20181216-実話・ナターシャ
(一)
なだらかな丘を下って谷地に着くと、一匹のエゾ鹿がいた。まるで自分のなわばりであるかのようにゆうゆうとツノをこきざみに振って、芽生えたばかりの若草を美味しそうに食(は)んでいる。私は息を呑んで、その姿に見とれてしまった。まだ溶けきれない雪が所々残った沼地で、器用に毒草である福寿草(ふくじゅそう)をさけて食べている姿は、生きるために十分な知能を持っていることを示している。話しかけると、返事をしそうだ。そんなことを思ってしまった。
やがて、私の姿に気づくと、ヒーと高らかに一声鳴いて、丘に駆け上がり見えなくなってしまった。私は、その姿を見届けると、コナラなどの炭焼きに適した木を切り倒しにかかった。
昭和三十年中頃。ここ北海道東部の別海町西春別(べっかいちょう・にししゅんべつ)では、まだ酪農に移行していなかった。春にはソバやナタネなどの種をまいても、秋にわずかな収穫しか得られず。炭焼きは一年をとおして収入が得られる大切な仕事だが、私たちが持てるような小さい炭窯(すみがま)では十分な収入を得られない。それに、買い取ってくれるところも、そんなに多くはなかった。それゆえ、当時は借金をして、年を越さなければならなかった。食べる物にも困って、子供はお茶碗に一杯だけ、私たち親は食事を抜くこともあった。みんな生きるのに必死だったのだ。
そんな中、野生のエゾ鹿に出会うことは、私のささやかな楽しみだった。私の頭上高く跳躍して逃げる姿は、私に生きるエネルギーを与えてくれるし、四月から五月にかけてオスのエゾ鹿から抜け落ちるツノをたまにひろっては、あばら家に持ち帰って床の間に飾ってニンマリするのだった。
くわえて北の空にそびえる阿寒岳の雪につつまれた清廉とした山々。これを見るだけで、どんな辛いことがあっても、元気になった。広島の街中で生まれ育った私には、この大自然がなによりもご褒美だったのだ。
そんな私にも苦手なものがあった。熊と蛇である。その頃は、熊が時々出没して馬や豚などの家畜を襲った。まれに人間が襲われて死人が出たので、誰でも怖かったであろう。運よく、私の農場には現れなかったが、となりの人は熊と戦って胸に深い傷跡を残した。呑むたびに、自慢された。
蛇は毒を持っていなくても、私は怖かった。それは、一度家の中に蛇が紛れ込んで、寝ている私の首に巻きついたからだ。それ以来、時々うなされて目が覚めたし、毒を持っていない青大将に出会った時でさえ、一目散に逃げる始末だ。今にして思えば、当時の家は薄い外板一枚に、外気を遮断する油紙一枚だけだったので、容易に蛇が入って来たのだろう。
汗だくで木を切り倒して、炭窯に火を入れると、身重の妻が呼んでいる。私は、いそいで丘を駆け上がると、玄関先で待っていた妻に声をかけた。
「どうしたんじゃ?」
「買い出しに行ってもらいたくて。はい」
そう言って妻は、私にチラシのうらに書いたメモをわたした。見ると、お米や味噌、それに煮干しなどだった。野菜は、ほぼ自給自足していたので買うことはなく、肉類はうちで買っていたニワトリが卵を産まなくなったらシメテ食べることぐらいだった。
妻は、去年の女の子につづけて、秋にはふたりめの子供を産む。こんどは、男だといいが、こればっかりはどうにもならない。
妻の生まれた国は、中国にかつて存在した満州国である。父親と母親は、二十ヘクタールにおよぶ大地に大豆、コーリャン、アワなどを育てて利益をあげる一方、馬賊と激しく戦い命をかけて日本人を護っていたそうだ。
そんな中で、幼いころの妻は満州国の大地をかけまわり元気に育った。まわりには、日本人のほかには、満州人、蒙古人、漢人、韓国人などが大勢いたのでいつもびくびくしていたらしい。
満州人の中には、妻と仲良くしてくれた人がいて、その友だちの家へおじゃましたときには、甘点心(かんてんしん)をごちそうされてあまりの美味しさに、自分も満州人に生まれたかったと言ったそうだ。
