑で柔らかにできている。座薬でも入れるように、簡単に、それを彼の肛門から押し込んだ。そして元どおりに、服を着せ直して、ベルトもしめてやる。いったい何を? と初めて怪訝そうにウァルグラが見上げる。もう、立っても良い、と私は伝える。しかし後ろ手の縛めは解いてやらなかった。手が自由になれば、彼は自分の中に入れられた道具を出すだろう。
ウァルグラは立ち上がり、私を見て、何か尋ねようとしたのか、少し口を開きかけた。そこで道具が作用し始めた。彼は硬直し、よろめく。顔に出すまいとしたのだろうが、それは無理で、表情が歪む。短い叫び声が彼の口から零れた。私は笑った。「今入れたのは、強い快感をもたらしてくれる道具だよ」。ウァルグラは体を曲げ、息が乱れ始める。柔らかく小さな道具は、単純なプログラムを持っており、彼の中の佳いところを探して、パターンを変えながら刺激を続けるのだ。彼が感じていることを感知して、次の刺激パターンに反映させる機能を持っている。本来、時間をかけなければ充分に至ることが難しい、内側で感じる快感を、驚くほど素早くもたらしてくれる便利な道具。それは指輪程度の小さなものなのに、快感を与えることには特化している。魔法の指輪が、佳いところを転がり回ると、強烈な悦びが全身を駆け巡る。道具は肉体の反応に応じて、刺激の強弱やタイミングを変えてくるので、どう抵抗しようとも、必ず最短時間で絶頂に追い上げてくれる。その後は、一度と言わず、何度でもだ。一度達してしまったら、あとは止められない快感に、断続的に貫かれ続けることになる。地獄のような天国、あるいは天国のような地獄。
「安心するといい。何の害もない、副作用も中毒性もないよ」。私はそう伝えて、そばの会議椅子を引き出した。「一時間すれば、そいつは溶ける。それまでゆっくり、楽しんでくれ」。そう言って、彼がよく見えるように、少し離れた場所で、ゆったりと腰掛ける。淡色の、毛足の短いカーペットが敷き詰められた、あまり趣のない床に、ウァルグラは膝をついた。内部に与えられている刺激に、立っていられなくなったのだ。
私自身も、同じ道具を時々使って愉しみを得るので、どういうことになっているのかはよくわかる。この、使い捨ての巧妙な道具は、途中で作動を解除することはできないが、器具を取り出せば、刺激から簡単に解放される。私はいつでも、クライマックスまでのしばらくと、数分の絶頂の持続を味わったあとは、道具を引き抜いてしまう。その後は、忘我の状態で、余韻に身を震わせて倒れている。起き上がってから、溶けきっていない道具を廃棄する時、道具の性能を、最後の最後まで堪能せずに勿体ない、と思わなくはない。だが、製品として可能だと謳われている限りの時間、快感を感じ続けることには、私も少々、自信がない。達するまでに時間がかかることを想定して作られたのだろうが、非常に効率が良いので、その後の時間にたっぷりと余裕がある。重なるごとに強くなる快感の全てを長々と味わうことを想像すると、少しばかり、恐怖でもある。
ウァルグラがどれぐらい快楽に強いのかはわからなかったが、今の時点での反応を見る限り、同様の小道具を使い慣れているようには見えなかった。むしろ、襲いくる刺激に、対処の術が無いようだ。動かせない腕を解こうとする試みも早々にできなくなり、蹲って息を荒らげる。反応するまいとしているようだったが、体は意思を無視して、ビクビクと震え出す。乱れた息の合間に、短い、意味のない声が口から漏れる。彼は絨毯に顔をこすりつけるようにして、やがて床に崩れた。扇情的な眺めであり、私は手を出してその顔をよく見えるように支え、見つめ続けてやりたい衝動に駆られた。あと少しで、彼は気を遣るのに違いなかった。押さえつけて、眺め続けられれば、その様子は私の脳にとっても、快感になるだろう。だが、私は敢えてこらえて、座ったまま、指一本動かさずに、彼を鑑賞し続けた。これは私の楽しみのためのショウではない、彼のための「罰」だ。
予想した通り、それからすぐに、最初のエクスタシーが彼を呑み込んだ。必死に声を抑えた結果だろう、くぐもった吠え声のような短い悲鳴を上げ、彼は体をねじり、大きく悶えた。それは終わりではない、始まりだ。緩急をつけ、長短の時間差を設けながら、ますます深く感じるように、道具は彼を追い上げ、追い詰め続ける。水から上げられた魚のように、彼の体は床で踊る。内側から、辛いほどの快感が全身を走り抜けては、波立たせているのがわかる。ウァルグラは既に、温度の上がった肌から汗を滴らせ始めている。今朝与えた上等な薄いシャツが湿って、身にあったスーツのシワが、暴れるたびに増える。
