薄暮の海で会いましょう
I
遠くに見える摩天楼の立ち枯れは、
未来を織り成す珊瑚礁。
蔓延る家々は、稚魚の住処とする、
群れで育む海藻類。
沈んだ都市、今は深海、忽如として闇、深海魚が宙を泳ぐ海の底。
明日の朝は来るのだろうか。
卒然な疑問が、軈て男を動かした。
男はすぐに、小さな舟へと乗り込んだ。
オールを握る肉太な腕、帆が無く行き先さえ定まらない程の脆さの小舟で、風の吹かない深海のどこかへ進む事を決意した。
今は唯、水を捌く音しかしない。
少しのしじまの中、車やバイクの走る音、
テレビのノイズ、虫の鳴声が恋しくなった。空気はコールタールの澄んだ匂いが充満していた。男を見下す雲は、水面に生える水の影、そこには月の灯りが霞んでいるだけだった。
進めば進むほど霞む影に
男は熾烈な淋しさを覚えた。
II
男は今年、不惑と呼ばれる年齢に達した。
それは男にとって恐怖の根源であり、
固執し尽くした幸福でもあった。
身体の変化には逆らえず、腹にはまるで
水を貯めた様に膨れ上がり、そこに苔生すかのように、短く萎れた毛が生えていた。
髪や髭なんかは、みるみるうちに衰えて、
頭の先の天辺に銀髪が鋭く光を映していた。
男の思う熾烈な恐怖とは、単純に蝕壊されて行く自我と身体が理由ではなかった。男に問うても、これといって答えはない。
その些細な不安が、この男の恐怖の根源なのだ。
III
これより先、男は何を見つけるのだろうか
と考えていた。
今見えるのは、湿度にやられて下を俯うつむいた街燈。高架線の麓にポツポツとオレンジ色のヴェールがはっきりと映っている。バイパスの彼方のガラスにはプリズムが分散していた。明日の陽を見出せない藻の中の燐光。男が求めていた筈の答えは、そこには存在すらしていなかった。存在する筈がなかった。わかっていながらも、微かな希望を求め、いわゆる現実逃避をしていたのだ。
もう片方の腕を伸ばし、大きな溜息をした。振り下ろした手を腰に向かって叩き、ポンと鈍い音を立ててまもなく下を俯いた。少し胸が痛む気がして、男はその痛みをまぎわらす為、再び舟を漕ぎ始めた。しかし、そこには痛みなどは存在していない。
痛みを知ったつもりで、無傷な体を堅苦しい白いシャツで隠していただけだった。
そして男は、偏執的なまでに孤独だった。いや、とはいうものの、友人も居たし、それらしい仲のいい人間も居た。しかし男の中の心は貪欲だった。何もかもを欲して、何もかもを得られない現実を、秘めた心に狼狽していた。その事実を倏忽として何もなかったかの様に偽る事に、今は必死だった。
IV
坂の長い道を登り詰めると、トタンの風が空の岸際に向けて、上に蟠る。せっつかれて振り向けば、ゆらゆらと波打つ摩天楼に眼をやった。
「なんて脆いんだろうか」
別に対して脆い訳ではない。しかし、今の男にはゆらゆらと波打つ姿に感銘を受けるわけでもなく、ただ縡こときれる枯葉が踊り落ちる悲しい一葉の様に現れた。情けないのか、憐れんでいるのか、はたまた馬鹿にしているのか、情緒に深い意味はなかった。そこで今度は、空に眼を向けた。風に煽られ光を反射する、ずっと型を保ったまま繰り返す波。何色に染まろうとも、自分の色を突き通していた。
空に舟を漕げないだろうか、漕げたらいいな。何時も崇高な希望と言うものは、叶えられない夢の事を指すのだ。そもそも人生に意味は無い。意味を獲得して、それを賛美する事に人生というものが生まれるのだ。従って、男が泳ぐ海の中、まさしく空は、男が欲した答えというものに似ていたのだろう。孤高な夢、それが男が求めていた儚く、叶うはずがないただの夢だった。
坂を越えた先は、立派な草叢だった。
よくここに男は出迎えたものだった。
ずっと昔から空いた土地で子供の遊び場と化していたが、ようやくこの間、立派なマンションが建つらしい。
思い出の場所は、消え始めてから思い出すもので、忘れてしまった内には移ろいゆくのだ。
靡いた草供が横にひれ伏すと、光を生み出して、波の様に、また空の様に、眼には見えない風を
