蒼紫月影抄
2004年作品
春の宵
「蒼紫・・・・・。」
そっと、夜影に白い指先を伸ばした。その触れたあたり。
巴の手は、今、蒼紫のたくましい腕の中に包まれている。
陽に焼けた蒼紫の腕と、ほの白い巴の手の対比が、黒白のようにくっきりと闇の中で際立っていた。
春の宵は、短い。
その短い逢瀬に、巴は胸を燃え立たせていた。
―――私に、忍びの術ではなく、これを使えと―――。
これ。
それは、蒼紫との逢瀬でも使われるものであり、巴にとっては悦びであると同時に悲しみでもあるものであった。
―――なぜ、引き寄せられるのか――――この人に。
蒼紫は冷たい―――本当の気持ちをなかなか言葉にしてくれない。
黒髪を乱れさせて、巴は蒼紫に抱かれながら、いろいろな事を考える。
『御頭には、決められたお相手がいるんだ。』
巴に確か、唐突に怒ったように言った、般若の面の男の言葉を思い出した。
般若の言う「決められたお相手」とは、最初巴は、江戸城の中にいる高貴な姫であるかと思っていた。
彼らは江戸城の御庭番衆なのだ。
巴のように、復讐を胸にこの忍びの世界に入ってきたものではない。
あとで、べしみをつかまえて、尋ねてみたところ、どうも先代御頭の孫娘という少女がいるらしい。
まだ五歳だそうだ。
巴はクスリ、と忍び笑いをもらした。
そんな子供が―――蒼紫は少しでも好きなのだろうか。
先代御頭の跡目を継ぐということで、その孫娘を将来もらいうけるのだろうか。
だが、まだ見ぬその娘と、収まった将来の蒼紫の姿を考えると、巴の胸はきりきりと痛むのだった。
相手の娘は、般若の話ぶりからすれば、先代の後継者という正等な血筋を引いているだけあって、蒼紫を手下か部下のように扱うかも知れない。
そしてその時、蒼紫はきっともう、年老いている。
今の、私だけが知っている、年若く俊敏なこの人ではない―――、年老いて、寂しく―――ああ、将来―――。
将来―――その言葉を、巴はめまいがするように思うのだった。
あの緋村抜刀斎を葬らねば、自分と蒼紫には明日という日はないのだ。
いいえ、私は最初から明日という日など望んではいない―――。
もう止まらない―――この思いは。
巴は小さく肩をゆすって、藍色の忍び装束を肩から床に落とした。
清里に対しては、自分からなど絶対に誘わなかったものを―――巴は蒼紫の忍び装束の下に手をすべらせた。
痩せているのに、ごつごつと手に盛り上がった筋肉があたる。
蒼紫の短く切った髪にそっとその手を移動させる。
「昼間・・・・。」
蒼紫がつぶやくように言った。
巴は目を丸くして、答えた。
「昼間?」
「・・・・・何を探していたのだ。水の中で。」
「わかりませんか。」
巴は秘密にするつもりで、そっと白い歯を見せて笑った。
―――あなたの姿がまぶしくて、気がついていたら泳いでいました。
巴は川沿いの岩の上で、鳥寄せの笛を吹いていた。
その笛の音にひかれて集まってきたのは、小鳥たちだけではなかった。
茂みに蒼紫の影を認めたとき、自分も小鳥のように飛び立ってしまいたくなった。
―――わたしは、あなたが好き!
声に出して言ってしまうのが恥ずかしくて、忍び装束のまま、川の中に飛び込んだ。
水は冷たかったが、巴は軽々と抜き手をきって泳いだ。
蒼紫が、見ている。
それが嬉しかった。
最初に会った時から、牽かれていた。
この方と一緒に修行をする―――最初は清里の復讐のために、身を投じた巴だったのに、蒼紫のもとで忍びの練習をつむうちに、自然と恋心は芽生えていった。
蒼紫も巴も、よけいなことは口にしない方だ。
そんなところも手伝って、巴はなかなか口にこそできないものの、蒼紫への想いを募らせた。
―――好きなのに。私は、清里よりも、この方が好きなのに。
そう思ってはいけないと思えば思うほど、蒼紫を慕う気持ちは巴の中で強くなった。
ある日、巴が見事に忍びの高度な術を決められたときの事だ。
「できました、できました、蒼紫様。」
頬を紅潮させた巴は、気がつくと蒼紫に飛びついていた。
「私、きっと京都で仇が討てますね、そうですね。」
蒼紫は「ああ」と言ったようだった。
蒼紫の腕が、とまどったように、巴を抱こうとして、また下におろされた。
しかし、巴は気がついてしまった。
蒼紫が自分を抱きしめようとしたことを。
蒼紫は黙って立ち去ろうとしていた。
「待ってください・・・・・!」
巴は追いすがるように、震える声をふりしぼった。
切ない瞳は、愛しい人の姿を見つめていた。
「私のことが・・・お嫌いですか・・・・・?」
それから、幾日たったかわからない。
今はこうして、蒼紫に抱かれている。
夕方、井戸で洗いものをしていた時。
背後に背の高い人影を感じて、はっ、と立ち上がった時にはもう、抱きすくめられていた。
「あおしさ・・・・・。」
しっかりと背中に、逃げられないように腕が回される。
蒼紫のことを朴念仁だと思っていた巴には、驚きでしかない蒼紫の行動であった。
巴が全部を言い切らないうちに、その唇を唇でふさがれた。
―――これが、接吻―――。
目もくらむ思いで、情熱的に続く蒼紫の唇を受けながら、巴は思った。