お腹が満たされると、友だちと着せ替えっこして美しいチャイナ服を身にまとい、悦に浸っていたという。今にして思えば、ずいぶん失礼なことをしたと苦笑いした。
終戦後、千キロもの距離を歩いてやっとの思いで日本に帰ってきたときは、なんども死ぬと思ったと言った。父親の故郷福島で父親の帰りを待つ四年の日々。おさない妻は、子供のおもりをして母と兄たちにわずかだが手助けをした。
父親が、シベリアの抑留地から帰ったときは、信じられなかったと言った。嬉しかったのもつかの間、父親はすぐに北海道行きを決めてっしまって、なくなく雪が背以上もつもり、熊が出る北海道にきてしまった。父親は、四十四歳にして二度目の開拓に挑んだのだ*1。
この話を妻から聞かされたときは、すごい親子だと思った。それで、妻に中国語が話せるかと聞いたが、引き上げるときに全部忘れてしまったと言った。それだけ、過酷だったということだ。
私は、冷たい井戸水で汚れを落とすと、妻の書いたメモをふところに入れて、自慢のスズキのバイクにまたがり、畑の中にできた山道を走って、十二キロほど離れた西春別旧市街へ向かった。いたるところに雪が溶けて大きな水たまりができているデコボコな山道。この前は、転んで肩をしたたかに打ち付けて、真っ青になりながら診療所に駆け込んでしまった。それゆえ、スピードをおさえている。
*1:満州国の弥栄村(いやさか・むら)から別海町の隣町標茶町へ移住して二度目の開拓に挑んだものは、多かった。その人たちは、主に富山県、長野県の出身だが、妻の父親は福島県の出身である。
(二)
あばれるバイクをおさえこんで、西春別旧市街まであと四キロほどになったとき、ひとりの女性が歩いて町に向かっていることに気づいた。茶色の厚手のズボンに、青色のヤッケ、そして後ろで丁寧にまとめた金髪。あきらかに外国人だった。私はバイクをとめるのに、一瞬ためらった。だが、戦後開拓に入った仲間は、助け合わなければならない。そう思って、バイクをとめて声をかけた。
「どこまで、行くんじゃ?」
「西春別駅前までです」
広島の海のように青い目が美しい女性は、少し戸惑い、それでもほっとしたように流ちょうな日本語で言った。私は、ゴーグルをとって美しい女性に見とれた。
西春別駅前とは、西春別旧市街からさらに四キロ行ったところにある町だった。最初、西春別市街ができていたところへ、線路が通って西春別駅前ができて、西春別旧市街となったのである。
「お嬢さん。日本語が話せるんじゃのぉ」
「はい。生まれも育ちも日本ですから」
「ふーん、そうか。ところでバイク、乗っていくか?」
「はい。よろしくお願いします」
彼女は、うれしそうにそう言って、私のバイクの後ろのシートにまたがった。そこには、日本人にありがちな遠慮はなく、やはり外国人だと思った。私は、いつもよりもスピードを落としてバイクを走らせた。
「お嬢さんは、どこの国の人じゃ?」
バイクの爆音に負けないように大声で聞いた。
「父と母は、ロシア出身です。革命の戦火を逃れて、樺太から日本に亡命したと聞きました」
無学な私は、それがどれだけ大変なことだったのかわからず、ありきたりの返答しかできなかった。
「ふーん、大変じゃったのー。それで、なんであんなとこ、歩いとったんじゃ?」
「友だちを訪ねてきましたが、留守でした」
「誰の家へ?」
「前田さんの家です」
「ああ、それじゃったらこの前、前田が農作業中に怪我をして、標茶の病院へ行っとる思うよ」
昭和三十年代、この辺にはまだ電話は通ってなかったので、急ぎ用事を伝える手段は電報しかなかった。(電話が通ったのは昭和四十六年ころである。)その電報を打つ場所も十二キロはなれた西春別旧市街に行かなくてはなかった。それゆえ、電報を打つ暇もなく、もよりの泉川駅から汽車(ディーゼル機関車の車両)に乗って隣町の標茶の病院へ行ったのだろう。
標茶駅と泉川駅は標津線にあって、その間たったふた駅。距離にして十キロほど。同じ町内の別海への四十キロとくらべて距離も近くて乗り換えもなく、そして大きくて信頼できる病院もあった。
「え! それで、大丈夫なんですか?」
「大丈夫じゃろ。肩を脱臼して、大事をとって、病院へ行ったみたいじゃからのー」
「よかった」
その瞬間、彼女の腕が私の身体を強くつかんだ。厚い防寒具ごしに彼女の胸が押し付けられた。私は、あせってアクセルをふかしてしまった。
「そ、それであんたは、どこから来たんじゃ?」
「ナターシャです。別海から来ました。父は、その町でパンを作っています」
「わしゃ、大野海じゃ。海と書いてカイと言うんじゃ。パンか。それで、どんなパン作っているんじゃ?」
「普通の食パンから、アンパンや、クリームパン、それにサンドイッチも作っていますよ。焼きたては、美味しいですよー」
「それはぜひ、食べてみたいのー」
私は、生唾を飲み込んだ。聞いた焼きたてのパンに、いやが応にも想像がふくらむ。
「ねえ、私を別海まで連れて行ってくれるなら、ご馳走しますよ?」
「うーん、有難いんじゃが、家には身重のお母ちゃんと一歳の娘が腹をすかしているんじゃ。わしだけが食うわけにゃいかん」
私がそう言うと、ナターシャはきゅうに黙ってしまった。私は、どうしていいかわからずこう言った。
「なにか、気にさわることを言ったんじゃったら、すまんのー」
「いいえ、なんでもありません」
「えかったー」
「それだったら、奥さんとお子さんの分も持って行ってください」
私は、ナターシャの言葉によろこんだ。別海までは、道路で三十キロほどの距離。私は、うれしくてつい、身の上話をしてしまった。
幼いころ、父が他界して、おまけに母が結核にかかり、親戚の家にあずけられて育ったこと。小学校のころ、アルバイトをして映画館で映写機を回していたこと。戦時中に軍需工場で働いていたが、空襲にあって母が死んだこと。広島に遊びに行ってもう少しのところで原爆で死ぬところだったこと。終戦後、漁船に乗って沖縄までいって、米軍の巡視艇に追われ三千キロもの距離を必死で逃げてようやくあきらめてくれたが、エンジンが掛からなくなり、なん日も漂流してもう少しのところで死ぬところだったこと。大しけのときに海に落ちて、ついてなければ死ぬところだったこと。それにこりて船を降りて、九州の由布院(ゆふいん)で炭焼きをしながら温泉につかって一年近く遊んだこと。この北海道に男兄弟三人でやってきて、満州国生まれの根っからの開拓者の妻と出会い入植したと言った。
こうして思い起こすと、私はついているのかもしれない。それは、亡くなった両親が天国で見守っていてくれるおかげだと思った。
私の話を黙って聞いていたナターシャは、頑張ったのねと言った。心なしか、ナターシャに頭をなでられたような気がした。
彼女は、続いて自分の身の上話をした。一九一七年、ロシアの皇帝が革命によって倒され、やがて共産党が支配してソビエト連邦が誕生する。当時、日本領だった南樺太にいた両親の親たちは、追われるように北海道へ渡った。別海に移り住んだ両親は、家業のパン屋を開業する。決して裕福ではないが、家族が食べてゆけるだけの収入はあったらしい。だが、一九四一年一二月、アメリカに真珠湾攻撃をしかけた日本は当時敵国だったソビエト連邦出身の両親たちを厳しく監視した。それでも、日本を離れなかったのは、父親の作ったパンが多くの客に愛されていたからだという。太平洋戦争中に日本で生まれたナターシャは、幼かったのでそのときの苦労をしらない。友だちに恵まれてなに不住なく今まで暮らしてきた。その友だちが嫁に行って、今回西春別まで訪ねてきたという話だ。
私は、彼女の両親の数奇な運命に驚いた。自分の国を追われるということはどういうことなのか、私には想像もできなかった。だが、非常につらく、心細く、そして悲しかったに違いない。私などが、なぐさめやねぎらいの言葉をかけるのは余計なお世話だと思うが、なにかしてあげたい思いにかられた。残念ながら今の私には、なにもできないとは思うが。