懇願されるだろうと、私はどこかで予想していた。許しを請うか、助けを求めるか。時間いっぱい耐えるよりは、彼は如才なく私に縋るのではないかと考えていた。彼の腕により癒しを受けるようになってから、もう、十度は数えるだろう。そして、このような仕打ちを彼にしたことは初めてだ。いや、彼からこんな仕打ちを受けたのが初めてだ。裏切られ、私に専属しているはずの時間を、彼に誤魔化されたのが、初めてなのだ。彼が詫びれば、私は許そうか。彼の中から道具を取り出してやって、心が戻り、息が落ち着くまで、抱えていてやろうか。私は思案しながら、ウァルグラが誰にも見せたくはないだろう今の痴態を、見つめ続けた。
たわめた体が、次のオーガスムで、跳ね返るように仰け反る。もがく勢いで床に頭がぶつかる。突っ張った脚が鋭い動きで痙攣して、テーブルの足に当たり、次の反動では、椅子を蹴り飛ばす。私はいつか、固唾を飲んでいる。壮絶な官能の、愉楽というよりは苦しみが彼を転がす。彼は床でくねり、這いずり、見えないものから逃れようとするように身をひねる。内側に放たれた陵辱者から逃げることはもちろん叶わず、意識を蝕む快感が、彼を何度も貫く。彼はひたすら、制御の利かない刺激と勝手な肉体の反応、絶頂に次ぐ絶頂に翻弄され続ける。
彼は時折、目を開けたが、何か「見て」いるのかというと、それは怪しかった。乱れた呼吸の間には狂おしい音声も混じるが、何かを「言って」いるわけでもなかった。人格など吹き崩してしまう、強烈な生理的快感の嵐の中で、ウァルグラはバラバラにされ、蹂躙される。もしも彼がもっとおおらかに、波に任せて快感を受け入れているのならば、私ももう少し安心して見ていられたかもしれない。今のように、明確な意識も保てなくなっているのに、全身の全力で刺激に抵抗していては、体力が先に尽きるだろう。背中で縛った腕も含めて、四肢が力加減もせずにでたらめに動くので、放っておくと筋や関節のどこかを痛める心配もあった。既に軽い打撲や、縛った箇所の服との摩擦での擦り傷ぐらいはできているとも思われる。もう、彼を取り押さえて、刺激から解放してやろうか?
しかし、彼は、私の目の前の、二歩も歩けば触れられる場所に倒れて悶えながらも、一度も私を頼らない。視線で、声で、這い寄るそぶりで、いくらでも私へ合図は送れるはずなのに、頑なにそれをしない。ウァルグラは自分に加えられる責めとだけ、向かい合い続けている。肉体的には早々に、完全に屈服させられ、壊れた玩具さながら、ただの機械によっていいように踊らされているのにも関わらず、彼は「打ち負かされた」という状態にはなっていない。「罰」と言われたことを全て、一瞬も逸らさず逃げずに受けることで、却って彼はこちらを打ち負かすことになる。私はそう気づいて、唇を噛む。驚嘆すべきことかもしれず、しかし腹立たしさを抑えられず、それでいて、手の打ちようもない。
時間が過ぎていく。そのことを、急に私は意識した。ウァルグラはもう、大きくもがくことができなくなっていた。それでも変わらず、内側で責め立てる道具によって、繰り返し繰り返し、追い上げられては打ち崩されている。なすすべなく痙攣する身体が、私の欲情を煽り立てる。私は、私自身で彼を貫いてやりたいと思った。思った途端に、それでも彼は堕ちないだろうと悟った。静かな衝撃が、ゆっくりと胸に広がる。そのうちに、ウァルグラの反応は乏しくなった。ボロのように転がっているその身体は、無慈悲な嵐に弄ばれた後で、岸に打ち上げられた難破船の遭難者だ。食い入るように見つめ続けていた私の耳に、会議室の通話装置から、遠慮がちな呼び出し音が届く。部屋を借りていた時間が終わったということだ。では、恐らくは、彼の中で転がり続けた魔法の指輪も溶けきったのだろうと、私にもようやくわかった。ウァルグラの体をまだ震えさせているのは、台風が去った後で吹いている風のような余韻だ。私は通話装置に答えて、退室の旨を伝える。
腕を縛っていたネクタイを解く。シワのついたそれはポケットに突っ込んだ。まだ彼の手に残る、私ではない誰かのマッサージに使ったオイルの芳香が、感じ取れる気がした。一体、ウァルグラは、こんなに強かっただろうか、と疑問が浮かんだ。私は去年や、その前の滞在を思い起こそうとする。今日のウァルグラの振る舞いは、強いというよりも、強情だ。屈しない頑なさだ。彼の、本来の我の強さは、初めて会った時から感じられるものだった。しかし、ではその、我を通すための行動は、といえば、これまで、絶えて見たことがなかった。そうすると、彼に、契約違反をさせ、私を裏切らせてまでの我を通すきっかけを、「誰か」が与えたということか? 恐らくは過去に閉じこもっており、現在や地球、他の星、そこにある何に対しても関心のなさそうなウァルグラの、「我」を呼び起こし、行動までさせた。そんな、私にも、植民地星閉鎖委員会の対策スタッフにも、アリェン人権団体のカウンセラーにも、誰にも、今までできなかったことを、今日の先刻、誰かが成したのだろうか?