清里は確か、接吻などもせずに私の体に手を伸ばしてきた―――巴はそのことを、今では汚いものでも見るように思い返す。
あの頃の自分は自ら戦うという覚悟もなく、何の才覚もなく生きていた。
今は違う。
この方のもとで、この方のために、私には戦うという目標がある。
表向きは清里さま、あなたさまのためでございますが―――。
「ん・・・・んん・・・・。」
蒼紫が巧みに舌を使う。
それは、巴の知らない感覚であった。
じん、と体の奥がしびれる。
もっと・・・・もっと・・・・して・・・・・ほしい・・・・・・・・・・・・。
私をあなただけのものにして。
あなたを私だけのものにして。
夜の闇は、深い。
秋鈴
高い雲の下の峰の先に、巴は長い槍を持って今立っている。
――来るわ・・・・。
印を結んでから、槍に手をかけ、虚空をキッ、と巴はにらみすえた。
蒼紫の手裏剣は何処から飛んでくるかわからない。
と、その時空間を引き裂いて、手裏剣が雨のように乱れ打った。
巴は敏捷にはねてよけた。
蒼紫の姿はまだ見えない。
――あの方は、風上には立たない。ならば。
巴の息が乱れる。槍は三段に胴が分かれるようになっている。
槍の胴で手裏剣をすべてはじきながら、巴は前に打って出た。
――そこっ。
巴の槍が、地面に陽炎のように見えた蒼紫の影を突いた。
手ごたえがあったような気がした。
一瞬、巴の槍を握る手が震える。
――ああっ。
「そこで首を落とされる。」
蒼紫の冷たい声が耳元でした。
ガッと体に衝撃が走って、巴の体はざざざと坂道を滑り落ちた。
蒼紫が巴の体を激しく蹴ったのだ。
「ああああっ!!!!」
そのまま下の川に落ちそうになるところを、手首をはっしと蒼紫につかまれた。
「未熟だな。」
蒼紫の冷たい目が見下ろしているのがわかった。
蒼紫につかまれたまま、巴は蒼紫の目の前に吊り下げられた。
巴は屈辱感のまま、息を切らして黙っている。
「俺に助けられて、嬉しいか。」
「・・・・・・・・・。」
「嬉しいと言え。」
「・・・・・・・・・・。」
蒼紫がどういうつもりで言っているのかわからない。
ただ、巴は全身に屈辱感と羞恥心が、蒼紫の言葉で満ちてくるのを感じた。
蒼紫はいたぶるように、言葉を続けた。
「敵はこんなに間を置かんぞ。そこでどうするんだった。」
巴は反動をつけて、蒼紫の体を蹴って地に着地し、槍を投げかけた。
蒼紫との激しい斬り合いが始まった。
小太刀と槍が間髪を置かずに、立て続けに切り結んだ。
巴の心に動揺がさざなみのように沸き起こった。
――この方を・・・・傷つけるなんて・・・私にはできない・・・・できないわ・・・・・。
蒼紫は巴のその様子にすぐに気づいた。
「本気でやっているのか!」
巴の槍は無残に蒼紫の小太刀に弾かれて、宙を舞った。
「まいりました。」
巴は地面に手をついている。
蒼紫は小太刀を腰に差しながら、いまいましそうに言った。
「上忍に報告するには、あまりにも未熟だ。」
巴はすがるように言った。
「でも、苦無ならば全部当てることはできます!先日は、あなたさまもよくできたと誉めてくださいました。」
「敵は人間なのだぞ。動かない的に当てられたぐらいで、のぼせあがるな!」
蒼紫の剣幕に、巴はひっ、と体を縮こまらせた。
――怒らせた・・・・・私はこの方を、怒らせてしまった・・・・・・。
うつむいた巴の両眼から涙が滴り落ちた。
あれから三ヶ月。
はじめは山里での暮らしぶりは、春の宵のようにおだやかなものであった。
蒼紫と結ばれたときは、これでいいのだ、と浮き立つように夢の中を歩いていた巴であったが、それがどうも勝手が違うとわかったのが、技の修練が積んできたこの最近のことであった。
蒼紫は巴と距離をまた置きだした。
巴には不満がある。
まるで蒼紫に女衒のようにだまされたのではないかと思っている。
蒼紫は巴を置き去りにして、向こうに行ってしまった。
――結局・・・・この方は・・・・・私などよりも忍びとしての道を取るのだ・・・・・・。私は風のようにたまたま舞い込んできた女・・・・・たくさんいる忍びの女の一人にすぎない・・・・・。
そして。
その忍びの道の先に、巴の知らない、先代御頭の孫娘がいる。
――悲しい・・・・私は悲しい・・・・・・あなたから愛されたい・・・・昔みたいに・・・・・。
その二人の様子を彼方から見ている者らがあった。
「般若、あれをどう思う?」
「のき猿殿、御頭も必死なのです。」
「ほほう。うぬはあの女気に入らないのではなかったのか。」
「はい。ああいった女は御頭の心根を弱くしてしまいます。現に最近いらだっているのは、あの女のせいです。」
「ふふふ、よくわかっているな。」
「先代の孫娘は私と翁が教育にあたり、御頭の妻の心得をそれとなく言い含めるつもりでございます。」
「そうでなくては困る。」
「しかしどうして、御頭にあの女をまかせるようになさったので。」
「理由か。御庭番衆御頭に疵のひとつもなくては、にらみがきかぬではないか。完璧な従者はいつか牙をむき、主人の喉笛を食いちぎるかも知れん。その首に首輪のひとつも巻いておかねば、こちらも安心して眠れぬというものよ。」
