マグロ【一期】
※少しのグロ要素があります。
あっ、来る、と思った。「ばあん」とも「があん」ともつかないような大きい音がして、気がついた時には二つの目玉がきょろりとこちらを覗いていた。ガラス越しのそれはどこか惑うような覚束ない動きを二、三度見せて、ふと僕の姿を捉えた。
「どうしましたか」
僕は思わず声を掛けた。
「どうしたんでしょう」
自分でも良く分からないと言葉を零した唇は鮮やかな赤に彩られていて、どこか不思議な魅力を感じさせた。
「どうしたんでしょう。私、どう見えますか」
そう聞かれて、僕はすぐに「お綺麗ですよ」と答えた。
「そんな訳が無いでしょう」
唇が怒ったように歪み、先程まで戸惑いに揺れていた瞳がぎろりとこちらを睨んだ。僕は感じたことをそのまま口にしたに過ぎなかったが、機嫌を損ねるのは本意では無かったので、それ以上は何も言わずにただ微笑んだ。
ガラスの向こうで、濡れたような黒髪がはらりと落ちて、片方の目に掛かる。
「どうしたんでしょう」
そう繰り返し唇に乗せた時にはもう怒りの色は消えていて、再び惑いだけが残った。
「覚えていらっしゃらないんですか」
聞くと、少しの間をおいた後、「ああ」と符に落ちたように唇が動いた。
「私、多分、楽になるだろうと思ったんです」
目玉がぐるりと伏せられて、視線が外れた。
「だって、全部終わるでしょう。このまま少し前に進んでしまえば、何も考えなくて良くなるんだって、あの時そう思ったんだと思います」
まるで他人事のような口ぶりだった。淡々と言うのに、つい興味を引かれた。
「今は、どうですか。楽になりましたか」
知らず知らずのうちに、僕は手を伸ばしていた。ガラスを隔てて触れた唇は、初めに見たときよりもよりいっそう鮮やかさを増しているように思えた。くらくらするほどの赤がぬめるように動いて、何かを言いかける。
その時、横からドンドンと窓を叩かれて肩が跳ねた。見ると、僕よりも二十ばかり年上の車掌がここを開けろとしきりにせっついている。
「どうしましたか」
運転席のドアを開けて聞くと、訝しげな表情を向けられた。
「何を言ってる。マグロは初めてか?」
意味が掴めずおうむ返しにまぐろ、と口にすると、人身事故の事だと呆れたように返された。
「ああ、その事なんですね。そうだ、それで今丁度、お話をしていたんです」
ね、とガラス越しの を振り返る。返事は無かった。ただ、ガラスの向こうにへばりついた肉の塊が、赤黒い跡を残してずるりと滑り落ちていくのだけが見えた。
マグロ【一期】