心地



使われていない白衣の中から出て来る私に対して、飴玉をくれる学士さんに恋をしていた。何度も何度も「すき」と告白をして、いつも笑顔で誤魔化された。抱っこをせがみ、しょうがないという顔で抱っこされる私の嬉しさを、首を掴む力強さで表現する景色はとても高く、いつもは見えない本棚に並ぶ厚い背表紙の文字が読めない記憶で埋められる。これはなんていうの、という私の質問に返される発音に込められた意味は、今も十分に理解できない。真似をしようと舌を噛みそうになり、そのことに頬っぺたから笑い声を上げる私に釣られて、学士さんもクスクスと続けた。どんな時よりも一番近くでその顔を見ることができ、小さな手で触れることができ、ナイショの話もすぐにできるその距離が幸せだった。ぱちぱちぱち、と手を叩き、わんわんわん、と歌を歌う。毎回一つ、私の知らなかった童謡の事を話す学士さんに、歌ってみてよとお願いしても、学士さんは歌ってくれず、恥ずかしそうに、申し訳なさそうに下手な理由を私に述べる。歩き始めた子供のように、何かに躓きそうになるみたいに学士さんは顔を赤くする。意地の悪い気持ちが私の中に初めて生まれたときを答えなさい、と問われるのなら、私は疑いなく、この時の事を話し出すし、所定の枠に記す。戯れ合うような問答を抱き締めて、大きくなった私は、最初の白衣の中に戻らずに、学士さんの腕を離れ、リノリウムの床をコツコツと歩く。難しそうな事典を両手に抱え、パパや学士さんみたいな呪文を唱える。電球に灯りがつくみたいに凄い事を思い付き、そして、学士さんが座る椅子の隣に座る。
パパの研究室を遠く離れた車の助手席が倒れて、ベッドの代わりを務めてくれたときに見る夢から覚めた私が、色んな事に泣いた事実を全て聞いてくれたレトリバーの縫いぐるみを丸洗いしたナニーとする喧嘩と仲直り、その日々を記した日記を紐解く度に出会える名前の間、果物のシールは得意げな顔をする。下の名前で呼ばれる学士さんは、綴られた日記の日々の隅々でナニーのことを親しく呼んでいる事実に気付く私は、無邪気な甘さを優しく撫でる。それを嫌がるであろう、あの頃の恋に鼻を近づけて、私は言葉を教える。そして時間をかけて、拙さを乗り越えるんだろう。
そうして残る寂しさに、飴玉を残して、お出掛けをする。期待に膨らむ胸を隠す。
暖かいコートに、息を白くする。

心地

心地

  • 自由詩
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-11-22

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted