湖畔のソルティスティーユ

湖の霧 ~Nebulo de lago~

 エレメンダは露の降りて濡れる草の咽る湖の辺に座っていた。彼女の纏う薄絹をも濡らしている。草地には彼女の長い金髪がうねり、白い裸足に手が添えられていた。水色の瞳は湖面を虚ろに見つめる。

 深い木々が押し迫るように、だが不動の態で生い茂り、その先の山々は黒く、その先は灰色に、そしてもうその先は白く形がうっすら分かる程度の輪郭。湖を囲う森の木々は霧が流れて行き、幹と幹の間を白くぼやかせては現し、そして隠してはまた現し流れて行く。

 湖面はたおやかな水面。ゆらゆらと水煙が立ち上っては表面を流れて行き、霧と一体化してゆく。時々、ぱしゃり水面を崩して銀の魚が身を返すとどこまでもを広げて行くのだ。ゆらゆらとさせて。静かに。

 空は雲が覆って今にも飴が降りそうで、弾力のある先はそれでも白く光っているところもある。湖面の色は明らかに空の色を映さずに暗く、鏡の様な色だ。

 湖面を白鳥が滑ってゆく。美しく波が立っていく。

 白鳥はとても高い声で鳴くことがある。優雅な首をそろりと伸ばし、そして高く曇った天に鳴くのだ。愛の歌だろうか。まるで夢へと誘う声に聴こえるし、悪夢から逃れるための道しるべになってくれる声にも思える。今は静かにこうべを垂れて湖面を滑っている。

 霧は立ちこめ、湖面を滑る白鳥の姿も現しては隠してゆく。


 馬のいななきが聴こえる。振り返ると、霧煙る森をゆらゆらとランタンの灯りが近付いてきていた。木々の間から巨大な黒馬に跨った男が現れる。

「お迎えにあがりました」

 男は高い位置から降り立ち、彼女の狭い肩に長い白のマントをかけて黒いシルクのリボンを結んだ。長い髪を整えさせる。

「さあ。参りましょう」

「どうもありがとう」

 馬に乗り込み、鬱蒼とする森を進んでいく。この辺りは老木が倒れ苔むしていたり、樹立する幹にツタが絡まる。流れて行く霧は蔓の葉に露を降ろしてい光沢を与えている。彼女は男の胴に寄り添い、虚ろに水色の瞳は開かれていた。涙が零れる。微かに震えたので男は手綱を持つ片方の手で彼女にフードもかぶせてあげた。彼女は目を閉ざし、馬の足並みはゆっくり進んでいく。


 森に囲まれた舘に戻った。霧咽る庭が広がり、白い柱に囲まれる回廊の先には暗がりが奥まで続く。この時期はお客様は来ないが、春にもなれば演奏会が開かれ、初夏には薔薇が咲き乱れて人々を楽しませる場所になる。そして冬には繊細な雪の結晶が天から降り積もり月光に純白はきらきらと光る厳かさ。

 彼らは黒馬から下り、しばらくは今は秋と冬の間の庭のベンチに座り、霧に包まれた。

 彼女はあの湖畔に向かうことも、それに宵の霧煙る湖畔に向かいたがることも止めはしないだろう。


四季の森 ~Kvar sezonoj de arbaro~

 エレメンダは窓から森を見渡した。霧が沈んでいて、木々の天辺は黒くどこまでも続いている。山は微かな影になっており、深い雲が立ち込めていた。山と山の間から霧がどんどん生まれて流れてきている。

 広大な空は雲にだんだんといかづちを走らせ始めた。

 エレメンダは少女の頃、人々から『森のソルチスティーノ』と呼ばれる女に出会った。

 山の麓にある小屋に住むソルチスティーノは神秘的な目をした女だった。何か病気になったり怪我をすれば彼女を訪れ、薬をもらったりしていた。

 幼い頃エレメンダはよく初夏の明るい湖畔でソルチスティーノと会うと話をしていた。白い花を摘んだり、花冠を作ったり、彼女の母国のラテンの唄や不思議な言葉の唄を教えてもらい共に歌った。なにか怖い夢を見たときは聞いてくれておまじないのお守りを作って小さな手に持たせてくれた。

 エレメンダはそのソルチスティーノと呼ばれた女性のことが大好きだったし、毎日彼女に会いたいが為に湖畔へやってきた。

 夏になると涼しい湖面に小舟を出してくれた。視線が低くなって湖の碧に包まれたように思う湖面の上は大好きだった。山も空もまるで近付いてきて包まれているみたいで安心した。山々や自然は我々の偉大なる母なのだとソルチスティーノは優しく教えてくれた。共に森を歩く小さな体は緑の大きな葉を鮮やかにさせる木々の先の青空に吸い込まれていってしまうようで一体化していくようでうれしかった。