のき猿という男は、覆面の下からそう笑うと、般若の横を退いた。
般若はひとりごちた。
「期日までに仕上げることができねば、あの女は長州の慰み者になるは必定。それをわかって、蒼紫様に近づけた。蒼紫様、それ以上その女には心を移してはなりませんぞ。」
巴は夕闇の迫る、井戸のそばに立っている。
足元には虫のしだく音がさかんにわきあがっている。
――私は・・・・よけいな者・・・・・清里の復讐などもう・・・・・ここにただ、あなたさまのそばにいたいのに・・・・・・・・。
「おまえも、一緒に泣こう。」
ささやくように虫たちに言うと、巴はその場にしゃがみこんだ。
槍の使い方は、少しは巴には自信があった。
少なくとも、べしみ相手には勝つことができた。でも相手が蒼紫では―――。
そして、清里を斬った緋村抜刀斎相手ではどうであろう。
話によれば、飛天御剣流の使い手だと聞く。
それは戦国時代に封印された、恐るべき流派なのだと言う。
でも、と巴は思うのだった。
――わたくしが勝てなかったのは、あなたさまだったからなのです・・・・・・でもきっとそれも、あなたさまにとっては言い訳でしかないのですね・・・・・・。
と、その時だった。井戸の水面に人影が写った。
――蒼紫さま!
巴はすぐさま立ち上がり、振り返った。
蒼紫が無言でそこに立っていた。
「蒼紫さま・・・・・わたくしは・・・・わたくしは・・・・・・。」
あとは言葉にならなかった。
どちらから手をさしのべたのか、わからない。
巴はただ、蒼紫にいだかれて―――。
好きなの―――好きなんです、あなたさまのことが。
だからどうか私をいじめないで―――。
蒼紫は暗いまなざしで巴を抱きしめていた。
愛したい―――愛したいが、これ以上おまえを愛すれば―――。
怖いのだ、と蒼紫は思った。
深淵の淵を覗いているような気がしてくる。
たとえ巴が京で、忍びの女としての術を使わされても、そうでなくしても俺は―――。
巴は完全にその清里という男のことを忘れている。
そういう風に自分には見える。
そうさせているのが自分なのだ、というのは明白なのに、蒼紫はそれが恐ろしいと思うのだった。
緋村抜刀斎という男のことはまだわからない。
しかし、それが二人にとっては不吉な影を落としているように蒼紫には思えた。
巴を抱くという背徳の行為に、いつか天の罰がくだるような気がするのだった。
少なくとも、清里という男は、自分のことを恨んでいるに違いない。
ひょっとしたら、自分を殺した緋村という男よりもだ。
いや、自分にはそんなことは今更どうでもいいのだ。
俺はもうすでにたくさんの、斬り捨てた人間に恨まれて生きている。
だが、巴がその渦に巻き込まれていくのが、蒼紫は恐ろしいのだった。
虫しだく鈴の音だけが、抱き合う二人を静寂に包んでいた。
早春譜
まだ巴がこの忍びの里に来た頃のことだ。
巴は清里の復讐を胸に最初、来たのではなかった。
そんなだいそれたことなど、はじめからできようはずもない。
巴は江戸で清里の消息を尋ねまわっているうちに、そういう者らの集会に参加したのだった。
長州を討つべしと意気込んで気勢をあげる若者や武士であふれかえっていた、その講の場所に、どうして巴は居たのかは自分でもわからない。
清里は巴の体を通り過ぎて行った男であり、残したものはかんざしひとつばかりで、巴もその寂しさにはもう慣れていたはずだったのに、そのような狂気の熱気が渦巻く場所をその日どうして選んだのか―――。
やはり私は、清里の仇が討ちたいと思っているらしい―――奉行所で伝えられた、緋村抜刀斎という長州藩の下手人の男を、この手で―――。
そのようなことはできようはずもないのに、気がつくと巴はその中庭の場所にいた。
人々が嵐のように去った後の集会所で、巴は一人つくねんと立っていた。
帰ろう、縁がおばさんと家で待っているわ――と、指先で惑う心を振り払ったその時だった。
その後ろに「彼」は不吉な鳥の影のように現われた。
「清里明良の仇を討ちたいのだろう?」
巴は振り返り、「彼」を見た。
もう夕闇で、黒いシルエットになっていて、その表情はわからない。
濃い藍色の装束を身につけた、背の高い男だった。
わからないが、その者の燃えるような視線を感じた。
瞳の中に真紅の不吉な火が灯っている。
「いいえ。」
と巴は口の中でかすかに打ち消して答えたつもりだった。
額に冷や汗が浮かんでくるが、そのじっと見ている目から逃れられない。
何故この人は、全然知らない私の婚約者の名前を知っているのだろう、と巴は思った。
空と大地がずれたような、日常に異次元が忍び込んだような感覚だった。
すべてが不安定な夕闇のとばりの中に、沈んでいくようだった。
その者が、地を這うような声で、巴に向かって低くささやいた。
「来い。必ず仇を討たせてやる。」
巴は引きずられるように、その者にゆっくりと近づき、その者の腕の中で気を失った。
もしも巴の意識があったならば、その後の忍びの者らのセリフも聞き取れて、蒼紫に対する印象も変わったかも知れない。