疑問は渦巻いていたが、私は彼の体を支えて起こしてやりながら、立てるかと訪ねた。ウァルグラは目を開けた。惑星マルの海色の瞳には、既に、涼しく静まった意識が戻っていた。彼は「はい」と応じて、少しよろめきながらも立ち上がった。彼は、乱れ、汚れた衣服を、さして気にするでも恥じるでもなく、適当に整える。そして、ぐしゃぐしゃの髪や顔を手で撫でた。それ以上は身支度をさせてくれとも私に頼まず、そのまま私について、建物内を歩いて行くことも、送迎車に乗り込むことも、平然と行った。その日、私には、奇妙な敗北感がつきまとった。
6 ペクーニア【貨幣】 強欲の罪
朝は早く起き、再び、市街の立体映像会議室に参集して、海の向こうの対策本部と通信した。副官と彼女の組織したチームは、考えられる限り効率よく、救援や支援の活動を指揮していた。一日で進んだ実務の量と質に対して、私は惜しみない感謝と賞賛を伝えた。被害状況が刻々と判明し、伝わってくるので、情報が増える分、まるで被害が拡大しているように見えてしまうが、一方では対応も、時間と共に進んでいる。不幸中の幸いで、今回、相次いだ災害には天候が追い打ちをかけるということがなく、ハリケーン後の街は穏やかに晴れているそうだ。また、森林火災の現場には空中の塵芥が増えたからか、とりあえず、少雨がもたらされているという。現地が落ち着くまで、多少はグローバルサイズの気象操作も必要だろうかという議論も昨日は出ていたが、やはり無理に地球のサイクルに手出しをするより、与えられた条件に沿って最善を尽くそうと決まった。
森林火災に対しては沈静化に向けて辛抱強く、囲みこむように火を止める空隙地帯を作りながら、地上からと上空から、消火し続ける。ハリケーン後の街については、生存者の救出を一番に進める一方で、避難所を衛生的かつ快適にしていくことを、もう、着手する必要がある。家を失った人々が、兎にも角にも、安心して休めることが大切だ。医療チームの補助はもっと必要だし、支援物資や義援金、それから人的な支援などの流れを捌く人員も、さらに必要だ。避難できる人の流れが一段落して、近隣都市では交通が安定してきているので、支援の次の段階に入れるところは入ることとし、近い地域や地区からだけでなく、中距離程度の場所からも、ブレインになりうる人間を送り込んで欲しいと要請した。
私も、明日には、現地に近い対策本部まで移動が可能になりそうだ。明後日には、代理を務めてくれている副官達から、本来私の負うべき重責を引き継いで、彼女らにも、交代で休んでもらうことができる。それにしても、こうして昨日から気持ちは落ち着かないにせよ、「六日間は休暇を過ごせた」ということになるだろうか。
会議を終え、部屋から出れば、当然のことではあるが、ウァルグラが待機していて、立ち上がって迎えてくれた。彼は、労いと敬意を込めた挨拶をした。私に付き添って、どこへなりと向かおうという態度である。昨日の「罰」の成果なのか、それとも昨日だけが異常だったと考えるべきなのか、落ち着いた物腰で、誠実な職務対応をする、いつもの彼、といった様子に戻っている。「昼食に行こうか」と私は告げて、会議場のビルディングを出て送迎車に乗り込む。運転手に市街地の程よいレストランへ向かうよう頼んでから、出立は明日の昼ごろになるだろう、と、ウァルグラに予定を伝えた。彼は私に断ってから、車内の通信機を使って、滞在中のスパに、私の出立予定に関しての連絡を入れてくれる。当初予定とさほど変わらないのではあるが、会議に出たり外食したりで、スパで使うはずの時間が失われてしまっていることは事実だ。そこで、スパとしては私の出立までに、内容を工夫してできる限りのサービスをし、その分の対価を得ようとする。先方の商売を考えると、そうならざるを得まい。どうやってその、経済的な埋め合わせをしてやろうか、と私は考えるともなく考えている。ウァルグラのサービスをもっと受けることが、結果的にスパの利益にもなるか。その思考は、自分にとって都合の良いものだなとわかっていながら、私は好都合な行動理由を見つけたと感じ、嬉しくなった。
私達を乗せて、ほとんど無音、無振動のまま、車は快適に走る。程なく中心部の、かなり急進的なデザインの商業施設に入っていく。プレゼントなど、嗜好品のショッピングにも向いた店が多数入る商業施設だ。ロータリーで私達は降りて、行き先指定をすれば細やかにフロアに送り届けてくれる館内用移動チューブのカプセルに入り、レストランエリアを指定する。瞬間移動にも似て、すぐにドアが開けば目的の場所だ。