男の前に、ここにいるよと表しているみたいだった。
暫く男はその姿を眼に焼けつけた。
すると、薄紫の朝ぼらけが突然男にもたれかかってきた。もう既に朝は目覚める支度をしだした。
何故だろうか、僅かに子供の声が聞こえ始めてきた。三人、いや、四人、わからない、
兎に角大勢いる。おかしい、子供が遊ぶにはまだ早すぎる。
草叢を掻き分けて、奥へ進むと、音は明らかに大きくなっていった。
その先には、公園が現れた。
この場所が未だ綺麗に在るだなんて、ただただおかしい。
何故なら、ここは男が小さい頃、良くここで遊んでいた場所だったからだ。
V
眼を凝らして良く見渡してみると、声の正体が明らかとなった。
「アッ!」
男は驚いた。子供達の正体は、正しく男の幼少期そのものだった。
「夢に違いない、夢に違いない」
男はその光景を疑ったが、意識ははっきりとしていたし、何より子供が幼少期の頃そのものだった。
思わず男は、子供達の元へ走っていった。すると何故か、子供達がスゥウと蜃気楼の様に遠ざかっていった。取り乱した男が近づけば近づく程、
ますます遠ざかっていった。
「オーイ!」
今度は大声を張り上げ、子供を呼んでみた。
しかし、子供達には全く聞こえてはいなかった。子供達は楽しそうに、鬼ごっこをして走り回っていた。こけてもなお、走り続けるその姿、
その爛々たる微笑みは未来、夢、希望
そのものだった。
男は子供を呼ぶ声を辞め、
言葉はもう必要ない事に気づいた。
「大人ってんのは、
忘れるという事なんだなぁ」
もう戻れない過去には、未来が見えていたのに、今の男に見えるのは、寂寥の過去、
それだけだった。
大人になった男に与えられたのは、思い出す術だけ。大人に於いてはみんな忘れてしまう。
未来を求める事が出来るのは子供だけ。
一人で何かをして、時には笑ってみたり、怒ってみたり、泣いてみたり、
肩を組んでみたり、踊ってみたり、
飛んでみたり、恋をしたりして、
苦しみとか悲しみとかを、
感情という付属品を知ろうとしている、
子供という夢から醒めた単純な大人。
孤独な旅人なんだ。
思い出す為に必死に生きているだけ。
VI
男は、薄れゆく子供達を見届ける事にした。
子供達は相変わらず楽しそうに遊んでいる。
明日は何しようか、
どこへ行こうか、
何を見ようか、
子供にしか見えない世界を見ていた。
不意に幼少期の頃の男がこちらを見た。
男は叫んだ。
「忘れるな!思い出すな!いずれ大人になる、必ず。今を楽しめ、自分であり続けろ。
夢を持ち続けろ、叶えられなくてもいい、
また会いたい人達を大切に、それから」
幼少期の男は、友達に呼び掛けられ走り去っていった。そして、煙草の煙の様に、細く長い飛行機雲の様に、彼方へ徐々に薄くなって消えていった。
男に残されたのは、残酷なくらいに錆びれた公園、呆然と揺蕩う草叢のみだった。
男はその場に座り込み、口いっぱい空気を吸い込んだ。
青臭い、懐かしいあの夏の匂いがした気がした。
VII
ようやく、深海の中に温かさを取り戻した頃、
男は碇泊していた。
握っていたオールを手放し、重い錨を下ろす。
もうここからは進まない。
瞼の銀幕に映る景色はまるで、温かい毛布のような陽光が、降り立つ天使の様に、男を抱きしめた。孤独や痛み、何もかもを包み込む朝を、
男は改めて愛した。
家に帰ろう。
公園を後にして、男は家路に着いた。
坂を下って行くと、さんざめく街を取り戻した人々は既に活動を開始していた。
何をするでもなく生きている大人達、
みんな孤独な旅人だ。男の姿を誰も見向きもせず、男も人を見もせず、家へと帰っていった。
それから男の行方は知らない。
男はその世界に生き続けたに違いない。
男はまるで、本来の姿であるかの様に、
溶け込む砂となり、プクプクと大小の泡を吐き出して、流動体へと姿を変えていったのだろう。
吐き出した泡は、跡も残さず
海の中へ消えて行くのみ。
薄暮の海で会いましょう