「何故もっと早く影うつしの術を施さなかったのだ。これでは、周囲に人がいないから、丸見えだぞ。」
蒼紫の後ろに、腕組みをして立っている老人が言った。
「おまえが躊躇する気持ちはわかるが、こういった立場の娘はそうそういるものではない。利用できるものは、何でも利用するということだ。」
「・・・・・・はい。」
「その女を踏み台にして、更なる高みへと昇り詰めるのだ。上の者だけではなく、女どものおまえへの評価も、それによって変わってこよう。」
蒼紫の静まった瞳の中で、何かが揺れたようだった。
―――母上に似ている。
腕の中の白い花びらのような娘のおもざしは、死んだ母とは似てもにつかないものだった。
母と同じ武家の娘だから、そう思うのか―――蒼紫はそう思ったが、自分の胸を射抜くように見舞ったその思いを払いのけることはできなかった。
巴がそれから気がついたのは、山里の東屋で寝かされていたときだった。
「ここは・・・・。」
起き上がった巴の向こうに、蒼紫の後ろ姿があった。
巴はおそるおそる蒼紫に近づいた。
帰してください、とその背中に言おうと思ったのに、先に蒼紫が口を開いた。
「おまえは今日からここで、忍びの稽古をすることになる。拒否すれば命はないものと思え。」
「忍び―――何故私が。」
「おまえにならできるはずだ。俺が鍛える。」
あ、と巴が思う間もなく、蒼紫は戸を閉めて出て行った。
巴は震え上がって、しばらく泣いていたが、やがてそれをあきらめた。
生きたいと思った。
そして逃げようとは思わなかった。
忍び―――私にできるのだろうか。
しかし清里が死んでから、ぽっかりと開いていた空洞を、蒼紫の一言で埋められたような気がした。
それは蒼紫がかけた術のせいだったのかも知れないが、巴は自分をさらった蒼紫に、一目で恋をしたのだった。
蒼紫もまた、巴を見る目に哀れなものを、日々につれ感じるようになっていった。
修練を積むうちに、互いの胸の寂しさのようなものを感じて、身を寄せ合うようになったのは、自然のことだった。
きっと、私は生きてまたあなた様に会います―――巴は、上の者に言われた言葉を素直に信じて、今はその技を磨いている。
一度迷ったら、相手を傷つけることをためらう、繊細な心を持ち合わせているのに、その心を抑えて刃を身に帯びることを由としている。
それもすべては蒼紫のため―――もはや、清里の存在は巴にとっては遠く、かすんで見えないものになっていた。
ふと弟の縁のことが思い出されることはあったが、縁は江戸の町で普通に姉の帰りを待っている、巴は清里の仇を討つための旅に出たと言い含めてあると言われ、山里から出ることは許されない身、巴はただ剣の修練を積む毎日であった。
その無心の少女を、俺は―――。
蒼紫の心に、ひび割れたように、先代御頭の言葉が突き刺さっていく。
「早く情をつけてしまうのだ。敵方に寝返らないようにするのも、御頭の重要な仕事だぞ。」
蒼紫は茶室で、先代の言葉を、頭を下げて聞いていた。
蒼紫の表情は硬かったが、その内部では巴に対する激情がほとばしっていた。
これは任務ではない、自分にとってはもはや任務ではないのだ、と今にも先代を一刀のもとに斬り捨てようほどの思いに、蒼紫は理性でじっと耐えていた。
自分は今御頭をやめるわけにはいかない――そんなことをすれば、あの巴は幾重もの忍びの掟で、山の中で何本もの刀で串刺しにされてしまうだろう。
巴を今の自分では守りきれない―――回転剣舞も完成させていない今の身の上で、造反はもってのほかだ。
しかしそう考えると、自分はただ巴の体を目当てに忍びの世界に落とし込んだ、薄汚い存在に思えてくるのだった。
「どうなされたのです。」
その日、巴は夜もふけた頃、戸口に荒々しい音を聞いた。
巴一人で寝ている番舎は、小さな小屋だった。
だが、蒼紫のほか数名の限られた忍者しか、そこには訪れてはならないことになっている。
いずれ長州にわたる大切な駒なのだから―――というのが、この忍びの里での巴についての風評であった。
巴はろうそくに火を点し、戸口に立って驚いた。
「蒼紫さま!」
蒼紫が倒れるようにそこにうずくまっていた。
肩で息をついている。
ふっ、と酒の香りがした。
巴は蒼紫のそばにより、介抱するように肩を抱いた。
「呑めないお酒など呑んで・・・・あなたさまらしくもない・・・・・。」
「知っているのか。」
「はい。般若さまから聞きました。いま水を持ってまいります。」
その行こうとする巴の手首を簡単にひねると、蒼紫は巴を土間に押し倒した。
「何をなさいます!」
しばらく巴は蒼紫の下でもがいていたが、やがて観念したように動かなくなった。
巴は乱れた髪の下から言った。
「こんなあなたさまは、嫌でございます・・・・・・。」
蒼紫は少し片頬で笑って、巴に言った。
「俺が隠密御庭番衆の御頭だから、俺の口づけからも逃げなかった・・・・・おまえもそうだな・・・そういう女はたくさんいる・・・・・。」
「ではそういう方にしてあげてください。私は・・・・。」
と、巴の顔の上にぱたぱたと白いものが落ちた。
蒼紫の涙だった。
巴は目を見張った。
この強い人が泣くなんて―――!
