花の薫り<European>
薔薇の薫り
庭園では、メリエンダ様が薔薇の薫りをかいでおられました。
白い館はどこか僕にはよそよそしくて、初夏のこのお庭にいる彼女こそが女神のように心の砦に感じるのです。どれほどか経ってもきっとこの場はいつまでも体に馴染みはしない。それを、分かっているのです。
慣れないしぐさで紅茶を注ぐ姿をメリエンダ様の妹君ポーシャ様がくすりと微笑み、僕を緊張させる。いつでもからかうまなざしで見つめてくるので、どうしたらいいのか分からずにはにかんでばかりいる毎に「初心な方ね」と見かけによらず落ち着き払った声でおっしゃる。
背筋を伸ばし、薔薇の薫りに満たされるこの場所でメリエンダ様をそっと見た。
僕が恋心を寄せる彼女は、いつまでも、いつまでもお若いままでございます。5年前のあの日から何も変わらない、いや、いいえ。その美貌は増すばかりなのですから……恐ろしくも、この身は時に奮えて感嘆のため息が漏れるのです。
鏡に映った後姿を、鏡越しに見つめていますと、それを知ってか彼女は艶やかな面持ちで振り返りネックレスをかけていた手腕を黒髪を流しながら戻しては美しい背中がゆらゆらと揺れる髪に隠れた。
このお部屋には、今しがた多くの花瓶にこの手で生けられている薔薇が咲き誇りこの心までも魅了し惑わせてくるのです。あわてて目を薔薇に戻し、心音が僕の体を駆け巡るのもそのままに丁寧に落とされた棘の薔薇を静かに生け続けるこの心を弄ぶメリエンダ様! だけれど、この指が彼女の髪に触れることさえ許されましょうか。
「クリスティナ」
「はい」
顔をあげ、まともに彼女を見た。青い瞳が僕を見つめ、そしてまっすぐと歩いてきては机に置かれた薔薇を一本手に取りいつでも魅了してくるまなざしでじっと見つめてきた。どうすれば、どうすればこの瞳は僕だけのものになりましょう。そんな罪深いことさえ考えるこの身を沈めてしまいたいのです。
彼女は薔薇を僕のベストのポケットに挿し、ふふと微笑んで部屋を出て行かれた。視線を落とし、薔薇を見つめる。自身の頬も、この色に染まっているに決まっていて……。
薔薇の浮かぶワインを傾ける夜のメリエンダ様は、ご友人ユトイレン様の膝に頬を預けうつらうつら光る瞳で横たわっておいでです。時々、布巾を腕に起立する僕の腿にユトイレン様の爪先が伸びすうっと撫でてこられる。それをメリエンダ様は放っておかれるのですから、僕は困惑気味にいるばかりでした。
「薔薇ってね……ユトイレン。わたくしの心にいつでもそむく恋多き女みたいでね」
歌えば低くなる声の彼女は高い声音で言い、僕の胸部に挿された薔薇を見つめてきた。その視線があがってきて、囚われたようになる僕はがんじがらめにされて目を綴じるほかなくなるのです。
悪戯に微笑してユトイレン様の膝に髪を流し天井を見つめてはワイングラスを回す姿は、どこか蔓薔薇の態に思えて僕は蛇になりその蔓を這ってでも近づきたくなるのです。その薔薇の顔立ちに!
いつでも、心を遊んでくるばかり……。
「クリスティナはその長い金髪をおろさないの?」
ポーシャ様が僕の髪先に突然に触れてきたので、驚いて視線が固まりました。
「あたくし達は黒髪だから、あなたの金の髪が珍しいのよ。猫みたいに細くて柔らかくて、それでよくまとまっているのね」
メリエンダ様が僕に顔を向け、ポーシャ様の横顔を鋭く見た。知ってか知らずかわざとなのかポーシャ様はヒモを解き僕の長い巻き髪を黒ベストの背に流れさせた。頬に髪がおり、恐れて横目でそろそろとメリエンダ様を見ました。恐ろしいことに、彼女は悪魔のような顔つきで口を結びその場にいらっしゃるのです。悪ふざけがすぎたとポーシャ様が笑うこともなく、髪をもてあそびながらいる……。
「!」
僕は咄嗟の事に驚き、薔薇に飛ばされたポーシャ様と彼女の頬を打ったメリエンダ様を見ました。
「ふふ……」
白い腕を棘に傷つけながらも赤い血が数本滴り、ポーシャ様は尚も笑い立ち上がると、メリエンダ様はきびすを返して去って行かれました。
僕等は薔薇苑に残されたまま、僕だけ途方に暮れたのでした。
僕等の住む使用人屋敷には数名の使用人がおり、庭師、料理長、画家、専属医、占い師、掃除婦が各部屋を借りております。
占い師のヴィダリ夫人は僕の恋煩いをいつでも笑い飛ばしてくる気丈な方で、振り子で本日も占ってくれているのですが、どうもメリエンダ様の心が分からない。神秘的な顔立ちをするヴィダリ夫人は静かに視線を上げ僕を微笑み見て、僕は口をつぐんで彼女を見ました。
「もしかしたら、近いうちにもメリエンダ様に将来の方が現れましょう。だから、心も乱れておいでなのね」
僕はどこか常のあきらめに似た承諾をもって相槌を打ち、アンティークのタロットの絵柄を見つめました。僕は女であり、そしてこの恋はメリエンダ様のお父上、大旦那様の承諾を得るはずの無い気持ち。
僕は、もともとがサーカス小屋から大旦那様に買われた道化に過ぎなかったのですから。男の子として育てられ園術を見せてきた僕は、すでに心さえもメリエンダ様に捕らえられたまま。
薔薇の庭は夕暮れを迎えております。
いつもの季節、ここは幻想の場所に変わります。まるで、夢見心地のままに訪れる宵は夢を砕く……。いつでも僕の夢を砕いていく。無情に、無残に、そして、儚くも薔薇の薫りの如く雅にも。
メリエンダ様は馬車にご乗車になり、この屋敷を去って行かれました。
薔薇の咲く時季だけ訪れるこの屋敷で、寂しさを耐えなければならない僕は、また再び大旦那様のみの使用人に戻り日々を過ごすのです。
優しい方である大旦那様は僕によくしてくれ、そして僕の時々見せる庭園でのささやかなイリュージョンに拍手をくださいます。夜の星は色味を増していくばかりで、僕の恋心さえも色づかせて恋うる。
メリエンダ様、貴女をいつか誰ぞやが見初め、そして再びこの屋敷へと訪れるのでしょう。
そのとき僕は、薔薇のように散れたのなら、良いというのに……。泉の水面にすべる花びらのごとく、甘く、甘く溶けて沈んでいけるのだから、それさえも許されるのなら。
ジャスミンの薫り
ジャスミン あの薫る白い花
宮殿 踊り子
香水 秘密
愛 ……それは、永遠とは続かない命と同じ
アルユラハンは悟る。彼女の目には情熱と共に、底に手の到底届かない愛がある。
それは中庭の水面に手を差し入れ、優雅な姿が微笑み映り、手を伸ばして美しい石を拾えることとは違うのだと。木々の葉から見上げる空に青が広がることも、星雲がきらめくことも目に入れられても、彼女の心の奥は覗けない。
踊り子はあちらが透けるヴェールを翻し、舞って見せた。しなやかな腰も、しゃらしゃらと鳴る飾りも、彼女の美貌を味方する。
「アユラハン様」
横に座る女が杯にワインを注ぎ、意地悪な横目で微笑みエジプシャン・マウ……猫の様に頬を肩に預けて踊り子を見た。
「………」
寝台は白い更紗で囲われていた。
アユラハンは瑞々しい果物を高杯に乗せ食している。時々、それは赤い果物が臓器に見えて幻覚を目を綴じ打ち消す。
「お呼びでございましょうか」
彼は顔を上げ、微笑んで踊り子を招いた。
「こちらへ来るように」
「はい」
踊り子が颯爽とやってくると、伸ばされたアユラハンの手腕が踊り子の頬に添えられた。
彼女は手から彼の目を見た。微笑んで。
風がゆるくヴェールを翻す。
香炉から立ち上るジャスミンは、秘密の愛を一時に紡いでは黄金の織物かのようにする。
その時間は宵の透明な淡紫の時間帯に白金の一番星を上品に乗せ、暮れるまで。
月が充ちる月齢であがり、どこからともなく響く祈り。二人も捧げていた。泉の心で…。
それはその時だけは続くと思わせる幻想 ……愛
メルヘスはあの美しい踊り子の来る憩いの場へ来た。
台に香水が置かれている。
「………」
それはジャスミンの薫るもので、蛇のような目でメルヘスは毒蜘蛛のように手を伸ばす。
細い手指に香水壜が持たれ、柱の先に広がる庭を見た。
「黄金の星が美しい……あの踊り子が流す涙ね」
彼女はペンダントから粉を壜へと注いだ。薫る液体に、さらさらと舞い溶けていく。
ランタンはメルヘスの恐いほどに無表情な顔立ちを照らした。
ことりと静かにおき、去っていく。
「主人様!」
男が駆けつけ、冑の赤い羽根が揺れた。長い腕が伸び触れるが、どうしても意識はない。
今朝方、あの踊り子と共に朝日を浴びながらこのホールへ現れ、台に向き合い微笑みあいながらこの香水を二人楽しんでいた。
「女を捜せ!」
衛兵は声を張り上げ、一気に宮殿は騒がしさを纏った。
すぐに踊り子は捕らえられた。何故なら中庭の白い石の台横、濃い緑の木々の端で気絶していた。その背を昼の日差しが陰とともに彩らせていた。
踊り子も目を覚ますことはなく、ただ、その手には積み立てのジャスミンの花が持たれていた。
遥かな闇を越えて、砂漠の先に星が見え始める。
アユラハンは駱駝に揺られながら進ませていた。風が吹きながら伝える。乾いた風は、一陣の水を伝えた。
振り返ると、蠍が夜の砂漠を跡をつけ歩いている。
顔を上げると、あの歌声が聴こえる……踊り子の歌が。
オアシスが現れ、夢を歩く。
緑を進み、葉陰から現れた。……まだ名も聞かぬ彼女が。
身を翻し踊りアユラハンを見て手招いた。
闇が訪れる……。
「二人で出よう。放浪の旅に」
「魂の……でございましょう」
「生命の……流浪に」
駱駝に乗りかけぬけた。
月光が差し込み始める。さあ……命の旅へ……。
秘密
白い花の薫り
愛………
メルヘスは宮殿から空を見渡した。
「………」
途端に風が凪いだ。
涙は誰にも伝え届けることなく風は止み、深く目を綴じる。
意識を眠りへ入らせたまま、二人は寄り添い眠っていた。
そよと風が吹く。あの、白い花が薫る。今の時期、宮殿を満たすこともある薫り。
夢を引き伸ばす幻想めく薫り……。
2014.3.5
カサブランカの薫り
ニコ 22・男
シェモイ 25・女
アルマス 28・男
純白のカサブランカ。
黒いシルクの寝台に大輪の花が幾つも、そして薫る。彼は流れる金髪を額に広げ、アクアマリンの瞳で見詰めた。花のこの理想的な構造を。
「時々……」
白い肌を彩る。銀の光がナイトテーブルから鋭く照らし、くっきりとしたカサブランカの影が肌に、顔立ちに、肩に、シルクに落ちる。
「真善美に関する君の審美眼が怖くなる時がある」
シェモイは長い髪を片方の肩に流しながら彼を流し見た。というよりは、観た、と表現するべきだろう。僕はいつでも美しい爪をまるで魔術を施すかの様に一回転させて見せ意見を述べる合図を送るシェモイ嬢をうっとりと見詰めている。その瞳が滅多に僕に向けられる事が無いのだとしても。