(三)
別海の市街地の中心部にナターシャの家はあった。日本では、めずらしいレンガ作りの店。その店にはナターシャによく似た風貌の年配の女性がいた。ナターシャは、バイクをおりると小走りに駆け寄り、その女性の腕を引っ張って言った。
「お母さん。この人に送ってもらったの」
「まあ、ありがとうございます」
少し太り気味のナターシャのお母さんは、そう言って頭を下げた。ロシア人の女性は、年配になると太ることは話に聞いている。その容姿をのぞけば、日本人のような言葉使い、そして振る舞い。私は、日本人以上に親しみやすい印象を受けた。
「いいや、大したこたぁない。こんな時代だから助け合わにゃあ」
「私は、マリア・モロゾフです。そして今厨房でパンを焼いていますが夫は、イワン・モロゾフです。どうぞ、よろしく。それで、あなたのお名前は?」
「わしゃ、大野海じゃ。海と書いてカイと言うんじゃ。よろしゅう」
「まあ、いいお名前ね。それで、お仕事はなにをやっているの?」
「仕事? わしゃ、西春別で農業をしているんじゃ。戦後、嫁と出会って入植したんじゃ」
「あら、そうなの。残念……」
ナターシャのお母さんは眉をさげてそう言うと、表にとめた私のバイクを眺めた。タイヤは泥水をかぶり汚れているが、ガソリンタンクは銀色に輝いている。
ナターシャが、お母さんのそでを引っ張って小声でなにか文句を言ってるが、私はお気に入りのバイクを自慢したくてこう言った。
「そのバイクは、知り合いから買ったんじゃ。ええバイクじゃろ?」
「ええ、本当に」
「スズキのコレダST。一二五CCのツーストロークじゃ」
私は、胸をはって言ったのだが、生暖かいほほ笑みを返されただけだった。バイクに関心のない人には、どうでもいいことだろう。
「海さんは、広島出身よね?」
「ああ、そうじゃ」
「大変だったでしょう?」
「そうじゃ。なにも残っとらんかった。ただ、鉄筋コンクリートの建物だけかろうじて残っとった。さいわい、わしゃとなりの呉に住んどって、難をのがれたんじゃが……」
私は、十年以上たったいまでも、この話をすると、自然と涙が出てくる。もしも、原爆が一日前に落ちたら、いまの私はいない。この幸運に感謝しなくては。
私の涙が伝染し、ナターシャのお母さんが涙ぐんだ。ロシア革命の戦火を思い出したのかもしれない。
「ねえ、お母さん。海さんに、たくさんパンをあげて」
「ええ、わかってますよ。ちょっと待っててくださいね」
大きな紙袋いっぱいにパンはつめられ、私のショルダーバックにすっぽりと収まった。
「こんなにたくさん、悪いのー」
「いいえ、汽車に乗って別海まで帰ったら三時間はかかりますから、大変助かりました」とナターシャのお母さんは、ほほ笑みながら言う。
「そんなに、かかるかのー」
「ええ、それくらいかかるわよ。それじゃ、気をつけて」
名残りおしそうにナターシャは、そう言った。心なしか目が潤んでいるように見える。
「ありがとの」
私はそう感謝して、バイクにまたがり帰路についた。だいぶ行ったところで振り返ったが、ナターシャがまだ見ていた。私は、うれしくなって手を振った。
(四)
昭和三十年代後期。この辺一帯に、酪農が取り入れられた。私の家も妻の実家からジャージという品種の子牛を譲り受け、家の一角を牛舎に改造し、作農地から牧草地へ作り変え、必死になって働いた。そのお陰で、五年後どうにかやっていける感触を得た。
当時は、トラクターはなく、フランス原産のペルシュロンという品種の馬が、よく働いてくれた。背が高く、足腰のがっちりした馬だ。用途は、馬車やソリを引いたり、切り倒した牧草にテッターをかけて乾かしたり、切り株を抜いたり、妻は裸馬にまたがって七キロほどはなれた実家に里帰りしたりと、とにかく重宝した。ちなみに、馬をあやつるのは、すべて妻の仕事である。