蒼紫は苦いものを吐き出すように言った。
「俺は弱い男なんだ・・・・・忍びの掟からは逃れられんのだ・・・・もしおまえを自由に・・・・・そう・・・・できたなら・・・・・。」
蒼紫がひしと荒々しく自分に抱きついてきたのを、巴は息がつまるように受け止めた。
その夜、巴は蒼紫のものになった。
かわいそうなあなた・・・・・・・・・・私は最初からそれでもよかったのに・・・・・・・・。
蒼紫が自分を忍びの女としてかわいがるのだろう、という事は、周囲の言葉に黙って耳をたてていれば、実は巴にでもわかっていたことであった。
しかし、その感情が行き着く先を、巴はまだ知らない。
巴の胸のなだらかな双丘の上に、蒼紫の腕があった。
巴は起き上がって、眠る蒼紫の頬に軽く口付けた。
私はきっとまた、あなた様に生きて会います・・・・だからもうあなた、私のことで泣かないで・・・・・・。
春の早い夜、まだ恋人たちを引き裂く悲劇の訪れを二人は知らない。
巴は素肌のまま、夜空を見上げて思った。
冴え冴えとした満月が、雲間に浮かんでいる。
綺麗な月・・・・・きっと私たち二人の今夜の夜を、祝福してくれているのね――――。
死ガ二人ヲ別ツマデ
「それで姉さんは死んだのだな?」
「そーだよ・・・・・。」
「抜刀斎は巴の死体をどうした?」
「あいつは大切に荼毘に伏したよ・・・・住んでいた家ごと燃やしたんだ・・・。」
催眠状態の縁が、陶然とした口調で話している。
蒼紫は縁の前でしゃがみこんで、告白を聞いていたが、やがて立ち上がった。
「御頭、今回の件は失敗ですな。」
かたわらの般若は蒼紫に冷たく言った。
「最初から危惧はしていたのです。あのような者に何の任務が務まるかと思っておりました。御頭さまは、早く目を覚ますべきでした。巴は忍びとしては、下の者。抜刀斎の寝首すらかけなかったのですから。」
「では、貴様になら、抜刀斎の顔に傷をつけることができたのか。」
「それは・・・・しかし、その程度のことしかできなかったのですから。」
「黙れ!」
蒼紫の額に青筋が立ちそうな気配であった。
般若はひっ、と首をすくめた。
蒼紫の手にいつの間にか、小太刀の小さいほうの剣が握られ、自分の喉首に突きつけられていた。
蒼紫は言った。
「巴はくの一として落とされ、使い捨てとなって死んだ。その無念さが、貴様などにはわかるか。」
蒼紫のすさまじい気迫に、般若はあやうく次の言葉を呑みこんだ。
あの女がそのような―――般若の目には、なよなよとした、白い、暗そうな顔の、地味な忍者の女の姿しか写っていなかった。
忍びの里にはあれ以上の、女を武器にしているような女たちがうようよといた。
そのような華やかな女たちには目もくれず、蒼紫は自分にとっては禍根となるような、巴を選んだらしいのだ。
般若はその時、蒼紫の暗い笑い声を聞いた。
蒼紫の顔に、ゆがんだ笑いがはりついていた。
「元はと言えば、江戸の上目付けが、今回の件を仕組んだのだ。抜刀斎には、御庭番衆の者は勝てるわけがない―――なるほど、その通りだ。しかし、だからと言って、くの一を巴にやらせるなど、俺にとってはもってのほかだ。いつかあの者たちの首を討つ。巴を殺した抜刀斎はのみならず、巴をそのような任務におとしめた輩は全員血祭りにあげてやる。その時には般若、貴様もいてくれるな。」
蒼紫の声は、心中の傷の血潮をふりしぼるかのようであった。
般若はあわてて答えた。
「そのような事、御庭番衆が成り立ちゆきません。」
「俺の御庭番衆だ。誰にも口出しはさせん。先代はもういない。そうだな、般若。」
「御意・・・・。」
般若はかろうじて、蒼紫に服従の意を示した。
狂っている―――御頭は、あんな女のために、狂っている。
般若がその時思いついたことは、あの先代御頭の孫娘である操を教育して、この蒼紫に対しての抑えにするということであった。
幸い、蒼紫が保護した操は、蒼紫が物静かな青年であると見て、兄妹のように慕っている様子だった。
しかし、今の蒼紫の様子を見れば、どうなるであろうか。
―――それを、なんとか操さまのもとに、下るようにいたさねばならぬ。翁殿によく言って聞かせねば。
幼い少女に興味を示す者は多い―――この蒼紫にも、その性癖があればいいのだが―――般若は思った。
忘れることです、蒼紫さま・・・・・あの女は現に抜刀斎の妻となったのです・・・・・・・・・・・・。
蒼紫は荒れ狂う雪の道を一人、歩いていた。
何もかもを、こんな風に真っ白にしてしまいたかった。
白はおまえの色だな、巴。
巴・・・・巴・・・・巴・・・・・。