アルマスを彼女はいつでも美術品を鑑賞する態で正視する。窓際のアームチェアに腰掛けるシェモイ嬢は満天の星に彩られ包まれていた。ガラスに遮断されて夜気は感じられないまま。
それでも僕の心は寂しさの風が流れた様に思える。純白のカサブランカを黒薔薇浅織りのソファから拾い上げてソファセットから進んだ。彼女の前に来ては床に座り、膝に花を置いては見上げる。シェモイは僕に視線を落すと大輪の花を手にし、鼻腔に薫りを充たさせた。
「どうしたの……?」
緩く微笑む。意地悪な猫の顔立ちで。
「まるで蛇みたいだわ……ニコ」
構わないよ、僕は言い眼差しを彼女に縫い付け膝に頬を乗せた。寝台のアルマスを見る。彼女の冷たく、そして強い薫りをまとった指が僕の金髪を優しく撫でる。目を閉じてアルマスの存在を闇に落とした。
そして彼女の姿だけになる。滑らかな白の衣服に身を包むしなやかな四肢も何時かは僕のもの。チョコレートブラウンのエレガントな艶の髪も、手を、唇を這わせたくなる。薔薇を置いたような唇にはカサブランカも時に敵わないほどの色香を乗せて、惑わしてくるんだ。
あたしは白馬の上から背後を走ってくるニコを肩越しに認める。
あの子はいつでも嫉妬をしてきて可愛いけれど、どこか甘さの抜けない頼りなさが憎めなくも悩ませてくる。いつまでも水色の瞳は逞しさを匂わせることはなく、ときにあたしを絶望のどん底へと突き落してしまう程の悪戯な無垢さを持つ。
この身を、心を切に欲してくるニコの全ての言葉や行動はこの足許から伝ってくる大蛇のようでゾクゾクさせた。
けれど、あたしが心酔するのは、アルマス。彼……。完璧の美を嫌う彼は完璧な物には魔が宿る全てに囲まれながらも自己からは排除し、不均等の美を崇めては花を愛でた。花とは、完璧な様態ではない不安げな儚さがいいのだと、心危うくなれる瞬間が、美に危機感を感じる刹那が愛しくもしあわせなのだと溜め息をつく。彼の不均等の美へのフェチシズムは、あたしの求める彼が拒みながらも体現する完全美をなお一層引き立てた。昨日のカサブランカ……彼はあたしのことより花に魅せられてた。
「シェモイ」
ニコが追いつくと、太陽のもとでは蝶のようにふらつく瞳で見詰めてくる。
「お茶をいただきましょう。紅茶と砂糖菓子を」
馬の方向を変えすすめさせる。彼もついてきた。
薔薇に染まる白い頬は大きな少年のようで眉を潜めて見て来る。いつでも昼下がりは眩しいのか目を細めていた。銀釦のはまる大きな折り返し襟のビロードのジャケットから白グローブの手で何かを出すと差し出してくる。
受け取りながら見詰め、進めさせる鞍に影が落ちた。
「可愛いわ」
それはとても小さなプラチナで出来たオオルリの飛ぶタイピンで、丸いカットの瑠璃の花を加えていた。
「きっとシェモイのその白いスカーフに映える」
彼は一気に馬を駈けさせて行った。木々の立ち並ぶ泉の辺にあるテーブルセットへ。ここからでも分かる、耳の紅さが遠ざかっていった。
木陰に眠っていたらしいアルマスが草花を行く蹄の音で目を覚ましたらしくニコを見る。ニコは白いテーブル上の紅茶をポットからカップに注ぎ、目を眩しく光らせていた。蝶が番の舞を見せながらも旋回している。
アルマスが一度、あたしを見た……。
まどろみはいつでも無神経なニコに邪魔された。俺は背を睨め付けあきれ返って起き上がり、幹にこめかみをつける。
偏頭痛は変則的なもので悩まされていた。
静かな薫りを乗せてやってくる。それはシェモイ嬢だと分かっていた。瞼を開け、彼女を見る。まるで女神の様な女で、俺を称えて来た。言葉で、視線で、触れてくることなどせずに。その度に心は掻き乱され、花で紛らわせるどころかその薫りは息を奪われるほどの波となって襲い掛かった。
俺には不釣合いな女だ。完全なる追求を求める目がとにかく怖い。
カサブランカの香水は彼女の調香師がつくったもので、あの造形をたやすく思い出す。
俺は花が好きだ。その構造美は樹木が倫理的なものの考え方をする男の姿にも見えるなら、花は受動的なものの考え方をする女の成りに思えた。それだけじゃ無い。花という奴は曲者で、蜜蜂や蝶だけじゃなく人間の心さえも奪って離さなくして来る。人間は別に蜜を運びやしないじゃないか。花粉を届けることも人はしない。それでも季節を謳歌するのは生物全てに言えることで、花を愛でる事のできる昨日が俺達にもあるわけだ。女を愛でる事と同様に。
昆虫が花を生命を繋げる食欲の対象として捉えるとしても、人は目で見て心で観じ重なり合う花びらの建設的なあり方を見る。
カサブランカがふわっと俺の横に腰掛け、顔を向けた。まぶしく光るプラチナのタイピンがシェモイ嬢にしてはまるで乙女の様で俺はふっと微笑んだ。
狭い肩に落ち着く柔らかな髪が触れてくることを訴えてくる。だが俺は彼女に触れない。シェモイ嬢にはおいそれとは触れたらいけないものが備わっていた。にも関らず、例によって無神経なニコは寄り添い、抱きつき、頬に頬を寄せた。全く、あいつにも困ったものだ。まるで初心な恋人達の様に甘えるのだから、みちゃいられない。
シェモイ嬢が綺麗に脚を揃えて草地に座り、遠くを見る。白馬は影を落として低く嘶いていて、水を飲みに身を返した。その隙に主人の陶器の頬にキスしたくなるが、まるで蛇王子みたいなニコの肩越しの目が影のなか光る。
俺が毎回そんなどうしようもない事を考えてるなど思う事も無いシェモイ嬢は俺を完璧な美だ、魔的な態だ、なんだ、崇拝でもして来るつもりか言ってきた。
「紅茶を頂きましょう」
ソーサーからカップを傾け、俺はまるでカサブランカの様な女、シェモイ嬢を見た。横顔は美しく、まつげは彼女の淡緑の瞳を彩る。
ポピーが風に揺れ、引き立てる様だった。
ニコは飼い猫の様にシェモイ嬢の肩に寄りかかる。俺を敵対する目を向ける……が、俺はこの女を心から手放すつもりは無かった。それもこいつは知りはしない。
いつでも、いつまでも平行線のこの関係は続く、それだけで、不完全な美は体現されつづけるのだ……。
カサブランカが薫る。緑の風が流していく。それでもシェモイ嬢の存在はいつまでも夜も昼も薫りつづける。香水を纏うことなどなくとも。例え、年月が経過しようとも、きっと、そして、若さの完全なる美貌は、俺の求める不完全の美を少しずつ形成していくのだろう。愛されるべき全てとしてだ。
孵化するその時の彼女の心を、いつかは覗いてみたい。練り香水の様に体を離さない若かりし記憶を俺自身の脳裏に収めておきながらも、その対比さえも俺にはたまらないものへとなるだろう……。
20/03/2014
アネモネの薫り
彼女は狭い室内、膝を抱え震えていた。
神経的な目はキャンドルに揺れ動き、木馬の影や小さなカルーセルの影が壁紙を踊っている。
アネモネの花。
その暗黒へといざなう漆黒の瞳をそろえた花はどこか邪な悪戯をしのばせるデモンのようで、彼女はそれらに見つめられていた。
複数の洋風人形達の目に囲まれた彼女は紅色の着物に黒の半衿を覗かせ、紫の帯がだらしなく伸びている。金蝶の簪や金の帯留めが艶をうけ、真っ赤な爪は真っ黒のルージュに食い込んでいた。
アネモネに囲まれる人形達を凝視する姿は檻に閉じ込められた鳥のよう……。
彼女はアネモネの瞳や人形達の視線に怯えているのではない。これらの目が無ければ発狂するほど落ち着かなかった。
<監視>――それは、彼女にとって既に無くてはならない拘束眼。
彼女は黒ビロードの寝台で丸くなり下ろされた天蓋の内側で恐怖に震えていた。
<悪夢>は彼女を苦しめ、独りにし、逃れられない心の檻に閉じ込め透明な泉さえも鬼の目にする。
黒の半襟から漏れる金のネックレスは鍵が繋がり、それは外側からは空けられないこの部屋の鍵だった。紅の袖口から真っ白い手首が覗いて刻印される、黒い星。それはこの地上と彼女をこの世に釘付けにする釘頭かの様にも見えた。
眠りたくない。それでも彼女は逸脱された眠りの境地へと堕ちて行く。
緊張にこわばった足袋のそろえられる足はゆるみ、ゆるゆると堕ちていく。
青紫一式のアネモネの花畑にいた。
淡い紫に沈んだ空の色は上方が淡いローズピンクで、グラデーションの真ん中の天に白い太陽が昇っている。夕暮れも近い地平線近くの太陽は、まだ色味を変えずに低い連峰の稜線を影にしていた。
彼女の足元には、部屋にあった人形が一体、目玉が片方飛び出した状態で寝転がり眼帯がはめられ、髪はひび割れた顔を飾っていた。木馬は風も無く揺れ、カルーセルは壊れたメロディで回転している。その途切れ途切れのオルゴールは、サティの夢であってその今は寂しげに聴こえる音色によってアネモネはゆるく揺れている。
彼女は自身が安堵としていることに気づく。何故なら、幾万の花の漆黒の瞳は彼女を夕陽の淡い色に染まりながらも見つめているのだ。
ほっとため息を漏らし、裸足の足元をみる。夢では常の裸足を。
黒い蟻が素足をくすぐり、列になっている。
「………」
それは脚を伝ってきては、いきなりの痛みに彼女は顔をゆがめた。蟻に噛まれたのだ……。
麻痺したように、視野はカルーセルを映す。回転する馬達。時に調子外れる旋律。アネモネはまるでくすくす笑うかのように彼女を囲い回転し始めた。
重いまぶたを開くと何かの感触で彼女は足元を見た。そのことで胸部に乗っていた鍵はしゃらりと音を立て肩から落ち、首をかしげて状態を起こして立てられた真っ白い脚が覗く。
眉をひそめ、くっきりとした噛まれた痕を見つめた。それは明らかに、人間に噛まれた小さな女性的な歯型。
はっとして、人形達を見回す。アネモネの花は凛と妖艶に咲き、彼女を<監視>していた……。
ばっと着物の袷を戻し、寝台を離れて立ちくらみに支柱に手を掛け眉間に指を当てた。
「………」
ふと目覚めると、立ち尽くして支柱で体を支える自身がいては、脚の噛まれた痛みは消えていた。
物音で背後を見ると眉の下で切りそろえられた前髪と長い黒髪が艶を受ける。
「夕食だ」
規律のある低い声が静かに響き、無骨である手が動作がすっとして引いていく。彼女は彼の姿をそのわずかに見える軍服の手腕、そして彼の履く黒牛のブーツ、そして片膝を曲げるカーキのズボンの膝しか見たことは無かった。ここがどこなのかも、彼が軍人なのかも、自身がなになのかも分からない。
彼女は自身の名前を知らなかった。
小さな扉は閉ざされ、微かに見える廊下の柱時計が六時を告げる音さえ遮断された。彼女は鍵を握り締めたまま暖色のみへと戻った室内で佇んでいた。
大市雄源(おおいち ゆうげん)は夢見師の娘、高野月夜(たかの つきよ)の部屋のドア前から颯爽と去っていった。
