笥詰めの恋

笥詰めの恋

2017年作品

1

洛山高校の物理の時間、教師から余談でシュレディンガーの猫の寓意の話を聞いたとき、赤司征十郎は自分のことだなと思った。その箱の中には猫が存在するという仮定で物を考える。しかし実際には見た者はいない。その猫はもう一人の自分だ。自分であって、自分ではない。自分と呼べるかどうかもわからない。しかし明確に自分とは違う他者だと思う。バスケットボールの試合中に、ゾーンに入ったと自覚したときにだけ「彼」は忽然と現れる。蜃気楼のような存在。そんな者が。

その猫が箱を開けてみるまでは、実際には猫の質量をしているただの電子状態かもしれない、生きているか死んでいるかわからないという話も、彼の気を引いた。いろいろ心理学関係の本も彼はひも解いてみた。自分は多重人格障害ではないと思う。別人格が出て、自分は障害があるとは思わない。それどころか「彼」は自分を助けてくれる。オカルト関係には興味がなかったが、背後霊という者ではないかと疑ったこともある。だがすぐに彼はその考えを捨てた。理由は自分の好みの科学的根拠に薄いということからだった。従って、彼はシュレディンガーの猫が「彼」であると思った。その猫は仮定では生きている状態と死んでいる状態が重なり合っているのだと言う。自分は箱の中にそのような一匹の猫を飼っている。そう思うことにした。

「彼」が最初に現れたのを自覚したのは、優しかった母が死んだすぐあとだった。まだ赤司は小学生だった。父に例のごとく厳しく叱責され、母がするのを薦めてくれたバスケットボールを取り上げる、と言われた夜に「彼」は赤司の枕元に現れた。くやしいかい?だけど我慢するんだよ。「彼」は赤司にそう言った。君はどれぐらいくやしいのかな?喰い殺したいぐらいだよ。そうなんだ。「彼」はそう言うと、母と同じようにやさしく笑った。じゃあ喰い殺すといいよ。君ならいつかできるよ。赤司は「彼」の言葉を聞くと、不思議とすっと胸が楽になった。翌朝からしばらくの間、真面目に勉学に取り組んでいたら、父は折れてバスケットをまたしてもよいと言った。その間赤司がずっと無言だったせいもある。父なりに赤司の成長には気遣っていたのだった。しかし赤司はそれを考えたことはなかった。父は自分の敵であり、母を遠ざけた者だった。 帝光中学に入ったとき、赤司は小学生のころからすでに民間のバスケットクラブに入っていただけのことはあって、すぐにレギュラーの一軍に入ることができた。一軍の仲間には青峰、緑間、紫原がいた。一年なのに一軍なのは破格の扱いである。マネージャーに桃井さつきという一年の女子が入り、彼女は青峰と同じ小学校だった。もちろんマネージャーには三年の先輩の女子もいた。桃井さつきは先輩から業務を聞いて、こなす毎日だった。このころは桃井はまだ目立たないおとなしい少女だった。その目立たないという点で、赤司が目をかけて監督に推薦した、三軍の黒子と共通点があった。なぜ君は黒子くんを引き立てたのかな?「彼」はその夜赤司に尋ねてきた。黒子が・・・哀れだったから。あんなにがんばっているのに一軍にはなれない。赤司がそう言うと、「彼」はおかしそうに笑った。それは君自身を見ているような気がしてだね?どうしてだ。僕はそんな風に思ったことはない。そうなのかい?でもそうやって君自身を刈りこんでいくといいよ。「彼」はそう言って眠るように消えた。「彼」はこのころはまだ暴君の片鱗を見せていなかった。黒子はパステストの結果、一軍に昇格した。それで桃井や青峰たちと話す機会が多くなった。赤司は焦った。黒子は影が薄く存在感がないせいか、男子にも女子にも分け隔てなく接することができた。自分はそんな風にはなれない。ただ外面を取り繕っている。僕と周囲の間には壁があって、僕はその箱の中にいるんだ。そう思った。箱を作ったのは父であり、黒子や青峰だと思おうとした。しかしその箱を作っているのは彼自身だと赤司にはわかっていた。その絶望感が赤司を少しずつ変えて行った。焦りを感じている分、彼は以前よりもバスケットに打ち込んだ。誰にも文句を言わせないプレーをしようと思った。その努力の甲斐があって、赤司は二年生で主将に抜擢された。それはやはり破格の扱いであったが、赤司は噂話で自分の名家の出自からそうされたということを、耳にしても聞かないふりをした。あくまで慢心しない平常心である自分でいなければならなかった。父から普段からそうあるべきだという話をしつこく、二人きりでの夕食時にされていた。それで試合中青峰が言った「俺に勝てるのは俺だけだ。」というセリフを聞いたとき、赤司は心中おかしさを感じた。桃井はこういうやつが好きなんだろうかと思った。実際に青峰は強い男だったからそう言うのも無理はなかったが、自分だったらこうは言わないと思った。その機会は不意に訪れた。

青峰がさぼりでいなくなり、紫原も抜けたいと言い出して引っ込みがつかなくなり、ワンオンワンで紫原とシュートの応酬をすることになった。「俺より弱い人の言うことを聞くのはやだな。」赤司が最近調子が悪いのを見た紫原がこう言ったのを聞き、赤司は抑えがきかなくなったが、桃井が仲裁に入ろうとし、それを止めたのもあり内面が揺れてしまった。動揺して紫原にリードされ、敗北を感じたとき不意に「彼」が自分にかぶさって来るのを感じた。「彼」が僕の代わりを務めようとしている。それは一瞬のことで、「すべてに勝つ僕は、すべて正しい。」と赤司は言い切っていた。それは「彼」の唱えたRPGにおける呪文のような警句だった。「彼」が僕をその瞬間全面的に肯定してくれた。そう思ったとき、赤司は解き放たれたように全力でプレーができるようになった。自分自身からの肯定ではなかった。だからそれは、青峰のセリフとは微妙に違う。その後の「僕に逆らうやつは、親でも殺すぞ。」という言葉も、赤司自身ではなくて「彼」の言わせた言葉だったかもしれない。赤司とその時から「彼」は共闘するようになった。それまではそうではなかった。赤司は「彼」と一体化することで、桃井への表面的な想いから離れるようになった。桃井がその時自分の肩を持たず、監督に告げ口するケンカとしか認識していなかったことへの苛立ちもあったのかもしれない。桃井がばらばらになる帝光メンバーたちに心を痛めて、人知れず流していた涙も、赤司は知らない。桃井とは事務的な話ばかりするだけで、赤司の周囲との壁はますます高くなっていった。三年生の最後の日、赤司は京都の洛山高校に明日から出発するのを控えて、卒業式に出席した。洛山は選手の青田買いに来た監督の話を聞いて、父から離れられそうだと思い、自分ひとりで決めたのだった。洛山は勉強も厳しい学校で、最初は渋った父も赤司の決意が動かないのを見て承諾に動いた。何よりもベストスリーに何年も選抜されていることが、赤司の目的にかなったものだったのだった。帝光時代のことは、箱詰めにして流すつもりだった。少なくとも桃井の前で紫原にリードを取られたことは、絶対に消し去りたい過去だった。全国制覇の時はもう一度紫原と当たるかもしれないな、と想像することは楽しいことだった。彼は秋田の陽泉高校に進んだ。

卒業式では下級生の女子に人気のあった赤司は、制服のボタンをいくつか取られた。こんなものだな、と思い校舎をあとにしようとしたとき、物陰から桃井が現れた。桃井は泣きはらした目をしていた。「赤司くん、京都に行くんだってね。もう会うこともないね。」桃井は言った。赤司は答えた。「桃井さんはもうバスケ部には入らないのかな。」桃井は赤司がそう尋ねると、びくっ、と身を震わして小声で言った。「あんな思い・・・もう二度といやだけど・・・赤司くんにまた会えるのなら・・・マネージャーをやるよ。」赤司は答えた。「そうなんだ。桃井さんもがんばって。」桃井はなんとも言えない顔で立ち尽くしている。桃井は言った。「赤司くん、どうしちゃったの?昔の赤司くんじゃないよ・・・。」「僕は僕だけど?桃井さんもボタン、ほしいの?」赤司としては、桃井の核心をついたセリフを冗談にしたい気持ちもあったのだろう。少しじゃれてみたのだった。しかしそれは桃井には軽薄に聞こえたらしい。桃井は叫んだ。「そんな赤司くんは嫌いだ!やさしくない赤司くんなんか!」そう一声叫ぶと、桃井は校舎の向こうに駆けて行ってしまった。

「彼」は赤司に語り掛けた。桃井さんは明洸戦で、君が点数を操作して勝ちを得たことを黒子くんから聞いて知っていたね。それで黒子くんは退部届を出した。君はその事実も箱詰めにするのかい。追いかけなくていいのかい、彼女を?赤司は答えた。僕は僕だ。それ以外の何者でもないよ。僕は彼女の思ったとおりの人間なんだ。そうなるようにこれまで努力してきたからね。なんにでも勝たないといけないんだ。「彼」はそう言うと心から笑った。じゃあ僕は君の手助けをしてあげよう。君の気がすむようにしてあげるよ。そしてそういう君を彼女は遠くから見るんだろうね。君はそれで満足かい?京都までの新幹線の中、赤司は流れる車窓を見ながらぼんやりと考えた。桃井さんのことも、これから小さな小さな箱になって消えていくんだ。彼女はどこの高校に行くんだっけ・・・青峰とまた同じ高校かな。彼女は僕のことが嫌いだったんだ。なんで好きになんかなったんだろう。早く忘れないといけない。僕にやさしかった人はみんないなくなるんだから。赤司はそうして、洛山高校に入学した。

2

洛山高校のバスケット部監督は白金監督という男で、最初一年生の赤司はふつうのレギュラーメンバーだった。レギュラーの部員にはのちの誠凛との決勝戦で組んだ根部谷永吉、葉山小太郎、実渕玲央がいた。彼らは全員二年生だった。赤司は親から離れて学生寮で暮らすことになったが、勝手の違う寮生活にとまどうこともあったが、すぐに慣れた。彼にとっては学業と同じ些末事だった。彼は父が自分を経済界に強い東京の受験校に進学させず、この洛山に入学させたことに感謝した。帝光でも受験校を選ぶ進学組がいたが、彼は現在の自分の身体能力の高さの方が、そういう学業の成績よりも誇れることと思った。そういったことは人生のあとからでも取り返すことができる。しかし帝光で決裂した、黒子をはじめとしたあの一軍のメンバーとの確執は、今を逃すと取り返すことができない。インターハイで優勝することが目下の目標だった。何よりも卒業間近で退部届を提出した黒子の自分への反撃が、彼には許せなかった。彼は赤司の影でなければならなかった。せっかく目をかけてやったのに。赤司は黒子はもうバスケ部には入らないだろうと思っていたが、空白期間は四月の最初だけで、すぐに風の噂で誠凛のバスケ部に入った話を耳にした。噂を流したのは、東京にいる黄瀬からのメールだった。「黒子っちまたバスケ部に入ったよ。俺たち当たるかもね。」と書かれていた。赤司は黒子のはじくパスの受けやすさを思い出して、それが他のやつに使われるのかと思った。しかしすぐに忘れた。メンバーは試合ごとに交代するし、違う高校だからどうにもできない。自分に黒子の代わりの人間を探すことの方が先決だった。

元バスケ部員の三年生の黛千尋を見つけたのは偶然だった。ライトノベルばかり何十冊も図書館で借りていて、影が薄い学生だった。赤司もそういう本を手にとったことはあるが、目がすべると思い、一読して読まなかった。彼が注目したのは、そういうおよそ同じようなあらすじの本を何十冊も読めるというある種の忍耐力と、その従属性である。隷従性と言ってもよかった。黛に声をかけると、勧誘と思い嫌そうな顔をしたが、シュートを確実に決めなくてもいいという話をすると怪訝そうな顔をし、赤司に根負けしてついには再入部を承諾した。パスカットだけでいいって?赤司はその理由を黛には言わなかった。そのころには赤司は監督から主将につくように言い渡されていた。毎日遅くまで体育館で自主トレに励み、実際それで二年のメンバーを練習で黙らせたこと、またリーグ優勝した帝光出身などが理由にあげられるだろうが、実のところ赤司が監督の薦める本などを熱心に読んで進言していたことによる。プロの有名選手によるその著作物には「ゾーン理論」という独自の精神論が書かれており、その当時のスポーツ理論のひとつだった。赤司は単なる禅の理論に基づいた日本古来の精神論をカタカナ言葉に置き換えただけだと思ったが、監督の言うところの「ゾーンに入る」ということを自分でも自覚しようと思った。それは赤司の分身である「彼」が心の中に出現するときと似通っていると思った。「彼」はゾーンの扉の前にいると書かれている、重い扉の門番だと思った。そこにたどり着くのはとても苦しい。何十回も正確な手元を見ないドリブルをこなし、ハーフゾーン以外からのシュートを正確に決める努力をしなければならない。赤司は自分の身長が根部谷などの巨漢に比べると差異が大きかったことから、敏捷性で勝負するしかないと思った。そういうメニューをこなして、夜遅く寮に戻ってくると、自分には余裕がまったくないなと彼は苦笑した。帝光時代のことはだんだん遠くなってきていた。あの思い出を黒く塗りつぶしたい。そう思っていたのに、その思い出はだんだん輪郭のない箱のようになってきていた。それだけ彼のいる京都は東京からは遠かった。そういう赤司自身の変化に呼応していたかのような出来事が、その夏にはあった。

インターハイで洛山は順調に決勝戦にまで勝ち進んだのだが、彼が帝光で仲間たちの前で言った、「次は敵としてやりあおう」と誓ったメンバーたちに、その試合で当たることはなかったのである。黒子の入ったらしい誠凛は予選落ちだったし、決勝戦で当たった桐皇には青峰の姿はなかった。海常の黄瀬とやりあった準々決勝でのプレーでひじを痛め、故障のため決勝戦では欠場したのである。赤司は主将としてヒーローインタヴューを受けたが、「青峰くんが出ていたら結果はもっと違っていたのかも?」という質問に対して、「それでは面白くも何ともありません。」と答えた。要するに赤司自身が青峰の欠場が面白くない、という意味で言った話だったのだが、テレビを見ていた桃井には違って受け取られたようだ。彼には勝つことが当たり前になっている、と彼女は誠凛の連中を訪ねたとき黒子に言った。それらは赤司にはあずかり知らぬことであった。当たり前という風に見える影で、彼は努力していた。次の秋の国体のあとの冬のウィンターカップが正念場だった。残りの夏も彼は東京には帰省せずに、京都で練習のために過ごした。父のいる東京の豪邸には帰りたくなかった。父が「おまえが勝つのは当たり前だ」といつも夕食時に言っていたことも、反発の理由のひとつだった。このインターハイでの優勝も、父にとってはそういうことになるに違いなかった。父の住む世界の経済界では、バスケットボールは児戯に等しいのだ。自分もいずれはそういう大人になると考えることは、赤司にとってはたまらないことだった。そうしてその年の夏は暮れようとしていた。

3

ちょうどそのころ赤司はまた黄瀬からのメールで変な話を耳にした。洛山の一年の部員に「エンペラー・アイ」なるものの使い手がいるという話があるというのだった。「それって赤司っちのことかな。赤司っちの目つきちょい怖いっち。インターハイでなんかあったっち?」と黄瀬のメールには書かれていた。なんだそれは、と赤司は思ったが、帝光時代の名家の出自と噂されたときのことを思い出し、自分の知らないところでまた噂を立てられていると思った。何より一年生の身の上で主将に抜擢されたのだから、何か言われても当然だった。目か、と赤司は思った。黒子に一度影に徹するためにはどうすればいいか、それは人間の動態視野を計算に入れて動けという話をしたことがあった。自分もそれは計算に入れて動くようにしている。だが目が変だと言われれば、例えばノールック・パスを出したときになにか自分は変だったのだろうか。そういえば「どけ」と強く念じたときに、相手がスクリーンをやめたような気がしたようなことがあった。あれはしかし自分の気のせいだと思う。ただ・・・・最近、あの「ゾーン理論」を読んだころから、以前はあれこれと話しかけてきた「彼」があの本にある重い扉の門番のように、沈黙するようになった気がする。それは確かに不気味だった。自分は確かに「彼」はそういった者であるだろうと思った。またシュレディンガーの猫の話にあるように、その存在がはっきりとつかめない者だと思っていた。だがなぜ「彼」は自分に話しかけるのをやめたのだろうか。そしてそれは、「エンペラー・アイ」なる噂話と無関係ではないのではないか。黄瀬のメールには続きがあった。「エンペラー・アイって『帝王の眼』って意味っしょ。赤司っちはよく知らないけど、洛山では帝光出の数少ないメンバーじゃない?帝光だから帝王。いい意味だといいけどね。」赤司は暗い寮の部屋の中で、ぴっ、とスマホのスイッチを切った。頭の動く彼は、すぐに「ぺらい」という二重の意味に思い至った。誰かがそう自分を悪意を持って呼んでいる。自分が箱の中にいる御曹司だということは、すでに中学時代に思い焦っていたことだった。ぺらい中身がない箱だってことか。いいだろう、そう言えばいい。赤司はそのことは胸の奥にしまうことにした。しばらくは平穏な日が続いた。転機はあの大文字焼きの日だった。

「しばらくぶりに会わねぇ?俺京都に観光に行くからさ。赤司っちの顔見たいから。」と黄瀬からまたメールが届いた。赤司と違ってのんきそうな黄瀬だった。承諾したのは、インターハイで会うことのなかった皆の様子を知りたいがためだった。京都駅の改札口で待ち合わせて、指定時間に黄瀬以外のやつたちがいたのを見たとき、赤司はだから驚いた。改札から出てきたのは黄瀬と青峰、緑間と桃井だった。「黄瀬くんがね、大文字見に行かないかって言ったのよね。」と桃井は言った。「人多いのによ、こんなん隅田川の花火で十分じゃねぇか。」、と青峰が言った。あ、気にしないで、私たちが黄瀬くんに頼んだの。赤司くんの時間は取らせないから。とりあえず喫茶店に入りましょ。桃井は卒業式の時とは違っていた。というか、あの時のことを忘れていた。そうとしか赤司には思えなかった。新幹線の中でたそがれたことは、無為な時間だったように思えた。またそんな桃井のために意地を張り、紫原とのことを消し去りたいと思ったことも、滑稽なことのように思えてきた。しかし赤司は顔には出さなかった。父との夕食会で、そのような訓練には長けていたのである。そう、じゃそこの店にでも、と赤司はごくふつうの調子で言った。

4

一行が入ったのは、観光客でごったがえす駅ビルの南側にあるファミレスとスタバの中間のような店だった。地方によくある、スタバに似たような形式の店である。そこで皆アイスのものを頼むと、開口一番黄瀬が言った。

「このメンバーは中学一年の時の一軍のメンツっすね。覚えてない?」

赤司はああ、と思った。ほとんど忘れていたことだった。

「黄瀬は違ったろ。」と青峰は言った。

「そうそ、俺ぬきでね。」と黄瀬は答えたあと、「まあなんつうか古株同士?情報交換ってことで。」と言った。

赤司は少し身構えた。黄瀬があの噂話の「エンペラー・アイ」の話をするかと思った。先回りするつもりで、彼は青峰に声をかけた。

「故障はもういいのかな?」

青峰は、あ、という顔をしたが答えた。

「ああ、決勝戦で当たれなかったのは悪かったよ。ひじは戻ってきている。」

「そう。ならよかった。」

桃井はちょっと不安そうな顔をした。しかし青峰が話をし出した。

「俺は桐皇ではまあまあやってるけどよ、中学んとき一時やめたことあったろ。目の前に壁みたいなもんがあるような気がして・・・そんで今のバスケ部でさ、監督が読めと言った本があんだよ。ゾーン理論?まあ精神論なんだけどよ。ただその本で俺の壁になるやつは俺だけだって中学で思ったこと?それと似てるような気がしてよ。少しは気が晴れたかな。まあ限界論みたいなもんだけどよ。」

と、青峰は言って赤司に言った。

「おまえもあの本読んでんだろ。黄瀬にメールで『ゾーンに入れるように努力している』とか書いてたんだろ?自分でゾーンに入れたと思ったことはあんの?」

赤司は答えた。

「まあ、速攻の時は限界点を超えるぐらいの努力はしているつもりだよ。」

「ふーん。」

青峰は赤司の答えに、やや鼻白んだようだった。緑間は言った。

「ゾーンなんて実際には架空の理論だね。ただの限界値越えをゾーンと仮定しているだけなのだよ。そんなものは個人個人の感覚だから、あると仮定するのも馬鹿げている。」

と言ってから、緑間は鼻眼鏡の仕草をすると、言った。

「昔の外国映画で『ストーカー』という作品に、SF設定でゾーンという謎の空白地帯が出てくるんだが、結局探査に行っても何ひとつ確実な情報はつかめず、すべては徒労に終わるという長い映画があるのだ。僕に言わせればそのゾーンなる概念はそういったたぐいのものだね。今はただ目新しいから、もてはやされているだけだよ。そのネーミングもその映画に寄ったものかも知れないのだよ。」

緑間の映画の話は赤司にも聞き覚えがあった。しかしそういう具合につなげて彼は考えたことはなかった。赤司は言った。

「たとえ机上の空論でも、精神修養には役に立つよ。禅でもなんでも、そうしたものだからね。」

青峰は答えた。

「俺は今の話はちょっと嫌だな。緑間はあんま自分のバスケに悩んでいないんじゃねぇのか。」

緑間は青峰に言った。

「ふつうに限界を超えられたという言い方をすればいいのだ。大げさなのだよ。」

桃井がやりとりを取りなすように言った。

「あ、あの、ちょっと話が固いね?今夜の大文字はどこからだとよく見えるのかな?赤司くん知ってる?」

赤司は答えた。

「市内からだと、どこも人が多くて予約していないと無理だね。そういうところを。」

「あ、そうなんだ・・・・。」

桃井は赤司の言葉に黙り込んだ。少し冷たかったかなと赤司は思ったが、なぜ彼女が青峰たちについて来たのか、理由がわからずそっけない態度になった。赤司は言った。

「黄瀬たちはさ、京都にはいつまでいるの?」

「明日には帰るわ。どうしても京都に来たいって言ったから。」

「おまえが?」

「うん、俺だね。大文字だけ見て帰る。」

「なんだよそれ。」

「別にいいじゃん。暇だったし、モデルのバイト代で金入ってたし。」

赤司は釈然としない黄瀬の態度に、なんとなく腹が立った。黄瀬は最初からどこか他人事の態度でいた。黄瀬は冷やかすように言った。

「しかし桃井サン、ご両親よく京都に行くの許してくれたね?寛大な親っスよ。紅一点で。」

桃井はあわてたように言った。

「お母さんが青峰くんがいるならいいって言って。幼稚園の時からの保護者なんだよ。」

青峰は言った。

「腐れ縁ってやつだな。こいつ一人だとチケットもなんにも取れやしねぇ。」

「うるさぁい。別にいいじゃない。そのうち一人でも行けますよぅ。」

桃井はかわいくふくれた。青峰はにやにやしながら言った。

「なんでもお母さんお母さんじゃねぇのか?幼稚園児引率している気分だぜ。」

「言い過ぎじゃない?」

「言い過ぎじゃねぇよ。なあ赤司?」

赤司は急に話を振られて焦った。仲がよさそうな二人のやりとりに気押されていた。赤司はごく当たり前のことを口にした。

「そうだね。少し桃井さんがかわいそうかも。」

「ほらぁ、やっぱりぃ。赤司くんだって、お母さんに旅行のことは相談するわよね?」

 赤司はその瞬間、息が詰まりそうな気持ちがした。彼は早口に答えた。

「母親は、いないんだ。僕が小学生の時に死んだから。」

桃井はしまったという顔つきになった。「あ、ごめんなさい・・・。」と彼女は小声で赤司に謝った。しかし赤司の胸のつかえは取れなかった。赤司は言った。

「桃井さんが謝ることじゃないよ。」

その後のことは赤司はよく覚えていない。たぶんみんなで大文字の送り火は見たのだ。送り火の切れ端を人混みの中で。宿泊先のホテルに行くという一行と別れて、寮に戻ったときは、赤司は精神的な疲労を感じていた。楽しい同窓会のはずだった。そうではなかった。なぜこんなに心が苦しいんだろう。赤司はドサ、と寮のベッドに体を投げ出した。それはバスケットで体が苦しいときのものとは違っていた。

昔とは違う桃井さん。明るい、青峰と笑って楽しそうに話している桃井さん。馬鹿だな、俺は・・・。そう思った。彼女は僕を見ていない。でも僕は、あの彼女が見ていないところでなんにでも勝たないといけない。今までだってそうだった。僕のお母さんももう何年も僕のことを見ていない。今までもそんな状態だったんだ。それに桃井さんが加わることは、別にたいしたことじゃない。赤司の目の前で四角いデジタル時計がチカチカと光っていた。彼はきついまなざしでそれを力一杯にらんだ。僕の時間と桃井さんの時間は違う。それは今にはじまったことじゃない・・・。自然と涙が湧いてきた。

僕はこんなにもくやしいのに。もうあいつも僕のことを見放したんだな・・・・。赤司は涙を振り払うように、暗がりで猫のように体を丸めた。「彼」は母が死んだあとのように、やはり慰めに出て来てはくれなかった。もう僕の飼っている箱の中にはいないんだ。昔父に隠れて飼っていて死んでしまったカブトムシみたいに。生きているか死んでいるかわからない箱の中の猫、それは僕自身のことだ。赤司はそう思った。