一方、私の兄や弟は農業でも四苦八苦していたのに、動物を飼うことにはげしく拒否反応を示して、せっかく手に入れた土地を手放してしまった。兄は、もともとやっていた大工を、弟は危険だが実入りのいい炭鉱につとめた。西春別をたつ朝、兄たちは私の肩をだいて、元気でなと言った。
暗い話題ばかりではない。
昭和三十九年、東京オリンピックが開催された。戦後、二十年を待たずに開催されたのは、われわれ日本人が勤勉で優秀だということを示している。私は、誇らしい気持ちでこのオリンピックを迎えたのである。
だが、私の家にはまだ電気がとおっておらず、電気がとおっている家にテレビを見せてもらった。仕事が忙しかったので一度しか見なかったが、あの映像は忘れられない。躍動する日本人選手の姿を。
オリンピックも盛況なうちに、無事閉会してまた、日常が戻ってきた。妻は、そのころ毎日のように牧草を刈って乾燥させて、私が牧草の山を汗だくで作っていた。妻と愛馬アオが大きく貢献して、ほかの家よりも早く仕事を終えた。本当に、いいコンビだった。いまして思えば、赤ちゃんを背負って、よく怪我をしなかった。
そんな折、妻のお母さんが入院したという知らせを受ける。どうやら、糖尿病をわずらっており、検査入院と食事管理、それと食事の指導をされるので、一、二か月はかかるらしい。くわえて、白内障を併発しており、その治療もやるそうだ。
慣れない満州国での開拓。戦後、幼い妻たちを守っての逃避行。くわえて、極寒の地での開拓の日々。並々ならぬ苦労から体調を崩すことは、避けられなかったのだろう。
私は、仕事が一段落したので、お見舞いに行くことにした。妻は、子どもが小さかったので、お見舞いを頼まれた。私は、バイクにまたがり別海へのジャリ道を走った。
白くペンキがぬられた別海の町立病院へ着くと、詰め所で病室を聞いて廊下を歩いてゆく。病室二十ほどの一階建ての小さい病院である。妻のお母さんの病室は、すぐに見つかった。
病室に入ると、窓側のベッドに眠っていた。藤色(淡い青みがかった紫色)の寝間着に、腕には点滴をしている。私は、そっと話しかけた。
「お母さん、海じゃ」
ゆっくりと目を開けた。左目は、白内障で白く濁っている。もしも、私の母が生きていたなら、妻のお母さんのように年老いていたであろう。そう思うと、手を取ってさすっていた。
「おや、海さん。よく来たね」
お母さんはそう言って、力なく笑った。
「どうじゃ、病院の居心地は?」
「それが、食事が美味しくなくて、力も出ないのよ。あんころ餅が食べたいわ」
「思いっきり、病気に悪そうじゃのぉ」
私たちは、声をそろえて笑った。お母さんの笑い声は、腹の底から出ていて、私はほっとしたのだった。お母さんの病気のことを聞いて、思ったほど悪くないことを知り、いくぶんホッとして妻や子どもが変わりないことを報告した。ひととおり話すと、お母さんは満足したようで、世間話に花を咲かしていた。そのとき、看護婦がワゴンを押して入ってきた。
「岡野さん。検温の時間ですよ」
「ナターシャ!」
私は、このときよりも驚いたことは数回しかない。広島に原爆が落ちたときと、嵐の日に船から落ちたときぐらいなものだ。
ナターシャは、白いナース服を身にまとって、金髪をあんでまとめた髪に、ナースキャップをかぶっていた。見とれて、動きが止まってしまうくらい美しい。その美しい青い目を大きく見開いて、ナターシャは口をおさえて涙ぐんだ。
「海さん……」
だが、今は勤務中だということをすぐに思い出したかのように、看護婦の仕事に戻っていった。しかし、口は話さざるにはいられなかった。もちろん、私とて同じだ。
「岡野さんは、奥さまのお母さんですか?」
「そうじゃ。しかし、看護婦をやっとるたぁ思わんかった」
きれいじゃ。その言葉がこぼれそうになったが、かろうじて抑えた。お母さんは、ナターシャに身体をまかせて、安心しきっている。私は、お母さんに代わって、入院したいと思ってしまった。ナターシャの目は真剣になってお母さんの血圧を計っている。だが、いくぶん頬が紅葉して、目がうるんでいる。