未だ定期的に聴取される夢の内容に<悪魔月>と呼ばれる年月は現れず、ただ、それらの兆候を読み取る知識人も去ったために善後策は取れずにいる。
<悪魔月>とは、月が薄紫色になる春の宵に訪れる不可思議なあやかしで、雄源の仕えるこの戸部屋敷の人間が歴代何人も発狂し狂人となってきた事例によるものだった。
先代の戸部信(とべ まこと)は夢見師である高野澪(たかの れい)を招き兆候の全てを夢見で避け続けその代の戸部一族は誰一人として悪魔につかれる事もおろか、全うに生きた。だがその澪は信自身と妾の関係となり十七年前に正妻に殺められ安泰の時代は幕を下ろした。
当時五歳だった娘もその力があるとして将来を有望視されていたのだが、今となってはまだ有力な風は見られない。
現在の当主は女主人であり、戸部信の娘だった。四十の年齢の美しい女主人は怜悧な人間でもあり、夢見を殺めた母
を毎週刑務所見舞いへ向かいながらもその時から精神病院へ入った信の世話をしては女学院の理事長として学園を訪れる毎日を送っていた。
「アネモネ……」
雄源は軍から雇われた人間で、戸部家の護衛を任されても居た。普段は主人のボディガードをしどこへ行くにも同行した。そして月夜のことも任されている。
そろそろ月夜の所望するアネモネを新しくそろえなければならない。
雄源はあのアネモネの花が好きだった。黒い蝶が周りを舞い、そして春の気候漂う妖しげな季節はなんとも言いがたい感慨を思わせる。
自室へ来てくるっと踵を返すとドアをしめ、颯爽と進んだ。軍服を放りシャツの背がベンチに進み、カフスを外しながらスカーフ上、撫で付けられた髪のシャープな横顔が鋭く窓を見た。
「………」
月。
恐ろしいほどの満月の目が全てを見てきている。まるで、全てをその一瞬の後に闇に落とすのではと思うほどに明るい。カフスをローテーブルに置きながら窓辺へ進み、月明かりに影が伸びた。
林が広がり、その向こうには緑の丘が広がる。そちらを見れば月は威力を優しげに和らげ全てを照らした。
丘を越えた一角に、アネモネの咲き乱れる場所がある。そこは柳が幽玄に揺れてその先にアネモネがゆれ、蝶が漂い時々小動物が姿を見せた。小鳥はさえずり春を謳歌するのは心が澄む。
静かに夜を見つめ、引き返す。
シャツの腕をまくり、ブーツを乗馬用のブーツに履き替え部屋を出た。
屋敷から出ると馬に馬装を施し、アネモネの原へ向かう。明るい月はそれだけで出歩けた。
林からは静かな風が吹き、丘を越え原来ると、アネモネの花を見渡した。馬から降り、鎌を手にアネモネを掻き分け歩いていく。
手に持つ花の束は月光が腕に繊細な影を落とし、それを透かし掲げれば満月を背景に花弁が透かされ美しかった。
「………」
雄源はしばらくアネモネを適量刈って行き、彼を花が包んだ。
この旋律は、聴いたことの無い曲だった。
まぶたを閉じる月夜は淡い藤色の感覚にそっとまぶたを開いた。
「………」
そこは、薄紫色の夕時だった。まるで、どこか浪漫を感じる。首をかしげて天の向こうを見た。
不思議なことに、空を巨大な船がやってくる。幾本ものオールがこがれて掛け声さえ聞こえ、やってくるのだ。
野原は草花の広がる場所で、既に上品な一番星が姿を現している。
それは、恐い夢ではなかった。
しばらくここまで来る巨大な船を見上げていると、まるで透明なクリスタルの波をつくって横まで来ては彼女は見上げた。
「………」
だが、その暗黒の目をした彼等を見た途端、慄いて震え始めた。物言わない口元の彼等は先ほどまでの掛け声も浮かばない。誰もが胸にぽっかりと黒い隙間を開けている。
「お前が戸部の者か。われらの魂の置き場を崩した場所を返せ……」
<とばのもの>の意味が分からない彼女はただただ震えた。紫色の着物の彼女は黒いレースの半襟が黒い首筋を引き立て、その美しさに男達の黒い瞳は囚われてもいた。
「わたくしは……」
一気に男達の姿が船を越えやってきて、彼女は恐怖に叫んだ。
飛び起きると、木馬にしなだれ眠っていた。紫の袖を見つめ、立ち上がるとふと窓の外を見た。
「……紫」
まだ宵は深いとは思えずに窓際に来て、月夜はふと下方を見た。
林に女性がいる。母を小さい頃に亡くした彼女はふと彼女の面影を思い出し、見ていた。開襟シャツに革パンツ姿の勇ましい女性で、ゆるくセットした背までの髪が動向にあわせて揺れる。その女性がこの屋敷の主人だとは彼女は知らない。
女性は薄い紫の空を見上げ、白に近い夕陽を見た。彼女は窓を開け放ち、女性に声をかけた。
「もし。もし……」
女性は声の方向を振り返り、しばらくして彼女を認めた。
「夢を見ました。わたくし、こんな色の夜に不気味な船がやってくる夢を。暗い眼をした者達が乗る船は、わたくしを襲おうとなさったのです。我等の場所を奪ったのだと……危険ですから、どうか屋内へお逃げくださって……」
着物姿が常だった母とは違う女性でも、懐かしさを感じて月夜は言っていた。なぜかはらはらと泣きながら。
「月夜さん……」
落ち着き払った声で女性はいい、歩いていった。
「その話をお聞かせ願い無いかしら。<我等の場所>とは……、<魂の場所>というのはどういったことなのか」
それは高野月夜の母が見たことは無い夢だった。回避という状態で今まで彼女の母は先代である戸部に助言をしてきたのだ。何か知らぬうちに禁忌を犯してはいけないことを。その抽象的なものごとは長年わかっては居なかったのだ。
「まさか……この屋敷のことなのではないのですか」
月夜は聞きなれた男の声に振り返り、見上げた。
男が進んでは彼等の座るベンチソファへ座り、恐い目で二人を交互に見た。
「軍の調べで最近ようやく歴史的なことが判明し始め、このあたりは以前戸部一族が来る前は古い戦の続く場所だったらしく、原を越えた先の海で何艘かの船が沈まされたらしい」
男はアネモネの束をローテーブルへ置き、逞しい下腕を無意識に月夜は見ていた。あの恐ろしい夢でもしこのいつでもご飯を持って来てくれる腕が引き助けてくれていたならば、叫んで目覚めなかったことだろう。
そして、彼自身がいつでもアネモネを摘んできてくれていたのだと初めて知った。
「屋敷のことを調べましょう。もしも、その彼等の石碑か何かの上に知らずに建てていたのではこれから先も彼等の魂が訪れるのでしょうから」
女主人は窓の外を見た。薄紫の宵は優しげな色で春は穏やかだ。春は毎年一族は注意を払ってきたものだ。歴代の一族は何におびえてきたというのか、助言に従い生きてきた彼女には分からずに春は愛でるものだという認識が根強かったから。
月夜の夢に彼らは訪れた。恐ろしい夢ではなく、どこかきよらかな闇の夢だった。声だけが彼女を取り巻き、静かに語られたのだ。
「薄紫の訪れる夜はとりわけ明るく戦時でも酒に浮かれるほどだったらしく、それを狙われたのだということです。もともと、このあたりの風習で一夜は春を祝う花の祭時としてきたのだと」
「風流ね」
「アネモネはこのあたりの自生花で、それらが祭時の主な供え物」
月夜は木馬に頬と手を乗せ月を見ては話していた。女主人はサティの幻想曲、夢がオルゴールで流れる合間に聴こえる彼女の言葉に耳を傾け夜を見ていた。
「この屋敷はその彼等が運び込まれた安置所があったようです。村の家族が春の祭りもよそに駆けつけ悲しみにくれたと」
「その村というものはこの場所に我等が訪れた200年も前に人が途絶えて寂れていき姿を消したとは知っているけれど、基礎だけが残っていて、それを屋敷に利用したのね。何の遺跡かも不明なままに」
月夜は頷き、ゆっくりと止まり始めたカルーセルを見た。窓辺に置かれ、夜を透かしている。
新しく生けられたアネモネは人形達をはじめて活き活きとして見せた。不思議なほどに。
「彼等の魂を奉ってほしいのだと申しておりました。春の花の時季、アネモネの花を供えてと……」
完全に停止したカルーセルは、しばらくの静寂を生んだ。奏でられていた夢は、これから悪夢を見ることは無いのだという不確かではある心を余韻に残したようだった。
「軍に要請し、石碑を建てさせましょう。あのアネモネの咲く原に」
「ええ。お願いね。学園も長い休みの時期に入るわ。あたしもこの時季なら祭典を行えるから。
月夜の脳裏には浮かんだ。咲き乱れる愛らしいアネモネが彼等を見守り、春爛漫に踊るように季節を愛でる春の悦びが。
彼等の弔いの魂も天へと白い輝きとなり落ち着いてきらきらと昇ってゆくのだろう。アネモネの風に吹かれる影から上空へと……蝶の背に乗り、小鳥の羽根をかすめ、彼等の唄う春の歌を聴きながら……。
百合の薫り
石造西洋建築の学園内。
鎖された門の鍵を手に、青聖学園の中学舎二年、アルベルタ=月島(あるべるた つきしま)は鉄の鎧戸を目の前に、何かうわごとかの様にいい続けていた。
白いレンガを積み上げた門と塀で円形に囲われており、外界を遮断している。上方はドーム型の屋根がついて硝子屋根を支える鉄枠のトップは白石の鷲彫刻をエンブレムに置いていた。これといって窓はその天井硝子のみで、採光をとっている。
アルベルタは白い指に持つ鉄の鍵をそろりと上げた。門扉に影がさし、鍵穴に挿されて回転する。
鉄環のノブがひかれて世界が広がった。
彼女の背景には学園の庭が広がり、昼の太陽がさんさんと降り注いでいる。だが本日は日曜日なので、誰かが出歩いているわけでは無い。寄宿舎もあるものの、この校内とは離れた場所にあるのだ。時折音楽や美術の教師が休日でも出歩くこともあるが、今日は姿が見えない。
眩しいほどに明るい背後の白い庭とは対照的に、円柱型の塀の内側は湿度が保たれている。
アルベルタはラテン系の母の血を受け継いだ大きな目の顔立ちであでやかさがあり、焦げ茶色の瞳と髪もロクシタンのボディケアが薫った。
「夢の…… 橋を渡れば 恐れなど
恐怖など掻き消えてゆくけど
まともに目を向けられない 瞳は
ただ 身を浸す世界は……」
先ほどから口ずさむ声は微かに口に響き喉を振るわせるだけで、他の誰に耳にも、花や植物達の感覚にも触れないとも思われた。
彼女は木々や花々の咲く間をまるで蝶々の態で歩いていき、奥のピアス加工の青銅扉の前に来た。
透かし彫りはこの青聖学園の称える青い神聖なる星をかたどった唐草模様で、その先は通路が続いている。
潤んだ瞳は情景を泉のごとく鮮明に映した。彼女の脳裏に儚く揺れる記憶が駆け巡るように。
扉を開けて通路を進む。それごとに百合の薫りは強く、増して行った。
須藤家の音楽ホールに置かれたクリスタルのピアノを奏でている須藤レイ(すどう れい)は微笑みながら指をなめらかなクリスタルの鍵盤に滑らせていた。崇高な、信じられないほどの旋律を心や体、空間全体へと響かせる。