 不思議なことばの唄は空に吸い込まれていった。

「Mi marŝas la verdan arbaron ミマルサスラヴェルデンアルバロン

 Flanko de la lago フランコデラァーゴ

 Estas infano ami エスタスインファーノアミ

 Rideto estas simila al rozoj リデートアスタスシミララロゾイ

 Vi tenu vian manon ヴィテヌヴィアンマノン

 Lumo kolektos ルーモコレクトス

 Papilioj flirtas パピリオイフリルタス

 Mi tenas el la blankaj floroj ミテナスエルラブァンカイフラロイ

 Mi ankaŭ rideti ミアンカウリデーティ

 Vango de infano ami ヴァンゴデインファーノアミ

 Akva surfaco de lumo reflektas アクヴァスルファコデルモレフレクタス

 Kune mi iros tra la arbaro al クネミイロストララアルデロアル

 緑の森を歩く

 湖の辺

 愛する子がいる

 笑顔は薔薇に似ている

 あなたは手を差し出す

 光りが集まる

 蝶が舞う

 白い花を差し出す

 わたしも微笑む

 愛する子の頬

 水面の光りが反射する

 一緒に森を歩く」

 ソルチスティーノが秋のある日、少女を連れて行った。山を馬でいくつか越えた先にある小さな集落で、その村の豊穣の祭に少女と共に行ったのだ。

 その閉ざされた集落は余所者が滅多に入らない村であり、旅人も避けて通る場所だった。なにやら風習もあるという噂で、全貌がつかめない。

 だが実際は豊穣の祭は少女の目にはとても楽しいものだった。仮面をつけた村人達が行列をなして紅葉した大きな葉で囲まれたドームをみなで担いで森へと運んで行き、なにやら唄と音楽、儀式を捧げてそれぞれが持つ綺麗な石をその紅葉の葉のドームに放って祈りを捧げていた。青空にその祈りが吸い込まれていき食べ物や自然に感謝を捧げていた。夜には村の小さな広場で松明がたかれ、森の神をかたどった仮面の男と山の神の格好をした女が演劇をみせた。その姿は秋の星空の元、たいまつの明かりに照らされてとても美しい舞だったのを覚えている。ソルチスティーノは彼女に唄を教えてくれていたので、皆とともに歌うことが出来た。

 まるで夢見るような一日だった。たくさんおいしいお菓子やその村の料理を食べて素敵な祭だった。



冬の森 ~Arbaro de vintro~

 冬になると山の麓までは行けなくなる。なぜならそこへ行くまでは深い崖があり、そこは橋が渡されているのだが冬季は閉ざされるからだ。ソルチスティーノはその期間になる前には湖まで来ることは無く、馬で背後の山を越えて食料を調達して小屋で静かに過ごした。冬の間は薬草を煎じたりフェルトでおまじないを造ったり首飾りを作って過ごして春になれば生活の足しになるように売りに行った。

 それを冬になるまえ、秋の豊穣祭の帰り道にソルチスティーノに知らされた。高い馬の背に乗ってゆっくり歩いていく紅葉する森は、木々の葉が目の前まで来るほどの近さになってしなだれて、楓の折り重なるカーテンみたいだった。とても鮮やかだった。黄色から橙、そして紅色に上に向かうごとに染まっていく木々の葉。まるで降ってくる葉は渦巻くようだった。

 小さなエレメンダはソルチスティーノに会えなくなることを寂しがった。

 ある雪の降った翌日、エレメンダは一人湖畔まで走って行った。エレメンダの舘がある側の森は湖畔を挟んで針葉樹林が広がる森で、対岸側のソルチスティーノのいる山の麓側は奥へ向かうと針葉樹林が成りを潜め始め広葉樹林が広がる森になっていた。

 延々と針葉樹の幹や葉に雪が降り積もる真っ白い世界を進んで行き、森を風が吹いていくとさらさら、きらきらと美しく粉雪が白い大地を舞っていった。大木達はどれも不動の態で静かにそこにある。今は静かに木々たちも眠っているのだ。冬だから。それをソルチスティーノは言っていた。

 雪の上を歩くのは、他の季節に歩くときよりかかるのでしばらくすると湖のあるのだろう広い場所が見えてきたときは笑顔になった。

 一面に広がる世界は湖を氷に閉ざさせており、その凍てついた氷面を風が吹き雪の粉を舞わせていくのだ。どこまでも、どこまでも遠くまで。そしてその先の森へと渦巻く前に旋回して水色の空に舞い上がっていく。凍った湖面を野生動物が歩いていて、彼女は小さな身を潜めてそれをじっと見ていた。

 森の木々は頭に真っ白い帽子をそれぞれ乗せた貴婦人達が濃い緑のドレスの裾を広げ上品に佇んでいるかのようだった。白いファーのマフや筒状の帽子をかぶって。その一人が、まるでソルチスティーノがこちらに肩越しに微笑んでいるかのようだった。