個別で店を構えている料理店とは違い、小ブースごとに異なる料理を提供する店が営業している。開いた入り口がいくつもいくつも、通路に沿って並んでいる。食べ物のリアルな立体見本が、展示ケースに魅力的な色艶で並べられて、客を誘う。立体映像や手の込んだ動画より、結局立体モデルの食品サンプルが、今だに一番、空腹には訴えかけるようだ。我々は結局、かなり原始的なところで止まっているのかもしれない。そう思うと逆に、愉快な気持ちになる。料理の匂いが、くどすぎない程度に、それぞれのブースから流れ出し、宣伝効果を発揮する。今日は、純粋栽培の有機野菜でも取り合わせた、キョクトー地区の伝統的な麺類などが賞味したいところだ。ウァルグラと共に、あちこちの店先を冷やかし、ショーケースを見て回るのは楽しい。
広大なフロアをある程度回ったところで、レストルームに出くわす。こういった商業施設らしい、ある意味では不要なほどに『粋を凝らした』、豪華なトイレとパウダールームだ。文明国の威を見せつけ、センスの良さを思い知らせるには、トイレを華麗かつ快適にするのに限る、と、いつから建築家や内装家たちが考えるようになったのかはわからない。しかし、清潔快適に保たれて、その建物らしい趣向まで凝らした小空間は、楽しいものでもある。
会議をして、程よく腹は減っていたが、まだ、完全に空腹というわけではなかった。私はレストルームを示して、ウァルグラに、食事前の「運動」に付き合うかと尋ねた。彼の顔を見つめ、手に触れて、ほとんどあからさまに、性的な接触を指していることを暗示する。「これも仕事に含めて構わない」と伝えると、ウァルグラはすんなり頷いた。資本の力で、気持ちの良い満足を得るための行為を買うことは、卑怯だろうか? 時間と奉仕、彼の傾注に、貨幣で報いることは、至極まっとうなようでいて、何か汚れたことのように感じられる。恐らく、人類の長い売買春の歴史を学んだせいで、ありもしない後ろめたさが引き出されているだけだろう。
場合に応じて、洗面台を使ったり、リフレッシュして身だしなみを整えるために、男女関係なくパウダールームは設けられている。広々と明るく、ガラスと鏡で構成されていて、椅子がいくつも置いてある。清潔に保たれ、少しピリッとした刺激を含む、甘いスパイスの香りが漂っている。折良く無人だ。私は、人が来ても即座には気づかれない一隅へウァルグラを引き込み、遠慮なく唇を重ねた。着ているものを最小限緩めて、着衣のままで愛撫する。私の方は、ほとんど手間なしに、もう使える状態になっている。ウァルグラは私の腕に抱かれ、接吻を続けながらも、自分の服を緩めてずらして、常に持参している万能ローションで、器用に自分の後ろを解す。彼の指先と孔が潤滑液を介して触れ合う、微かに滑る音を耳に拾えば、ますます私の気持ちは昂ぶる。やがてウァルグラは「どうぞ」と囁き、私に尻を向けた。
誰かが、化粧室に入ってきたらどうなるだろう。肌の露出が見えないとしても、一隅で密着している私達は、異様な様子に映るに違いない。便利に機械化された都市で、広々とした建物の中に、働いている人間も含め、人間は少ないのだが、いないわけではない。人間は排泄もすれば、性欲もある、そういうものだ。見るなら見ればいい、という、少しエキシビジョニストな自分自身の気質。それに、ウァルグラの、人を見ても歯牙にもかけていないような、消極的な傍若無人とでも言いたい態度が、この場所での、かなり公序良俗を乱す行為を実行させている。現代文明の、基本的な個人主義も、誰かが私達を例え見かけても、放っておいて素通りしてくれるだろう、という意識を助長した。それでも、もし、誰かが入ってきたら、と思うと、見られる前に、秘密裡に終われるだろうかという考えが湧いてくる。タイムリミットのわからない制限時間付きレースだ。最短で、最大の快感に仕上げる競争だ。そう思うと、少しの焦りに似たものが、さらに少しの興奮に変わる。
彼の腰を掴んで、自分の先端を当てがう。低い化粧台に腕をついて、ウァルグラはふうっと息を吐いて後ろを緩める。ぐっと腰を進めると、熱い内部が私を受け入れた。呼吸が微かに変わっただけで、ウァルグラは声も立てない。ただ、鏡に映る彼の顔が、少し切なげに歪んでいる。侵入を受ける側の痛みや負担が、可能な限り軽減される、この、ぬるぬるとした専用液は優秀だ。鏡越しに彼を見ながら、私は奥までじっくりと攻め入る。息をさらに吐き、ウァルグラの唇が半ば開く。鏡に向かいながらも、彼は目を伏せていて、自分の姿も、私のことも見ない。じわり、じわりと、ゆっくりとした抜き差しを繰り返す。忍耐強くじっとして、体勢を保ち、ほとんど息の音も殺しているウァルグラに、私の方は急激に体温を上げていく。