神秘の音色がこのピアノにはあった。
台に飾られた百合の花さえも生きて精霊が現れ彼女に頬を寄せながら美しい音に聞き惚れまどろむと思われるのだから。
『白百合の夢』を奏でるレイはまるで幻想が現れたかの如く白い衣装と髪に銀の飾りをつける精霊が浮かんでは微笑んだ。
駆けつけてきたピアノ教師の慌てぶりに、胸騒ぎが起こった。
レイは週末だけ実家に帰りピアノを習っている。普段は寄宿舎に入りアルベルタともう一人の生徒とシェアを組んでいた。
「大変よ。貴女と同室の方が、気絶して発見されたらしいの」
今までの幻想は立ち消え、静かにクリスタルの余韻だけが反響する。それは哀しくなるほどで涙をぽとりと落としていた。
「今すぐ、戻ります」
レイはホールを出て急ぎ足で連絡を渡しながら自室へ戻り、バッグを持った。
アルベルタの眠る保健室は影の射す涼しい場所だ。窓からは木漏れ日がゆるく差し込み、保険の先生がレイを見ると微笑んだ。担当の教師も呼ばれており、既にベッドの横にいる。彼女のご両親は現在母の本国イタリアへ出張しているので不在だ。
「百合の間で発見されたの。理事長様からね」
校舎の回廊に囲まれる広い庭園に鎮座する白い建物は奥に百合の咲き乱れる場所がある。そこは常時縦長の窓が開け放たれており、時季にはセンターに置かれているハープが演奏される半野外ホールでもあった。
「i-phoneの画面にこの詩が記されていたの。須藤さんは、分かるかしら」
夢の橋を渡れば 恐れなど
恐怖など掻き消えてゆくけど
まともに目を向けられない 瞳は
ただ 身を浸す世界は愛
秘められた想いなど百合の薫りに負けて
花びらの間へと隠れてしまう
銀の月を仰げば 悦びも
うれしさも照らされてしまうわ
しっかり身を寄せてね…って 唇
ああ 髪さえも抱き寄せる愛
壊された心など百合の薫りに紛れ
月影のその下へ溶け出すだけで
「……これは、あたしとアルベルタで作曲したピアノ曲『白百合の夢』に彼女がつけた詩です。きっと、ハープでそれを奏でようとしていたのね」
言い聞かせる。アルベルタは掴みどころの無い子で、冷静に会話をしていたと思えばふと一点を見つめてはらはらと涙することがあった。
「百合の強い薫りに気分が優れなくなったのでしょうね」
「レイ……」
「アルベルタ」
レイは彼女の髪を撫でて顔を覗き込んだ。
「あたし……何故」
「百合の間であなた、眠っていたの。それで風邪をひくか百合の精霊に連れて行かれる前に理事長様が連れてきてくれたのよ」
「……ふ、嫌だわ。レイったら」
まだ白い顔の彼女は少し笑い、その笑顔のまままぶたを閉じた。少しだけ頬に薔薇色がさして思えて安心した。
「まだ眠っていて」
「はい。分かったわ……」
夢の続きを見るかのようにアルベルタは安眠に入ったらしい。
レイはずっと庭で立ち尽くして考え事をしていた。校舎は夜、暖色の照明が回廊にぐるりとともされているが、それも10時を過ぎれば消灯され、群青の深く高い空に金の星が幾つもきらめいている。
ここにはあの白い塔がある。白い悪魔の住まうかの様な薫りに酔う美しいアルベルタの姿が想起され、レイは深く呼吸をしては星を見上げ、門扉へ近づいた。
手には鍵が持たれていた。許可をもらえば生徒でも預かって入ることが出来る。
冷たい鍵を取り出し、ずっしりとするそれを手に確かめながら進んだ。星影が群青に染まる白い壁にうつり、扉の前に来ると闇みたいに黒い影がさして一瞬恐怖が掠めた。
鍵を回し、魔の雰囲気を払拭して扉を開ける。
静かな植物園が広がり、今の時間は昼に飛び交う蝶でさえも葉の裏で羽根を綴じ眠っている時間帯。奥の扉を開けて進んだ。
段々と百合が薫り始めた。闇に浮くハープ。
「………」
百合の精霊が腰掛けている。彼女が連れて行こうとしたのでは無いと言い聞かせる。彼女はレイが想起するだけにとどまる白昼夢で、アルベルタが見えるとは限らない。
精霊がこちらを見たとたん、優しげな瞳は黒くなり、そして鋭く唇が上がった。レイは動けなくなり、春の風が窓から拭き流れてくるままに立ちすくんだ。
ハープを流れるように鳴らし、あの唄を、歌う。
レイも口ずさんでいた。唄っていた。『白百合の夢』を。その続きを。
秘められた時は紡がれた
眠りの淵へと堕ちて行き
その指さえもほの甘く迷うのでしょう
百合の薫りに誘われてみる夢は
純潔のさきの一途なほどの……タナトス
「アルベルタは大切な親友よ。駄目よ。悪さをしないで」
レイは哀しくて頬をさす星明りが肌をどこか蒼くした。
薫りが一層強さを増し、ふらりと、意識が薄れた。月光を透かす精霊の髪が、白い衣がゆらめく……恐い無表情の顔で。
レイがふと目覚めると、自身はクリスタルのグランドピアノにしなだれていた。
「………?」
ぼうっとしたまま見回し、台の上の百合の花が微かに薫る。
クリスタルの楽器なので、光に寄って溶け込むことも在れば、夕陽に浮かび上がり荘厳に姿を現すことも、そして朝陽に滑らかに浮かび上がり鋭く光ることもあった。全てを透かすクリスタルは、いつでも精霊の姿だけははっきりとさせていた。
だが、彼女が立ち上がると背の高さに違和感を持った。見回す。黒いセーターに、チャコールグレーの膝丈スカート。品のいい黒のヒールで、肩に掛かった髪は結われていた。
壁の鏡に、紅をさす女性を見た。
「あたし……」
彼女は首をかしげ、大人びた様相にしばらく目を綴じ、そしてだんだんと感覚が戻っていった。
「ああ……懐かしい夢を見ていたようね」
須藤家のこのホールは現在、社会人になったレイ自身の部屋の一部へとなっていた。
何年も前のあの日。アルベルタは確かに美しい女性に誘われて毎夜あの百合の間へ訪れていたのだと話した。あの唄を作ってから夜の夢に訪れる女性は、レイが見ていたと打ち明けた白昼夢の女性、百合の精霊と同一と思われた。
アルベルタがあまりにも感情さえも不明な綺麗な涙をふと流すものだから、不思議だったのだ。
「レイ」
「アルベルタ」
成人するとなおの事母方の顔立ちになってきた麗しいアルベルタは、そっとレイに寄り添い頬を寄せた。
「ね。……弾いて。あの季節の曲を」
「ええ……」
アルベルタがあわせて唄い始める。
二人をあの時代、惑わせた精霊の唄を……。
藤の薫り
何時だって目まぐるしく乱れるのよ……。
長い髪も疎かにして、憎い位に甘い薫りを充たさせて、それで、そして、泣く。貴女はいつでも崩れるのじゃない。最後には……。
白い窓枠から揺れる藤棚の淡い房は疲れ切った二人の姿を投影している様。白い光りさえゆらゆらとして、解らせて来るのよ。貴女がどんなに本当はじれったい位に愛を真っ直ぐに表現出来ないのかって事。白いリネンに広げる髪を弄んで、まるで余裕を持った風に微笑むけれど。
窓を開け放って、今に出て行こうって言うんでしょう。窮屈だから。春の甘い風に乗って藤の花の暖簾を越えて、頬を掠める花に撫でさせといて、微笑んで逃げようって言うのでしょう。
でも、逃がさない……私の愛は、藤蔓の様に固く絡まり、離さない蛇と同じ。一度私に絡みついたら、既にすぐそこの壁を這う茨の棘で磔にされたも同じ。離さない……どんなに貴女が泣いて叫んで春に狂おうが、愛に狂ってる方が、マシ……じゃない……? 愛に暮れる人形みたく。
サンテーヌの異常なまでの愛情に気付いたのは、出会ってすぐの時からだった。友人伝いでささやかに開いた自宅でのパーティーに彼女はいて、白い円卓はまるで彼女の独壇場だった。淡い薔薇の花を女にした様な人だった。それでいて声は森を通り抜ける風の様に低く、あの目がまるで毒を流し込まれたかの様にエメラルド色に光り、強烈な眼力であたしを見た。
彼女の泉の様な肌にはよく深い色の金髪が似合う。その金をのべたかの様な髪、金糸みたいに細やかで、つい顔を近づけて見てしまっていた。自分の影が彼女の髪にも映る程に。そして薫った、初めて感じたあの甘い薫り。香水なのか、薔薇なのか、他の花なのか、見当さえつかない薫りを漂わせたサンテーヌ。
サンテーヌはその時面前であたしの手首を掴み真っ直ぐとあたしを見て、その瞬間恐れを感じて手を振りほどいて逃げ出した。何故なら、一瞬で嗅ぎ取ったからだった。まるで回る回る眼力の瞳はその奥に無限の暗い暗い宇宙を渦巻かせて回り、瞬時に首元へと噛み付くと思われる殺気……いいえ。絶対に手に入れるという欲望が巡っていたのだから。
愛情などというものはそういうもの。一度手に入れると思ったら何をしてでも手にいれる。一種子供じみた自我が欲を充たそうと自らの欲望の壷をいっぱいにしようとする。眩く溢れ出ても構わずに感情をつぎ込むのだ。それまであたしが一切を避けて通って来たそれらの情念を。それに生きる事を。
ソフィアが私の髪に指を通している間は、藤を掲げ一つ一つ、小さな薄紫色の花を彼女の短い黒髪に埋め込ませている。長い爪は時に彼女の頭皮を故意に食い込ませ、ジュエリーの様に黒髪を装飾する無数の藤の小花が一粒、二粒、私の上に落ちてくる。その時薫る。微かに、甘い、甘い藤の薫り。
私は背を上に肘を付き、ソフィアを見る。
「ね」
まるで彼女が爪を持って硝子のブイが縄で海に繋がれて波にも風にも動けない拘束を受けているかの様に、弱弱しく私の顔を上目で見つめて応える。
「ん?」
「ソフィアは、以前の恋した人はどの様な方だったの?」
「………」
彼女は視線を落とし、首を振ってからクッションに背をつけ上目でにっと微笑んだ。私が嫉妬をする事を見越してした微笑に見えたけれど、そんなのくらい、分かるわ。ちょっと意地悪に聞いてみたかっただけ。
「サンテーヌの知り得ない人」
「………」
私は瞼を伏せ気味に見てついと顎を反らし、背を下に彼女を横目で見る。
あたしは自室で背後を振り返り、充分にサンテーヌがいない事を確認する。
いずれ、分かっていた。この関係が今に下僕と従わせてくる者の関係へと変わって来るのだろう事が。
独占欲は時に素直にあたしに牙を剥け、蔓で心を縛り付けて来る。
解っていたのに惹きつけられたのはあたし。あの一瞬の情熱的な熱に囚われて、心が彼女を想い離さなくして、あの薫りの正体さえも突き止めたくなった。それが身も凍るほど冷たい毒の様な眼差しだったのだとしても。それを知って、踏み切らせたのだから。それが毒と知るならばどんな毒なのかを知りたくなり、味わって、痺れを感じて、体が麻痺に似た感覚の恋に陥ってでも、愛したいと切に思ったのだから。
それも、もう限界。
カバンを出す。いつか機会を狙って逃げ出す様に。
その協力者はいた。
サンテーヌを崇拝し愛している男、サンテーヌの旦那の秘書であるレヴィレーイが。
でもサンテーヌは男とは絶対に浮気も不倫も何もしない。だからって、何故あたしが狙われたのかは解らなかった。有り余るサンテーヌの情念を充たしうるとでも思われたのだろうけれど。
あたしがこの舘を出る事を秘書のレヴィレーイは大いに賛成して協力を惜しまないと言った。報われないっていうのに。それを言っても、一向に構わないと言う。あとは勝手にするだろう。
夫のマルクスは七十八の年齢で、十年前に花園で見初められ私の三十の年齢に婚姻を結んだ。
元々隣の地方で広大な花園を持つ屋敷を代々受け継いでいた私の父はそのマルクスとは見知った仲だったようで、娘の私を気に入ってくれたのならとこちらの意見など構うことなく嫁がせた。
マルクスは有名なオルゴールコレクターでありコレクションハウスを持ち、そしてオークションハウスのオーナーでもある。
彼は私が何より藤の花を愛する事を知ると、藤をモチーフとした柱型オルゴールを製作させ結婚記念に贈ってくれ、そして立派な藤棚も自室の窓外に誂えてくれた。それは時期には見事な美しさを見せ、毎年私の心を魅了してくれた。
オルゴールの円盤は全て私達の思い出の曲ばかりを揃えてくれた。毎年、毎シーズン盤面は増えて。
それでも今は、その藤のゆらめきのホールに広がる光と影を共に見つめるのはソフィア。
ソフィアの心が、私の事を既に避けていること、分かっている。
「サンテーヌ」
マルクスの声がする。よく通る声。いつでも颯爽と進み紳士ジャケットの背は私を探し、そして白い手袋をすっとはずしながらホールを来ては鋭い横顔が私を見つければまるで柱の横から飼い猫でも現れたかの様に笑顔をほころばせる。随分背の高い人で私の頬に手を当て、一度引き寄せ藤の薫りを鼻腔に充たさせる。
彼は充分素敵な方だと分かっている。けれど……。
マルクスは時に陰る私の目元に当に気づいていても、知らぬ顔をする。
「ソフィア」
いたずらっ子な男の子がそのまま大きくなったという感じの声は、マルクス様の子息であり前妻カトレア様との間の次男ディスマルクだった。
サンテーヌと同じでもう四十の年齢なのに、茶目っ気ばかりで今も蔦の這う塀の上から顔腕を出して笑顔で見てきていて、あたしが逃げる為に箱庭に用意している荷物を見ている。
「サンテーヌに知らせたら怒るか?」
「それをしたら、その首筋に噛み付いてやるわ」
彼は塀から身軽に飛び立つとここまで来た。顔はマルクス様と同じく掘りが整っているのに頭の方は何処へ螺子を飛ばしてきたのか、いつでもへらへら笑っていた。でも、きっと本来の顔はこんな調子の良い適当な物では無いのだろう。怜悧で、冷たいのかもしれない。分からない。あたしが二十になったばかりの世間知らずだから優しく接して油断させて来ているだけで。
「相変わらず乙女と思えない勇ましさだ」
膝を突いて恭しくお辞儀などしてきて馬鹿にしてくるのね。
「馬鹿にしないで」
ディスマルクはウインクの上目で見てきてすっと立ち上がり、円卓の椅子に座って脚を組んであたしと荷物を見た。
「私が君を逃がしてあげよう」
「………」
今まで彼史上聴いたことも無い様な大人びた? 冷静な声音で言い、あたしは瞬きをして荷造りから振り向いた。そこにはマルクス様も掠める眼差しがあり、背筋が伸びて口を噤む。
「サンテーヌは蛇女さ。五年前の女で諦めたと思えば、君のような若い生き血を吸いたがる」
「魔女みたいに言うのね。あなたの美しき継母よ」
「さあ、彼女を一人の安全な女性として見れた試しは無い」
あたしはしばらくディスマルクを見ていたけれど、また荷造りに戻った。ただ、黙々と。
あの子が今にこの花の牢獄から抜け出す事は感じているわ。
ふと鏡に映るソフィアの顔は私がマルクスを前にする顔より翳り、きっと媚薬さえ当に体は慣れている。
再び調合しなおす愛の薬は、私だけを虜にしているだけかもしれないけれど……。
彼女の自室へ来て、ノックをする。
「………」
石の通路に開いたアーチ柄の間口からは明るい青の夜。黄色の上限の月が、挙がってる。月明かりの路は足元を浚う波の様でしばらくはその光りを見つめていた。
虚ろにドアを見つめる。
「………」
ドアを開け、空虚と化した室内を見た。黒いカーテンはそよそよ揺れて、寝台には黒く丸いクッション一つと、白いシルク。他は、何も無い石の部屋。
「ソフィア……。ね」
ゆっくり見回し、頬を涙が伝って進んだ。
「ソフィア……?」
子供に言い聞かせる様に優しく探す、けれど、私は私の心をだた探していただけなのかもしれない。
五年前も、同じ……。無くしたまるで少女の様な心を探すためにあの子の心を縫い付けておきたくて、繋げておいた薫りの糸も途切れれば子を失った母親の様に追い惑う。霧の内に探すかの様に……私は、ソフィアを愛していなかったの? 時々、全てが分からなくなるの。彼女のことは分かるのに、自分の心は。
結局、私は私のことだけ愛してたみたい……。
室内に立ち尽くし、カーテンの外の庭を見て声に出して泣いていた……。
サンテーヌは怒り狂っているかしら。鏡を割ったり、窓を割ったり、ワイングラスを割ったり、オルゴールの微かな旋律が美しく鳴り止まない舘だったけど、そのオルゴールだけは傷つけずに、自身の心をずたずたに傷つけるが為にあたしの事を怒り狂って叫んでいるのかもしれない。
ディスマルクは振り返りながら馬を走らせ、あたしは落ちない様にしがみついていた。
「きっとレヴィレーイが今頃彼女のお守りをしてくれてるわよ」
「言い聞かせか」
「酷いわね。共犯者よ」
「ああ」
森を越えたあたりで馬の足を緩めてあたしも背後を振り返った。
「………」
………。
何故。だろう……。
頬に涙が流れていた。サンテーヌの笑顔が浮かんだ。夜の森に。彼女が小鳥と合わせて唄ったり、庭のカウチにゆったり横になっては花びらを噴水から掬い上げたり、夜は静かに一人ハープを爪弾いたり、そんな時は、全く人格がそれぞれに違った。まるで星の輝きの様にささやかな事もあれば、満月の明かりのように威圧感がある事もあった。時に掛け替えが無いと感じる程に愛してくれる事もあったけれど、耐えることなどできないほどの空蝉を響かせる心は苦しませる。
あの藤の花の様に甘いだけではすまされないサンテーヌの全てが。
「………」
あたしはふと、何かが落ちた肩を見た。
「………」
藤の小さな花。まだ髪に絡まっていたみたいで、彼女の無邪気な笑顔が浮かんだ。
でも、分かってる。もう、サンテーヌの薫りに惑わされないって……。
月の薫り 柔らかな花の薫り
草原。
乙女達は満月を仰ぎ見る。
草は柔らかく彼女達の素足を撫でていく。
風は緩く吹き、草原を金の光りで撫でていく。
さらさらと、さわさわと。
花。
彼女達は月の唄を捧げながら回転して称える。
柔らかな春の花たちが宙を舞う。
祈りを捧げながら。
月夜に晒した花の露を集めた精水を振る。
甘い花の薫り。
いろいろな種類の花の。
黄金の満月は強大な力を精神に巡らせる。
天……
風……
緑……
水……
大地……
五つの力を得て自然へと帰化させる。
地球を取り巻く風。
鮮やかで深い緑の森。
たゆまぬ流れ続ける水脈。
肥沃の大地。
地球を取り巻く天空。
全ては自然神様の懐に巡る。
黄金の満月に乙女達の捧げる花。
純潔な乙女達の祈りと、月の魔力と。
自然世界へ感謝を捧げて。
地球の美しさに感謝を捧げて。
髪を翻して月に舞う。
金の杯に夜露と朝露を。
月が水面に揺らめく。
森林からの潤った風。
山から響く動物達の声。
クリスタルと、ムーンストーンを乙女の額に当てる。
唇に。
両肩に。
鳩尾に。
腹部に。
両手首に。
腰に。
両膝に。
両足の裏に。
体内に巡る力を自然界へと捧げるために。
調律。
自然の調律。
緑の地球の。
ペンタグラムのペンダントを月に掲げる。
その中央に黄金の満月は揺れる。
確固とした月光を放つ。強く。
天と、風と、緑と、水と、大地の、自然の力を地球の源に回復させる。
緑の世界を。
森林の神を称える。
自然の神を称える。
地球の神を称える。
水と大地と風を司る神を称える。
美しい地球の力を称える。
乙女達の舞いは祈りであり、自然賛美の宴。
月の女神の降臨と、地球の神の織り成す宴を。
精神の安静と、安泰と、平安と、安らぎと、和をもって。
自然神へと感謝します。
クリスタルを鳴らす。
とても美しく透明な音が響き渡る。
心にも、身体にも。
精神がおちていくかの様に。
キャンドルと灯し、夜露を滴らせる花で額を撫でる。
甘い、きよらかにして品のある花の薫りは鼻腔を掠める。
満月がキャンドルの灯火の先に揺れている。
五つの力を掌に。
手を取り合って円陣を。
月の唄を捧げる。
青い地球の永続を。
月桂樹の葉。
まぶたをとざして。
目を開いて。
自然の神へと感謝を捧げる。
自然崇拝の賛美を唄にして捧げる。
クレマチスの薫り
愛の瞑想……
愛の……渦
彼女はクレマチスの薫りを、アーマンディーの薫りを愛でてたゆたう。
あの蔓の延びていく先にある星は満天。クレマチスの鋭い影は、まるで星座に取り込まれた歯車に回転するようだ。
草地に寝転がっていた彼女は身を起こし、こちらを海を称えた色の瞳で見つめ微笑んだ。
僕は心持ち心臓が高鳴り、視線を手元へそらさせる。星影が降る手元を。
透き通る声で唄う彼女は、僕の心を視線を越えて聴覚からも魅了する。長く地面に渦巻く金髪にも今に蔓がはびこり動けなくさせてしまえば、僕はここから逃げ出して、そして彼女のいないところで悉く叫べるのだろう。愛を、この心を、何に罪を感じることも無く。だが、それさえもしたくない、離れたくも無いと思う苦しさは、しあわせでもあった。
この口を滑らせるのはいつでも落ち着きの無いため息ばかりで、彼女の様には饒舌に唄を囀ることもできない。
また再び彼女の横顔を見つめた。今に月が望めば、さらに強く彼女を照らしつけるだろう。眩く、きよく。
朝には横に彼女は眠ってはいなかった。
白いヴェール天蓋の先を見る。フレンチ窓からは白い朝日がさんさんと射し込み、眩しくてしばらくぼうっとしていた。
寝台から出ると歩き出し、丘を見る。
「ヘレナ」
彼女が朝露に光る丘を、歩いていた。
手に白い野花を下げ、透き通る白い衣で歩いている。花冠を乗せ、まるで軽やかに踊る光りの女神のようだった。
しばらく、見つめてしまっていた。
裸足であるく彼女の姿は、白石の東屋へ進んでいく。
また瞑想を始めるのだろう。時々僕の横から静かに立ち去り、行っている。
僕は瞑想をしない。彼女のことを考えていることこそが僕のしあわせなのであって、ほかに考えを無になどしたくはないからだった。その話をすると、よく彼女は可笑しそうにくすくすと笑った。