 エレメンダは湖畔を歩いていき、広葉樹林を見渡した。それらは葉が落葉して木枝が雪を纏って。

 彼女の小さな手にはソルチスティーノへと贈り物がもたれていた。それはエレメンダも持っている同じ置物だった。額に星をつけた白い髪が長い白ドレスの女性が微笑み、薔薇を持っている。その彼女の足もとにはオオカミがいる。その置物。それはどこか優しいソルチスティーノに似て思えた。

 葉を落とした冬の木々を見上げながら歩いていくが、行けども行けどもどうやら同じ場所をぐるぐる回っているらしいことが足跡をみて分かった。それに、氷の張った湖もずっと木々の先に見え隠れしているから、何かの不思議な力でこれ以上少女をその先へは進ませないようにしているみたいだった。

 エレメンダはずっと森に佇み、空を見上げた。繊細な木々の枝先が装飾する水色の冬空を。

 彼女は小さく微笑み、引き返して行った。

 それでから湖の辺で待つようになるが、やはりソルチスティーノは冬には現れなかった。


舘から見える空 ~vidi la ĉielon tra la fenestro~

 ホットチョコレートを作っていた。ボルミオリ・ロッコの大降りの瓶からばらばらにされた板のチョコレートを火にかけているバターと共に鍋で溶かし始め、少しずつ牛乳を足していく。マグカップに注ぐと少量のウィスキーを入れた。

「どうぞ」

「ありがとうございます」

 男もそれを頂き、彼女もテーブルに着く。

 この男は両親がエレメンダとその姉につけている舘の用心棒で、名前をボウデンといった。今この舘にはこの三人が住む以外に誰もいない。料理や掃除は姉妹がするし、馬の世話と力仕事は全般をボウデンがしてくれた。雪かきは三人で行った。

 テーブルの上にはあの陶器の置物が置かれている。いまも優しい微笑みをして薔薇を両手に持ちオオカミを従えていた。額の大きな星は雪のようだ。

 エレメンダはそれを見つめて言った。

「昔ね、仲のよかった女性がいたの。彼女とあの湖でよく遊んでもらったわ。一度だけお祭りに連れて行ってもらったことがあるの。秋の豊穣祭りよ。素敵だったわ」

 ボウデンは静かに聴いていた。少女の頃の話を彼女がしたことは今まで無かった。湖に出かけていく理由も話した事は無かった。

「何度か馬を走らせてその村に行こうとしたのよ。けれど、その女性がいなくばその幻の村にはたどり着けなかった。まるで夢みたいな話よね。確かに実在するのに、どうしても見つけられないの。そこで食べたお菓子も、踊りも、唄も、今でも覚えているわ。彼らの笑顔だって」

 窓の外は雪が降り始めていた。曇った大空を雪が横に吹き付けていく。窓はカタカタと音を立てた。

 水色の瞳でボウデンを見た。黒髪で焦げ茶の瞳をした男はラテンの血かバルト系の血が流れているのだろう、魅力的な人だ。中東ではないことはどこか分かる。

「どこか、あなたに似ているわ。その夜の様な髪も、鳶色の瞳も。彼女は瞳の色のローブドレスをよく着ていた。まっすぐの黒髪は腰まで長くてね……そのソルチスティーノ、名前、名前をラヴェーラといったわ。昔は両親も彼女を頼ってよく薬を買いに行ったのに」

 彼女はひざ掛けをかける膝を抱えて目を綴じた。

「微笑みはこの女王様みたいな美しい顔立ちだったの」

 彼女は自分で馬に乗れるようになってから、村を探しに山を越えることもあったし、それにソルチスティーノの小屋まで行ったことがあった。だが、その小屋さえも無人になっていた。鎧戸は錠がかけられ、窓も板が張られていた。厩も馬はいずに、井戸も蓋がされていた。何年間も無人のままだった。周りにたくさん咲いていた季節毎の美しい花々は奔放に咲くようになり、薔薇は次第に小屋を蔓延るようになり、花以外にも草が茂り始めて。エレメンダは向かうごとにいつソルチスティーノが帰ってきても良いように庭の手入れをし続けた。心配性の姉にも内緒で。今でもエレメンダは春から秋にかけてどれぐらいかに一度ソルチスティーノの小屋へ向かい、花々の手入れをしていた。

 目を綴じても、目を開いていても浮かぶ。彼女の美しい顔立ちが、声が、共に歌った唄が。小舟を滑らせた風も頬は覚えている。

「その女性に会いたいですか……?」

 彼女は腕に頬をうずめたまま頷いた。

「会いたい……。大好きだったわ。いつも笑顔をくれた人」

 彼女はゆっくり立ち上がると窓際へ来た。ボウデンも立ち上がり、窓際へ来た。

 雪と風がかけてゆく空を、鷲が風に乗って飛んでいる。


2014.11.26

湖畔のソルティスティーユ

湖畔のソルティスティーユ

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-03-16

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