もどかしい。予告もなしに態度を豹変させて、周りも気にせず、激しく突き上げて揺さぶり、彼が泣き叫ぶほどに責め立てたい。そんな思いが胸でグラグラと煮立って、マグマになり吹き上げそうになるのを、抑え、抑えて、形だけなりとも、優しい呼吸を心がける。凶暴な熱は全て、自分の先端に集中させる気で、ことさらに自分の動きに気を使い、力を制御する。頭に血を昇らせている場合ではない。丁寧に、何度も何度も彼の中を擦るうちに、ウァルグラの呼吸も、少しずつ変わり始める。押し殺していても耳につく。密やかに、浅く呼吸を絞りながら、達しないように耐えている。それに気づけば、もう、自分を抑えることが困難になってくる。
私は歯を食いしばり、叩きつけたい動きを可能な限り抑え込んで、一回ごとを重く熱く突き入れた。ゆっくりと、微かに揺すられているウァルグラの額から、ぽたり、ぽたりと汗が落ち、洗面台に透明な小さな円が、いくつも並び出す。と、思う私の首筋にも、冷たい雫がいく筋も伝っている。全て脱ぎ捨てて、体位を変えて、何度も変えては結合し、憚らずに叫び立てながら、貪りたい。その思いをひたすら抑えて、暴れまわりたい力を最小限の動きに押し込んで収める。それゆえ、却って官能の温度と圧力は高まるように思う。達する、ということを囁きで伝えると、ウァルグラは小さく頷いた。体が白い焔をあげるように思う。短く叫んだかもしれない。自分は消える。瞬間の死、快楽の最大化。何もない。焼滅。
目の前が昏み、その後、ドッと血が流れ戻った。ブワッと汗が噴き出して、全身から力が抜けさろうとする。抜き出して、化粧台に備えられた使い捨てのタオルでざっと始末し、服をかきあわせて椅子に崩れ落ちた。しばらく我を失くしていたいほど、気持ちいい放出だった。味わうせいか、一時的な深い疲労を回復するためか、目が自然に閉じてしまうので、ウァルグラの反応は見られなかった。涼しい空調と、穏やかに香るフレグランスの慰撫を、ありがたく受ける。ウァルグラは身仕舞いをし、離れて水を使っている音がする。顔や手の汗、潤滑剤の滑りなどを始末しているのかもしれない。あまり気には止めなかった。彼はパウダールームからそっと出て、トイレを使いに行ったようだ。彼が再び呼びにくるまで、私は化粧用の椅子に体を投げ出し、明るいガラスと鏡に囲まれ、存分に休んでいた。
7 フゲレ【逃げる】 高慢の罪
この三日の間に恒例となった、朝の遠隔会議を終えれば、もう出発時間まで、いくらもなかった。立体映像会議室から、これを最後と立ち去る。それぞれの滞在場所に一旦引き揚げていく部下達とは、後ほど、宙港で顔を合わせることになる。妻子への土産を買う時間ぐらいはあるだろうか。私が家族のいる、自宅のある街まで帰れるのは、まだしばらく先になりそうだが。大陸間移動の高速機に乗って、災害現場に近い都市へ直接行き、当分、そこでの仕事にかかりきりになる予定だ。合間には、星間連盟の総会にも、ちょくちょく関与せねばならない。二つの重大業務を同時進行すること自体はなんでもないが、どちらでも最大限に効果が出るよう、調整は常に、きちんとしておきたい。頭の一部で既に段取りを考えながら、私は、スパへと戻る送迎車に乗り込んだ。
今朝の穏やかな晴れの下でつかった、忙しない朝湯が、結局、温泉の最後の利用になってしまった。今日も秘書がわりに付き添ってくれているウァルグラに、私は苦笑しながらこぼす。「来年はもっと、ゆっくりしたいものだ」と言えば、「ぜひそうなさいますように」と彼は返答する。「来年も君に頼みたい」と、私は、彼の目を見つめながら、熱心に言った。植民海惑星、マルの、かつての生きていた海の色に調整された彼の目は、いつも穏やかに青い。その目に湛えた穏やかさも静謐さも崩さずに、ウァルグラは微かに笑い、そして、首を振った。「他の人が、担当することになるでしょう。きっとヤーガのお気に召すでしょう」と彼は言った。私は衝撃を受けた。
何故だ、と問いかけた私の剣幕は、自分でも驚くほど激しかった。ウァルグラはしかし、動じないで、静かな微笑みのままで私を見ていた。少しそれは、皮肉にさえも感じられた。彼が仕事を辞めることは、実質不可能なはずだった。保護されたアリェン、惑星マルの最後の生き残り、マルのマッサージ文化と技術の最後の継承者、ウァルグラ。現在のスパは、人権団体や政府が吟味した中でも、もっとも条件と待遇が良いはずで、だからこそウァルグラの身柄が預けられている。「職場を変えるのか?」私は考えられる可能性を尋ねる。スパを通じてウァルグラ個人に支払われている、現在の収入がいくらなのか、私はきちんとは知らないが、一般的なテランやアリェンよりは、数倍も良いはずだ。「仕事を辞めるのか?」私の問いに、ウァルグラは半ば頷くように首を傾げた。「資金が貯まりそうですので、来年まではいないでしょう」と、彼は言った。