彼女が瞑想を行うとどれほどか時間が経過するので、そのあたりにあわせてハーブティーを淹れるために庭に出てハーブを採取してくることにする。籠を持って。
舘に囲まれた中庭に来る。ここにはモンタナクレマチスがエレガントな鉄の柵に蔓を伸ばしていて、他にも数多くの薔薇やジャスミン、そして百合の花が中庭を彩っている。草木やハーブなども豊富だ。
僕はクレマチスのところへ来ると、それに囲まれて一度回って見回し、そして切り抜かれた空を見上げた。
「愛の渦……」
彼女の唄。いつでも僕の感覚を魅了してやまない、海の細波のような、どこまでも深い深い感覚。
「はあ……」
また賞賛のため息が漏れていた。彼女の透明な心を透かす太陽にでもなってしまえば、心を焦がすことを誰も攻め立てはしないだろう。クレマチスの花を見つめて薫りを愉しむ。目を綴じ、鼻腔に満たさせる。
今の時間、彼女は無心になっているのだろうか。宇宙と会話をしているのだろうか。地球の美を称えて。
一瞬でも、こうやって花の薫りを楽しみながら目を綴じていれば彼女の心を繋がれるかもしれないと思えてしまう。
まぶたを開き、僕は籠にハーブを摘んでいった。きらきらとクリスタルの粒みたいな朝露。新鮮な薫りが心を躍らせるハーブ。
僕は微笑みながら摘んでいた。
彼女が髪にクレマチスを一輪つけて帰ってきた。
白いそのクレマチスの花は可憐で、僕は微笑んで彼女を引き寄せまぶたを閉じ薫りを愉しむ。
「ああ……とても綺麗な薫りだ」
「ええ」
彼女も柔らかく微笑み、僕等はエントランスから進んだ。
彼女を促し、フレンチ窓から出た椅子に座らせる。煮出したハーブティーを丸い硝子のポットから硝子のティーカップへ注いだ。数種類のハーブを組み合わせたもので、薫りのある花も二種類浮かべる。
「美しい薫りね。どうもありがとう」
僕は微笑み、共に時間を過ごした。
「僕はね、花の薫りをかいでいると瞑想する君が浮かぶんだ」
「花の薫りを私に重ねて?」
僕は頷いた。
「君は何を想って瞑想を?」
「いろいろな種類はあるのよ……今朝はね、愛の瞑想」
「愛の……瞑想?」
宵の唄を思い出す。
「愛の渦
光の渦と
宵空を流れるきらめき」
「ええ。愛のね……」
彼女は丘を見渡し、ゆるやかな風が流れて行く。たゆたう水のながれを感じる様な。
僕は彼女をモデルとした彫刻家だ。
石造を鑿と彫刻刀で削っていく。
アトリエは花に囲まれた温室で、いつでも花に囲まれた彼女は寝そべったり、佇んだり、小鳥を指に乗せたり、ゴンドラで進んだり、花の巻かれたブランコに揺られたりした。
春や初夏は自然に花も咲くので、庭に出たり、それや丘や森に出ることもある。
今僕は彼女の髪を複雑に結い上げていた。複数の三つ編みや編みこみやまとめ髪を組み合わせて造形美をつくる。だいたいは彼女本来の美しい金髪を流し遊ばせることも多いのだが、時にこの様に様々な髪型にすることもある。
今の時期美しい薔薇とクレマチスを挿す。
「ああ……」
とても美しい。
また感嘆のため息を漏らす僕に彼女は微笑み、繊細な手元を取りそして歩いていった。
「今回はここで」
「ええ」
「とても綺麗だよ」
僕は彼女の米神にキスをし、戻っていった。
彼女が僕のモデルになってくれたのは、五年前の事だった。
街角でモデルを探していた僕は目の前を颯爽と歩いていく彼女に一瞬で感覚が持っていかれた。細身のパンツ、そしてブーツで颯爽と歩き、ショートジャケットのポケットに手を入れ首にマフラーを巻き、大きなサングラスを掛け、黒一式の装いはさばさばとした印象を放ち、そして真っ黒い大型の犬を連れていた。石畳を歩いていくその背筋の良い女の子は一見どこかのお洒落なショップ店員か雑貨を取り扱うか、帽子屋にでも立っていそうな感をうけていた。
彼女は僕の前を通り過ぎ、今にも降ると思われる雪の天候も気にせずにジェラート屋へ入って行った。そしてバナナの乗ったチョコレートのジェラートを持ちながら颯爽と元の方向へ歩いていき、それは突き動かされたように追っていったのだ。これを逃がしてはいけないと思って。
だが彼女は馬車に乗り込んでしまい、驚くほど高く美しい声で番地を告げて進ませようとした。
「待って」
僕が御者を引きとめたので彼女はサングラスを下げ、僕を見た。水色の瞳で。それは曇り空を全く忘れさせるほどの色味だった。
「……あなた、お乗りなさい」
彼女がしばらく何も言えない僕に言い、思った以上に落ち着きのある風で言ったので僕より年上なのだと気づいた。
それが僕等の出会いだった。
彼女はその時、実家を出て一人街角で音楽をやっていると馬車のなかで僕に話してくれた。元々はシエナの生まれ育ちらしく、このミラノには二年前から暮らし始めたらしい。何の音楽をと聴いてみたら、古い楽器を片手に唄を唄っているのだと言った。美しい声なので、それはとても様になることだろう。
彼女が間借りしているアパルトメントに来ると、僕等はそこで別れることになった。だが連絡先を教えあうことが出来た。なので僕は数日後、彼女をバールに誘いながらもモデルの話をした。
しばらく彼女は返事をしなかったが、頷いてくれた。
その頃、彼女の髪は暗い色に染められていた。生まれと育ちはイタリアだが、実際の血筋はデンマーク人で父親と母親が仕事の関係で別居をしているために母子でシエナの別荘を自宅にしていた。
その自宅というのが、実は今僕等のいるこの丘の上の舘のことだった。彼女の母親は現在夫とともに再び暮らしデンマークにいる。この舘を管理し続けてくれる約束で僕にアトリエとしても提供してくれた。
ミラノのバールで彼女は僕の話に承諾してくれた。半年前に音楽会社と契約も結んだので、彼女は録音の時にミラノに来ればいいので普段はシエナで暮らすことも出来るといってくれたのだ。
その日から、僕の愛情が彼女に向かうことは自然的なことで流れる水のように僕等を包んだ。
僕はその夜、彼女が瞑想をする姿を見つめていた。
寝台でねそべり、紅茶を傾けながら。
彼女は静かに目を綴じ、瞑想のポーズをとっている。無音であり、静寂が辺りを包んでいた。
室内にはクレマチスが飾られていた。それらは寝台にもあり、僕は薫りを愉しむ。これは青のクレマチスで、舘の壁に這っている花。
時々僕は瞑想をする彼女を見つめながら、うとうとと眠りへ誘われていった。その時は必ず美しい夢を見る。闇に光が飛び交い、そして花の薫りが線を引き、泉が現れて彫刻の彼女が女神のごとく歌っているのだ。水面に巨大な月を映し、そして回転する花。くるくると、次第に僕の足を蔓が絡めて引き上げて、天空へさかさまに吊るしてくる。彼女を愛でる僕を雁字搦めにする。彫刻はさらさらと砂にきらめき本物の彼女へと柔らかな唄とともに、爪弾きとともに変わって行き、僕に安堵のため息をつかせる……。このまま月に架けられてしまってもかまわなくさせる。彫刻としての彼女を愛でずに生身の彼女にだけ目を釘付けにしていればいいと、誰かが囁いてくる。
ふと感覚が意識を取り戻すと、彼女は静かに深呼吸を繰り返していた。
「愛の渦に巻かれる幻想を見たよ……君の愛の瞑想ゆえかな」
腕に頬を乗せ、静かに言った。
彼女は横顔が微笑み、僕をゆったりと見つめた。
「あなたのしあわせ、願っているから……」
彼女が少女のように微笑み、僕は心臓が高鳴って腕に顔を埋めた。
一年前、僕には僕だけの女神がいた。
彼女は僕を愛してくれていた。僕も彼女を愛していた。
僕は彫刻家であって、彼女はモデルをしてくれていた。
どこかしら、不思議な雰囲気の女性だった。彼女は僕に全てを夢を与えてくれた。
彼女が僕の元を去ったのは、一年前。
音楽が売れ始め、プロの演奏者と組むことに決まってイギリスへ旅立ってしまった。
僕は彼女を快く送り届けた。彼女との時間の全ては今でも舘の管理を条件にここで再現され続けていた。僕の記憶のなかで。
でも、僕はどうしようもなく悲しくて泣き続けた。彼女を奪われた気がした。それでもそんな気持ちなど言えなかった。彼女は僕のいるこの場所にい続けることを半年間音楽会社に言い続けていたらしいけれど、僕が彼女を送り出したのだった。イギリスの音響技術とか契約内容などを考えての事だった。
僕は泣きたくなると、彼女のしていた様に瞑想を行うようになった。
全く詳しくないけれど、瞑想の形をとって何度も深呼吸をしたあとに額の前に意識を向けて、彼女の美しい歌声をレコードから聴きながら心を落ち着かせて、愛を唄う彼女や、自然世界を唄う彼女の声を聴きながら、目を綴じた。
愛の雄たけびは僕の心を渦となって駆け巡った。彼女が無心に戻り自然の力を体内からめぐらせていた大地はとても美しく、時は自然と共に流れた。
僕の瞑想と呼べるかは分からないことを終えると、いつでも薫りに包まれた彼女の純粋な心が広がってしあわせな心地になった。花の薫りにつつまれて目を綴じれば、彼女に出逢えた。すぐそこに感じた。東屋にいる彼女、寝台の横で瞑想をする彼女、丘で朝日に照らされる彼女、温室で花に充たされる彼女が……。
「はあ……」
僕はしあわせのため息をつき、微笑み目を綴じた。
葛の薫り
フォーレのクラシック曲「夢のあとに」を聴きながら少女は少年とともにうつろいの底にいた。夢との間際はいつでもこの美しい曲が流れている気がする……。
星明りはまだ若々しく、そしてキャンドルの小さな灯りは黄金色に光りを広げていた。
「夢のあとに」は繰り返し流れ続け、空間の二人を優しく包み込んだ。
十年後、二十一になった少女カトライと少年クラウスはハルバリー家から少し離れた森のなかに建つ葛の蔓が這う樹木のある離れで過ごしていた。
彼らは幼馴染でありメイドリー家のカトライとフレルダ家のクラウスは互いに古くから親交がある。幼い頃から行事や宴のある毎に子供達だけが集められた場所で共に遊んできたものだった。いつでも夜も深まれば大人たちの宴の声を掻き消すかのようにレコードを掛けて夢現の旅へ出た。
カトライはクラウスの奏でる「夢のあとに」にあわせ、美声を静かに響かせていた。ゆったりとする曲調は成長したカトライの声音に合う。
「目覚めぬ あの少女の窓辺に
薫りを甘く乗せた……
月光 そして微かな星夜に咲く
願うのならば
切なく 降りしきる夢のうちで
手を差し伸べる頬
見つけた まぶた開くことを望むならば
愛を語らう
愛 それは深い夢と同じ
星を見上げた二人の恋は
まどろみと消え果て
ゆるやかな夜は過ぎてゆく」
葛の花を蔓から集め降りしきらせて遊んだ頃をよく覚えている。森で甘い薫りに包まれながら、紫色と薄ピンク色の房花を散らして……。