だからやがて意識を手放して静かな寝息を立てはじめたころ、暗闇に何かの気配が立ち上ってくるのを、彼は少しも気づかなかった。

5

ウィンターカップが始まった。試合開始の当日、赤司は帝光時代の「キセキの世代」のメンバーを試合のあった体育館前に呼び出したりしたが、特に何かをしたかったわけではない。純粋に皆の顔を見たかった、ただそれだけだったが、このころになると赤司は自分自身に殻がついたような感じになってきていた。試合に勝つことはすでに目標ではなくて、絶対服従のことだった。何か大きな者に命令されているように感じていた。だから、その時も自分のしたことであとで驚いた。その時緑間の持っていたハサミで、誠凛の火神の頬を切ろうとしたのだった。緑間のいる秀徳とは準決勝で当たること、誠凛も四強に入っていることはもちろん脳裏の中にあった。その上での行動である。自分でも予測できない行動に突き動かされている感じだった。自分の中に何者かが入り込んできている。それは「彼」ではないだろう。赤司はそう思った。インターハイの時が頂点で、いよいよ自分はだめになってきているようだ。それを気取られない風にするために、赤司は自分の髪の毛を切り詰めるという異常行動を皆の前でしてみせた。黒子など、あっけにとられた顔で自分を見ていたのを覚えている。君はそうやって自分自身を刈りこんでいくといいよ。「彼」の言った言葉が残酷に頭の中で残響した。緑間の秀徳とは第一セットで当たることになった。試合で礼をしたとき、赤司は中学時代、緑間と将棋を指したときのことを思い出した。「オレは敗北を知らない」、とその時赤司は言った。紫原とワンオンワンでやりあった後の、卒業間近のことだった。そのセリフを言ったのはもちろん「彼」だったし、「彼」がいつものごとく「オレ=赤司」に励ましの警句を吐いたのに過ぎない。だが緑間は不快感をあらわにし、「なんだそれはイヤミか?」と言った。赤司は「すまない。ただ今ふと思っただけだ。」と謝り、言い訳をした。その時のことをなぜ今思い出すのか。しかしそれは緑間も同じだったらしい。礼をした後、「将棋とバスケは違うのだよ」と言った緑間に、赤司は言った。「すべてに勝つ僕は、すべて正しい」と。「彼」に戻ってきてほしいと思う気持ちと、何かに操られている状態が、すでに赤司の中では混在していた。その混濁した精神状態の中で、秀徳との試合は始まった。

ゲーム開始の第一クォーターではまだ両者は互角であった。赤司もまだ緑間のマークについていなかったし、緑間も持ち前の高度なシュート技術で徹底して攻めていなかった。開始直後のロングシュートが入ったとき、緑間が赤司に「すべてに勝つ僕はすべて正しいだと?笑わせるな。勝ったことしかないような奴が知ったような口をきくなよ。約束通り俺がお前に教えてやる。敗北を。」と言うと、赤司は少し笑った。凍り付いたような張り付いた微笑みだった。僕が勝ったことしかないだって?こいつには何にもわかっていない。僕はいつだってぎりぎりなんだよ。なんだってそんなことを言うんだよ?緑間はその瞬間赤司にぞっとしたものを感じた。緑間が嫌な気配を感じた次の瞬間、赤司は高尾のマークを抜いた。おそるべき敏捷性だった。その赤司からのパスを受けた根武谷が素早くシュートを決めた。そこで第一クォーターは終了した。カウンターがあんなに早いとは思ってもみなかった。緑間は京都で会ったときの赤司の、「速攻の時には限界点を超えるぐらいに努力はしているつもりだよ」というセリフを思い出した。噂の通りだった。 だがまだ攻めようがあるはずだと思った。

第二クォーターでもまだ赤司は有効パスを出すだけで、攻めるのはドリブルが得意な葉山だった。緑間は葉山の速攻をなんとか止めてシュートを決めたが、すれ違いざまに実渕から「アナタ以外の選手は足手まといね」と言われた。緑間はかっとなり、「このチームで足手まといなど俺は知らない」と言い返したが、その時冷静さを欠き始めていたのかもしれない。実際得点していたのは緑間だけだった。様子見だった赤司が、緑間のマークにつくと言い出した。すでに緑間のシュート攻撃で同点膠着状態だったので、何人か緑間につけるべきだという作戦タイム時に、赤司が「僕一人でやろう」と言い出したのだった。監督指示も主将の赤司に従えということだったので、それで第三クォーターは行くことになった。

後半戦最初、緑間と赤司は対峙することになった。緑間は180越えの身長がある。赤司は173しかなく、この身長差で抜くことは可能なのか。緑間がノーフェイクで得意の3Pロングシュートの態勢に入ろうとしたその時、赤司の挙手がひらめいた。シュートに入る直前の姿勢からの目視できうるぎりぎりの、目にも留まらない速さのカットだった。観客席でスナック菓子を食べながら見ていた紫原は、あれが噂の「エンペラー・アイ」かと思った。要するに動態視野で動きを予測して目線を送るのと同じ理屈だ。赤司には緑間のシューテイングのタイミングが「見えて」いたのだ。しかしそれを予知能力かの如く尾ひれをつけて噂されている。ミドチン、ちょっとやばいかもね。紫原は赤司にワンオンワンで追い上げられたときのことを思い出していた。反応が速すぎる。緑間のサポートに出た高尾は赤司のカウンターに追いすがった。「抜かすかよ!」高尾は叫んだ。猛攻中の赤司は言った。「キミがどくんだ。」このようなセリフは、心理戦ではありえることだった。しかし次に赤司が言ったセリフには、高尾は我が耳を疑った。「見降ろすことは許さない。頭(ず)が高いぞ。」赤司は気押された高尾の目の前で、ロングシュートを入れた。なんだ、こいつの今の変なセリフは?時代劇か?と高尾は思った。そして、なんで自分は脱力しているんだ?それは赤司が幼少時に「バスケットをするのは許さない」と言われて、父に厳しく折檻されたときに、父からどなられたセリフであった。すでに赤司の精神は暴走し、その時そういった荒野を彷徨し始めていたのである。

 

6

第四クォーターが始まった。点差はいつの間にか秀徳は14点のビハインドになっていた。それも赤司の緑間へのほぼ完璧なマークのせいである。「ぐっ。」緑間は追い詰められていた。ボールを持つことすらできないのか。緑間のトリプルスレッドを赤司は次々と抜いた。「調子に乗んなよ、一年坊主!」秀徳の選手たちが速攻中の赤司に対して盾になろうと詰め寄ったが、「・・・・どいてもらおうか。僕の命令は絶対だ。」という赤司のセリフの前に次々と倒れた。アンクルブレイク?しかし彼らにドリブル中の赤司に足をかけられたという意識はなかった。何かがおかしい。観客席がざわめき出していた。青峰と試合を見ていた桃井は、何が起こっているか見届けようとした。京都で会ったときの赤司くんとは違う。たぶん、違う。それが自分が関係しているとは桃井は夢にも思わなかった。青峰は言った。

「エンペラー・アイ?いや、ゾーンに入ったということか。」

「ゾーン?」

「ゾーンはな、強力な自己催眠能力に似ているからな。」

桃井は青峰の言葉に沈黙した。赤司くんが赤司くんでなくなってきているということ?青峰は言った。

「ゾーンに入ると肉体的にも精神的にも消耗が激しい。いつまでもつかな。」

「・・・・・・。」

「まああと9秒だ。この20点差のまま終わりだろう。」

緑間は高尾に目配せした。とっておきを見せてやる。このチームに人事を尽くしていない者などいない・・・・!赤司の前で、緑間はボールがないのに3Pのシュート態勢に入った。赤司は少し躊躇したようだった。彼としては珍しく緑間の意図が見抜けなかったらしい。緑間はそのまま、高尾から来たパスを受け流してシュートを放った。バレーのトスレシーブの要領だった。観客席で見ていた黄瀬は思った。こんな命中精度の落ちるシュート攻撃をしなければならない緑間は、相当追い詰められていると。だが緑間はその精度の落ちるシュートを2本連続で決めた。点差は一気に縮まった。緑間は赤司に言った。「秀徳はまだ死んでいない。勝負はこれからだ。」赤司は言った。「想定以上だよ、真太郎。そうでなくては面白くない。」

緑間は必死だった。続く赤司の速攻を止めようとしたが、先ほどの選手たちのように足が滑るのを感じた。こいつはいったい何をしているんだ?シュートインの瞬間も赤司を邪魔できたと思ったのに、赤司はパスに瞬時に切り替えて根武谷にボールを送った。おそろしく状況判断が速い。高尾はその時絶望的に感じた。だが根武谷の攻撃を大坪が阻止し、高尾にパスが流れ、また緑間に3P攻撃を送れることになった。3本連続で緑間のシュートが入った。これでは洛山の勝ち越しにはならないか?というムードが流れたとき、赤司が意外すぎる行動をとった。自失点の自ゴールにインしたのである。すぐさまタイムアウトが取られた。

「なにやってんだ赤司?」

根武谷がどなった。赤司はどこか宙を見据えたような顔つきで言った。

「僕がいつ気を抜いていいと言った。もっと僅差であればこんなブザマさを演じることはなかった。ならば差などなくしてしまった方がいい。」

根武谷は赤司のユニフォームの首をつかみ叫んだ。

「なんだと!」

横から実渕が仲裁に入った。

「ごめんなさいね、うるさいのは苦手なの。ちょっと静かにしてもらえないかしら。征ちゃんがこう言うのもわかるから。」

赤司は言った。

「もし負けたら僕の今のゴールミスからだ。全責任を取って速やかに退部する。おまえたちがいて負けるはずはない。」

そこで赤司は手を宙空に差し出してこう言った。

「負けたときは、故事のオイディプス王の話にあるように、罪の証としておまえたちに、僕の両の眼をくりぬいて差し出そう・・・・。」

根武谷は顔をしかめた。

「は?オイディプス?なんだって?」

実渕が根武谷の肩をポンとたたいた。

「罪を償うって言ってるんだから、この子はね。ギリシャ神話ぐらい読みなさいよ。」

と、実渕は軽くいなしたが、それにしてもこの赤司くんは目がいっちゃってるわねぇ、と思った。父を殺し母と姦通したギリシャの王の名前を突然出した赤司の気持ちは、赤司の家庭事情を知らない実渕にはまったくわからなかった。そして葉山がわけもわからずに言った。

「何言ってんだよ赤司!そこまでする必要はねぇよ!」

葉山は赤司の言葉を言葉通りの意味に受け取ったらしい。ともあれ赤司の行動で、洛山の選手たちのムードがまた変わった。彼らは一年生の赤司を盛り立てて今まで結束していたのである。この作戦タイムはその意味で有効だった。タイムアウトが終わり、戻ってきた緑間に赤司は宣言した。

「宣言しよう。おまえはもうボールに触れることすらできない。」

緑間の龍眉がつりあがった。

「なん・・・だと?」

緑間は言った。

「不可能なのだよ赤司。おまえの高さでは、俺たちのシュートは止められない・・・!」

赤司は言った。

「僕の眼がエンペラー・アイだと言うのなら、僕には未来が見えているはずだと思うのだろう?違う。僕には見えていない。だが君の行動は予測できる。僕にはエンペラー・アイなど必要ない。予測は推理だからね。」

そう言うと、赤司は重ねて言った。

「人間の行動には絶対はずれることのできない法則がある。特にバスケットのような試合にはね。絶対にある。絶対は僕だ。」

緑間は赤司のこちらを見つめて動かない眼に押された。インターハイのころから言われていた、自分に対するエンペラー・アイについての噂話の内実は、すでに赤司の耳に入っているのだろう。それを覆そうとする赤司の気持ちはわからないではなかった。しかし緑間にとってこれはあまりにも不愉快なセリフだった。緑間は言った。

「その法則が、これから先俺がボールに触れないことだと言うのか?」

「そうだ。」

緑間は無言になった。

再開したゲームでは、高尾にダブルチームがついた。当然の事態だった。「なめんじゃねー!」高尾は二人の追撃をかわした。緑間はシュートの態勢に入っている。しかし高尾がパスを出した瞬間、いなかったはずの赤司の姿がそこにあった。後方右手にいたはずだ。高尾はしまったと思った。追いつけるはずがなかったのになんでいるんだ?前半戦の赤司のコースの速さから推測していたはずだった。パスカットされ、見ている間に赤司がまた得点した。緑間は打ちのめされていた。高尾のパスコースを予測していたのだった。また、ダブルチームで左手にしかパスが出せないことも読んでいた。前半戦のあの動きすらも、あいつの全力ではなかった、すべては計算されていたことだったというのか?

その後の試合運びは特筆するものは特にない。ほぼ一方的な洛山からの攻撃で、点差は開くばかりでやがてゲームアップとなった。86対70で負けた。緑間は敗北をかみしめて、整列時に赤司に右手を差し出した。しかし赤司は握手を拒んだ。赤司は一言言った。「勝利を欲するなら、もっと非情になれ」、と。その真意は緑間の知るところではなかった。それもまた、赤司の父の昔日の言葉だったのかもしれなかった。決勝戦に進んだ洛山の選手たちは、派手に喜ぶ風でもなく粛々としていた。前年度も前々年度もリーグ優勝を果たしたその実績を崩すことなく、勝って当たり前と思われていることを、彼らもよく承知しているのだろうと、誠凛の火神は見ていて思った。赤司らはそのあとの誠凛海常戦を観戦していたが、特に騒ぐこともなく試合結果が誠凛が勝ち上がったことで、明日の決勝戦の相手は誠凛だなと言い宿泊先に戻った。

赤司は宿泊先の暗い窓ガラスに映る自分の姿を眺めながら、今日の試合内容を反芻していた。「彼」が無言で何かを助けている。自分と「彼」の領域の境界点を左右に激しく揺れながらゲームをしていたような感覚だった。普段の自分なら絶対に言わないだろうセリフも吐いた。オイディプス王の話は幼いころ本で読んだ。母親を汚すようなことをした王だと思った。その末路が杖をついて盲目で荒野を歩くというのも、彼の心に暗い影を落とした。自分は決してそうなってはならない。「眠れ、歴戦の勇者よ・・・・。」と赤司は目を閉じて低くつぶやいた。RPGによくあるような呪文を試しに唱えてみた。今すぐに貴様はぐっすり寝ろ。やはり中学の時横にいた「彼」は今後は必要ないと思った。少なくともあんなことを口走る自分は肯定できるものではなかった。「彼」が自分の行く先々で何かを助けてくれるとしても、それは自分にとっては余計なおせっかいだった。「彼」のしてくれることは、自分の自力ではないのだ。赤司は目を見開くと、虚空に向かってまなじりをつりあげた。秀徳との試合開始の時、「彼」にいてほしいなどと一瞬でも願うのではなかった。あの一言が余計だった。あんなやつだとは思わなかった。赤司は自分の斜め上に今存在しているらしい、「彼」の存在を呪った。それは試合中の赤司にまとわりつく、粘液質の何かの物質だった。明日の試合ではあの黒子と当たる。平常心でいる自分であれと彼は強く念じた。

7

桃井は決勝戦の前日の夕方、試合会場の体育館近くのDPE屋に入った。スマホを渡して、店主に言った。

「すみません、この写真、8枚ほど現像してもらえます?」

「今いるの?」

「はい、そうです。できればすぐに。」

「20分ほど時間はかかるよ。」

待っている間、桃井はネットで打ち出した各選手のデータをもう一度見た。誠凛の黒子に頼まれていたわけではなかった。彼女は今日の秀徳洛山戦を見て、その作業を続けていたのだった。その試合では目立たなかった一人の選手。黛という選手が彼女は気になった。ほとんど赤司の活躍の影に隠れていて、彼の存在はゲーム中では誰にも忘れ去られていた。なぜそんな選手があの試合に必要だったのだろうか?洛山には無冠の五将と呼ばれる選手が三人入っていて、それは試合中に赤司を盛り立てていた。彼らとは違うこの選手の存在は、黒子くんに似ている。彼女はそう思った。今の赤司くんの精神的な支えになっているのだろうか。「母親はいないんだ。僕が小学生の時に、死んだから。」ささいな赤司の一言が、桃井の胸に響いた。京都にいる赤司に会いたいと願ったのは桃井からだった。黄瀬に相談すると、考えてみてもいいと言われ、彼がメールを送ってくれたのである。中学の卒業式の時は身もつくろわず泣いてしまった。今はあの時よりも大人になっていると思った。でも、赤司くんにはそうではなかったんだ。あの時傷つけてしまった。だからせめて、これぐらいはしてあげたい。今の赤司くんには迷惑かもしれない。でも、あの時「やさしくない赤司くんは嫌いだ」と言ったことは取り消したい。京都で会ったときの彼は自分に優しかったと思う。もう手遅れなのだろうか。さっきの試合を見ていて桃井は思った。その時DPE屋の全面ガラス窓の上に白いものがちらちらと見えだした。「あ、雪。」桃井は口に出して言った。そして赤司もこの雪を見ているのだろうかと思った。

 