『俺は弱い男なんだ・・・・・忍びの掟からは逃れられんのだ・・・・・。』
あの時・・・・・俺の何を許してくれたのだ・・・・・あんな俺を・・・・おまえは・・・・・優しく抱いて・・・・。
あの夜からの二人は、溶けるようだった。
いっそのこと、溶け合えればよかった。
巴は俺のことを、抜刀斎には何も話さなかったらしい。
そうでなければ、抜刀斎が巴を後生大事に葬るわけはない。
俺もまた、おまえのことは、抜刀斎には絶対にあかさない。
ただ―――『最強の華』を手にするためにだけ、抜刀斎の前に俺は立つ。
死が二人を別つまで、おまえとは一緒だと思っていた。
そうではなかった。
死すらも引き裂けない絆で、俺とおまえは結ばれているのだ。
「巴!」
蒼紫は吹雪の中で、孤独な獣のように叫んだ。
真っ白く狂うように吹き付ける雪嵐は、蒼紫の叫び声をのみ込み、風の中に吹き消していった。
夕凪
おだやかな、風の凪ぐ夕暮れ。
山肌に広がるすすきの原に、巴は一人立っていた。
彼が来るのを待っている――― 一人、いつまでも待つつもりで――――。
「ずっとそうしていたのか。」
背後から声がかかると、巴は笑顔で振り向いた。
「ええ。こうして下界を見ていると、不思議な気持ちになります・・・徳川の世も、維新の風も、まるで別の世のことのよう・・・・・。」
沸き立つように広がる雲海が、巴の眼前には広がっている。
そこへ―――この人と二人きりで、入っていってしまいたい。
何もない、苦しみもない、天上の世界。
もしあるとしたら―――それが感傷にすぎないのはわかっている。
「私・・・・・あなたとずっと・・・・こうしていれば・・・・・・・・いいんです・・・・・・それだけ・・・・それだけなのに・・・・・・・。」
巴の声は、震えかすれた。目に涙が浮かんでいた。
蒼紫は答えずに、巴に体に腕を回した。
震えている体に、安堵感が広がる。
夕闇の黄昏の黄金が、二人を光の中に包んでいた。
今だけ。今この瞬間だけ。
巴は、涙の浮かぶ瞳をそっと閉じてみた。
蒼紫の息が、頬にかかった。
そっと、近づくように―――蒼紫の唇が、自分の唇に重なるのがわかった。
甘い、ほのかな香りを蒼紫は巴にかいだ。
蒼紫は注意深く、唇を巴から離した。
ぎこちない間が、二人の間にはある。
接吻は触れるだけの軽いものだった。
それ以上触れてはならないと、蒼紫は自戒したのだった。
しかし―――。
巴の綺羅と輝く瞳が、目の前にある。
巴はさやかに笑った。
「あなたさまは・・・・・おやさしいのですね。」
蒼紫は無言だった。
胸中の思いを言い当てられたような気がした。
巴は言った。
「私は・・・・・・・これから、長州の慰み者になるのかも知れません。そうなったら・・・・・でも・・・・・あなたはきっと・・・・そんな女とは・・・・・・。」
「巴―――。」
と、巴は蒼紫の顔を振り仰ぎ、急に言い募った。
「生きたいのです。戦国の世でそうであったように、ここで、あなたさまと忍びとして―――できないことはわかっています。でも、時が今止まったら―――昔の世に戻れたら―――私が清里の許婚ではなかったら――――。」
「巴・・・・・!」
「私・・・私・・・・・あなたと時を止めて・・・・・一緒に生きたい・・・・・!」
巴はそう叫ぶように言うと、蒼紫の体に抱きついた。
自分でも何故そんなに大胆になれたかわからない。
ただ、この荘厳な山々の景色に包まれた時、自分がどれほど小さな存在か、そして、下界の営みというものが、いかに塵芥に汚れたものかと巴には思われ、それに流されていく自分が怖かったのかも知れなかった。
――だからどうぞ、しっかりと私を抱いていてほしい・・・・・・・あなたさまに、今―――。
蒼紫は巴の顔をもう一度、上に向けさせた。
「いいんだな。」
蒼紫は静かに巴に言った。
それがどういう意味であるか、生娘ではない巴にはわかっていたが、それでも、清里とは間違いといったいきさつでそういう関係になった身であるから、どういうことになるかはわかっていなかった。
清里のように、性急に手を伸ばしてくるのだろうか―――。
それともいつかの晩のように、お酒の力を借りた時のように、うやむやに―――。
蒼紫はまず、巴の着物の裾を割った。
しかし、その動作はゆっくりとしたものだった。
念入りと言ったほうがいいかも知れない。
ゆっくりと下から手を差し入れて、やがて胸にいたり襟をはずしたとき、巴の肌は山すそを照らす夕闇の光にあらわになった。
「・・・・綺麗だ・・・・・。」
蒼紫の低い耳元の声に、巴は頬をさっと赤らめた。