クラウスはサックスを下ろし、静かに恋を寄せるカトライ嬢を見た。だが、彼女は既に婚約者の決まった身。これからの二人の馴れ合いの時間なども及びはしない夫婦と言う確固とした二人の世界へ行ってしまう哀しさをなんと表せばいいのだろうか。
夢の後に……。その夢は二人で長年付き添ってきた尊い時間だったのだ。ただただ傍にいれば良かった。何も他を望まなかった。いつしか離れていくなどとも思わずに。
秋は始まり、涼しげな空気が流れて行く。クラウスは彼女の肩にそっとコートをかけて微笑んだ。
「さあ。外を出歩かないか」
「ええ」
彼女は微笑み見上げ、秋の夕暮れの路を二人歩くためにドアを出る。
樹木には葛の蔓が這い、それは円形に囲う水路に寄って遮断されていた。なので二人は幼い頃から屋敷を抜け出し森を歩いていくと水路の橋を越えて秋は紅葉前の広葉樹にツルを伸ばす花を見上げて過ごした。クラウスは木に登ると花を採って水路を小舟で回りながら散らし撒いたものだ。
クラウスは肩にコートをかけ引き寄せる彼女の手を見つめ、歩みを止めて振り返った。
「僕と逃げないか」
「え……?」
水路は成長と共に小さく感じてきて、今では手を伸ばせばあの紫と薄ピンク色の房花は手に届く。大きな緑のツル葉は樹木を覆い、すでに何の木だったのかさえ不明にさせた。一年に一度屋敷の庭師によりツルの払われる時期は彼らはこの場所を訪れない時期だった。
「クラウス……」
カトライは小さく微笑み、首を横に降った。
「なんで……」
クラウスは哀しげな目をして彼女を見つめた。
「夢はもう見ることはできないの? カトライ」
彼女は橋を渡り、枝垂れる葉の伸びる水路をしゃがみ見た。手を差し伸べると、ひんやりとする水。
「少女は目覚めないのよ。事実を受け入れることが嫌だから。まどろみは消え果る。そのままの方がいいから」
「僕は君が好きだよカトライ」
「分かっているわ」
クラウスは置いてきぼりをくらった顔で地面の草地を見つめた。
「僕だけだったんだね。この夢を続けたいことは」
「ええ」
瞼を閉ざした彼女は美しく、そして水面を指先で撫でた。
「夜が明けること、いつでも恐怖だったわ。あなたが知らないぐらいに震えていた。いつでもクラウスが手を強く握ってくれていたから耐えられた。でも、その優しさからもう離れていかなければ私は私として強くなれないの」
見つめる水面は夜が映り行く。空の紫から薄いピンクの色味が水面を染め上げていた。そして、美しいカトライの横顔も染め上げている色。
クラウスの愛が彼女には恐くもあった。日々深くなっていくその彼の愛情は、どこか歯止めを利かせなければならない葛のツルの触手の様にも思える。その蔓に包まれて安心しきっていたのだ。自身はあの花であって葉という彼に守られ夜を生きてきた。彼の紡ぎだす夢は果てなど無くてそして未来も無かった。
ただただ、そこに留まることの甘い誘惑を称えていたのだ。星の微かな輝きと共に。
彼のサックスも、そして自身の歌声も、これから夢のあとには聴くことはかなわなくなるのだと知っても、涙が流れてかなわない。
「夢のあとに、私を歩いて行かせてほしいの」
カトライとクラウスを隔てる水路は、彼を葛の花の咲く場所に残して、彼女を夢から去って行かせようというのか。
クラウスは追いかけて彼女の腕を引いた。
強く抱きしめたのは初めてだった。
「クラウス」
カトライは目を綴じ、微笑んでささやいた。そっと。
「また、いつかここへ戻ってこれる強さが持てるまで……」
「カトライ」
「さようなら。またね」
カトライは彼から離れ、微笑んだ。山の先に眩い夕陽が沈んでいく……。
目覚めぬ あの少女の窓辺に
薫りを甘く乗せた……
月光 そして微かな星夜に咲く
願うのならば
切なく 降りしきる夢のうちで
手を差し伸べる頬
見つけた まぶた開くことを望むならば
愛を語らう
愛 それは深い夢と同じ
星を見上げた二人の恋は
まどろみと消え果て
ゆるやかな夜は過ぎてゆく
あの曲はクラウスの愛情を捧げたい心とそして終わっていく恋はカトライの心を反映させたものに思えて、彼は強く目を綴じた。無常などではない。愛の時間は夢で終わらせるわけではなく、これから実らせようとしていた。
これからほかの実を成らせろというのだろう。クラウスは目を開き、出始めた星を見上げた。一番星はいつも二人で見上げてきた色。ただ、今は一人で見上げている。
遅れ咲きの薫り
「遅れ咲きの薔薇の蜜を吸い上げる蝶や蜜蜂は、どこか君の態に似ているよ」
黄昏が迫る窓辺は私の腕を染め上げ、そして彼の言葉は緩く流れる曲に溶け合うように耳に入った。視線を上げて彼を見ると、黒馬に跨り星をわが子の様に擁く悪魔の絵画が飾られた壁に肩をつけ目頭を押さえては眉を寄せている。神経質な頭痛持ちの男で、いつでもああしている。
「そう? どういう意味かしら」
あの表情には不釣合いなほど声は穏やかな人だから、いつも見てしまうけれど結局は「お気の毒に……辛そうだわ」と思ってしまう。
「あなたが遅咲きの画家だという意味? アルバート」
街角で声をかけられ絵画のモデルを頼まれてからの付き合いではあるけれど、彼を一度も花に例えたことなどは無かった。確かに三十代も終わりに差し掛かって絵画の世界にのめりこみ頭角を現し始めた彼を新鋭の画家ともてはやす人は多い。それまでをワインの店で働いてきた彼は芸術を好み美しい曲に囲まれ生きてきたが、自らが表現者になりたいと思い始めたのだ。
「僕が薔薇なのではないよ」
春や初夏、夏を満喫する美しい蝶達や蜜蜂たちの可愛らしい姿が私に当てはまるとは思えなかった。壁に掛けられた姿鏡に映る自分は個室のなかで息を吸うだけの女にしか見え無い。ただただ硝子ケースに隔たれた動かないドールに。
「彼らのように輝きのなかをうつろい翔び薫る花々から蜜を吸い上げられたらどんなにいいかしら。どんなに私が庭園を出歩いていても、少女の様にメリーゴーラウンドで廻ろうが心は渇望して実らないばかりだから……」
「だからだよ」
ソファベンチに移動した彼は背もたれに腰をつけて微笑んだ。
「その時の君を描きたいんだ」
「意地悪ね……」
街角で私を見かけたとき、それはそれは落ち込んだ姿をしていたことでしょう。恋に捨てられた私は人前でも押さえきれない涙を流してうつむき歩き、ただただ紳士等の優しい呼びかけやハンカチにも目も上げられずに足早に歩き続けて帰るしか出来なかった。
「待望の薔薇は私を捨てた彼のことね。確かに彼は美しい男であって高嶺の花よ。でも私は自然を謳歌する蝶達の美しさには到底及ばないのに」
「僕が君をどんなに美しく描いても認めないんだね。君だけは。君の姿のままを描くというのに」
「悲しみに美を見出すのならばピエロや道化師をお描きなさいよ。今の私を描くだなんて滑稽でしかないわ」
彼は悲しげに私を見ると、また目頭を押さえて目を閉じ続け顔を上げなかった。
「自身を愛して欲しい。世には自らを嫌う人が多すぎるよ。とても悲しいことだ。生まれたときの待望の呼吸を覚えていなくても、太陽や生きてきたなかで見た美しさに笑顔を持った瞬間が一度でもあったならとても素晴らしい人生を経験しているというのに」
尚も顔をうつむかせて閉じられた瞼が繊細にして、そして私を悩ませた。彼自身が、なんと美しいのだろうか。時に微笑むときの甘い表情も顔をしかめるときでさえ。彼がこんな私を見続けていてはいけないというのに。
「どんなに遅くなっても」
瞳が私を見た。
「君自身が薔薇になることを恐れることは無い。君はまちがいなく僕の薔薇の花でもあるんだよ」
私は開けられた窓から暮れて行く街を見渡して意識から声をさえぎった。男の常套句。それらの言葉をいつでも受け止めてきた。あの男も同じだった。それでも自身の名声を得始めるといとも簡単に捨てられてしまった。舞台俳優としての道を選べば美しい女性達と共演することになり、私の存在を忘れて行く……。
涙が流れていた。忘れられた女達がそれではどんなにたくさんいるだろうか? 自己憐憫に浸りたくないのに男という甘い毒に晒された私はなかなか悲しみを忘れられない。もう心から開放されたいというものを。
「泣く私を描かないで」
「描かないよ」
立ち上がり私は部屋から颯爽と出て行った。
リヨンの市場を心となく出歩いていると、ふと見慣れた絵を見つけた。缶ケースに描かれたもので、それはあの遅咲きの画家である彼、アルバートの人気の絵だった。灰色の猫を抱え込んだ黒いワンピースの少女の絵で、金のボブヘアと透き通った白い肌と緑の目が印象的で、猫の水色の目と共にこちらをじっと見つめている。一人掛けに座る少女は不安げに足を揺らして猫の頭を撫でていた。彼はよく少女や女性や老婆を描く。そのほとんどが花束を抱え込んでいたり、ぬいぐるみを抱え込んでいたり、トゥシューズ、ぼろぼろのタオル、木馬などを抱え込んでこちらをただただ静香にじっと見つめて来ていた。
私はその小さな缶ケースを手に取り微笑んだ。
「これ、欲しいわ」
「お嬢さん。もしよかったらそれに飴を詰めてあげるよ」
「まあ、本当? うれしいわ」
店主のおじさんが愛嬌のあるウインクをしてくれて色とりどりの飴を入れてくれる。なかには少女の目のような緑の飴、それに猫の目のような水色の飴もあった。
「お嬢さん、個展の絵のモデルさんにそっくりだね。これはおまけだよ」
「どうもありがとう」
ついうれしくて微笑んでしまった。個展に飾られる私はどれもうつむいたり空虚を眺めてばかりいるというのに。だから彼のほかの作品とは少し違ってどこか夜の雰囲気が強いまま引きづられている気がするのだ。私はその時、そんな表情しかすることが出来なかった。
それでも飴や彼自身の無垢な少女の絵、おじさんの笑顔に少しずつ救われて笑顔が生まれるなんて、アルバートのおかげでもあるんだわ。いつまでも落ち込んでいたくないから、こうやって市場を出歩いたり出会いを求めているのだから。
笑顔で店主のおじさんに見送られ、私も微笑んで歩いていった。
野菜が豊富に売られた店が軒を連ねて季節を教えてくれる。不揃いだけれど太陽の恵みをたくさんもらった美味しい野菜たちは輝いている。花の薫りを漂わせた場所もどれも女店主たちの活発な笑顔と共に咲き乱れていた。だからいろいろと買っていた。
アトリエの部屋に戻ると微笑みながら花を活けていた。カーテンを開け放った室内は午後の日差しが差し込み、そしてゆるやかな明るさが広がっている。花々は繊細な花弁を陽に透かさせて悦んで見える。
鼻歌交じりに料理を始めた。野菜スープとか、いろいろ。
カチャ
ドアが開き、私はそちらを振り返った。
「あら。おかえり」
「………」
彼は驚いた顔で私を見てドアの所で留まり、私は微笑んだまま首をかしげて皿にラム肉と野菜サラダを盛りつけて行った。
「今日はあなたの絵を市場で見かけたわ。それで買って来たの」
彼はその場に佇んだまま、よほど私が料理をすることが珍しいのか、それとも私らしくもなくはしゃいでいるのが原因で落ち込んでいるのか驚いた顔のまままるで寝始めてでもいるように静かだった。
彼は動き始めてぎこちなく微笑み、ソファベンチに座るとローテーブル上の料理を見回した。
「とてもおいしそうだ。君は料理が出来たんだね」
「いつもあなたのお薦めのワインが飲める料理店へ連れて行ってくれるものね。料理は好きよ」
彼がワインのお店へ勤めていた当初からボトルを卸している料理店が何店舗もあるのだ。なかには彼の絵画を贔屓に飾ってくれているお店もある。
「さっきはどうかして?」
「いや……つい心臓が高鳴ってしまってね」
「………」
私は食器を置き、テーブルを見て部屋を後にした。
「待って」
腕を引かれて抱きしめられ、暴れても無駄だった。
「無神経すぎるわ!」
「君が好きなんだ」
離れていって椅子の背もたれに手をつき睨みつけた。
「あなたが認めているのは恋にやぶれた憐れな女でしょう。何が薔薇のようによ、何が遅咲きになれよ、私は……」
言葉を続けられずに口を閉ざした。ただただ新しく彼に恋をすることが怖くて仕方が無い私を見られたくなかった。このアトリエに戻ってくることのうれしさも覚えている。朝の市場から戻ってくるとき、あの少女の絵の缶を持って彼に飴をもらったのよっていう事とか、ただただ鼻歌を歌いながら彼の帰りを待って料理でもてなしたかったり、花の薫りに囲まれた美しいアルバートが今目の前でどんなにその時想像していたより男前なのか、どんなに優しい言葉を掛けてくれたのかとか。
そして彼が私の待ち望んだ言葉を私の思うとおりに言ってくれた事に怒って、以前の優しかったはずの男を思い出して、彼が強いてくるはずもないその後の悲しみを恐れて逃げ出したい気持ちでいる。捨てられるという再びの悲しみを。
わがままになろうが自分が対等になりたいだけ。恋をするされるの関係がフェアになることなどきっとありえないのだとしても。変動し続ける恋愛は誰もが一瞬を心を騙しながら続ける時間も来るときもある。対等を求めるから前に進めないのだ。フェアはフェアに見えてその枠に入れようとするのは到底難しいことで、互いに傷つきたくないと思うから生まれる保守だ。保守では愛を生む前に自己愛しか生まれない場合もある。だから恋が出来ても愛には向かうには時間がかかることもある。
「食べよう……せっかく君が手によりをかけてくれたんだ」
彼は微笑んでレコードのある場所まで歩いていき、慎重に曲を選び始めた。いつもみたいに。
花の薫りは食事をするには甘くて、それでも私はその花に囲まれながら、まるで蝶の様に移ろう心で見つめていた。ゆらゆらと揺れ踊るような幻想が個室を廻る。
「今は……まだ恋愛をしたくないの」
彼は私を見て、小さく笑ってから頷いて頭を引き寄せた。
「ごめん。分かってたのに」
「いいの。あなたの言葉、うれしかったのよ、きっと」
彼ももう一度頷き、髪を撫でてくれた。
素敵な曲が流れ始め、私たちは微笑みあってから席についた。
「ボナペティ」
「ボタペティ」
きっと、恋を愛にすることが遅くなったっていいのかもしれない。無理をせずにいれば素直に表せるときが来るのだと。
彼が微笑むことを取り戻した私を描いてくれたときは、彼に愛を告げるときなのかもしれない。彼自身が蝶として漸く生を受けて蜜を吸い上げることが出来る薔薇の花の薫りに包まれて。
木蓮の薫り~調和の幻想~
マグノリア嬢
彼女が白い指をかかげればクリスタルの様な声音が男を呼んだ。目元は黒いシルクがかけられ、白い腕をのぞかせる深いワインレッドのドレスでしなだれる一人掛けのソファー。レッドルージュが美しく潤い、表情はないと思われる。
愛情の一手が添えられて、優しい眼差しが彼女に影を落とす。彼の名はクレナス・ドルンといった。マグノリア嬢の柔らかく甘い薫りに誘われたかのようにある日、この彼女の庭園へとやってきた。そこから彼は彼女に愛情を捧げ続けてどれほどだろうか。
彼女は彼の手に手を置き立ち上がり、そして歩き進んで行った。
クレナスは彼女の微笑みを知らない。伏せられた目はシルクに覆われ、開かれるのは決められた時だった。
≪専属の能力者≫として生まれてきた彼女は通称マグノリアと呼ばれ、≪薫る花連盟≫の一人だった。クレナスはその祭儀の際に訪れたもので、当時はまだ十五の若者でそれまでは≪花摘み男≫をしていた。花摘み男とは祭の花を摘んでいき歌を捧げる少年達のことで、それを≪花舞い乙女≫達が周りを舞いながら香水蒸留所までの路を進んでいくものだった。
元々クレナスはその祭儀の裏の目的を知らなかった。特定の能力者たちが集められ、そして行われる儀式があったのだ。蒸留のされる花々の薫り、そしてそれらから取れた貴重な精油。その美しさに誘われて彼は舞いの一団から一人、離れて行っていた。路からそれて緑の庭を進み、明るくだんだんと見え始めたのは白い舘の前に広がる庭だった。花はどうもみられない。だが、強い薫りはただよっていた。通常、この時期ともなれば家々の庭や路には色とりどりの季節の愛らしい花があふれて目を楽しませ、心をどこまでも和ませるのだが、緑の庭は可愛らしい花にその鼻を近づけずとも芳香が充たしていた。まるで初夏の先を先取りしたように鮮やかな緑の庭。そこへ足を踏み入れた彼は立ち止まって一団を見る。
黒いローブを纏った大人たちがおり、そしてその間に数名の若者がいた。いくつかの瓶があり、そこから薫りがするのだという感覚があった。きっと、花弁が集められているのだろうと。それぞれの花の。花の群生する場所や花のなる木があればその場所は薫りに充たされ、風が吹けばそれらに包まれることと同じで。
一際若者の内に一人際立つ子がいた。それは波打つ金髪がフードから長くもれる少女で、大きな金の高杯を手にしていた。それには白木蓮と薄紅かかる木蓮の花弁が乗せられており、彼女の愛らしい顔立ちのしたに柔らかく薫っているようで、とても穏やかな微笑みを称えている。フードが下ろされる。
『本日より、お前をマグノリアと名づける』
老年の男がそれを言い、金の飾りのついた長い棒を掲げるとその天辺に太陽の光りが宿った。そして彼女の頭にそっとその飾りが当てられ、白いローブを着た女達が微笑んで彼女の頭に金の鎖と共に花冠を載せた。
クレナス少年はしばらく彼女に見惚れて木々の下から見つめていた。レースとして下がるような葉の影にいた彼に一瞬をおいて気付いたのはマグノリアと命名された少女だった。緑の瞳で見つめてくると、とても、とても柔らかな笑顔で見てきた。
その時、少女はクレナスより一つ年上の十六の年齢だった。≪薫る花連盟≫には十六から加盟される。それまでを人知れず森で修行を積み、連盟に貢献できるまでに育てられるのだ。子供の頃から選出される≪花摘み男≫や≪花舞い乙女≫のクレナス達とはまた一線を駕す彼らは、王様に直接仕えることになり花の名をつけられる。
目隠しをされたマグノリアをつれ、室内から歩いていく。
アネモネ伯爵
「紫のアネモネには限りない妖艶さと危うさ、魔力を感じる。それにそこはかとない甘い愛らしさもね。薫りがとても素敵で見た目も本当に愛らしい。群生して咲く姿は強さも感じるよ。「孤独」からの「自由」、それは甘い薫りとして解き放たれるのだとしたらとても素敵なことだ」
アネモネと名づけられた男はクレナスを見ると、彼はアネモネ伯爵に頷いた。遠い昔の儀式に現れた少年はあの頃からマグノリア嬢のボディガードの様に彼女につき、行動を共にしている。そんな姿が愛しくも思えた。
スタイリッシュな黒い装いのアネモネ伯爵の斜め背後には色とりどりのアネモネの花が大きな花瓶に生けられ彼を彩っていた。黒髪に青い瞳の彼は鋭い眼差しをしている。常にはめている白い手袋の手は今組まれていた。
彼はその手を素肌に当てれば人の心が読めた。マグノリアはその目を開き見れば先見の能力があった。あと一人今この空間に共にいる婦人は黒いスカーフで耳元と口許を覆われ、それをはずせば耳から過去が聞き取られるのだった。その婦人の名はクレナスには知らされていなかった。冷美な眼差しの彼女は今まで人のどんな過去を見てきたのか、それらを飲み込んできたのだろう。孤高のものを感じた。ガーネットのネックレスがいつでも特徴的で、クレナスは彼女をガーネット婦人と呼んでいた。そして鋭いアネモネ伯爵の瞳は人の心を見抜く能力のもと、時に恐いものさえ感じる。その能力で今まで王に仕えて城の裏切り者や謀反者を捕らえさせてきたのだ。マグノリア嬢は人の顔を集中して見続けると将来が見えてしまうので、出来るだけ目隠しをすることを好んだ。
その彼らが何故、香水の作られる時期に≪薫る花連盟≫と名づけられた者達のもとで花の名をつけられるのか。それは「花」というものが純粋であることからだった。花はそのままの環境によって影響を受ける。風か水や光、そして状況までも読み取る。まず修行する彼らは花というもののありのままの姿を体のすみずみまで受け入れさせその感覚を取得することから始まった。森のなかで続けられる繊細な修行と自然との一体化のなされる無垢な体。そして能力が覚醒する。
時に触れずとも人となりをみて心が予測できるようになっているアネモネ伯爵は、常にクレナスから感じるマグノリア嬢への深い愛情を読み取るが、微笑ましくはあってもそれは男から見た感覚でもあるのだろう。表情の無いマグノリア嬢の隠された目元はそれだけでも美しいが、心は鍵が掛けられた鎧戸を目の前にしている様に頑なだった。
アネモネはクレナスの横顔を見ては小さく息を飲み込んだ。開放させてやることが望ましいのではないか。マグノリア嬢が安堵できるのは一人になることだ。きっと、彼女はクレナスを愛しているのだろう。だからこそ彼の将来を見ることをしたくは無い。あの命名式での鮮やかな明るい緑の庭先に見た少年。薔薇色の頬をしたブラウン髪のクレナスを見た瞬間に、もしかしたら見えていたのかもしれない。彼との家庭が。だが、先見の能力のある自分は先々の全てまで見えてしまう。それを恐れた結果、滑らかな黒いシルクは彼女の目を必要なときに覆った。
愛とは交差しては一体化を見せるには、互いの感情を見せ合わなければならない。心でも充分と通じ合うこともある。愛とは、深いものなのだ。
続く
花の薫り<European>