決勝戦が始まった。誠凛は最初は火神、日向、水戸部と伊月、故障が治った木吉のメンバーであった。第一クォーター前半、火神はいきなりの先制攻撃に出た。彼は3本立て続けにシュートインを決めた。ゾーン入りか?見事なメテオジャム、先制点を取った誠凛は湧いた。「しかしゾーンに入ったとしたら、満タンの風呂の栓を抜いたときのように減りが激しいぞ。」観客席で見ていた青峰は桃井にそう言った。「ゾーンは長時間は持たないからな。はじめからトバして大丈夫かあいつ。」赤司は葉山の代わりに火神のマークにつくと言い、次の火神の攻撃の時スクリーンに立った。両者にらみあった後、火神は一瞬で赤司を抜いた。そのまま火神は一気にメテオジャムに入ったが、今度はうまくインができなかった。ボールの軌道コースがふくらんで外れたのである。赤司がマークのポイントで火神の跳躍時の踏み込みを一歩ずらしたせいだった。それもまた、一種の偶然の賜物であり、赤司もぎりぎりのラインで戦っていた。高くジャンプしてからのロングシュートで、ゴール上の空間の針の孔を通すようなダンクシュートがメテオジャムの特性であり、その不確実性に賭けたのだった。緑間との試合で言った、「人間の行動は予測できる」というあの眼からであった。「雑念が入ったな、火神のやつ絶調から一気に反動で絶不調もありえるぜ。」と青峰は言った。桃井は無言だった。ただの絶不調の話ならいいと思った。赤司は思った。こいつはたぶん今ゾーンに入ってる。ゾーンを解くには心理攻撃しかない。その集中を途切れさせることだ。赤司はドリブルで敵領域への侵入(ペネトレイト)を果たしたとき、火神に言った。「本物とフェイク。比べられることすら不愉快だ。頭が高いぞ。」火神が一瞬動揺したようだった。火神もエンペラー・アイに開眼したという噂話を、黄瀬との海常戦の観戦で彼は耳にしていた。これでゾーンが途切れたか?赤司は我ながらこすい手だと思った。秀徳との試合では、「彼」の憑依状態で口にした言葉だった。やつがまたまとわりついてくるか?その赤司の考えの隙をついて伊月が赤司のボールにトスした。イーグル・スピア、しかし一瞬前に赤司はパスを出していた。パスは実渕に渡り、木吉が阻止しようとした。実渕は木吉をよけてダブルクラッチでインしようとしたが、あやういところで水戸部がはじいて得点にはならなかった。「おっしゃ。」火神はゾーンが解けた自分を感じたが、仲間のプレーでなんとかなりそうだと思った。青峰は言った。「ゾーンがニュートラルに解けたな。これなら大丈夫だ。」赤司は少しツメが甘かったなと思った。それにしても黒子はまだ温存中か。その後も誠凛が6点のリードで、この流れを止めたくないと思った監督のリコは、水戸部と黒子の選手交代を告げた。黒子はコートに立ったが、その時実渕が「ごめんなさいね。」と黒子をわざとよけた。それを赤司は目に留めた。やはり黒子の影の薄さがなくなっている・・・・。その時、葉山が赤司に言った。「もう一度火神のマークをさせてくれよ。あんなにバコバコに抜かれて、やり返さなきゃ気がすまない。」「いいだろう。」葉山は得意のドリブルで火神をあおった。その余波からか日向がシュートインに失敗し、また根武谷や葉山がゴールを決めたことで、接戦になってきた。しかし何かがおかしい。日向は思った。黒子の特技の見えないはずのパス回しが見えていて、阻止されていたのではないか?それは度重なる失点で次第に明らかになっていった。黒子は焦った。僕がいるせいでチームが負けてきている。それはもともと影の薄かった黒子にとっては、耐えられないことであった。赤司は思った。帝光時代、パスに特化させ、シュート技術を身につけさせなかったことが仇になったな。高校では仲間たちと切磋琢磨してバニシングドライブやファントムシュートができるようになった。その反動の進化の代償。もともと目立たない人間がなまじ光りだした場合、ふつうに光っているやつよりも光って見えるようになる。存在感が今のおまえにはありすぎる。それはおまえが僕に反撃したあの時から決まっていたことだ。おまえはもう幻のシックスマンじゃない。僕の影ではないんだ。誠凛は黒子を下さず、そのまま試合を続行させた。黒子は得意のバニシングドライブやファントムシュートを撃ったが、すべて起点軌道が見えているらしく、洛山の選手たちに阻止されていった。「どういうつもりか知らないけど、戦力外の選手を出し続けていて、甘いんじゃない?」と実渕は言った。しかしラスト、日向がシュートを決めて、21対21の同点スコアで第一クォーターは終了した。「俺たちが甘いんじゃなくて、そっちが甘いんじゃない?」と日向は言った。まだ軽口をたたける余裕があった。赤司くん、これではまるで・・・と桃井は思った。いつの時だったか、中学時代、赤司は「黒子くんは黙って僕の影を務めてくれているからね。」、と桃井に言ったことがあった。その黒子くんを彼は塗りつぶすつもりで・・・・。「ケッ、こういうことかよ。」と桃井の横の青峰は舌打ちした。「しかし黒子のことだから黙ってねーよな。」と彼は言った。

8

第二クォーターがスタートした。リコは黒子を下げて水戸部を再び出すことにした。他に解決策はなかった。「絶対コートに戻ります。勝つために・・・!」黒子のくやしげなセリフに、リコは無言でタオルを渡した。洛山の選手のうち全員が化け物というわけじゃない。データにあった六人目の黛という選手は、第一クォーターで一時黒子のマークに立った選手はそれほどじゃない。水戸部くんならかわせるはず、とリコは思った。赤司は休憩時間で仲間に言っていた。「第一クォーターは様子見だった。誠凛の力は十分わかった。ここから先は蹂躙するのみ。点を取ってもらう。」赤司のセリフに、五人は深くうなずいた。黛はマークしていたときの黒子を思い出していた。あれが、赤司の言っていた帝光のシックスマンか。赤司の口ぶりから、自分が帝光時代の赤司の右腕だったらしいその黒子というやつの仕事を、引き受けさせられているのは薄々気づいていた。彼ははじめて赤司に会ったとき、照れ隠しのつもりでこう切り返した。「俺は自分が大好きなんだ。」黛は黒子のように、かつての同級生との友情がらみで退部届を提出したわけではなかった。三年生になってもレギュラーになれず、練習がきついから退部していたのだった。だから言わば滅私奉公型の性格の黒子とは対極に位置する。しかし彼の場合は黒子よりも現時点では攻撃力があった。パス回しだけでないことも彼にはできた。だから彼は赤司にこう言った。「パス回しだけなんてつまらない。そこまでしてスペシャリストになってまで、試合に出たいとは思わない。出られないなら俺はそれまでだとあきらめる。自分が気持ちよくなけりゃ、バスケなんてする意味がない。」と。赤司はそれを聞いて心中笑った。こいつを黒子のように矯めることは不可能だ。これはおそらくそういう人間だ。しかしこいつをスカウトする以外に現時点では方法はない。彼は言った。「まったく同じスタイルなど求めていない。君ならテツヤを超える幻の選手になれる。」その言葉を信じて黛は今コートに立っている。現金なものだな、いきなりレギュラーに入ったが、パス回しをうまくやっているうちは、仲間も俺を認めてくれているようだ。黛はその時水戸部のマークを抜いて、パスからシュートに瞬時に切り替えてうまくゴールした。洛山の反撃で波に乗っているときだった。不意に背後から冷気のような視線を感じた。黒子が控え席からこちらをじっと見ている。俺の挙動を観察しているのか、影の特性を失った自分へのフィードバックを探すのに懸命なのだろう。俺が洛山の黒子に徹しているのが気に入らないらしいな、と黛は思った。その後リコは次々と控えの選手に交代させ、洛山を攻略しようとしたが、追いつかれて点差が開きだした。一年生の降旗、福田と出したが点差の開きはさらに広がった。青峰は言った。「ライオンの前には無理だな。」赤司までアリウープを決め、日向がテクニカルファウルをもらってしまい、誠凛は絶体絶命に陥った。黒子はついにリコに願い出た。「選手交代をお願いします。僕は勝ちたい・・・無理でもっ、不可能でもっ、みんなと日本一になりたい・・・・!」それはあの日の自分に向けて言った言葉だった。赤司に帝光時代に自分のバスケを全否定され、情のあるバスケは必要ないと切り捨てられたあの時の自分に。コートに立った黒子を見て赤司は思った。やはり最後はおまえが出てくるのかと。黒子があの日言った、仲間が大事だから、あるいは友達が大事だから、という人としての優しい感情は赤司にも理解はできた。しかしそれでは勝負には勝つことはできない。それを今おまえにもう一度思い知らせる必要があるな、と。勝つ事が当たり前のように思うから、そういうぬるま湯のような幼い感情に流されてもそれで唯々諾々としていられる・・・。赤司はその時そう思った。それは彼の考えている世界の真理だった。黒子は否定されなければならない間違った定理だった。

第三クォーターが始まった。黒子は最初、黛のマークに立った。「悪いけど、幻のシックスマンの名前をまだ譲るつもりはありません・・・。」黛は黒子を何度か抜いた。得点もできたが、嫌な予感がした。なぜこんな無力なまま黒子はそこにいるのか。そう思ったとき、黛を抜くカウンターを火神がやった。もともとレギュラーメンバーとしては弱い黛への視線の集中――ミスディレクションが崩れていく。見ていた緑間が言った。「わざと抜かれ続けたな。視線の上書きだ。何度も黛を視界に入れることによって、動態誘導を無効化したのだ。オーバーフロー原理のうまい作戦だな。」肉を切らせて骨を断つつもりか。しかし黒子への視線集中がはずれたせいで、誠凛は変幻自在のパス回しを復活させることができた。黒子のパスで木吉がまた得点できた。戻り調子になり、誠凛の追い上げが始まった。洛山はタイムアウトを取り、今後のことを話した。葉山たちは黛を下げる案を言った。当然の話だった。しかし赤司は「まだ役に立ってもらう。」と言った。その様はふだんの彼とは違い、やさしいものだった。なぜか黛はそれにぞっとしたものを感じた。ほとんど自分は今コートに立っている意味はない。赤司は言った。「まだおまえの力は必要だ。下げたりするものか。洛山の勝利のために期待しているよ。」「え・・・・。」黛は我が耳を疑った。こんなことを言うやつじゃなかった。何かが赤司は違ってきている。非情と篤情が紙一重のところでないまぜになったような言葉だった。それは赤司が幼い日に父からかけられた、労いの言葉をまねたものだったのかも知れない。しかし試合に戻って黛はわかった。ただパスを通すためだけに火神の視界に入っていろというのだった。やはり非情か。「五将でやるしかねーってか。」葉山は得意のドリブルでカウンターを始めた。伊月が盾になって阻止しようとした。葉山を最初は止めることは不可能だった。葉山は高速のドリブルでシュートを決めた。伊月が考えたのは、ドリブルで高速ではたくときの手の反動が固い瞬間があるということだった。そこを狙えば崩せる。ドリブルをそれでなんとか止め、リターンマッチになったとき、伊月は火神の応援で葉山を阻止することができた。「おまえが俺より賢くなくてよかったよ。」葉山に伊月は癇に障ることを言った。心理作戦、伊月のマークが続いた葉山は誤って黛にパスを出してしまった。そこを火神にスティールされ、また得点されてしまった。誠凛の上げ潮か、と赤司は思った。何を血迷っている。黒子が復活した今、黛を下げるのをなぜためらったと彼は思った。そこには彼だけのこだわりがあった。黒子をどうしても試合上でねじ伏せたいのだった。それは操縦不能になったコクピットに座っているような感覚だった。全部のランプがエマージェンシーで激しく点滅している、しかしこのまま月面にでも突っ込んでしまいたいと思った。「彼」の時間が始まりつつあった。

続く第四クォーター、最終の魔の10分間がはじまった。

 

9

第四クォーター前半、誠凛は追い上げていた。実渕らのシュート技術を次々と破られ、確実に点差は縮まってきていた。五将の働きにも陰りが見えはじめてきていて、赤司をたよる気持ちも少なくなってきていた。そんな中、赤司がふと口にした。「・・・絶対は僕だ。」「なんのこと?」と葉山は聞いた。彼は秀徳との試合のことはもう忘れ去っていた。その時赤司はフォーメーションで自陣に立っていた。特に何の前触れもない動作だった。秒数にして3秒にも満たなかっただろう。誠凛では火神が「ゾーンに入った」ことで、派手なシュートを何発か決めていた。このまま押せば勝利は目前ではないか。その時だった。「スティールだ!」誠凛の伊月たちが声をあげた。赤司がおよそ信じられない速さで近づき、火神のボールを抜いた。メテオジャムに入る直前の姿勢からだった。跳躍の瞬間?捕らえられるものか。だがそのまま赤司はカウンターに入った。馬鹿な。火神はあわてて追いすがった。なんだこの速さは?追いつくどころか離される。ボールを確保してるんだぞ?普通なら無理のはずだ。まさかこいつもゾーンに?日向たちが阻止しようとしたが、足がすくんだように動けない。赤司は言った。「跪(ひざまづ)け。」火神と黒子はゴール手前で高くジャンプして、赤司の盾になろうとした。しかしフェイクでやりすごされてしまった。「そのまま讃える姿勢で思い知れ。おまえたちの敗北は絶対だ。」赤司はそのままシュートを決めた。電光石火の技だった。その後はまた赤司のせいで洛山が盛り返してきた。黒子は言った。「いったんあきらめましょう。そして、今できることを探すんです。」火神は無言だった。自分のゾーンよりも赤司のゾーンは深い。理由はわからなかったが、明らかに集中度が違う。「わかった。おまえと俺の力で、なんとかしよう。」火神は思った。二人でならできるかもしれないと。事実赤司は単独で動いていた。青峰は赤司を見ていて言った。「ゾーンにはタイムリミットがあるからな。あいつは小柄だから、あんなに集中してはそう長くは続かない。」桃井は心配そうに赤司を眺めている。先ほどは黒子くんを彼は押しつぶそうとしていると思った。でも、今は逆だ。彼は自滅するのではないか?それは見ていて桃井には予感として感じられた。

破綻はすぐに訪れた。赤司のカウンターを止めるために立ちはだかった二人だが、連携プレーで黒子を隠して火神がボールを止めることに成功したのである。馬鹿な?僕の目の前の、いないはずの場所に黒子が・・・!赤司は瞬時の判断ミスが鈍ったのを感じた。「彼」が憑依してきているのは十分わかっていた。おかしなセリフを口走っている自分は十分すぎるほど異常だった。しかしその力で自分は潜在能力以上のゾーンの中に入れることができた。だがその代償で、自らの判断能力を手放してしまっていたのである。人間は人間以上にはなることができない。秀徳の試合で言った、はずれることのない法則に彼自身が陥っていた。痛恨のミスだった。その後は赤司は失態の連続で、五将になじられる事態にまで発展した。「なんでパス遅いんだよ。亀か?」葉山はどなった。黛は今まで黙っていたが、どうしても言いたくなり赤司の前に立って言った。「本当に同一人物かあんたは?屋上で会ったときとは別人だぜ。つーか、誰だお前?」黛の言ったことはほんのささいな一言に過ぎない。黛の言葉に赤司は身を震わせたようだった。そして言った。「僕がいったい誰だって?僕は赤司征十郎に決まっているだろう。」「そうだよ。」「僕は僕だ。僕は僕なんだ。」赤司がそう思いつめたように言うのを、彼らは黙って聞いていた。単独プレーに出た責任を取ってもらいたいのだった。赤司は素直に謝った。「すまない。自分の判断ミスだ。これからは力を合わせて行こう。」それは普段の冷徹な赤司とは違っていた。征ちゃんが謝った・・・と実渕は思った。晴天の霹靂ね、と。それは桃井が見たら、中学時代の赤司にまた戻ったと思ったことだろう。何か憑き物が落ちたかのようだった。その後、赤司は息を吹き返したが、時はすでに遅かった。いったん上り調子になった誠凛を止めることはできなかった。青峰は見ていて笑った。「火神のやつ、ゾーンの二重の扉までこじ開けたみたいだぜ。」と。それはゾーンの、というよりも仲間との信頼関係が堅固だったせいだ。緑間はそう思った。

緑間はゾーンの存在など信じていなかった。ゲームアップのバスケットカウントが宣告され盛り上がる観衆の中で、誠凛は自分ではなく黒子であったから勝てたのだな、と緑間は思った。中学時代、黒子は赤司が育てたのも同然だった。赤司は冷たいやつだったが、彼はいつでも黒子を気にかけていた。黒子は少しもそのことに気付いていなかった。皮肉なものだな、と彼は思った。赤司はこのコートでそれを黒子に教えたかったのだ。何とも思わないやつになら、そこまで必死にならない。黒子は希薄な人間関係の中に生きていて、誰とも摩擦が起きない生き方をいつも選ぶ。赤司のそれとは対極にある生き方だ。あいつは自分自身と周囲との闘いですでに満身創痍だった。それは対戦していてよくわかった。一言一言が斬りつけるようだった。緑間は何度も試合中に煮え湯を飲まされる思いをしたにもかかわらず、赤司を哀れに思った。整列したとき、黒子は赤司の目をまっすぐに見つめて自信を持って答えた。「ボクは、影だ。」それは火神の、と赤司にはすぐにわかった。赤司は思った。負けた。生まれてはじめて、どん底の負けを実感した。胸がこんなにも痛いものとはな。息をしているのもやっとなぐらいだ。だが自分が間違っているとは思えない。試合の勝敗上でいくら否定されても、あの時の俺は間違っていなかった。間違ってなどいるものか。赤司の目にうっすらと涙がにじんだ。