そのまま草むらの上に、ゆっくりと蒼紫の手によって横たえられた。
今の徳川の世というよりも、二百年も前の時代にさかのぼるような、二人の姿だった。
そして蒼紫によって、かすかな局部の痛みがもたらされたとき、巴の胸にあったのは、そのような時代に逆行できたならということだけだった。
時が―――時が、今の世でさえなければ・・・・・・。
蒼紫の動きは最初は巴の身を案じたもので、穏やかなものであったが、やがて熱が高まるにつれ、荒々しいものになった。
山の稜線が赤く染まる中、誰も見ていない草むらの原で、蒼紫は一頭の獣になっていた。
好き―――このあいまいな言葉、それだけが私とあなたのただひとつの支え―――巴の頬に静かに涙が流れていく。
誰も認めなくてもいい、ただあなたとこうしていたい―――。
やがて風が吹き始めた時―――。
「戻ろう。」
蒼紫が言ったので、巴は立ち上がった。
今一瞬で山の端に陽は沈んでしまった。
夢のようにそのひと時が過ぎてしまった後も、巴はひたむきに思った。
決して、今のこのひと時を私は忘れはしません・・・・・・・。
巴はそっと蒼紫に尋ねるように言った。
「あなたさまが、私の忍びの才能を愛しているだけなのはわかっています。」
蒼紫はとがめるように答えた。
「そう思っていたのか。」
「ちがいますか。」
蒼紫は巴の肩を抱きよせ、不器用に答えた。
「馬鹿だな。」
巴の肩が震えた。
「でも・・・・私・・・・ずっと・・・・・そう思って・・・・・・。」
あとは声にならなかった。
ただ―――蒼紫の優しさが・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
「俺はおまえを愛している。それはおまえが、おまえだからだ。他の言い方を俺は知らん。」
「はい。」
巴はただ、蒼紫にうなずいて――――。
「はい。」
暮れなずむ黄昏の黄金が、尾を引いて、二人の姿をただ闇の中で金色に照らしていた―――。
九ノ一
巴は今、旅の途上にあった。
江戸から京へ―――かつて清里も通った道のりを、今はこうして身をやつした御庭番衆とともに杖をついて歩いている。
護衛をするのは、西の闇の武の連中であった。
――私は・・・・できなかった・・・・。
巴はともすればくじけそうになる心持ちを、泣きたい気持ちをこらえていた。
蒼紫とともに山里で修行したことは、すべて無に帰した。
その日、上役に呼ばれて巴は、忍びの女たちを相手に立ち回りを何度かしてみせた。
はじめは意気もあがり、巴の槍は何人かの華やかな忍びの女たちをねじふせることができたのだった。
「だが、抜刀斎ではどうかな。」
上役はこう言い、やがて屈強な男どもと試合をいなければならなくなった時、巴は己れの甘さを思い知った。
だが、それでも必死で槍を構える巴の前に、何人かの忍びはその技を破られた。
それは、上役も目を丸くして見ていたはずである。
だがしかし―――。
「江戸城付けの御庭番衆自らが、仕込んだ女だ。その御頭相手に勝てなければ、女ごときに暗殺など、できないも同然だな。」
それは、教え主である蒼紫と対決をしろという言外の意味であった。
蒼紫は黙然と巴の前に立っている。
隙は、ない。
こちらから仕掛けるまで、水の面のように何もしないつもりだ。
巴は槍を後ろ手に回して静かにかまえた。
「エイッ。」
巴は分かれた槍の真ん中の部分を、自らの体にからめるようにしながら、刃を蒼紫に向けた。
一撃で倒すかまえである。
蒼紫は―――小太刀を旋回させ、巴の刃をはじくと、下から十字に構えた小太刀を巴の喉元に突きつけた。
それは一瞬の出来事だった。
巴は槍の胴であやうくはじいたが、槍をあやつる動作が乱れた。
「ああっ。」
その隙を蒼紫は見逃さなかった。
間隙に蒼紫の小太刀がひらめいた。
「勝負あったな。」
上役は立ち上がった。
巴の固まった姿勢の前に、蒼紫の小太刀が巴の頭に対して突きつけられていた。
上役の武士は言った。
「抜刀斎相手には、その女の技は児戯に等しいであろう。それでも、返り討ちにやすやすと合うような隙はその女にはなくなった。気配を殺せるし、簡単に背中から斬られるような事態にはまずなるまい。ご苦労であったな、江戸城御庭番衆・四乃森蒼紫。」
蒼紫は平伏して聞いている。
無論好んでそうしているわけではない。
そうしなければ、己れの首が飛ぶのだ。
巴も平伏して聞いている。
「その女は、よい九ノ一になり申そう。そちらの仕込みも万全というわけだ。役得ではあったな。これにて重畳。」
巴ははっ、となった。
それでは私は―――この為に?