資金、と言った。「では、独立開業するのか?」そうであれば、私の保養場所を、そこへと変えるのみだ。質問に、彼はまた、答えるでもなく否定するでもなく、ふむ、と軽く顎を引く。「そういうことになるのでしょうか」彼は微笑み、どことも知れない場所を虚空に見るように、少し目を上げて、ふっと微笑んだ。トパーズ色の顔に急に浮かんだその小さな笑いは、いつもの、手慣れた職業的なものではなかった。それはひどく魅力的だった。「ウァルグラ」私は思わず呼びかけて、彼の頭を引き寄せ、送迎車のウィンドウがスモークモードになっていたかどうか確認もせずに、彼の唇を求めた。衝動に素直に、熱心に貪った後で、私は「そういえば」と心付き、窓の外を見る。洗練された街路は、スムーズに車両を流していて、誰も、私達の車を覗き込んだりする無礼は働かなかったようだ。そもそも、『愛の政治家』ヤーガにとっては、キスや抱擁などは、いくら見かけられたところでスキャンダルでもなんでもなくて、むしろ好ましい評価を上げるだけだろうが。
送迎車はちょうど、豪華品の商店が並んだ一角を通りつつあった。わざわざ店に来なくても、必要なものは何でも転送機や小型チューブを通じて送ってもらえる昨今ではある。だが、贅沢な品物の実物を、手に入れないにせよ、実際に手にとって眺めるのには、また別の楽しみがある。どの街にもある商店の集まったあたりは、実用がメインというより、お楽しみの場所だ。美しいものをあれこれと見て目を楽しませ、同伴者や店員と、珍奇な品物について喋るのは、なかなかのアミューズメントだ。大きな宝石店の店構えが目について、私は車をそこへ停めてくれと運転手に頼んだ。
運転手、とはいっても、決して車内の私たちの邪魔をしないこの運転手は、車両自体に組み込まれているAIだ。自動運転装置と、緊急時の停止や救出機能を備えた自走路面のおかげで、車両利用者は速やかかつ安全に移動できる。といって、実は路面走行の車両などより、単身で乗れる移動用チューブを利用すれば、コストもさらに低く、時間ももっと早く移動できる。細やかに張り巡らされたチューブは、言葉通り管状の専用通路を、専用のカプセルに乗れば高速で目的地まで送り届けてくれる、どこの街にもある便利な交通だ。しかし私の立場が仮にも政府要人であるため、念の為車両利用をするように、と政府から基本的に決められている。プライベートの時間とはいえ、安全確保も仕事の一部なので、仕方がない。
運転手AIは、指示を受けて即座に、該当のきらびやかな商店の駐車スペースへと、車体を滑り込ませてくれた。私はウァルグラを促して、共に店へ入った。人間の店員が数人、広々とした店内で仕事をしている。控えめな、耳に心地よい挨拶を聴きながら、私は輝く装飾品を納めた陳列ケースを眺めて歩く。奥の方の、豪華さを極めた指輪が何種類も飾ってある場所まで行って、足を止めた。イメージに合うものがないかと順に見る。すぐに、青く巨大な石の嵌った一品が目についた。ウァルグラの目の、遠浅の海のような明るい青ではなくて、もっと冷たく、白々とした、尖った光を放つ青だ。これはむしろ、ウァルグラの、人に向けて頑なに閉ざした心の色だ。透明で美しく、硬くて繊細で、痛々しい。極圏の白昼光が凍りついたようなまばゆい宝石、おそらく、質の良いブルーダイヤモンドだ。それが、精緻に強度計算された黄金の台座に、巧みに支えられている。良い指輪だ、と即断した。
店員に合図し、指輪をケースから出させて、ウァルグラに試着させた。中指にちょうどぴったり嵌る。彼の褐色の皮膚を背景に迎え、宝石の指輪はいよいよ冴えて、冷たい炎のように輝いた。「これをもらおう」私は手続きを頼んだ。店員達はニコニコしながら、滅多に売れない最高級の品の販売に付いて回る面倒ごとを片付けに、慌ただしく動き始める。「君にあげる」と私が言うと、ウァルグラは固辞する言葉を、今更ながらに述べようとした。そんな美しくて高価すぎる指輪を、彼はもらっても仕方がない。そんなことはわかっている。「私があげたいのだから、もらっておけ」と強めに言って、彼を黙らせる。彼を所有者として登録する手続きまで、全て終えて、車に戻った。かなり急がねば、もう出発の時間が迫っている。
私の前で時間を確かめた様子もないのに、車に戻るなりウァルグラは私に断って、スパに連絡を入れた。荷物転送をスパの方でしてしまって構わないかと訊かれ、私は「頼む」と答える。動くたび、視界に硬い光が入る。彼の指には贈ったばかりの指輪が、眩しく輝いている。よく似合う。私はそう言って微笑んだ。マッサージの施術の時には外さざるを得ないだろうが、所有の登録をしたので、盗難や紛失の場合の心配もない。そもそもキョクトー地区は、地球都市の中でもとりわけ治安が良いことで評判が高いのだ。人のものを取らないとやっていけない、というような状況は、地球上からなくなって何世紀も経っている。それでも、綺麗なものを見るとつい持って行ってしまうような、盗癖というのか病状というのか、人間の心の不可解さまではなくなっていない。ちょっとした事件は起こりうる。そこで、高価な財産は、入手すると同時に所有者登録をする。そうしておけば、うっかり紛失しても、後日、ほぼ確実に、手元に戻ってくる。