それを感じ取ったのか、お母さんはほほ笑んで言った。
「ナターシャはほんとうに、美しいものね。でも、私の娘も十分に美しいのよ。ねえ、海さん?」
お母さんは、私とナターシャの間に、男と女の恋の芽生えを感じて、釘を刺したのだろう。私は、言葉を返す代わりに、笑ってごまかした。私は、妻の美しさをいつもほこりに思っていたが、ナターシャのそれは神々しいと思ってしまう。私には、すぎた娘だと感じざるおえなかった。
「体温、血圧ともにいつもどおりですね」
「看護婦さん、あとで爪を切ってもらえないかしら?」
「わかりました。それじゃ、二時に切りましょうね」
「ありがとうございます」
「それじゃ、お大事に」
ナターシャは、私に一礼すると、廊下側の患者の血圧を計りに行った。その後ろ姿は、驚くほどスタイルがいい。お母さんもナターシャの後ろ姿を見ていた。
「海さん」
「はい」
「徳子を、なかさないでね」
お母さんの目は笑っていなかった。私は、親というものはどこまで行っても親なんだなと思い、はいと返事をした。
私は、帰り際お母さんに見舞金をわたしたが、子どもにと言ってそれ以上の額を受け取って、病院をあとにした。有難かった。
帰りにナターシャのパン屋に立ちよった。私の顔をみると、満面の笑みで挨拶してきた。
「まあ、海さん。おひさしぶりです」
「どうも、ご無沙汰しとります、マリアさん。別海の病院に妻のお母さんが入院しとりまして、お見舞いかたがた来たんじゃ」
「あら、お母さんが」
「糖尿病じゃけぇ、一、二か月したら退院するけぇ」
「お大事に」
「それより、病院でナターシャに会うた。びっくりしたよ。看護婦になっとるのぉんて」
意地悪そうな顔をして、ナターシャのお母さんは言った。
「どうでしたか、きれいだったでしょう?」
「あははは。ええ、とてもきれいじゃったよ」
「まったく、海さんが結婚していなかったら」
なにも言えない私。話題をかえなくてはと思った。
「それで、来たついでにうまいパンを買わせていただこう思いまして」
「ありがとうございます」
私は、店頭に売っていた食パンとバターをひとつずつ、アンパンとクリームパンを五つずつ、それに美味しそうなハムをはさんだサンドイッチを五つ、バスケットに入れてレジの前に立った。
「えーっと、全部で千三百六十円ですから、端数をはぶいて千三百円です」
「ありがとの。はい」
私は、妻のお母さんがくれた封筒から千三百円を払うと、パンを入れたショルダーバッグを背中に背負って、お礼を言ってバイクにまたがった。ナターシャのお母さんがなにか言いかけたが、結局なにも言わなかった。私は、再度お礼を言うと、バイクを出した。バックミラーには、いつのまにか旦那さんと思われる背の高いヒゲの男がよりそって映っていた。一瞬、ナターシャとの微妙な関係から、もうここへは来ないほうがいいと思ったが、それよりも美味しいパンの魅力がまさっていたのかもしれない。それに、別海に来るのは、一年に一度あるかないかである。仕方がないではないのかと言い訳をして、ナターシャに会いたいという気持ちをごまかしていた。
だが、美味しそうなパンをショルダーバッグにかかえて、早く妻と子供のよろこぶ顔が見たくて心がはやっていたのも事実であるが、また転ぶといけないので、三十キロの道のりをゆっくりと走った。
(五)
昭和四十年。東京オリンピックには間に合わなかったが、ついに私のところにも電気がとおった。薄暗く油臭い菜種油のライプから、明るく安全な電球に代わった。それだけでは、ない。炊飯器と洗濯機も買った。妻の機嫌がよくなったのは言うまでもない。そして、テレビもどうどうとそろった。だが、子供がアニメに夢中になり、ときおり妻のかんしゃくが落ちた。
このように一気に文明世界に取り囲まれたが、多額の借金が残った。私たちは、夫婦していままで以上に、仕事に精を出すのだった。