最初から九ノ一になるために。
敵の女になるために。
この人は私を抱いた。
嘘です、嘘だと言ってください、蒼紫様。
巴は横の蒼紫を盗み見た。
蒼紫は厳しい面持ちで下を向いている。
巴は思った。
蒼紫はでも―――私に負けを譲ることはしなかった。
この人はそういう時でも、私情で負けを譲ることなぞ決してしないのだ。
巴はしかし、心中でこう叫ぶのを止められなかった。
―――でも私は抜刀斎に斬られてもよかったのに―――九ノ一になぞ、なるのは嫌。嫌です。何故―――。
「そうです、私は抜刀斎にこの技で負けてもよかった。斬られてもよかったのです。清里同様に。その方がきっと清里も喜ぶかも知れません。」
蒼紫は黙って川の流れを見つめている。
もう夕暮れで、蒼紫と巴はさっきの江戸城の道場から、出た少しばかりの往来で話している。
「私・・・私・・・・九ノ一になぞ、なるのは嫌です。そのつもりであなた様に鍛えられていると思っておりました。でも、違ったのですね。すべては私の思い過ごしでした・・・・・・。」
蒼紫はぼそりと言った。
「俺にはあなたは過ぎた女だった。」
「過ぎた女?」
「抜刀斎という男は、俺以上のてだれということだ。さっきの上役の態度でわかっただろう。俺では抜刀斎には勝てないと踏んでいるし、まだまだ江戸城を守る仕事があるから、手放すわけにはいかないという事なのだ。」
巴は言った。
「私・・・・抜刀斎を斬ることはできないと思います。九ノ一として、情を捧げた後に斬るなんて、きっと私にはできない。」
「巴。」
「ですからあなた様のことも、私にとっては同じなのです。あなた様と情を交わしたのに、どうして私が勝つことができましょう。」
巴の頬に涙が一筋、音もなくこぼれた。
「女とは寂しいものですね。私がこのような女だからかも知れませんが。」
蒼紫は巴の身をそっと抱き寄せた。
「巴、身についた技はきっとお前を助ける日が来る。必ず。俺はそう固く信じている。」
「はい。」
蒼紫はきっとそう言うと思った言葉を、巴に言った。
ああやはりこの人は―――私の思ったとおりの方なのだ。
巴の寂しい心に、ほのぼのとした安堵感が静かにひろがった。
何も生まないと思って、私に剣の鍛錬をしていた訳ではなかったのだ。
私が私自身を守るために、必要な手助けを蒼紫はしてくれていたのだ。
巴はその時、心に浮かんだことを不意に蒼紫に尋ねてみたくなった。
「あなた様には、既に言い交わした娘がいらっしゃるそうですね。―――操という少女が。」
「言い交わしてなどいない。」
「嘘です。般若殿が私にそう言いました。」
「では般若が間違えたのだ。俺は―――巻町家の者にとっては、厄介者だ。近寄ることすら許されてはいない。」
巴は大きく目を見張った。
今の蒼紫の言い方は―――まるで――――。
蒼紫は自分に言い聞かせるように、言葉を続けた。
「まだ操は幼い少女だ。どうなるものでもあるまい。操の父の巻町玄播は、御庭番衆として生きる事を拒否した。だから、操も九ノ一になることはない。その方が操のためだ。その操にどうして俺が思いなぞかける。それもあなたにとっては、どうでもいいことだな。」
巴は胸の動悸を鎮めるように、必死で落ち着こうとしていた。
言ってはならないという言葉を、自分は蒼紫に言おうとしている。
巴は声喉に張り付いたようになって、言葉を吐いた。
「まだ・・・・・幼いから・・・・少女だから・・・・思いをかけないのですか。」
「―――!」
「私は・・・・・九ノ一になる女だから・・・・・成人した女性だから、お抱きになられたのですか。いえ、そうなのですね。」
「違う。」
「違いませぬ。あなたは私を抱いたけど、その時何も言わなかった。好いているとはおっしゃられたけれど、私の向こうに何か別のものを探し求めておられるようにずっと感じておりました。私では決して手の届かない別のもの―――。」
「そう感じたのなら、きっと俺はあなたに自分の死んだ母親を重ねて見ていたのだ。」
巴は耳を押さえ、激しくかぶりを振った。
激情が走り、言葉が止まらなかった。
「いいえ!!違います。その操という娘の身代わりなのですよ、私は・・・・どうして気がつかなかったんでしょう。いい気になって、のぼせ上がって・・・・・私・・・・私・・・・・・。」
巴は哂いながら、言った。
「あなた自身も気がついておられない。私は絶望しております。それでも私はあなた様のために、抜刀斎に九ノ一の法を仕掛けます。私にとっても、抜刀斎はあなた様の身代わりでしかないのですから!」
巴はそう叫ぶように言うと、手で顔をおおって、その場を走り去った。
蒼紫は追ってこなかった。
蒼紫とはそれきりになってしまった。
―――でも私は間違ったことを言っていた訳ではなかった・・・・・・。
巴は旅先の宿で思う。
あの人は、本当はその操という少女と、あの山里で二人きりで暮らしたかったのだ。
その少女を思うさまに鍛え、自分の手の中の玉のように慈しみ、育てていきたかったのだ。
それでも今でも蒼紫は、自分を愛していたのだから、と胸を少しは痛めてくれているのかも知れない。
それは嬉しい―――けれども、哀しい。
いつかはあの人も、自分のその感情に気づけばいい―――私が清里を愛していなかったことに気づいてしまったように。
だからもうあなた、私がたとえ死んでも、泣くことはないのですよ―――。
月の裏側の顔を、私は見てしまった・・・・・。
月の影、蒼紫様、あなた様の心の影を。
見てはならない禁断の顔を覗いてしまった。
これはその罰なのかも知れない―――私は近づいてはならない人に近づいてしまったのだ。
あなた様に近づく女人は、これからもそうしたひやりとするような思いを、きっと味わうのでしょうね・・・・。
巴の哀しげな頬に冴え冴えとした、冬の月が照り映えていた。
蒼紫月影抄
以前に書いたあとがきとは違うもので書いています。連作ということで、当時持っていたるろ剣オンリーサイトに掲載するつもりで、蒼紫巴度の高いSS風のものをということで書いた作品です。白土三平先生の忍者ものみたいな感じでまとめました。いろいろ他の作品と設定が違っていたりするので、読んでいたら混乱すると思います。特に「屍乱」「御影華」はなれそめがまったく違う設定なので。今「山霞」で一番自分としては望ましい形の蒼紫と巴の邂逅話を書いています。これはこれとして、読んでいただければと思う作品です。