スパにたどり着いたが、もう、部屋へ戻る時間もなかった。しかし、さっきのウァルグラの連絡のおかげで、荷物はすっかりパックされ、先に宙港へ転送されている。出立する私を見送りに、支配人を始め、世話をしてくれたスタッフ達が勢揃いした。支配人が代表して挨拶をしてくれる。一般の滞在者も、私を見るために、その辺りに大勢集まってきた。私は、ちょっとしたお礼のスピーチをして、いかに当施設での滞在が感動的で心地よいものだったかを述べる。最後には、これから私が向かう先の災害の大変さについても述べて、まだ滞在を楽しめる幸福なお客達に、海の向こうの同胞への支援を呼びかけた。温かい拍手と熱心な声援が飛ぶ中で、宙港への送迎車に乗り込む。ウァルグラには、最後まで同伴するよう頼んであった。ゆったりした車内には、約束通り、既に彼がいた。部屋へ寄れず、補給したくてもできなかった、疲れを癒す飲み物が差し出される。心遣いがありがたい。グラスを差し出す、青い光の指輪をはめた手を、私は優しく握った。
宙港までは遠いが、乗り物が早いので、大して時間はかからない。もう一度、彼をこの場で抱くというわけにはいかない。私は最後に、マッサージをしてもらえるかと頼み、広々とした座席に横たわった。ウァルグラは指輪を外して、備え付けの小テーブルに置き、オイルやタオルを用意した。彼は的確に、私の首や肩、背中、腰と、疲れを取って力がみなぎるマッサージを加えていく。今回は、リラックスさせるのではなく、体が気持ちよく活性化し、パワーアップするようなマッサージだ。頭にも手をかけて、心地よくツボを刺激してくれる。終わった後では視界がすっきりとして、頭の中が涼しくなって、より考えがスムーズになっている。彼の腕は素晴らしい。
本当は、靴を脱いで、足の裏まで刺激して欲しかった。だが、もうすぐにも宙港へ到着してしまう。そこで、最後に手のひらのリフレクソロジーをしてもらった。ウァルグラは指先で、私の手のひらの中の何かを探るように、繊細に揉み進めていく。顔が近づいた時、私は彼に「私と結婚しないか」と尋ねた。ウァルグラは指を止めずに、「ご冗談を」と穏やかな口調で返した。「冗談ではない。必要が認められて、家族が同意し、全員を平等に愛せるなら、多重婚は認められているよ」と私は答える。同性婚が認められていることは、わざわざ言うまでもないことだ。
私と結婚すれば、彼は、今のように働く必要はなくなる。政府・星間連盟の保護下にいるのは変わらないにしても、行動の自由はもっと大きくなる。私と一緒に、どこへでもついてこれる。彼を個人で独り占めして雇う専属契約は禁止されているが、彼が合意した結婚であれば、祝福されて彼は自由になれる。私はそう考えて提案した。彼にもわかっていることだ。今、答えをくれなくても構わない、来年と言わず、星間連盟の総会が終わったら、隙間の時間でまた会いにくるから、と私は彼を口説いた。ウァルグラはじっとそれを聴きながら、きちんとマッサージを終えた。オイルを私の皮膚から綺麗に拭い取る。さらに、べたつかないように、良い香りのパウダーをふり、擦り込んでくれる。指先が離れた場所から、彼の皮膚の感触が、もう既に恋しい。一つ一つの仕草が、「これで最後だ」と、別れを形作っていくようだ。早くまた会いたい、本当は、束の間でも別れたくない。
ウァルグラは自分の手を拭いて、道具を片付け、車窓の景色をチラッと見て、現在の場所を確認したようだった。それから彼はゆっくりと体を伸ばし、小テーブルから指輪を摘んだ。青く澄んだ輝きは、指先で、滴るように煌いた。「ヤーガ、この指輪が、結婚の約束のためものなら、私はこれをお返しします」と、おもむろに彼は言って、指輪を、私に差し出した。「なぜだ、断るのか?」私は意外の気持ちがあまりに強くて、呆然と尋ねる。彼が断る理由はないはずだ。「断る理由は、無いようですが」と、彼は私の表情を読んだように言った。少し困ったような、その分、意外に柔らかいような微笑が、彼の顔に浮かんだ。突然、私は悟った。
私は指輪を彼の手からひったくり、彼の手をもう一度捕らえ、中指に、少し乱暴にその指輪を押し込んだ。褐色の手に戻されて、指輪は喜ばしげに、美しい、冷たく刺さる光線を撒き散らす。「取っておけ、これは君にあげたんだ」私は怒ったように告げる。「ずっと持っていろとは言わない、売りたければ売り払え。君の資金の足しにしろ」私の言葉で、今度はウァルグラが少し目を見開き、心を読まれた思いがしたのだろう、かすかに頰を染める。私は構わずに続けた。「君は地球に来てからずっと、恋人がいるわけでもなかった、今でもそうだろう、だが、ついに、好きな人が出来たんだろう」