いまにして思えば、炊飯器は炊くだけで保温をしてくれず、洗濯機は二そう式の手のかかるもので、テレビにいたっては白黒でリモコンなしのすぐにチャンネルの接触が悪くなる代物だったが。
そんな折、一枚の往復はがきが届いた。差出人は、ナターシャと前田の弟。ふたりの結婚式の招待状だった。私は、激しい動揺に、私の中のナターシャの存在の大きさに愕然とする。はじめから出会っていなければ、こんな思いをせずにすんだのに。運命にむかって唾を吐きたくなる。
そんな私の気持ちには気付きもせずに、妻は、なんのためらいもなく、子供が小さいから、あなたひとりで行ってきてねと言う。そんなわけで、私は出席したくもない結婚式にひとりで行くことになった。
十月十日。私は、窮屈な礼服の上にジャンバーを着て、バイクにまたがり暗い気持ちで別海の結婚式場に向かった。
左手に流れる西別川の水流がいつになくにぎやかだ。鮭(しゃけ)がのぼっているのだろう。この川には、秋になると鮭が海からのぼってきて、自らの命とひきかえに子孫を残してゆく。だいたい三、四年で、自分の生まれた川に帰っていくという。それは、なん万年、なん十万年、なん百万年前からかもしれない。学がない私には、正確なことはわからないが、想像するだけで言い知れぬロマンを感じる。
そんなことを考えながら気をまぎらわせて別海の外れに来たとき、私は驚いてバイクを止めた。土ぼこりが舞いあがる。
「ナターシャ!」
「こんにちは、海さん」
「どうしたんじゃ、こがいなところで?」
「結婚式、逃げてきちゃった」
ナターシャは、そう言って無理に笑った。私は、そんな彼女を放っておけるはずもなく、バイクの後ろに乗せた。とりあえず行先は、別海から離れたところへ。無言のままバイクをとばして、別海から十キロほど来たとき、私はナターシャに聞いた。
「どこへ行くんじゃ?」
「海さんの家へ行っていい?」
「むさ苦しいところじゃが、ええよ」
「ねえ、奥さんてどんな人?」
「うーん、顔ははっきり言うて、そこそこきれいじゃ。西春別では一番じゃろな。でも、身体はズングリむっくりじゃろうか」
「へー、美人なんだ」
「満州って知っとる?」
「うん、知ってる」
「妻は、満州で生まれたんじゃ。毎日、中国の大地をかけまわっていたそうじゃが、戦争に負けて千キロもの道を幼い身体で必死で歩いて、骨と皮だけになって日本に逃げて来たという話じゃ」
生きて日本にたどりついたのは、まさに奇跡だといえよう。事実、妻のふたりの弟は、中国の大地にいまも眠っている。そんな、妻の味わった苦労にくらべれば、私の苦労なんて笑い話だ。
ナターシャは、それきり口をつぐんだ。経験もない過酷な逃避行。ナターシャには、いったい何が映っただろう。死のとなりで、懸命に生きることを望んで、なん億歩も足を前に出した幼いころの妻の姿だろうか。それとも、死神の誘惑を必死で打ち払うお母さんたちの姿だろうか。いずれにせよ、妻は生きのびて、広島から来た私と巡り合ったのだ。奇跡。そう言ってもいいだろう。
妻とナターシャの対面は、静かに終わった。ナターシャは、だまって妻を抱きしめると、ひと言ふた言なにか言った。あとで妻に聞いたが、笑うだけで教えてくれなかった。
それから、私たちは妻の作った昼食を仲よくとって、泉川駅へナターシャを送って行った。
「ダスヴィダーニャ(さようなら)」
彼女は、最後にそう言うと、私に口づけをして、汽車に乗り込んだ。そのとき、湿った雪がぱらぱらと振り出した。まるで、別れを惜しむように。
行先は、聞かなかった。知ってしまうと、人に聞かれたときに、嘘を言わなければならないからだ。それでも、どこかで生きていると、私は信じているし、きっといつか連絡がくるように思う。
(六)
ナターシャが、いなくなって三年がすぎた昭和四十三年の秋の日。私は自動車の運転免許をとるために、仙台の合宿講習に出発しようとしていた。そのとき、郵便配達人がバイクに乗ってやってきた。新しくできた国道を軽快に飛ばして。