10

桃井は今必死で体育館裏手に向かって駆けていた。こっそり選手控室を覗いたが、すでにもぬけの空だった。帰り客の人混みに押されて、前に進めない。「通してください!」人の対流とは逆方向に向かって彼女は進んだ。裏手に大型バスなどの留まるロータリーがあるのはわかっていた。空からの雪は小雨に変わっていた。走って行くと、洛山の選手団の乗る移動バスが停留しているのが見えた。「待ってください!」彼女は大声で叫んだ。そして必死で駆け寄った。赤司らが帰りの手荷物を背に、バスに乗るところだった。桃井は息せききって赤司の前にたどり着くと、封筒を差し出した。「あの・・・・、これ・・・、受け取って赤司くん・・・・。」赤司は心底驚いた。まさか桃井が来るとは思ってもみなかった。見ていた実渕がひやかすように言った。「なになに?まさかラブレター?隅に置けないわね征ちゃんも。」桃井はあわてて言った。「違う違う。昔の写真だよ。赤司くんに持っててもらいたいと思って。部活の最後の時渡せなかったから。」「あら、そうなの?でも今渡すのねぇ~?」と、事情をよく知らない実渕は笑って言った。赤司は桃井に微笑んで言った。「ありがとう、桃井さん。元気?」桃井は大きくうなずいた。「うん、元気だよ。赤司くんも元気出してね。」「うん。」赤司はそれだけ言うとバスに乗り込んだ。バスは雨の中発車した。ロータリーを回る時、桃井が雨の中手を振っているのが見えた。赤司はその瞬間、胸が詰まった。桃井はバスから見えなくなるまで手を振ってくれた。(かあさん。)桃井の姿が、幼い日に自分が、夕日の公園でバスケットゴールの前で遊んでいるのを待っていてくれた母の姿と一瞬重なった。赤司はバスの中で封筒を開けてみた。写真が一枚入っているだけだった。帝光時代の何年かの合宿で撮られたものだった。自分と桃井は両端に分かれて映っていた。黒子は自分の隣にいた。桃井がこの写真を渡そうとした理由が彼にはわかった。中学のあの日を忘れないでおこうと思った。今ならそう思えた。

 

帰りの新幹線では夜だった。列車の窓を眺めながら、いつものように今日の試合内容をしばらく赤司は反芻していたが、やがてやめた。敗因ははっきりしていた。自分の采配ミスだった。その原因となった黛も、後ろの座席で試合の疲れで寝ていた。他の選手たちもいびきをかいて眠っていた。起きているのは赤司だけだった。ふと、彼は車窓の中にこちらをひたと見つめているふたつの小さな眼玉を見つけた。窓ガラスの中だけにそれは映りこんでいる。箱の中の猫の瞳のようだ。ホラーかな、と赤司はなげやりにぼんやりと考えた。やっぱり疲れているんだ。と、その時赤司の心の中に何者かが語りかけてきた。負けちゃったけどよかったね・・・・桃井さんはもし君が勝っていたら、その帝光時代の写真は郵送ですませちゃったかも・・・そうならなかったでしょ・・・・負けちゃってよかったね・・・・。赤司は「彼」だとすぐにわかった。消えろよ、と彼は心に強く念じた。瞳はぴりっと震えてすぐに瞼を閉じた。暗い窓の中には何もいなくなった。列車が長良川の鉄橋にさしかかったときだった。続いて畑の中の踏切を通過し、試合開始の時のホイッスルのように、列車の警笛が高く鳴り響いた。

 

完・2017年6月8日脱稿

 

笥詰めの恋

まさか私がスポーツ漫画の小説を書くとは思わなかった。大方の人もそう思っているだろう。人はなんのきっかけでどうなるかわからないものだ。たまたま「黒子のバスケ」をひょんなことから全巻セットを中古で購入してしまった。きっかけは同人がらみのいざこざからである。しかしコミックは一読して、気に入ってしまった。絵柄もすぐれているし、話の内容もいい。書いてみてもいいかもと思った。それで誰のためでもなく書くことにした。今書き終えてよかったと思っている。いつもの通り、ひとつの物語を語り終えてよかったと思っている。他人のふんどしで相撲を取るのは大好きである。いつもの通り、これはノベライズ編集もの小説に分類される作品だ。

バスケットボールのことはよくわからない。今でも細かいルールなどまったくわからない。高校の時授業でやらされた思い出はある。しかしそれも、間違って自ゴールに入れるという芸当をやらかしてしまった苦い思い出がある。赤司くんのようにわざと入れるなどできるものではない。そういう、一番嫌いな種目が持久走で絵を描くことが大好きで本の虫だった私が、さわやかなスポーツマンたちの小説を書いている。ふだんスポーツニュースなどおよそ見ないし、その年のリーグ優勝の球団名も言えない私がである。まさに何の因果でとしか言えない事態だ。しかし人生とはそうしたものだと思う。そういう2017年の現時点での私である。

話のネタを整理してみると、いくつかあらかじめ既知の仕込みがあって、今回書けそうだと思った。「シュレディンガーの猫」は昔「アインシュタイン・ロマン」というNHKの番組で見たことがあった。赤司くんの眼は猫の瞳に描かれているし、感じも猫っぽい男である。ぴったりではないかと思い使うことにした。また韓国語を学習していたときにたまたまGYAO無料で見た「ハナ・奇跡の46日間」という韓国の卓球映画で、ラストで移動バスで北朝鮮に帰る選手と涙の別れをやっていたので、あれならふだんは京都にいる赤司くんと桃井さんを最後に会わせることができそうだと思った。この映画の試合場面の真剣さは、今回書いた小説に影響を与えていると思う。とにかくどこまでリアルっぽく書けるかと思って書いたのだが、いろいろおかしな点はきっといつものようにあると思う。なお、「エンペラー・アイ」や「ゾーン」についての設定は、コミックのものから変更させてもらった。細かいセリフもコミックと同じではない。特に赤司くんのセリフはまったく違っている個所が多い。それを探す暇人はいないだろうが、よくご了承願いたい。なお私はアニメシリーズはまったく見ていない。Youtubeでコマ切れの動画は見た。しかしそれでは見たことにならないので、見ていないと言っておく。

書いていてやはり高校時代の自分を振り返ることが多かった。箱詰めというのはあの時代の雰囲気からである。タイトルに恋とつけたのは、少しロマンがほしかったからで、箱詰めの猫だとあまりにも赤司くんがかわいそうだからだ。結局「彼」は最後まで何者かわからないまま物語は閉じてしまうことになったが、これは昔読んだ「野獣の書」というアメリカSFの第一巻が好きだったからである。この作品では少年に野獣の霊が憑依していろいろと邪魔をする。言わば永井豪さんのデビルマンみたいな話である。ここも元のコミックの二重人格設定とは違えてある。とにかくいろいろと違ってしまっていて申し訳ない。ただこういう話の方が好きだったのは言うまでもない。だから書いている。

読んでいて赤司くんはこんなに女々しくないとか思う人も多いだろうし、リーグ優勝するぐらいの男なのに桃井さんに告白もできないのはおかしいと思う人も多いだろう。ベッドで丸くなっている赤司くんは高校のころの、そして今もそうである勇気の出ない私である。創作とはそうしたものだ。ただ赤司くんが身上としている教典めいた人生訓は、おそらく彼は黒子たちに負けて帰途についた新幹線の中でも変えないだろう。ドストエフスキーの「罪と罰」に出てくるラスコーリニコフも、シベリヤで老婆を殺した罪は悔いたが、おそらく彼の考えだした天才人の真理は生涯手放すことはできないだろう。男とはそうしたもの、と言えるほど知っていないのは残念だが、人間とはそういう性懲りもないものであり、そういう赤司征十郎という人間が私は好きである。

 

付記・今回はYoutubeでTOTOの「99」をよく聞きながら書いていた。自分の高校大学時代を思い出してのためである。今はこういう曲をパソコンさえあれば好きなときに聞ける。いい時代になったものである。なおこの曲はRPG風アルバムに収録されているという意味もあって、今回の小説の下地のネタでRPGがあったので聞いていました。また、童謡の「山寺の和尚さん」もよく聞いていましたね(笑)。

 付記2・最後の場面の桃井さんの封筒に写真しか入っていない理由について述べよと言われたので言いますと、桃井さんは赤司くんが決勝戦で勝った場合と負けた場合を思い浮かべて、どちらに書いていいかわからず、手紙を書かなかったのです。私の考える桃井さんは、そういう女の子なのです。

 付記3・あとがきから読む人にはネタバレになってまずいのですが、ラストシーンに出てくる踏切は現在の新幹線にはありません。70年代の頃には確か存在した踏切です。そういう個人的な思い出で書いた作品で、スタバやスマホがある空間に存在するのはおかしいかもしれませんが、出してみました。

笥詰めの恋

【完結作品】「黒子のバスケ」の赤司征十郎と桃井さつきの青春小説です。原作漫画を独自に解釈したノベライズ作品となっております。バスケの知識がまったくない状態で書いておりますので、いろいろと間違った描写が多々あると思います。各方面の方たちにはすみませんです。内容は性描写もない、全年齢向けかと思います。なお独自の解釈で、設定など原作から変えております。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • アクション
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2019-01-09

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二次創作物であり、原作に関わる一切の権利は原作権利者が所有します。

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