言葉にすると、殺人光線よりも鋭く、致命的に自分を刺す認識だったが、私は果敢に言い放った。ウァルグラの方が却って、レーザー照射の急襲を受けたように、座席に座っているのに、少しよろめいた。そんなことは、きっと、彼は言葉にして考えてもいなかったのだろうが、図星だったのには間違いない。私は『愛の政治家』。そう、憧れを込め、愛着を向け、時に冷やかし混じりにあだ名されるのも、伊達ではない。愛のことなら、地球に来て以来、ひたすら人に心を閉ざしていたような彼よりは、きっとずっとわかっている。「好き、という、わけでは」ウァルグラが珍しいほどに、言葉をもつれさせた。「それが証拠だ」と容赦なく言って、あとは顔を背けた。ウァルグラ自身も、言い訳ができないと、今、自分の感情を、思い知ったのだろう。彼は黙った。「くそっ! 一昨日、君がマッサージをしに行ったのは、そいつか」私の独り言だけが、宙にしばらく浮いて、ゆっくり消えていった。
火照るような沈黙が、彼の方から立ち上る。こちらが照れてしまうような、嫉妬をしていてさえ羨ましくなるような、初めて表に現れた、彼の恋心の気配。「誰がそんな、幸運を引き当てたのか、興味はあるが、知りたくはないな」と私は窓の外を見ながら吐き出した。宙港のスタイリッシュな建物が、婉曲した道の先に見えてきて、私達はそれへどんどんと近づいてゆく。「マルに戻ろうと思うのです」と、急にウァルグラが言った。「馬鹿な。君が船に乗っている片道だけでも、地球でもマルでも、八十年が過ぎるんだぞ」私は思わず向き直り、愕然として尋ねる。いくら、現在は不老法があると言っても、行って戻って来るだけで、星間情勢はどう変わっているかわからない。地球からは、知り合いがみんな、いなくなっているかもしれない。「それなのに行くのか? おまけにマルの海は死んでいて、もう、人間は誰もいない」私の言葉に動ずる様子はなく、ウァルグラはただ頷いた。そして、「もしもできれば、シアノバクテリアを一定単位、持ち出すことを許可してください、あなたの力で」と頼んだ。
ウァルグラが、今まで付き合ってきて初めて、私に、私の立場だからこそできる件に関して、頼みごとをした。彼は本気だった。人工的に色を変えさせた、彼の青い目が、温度を持って、私を見ていた。私は脱力し、柔らかな座席に寄りかかる。「海を再生させようというのか」と尋ねた私に、ウァルグラは控えめに、だがしっかりと頷いた。「大気も。土も」と彼は小声で付け加えた。「そして君達はまんまと、新世界の、アダムとイヴになるというんだな、ちくしょうめ、悪魔に食われろ」私は罵って、座席を叩き、顔を背けた。相手が女性だろうと思ったのは、ただの直感だ、しかし彼は否定しなかった。いっそのこと力一杯泣きたい気持ちがしたが、もう、車は宙港に滑り込んで、速度を落とし、自走路にドッキングして、私の行くべきターミナルへと進み始めていた。「あなたの言うほど素敵なものではありません、お分かりのはずでしょう。惑星は傷ついて、人間もいない、あなた達から、距離も時間も遠くへ離れてしまう」ウァルグラが、私の感情的な罵りを、穏やかに訂正しているのが聴こえる。それでも行くんだろう、と私は呟く。彼は沈黙で肯定した。
車が止まった。私はウァルグラに、降りてこなくていいと手で示す。「独りで行く」ウァルグラは天井の低い車内で体を曲げて立ち上がり、深くお辞儀をした。「ご滞在とご指名、ありがとうございました」と彼は丁重に挨拶をする。「こちらこそありがとう」定型に答えてから、感情が抑えられなくなり、私は激しく叫んだ。「多分、結婚するんだろう君らに、言っておきたいことがある…」ウァルグラの青い目が、私を見つめる。私は思いっきり息を吸って叫んだ。「くたばっちまえ!」目の前で、ウァルグラが破顔した。白い歯が覗き、私は彼の心からの笑顔に、瞬間、見惚れた。私にできるのは、結局は、彼が彼の好きなようにするのを、邪魔しないことだけだったのか。それでも彼が、今、笑うのであれば、もう私にはどうしようもないんだ。泣きたいのが悔しいのか嬉しいのか、まぜこぜになる私に、「ありがとうございます」とウァルグラは言った。
車両のドアが開く。「ヤーガ」ウァルグラが、勢い荒く降りようとする私の背中に、最後に呼びかける。「私も、あなたが好きでしたよ」。振り向いた私の鼻先で、車両のドアは静かに閉まっていった。先に到着していた部下や関係者が、私を出迎え、取り囲む。ウァルグラを乗せた車両は静かに引き下がり、私達を置いて、反転、都市へと戻っていった。
(終)
七大罪とウァルグラの断片