「大野さん。手紙です」
「どうも、すまんのー」
私は、私あての手紙を受け取ると、確かめる暇もなくバイクにまたがり、一緒に合宿講習を受ける仲間が待っている泉川駅へ向かって、急いだ。
約束の時間に間に合ってバイクを駅長にあずけると、汽車に乗り込んだ。ほっとして、先ほど受け取った封筒の裏を見るとナターシャからの手紙だった。私は、急いで封を開けた。
ナターシャです。海さん。お元気ですか? 私は、函館のT修道院に入って、毎日の修行に明け暮れています。もちろん、看護婦の仕事もやらせてもらっています。
はじめの頃は、忙しさに目が回りましたが、この頃やっと余裕が出てきて、父や母は元気にやっているだろうかと思いをはせています。けれど、連絡を取ったら、ここへやって来て、連れ戻されるのは目に見えています。
それで、考えあぐねたすえに、海さんに父と母の様子を見てほしくて、手紙をしたためました。
海さん。どうぞ、よろしくお願いします。
それから、手紙を書いたもうひとつの理由をお話しします。
私が、なぜ結婚をやめて姿を消したのかといいますと、それは海さん。あなたのせいです。
私は、あなたと出会ったときに、すでに恋に落ちていたように思います。大変な人生を歩んできたのに、少しも卑屈にならない強い意志。そして、奥さんとお子さんを思いやる優しい心。これ以上の人に果たしてめぐり合えるでしょうか? そう思ったとき、私の心はざわつきました。
けれど、あなたはすでに妻子ある身。私は、途方に暮れいちどはあきらめて、あなたの見ている前で違う人と結婚しようとしました。ふんぎりを付けるつもりで。けれど、どうしても自分を抑えることができなくなり、当日に逃げ出してしまいました。前田さんの弟さんには、本当にすまないことをしたと今も思っています。
そして、海さんの家におじゃまして奥さんにあったときの、聖母のようなやさしいお顔に、なにものにも負けない強い意志を感じました。そんな女性に、いったいなにについて私が勝つことができるでしょう。私は、負けを認め、心穏やかに生きることのできるここ、T修道院へ入ることにしました。
俗世の情報はなにも入ってこない閉ざされた世界。毎日がお祈りと、労働の日々。私の精神は、ただキリストとともにあります。
けれど、先ほども申しあげたとおり、ここの生活にも慣れてきたころ、私の父や母は元気だろうか。そう思った次第であります。
海さん。くれぐれも、父と母のこと、よろしくお願いします。
あなたのご家族に、幸おおかれ。アーメン。
手紙はそこで終わった。父親と母親のことを知らせてほしい。と同時に、なにかあったらよろしく頼むともとれる内容だった。私は、正直ほっとした。閉ざされた生活をしていても、やはり親子の愛情は消せないものなのだと。
手紙を読み返すと、便箋になんども書き直したペンのあとが残っていることに気が付いた。それでも、言わずにはいられなかったのだろうナターシャの告白から、心のひだを覗いたような気がした。正直、心が痛む。だが、修道院へ入った理由は、私にはなぜなのかわからなかった。そういう生き方もあるのだなと、思うしかなかった。
私は、日が暮れて函館の町へ到着すると観光案内所を訪ねたが、修道女には会えないことを知った。後ろ髪をひかれる思いで、青函連絡船に乗り込み、青森をめざした。遠ざかる函館の美しい夜景を、いつまでも眺めていた。
手紙を返さなくてはと思い、仙台へ着くと便箋と封筒を買ったのだが、筆不精の私はとうとう出さずじまいだった。ただ、ナターシャの父親と母親の様子だけ電話で知らせた。前田の弟が跡取りとして養子になり、嫁を迎えて子供ができて、店もナターシャの両親もあんたいらしい。だから、心配しないようにと伝えてくれと頼んだ。
その後、感謝の手紙が届いて数回手紙のやり取りをしたが、それも途絶えた。ナターシャがその後どうなったのかは、わからない。
(終わり)
20181216-実話・ナターシャ